江戸東京 石佛ウォーク (その2)

  6 
池袋から雑司ヶ谷へ(豊島区)
  7 
巣鴨から染井霊園周辺へ(豊島区)
  8 
学習院下から早稲田周辺へ(豊島、新宿区)
  9 
新宿から四谷へ(新宿区)
  あとがき

 6  池袋から雑司ヶ谷

 平成16年2月10日(火曜日)は石佛ウォークの第6回、本来ならば水曜日の11日であるが、この日は日本石仏協会の総会に出席するので1日前倒しする。コースは文京区から豊島区に移って「池袋から雑司ヶ谷へ」を選ぶ。
 例により青梅午前8時10分発の中央線直通電車に乗る。新宿から山手線、池袋で西武池袋線に乗り換えて目的駅の椎名町駅出下車、最初の見学地・金剛院へ向かう。(1) 金剛院の石仏(豊島区長崎1−9−2)
 山門手前の左手に不動堂があり、境内に現代作の丸彫りの聖観音がみられる。山門を入った右手に次の庚申塔がある。
   1 宝永4 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        67×31×24
 1は合掌六手像(像高36センチ)、下部に正面向きの三猿(像高15センチ)の浮彫りがある。右側面に「ア 宝永四丁亥年/十一月廾三日 多□源左衛門(等6人)」、左側面に「ウーン 陽雲信士
 秋元佐兵衛」、裏面に「足立源兵衛(等6人)」の銘を記す。
 その先の右手には、大日三尊種子(アーンク・カ・サ)板碑と来迎阿弥陀像夜念佛板碑の2基があり、その背後に上部に日月を陰刻するア字の板碑がみられる。奥の墓地入口にある無縁塔の中に小さな2体の地蔵を浮彫りした光背塔がある。元文4年銘の六地蔵台石に刻まれた「講中一蓮詫生/二世安樂所」の銘が興味深い。
 金剛院を出て明治2年の庚申塔があるという長崎4丁目を目指す。〔番外〕 小城山観音の馬頭観音(豊島区長崎4−23)
 該当する23番を廻ると、蕎麦処・満る賀の裏に「小城山観音」の提灯が下がり、祠の中に馬口印を結ぶ八手の馬頭観音立像(像高44センチ)を浮彫りする光背型塔(64×26センチ)が安置されている。頂部に種子「ア」を刻み、首の右側に「意願成就所」、左側に「明和八辛卯/八月十八日」の銘がある。どうもこの馬頭観音を青面金剛と間違え、年銘も「明治」と誤読したものらしい。
 次いで道を戻って道順から3丁目にある観音堂を訪ねる。〔番外〕 観音堂の庚申塔(豊島区長崎3−28−1)
 観音堂裏の墓地には、次の庚申塔が立っている。
   2 元禄15 笠付型 日月「ウーン 奉供養庚申講中二世安樂所」三猿 94×32×31
 2は正面中央に「ウーン 奉供養庚申講中二世安/樂/所」、右側に「元禄十五壬午年/施主」、左側に「九月十二日/敬白」、下部に三猿(像高14センチ)がある。右側面に「吉田次五右門(等9人)」、左側面に「□沢弘左門(等10人)」の施主銘がみられる。
 続いて観音堂から近い隣の地番にある墓地に行く。〔番外〕 墓地角の庚申塔(豊島区長崎3−29)
 墓地の角に木祠があり、中に次の2基の庚申塔が並んで安置されている。
   3 延宝8 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        95×34×35
   4 寛文2 光背型 「供養庚申待二世悉地與樂所」三猿     79×37
 3は正面の上部にある日月の間に「バン」種子を刻み、中央手に剣と羂索を執る六手の青面金剛立像(像高30センチ)、その下に正面向きの比較的大きな三猿(像高20センチ)、下部に二鶏を陽刻する。右側面に「奉供養青面金剛二世安樂攸/寄進/□□」、左側面に「延寳八庚申歳正月廾九日」の銘がある。
 4は頂部が欠けて中央に「供養庚申待二世/悉地/與樂所」、右側に「寛文二壬寅暦 嶋田 欽」左側に「□月廾日 一應□処 白」、正面向きの三猿(像高21センチ)の下に施主銘があるらしい。
 ここから出世子育地蔵へ向かうが、途中の長崎2丁目で墓地角の庚申塔前に本を忘れたのに気づいて引き返す。本をみつけ、大山石材(千早1−27)前で左手に幼児を抱き、右手で立っている子どもの手を握る子安観音立像を見てから出世子育地蔵を訪ねる。(2) 地蔵堂の子育地蔵(豊島区千早1−23)
 木祠の中に安置された子育地蔵は小さな像で、格子越しにみる。境内に板石型上部の円形内に馬口印を結ぶ八手馬頭観音座像を薄肉彫りし、その下に「馬頭觀世音」と刻む大正14年塔がある。
 大通りに出て要町1丁目交差点を右折し、池袋駅方向へ進むと左手に祥雲寺がある。(3) 祥雲寺の石仏(豊島区池袋3−1−6)
 境内へ入ると、墓地の入口にある明治34年に造立し、昭和41年に補修した六地蔵石幢が眼につく。本堂左手に石佛が並んでいるが、中でも施無畏印・与願印を結ぶ釈迦立像の墓石の彫りがよい。その横にある小型の合掌地蔵と来迎相の勢至菩薩の併立像が可愛らしい。墓地には、彫りのよい聖観音や如意輪観音の墓石がみられる。
 祥雲寺から重林寺へ向かう目安として池袋第5小学校を目指して進み、川越街道の向こう側にある重林寺を訪ねる。(4) 重林寺七観音巡礼供養塔(豊島区池袋本町2−3−3)
 山門を入って左手に立像を浮彫りする六面石幢がある。台石をみると西国・板東・秩父の観音霊場と四国八十八箇所の巡礼供養塔、享和3年の造立である。像の上に種子、下に尊名をを刻む。聖観音から時計廻りに進むと、如意輪・准提・勢至・千手・馬頭・十一面の順で、七夜待の本尊である。百番観音の巡礼を含むから七観音と間違えやすい。
 左手奥まで進んで扉をあけて墓地へ入ると、左手の道路側に次の庚申塔2基がある。
   5 享保2 笠付型 「ウーン 奉造立庚申寳塔」三猿・蓮華     79×35×27
   6 享保1 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿・蓮華  89×39×26
 5は正面中央に「ウーン 奉造立庚申寳塔」の主銘があり、右側に「享保2丁酉年」、左側に「十月吉祥日」の造立年代を彫る。右側面に蓮華と「江川四良兵衛(等4人)」、左側面に蓮華と「□野覺左衛門(等4人)/施主/佐久間孫太郎」の銘を刻む。台石の正面には、正面向きの三猿(像高24センチ)が浮彫りされている。
 6は上方左手に宝輪ではなくて独鈷を執る合掌六手像(像高42センチ)、右枠に「奉信孝庚申天子」、左枠に「享保□丙申年□□吉日」、三猿(像高7センチ)下の枠内に「武右衛門(等10人)」の施主銘がみられる。右側面に蓮華と「是よりミなみ高田むら」、左側面に蓮華と「是よりきた板はしむら」の道標銘を彫る。
 山門の右手に進むと右側に五層石塔があり、その先の植え込みの中にボク石に埋められた次の庚申板碑がある。
  7 天文24 板 碑 釈迦三尊種子               76×32
 7は2条線の下に釈迦・文殊・普賢の釈迦三尊種子を彫り、その下に「奉庚申待供養 逆修」、右下に「天文廾四年乙卯」、左下に「二月吉日」とある。主尊の「バク」種子は、月輪ではなく梵字光明真言を刻んでいる。
 重林寺の横から道を真っ直ぐに進み、やがて左手に池袋本町公園がみえる。(5) 池袋本町公園の庚申塔(豊島区池袋本町1−27−6)
 公園の角の木の下に次の庚申塔が立っている。
   8 寛文2 柱状型 日月「奉供養庚申待三歳一座所」二鶏・三猿 135×46×41
 8は正面中央に「アン 奉供養庚申待三歳一座所」、右側に「干時寛文第二壬寅暦 説種々性欲所宣聞法」、左側に「春二月彼岸中日 随種々心行開観照門」、三猿(像高15センチ)の下に「大野□□左衛門(等12人)」の施主銘を記す。「三歳一座」3年間18度の庚申待を行ったことを示し、この表記は珍しく、普通は「三年一座」と記される。両側面の中ほどに鶏が1羽ずつ浮彫りされている。
 公園で昼食の後、2丁目の地蔵堂に向かう。〔番外〕 地蔵堂の庚申塔(豊島区池袋本町2−38)
 地蔵堂には地蔵と並んで次の庚申塔がみられる。
   9 昭和63 板石型 「庚 申」                80×30
 9は板石型塔の正面に「庚申」の主銘、背面の下部に5行ほどの銘文が刻まれている。右横の格子から背面の銘文を読むと「(庚)申/(昭和)六十三年十二月三十一日庚申/池袋本町庚申奉建/会長 □□□□/庚申」で、カッコ内は読めないので推定である。
