石川博司著    石仏談話室 雑記6  

目次 ●石仏談話室
         第138回石仏談話室  ○第139回石仏談話室   ○第140回石仏談話室  
       ○
第141回石仏談話室  ○第142回石仏談話室   ○第143回石仏談話室
       ○
第145回石仏談話室  ○第146回石仏談話室   ○第147回石仏談話室

    ●日本石仏協会行事
          相模原市内を廻る    ○日本石仏協会写真展
第138回石仏談話室

 平成17年2月5日(土曜日)は第138回の石仏談話室、今年最初である。会場は何時もの池袋・東京芸術劇場6階小会議室を使う。本日の講演は大野邦安さんの「石碑と文字」と田中英雄さんの「石祠型墓石と祠内仏」が話される。
 午後1時5分に野口進さんが開会、その後に坂口和子会長の挨拶がある。新潟の中越地震を受けた会員の状況や宮沢潤子・副会長の訃報が話される。続けて大野さんが竹寺の住職、田中さんと2人が常任理事であるという簡単な今回の講師紹介がある。
 大野さんは自己紹介なしに本田へ入ったが、会誌『日本の石仏』で「文字に親しむ実践編」を連載されている。今回の講演は「石碑と文字」である。
 事前に配付されたレジメはA4判2枚、1枚は「多胡碑」、他は「碑の形式」と「碑の部分名称」を記した「日本の三古碑の源流」である。
 先ず文字について話され、文字が木簡や竹簡に、さらに紙に記されるようになる。木簡にしろ紙にしろ焼かれて後世に残らないところから石が注目され、漢時代から石碑が建てられるようになる。
 次いで「碑の形式」に話題が移り、レジメに引用された田熊信之著の『古碑略説』より「刻石(刻字石造物)」を「状態」から「立石」と「摩崖」に2分し、それぞれ「石材」から「形式」に分類している。書道の関係者は「摩崖」を用いるが、石佛関係者は「磨」である。
 狭義の「碑」は「碑陽(表面)」に「題額(篆額」と「碑文」を刻み、台石がある3条件を備えたものをいう。1般に「文字碑」と呼んでいる主銘や年銘などを刻み、「題額」がないものは「碑」と区別して「碣」という。
 石碑は後漢時代に建碑の禁止令が出たために墓碑に移行している。日本において石碑が建つのは、主に朱子学や儒教の影響を受けて江戸時代からである。それ以前に石碑がないかといえば、多胡碑(群馬)・那須国造碑(栃木)・多賀城碑(宮城)の3古碑がみられる。
 漢字の流れ(書体)としては1902年に発見された甲骨文字は別格で、大きく篆書体〜隷書体(漢時代)〜楷書体(唐時代)〜行書や草書である。清時代に編纂された『康煕字典』は『諸橋大漢和辞典』に影響を与えているが、現在「異体字」と呼ばれている字を中国では「別字」としている。
 2時過ぎて一応の解説が終わり、時間があるので坂口さんの希望があって、レジメにある「多胡碑」の解読をする。2時20分に大野さんの話が終わる。
 続いて青木安勝さんから会誌『日本の石仏』第112号に掲載されている「群馬・吾妻川流域の石仏めぐり」1泊見学会の誘いがある。
20分間の休憩があって、2時45分から田中英雄さんの「石祠型墓石と祠内仏」が始まる。田中さんが『日本の石仏』第111号の石祠特集に発表された同題の延長線上にある講演である。
 先ず「石祠」は地方により呼び名が異なる点から話が始まる。墓地にある石祠は山形の「万年塔」、群馬の「石堂」、茨城の「宝殿」、神奈川の「かろうと」、長野や岡山の「らんとう」と名称が様々である。
 また石祠内部に祀られている石佛も石祠同様に呼び名が異なる。私は「中尊」と称しているが、「祠内尊」「祠内像」「祠内仏」「先祖」と色々である。田中さんは墓地にある石祠の墓石を「石祠型墓石」とし、石祠内の石佛を「祠内仏」とした。田中さんが「石祠型墓石」の名称を用いたのは『日本石仏図典』の「石祠」の中に庚申塔・牛頭天王・道祖神、『続日本石仏図典』に金比羅や四十九院塔があるからである。
 現在、石祠型墓石は墓地の整理に伴い、祠内仏のないものが多く、各地に残る個人墓地の中に祠内仏がみられろ程度であるという。
 簡単に一般的な説明をした後でモニター画面を使って各地の石祠や祠内仏の写真が映写される。大部分がほとんど会誌に発表された写真である。それぞれの場面で解説がある。例えば群馬県安中の祠内仏は吊り上がった眼をしており、長野県千曲市の像と共通する指摘があったり、群馬県黒保根村の墓地にある戒名を刻む2体佛を通して、板碑と板碑型をつなぐ時期に石祠型墓石がみられるとしている。
 会誌に発表された論考は「はじめに」「石祠型墓石と祠内仏」「石祠型墓石の分布・形式」「黒保根村に見る石祠造立」「四十九院塔建立の背景」「祠内仏の特徴」「祠内仏から2体仏」「2体仏から双体道祖神へ」「おわりに」の構成になっている。今回の講演もその線の沿って進められている。
 4時15分に話が終わってから質疑応答となる。先ず内山さんが宝筐印塔に室部の有無を尋ねると、ないと答えが返ってくる。続いて遠藤和男さん、再び内山さん、森さんと質問が続き、私が墓石か祠内仏の何れに年銘が刻まれていのか問うと、石祠にあるという。直江清久さんの2体仏についてや会田秀介さんの新潟の十二様が墓地の中にある指摘、坂口和子さんの2体仏の手の形の質問があって4時35分に講演と質疑を終える。
 今回初めて出席された3人の自己紹介があり、坂口さん2月11日の総会出席の勧誘があり、野口進さんから3月・4月・5月は定例の第1土曜日に会場が確保された旨の報告があって散会する。
第139回石仏談話室

 平成17年3月5日(土曜日)は第139回の石仏談話室、会場は前回と同じ池袋・東京芸術劇場6階小会議室である。通常は2人の講師であるが、今回は嘉津山清さんのみの講師1人、講演では「収集多幸腕」を前半と後半にわけて話される。
 今回から野口進さんに代わり遠藤和男さんが司会を勤め、午後1時16分に開会、坂口和子会長の挨拶から始まる。その中で講師の嘉津山さんを石佛の研究家であると同時にコレクターであり、鉄道マニア、講談師と紹介する。
 19分から嘉津山さんが登壇し、学生時代から全国の庭園を廻って調査され、その関係で庭石や灯籠、さらに石佛と調査の範囲が拡がった。収集も多方面に及んでいるモニターを使って書斎の本棚や本を映写する。
 事前に配付されたレジメは「資料の分類と整理について」の表題、A4判3枚である。話は白板に仏教学・考古学・歴史学を示す3つの円の1部分重ねてを描き、それらの3円が重なる場所が仏教考古学であり、2つ重なる場所が歴史考古学とする。考古学は遺物を、歴史学は文献を取り扱う。この図はレジメでは最後に載っている 従って石造物の調査には仏教学・考古学・歴史学の知識が必要とされる。
 次に資料は元として使用する材料、調査は研究のために資料を収集する事と説明し、資料をA自分以外の人が作成したもの・B自分自身で作成したもの・C以上の中間のもの、の3分類を行う。Aの資料に基礎資料・入門書類・専門書・文化財の紹介などが含まれ、Bは実測資料・拓本類・調査年表・各種作成ノート・写真・メモ類を挙げている。Cは各種のコピー・プリントアウト・切り抜き・メモなどを書き加えた地図類が該当する。つまりAの資料に自分の入力を加えたものといえよう。
 資料は整理・分類・保存して使用可能にしておくことが望ましく、それが出来ていないと価値がなくなる。整理・分類・保存の仕事は大変な困難である、と話す。嘉津山さんにいわれるまでもなく、この一連の仕事には常々苦労している。
 石造物を研究する上で暦、特に旧暦の知識が不可欠であり、藩史の必要性にふれる。また『兵庫史学』『国学院雑誌』『月刊文化財』『自然と文化』『近畿民俗』『国東半島の文化』などの持参された雑誌類、コピーを含む各種の抜刷りを紹介する。そして書くことが勉強になる勧める。
 レジメの2枚目は各種資料の整理方法が記されている。例えば書籍は同質の本をまとめて並べ、蔵書一覧の作成を勧め、著者別・内容別・題名別のインデックス、本によっては索引の作成や付箋をつけるようにする。
 主要遺品の目録を都道府県別に作成し、五輪塔・石灯籠・庚申塔などの項目別に分類したものも必要である。これに参考文献を注記するとよいと薦めている。現在はパソコンによるデーターベース化が計れる。
 拓本類は封筒に入れて箪笥に整理する。フィルムは密着付きのネガアルバムに入れて整理しているが、50音別や分類別索引を作って管理する。実物見本として持参されたのは箸袋を35ミリのネガシートに入れ、ファミレス・デパート食堂・駅弁別などに分類・保管している。神社や寺院の拝観券、あるいは鉄道切符などをファイルに整理された実物を展示する。
 最後に整理の秘訣を8項目挙げている。先延ばしせずに早く、1時に多くを処理し、継続して資料の収集と追加を計ることに尽きるようである。ITの活用でワードとか、エクセル・一太郎のソフトが話題にのぼる。
 写真は部分を撮って数多く集めることで資料となり、例えば格狭間を記年銘の順に並べることで時代別の変化がわかる。この実例を雑誌の写真から示したが、現在連載している『日本の石仏』第112号の「石灯籠入門22」に竿石の写真が6葉載っている。
 最後に基礎的な知識の1例として、寺院の名称の「龍」や「院」「庵」の文字がどこに入るかで読みが異なる点や「鬼宿日」「黒日」「時正」などにふれる。
 2時45分に前半の講演を終え、30分の休憩時間となる。その間に持参された各種の寺社の絵馬を拝見する。プリント製の絵馬が多いが、中には焼き印が押されたものがみられる。いずれも綺麗なままで保管されている。
 休憩後は3時10分から講演を再開、後半はスクリーンを使って庭園のスライド映写である。全国各地にある上古から始まり大正までの庭園から国指定を中心に選んだスライドで、いながらにして京都・奈良・山梨・岡山・山形・滋賀など各県に及ぶ。中には現在では拝見できない千家の茶室の庭などが含まれている。
 新聞社の紹介状が力になり、学生時代には庭園をかなり自由に拝見できたという。
 4時に講演を終わり、質問を受ける。最初は遠藤和男さんが「枯山水」を尋ねると、以前に滝や池あって涸れた「涸散水」と始めから水のない「枯山水」とがある、という。先の話の中でITにふれたので、次いで酒井保さんがデジカメの動向と今後の活用を聞く。プリントなしや増感の面で有利であるし、データーベース化が計れる点を買っている。2人の質問があって4時23分に講演と質疑を終える。
 最後は栗原栄子さんから3月13日(日曜日)に行われる「甲州街道・調布の石佛」の連絡があり、4時25分に散会する。
第140回石仏談話室

