江戸東京石佛ウォーク (その3)                          石 川 博 司
             
    10-A 恵比寿から渋谷・原宿まで(渋谷区)
    10-B 恵比寿から渋谷・原宿まで(渋谷区)
    11  目黒不動界隈(目黒区)
    12  東海道品川宿界隈(品川区)
    13  芝増上寺周辺(港区)
    14  中山道板橋宿界隈(板橋区)
      あ と が き  
◎ 10-A 恵比寿から渋谷・原宿まで (青山劇場の開演前に)

 平成16年1月10日(土曜日)は、北青山の青山劇場で都民芸術フェスティバル特別公演「古典から現代・未来」を観覧する。この機会に家を早めに出て、JR渋谷駅周辺の庚申塔を廻ろう、と考えた。コースは「恵比寿から渋谷・原宿まで」の一部である。
 渋谷駅から歩きはじめて、コース順ではなく最初に訪ねたのが豊栄稲荷神社である。(6) 豊栄稲荷神社(渋谷区渋谷3−4−7)
 正面の入口を入ると左手には1と2の庚申塔2基があり、右手には3から13までの11基が並んでいる。今回は5・6・7・9の主な庚申塔4基を写してみるだけである。次に掲げるここの塔データは、平成14年11月12日(火)に行った庚申懇話会12月例会の下見の時のものである。
   1 延宝2 板駒型 「庚申供養」三猿(像高12センチ)          86×38
   2 年不明 光背型 (上欠)青面金剛(像高42センチ)・三猿(像高8センチ)90×39
   3 年不明 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・三猿(像高11センチ)     67×29
   4 年不明 板駒型 「為庚申供養」                   66×34
   5 貞享2 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿・二童子      67×39
   6 延宝2 光背型 日月「キャカラバア」三猿(像高26センチ)      96×48
   7 延宝4 柱状型 「キャカラバア」三猿(像高13センチ)       107×24×20
   8 元禄7 柱状型 日月「ウーン」三猿(像高15センチ)         89×36×28
   9 宝永1 柱状型 日月「南無阿弥陀佛」三猿(像高11センチ)      86×37×19
   10 享保1 板駒型 日月・青面金剛(像高40センチ)・三猿(像高9センチ)80×37
   11 享保6 板駒型 日月・青面金剛(像高63センチ)・三猿(像高10センチ)73×37
   12 元文4 板駒型 日月・青面金剛(像高32センチ)・三猿(像高9センチ)72×30
   13 享保5 柱状型 青面金剛(像高38センチ)              58×27×19
   参 昭和47 板石型 「庚申塔略記」                   67×52
 この中で3の青面金剛の像高は28センチ、5は青面金剛が27センチで三猿が11センチ、二童子が18センチである。3から13までの塔群から少し離れた所に横田甲一さんが撰文した文章を刻む昭和47年の「参」がある。
 次いで豊栄稲荷神社からコース順とは逆に反対側にあるへ金王八幡宮行く。(5) 金王八幡宮(渋谷区渋谷3−5−12)
 境内には茅の輪が残っている。この神社には庚申塔がないので、東福寺へ進む。(7) 東福寺(渋谷区渋谷3−5−8)
 寺の境内に入ると、左手に次の庚申塔2基が並んでいる。
   14 文明2 光背型 「カ」地蔵・三猿             150×54
   15 文明2 柱状型 「キャカラバア …累年庚申講之一結…」  175×30×24
14は中央に地蔵の立像(像高105センチ)を浮き彫りし、底部にある蓮台中央に正面向きの三猿(像高11センチ)を陽刻する。頂部に「カ」の種子、像の右横に「干時文明二庚寅年」、左横に「十二月廾日」の年銘を刻む。
 15は正面上部に「キャ カ ラ バ ア」の種子、その下に「如等攸行」の偈文、さらに下に「奉彫刻四面石塔一基」以下5行の銘があって「文明二年庚寅八月吉祥日」の年銘、下部に施主銘が刻まれている。詳しい銘文は、縣敏夫さんの『図説 庚申塔』(揺籃社 平成11年刊)162頁に載っており、次頁に拓本が掲載されている。
 本堂の前にある板石型塔(129×76センチ)には上部に「馬頭觀音」、中央に馬に乗った観音像を線彫りするが、観音の頭部に馬頭はついていない。裏面に「昭和五十三年戊午三月建」と記す。
 東福寺から首都高速を渡り、青山学院沿いに進むと青山劇場の前に出る。渋谷側の横町を歩いて渋谷小学校跡に向かう。(9) 渋谷小学校観察園(渋谷区渋谷1−18)
 渋谷消防署の仮庁舎は、昨年の暮れに移転しまった。その建物の道路寄りに
   16 延宝8 板碑型 二鶏・二猿                 76×31がある。逆光で塔が見にくい。上部に二鶏、中央に「延宝八/かのへ/申」、その下に「久蔵」など5人の施主銘を刻み、下部に両手で口や目を抑えた二猿(像高16センチ)を浮彫りする。『庚申』第6号(庚申懇話会 昭和35年刊)の表紙にこの塔の図を載せ、横田甲一さんがこの塔を取り上げてに「足軽の建てた庚申塔」を18頁に発表された。
 本のコースに逆行して観察園から御嶽神社へ歩く。(8) 御嶽神社(渋谷区渋谷1−12−6)
 石段を登って左手に不動堂があり、中央に不動明王、右に勢至菩薩、左に青面金剛が安置されている。庚申塔は
   17 延宝9 光背型 日月・青面金剛「ウーン」一鬼・二鶏・三猿  100×45で、合掌六手像(像高44センチ)を主尊とする。下部に正面向きの三猿(像高19センチ)がある。堂内が暗くて銘文を読めない。
 青山劇場へ戻ったが開演は午後1時30分だから、まだ時間があるので善光寺まで足を延ばす。〔番外〕 善光寺の庚申塔(港区北青山5−17)
 次の庚申塔4基は、いずれも無縁塔の中にある。
18 明暦2 板碑型 「バク 奉敬待庚申尊二世安楽」蓮華    (計測なし)
   19 延宝2 笠付型 青面金剛・三猿              (計測なし)
   20 貞享4 光背型 日月・青面金剛・三猿           (計測なし)
   21 貞享5 板駒型 日月・青面金剛              (計測なし)
 18は「バク 奉敬待庚申為二世安楽所」の主銘、その右に「明暦二丙申天」、左に「十一月吉日」の年銘を記す。
 19は笠部を失った塔で、剣人六手を主尊とする。右端の枠に「延寶二年」、左端の枠に「甲寅十月吉祥日」の年銘がある。
 20は合掌六手像、像の右側に「貞享四丁卯年」、左側に「二月十一日」とある。
 21は月人六手像、像の右側に「貞享五戊辰年」、左側に「三月吉日」と刻む。
 この寺には、これら4基の他に庭に置かれた
   22 年不明 手洗鉢 三猿                   (計測なし)があるが、今回は確認せずに開演時間が迫った青山劇場へ急ぐ。
◎ 10-B  恵比寿から渋谷・原宿まで

 平成16年3月10日(水曜日)は石佛ウォークの第10回、5回の第1、9回の第2を終えて第3クールに入る。コースは梶川賢二さんが担当された「恵比寿から渋谷・原宿まで」を選ぶ。例により青梅発午前8時10分の直通電車に乗る。
 最初の見学はコースを外れた台雲寺.恵比寿駅東口から直行する。〔番外〕 台雲寺の庚申塔(渋谷区恵比寿1−18−1)
 裏通りを進めば早かったが、表の通りを行ったので大回りして9時55分に寺へ到着、早速、参道沿いにある左側の庚申塔をみる。
   1 天明3 駒 型 日月・青面金剛・三猿            65×32×22
 1は上方手に矛と宝輪、下方手に弓矢を持つ標準的な合掌六手像(像高42センチ)、下部に両端内向きの三猿(像高11センチ 以後はこの型の三猿を「内向型」と呼ぶ)を浮彫りする。右側面に「天明三癸卯年一月吉日 當寺九世翁尊叟」の銘が刻まれている。
 隣には指先が欠けてはっきりしないが、説法印の釈迦丸彫り像がある。恵比寿橋を渡って6本木通りから明治通りに出て本のコースに従い福昌寺を訪ねる。(1) 福昌寺(渋谷区東3−10−13)
 昔、横田甲一さんに案内されて訪ねた頃とは大きく様変わりし、入口から余りの変貌に驚く。この寺の石棺佛は有名で、近くに立つ渋谷区教育委員会の説明板に「和歌山県那賀郡から運ばれて来たものとと伝えられ」とあり、入手した業者が寺へ寄進した。この石棺佛の右側に花供養塔がみられる。墓地に「烏八臼」を刻む墓塔があるが省略する。なお、関口渉さんが『野仏』33集(多摩石仏の会
 平成14年刊)に「東京区部の『烏八臼』墓塔」を発表されているので、烏八臼の墓塔を知るのに参考になる。
 コース通りに福昌寺に続いて近くにある室泉寺へ向かう。(2) 室泉寺(渋谷区東3−8−16)
 境内にある宝塔を線彫りした石塔をみてから、塔身の四面に梵字で宝筐印陀羅尼経が彫られている宝筐印塔に気付く。弘法大師の修行像の近くには、板石に浮彫りした石塔がみられる。上部の円形の中にに大師を表す種子「ユ」があり、下に飾り花、松と思われる樹木と金剛杵を浮彫りしている。大師に関係のある石造物であろうが、何を意味するものだろう。
 室泉寺から真っ直ぐに明治通りを越えて進むと,庚申橋に出る。(3) 庚申橋庚申塔(渋谷区東3−17−17)
 橋を渡った南詰めの木祠の中に背の高い次の塔がある。
   2 寛政11 柱状型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        159×35×24
 2は上部に合掌六手像(像高28センチ)、鬼の下に浮彫りされた中央の猿(像高5センチ)が左端の猿と向かい合い、右端の猿が足を内側に向けて体を捩じって外側を向くという変則的な三猿である。上部の右枠に「天下泰平」、左枠に「國土安穏」とあり、青面金剛の下に「麹町 伊勢屋藤左衛門」など9人ずつ4段の施主銘が刻まれている。左右の両側面には6人ずつ9段の施主銘があり、うっかりして裏面を確認しなかったが、区教育委員会の説明板に「四面すべてに、橋講中世話役や万人講及び、個人の名が多数刻まれています」と記されている。
 この橋から真っ直ぐに進んで交差点を越えた右側の高見に庚申塔群がある。(4) 恵比寿西庚申塔群(渋谷区恵比寿西2−11−7)
 正面の木祠の中に3から6までの塔があり、7は馬頭観音と共に外にある。
   3 寛文8 板碑型 「奉造立石塔一基為庚申」合掌猿・二鶏   122×48
   4 延宝4 板碑型 青面金剛「右意趣者一結衆」三猿      121×49
   5 延宝2 板碑型 日月・青面金剛「庚申一結衆」蓮華     117×51
   6 寛文4 板碑型 「右奉造立意趣者為庚申供養」三猿・蓮華  118×51
   7 明治38 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        168×27×19
