石川博司 編著    日野の庚申塔を歩く      発行 庚申資料刊行会 

目次     ○日野見学会     ○日野の石仏     ○八王子・日野を歩く 

        ○
日野市内を廻る1   ○日野市内を廻る2  ○日野市内を廻る3
        ○
日野市内を廻る4   ○日野市内を廻る(追録)
        ○
日野市庚申塔DB   ○日野市庚申文献目録

        ○
あとがき
日野見学会 多摩石仏の会昭和59年12月例会

 (昭和59年)12月16日(日) 多摩石仏の会12月例会は、日野の見学会だ。地元・多摩地方を廻るのは、久方振りである。京王線百草園駅改札口に午前9時30分集合、案内役は犬飼康祐さんである。常連の顔が揃う。
 百草園駅前を出発し、東に向かう。まず最初は、落川の
   1 正徳6年 光背型 日月・青面金剛・3猿          74×37から見学を始める。東電へ通じる広い坂道を上り、途中から林をぬけて進むと
   2 元禄1年 板駒型 青面金剛・1鬼・3猿          69×32が六地蔵や万延2年の「道祖神」と並ぶ塚に出る。六地蔵は、それぞれ色が記されている。「赤色」だけははっきりしているが、ほかのものは「色」だけが読めるに過ぎない。背後にある電柱が目障りで、写真を撮るのにアングルで苦労する。狭い丘陵の路を通り、百草園に出る。園内を抜けて、百草八幡宮に入り、境内にある秋葉大権現(飯縄権現)を浮彫りした明和6年の笠付型を見る。社殿前の狛犬の台石には「天平宝宇」銘が刻まれている。
 倉沢観音堂境内には、2体の地蔵と3体の観音がある。観音は、聖観音2体と如意輪だ。いずれも年銘がないが、彫りはよい。幕末から明治にかけてのものであろう。丘陵にある林に入り、落ち葉を踏みしめながら進むと
   3 宝永7年 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     74×33×24
   4 年代不詳 型不明 (上欠)1鬼・3猿           26×17
   5 昭和52年 角柱型 青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子   55×25×21
   6 文化2年 角柱型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    56×24×18
   7 明和6年 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿        56×24×18がある。3から少し離れて5・6・7が並び、4は破損がはなはだしく、5の脇に破片のまま積まれている。割れた部分を集めると1鬼と3猿の像が確認でき、他の1片に「倉沢村」の銘文が読める。5は、この塔の再建塔で、右側面に「為奉供養庚申塔 建立年代不詳為破損修復」銘を刻む。ここで調べていると、林の持主の石坂義次さんが枝落としを止めて、近づいてきたのでいろいろと尋ねる。石坂さんのお話では、ここにある昭和の再建塔は、西瓜泥棒に割られたので復元したもので、府中の石工に頼み、1万円程で出来たという。毎年、初午の日にはお祭りするそうだ。
 林を抜け、道路に出てしばらく歩くと、左手下に神社が見えた。気になったので、予定外のコースであったが、細い道を下っていく。境内には見るべきものがないと思ったけれども、まったく偶然に普段は余り見ることもない狛犬の台石の銘文に眼を向ける。驚いたことは、そこに「立川町 石工石川九市」と刻まれているではないか。昭和9年9月の造立で当時は、母方の祖父が立川で石屋をっていたから、間違いなく祖父が関係した石造物である。銘には「石川九市」とあるものの、祖父が実際に石を刻んだという話は聞いていないから、恐らく使っていた職人が彫ったものか、或いは、請負仕事かもしれない。それにしても、犬も歩けば棒に当たるで、まったく思いがけない対面であった。
 百草園に戻って昼食にする。暮れの曇った日曜日は、さすがに人影がない。落ち着いた雰囲気である。園内では甘酒を売っている。午後は、三沢の路傍にある小堂(東光寺跡)に安置された
   8 年代不詳 笠付型 青面金剛・3猿             55×25×19から再開する。途中、裏通りにある3面馬頭を見てから
   9 宝永6年 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿・蓮華    78×38×30に出る。傍らの道路が工事中で、この辺りも宅地化が進んでいる。遠からずここの環境も1変するだろう。
 7生農協近くの庚申塔が見当たらないので省略して、程久保の旧道沿いに歩く。やがて勝五郎再生縁りの家の近くにある六地蔵に出る。その先の左手の塚には
   10 享保9年 笠付型 日月・青面金剛・3猿          56×26×17が馬頭観音などと並んでいる。神明神社の
   11 寛政12年 角柱型 青面金剛                64×30×29
   12 宝永5年 板駒型 日月・青面金剛・3猿          70×38などが囲いの中に入り、写真を撮るにも自由がきかない。11塔は、2つに割れており、ばらばらだったので復元してカメラに収める。
 長楽寺の塔は
   13 元禄2年 駒 型 日月・青面金剛・3猿         136×53×33
   14 元禄3年 駒 型 日月・青面金剛・3猿         137×60×36の2基である。多摩地方では見られない大きな塔で、寺と共に新宿区から移ってきた。
 秋葉神社の入口には
   15 延享2年 丸 彫 地蔵                  53×25
   16 享保9年 笠付型 日月・青面金剛・3猿          60×28×17がある。共に近くから移動されたもので、20年程前に初めて見付けた時の光景が思い出され、地蔵の台石に刻まれた「庚申供養仏」の銘が記憶に残っている。これら2基の上方に赤塗りの小祠には、天明元年の双体道祖神が安置されている。扉越しに銘文を読む。かつて盗難に遭い、近年戻ってきたので、厳重な錠前付の祠の中に置かれている訳だ。
 杉本宅の文化6年の弁天座像(像高31センチ) は、周りに堀をめぐらし、覆屋根の下に安置されている。角柱型塔の中央に8手の座像を浮彫りし、上部中央に「ソ」、その左右に日月、台石に年銘と施主銘を刻む。その先の同姓の杉本宅を訪れ、寛延元年の8手弁天立像(像高37cm) を拝見する。光背型塔の中央には頭上に鳥居を頂く浮彫り像、上部中央に「ソ」、下方左右に年銘と施主銘を刻む。赤塗りの小祠に安置されている。この家の老人が先刻の道祖神の管理をしているというので、同道の上、祠の鍵を開けて頂く。改めて双体道祖神を調べ、写真を撮る。ここで今日のコースを終わり、多摩動物園駅に戻って帰途につく。
 それにしても祖父の名を刻んだ石造物に多摩市和田の十二神社で出会うとは全く予想もしていなかった。これまで立川市柴崎町の諏訪神社や普済寺での仕事は聞いていた。それだけではないことぐらいは解るが、実際に名前が刻まれているのをみると、実感がわく。有意義な1日であった。
               〔初出〕『あしあと』第88号(多摩石仏の会 昭和60年刊)所収
日野の石仏 多摩石仏の会平成5年5月例会

