石川博司著     平成十七年の石佛巡り

                                         発行 多摩野佛研究会

目次     ○ 初天神庚申塔巡り     ○ 赤塚獅子舞の前後
        ○ 
小曽木石佛散歩      ○ 川越市街地庚申塔巡り
        ○ 
星竹の石仏再訪      ○ 神奈川の五神名地神塔
        ○ 
佐久地方の庚申石祠
        ○ 
大田区内を廻る      ○ 福知山石佛散歩
        ○ 
京都の庚申堂       ○ 見性寺の十六羅漢
        ○ 
あ と が き

初天神庚申塔巡り

 平成17年1月25日(火曜日)は初天神、鷽替の神事が行われている江東区亀戸の亀戸天神・文京区湯島の湯島天神・台東区上野公園の五条天神の天神3社を廻る。ついでに台東と文京の庚申塔巡りを行う。昨年2月4日(水)の石佛ウォーク第5回で「小石川から根津へ」の文京コースを廻ったが、その後で台東区の庚申塔を歩く。廻る順序は今回はその時と異なる。今回は塔の計測をしていないので、昨年の数値を使う。
 湯島天神から五条天神へ行く途中、不忍池の弁天堂(台東区上野公園)に寄る。境内の大黒天堂脇に鍵が掛かった柵内に次の塔がある。
   1 延宝8(笠付型)日月・青面金剛・蓮華         (計測できず)
 1は笠部が失われた塔、正面の上部に装飾的な「ウーン」種子の陰刻、その下に上方手に日天と月天、下方手に弓矢を持つ準万歳型の剣索6手像を浮彫りする。柵越しに背面に刻まれた大きな字の銘文が読める。中央に「奉造立庚申供養為現當二世安樂也」、右側に「延寶第八庚申年」と2人・4人・4人の施主銘3段、左側に「七月吉祥日」と3人・4人・4人の施主銘3段、それらの下に10人の施主銘が並ぶ。
 ボート乗り場側の奥に柵に囲まれた場所があり、その中に
   2 延宝8 手洗鉢 3猿                 (計測できず)
 2は前面に浮彫りされた3猿が確認できるだけで、銘文は全くわからない。
 ここで1番馴染みなだったのは頂部が欠けた次の庚申塔であるが、背面が男根形をした老翁像と共に現在はどこにも見当たらない。
   ○ 元禄3 光背型 青面金剛・2鶏・3猿
 弁天堂から五条天神(台東区上野公園4)へ向かう。この五条天神の庚申塔は昭和45年頃あった場所から、現在は社殿の横へ移されている。社務所に声を掛けて見学の許しを乞うと、祢宣に案内されて社殿横の庚申塔へ行く。
   3 享保16 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     71×33×23
   4 享保10 駒 型 「奉納御庚申諸願成就所」3猿       72×31×20
   5 元禄7 光背型 「奉待庚申諸願成就所」3猿        66×29
  6 慶安2 板碑型 「ウーン 奉信心庚申待生々加護…」蓮華    112×48
 3は上部に額があって日月を刻み、中央に剣人6手像(像高41cm)、下部に正向型3猿(像高10cm)がある。右側面に「諸願成就 庚申供養塔」、左側面に「享保十六辛亥二月廾七日/願主 井桁屋弥兵衛」の銘を彫る。
 4は中央に「奉納御庚申諸願成就所」の主銘があり、右に「享保十歳」、左に「巳正月廾一日」、下部に正向型3猿(像高9cm)を浮彫りする。
 5は中央に「奉待庚申諸願」とあり、その下が2行になって右に「成就」、左に「所」である。右端に「元禄七歳」、左端に「戌十一月四日」、下部の正向型3猿(像高12cm)の下に「松野徳左衛門」など7人の施主銘を刻む。
 6は小野照崎神社の正保2年塔に次ぐ台東区の古塔、中央に「ウーン 奉信心庚申待生生加護不堕悪越決定證得特勝妙果処」、右に「慶安貮暦/願主/木口佐左門」、左に「三月吉辰 深谷□左衛門/谷嶋久左門」の銘を記す。額の底部に陰刻の蓮華がある。
 五条天神から根津神社(文京区根津1−28−9)へ出る。境内の地図に「庚申塚」とあり、塔の所在する場所がわかる。板石型の塞大神塔( 113×56cm)をみて、次の庚申塔6基の写真を撮る。
   7 寛文8 光背型 (頂部切断)青面金剛・2鶏・1猿・3猿  113×56
   8 年不明 光背型 (上欠)聖観音「庚申供養」        66×36
   9 元禄5 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・蓮華     109×40×34
   10 延宝8 光背型 (頂部切断)日月・青面金剛・3猿     81×42
  11 寛永9 板碑型 「奉造立庚申供養1結衆二世成就所」蓮華  111×42
   12 宝永6 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        90×35
 7は全ての腕が外側に伸び、蛇が巻きつく宝棒と羂索を執る3面6手立像(像高64cm)を主尊とする。下部は横向きで御幣を持つ1猿(像高11cm)を中央にし、左右の両横に鶏を浮彫りする。台石正面に正向型3猿(像高24cm)があるが、9の台石であろう。頂部が切断されいるために、僅かに「樂也」の銘が青面金剛の左上に残っている。宝棒下に「寛文八戊申歳十月十八日」、羂索下に「武州豊嶋郡江戸駒込村」、底の額部に「内海久右衛門(等15人の人名)の施主銘を刻む。
 8は上部が欠失した聖観音(像高55cm)主尊の塔、像の右に「待庚申供養」、左に「月吉日」、下部に「秋沢与左門」など12人の施主銘がみられる。台石が斜めに置かれ、1面に「六辛丑6月吉辰」と「柏屋氏清吉」など4人の施主銘、他面に「久□氏與仍」など5人の施主銘を刻む。年銘の「6」の上が「保」らしく、享保6年が該当する。聖観音の主尊としては少々時代が下ると思われるが、大きさからも8の台石とは違うだろう。
 9は剣索6手像(像高48cm)、2鶏下に「平山氏又右門」などの施主銘5人みられる。7の3猿台石がこと塔のものだろう。右側面の中央に大きな字でに「奉造立庚申為二世安楽」、その右に小さく「元禄五壬申年(「年」は古字)」、左に「五月十一日」、下に「杉坂兵八郎(等8人の施主銘)がある。左側面に「南無阿弥陀佛」の六字名号の下に蓮華の陰刻があり、下に「杉井新右衛門(等8人の施主銘)」の銘を彫る。
 10は剣人6手像(像高51cm)、主尊右に「延宝八庚申歳」、左に「六月吉祥日」の造立年銘、下部の正向型3猿(像高12cm)右に「信心之願主」、左に「羽山彦兵衛建」の施主銘がある。
 11は文京区内で最古の庚申塔、中央に「キャ 奉造立庚申供養一結二世成就攸」、右に「寛永九年壬申」、左「初春廾三日 都嶋凍馬米村」、下部に「了兵衛」や「妙寛」など7人の施主銘がある。左側にある「都嶋凍馬米村」の地銘は「豊嶋郡駒込村」の当て字である。底の額部に蓮華が陰刻されている。
 12は合掌6手像(像高44cm)の頭上の頂部が横に切断、下部に正向型3猿(像高12cm)がある。青面金剛は上方手に日月、下方手に弓矢を持つ、標準形の「万歳型」である。像の右に「奉造立庚申武州豊嶌郡駒込千駄木町施主」、左に「寳永六己丑四月十九日」、「石原氏」に続けて「和泉氏長右衛門」などなど9人の施主銘を底部に記す。
 根津神社から再び台東区内に入り、根岸小学校(台東区根岸3−9−8)へ向かう。ここからは昨年1月14日(水)に行った石佛ウォーク第2回「根岸から谷中界隈」のコースとなる。今回はこの時のコースとは逆になる。以下の計測値は昨年のもの。
根岸小学校脇の道路に面した場所に次の庚申塔群がみられる。昨年の時もそうであったが、今回も各塔に供えられた花が新鮮で綺麗である。
  13 天明5 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        80×37×27
  14 寛文9 板碑型 「ウーン 奉待庚申供養二世安楽所」3猿  144×56
   15 元禄16 板駒型 「ア ビ ラ ウーン ケン」3猿     92×42
   16 寛文8 光背型 聖観音「庚申供養二世安楽所」       104×42
   参1 昭和43 自然石 「舊蹟/根岸 庚申塚」         137×36
13は残念ながら祠の中に安置され、鍵がかかってみられない。前回の昨年もみていないが、参考までに昭和62年5月10日(日)の多摩石仏の会で廻った時の銘文と計測値を掲げておく。この日は元3島神社の祭礼で御輿が出て賑っていたせいか、祠の扉が開いていた。主尊は標準的な合掌6手像(像高45cm)、下部に正向型3猿(像高12cm)が浮彫りされる。右側面に「安永癸巳五月吉日/天明五年七月吉日」の年銘がある。「安永癸巳」は干支から「二年」を指す。
 14は「ウーン 奉待庚申供養二世安楽所」の主銘、その右に「寛文九年己酉」、左に「九月三日」の年銘、下部に正向型3猿(像高24cm)がある。底部に「長十良/平三良」など11人の施主銘、その下のに「施主/敬白」と彫る。
 15は主銘の報身真言の右に「元禄十六癸未年九月吉日」、底部に施主銘が多数ある。上段に1猿、下段に2猿と3角形に正向型3猿(像高14cm)が蓮台の上に配置されている。西浅草の万隆寺の寛文5年3猿とは3角形配置の点では共通するが、持物と3不型かどうかの違いがある。また上段の猿が万隆寺では合掌で大きく、下段の小さい猿が蓮華を執っている。ここのは上下の3不型の猿の大きさが同じである。寛文と元禄の造立年代の差が3不型の3猿の普及と関係があるのだろう。
 16は左手に蓮華を執り、右手が与願印の聖観音立像(像高80cm)を主尊とする。像の右に「庚申供養二世安楽所」、左に「寛文八天九月戊申吉日」の銘を刻む。
 参1は、後の参3と同様に「根岸庚申塚」を示す標識である。
 根岸小学校から西蔵院(台東区根岸3−12−38)に出て、本堂横の通路にある多くの石佛を通り過ぎ、奥の茶室の入口にある前回は見落とした
  17 年不明 台 石 3猿             27×44×39をみる。台石正面に正向型3猿(像高15cm)が浮彫りされているだけで、銘文はない。
 次に本堂脇の通路に沿った次の庚申塔をみる。
 参2 年不明 光背型 地蔵?・3猿?              82×39
  18 明暦2 板碑型 「ウーン 庚申供養修營貴躰」蓮華     70×31
   19 年不明 光背型 日月・青面金剛・3猿           87×46
   20 年不明 光背型 地蔵「奉造立庚申供養」3猿        96×43
   21 寛文X 板碑型 「庚申二世安楽成就所」蓮華        108×45
  22 寛文8 板碑型 「ウーン 奉待庚申供養二世安楽処」3猿・蓮華 114×49
  23 宝永5 板碑型 「ウーン 奉待庚申為供養」蓮華   133×66が石佛の中に並んでいる。
 参2は庚申塔かどうか不明であるが、主尊が地蔵の立像(像高53cm)らしく、下部に3猿(像高14cm)らしい像がみられる。どちらも石がトロケた状態で、それ以上の詳しいことはわからない。
18は「ウーン 庚申供養修營貴躰」の主銘、右横に「寒念佛 明暦二丙申天」、左横に「一生成辯
 極月吉辰」の銘を刻む。塔の右上に欠損がみられ、右枠に「願主 金杉村」、左枠に「内田丹後修行之」の銘がある。底部に蓮華が陰刻されている。
19は中央手に羂索と人身を執る6手青面金剛像(像高58cm)、正面の1部に剥離がみられ、その辺に年銘がきざまれていたのかもしれない。下部に正向型3猿(像高13cm)があり、左横下に「安室祖穏」の銘を彫る。
20は地蔵立像(像高77cm)主尊の庚申塔、像の右に「ウーン 奉造立庚申供養」、左に「(欠失)辛卯七月 金杉村講中」の銘を刻む。元号の部分が欠けていているが、干支の「辛卯」に当たる年は慶安4年・正徳元年・明和8年・天保2年である。この中で正徳元年造立とみのが最も妥当だろう。下部に正向型3猿(像高10cm)が陽刻されている。
 21は塔面が荒れていて銘文がハッキリしない。主銘は上に数文字あって「庚申二世安楽成就所」と辛うじて読める。その右に「寛文(以下不明) 施主」、左に「(月)日 敬白」、下部に「(人名)内儀」などの6人の施主銘が列記されている。右枠に文字があったように思われる。底部に蓮華が陽刻されている。
22は「ウーン 奉待庚申供養二世安/楽/処」が主銘、右に「寛文八年戊申」、左に「八月吉日」の年銘を刻む。浮彫りの正向型3猿(像高14cm)の下に「新兵衛/又兵衛」など8人の施主銘を記し、底部に蓮華を陽刻する。
 23は主銘が「ウーン 奉待庚申為供養」、右に「宝永五戊子」、左に「霜月大吉日」の年銘がみられる。下部に主銘を挟んで右に「長兵衛」など4人、左に「七兵衛」など4人の計8人の施主銘が刻まれている。底部にある蓮華は異様な形で、1部が外枠にはみ出す。
西蔵院から通りを渡って世尊寺世尊寺(台東区根岸3−13−22)に行く。境内に次の庚申塔2基がみられる。
   24 元禄6 光背型 地蔵「奉造立地蔵庚申講衆二世安楽攸」  (計測無し)
   25 延宝2 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・1猿・2童子・4薬叉 147×61
 24は地蔵の頭上に「カ」の種子、像の右に「奉造立地蔵尊庚申講衆二世安楽攸」、左に「干時元禄六癸酉歳二月廾一日」の銘を刻んでいる。無縁塔群の上にあるので計測が不可能であるが、多摩石仏の会の鈴木俊夫さんの計測によると塔の高さが 130cmで幅が40cm、地蔵の像高が 100cmである。
 25は24の奥にあるが、今回はゴミを入れた白い袋に隠されていてウッカリ見落とすところである。合掌6手像(像高54cm)の青面金剛を主尊とし、下部に御幣持ちの1猿(像高16cm)と2鶏が陽刻されている。都内で珍しい2童子(共に像高27cm)と4薬叉付きの刻像塔である。4薬叉は2体が立像(像高25cmと像高26cm)、他の2体が坐像(像高19cmと像高18cm)である。坐像の薬叉は御幣持ちの2猿と間違われそうである。頂部に「キャ」の種子、2童子の両端に「延宝二天」と「甲寅(寅は異体字)十一月十二日」の年銘がある。
 この寺では、堂内にある線刻の六地蔵が面白い。次いで小野照崎神社を訪ねる。境内へ入ると、次の庚申塔群が右手にある。
   26 延宝8 板駒型 「奉寄進庚申待信心如意攸」3猿      86×32
   27 正保2 板碑型 「バク 奉供養庚申」蓮華         92×45
   28 元文5 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        113×45
   29 寛文12 板碑型 日月・2鶏・3猿・蓮華          130×56
   30 延宝4 板碑型 日月「ウーン奉待庚申供養所願成弁攸」2鶏・3猿 122×53
   31(昭和34)柱状型 日月「青面金剛」3猿           102×34×30
   32 延宝3 板碑型 日月「奉待庚申供養所願成就攸」3猿    102×56
   33 延宝4 板碑型 日月「ウーン奉待□□□□□□成弁攸」3猿 96×40
   34 延宝8 灯 篭 「小野照崎大明神御宝前」3猿       62×28×24
  参3 昭和34 柱状型 「日本三庚申 庚申塚」          109×30×16
 26は頂部が欠け、中央に斜めに割れが入っている。主銘「奉寄進庚申待信心如意攸」の上は種子と思われるが、削り取られた跡が残る。主銘の左右の横に「干時延寶八庚申天 定那」と「九月三日敬白」の銘、下部に正向型3猿(像高15cm)の陽刻。
 27は「バク 奉供養庚申」が主銘、両横に「正保2乙酉年」と「9月吉日」の造立年銘、下に「長兵衛」や「勘十」など10人の施主銘があり、底部に蓮華の陰刻がみられる。
 28は中央手が欠けているが明らかに合掌6手像(像高81cm)、下部に内向型3猿(像高17cm)を浮彫りする。右側面に「奉供養庚申為二世安楽也/小泉市兵衛(等6人)」、左側面に「元文五庚申正月十八日 敬白/(6人の氏名)」と刻む。
 29は「奉造立庚申供養」の主銘らしいが、銘文が潰されていてはっきりしない。中央に正向型3猿(像高20cm)と2鶏があり、下部に12人程の施主銘と蓮華がみられる。
 30は他の塔と高さを揃えるためか頂部が切断されている。主銘が「ウーン 奉待庚申供養所願成弁攸」、右に「干時延寶四天」、左に「丙辰十月十一日」の年銘、2鶏の下に3猿正向型3猿(像高19cm)が陽刻されている。
 31は戦後の文字塔、参1に刻まれた年銘と同じ昭和34年の造立であろう。上部に日月・瑞雲の浮彫り、その下に主銘の「青面金剛」がある。台石正面の枠中に3猿(像高11cm)が浮彫りされ、両側面に15人ほどの施主銘がみられる。。
 32は30と同様に頂部が切断された板碑型で、上部に「アーンク」の種子、その下に「奉待庚申供養所願成就攸」の主銘を刻み、右に「干時延寶三天」、左に「乙卯九月十一日」の年銘を彫る。底部に「榎本多」と僅かに読める施主銘が残る。
 33は29と同様に主銘が潰されいるが、どうにか上の「ウーン奉待」と下の「成弁攸」の5字がわかる。恐らく主銘は「ウーン 奉待供養二世安楽塔成弁攸」と思われる。左に「干時延寶四天」、右に「丙辰九月廾八日」の造立年銘、下に「権右衛門/藤兵衛」など10人の施主銘が読める。下部に正向型3猿(像高16cm)が浮彫される。
 34は6角柱の竿石だけが残った燈籠、下部の3面に正面向きの猿(像高14cm)が陽刻されている。正面に「小野照崎大明神寶前」、右面に「奉寄進石燈籠両基 武州坂本村」、左面に「干時延寶八庚申天六月三日」の銘がある。銘文に「両基」とあるうから、同形の燈籠がもう1基があったと考えられる。
 参3は正面に「日本三庚申/庚申塚」、右側面に「昭和三十四年八月吉日」、左側面に「修復/奉納 入谷町會/森□□蔵/役員一同」と記す。正面の「日本三庚申」は、大阪天王寺庚申堂・京都八坂庚申堂・江戸入谷の庚申堂の3庚申を表示したのであろう。なお入谷の庚申堂・喜宝院は、武田久吉博士の『路傍の石仏』(第一法規 昭和46年刊)178〜80頁に詳しい。
 庚申塔群の前に重さを「五五貫目」などと記す力石が3個がみられる。境内の冨士塚は文政11年に築かれたもので、国の重要民俗有形文化財に指定された。通常は門が閉められて塚に登れないが、毎年6月30日と翌7月1日の2日間に限って登山が許される。
 初天神のついでに台東と文京の両区内にある庚申塔を廻る。この小野照崎神社で庚申塔巡りを終えJR鶯谷駅から帰途につく。
赤塚獅子舞の前後