 3は上部中央に「キャカラバア」、下に烏帽子をかぶった合掌猿(像高38センチ)、足元に左右に鶏が1羽ずつ浮彫りされている。右上に「奉造立石(塔)一基/為(庚申)講供養也」、左上に「(如)我時請願/(□□)者以(満足)」、猿の右に「寛文八年戊申」,左に「九月吉祥日」、下部に「武州豊嶋郡下渋谷村」、続けて「岩崎勘右門」など21人の施主銘が2段にあり、上段中央に「講衆」と記されている。括弧内の銘文は、塔の破損のために現在ではセメントで補修されて読めない。
 4は外側に6本の手を伸ばす立像(像高43センチ)、下部に正面向きの三猿(像高13センチ 以後はこの型の三猿を「正面型」と呼ぶ)がある。頂部に「ウーン」などの3種子、右に「如等所行/是菩薩道」、左に「(漸々)修学/(悉當成)佛」の銘がある。この塔が最も破損が酷い。像の右に「延寳四丙辰天 一結衆」、左に「十一月吉祥日 右意趣(以下不明)」、下部に「田中太郎兵衛」など9人の施主連名がみられる。
 5は合掌六手像(像高45センチ)であるが、上方左手に宝輪の代わりに弓、そのために下方左手に索を執る変則的な合掌立像である。像の右に「如等所行是菩薩道 延宝二甲寅天/小宮三郎左門(など3人)」、左に「(漸々修)学悉當成佛 武州豊嶋郡下渋谷村/山中惣兵衛(など3人)」、下部に9人の施主の連名があり、底部に蓮華を陽刻する。
 6は中央に「キャカラバア」の発心門の梵字、右に「諸法本不生自性離成就/施主/清浄无垢染□□等圓空」、左に「右奉造立意趣者 寛文四年/為庚申供養 十月吉日」、雌雄の明らかな三猿(像高22センチ)の下に「佐治右衛門」など10人の施主銘が並ぶ。
 7だけが野外にある。一見すると合掌二手像に思われるが、標準的な合掌六手像(像高36センチ)で、下部に内向型三猿(像高8センチ)がみられる。右側面に「明治卅八年五月一日立之/宮田助次郎」の銘を刻む。
 以前はここに次の2基がみられたが、昭和50年代に失われたらしい。
   (1) 元禄6 板駒型 青面金剛「如等所行菩薩道…」三猿      45×50
   (2) 年不明 欠 損 三猿                    47×43
 計測の数字は区教育委員会編『渋谷区の文化財 庚申塔・道しるべ編』(渋谷郷土研究会 昭和51年刊)81頁による。
 ここから再びコースを外れて宝泉寺へ向かう。〔番外〕 宝泉寺の庚申塔(渋谷区東2−6−16)
 堂の左側には、大きな丸彫りの地蔵などの地蔵がみられる。その中に次の塔がある。
   8 寛文3 光背型 地蔵「カ 奉造立地蔵為庚申講 一結衆」 107×44
 8は頂部に地蔵の「カ」種子、中央にに左手に宝珠、右手に錫杖を持つ延命地蔵(像高86センチ)が浮彫りされる。像の右に「奉造立地蔵/為庚申講/干時寛文三年癸卯/十一月吉日 一結衆 庄蔵(など3人)」、左に「如等所行 是菩薩道 右意趣者信心之結衆/漸々修学 悉當成佛也矣 為現當安楽也/市右衛門(など3人)」の銘文を彫る。
 行きには全く気付かなかったが、帰りに寺を出ると左側の境に「石敢当」(104×24×12センチ)の角柱が立っている。他の3面には銘文がない。
 ここから白根記念郷土文化館へ向かうが、手前の吸江寺へ何気なく入る。〔番外〕 吸江寺の賽の河原(渋谷区東4−9)
 参道の右側に地蔵堂があって、中をのぞくと賽の河原になっていて鬼などがみられる。ここも横田さんの案内できたのを思い出す。無縁塔の後ろにある板倉家墓地の墓塔には、上文字にみたこともないような文字と記号が記されている。〔番外〕 郷土文化館の庚申塔(渋谷区東4−9−1)
 寺の隣が郷土文化館であるが、すでに建物は壊されて新築工事中である。そのためここにある次の庚申塔5基は残念ながらみられない。平成17年6月までお預けである。
   (3) 寛文12 柱状型 「卍 キャカラバア」三猿         180×30
   (4) 延宝8 板駒型 御幣持猿                  90×37
   (5) 元禄8 板駒型 青面金剛「庚申供養所」三猿        114×48
   (6) 正徳1 板駒型 日月・青面金剛・三猿            90×37
   (7) 享保4 光背型 一猿                    62×30
 なお計測の数字は(3)(後述の「還ってきた庚申塔」で補正)を除いて先の『渋谷区の文化財庚申塔・道しるべ編』による。(4)と(6)は、渋谷駅西にあって埋没寸前に保存され、東急の五島昇氏が区に寄贈した。また(3)・(5)・(7)の3基は桜丘町29にあった塔で、所有者の斉大治氏が寄贈した。『渋谷郷土特報』67号(渋谷郷土研究会 昭和51年刊)に斉氏が「桜丘町の庚申様」発表し、その中で寄贈の経緯を書いている。
 コースの金王八幡宮へ行く途中、渋谷図書館があるので寄る。〔番外〕 渋谷図書館の文献(渋谷区東1−6−6)
 神宮前にある中央図書館は何度か通ったが、この館は初めてである。地階にある郷土資料コーナーでみたのは『渋谷区文化財現況調査報告書』・『渋谷郷土特報』・『図説 渋谷区史』である。
 区教育委員会編の『渋谷区文化財実況調査報告書』(同会 昭和48年刊)には、各論で「区内の庚申塔」にふれ、桜丘町と庚申橋の塔写真を載せている。桜丘町の3基は「駐車場に囲まれ保存が危ぶまれる」と記され、後に所有者から区に寄贈されて移動しているので、当時の状況を知る貴重な写真である。7頁から9頁にかけて60基の庚申塔が種別・塔形・年号・所在地・戸内外の別を一覧できるようになっている。
 渋谷郷土研究会発行の『渋谷郷土特報』42号(昭和46年刊)に載った横田さんの「渋谷区内の庚申塔一覧(略記)」はご本人からいただいたの知っていたが、他の号にも横田さんの文章が載っている。2号(昭和41年刊)に「庚申随想」、42号(昭和46年刊)に「渋谷小学校の庚申塔」、43号(昭和46年刊)に「渋谷小学校の庚申塔(二)」と「東福寺文明二年記年銘の塔」、44号(昭和46年刊)に「東福寺文明二年記年銘の塔」と「庚申橋の塔」、45号(昭和46年刊)に「瑞円寺の庚申塔その外」、64号(昭和50年刊)に五島氏の寄贈にふれた「還ってきた庚申塔」、66号(昭和51年刊)に「犬も歩けば」である。
 『渋谷郷土特報』39・40合併号に加藤一郎氏の「衆楽の庚申さまのこと」があり、恵比寿西庚申塔群の塔にふれている。67号には、先に記した斉氏が「桜丘町の庚申様」が掲載されている。
 他に区制70周年記念誌『図説 渋谷区史』(同区 平成10年刊)に西原・雲照寺の寛文12年塔(96頁)、千駄ヶ谷・聖輪寺の延宝5年塔と元禄3年塔が並んだ写真が次頁に掲載されている。
 図書館で約45分ほど時間が取られてコースへ戻り、先に東福寺を訪ねる。(7) 東福寺(渋谷区渋谷3−5−8)
 この寺には今年1月10日(土曜日)に北青山の青山劇場で都民芸術フェスティバル特別公演を観覧する前に寄っているので、境内に入って左側ある庚申塔2基の写真と計測、本堂の前に「馬頭觀音」を写す。
   9 文明2 光背型 「カ」地蔵・三猿             150×55
   10 文明2 柱状型 「キャカラバア …累年庚申講之一結…」  173×30×24
9の地蔵は像高100センチ)、三猿は像高10センチである(5) 金王八幡宮(渋谷区渋谷3−5−12)
 次の金王八幡宮は前に訪れているので省略し、道を隔てた豊栄稲荷神社に向かう。(6) 豊栄稲荷神社(渋谷区渋谷3−4−7)
思いがけず図書館で時間がかかったので、先ず境内で昼食にする。
 食後に正面の入口を入った左側にある次の庚申塔2基から計測を始める。
   11 延宝2 板碑型 「庚申供養」三猿              85×35
   12 年不明 光背型 (上欠)青面金剛・三猿           82×39
 11は中央に主銘の「庚申供養」、その右に「延宝二甲寅」、左に「十月十八日」の銘が刻まれている。損傷の激しい正面型三猿(像高12センチ)の下に「飯塚角右衛門」など7人の施主銘が並んでいる。
 12は破損の酷い合掌六手像(像高38センチ)、上方手も下方手も持物がわからない。下部の三猿(像高9センチ)も右端の猿が欠けている。銘文は一切不明。
 反対側にある覆屋根の下には、次に挙げる13から23までの11基が並んでいる。
  13 年不明 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・三猿         67×27
   14 年不明 板駒型 「為庚申供養」               66×34
  15 貞享2 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿・二童子  88×42
  16 延宝2 光背型 日月「キャカラバア」三猿     98×47
  17 延宝4 柱状型 「キャカラバア」三猿      108×25×20
  18 元禄7 柱状型 日月「ウーン」三猿(像高15センチ)     87×36×26
   19 宝永1 柱状型 日月「南無阿弥陀佛」三猿     86×37×20
   20 享保1 板駒型 日月・青面金剛・三猿 三猿   80×32
   21 享保6 板駒型 日月・青面金剛・三猿 三猿   73×37
   22 元文4 板駒型 青面金剛・三猿               72×30
   23 享保5 柱状型 青面金剛(像高38センチ)          58×26×19
13は上部に瑞雲のない日月、中央に合掌六手像(像高28センチ)であるが、上方左手に宝輪の代わりに羂索(蛇?)を執るもので、足下の正面型三猿(像高11センチ)の下に「渋谷七郎兵衛」など7人の施主銘が並んでいる。他に銘文はみられない。
 14は「為庚申供養」とある文字塔で、下部に「水上徳右衛門」など11人の施主銘を連記する。
 15は輪後光を付ける上方左手に索を執る合掌六手像(像高28センチ)、左方童子(像高19センチ)と右方童子(像高19センチ)を両脇に従える。正面型の三猿(像高11センチ)の下に二鶏を浮彫りする。三猿の右に「貞享二乙丑年」、左に「八月廾六日」、二鶏の下に「渋谷傳左衛門」など10人の施主銘を記すが剥落があって全てを読めない。
 16は上部に大きく様式化された瑞雲が日・月を伴い、中央に「キャカラバア」、正面型三猿(像高27センチ)の右に「延宝二年甲」、左に「寅(異体字)五月九日」、下に「久保木右左衛門」など13人の施主銘を並べる。
 17は上部中央に「キャカラバア」、両横に「南無阿弥陀佛」の六字名号を並べ、少し下の右に「延宝四丙辰年」、左に「九月十一日」と刻む。正面型三猿(像高14センチ)の下に8人ずつ3段、左右の両側面にも6人ずつ7段に施主銘を列記する。
18は上部の一角に破損がみられ、頂部の日月の間に「ウーン」の種子、中央部に正面型三猿(像高14センチ)があり、下に「田宮仁兵衛」など7人の施主銘を刻む。右側面に「元禄七甲戌載」、左側面に「十月廾□日」の年銘を記す。
19は頂部の「キャ」種子に続けて「南無阿弥陀佛」、下に蓮華の陰刻、右に「寳永元甲申年」、左に「九月廾三日」の年銘を彫る。正面型三猿(像高13センチ)下に「田宮仁兵衛」など8人の施主銘がある。左側面に「めぐろ/こんわう/道」の道標銘がみられる。