 平成17年4月2日(土曜日)は第140回の石仏談話室、会場は通常の池袋・東京芸術劇場6階小会議室である。前回は嘉津山清さんの講師1人で「収集多幸腕」あったが、今回は通常通り2人制に戻る。本日の講演は、酒井孝祐さんの「アンコール遺跡と廃仏について」と遠藤和男さんの「木曽路の石仏報告」が話される。『日本の石仏』第112号の予告とは、都合で講演順が逆になる。
 午後1時10分に遠藤和男さんの司会で、協会の副会長で国際派という簡単な講師紹介で開会、直ちに酒井さんの講演が始まる。レジメの配付はないが、パソコンの制御でBVDをモニター画面に写す一方、写真をパネルに貼って視覚的な配慮がある。
 今回の講演は昨年12月に行なわれた海外石仏研修の報告で、すでに最新号の機関誌第113号に宮谷俊雄さんと山村厚子さん報告の「カンボジア・アンコール遺跡群」が載っている。先ずモニター画面を使い、バックミュージックを流して水源遺跡プノン・クーレンから始まる。川の底にリンガやヨニが無数に彫られ、川の名は「千のリンガの川」を意味する「スッン・ルンム・ムイポアン」という。
 次いで金色に塗られた巨大な寝釈迦(総長4・5m)、足先の具合から通常とは逆向きと酒井さんは指摘する。また足先にズレがあるのは、死後間もない頃を表しているともいう。石切り場跡の状況から判断、角石を切り出し、積み上げ上げてから彫刻していると解説する。ベンメリアは保存修復が行なわれていないので、密林に覆われている場所も多く、崩れたままになって回廊がみられる。
 バンテアイ・チュマールでは、十一面千手観音、宮廷生活や戦闘場面の壁面彫刻が次々とモニター画面に写し出される。アンコール・トムはポピュラーなので説明を省略し、4面塔の大きな顔を写し出し、観自在天である説明がある。アンコール・ワットはポピュラーなので、短時間に済ますが、猿の兄弟喧嘩の壁面彫刻が興味をひく。
 上智大学アンコール研究所では、バンテアイ・クディで発見された頭部と胴体が一致しない石像を見学する。これらの像は274体にも及び、地下2mに埋められていた、という。廃佛のためと説明されている。
 一応の石仏研修旅行の説明を終わってから、酒井さんの持論が展開される。1つは観音菩薩の翻訳の問題で、「観自在天」が適切と主張する。他には「廃佛」の点で、石佛が埋まっていた場所が特定され、発掘されたことと石佛の盗掘販売(故買)の面から推測されて盗人が埋めた説を挙げている。面白い推論の展開である。
 講演後に梶川賢2さんなどの質問があり、私も模刻の石佛の販売価格を尋ねたが、現地で値段を聞かなかったという答えが返ってきた。以前、酒井さんが外国で石佛を買った時に値切って空港までの運賃を含めて500ドル、関税や国内運賃が同額かかったそうである。2時43分に講演を終える。
 2時44分から坂口和子会長の挨拶があり、その中で本のリサイクルの勧めがある。続いて今回初めて参加された中谷さん夫妻と若い女性の中沢さんの3人が自己紹介する。これで前半が終わり、約30分間の休憩がある。この間にコーヒーを飲みながら、小泉さんと現代作の道祖神談義をする。
 現代作の道祖神が多いという話から始まり、戦後、岡崎で双体道祖神を多量に作っていたが、現在は工賃の関係で中国の製作になっている、という。次いで石屋さんで正札を付けているか、に話が及ぶと、多くの石屋では相対で値段を決めており、正札をつけるような事はない、と答えが返ってくる。何故、正札の話題になったというと、正札付きの双体道祖神をみたからである。
 先月27日(日)の多摩石仏の会で伊勢原を廻った時に、秋山石材前に双体道祖神5基が並び、何れにも値札が付いていた。最低が6万4千円、中値の3基が9万6千円、最高が18万円と3種である。この事実があったので質問したわけである。
 3時15分から再開、梶川賢2さんが講師の遠藤和男さんを簡単に紹介、直ちに講演が始まる。いつもはスライド投影を遠藤さんが担当されているので、ピンチヒッターと高木6男が当たる。
 遠藤さんの演題は「木曽路の石仏 木曽楢川村から美濃中津川まで」、事前にA4判3枚のレジメが配付されている。これは楯英雄さんの案内に新井るい子さん・早川孝正さん・渡辺浩一さんの3人がアシストし、昨年10月23・24日に行なわれた1泊研修の報告である。昨年の冬号には、第1日目の西岡宣夫さんと第2日目野西村俊郎さんの2人の合作で講演と同題で発表している。
 見学コースは中央線塩尻駅に集合し、バスで見学して途中の上松の町営ねざめホテルに1泊、2日目もバス見学で中津川駅までである。モニター画面に写真を写しての説明で、70枚近い写真が次々に映写される。
 1日目は表題にある楢川村は贄川宿も奈良井宿を省略、ただ村内にある「是より南 木曽路」の石碑だけみて日義村・林昌寺の守屋貞治作の地蔵、双体道祖神、合掌地蔵から本格的な見学が始まる。次いで木曽福島町へ入って昼食をとり、長福寺と興禅寺を経て黒川郷の道祖神巡りを行なう。
 最初は上志水の享和2年双体道祖神、肩組み手握りの男神が神官風、女神が髪を靡かせている。次に東山観音堂ある3十3所観音は石造で、彩色がされている。樽沢・万延元年の双体道祖神は男神が頭巾をかぶる。橋詰の双体像は猿田彦と宇受売か、男神が榊を持つと遠藤さんの説明があるが、違うように思う。
 白山神社には安政4年の蠶玉坐像があり、桑と絹布を執る2mを越す大型石佛である。清博士に阿倍清明の墓や男神頭巾の双体道祖神があり、柴原の双体道祖神の少し首を傾げた女神は男神を見上げる顔の表情が1風変わっている。中谷の蚕影山三尊は蚕を「神」と「虫」の合字で示し、下に二尊を従えるが、2尊が何の像であろうか。上松町で桟の慶安の石垣をみてホテルにつく。
 2日目は名勝の「寝覚めの床」を望む風景だけに止め、大桑村に入って「除三尸之罪」を主銘とする庚申塔から石佛見学が始まる。続いて和村の天保12年「椎州垣大明神」、村内の長野善光寺堂にある善光寺三尊は臼の上に立つ珍しい形式で、この周辺には同様のものがみられるそうである。この三尊の下に笏を執る2佛(神かも)の坐像がみられるが、何の像か不明だという。池口寺では腹前で絵馬を持つ地蔵立像が珍しく、薬師堂に厨子に彩色の青面金剛が納められている。剣人6手像と思われる。日月・1鬼・2鶏・3猿はない。野尻・妙覚寺のマリア漢音と呼ばれるものは、戟を十字架と誤認しての呼称であろう。
 馬籠宿で自由散策、昼食後に石佛をみて中津川に入る。小野の地蔵堂石佛群の中には7観音や元禄の念佛講地蔵などがあり、他に「血場神天王」や胸を抑えるような如意輪観音が珍しい。駒場・こでのき坂石佛群にある珍しい双頭一身道祖神や「血場神天王」を見学し、中津川駅で解散している。
 4時25分に話が終わってから質疑応答となる。梶川賢2さんが延命地蔵について、次いで私が1瞬螺髪にみえてた像を正すと、映写と手渡された写真でそれが私の見誤りであるのがわかる。その後に女性が六字名号塔、内山さんが質問する。4時30分に講演と質疑応答を終える。
 遠藤さんが司会に戻り、次回5月7日の講師が梶川賢2さんと坂口大和さんと予告し、梶川さんから1言次回の話に言及する。最後に多摩石仏の会の写真展の連絡で終わる。
第141回石仏談話室