 平成17年3月6日(日曜日)は板橋区赤塚の獅子舞を見学する。早めに家を出て東武東上線下赤塚駅から歩いて板橋区立郷土資料館へ向かう。途中の石材店の富士光で双体道祖神をみる。柵外からだから当然、計測はしていない。
 平成8年3月10日(日曜日)は赤塚の獅子舞見学に行ったが、この時は1つ手前の東武東上線の成増駅で下車して上赤塚観音堂(赤塚6−26−23)の境内で
   A 寛文7 板碑型 「奉庚申供養現當二世安穏處」3猿     111×37
   B 延宝4 光背型 薬師                   106×47
   C 寛文12 光背型 聖観音                  123×48
   D 延宝8 光背型 来迎弥陀「奉供養庚申為二世安楽也」    122×55の4基をみたが、今回は下赤塚駅から直接、板橋区立郷土資料館へ向かったので、これの庚申塔はみていない。
 板橋区立郷土資料館(赤塚5−35−25)の館内には
   1 寛文2 笠付型 日月・青面金剛・2鬼・1鶏・1猿・2童子・4薬叉の模造品が展示されている。1は東光寺境内(板橋4−3)に現存するものである。
 同の中庭には、次の3基が展示されている。
   2 年不明 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     93×38×24
   3 享保8 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        93×34×23
   4 宝永1 板駒型 日月・青面金剛・2鶏・3猿        76×36
 2は「若木1−27より移設」、3は「区画整理前不動滝前通り通称鎌倉道と峡田道の丁字路」、4は「赤塚3−7、笹生宅で造園の際、庭師によって持ち込まれたもの」と板橋区教育委員会発の『庚申塔』(文化財シリ−ズ第78集 平成7年刊)に記されている。
 平成8年の時に郷土資料館前にある記録した次の塔は、今回見当たらなかった。急いでいたので見落としたのかもしれない。
   E 年不明 自然石 月輪「庚申」3猿
 前回は大門の諏訪神社に向かう途中で、大門観音堂(大門2番)で
   F 正徳5 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・蓮華  95×43×30
   G 正徳3 光背型 日月「奉造立庚申供養現當二世為安楽」   111×47の2基をみているが、今回は時間の関係で省略した。
 大門・諏訪神社で獅子舞が終わり、道行で行った赤塚・八幡神社で獅子舞が終了してから隣にある大堂参道で次の庚申塔をみる。
   5 嘉永2 丸 彫 日月・青面金剛・1鬼           68×25×18
   6 宝永3 板碑型 「奉造建庚申供養為現世安穏後生無比楽」3猿 111×45
  7 寛文2 板碑型 「奉造立庚申供養石塔現當二世為安穏也」3猿 103×41
   8 元禄5 光背型 日月「奉待庚申供養二世安楽攸」3猿    106×44
   9 寛文4 板碑型 「奉造立庚申供養石塔現世安穏後生善処者也」蓮華 134×50
 5が少し離れて大堂を背後にして立つが、6から9までは石段に向かって並んでいる。
 大堂から道を戻して松月院を訪ね
   10 年不明 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        75×31×22をみる。風化が甚だし塔である。ここから地下鉄赤塚駅へ戻る。
 8年の時は帰りの帰りも成増駅まで戻る途中で3畆院で庚申塔をみようとしたが、施錠していたので門越しに次の4基をみたが、今回は道が違うのでみていない。
   H 寛延3 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿      計測不可
   I 享保3 板駒型 日月・青面金剛・2鶏・3猿         計測不可
   J 年不明 板駒型 青面金剛・1鬼               計測不可
   K 安永5 光背型 地蔵                    計測不可
 ここにはこの他に、「かのえ講中」の銘文だけでの塔がある。庚申塔かどうか、議論のわかれるところである。
 前回は英字の11基に松月院の1基を除いて廻ったが、今回の獅子舞調査の前後に廻った庚申塔が10基である。
小曽木石佛散歩