 少し廻れば次の庚申塔に出会うが、省略してここから池袋駅を目標に平和通りを抜けて跨線橋を渡り、公園に出る。〔番外〕 地蔵堂の庚申塔(豊島区上池袋3−47)
  1 宝永1 笠付型 「ボ−ロン 奉供養庚申石塔息災祈所」    58×13×13(6) 駅前公園の四面塔(豊島区東池袋1−50)
 公園内にある水天宮の前には、薩摩藩領内にみられる田の神4体が並んでいる。これらの像については、『日本の石仏』46号(昭和63年刊)に茨城の佐藤不二也さんが「東京・池袋の田ノ神像」と題して報告している。佐藤さんは当時の状況を「社殿のすぐ下の左側に田ノ神像が4体並んでいる」と記し、写真を載せている。これらの記事や写真によって現状変更があり、当時との違いがわかる。
 ここから寄り道して、近くにある庚申ビルを訪ねる。〔番外〕 庚申ビルの庚申塔(豊島区東池袋1−47−1)
   10 昭和25 駒 型 青面金剛・一鬼              56×23×23
 10は建物の壁面内に安置された剣人六手像(像高49センチ)である。塔と壁面との間が狭くて用意した懐中電灯と鏡をつかっても右側面に刻まれた銘文は、僅かに「恩田」しか読めない。小花波平六さんが『庚申』15号(庚申懇話会 昭和35年刊)に書かれた「うちの近くにある庚申塔」の図解によると、右側面に「初代恩田与三郎 明治末期建/二代目恩田巳之助 破損ノタメ改メ/昭和二十五年二月建之」とある。なおこの号の表紙には、8の塔の図解が載っている。
 次の庚申塔を省いて法明寺に向かう。〔番外〕 東池袋路傍の庚申塔(豊島区東池袋2−56)
   (2) 天保13 自然石 「庚 申」               120×61
 道を間違えて先に雑司ヶ谷霊園へ出たので東通りを戻って裏手から入り、そのお蔭で明治4十一年に文京区白山から移転してきた大乗寺の墓地で現代作等身大の聖観音をみる。コース順とは逆に東京音楽大学の先にある法明寺につく。この寺と次の威光稲荷の間にある安国堂を見逃したので、次の庚申塔をみていない。(8) 法明寺の庚申塔(豊島区南池袋3−18−18)
   (3) 文政5 光背型 青面金剛(合掌六手)・一鬼・三猿     52×16(7) 威光稲荷(豊島区南池袋3−18−25)
 境内には威光稲荷の他にも稲荷祠が幾つもみられる。
 威光稲荷から再び戻って雑司ヶ谷霊園へ出る。(9) 雑司ヶ谷霊園(豊島区南池袋4−25−1)
 霊園には永井荷風・小泉八雲・泉鏡花・夏目漱石などの文人の墓がみられるが、省略して次の清立院を訪ねる。(10) 清立院の石仏(豊島区南池袋4−25−6)
 ここも墓地の入口にある浄行菩薩を写しただけで、次の鬼子母神へ向かう。(11) 雑司ヶ谷鬼子母神(豊島区雑司ヶ谷3−15−20)
 この境内にある仁王(阿像高155センチ 吽像高142センチ))と鬼子母神(像高140センチ)は、庚申懇話会編『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和50年刊)でそれぞれの項目を担当し、写真を載せた思い出深い石像である。裏手の妙見前に次の大きな石塔がある。
 参考 宝暦8 笠付型 日月「奉勧請南無帝釋天王」       144×45×45
 参考は正面上部に日月・瑞雲を刻み、中央に主銘の「奉勧請南無帝釋天王」、右側面に「元禄十二己卯歳五月十六日造立/寶暦八戊寅歳四月十五日再興」、裏面に「別當大行院十五世日圭代/干時寶暦八戊寅歳正月五日」とある。台石正面に願主銘、右側面に俗名と戒名、左側面に施主銘を彫る。
これで「池袋から雑司ヶ谷へ」のコースを終えて、山手線目白駅から帰途につく。
◎ 7  巣鴨から染井霊園周辺へ
 平成16年2月18日(水曜日)は石佛ウォークの第7回、前回に引き続き豊島区内のコース「巣鴨から染井霊園周辺へ」を歩く。例により中央線直通の午前8時10分青梅発の電車に乗る。巣鴨駅には9時40分の到着。最初に訪ねたのが巣鴨地蔵通り商店街の入口にある真性寺である。1人で歩いたせいか、駅から寺までが長く感じられる。1 真性寺(豊島区巣鴨3−21−21)
 境内に入って左手にある石碑を何気なくみると、明治39年の日露戦役巣鴨町記念碑で、左下に「井亀泉鐫」とある。台東区谷中・長久院の石碑に続く井亀泉の字彫りの作品である。この寺では江戸六地蔵が有名であるが、本堂裏の墓地で次の庚申塔をみる。
   1 寛政4 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        80×29×18
 1は剣人六手像(像高48センチ)、下部には両端の猿が内側を向く三猿(像高10センチ)の浮彫りがある。右側面に年銘の「寛政四壬子歳/正月吉日」、左側面に施主銘の「施主 谷上氏」がみられる。
 山中共古翁の『共古随筆』(温故書屋 昭和3年刊)の218頁には「巣鴨眞性寺ぬれ佛の裏にある五基」とあり、次頁にかけて寛文3年・元禄9年・慶安2年・延宝8年・寛文10年の5基を図示している。1の塔については「右五基の外、寛政年號ある庚申立像下に三猿のつきたるものあり」とふれており、前記の文字塔5基が失われたことが知られる。
 次に訪ねたのが「とげぬき地蔵」の高岩寺である。(2) 高岩寺(豊島区巣鴨3−25−2)
 この寺では次の庚申板碑が見逃せない。前記の『共古随筆』233頁には、図が示されて「舊下谷寺通り高岩寺、今西ケ原昌林寺に在り。大永8年の板碑」と記されている。清水長輝さんの『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)の口絵に拓本の写真が載っているから、この板碑の内容がよくわかる。現在は外からガラス越しにしかみられず、時によると前に露店が出るので見逃しやすい。香炉の左側の建物のガラスが目標である。
  2 大永8 板 碑 天蓋・弥陀三尊・三具足        (計測できず)
 2は上部に天蓋があり、下の中央に来迎弥陀立像があって下左右に観音と勢至を配し、三具足を陰刻する。三具足の下には「奉庚申待供養」、その右に「大永八年」、左に「閏九月三日」あり、左右「助左衛門」などの施主銘が刻まれている。
 現在は板碑単独ではなく、駒型塔の前部を彫り下げて板碑をはめ込んでいる。『庚申塔の研究』によると、高さが85センチで幅が23センチばかりとある。右下には欠損がみられるので、この部分に銘文があったかもしれない。
 10時少し過ぎた時刻にも関わらず、相変わらず境内の「洗い観音」には行列ができてタオルで聖観音の丸彫り石像を洗っている。脇で100円で白タオルを売っている。
 ここから巣鴨庚申塚に向かう途中の右手に巣鴨4丁目サービス会の「すがも史跡まっぷ」が2か所にあって、とげぬき地蔵を中心に周囲の史跡地図と説明がある。これを参考に石佛ウォークをするとよい。猿田彦神社は庚申塚交差点手前の右手にあるが、遠藤薬局の影に隠れていてうっかり見過ごして通り過ぎ、都電近くまで行って慌てて戻る。(3) 庚申塚(豊島区巣鴨4−35)
 神社の入口には、三猿台石の上に赤いチャンチャンコをきた猿が両脇にある。大護八郎さんの『庚申塔』(新世紀社 昭和33年刊)108図に三猿台石上の御幣持猿の写真が掲載されているが、これは古い神使の猿で現在は新しい猿である。
   参1 昭和62 丸 彫 御幣持猿・三猿(台石)         38×27
   参2 昭和62 丸 彫 御幣持猿・三猿(台石)         40×27
 参1は神使の御幣持猿の丸彫坐像、台石正面に三猿(像高11センチ)が浮彫りされている。裏面に「奉納/昭和六十二年二月吉日/台東区西浅草二ノ十四ノ十五/小野式夫」と横書きであり、その下の台石正面に「奉」、裏面に縦書きで「根津安蔵」など6人の氏名が刻まれている。
 参2は参1同様に御幣持猿の丸彫坐像、台石正面に三猿(像高11センチ)がある。裏面の横書きも参1と同じであるが、その下の台石正面に「納」、裏面に縦書きで「世話人/榎本留吉」など5人の氏名が縦に記されている。