 平成5年5月16日(日曜日)は、多摩石仏の会の日野見学会である。午前9時30分には、JR中央線日野駅前に山村弥五郎、明石延男、関口渉、犬飼康祐、福島茂、多田治昭、遠藤塩子、大野純子の諸氏が集合する。
 今回も前回の五日市の見学会に続き、『新多摩石仏散歩』刊行を記念してたましん地域文化財団主催の「多摩の石仏みてあるき」である。多摩石仏の会の会員が案内と解説を受け持つ。前回と同様に3組にわかれて、最初の組を犬飼さん、中間の組を多田さん、最後の組を私が解説を担当する。
 日野の見学会といえば、多摩石仏の会の最初の見学会が日野で昭和42年11月19日におこなわれたのを思い出す。当時の参加メンバーに犬飼さんがいたかどうか、あるいは今回の参加者では私1人だけだったかもしれない。コースは、庚申塔の記録から追っていくと、日野・大昌寺〜日野・北原路傍(2カ所)〜日野・普門寺〜下河原・観音堂〜日野万願寺路傍〜日野万願寺・稲荷神社〜日野万願寺・万福寺〜下田・八幡神社〜下田・東浦地蔵堂〜石田〜程久保・神明社〜程久保・長楽寺を廻り、合計して41基の庚申塔をみている。1日歩いてこれだけの庚申塔を見られる所は少ない。今回のコースと重なる部分がある。
 駅前では狭すぎて挨拶も落ち着いてできないので、近くの宝泉寺(日野本町3丁目)の境内に集合する。たましん地域文化財団の原嘉文さんが挨拶し、案内者を紹介する。次いで犬飼さんからコースの概要と宝泉寺の石仏について説明がある。最初の組は、すでに境内の見学を終えていたので犬飼さんを先頭に坂下地蔵堂(日野本町3丁目)にむかう。多田組と石川組は、宝泉寺の境内にある石仏から見学を始める。
 宝泉寺は臨済宗建長寺派の寺で釈迦如来を本尊とする。本堂と客殿の間に「擧佛馬頭観世音菩薩」俗に「持ち上げ観音」と呼ばれる馬頭観音の石仏が祀られている。顔を除いて布で覆われているので像容がまったくわからない。十王堂には、木造の十王像と奪衣婆に混じって小さな2手馬頭観音の石仏が2体がある。境内には、3、4組の六地蔵がみられる。昭和63年銘の上屋の六地蔵の中に柄香炉を持つ1体があるが、手が鉄棒の懸垂をするような形で、3月の福生見学会でみたものと同形である。墓地には、新選組の井上源3郎や絵島生島事件に連座した金丸4郎兵衛の墓がある。
 次に訪れた坂下地蔵堂(日野本町3丁目)には、本尊である金銅製の地蔵菩薩座像が安置されている。堂の前には地蔵菩薩、阿弥陀如来、六地蔵などと並んで
   1 年不明  板駒型 日月・青面金剛がある。大昌寺の南の坂下にあったものを移したという。今回は案内のために計測できなっかたので昭和38年〜42年のデータが明らかなものは示しておいた。犬飼さんからいただいた資料の中に今年2月17日付けの読売新聞のコピーがある。それには「バチ当たり 坂下地蔵壊す」の見出しで、六地蔵の首が落とされた記事がのっている。現在は、地蔵の首がセメントで補修された。
 大昌寺(日野本町2丁目)は浄土宗知恩院末の寺で、阿弥陀如来を本尊とする。山門を入って右手には
   2 延享2 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿   63×31×15
   3 年不明 柱状型 青面金剛(下半部欠)       55×24の2基がある。以前は寺の近くの路傍にあった。昭和42年の写真をみると塔の背後は畑である。本堂の前には、近年に作られた仏足石がみられる。『新多摩石仏散歩』にその記載がないことからも造立された年が新しいことを示している。仏足石の近くに頂部に首なしの座像を置く角柱があり、正面に1体、左右の側面に2体ずつの地蔵が浮彫りされている。
 大昌寺から日野・仲井の地蔵堂にむかう。昔と違って開発が進んで辺りの光景は1変している。さいわいにも地元の河野さんが参加されていたから、わかりにくい道を間違えずにたどりつく。木祠の中には
   4 寛延2 柱状型 青面金剛
   5 正徳3 丸 彫 地蔵「奉納庚申供養」
   6 正徳6 丸 彫 地蔵「奉納庚申供養」の3基の庚申塔と文字馬頭がある。
 日野・谷戸の路傍には、丸彫りの地蔵と並んで
   7 貞享2 笠付型 日月「奉造立庚申供養」3猿       93×30がたっている。日野市内最古の庚申塔だ。この塔を初めてみたのは昭和38年10月28日、当時と異なり、塔の前の道も舗装され、周囲の光景も昔日の面影はない。
 宮に入り、内田家の角にある8手馬頭観音立像をみる。平成2年造立で、光背型塔に立像を浮彫りする。以前あった2手馬頭観音が割れて首が無くなったので再建したという。ここから昼食の宮センターにむかう。
 宮センターで昼食をとる。先発の犬飼組はすでに昼食をすませて出発の態勢である。食事が終わってからセンターの前にある
   8 安永4 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿     56×26をみて道1つへだてた共同墓地にいき、柱状型とに厚肉彫りされた平成4年10月造立の六地蔵を見学する。個人の墓所には、現代の一石五輪塔がみられる。次の別府神社でみた
9 元文5 笠付型 日月・青面金剛・3猿          61×25は、昭和38年当時のままの場所にある。
 下田に入り、安養寺を訪ねる。真言宗智山派の寺で高幡・金剛寺の末、阿弥陀如来を本尊とする。昭和54年の六地蔵は丸彫りの立像で、台石に「地獄」から「天道」までの6道が刻まれている。無縁墓地には、大きな丸彫りの聖観音立像がみられる。平成5年2月18日の造立である。
 近くの八幡神社の境内には、以前は道沿いに1列に並んでいた庚申塔が1カ所に集められて、3基ずつ2列に置かれている。その先に境内の中央にあった宝篋印塔の庚申塔が添え木で支えられてたっている。ここには
   10 宝暦11 宝篋印塔 「青面金剛三六度待」
   11 元文5 駒 型 日月「奉造立庚申供養」3猿       64×26
   12 安永7 柱状型 「ウーン 奉造立庚申供養塔」      63×26
   13 寛政4 柱状型 日月「庚申塔」3猿           55×22
   14 文政13 柱状型 「ウーン 庚申供養塔」         58×25
   15 年不明 笠付型 日月・青面金剛・1鬼「三疋申」     57×27
   16 年不明 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    63×26の7基の庚申塔がある。15の塔には「四丁亥」とあるから、宝永4年か明和4年の造立であろう。宝篋印塔に刻まれた銘文については、故・徳家徳治さんが『野仏』第23集に「日野市にある宝篋印塔庚申塔の銘文」(26頁)に全文をのせ、読み下し文と注釈を加えているから参考になる。「青面金剛36度待」は、3×6度待で「十八度待」、つまり「三年一座」を意味する。
 万願寺の斉藤さんのお宅には、「三匹申」と3猿が文字化された寛政3年の「庚申供養塔」があるが、個人のお宅にお大勢でよっては迷惑なので省略して東浦地蔵堂にいく。今回のコースでは、区画整理や宅地造成がすすみ、新しい家が建って以前の光景とは変わってしまったが、地蔵堂の1画だけはなぜか以前の面影を残している。堂内には
   17 文化10 柱状型 日月「庚申供養塔」3猿         55×23
   18 寛政4 柱状型 日月「青面金剛塔」「申申申」      65×23
   19 宝永4 笠付型 日月・青面金剛・3猿・蓮華       60×25の3基の庚申塔がみられる。
 新井に入り、土方歳3の生家にいく。いつもならば第3日曜日の午後に資料が公開されるが、あいにく5月は9日の第2日曜日に変更されて残念である。近くにある光徳寺跡の無縫塔などの墓石をみてから、石田の土方久三さん宅の角にある
   20 昭和48 柱状型 「庚申供養塔」をみる。昭和38年の調査の時には、上半部が剥落した天明8年の「庚申供養」塔があり、台石には「三疋申」と刻まれていた。その塔が破損したので昭和48年に土方康さんの文字で「康申供養燈」が再建された。最近になって、正面の「康申供養燈」の銘文を削り取って、現在の「庚申供養塔」に改刻されている。
 石田寺は下田の安養寺と同じ真言宗智山派の高幡・金剛寺の末寺である。本尊に地蔵菩薩を祀る。本堂を始めとして山門や塀が新築され、寺の内外が1新されて昔の面影がまったくない。境内にある六地蔵は、平成3年の造立で、向かって右端の延命地蔵が「地蔵菩薩」とある以外は「○○菩薩」となっている。犬飼さんの資料にのっている
  21 年不明 丸 彫 地蔵「奉納地蔵尊1躰 庚申講中」は、30cmたらずの小さな首なし立像である。
 最後の見学地は、高幡不動で有名な金剛寺である。真言宗智山派の別格本山で、大日如来を本尊とする。改築中の不動堂の裏にある「殉節両雄之碑」をみてから、地蔵堂にある
   22 享保18 笠付型 日月・青面金剛・3猿    57×27の写真を撮る。中が暗くて像容がはっきりしないが、昭和37年10月22日の写真をみると、この塔が野外にあったことがわかる。山内にある四国八十八カ所はいずれも丸彫りの弘法大師を置くもので、八十八大師である。5番札所(徳島県板野町 真言宗・地蔵寺)の座像をみて見学を終える。前の2組の待つ本堂前に行き、解散する。
 昭和58年10月に発行された『日野市史 民俗編』には市内の「庚申塔一覧表」(323〜335頁)がのっており、庚申塔107基が記載されている。前回の5日市で7基であったのに比べて、今回のコースが21基であることからも、日野市内は多摩地方で庚申塔の密度が高いことがうかがわれる。            〔初出〕『平成五年の石仏巡り』(ともしび会 平成5年刊)所収
八王子・日野を歩く 飯縄権現を求めて単独行

 朝起きると上天気なので、急なことながら石仏巡りを考えた。平成8年4月3日(水曜日)のことである。行く先は八王子と日野、目的は飯縄権現を中心とする。先ずはJR中央線八王子駅で下車、新町の栄福稲荷を訪ね
   1 元禄16 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        94×44×42
   2 享保8 笠付型 (梵字庚申真言)            108×37×34の2基の写真を撮ってから、元横山町・妙薬寺に向かう。墓地にある仁王を撮ってから、本堂の裏手にある
   3 宝永7 笠付型 日月・青面金剛・3猿            59×26×20をみる。最後に、今日の目的の飯縄権現をみる。光背型塔に浮彫りされたもので、右手に剣を立て、左手に索をとる。足下の狐の首は、欠けてない。台石正面には「横山宿 願主七平」とある以外には銘文がない。傍らに「昭和五十八年九月 火伏之神 秋葉大権現 台座 寄進 田中泰造」と記す標識がある。ここから駅に向かうが、途中にある元横山町・大義寺に寄って
   4 年不明(笠付型)日月・2鶏・3猿             72×27×24
   5 年不明(笠付型)日月・2鶏・3猿             73×27×24
   6 宝暦11(笠付型)                     56×26×20の3基を確認する。
 八王子駅に戻り、中央線で高尾に向かう。駅から甲州街道の旧道を歩くつもりで、先ずは途中にある高尾町川原宿の墓地にいく。そこには
   7 宝永4 笠付型 合掌弥陀・3猿              61×27×21がみられる。この塔は、中央線の車窓からもみられる。
 廾里町の白山神社には、練馬区から移入された庚申塔があるのを思い出して訪ねた。以前は参道にあったように記憶しているが、拝殿が新築されたせいか参道には見当たらず、境内を探すと、本殿裏の高台の墓地入口に
   8 元禄13 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     76×33×27が健在である。右側面に「ウーン奉造立庚申像二世安楽祈所 元禄十三庚辰天十月廾五日」の2行、左側面には「武州豊嶋郡上練馬之内貫井村 結衆十五人」の2行の銘文が刻まれている。昭和61年発行の『練馬の庚申塔』の92頁に載っている。
 裏高尾町の旧・甲州街道の念珠坂路傍には、徳本の名号塔などと並んで
   9 寛政12 自然石 「(キャア) 青面金剛」        102×80がみられる。「キャア」の種子を囲んで「〓」が刻まれている。同じ裏高尾町の荒井には、バス停留所の近くに「戦没者供養塔」と地輪に刻んだ五輪塔があり、左端には
   10 宝永3 笠付型 日月・青面金剛・3猿           56×26×21がみられる。日月を捧げる典型的なH型合掌6手像である。
 蛇滝口のバス停留所を過ぎて、高尾山を示す道標に従って左折して山道を登る。途中、4国八十八カ所の石仏をみながら進むと、蛇滝の水行所の手前に飯縄権現がある。光背型塔に幾分右を向いた飯縄権現を浮彫りする。火焔に赤の彩色が施されている。台石正面には「昭和四十五年五月吉日 寄進者 埼玉県足立町 志木日護摩講 開眼 山本秀順大僧正」とあり、左側面には「埼玉県志木 内田栄信謹製」の石工銘がみられる。山本師は、高尾山薬王院中興第31世前貫主で、今年2月4日に84歳で亡くなられた。
 高尾山は、ハイカーや参拝者で賑わっている。参道には、不動三十六童子の銅像がみられる。それぞれの童子の名前が、下の石柱の正面に刻まれているので像容を知るのに都合がよい。本堂下には、三十六童子の銅像がみられるが、こちらには童子名の標識はないから、一つ一つ像容に合わせて童子名を調べなければならない。本堂南の石段途中にある木祠には、飯縄権現が安置されている。前掛けは1杯掛けてあって飯縄権現の顔や足下の狐の顔がわかる程度である。蛇滝のとは異なり、ここのは狐が正面向きである。彩色はされていない。木像の飯縄権現は、納札堂の中に安置されている。
 下山して京王線高尾山口駅から百草に向かう。百草駅を下りて百草八幡神社に向かう途中、三沢2−1の路傍に地蔵を祀る祠があって、その中に
   11 宝永6 笠付型 日月・青面金剛・3猿           54×24×18がみられる。百草八幡神社の境内には、明和6年の飯縄権現がある。笠付型塔の正面には、像を浮彫りし、右側面に「秋葉大権現」、左側面に「明和6己丑天 倉澤講中 9月大吉日」の銘文が刻まれている。近くにある石碑には、「秋葉山大権現 遷宮前所在地 百草七七九番地 二畝十五歩 昭和四十一年十一月一日東電学園学校敷地へ」と彫られている。石碑の建ったのが昭和47年2月だからこの頃には現在地に移されたことがうかがわれる。ここを最後に帰途につく。
               〔初出〕『平成八年の石佛巡り』(ともしび会 平成9年刊)所収
日野市内を廻る1 多摩石仏の会平成15年1月例会