 平成17年4月7日(木曜日)は、東京都青梅市小曽木地区の石佛散歩を行なう。このところワープロに向かう時間が多く、気分的にも外へ出たくなっていた。昼食を早めにとり、思い切って出掛けることにする。
 黒沢の石佛散歩を行なうのは、最近では平成13年6月19日(火)と15年4月10日(木)に続き、今回が3回目である。前回の「黒沢石佛散歩」のコースを踏襲し、先ず勝沼・乗願寺の石段脇にある
   1 文化5 自然石 「庚申塔」3猿(台石)          79×82をみる。この塔は、私が初めて庚申塔を意識したものである。台石の正面に3猿(像高14cm)を浮彫りし、右に「石橋供養」、左に「寒念佛/講中/助力念佛」の銘を刻む。右側面が「武州多摩郡/三田領杣保内/小曽木郷/乗願寺村/表裏」、左側面が「文化五戊辰年/五月吉祥日/願主/藤七/利兵衛」の銘文である。
 次いでその背後にある「キリーク 石磴供養塔」(76×24×16cm)をみる。寛政9年3月の造立、台石正面に「青梅町講中/同修行念佛/助力/願主/女中方念佛講中/西文村講中/上師岡村講中」の施主銘がみられる。
 前回は勝沼から黒沢の柳川へ直接向かったが、今回は途中で根ケ布・天寧寺に寄り、門前の
   2 慶応2 自然石 「庚申塔」                101× 121をみる。正面に隷書体で「庚申塔」とあり、裏面に「慶應二龍次丙寅/十一月最勝日」の造立年を刻む。近くある六地蔵の祠へ行き、中央にある薬師如来を写す。
 次は前回のコースに戻り、黒沢2丁目交差点前の柳川路傍に並ぶ
  3 年不明 自然石 「庚申塔」                108×67
   4 年不明 自然石 「庚申供養塔」              73×44
   5 年不明 自然石 「庚申塔」                72×55の3基をみる。いずれも自然石の文字塔で主銘以外の銘文はない。以前この3基は家の裏にあり、塔と家の間が狭く写真を撮るのに苦労した。現在は道路の拡幅工事により、前にあった家が取り払われ、道路に面しているから、撮影に苦労する事はない。
 続いて東へ小曽木方向へ歩くと、柳井さん(黒沢2−855)宅の土蔵の東側に銅板葺き屋根の木祠には、次の2基が安置されている。
  6 延享1 柱状型 「庚申供養塔」3猿            54×20×17
   7 文化8 笠付型 「庚申塔」                51×19×18
 この2基は道路の拡幅工事が行なわれるまでは、塀の下の石垣に格子の木枠をつけ、奥に安置されていた。平成13年6月19日の時はまだ石垣の中にあったが、15年4月10日(木)に時には現在地へ移ってうあた。
 6は正面に主銘の「庚申供養塔」、右側面に「武州多摩郡黒沢村」の地銘、左側面に「延享元年甲子十月吉日」の年銘を刻む。3猿(像高10cm)は、正面と両側面3面に浮彫りされている。
 7は、主銘の「庚申塔」を籠字で彫っている。左側面に「文化八年未四月吉日/講中九人」の銘文を刻む。台石の正面に「柳井□左門」など5人、右側面に「柳井□□□」など3人、左側面に「市川□□□」など4人の施主銘を刻んでいるので、本塔の「講中九人」よりも多く、6の台石ではなかろうか。
 先の交差点を右折し、龍雲寺の墓地入口にある昭和2年10月に造立された若林仙十郎の顕彰碑文( 125×71cm)をみる。寺の前の道を東に進み、突き当たりを右に向かうと、山道の手前で
   8 文政6 自然石 「庚申塔」3猿(台石)          70×80に出る。主銘の「庚申塔」が隷書体である。台石の3猿(像高12cm)は、烏帽子に狩衣姿である。右端の猿は鼓と棒、中央の猿は扇子を耳に当て、左端の猿は右手で御幣を持ち、左手に持つ扇子で口を塞ぐ。石質の関係もあって細かい所まで判別できない。
 前回はその先の山道を登り、尾根道に出て宝暦10年「庚申供養塔」をみているが、今回は省略してバス通りに出て「小枕」のバス停前にある木祠をみる。
   9 享保11 笠付型 日月・青面金剛・3猿           46×24×19
   10 年不明 自然石 「庚申塔」                87×38の2基が中に安置されている。昭和51年の道路拡幅工事で元の位置からバックし、小祠が新造されてた。
 9の主尊は標準形の合掌6手立像(像高27cm)、下部に3猿(像高8cm)が浮彫りされている。右側面に「従是子権現道」の道標銘、左側面に「享保十一丙午八月吉日/武州多麻郡黒沢村願主/小枕拾人」の年銘と施主銘を刻む。
 10は主銘「庚申塔」の他に、横に「小枕講中」の銘がある。
 小枕のバス停先の道を左折、土手の上にある小祠に安置された右から3基目の
  11 寛文10 板碑型 日月・3猿・蓮華             68×32をみる。3猿(像高12cm)が上部の枠内に浮彫りされ、下部に蓮華の浮彫りがある。3猿の下に「小兵衛」などの施主銘を刻み、右の縁に「寛文十戌年」の年銘がある
 11の右は水神塔2基である。右端は嘉永5年塔(58×27×15cm)、頭上に髪のように9龍がみられる荒らぶる顔(像高12cm)、右手に宝剣、左手に龍索を執る2手像で波座に坐るある。左は文化10年塔(44×21×13cm)、髪を結った温和な顔(像高19cm)で右手に宝剣、左手に宝珠を執る2手の坐像である。共に頭上に鳥居が浮彫りされる。
 ここまでは黒沢、さらに先の小曽木に進む。最初は3丁目の福昌寺を訪ねる。石段の右側にある石垣の上に
   12 年不明 自然石 「ウーン 庚申塔」              101×46がある。主銘の「ウーン 庚申塔」以外に銘文はない。
 境内にある六地蔵は昭和43年の造立、この時に木祠が作られ、古びた「奉納 六地蔵願主の譚」の木額が掛けられ、末尾に「大工手間代奉納」とある。
 この寺を訪ねたもう1つの目的は、最近まとめた「『市川家日記』を読む」(ともしび会 平成17年刊)の中に、この寺の境内に「手水石」と「馬頭観音再建」の記録があるからである。
 『市川家日記』は『青梅市史史料集第10号』(青梅市教育委員会 昭和44年刊)に収録され、後に『日本庶民生活史料集成 第12巻』(31書房 昭和46年刊)に掲載、さらに『青梅市史史料集第46号』(青梅市教育委員会 平成8年刊)に収録された。
 先ず地蔵尊の手水石にふれているのは、『市川家日記』の明治25年9月の日記に
   1、同(九月)廿三日より荒田福昌寺地蔵尊の手水石出来に付、供養の談義有之、廿四日より
     二日にて終わり候(214頁 平成8年刊本の頁、以下同じ)と記されている。地蔵堂の境内には、日記にある手水石(38× 102×42cm)があり、水が入る部分(内法)は深さ11cm、幅85cm、奥行25cmである。手水石の正面に「地蔵尊」、右側面に「奉献」、左側面に「明治廾五年辰四月吉日/起志義野住/當村産/小島金兵衛」、裏面に「世話人/萬田義治(など3人の氏名)」の銘文を刻む。
 それに先立つ明治6年の日記には、次のように馬頭観音の再建が記録(160頁)されている。
    二月十五日、荒田福昌寺地蔵尊地内に馬頭観音再建に付、馬町立候。南方より馬多く来る。
 境内を探してみると、正面に「馬頭観世音」と刻む柱状型塔(68×19×18cm)がある。右側面に「明治3庚午7月日」、左側面に「願主/並木万次郎」とあるから、明治6年2月より先行している。この文字馬頭は日記と異なる。「馬待ち」が立つ程だから、木像ではないか、と推測する。
 次は4丁目の高徳寺に行き、参道沿いにある
   13 明治41 板石型 「庚 申」                142×72を見る。正面に「庚申」と「六十五翁南他に老人筆」の書家銘、下に、「宿」と「谷」の印を刻む。裏面上部に横書きで「古武士」、続けて縦書きで「講中」と記す。その下に3段に氏名が刻まれている。上段は「宿谷源次郎」など7人、中段が「宿谷嘉助」など8人、下段は「世話人」と横書きがあって「宿谷磯吉」など6人の氏名である。また隅に「毎時四十一年十一月建之」の年銘がある。
 続いて同丁・宿谷宅角の旧道路傍に自然石の台石の上に
   14 明治33 柱状型 「庚 申」                43×20×12がある。14は正面に「庚申」の主銘、右側面に「明治三十三年十一月」の年銘、左側面に「宿谷氏」の施主銘がみられる。
 岩蔵の交差点を右折し、儘田屋前にある温泉神社に寄ると、横に丸彫りの布袋が立っている。岩蔵街道を南下すると、交差点近くの1丁目の小布市路傍に
   15 安永4 笠付型 「庚申塔」                76×29×28がある。15は正面「庚申塔」、右側面に「左/上成木/黒澤/道」、左側面に「安永四年未五月新成立/天保十五年辰七月再修/小布市庭場中」の銘である。
 『市川家日記』の明治10年の記事(177頁)には
   一、当年三月の触に道ふちに在候地蔵、庚申の類は寺或は堂の地中へ引事、宮の類は村社の地
     中へ寄可申の触に候。依て所々村々にて是を引候也。と記されている。
 南小曽木村(現・青梅市小曽木)には、現在次の庚申塔がみられる。
   1 安永4 柱状型 「庚申塔」           1丁目 小布市路傍
   2 明治33 柱状型 「庚 申」           4丁目 宿谷宅角路傍
   3 明治41 板石型 「庚 申」           4丁目 高徳寺入口
   4 年不明 自然石 「青面金剛」(道標銘)     1丁目 立正佼成会
   5 年不明 自然石 「ウーン 庚申塔」         3丁目 福昌寺入口
 4は現在立正佼成会の地内へ移されているが、道路工事の際に出土したもので江戸時代の塔と推測できる。5も恐らく江戸末期の造塔だろう。推測の年不明塔2基を含め、江戸期の塔は1・4・5の3基、この中の2基までが路傍に立っていたことは、日記に記録さている明治10年3月の「触」は、実際にはずべての庚申塔が寺や堂の地内へ引き込まれていなかったことを示している。
 安永4年庚申塔の隣には「馬頭観世音」の柱状型塔( 119×45×45cm)がある。裏の海蔵院に「禁葷酒」を台石に刻む享和元年塔がある。この上の如意輪観音丸彫り像は、顎の下に手を置き、普通みられる頬の手と異なる。
 小曽木にはもう1基、次の庚申塔があるが
   参 年不明 自然石 「青面金剛」(道標銘)     1丁目 立正佼成会現在は入口にはなく、どこか立正佼成会の地内へ移されている。この塔は正面に「青面金剛」、その下に小さく「小布市」、その右に「右八王子」とあるが、道標銘が潰されている。左の「左江戸道」は潰されずに残っている。先にふれたように道路工事の際に出土したもの、江戸時代の塔と推測される。
 小曽木から木野下へ出て、木野下へ寄る。鳥居前の参道沿いに
   16 元禄10 光背型 日月・青面金剛・3猿           85×34がある。頂部には「卍」、中央に上方手に矛と蛇を執る合掌6手像(像高38cm)、下に3猿(像高12cm)、底部に「石井次郎兵衛」など17人の施主銘を刻む。主尊の右に「元禄十丁丑年/奉造立光線石像1基」、左に「十月吉日/武州多摩郡目之内村」と記す。
 神社前の裏通りを谷野へ向かって進むと、多くの石灯籠がある。表通りに出ると、石屋の在庫が置いてある。通り際には1石に舟上の七福神を浮彫りする自然石(92×82cm)があり、奥に石蛙に混じって3不型の丸彫り3体、灯籠の手前に小さな双体道祖神(34×26cm 像高15cm)がある。思わぬ場所で双体道祖神に会う。
 谷野に入り、真浄寺を訪ねる。門前には丸彫りの六地蔵があり、前に立つ「奉」と刻む角柱の左側面に「一、九九一年八月吉日」の西暦の造立年を記している。墓地の入口には、文政11年の一石六地蔵があり、新しい花が供えられている。
 この寺に寄った最大の理由は七夜待本尊をみるためである。少し高い台石の上に聖観音が中央にあり、左右に3体ずつの立像が配されている。聖観音の台石正面には「奉讀誦普門品供養」、左側面に「寛政十二年庚申七月建焉」の年銘がある。他の6体は文化11年の造立である。
 谷野から大門を経て野上に出る。自治会館前の
   17 寛政6 柱状型 「ウーン 庚申塔」3猿(台石)        92×36×37をみる。17の3猿(像高17cm)は台石正面に浮彫りされる。
 野上から師岡町を経由、東青梅6丁目・光明寺の天保5年文字庚申を素通りし、勝沼から青梅線沿いに1の塔の前を通る。西分を経て、住江町・住吉神社前の猿田彦塔を無視して帰宅する。
           〔初出〕『せこ道』VOL6(山地民俗関東フォーラム 平成17年刊)所収
川越市街地庚申塔巡り

 平成17年4月23日(土曜日)は川越市立博物館を訪ねる。会期は3月26日から5月8日まで企画展「民間信仰のかたち─地域と講─」が開催されている。多摩石仏の会写真展の初日、4月14日(木曜日)に来場されたさいたま市の吉野忠夫さんがこの展示のチラシを持ってきていただいた。
 この日は妻とバスツアーで高山山王祭へ行っていて、吉野さんにお会いできなかった。他の資料と共に封筒に入れて当日の係に手渡され、18日の午後に私が写真展へ出た時に受け取った。多摩地方では、意外に埼玉の催事の情報は入手しがたい。
 初め企画展のチラシをみた時は、表の上部に「信濃國御嶽山明細全圖」、裏面の上部に「富士山北口全圖」が大きく入っていたので、山岳信仰を扱った企画展かと思った。ところが裏面の「開催にあたって」を読むと、山岳信仰を中心に展示構成が(1)民間信仰と板碑、(2)月待供養塔と庚申塔、(3)社寺参詣と代参講、(4)地域社会と講となっている。庚申塔が扱われているから見逃せないと出掛けたわけでる。
 入館の時に手渡されるパンフレットには、2頁に月待板碑2基・夜念佛板碑1基、3頁に庚申塔6基・日待供養塔1基・月待供養塔1基の8葉の写真が載っている。裏表紙には展示資料の目録があり、庚申講の掛軸・賽銭箱・写真が含まれているのがわかる。
 企画展の部屋へ入ると、右手に庚申塔の拓本や庚申塔などの分布地図が貼られている。この面の展示で興味があったのが「田町の庚申様」の写真である。祠の中には元禄の青面金剛と享保の3猿塔が安置されているが、ノボリには「卍 猿田尊」と記されている。
 正面に板碑の実物展示があり、右端に観音像の写真がある。川越市内にも庚申銘がある木像があるのかと思ったら、狭山市柏原・円光寺蔵の元亀3年聖観音立像で、正面全身と背面銘の写真である。
 板碑は嘉吉元年から文明17年までの断碑を含めた月待板碑5基と文明年間の夜念佛板碑1基、断碑で不明な1基を除いて弥陀三尊種子を主尊とする。浦和の勢至菩薩板碑のような主尊の刻像はみられない。
 拓本などの反対側には、裏側を含めて庚申塔48基・月待供養塔3基・日待供養塔3基の写真が並んでいる。中に鴨田や老袋、笠幡などの如意輪観音や聖観音、古谷本郷の万歳型8手青面金剛が含まれている。古谷上・蔵根端手前にある元文5年青面金剛は合掌6手像、下方手左に後ろ向きの人身を下げているのが珍しい。
 講の展示の中に庚申講があり、中菅間地区の掛軸と写真がみられる。掛軸は猿田彦大神を墨で描くもので、右下に明治36年を示す「明治癸卯年正月十五庚申日」の年銘が記されている。図録によると、現在も「新井方」と呼ばれる10軒が持ち廻りの宿で、年1回宿の都合のよい日に講を続けているとある。写真から女性の講であるのうかがえる。
 企画展だけではつまらいので、次いで市街地の庚申塔巡りを行う。コースは最初に宮元町・妙義神社を訪ね、以下、石原町・観音寺〜連雀町・連馨寺〜小仙波・喜多院斉霊殿墓地〜大仙波・長徳寺である。
 最初に訪ねたのが宮元町の妙義神社、本殿の左の木祠の中に次の2基が並んでいる。
   1 寛文11 笠付型 「バク奉造立庚申山王二十一社…」2鶏・3猿 80×29×26
   2 文政10 駒 型 *日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    69×31×20
 1は正面に「バク奉造立庚申山王二/十一社大權現諸檀/二世安樂處」、下部に正向型3猿(像高13cm)と2鶏の陽刻がある。右側面に「武州入間郡山田庄河越里五加村/大河内傳兵衛(等3人の施主銘)」、左側面に「寛文十一辛衣三月吉日/大室市右門(等3人の施主銘)」の銘が刻まれている。
 2は持物の1部が破損している合掌6手像(像高47cm)、下部に変則的な3猿(像高10cm)を浮彫りする。右側面に「奉造立庚申尊紙/願主 岸田屋吉兵衛/同捨蔵」、左側面に「文政十丁亥年春3月吉日/長久山照善院第廾七世法印□□」とある。
 妙義神社から新河岸川北岸に出て川沿いを逆上る。次いで石原町の観音寺を訪ねる。ここには石原獅子舞の度に寄っている。前回の平成12年4月16日(日)に境内にある次の庚申塔をみた時には、現在地とは異なる。境内の整備に伴って石佛が1列に集められている。
   3 寛文13 板碑型 「奉勧請 山王七社大權現」3猿      101×44
 3は上部に弥陀3尊種子を刻み、中央に「奉勧請 山王七社大權現」、右に「庚申待供養 寛文十三癸丑天」、左に「爲二世安樂 三月吉日」、右縁に「武州入間郡川越高澤 結衆」、左縁に「本願
 桐谷五兵衛 敬白」、正向型3猿(計測忘れ)の下に「秋□四良兵衛(等12人の施主銘)」が彫られている。
 1の寛文11年塔は「山王二十一社」、3の寛文13年塔は「山王七社」と山王庚申塔の主銘に違いがみられる。塔形も前者が笠付型、後者が板碑型と異なる。
 観音寺から菓子屋横町を経て連雀町の連馨寺へ向かう。川越最古の庚申塔は、この寺の墓地にある。次の塔の前には墓域の区画を示す縄が貼られている。いずれ墓越しに庚申塔をみるのか、塔の向きを変えないと墓が邪魔をする。
   4 承応3 板碑型 「キリーク 奉建立庚申御寳前逆修菩提」2猿 128×51
 4は中央に「キリーク 奉建立庚申御寳前逆修菩提也」の主銘、その右に「承應三甲午歳 施主」、左に「十月日 敬白」、左右に3人2段の施主銘が刻まれている。底部に顔面が掛けた正面向きの2猿(計測忘れ)が浮彫りされている。塔は3折したのを継いでいる。
 幸町の薬師神社に次の庚申塔があるが、今回は省略する。平成11年1月10日(日)の庚申懇話会に芦田正次郎さんの案内で「小江戸川越七福神」お廻った時の記録に
    希望者は、菓子屋横町を経て時の鐘を見学する。鐘の背後にある薬師神社の一角に
     2 明治28 自然石 日月「青面金剛」3猿           137×13
   が建っている。上部には日月・瑞雲が陰刻され、中央に「青面金剛」、下部に三猿(像高12cm
   )が線彫りされている。裏面には、長い銘文がみられる。と記録されている。
 連馨寺から次の小仙波の喜多院を訪ね、斉霊殿墓地の所在地を聞く。山門を出て真っ直ぐに進めば右手に斉霊殿があり、裏が墓地になっている。前回の記録に「午前中が二ヵ寺だったので、時間の関係で小仙波・閻魔堂墓地にある延宝9年塔と文化8年塔の2基の庚申塔は省略して、直接、裏通りを選んで喜多院(天台宗 小仙波町1−20−1)に向かう」と記されいる。「閻魔堂墓地」は実は「斉霊殿墓地」だったのである。
 墓地を1巡したが庚申塔が見つからない。たまたま草取りをしている方がおられたので、尋ねてみると「庚申塚」なら近くにある史跡の墓の裏と教えていただいた。
   5 文化8 柱状型 「庚申塔」                52×23×18である。正面が主銘の「庚申塔」、右側面に「文化八辛未年十一月吉日」、左側面に「岩澤角治郎/建之」の銘文がみられる。
 この墓地にはもう1基あるはずなので、再度尋ねるが不明である。図録の写真をみると塔婆に「金子」姓が記されているので、古くからある金子さんのお墓に案内していただくと、墓の裏側に次の庚申塔がある。
   6 延宝9 駒 型 「奉請演庚申待三年十八度成就也」3猿   61×24×16
 6は頂部に「アウーンク」の種子、その下に「奉請演庚申待三年十八度成就也」、右に「延宝九辛酉九月吉祥日 敬白」、左に「因茲爲新塔一基建立二世安樂記」、下部に枠を作って中に正向型3猿(像高10cm)を浮彫りする。
 墓地から大仙波の長徳寺へ向かう。途中で出会った自転車に乗った方が親切に道案内していただいたお陰で寺の裏門につく。裏から入ったのでわからなかっが、表に出ると平成11年の庚申懇話会で寄った寺である。前回の記録は次の通り。
    食後の最初は仙波町にある川越観音の長徳寺、道路に面したところに
     1 年不明 台 石 三猿                 25×45×45
   がある。三猿(像高14cm)は台石に刻まれている。上には石祠があるが、台石との関係がハッ
   キリしない。
 川越観音の床下に枠付きの窓があり、その中に次の3猿台石が置かれている。
   7 年不明 台 石 3猿                   22×45×50がある。正向型3猿(像高14cm)を浮彫りした台石のみである。図録『民間信仰のかたち─地域と講─』(川越市立博物館 平成17年刊)9頁の「年代順庚申塔一覧」には、「享保二年正月吉祥日」と記されている。
 この川越観音を最後に西武新宿線の本川越駅に向かう。
星竹の石仏再訪