 平成17年5月7日(土曜日)は第141回の石仏談話室、会場は通常の池袋・東京芸術劇場6階小会議室である。本日の講演は、梶川賢2さんの「平塚と周辺地域の庚申塔」と坂口大和さんの「坊主が観た┌石仏┌あれこれ」が話される。
 定刻より遅れて午後1時17分に遠藤和男さんの司会で開会、18分に坂口会長の挨拶後、野口進さんのから協会の理事で平塚市立博物館の運営医院、石仏を調べる会を主宰と講師を紹介する。
 事前に付表を含むA4判7枚のレジメが配付される。レジメは1頁、付表は「市町村別庚申塔建立数」1頁・「平塚石仏─庚申塔年代別(和暦)細目」3頁・「大曲型・龍前院型 市町村別建立数」1頁・「大曲型・龍前院型庚申塔銘文」1頁から成る。
 先ず清水長輝さんの『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊 昭和63再刊)の「庚申塔の変遷」(9頁)から庚申塔の時代区分にふれる。梶川さんは第1期は室町時代・第2期は元和〜延宝・第3期は貞享〜天明の3期を挙げ、第4期の寛政以降には言及しなかった。この時代区分の傾向は関東地方のおおまかな基準にはながるが、清水さんが以上の分類は自然に移りかわっている流れを、むりに仕切ったもので、時代おきに画然と変わっていったものでないとはもちろんである。(9頁)というのは当然のことである。さらに言えばこの時代区分は東京を中心としたもので、地域を区切った場合にはズレがみられる。この点に関しては『国立の石造物を読む』(多摩石佛研究会 平成12年刊)の中で次のように書いた。
    東京を中心とした庚申塔の変遷は、次の4期に区分できる(清水長輝『庚申塔の研究』大日
   洞 昭和34年刊)。
      ┏━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┓
      ┃区 分┃ 期     間 ┃特徴         ┃
      ┣━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━┯━━━━┫
      ┃第1期┃室町〜安土桃山時代┃板碑時代  │初発期 ┃
      ┠───╂─────────╂──────┼────┨
      ┃第2期┃元和〜延宝年間  ┃初期時代  │混乱時代┃
      ┠───╂─────────╂──────┼────┨
      ┃第3期┃天和〜天明年間  ┃青面金剛時代│最盛期 ┃
      ┠───╂─────────╂──────┼────┨
      ┃第4期┃寛政年間以降   ┃文字塔時代 │末  期┃
      ┗━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━┷━━━━┛
    多摩地方でも造塔の年代に多少のズレがあるが、同じような傾向がみられる。 8王子市内
   の場合は、で第1期(庚申板碑時代)を室町末期から安土桃山時代とし、第2期(主尊乱立時
   代)を寛永年間(1624〜44)から宝永年間(1704〜11)まで、第3期(青面金剛
   時代)を正徳年間(1711〜16)以降寛政年間(1789〜1801)まで、第4期(文
   字塔時代)を享和年間(1801〜4)以降現代までと時代区分した(『8王子庚申塔略史』
    庚申資料刊行会 昭和年43刊)。
    青梅市内の場合には中世の第1期を「無塔時代」、寛文(1661〜73)〜延宝年間(1
   673〜81)の第2期を「初期時代」あるいは「混乱時代」、元禄(1688〜1704)
   から明和年間(1764〜72)の第3期を「青面金剛時代」あるいは「最盛期」、寛政(1
   789〜1801)から明治(1868〜1912)にかけての第4期を「文字塔時代」と特
   徴づけて区分できる(『増補改定 青梅市史』 平成7年刊)。
    先の一覧表で国立市内の庚申塔を造塔年代順に見ると、市内では第1期の「板碑時代」と第
   2期の「初期時代」(「混乱時代」)には造塔がみられず、第3期の最盛期の青面金剛時代の
   みに集中しており、末期の第4期の「文字塔時代」にも塔が建てられていない。この辺に国立
   、と言うより谷保村の庚申塔の特徴がある。
 平塚の庚申塔を扱う場合は、平塚に則した時代区分を考えたらよいと思う。付表から判断すると、第1期は青梅同様の「無塔時代」、第2期は明暦〜天和の「初期時代」、第3期は貞享〜元文の「青面金剛時代」、第4期は寛保以降の「文字塔時代」と特徴づけてみたら、と考える。
 時代区分の説明があったが、青面金剛などに余りふれてない。「平塚石仏─庚申塔年代別(和暦)細目」・からみると、青面金剛の刻像塔は庚申塔全体178基に比して52基と29・2%と3割に満たない。その中で4手像が明暦〜享保間に7基、かなり飛んで大正に1基、年不明が1基の計9基が他地に比して高い。
 一方では6手の青面金剛像は37基中の比率は合掌6手像が27基(72.9%)、剣人6手像が3基(8.1%)、その他の像7基(18.9%)となる。造立年を見ると合掌6手像は延宝〜寛政、剣人6手像は弘化〜大正、他の6手像は元禄〜宝暦の間に建立され、合掌6手と剣人6手は造立年が重ならず、ハッキリと異なる年代の造立である。年不明の合掌6手像の年代推定の資料になる。
 「平塚石仏─庚申塔年代別(和暦)細目」・については・に比べると説明がある。山王系庚申塔が6基あり、その内の3基が二十一佛種子であるという。山王といえば天台の影響を考えるが、梶川さんが『相模新編風土記』を使い、寺院の宗派を分析すると天台宗が20寺、真言宗が19寺、曹洞宗14寺など、天台寺院が特別多いわけではない。
 梶川さんは庚申縁日に関して分析を行い、庚申年が9基、庚申日が20基、吉祥日等の銘の中で庚申日を含む月が62基ある。このことから庚申年造立の塔の少なさに気付いている。これについては先に挙げた『国立の石造物を読む』の中で
    庚申信仰は、本来、庚申日に行われる民間信仰であるが、庚申年にまで及んで庚申年に造塔
   する所がみられるようになった。最も新しい庚申年は、昭和五十五年である。この年には、長
   野を始め新潟や栃木など全国の各地で庚申塔が876基(平成8年1月20日現在の集計)も
   建てられ、長野・新潟・栃木の上位3県で89.1%を占めている。すでに甲府市などの集計
   洩れが報告されているから、こうしたものを含めて考えると、庚申年の昭和五十五年に全国で
   約1000基の庚申塔が造立されたと推定される。と指摘したが、庚申年造立の庚申塔が多い長野の調査が早くから知られていたために、庚申塔は庚申年に建てられたいう誤解を生んでいる。
 「平塚石仏─庚申塔年代別(和暦)細目」・の中で興味があるのは、天保の「備考」に「唐傘無尽の庚申塔」である。これについては詳しい説明がなかったのが残念である。
 庚申塔に刻まれた道標の分析では「大山道標」が11基と多く、その1基がモニター画面に写される。享和2年の自然石文字塔で、中央に主銘の「庚申塔」、右に「右大山」、左に「左痢病神」の道標銘が刻まれている。大山よりも「左痢病神」が気になる。
 2時24分から庚申塔のスライドがスクリーンに投射される。主に平塚市内の塔であるが、付表の「大曲型・龍前院型 市町村別建立数」からもうかがえるように、周辺の茅ヶ崎や寒川などに及んでいる。大曲型や龍前院型の塔だけでなく、平塚市内の塔は興味深い塔が存在する。平塚の塔を廻るのも面白そうである。
 梶川さんはA平塚の庚申塔の変遷や庚申塔の分析、B大曲型と龍前院型、C平塚市内の庚申塔を紹介するの3点と欲張り過ぎている。そのために時間が足らず、それぞれが舌足らずになったのが残念である。次回は目的を絞って登場されることを期待する。2時43分に講演を終える。
 2時47分に梶川さんの講演が終わり、今回初参加の馬場さんが紹介される。次いで青木安勝さんさんから1泊見学会、栗原栄子さんから相模原見学会の連絡がある。
 2時50分から3時15分まで休憩、再開後に遠藤和男さんから次の講師・坂口大和さんが会長の息子で曹洞宗の僧侶という紹介がある。配付されたレジメに駒澤大卒・永平寺で修行・布教や教化などが記されているプロフィールが載っている。
 レジメに「わかりやすい語り口」とある通り、ブッダの音写や音訳から「ブツ」や「ホトケ」の説明、話は「生老病死」の四苦や「神」にふれ、神佛習合に及ぶ。そこから役の小角へ話が進み、1神教・国家神道・御師・先達へ飛ぶ。
 日本人に多神教が受け入れいる1つの例として、比叡山の根本中堂の2本の竹の話がでる。1本の竹には日吉神山王7社、他の竹には日本全国2123社が祀られている。こうした考えが神佛習合に及び、明治初期に廃佛毀釈が行われて不自然になる。
 最後の話は地蔵菩薩、釈迦が滅してから弥勒如来が出現するまでの56億7000万年の無佛の間に衆生の救済に活躍する。坂口さんは戦後に造られるようになった水子地蔵に疑問を持たれ、水子地蔵も子安地蔵に含まれるから、何も新たに水子地蔵を必要としないと考えれている。
 水子地蔵の出現には戦後の中絶と関係があり、中絶した水子を思う女性に対して脅迫的に迫った商業主義が背後に見え隠れする。秩父の水子地蔵の寺が代表例として挙げられたが、私も『石仏の旅東日本編』(雄山閣出版 昭和59年刊)でふれた。
 坂口さんのお話は4時43分に終わり、栗原さんから埼玉支部の見学会の連絡、遠藤さんから次回の石仏談話室の日取りと講師を予告して閉会する。
第142回石仏談話室