20は頂部に「ウーン」の種子、15と同じく上方左手に索を執る合掌六手像(像高39センチ)で、像の右に〔享保元丙申天 當村」、左に「十一月□四日 講中」の銘を刻む。正面型三猿(像高8センチ)の下に「須藤十郎左衛門」など12人を列記して、最後に「浄圓」の僧名がみられる。
21は15や20のような上方左手に索を執る合掌六手像(像高36センチ)、像の右に「奉納庚申養供施主」、左に年銘の「享保六辛丑年十月吉日」、内向型三猿(像高12センチ)の下に「須藤重蔵」など「念□」の法名を含む13人の施主銘を記す。
22は標準形の合掌六手像(像高33センチ)で、内向型三猿(像高10センチ)の下に「三井八郎右衛門」など10人の施主銘がある。右側面に「元文四乙未十一月十四日/須藤左衛門(など3人)」、左側面に「佐藤二郎兵衛(など3人)」の銘を彫る。
   13 享保5 柱状型 青面金剛                  58×27×19
23は22と同じ標準形の合掌六手像(像高37センチ)で、下部に「早川勘左衛門」など8人の施主銘をを刻む。右側面に「享保五年庚子十一月吉日/中渋谷村」とある。
13から23までの塔群から少し離れた所に横田甲一さんが撰文した次の石碑がある。
   参 昭和47 板石型 「庚申塔略記」              67×52
参は上部に横書きで「庚申塔略記」の題字があり、縦書きで「ここに建てられている庚申塔は江戸時代中渋谷村 中豊沢村 宮益町など金王八幡神社を中心とする地域に住んでいた人々が建てたものです(中略)/昭和四十七年十二月 庚申懇話会 横田甲一/渋谷区道玄二ノ五ノ八 安藤喜啓建之/西麻布石久刻」と長文を誌している。
 ここからコース通りに御嶽神社へ向かう。(8) 御嶽神社(渋谷区渋谷1−12−16)
 1月に訪ねた時には、不動堂の堂内が暗くて銘文が読めなかった。そこで今回は懐中電灯を用意して備えたが、外光で充分に次の塔の銘文が解読できる。
   24 延宝9 光背型 日月「ウーン」青面金剛・一鬼・二鶏・三猿  100×45
 24は頂部に「ウーン」の種子、中央に標準形の合掌六手像(像高44センチ)、像の右に「如等所行是菩薩道/漸々修学悉當成佛/渋谷村」、左に「右意趣者為二世安樂也/干時延宝九辛酉三月六日/石田太郎兵衛」の銘がある。下部に正面型三猿(像高19センチ)の陽刻。
 同じ石田太郎兵衛が同年3月23日に反対側にある勢至菩薩の刻像塔を建てている。
 1月にはコースを次の渋谷小学校跡から逆に御嶽神社へ寄ってから、番外の善光寺(港区北青山5−17)を訪ねて明暦2年塔・延宝2年塔・貞享4年塔・貞享5年塔をみている。今回は寄り道せずにコースに従い、渋谷小学校跡に向かう。(9) 渋谷小学校観察園(渋谷区渋谷1−18)
 観察園は通りから入った左側にあり、道路を背にして次の塔が立っている。
   25 延宝8 板碑型 二鶏・二猿                 76×31
 25は前回調べているので、寄ったついでに写真だけ撮って穏田神社へ行く。(10) 穏田神社(渋谷区神宮前4−26−6)
 ここには以前訪ねたことがあるが、当時は寂しい位の佇まいであった。周辺がビル化したし、社殿も新築されて昔の面影は全くない。次の長泉寺へ向かう。(11) 長泉寺(渋谷区神宮前6−25−12)
 この寺も横田さんが神宮前にお住まいの頃には、お宅で庚申懇話会の例会が開かれていた。早めに家を出て何度かこの寺を訪れているので懐かしい。ここもビルに囲まれ、墓地も整備された。門の飾りに象の飾りがみられ、文京区向丘・瑞泰寺の門柱を思い出す。墓地にはユニークな馬頭観音や十一面観音、十一面千手観音があって楽しめた。現在もそれらの石佛は健在で、当時は北向きだったように記憶するが、現在は東向きに変わった。
 当初は次の延命寺で庚申塔7基をみる予定であったが、変更して原宿駅へ向かう。〔番外〕 延命寺の庚申塔(渋谷区千駄ヶ谷3−56−15)
   (8) 延宝6 柱状型 日月「奉寄進庚申供養」三猿         80×31×22
   (9) 享保11 板駒型 日月・青面金剛・三猿           (記録不明)
   (10) 延宝8 柱状型 青面金剛・三猿               76×26×18
   (11) 宝永7 光背型 青面金剛「奉納庚申供養」三猿        70×33
   (12) 宝永5 板駒型 日月・青面金剛「為六親菩提」(下総銘)   67×30
   (13) 延宝8 光背型 「奉供養庚申」               65×32
   (14) 貞享3 光背型 (上部欠失)「申供養爲二世安楽」三猿    58×29
 原宿駅についたのが4時近く、渋谷図書館で時間を取られ、疲れも出てきたので長島監督の例があることだし、無理をしないで延命寺の見学を諦める。原宿駅を4時2分の電車に乗り、中央線・青梅線に乗り継いで帰宅する。
 11  目黒不動界隈

 平成16年3月17日(水曜日)は石佛ウォーク第11回、コースは「目黒不動界隈」である。目黒の見学会といえば、会によって廻るコースに違いがみられるが今回のコースに含まれる寺社が中心となる。
 例により午前8時10分発の東京行電車に乗り、新宿で乗換え目黒駅で下車する。西口を出て行人坂を下ると、途中の左側にお堂がある。〔番外〕 勢至堂の本尊(目黒区下目黒1−8)
 本の中に大円寺の手前にあるので「宝永元年(1704)の勢至菩薩が祀られている」とごく簡単にふれられている。来迎相の合掌した勢至菩薩の半趺丸彫像(像高61センチ)が堂内に安置されている。首が折られたのか、セメントで補修されている。
 勢至堂の先に大円寺の入口がある。(1) 大円寺五百羅漢石佛群(目黒区下目黒1−8−5)
 境内に入って左側の斜面に五百羅漢が並び、その前に釈迦如来を中心に普賢菩薩・文殊菩薩・十六羅漢が配置されている。これらは明和の大火の供養に造立された。境内には他にも現代作の7福神・双体道祖神・童形六地蔵など多くの石佛がみられる。
 塀沿いには、次の3基の庚申塔が並んでいる。
   1 寛文8 板碑型 「ア−ンク 奉供養庚申二世安楽祈所」三猿 112×48
   2 貞享1 笠付型 日月「ウーン 奉供養青面金剛」三猿     99×36×38
   3 寛文7 板碑型 「爲奉供養庚申塔二世安楽」三猿      118×47
 1は中央に「(種字 ア−ンク) 奉供養庚申二世安楽」、「楽」の右に「祈」、左に「所」を配する。主銘の右に「寛文八之天」、左に「戊申四月八日」、正向型三猿(像高20センチ)の下には「松久又右衛門」など18人の施主銘が記され、末尾に「武州荏原郡目黒/大円寺」とある。
 2は中央に「ウーン 奉供養青面金剛」、右に「貞享元甲子天」、左に「六月廾五日」、正向型の三猿(像高17センチ)の下に「花里太右衛門/□頓信士/秋葉六兵衛/叟我才兵衛/貞譽妙松/澄譽漸永/爲二親菩提」と刻む。右側面には「南無阿弥陀佛/菊地長兵衛(など6人の氏名)、左側面には「三界万霊等/大聖院/南条氏爲願/後藤太左衛門(など5人の氏名)」の銘がみられる。
 3は中央に「爲奉供養庚申塔二世」、「世」の右に「安」、左に「樂」があり、署名の右に「寛文七年」、「丁/未/二月十五日」、正向型三猿(像高19センチ)の下に「三田町/清水五郎左衛門(など7人の氏名)/施主/敬白」と彫る。三猿は右から牡(塞目猿)・牝(塞耳猿)・牝(塞口猿)の順に横一列並ぶ。
 1の後にある塀の瓦に「元三大師和歌三猿」と記す木札が下がり、和歌3首のそれぞれの後に解釈が書かれている。隣にもう1枚の木札があり、三不型の猿を右下に描き、横書きで「平成16年干支/飛躍・福運・吉祥/甲申年/きのえ さるの とし」、右端に縦書きで「絵馬有ります」と墨書きされている。
 大円寺から南へ坂を下り、太鼓橋を渡って右折し、目黒川沿いに区民センターの先まで進むと、左側の角地に木祠がある。「柊庚申堂」である。〔番外〕 柊庚申堂(目黒区目黒2−3)
 庚申堂といっても小さな木祠で、中に次の庚申塔を祀る。
   4 年不明 柱状型 「庚申塔」三猿               59×35×18
 4は頂部が石で叩かれて凹んでいる。中央に「奉納庚申塔」、その下に「願主/島村八左衛門(など8人の氏名)」、右側面に「志んてら/ゆふてん寺/道」、左側面に「こんひら/ふどう/道」の道標銘が刻まれている。台石正面に正向型三猿(像高15センチ)が浮彫りされる。
 堂内には「柊庚申」と書かれた赤提灯が下げられ、「奉納/平成元年□月/柊庚申講」と記された幕が張られている。ここから次の田道の庚申塔群は近い。(2) 田道庚申塔群(目黒区目黒2−13)
 田道町会事務所の先に瓦屋根の下に石佛が並んでいる。右端に念佛供養の延宝5年地蔵があり、隣に並ぶ6基は次の庚申塔である。ここも柊庚申と同様に、紫地が陽に焼けて灰色に変色した奉納幕が下がっている。中央に横書きで「奉納」、右端に「平成十一年二月吉日」、左端に「田道庚申会」と記す。
   5 延宝5 板碑型 日月・青面金剛・三猿           114×56
   6 元禄8 板駒型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        128×50
   7 延宝8 板碑型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     128×52
   8 元禄8 板駒型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        135×51
   9 元禄5 板駒型 日月・青面金剛・三猿           108×43
   10 正徳3 駒 型 日月・青面金剛・二鶏・三猿         94×44
 5は上方手の持物を通常とは左と右ヲ逆に執る合掌六手像(像高52センチ)、像の右に「延宝五丁巳暦」、左に「十月十六日」、正向型三猿(像高15センチ)の下に「國府方權之助(など8人の氏名)」の銘を彫る。
 6は標準形の合掌六手像(像高61センチ)、像の右には「奉申庚供養」、左には「元禄八乙亥年十一月二日」、正向型三猿(像高18センチ)の下には「大野四兵衛(など9人の氏名)」の銘を刻んでいる。
 7は中央手に剣と索を執る六手像(像高48センチ)、下部の正向型三猿(像高13センチ)の右に「延寶八庚申年」、左に「十八月十六日」、下に「國府方杢兵衛(など10人の氏名)/施主敬白」と記す。
 8は標準形の合掌六手像(像高60センチ)、像の右に「乙 元禄八天」、左に「亥 十一月二日」、正向型三猿(像高23センチ)の下に「蕪木八十助」など10人の施主銘を彫る。
 9は頂部が欠けた塔で、標準形の合掌六手像(像高57センチ)を主尊とする。像の右に「奉供養庚申塔」、右に「元禄五壬申大九月廾六日」、正向型三猿(像高15センチ)の下に「菅沼仁兵衛/円□/秋本左衛門(など4人の氏名)」の施主銘を記す。
 10は標準形の合掌六手(像高41センチ)像の右に「正徳三癸巳天」、左に「十一月吉日」、正向型三猿(像高13センチ)の下に「蕪木左平次」など11人の施主銘がある。