 平成17年6月8日(水曜日)はあきる野市戸倉・星竹を訪ねる。14年1月10日(木)に『儀三郎日記』(あきる野市教育委員会 平成10年刊)と『同(2)』(同会 平成13年刊)の2冊の記述を追い、星竹の実地で日記と記された石造物を対照した石佛探訪を行なった。この時の記録は、日本石仏協会の会誌『日本の石仏』第102号(平成14年刊)に「日記を追う石仏探訪」の題名で発表した。
 今回はその後に発行された『儀三郎日記(3)』(平成15年刊)と『同(4)』(平成15年刊)の2冊を踏まえ、星竹を再訪する。今回の主な狙いは新たな2冊に関し、日記に記述さている普光寺の釣鐘や儀三郎の墓石と墓地、それに戸倉家の地蔵を実地で見学することである。
 文中で煩雑になるので『儀三郎日記』を「A」、『同(2)』を「B」、『同(3)』を「C」、『同(4)』を「D」と略称し、出典の場合は頁数の前に付す。
 JR武蔵五日市駅から数馬行き午前9時50分発の西東京バスに乗車、星竹に近い「西戸倉」で下車する。星竹橋の手前には明治16年造立の「地蔵尊」塔がある。自然石(91×53cm)の正面に「地蔵尊」とある文字塔、裏面に「明治十六年未二月」の年銘と「戸倉/西坂下/盆堀」と3行を横にに並べ、下に「女念佛講中」とある。その下に右横書きで「世話人」、さらに下に「土士田嘉右衛門/私市八百吉/内倉傳吉/来住野孫右エ門」の4行を彫る。
 この地蔵に関して『C』には 次のような記述がみられる。
   明治15年10月27日 日暮に三内石屋へ行 地蔵尊金五円ニテ頼む(C158頁)
明治16年3月18日 村人足地蔵尊(*7)取ニ行(C172頁)
   (*7)地蔵尊 川石に文字を刻んだもの。現在星竹橋南にあり明治十六年未二月の銘がある
   明治16年3月23日 今日皆々地蔵尊ニ付儀三郎宅ニテ餅搗仕候(C同頁)
   明治16年3月24日 今日地蔵尊供養 女人其外なげ(投)餅 後徳雲庵頼(たのみ)供養ス
            寺ニテ酒飯馳走ス(C同頁)
   明治16年3月25日 地蔵尊勘定ニ女〔ム シ〕(C同頁)
 造立の前年10月に三内に石工に地蔵を依頼し、翌年3月に石屋へ地蔵尊を取りに行き、開眼供養の前日に儀三郎宅で餅搗きを行なっている。供養の日取りは、地蔵の縁日である24日を選んでいる。不思議に思うのは「明治十六年未二月」の年銘で、日記には引取が3月になってからで、24日に開眼供養を行なっている。予定では塔にある「二月」のはずが、石工の遅れで3月に延びたものであろうか。
 本来ならば、地元にある普光寺の住職が開眼供養を行なうが、この時期は普光寺が廃寺となっている。そこで代わりに日記にあるように徳雲庵に頼んでいる。この庵は星竹に近いあきる野市乙津・落合にある臨済宗の寺、現在の徳雲院である。この寺について『新編武蔵風土記稿』に次のように記されている。
   徳雲庵 除地、一畝二十一歩、村の東の方にあり、禪宗臨濟派 これも光嚴寺末、龍化山と號
   す、開山雲英禪師弘治三年十二月十四日寂す、本尊薬師木の坐像、長三寸八分、客殿六間に四
   間なり、
 廃寺になった普光寺は本寺が光厳寺、徳雲庵も光厳寺の末寺で同系統の寺である。儀三郎は明治16年14日の日記に「今日徳雲庵年始」(C165頁)と記しており、こうした付き合いがあるところから開眼供養を依頼したのかもしれない。
 星竹橋を渡るとY字路になっている。右の坂を登ると路傍に3基の石塔が並んでいる。その中の1基が二十三夜塔で、両脇に自然石の文字馬頭が立つ。
 三夜塔は自然石( 111×76cm)を用い、表面の中央に主銘の「廾三夜」、その右に「明治九年/丙子四月」、左下に「女念佛講中」と刻まれている。裏面の下部に「黒山儀三郎/田中銀蔵」とあって、銀蔵の名の次に小さい字で「石工同人」と彫る。
 この三夜塔も『B』に記録され、関係記事を抜き出すと次の通り。
   明治9年1月17日 今日廿三夜供養塔(*3)引取ニ兵二郎行(B282頁)
    (*3)廿三夜供養塔 後に儀三郎が普光寺門前に建てる。
   明治9年3月26日 今日儀三郎五日市柴野氏(*14)迄行 廿三夜塔ニ付頼ミ(B287頁)
    (*14)柴野氏 柴野俊策、五日市に塾を開いていた漢学者。二十三夜塔の揮毫を依頼した
   明治9年3月31日 今日廿三夜塔柴野様書(B288頁)
   明治9年4月19日 今日儀三郎廿三夜(*16)へ朱ヲ入申候(B289頁)
    (*16)二十三夜塔 現在普光寺入口にある。自然石高サ110 幅75センチ。銘、明治
            九年丙子四月 女念仏講中 世話人黒山儀三郎 田中銀蔵 石工同人。
   明治9年4月20日 午後四時頃より又廿三夜へ朱ヲ入申候(B同頁)
   明治9年4月23日 今日廿三夜塔供養 村方〔男女〕一同寄 今夜の地(馳)走ニ懸リ 宿寺
            向(B同頁)
   明治9年4月24日 今朝寺向行 廿三夜勘定仕(B同頁)
 文中にある「寺向」は世話人の1人・田中銀蔵の家名、銀蔵が石工を兼ねている。これから判断すると、兵二郎が引取に行ったのは石屋ではなく、自然石と考えられる。柴野俊策に書を頼み、それを用いて儀三郎が石に朱を入れ、銀蔵が彫ったものか。
 参考までに二十三夜に関する記事は、次の通りである。
   明治2年4月17日 相原より廿三夜勧化ニ来ル(B56頁)
   明治7年6月6日 午後四時頃廿三夜供養(*25)〔虫食い〕川へ直吉殿ト行候(B56頁)
    (*25)廿三夜供養 陰暦廿三夜の月待供養。
 なお明治7年は新暦の採用後で6月6日は旧暦4月22日に当たる。「川へ直吉殿ト行候」の前が虫食いで不明であるが、9年1月に兵二郎が引き取った三夜塔の石を探しに行ったとも受け取れる。
 この三夜塔の両隣には、2基の自然石文字馬頭が立つ。一方(右横)は「馬頭觀世音」の主銘を刻んだ塔(71×30cm)、主銘右に「天保十四卯(異体字)年/田中氏」とある。他方(左横)も同じ主銘「馬頭觀世音」の塔(73×46cm)、右に「明治三十一戊戌」、左に「十一月十五日/田中銀蔵建之」と彫る。この銀蔵は前記の三夜塔に名がある。
 次いで臨済宗建長寺派の普光寺を訪ねる。現在の住職は光厳寺の兼務、金嶽哲宗師である。石段を登って右を向かうと鐘楼があり、以前の梵鐘は戦時に供出されて現存せず、現在は「平成元年秋彼岸」の銘を鋳る梵鐘が下がっている。今回の再訪の目的の1つは梵鐘の確認にある。前の梵鐘の記録が『D』に次のように載っている。
   明治22年3月4日 阿波屋へ釣鐘(*12)六十貫目ニ誂、代金百七十円也 壱貫目弍円八十三
            銭三厘 日暮ニ帰り(D29頁)
    (*12)釣鐘 普光寺用
   同年  4月1日 今日儀三郎釣鐘地形(ぢぎょう)始メニ出る(D32頁)
   同年  4月20日 今日八王子へ釣鐘鋳見ニ皆々行兵二郎も行(D34頁)
   同年  4月25日 今日八王子へ入は(歯)取ニ行 并ニ八幡町阿波屋へ釣鐘名(銘)彫刻に
            寄り(D35頁)
   同年  5月2日 今月釣鐘引取(D同頁)
   同年  5月5日 夜寺ニ釣鐘寄合有(D36頁
   同年  5月6日 今日儀三郎寺向ヘ餅搗(釣鐘供養)ニ行(D同頁)
   同年  5月7日 普光寺へ行鐘供養仕度仕候(D同頁)
   同年  5月8日 今日鐘供養皆々行儀三郎外三人 夜中供養に懸リ(D同頁)
   同年  5月9日 儀三郎・伍助・太郎吉三人寺へ行供養跡方付(D同頁)
 以上のように、前の普光寺梵鐘の注文から始まり、鐘銘の彫刻や梵鐘の引き取り、梵鐘供養の段取りや梵鐘供養の跡片付けが終わる迄を克明に記している。
 星竹再訪の後に八王子まで行き、八幡町の阿波屋金物店を訪ねる。今年4月10日(日)に八王子市美山町の獅子舞を見学に行った時、美山町へ向かう西東京バスの車窓から、偶然であるが八幡町の「阿波屋金物店」の看板が眼に入ったのが記憶にあった。そこでお店にうかがったわけである。
 店内い入り、レジの脇にいた方に聞いたところ、現在の金物店の業態になったのは戦後のことで、以前は農機具などを扱っていたそうである。古くからの店であることは間違いなく、現在は9階建てのビルになっている。ただ気になるのは「阿波屋」という店が他にもあった、と聞いた点である。話の途中でお客さんが来たので、商売の邪魔になってはと思い、それ以上は聞かなかった。八王子の明治時代の商店を調査する必要がある。
 本堂の右手にある覆屋の下には丸彫りの地蔵立像(像高57cm)が6体が並んでいる。六地蔵の持物は、右からそれぞれ合掌、錫杖と宝珠、数珠、香炉、幡幢、宝珠を持つ地蔵である。右端にある合掌地蔵の台石(26×20×18cm)の右側面に「念佛講中」の施主銘、左端から2番目にある幡幢を執る地蔵の台石の右側面に「慶應元丑年/九月如意日」の年銘を刻む。
 この六地蔵については『A』に次の記事がみられる。
   慶応1年4月晦日 夜小十郎殿六地蔵咄しニ来ル(A218頁)
   慶応1年5月29日 母横沢迄六地蔵尊見ニ行(A221頁)
   慶応1年8月19日 朝六地蔵引取ニ村方一同行(A233頁)
   慶応2年1月28日 夜村方六地蔵尊咄し合有(A248頁)
   慶応2年1月29日 六地蔵尊土台くり切り申候(A同頁)
   慶応2年1月晦日 今日六地蔵尊石垣始メル(A同頁)
   慶応2年2月3日 儀三郎六地蔵尊上家拵手伝い行申候(A249頁)
   慶応2年2月5日 六地蔵(*5)尊開げんニ御座候 村中一統立合場所ニテ酒振舞 寺ニテ
            供養振舞仕候(A同頁)
    (*5)六地蔵 普光寺の六地蔵は現存する。銘に「慶応元丑年九月如意日 念仏講中」と
            ある。
   慶応2年2月26日 六地蔵尊勘定仕候(A251頁)
 前記の「地蔵尊」文字塔が24日の地蔵の縁日に開眼を行なっているのに対し、普光寺の六地蔵は5日が開眼である。また虫食いで「地蔵尊勘定ニ女」としかわからない明治文字塔と同様に、26日「六地蔵尊勘定」も造立に要した費用にふれていない。
前回の時に墓地の入口左手にある日記の筆者・儀三郎の彰徳碑をみている。板石型石碑( 129×98cm)の上部に右横書きで「彰徳碑」、その下に「翁諱義文通稱儀三郎姓黒山家云々」の長文が誌されている。明治33年5月の造立。廃佛棄釈後にトラブルがあって普光寺が一時廃寺されたのを再興した功績が認められ、彰徳碑が建ったのである。
 墓地の最上段、開山塔がある寺の墓地の隣に黒山家の墓地がある。宝筐印塔の隣に儀三郎夫妻の墓塔が建つ。正面に「普照院太陽儀光居士」の儀三郎と「光浄院法月轉輪大姉」の妻りんの2人の戒名を並べ、右側面に2人の命日・名前・享年、左側面に「昭和十七年三月吉日」と施主の孫・儀兵衛の氏名がみられる。この墓地の改造により、墓石を新造して以前の儀三郎の墓石が失われた。
 普光寺より道を戻って先へ進むと、寺向の田中家(田中雅夫・あきる野市長の家)の前に出る。路傍の1段高い場所には、石燈籠と自然石塔2基が並んでいる。石燈籠と「百万遍供養塔」は『B』に記されている。右端にある石燈籠は、竿石の正面に「奉納 御□□」、右側面に「神明宮/8幡大神/今熊宮」、左側面に「阿夫利大神/御嶽山/不動明王」、裏面に「明治四辛未/十一月日」の銘がみられる。台石正面には、横書きで「田中」とある。この石燈籠に関する記事は次の通りである。
  明治4年11月7日 昼より寺向の燈籠(*56)かつぎに行申候(B146頁)
   (*56)寺向の燈籠 田中家玄関前に現存する。明治4辛未11月の銘入。(B同頁)
  同年  11月14日 今日寺向へ供養ニ行(B同頁)
  同年  11月15日 昼より寺向へ供養ニ行 夜寺向ニ女衆供養念仏有り母行(B同頁)
  同年  11月16日 夜寺向ニ供養仕舞 若衆へ1同へ酒地走有(B同頁)
 石燈籠の隣に立つ自然石塔( 119×50cm)は、中央に「百万遍供養塔」の主銘、右に造立年銘の「明治四辛未十一月日」、左下に「施主 田中銀蔵」の銘が刻まれている。日記には、この塔について次のように記している。
   明治4年10月19日 百万遍供養書一日掛り
   同年 10月28日 寺向へ供養塔朱入ニ行
 銀蔵に頼まれて儀三郎が主銘などを書き、三夜塔にみられるように、主銘などを銀蔵が彫りやすくするために儀三郎が朱で輪郭を写した朱入れをしたと考えられる。
 百万遍供養塔については、供養について全くふれていない。この供養塔の後1か月足らずの内に前記の石灯籠を造立しているから、燈籠と供養塔の供養を併せて11月に行なったのであろう。両者共に寺向個人の造立と思われるから、儀三郎が関わった事柄を記すに止まり、供養の導師などの明細については1切不明である。
 この供養塔塔の左隣には、明治3年3月造立の「馬頭觀世音」自然石文字塔(73×43cm)がある。施主は田中銀蔵である。この文字馬頭については『B』に記されていない。
 大回りして「せせらぎ通り」に出て神明社を訪ねる。ここには昭和38、9年頃に庚申塔調査で来たのが最初、平成なって境内で演じられた獅子舞を見学した。
 鳥居の後ろには、石段を挟んで庚申塔2基がある。右にある1基は笠付型塔(75×28×24cm)、下方手に索と蛇を執る合掌6手の青面金剛立像(像高38cm)を主尊、下部に3猿(像高7cm)浮彫りする。右側面に「武州多摩郡小宮領星嶽/願主/善男善女等」、左側面に「延享四丁卯七月十六日」と刻む。
 左にある1基は自然石の表面中央に大きく「庚申塔」の主銘、その右に小さく「安政七年庚申秋」、左下に「講中」、裏面に「世話人/黒山忠蔵」と刻まれている。塔の年銘には「安政7年庚申秋」とあるが、この年の3月18日に「万延」と改元されているので、正確には「万延元年庚申秋」となる。後述の日記によると安政6年11月に石屋が仕事を始めているから、改元前に年銘を刻んだと考えられる。
 この塔に関係して『A』には、次のように記している。
   安政6年11月6日 朝庚申塔(*24)〔ムシ〕より引取 石屋に金三分ニテ渡ス(A34頁)
    (*24)庚申塔 神明社に現存。(後出)
   同年 11月11日 石屋庚申塔始 長老様(*27)出(A同頁)
    (*27)長老様 光厳寺住職で普光寺に隠居している。黒山家は普光寺檀家総代。
   万延1年8月21日 庚講(おかのえ)日待ニ参(A46頁)
   同年 11月2日 庚申塔(*76)供養致ス 庚申石垣不残スル 長老様(*77)開げん(A
            46頁)
    (*76)庚申塔 現存、銘に「安政七年庚申、秋、講中世話人黒山忠蔵」とある。昨年作成
            今年開眼披露。
    (*77)長老様 光厳寺隠居、普光寺住
 参考までにあきる野市乙津では、庚申講を「おかのえこう」と呼んでおり、同地の庚申講を調査した時に「庚申講」と聞いたら通じなかった経験がある。
 神明社の境内へ入ると、左手にある覆屋根の下に手水鉢が置かれている。手洗鉢は自然石(56×83cm)を用い、正面に右横書きで「奉納」、裏面に「安政六己未歳/十一月吉日/氏子中/世話人/山下惣八」と銘が刻まれている。これは、手水鉢の形に従って上部を3角形(最大内法幅50cm 最大奥行39cm)に彫り下げる珍しい形状である。
 『A』には庚申塔以外に、この手水鉢にふれている。
   安政6年10月19日 信州石やちょうず(*8)(A33頁)
    (*8)ちょうず 手洗鉢のこと、星竹神明社に奉納する(後出)
   安政6年12月朔日 森(*35)ちょうずばちすえる(A35頁)
    (*35)森 神明社のこと、この手洗鉢現存。
 つまり、信州の石屋(高遠の石工か)が手水鉢を造り、神明社に据えられた経過がうかがえる。この日記の記事からみると、第1に多摩地方が信州石工の活動範囲内にあったこと、第2に銘文に「信州」の文字がないからといって、必ずしも地元の石工が造ったとは限らないこと、の2点を示唆している。
 最後に星竹でみた石佛は、日記の筆者・儀三郎の黒山家前にある木祠に安置された地蔵丸彫り坐像(38×29cm)である。地蔵は左手に宝珠を持ち、右手の指を広げて膝の上に置く。台石正面に「明治十六癸未年/三界万霊塔/三月吉日」、右側面に「當村/女念佛講中」とある。
 前回はこの地蔵というか三界万霊塔を見逃していた。台石の年銘をみると明治16年3月で、日記の3月と合致する。再度、星竹橋の「地蔵尊」塔の時に記した日記を示すと
   明治15年10月27日 日暮に三内石屋へ行 地蔵尊金五円ニテ頼む(C158頁)
明治16年3月18日 村人足地蔵尊取ニ行(C172頁)
   明治16年3月23日 今日皆々地蔵尊ニ付儀三郎宅ニテ餅搗仕候(C同頁)
   明治16年3月24日 今日地蔵尊供養 女人其外なげ(投)餅 後徳雲庵頼(たのみ)供養ス
            寺ニテ酒飯馳走ス(C同頁)
   明治16年3月25日 地蔵尊勘定ニ女〔ム シ〕(C同頁)の通りである。この塔は「三界万霊塔」であるが地蔵坐像である。先の文字塔に刻まれた地名は「戸倉/西坂下/盆堀」の3か所であり、世話人が「土士田嘉右衛門/私市八百吉/内倉傳吉/来住野孫右エ門」の4人である。
 地名に「星竹」がなく、世話人に星竹の石佛に刻まれた黒山・田中・山下の名がみられない点をみると、台石年銘の合致から考えても、この3界万霊塔を「地蔵尊」と記録したのではないかと思うようになる。自然石に文字を彫るの異なり、地蔵の丸彫り坐像を仕上げるにはそれなりの日数が掛かるはずである。注文から5か月近く経ってから引き取っている点も文字塔でなく、刻像塔の方が納得がいく。
 星竹から歩いて戸倉・本郷へ出る。先ず,アートスタジオ五日市(旧・戸倉村役場)の北横にある「聖徳太子」塔( 167× 107)と「道祖神」塔(75×60)をみる。共に自然石の文字塔である。前者は正面に隷書体で「聖徳太子」、右側に「武州多摩郡/戸倉村」、左側に「明治九丙子年/三月二十二日/横沢村/石工/田野倉藤兵衛」とあり、台石正面に右横書きで「杣連中」と刻む。後者は「道祖神」の主銘に右に「文化8年」、左に「未正月吉日」と彫る。
 儀三郎は元締めだから杣と付き合いがあるから、この「聖徳太子」塔にふれていないかと日記を探したが見当たらない。この塔が建った年の日記には、僅かに
   明治9年1月22日 兵二郎太子構(講)ニテ東おねへ行(B283頁)
   同年  1月24日 兵二郎今日迄太子構(講)ニテ遊び申候(B同頁)の太子講の記録がみられる程度である。
 戸倉で次に訪ねたのが戸倉家である。大桜通りで出会ったご婦人に所在を聞き、農協の南隣にある戸倉家へ行く。旧道の通りから奥にある玄関手前の左に「能化堂」の額が掛かる地蔵堂があり、中に地蔵の半跏像が安置されている。
 奥さんに堂の鍵を開けていただき、堂内をみると棟札が3枚みられ、最も新しいのは平成5年で、他に文久2年の木札と文字が判読できない小型のものがある。地蔵には耳だれ平癒のお礼に奉納された穴開き石がある。
 本尊の地蔵菩薩は厚肉彫りの半跏像(像高38cm)、長年堂内におかれたために赤などの彩色が残っている。ご当主の弘さんに地蔵を動かしていただき、背面に記された銘文を拝見する。銘文は文字に墨が入っており、6行にわたり「□里正戸倉郷左衛門源定□/戸倉山子育延命地蔵大菩薩/尊像者爲子孫永續長壽再興/武蔵國多摩郡秋留郷戸倉邑/邑長戸倉者源定保/文久二年壬戌秋九月吉旦」と彫られている。
 この地蔵を訪ねた目的は『A』に地蔵に関する記事が
  文久2年8月晦日  夜東お祢貫番 戸くら村地蔵勧化(A111頁)
  文久2年閏8月5日 夜村喜兵衛殿戸くら地蔵勧化百文渡ス(A112頁)と載っているからである。
 弘さんの話によると庭にあったお堂を道路沿いに移し、さらに現在の家を新築する際に現在地へ移転したそうである。文字が読める棟札の「維時文久二壬戌歳十一月吉日」に最初のお堂はが造られ、現在文字が判読できない棟札から判断しても1度改築されちる。この改築のお堂は最初のお堂より一廻り小さくなり、この大きさで棟札に「維時平成五癸酉年八月二十四日」にある現在のお堂が再建されている。
 地蔵堂の隣に2基の石祠がある。1基は稲荷、他は水神を祀る。ここで面白かったのは初午に地口行灯、上部に「奉納」の横書き、下に左手に錫杖、右手で電話機を耳に当てる地蔵を描き、左脇に「地蔵電話」と記す。「自動電話」の地口である右側面に「正一位稲荷/大明神/戸倉家」とある。
 戸倉家を辞してバスに乗ろうと思ったが、生憎と20分以上の待ち時間がある。それならばと歩いて五日市の玉林寺へ向かう。
 玉林寺は多田治昭さんの案内で一昨年4月20日(日)に多摩石仏の会で訪ねている。裏から入ったから先に本堂裏にある33体観音丸彫像をみて、次いで青面金剛(像高43cm)の享保2年笠付型刻像塔(97×43×39cm)、本堂前にある苦行釈迦如来像を廻る。本堂と参道を挟んで「閻魔」の額が掛かる十王堂があるのに気付き、中を覗くと木造の十王坐像が3段に並んでいる。
 玉林寺から阿伎留神社へ出て6角神輿を窓越しにみて、東町観音堂に寄る。境内には明和3年の「庚申塔」自然石塔(93×44cm)と年不明の青面金剛(像高40cm)を浮彫りする光背型塔(75×42cm)がある。青面金剛は以前みた通り横に倒れている。
 東町観音堂からJR武蔵五日市駅へ向かい、午后1時45分発の京王八王子駅行の西東京バスに乗り、「本郷横町」のバス停で下車する。先述の八幡町の阿波屋金物店に寄ってから、JR八高線経由で帰途につく。
 戸倉の小字の一つである「星竹」という狭い地域内に、安政6年から明治41年までの限られた年代ながら『儀三郎日記』により、石佛造立の当時の事情が少しでも明らかになった。地元の寺(普光寺)が廃寺のために同系の寺院(徳雲庵)の僧が地蔵の開眼供養を行なったり、地元の三内の石屋の他に信州の石屋が仕事をしたり、菩提寺の僧侶が庚申塔の開眼供養に関わったりしている。また二十三夜塔の主銘の書を漢学者に依頼したように、とても石佛の銘文からはうかがえない事柄が日記に記されている。
 日記が石佛を通して結びついてくると、それまで造塔の事情がわかって面白い。『儀三郎日記』のような事例は、そうそうあるわけではないにしても、石佛が日記や古文書の記事で裏付けられると嬉しくなってくる。
神奈川の五神名地神塔