 平成17年6月4日(土曜日)は第142回の石仏談話室、会場はいつものの池袋・東京芸術劇場6階小会議室である。本日の講演は、野口進さんの「川越市握津地区の石仏」と小野沢充さんの「北条VS済州島(比較石仏学?)」である。
 通常よりも集まった人数が少ないが、定刻通り午後1時15分に遠藤和男さんの司会で始まる。開会の挨拶を兼ねて最初の講師・野口さんの講師紹介を行なう。野口さんは高校で数学を教え、後に校長になり、長年、埼玉支部長を勤めたかたと紹介がある。
 事前に地図や写真を含むA4判7枚のレジメが配付される。レジメは1頁〜3頁に握津についての事項と石佛事項を記し、4頁に図1「握津の位置図」、5頁に「刀禰古代水脈想定図」と「東京水脈略図」、6頁に昭和57年の洪水の写真2葉、7頁に宝筐印塔の銘文を掲げている。
 先ず地名・地形・水塚・荒川の渡しの順に握津の説明がある。握津は川越市古谷上の小字、現在は8戸であるが、来年中には全戸移転する予定であるという。荒川と入間川に面しているので、古来から水害に悩まされてきた。図1からも入間川と荒川の堤防の間に位置し、昭和57年の洪水の写真からも地形がうかがわれる。
 戦前は畑が川よりも低いために畑作であったが、戦後は地下水を汲み上げて水稲ができるようになった。水害の恐れがあるために、屋敷の周囲を掘り下げ、その土を利用して塚(水塚)を築き、塚の上に母屋や物置を造って水害に備えた。木製の船を持ち、物資の補給や連絡に用いている。
 握津と古谷上などとの交通は、平方の渡し・精進場の渡し・老袋の渡し・蔵根の渡しを利用していた。上流や下流に永久橋が建設された後は渡しは廃止された。これらの説明が終わり、さらにモニターに写真を映写して補足する。
 握津のスライドが済み、本題に石佛の話となる。握津公民館はかつてお堂であり、国土地理院の2万5千分の1図にも「卍」マークがついている。握津の石佛の殆どはここにある。野口さんが握津の石佛に興味を持ったのは、植物を調べている友人の薦めがあったのと、石佛に刻まれた銘文から洪水などの歴史が読み取れないか、が動機である。結論的には期待したほどの成果が挙がっていない。
 石佛の最初は公民館にある文化12年の宝筐印塔、銘文は資料5として7頁に記載されている。不明の箇所は墓塔で補っている。この塔には宝筐印陀羅尼経を現す「シチリヤ」の種子が刻まれており、モニター画面に種子が写される。「シチリヤ」といえば、咄嗟に清瀬市下清戸・長命寺の宝筐印塔が浮かんできた。
 次が文政3年の道標銘を刻む合掌坐像の馬頭観音、河川改修の時に現在地へ移転している。ここにある他の馬頭観音、3面の上部だけ残るものなどと共に映写される。
 3番目は宝暦4年の石燈籠竿石、これに「右者高麗郡箕輪地蔵尊所々勧化」の銘文がある。文中の「箕輪」は地名と考えられ、野口さんが高麗郡に「箕輪」の地名を調べたが、見当たらなかったという。
 次の寛政11年の如意輪観音の刻像塔は「善女人講中二十八人」の施主銘を刻むが、触れずに公民館入口ある天明3年の馬頭観音に移る。この塔は3面6手立像の馬頭観音を浮彫りし、4角柱の左右裏面の3面に道標銘がみられる。
 公民館から東へ100m離れた塚の上に寛延3年の庚申塔がある。光背型に6手青面金剛立像を浮彫りする塔、モニターに写されたのは逆光の写真で像容がはっきりしない。前の馬頭観音とこの青面金剛の銘文を比較すると、地名の変化がうかがわれる。古くは「古谷」が「古尾谷」と呼ばれていた。寛延3年塔には「古尾谷上村阿久津」、天明3年塔には「古谷上村新田」の地名である。この間に村名の表記が変わった推定される。
 最後に新河岸川に関係する地蔵尊が紹介される。『新編武蔵風土記稿』に「俗名澤田甚右衛門□初開此河岸□名」と記された寛文2年造立の地蔵立像を浮彫塔である。
 野口さんの講話は予定より早く2時10分に終わり、宝筐印塔に刻まれた種子「シチリヤ」が話題になる。必ずしも宝筐印塔にこの種子が彫られるわかではないから、多いとはいえない。宝筐印塔をみても種子に関心がないと、「シチリヤ」に気付かない。
 2時15分から30分の休憩があり、2時45分に再開されて坂口和子会長から夏季講座勧誘の挨拶を兼ねて講師の小野沢さんの講師紹介がある。小野沢さんは商社に勤務された方で、2年に1度写真の個展を開いている。過去には「田の神」を取り上げ、最新の個展では北条の石佛と済州島の石佛を対比している、という。
 野口さんと同様に、事前に「北条VS済州島(比較石仏学?)」のレジメA4版3頁が配付された。講師からも商社で運輸関係の仕事に従事し、済州島の石佛にふれた業界誌を読んだことがきっかけで済州島の石佛に興味を持ったと自己紹介がある。また3年前に「田のカンサア」の個展共に、今年の個展も問題提起として北条と済州島の石佛を取り上げている。
 本題は一般に「北条の五百羅漢」と知られている、兵庫県加西市北条町北条・羅漢寺の石佛は「本当に羅漢なのか」の疑問がある。北条の石佛は一般常識の五百羅漢とは乖離があり、特異な像容である。像容では容貌や胴体、腕や指の彫刻に特異性がみられる。
 こうした疑問を持っていたところに、港湾関係の業界誌を読んで、済州島にドルハルバンの示唆を受ける。また羅漢寺住職や加西市教育委員会の方に会い、『播磨郷土研究』の特集号(昭和41年刊)を知る。その号に収録された16編の論考からこの地方を支配した赤松氏の動向がわかる。
 レジメに沿って「戦国時代の播磨」は「対中央政府」と「対北条ローカル」にわけ、後者は「小谷城」と「赤松刑部少輔祐尚」の説明がある。北条石佛の100基の顔だけを5段4列に貼り合わせた写真4枚をみると、特異性が強調される。
 この石佛については「大勢は戦死者供養仏説」があり、寺の宗派から「禅宗との密接な関係」や「江戸時代の史料・文献」から「羅漢」の呼称が生じている。北条の石佛が五百羅漢かどうかと問われれば、否と答える。たまたま基数が5百羅漢に相当する数量であることが、五百羅漢の呼称に結びついたのではなかろうか。
 『播磨郷土研究』の三枝氏の論考では、北条の石佛は「漂流外人・帰化人造立説は瀬戸内海の山深い北条に当てはまるのは奇異」としている。今年5月17日(火曜日)付けの『日本経済新聞』の文化欄に異形石仏研究会の太田会長が書き、そこでは「顔の彫り深く異国人風、キリスト教禁止令同期、歴史のロマン」という。
 小野沢さんは済州島に平成15年10月の第1回目、2回目が昨16年4月と2回取材している。回覧された小野沢さん撮影の済州島石佛の写真が多量で、話を聞きながら写真をみるので気が削がれる。
 第1回目の取材はJTBを使い、現地の日本語ガイドを伴ってなされる。事前に門田春雄さんからドルハルバンの分布を聞き、日本語ガイドも調査しておいてくれたので、済州市内8か所21体・テジョン(大静)12体・ソンウプ(城邑)民俗村12体を撮っている。この取材で「手指は線彫りというよりはむしろ肉厚に盛り上がった半浮き彫り」に気付き、北条の石佛の彫法と違いを知る。
 第2回目はガイドに墓の調査を依頼したが、寺に墓がないのがわかる。済州島でみた石佛の中で北条の石佛に近いのは「略装スキンヘッド 酒器茶碗を持つ」童子石、土葬の墓の両端に同型の文人石・童子石・擬宝珠が向き合って立つ、とわかる。
 寺でみられる石佛は菩薩や仁王などである。廻ってきた写真の中に丸彫りの布袋がみられる。ドルハルバンなどの民俗的な色彩はなく、佛教的で像ある。
 ドルハルバンに似た石像はモンゴルにあるそうで、最近のテレビ番組「世界不思議発見」の中央アジア編で取り上げられたらしい。
 野口さん同様に早めに講話を終え、質問となったので、私が回覧された墓地の写真について質問した。墓地に数基並ぶ墓石は、墓塔の下に趺亀があり、上に龍を彫った笠部状の白い石が置かれている。こうした亀と龍がある墓は一般的かどうか尋ねると、門田さんからあるレベル以上の墓でみられると答えが返る。
 その後は梶川賢2さんや坂口和子さんなどから質問があり、門田さんのフォローがある。4時8分と早めの閉会となる。
第143回石仏談話室