 境内には平成9年の「江戸の名所」石碑、額に入った手書きの「庚申塚由来記」、昭和51年の「縁起」石碑、500年祭記念の石灯籠などがみられる。社殿に「猿田彦大神大祭/四月十一日(日)庚申の日/御近所の方々お誘い合わせ由緒ある『庚申様』へ/お詣りにおいでください。奉讃会々長泰音」と記された手書き看板が置かれている。
 社殿の中には次の庚申塔が納められているが、実物をみることは難しい。現在は塔の破損がひどくて昔日のかげがないが、幸いにも先の『庚申塔の研究』185頁の103図に図示されているので塔面の銘文がよくわかる。
   1 明暦3 板碑型 「ア/バン/ウーン 奉造立石塔一基現當二世攸」蓮華(計測できず)
 庚申塚からコースを外れて西巣鴨にある庚申塔を廻る。最初は大日堂である。〔番外〕 大日堂の庚申塔(豊島区西巣鴨2−15)
 境内に次の塔がある。昔訪ねた頃と違って整備されて、堂も新造されている。
  3 明暦2 板碑型 「奉修庚申待第三廻座現當二世安楽所」  129×48
 3は庚申塚の塔の前年の造立で、1のように両縁に蓮華の浮彫りがない。塔中央に「(釣り針り)ア/バン・ウーン 奉修庚申待第三廻為現當二世安樂所」、右に「干時明暦二年 施主/保坂/本願」、左に「丙申三月上旬 敬白 政三衛門内儀」、下部の右側に「仁三良」など6人の名前、左側に「伝兵衛」など5人の名前を記す。底部に蓮華を陽刻する。
 大日堂から延命地蔵へ行く。真性寺から延命地蔵のコースは何度か歩いている。〔番外〕 延命地蔵の庚申塔(豊島区西巣鴨2−33)
 境内には大きな題目塔と徳本の名号塔が並び、中央にある地蔵を含めて破損が大きい。ここには先の『共古随筆』に「地蔵尊下に三猿あり、道導べ刻しあり」の説明の後に、地蔵庚申が221頁に図示されている。
   4 年不明 光背型 地蔵菩薩「願成就」三猿         118×39
 4は地蔵(像高85センチ)の損傷がひどく、下部の三猿の中の二猿(像高12センチ)が残っているに過ぎない。図示には上部に日月が描かれているが今は痕跡がなく、像右の道標銘「是より小石川おたんす町之ミち」や左の年銘「元禄拾一年戊寅四月十六日」は全く読めず、僅かに「(願)成就」が読める程度である。
 庚申通りを西へ明治通りに出て、西巣鴨の交差点を右折して白山通りに入る。西巣鴨4丁目では先ず盛雲寺を訪ねる。〔番外〕 盛雲寺の庚申塔(豊島区西巣鴨4−8−40)
 この寺には次の塔があるが、墓地まで探したが見当たらない。偶然、墓地内に馬頭観音の文字塔や「愛馬/武典號/伍山號/之墓」をみる。
   (2) 貞享4 板碑型 日月「奉修庚申待祈願成就也」三猿     74×32
 お岩様の墓がある妙行寺(豊島区西巣鴨4−8)には、浄行菩薩や魚河岸やフグの供養塔がみられる。次いで同じ地番の善養寺へ向かう。〔番外〕 善養寺の庚申塔(豊島区西巣鴨4−8−23)
 本堂の前には次の庚申塔があり、墓地の入口には平成4年造立の六地蔵がある。
   5 延宝8 駒 型 日月「キリーク 奉待受庚申供養諸願成就攸」三猿 04×39×18
 5は頂部に「キリーク」の種子、その下に「奉待受庚申供養諸願成就攸」、右に「延宝八庚申年」、左に「九月四日焉」、宝珠形の枠内に正面向きの三猿(像高13センチ)を浮彫りする。下部に「吉兵衛」など5人の施主銘がある。
 西巣鴨から巣鴨5丁目に入り、白泉寺を訪ねる。〔番外〕 白泉寺の庚申塔(豊島区巣鴨5−32−5)
 境内にある万倍稲荷の脇に次の庚申塔がある。
   6 万治2 駒 型 日月「奉祈庚申供養延命所」三猿      44×25×16
 6は中央に主銘の「奉祈庚申供養延命所」、右側に「万治元年」、左側に「四月七日」の銘文を記す。下部の三猿(像高9センチ)は、中央が正面向きで両端の猿が内側を向く。前から三猿の向きなどこの塔の造立年代には疑問を持っていた。今回、この塔の銘文をよく観察すると、年銘の「万治元年」の下に小さい「申」と普通の大きさの「歳」が読み取れる。万治年号で干支が付いていないの不自然であるし、「元」の横にあった文字を消したようにも受け取れる。こうした点から素直にこの塔の年銘が信じがたい。
 この寺の近くにある朝日児童遊園で昼食をとり、午後は法福寺から石佛ウォークを始める。(4) 法福寺(豊島区巣鴨5−34−24)
 この寺で延宝6年銘の聖観音墓石を撮った他は特にみるべきものがないので、次の慈眼寺に行く。(6) 慈眼寺(豊島区巣鴨5−35−33)
 寺の境内には法福寺同様にみるべきものがなく、隣の功徳院へ入る。〔番外〕 功徳院の一代守本尊(豊島区巣鴨5−35−5)
 境内には新しい白御影の一代守本尊がある。八体佛が十二支に守本尊となるから、例えば阿弥陀は戌年と亥年の守本尊を兼ねている。ここでは、十二支それぞれに1体ずつ宛てて12体の像がみられる。従って未と申の守本尊は大日如来だから、未年の本尊として金剛界大日、申年の本尊として胎蔵界大日とするように像容を変えている。像高は最低は不動明王で17センチ、最高は阿弥陀で20センチ、他の像はその間の高さである。
 功徳院をでて進むと慈眼寺墓地(豊島区巣鴨5−37)の中に都の史跡に指定されている司馬江漢の墓あり、金網越しにみてから順とは逆になるが次の本妙寺を訪ねる。(5) 本妙寺(豊島区巣鴨5−35−6)
 墓地には歴代の本因坊・遠山金四郎・千葉周作などの墓がみられ、本堂裏の角に明暦の振袖火事の供養塔がある。本郷菊坂にあった当時の火元になる。3基が並ぶ中央に丸彫りの大きな合掌釈迦坐像が安置されている。
 本妙寺に続いてコースに従わず、先に勝林寺に向かう。(10) 勝林寺(豊島区駒込7−4−14)
 この寺の無縁塔にある陶製白衣観音は白塗り坐像でみるに堪えない。直ちに専修院へ行く。(9) 専修院(豊島区駒込7−2−4)
 無縁塔の中に聖観音や如意輪がみられる程度で、早々に引き上げる。(7) 染井霊園(豊島区駒込5−5)
 ここには岡倉天心・高村光雲・二葉亭四迷などの墓があるが、省略して染井霊園の外れの三形地にある地蔵をみる。(8) 十二地蔵(豊島区駒込7−3)
 大きな光背型塔(161×83センチ)の上部に多くの瑞雲を模様のように彫り出し、その下に2段に並列した六地蔵を浮彫りする。上下共に像高が14センチである。
 コース順が変動したが、十二地蔵の次は順の通りで泰宗寺ある。(11) 泰宗寺(豊島区駒込7−1)
 阿弥陀坐像左横の下に小さな石佛が二列に並ぶ。その中に双体像があるが、現代作と思われる。(12) 大師道道標(豊島区駒込6−1)
 道標はブロック塀の中に半ば納まって、特に興味がなのでコース順とは逆に西福寺に向かう。(14) 西福寺(豊島区駒込6−11−4)
 境内に入り、左手には阿弥陀来迎三尊の丸彫り立像がある。阿弥陀の右に合掌の勢至菩薩が立ち、左が蓮台を持つ観音菩薩である。通常の脇侍と逆の位置である。無縁塔の場所に光背型塔(167×69センチ)の中央に一石六地蔵(像高31センチ)を浮彫りする明暦元年塔がある。上部中央に「カ 奉造立六地蔵尊容為二世安樂也」の銘があり、右端に「武州豊嶋郡染井村 施主」、左端に「明暦元年乙未十一月廾四日 敬白」、下部に「伊藤佐兵衛」など10人の施主銘をと記す。
 コースの最後に駒込小学校角にある庚申塔に行く。(13) 庚申塔(豊島区駒込3−13)
   7 寛文12(笠付型)日月「ウーン」合掌二猿・蓮華       74×36×29
 7は笠部が失われた塔で上部に「ウーン」の種子、中央に合掌の二猿(像高12センチ)が並んで浮彫りされている。種子の右下に「寛文十二壬子」、左下に「三月七日 敬白」、下部に「中嶋安兵衛」など7人の施主銘を彫る。両側面に蓮華の浮彫りがみられる。
 案内コースは(14)の西福寺から駒込駅に向かうが、駒込小学校から妙義神社・子育地蔵尊・篠原宅へ寄り道して駅に出る。〔番外〕 妙義神社の庚申塔(豊島区駒込3−16)
 現在は境内の右手に次の庚申塔がみられるが、以前調べた時は確か左手の裏にあったように記憶する。恐らく場所を移動したと思われる。また横に庚申塔の説明板が立っているけども、これも以前にはなかった。
   8 寛永19 板碑型 「奉造建庚申供養之佛塔也」蓮華      88×39