 平成17年6月12日(日曜日)は多摩石仏の会6月例会、喜井晢夫さんのコース案内で足立区内を廻る。集合場所の東武伊勢崎線竹ノ塚駅へ先に来ていた横浜の森永五郎さんから、先月29日(日)に行なわれた日本石仏協会の相模原見学会で約束した五神名地神塔の写真3葉をいただく。
 先日の協会の相模原見学会でみた五神名地神塔は1基、当日の記録に次のようにある。
    午前の最後は山の神社(大山祗神社)、ここで思いがけず五神名地神塔に出会う。写真だけ
   撮り、神社と道つ隔てた昼食の県立相模原公園に向かう。森永さんとベンチで昼食を済ませ、
   集合までの時間を利用して再度山の神社を訪ねて五神名地神塔を調べる。この塔は六角柱(57
   ×30×30cm 一辺は16cm)、右廻りに「天照大神/大巳貴命/少彦名命/埴安姫命/稲蒼魂命
   /安政3丙辰歳林鐘吉□」、六角の台石各面に「話 仁右エ門(等7人の名前)」、「世 發
   願平四郎(等7人の名前)」、「相州下溝 講中」、「讃岐山城/大和伊勢/遠江3河/伊豆
   /七箇国之集土/封里以建焉」、「(銘文なし)」、「□五右衛門(等6人の名前)」がみら
   れる。
 見学会の解散が午後2時30分過ぎと早いので、原当麻駅から茅ヶ崎行の電車に乗り、次の下溝駅で下車、森永さんの案内で下溝を歩くことにする。この時に五神名地神塔を1基みている。当日の記録には、次のように簡単に記されている。
    次に訪ねた泉橋近くの十字路の角に石佛が並んでいる。ここには年不明の五角柱五神名地神
   塔(57×18×18cm)や風化して剥離が進んでいる双体道祖神(43×29cm 像高29cm)があり、
   次の庚申塔がある。
 この塔を補足しておくと、正面に「天照皇大神」とあり、時計廻りに「稲蒼魂命」「埴安姫命」「少彦名命」「大巳貴命」と各面に刻む5角柱である。現在は台石がなく、塔が下部を埋めて地上に立っている。年銘は見当たらない。
 こうした2基の五神名地神塔をこたことから、森永さんに他にこの種の塔を尋ねたとこる、神奈川には他に撮った塔があるから写真をあげますと約束された。多摩石仏の会の足立見学会でその写真を3葉受け取る。写真の裏には所在地と銘文が記され、それぞてのデータを示すと次の通りである。
   1 大和市下鶴間2540 諏訪神社
     (正5角柱) 天照大神・大巳貴神・少彦名神・埴安姫神/稲蒼魂神
     (台) 村内社日講 文化十二年八月社日 保土谷下岩間町 石工 八五良
     94×23×38
   2 秦野市蓑毛141 路傍
     (正五角柱) 天照大神・□□貴神・少彦名神・埴安姫神/稲蒼魂神
     (紀年銘不詳) 68×28×28
   3 横浜市戸塚区、吉田町 東峯八幡神社
     (正五角柱) 天照大神・□□貴神・少彦名神・埴安姫神/稲蒼魂神
     (台正面) 春秋社稜塚  (台右面) 維時文化十三子年秋
 この中の3は、最近では平成11年6月13日(日)の多摩石仏の会、関口渉さんの案内で横浜市戸塚区内を廻った時に出会っている。この神社の境内に次の嘉永5年庚申塔があり、その印象が強いので地神塔の意識が薄い。『平成十一年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成11年刊)に収録した当時の記録をみると、次のように記している。
    (東峰八幡神社 吉田町1264)境内には、いろいろな石佛がみられる。順に示すと(庚
   申塔3基省略)
     13 嘉永5 八角柱 「守夜庚申供養塔」          71×38×32
    13は八角柱で正面に主銘の「守夜庚申供養塔」、他の七面には慈恵大師山王七猿の和歌を配
   している。山王七猿の和歌は三輪善之助翁の『庚申待と庚申塔』(不二書房 昭和10年刊)の
   43頁に載っている。庚申塔については、藤崎幹之助氏が書かれた「鎌倉郡の庚申塔」(『日
   本の石第5号所収 昭和53年刊)で触れられている。台石には「有三尸神在人身中 毎到庚申
   日…」や「三守庚申三尸伏 七守庚申三尸滅」の三尸銘が刻まれている。縣さんは塔身と台石
   の拓本をとる。
 この塔の記述の前には、五神名地神塔を次のように書いている。
      地1 文化13 五角柱 「天照大神」など5柱         58×30
    地1は、1辺が18cmの5角柱に「天照大神」「倉稲魂命」「大己貴命」「少名彦命」「埴
   安媛命」の五神名を刻む地神塔である。台石正面に「春秋社稷講」と横書き、右側面に「天下
   泰平國土安寧 五穀成就百穀豊饒 農業繁昌萬民安楽 稽首再拜専祈祷所 維時文化十三子年
   秋社日」、左側面に「相模國鎌倉郡 □元吉田町 社祭講」とある。
 参考までに、この地神塔については『野仏』第35集所収の「地神塔データの活用」(多摩石仏の会 平成16年刊)に記載していない。
 ともかく神奈川県にある5基の五神名塔が明らかになったので、編年順に整理してみると、次のようになる。
   1 文化12 5角柱 大和市下鶴間2540 諏訪神社
   2 文化13 5角柱 横浜市戸塚区吉田町1264 東峰八幡神社
   3 安政3 6角柱 相模原市下溝 山の神社(大山祗神社)
   4 年不明 5角柱 相模原市下溝 泉橋付近十字路角
   5 年不明 5角柱 秦野市蓑毛141 路傍
 3が6角柱であるのを除き、他は5角柱であるのに気付く。
 参考までに埼玉県では秩父や児玉地方にはこの種の地神塔が分布しており、私は本庄市と寄居町で五神名地神塔をみている。本庄市の場合は、平成9年11月3日(月)に「本庄まつり」見学の合間に地神塔をみている。『平成九年の石仏巡り』(ともしび会 平成9年刊)所収の当時の記録に次のように簡単に記されている。
    銀座二丁目六番にある木祠の境内(中略)ここで収穫だったのは、天保十三年の五神名地神
   塔を発見したことである。埼玉県下では、寄居町で一基みているが、この辺りにもこの種の地
   神塔が分布しているのがわかる。
 寄居の場合は庚申懇話会編の『石仏を歩く』(日本交通公社出版局 平成6年刊)に、次のように発表している。
   末野神社(寄居町末野)
    境内には、五神名地神塔がみられる。五角柱の正面に「天照皇大神」、時計廻りに「大巳貴
   命」「少名彦命」「埴山姫命」「稲倉魂命」の神名が刻まれている。明治三十三年の造立であ
   る。
 また、千葉県県下では平成13年11月11日(日)の日本石仏協会佐倉・酒々井見学会で次のように酒々井町根古谷・妙見神社でみている。
    続いて山道を越えて妙見神社の天照大神・大己貴命・少彦名命・埴安姫命・倉稲魂命の五神
   名を刻む五角柱塔(61×14cm)をみる。台石には「寛政十一己未/二月吉日」と「本佐倉村/
   祭主/喜右衛門」の銘がある。造立の二月吉日は、社日であろう。これまでみた五神名地神塔
   中では最小である。 〔出典〕『石仏談話室雑記・』(多摩野佛研究会 平成13年刊)所収
 県下の五神名地神塔は、『石仏研究ハンドブック』(雄山閣出版 昭和60年刊)所収の「・ 石仏研究の事例」で書いたように、平岩毅さんの『千葉県下の五神名地神塔』(私家版 昭和59年刊)に詳しい。
 いずれにしても、上記のように東京都を取り巻く千葉・埼玉・神奈川に五神名地神塔が分布しているのに対し、多摩地方を含めて都内の地神塔の中には五神名塔がみられない。1つには相州の影響を受けた町田に分布が多い点が挙げられるが、五神名地神塔の指導者がいなかった、と考えられる。
 五神名地神塔は神奈川の場合に相州の分布であり、今のところ武州に属する横浜市の1部や川崎市でみつかっていない。この辺にも地神信仰を利用した国学者や神道系の指導者の有無が分布に関係している、と推測される。ただ相州では、五神名地神塔を広めた国学者などの影響は弱かったのであろう。
 森永さんのお陰で、神奈川に散在する五神名地神塔の分布が以前より明らかになった。兵庫・岡山・広島・香川・徳島などの五神名圏に比べると、神奈川を含めて関東は塔数が少ない地神圏といえよう。神奈川の場合は、五神名地神塔塔以外にも秦野市とその周辺にみられる「天社神」や「后土神」があって複雑な様相である。
 