 平成17年7月3日(土曜日)は第143回の石仏談話室、通常通り会場は池袋・東京芸術劇場6階小会議室である。本日の講演は蔵地心さんの1人舞台、演題は「デジカメによる石仏写真の楽しみ方 1」である。内容はデジタル石佛写真講座の上級編である。参考までに蔵地さんは『日本の石仏』第103号(平成14年刊)から第110号(平成16年刊)までの8回「デジカメによる石仏写真の楽しみ方」を連載され、前4回が「基礎編」、後4回が「実践編」である。
 器具の設定に時間が掛かったたもに、定刻より遅れて午後1時25分に遠藤和男さんの司会で開会、簡単に蔵地さんの紹介があり、講師の登壇となる。
 事前にA4判1枚のレジメが配付される。レジメには蔵地さんが手作りレンズで撮影されたカラー写真が開催されている。室内暗くして昨年撮影の「石仏の旅 関西編」のスライドショーからスタートする。京都や熊野古道、宮津などの石佛を撮影し、特に京都や宮津の地蔵盆や化野千灯火供養の光景が印象的である。バックに音楽が入り、自動的に画面が進行していく。これらの写真はCDに収録されている。
 今回の講座はパソコンのファイルに入力され、大型のスクリーンに映写される。知的財産権、特に画像の著作権に注意されている。また肖像権の問題があるので、撮影した方の了解をとるなどの配慮がうかがわれる。スライドショーのバックに流れた音楽については講演中にふれなかったので、休憩時間に質問したところ、利用できるバックミュージックを入手している、とのことであった。
 自己紹介まで大型スクリーンに投影され、蔵地さんが深川(江東区)の昭和19年生まれ、写真暦が35年前から8ミリ映画、13年前からスチール写真を始めているのがわかる。職歴などにふれ、「観音号」と名付けた自家用車で地球3周して日本全国の石佛を廻った、と口頭で説明がある。
 先ず「RAW 現像」や「ホワイトバランス」「焦点深度」「解像度」などの用語説明があり、続いて発明やダゲレオタイプの写真など世界写真の歴史と上野彦馬などの日本の写真の歴史、マグナムやロバート・キャパなどのアメリカの写真史に及ぶ。
 優れた写真や優れた石佛写真を論じ、若杉慧や佐藤宗太郎の名を挙げて石佛写真論について話す。蔵地さんの石佛を撮影する態度は、講演から感じられるのが「佛心」であり、「宗教的空間」と心情的な面が強い。
 前半の最後は四国遍路を扱った「花遍路 2004年春」のスライドショー、桜と石佛の組合わせた写真が多い。バックミュージック付きでスクリーンに映し出される。
 蔵地さんの講演前半が3時に終わり、30分の休憩時間に昨年撮影の「東京ノスタジア」が映写される。蔵地さんが石佛写真でけではない証明でもある。3時30分まで休憩後、講演が再開される。
 「ピクトブリッジ」についての説明がある。杉本康希さんが蔵地さんを写したデジカメを利用し、キャノンの小型プリンターに接続して写真を印刷する。パソコンを使わなくてもカメラをプリンターに接続して写真ができる。中々よい出来映えである。買うならカメラにしてもプリンターにしても「ピクト ブリッジ」対応のものがお薦めである。
 次いで「光と色」、カメラの発色とプリンターの発色に違いがあり、カメラのパラメメータの設定が必要になるという。カメラによっても差異がみられ、派手な発色をを狙うならペンタックスやキャノン、地味好みはライカやパナソニックを使うとよい。電池を食う中国製は避けた方がよい、互換性のあるメモリーの多いカードを買うなどのアドバイスがある。
 構図で石佛写真の善し悪しが決まるから、構図に注意を払って1発フレーミングで撮るのがよいと薦める。採光には斜光がよく、逆光もレフを利用するとか、露出にプラス調整が必要と解く。石佛写真に対する蔵地さんの好みは、手付き(手垢)ではなく、アングルも下から拝む位置で狙い、バックを空で抜く傾向がある。
 最後に「大町・白馬 残雪 2005年春」のスライドショーで終わる。
 蔵地さんは講演でズームレンズより単体レンズを愛用しているという。そこで器具を片付けている最中に常用レンズを尋ねたら、35ミリ・50ミリ・85ミリの答えが返ってくる。広角・標準・長焦点の3本で、妥当な選択である。
 講演後に連絡事項として3代川千恵子さんから次回「奥武蔵飯能の石佛」見学会、次いで青木安勝さんさんから1泊京都見学会、遠藤和男さんから次回石仏談話室日取りと講師予告があり、会場が第7小会議室に変更になる旨の連絡がある。最後は坂口和子さんから夏季講座参加と写真展出品の依頼があって4時31分に閉会する。〔追 記〕
 蔵地さんはホームページ「sekibutu 石仏」を主宰している。日本石仏協会のホームページに「リンク」があるから、そこからリンクするとよい。『日本の石仏』に連載された「デジカメによる石仏写真の楽しみ方」の「基礎編」と「実践編」が収録されているし、各地で撮影された写真がパソコンの画面を通してみられる。その中にはスライドショーで映写された京都や白馬などの写真が含まれている。
第145回石仏談話室

 平成17年10月1日(土曜日)は第145回石仏談話室、会場は通常の池袋・東京芸術劇場6階小会議室である。9月の前回は心ならずも欠席したので、今回は日取りに注意していた。本日の講演は、鳥澤隆憲さんの「延命地蔵菩薩経をよむ」と森正彦さんの「『群馬・吾妻川流域の石仏』見学報告」である。 午後1時10分に遠藤和男さんの司会で開会、12分に坂口和子会長が挨拶、同時に講師の鳥澤隆憲さんを紹介する。鳥澤さんは坂口さんの息子・大和さんと駒沢大学の同級生、現在は福井にある宝林庵の住職である。寺は曹洞宗、鶴見の大本山・総持寺の系統である。
 坂口さんの紹介が終わり、15分に鳥澤さんが登壇し、「延命地蔵菩薩経をよむ」の演題で話始める。事前にA3判3枚とA4判1枚にコピーされた大興善寺版の「佛説延命地蔵菩薩経」が配付され、テキストとして使う。
 先ず宗派と時代によってお経の読み方が違うことを提起する。今回テキストにした「佛説延命地蔵菩薩経」を例としても、真言宗系の大興善寺版なので「延命」を「えんみょう」のルビつきである。曹洞宗は「えんめい」の読みである。
 地蔵菩薩に関する主なお経には略称「本願経」の「地蔵菩薩功徳本願経」、略称「十王経」の「佛説地蔵菩薩発心十王経」があり、それに今回の対象になった「佛説延命地蔵菩薩経」がある。
 この「佛説延命地蔵菩薩経」は平安末期から鎌倉初期に成立したものと思われ、江戸時代に広く知られるようになった。大興善寺版に「不空3蔵奉詔譯」と記されているが、経文に「天狗土公大歳神」の記述があること、不空3蔵訳の記録がないことから「偽経」視される。
 経文の説明に入り、大興善寺版に「 羅陀山」のルビが「ろらだせん」、他にも「 」は「ケ」とも「カ」とも読むし、石佛では「 羅陀地蔵」「キャラダジゾウ」という。先の「延命」と同じで読み方に違いがみられる。
 経文の中に「観音経」の33変化身と同じように「佛」「菩薩」「梵王」などのように変身し、閻魔王の身を現じと同体をしめす箇所がみられる。経中にある「六道に遊化し衆生を度脱したまう」は目新しく、普通は「六道能化」である。
 延命地蔵の像容については「右の膝を曲げ 臂を立て 掌に耳を承け 左の膝を申べ下し 手に錫杖を持し」と経文にある。また掌善・掌悪の2童子にふれ、掌善童子は「白色白蓮華を持して法性を調御す」、掌悪童子は「赤色金剛杵を持して無明を降伏す」と記されている。
 モニター画面に 羅陀地蔵の石佛が2体写し出される。左手に宝珠を持つ坐像で、右手は思惟手である。経文に「如意輪と名け」とあるのが思惟手と結びつくのか。
 2時16分から総持寺版の「佛説延命地蔵菩薩経」を読経する。宗派の違いで読みや字句が異なる。平板な説明の時とは読み方に差異がみられ、読経独特の調子がある。
 最後に「放光菩薩」の解説。モニター画面に写されたのは鶴見・総持寺の山門に祀られた「放光菩薩」である。これは聖観音と地蔵菩薩の2尊併立像、能登の旧総持寺の山門にもあるという。
 2時40分に公演が終了し、今回初めて参加された朝霞の伊藤さんの自己紹介があり、続いて梶川賢2さんから、写真展が6時まで開催されているという長島誠さんの伝言を連絡する。3時10分まで休憩となる。
 休憩後は西岡宣夫が講師の森さんを紹介する。ホームページを主宰しているのは知っていたが、カメラのコレクターであるのは西岡さんの紹介で知る。続いて森さんの「『群馬・吾妻川流域の石仏』見学報告」が始まる。
 この見学会は今年5月14日と15日の両日、角田尚士さんの案内で行われた協会主催の1泊見学会である。『日本の石仏』第114号に14日を谷口正則さん、15日を橘禎男さんが報告を担当している。
 デジカメにモニター画面を接続し、次々と石佛をモニターに映し出す。事前に配られたレジメはA4版3枚、ぎっしりと見学された石佛が列記してある。コースの始まりは渋川市石原の諏訪神社下の双体道祖神、ここには百庚申がみられる。次の諏訪の木・細田観音堂では元禄5年と享保8年の青面金剛がある。
 渋川祠内では国指定重文の笠塔婆、4馬がいる馬頭石祠、真光寺の石佛、加藤家の天狗とオカメの双体道祖神、祖母島の蚕神を廻る。真光寺には元禄5年の笠付型文字塔、祖母島にあ合掌6手の青面金剛がみられる。
 午後は吾妻郡東村に入り、御園観音堂の双体道祖神をみて同郡中之条町を訪ね、宗学寺で宝永2年の2猿庚申層塔や笠付型の2猿元禄2年塔をみる。同町の下平の双体道祖神、林昌寺の石佛群、温泉神社など沢渡3か所にある双体道祖神を廻って第1日目の見学を終える。夜のコロファー岩櫃で角田さんの特別講義がある。
 第2日目は同郡吾妻町祝いの聖観音から始まる。ここには3面の十王坐像がみられ、笠津の庚申塔ある。続いて浅間神社、厚他の双体道祖神、薬師堂の石佛群、大蓮寺の石佛群の中に弁天三尊があり、ここで記念撮影をする。大戸の不動明王をみて昼食、午後は続いて同町を廻る。
 午後のコースは彫りのよい勝軍地蔵がある応永寺、細谷地蔵堂の双体道祖神、次の根古屋の百庚申は分布図や青面金剛刻像塔の図解を含め、ウサギを持つ青面金剛や3猿出しなどがみられる。次に深沢のや内出神社の双体道祖神を廻り、見学会を終える。
 花好きの森さんだけに双体道祖神などの周辺に咲く花が旧来からのものでなく、新しい花との指摘は気付かない点である。在来種と違った花が植えられているのは地元の双体道祖神に対する愛情から生じたもので、道祖神を華やかに彩る。
 4時40分に講演が終わり、閉会する。
第146回石仏談話室