 山手通りに出て交差点を渡り、コースを外れて右折して裏通りを行き、突当たりの馬喰坂を登る。十字路の左先の高みにある永隆寺墓地の一角に、次の庚申塔4基が道路に面して並んでいる。〔番外〕 永隆寺墓地の庚申塔(目黒区目黒3−21−1)
 塔の前には、目黒区教育委員会が平成5年に設置した「馬喰坂上の庚申塔群」の説明板がある。
   11 宝永7 板駒型 日月・青面金剛    ・二鶏・三猿     69×35
   12 延宝8 板碑型 三猿                    92×34
   13 宝永3 板駒型 日月・青面金剛・三猿            97×37
   14 寛保2 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      75×32×22
 11は標準形の合掌六手像(像高37センチ)、像の右に「庚申供養」、右に「宝永七庚寅年九月吉日」、正向型三猿(像高8センチ)の下に「□□平三郎」など9人の施主銘がある。
 12は通常主銘が刻まれる中央部分が空白で、右側に「延宝八庚申九月吉日」の年銘、左側に「道秋禅定門」の法名、正向型三猿(像高17センチ)の下に「菅沼傳右門」など9人の施主銘がみられる。
 13は標準形合掌六手像(像高45センチ)、像の右に「奉供養」、左に「宝永三丙戌天十一月十六日」、正向型三猿(像高15センチ)の下に「菅沼□兵衛」など9人の施主銘を刻む。
 14は標準形の合掌六手像(像高45センチ)が鬼の上に立ち、三猿が見当たらない。像の右に「寛保二壬戌」、左に「十一月吉日」の年銘、底部に「星野八兵衛」など11人の施主銘を記す。
 馬喰坂上の庚申塔群を左にみて十字路を右折し、直進すると現代彫刻美術館があり、その先に長泉院がある。〔番外〕 長泉院の庚申塔(目黒区中目黒4−12−19)
 寺の塀の前、道路に面して次の庚申塔が立っている。
   15 寛政1 駒 型 「庚申供養」                77×37×22
 15は中央に「庚申供養」の主銘、右に「寛政元酉年」、左に「十一月吉日」、下部の3段に施主銘を刻む。施主銘は上段に「傳左ヱ門」など11人の名前、中段に「太良兵ヱ」など12人の名前、下段に「小兵ヱ」など12人の名前がみられる。右側面には「石工麻布櫻田町次郎兵ヱ(など3人の名前)」、左側面には「武州荏原郡/中目黒講中/施主/徳兵衛(など4人の名前)」を記す。
 さらに直進して中目黒ホーム先の三叉路の角、藤棚の下に木祠がある。〔番外〕 藤の庚申(目黒区中目黒5−6)
 木祠の中には、次の2基の庚申塔が安置されている。
   16 元禄1 板碑型 日月「南無青面金剛」            57×26
   17 貞享1 板駒型 日月・青面金剛「為両親二世安楽也」三猿  107×45
 16は中央に「南無青面金剛」、右に「元禄元戊辰歳 敬」、左に「十月廾一日 白」の銘が刻まれている。この塔の特色は、下部に彫られた「申ノ形/申ノ形/申ノ形」の3行である。猿を彫らずに文字化している。多くの場合は三猿の文字化が刻像塔から文字塔へ変化する過程で生じるが、私のみたものでは最も古い三猿の文字化である。「申ノ形」の下に「徳左衛門」など7人の施主銘を刻む。
 17は合掌六手ではあるが、上方手に通常なら下方手に持つ矢と弓を執り、下方手に矛と索の変則像(像高42センチ)である。像の右に「庚申講中爲兩親二世安樂也」、左に「貞享元甲子年十月下旬」、正向型三猿(像高19センチ)の下に「野口長左衛門」など11人の氏名を彫っている。
 祠には「おねがい 此の度お地蔵様保存維持の為に お賽銭入れを設置させて頂きましたので ご協力の程、お願い申し上げます。賽銭管理者 田辺 甲州屋酒店 平成15年7月吉日」と横書きされ、左端に縦書きで「○ お賽銭を盗まないで下さい」と書かれている。祠内には「藤乃庚申」と記された赤提灯が下がっているし、祠の左側に「藤の庚申と庚申道」の説明板が立っているのに「地蔵様保存維持」で、庚申塔の影が薄い。
 藤の庚申から今来た道を戻り、十字路を直進すと左側に共同墓地がある。(3) 十七ヶ坂庚申塔(目黒区目黒3−3)
 墓地の中には、目黒区内最古と2番目の次の庚申塔2基がみられる。
   18 寛永3 宝篋印塔 「庚申供養過去未来現在三世佛」      38×32×33
  19 明暦3 板碑型 「ウーン 奉造立庚申供養石塔一宇」蓮華  116×43
 18は相輪の下部に胎蔵界大日如来の種字「アーンク」、塔身の正面中央に「庚申供養 過去」、右に「未来現在」、左に「三世佛」、基礎の正面に「太良左門」など9人の名前、その最後には「中目黒」を記す。右端の枠に「干時寛永三乙寅年」、左端の枠に「二月吉日」の銘がみられるが「寛永三乙寅年」の「乙」は誤りで、正しくは「丙」である。
 この宝筐印塔は古から知られたもので、三輪善之助翁の『庚申待と庚申塔』(不二書房 昭和10年刊)の口絵第8図に写真を掲げているので、その頃の状況がわかる。
 19は18に比べると知名度が低いが、目黒区第2の古塔である。正面の中央に「ウーン 奉造立庚申供養石塔一宇」、右に「明暦三丁酉年八月吉日/權大僧都裕海法印」、左に「本行院/施主等二世安樂祈所」、下部に「中目黒/權之助(など9人の名前を上段)/庄□(など8人の名前を下段」を彫る。
 十七ヶ坂の庚申塔2基をみてから大鳥神社へ向かう。(4) 大鳥神社の力石(目黒区下目黒3−1)
 ここで昼食を済ませてから次の4基の庚申塔をみる。
   20 元禄1 笠付型 日月・青面金剛・三猿            80×34×24
   21 宝永1 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・三猿         88×36
   22 元禄1 笠付型 日月・青面金剛・三猿            98×39×41
  23 延宝3 板駒型 「ウーン 奉納庚申供養二世安楽祈所」三猿  66×35
 20は上方手に矛と宝輪の代わりに索を執る合掌六手像(像高42センチ)、像の左下に「元禄元年/戊辰十月廾一日」、正向型三猿(像高8センチ)の下に「施主/嶋村助左衛門」など8人の施主銘が刻まれている。
 21は標準形の合掌六手像(像高39センチ)、像の右に「奉納青面金剛一躰講中」、左に「宝永元年甲申天仲冬廾四日 同行十人」、正向型三猿(像高12センチ)の下に「施主/松山靖樹信士(など3人の法名)/松沢与兵衛(など8人の氏名)」を記す。
 22は標準形の剣人六手像(像高51センチ)、像の右に「元禄元戊辰暦」、左に「霜月廾七日」、正向型三猿(像高10センチ)の下に「大聖院/松沢一郎衛門」とある。大聖院は隣の寺である。右側面に「沢田長三郎」など9人の氏名、左側面に「次田權四郎」など7人の氏名が彫られている。
23は中央に「ウーン 奉納庚申供養二世安楽」、右に「延宝三暦/祈」、左に「所/卯ノ十月六日」、正向型三猿(像高14センチ)の右に「施」、左に「主」、下に「吉田」など9人の性だけが読み取れ、名前は土中に埋まっている。
 庚申塔に並ぶ神楽塚碑や力石をみてから神社隣の大聖院に向かう。(5) 大聖院のキリシタン燈籠(目黒区下目黒3−1−3)
 境内の目立つ所にキリシタン燈籠3基が並んでいる。他に上部に地蔵半趺像を浮彫りする道標銘の笠付型塔があり、柱状型の百番観音塔は正面に1体、左右の両側面と裏面の3面にそれぞれ西国・板東・秩父の当てて2体ずつの立像を配している。
 大聖院から山手通り沿いに進むと蟠龍寺の前に出る。(6) 蟠龍寺の弁才天(目黒区下目黒3−4−4)
 堂内に祀られた彩色の弁才天をみてから、標識に導かれて右折して海福寺へつく。(7) 海福寺の供養塔(目黒区下目黒3−20−9)
 この寺では、永代橋沈溺横者供養塔が見逃せない。台石の右側面に造塔の由来が長文で刻まれている。また朱塗りの四脚門が見事である。
 海福寺の奥に次の五百羅漢寺がある。一変して昔日の面影はまったくない。(8) 五百羅漢寺(目黒区下目黒3−20−11)
 昨年7月13日(日曜日)の多摩石仏の会例会で品川区内を廻った時にこの寺に寄っているので、今回はこの寺を省略する。境内には次の庚申塔2基がある。
   (1) 享保5 光背型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿(台石)  98×48
   (2) 年不明 自然石 日月・三猿                 69×58
 (1)は石段を登って右側にあり、剣人六手像(像高60センチ)が主尊である。台石の正面に内向型三猿(像高18センチ)を浮彫りし、右側面に「本庄/四つ眼/松伏町」、左側面に「享保伍年/庚子三月吉日」の銘を刻む。
 (2)は本堂前の庭の背の低い木に囲まれてにあるもので、自然石に日月を彫りくぼめ、下部に正向型三猿(像高18センチ)を浮彫りする。
五百羅漢寺から成就院へ向かう。この寺も7月に多摩石仏の会で訪ねている。(9) 成就院の阿静地蔵(目黒区下目黒3−11−11)
 この寺は「蛸薬師」で知られている。境内の一角に次の1基がある。
   24 元禄9 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿         81×36×28
 24は標準形の合掌六手像(像高36センチ)、頭上に「アウンク」の種字、像の右に「元禄九丙子歳
 庚申待」、左に「四月廾三日 供養所」、下部に正向型三猿(像高17センチ)が陽刻されている。右側面に「下目黒滝前町/講/中/鈴木庄左衛門(など5人を上段に、下段に6人の氏名)」、左側面に「我是尊使處衆無所畏/我當善説法佛安穏住矣/施主敬白」と記す。
 目黒区から品川区に入り、安養院を訪ねる。(10) 安養院の念仏供養塔(品川区西五反田4−12−1)
 7月の時とは異なり、正門から入る。境内には羅漢や如意輪や地蔵などいろいろな石佛がある。田の神や朝鮮石神、丸彫の猿、現代作の大黒天は怒りの顔である。お堂の近くに次の塔がある。
   参 延宝2 笠付型 「南無阿弥陀仏」「庚申講中」       (計測せず)
参は側面の下部に小さく「庚申講中」の銘が刻まれている。
 裏手にある墓地の入口の近くには、つじぼ1基がある。
  25 年不明 駒 型 日月・青面金剛・一鬼            68×27×22
 25は剣人六手像(像高45センチ)で、中央左手に下げる人身が正面を向いている。三猿も銘文も見当たらない。
 墓地の間を抜けて右折して次の目黒不動を訪ねる。(11) 目黒不動瀧泉寺の石仏(目黒区下目黒3−20−26)
 水かけ不動の背後に次の1基があるが、遠くてハッキリと銘文が読めない。
   26 寛文12 板碑型 「ウーン」日月・青面金剛・三猿      (計測できず)
 26は剣索六手像(像高不明)で、下部に正向型三猿が浮彫りされる。多摩石仏の会・鈴木俊夫さんの『東京都の庚申塔 目黒区』(私家版 平成12年刊)によると、頭上に種子「ウーン」、像の右に「寛文十二年」、左に「二月十八日」の銘文があると述べている。
 この本には26以外に境内に次の3基がに掲げられているが、境内を一巡したところ見当たらない。(5)は庭園にあるらしい。