佐久地方の庚申石祠

 平成17年7月9日(土曜日)に小諸市の岡村知彦さんからお手紙をいただいた。私が『日本の石仏』第114号(平成17年刊)に発表した「庚申石祠雑記」を読まれ、長野県内で「庚申石祠雑記」の表に洩れた庚申石祠資料をお手紙に添えて同封された。
 同送された資料の一つは、岡村さんが23年にわたって調査された佐久地方の石佛データの中から庚申塔を抜き出し、作成された一覧表である。エクセルを使用された表と思われるが、地区・集落・番・種別(全て庚申塔)・数・年号・年・型式・刻像・丈・銘文・石工・石工銘・所在地の14項目からなっている。各市町村の庚申塔数と庚申石祠数を1表にまとめらる次の表の通りである。
   佐久地方市町村別分布
   ┏━━━━┳━━━┯━━━┯━━━━┓  ┏━━━━┳━━━┯━━━┯━━━━┓
   ┃市町村 ┃庚申塔│石 祠│比  率┃  ┃市町村 ┃庚申塔│石 祠│比  率┃
   ┣━━━━╋━━━┿━━━┿━━━━┫  ┣━━━━╋━━━┿━━━┿━━━━┫
   ┃軽井沢町┃ 26│  1│ 3.8┃  ┃佐久町 ┃ 41│  1│ 2.4┃
   ┠────╂───┼───┼────┨  ┠────╂───┼───┼────┨
   ┃御代田町┃ 12│  1│ 8.3┃  ┃八千穂村┃ 25│  1│ 4.0┃
   ┠────╂───┼───┼────┨  ┠────╂───┼───┼────┨
   ┃小諸市 ┃ 67│  7│10.4┃  ┃小海町 ┃ 28│  1│ 3.6┃
   ┠────╂───┼───┼────┨  ┠────╂───┼───┼────┨
   ┃北御牧村┃ 10│  0│ 0.0┃  ┃北相木村┃ 16│  0│ 0.0┃
   ┠────╂───┼───┼────┨  ┠────╂───┼───┼────┨
   ┃立科町 ┃ 28│  0│ 0.0┃  ┃南相木村┃ 10│  0│ 0.0┃
   ┠────╂───┼───┼────┨  ┠────╂───┼───┼────┨
   ┃望月町 ┃ 31│  1│ 3.2┃  ┃南牧村 ┃ 13│  0│ 0.0┃
   ┠────╂───┼───┼────┨  ┠────╂───┼───┼────┨
   ┃浅科村 ┃ 13│  1│ 7.7┃  ┃川上村 ┃ 11│  0│ 0.0┃
   ┠────╂───┼───┼────┨  ┣━━━━╋━━━┿━━━┿━━━━┫
   ┃佐久市 ┃121│  9│ 7.4┃  ┃合  計┃481│ 24│ 5.0┃
   ┠────╂───┼───┼────┨  ┗━━━━┻━━━┷━━━┷━━━━┛
   ┃臼田町 ┃ 29│  1│ 3.4┃
   ┗━━━━┻━━━┷━━━┷━━━━┛
 この表からみて佐久市の121基が最も多く、次いで小諸市の67基、最も少ないのが北御牧村と南相木村の10基である。庚申石祠の場合も最も多いのが佐久市が9基、次いで小諸市の7基、軽井沢町・御代田町・望月町・浅科村・臼田町・佐久町・八千穂村・小海町の8町村が各1基、北御牧村・立科町・北相木村・南相木村・南牧村・川上村の6町村には分布がみられない。
 岡村さんが作成された一覧表から庚申石祠を抜き出し、編年順に配列すると
   佐久地方庚申石祠年表
   ┏━┯━━━┯━━━┯━━━━━━━━━━━━━━━━┯━━━━━━━━━━━┓
   ┃番│元 号│塔 形│特徴              │所在地        ┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━┫
   ┃1│寛永12│方形造│2猿「奉造立此石…」      │佐久市瀬戸・中城峰  ┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃2│寛永15│入母屋│2猿              │八千穂村崎田・皿久保 ┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃3│寛永X│方形造│2猿              │臼田町十二新田・仙岳寺┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━┫
   ┃4│明暦2│流造型│2猿(祠内に石佛内蔵)     │小諸市加増・舟久保  ┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━┫
   ┃5│寛文4│流造型│2鶏・2猿           │小諸市荒堀・中城   ┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━┫
   ┃6│延宝5│流造型│光背型2猿           │御代田町小田井・山王 ┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃7│延宝8│方形造│日月・2鶏・2猿「奉造立庚申堂」│望月町三井・下三井  ┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃8│延宝8│方形造│(祠内に石佛内蔵)       │佐久市下県・唐松坂  ┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━┫
   ┃9│宝永5│方形造│2猿「庚申堂奉建立爲二世安樂」 │佐久市権現堂・中込原 ┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━┫
   ┃10│享保6│流造型│「庚申宮」           │佐久市西地・日向   ┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━┫
   ┃11│元文1│流造型│「輿玉 願主曽根出羽守藤原秀忠」│軽井沢町峠町松井田  ┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃12│元文3│流造型│日月              │小海町土村・新津宅  ┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━┫
   ┃13│宝暦6│流造型│                │佐久市常田・南道満  ┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━┫
   ┃14│年不明│方形造│2鶏・2猿           │小諸市荒堀・荒堀   ┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃15│年不明│流造型│                │小諸市荒堀・入居祖  ┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃16│年不明│流造型│3猿              │小諸市藤塚      ┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃17│年不明│流造型│1鶏・1猿           │小諸市8幡町1丁   ┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃18│年不明│流造型│〔青面金剛〕          │小諸市下菱・野入   ┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃19│年不明│流造型│                │浅科村蓬田      ┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃20│年不明│方形造│2猿「庚申 庚申 庚」     │佐久市西耕地・西屋敷添┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃21│年不明│方形造│(祠内に地蔵菩薩・3猿内蔵)  │佐久市平賀本宿・上屋敷┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃22│年不明│方形造│2鶏・2猿(祠内に3体地蔵)  │佐久市常和北・下黒坪 ┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃23│年不明│流造型│〔山王社〕           │佐久市苦水・日向   ┃
   ┠─┼───┼───┼────────────────┼───────────┨
   ┃24│年不明│入母屋│(祠内に胎蔵界大日内蔵)    │佐久町上本郷・明光寺 ┃
   ┗━┷━━━┷━━━┷━━━━━━━━━━━━━━━━┷━━━━━━━━━━━┛となる。年銘が明らかな石祠が13基中、寛永年間が3基、明暦1基、寛文1基、延宝3基と古い石祠が多く、元文が2基、宝永・享保・宝暦が各1基である。ただ年不明の石祠が11基があるが、年銘が明らかな石祠から推測して寛永から遅くも宝暦の間に造立されたと考えられる。
 佐久地方で庚申石祠(※印)が庚申塔の中で古い部類のとうであることは、寛永〜寛文年間までの次の年表からも容易に推測できるところである。
   佐久地方庚申年表
   ┏━┯━━━┯━━━┯━━━━━━━━━━━━━━━┯━━━━━━━━━━━━┓
   ┃番│元 号│塔 形│特徴             │所在地         ┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━━┫
   ┃1│寛永12│方形造│2猿「奉造立此石…」    ※│佐久市瀬戸・中城峰   ┃
   ┠─┼───┼───┼───────────────┼────────────┨
   ┃2│寛永15│入母屋│2猿            ※│八千穂村崎田・皿久保入口┃
   ┠─┼───┼───┼───────────────┼────────────┨
   ┃3│寛永X│方形造│2猿            ※│臼田町十二新田・仙岳寺 ┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━━┫
   ┃4│明暦2│流 造│2猿・石佛内納       ※│小諸市加増・舟久保   ┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━━┫
   ┃5│寛文3│板碑型│3猿「庚申供養」       │北相木村栃原      ┃
   ┠─┼───┼───┼───────────────┼────────────┨
   ┃6│寛文4│流 造│2鶏・2猿         ※│小諸市荒堀・中城    ┃
   ┠─┼───┼───┼───────────────┼────────────┨
   ┃7│寛文11│自然石│「南無阿弥陀仏 待庚申供□」 │小諸市荒町2丁     ┃
   ┠─┼───┼───┼───────────────┼────────────┨
   ┃8│寛文11│板碑型│「卍 庚申供養」       │立科町大深山      ┃
   ┠─┼───┼───┼───────────────┼────────────┨
   ┃9│寛文13│自然石│日月・2鶏・2猿       │小諸市荒堀・入居祖   ┃
   ┠─┼───┼───┼───────────────┼────────────┨
   ┃10│寛文13│板碑型│日月・大日坐像・2猿「庚申像」│小諸市小原・南小原   ┃
   ┠─┼───┼───┼───────────────┼────────────┨
   ┃11│寛文13│自然石│「卍 奉造立庚申像 敬白」  │小諸市与良3丁     ┃
   ┗━┷━━━┷━━━┷━━━━━━━━━━━━━━━┷━━━━━━━━━━━━┛
 次に塔形の面から分類すと、年不明祠を含めて最も多いのが流造型13基(明暦2年から宝暦6年まで7基)、次いで方形造型(宝塔型)が9基(内寛永12年から宝永5年までが5基)、入母屋型が2基(内寛永15年が1基)である。入母屋型の年不明祠は古い年代だし、方形造型の年不明祠は宝永5年まで、流造型の年不明祠は宝暦6年までに造立されている確率が高い。
 先の「佐久地方庚申年表」からもわかるように、2猿の出現は寛永年間、3猿の初出が寛文3年、次が延宝3年・同8年である。石祠の造立年代が明からもや年表の傾向からみて、2猿石祠のほうが3猿石祠より古いと推測される。
 岡村さんから送られてきた資料の一つに、柳澤清士氏の「古い庚申塔を尋ねて」(『信濃交通史研究』収録)がある。庚申石祠の場合には祠内に中尊を内蔵するが、そこに記載された庚申石祠10基中6基の祠内に中尊が残っている。これと比較すれると、庚申石祠の場合には祠内にが、佐久地方では中尊を内蔵する比率が低い。
大田区内を廻る 庚申懇話会7月例会