 8は豊島区内にある江戸時代以降の庚申塔で最古、近くにある文京区本駒込・富士神社の寛永17年塔より2年遅れる。中央に「奉造建庚申供養之佛塔也為現世安穏後生前/生也」、右側に「干時寛永十九壬午年 駒込村 藤右衛門(等3人の施主銘)」、左側に「霜月二日 本願 新右衛門(等3人の施主銘)」を刻む。
 次いで神社から本郷通りへ出ると、向かい側に地蔵尊の木祠がみえる。〔番外〕 子育地蔵尊の双体地蔵(豊島区駒込2−6)
 子育地蔵尊は木祠の中に安置されているが、祠の左手の裏に次の像がある。
  参3 年不明 不 明 青面金剛・一鬼・三猿           60×39
 参3は破損が酷くて庚申塔と断定し難いが、矛と人身?の持物があって剣人六手(像高38センチ)らしい。足下の鬼もよくわからず、左端が猿(像高10センチ)らしく、他の二猿が欠けてハッキリしない。
 近くにオカッパ頭でセーラー服姿の童女が2人並ぶ刻像の柱状塔(68×41×25センチ)がある。左の像(像高58センチ)は右手に錫杖、左の像(像高58センチ)は左手に宝珠を持つ。つまり地蔵の持物を2人でわけている。右側面には「玉照浄光童女/俗名村木美代子十一才」、左側面には「頓□妙了童女/俗名深見喜久十一歳」と法名と俗名・年齢を記している。台石の正面には、右横書きで「奉納」とある。
 三吉朋十翁の『武蔵野の地蔵尊 都内編』(有峰書店 昭和47年刊)には、この地蔵を「妙義坂二人童女の交通事故碑 豊島区駒込二丁目」の題で34頁に記している。次頁には写真を載せている。三吉翁によると、この地蔵は昭和8年にこの近くで交通事故死した2人の菩提と供養のために同年7月に有志が造立したという。
 ここから山手線沿いに大塚駅方向に進み、篠原宅を訪ねる。〔番外〕 篠原宅の庚申塔(豊島区駒込3−8−3)
 篠原宅は門扉が閉じられ、横から入ったが留守らしい。仕方がないので玄関前の通路右手にある庚申塔を門扉越しに写真を撮る。
  9 延宝8 柱状型 日月「アーンク」三猿         (計測できず)
 9は上部に日月と瑞雲を薄肉彫りし、その下に大きく「アーンク」の種子を刻み、続けて「湯嶋弐町目」、右下に「施主」、左下に「敬白」、その外側の右に「延寳八年」、左に「庚申八月吉日」とある。下部には、正面向きの三猿を陽刻する。
 ここを最後に駒込駅に向かい、4時3分発の山手線内回り電車で帰途につく。今回は万歩計によると、約15000歩、前回の19000歩や前々回の25000歩に比べて歩いた距離は少なく、上がりの時間も早い。
◎ 8  学習院下から早稲田周辺
 平成16年2月25日(水曜日)は石佛ウォークの第8回。コースは豊島区と新宿区の2区にまたがる「学習院下から早稲田周辺へ」である。何時もの午前8時10分の電車で新宿乗換で目白駅に出る。目白通りから千登世橋を渡って明治通りに入り、第1見学場所の金乗院を目指す。(1) 金乗院(豊島区高田2−12−39)
 今回のコースにある石佛については『石仏の旅 東日本編』(雄山閣出版 昭和51年刊)に載った「雑司ケ谷周辺から西へ」で豊島区雑司ケ谷の鬼子母神を起点にし、新宿区や中野区を廻るコースを挙げた。今回のコースでは豊島区高田の金乗院・根生院・南蔵院・山吹の里碑、新宿区西早稲田の亮朝院と観音寺にふれている。
 境内の庚申塔は大きく3か所にわかれている。最初にみたのは有名な倶利迦羅不動、次いで境内北側の垣根にある年不明塔、後は墓地の入口にある5基である。
   1 寛文6 光背型 「ボーロン」倶利迦羅不動・三猿     117×53
   2 年不明 柱状型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        69×20×9
   3 延宝5 光背型 日月「庚申塔信心衆」三猿         81×40
   4 元禄5(笠付型)日月「奉待念庚申一座」三猿        93×37×25
   5 延宝4 笠付型 日月「奉建立庚申塔婆二世安楽攸」三猿  148×52×46
   6 万治2 柱状型 「キリーク/サ/サク奉信敬庚申禮三年…」二鶏・三猿 148×39×34
   7 寛文8 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿       125×45×42
 1は本堂の前にある光背型塔で、周りを白塗りの金網が覆っている。頂部に種子があって中央に主尊の倶利迦羅不動(像高92センチ)、下部に正面茎の三猿(像高16センチ)を浮彫りしている。像の右に「寛文六丙午年 向世田願主/久松」、左に「二月九日辰 敬白 龍共」を刻んでいる。先の『石仏の旅 東日本編』では、この塔にふれて
    本堂前には、倶利迦羅不動を浮彫りした寛文六年(1666)の光背形庚申塔が安置されて
   いる。倶利迦羅不動は、不動明王に剣に倶利迦羅竜がまといついたもので、倶利迦羅剣と呼ば
   れて不動を象徴する。これは、もと関口の目白不動にあったが、墓地入口にある庚申塔ととも
   に戦後ここへ移された。その際に塔の頂部を少し欠いてしまったのが惜しい。上部に1字金輪
   の種子「ボローン」を刻み、下部に三猿を陽刻している。庚申塔の主尊として倶利迦羅不動を
   用いる例は珍しく、この寺では絶対に見逃せない石仏である。(153〜4頁)
 2は青面金剛の胸から腹へかけての身体が風化しているが、剣人六手像(像高44センチ)とわかる。下部の三猿(像高9センチ)の右端と中央の猿の一部を欠くが、両端の猿が内向きである。左側面に「小日向水道町/上野屋」の銘が読み取れる。
 3は中央に「庚申塔信心衆」、右に「延宝五丁巳歳」、左に「八月十六日」、下部に正面向きの三猿(像高13センチ)を浮彫りする。
 4は笠部が欠失した塔、中央に主銘の「奉待念庚申一座」、右に「元禄壬申年/講中」、左に「十一月初七日」、正面向きの三猿(像高16センチ)下に「清水七左衛門」など10人の施主銘を刻む。3年18度の庚申待を行って造立された塔である。
 5は中央に種子と主銘「奉建立庚申塔婆二世安楽攸」、右に「延寳四丙辰展 施主」、右に「四月八日 敬白」、右端の枠に「釋男祐心釋男」、左端の枠に「林光禅定門」、下部にある塞耳猿(像高18センチ)下に「□□八左衛門」など12人の施主銘を刻む。右側面は「堅固金剛性/金成金剛躰/信女妙禅(等4人の法名)」があり、下部の塞目猿(像高18センチ)下に「大野□右衛門」など11人の施主銘を刻み、その中に「同人母」や「同人父」が混じっている。右側面は「速轉自身分/便同金剛身/妙圓禅定尼(等4人の法名)」があり、下部の塞口猿下に「上野□□□」など12人の施主銘がみられる。三猿は三面の下部に浮彫りされている。
 6は上部に「キリーク/サ/サク」の弥陀三尊種子を刻み、中央に「奉信敬庚申禮三年講結衆諸願成就」、右に「万治二己亥年 欽」、左に「霜月吉日 言」、三猿(像高14センチ)下に10人の施主銘を彫る。両側面に1羽ずつ鶏を陽刻する。
 7は中央手に円盤(宝輪か)と宝鈴を執り、上方左手に独鈷を持つ六手像(像高35センチ)で、像の右に「奉待念庚申講一座二世安樂所」、像の左に「時干寛文八戊申年五月廾二日」、下に「□同呆信」三猿(像高21センチ)の下に「佐藤高右衛門」などの12人の施主銘がある。6と同じく両側面に1羽ずつ鶏を浮彫りする。
 金乗院(目白不動)から根生院へ向かう。(2) 根生院(豊島区高田1−34)
 先の『石仏の旅 東日本編』には154〜5頁に釈迦如来を中心として書き、次の庚申塔に「門前には2基の庚申塔が並んでいる。向かって右にあるのが年不明の青面金剛像、左のが元禄3年(1690)の「奉供養庚申天子」の日月・三猿つきの文字塔である」と簡単ね記述である。
  8 年不明 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     71×30×21
  9 元禄3 柱状型 日月「バイ 奉供養庚申天子」三猿      51×29×18
 8は破損が酷いが剣人六手像(像高53センチ)、下部に両端が向かい合う三猿(像高9センチ)を浮彫りする。右側面に「(欠失)年乙未八月庚申 建之」、左側面に「武州豊嶋郡高田村/祭主大沢藤兵衛」とある。「乙未年」は明暦元年・正徳5年・安永4年・天保6年・明治28年が該当するが、8月庚申の当たり日があるのは明暦元年(9日)と天保6年(4日)の2年であるから、青面金剛なので天保6年造立の可能性が高い。