   (3) 寛文4 光背型 日月・青面金剛・一鬼・三猿         93×48
   (4) 貞享3 光背型 日月・青面金剛               66×40
   (5) 年不明 光背型 三猿                   (計測なし)
 (3)は剣と髑髏を執る六手像(像高36センチ)、像の右に「為二世安楽」、左に「寛文四甲辰暦八月吉日 施主 見龍院保雲□□」、下部に正向型三猿(像高10センチ)がある。
 (4)は上方手に矛と索、下方手は矢と弓を執る合掌六手像(像高33センチ)、像の右に「奉寄進庚申供養為二世安楽」、左に「貞享三天丙寅十月吉辰」の銘を刻む。
 (5)は正向型三猿(像高不明)を浮彫りする塔で、銘文はないらしい。
 境内には、いろいろな石佛がみられる。以前露座におかれた閻魔と奪衣婆ば地蔵堂の隣にある精霊堂へ移された。八大童子は『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)の項目で紹介し、その中の指徳童子の写真を載せた。刷毛筆供養会造立の「刷毛筆供養塚」の文字塔がみられる。
 目黒不動を出てから墓地を探すのに迷う。丁度、郵便配達の方に出会ったので尋ねると林試の森の裏の方と教えていただく。その方向を目指して進むと墓地がある。本に「下目黒4−37」と記されているが、墓地は5−37にある。いくら4丁目を探しても見つからないはずである。(12) 目黒不動墓地(目黒区下目黒5−37)
 墓地へ入った正面に休息所があり、奥に「奉造立釈迦一尊」の銘が刻まれた寛文十一年の釈迦如来像光背型塔(像高72センチ)がある。右側の塀沿いには多くの石佛が一列に並んでいる。その中には寛文4年銘の十一面千手観音(像高96センチ)、同年の三面六手馬頭観音、天和3年銘の聖観音(像高96センチ)寛文4年銘の六手如意輪観音(像高67センチ)、同年の化佛をいただく八手観音(像高96センチ)などの優品がみられる。いずれの観音も光背型塔に浮彫りされている。
 午後3時29分にコースにある石佛を一応見終わる。未だ陽があるので祐天寺(目黒区中目黒5−24)にある元禄8年塔1基にするか、それとも庚申塔6基と塔数の多い別所坂(目黒区中目黒1−1)をみるのか迷ったが、恵比寿駅に近い別所坂を選ぶ。目黒不動墓地から安養院の先の道を選んだので、禿坂を経た大回りの道となって約1時間かかって別所坂の庚申塔群につく。〔番外〕 別所坂の庚申塔群(目黒区中目黒1−1)
 坂の上まであと少しの左側に次の6基が前列に27から29までの3基、後列に30から32までの3基が並んでいる。着いたのが4時26分、大分暗くなっている。
27 元禄1 板駒型 青面金剛・三猿  105×41
28 延宝8 板碑型 「奉供養南無帝釈天王」   103×43
   29 享保1 板駒型 日月・青面金剛・二鶏・三猿     86×43
   30 寛文5 板碑型 「(題目)奉開眼供養 帰命帝釈天王」    97×39
   31 年不明 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      94×42×26
   32 元禄10 柱状型 日月・青面金剛・三猿           105×41
 27は標準形の合掌六手像(像高59センチ)、像の右に「庚申」、左に「元禄元戊辰年十月吉祥日」、正向型三猿(像高13センチ)の下に「秋本三十郎」など7人のせっめを列記する。
 28は中央に「奉供養南無帝釈天王」、右に「武州荏原郡中目黒村/延宝八庚申」、左に「十一月上浣五日」、下部に「浅見次左門」など9人と「秋本三十郎」など7人の施主銘を2段に記す。
 29は標準形の合掌六手像(像高47センチ)、像の右に「奉納庚申供養」、左に「享保元丙申年十一月四日」、内向型三猿(像高11センチ)の下に「高橋利右衛門」など14人の施主銘を刻む。二鶏は鶏というよりは鳩のような形に浮彫りされている。
 30は中央に「南無妙法蓮華經」の題目、右に「干時寛文五乙巳天/奉開眼供養」、左に「歸命帝釈天王/十二月吉祥日」、下部に「田中六右門」など11人の施主銘がある。
 31は標準形の合掌六手像(像高63センチ)、下部に浮彫りされた猿(像高10センチ)は、中央の塞口猿が真っ正面というよりはやや左を向く外向型である。鬼は正面向きに座り、肩の上に青面金剛をのせる。この形の鬼は横須賀でみている。
 32は標準形の合掌六手像(像高50センチ)、像の右に「奉庚申供養施主爲二世安樂」、左に「元禄十丁丑年十一月八日 施主拾人」、正向型三猿(像高10センチ)の下に「莇次衛門」など10人の施主銘を刻む。
 庚申塔を中心にして本通りのコース順にこだわらなければ、恵比寿駅を起点にして馬喰坂上や藤の庚申や十七ヶ坂墓地などを廻り、田道庚申塔群や柊庚申に寄ってから大円寺を訪ね、次の大鳥神社から本のコースに入るのがよいだろう。時間があれば祐天寺(目黒区中目黒5−24)にある元禄8年塔をみるのもよいと思う。
 別所坂から恵比寿駅に向かう途中で交差の角にある六字名号塔をみて、山手線・中央線・青梅線経由で帰宅する。
12  東海道品川宿界隈

 平成16年3月25日(木曜日)は石佛ウォークの第12回、コースは目黒から隣の品川に変わって「東海道品川宿界隈」である。基本的には前日の水曜日を予定していたが、午後から雨の天気予報で1日延ばした。
 例により直通電車で新宿乗換である。車中で改めて地図を見直して廻る順番を変更し、下車駅を京急大森海岸駅からJR京浜東北線大井町駅へ変える。最初に訪ねたのは、駅から近い大井1丁目の庚申塔である。〔番外〕 大井1丁目路傍の庚申塔(品川区大井1−44)
 塔の前に立つ昭和56年の説明板には「庚申堂」とある。庚申塔4基の前方を開けて三方を波板で囲い、上を屋根で覆っている。次の塔が安置される。
   1 年不明(笠付型)日月・青面金剛・三猿            71×25×22
   2 享保6 板駒型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        103×44
   3(享保1)光背型 日月・青面金剛・二鶏・三猿         95×49
   4 延宝8(笠付型)日月・「奉□□□□」蓮華・三猿(台石)   60×34×20
1は笠部が失われた塔で、破損が進んでいて青面金剛(像高25センチ)の全ての持物がわからず、下部の正向型三猿(像高8センチ)の右端(塞口猿)の一部も補修のセメントの跡が残る。右側面に僅かに蓮華の一部があり、中央に「相原長兵衛」など6人の氏名を記す。
 2は三折してセメントで補修され、下部に刻む猿の辺りに補強の針金が巻かれる。合掌六手像(像高52センチ)で、像の右に「養庚申」、左に「享(保)六辛丑十月三日」、正向型三猿(像高12センチ)の下に「安藤長右衛門」など9人の施主銘があり、最後に「大井村」ろ彫る。この塔の特色は青面金剛の足元に雌雄の鶏が浮彫りされているが、通常の内側を向く二鶏とはことなり、2匹共に外側を向いている。
 3は三折してセメントで補修され、下部に刻む猿の顔の上下に補強の針金が巻かれる。合掌六手像(像高53センチ)、像の右に年銘と思われる「丙申」、左に「四」、下部の正向型三猿(像高11センチ)下に「秋元忠右衛」など11人の施主銘を刻むが、1番下が崩れていて読まない。
 品川区教育委員会編・発行の『品川区史料(二)』(昭和58年刊)77頁では、これらを「□□□丙申□」「□月四日」と読み、丙申から「享保元」としている。江戸時代の丙申年といえば、明暦2年・享保元年・安永5年・天保7年の4年が該当し、塔形・主尊・三猿などから推測すると「享保元年」とするのは妥当だろう。
 4は塔の正面が荒れていて読みにくいが、中央の主銘は「奉供養庚申佛」のように読み取れる。右に「延宝八庚申□(年か)」、左に「十一月□□日」、下部に10人ほどの氏名を記しているが読めない。両側面に蓮華の陽刻があり、台石正面に正向型三猿(像高6センチ)を浮彫りする。
 1丁目から東海道線沿いを進んで4丁目へ入り、西光寺を訪ねる。〔番外〕 西光寺の庚申塔(品川区大井4−22−16)
 墓地入口にある無縁塔群の最前列の右から2番目に、次の庚申塔がみられる。
   5 寛文13 笠付型 来迎弥陀・三猿               89×40×30
 5は蓮台に立つ来迎弥陀像(像高31センチ)が主尊、下部に正向型三猿(像高13センチ)を浮彫りする。像の右に「奉供養庚申」、左に「為二世安楽也」、右端の枠に「維□寛文十三癸丑年 敬」、左端の枠の「八月廾三日 施主大井村 白」の銘がある。両側面には蓮華を陽刻する。
 この無縁塔群には、右端の5の右隣に寛文9年9月造立の来迎弥陀立像(像高73センチ)を主尊とする光背型塔(103×41センチ)が立ち、像の左に「爲念佛講中」、下部に「おいな」など12人ほどの名前を記している。
 反対の左端には、明暦元年十二月の地蔵菩薩(像高90センチ)を浮彫りする光背型塔(146×53センチ)がある。地蔵の右に「おりつ」など女性の名前が「妙慶」などの法名に交じり、左も右と同様に「おたつ」などの俗名に尼と思われる「妙西」など、片側8人ずつ十六人の施主銘を刻む。
 池上通りに出て大森方向へ進むと、左側に品川歴史館がある。〔番外〕 歴史館の庚申塔(品川区大井6−11−1)
 館内で企画展「品川浮世絵づくし・」が行われている。常設展に設けられた「品川の社寺と信仰」のコーナーに、次の庚申塔が展示されている。
   6 享保21 柱状型 日月「庚申塔」(道標銘)          75×26×20
 6の正面は日月の下に主銘「庚申塔」があり、右側面に「めぐろ道」、星野「ひもんやミち」とある。裏面は塔の支柱で読めないので、先の『品川区史料(二)』68頁を参照すると、裏面の銘文は「享保廾一丙辰三月日/連中/家内安全/世話人/南品川 金沢庄助(など他村の3人の名前)」と記載されている。
 さらに池上通りに出て大森方向へ進み、鹿島神社の手前を左折して来迎院へ出る。〔番外〕 来迎院の庚申塔(品川区大井6−15−22)
 元は来迎院の地続きの境内であったが、現在は道路で分断されている。ここに3つの堂があり、中央に不動明王を安置する堂の中に庚申塔2基がある。
   7 延宝8 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿・蓮華     120×45×40
   参 昭和15 線香立 「奉納」三猿                21×28×15
   8 延宝9 板駒型 日月・青面金剛・三猿            97×29
 7は上方手に蛇と宝輪を執る剣索六手像(像高50センチ)、像の右に「延宝八庚申年」、左に「十一月五日」、正向型三猿(像高12センチ)の下に「増山三郎(以下は崩れて読めない)」など8人の氏名を刻む。両側面に蓮華を浮彫りする。
 参は7と8の間にある不動明王の前に置かれた線香立、正面の上部に右横書きで「奉納」とあり、その下にある枠内に正向型三猿(像高8センチ)を浮彫りする。右側面に「昭和十五年一月吉日/(大)井(森)前/増山きん」と彫る。