 平成15年1月19日(日曜日)は多摩石仏の会1月例会。JR中央線日野駅に午前9時30分集合、コースの案内は加地勝さんが担当で日野市内を廻る。集まったのは、縣敏夫さん・犬飼康祐さん・遠藤塩子さん・喜井晢夫さん・鈴木俊夫さん・関口渉さん・多田治昭さん・萩原清高さんの総勢10人である。
 案内の加地さんから今回の案内図と石佛資料、それに加えて『日野市史 民俗編』の石佛資料コピーをいただく。また喜井さんから先日行われた日野市内のサイノカミのお話をうかがい、その時に配られたという「塞之神御札」を受け取る。
 参加者の顔がそろったので、集合時間の少し前に出発する。先ず中央線に沿った第1見学地の大坂上1−19−1に向かい、土方家西側、加組の倉庫前にある
   1 宝暦11 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        56×24×17
   2 元禄7 笠付型 日月・青面金剛・3猿・蓮華        67×30×20
   3 宝暦10 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        53×24×18の3基の青面金剛をみる。
 1は合掌6手像(像高35cm)、上方手の開いた掌の上に日月がある、いわゆる万歳型の青面金剛である。下部の3猿(像高7cm)は正面向きながら、るおう端の2猿が膝を崩している。右側面に「庚申供養塔 □兵衛(等4人の名)」、左側面に「宝暦十一巳四月吉日 四良(等4人の名)」の銘がある。
 2も合掌6手(像高24cm)、塔の1部に欠落がみられる。像の左右に「奉造立庚申」と「元禄七甲戌三月廾二日」、3猿(像高9cm)の下に「森住佐衛門」など8人の氏名が刻まれている。両側面に蓮華を陽刻する。
 3も1同様の万歳型像(像高39cm)、下半身部にヒビが入り、剥落もみられる。左側面に「宝暦十庚3月十五日」の年銘を刻む。下部の3猿(像高6cm)は、同時代の1とも姿態が異なり、右2匹と左1匹が三匹とも片手で塞ぐ仕種をしている。
 以前なら中央線の踏切を渡れば直ぐにいけた坂下地蔵堂(日野本町3−5)が、一旦駅まで戻って反対側の道を登らなければならない。この地蔵は、後で廻った「東の地蔵」に対して「西の地蔵」である。ここの倉庫に庚申銘の梵鐘がある。目障りな金柵越しに
   4 年不明 光背型 日月・青面金剛              59×33を写す。3面合掌6手像(像高34cm)の左右に年銘が刻まれていたが、欠けて左の「年」と右の「十一日」が僅かに読める。像の下に8人ずつ2段の施主銘がある。
 次いで先に前を通ってきた宝泉寺(日野本町3−6)に寄り、馬頭観音の「持ち上げ観音」を拝見する。上部が赤の編み物、頭上の馬頭と顔えだけがみえ、白地に小柄がプリントされた布地が掛けられて座布団の上に安置されている。境内には大きな布袋や小振りな毘沙門天の石像みられる。
 次の大昌寺(日野本町2−12)では、線刻佛足石をみてから墓地入口にある六地蔵を撮る。角柱型の正面上部に1体、左右側面に2段に2体ずつ浮彫りされ、5体地蔵の角柱の上に首の欠けた地蔵が置かれている。明和7年の造立。墓地にある墓塔の1基に中央手が合掌し、上方手に矛と蓮華、下方手に矢と弓を執る立像がみられる。この像は、不空羂索観音と考えられる。
 大昌寺の参道の入口には、次の庚申塔がみられる。
   5 延享3 (笠付型) 日月・青面金剛・1鬼・3猿        65×30×21
 5は合掌6手像(像高39cm)で、溝口喜久治さんのいうX型像である。X型像は、先にみられた万歳型のH型像に先行する。下部の3猿(像高10cm)は、中央の塞耳猿が正面を向いているが、両端の2猿が首を曲げて脚を投げ出している。右側面に「延享三乙丑年四月吉日」、左側面に「施主中十一人」と彫る。
 大昌寺までは予定のコースを辿ったが、これ以降はコレラ庚申まで行かずに順路を変更する。中村宅(日野本町7−2−5)には庭に小祠があり、その中に「やんめ地蔵」と「建千地蔵」を祀る。その由来を記した「地蔵菩薩 縁起」がみられる。犬飼の話では、以前は甲州街道に面した地蔵堂の中に安置されていたが、宗教が原因で土地の所有者の意向で縁のある中村家に戻された、という。
 続く普門寺(日野本町7−5)は、墓地の入口に
   6 年不明 笠付型 阿弥陀如来・3猿             57×22×20
   7 宝暦9 笠付型 日月・青面金剛・3猿           57×25×21
   8 年不明 不 明 (上欠)青面金剛・3猿          48×28
   9 元禄7 板駒型 日月・青面金剛・3猿           61×30
   10 延享4 不 明 日月・青面金剛・3猿           40×29
   11 年不明 不 明 (上欠)青面金剛・3猿          36×25の6基の庚申塔が並んでいる。以前より置かれた場所が整備されたが、塔の破損が目立って、特に6は主尊の阿弥陀如来像が欠けてかつての面影がない。
 6は、正面の主尊・阿弥陀(像高29cm)は現在では判別がつかず、右側面下部の猿が僅かに庚申塔を感じさせるだけである。銘文は1切読めない。
 7は合掌6手万歳型の青面金剛(像高39cm)を主尊し、下部に3猿(像高9cm)がみられる。
 8は合掌6手像標準型(像高19cm)で、下部に両端が内を向く3猿(像高10cm)がある。
 9は合掌6手像(像高24cm)、下部に3猿(像高9cm)がみられる。像の右に「庚申供養一基」、左に「元禄七年戊□正月吉日」の銘がある。
 10は合掌6手像(像高21cm)、下部に正面向き3猿(像高9cm)を浮彫りする。
 11は上部が欠失して青面金剛と思われる像の下半(像高20cm)があり、下部に正面向き3猿(像高6cm)、その下に施主銘がみられる。
 北原の唐辛子地蔵堂(日野本町4−6)には、脇に次の3基の庚申塔がある。
   12 明和4 笠付型 日月・青面金剛・3猿           55×24×20
   13 宝暦5 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        57×26×20
   14 宝暦6 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        50×26×12
 12は万歳型の合掌6手(像高38cm)、下部の3猿(像高10cm)は中央が正面、両端が内側を向く。右側面に「明和四亥/四月吉日/講中七人」の銘。
 13は合掌6手(像高37cm)、下部に3猿(像高6cm)がある。左側面の「宝暦五乙亥年二月吉日」は読めるが、右側面は12と並んでいて銘文がわからない。犬飼資料では「庚申講中7人」とある。
 14は、12と13の陰に隠れて見逃す可能性がある。1鬼上の標準形合掌6手(像高35cm)で、下部の3猿(像高5cm)が小さい。右側面に「宝暦六丙子十一月吉日 講中十人」と彫る。
 川寄りの通りの路傍(日野本町4−25−6)には、次の
   15 元禄11 光背型 地蔵菩薩・3猿              68×37がある。これは6とは異なり、石質がよいので地蔵(像高38cm)も下部の3猿(像高9cm)もしっかり残っている。像の左右には「元禄十一年戊寅十一月吉日」と「庚申供養(この下にまだ2字あるらしい)」、右側面に「松本□右衛門」など4人の施主銘がみられる。
 唐辛子地蔵堂に戻って14番に予定されていた路傍(日野本町4−11−1)にある
   16 元文2 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        62×29×22
   17 明和3 笠付型 日月・青面金剛・3猿           50×23×18
   18 元禄13 光背型 日月・青面金剛・3猿           61×34の3基をみる。
 16は1鬼上の合掌6手(像高36cm)、下部に3猿(像高10cm)が浮彫りされている。右側面に「元文二丁巳歳」、左側面に「□月吉日」の造立年銘を刻む。
 17は合掌6手(像高36cm)、下部に3猿(像高8cm)がある。右側面に「明和3丙戌年 □左エ門
 金8(等6人の名が上下2段に並ぶ)」、左側面に「5月吉日 藤7 幸左エ門(等6人の名が上下2段に並ぶ)」と彫る。
 18は合掌6手(像高23cm)、像の左右に「元禄十三庚辰年」と「一月吉日」の銘がみられ、下部の正面向き3猿(像高10cm)の下に9人の施主銘がある。
 多少の時間があるので最後に「東の地蔵」(日野1620)を訪ね、境内にある山角型融通念佛塔(55×20×18cm)をみる。正面に「永代融通念佛塔盟約塔」の主銘、その左右に「天下泰平」と「國土安全」、右側面に「武州多摩郡日野宿」、左側面に「享和元年辛酉十一月立之」とある。
 その先の下河原観音堂に「二十三夜講」銘の庚申塔があるので行きたかったが、時間的に無理ななどで日野駅に向かう。
 下り電車で豊田駅下車、駅前の総会の会場「いけす」に行けばすでに明石延男さん・川端信一さん・中山正義さんの3人が待っている。総会前に多田さんから「平成の庚申塔一覧」をいただく。最新の平成14年塔3基まで、46基が記載されている。八千代市佐山に「為結婚五十周年記念」と刻まれた平成14年文字塔があり、小山市田間に青面金剛刻像塔と文字塔の2基がある。
 全員が揃ったところで総会を始る。犬飼さんの司会で会計報告の後に、役員改選・年間行事・『野仏』・写真展・年会費の議事を済ませて終わる。鈴木さんの音頭で乾杯、食事の合間に隣同士が話し合う。縣さんや中山さんから石佛関係の本が廻される。その1つに昨年6月に房総石造文化財研究会発行の『石仏探索記録集』がある。その中に「下総の五神名地神塔」が収録され、25基が報告されている。
 午後3時を廻って散会、立川経由で帰途につく。
             〔初出〕『多摩石仏の会雑記03』(多摩野佛研究会 平成15年刊)所収
日野市内を廻る2 多摩石仏の会平成16年正月例会