 9は中央に「バイ 奉供養庚申天子」の主銘があり、下部に正面向きの三猿(像高13センチ)を浮彫りする。この主銘と同じ塔は、後で廻る新宿区西早稲田・穴八幡の元禄6年塔に、種子のないのが同所の貞享4年塔にみられたが、共に現在は行方不明である。
 次の南蔵院では『石仏の旅 東日本編』に境内にある3体の来迎弥陀を中心にし、庚申塔は他の石佛と列記したに過ぎない。現在も当時と同じ配列である。(3) 南蔵院(豊島区高田1−34)
 境内と墓地の間にある塀の前に一列に並んだ石佛があり、中に次の庚申塔がある。
   10 延宝8 笠付型 日月「ボーロン 奉供養庚申塔婆」三猿   77×34×24
   11 貞享3 笠付型 日月・青面金剛・三猿           74×34×23
   12 元禄12 板駒型 日月「祈願成就之所」三猿         55×26
   13 享保20(笠付型)青面金剛・一鬼・三猿           66×31×23
 10は頂部に「ボローン」の種子、下に「奉供養庚申塔婆」、右に「延寳八庚申歳」、左に「仲冬二十二日」、下部に正面向きの三猿(像高14センチ)を陽刻する。右側面に「願衆」、左側面に「敬白」の銘がある。
 11は合掌六手像(像高39センチ)で、万歳型の標準形である。像の右に「奉供養青面金剛之像一尊建立之 願主/酉之年老女」、左に「貞享三年丙寅二月十六日 所願成就處 施主/寅之年女」、下部に正面向きの三猿(像高12センチ)がある。
 12は右端に「所願成就所」の1行、左端に「元禄十二己卯天」と「五月吉日 川村氏」の2行があり、下部にある中央の塞耳猿(像高16センチ)が高く、両端の塞目猿と塞口猿(共に像高14センチ)が低い変則的な正面向きの三猿である。
 13は破損が酷い六手像(像高35センチ)、下部に両端の猿が外側を向く三猿(像高10センチ)である。右側面に「享保二十乙卯年 大澤佐右兵衛(等4人)」、左側面に「二月二十八日 田中太郎兵衛(等4人)」、裏面に「嶋田庄左衛門」など8人、次の段に8人、3段目に8人の施主銘を記す。台石の正面に右横書きで「奉納」の2字がある。
 次の山吹の里の碑に向かう途中にある氷川神社の前には、豊島区教育委員会が平成15年3月に立てた説明板があり、その中に「毎年正月には、弓矢で的を射って災難除けを祈願する『御奉射祭』が江戸時代より行われ、現在は成人の日に執行している」と誌されている。こんな場所で「オビシャ」の記述に出会うとは思わなかった。(4) 山吹の里の碑(豊島区高田1−18)
 面影橋手前にあるオリジン電気入口の路傍に下部に如意輪観音(像高52センチ)を浮彫りする「山吹の里」の光背型石塔(146×59センチ)がある。この石塔について『石仏の旅 東日本編』の中で、157頁に次のように書いた。
   ここにある碑は、光背形も石塔の上部に「キリーク(阿弥陀) サ(観音) サク(勢至)の
   弥陀三尊種子を刻み、その下に「山吹之里」と深く彫り、その左右に定紋と「貞享三丙寅歳(
   1686)」「十一月六日」、下部に二手思惟の如意輪観音が浮彫りされている。この碑は、
   以前に墓石だったものを中央の戒名を削り取って「山吹之里」と新たに彫ったものではないだ
   ろうか。改刻とみるのは、「山吹之里」の下に「位」と思われる文字が浅く残っており、おそ
   らく『霊位』の『位』であろう。こうした改刻を行ったのは、好事家の仕業と考えられる。
 豊島区から新宿区に入って、亮朝院を訪れる。(5) 亮朝院(新宿区西早稲田3−16)
 境内に宝永2年造立の石仁王があることで知られ、墓地に次の塔がある。
  参1 享保10 柱状型 「奉勧請南無帝釈天王」          69×34×22
 参1は正面に「奉勧請南無帝釋天王」の主銘と下部に左横書きの「敬白」、右側面に「干時享保乙巳天」、左側面に「三月二十二庚申日」とある。裏面の上部に横書きで「眞心」、中央に縦書きで「求心院」など多数の施主銘がみられ、下部に「講中現當」と「二世安楽」の2行の祈願銘が刻まれている。『石仏の旅 東日本編』158〜頁には、仁王を中心にこの塔にも言及している。この当時は「仁王の背後にある堂の前には、享保十年(1725)三月二十二日の庚申日造立の「奉勧請南無帝釋天王」と刻んだ角柱塔がある」と記したが、現在は墓地に移された。
 丸彫りの仁王阿像(154×96センチ)は右、吽像(156×78センチ)は左にある。阿像の裏面に「宝永二乙酉歳三月廾九日/願主 尾州住/大工加右衛門/日匡代」、ほぼ同じ銘文が吽像も背面に刻まれている。
 平成12年5月21日(日)の多摩石仏の会例会では、営団地下鉄丸の内線四谷駅を起点に関口渉さんの案内で新宿区内を廻った。第1見学地の法蔵寺(若葉1−1)から何か所かを廻って来迎寺から西早稲田に入り、最後に高田馬場の3か所を訪ねた。この時に訪ねた源兵衛共同墓地(西早稲田3−24)にある
   (1) 延宝3 笠付型 日月「奉供養庚申二世安楽處」三猿     74×33×29の珍しい笠付円柱型をみるべきであったが、忘れて早稲田通りに出て次の番外へ行く。〔番外〕 子育地蔵の庚申塔(新宿区西早稲田2−18)
 覆屋根の下に馬頭観音の文字塔と並んで次の庚申塔がある。
   14 寛文12 笠付型 日月・青面金剛・三猿          108×35×32
 14は中央に剣人六手像(像高32センチ)、下部に三猿(像高14センチ)と二鶏を浮き彫りする。像の右には「寛文十二年」、左には「壬子九月十二日」の造立年銘、下部には「鈴木八郎兵衛」など8人の施主銘を記す。
 本のコースに戻って水稲荷に行き、ここで昼食にする。(6) 水稲荷神社(新宿区西早稲田3−5)
 昼食後、境内に目ぼしいし石佛もないので早々に観音寺へ向かう。(7) 観音寺(新宿区西早稲田1−7−1)
 参道には石佛が並び、その中に次の庚申塔2基がみられる。
   15 寛文4 光背型 地蔵「奉侍庚申三年一座…」       105×43
   16 寛文7 光背型 聖観音「奉侍庚申供養現世伍諸為佛果菩提也」87×35
 15は地蔵(像高75センチ)が主尊の庚申塔、頭上に「バン」種子を刻み、像の右に「奉侍庚申3年一座為逆修佛果菩提 敬」、左に「寛文四年甲辰三月吉日 武州豊嶋郡戸塚村 白」とある。下部には「□藤仁左衛門」など8人の施主銘を刻む。地蔵の足元に「為父母」が左右に各4行ずつ彫られている。この「為父母」の銘文は、施主8人のそれぞれの父母を指していると思われる。
 16は15の地蔵とは異なり、聖観音(像高75センチ)主尊の庚申塔、像の右に「奉侍庚申供養現世伍諸為佛果菩提也/為道西/田二親」、左に「寛文七丁未年十二月五日 武州豊嶋郡牛込戸塚村/為浄夏/大澤□□□(等3人)」の銘を刻む。15も16も「奉待」ではなくて「奉侍」となっているのが変わっている。
 地蔵と聖観音の庚申塔の間に、弁才天(像高45センチ)を陽刻する貞享4年塔(80×32センチ)がある。他にも恵比寿・大黒の丸彫り像などがみられる。
 コース巡通りに観音寺から次の宝泉寺へ廻る。(8) 宝泉寺(新宿区西早稲田1−6−1)
   17 延宝8 板駒型 日月「カンマン 奉待庚申/現世…」三猿  81×37
 17は頂部の「カンマン」の種子に続けて「奉待庚申」の銘、右に「現世安穏受福楽」、左の「来将無為速成佛」の銘、下部の三猿(像高17センチ)の浮き彫り下に「延宝八」と「申正月」の年銘を2行に刻んでいる。
 次もコース順に真言宗智山派の竜泉寺を訪ねる。(9) 竜泉寺(新宿区西早稲田1−1)
 境内の木祠の中に地蔵が安置されているが、左手の茂みの中の次の塔が目当である。
   18 元禄2 光背型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        79×28