8は上方手に矛とネジリ棒を持つ合掌六手像(像高44センチ)、像の右に「延宝辛酉年 信心講中」、左に「三月六日 高野敬白」とある。下部には正向型三猿(像高18センチ)を浮彫りする。堂の右端に「妙見菩薩」と彫る板石かた塔(49×37)がある。
 番外のコースを本の順路に合わせるために鈴ヶ森刑場跡に向かう。(1) 鈴ヶ森刑場跡(品川区南大井2−5)
 ここには明和4年の地蔵半趺があり、台石の正面に「天下泰平/六十六部供養塔/國土安全」、左側面に「観世音菩薩往生浄土本縁経」の「一念弥陀佛…」、右側面に「佛説延命地蔵菩薩経」の「毎月晨朝入諸定…」の偈文を刻む。
 安政2年の文字馬頭そ下には2匹の馬の浮彫りがみられる。刑場跡を示す首洗い井戸や磔・火あぶりの刑に使った支柱の礎石などが残っている。
 ここからコースの旧東海道を外れて来福寺へ向かう途中、みなみ児童遊園でノンビリ昼食を済ませてから寺を訪ねる。〔番外〕 来福寺の庚申塔(品川区東大井3−13−1)
 山門を入って左の宝筐印塔の前に次の塔がある。
   9 貞享2 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        88×38×29
 9は上部に瑞雲なしの日・月があり、標準形の合掌六手像(像高39センチ)、像の右に「大井村貞享二乙丑年」、左に「十一月四日」、下部に正向型三猿(像高18センチ)を陽刻する。右側面に「桜井良兵衛」など6人の氏名の後に「おひめ/おいち」の2人の女性名、左側面に「神山平三良」など8人の氏名と下に「權助」とある。
 来福寺から鮫州の八幡神社を訪ねてからコースに戻り、次の道標をみる。(2) 海晏寺への道標(品川区南品川3−3)
 国道に通じる道を左折すると2基の柱状型塔が並ぶ。1基は「鮫洲正観世音菩薩道場」、他は「贈太政大臣岩倉公御墓参拝道」と正面に刻み、共に台石正面には「海晏寺」と記す。特に興味もないので、先の海雲寺へ急ぐ。(3) 海雲寺の平蔵地蔵(品川区南品川3−5−25)
 この寺は「千躰荒神」で有名、境内に橘右近が書いた力石が置かれている。平蔵地蔵の横には、この地蔵の由来を記した石碑が立っている。
 海雲寺の次は並びにある品川寺に寄る。(4) 品川寺の水神(品川区南品川3−5−17
境内には文字道祖神(55×27×18)の横に次の2基がある。
   10 延宝8 自然石 「バク」二鶏・三猿・蓮華         195×102
   11 寛政7 柱状型 日月「庚申塔」三猿             81×33×21
 10は大きな自然石の上部に「バク」の種字があり、下部に「板倉八兵衛」など21人の氏名を刻んでいる。台石(76×106センチ)の正面には正向型三猿(像高25センチ)と雌雄の二鶏、両側面には蓮華を浮彫りする。正面に読み切れない43行の銘がり、左側面に「爲二親」が18行彫られている。裏面にも銘文と思われる刻字があるが、全く読めない。
 11は正面の中央に「庚申塔」、三猿(像高15センチ)は両端の猿が体を捩った正向型に近いポーズである。左側面に「寛政七年乙卯秋九月/三好氏」とある。
 この寺は2基の庚申塔の他にも、『日本石仏事典』で「七福神」を担当し、ここの7体の写真を載せたので、特に思い出がある。銅造の江戸六地蔵の1体がみられ、亀趺上にのる「宝筐印塔」と彫る塔は、宝筐印塔というよりは宝塔のイメージに近い。
 品川寺からへ向かう途中、左側の奥に神社がみえたのではいる。〔番外〕 諏方神社(品川区南品川2)
 境内で目についたのが火袋や竿石に龍が巻きつき、台石の四面に獅子を浮彫りする天保十四年の灯籠である。台石に刻まれた発願主や施主銘をみると屋号の名前が並んでいる。品川宿の街道筋に並ぶ店の主であろう。
 番外ついでに妙国寺・真了寺(銅製の門が面白い)・長徳寺に寄ってからを訪ねる。(5) 常行寺の地蔵(品川区南品川2−9−18)
 境内へ入って直ぐの左側にレンガ造りのお堂が珍しい。
 常行寺のから海徳寺の間に番外の本覚寺へ寄る。〔番外〕 本覚寺の庚申塔(品川区南品川1−10−11)
 この寺の境内には次の大型の庚申塔がみられる。多分昭和51年11月の庚申懇話会に平野榮次さんの案内でこの寺を訪ねたと思う。
   12 寛文8 板碑型 青面金剛・一鬼・三猿          129×52
 12は合掌六手像(像高31センチ)、像の右に「寛文八之天」、左に「拾月六日戊申」、正向型三猿(像高25センチ)下中央に「本覚寺」、その右に「宇田河甚兵衛」など3人、左に「加藤重左衛門」など3人の氏名を記す。主尊に比べて三猿が大きいのが特徴である。
 本覚寺からコースにある海徳寺へ向かう。(6) 海徳寺の如意輪観音(品川区南品川1−2−10)
 この寺には「軍艦千歳殉職者之碑」などみられるが、早々に次の寺を目指す。
 目黒河に架かる品川橋の手前で左側に朱塗りの橋がみえたので、その「鎮守橋」を渡って荏原神社を訪ねる。〔番外〕 荏原神社の狛犬(品川区北品川2−30)
 鳥居前にある竹の釣竿を持つ恵比寿石像が迎えてくれる。社殿の前には一対の狛犬がみられ、台石に記された銘文によると明治29年の造立である。誰の発言か知らないが、美しい狛犬だそうだ。一度、狛研のホームページで調べてみよう。
 この神社から旧東海道を進んで法禅寺へ出る。(7) 法禅寺(品川区北品川2−1)
 本では墓地にある大型の聖観音・阿弥陀・釈迦の3体がお勧めであるが、入口にある無縁塔群に中にも、墓地を廻って見当たらず、諦めて次の善福寺へ向かう。(8) 善福寺の地蔵(品川区北品川1−28−25)
 本堂は土蔵造りで正面上部の白壁には、江戸末期の佐官の名人と名が高い伊豆長七作といわれる龍の鏝絵がみられるが、現在では剥落が進んでいて制作当時の全貌がみられないのが残念である。
 平野榮次さんが書かれた『品川区史跡散歩』(学生社 昭和54年刊)37頁には、この寺に「地蔵菩薩立像を半肉彫りした元禄4年(1691)造立の庚申供養塔」と記されているが、うかつにも気付かなかった。
 ポツポツと雨が降ってきたので次の品川神社へ急ぐ。〔番外〕 品川神社の富士塚(品川区北品川3−7−15)
 東海七福神は、北品川の品川神社の大黒天・法禅寺の布袋・荏原神社の恵比寿、南品川の品川寺の毘沙門天・海晏寺の寿老人、南大井の浜川神社の福禄寿、大森北の磐井神社の弁財天である。確か平成7年1月8日の庚申懇話会でこの七福神を廻っているから、この神社を訪れているがほとんど記憶に残っていない。
 かつて検索エンジンで「庚申塔」を検索してみつけたのが「私立PDD図書館」で、これにリンクのできる「庚申塔関連のページ」があって、中に「品川神社の猿田彦神社」がる。品川神社の猿田彦神社を選ぶと、画面に神社境内にある鳥居・ワラジのさがった石祠・「猿田彦神社」と刻む円石の3枚の写真が出た。それが記憶にあったので今回のコースの最後に訪ねたわけである。
 第2京浜国道に面して入口にある大黒天の丸彫像が迎えてくれる。石段を途中まで登って左側にある品川富士参拝の道を進むと、直ぐに猿田彦神社の石祠があり、前に「猿田彦神社」の文字の円形の石に記されている。
 入口にある鳥居は2本の柱に上り龍と下り龍が巻きついた見事なものである。境内には一石の円形の中に刻まれた七福神像がみられる。先刻もふれた品川富士は、丸嘉講が明治2年の造った富士塚である。毎年7月1日には山開きが行われている。
 この神社を最後に途中の渋谷で買物をして帰宅する。午後1時頃と善福寺を訪ねた頃に小雨に見舞われたが、前日の午後からの雨に比べれば1日延期した甲斐があった。
13  芝増上寺周辺

 平成16年3月31日(水曜日)は石佛ウォークの第13回目、コースは港区内の「芝増上寺周辺」である。例により青梅駅午前8時10分発の直通電車に乗る。神田駅乗換で新橋駅下車、コース前に番外2か所を廻る。最初は愛宕・愛宕神社である。〔番外〕 愛宕神社の庚申塔(港区愛宕1−5−3)
 裏手の坂から境内に入り、一巡したが庚申塔が見当たらない。もしかしてと石段を下りて女坂を廻って境内へ戻り、もう一廻りしたが次の塔がみつからない。
   (1) 天保10 自然石 「庚 申」               (計測なし)
 昭和54年9月9日に行われた庚申懇話会の見学会では、鏡照院(身代不動 旧所在地愛宕1−6)の移転に伴って現在は失われた次の(2)と共に(1)をみている。
   (2) 昭和35 自然石 「庚 申」               (計測なし)
 諦めて次の八幡神社へ向かう。〔番外〕 八幡神社の庚申塔(港区虎の門5−10)
 境内の木祠には表に「庚申社」と記す木札がかかり、後ろの柱に一方に「御修理記/平成四年四月/八幡町/翁壽司/齊藤よし」の木札、他方に「奉納/平成十二年九月庚申社屋根修復工事/遠田俊幸/西山盛重」の金属製の札がみられる。木祠の中央に次の庚申塔が安置されている。
   1 寛文9(笠付型)日月「…庚申…」三猿(明治10年銘)    93×38×38
 2は笠部が失われた塔で、下部の一部がセメントで補修されているので銘文が読み取れない箇所がある。上方中央に「奉」、日月の間に「待庚申」と「供養」の銘がある。塔の中央部分には「寛文九稔/厥以拂悪鬼除禍罪依庚申/威力也□諸善男子等/明治十年八月 菊地幸太郎再/庚申依定者宿勵精□/二世安樂志諸経季月建/然者諸施主爲現當願□/己寅三月吉日 慧」と刻まれている。下部に正向型三猿(像高15センチ)が浮彫りされる。右側面に「□□國□□郡□□□兵衛」など5人の国名・郡名・氏名を、左側面に「下野國真壁郡□□次郎右衛門」など6人を記す。
 寛文9年は「己酉」年であるが、塔では誤って「己寅」とある。勿論「明治十年八月 菊地幸太郎再」は後刻で、特に「菊地」以下は塔面を彫り下げたような不自然さがみられる。最後の「再」の後に「建」と続くと思われるが補修のでセメントでわからない。
 ここから本のコースに戻って芝大神宮から始めようと思ったが、飯倉の交差点から近い金地院を訪ね、以後、ほほ逆順にコースを廻る。(15) 金池院(港区芝公園3−5−4)
 墓地には大名家の五輪塔がみられるが省略して、入口にある木祠に安置された閻魔を格子越しにみて次の如意輪観音堂へ向かう。途中で飯倉の交差点に戻って大回りし、東麻布の数か寺を横目でみながら如意輪観音堂へ出る。(14) 如意輪観音堂(港区芝公園4−3)
 扉は閉まっていたが、鍵もなく簡単に開くので開けて如意輪観音に対面する。一手で思惟し、他手を膝に置く二手輪王座の大型丸彫像である。線香の煙で全体黒ずんでいるので、余計にセメントで補修された部分が目立って痛々しい。
 早めだったが観音堂下の公園で昼食を済ませ、午後は宝珠院から歩きはじめる。(13) 宝珠院(港区芝公園4−8)
 この寺では見るべき石佛がないので、堂内の弁才天をみて次の芝丸山古墳へ進む。(12) 芝丸山古墳(港区芝公園4)
 ここは港区教育委員会の説明板をみただけで、次の東照宮を訪ねる。(11) 東照宮(港区芝公園4)
 ここでは満開の桜を前景にして社殿を撮ったのみで増上寺に入り、経蔵に出る。(10) 経 蔵(港区芝公園4)
 ここも東京都教育委員会の説明板をみて、桜のバックにある経蔵を写す。(9) 仏足石(港区芝公園4)