 平成17年7月31日(日曜日)は庚申懇話会7月例会、JR京浜東北線大森駅北口に午前10時集合、コースの案内担当は若松慶治さんで大田区内を廻る。集まったのは27人、若松さんは20人程度の参加と目算していたそうで、用意した配付資料が足りなくなり、途中でコピーして配る。
 9時26分に大森駅につき、集合場所の北口改札前に行くと芦田正次郎さんが1人だけおり、遅れて案内の若松慶治さんがくる。追々と人数が増えてくるが、斉藤直樹さんは立ち食い蕎麦店で時間ギリギリまで暑さを避けて待つ。
 10時に改札口前に参加者が集合し、すでにB5版7頁のレジメが配られているので、若松さんから簡単に今回の「馬込文士村界隈めぐりと池上本門寺を訪ねる」コースの説明がある。続いて斉藤さんから象の糞で作った色付のハート型厚手の紙が配付される。
 駅から第1見学場所の圓能寺(山王1−7)に直行する。この寺では古くから聖観音の庚申塔が知られ、清水長輝さんの『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)に紹介されている。75頁の記述からもわかるように、丸彫りの観音と基礎の年銘とが異なる点を指摘し、間に合わせかいい加減な組み合わせと推測している。
 以前この塔をみた時は境内にあった記憶があるが、現在は墓地の無縁墓石を集めた場所に移されている。庚申塔は次の通りである。
   1 元禄12 台 石 「奉庚申供養/観世音一體」        20×38
 1は円形の台石に「〔本願桃雲□□□〕/元禄十二己卯年/奉庚申供養/觀世音一體/霜月廾有六日/沙門圓能寺定弁良□/新井宿村同行六人/〔施主銘〕」の銘文を記す。以前と異なり、台石の側面が隣の台石と間がなく、銘文が読めない。台上の聖観音は丸彫り立像(像高67cm)、衣の部分に「貞享二乙丑年四月八日」の銘がみられ、台石と立像との関係ないと思われる。
 先刻通り過ぎた日枝神社(山王1−6)を圓能寺の横通りから境内へ入る。ここには
   2 元禄13 板駒型 日月・青面金剛「奉庚申供養」3猿     83×35
   3 貞享1 板碑型 日月・青面金剛「ウーン」3猿      113×49
  4 文政2 柱状型 「庚申塔」(道標銘)           72×24×24の3基の庚申塔がある。2と3は並んでいるが、4は少し離れた場所にある。
 2は下方手の持物(弓と矢)が逆の標準的な合掌6手立像(像高46cm)、下部の猿は正向型3猿(像高11cm)である。青面金剛の頭上に「アウンク」、右に「奉庚申供養」、左に「元禄十三庚辰十一月吉日」、3猿の下に「(欠)施主/同行拾人/平林三十郎(等10人の施主銘)」を刻む。
 3は上方手に弓と矛、下方手に索と矢を執る変則的な合掌6手立像(像高40cm)、下部に正向型3猿(像高15cm)を浮彫りする。頭上に「ウーン」種子、像の右に「奉造立庚申供養爲二世安樂也」、左に「貞享元甲子年十一月二十八日」、3猿下に「施主/□惣左門(等13人の施主銘)」とある。
 4は正面に「庚申塔」、右側面に「右 なかのふ/めくろ 道」、左側面に「左 まこめ 道」、裏面に「文政二乙卯年九月吉事地宇/當所 新井宿村」を彫る。
 日枝神社から出発点の大森駅前まで戻り、天祖神社(山王2−8)を訪ねる。馬込文士村のレリーフを追って坂を登ると、石垣の前の木祠がある。扉の上に墨書きした「庚申塔 降三世明王尊」の木札が掛かり、祠の前には鍵が掛かった金柵がある。柵の間や上から手を延ばして扉を開けて次の庚申塔をみる。計測値は概略である。
   5 寛政12 駒 型 日月・青面金剛・3猿           73×31×?
 5は中央が破損したために補修されているのでハッキリしなが、一見すると上方手の具合で合掌8手のようにも思えるが、合掌6手立像(像高38cm)であろう。下部に正向型3猿(像高12cm)の陽刻がある。金柵のために側面の銘文がよめないので、鈴木俊夫さんの『東京都の庚申塔 大田区』(私家版 平成13年刊)によると、右側面に「寛政十二庚申年」、左側面に「十一月吉祥日」とある。
 日枝神社から射的協会跡(山王2−14)へ行き、ここに建つ石碑をみる。「日本帝国射的協會跡」の「帝国」や「射的協會」の名称が時代がかっている。「射的」からは温泉地などの射的を連想するが、射的協会は現在の日本ライフル射撃協会の前身である。
 なお、山王地区には次の庚申塔と参考石造物がみられる。
   A 文化14 柱状型 「庚申塔」           山王3ー43 熊野神社
   参考文政9 手洗鉢 「庚申講中」          山王3ー43 熊野神社
 馬込文士村の跡地(榊山潤・藤浦洸・今井達夫・3好達治)を山王から南馬込へかけて廻り、北野神社(南馬込2−26)に向かう。境内には次の庚申塔3基が並ぶ。
   6 延宝8 笠付型 青面金剛・3猿・蓮華           98×40×12
   7 享保9 雑 型 日月・青面金剛・3猿          101×42
   8 宝暦7 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     78×31
 6は下方手が剣・円盤の合掌6手立像(像高41cm)、下部に正向型3猿(像高17cm)の浮彫り像がある。何故円盤か苦しみむところであるが、案外羂索のつもりかもしれない。正面の右縁に「爰南贍部州日域東海道武陽馬込村東之里百八人善男士從日入隋鶏鳴時□□安楽之処」、左縁に「天満天神納宮仕之憑茲善利福壽□□草木侵消万子孫無羔頗□菩提種長功徳者也」、下部に「庚申二座奉一念/以造建四面/塔□□天王/金□三申形」と長い名文がみられる。右側面に「干時延宝八上章(庚)□灘(申)天黄鐘(11月)吉祥日/平林勘兵衛(等4人の施主銘)」、左側面に「慈眼山万福寺現住来岩哲傳/平林太兵衛(等4人の施主銘)」の名文を彫る。
 7は標準形の合掌6手立像(像高42cm)、下部に変形の内向型3猿(像高12cm)がみられる。中央の猿は両手で耳を塞ぐにのは当たり前であるが、両端の猿は片手で目か口を塞ぐ。特に右端の猿は右手で目を塞ぎ、左手で秘所を抑えているようにみえる。正面下部に「潮海智音/平林甚右衛門(等12人の施主銘)」、右側面に「奉造立庚申供養 石橋壹ケ所/為二世安楽也/願主平林十郎左衛門」、左側面に「武州荏原郡馬込村天神谷/享保九甲辰稔二月十五日/一講同行十四人」の銘がある。塔は角柱の上部に丸みのある庇がついたもので、形形を「額付柱状型」と無理に分類すよりも「雑型」としておく。
 8は標準形の合掌6手立像(像高41cm)、下部に正向型3猿(像高8cm)がある。像の右に「奉供養 武州馬込村/東谷中」、下部に「宝暦七丁丑/立秋吉祥日/謹白」と銘文を刻む。今回は2鶏があるのはこのだけである。
 時間が少々早いが、この神社境内で昼食をとる。事前に昼食の予定していた公園の前を後で廻ったが、ここは木陰がなく、この神社を選んだのが正解である。おまけに食後、集合時間までの間に3基の銘文を確かめる。
 北野神社から次の万福寺へ向かう途中の路傍(南馬込2−24)で富士講石燈籠をみるが、その手前の路傍(南馬込2−24)にレジメに抜けている次の庚申塔がある。木祠内には青面金剛が安置されている。
   9 貞享1 板駒型 日月・青面金剛・3猿          101×44
 9は上方手に矢と弓、下方手に索と矛を持つ変則的な合掌6手立像(像高59cm)、台石正面に正向型3猿(像高13cm)を陽刻する。像の右に「奉造立庚申供養爲二世安樂也」、左に「干時貞享元甲子年十月十一日」、下部に「施主山崎市右門/同行十三人敬白」の銘文が読める。
 文政7年の冨士講石燈籠の次に訪ねたのが広津和郎の旧地(南馬込2−14)、続いて曹洞宗の寺・万福寺(南馬込1−49)、境内に次の庚申板碑がある。
  10 年不明 板 碑 日月・天蓋「申待/供養」21佛種子  113×44
 10は上部に日月を刻み、瓔珞が下がる天蓋の下に「バク」を首尊とし、両横に「申待」と「供養」と刻む。その下に5種子ずつ4行に種子を彫り、種子は蓮台にのる。下部が欠けているので、三具足や年銘の有無が不明である。
 庚申板碑から近い場所には、寛永15年に造立された日待供養の宝筐印塔や光背型一石2段6地蔵浮彫り像がみられる。
 万福寺から南馬込1丁目にある小林古径と室生犀星の縁の地を廻ってから郷土博物館へいく。3階の民俗展示場の中に2月に行われた神奈川県立歴史博物館の特別展「かながわの三匹獅子舞」でみた水止舞装束人形に再会する。館内にいる時間が短いので、同じ階にある大森の水止舞、6郷の子供獅子舞、大田の庚申講のビデオを慌ただしくみる。
 郷土博物館から湯殿神社(南馬込5−18)を訪ね、次の庚申塔をみる。
   11 宝暦12 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        82×33×20
 11は標準形の合掌6手立像(像高52cm)であるが、下部に変則的な3猿(像高13cm)がある。中央の猿は正面を向き、右端の塞目猿は横を向くが、左端の塞口猿はやや正面向きである。像の右に「奉建立 青面金剛1尊」、左に「宝暦十二年/九月吉日」、右側面に「武州荏原郡馬込村/門倉蔵之丞(等4人の施主銘)」、左側面に「根古屋講中/門倉次左衛門(等4人の施主銘)」とあある。
 残念だったのは、次の庚申講銘の手洗鉢を見逃したことである。
   参考 明和4 手洗鉢 「庚申供養 講中」           57×69×23
 湯殿神社から途中で出世稲荷神社(南馬込4−8)にある鎌倉街道の石碑をみて、善照寺(南馬込4−9)を訪ねる。境内の一角に丸彫りの観音2体が並んでいる。一方は白衣観音でも通るが、他方は少し変わった観音である。
 若松さんは他方を威徳観音とみているようだが、どうもしっくりこない。レジメに「威徳観音」の図を添えている。この図は左手に蓮華を執り、右手を地に触れている坐像を描く。手に蓮華を持つ点は威徳観音と同じでも、持つ手が右手で違いがみられ、左手を右手に重ねている。
 今年6月8日(水)にあきる野市戸倉・星竹を廻った後で、同市五日市の玉林寺に訪ねて本堂裏にある33体観音丸彫像をみたが、ここの威徳観音はレジメの像とほぼ同形の坐像である。33観音の中で蓮華を持つのは威徳観音と持蓮観音であるが、いずれの場合も左手である。『佛像図彙』の持蓮観音は蓮華の下部を左手で持ち、上部を右手で支えているから、蓮華の向きと持つ手が逆であるとはいえ、強いて33観音に当てはめれば持蓮観音に近いともいえる。
 今回廻らなかった南馬込の庚申塔は次の通りである。
   A 享保3 灯 籠 日月・青面金剛・3猿     南馬込1ー40 天祖神社
   B 享保5 板駒型 日月・青面金剛・3猿     南馬込3ー18 磨墨塚
   C 享保5 板駒型 日月・青面金剛・2鶏・3猿  南馬込4ー13 熊野神社
   D 延宝5 柱状型 日月・青面金剛「奉造立庚申…」南馬込5ー2 長遠寺
   E 享保6 柱状型 地蔵「庚申供養」(現亡)   南馬込5ー15 円乗院
 南馬込から池上に入り、川端茅舎旧宅(池上1−5)前で説明を聞いてから本門寺(池上1−1)を訪ねる。最初は大坊本行寺へ、法事のために30分ほど花柳章太郎墓所や本門寺宝塔を見学し、大坊の戻って本尊を礼拝してから庭園を見学する。
 次いで日蓮・日朗・日輪の廟所、経蔵や建築中の本堂を廻り、遠くから5重塔をみる。時間の都合もあり、力道山の墓所は省略して法華経宝塔品偈文の96文字に因む96段の石段を下り、総門を抜ける。古風な商家の裏で解散、東急池上線池上駅へ向かう。
福知山石佛散歩