18は中央に剣索六手像(像高36センチ)、その下に二鶏と三猿(像高15センチ)が浮き彫りされる。主尊の上方左手には、人身ではなくて首を持っているのが特徴である。像の右に「諸願」、左に「元禄二己巳四月十八日 柄本源五右衛門」の年銘と施主銘を彫る。平成12年にこの寺を訪ねた時には、この塔をみていると近所の蕎麦屋の奥さんがきていろいろと話をする中で、先々代が夏目家に天麩羅蕎麦を配達したという話を思い出す。
 次はコースを外れて穴八幡より先に大楽寺墓地へ行く。〔番外〕 大安楽寺墓地の庚申塔(新宿区西早稲田2−3−23)
 1番が2番と変わるビルの東側にある大安楽寺墓地に通じる参道兼用の細い通路には、間を置いて次の2基の庚申塔がみられる。
   19 享保9 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        78×31×19
   20 年不明 柱状型 三猿「ウーン」                52×22×16
 19は通路の奥にある塔で頂部に上が欠けているが「ウーン」の種子、中央が剣人六手像(像高34センチ)、下部に両端内向きの三猿(像高10センチ)がみられる。右側面に「享保九甲辰年七月庚申日」、左側面に「諸願成就所 施主 稲垣氏」とある。因みに享保9年7月の庚申日は19日である。

 20は手前にある塔で上部の三猿(像高14センチ)下に「ウーン」の種子、「□口源左衛門」など6人の施主銘を刻む。左側面に「庚戌十月廾四日 庚申講中」とある。この塔に該当する「庚戌」は、寛文10年・享保15年・寛政2年・嘉永3年であろう。塔型が柱状型で、しかも上部に三猿を浮き彫りにする特徴からみると、享保15年の造立と推定される。
 道を戻って次のコースにある穴八幡を裏参道から訪ねる。(10) 穴八幡宮(新宿区西早稲田2−1)
 かつてここには次の4基の庚申塔があったが、前に庚申塔のあった場所に新社殿が建って移動されている。多摩石仏の会の平成12年5月例会でここを訪ねた時に何故か庚申塔をみることはできなかった。
   (2) 貞享4 板駒型 「奉待庚申天子 諸願成就」三猿
   (3) 元禄6(笠付型)「バイ 奉待庚申天子」三猿
   (4) 昭和33 丸 彫 青面金剛・一鬼
   (5) 年不明 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿
 この神社では、布袋の水鉢をみるだけである。
 次いでコースにある放生寺へ行く。(11) 放生寺(新宿区西早稲田2−1)
 この寺には、昭和62年造立の三面八手の馬頭観音に注目する。もう1つ興味があったのは、前回もみた地下のトイレにある「ウーン 烏枢瑟摩明王」と記す位牌である。青梅市根ケ布1丁目・天寧寺(曹洞宗)の東司(便所)には、烏枢沙摩明王坐像が祀ってあるように禅宗の寺にみられる。
放生寺の前の道を間違って右折し、中々来迎寺につかないと思ったら高田馬場に入って諏訪町の交差点に出てしまう。庚申塔だけを考えれば、残りのコースを廻って来迎寺の1基をみるよりも諏訪神社(高田馬場1−12)〜玄国寺(同1−12−10)〜田植地蔵堂(同1丁目)を訪ねたほうが次のように庚申塔を多くみられる。
   (6) 貞享5 光背型 日月「奉待庚申供為二世安楽也」三猿    91×39
  (7) 延宝3 光背型 「奉待庚申諸願成就攸」三猿        52×29
   (8) 宝永7 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     74×35×25
   (9) 寛文5 笠付型 「奉待庚申諸願成就處」三猿        83×28×28
   (10) 年不明 光背型 日月・青面金剛              60×28
 なお(6)は諏訪神社、(7)から(9)は玄国寺、(10)は田植地蔵堂にある。
 交差点から引き返して馬場下町へ戻り、1つ先の地下鉄早稲田駅前の交差点を右折して夏目坂通りを進む。大廻りして今度はやっと来迎寺の前に出る。(12) 来迎寺(新宿区喜久井町46)
 山門の前には、新宿区教育委員会が平成3年11月に立てた「来迎寺の庚申塔」の説明板がみられる。山門を入って左側に次の庚申塔がある。
  21 延宝4 板碑型 日月「奉待庚申現當二世悉地成就處」三猿  137×62
21は中央に「奉待庚申現當二世悉地成就處」の主銘、下部の右に「同行」、左に「二十四人」、三猿(像高20センチ)下に「泉住院」を筆頭に「米屋三右門」など11人を上段に、下段に12人の施主銘を2段に記す。右端の枠に「武州湯原郡牛込馬場下町」、左枠に「延寳四年丙辰九月十六日」とある。説明板によると、地銘の「湯原郡」が「江戸時代になってから中世当時の古地名を記した史料として極めて価値が高い」点で新宿区の指定文化財になっている。
 次にコースにある感通寺へ行く。(13) 感通寺(新宿区喜久井町44)
 境内にある竹駒稲荷には昭和5年の「妙法地荒神」があったらしいが、現在も稲荷の工事中で見当たらない。
 次いで有島武郎旧居跡に向かう。寺先の交差点を左折して細い道を行くべきなのに真っ直ぐ広い道に進んだため、思いがけずに若松町の山本石材の展示の珍しい石佛に出会う。直ぐ間違いに気付いて交差点まで戻り都営大江戸線牛込原町駅方面に進み、右側に旧居跡の説明板をみつける。(14) 有島武郎旧居跡(新宿区原町71)
 ここには説明板だけで、旧居の痕跡がないので次の宗円寺を訪ねる。(15) 宗円寺(新宿区市谷山柳町50)
 本堂の前には魚籃観音をみて、多門院へ向かう途中でコース外の浄輪寺の墓地で関和孝の墓(弁天町96−1)に寄る。次いで訪ねたのが多門院である。(16) 多門院(新宿区弁天町100)
 境内にある大正の詩人・生田春月の詩碑をみて、次の漱石公園へ。(17) 漱石公園(新宿区早稲田南町7)
 園内に漱石の銅像があり、多層の「猫塚」がある。ここから最後の宗参寺を訪ねる。(18) 宗参寺(新宿区弁天町9)
 この寺にはただ寄っただけで、営団地下鉄の東西線早稲田駅に直行して帰途につく。
◎ 9  新宿から四谷へ
 平成16年3月4日(木曜日)は石佛ウォークの第9回目、予定の水曜日より都合で1日遅れとなる。コースは前週に引き続き新宿区内の「新宿から四谷へ」である。何時もと同じ青梅駅午前8時10発の電車に乗る。
 第1見学場所の天竜寺は新宿駅南口から近い場所にある。(1) 天竜寺(新宿区新宿4−3−19)
 寺についたのが9時35分、早速、墓地を背にした場所に並ぶ次の3基を調べる。遠藤和男さん本の中で「境内の隅に庚申塔があるのだが、石がとろけて形が分からない」と書いているように、庚申塔であるのはわかるが細部までは不明である。
   1 年不明(笠付型)日月・青面金剛・三猿          107×35×23
   2 年不明 板駒型 日月・青面金剛・三猿          116×47
   3 年不明 柱状型 日月・青面金剛・三猿          114×39×24
 1は笠部が失われた塔で、上部に日月、中央に輪後光がある剣人六手像(像高46センチ)下部に正面向きの三猿(像高14センチ)の跡が残っている。足下に鬼がいるようにもみえる。銘文は1切わからない。
 2は1に比べると、合掌六手像(像高44センチ)と正面向きの三猿(像高15センチ)が判別しやすいが、塔が全体的にトロけている。銘文は全く読めないし、銘文が刻まれていたのかどうかも不明である。
 3は中央手の具合から剣人六手像(像高35センチ)らしく、三猿(像高14センチ)も両端の猿が内側を向くようにみえる。勿論、1や2と同様に銘文はわからない。
 続いて次の大きな閻魔像でしられる大宗寺に向かう。(2) 大宗寺(新宿区新宿2−9−2)
 この寺では銅製「江戸六地蔵」でも知られ、堂内にある閻魔大王と奪衣婆もスイッチを押せば1分間だけ点灯され、像容を網目入りの格子からみられる。境内にある「塩地蔵」は塩まみれ、ただ頭部をみると観音と思われる。
 大宗寺の次は、靖国通りにある正受院である。(3) 正受院(新宿区新宿2−15−20)
 この寺へ入って右手に奪衣婆を安置するお堂がある。頭に白綿をかぶるのが変わっている。大宗寺の奪衣婆は立像であるが、ここのは坐像である。墓地の入口にある無縁塔の中に十一面千手観音があり、最も上の手に日月を執る。こうしたことが気になるのも先の石仏談話室で話された大津和弘さんの「太陽と月」が影響している。この像の持物は文字通り日月だけで、烏も兎も刻まれていない。