 平成16年1月18日(日曜日)は多摩石仏の会正月例会、恒例の午前中が見学、午後から新年会である。多摩モノレール万願寺駅に午前9時30分集合、コースの案内は加地勝さんが担当し、昨年に引き続き日野市内の万願寺を中心としたコースを廻る。集まったのは犬飼康祐さん・遠藤塩子さん・喜井哲夫さん・鈴木俊夫さん・関口渉さん・多田治昭さん・萩原清高さんの総勢8人である。
 モノレールは何度か乗ったが、万願寺駅で下車するのは初めてである。9時16分に到着、早速、加地さんから今回の見学コースと新選組関係のパンフレットをいただく。参加予定者の顔が揃ったところで、第1見学地の東浦地蔵堂に向かう。平成5年以来の再訪である。前回の記録をみると、この時に歩いたコースと地蔵堂にふれて「区画整理や宅地造成が進み、新しい家が建って以前の光景とは変わってしまったが、地蔵堂の1画だけはなぜか以前の面影を残している」と記している。
 万願寺駅近くの地蔵堂は前回の時と異なり、新造されて面目を1新している。ここに3基の庚申塔がみられるが、次の1と2は堂内にあり、3は外に置かれている。
   1 宝永4 笠付型 日月・青面金剛・3猿・蓮華        55×29×17
   2 文化10 柱状型 日月「庚申供養塔」3猿(台石)      50×23×20
   3 寛政4 柱状型 日月「青面金剛塔」            59×24×23
 1は合掌6手像(像高24cm)、その下に両端内向きの3猿(像高8cm)を陽刻する。像の右に「□□4丁亥年」、左に「2月吉祥日」、3猿の下に6人の施主銘を刻む。正面上部の日月・瑞雲は陰刻両側面に蓮華の陽刻がみられる。
 2は山角型の正面に「庚申供養塔」の主銘、右側面に「文化十酉年十月吉日」の年銘、左側面には「當村講中7人」の施主銘がある。台石の正面に3猿(像高13cm)を浮彫りする。この3猿は中央が両手で耳を塞ぐが、両端の猿は目や口を片手で抑えている。神奈川にみられる「片手猿」を連想するが、両端の猿は正面を向いている。
 3は1と2と違い1基だけ外に置かれ、3折して痛ましい。正面の上部の日月が欠けて瑞雲が残っている。「青面金剛塔」が主銘で、右側面に「寛政四壬子年九月吉辰」、右側面はブロック塀についていて「當村」の2字だけ読めるが、その下の「講中7人」が判読できない。かつては、この塔の下に横1列に「申申申」と陰刻された台石(16×35×33cm)があったが、現在は1と2の間に置かれ上に石祠がのせられている。
 次いで土方歳3の生家の前を通って浅川近くにある石垣の上に並ぶ
  参1 平成3 板石型 「庚申講記念碑」             67×50
  4 嘉永5 柱状型 「庚申塔」                58×28×25
   5 年不明 笠付型 日月・青面金剛・3猿           52×26×19の3基をみる。以前は新井橋西の土手の上にあったように記憶するが、現在地へ移転している。
 参1は正面に「庚申講記念碑」とあり、裏面に「万願寺移転記念供養塔/平成三年十一月吉日」の次に庚申講に加入している9人の平姓の氏名を上段に5人、下段に4人と2段に記す。犬飼さんの話では、現在の庚申講は1軒抜けて8軒だとか。
 4は「庚申塔」が主銘の文字塔、右側面に「嘉永六年癸丑十一月/両組講中」と彫る。石塔自体も風化が進んでいるが、台石正面に刻まれていた「三匹申」の銘文は剥落してしてしまった。
 5は合掌6手像(像高31cm)で、下部に小さな3猿(像高6cm)がある。主尊の顔や胸前の両手下方手の持物が剥落して痛ましい。両側面はセメントで補修されており、ここには造立年銘や施主銘が刻まれていたと思われる。
 続いて新井から石田へ入り、路傍に面した大谷石の塀で囲まれた
   6 昭和48 柱状型 「庚申供養塔」              48×22×19をみる。昭和38年の調査時には、上半部が剥落した天明8年造立の「庚申供養」塔があり、台石に「三疋申」と刻まれていた。その塔は片づけられて石田寺に現存するが、それが破損したので、昭和48年に土方康さんの文字で「康申供養燈」が再建された。後になって正面の「康申供養燈」の銘文を削り、現在の「庚申供養塔」に改刻された。
 6は「庚申供養塔」の主銘で、右側面に「石田村講中安全」、左側面に「昭和四十八年三月吉日/再建主 土方久3」と彫る。
 次の石田寺には、6を再建するまで路傍に立っていた
   7 天明8 柱状型 「□□供養」               62×27×22は無縁墓と1緒にある。
 7は風化剥落が酷く、主銘「庚申」の2字が読めない。右側面も「八戊申年春立」、左側面に「石田村講中安全」と記す。6の右側面に刻まれた「石田村講中安全」は、旧塔の銘文を踏襲している。
 平成5年5月16日(日)の多摩石仏の会は、たましん地域文化財団主催の「多摩の石仏みてあるき」を兼ねた見学会であった。会員が執筆したには『新多摩石仏散歩』刊行を記念しての行事で、この折りにこの寺を訪れ
   ・ 年不明 丸 彫 地蔵「奉納地蔵尊一躰 庚申講中」をみている。当時の記録に「30センチたらずの小さな首なし立像である」とあるが、現在はその行方がわからない。
 次に訪ねたのが近くにある下田・八幡神社。かつて境内中央にあった8の宝篋印塔が現状のように添え木で支えられてたっていた。昭和40年代は道路に沿って横1列に並んでいた庚申塔6基が平成5年に寄った時には、すでに現在のように1カ所に集められ、3基ずつ2列に置かれていた。
   8 宝暦11 宝筐印塔 「…青面/金剛36度/待…」      29×34×34
   9 元文5 駒 型 日月「奉造立庚申供養」3猿(像高14cm)  59×26×18
   10 安永7 柱状型 「ウーン 奉造立庚申供養塔」3猿(台石) 56×28×18
   11 年不明 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿(像高6cm)68×28×18
  12 寛政4 柱状型 日月「庚申塔」3猿            53×21×18
   13 年不明 笠付型 日月・青面金剛・1鬼           72×30×26
  14 文政13 柱状型 「ウーン 庚申供養塔」          52×25×18
 この7基の庚申塔は、計測だけを記録するだけで、銘文などを調べなかった。11の青面金剛は像高25cm、13のは頭部が剥落しているので正確ではないが像高約36cmである。
 8の宝篋印塔に刻まれた銘文については、『日野市史 民俗編』(日野市史編さん委員会 昭和58年刊)に掲載され、故・徳家徳治さんが『野仏』第23集(多摩石仏の会 平成4年刊)に「日野市にある宝篋印塔庚申塔の銘文」(26頁)に全文をのせ、読み下し文と注釈を加えているから参考になる。「青面金剛三六度待」は、3×6度待で「十八度待」、つまり「三年一座」を意味する。
 犬飼さんは縣敏夫さんの拓本から『日野市史 民俗編』の銘文に間違いをみつけ、拓本を添え『日野の歴史と文化』第49号(日野史談会 平成11年刊)の「下田八幡宮の宝筐印塔庚申塔の銘文」で銘文を訂正している。加地さんのレジメに出典の記載がないが、この雑誌のコピーを加えている。八幡神社に続いて万福寺を訪ねる。塔の周辺が以前の面影が全くないように変化し、一見して思い出すのに時間がかかる。
   15 昭和35 笠付型 「奉供養庚申塔」             54×24×17
   16 宝暦10 笠付型 「奉供養庚申塔」             48×23×17
 15は正面に主銘の「奉供養庚申塔」、右側面に「昭和三十五年十月 萬福寺八世/忠正再建」、左側面に「宝暦庚辰歳 講中六人」と彫る。この塔については
    仲ちゃんにについては、一つの思い出がある。昭和四十二年頃に多摩石仏の会で日野市内を
   廻った時、万願寺の万福寺門前に昭和三十五年造立の庚申塔があった。その側面に「万福寺八
   世忠正再建」「宝暦庚辰歳 講中六」と刻まれ、脇に破損した宝暦の塔もみられた。再建され
   てからそう長い年そう長い年月も経ていないから、造塔の事情もわかると思い、住職に尋ねた
   ところ前の塔(宝暦)が破損したのを出入りの石屋が再建したのだという。さらに住職に質問
   してその石屋を聞いたら、立川の浜中だという。当時は、まだ仲ちゃんの存命の頃だったと思
   う。偶然のことから、仲ちゃんの仕事に接した訳である。と『日本の石仏』第8号(日本石仏協会 昭和53年刊)に発表した「石工に想う」の中でふれた。
 16は道路に面して立っている15の旧塔で、境内の隅に割れて横になっており、上に笠部をのせている。主銘は15と同じ「奉供養庚申塔」、側面には「宝暦庚辰歳十一月 講中六人」の銘がある。
 万福寺から日野万稲荷社に向かい、檻のようなステンレスのパイプに囲まれた柵の中に横1列に並んでいる庚申塔8基をみる。ここも先の下田・八幡神社同様に、写真を撮って採寸だけを記録する。
   17 正徳2 笠付型 日月・青面金剛・3猿・蓮華        66×33×22
   18 嘉永5 柱状型 「庚申塔」(正面剥落)「三疋猿」(台石) 60×26×22
   19 文化4 日月「庚申塔」3猿(台石 像高9cm)       58×26×22
   20 享保10 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏        61×25×24
  21 寛政12 柱状型 「庚申塔」「三疋申」           46×18×16
  22 宝暦14(笠付型)日月・青面金剛・2鶏・3猿(笠部欠失)  78×30×18
   23 元禄14 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿(台石) 59×28×25
 17が青面金剛の像高が33cm、猿が9cm、21が像高30cm、23の主尊が26cmで猿が8cm、24は青面金剛が41cmで猿が7cmである。18の台石正面に「三疋猿」、21の本体に「三疋申」と3猿の文字化がみられる。日野が3猿の文字化の中心である。
 以上の7基ほ他に、以前の記録をみると次の1基が落ちている。
   24 寛保2 笠付型 日月「奉造立庚申供養」         (計測せず)
 24は19と20の間にあり、燈籠の竿石と間違えて洩らした。
 稲荷社から「新選組フェスタin日野」の万願寺メイン会場(入場料300円)を訪ね、大河ドラマ館・特別展示棟の土方歳三特別展示と浅田次郎展を廻る。新選組には余り興味がなく、1時間の見学予定が30分足らずで見終えて、残りの時間を庚申塔に当てる。
 万願寺メイン会場の見学予定時間が30分短縮したのでバスを待つまで間があり、見学予定コースに加えて宮の別府神社を訪ねる。
   25 元文5 笠付型 日月・青面金剛・3猿           61×25×18
 25は合掌6手像(像高28cm)、下部に両端内向き3猿(像高9cm)がある。笠部正面の唐破風には「卍」を陽刻する。右側面にある「宮村講中」の銘の「中」が欠けている。左側面には、年銘の「元文五庚申天十月吉日」の内「吉日」が失われている。平成5年に「昭和三十八年当時のままの場所にある」と記した所在地は、境内を道路用地で削られたので現在地に移転して覆屋根の下に安置されている。
 続いて宮センターに寄り、建物の前にある
   26 安永4 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿(台石)    50×24×19をみる。主尊は万歳型の像(像高37cm)で、両手の掌と日月の間が離れている。台石正面に3猿(像高13cm)があり、姿態が変わっている。右側面に「安永四乙未十一月吉日」、左側面に「講中」の名画みられる。
 バス停へ向かう途中、少々時間があるので金山さまの木祠に行く。祠の扉を開けると、奥の中央に石棒(高さが50cm、直径が12cm)があり、両横に玉石が2個置かれている。小祠のバックに樹が生い茂っていて残しておきたい環境であるが、すでに周辺の宅造が進んでいるから、いつまで現状を保っていられるだろうか。
 上田のバス停から京王バスで終点の日野駅前まで乗り、近くの新年会場の庄屋へ行く。すでに2階の会場には、明石延男さん・遠藤塩子さん・中山正義さんの3人に途中でリタイアした鈴木俊夫さんの4人が待っている。
 新年会は総会から始まり、会計報告・例会の担当者・写真展・年会費などを決めて鈴木さんの音頭で乾杯する。あとは鍋料理を囲んで自由に雑談して時を過ごす。中山さんから昨年暮れに訪ねた春日部市銚子口・香取神社で演じられる獅子舞のカラースライドをいただく。昭和47年1月23日の撮影である。現在は23日から近い日曜日に日取りが変更になったので、奇しくも今日が獅子舞の日である。今年は香取神社で周辺の獅子舞を集めると、ホームページの掲示板に載っていた。4時過ぎにお開きとなる。   〔初出〕『多摩石仏の会雑記04』(多摩野佛研究会 平成16年刊)所収
日野市内を廻る3 多摩石仏の会平成16年7月例会