 平成17年11月5日(土曜日)は第146回石仏談話室、池袋・東京芸術劇場6階小会議室の通常の会場である。本日の講演は2つ、中森勝之さんの「仏足石行脚」と宮谷俊雄さんの「古都京都の石仏巡り─大原・岩倉・嵯峨を訪ねて」である。
 午後1時15分に野口進さんの司会で開会、16分に坂口和子会長が挨拶、次いで梶川賢二さんから講師の中森勝之さんを紹介する。中森さんは昨年4月から平塚市立博物館の石仏を調べる会に参加、企画・立案・実行の面で優れた方である。趣味が沖縄民謡で今年の大会の新人賞を受賞している。ニューヨークやエジプトなど海外を含めて20年間に256回のマラソンを完走した、という。
 21分に中森さんが登壇、梶川さんの紹介を補足して今年61才、昨年9月に日本石仏協会に入会、今回話す佛足石に興味を持って各地を廻り、今年は70基を調べている。佛足石に興味を持ったのは、先輩たちの話から佛足石がスキマとなっており、紀元前より造立されている。中国の佛足石の朱拓を示しながら、佛足石に刻まれた模様に惹かれた、などの理由からだそうである。
 事前に配付されたレジメは表紙を含めてA4判10枚、先ず1頁に森貞雄さんの『佛足跡をたずねる』から引用された「仏足石府県別1覧表」を示し、総数250基の都県別分布と造立年代とにふれる。これは昭和58年の発行だから、その後に佛足石の造立が続き、現在は数が増えている。
 表は「造立年代別」と「図像別」からなり、「造立年代別」は「奈良」「江戸」「大正・明治」「昭和」「計」に分類、「図像別」は「薬師寺様」「良定様」「良極様」「西阿様」「インド様」「他」「計」、さらに中森さんの調査数323の都府県別の基数を加えている。
 本論は「1.全国仏足石の分析」から始まる。「1.地区別」の特徴としては「奈良近辺に集中近畿、中部地区で全国の57%」と指摘している。「2.年代別」では「奈良時代の薬師寺以降江戸時代まで約800年なし」とし、丹羽基二氏の『図説 世界の佛足石』を引き、年銘はないが室町期〜鎌倉期と推定される佛足石があるとみている。
 「3.図様別」では「薬師寺図様式が119基と半数を占めている」と指摘した上で、次に2.薬師寺の仏足石」に入る。表紙に本尊の薬師如来の佛足文、2頁に同寺の佛足石の表面と隣に十大弟子の2尊者を配する写真を載せている。薬師寺に現存する佛足石を説明した後で佛足石歌碑の原所在地に及ぶ。
 続いての「3.仏足石の図様とその推移」は、佛足の足裏に描かれた模様が釈尊の荘厳を高める意味を持ち、佛足石が紀元前4世紀〜1世紀頃から造られた。つまり佛像より先行してしている。
 佛足石の最初は無紋略形から出発し、指を示す線が引かれ、宝輪や卍などが加わり、徐々に多彩な文様が現れるようになる。この過程を丹羽基二氏の『図説 世界の佛足石』から引用して図示している。日本には「北伝ルート」で伝えられている。
 我が国の場合は慶長年間の良定以降、酉阿と良極の3人の僧が佛足跡の説をなし、図形を示したことから、後世、この図形を石に刻んだ佛足石が造られるようになる。
 「・.仏足石の文様」では文様の数にふれてから、それらの文様が意味するところを説明する。薬師寺形の例として愛知県美浜町・大御堂寺の佛足石の写真、『義楚6帖』にある名称を図解して載せている。
 最後の「・.東京の仏足石」では、都内17基(中森さんの調査では25基)の内、12基が薬師寺系統の文様で明治・大正のに12基が造立されている。これは増上寺の泰成上人の影響が強く、少なくとも増上寺など7か所を数える。
 東京大空襲によって損傷を被った佛足石がみられ、空襲による被害のために文様がわからなくなった佛足石がある。そのために冷遇されるものが存在する。
 レジメの9頁と10頁にはマドラス博物館の仏足礼拝図から始まり、日本各地にあるいろいろな様式の佛足石を写真を載せている。山形の黄金堂にある爪を生やすみたことのない佛足石、貞極様式と酉阿様式の拓本3点をボードに貼って説明した後にモニターに佛足石の写真を27点映写して公演を終える。
 時間があるので質疑応答に移る。最初は私で平成造立の佛足石について質問すると、現在12基の造立を確認されている、との答えが返ってくる。次いで関口渉さんが佛足石の所在地など3問、嘉津山清さんが拓本を見せてほしいという要求、高木6男さんが釈尊の足の大きさなどにふれ、2時45分に講演を終える。
 3時まで休憩、休憩後は坂口和子さんから講師の宮谷俊雄さんを紹介する。宮谷さんは文章が上手、中国で日本語を教えたりしているという。登壇した宮谷さんから教員40年と自己紹介があり、協会主催の1泊石佛見学会「古都京都の石仏巡り─大原・岩倉・嵯峨を訪ねて」の見学報告が始まる。
 宮谷さんが報告される京都の見学会は、滋賀在住の黄瀬3朗さんの案内で10月8日(土曜日)と9日(日曜日)の両日行われた。1都6県から集まった23人がが参加、第1日目は余り天候がよくなかったが、2日目は快晴に恵まれた。
 事前に表紙を含めてA3判5枚のレジメが配付される。京都の地図と見学先で撮った写真で構成されている。表紙は黄瀬さんの写真を使用、他は宮谷さんが14か所の見学地で写された石佛写真27葉を載せている。
 モニター画面に写真を写し、同行された高木六男さんが撮られた写真が補われて見学会報告が進められる。第1日目はA 北白川弥陀二尊〜B 太閤の石佛〜C 白沙村荘庭園の石造物〜D 恵光手の石佛群〜E 小町町の石佛群〜F 善導寺の三尊佛を巡るコースが組まれている。第2日目はG実相院庭園の石佛〜H 岩倉3面石佛〜I 岩倉目なし地蔵〜J 大原三千院の石佛〜K 江文神社御旅所の阿弥陀〜L 蓮華寺石佛群〜M 広沢池の十一面観音〜N 大沢池の石佛群を見学した。
 広沢池や大沢池の石佛のように知られたものもあれば、今回の紹介で知った石佛がある。やはり白沙村荘竹林の羅漢を除くと、何となく馴染めない石佛が多い。江戸期の石佛を廻らないためもある。川勝博士の石造美術の影響が考えられるし、古石佛が多いたまでもあろう。
 報告が4時25分に終わり、坂口和子さんから嘉津山清さんの講談が今月12日に文京シビックで行われるとの連絡があり、次いで休憩中に配られた来月4日に行われる五日市の「河原の石切場」遺跡見学会の連絡を内山孝男さんからある。次いで私が今月27日の青梅市街地の見学会を紹介する。野口進さんから次回の石仏談話室の日取り、それを坂口さんが補足して連絡事項をが済み、4時31分に閉会する。
第147回石仏談話室