 続いて通りの並びにある成覚寺を訪ねる。(4) 成覚寺(新宿区新宿2−15−18)
 この寺は内藤新宿の遊女と関わりが深く、子供合葬碑や旭地蔵がみられる。それよりも驚いたのは境内に白糸塚があったことである。墨で「白糸塚 伝説鈴木主水白糸ゆかりの地」記された木柱をみて気付いた。
 鈴木主水は万作の手踊りとも関係の深く、八木節や源太踊りで歌われる。広島県三原市では『鈴木主水(鈴木主水白糸くどき・三人心中)」が歌われたそうである。ただ通常の八木節や万作の手踊りでは、次に掲げる「口説節」の中の最後の2行が歌われて広く知られるが、白糸が登場するまで歌われないので、余り白糸の名前が知られていない。
   花のサエー お江戸にそのかたわらに さてもめずら心中話
   ところ四谷の新宿町よ 紺の暖簾にききょうの紋は
   音に聞こえし橋本屋とて あまた女郎衆のあるそのなかに
   お職女郎衆の白糸こそは 年は十九でとうせいそだち
   愛嬌よければ みな人さまが 我も我もと名指しで上がる
   鈴木主水というさむらいは 女房持ちにて子供が二人
   二人子供のあるその中で 今日も明日もと女郎買いばかり
 この成覚寺から次の自証院までの間にコースを外れて番外の専念寺や永福寺を廻る。〔番外〕 専念寺の庚申塔(新宿6−20−6)
 この寺には次の庚申塔があると訪れたが、発見でききない。無縁の墓石に日月付きの寛文2年銘塔や延宝元年銘の来迎弥陀、宝永6年銘の金剛界大日の3基をみたのがせめてもの慰めである
   (1) 寛文8 柱状型 三猿(三面)              (計測なし)
 がっかりして次に永福寺へ向かう。〔番外〕 永福寺の庚申塔(新宿7−11−2)
 専念寺は残念であったが、この寺では境内にある福禄寿堂の隣に次の塔がある。
   4 元禄11 板駒型 日月「奉寄進庚申」三猿          60×28
 4は中央に主銘の「奉寄進庚申」、その右に「元禄十一年 施主」、左に「戊寅八月吉日 □嶋」下部に正面向きの三猿(像高13センチ)が陽刻されている。
 見学コースを離れたの元に戻って、途中で本に「市谷台町10」とあったので、10番の一画を探してみたが寺はない。そこで自証院へ向かう。(5) 自証院(新宿区富久町4−5)
 この寺を含めて平成12年の多摩石仏の会5月例会に関口渉さんの案内で廻っている。この寺もその時に訪ねている。入って左手に次の庚申塔3基が隙間なく並び、塔がセメントで固定されていて、側面の銘文の有無がわからない。例え銘が刻まれていたとしても、判読できない。境内には、現代の佛足石がある。
  5 貞享3 柱状型 日月・青面金剛・三猿           70×26×21
  6 年不明(笠付型)日月・青面金剛・一鬼           56×24×10
  7 延宝8(笠付型)ウーン 庚申講供養寳塔現世安穏後生善處    54×23×17
 5は合掌二手像(像高25センチ)で、像の左右に年銘の「貞享三丙寅暦」と「三月六日」を刻み、下部に三猿(像高12センチ)がある。東京都では剣索型の二手青面金剛が主流で、三鷹市中原の寛文6年塔から世田谷区羽根木の天和元年塔まで10基みられる。これに対して合掌二手は少数派で、檜原村檜原下元郷の寛保3年塔とこの像の2基で少ない。
6は笠部が失われた塔、剣人八手像(像高29センチ)が一鬼の上にたつ。胸前の第1手に剣と人身・上方二手に日月、中央手に矛と輪の下に蓮台をつけた棒、下方手に弓矢を執る。鈴木俊夫さんの『東京の庚申塔 新宿区』(私家版 平成12年刊)24頁によると、左側面に「當院現住法主賢栄」の銘が記録されている。
 平成12年9月15日に行った川越市古谷本郷・古尾谷八幡神社の「ほろかけ祭」の帰り道には、胸前の第一手に剣と人身、上部の第二手に月天と日天を捧げ、横の第三手に矛と宝輪、下部の第四手に矢と弓を持つ剣人八手の青面金剛立像(像高60センチ)をみた。これを私は「万歳型剣人八手」と名付けたが、この自証院を先にみていながら当時はこの点を意識していなかった。
 7は前面頂部に「ウーン」の種子、それを挟んで「庚申供養供養寳塔」と「現世安穏後生善處」の2行の銘、下部に三猿(像高11センチ)がある。この塔も7と同様に側面が読めない。先の鈴木さんの記録によると、左側面に「延寳八庚申年十一月廾九日 敬/當院開基法主賢栄 白」の銘文2行が9頁に記されている。
 自証院でみた庚申塔のメモに「住吉町10−10」とある。道理で「市谷台町10」をいくら探してもないわけである。本の記されている通りに「あけぼの橋通りの商店街を200メ−トルほど行くと」安養寺へ出られる。(6) 安養寺(新宿区住吉町74)
   8 延宝5 板碑型 (上欠)三猿               82×43
 8は中央に「奉造立庚申供養」とあり、その下の右に「所願」、左に「成就」の2行、右端の枠に「延宝五丁巳年 敬」、左枠に「六月十五日 白」、三猿(像高16センチ)の下に「池田金兵衛」など6人の施主銘を刻む。
 境内の一画には左手で幼児を抱き、右手の錫杖にに子供がすがりつく水子地蔵がる。その前には菓子や玩具、花などが沢山供えられている。右には水子供養の卒塔婆が大小2種たち、左には小さな合掌地蔵が十数体ずつ2段に並んでいる。
 住吉町の交差点で靖国通りを渡り、舟町に入ってに西迎寺の墓地(新宿区舟町14)にでる。ここには徳本の名号塔や大きな地蔵がみられる。名号塔の前には、前面に「奉寄進水鉢」と刻む寛文2年水盤が置かれている。(7) 西迎寺(新宿区舟町13−2)
 寺は道を隔てた先にある。阿弥陀坐像の金銅佛をみて、次の養国寺を訪ねる。(8) 養国寺(新宿区舟町15)
 境内には趣の変わった聖観音立像がみられ、墓地にある彫りよい如意輪観音を撮って若葉の寺々に向かう。途中の釣り文化資料館の前には、両手で釣り竿を持った丸彫りの地蔵立像がある。隣にある自然石には「釣り地蔵」とある。その先は、等身大のたんきり子育地蔵が祀られた祠がある。〔番外〕 東福院の庚申塔(新宿区若葉2−2−6)
 若葉の寺々で最初に訪ねたのが東福院、以前の面影を止めずに大きく変貌しているのに驚く。平成12年に訪ねた時にあった次の庚申塔2基は失われたらしい。
   (2) 享保2 光背型 日月・青面金剛・三猿           74×32
   (3) 年不明 柱状型 上欠(青面金剛)・三猿          46×30×28
 その時の記録によると、(1)は合掌六手(像高37センチ)の青面金剛の下に三猿(像高10センチ)がみられ、像の右には「諸願成就 柳原氏」、左には「享保二丁酉歳二月吉日」の年銘が刻まれている。
 (2)は上半部が欠失した破損の著しい塔で、三猿は(像高15センチ)前面と左右の両側面の三面下部に配置配され、これによってかろうじて庚申塔とわかる。前面に中央にある像(像高12センチ)は、下半部が残るのみであるが青面金剛と思われる。左側面に「吉日」とだけ判読できる。
 コース順からいうと法蔵寺が先になるが、東福院から坂を下った左手にある愛染院を先に訪ねる。(10) 愛染院(新宿区若葉2−8)
 寺の入口に可愛らしい菩薩形の坐像が迎えてくれる。左手を膝の上におき、右手を開いて右耳の後ろにおく。突き当たりに墓地を背にして次の庚申塔が2基並んでいる。木陰にあるから、うっかりすると見逃す恐れがある。
   9 元禄2 光背型 日月・青面金剛・三猿           87×37
   10 延宝8 光背型 日月・青面金剛・御幣一猿         78×47
 9は合掌六手像(像高47センチ)、下部に正面向き三猿(像高12センチ)の浮き彫りがある。頂部に「ウーン」の種子、像の右に祈「奉供養庚申待諸願成就所 右京」、左に「元禄貮己巳暦七月六日
 玄順」の銘文を刻む。
 10は9同様の合掌六手像(像高37センチ)、下部の一猿(像高23センチ)は左手を膝におき、右手で御弊を担ぐ。頂部には欠けているが「バン」の種子、像の右に「延宝八庚申天」、左に「十一月五日」と年銘が2行になっている。