 平成16年7月25日(日曜日)は多摩石仏の会7月例会。JR中央線豊田駅に午前9時30分集合、コースの案内担当は加地勝さんで日野市内を廻る。参加したのは犬飼康祐さん・遠藤塩子さん・喜井晢夫さん・関口渉さん・多田治昭さんの総勢8人である。加地さんの案内の時には雨が降ったり、大雨で中止になっているが、今回は晴天である。
 予定してしていたより青梅駅を1電車早く、といっても7分の違いであるが、豊田駅についたのが午前9時12分と2分しか違わない。立川で特急や快速電車が間に割り込んでいたせもある。同じ電車に関口渉さんが乗車している。
 改札を出ると犬飼さんと加地さんが待っていて、早速、加地さんから今回のレジメ「日野市南部地区 程久保・三沢・落川・百草」と『日野市文化財さんさくマップ』、柴田力雄さんの『日野市の石仏(南部篇)』が渡される。
 豊田駅前から9時46分発の多摩センタ−行きのバスに乗り、「多摩テック入口」で下車して程久保の石佛から歩きはじめる。最初はコ−ポサンライズ(程久保6−13)横に4基並ぶ石佛、特に右端にある白御影の馬頭観音が目をひく。頭上の馬首は明確に彫られている訳ではないが、馬口印を結ぶ2手立像(像高33cm)で光背型塔(46×24cm)が浮彫りされる。裏面に「平成三年十一月吉日/施主 田倉預域」の銘がある。
 次に訪ねたのが田倉荘裏(程久保6ー9)の明治12年の文字馬頭、次いで田倉家裏墓地(程久保6−9)にある石佛群、中でも右端にある文字馬頭を注目する。板石型塔(93×30cm)に「馬頭観世音」の主銘はともかく、銘文の中に「日露戦役」がある。造立年代が刻まれていないが、その銘からある程度の推定ができる。
 田倉高光さんの応接間で梅ジュースをご馳走になり、先の馬頭観音を尋ねたが、正確な造立年はわからない。隣と2軒で造立したことは、施主銘からも明らかである。
 次いで訪ねたのが杉本家(程久保6−8−7)、中央の手に剣と宝珠を執る弁天8手立像(像高35cm)を浮彫りする光背型塔(49×27cm)をみる。頭上に種子「ウ」、像の右下部に年銘「寛延元戊辰年/十一月十九日」、左下部に施主銘「(杉本)九右衛門」を記す。
 その先の杉本家(程久保6−7)では、続いて弁天を見学する。中央手に剣と宝珠を執る弁天8手座像(像高29cm)を浮彫りする柱状型塔(65×31×28cm)、台石右側面に「文化六/己巳年/己巳月/如意日」、左側面に「武州多摩郡/程久保村/椙本/銀左衛門/平義英」と彫る。
 次の秋葉神社(程久保6−3)では、2基の庚申塔をみる。
   1 延享2 丸 彫 地蔵(台石)「庚申供養佛」        55×25
   2 享保9 笠付型 日月・青面金剛・3猿           61×27×16
 1は首無しで剥落がひどい。台石正面に「延享二丑年/庚申供養佛/十一月吉日」の銘が刻まれていることから、庚申塔とわかる。
 2は上方手の持物が通常とは逆な合掌6手像(像高35cm)、頭上に「ウーン」の種子、下部に正向型3猿(像高11cm)がある。右側面に「享保9甲辰4月」の年銘、左側面に「武州多摩郡程久保村」の地銘がある。
 庚申塔の背後の高台に朱塗りのコンクリート製の祠があり、中に双体道祖神が安置されている。板駒型塔(47×33cm)に男神(像高33cm)と女神(像高32cm)が並立している。
 多摩動物園前を通り、長楽寺(程久保8−49)入口で庚申塔2基をみる。この塔は寺が新宿区から移転した際に移動したものである。かつて、この寺には寛文12年の庚申灯籠があったことが清水長輝さんの『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)に写真(口絵48図)と解説(178頁)が載っている。以前、この寺の境内や墓地を調べたが湖心灯籠を発見できなかった。
   3 元禄2 板駒型 日月・青面金剛・3猿・蓮華(台石)   136×53
   4 元禄3 板駒型 日月・青面金剛・3猿          138×60
 3は合掌6手像(像高46cm)で、足下に正向型3猿(像高15cm)がある。
 4も3と同様に標準的な持物の合掌6手像(像高45cm)、足の下に正向型3猿(像高19cm)がみられる。塔の前の通路が工事中なので、両基の銘文記録は省略する。
 今回の拾い物は神明神社(程久保8−20)入口横にある、白御影に浮彫りされた青面金剛で、寛政12年の再建塔である。残念ながら旧塔の年銘だけで、造立年がない。塔の汚れがないので、平成10年前後ではないかと推測する。
   5 年不明 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        70×30×28
   6 宝永5 板駒型 日月・青面金剛・3猿           70×38
   7 寛政12 柱状型 (2切)青面金剛             41×29×30
 5は標準的持物の合掌6手像(像高42cm)、下部に内向型3猿(像高9cm)がある。右側面に「寛政十二庚申年三月吉祥」、左側面に「武州多摩郡小宮領程久保村」とあり、旧塔の銘文を受け継いである。
 6は隣にある上方手と下方手はX状の標準的な持物の合掌6手像(像高30cm)、下部の正向型3猿(像高9cm)と共に造立年の古さを示している。像の右に「奉納庚申供養二世安禾所」、左に「宝永五戊子集十月吉日」、3猿の下に「正福寺/太左衛門(など7人の氏名)/敬白」と記す。
 7は5の旧塔で、2折しているが合掌6手像(像高30cm)、この上の塔の残欠(30×21×26cm)が残っている。旧塔の両者を併せて「寛政十(二)/申年三月吉日」、「多摩郡小宮領程久保」と読める。前の記録には「青面金剛・3猿」とあるあ、現状は3猿がはっきりしない。
 続いて正福寺跡の墓地(程久保8−19)に行き、即身成佛した妙智法尼の墓を見学する。次いで訪ねた庚申塚(程久保8−8)には、左端に庚申塔がある。
   8 享保9 笠付型 日月・青面金剛・3猿           57×28×15
 8は標準的持物の合掌6手像(像高27cm)、像の右に「干時享保9甲辰年 施主」、左に「2月吉日 武州程久保村」、内向型3猿(像高8cm)の下に8人の施主銘を刻み、末尾に「敬白」とある。
 程久保から三沢に入り、川崎街道を左折して下田稲荷神社(高幡733)に行く。神社の入口に扉があり、錠がかかって入れない。境内に次の文字庚申がある。
   9 寛政5 柱状型 「庚申供養塔」「三疋申」(台石)    (計測不可)
 記録をみると、下田稲荷の塔は旧在地が「高幡 七生農協横」とある塔で、ここがしの塔の移転先になる。
 川崎街道を東に進み、旧三沢八幡の参道の路傍(三沢3−46)に次の塔がある。
   10 宝永6 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿・蓮華     77×38×36
 10は標準的持物の合掌6手像(像高39cm)、像の右に「三沢村庚申講中 施主敬白」、左に「開眼導師 仙宥」、右縁に「干時宝永六己丑年」、左縁に「二月吉日」と彫る。両側面に蓮華を浮彫りし、右側面に「奉造立尊像者庚申講成就爲供養也」の銘がある。台石正面に正向型3猿(像高8cm)を浮彫りする。
 街道をさらに東進し、三沢2丁目の下郷公園で昼食をとる。食後に来月担当の喜井さんから来月のコースに関係する「ひがしやまと文化財ガイド」と「むさしむらやま歴史散策−コース案内−」の資料をいただく。
 午後は京王線近くの路傍(三沢3−15)にある3面8手馬頭観音座像から見学が始まる。像の前に立つ卒塔婆が興味をひく。表面に「キャカラバア ウーン 奉供養馬頭観世音菩薩爲講中安全災難消除也」、裏面の梵字の下に「南無遍照混合平成十五年六月□□建之」と記されている。
 踏切りを渡って東へ向かい、落川へ入って路傍(落川331)にある庚申塔をみる。
   11 文政6 柱状型 「庚申塔」                79×31×30
 11は正面に主銘を刻み、右側面に「干時文政六癸未年」、左側面に「中冬日造立之」の年銘がある。台石正面に「上河内/講中/六人」と刻む。
 次いで旧小野路道沿いの路傍(落川666)に庚申塔が1基立つ。
   12 宝暦12 笠付型 日月・青面金剛              55×25×18
 12はH型の標準的な持物の合掌6手像(像高33cm)、塔が全体的に風化していて下部に3猿らしい像が1匹みえるが、定かではない。右側面に「奉建立庚申供養/落川村/講中」、左側面に「宝暦十二午十一月吉日」とある。
 予定のコースを変えて京王線のガードをくぐり、川崎街道へでる。多摩市境の一の宮交差点を右折し、セブンイレブンで飲料を補給して旧道にある石佛をみる。
   13 正徳6 光背型 日月・青面金剛・3猿           74×36
 13はX型持物の合掌6手像(像高30cm)、像の右に「庚申供養」、左に「正徳六丙申年閏弐月」、内向型3猿(像高9cm)の下に「武州百草村」に続けて6人の施主銘がある。
 坂を登り、登り切った右手の高見には石佛が並んでいる。右端に庚申塔、左端に万延2年の柱状型「道祖神」(65×29×22cm)、両者の間に地蔵が横1列の7体がある。
   14 元文1 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        60×31
 14は標準的持物の合掌6手像(像高43cm)、像の右に「武州/多摩郡 百草村願主/庚申供養」、左に「元文/元歳丙立/十一月吉日」、下部に内向型3猿(像高9cm)が湧くの中に浮彫りされている。
 百草八幡に向かう途中で野鳥供養の石碑(87×39cm)をみてから、八幡神社の境内で秋葉権現の刻像塔をみる。笠付型塔(66×31×29cm)の正面に白狐に乗る秋葉権現(像高36cm)を浮彫りし、右側面に「秋葉山大權現」、左側面に「明和六己丑年/倉澤講中/九月大吉日」の銘を刻む。
 百草八幡から百草観音堂へ寄り、最後に石坂さんの山林にある庚申塔4基をみる。
   15 宝永7 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     75×34×22
   16 昭和52 柱状型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 55×25×21
   17 文化2 柱状型 日月・青面金剛・3猿           59×25×20
   18 明和6 柱状型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     86×24×18
 15は標準的な持物の合掌6手像(像高36cm)、下部に正向型3猿(像高13cm)がある。裏面に「宝永七寅庚歳二月吉辰/武州多麻郡百草村庚申塚建之/當村三代領主源姓小林氏正則」の3行が刻まれている。
 16は標準的な持物の合掌6手像(像高34cm)、像の両横に童子(共に像高9cm)、下部に枠の中に正向型3猿(像高8cm)を浮彫りする。右側面に「爲奉供養庚申塔/建立年代不詳爲破損修復」、左側面に「昭和五十二年三月再建/施主 石塚義次」の銘がある。
 旧塔は「庚申塔DB 日野市」に「年不明 青面金剛「□申供養」1鬼・2鶏・3猿」とあり、塔形も「不明」で備考欄に「細分割」とある。先の程久保・神明神社と異なり、ここには旧塔が見当たらない。
 17は標準的な持物の合掌6手像(像高41cm)、下部に外向型3猿(像高8cm)がある。右側面に「元文三戊丑年新造立」、左側面に「文化二乙丑十一月再興/倉澤講中」の銘文がある。
 18は標準的な持物の合掌6手像(像高31cm)、下部に内向型3猿(像高8cm)がみられる。右側面に「明和六己丑四月吉日」、左側面に「施主/石坂甚左衛門」の銘。
 15が1基だけ離れ、16・17・18 の3基は1列に並んでいる。
 ここを最後に「倉沢」のバス停へ行き、高幡不動駅行のバスに乗車、終点で降りてモノレールに乗り換え、立川から青梅線で帰宅する。
             〔初出〕『多摩石仏の会雑記04』(多摩野佛研究会 平成16年刊)所収
日野市内を廻る4 多摩石仏の会平成17年正月例会