 先ず隣にある大型の聖観音丸彫像をみてから、明治14年の佛足石の説明板を読む。佛足や周りの花の線彫りに散った桜の花びらがみられる。隣に「魚供養之碑」がある。
 ここから墓所へ向かう途中で、合掌丸彫立像の千躰地蔵をみる。赤い帽子をかぶり、赤の前掛けをつけている。多くの地蔵の横には 色鮮やかな風車が立っている。(8) 徳川将軍墓所(港区芝公園4)
 4月2日から8日までは墓所が特別公開される。僅かな差で3つ葵紋を10つけた門の内側はうかがえない。この墓所の前に次の石像が並んでいる。(7) 四菩薩像(港区芝公園4)
 普賢菩薩・地蔵菩薩・虚空蔵菩薩・文殊菩薩が並び、両端の普賢と文殊の2像が坐像で間の地蔵と虚空蔵は立像である。このコースを担当された遠藤和男さんが指摘されるように、説明板にある正嘉2年の作と信じがたい。江戸時代の造像ではなかろうか。
 先刻、前を通り過ぎたへ出る。(6) 安国殿(港区芝公園4)
 家康の法名「安国院殿」に因む建物で、家康念持佛の「黒本尊阿弥陀如来」を本尊に祀る。年に3回行われる祈願会に開帳される。
 安国殿から観音堂に進む。(5) 西向観音(港区芝公園4)
 西向観音の堂内には、聖観音の丸彫立像が安置されている。堂の横に石佛が2基並んでいる。1基は印相の部分が破損しているが、宝冠で法界定印を結ぶ胎蔵界の大日如来坐像である。他は宝冠をいただく立像で、両手を前に向けた印相をし、親指と人指指で輪を作る阿弥陀如来が結ぶ説法印とは異なる印相である。
 近くにある中央に「南無阿弥陀佛平等利益」と刻む板碑型塔をみて鐘楼堂に向かう。
 大梵鐘の鐘楼堂も外からみるだけで、桜を取り入れた鐘楼堂を写す。
 逆コースの順からいえば熊野神社であるが。逆に三解脱門を先にみる。(2) 三解脱門(港区芝公園4)
 楼内には釈迦三尊や十六羅漢などが安置されているそうで、外からはうかがえない。ここも門と桜を組み合わせて写真を撮るだけである。
 熊野神社は将軍墓所へ行く前にチラッとみていたが、改めて訪ねる。(3) 熊野神社(港区芝公園4)
 社殿は高さこそないが、銅板葺きの屋根に千木を置き、6本の鰹木をのせる。現在は工事中で参道の敷石当時も終わっていない。
 増上寺を出て大門通りを南に芝大神宮へ向かう。(1) 芝大神宮(港区芝大門1−13−5)
 境内に「五十貫余」と刻まれた力石があり、区教育委員会の説明板が立っている。神社の右側の前には、俵に乗って右手で打出の小槌を振り上げ、左手で背中に負う袋の端を持つ大黒天像を線彫りする「貯金塚」がある。像の上には「根気根/気/何事も/根気」實篤書が刻まれている。像の右下に「昭和三十一年九月/牧野司郎謹寫」とある。
 大神宮からコース最後の御成門を訪ねる。(16) 御成門(港区芝公園3)
 本来は裏門として作られたが、将軍の参詣に利用されたのでこの門の呼び名がある。これで本に出ているコースを終えて、後は番外の庚申塔を訪ねる。
 ここから二天門をみて港郷土資料室へ行く。〔番外〕 港郷土資料館の庚申塔(港区芝5−28−4)
 資料館は三田図書館と併設で4階にある。展示品をみたが次の庚申塔が見当たらないので、学芸員に訪ねると現在は別の場所に保管されているのではないか、との答えが返ってくる。残念ながら愛宕神社同様に空振りである。
   (3) 元禄4 光背型 地蔵「爲庚申供養立之」二猿       (計測なし)
 (3)は上部が欠けた光背型塔で、中央に輪後光の地蔵の立像を浮彫りする。像の右に「爲庚申供養立之」、左に「元禄四辛未年九月日 願主」、下部の二猿の間に「田川新兵衛」の銘を刻む。
 資料館から元麻布の氷川神社に向かう。〔番外〕 氷川神社の庚申塔(港区元麻布1−4−23)
境内の樹下に次の上部を欠失した次の庚申塔が、上半がない石塔と並んでいる。
   2 年不明 不 明 (上欠)青面金剛・三猿          37×34
 2の青面金剛像(像高10センチ)は上半身がないので、手の数や持物は不明である。下部に正向型三猿(像高17センチ)の浮彫りがみられるが、銘文は全くない。
 次いで広尾神社を訪ねる。〔番外〕 広尾神社の庚申塔(港区南麻布4−5−6)
 神社横の通りに面して木祠があり、中に次の庚申塔などが安置されている。
  参 元禄8 手洗鉢 「庚申供養一結衆現當二世爲安楽也」三猿 43×101×53
   3 年不明 笠付型 日月・青面金剛・三猿          111×37×39
   4 元禄3 笠付型 日月・青面金剛・三猿          123×46×45
  5 元禄9 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿       101×44×40
 参は3基の庚申塔の前に置かれた手洗鉢で、正面の中央に正向型三猿(像高21センチ)が浮彫りされている。右端に「庚申」、左端に「塔前 の銘が刻まれ、下部には「中田嘉」など17人の氏名がみられるが、名前の部分がセメント下に埋められて読めない。末尾に「道行拾」と、途中で銘文が地下となっている。右側面に「庚申供養一結衆/卍/現當二世爲安樂也」、左側面に「元禄八乙亥/卍/十一月二日」の銘文を彫る。
 3は右手の上下二手と持物の一部が破損しているが標準形の合掌六手像(像高37センチ)と思われ、下部に正向型三猿(像高11センチ)がある。右側面に「カ/汝等所行是菩薩道/漸々修覺悉地成佛/□□八兵衛(など4人の氏名)」、左側面に「ア/庚申供養一結衆/現當二世爲安樂也」と刻む。
 4は日月と瑞雲の間に「キャ」の種字があり、中央に標準形の合掌六手像(像高51センチ)、像の右上に「庚」、左上に「寶」、左下に「塔」、下部に正向型三猿(像高15センチ)がある。右側面中央に「キャカラバア 元禄三庚午天」、右に「汝等所行是菩薩道」、左に「漸漸修學悉地成佛」と下部に「中里五兵衛(等9人の氏名)」、左側面に「ア/庚申供養一結衆志/十月三日/現當二世爲安樂也」と下部に「山本久兵衛(等7人の氏名)、があり、続けて「同行十七人」とある。
 5は笠と接する上の部分に「キャ」の種字、中央に上方左手に蛇を執る剣人六手像(像高47センチ)が一鬼の上に立ち、像の右上に「庚」、右下に「申」、左上に「寶」、左下に「塔」と青面金剛の四方に1字ずつ記し、下部に正向型三猿(像高13センチ)がある。右側面に「汝等所行是菩薩道・元禄九丙子載/漸漸修學悉地成佛」、左側面に「庚申供養一結衆志/十一月七日/現當二世爲安樂也」の銘がみられる。
 祠には紫地の奉納幕が下げられている。尾上菊五郎紋は扇を上下に2本重ねているが、これと異なり2本横にずらして重ねた上の扇中央に丸に抱菊葉の紋を白抜きにしている。幕の端に「平成十六年二月吉日」の奉納の日付を白抜きしている。左の前柱に「奉納 宝前幕/寺嶋しのぶ殿/尾上菊之助殿」と記された紙札が貼られて、紋からみても2人が奉納したことがわかる。
 この後で高輪神社(港区高輪2−14−18)の貞享3年庚申塔をみようと考えていたが、4時を廻っていたので近くの営団日比谷線広尾駅から帰途につく。それにしても予定に入なかったが、郷土資料館から足を延ばして玉鳳寺(三田4−11)の延宝8年文字庚申に寄ってから氷川神社へ行ってもよかったかもしれない。
 今回の「芝増上寺周辺」のコースは、手抜きのせいもあって約1時間半ほどで終える。このコース自体は平坦であるが、意外に港区内、特に麻布地区はアップダウンがあり、その上に愛宕神社や八幡神社の石段の上り下りで疲れが出る。

14  中山道板橋宿界隈

 平成16年4月7日(水曜日)は石佛ウォークの第14回目、コースは「中山道板橋宿界隈」である。これまでと同様、常用の直通電車に乗る。新宿駅で埼京線に乗換えて板橋駅で下車、第1見学場所のお多福弁天へ向かう。(1) お多福弁天(板橋区板橋1−6)
 ビルの中に一角を設けて石祠が安置され、前に灯籠一対が置かれている。石祠の扉はセメントで固定されいて開かない。入口の「お多福弁天の由来」に「明治二十二年に造られた石の祠に弁天様だけがひっそりとまつられています」とあるから、石祠の中に弁天像がは入っているのだろう。
 下板橋通りを進むと桜並木が満開を過ぎて花びらが舞ってくる。中山道に出て交差点を渡って真っ直ぐにいけばよかったのにアーチの「板橋宿」に引かれて不動通り商店街に入る。コース順とは逆に先に観明寺を訪ねる。(3) 観明寺の寛文庚申塔(板橋区板橋3−25)
 入口にある「板橋宿今昔みちしるべ」をみてコースが逆だったのに気付いたが、ここまできたのだから木祠の中に安置された庚申塔だけでも先にみる。
   1 寛文1 笠付型 日月・青面金剛・二鬼・一鶏・一猿・二童子 124×49×39
 1は上部に幕があり、中央に二童子(像高17センチ)を従えた剣人六手像(像高45センチ)、下部に一鶏・一猿(像高11センチ)が向かい合わせに浮彫りされ、その下に「本願/豊田八兵衛(など6人の氏名)」が刻まれているが、現在は賽銭箱が邪魔して読めない。右側面に「□奉新造立正面金剛像一躰現當二世安樂所/干時寛文元点/辛丑八月吉日 敬白」、武州豊嶋郡板板橋結衆 本願/庚申供養文曰/汝等所行是菩薩道/漸々修学悉當成佛/願主/大阿者梨法印權大僧都慶海」の銘を刻む。文頭の□は梵字らしい。
 庚申塔だけみて今来た道を戻って東光寺へ向かう。(2) 東光寺の庚申塔(板橋区板橋4−13−8)
 境内へ入って左側に石佛が並んでいる中で高いのが次の庚申塔である。
   2 寛文2 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・一鶏・一猿・童子・薬叉 141×49×48
 2は1と異なり剣索六手像(像高41センチ)で、二童子(像高24センチ)の他に四薬叉(像高28〜36センチ)がみられ、御幣を担ぐ猿(像高17センチ)は中央で正面を向く。右側面に「三誉上人/本村/市右衛門/板橋本□/□□兵衛/同/喜右衛門」、左側面に「寛文二之天/壬寅/五月十二日/伊勢津/山田傳右衛門/同州 佐藤六兵衛/武州 作兵衛」とある。
 墓地の入口に青銅製のペット観音が祀られ、聖観音の前に兎・犬・リス・猫が見上げている。この寺から戻って再びを訪ねる。(3) 観明寺の寛文庚申塔(板橋区板橋3−25)
 境内に入って不動三尊や聖観音をみて、次の遍照寺へ向かう。(4) 遍照寺の馬頭観音(板橋区仲宿40−11)
 参道に沿って次の庚申塔2基があるが、前に柵があって入れない。
   3 宝永6 笠付型 日月「ウーン奉供養庚申講中為二世安楽也」三猿(計測なし)
   4 寛文8 光背型 日月「奉造立為庚申供養二世也」三猿・蓮華(計測なし)
 3は中央に「ウーン奉供養庚申講中為二世安楽也」、左右に多数の施主銘がみられ、下部に内向型三猿を浮彫りする。左側面に3段に「同權四郎」など7人の施主銘がみられ、裏面に「干時宝永六己丑七月吉祥日/第五世之住遍照寺良喜/右者大日堂造立之□也/謹言」とある。
 4は中央に「奉造立為庚申供養二世也」、右に「寛文八年戊申」、右に「十月吉日」、正向型三猿の下に「星野本四郎(等6人の氏名)」、底部に蓮華を浮彫りする。
 寺の奥には、大日や地蔵や矜羯羅童子・制〓迦童子などの石佛がある。横の路地を奥に進むとよくみえる。次に文殊院を訪ねる。(5) 文殊院の子の権現(板橋区仲宿28−5)