 コース順とは逆になったが愛染院の次に寄る。(9) 法蔵寺(新宿区若葉1−1−6)
 法蔵寺墓地の入口には、寛文4年と宝暦5年の六字名号塔2基がみられる。寛文塔は大きく、宝暦塔の笠部に蕨手があって異様な組み合わせになっている。
 法蔵寺から西念寺へ行く。(11) 西念寺(新宿区若葉2−9)
 服部半蔵の宝篋印塔墓塔の前には、天保4年の十一面千手観音がみられる。正受院の場合は1番上の手に日月を持っていたが、この寺のは2番目の手に日月を執る。正受院の像同様に日月に烏や兎の刻像はない。前回みた家康の長男信康の供養五輪塔は省略する。
 西念寺から宗福寺へ向かう。須賀町に入って戒行坂で左手にある手前の一燈寺の織部燈籠が通りからみえる。(12) 宗福寺(新宿区須賀町10−2)
 境内の石佛には眼もくれず、参道にある次の庚申塔にカメラを向ける。
   11 天和2 光背型 三猿                   64×29
 11は塔の中央部に「天和二壬戌年」と「十一月十七日」の年銘を2行に刻み、下部に両端の猿が内側を向く三猿(像高14センチ)、その下に3行の銘がある。中央の塞耳猿の顔と上半身に欠損があるのが残念である。この時期は正面向き三猿が主流で、この形式の猿が彫られているのは珍しい。
 続いてコース最後の勝興寺を訪ねる。(13) 勝興寺(新宿区須賀町8)
 境内に入って右手の堂内には、右膝を立てる奪衣婆が祀られている。その先の左手には白衣観音・閻魔などがあり、墓地入口に白衣観音がみられる。前回は墓地にある三面馬頭を写撮ったが、今回は省略する。
 勝興寺で本にあるコースの見学を終え、中央線のガード先にあるみなみもと町公園で遅い昼食をとる。時間的には午後2時30分だから、廻ろうと思えば何カ所行ける。弁当を食べ終わった頃に雨がポツリポツリと降ってくる。体調も余りよくないし、雨も降ってきたので、渋谷区千駄ヶ谷の庚申塔を廻るのを諦めて四谷駅に向かう。ついでに駅から近い心法寺を訪ねる。〔番外〕 心法寺の庚申塔(千代田区麹町6−4)
 ここの庚申塔があるのを知ったのはホームページの「PDD図書館」で、北区田端「東覚寺の庚申塔」の参考として「千代田区二番町の心法寺の庚申塔。ドクロは判別がつきますが、三つ眼は残念ながら欠け落ちています」と2行記され、この頁から青面金剛の顔部分の写真載せた別頁にリンクできる。この写真は顔の部分写真である。
   12 宝暦2 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     93×43×28
 12は上方手に矛と宝輪、下方手に矢と弓を執る剣人六手標準形の像(像高45センチ)、上部に日月、足下に一鬼、その横に雌雄の鶏を配し、下部に三猿(像高12センチ)を浮彫りする。三猿は宗福寺でみた天和2年塔と同様に、左右の猿が内側を向いている。宗福寺の塔に比べて70年後に造られている。
 平成13年にお会いした布村定雄住職に、この庚申塔は10年ほど前に本堂が完成したのを機に、それまで観音堂の辺りにあった無縁塚から移したと聞いた。また特別な言い伝えもないそうである。
 雨の中を心法寺から四谷駅に向かい、中央線から青梅線へ乗り継いで帰宅する。
 参考までに平成12年の多摩石仏の会で廻ったコースは、営団地下鉄丸の内線四谷線3丁目駅を起点に(9)法蔵寺(丸数字は今回のコースの数字 六字名号塔)〜日宗寺(若葉2−3 浄行菩薩)〜東福院(若葉2−2 庚申塔)〜(10)愛染院(庚申塔)〜(11)西念寺(十一面千手観音・宝篋印塔・五輪塔)〜(12)宗福寺(庚申塔)〜戒行寺(須賀町9 長谷川平蔵供養塔)〜(13)勝興寺(須賀町7 奪衣婆・白衣観音・閻魔・墓地三面馬頭)〜於岩稲荷(左門町16)〜長善寺(笹寺四谷4−4 四谷勧進角力創始之碑・法華経千部供養塔・蝦蟇塚)〜(5)自証院(佛足石・庚申塔)〜(6)安養寺(庚申塔)〜月桂寺(河田町2−5 見学禁止)で、これに続く来迎寺(喜久井町46)以下の西早稲田の寺は前回の「学習院下から早稲田周辺へ」のコースに当たり、最後に高田馬場の社寺にある庚申塔を訪ねて高田馬場駅に向かった。
    あ と が き
      本書は前書に続く「東京石佛ウォーク」シリーズ2冊目で、前回の墨田・台東・荒川・
     文京の4区から、今回は豊島と新宿の2区を対象としている。
      ようやく週1回、前書に比べるとコースに従って歩くのにも慣れた。といっても『江戸
     ・東京 石仏ウォーク』(ごま書房 平成15年刊)のコース順を丸写したものではなく、
     番外の庚申塔を廻るコースを付加している。だから本の通りに歩くわけではない。
      コースの中には、この数年に行った場所が含まれているし、30年以上の年月を経過し
     て訪ねた場所がある。最新の「新宿から四谷へ」にしても、新宿区若葉の東福院では平成
     12年にみた庚申塔が失われている。寺は新築されて綺麗にはなったが、石佛の居場所が
     なくなったということか。
      これは今回だけの現象ではなく、前書で廻った文京区向丘の大円寺の場合にもいえる。
     昭和45年の当時に境内にあった青面金剛3基の内の2基が失われ、現在は1基だけにな
     っている。これも前回の例であるが、台東区上野公園の五条天神の場合は4基共に以前の
     位置とは替わっている。これは前の狭い場所に比べて、現在はみやすくなっている。弁天
     島でみられた元禄3年の庚申塔1基も、前書の調査では見当たらなかった。
      本書では、こうした過去の経験も加えて書いている。今回取り挙げた「学習院下から早
     稲田周辺へ」の場合でも、文中にも記したように『石仏の旅 東日本編』(雄山閣出版
     昭和51年刊)の「雑司ケ谷周辺から西へ」の中で、豊島区高田や新宿区西早稲田の寺々を
     廻った時の記述を引用している。
      当時と眼在を比較すると、豊島区高田・南蔵院境内にある庚申塔の配列は『石仏の旅
     東日本編』と28年後と変わっていない。一方では、新宿区西早稲田の大日堂前にあった
     大正8年の庚申塔が嵐山町へ移転したと新宿の直江清久さんから聞いているし、同じ西早
     稲田の穴八幡にあった庚申塔4基は行方不明になっている。
      以上の例からもわかるように、同じ場所に同じ石佛が常にあるとは限らない。また平成
     になってからの石佛の新造がみられる。ある程度の期間、5年とか10年の間をおいて石
     佛巡りを何度も行い、チェックすることが変化の激しい現代では必要であろう。その意味
     で多少なりとも石佛の現状を伝えておくべきと考える。本書が後に変化を知るのに役立つ
     機会があると思う。
      『江戸・東京 石仏ウォーク』のコースは、庚申塔だけを追いがちな私にとって他の石
     佛に出合う機会を与えてもらった。これまで見逃していた石佛の中にも興味があるものが
     含まれていて、色々な面で参考になった。庚申塔の中でも何度も接した塔もあれば、前回
     の文京区千石・簸川神社のように昭和45年にみただけで、この石佛巡りで何十年振りに
     再会している塔がある。
      今後、引き続いて3冊目や4冊目を予定して残りのコースを歩いてみたい。どのような
     展開や結末になるのか、今からは予想がつかない。
                               ・・・・・・・・・・・・・・
                               東京石佛ウォーク 2
                               発行日 平成16年3月20日
                               TXT 平成16年7月10日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 多摩野佛研究会
                               ・・・・・・・・・・・・・
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