 平成17年12月3日(土曜日)は第147回石仏談話室、池袋・東京芸術劇場6階小会議室の通常の会場で催される。本日の講演は1つ、山村厚子さんの「中国 大シルクロード 天山南路 仏教遺跡を訪ねる旅」である。後半はフリートーキングに当てる。
 講演が始まる前に伊奈石の会の内山孝男さんから会誌『伊奈石』第9号をいただく。早速、ザッと雑誌に眼を通すと、45頁には烏帽子と狩衣をつけて3番叟を踊る3猿の写真が載っている。日の出町平井の庚申塔台石で、これまでみたことがない。
 森正彦さんからは船橋市西船にある薬師主尊の庚申塔の写真を2葉いただく。1葉は主尊の薬壺を執る薬師如来坐像を写したもの、他の1葉は手前にある青面金剛と薬師の庚申塔2基を撮ったものである。実地でこの薬師をみた時は、青面金剛まで注意が行き届かなかった。正面を向く鬼、内向型3猿の中央がうずくまっていたとは気付かなかった。
 午後1時17分に遠藤和男さんの司会で開会、18分に坂口和子会長が挨拶を兼ねて講師の山村厚子さんを協会の会計担当と簡単に紹介する。
 19分に山村さんが登壇、協会が6月13日(月曜日)から20日(月曜日)までの8日間わたって主催した「仏教遺跡を訪ねる旅」の概要をA4判4頁に添えられたてA3判1枚の地図を使って説明する。
 28分からはモニター画面に写真を投影し、機上から撮った冨士から順に説明が進む。後で山村さんから聞いた話では、今回の旅行にコンパクトカメラとレジカメを持っていって行き、600枚程の写真を撮られたという。
 先ず新疆ウイグル自治区の政治文化の中心となっているウルムチの説明があり、ウルムチの風景が映し出され、続いて建設中の博物館を裏口から入ったなどの話に及ぶ。紅山公園の鎮龍塔から市街を1望した写真が次々に投影される。
 次いで民族の十字路といわれるカシュガル、イスラム教の寺院(モスク)、職人街、カラクリ湖、莫爾仏塔、香妃墓の映写と解説がある。
 次の西域南路への中継地であるアスクは簡単な説明で過ぎ、玄奘3蔵が訪れたという街クチャに移る。キジル千仏堂・塩水警告・スバシ古城・クズルガハのろし台・クズルガハ千仏堂・クチャ博物館・特別窟など、特に壁画の写真の発色がいい。本からパソコンに入れて写真にしたいううが、撮影禁止の場所の写真だけに価値がある。
 シルクロードの要衝トルファンでは高昌古城・アスターナ古墳群・火焔山・ベゼクリク千仏堂の写真を映写する。高温の中をロバ車で広範囲に移動したという。
 2時55分に講演を終え、休憩前に内山さんから『伊奈石』第9号の紹介がある、
 30分間の休憩後はフリートーキングの時間となり、先ず遠藤さんから正徳太子の石像と太子講の写真を映写して説明がある。これを受けて酒井正浩さんが聖徳太子を分類し、A 南無型・B 髻型・C 孝養型・D 摂政型と補足説明する。
 続いて酒井さんが先刻の山村さんの講演の補足説明する。本生譚の拡がりで宝輪と鹿が寺院のシンボルであるなどと解説する。それが9色の鹿とか黄金色の鹿に発展する。直江清久さんからはサカ族の問題提起がある。
 次に梶川賢二さんが藤沢・宗建寺にある地蔵と観音の2体石佛を投影して問題を提起される。六地蔵と6観音との関連があるのかもしれないが、この寺には造立年代が異なる3体がみられるという。森さんの話では、千葉には同じ場所に六地蔵と六観音の石佛があるという。
 寺と院の違いの問題が高木六男さんからだされ、寺・院・庵、さらに坊との関係について大野邦弘さんが話す。これでフリートーキングが終わる。
 4時45分に遠藤さんから次回は2月4日、角田さんと蔵地さんが講師という連絡で閉会する。
相模原市内を廻る 日本石仏協会5月見学会

 平成17年5月29日(日曜日)は日本石仏協会の5月見学会、JR相模線原当麻駅に午前10時集合、相模原市立博物館の学芸員・加藤隆志さんのコース案内で相模原市内を廻る。多摩石仏の会でお馴染みの森永五郎さん、千葉の町田茂さんや西岡宣夫さん、石仏談話室で顔を合わせる直江清久さん・栗原栄子さんなど30人ほどが参加する。
 午前9時30分に着いた原当麻駅は久振りだが、駅舎は橋上駅に変わり、以前の面影は全くない。平成13年10月28日(日)の多摩石仏の会で相模原市内を廻った時に、帰りは原当麻駅から乗車した。この例会は萩原清高さんが案内、相模線相武台下駅から新戸の長松寺〜新戸の3か所〜磯部の石楯尾神社〜勝源寺〜勝坂遺跡などを廻り、相武台下駅の戻って原当麻駅まで相模線に乗り、当麻・浅間神社と当間路傍の庚申塔をみてから無量光寺を訪ねた。
 11時4分に見学会担当の3代川千恵子さんの挨拶があり、案内の加藤さんから本日のコース説明がある。今回の見学会をサポートする3人を紹介した後で駅を出発する。
 今回の石佛見学の最初は観心寺、境内にある6字名号塔などをみる。加藤さんの説明によると、市内には徳本の六字名号塔が14基分布するという。また、徳本以外に無量光寺系統の六字名号塔があり、これには「正統」などの銘を刻んでいるとも話される。
 この寺は武相33観音の霊場で、12年に1度のご開帳の時は本堂前に塔婆を建て、ご本尊まで布でつなぐ。本来ならば本堂前の中央に塔婆が建てられるが、寺が檀家持ちで通常は境内を駐車場に当てているために塔婆を端に寄せられている。
 当麻山公園の古墳をみてから当間・無量光寺を訪ねる。この寺の庚申塔を初めてみたのは、昭和47年元旦だから33年前になる。この塔については庚申懇話会の『庚申』第77号に書いたことがある。参道の右手には
   1 元禄13 笠付型 定印弥陀・3猿              76×26×23
   2 享保5(笠付型)定印弥陀・3猿              69×31×22
 1は定印弥陀立像(像高45cm)主尊、下部に正向型3猿(像高11cm)を浮彫りする。右側面に「當麻村(3人の氏名) 元禄拾三庚辰年/三月廾七日」、左側面に「奉納爲庚申供養」の銘を刻む。
 2も定印弥陀立像(像高39cm)を主尊、下部に正向型3猿(像高11cm)を浮彫りする。右側面に「奉造立(以下剥落)」、左側面に「相州高座郡下當麻同行十八人/享保五庚子天/八月廾五日」の銘文がみられる。笠部が失われている。
 次に訪ねたのは天応院、この寺は初めてである。山門前に次の石塔がある。
   A 寛保3 柱状型 「不許葷酒入山門」「庚申講中」     152×36×26
   B 嘉永3 柱状型 「萬霊等」「庚申講中」         120×31×21
 Aは正面に「不許葷酒入山門/梅峯書」、右側面に「時寛保第三癸亥秋白露日/施主下庭/庚申講中」、左側面に「現住節玄叟立之」とある。
 Bは正面に「萬霊等」、右側面に「嘉永三庚戌二月日」、左側面に「現住大慶叟立」と刻む。台石右側面に「施主下/庚申講」とあるのは、結界石と同様に「施主下庭/庚申講中」の「庭」と「中」が土中に埋まっているものと思われる。
 午前の最後は山の神社(大山祗神社)、ここで思いがけず五神名地神塔に出会う。写真だけ撮り、神社と道つ隔てた昼食の県立相模原公園に向かう。森永さんとベンチで昼食を済ませ、集合までの時間を利用して再度山の神社を訪ねて五神名地神塔を調べる。この塔は6角柱(57×30×30cm 一辺は16cm)、右廻りに「天照大神/大巳貴命/少彦名命/埴安姫命/稲蒼魂命/安政三丙辰歳林鐘吉□」、6角の台石各面に「話 仁右エ門(等7人の名前)」、「世 發願平四郎(等7人の名前)」、「相州下溝 講中」、「讃岐山城/大和伊勢/遠江3河/伊豆/7箇国之集土/封里以建焉」、「(銘文なし)」、「□五右衛門(等6人の名前)」がみられる。
 木祠の扉の鍵が掛かっていなかったので開けて中をみると、石祠が安置されている。石祠の中に「大山祗」と刻まれた赤味を帯びた自然石があり、石祠の右側面に「宝永元年甲申七月十一日」の年銘が刻まれている。年銘の「甲申」が並べて彫られている。
 午後は下原の路傍にある石佛から始まる。左に地神塔(35×19×18cm)がある。正面が「地神宮」、右側面に「寛政十戌年」、左側面に「八月社日」とある。右にあるのが
   3 宝暦5 笠付型 日月・青面金剛・3猿           59×26×16である。標準的な合掌6手像(像高37cm)が主尊、下部に正向型3猿(像高7cm)を陽刻する。右側面は「庚申供養」、左側面は「宝暦5亥歳/玄穐吉日」である。
 次の中丸路傍には木祠があり、中に双体道祖神と庚申塔が安置されている。双体道祖神(40×25cm)は男女の神像(共に像高31cm)を浮彫りし、半分埋まった3猿台石の上にある。しかし、この台石は隣にある次の庚申塔のものと考えられる。
   4 寛政8 柱状型 「庚申供養塔」              47×21×15
 4は「庚申供養塔」を主銘とする文字塔、右側面に「講中拾二人」、左側面に「寛政八丙辰霜月吉日」と刻む。
 続いて古山の路傍にある次の庚申塔をみる。
   5 享保18 笠付型 日月・青面金剛・3猿           70×28×21
 5は主尊が4同様の標準形合掌6手像(像高47cm)、下部に正向型3猿(像高10cm)がある。右側面に「享保十八癸丑天/奉造立庚申供養/十一月吉祥日」、左側面に「相州高座郡小山邑/施主(3人の氏名)」の銘文を記す。
 近くにある木祠に安置される俗称「雨降り地蔵」をみてから、古山共同墓地を訪ねて徳本の六字名号塔に接する。そこから坂を下った左手の路傍に「道祖神」と刻む自然石(65×33cm)がある。天保12年の造立。
 次の十二天神社は昭和47年に訪ねたことがある。拝殿には大絵馬が2枚掛かっている。1枚は20人ほどの芝居の役者、他は鎧兜の武者3人を描く。
 「相模原庚申餘話」(『庚申』第77号所収 庚申懇話会 昭和53年刊)に次の4基を調査した記録が残っている。
   A 元禄9 「奉造立庚申供養為牛馬息災」3猿 光背型
   B 元禄11 定印弥陀・3猿          笠付型
   C 明和7 「奉造立庚申供養」3猿      笠付型
   D 年不明 (上半欠失)「成就所」3猿    柱状型
 これらの4基は次のように、剥離がみられるもののいずれも現存している。
  6 年不明 柱状型 (上半欠失)「成就所」3猿        26×18×19
  7 明和7 柱状型 「奉造立庚申供養」3猿          49×22×19
   8 元禄9 光背型 (剥離が酷く銘文は読めない)3猿     62×34
   9 元禄11 笠付型 定印弥陀・3猿              83×29×25
 6は前記のDに当たり、上半部が欠失している。正向型3猿(像高14cm)が3面に配されている。塞口猿の上には3行の銘がみられる。
 7はCの文字塔、主銘が「奉造立庚申供養」、下部に3猿(像高8cm)の陽刻がある。
 8はAで現在は前面が剥離し、以前の「奉造立庚申供養為牛馬息災」銘文が全く読めない。正向型3猿(像高15cm)の浮彫りは確認できる。
 9はBの定印弥陀立像(像高53cm)、6・7・8の3基が並ぶ背後に立つ。下部に正向型3猿(像高11cm)を浮彫りする。以前は右側面に「奉造立庚申供養成就爲二世安樂也」、左側面に「干時元禄十一戊寅□九月十八日」と読めたのだが。
 先の「相模原庚申餘話」では、この十二天神社の懸佛にふれている。
    市立図書館の古文書室から、相模原郷土懇話会の会報『郷土さがみ原』の十・十一・十二号
   を送っていただいた。八月二十四日のことである。翌朝の通勤電車の中でそれらを読んだが、
   座間美都治氏の「座間姓覚之書断片(1)」(12号2〜3頁)に思わぬことが書かれていた
   ので驚いた。その部分を引用すると
      古山部落の十二天社の御神体は、円形の青銅鋳出懸仏が四面連ねてさがっているが、一
     番上のものには中央に阿弥陀如来の像があり、上部の左右に「奉待念六夜御本尊」「相州
     高座郡小山 座間善左衛門 座間五右衛門」(中略)一番下のものには中央に「奉納御宝
     前庚申供養宝永四年亥九月吉日」左右に「相州高座郡渋谷庄小山邑 座間庄兵衛 山口加
     兵衛 太郎右衛門 善兵衛 吉兵衛」とある(以下省略)。(註)傍線は筆者
   の箇所である。下溝・古山の十二社に庚申懸仏があるというのだ。
 相模原に庚申懸佛があるのは記憶していたが、まさかこの十二天神社だと思っていなかったので、案内の加藤隆志さんに質問すればよかった。家に帰ってきて相模原の資料をみて気がついたので、後の祭である。
 十二天神社から下古山の道祖神へ向かう途中、再び古山共同墓地横を通った。森永さんの話ではこの墓地に地蔵庚申が2基あったというので、以前あった場所をみてもない。そこで、墓地内の無縁塔を探してもついに見当たらない。破棄された恐れがある。
 見学の最後は下古山の道祖神である。正面が「通祖神」の文字塔(49×26×17cm)、右側面に「文化十五戊寅三月吉日」、左側面に「友助」の銘がある。この塔の近くに双体道祖神の残欠とおもわれる双体道祖神が2つに割れ、1方が(26×13cm)他方が(22×13cmである。
 ここで見学会が解散、近くのバス停から相模大野駅行きの神奈川中央バスに乗り、起点の原当麻駅に戻る。解散が午後2時30分過ぎと早いので、森永さんの案内で下溝を歩くことにして、茅ヶ崎行きの電車に乗り、次の下溝駅で下車する。
 地図がないので森永さんの記憶を頼りに歩くと、小山宅の前に
  10 寛政11 柱状型 日月「庚神」「保食神」          71×31×31がある。この塔は4角柱の角を面取りし、変則の8角柱に仕立てている。正面に「庚神」、右端面に「寛政十一未歳」、左端面に「九月吉日」、右角面に「相州高座郡下溝」、左面に「保食神」、裏面にも銘文がある。
 次に訪ねた泉橋近くの十字路の角には石佛が並んでいる。ここには年不明の5角柱五神名地神塔(57×18×18cm)や風化して剥離が進んでいる双体道祖神(43×29cm 像高29cm)があり、次の庚申塔がある。
   11 天明7 笠付型 日月・青面金剛・3猿           60×26×17
 11は万歳型合掌6手立像(像高36cm)が主尊、下部にある3猿(像高10cm)は1部が剥離している。右側面に「天明7丁未(以下剥離)」、左側面に「當村(以下剥離)」の銘が刻まれている。
 この後で8幡神社などを廻ったが庚申塔は見当たらず、下溝駅に戻って海老名に向かう森永さんと別れる。今回は天応院の庚申講銘石塔2基と五神名地神塔2基を調査できたのが最大の収穫である。相模線〜横浜線〜中央線〜青梅線経由で帰宅する。
日本石仏協会写真展