 境内の堂内には、上部に「子大権現」と記す僧形坐像を浮彫りした角柱が安置されている。中山道を横切って次の氷川神社に向かう。(6) 氷川神社の庚申塔(板橋区氷川町21)
   5 正徳2 笠付型 日月・青面金剛・三猿           70×31×21
   6 享保5 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        70×31×20
 5は合掌六手像(像高31センチ)の標準形、下部に正向型の三猿(像高10センチ)を陽刻する。右側面には「ウーン 奉造立庚申供養石像願主講中欽言」、左側面に「正徳二壬辰年霜月廾八日/武州豊嶋郡/下板橋町」の銘を刻む。
 6は5同様の合掌六手像(像高36センチ)、下部に正向型三猿(像高10センチ)がある。右側面に「奉供養青面金剛尊像一躰現當二世安樂処」、左側面に「享保五庚子天十一月吉日/板橋町之内講中/欽言」と彫る。
 境内に富士塚があり、「小御嶽/石尊/大権現」の角柱を安置する木祠がみられる。
 国道を渡って本町に入り、旧中山道の通りにある縁切榎に出る。(7) 縁切榎(板橋区本町18)
 「縁切榎」の交差点で普通ならわかりやすい場所にあるが、入口に交通安全のテントが張られていたので、うっかり見逃すところである。
 再び国道を渡って大和町に入り、日曜寺へ向かう途中でコース外の智清寺を訪ねる。〔番外〕 智清寺の庚申塔(板橋区大和町37)
 境内の左側に次の庚申塔が立っている。
   7 元禄3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿・蓮華  85×33×29
 7は標準形の合掌六手像(像高33センチ)、像の右に「造立庚申供養爲二世安樂也」、左に「時元禄三庚午天玄月十日」、正向型三猿(像高9センチ)の右に「信心施主」、左に「同行十二人」、下に「定釈院/大塚茂右衛門(等12人の氏名)」と記す。
 智清寺を出てその先にある日曜寺へ寄る。(8) 日曜寺の手水鉢(板橋区大和町42−1)
 寺の入口に「開運愛染明王」の石柱が立ち、境内の桜は満開である。本堂には明日の花祭りの準備が整い、花御堂の中に天上天下を指す誕生釈迦が祀られている。
 日曜寺先にある愛染児童遊園のベンチでで桜の花びらが散る中で昼食にする。午後は氷川神社から廻り始める。(9) 氷川神社の狛犬(板橋区双葉町43−1)
 神門を入って右側に8と9があり、10と11狛犬の後ろにある。
   8 元文3 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏        62×30
   9 延享1 柱状型 日月「ウーン 庚申供養塔」三猿        78×37×23
  10 安永5 駒 型 日月「庚申塔」              67×27×17
   11 宝永7 板駒型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        98×47
 8は剣人八手像(像高38センチ)、上方手に輪と矛、横中央手に矢と弓、下方手の両手に輪状の物を持つ。右側面に「元文三戊午十一月廾四日 市兵衛(など3人ずつ2段に6人の名前)、左側面は読み難いが「武州豊嶋郡/庚申講中/六兵衛(など2人ずつ2段に4人の名前)を記している。
 9は日月の間に「ウーン」種字、中央に「庚申供養塔」、右に「延享元甲子年 根村」、左に「十一月吉日 欽誌」、左側面に「講中/拾三人/二世安樂所」とある。台石正面に正向型三猿(像高15センチ)が浮彫りされる。
 10は中央に「庚申塔」、右側面に「安永五年申十一月」、左側面に「中山道板橋宿/上講中」の銘を刻む。
 11は標準形の合掌六手像(像高57センチ)、像の右に「庚申供養爲現當二世安樂之也」、左に「時寶永七庚寅年閏八月十日 施主(下板橋)」、下部に正向型三猿(像高13センチ)がみられる。左側面に「是より右祢りまミち」の道標銘を記す。
 ここからコースを外れて番外の清水稲荷神社へ向かう。〔番外〕 清水稲荷の庚申塔(板橋区宮本町54)
 境内の左側に次の2基が並んでいる。
   12 寛政6 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     92×36×20
   13 元禄13 笠付型 日月・青面金剛・三猿(道標銘)     108×42×38
 12は剣人六手像(像高53センチ)、下部に内向型三猿(像高11センチ)を浮彫りする。右側面に「願主 高橋文蔵(ら6人の氏名)/石工谷中/和泉屋市郎兵衛」、左側面に「寛政六甲寅年四月吉祥日/和泉多吉(等6人の氏名)」の銘がある。
 13は変則的な合掌六手像(像高58センチ)で上方手に矢と弓、下方手に索と剣を執る。下部に正向型三猿(像高17センチ)が並ぶ。右側面に「右大日みち/山野上武右衛門(等6人の氏名)」、左側面に「左祢里満道/元禄十三庚辰十月十五日/武州豊嶋郡前野村講中/建立之/山野上平右衛門(等6人の氏名)」と彫る。〔番外〕 泉町路傍の庚申塔(板橋区泉町19)
 次いで和泉町へ入って(1)の庚申塔を探すが、見当たらないので蓮沼町へ向かう。
   (1) 天保12 駒 型 「庚申塔」              (見当たらず)
 途中でメインカメラの裏蓋が故障してしたので、最後はコンパクトのサブカメラでカバーする。〔番外〕 蓮沼町路傍の庚申塔1(板橋区蓮沼町2−6)
 中山道から蓮沼町と清水町の境の道を奥へ進むと、左側に家の作りに凹みがあって中の庚申塔が道路に面している。前に花が置かれていて下部がみえない。
   14 宝暦2 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     91×37
 14は標準形の剣人六手像(像高55センチ)、像の右に「奉造立大青面金剛供養塔」、左に「寶暦二壬申歳十一月吉日」、下部に内向型三猿(像高14センチ)がある。右側面に「武州豊嶋郡」、左側面に「蓮沼村講中廾六人」と記す。〔番外〕 蓮沼町路傍の庚申塔2(板橋区蓮沼町1−18)
 さらにその先を進み、突き当たりの手前の丁字路角に次の2基がある。
  15 明治29 柱状型 日月「庚申塔」(道標銘)         66×31×25
   16 正徳2 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    115×46
 15は中央に「庚申塔」、その下に横書きで「下講中」とある。右側面に「北あかばね/南いたばし/道」の道標銘、左側面に「明治廾九申年/三月建之」の年銘がある。
 16は標準形の合掌六手(像高76センチ)、像の右に「奉安置庚申供養尊像一躯現當悉地成就攸」、左に「正徳二壬辰天八月吉祥日 願主武州蓮沼村/敬白 講中」、下部に正向型三猿(像高16センチ)がみられる。台石の正面に「講中/本橋權三郎(等15人の氏名)」の施主銘がある。両側面は埋まって読めない。
 中山道まで戻って志村方向へ進み、右側にある南蔵院を訪ねる。(10) 南蔵院の地蔵庚申(板橋区蓮沼48)
 生憎、参道に幕が掛かっていて左側にある次の庚申塔5基がみられない。幕の上から覗いて健在だけは確認する。右側にある湯殿三山供養塔は高いので、幕から上部をみせている。3基共に主尊の坐像の首が補修されている。
   (2) 寛文11 笠付型 日月「バン 奉供養庚申待結衆二世祈所」三猿(計測なし)
   (3) 延宝8 笠付型 青面金剛「奉供養庚申二世安楽所」三猿   (計測なし)
   (4) 文化9 柱状型 日月「庚申塔」              (計測なし)
   (5) 嘉永3 自然石 「庚申塔」三猿              (計測なし)
   (6) 年不明 笠付型 青面金剛・三猿(道標銘)         (計測なし)
 辛うじて本堂の前にある次の地蔵庚申のみが調べられる。
   17 承応2 丸 彫 地蔵「カ奉造立石地蔵一尊庚申待悉地成就」161×50
 17は蓮台と一石造りの丸彫の地蔵(像高138センチ)で、背面の右側に「カ奉造立石地蔵一尊庚申待悉地成就拾人」、その右に「武州蓮沼郷 敬白」、左に「承應二天巳二月吉日」の銘を刻んでいる。
 この寺の後で龍福寺(小豆沢4−16)や総泉寺(小豆沢3−7)、あわよくば延命寺(志村1−21)を予定していたが、カメラの故障があり、4時近くになったので都営地下鉄本蓮沼駅から山手線・中央線・青梅線経由で帰途につく。
あ と が き
      これまでは晴れや曇りの日がほとんどであったが、寒い日があり、途中で小雨にあった
     こともあった。1月7日に始まった石佛ウォークも板橋宿で14回を数え、ここに『東京
     石佛ウォーク』の3冊目ができた。
      本書に収録したのは渋谷・品川・目黒・港・板橋の5区である。港と板橋では桜の季節
     なので各所で桜に出会ったし、昼食の場所からの花見も可能であった。増上寺を廻った時
     には、天候にも恵まれて各所で桜が八分咲きから満開であった。板橋も好天で下板橋通り
     の桜並木を満喫した。
      回数を重ねればいろいろなハプニングにも見舞われる。桜に浮かれればかりはいられな
     い。板橋では途中からメインに使っている一眼レフが裏蓋の故障を起こし、最後はサブの
     コンパクトカメラでカバーしたものの、気付かなかった場所があって写真が充分に揃わな
     い。こうした不測の事故も考慮にいれておかないと、対処の方法が手遅れになる。
      また板橋を例にとれば、大和町の日曜寺では本堂前の桜が満開で翌日の花祭りに備えて
     花御堂に誕生釈迦佛が安置されていた。その写真も裏蓋の故障で光線引きである。最後の
     蓮沼町の南蔵院では、参道に幕が張られて別の場所にある地蔵庚申以外はみられず、僅か
     に幕の上から手を伸ばしてコンパクトカメラで写すだけであった。
      残すところは後5コース、東部の足立・荒川・葛飾・江戸川・江東の各区を廻るだけに
     なった。ハプニングにも出会うであろうし、思いがけない出来事に接する機会もあるだろ
     う。無事に『江戸・東京 石仏ウォーク』の全コースを廻り終えたい。
                               ・・・・・・・・・・・・・・
                               東京石佛ウォーク 3
                               発行日 平成16年4月15日
                               TXT 平成16年7月10日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 多摩野佛研究会
                               ・・・・・・・・・・・・・・
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