 平成17年1月23日(日曜日)は多摩石仏の会正月例会、JR中央線日野駅に午前9時30分集合、は加地勝さんのコース案内で日野市内を廻る。集まったのは、犬飼康祐さん・喜井晢夫さん・五島公太郎さん・鈴木俊夫さん・関口渉さん・多田治昭さん・森永五郎さんの総勢9人である。
 加地さんから「日野市栄町・新町地区」の見学案内のB5版レジメをいただく。内容はコースにある石佛の所在地と石佛(年銘と種類)の一覧表、B4版のコース案内地図、それに犬飼康祐さんが書かれた「日野市内の石仏散歩(3)」の該当部分をB4版にコピーして添付されている。
 見学に参加する予定だった遠藤塩子さんは日野駅に集が集合したが、足を傷めていて写真展の写真だけを提出するだけでる。定時に駅前を出発、第1見学場所の加賀塚公園(栄町1−9)に向かう。ここには竹間加賀入道に関する石碑と無名の自然石が立っている。昭和60年に立てられた日野市教育委員会の「加賀塚(竹間加賀入道の墓)」説明板によると、竹間加賀入道の説明があるものの「この地で切腹したという」とあるだけで、墓の説明にはなっていない。
 次に訪ねたのが4谷の地蔵堂(栄町1−20)、祠の中に次の庚申塔2基の外に地蔵2体が安置されている。
   1 宝暦7 笠付型 日月・青面金剛              54×27×19
   2 天保15 駒 型 日月「庚申塔」3猿(台石)        83×39×28
 1は典型的な合掌6手像(像高37cm)、H型に近い腕の開きをしている。右側面に「施主講(以下剥落)」、左側面に「寳暦7丁(以下剥落)」の銘がある。
 2は正面に「庚申塔」、右側面に「天保十五年辰9月」とある。3猿(像高11cm)は台石に浮彫りされ、両端の猿の姿態が変わっている。
 祠には日野宮神社氏子会の「地蔵尊庚申塔由来」を墨で記した昭和53年5月の木札が掛かっている。庚申塔に関する部分は、次の通りである。
    庚申供養塔には「庚申文字塔」と「青面金剛」と言われる腕が6本あり 顔立の怖い佛像を
   浮彫りした「像塔」とがあります。庚申とは六十日毎にまわってくる庚申の日を言います 庚
   申講の人たちは春秋の庚申日に宿をきめて日待を催しました 庚申の夜には三尸と言う虫が
   眠っている人間の体内から脱けだして展に昇り 天帝にその罪を告げる 罪の内容によってそ
   の寿命が縮めたり奪われたりする それ故庚申の夜は行いを慎み庚申に祈念して善を行わなけ
   ればいけないなどと信じられておりました。
    ここに祀られている庚申像塔宝暦7年(約二百二十年前)庚申文字塔は天保十五年(約百三
   十五年前)いずれも四谷村の講中の人達によって建立されたものです
 次に訪ねたのが日野宮神社(栄町1−27)、社殿の北側に石佛群がある。文字馬頭観音や「日野宮大権現」銘の灯籠竿石に混じって、次の2基の庚申塔がある。
  3 元禄14 笠付型 日月・青面金剛              48×22×18
  4 寛保1 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     57×28×18
 3は笠部を失った塔で古い型のX型合掌6手像(像高32cm)を主尊とし、下部に「天野源左衛門」など6人の施主銘を刻む。右側面に「元禄十四辛巳天十一月吉日」とある。
 4は典型的な合掌6手像(像高28cm)、下部に内向型3猿(像高8cm)を浮彫りする。右側面に「寛保元辛酉天十一月吉日」、左側面に「谷津□兵衛」など6人の施主銘を刻む。
 続いて大6天塔があるという佐々木家(栄町2−19)を訪ねる。塀の前には二十三夜塔(89×56cm)がある。明治23年の造立。目当ての大六天塔はなく、在宅のご主人に案内されて旧在地に行くが、塔は見当たらない。
 日野新田(栄町4−14)でセメント造り屋根の石祠2基と享保7年の廻国地蔵をみてから、栄町5丁目13番の成就院に出る。東光寺辺を廻ったのは昭和40年前後、その当時に光景は1変し、調査した次ぎの
   ・ 享保X 笠付型 日月・青面金剛「奉造立庚申待供養」2鶏・3猿
   ・ 寛延2 柱状型 日月・青面金剛「ウーン奉造立庚申供養塔」3猿
   ・ 寛政7 自然石 「ウーン 庚申供養塔」
   ・ 嘉永3 柱状型 「庚申塔」庚申塔が見当たらないので境内にあるダルマや仁王を撮るに止まる。
 立川家墓地に寄ってから庚申塔に向かう。栄町5−11の路傍に馬頭観音と並び
  5 寛政3 笠付型 日月・青面金剛・3猿           50×23×22がある。5の主尊は典型的な合掌6手像(像高35cm)で下部の3猿(像高5cm)は小さい。右側面に「寛政三癸亥三月吉日」とある。
 交差点まで戻り、再び立川家墓地に行く。自然石(82×37cm)に「○南無盧舎那佛」を主銘とする文字塔があり、主銘の右に「圓満」、左に「報身」と刻む。隣にある「南無阿弥陀佛」の6字名号は先刻の成就院にある徳本のものの外にも各地でみられるが、「盧舎那佛」は珍しい。
 水車堀公園にある水車をみてから姫森児童公園(新町−10)に寄り、祠の中の石塔をみる。これで予定されたコースは終わるが、まだ新年会開催までに約40分ある。そこで普門寺(日野本町7−5)の庚申塔をみようと、駅前に戻って寺へ向かう。
 途中、井上源三郎記念館の前を通り、唐辛子地蔵堂(日野本町4−6)の脇にある次の庚申塔3基をみる。
   6 明和4 笠付型 日月・青面金剛・3猿           55×24×20
   7 宝暦5 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        57×26×20
   8 宝暦6 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        50×26×12
 6はH型の万歳型合掌6手像(像高38cm)、下部に内向型3猿(像高10cm)を浮彫りする。右側面に「明和4亥/4月吉日/講中7人」の年銘がある。
 7は1鬼上に立つ合掌6手像(像高37cm)、下部に内向型3猿(像高6cm)がある。左側面は「宝暦5乙亥年2月吉日」、右側面は「庚申講中7人」とある。
 8は、6と7の間からみえる。7と同じく1鬼の上に立つが、こちらは標準形合掌6手像(像高35cm)、下部の3猿(像高5cm)が小さい。右側面に「宝暦六丙子十一月吉日 講中十人」と刻む。
 ここと次の普門寺は平成15年1月19日(日)に行われた多摩石仏の会1月例会に加地勝さんの案内で廻った。計測値はその時のものである。見学の最後は普門寺(日野本町7−5)である。墓地の入口に6基の庚申塔が1列に並んでいる。
   9 年不明 笠付型 阿弥陀如来・3猿             57×22×20
   10 宝暦9 笠付型 日月・青面金剛・3猿           57×25×21
   11 年不明 不 明 (上欠)青面金剛・3猿          48×28
   12 元禄7 板駒型 日月・青面金剛・3猿           61×30
   13 延享4 不 明 日月・青面金剛・3猿           40×29
   14 年不明 不 明 (上欠)青面金剛・3猿          36×25
 6は正面の主尊(像高29cm)の判別がつかず、右側面下部の猿と思われる像が残っている程度で、前回みた時よりも剥落がひどくなってなっている。現在は銘文が1切読めないし、かつて正面に阿弥陀如来が主尊であった面影が全くない。
 7は合掌6手の万歳型青面金剛(像高39cm)を主尊とし、下部に3猿(像高9cm)がある。
 8は標準型合掌6手像(像高19cm)が主尊、下部に内向型3猿(像高10cm)がある。
 9の主尊は合掌6手像(像高24cm)、下部に3猿(像高9cm)がみられる。像の右に「庚申供養1基」、左に「元禄七年戊□正月吉日」の銘がある。
 10は合掌6手像(像高21cm)が主尊、下部に正向型3猿(像高9cm)を浮彫りする。
 11は上部が欠失して青面金剛と思われる像の下半(像高20cm)があり、下部に正向型3猿(像高6cm)、その下に施主銘がみられる。
 この寺を最後に新年会の会場であるサカエヤ茶楼へ向かう。会場には途中でリタイアした鈴木さんが待っている。やがて明石延男さんや縣敏夫さんが直接会場へくる。予定時刻を過ぎたので新年会に移行、先ず新入会員の五島さんが自己紹介し、続いて会員の自己紹介となる。その後に総会が配付された次第の通り、会長挨拶・会計報告・役員改選・例会担当者・『野仏』・写真展・年会費の順に進行する。途中で中山正義さんが参加する。
 加地さんからB5版80頁を越す写真展出品リストが配られる。写真177点と拓本22点にダブりがあるかと思ったら、同じ石佛の写真がないのが驚きである。
 総会が終わって鈴木さんの音頭で乾杯、各自が自由に雑談に入る。多田さんからは『平成の庚申塔(その3)』をいただく。これによると最新の庚申塔は、平成16年3月に建てられた埼玉県江南村樋春の角柱型塔である。再建塔ながら相模原市相原・正泉寺の阿弥陀の平成10年塔や横浜市港南区日野町・春日神社の大日の12年塔が変化を添えている。鎌ヶ谷市粟野では5年置きに庚申塔が造立されているから、最新が12年なので今年が当たり年になる。
 中山さんから千葉県立博物館の講座で使われたレジメ、嵐山町教育委員会の『嵐山町の石造物1』(平成15年刊)、宇都宮・瀧澤龍雄さんの『石佛月報』が廻ってくる。瀧澤さんの月報は、昨年12月の石仏談話室で話された「数庚塔」の特集である。
 午後4時に散会し、JR日野駅から帰路につく。
日野市内を廻る(追録) 多摩石仏の会12月例会