 平成17年8月11日(木曜日)の朝は次男夫婦が住む京都府福知山市内の石佛、といてっも筈巻の家がある付近の庵我地区の筈巻と安井を散歩する。前日に家の周りを30分ほど歩いた時にバスの車庫の近くにあった庵我地区公民館が作成した地図をみて、それを参考に社寺を中心に廻る。
 最初に訪ねたのは筈巻・天神神社、石段左側に塩ビの波板の屋根を置く鉄骨製の枠組の祠がある。期待しないでのぞいてみると、中に2鬼上に立つ剣人6手立像の青面金剛が安置されている。
   1 明治16 雑 型 青面金剛・2鬼              47×17×12
 1は上部に円光背があり、標準形の剣人6手の青面金剛立像が(像高32cm)主尊、足下に2鬼が浮彫りされる。台石の右側面に「世話方 古川□兵衛(等4人の氏名)」、左側面に「明治十六年/二月」の銘がある。
 筈巻から安井に向かう途中の路傍に麦藁帽を頂部に置き、大きな前掛けをかけた地蔵立像(像高63cm)を浮彫りする光背型塔(97×44cm)がみられる。像の右に「嘉永三戌六月日」、左に「村世話人十六人」の銘を刻む。
 安井の集落に入り、道路近くの木祠の中に胸前に宝珠を執る地蔵坐像が安置されている。祠近くに自然石の彰徳碑が立っている。安井では他に石佛が見当たらないままに折り返し、戻って筈巻・高野神社を訪ねる。石段を上がった右側に3基の石佛が並んでいる。
   2 天保11 柱状型 日月・青面金剛・1鬼・1鶏・1猿     69×23×19
  3 明治10 柱状型 「ウーン 庚申」               52×20×17の2基の庚申塔と五輪塔を浮彫りした角柱型塔がある。
 2は上部に庇があり、その下に日月・瑞雲、中央に標準形の剣人6手立像(像高42cm)、脚の右に右手に鈴を持つ猿、左に1鶏、足下に顔を正面にして横向きの1鬼がうずくまる。右側面に「天保十一年庚/子十一月吉日」、左側面に「某願法 大山建」とある。
 3は正面上部に「ウーン」種子、その下に「庚申」の文字塔、左側面に「明治十子年」の年銘を記す。
 社殿の左側にある木祠に中には丸石が台石の上に安置されている。神社の後は無量寺を探すが、判らずに戻る。
 朝食後、JR福知山駅へ向かう車で途中にある池部の観音寺、中の庵我神社を廻り、萩寺で知られる下猪崎の養泉寺に寄る。養泉寺は祠内の光背型浮彫りの6地蔵の前を通り、境内に入ると佛足石がある。この寺だけでなく車に待たせての石佛巡りだから、計測やメモを取らず、ただ写真を撮るだけである。
 佛足石といえば、次いで訪ねた寺町の久昌寺にもみられる。墓地に光背型浮彫りの六地蔵があり、広隆寺型の思惟半跏丸彫り像がある。隣の下紺屋町の法智寺の六地蔵は中央に金剛界大日如来像を配する。その先にある菱屋町の日蓮宗・常照寺に見るべき石佛がなく、その先の呉服町の明覚寺も真宗だから素通りである。
 息子が荷物を送る間に福知山城を訪ね、本丸をみてから城の南側にある不動明王の祠と多くの地蔵を集めた祠をみる。以上で石佛散歩終え、福知山駅へ向かう。
京都の庚申堂

 平成17年8月11日(木曜日)の午後は、福知山からの帰りに山陰本線で京都に出る。新幹線の乗車までの約3時間の待ち時間があり、その間に八坂の庚申堂を訪ねる。正式には「大黒山金剛寺八坂庚申堂」と呼ぶが、略して「八坂庚申堂」の方が通りがよい。
 駅前からD1100の銀閣寺行きの市営急行バスに乗り、バス停「清水道」で下車、八坂の塔(5重の塔)に向かって坂道を登ると、塔の手前右側に八坂庚申堂(東山区金園町390)がある。
 山門の手前左側には上部に3猿を3角形に浮彫りし、中央に「日本/最初」の2行、その下に大きく「庚申尊」と刻む自然石塔(183×60cm)が立つ。裏面に「大正五年四月日」の年銘と施主銘を刻む。屋根の棟瓦の上に3不形の猿を置く朱塗りの山門がある。
 山門をくぐると正面右が庫裏、現在、改装中で9月に完成予定という。5の庚申(10月3日)に間に合わせるのであろう。左が庚申堂、前面中央に赤・黄・青のくくり猿が多数さげられ、その前に右から塞口猿・塞目猿・塞耳猿に並ぶ木製彩色の3猿がある。奥に青面金剛の木像が安置されているが、くくり猿が邪魔して全くみえない。
 山門を入った左に次の庚申塔1基がある。
   1 年不明 自然石 日月「青面金剛童子」          103×73
 1は上部に日月があるが、左に日天は浮彫り、右の月天の3日月を彫りくぼめ、中央に「青面金剛童子」の主銘がある。
 その塔の先の堂寄りにお札や陶製猿やくくり猿を頒けている場所がある。そこにいた婦人と話にいろいろとお話を聞く。庚申日毎に境内で行われる「こんにゃく炊き」やくくり猿などを訊ね、話題が広がる。
 青面金剛のお姿は手許にあるが、折角、寄ったのだからお姿を頒けてとお願いしたら、4の庚申(8月4日)でなくなったという。雑誌『大法輪』に載った図像をみせてくださり、その代わりにお姿の載った英文の解説をいただく。このお姿は平野実さんの『庚申信仰』(角川書店 昭和44年刊)の45頁に写真が載っている他、多くの庚申関係の本に紹介されている。標準形の剣人6手立像の青面金剛・1鬼・3猿・2童子・4薬叉を描き、下部に右横書きで「日本2躰八坂庚申堂」とある。
 話の中の一つに京都には庚申塔はないが、庚申堂があるという話がある。八坂以外の庚申堂を2か所知っているというので、その所在地を尋ねると、一つは左京区の真如堂、他は伏見区にある。
 八坂庚申堂からの予定は組んでいなかったので、時間の関係をみて左京区の真如堂を訪ねることにし、高台寺近くの通りでタクシーを拾い、真如堂へ向かう。
 真如堂はあくまでも目標、庚申堂は手前にある〓枳尼天(荼吉尼天)の境内にある本殿の左にある社殿である。ここは真如堂塔中の法伝寺(左京区浄土寺真如町82)の管理下にあり、1見すると普通の社殿のようにみえる。大正9年の庚申年6月の銘を記す「庚申金剛尊」の額が掛かっているので、庚申堂とわかる。残念ながら社殿の中が判らずに京都駅へ戻る。
 京都には庚申塔はないが、庚申堂が各所にあるらしい。中でも八坂庚申堂は代表的な存在、粟田口の庚申堂も知られている。その他にも寺院の中に祀られているらしい。
 飯田道夫さんの『庚申信仰』(人文書院 平成1年刊)には、京洛3庚申として八坂の庚申堂・粟田口の庚申堂・山之内の庚申社が挙げられ(53頁)、寛永5年に刊行された『都すずめ案内者』を引いて八坂金剛寺(八坂庚申堂)・尊勝院(粟田口庚申堂)の他に室町の山王宮を示している(54頁)。他にも雨宝院(上京区)・蛸薬師・六角堂・聖徳寺・粟島堂・静息院(嵯峨)などの名が記されている(55〜6頁)。
 同氏の『サルタヒコ考』(臨川書店 平成10年刊)に『山城名跡巡行志』の真如堂の相殿に3猿が祀られている、と紹介している。恐らく先の〓枳尼天境内の社殿を指すのであろう(115頁)。
 伏見の庚申堂を含め、機会があれば京都各所の庚申堂を一度訪ねてみたいものである。
見性寺の十六羅漢

 平成17年10月30日は足立区亀有5−54−25の見性寺(曹洞宗)に行く。1週間前の23日に多摩石仏の会杉並見学会でお会いした鈴木俊夫さんさんから、この見性寺に十六羅漢があると報告を受け、羅漢を一体一体写した写真をいただいた。そこでこの日が足立郷土博物館の地口行灯ミニ講座を受講する予定であったので、それを兼ねて訪れたわけである。
 事前に地図で調べると、見性寺はJR亀有駅北口から近いこと、場所も常磐線に沿っているのがわかる。実際に訪ねると、駅北口を出て右折し、環7通りの亀戸駅東の交差点を真っ直ぐに進むと寺の前へ出る。寺の入口の手前に豊川稲荷があり、境内に本誓観音の大型石像が立っている。
 見性寺の境内へ入ると、左側に鐘楼があり、東・南・西の三方に十六羅漢が安置されている。東側は造立の由来を記す石碑と石段を挟んで第一尊者と第二尊者の2体、南側は第三尊者から第十尊者までの8体、西側が第十一尊者から第十六尊者までの6体である。
 寺の奥さんから聞いたところによると、羅漢を寄贈した石岡潔さんは亀有駅南口で菓子店を営んでいた方で、全国の社寺を巡っている。これまでも先に記した本誓観音を始め、寺にはいろいろと寄進されており、十六羅漢もその一つの現れである。亡くなられて娘さんは春日部へ移られ、店は他の方に任せているという。
 鐘楼の東側にある石碑(78×45×7cm)には、次の文章が刻まれている。
   石岡 潔が八十才を祝い   故 母親キヨ、妻シゲ子の
   供養の為十六羅漢を見性寺  さんに寄進致しました  合掌
     平成三年一月吉日
 隣に第一尊者の坐像がみられる。基本的は『佛像図彙』を参考にした丸彫りの坐像、下の台石正面に「第一/跋羅駄闍尊者」と右横書きで2行に尊名を刻んでいる。以下、各尊者の法量と像高を示すと、次の通りである。
   ┏━━━━━┯━━━━┯━━┳━━━━━┯━━━━┯━━┓
   ┃尊   者│法  量│像高┃尊   者│法  量│像高┃
   ┣━━━━━┿━━━━┿━━╋━━━━━┿━━━━┿━━┫
   ┃第一尊者 │65×47cm│53cm┃第二尊者 │61×48cm│51cm┃
   ┠─────┼────┼──╂─────┼────┼──┨
   ┃第三尊者 │63×48cm│52cm┃第四尊者 │61×48cm│51cm┃
   ┠─────┼────┼──╂─────┼────┼──┨
   ┃第五尊者 │60×46cm│53cm┃第六尊者 │63×54cm│62cm┃
   ┠─────┼────┼──╂─────┼────┼──┨
   ┃第七尊者 │62×48cm│61cm┃第八尊者 │62×45cm│62cm┃
   ┠─────┼────┼──╂─────┼────┼──┨
   ┃第九尊者 │62×47cm│62cm┃第十尊者 │68×55cm│67cm┃
   ┠─────┼────┼──╂─────┼────┼──┨
   ┃第十一尊者│62×46cm│52cm┃第十二尊者│63×47cm│63cm┃
   ┠─────┼────┼──╂─────┼────┼──┨
   ┃第十三尊者│62×47cm│54cm┃第十四尊者│64×48cm│53cm┃
   ┠─────┼────┼──╂─────┼────┼──┨
   ┃第十五尊者│63×47cm│63cm┃第十六尊者│63×48cm│63cm┃
   ┗━━━━━┷━━━━┷━━┻━━━━━━━━━━┷━━┛
 基礎の法量は横に虎がいる第六尊者の20×60×43cmと龍に乗る第十尊者の30×60×43cmを除き、第一尊者の31×55×43cmに同じである。横に動物を伴う像の場合は基礎を大きくしている。
 先にふれたように見性寺の十六羅漢は『佛像図彙』を基本としているが、比較してみると異なる箇所がみられる。第三尊者の場合は隣の小僧と鉢を置く台、第十四尊者の横にある枝をさす瓶、第十五尊者の横の花瓶と台を省略している。第五尊者と第九尊者が座る椅子が省かれている。
 見性寺の羅漢はいずれも正面向きの坐像として彫られているが、『佛像図彙』では横向きに描かれている。つまり、省略と向きの点で違いがみられる。台石に刻まれた尊名の表記は『佛像図彙』の通りである。


     
あとがき
     
      今年は、1月23日(日曜日)の多摩石仏の会正月例会で日野市内を廻ったのが最初の
     石佛巡りである。ただ本書で扱いになると、同月25日の「初天神庚申塔巡り」から始ま
     る。次が3月6日(日曜日)「赤塚獅子舞の前後」、獅子舞と石佛のコラボレーションで
     ある。以下、4月7日(木曜日)の青梅市「小曽木石佛散歩」、同月23日(土曜日)の
     「川越市街地庚申塔巡り」、6月8日(水曜日)のあきる野市「星竹の石仏再訪」と続い
     ている。
      次の3編は横浜の森永五郎さんから頂いた五神名地神塔の写真3葉が「神奈川の5神名
     地神塔」に、小諸の岡村知彦さんからのお手紙が「岡村知彦さんの来信」と「佐久地方の
     庚申石祠」に結びつく。
      続く「大田区内を廻る」は7月31日(日曜日)の庚申懇話会で大田区内を廻った時の
     記録、「福知山石佛散歩」は次男夫婦が住む京都府福知山市を8月11日(木曜日)朝に
     歩いた石佛の記録、その帰り道に寄った京都を廻って「京都の庚申堂」をまとめる。
      多摩石仏の会の鈴木俊夫さんさのご教示があり、最後の「見性寺の十六羅漢」は10月
     30日に足立区の見性寺でみた十六羅漢にふれる。
      今年も単独で純粋に石佛を訪ねる機会が少なく、「初天神庚申塔巡り」と「小曽木石佛
     散歩」と「星竹の石仏再訪」の3回だけである。他は獅子舞や博物館絡みであり、旅行の
     ついでであった。他に写真や手紙に刺激された「神奈川の五神名地神塔」と「見性寺の十
     六羅漢」が加わり、本書のボリュームを増やした。
      本書のご活用を願うばかりである。

                             ────────────────
                              平成17年の石佛巡り
                              発行日 平成17年12月 5日
                              ー行日 平成17年12月17日
                              著 者 石  川  博  司
                              発行者 多 摩 野 佛 研究会
 
inserted by FC2 system