 05年日本石仏協会写真展「石仏の魅力」は9月27日(火曜日)から10月2日(日曜日)まで、大泉学園ゆめりあホール7階のギャラリーで開催される。昨年の写真展も同じ場所で行われた。平成17年10月1日(土曜日)は池袋で石仏談話室があるから、それに合わせて日本石仏協会写真展に寄ろうと考える。
 午前11時少し前に西武池袋線大泉学園駅につき、前回の経験から駅から直接ゆめりあホールに行く。受付で写真展目録をいただき、先ずサッと会場を1周し、目ぼしい写真をチェックする。その上でチェックした写真を中心にゆっくり廻る。
 清水享桐さんの「霞ヶ浦石仏群」(茨城県霞ヶ浦市外葉)には合掌6手の青面金剛が写り、同氏の「無住の寺院の愛染明王」(同市志戸崎・慈眼寺)も興味を引く。
 田中英雄さんの「七仏薬師」(新潟県三条市 粟ヶ岳薬師堂)は珍しい石佛である。
 谷口正則さんの「化粧地蔵」(小浜市西津地区)は化粧を施した地蔵をカラーで撮っている。かつて宮津市内で化粧地蔵をみた記憶がある。京都府内には多いようである。
 角田尚士さんがご自分が撮られた群馬「蚕神像」5枚の写真の前にいる。昨年3月の石仏談話室で「群馬の蚕神」を話され、今年8月の公開講座でも講師を務めている。
 野口進さんの「一香一華」は、新宿区下落合4−8の薬王院にある宝永2年青面金剛刻像塔を撮った写真である。国東の庚申塔を思わせる像容で、4手青面金剛に日月・1鬼・3猿を浮彫りし、2童子が加わる。
 今回の写真展で最大の収穫は、宮坂博明さんの「釈迦如来立像」と「地蔵菩薩立像」の2点である。1周目には気付かなかったが、地蔵の頭上の「供養」が気になって説明文を読む。前者は船橋市神保町の日蓮宗地帯にあり、後者は松戸市幸谷観音が塔の所在地である。単に像容だけではわからないが、銘文から庚申塔と知られる。
 会田秀介さんの「火の神1」と「火の神2」の2点は共に富山県で火天像を撮っている。その内の1点は富山市城町・東陽庵の彩色立像で、写真展の案内に使われている。余り見当たらない石佛だけに参考になる。
 写真展の最後に展示されているのが栗田直2郎さんの「石猿八態」、東京都と周辺の県で撮影された猿の像である。青梅市千ケ瀬・宗建寺の台石に浮彫りされた3猿を始め、埼玉の山王猿など馴染みの猿が並んでいる。30分ほど会場で写真をみてから、石仏談話室の池袋へ向かう。
あとがき
     
      早いもので今年も12月『石仏談話室雑記6』をまとめる時期となった。今年は昨年の
     ように石仏談話室皆勤とはいかず、9月3日の会を欠席してしまった。今年も談話室では
     もっぱら聞き役専門に徹した。
      11月5日(土)は中森勝之さんの「仏足石行脚」の講演があり、その影響があって事
     後に「佛足石を追う」と「続・佛足石を追う」を書いた。これはこれまでの記録から「佛
     足石」を検索してまとめたものである。
      こうした検索はすでに「双体道祖神」や「疱瘡神塔」などでも行っており、今年は小規
     模ながら神奈川の「五神名地神塔」で試みた。今回の「佛足石」を含め、意外と忘れてい
     た石塔が多いに気付く。
      今年は総会と公開講座をパスし、見学会は本書に掲載した通り1度参加した。先にふれ
     た五神名地神塔の検索を行ったのも、見学会で1基、終了後に森永五郎さんと2人で下溝
     の石佛散歩して1基みたのが遠因である。
      毎度ながら、石仏談話室でいろいろと有益なお話をき聞かせていただいた講師の方々、
     見学会でご案内いただいた加藤隆志さん、並びに談話室や見学会などの裏方として活動さ
     れた役員の方たちに対して感謝の意を表したい。来年も談話室を始め、総会や見学会で参
     考になるお話を拝聴したいと考えている。
      本書を種々な場面でご活用いただければ幸いである。

                             ────────────────
                              石仏談話室雑記6
                              発行日 平成17年12月15日
                              TXT 平成17年12月18日
                              著 者 石  川  博  司
                              発行者 多 摩 野 佛 研究会
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