 平成17年12月11日(日曜日)は曇で寒い多摩石仏の会12月例会、JR中央線豊田駅に午前9時30分集合、日野市内を加地勝さんがコース案内を担当して廻る。集まったのは、犬飼康祐さん夫妻・喜井晢夫さん・五島公太郎さん・鈴木俊夫さん・関口渉さん・萩原清高さん、それに地元の水越重幸さんが加わって総勢10人である。
 加地さんからは今回のレジメと前回の座間例会で写した記念写真をいただく。35分着の上りと下りの電車まで待って改札口前を出発、第1見学場所の豊田地蔵尊へ向かう。
 豊田地蔵尊(豊田4−36)は駅南口横にある木祠の中に安置されている。昭和31年造立の丸彫り立像である。境内に支那事変・太平洋戦争戦没者の慰霊碑がみられる。
 次はNBC(豊田2−50)の構内にある年不明の文字馬頭、昭和43年に土中から発掘されたという。角柱(40×23×19cm)の正面に「馬頭世觀音」の主銘が刻まれている以外に、正面にも両側面も銘文はない。塔の後ろを固めたセメントに「昭和四十三年/十月二十一日/□□□□移行」の文字がみられる。
 3番目が矢崎三叉路(豊田2−55)の木の下にある庚申塔である。
   1 享保12 笠付型 青面金剛                 50×25×20
 1は標準形の合掌6手青面金剛立像(像高33cm)、右側面に「享保十二丁巳十一月吉辰/奉供養庚申/諸願成就皆令満足」の銘を刻む。左側面は剥落して読めないが、剥落部分の銘は「施主武州多摩郡/豊田村矢崎/六人敬白」である。
 庚申塔から第2小学校前の丁字路(豊田4−1)にある石佛3基、次いでねぐるみ坂(豊田4−18)の石佛2基をみてから、若宮神社を経て市営墓地(東豊田2−32)に至る。墓地内の無縁石佛の中に、聖観音立像(像高70cm)を主尊とする寛保元年の光背型塔(77×40cm)がある。像の右に「奉建立寒念佛供養聖観世音菩薩」の銘を刻む。
 近くの善生寺(法華宗 東豊田2−26)に寄り、釈迦堂にある涅槃図や薬師と十二神将木像に接し、境内の銅製の大佛や佛手、釈迦と十大弟子などを見学する。この寺は日野七福神の大黒天を祀るので、境内に船上に7福神が2列に並ぶ丸彫りの石像がみられる。
 善生寺から延命寺へ向かう途中の2か所(東豊田2−52と32)で馬頭観音各1基、小波津家のシーサーと石敢當、延命寺(真言宗 川辺堀ノ内595)の塀の外で馬頭観音3基をみる。
 延命寺の境内には文明2年の弥陀三尊種子結衆板碑があり、木祠の中に安置され、割れた板碑をコンクリートで補修されている。上部に日月と天蓋、キリークの月輪の周りに梵字光明真言を刻む。三具足の下に「文明二庚寅年九月廾三日」、右に「爲逆修善根」左に「一結衆等敬白」の銘がある。「月待供養」の銘があってもおかしくはない。
 寺の近くの日枝神社辺りで昼食、食後寒いので直ちに出発する。浅川の土手で次回正月例会の話があり、市民プール近くの橋際(川辺堀ノ内588)で次の庚申塔をみる。
   2 年不明 笠付型 日月・青面金剛・3猿・蓮華        55×29×16
 2は青面金剛6手立像(像高31cm)、下部に3猿(像高8cm)、両側面に蓮華を陽刻する。銘文は右側面の「施主」が読める程度である。
 川辺地蔵堂(川辺堀ノ内560)の石佛をみてから、清水坂上の3叉路(川辺堀ノ内515)にある3の文字庚申塔をみる。
   3 文政5 柱状型 「庚申塔」「三疋申」           55×23×21
 3は正面に主銘の「庚申塔」、右側面の「文政五年壬午」は剥落して読めない。左側面に「十一月日」とあり、台石正面に右横書きで「三疋申」と3猿の文字化がみられる。
 次の内田家(宮355)の塀際には、背面に「平成二年八月建立/施主内田吉久」と刻む1面8手の馬頭観音立像がある。これは再建塔で、旧塔は石屋が処分したという。続く谷戸(日野5994)の路傍には、丸彫りの地蔵と並んで次の庚申塔がある。
   4 貞享2 笠付型 日月「奉寄進庚申供養」3猿        87×30×26
 上部に日月、その下の中央に「奉寄進庚申供養」の主銘、右に「武州多摩郡日野郷谷津村」、左に「貞享二乙丑年三月八日」、正向型3猿(像高14cm)の下に「同行廾人」の銘文を刻んでいる。
 谷家(日野5988)入口にある石佛、平野家(日野2943)前にある2手馬頭観音立像(像高31cm)を浮彫りする光背型塔(50×25cm)をみてから、見学予定最後の仲井地蔵堂(日野3034)へ出る。ここには次の2基の庚申塔がある。
   5 寛延2 柱状型 日月・青面金剛「奉納庚申供養」3猿    53×25×17
   6 正徳6 台 石 「奉納庚申供養」             32×33×28
 5は正面上部が欠損した6手青面金剛立像(像高31cm)、下部に3猿(像高7cm)がみられる。左側面に「寛延二己年九月日」、左側面に「奉納庚申供養」の銘がある。
 6は正面の中央に「奉納庚申供養」、右に「正徳六丙申年二月朔日」、左に「日野村中井村同行8人」と刻む台石である。恐らく丸彫りの地蔵の台石と考えられる。
 見学の予定はここで終わるが、何分にも時間が午後2時と早すぎるので、オプションとして平成15年の新年会の前に廻った庚申塔を訪ねることにする。甲州街道へ出た所で鈴木さんと萩原さんの2人に別れる。先ず普門寺(日野本町7−5)を訪ね、墓地入口にある次の庚申塔群をみる。なお、以後の数値は平成15年に計測したものである。
   7 年不明 笠付型 阿弥陀如来・3猿             57×22×20
  8 宝暦9 柱状型 日月・青面金剛・3猿           57×25×21
   9 年不明 光背型 日月・青面金剛・3猿           48×28
   10 元禄7 板駒型 (上欠)青面金剛・3猿「庚申供養1基」  61×30
   11 延享4 不 明 (頂部欠失)日月・青面金剛・3猿     40×29
   12 年不明 不 明 (上半欠失)日月・青面金剛・3猿     36×25
 次いで北原の唐辛子地蔵堂(日野本町4−6)に寄り、堂の脇にある次の3基の庚申塔をみる。
   13 明和4 笠付型 日月・青面金剛(万歳型)・3猿      55×24×20
   14 宝暦5 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        57×26×20
   15 宝暦6 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        50×26×12
 続いて川寄りの通りの路傍(日野本町4−25−6)にある
   16 元禄11 光背型 地蔵菩薩・3猿              68×37の塔をみてから、中央線に沿った大坂上1−19−1に向かい、土方家の西側、加組の倉庫前にある次の3基の青面金剛をみる。
   17 宝暦11 笠付型 日月・青面金剛(万歳型)・1鬼・3猿   56×24×17
   18 元禄7 笠付型 日月・青面金剛・3猿・蓮華        67×30×20
   19 宝暦10 笠付型 日月・青面金剛(万歳型)・1鬼・3猿   53×24×18
 この3基を見学して12月例会を終え、日野駅から帰途につく。
日野市庚申塔DB

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━年号  特徴                   (備考) 塔形  所在地━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━貞享2 日月「奉寄進庚申供養」3猿             笠付型 日野 谷戸路傍元禄2 日月・青面金剛・3猿        (旧・新宿区) 板駒型 程久保 長楽寺元禄3 日月・青面金剛・3猿        (旧・新宿区) 板駒型 程久保 長楽寺元禄5 日月・青面金剛・3猿                板駒型 南平8 熊野神社元禄7 日月・青面金剛「奉造立庚申」3猿・蓮華(犬飼康祐) 笠付型 日野3258 土方邸横元禄7 青面金剛「庚申供養1基」3猿            板駒型 日野本町7 普門寺元禄11 地蔵「カ 庚申供養」3猿              光背型 日野本町5 北原路傍元禄13 青面金剛・3猿                   板駒型 日野本町4 北原路傍元禄14 日月・青面金剛「庚申供養」1鬼・2鶏        笠付型 日野万願寺 稲荷神社元禄14 日月・青面金剛            (犬飼康祐) 笠付型 栄町2 日野宮神社宝永4 日月・青面金剛・3猿・蓮華             笠付型 万願寺 東浦地蔵堂宝永5 日月・青面金剛「奉納庚申供養二世安禾所」3猿    板駒型 程久保 神明神社宝永6 日月・青面金剛・1鬼・3猿・蓮華          笠付型 三沢 路傍宝永7 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿          駒 型 百草 倉沢山林正徳2 日月・青面金剛・3猿・蓮華             笠付型 日野万願寺 稲荷神社正徳6 地蔵「奉納庚申供養」                丸 彫 日野 仲井地蔵堂正徳6 日月・青面金剛「庚申供養」3猿           光背型 百草〔参考〕享保3 「金弐分 庚講」       (犬飼康祐) 梵 鐘 日野本町3 坂下地蔵堂享保3 日月・青面金剛「奉供養庚申」3猿          板駒型 上田 墓地享保7 日月・青面金剛・3猿                板駒型 平山5 徳善院享保9 日月・青面金剛・3猿                笠付型 程久保享保9 日月・青面金剛「ウーン」3猿            笠付型 程久保享保10 日月・青面金剛「奉供養庚申」1鬼          笠付型 日野万願寺 稲荷神社享保12 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿          板駒型 南平8 熊野神社享保12 日月・青面金剛「奉供養庚申諸願成就皆令滿足」3猿  笠付型 豊田 矢崎路傍享保17 日月・青面金剛・3猿                光背型 上田 自動車練習所横享保18 日月・青面金剛・3猿                笠付型 高幡 高幡不動享保X 日月・青面金剛「奉造立庚申待供養」2鶏・3猿    笠付型 栄町5 成就院元文1 青面金剛「庚申供養」1鬼・3猿           板駒型 百草元文2 日月・青面金剛・1鬼・3猿             光背型 日野本町4 北原路傍元文5 日月・青面金剛・3猿          (庚申年) 笠付型 宮 別所宮元文5 日月「奉造立庚申供養」3猿       (庚申年) 駒 型 下田 下田八幡宮寛保1 日月・青面金剛・1鬼・3猿      (犬飼康祐) 笠付型 栄町2 日野宮神社寛保2 日月「奉造立庚申供養」               笠付型 日野万願寺 稲荷神社延享2 日月・青面金剛・1鬼・3猿             笠付型 日野本町2 大昌寺延享2 地蔵「庚申供養佛」                 丸 彫 程久保 路傍延享4 青面金剛・3猿                   光背型 日野本町7 普門寺寛延2 日月・青面金剛「奉納庚申供養」3猿         柱状型 日野 仲井地蔵堂寛延2 日月・青面金剛「ウーン 奉造立庚申供養塔」3猿   柱状型 栄町5 成就院宝暦5 日月・青面金剛・3猿                笠付型 日野本町4 地蔵堂宝暦6 日月・青面金剛・1鬼・3猿             駒 型 日野本町4 地蔵堂宝暦7 日月・青面金剛                   笠付型 栄町1丁目 自治会館東宝暦7 日月・青面金剛・1鬼       (二十三夜講中) 笠付型 日野 下河原観音堂宝暦9 日月・青面金剛・3猿                柱状型 日野本町7 普門寺宝暦10 日月・青面金剛・3猿         (犬飼康祐) 笠付型 日野3258 土方宅横宝暦10 日月・青面金剛「庚申供養」1鬼・3猿        笠付型 平山6 路傍宝暦10 日月「奉供養庚申塔」                笠付型 日野万願寺 万福寺宝暦11 日月・青面金剛「庚申供養塔」1鬼・3猿(犬飼康祐) 笠付型 日野3258 土方宅横宝暦11 「…意趣者青面金剛36度待念の功成就…」     宝篋印塔 下田 下田八幡宮宝暦12 日月・青面金剛「ウーン奉新立青面金剛…」1鬼・3猿 笠付型 西平山5 中込路傍宝暦12 日月・青面金剛「奉建立庚申供養」3猿        笠付型 落川 路傍宝暦14 日月・青面金剛・2鶏・3猿             笠付型 日野万願寺 稲荷神社明和3 日月・青面金剛・3猿                笠付型 日野本町4 北原路傍明和4 日月・青面金剛・3猿                笠付型 日野本町4 地蔵堂明和6 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿          柱状型 百草 倉沢安永2 日月・青面金剛「奉建立庚申塔」1鬼・2鶏・3猿   柱状型 南平8 熊野神社安永2 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿          笠付型 南平3 堂上坂路傍安永3 「庚申供養塔」                   柱状型 日野 下河原観音堂安永4 日月・青面金剛・1鬼・3猿             笠付型 宮 地蔵堂安永7 「奉造立庚申供養塔」3猿              柱状型 下田 下田八幡宮安永8 「庚申供養 三疋申」         (三猿文字) 柱状型 南平4 8坂神社安永X 日月・青面金剛・3猿                笠付型 三沢 砂土地蔵堂天明2 「庚申塔」                     自然石 平山6 路傍天明8 「庚申供養 三疋申」         (三猿文字) 柱状型 石田 石田寺天明8 「庚申供養」                    柱状型 落川 路傍寛政3 「庚申供養塔」            (三猿文字) 柱状型 万願寺 斉藤宅寛政3 日月・青面金剛「村中安□」3猿           笠付型 新町4 薬師堂南寛政4 日月「庚申塔」3猿                 柱状型 下田 下田八幡宮寛政4 日月「青面金剛塔」「申申申」     (3猿文字) 柱状型 万願寺 東浦地蔵堂寛政5 「庚申供養塔」             (道標銘) 柱状型 高幡 7生農協横旧在寛政7 「ウーン 庚申供養塔」               自然石 栄町5 成就院寛政12 青面金剛・3猿             (庚申年) 柱状型 程久保 神明神社寛政12 日月・青面金剛「庚申供養」3猿     (庚申年) 笠付型 平山6 地蔵堂横寛政12 「庚申塔 三疋申」      (庚申年 三猿文字) 柱状型 日野万願寺 稲荷神社享和3 「庚申塔」              (上部欠失) 柱状型 南平8 熊野神社文化2 日月・青面金剛・3猿        (元文3年銘) 柱状型 百草 倉沢文化4 日月「庚申塔」3猿                 柱状型 日野万願寺 稲荷神社文化4 (文字塔)           (日野の石仏散歩) 笠付型 日野万願寺 稲荷神社文化10 日月「庚申供養塔」3猿               柱状型 万願寺 東浦地蔵堂文政5 「庚申塔」「三疋申」         (三猿文字) 柱状型 川辺堀之内文政6 「庚申塔」                     柱状型 落川文政13 「ウーン 庚申供養塔」               柱状型 下田 下田八幡宮天保15 日月「庚申塔」3猿                 駒 型 栄町1 自治会館東嘉永3 「庚申塔」                     柱状型 栄町5 成就院嘉永5 「庚申塔」                     柱状型 日野万願寺 稲荷神社嘉永6 「庚申塔」「三疋猿」         (三猿文字) 柱状型 新井 西耕地路傍万延1 「庚申塔」               (庚申年) 自然石 日野万願寺 路傍昭和35 「奉供養庚申塔」          (宝暦再建塔) 笠付型 日野万願寺 万福寺昭和48 「康申供養燈」(現在は「庚申供養塔」)       柱状型 石田 土方宅前昭和48 「庚申塔」                     柱状型 万願寺 3角路傍昭和52 青面金剛「為奉供養庚申塔」1鬼・2鶏・3猿・2童子 柱状型 百草 倉沢年不明 合掌弥陀・3猿            (3面3猿) 笠付型 日野本町7 普門寺〔参考〕年不明 地蔵「奉造立地蔵尊 庚申講中」       丸 彫 石田 石田寺年不明 日月・青面金剛「ウーン庚申造立」1鬼・3猿     笠付型 下田 下田八幡宮年不明 日月・青面金剛・1鬼「三疋申」    (三猿文字) 笠付型 下田 下田八幡宮年不明 日月・青面金剛・3猿                笠付型 新井 西耕地路傍年不明 日月・青面金剛・3猿・蓮華             笠付型 川辺堀之内 市民プール年不明 日月・青面金剛                   笠付型 平山6 宗印寺年不明 日月・青面金剛・3猿                笠付型 南平8 熊野神社年不明 日月・青面金剛                   光背型 日野本町3 坂下地蔵堂年不明 青面金剛・2鶏・3猿         (犬飼康祐) 丸 彫 日野本町3 8坂神社年不明 青面金剛・3猿            (頂部欠失) 不 明 日野本町7 普門寺年不明 青面金剛「庚申供養」         (下部欠失) 柱状型 日野本町7 大昌寺年不明 青面金剛・3猿            (上半欠失) 不 明 日野本町7 普門寺年不明 青面金剛「□申供養」1鬼・2鶏・3猿  (細分割) 不 明 百草 倉沢年不明 青面金剛・3猿            (上半欠失) 不 明 平山6 薬師堂年不明 日月・青面金剛・1鬼・3猿  (寛政12年の再建塔) 駒 型 程久保 神明神社年不明 「庚申塔」「三疋申」         (三猿文字) 柱状型 万願寺 三角年不明 「庚申塔」                     柱状型 平山6 宗印寺年不明 (青面金剛)            (塔所在不明)台石のみ 日野 旧甲州街道日野坂━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
              『東京多摩庚申塔DB』(ともしび会 平成7年刊)より抽出・追補

 
日野市庚申文献目録

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━編著者   書名・題名・雑誌名                        刊行年━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━溝口喜久治 「庚申塔概観」『多摩郷土研究』26                 昭和34年刊溝口喜久治 「日野町の庚申塔」『庚申』7〜9                 昭和35年刊七生村誌編纂委員会『七生村史』                        昭和39年刊石川 博司 『日野市の庚申塔メモ』(庚申塔資料6集)             昭和39年刊石川 博司 「グラフから見た多摩の庚申塔」『武蔵野』50−3          昭和46年刊犬飼 康祐 『日野市の石仏 庚申塔』                     昭和47年刊八代 恒治 「コレラと庚申塔」『たかね』3                  昭和47年刊犬飼 康祐 「日野市に残る庚申講」『野仏』5                 昭和48年刊犬飼 康祐 「三多摩で一番新しい庚申塔 日野市万願寺に造立」『あしあと』26  昭和48年刊下田 九一 「庚申日待ち考」『日野の歴史と文化』6              昭和48年刊犬飼 康祐 「『日野の石仏・庚申塔』その後」『日野の歴史と文化』6      昭和48年刊犬飼 康祐 「日野市落川上河内の庚申会」『野仏』9              昭和51年刊犬飼 康祐 「日野市の戦後の庚申塔」『あしあと』73              昭和53年刊犬飼 康祐 「日野の石仏探訪コース 中央線日野駅を中心として」『野仏』13   昭和56年刊犬飼 康祐 『日野市庚申塔1覧表』                      昭和57年刊犬飼 康祐 「川崎街道に沿って石仏探訪 京王線長沼駅より高幡不動駅『野仏』14 昭和57年刊日野市史編さん委員会『日野市史 民俗編』                   昭和58年刊庚申懇話会 『石仏調査ハンドブック』                     昭和59年刊石川 博司 「59年12月例会 日野見学会」『あしあと』88            昭和60年刊石川 博司 「グラフから見た多摩の庚申塔」『武蔵野』50−3して」       昭和46年刊犬飼 康祐 「日野市日野・仲井地蔵堂 地蔵は二体とも庚申塔だった」『野仏』22 平成3年刊徳家 徳治 「日野市内にある宝篋印塔の銘文」『野仏』23            平成4年刊石川 博司 『平成五年の石仏巡り』                      平成5年刊犬飼 康祐 「日野の石仏 北野・川崎街道を歩く」『野仏』25         平成6年刊犬飼 康祐 『私の「あしあと」4』                      平成9年刊犬飼 康祐 『私の「あしあと」6』                      平成9年刊犬飼 康祐 「下田八幡宮の宝筐印塔庚申塔の銘文」『日野の歴史と文化』49    平成11年刊多田 治昭 『平成11年 庚申塔調査記録 1 多摩石仏の会例会』        平成11年刊多田 治昭 「庚申塔ファイル(2)その1」『野仏』31             平成12年刊日野の歴史と民俗の会『日野の石仏散歩』                    平成14年刊犬飼 康祐 『私の「あしあと」15』                      平成15年刊石川 博司 『平成十五年の石佛巡り』                     平成15年刊犬飼 康祐 『私の「あしあと」16』                      平成16年刊加地 勝 「日野市における石仏の保存の動きについて」『野仏』35       平成16年刊石川 博司 『平成十六年の石佛巡り』                     平成16年刊犬飼 康祐 『私の「あしあと」17』                      平成17年刊━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  以上の文献の他に多摩地方を広域に扱った次の文献があるので、参考までに挙げておく。多摩広域庚申文献目録━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━編著者   書名・題名・雑誌名                        刊行年━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━八代 恒治 『三多まの庚申塔』                        昭和36年刊石川 博司 『三多摩の庚申塔年表』(庚申塔資料2集)             昭和38年刊石川 博司 『三多摩庚申塔資料』                       昭和40年刊三猿斉一鬼 「三多摩庚申関係文献目録」『ともしび』創刊号        昭和41年刊石川 博司 「数字からみた庚申塔−主として3多摩地方の場合」『庚申』42    昭和41年刊石川 博司 「東京都の庚申塔数」『庚申』48                  昭和42年刊石川 博司 「付録 三多摩庚申塔資料追録」『ともしび』9           昭和42年刊多摩石仏の会『多摩石仏散歩』                         昭和46年刊石川 博司 「多摩庚申資料文献目録」『たま』3                昭和47年刊瀬沼 和重 『甲州路の石仏記録』                       昭和48年刊石川 博司 「都内庚申塔調査文献考」『多摩郷土研究』37            昭和55年刊石川 博司 「東京都の庚申年造塔」『日本の石仏』17              昭和56年刊多田 治昭 『三多摩の百庚申塔』                       昭和56年刊小幡  晋 『多摩の庚申紀行』                        昭和57年刊石川 博司 「多摩地方の変り型三猿」『あしなか』185             昭和59年刊多田 治昭 「東京の地蔵庚申塔年表」『野仏』17                昭和61年刊多田 治昭 『東京都の庚申塔』(平成5年に改訂版発行)           昭和63年刊多摩石仏の会『新多摩石仏散歩』                        平成5年刊石川 博司 『東京多摩庚申塔資料』                      平成6年刊多田 治昭 『三多摩の庚申塔』            平成7年刊石川 博司 『東京多摩庚申塔DB』                      平成7年刊石川 博司 『多摩庚申塔夜話』改訂版                     平成9年刊━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
       『東京都庚申文献目録』(庚申資料刊行会 平成15年刊)の関係部分を抽出・を追補
あとがき
     
      初めて日野の庚申塔に接したのは昭和38年7月22日であった。次いで同年11月2
     8日と11月11日の計3回、市内を調査した結果を『日野市の庚申塔メモ』(庚申塔資
     料6集 私家版 昭和38年刊)にまとめ、さらに『三多摩庚申塔資料』(私家版 昭和40
     年刊)に結実した。その後は昭和42年11月19日、同51年8月22日の多摩石仏の
     会、同54年6月3日の単独行、同55年1月13日の多摩石仏の会新年会、同年3月3
     0日の単独行、同年12月21日の多摩石仏の会、同57年1月17日の多摩石仏の会新
     年会、同59年12月16日の多摩石仏の会と続く。
      昭和59年以降は本書の『あしあと』引用の「日野見学会」以下、平成5年・8年・1
     5年・16年・17年と続いている。本書は市内の記録の他に『東京多摩庚申塔DB』(
     ともしび会 平成7年刊)と『東京都庚申文献目録』(庚申資料刊行会 平成15年刊)を
     引用し、その後に判明した資料によって追補した。
      「日野市庚申文献目録」からもうかがえるように、初期においては地元の溝口喜久治さ
     んの活躍が庚申塔調査の先鞭となり、多摩全域を対象にした八代恒治さんの活躍があって
     後輩の私たちに受け継がれている。特に八王子の犬飼康祐さんは勤務先が日野であったこ
     とから市内を隈なく調査され、その成果は『日野市史 民俗編』に結実している。
      そうした基盤に立って日野の歴史と民俗の会は平成7年から同11年にかけて現状を調
     査して『日野の石仏散歩』(同会 平成13年刊)をまとめ、『日野市史 民俗編』以降の
     状況を把握した功績が大きい。
      市内在住の多摩石仏の会の会員に喜井晢夫さんと加地勝さんがおられるから、今後の状
     況や市内の庚申講の状態についての調査がなされることだろう。本書がそうした活動のお
     役に立てば幸いである。

                             ────────────────
                              日野の庚申塔を歩く
                              発行日 平成17年 2月15日
                              TXT 平成17年12月18日
                              著 者 石  川  博  司
                              発行者 庚 申 資 料 刊行会
 
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