石川博司著   会誌『野仏』収載   発行 多摩野佛研究会 

目次       ○百庚申と千庚申       ○日記からみた石造物
          ○
現代作の双体道祖神   
 
百庚申と千庚申

 昨16年12月4日(土)は日本石仏協会の第137回石仏談話室、会場は池袋・東京芸術劇場6階小会議室である。当日は服部比呂美さんの「サイノカミ祭りと子ども集団」の講演が終わってから後半が「Q&1・トーク」に当てられる。
 トークの最後は宇都宮の瀧澤龍男さんの「数庚塔」、ホワイトボードに「数庚塔」と書いて「カズノコトウ」と読むという。具体的には「百庚申」や「千庚申」などを指す。瀧澤さんのホームページ「たおやかにのんのさま」にも、この種の塔の写真が掲載されている。最新の「2005年3月の栃木県内石仏巡り」には田沼町愛宕山の山頂にある安政7年の「千庚申」と年不明の「千庚申」塔3基がみられる。
 瀧澤さんは「数庚塔」をA巡拝・B造立・C庚申塚の3種に分類している。談話室が終わって帰りがけに話したところでは、先の分類を「C庚申塚」に代えて、A巡拝・B造立・C奉納ともいっている。意味するところは同じである。
 多摩地方の場合は次の表のように百庚申塔が3基みられ、2基(青梅市と武蔵村山市)は単純に「百庚申」と刻まれているが、町田市小山町・宝泉寺にある文化2年の1基は柱状型に「奉詣百庚申供養塔」とある。
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   ┃番│年 銘│主  銘│塔 形│ 所在地      ┃
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   ┃1│文化1│詣百庚申│柱状型│町田市小山町 宝泉寺┃
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   ┃2│万延1│ 百庚申│自然石│青梅市柚木町 即清寺┃
   ┠─┼───┼────┼───┼──────────┨
   ┃3│万延2│ 百庚申│自然石│武蔵村山市本町 宅内┃
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 1の文化元年塔は「奉詣百庚申供養塔」の主銘、100基の庚申塔に参詣して造られたと考えられる。これに対して2の万延元年塔と3の万延2年塔は、共に「百庚申」の主銘を自然石に刻む。瀧澤さんの分類からいえば、前者が1の巡拝、後者の2基がBの造立に当たる。多摩地方では庚申塔の数が少ないから、町田の「奉詣百庚申供養塔」が限度である。
 青梅市小曽木1丁目の市川家に半紙を4折り程の大きさに切り、「嘉永元年戊申五月吉日 百庚申
 願主 市川弥左衛門」と墨書きした紙札が残っている。願主の市川弥左衛門は、『市川家日記』を書いた庄右衛門の父親である。弥左衛門自身も『伊勢参宮道中日記』『富士山参詣覚』『榛名山道中記』を残すほど各地を廻っているから、各地の庚申塔を参拝して紙札を貼ったものかもしれない。
 百庚申で思い出すのは、杉本林志翁の「百庚申巡禮記」である。曽孫に当たる杉本寛一氏編「百庚申巡禮記(故林志遺稿)」が上下2編にわけて、多麻史談会の『多麻史談』創刊号と第2巻1号(共に昭和9年刊)に発表された。
この巡礼記の範囲は、東京と埼玉の2都県にまたがる狭山嶺を中心とする5市1町である。村山(多摩湖)・山口(狭山湖)の両貯水池に接する東村山市・東大和市・武蔵村山市・西多摩郡瑞穂町(以上東京都)と所沢市・入間市(以上埼玉県)を含む。
 この巡礼記に従って、私も東京と埼玉の両都県にまたがる庚申塔を訪ねた。この中には武蔵村山市本町・波多野宅内にある万延2年「百庚申」塔が1基みられる。
 埼玉県に入ると、さいたま市大牧・清泰寺に約3百基の庚申塔があり、「三百」が右横書き、「庚申塔」が縦書きになっている主銘の自然石塔がみられる。裏面に「萬延元庚申歳 七月吉祥日 應需法一叟」を刻む。他にも和光市下新倉・吹上観音には、多石百庚申がみられる。
 千庚申の例は、安政7年の「庚申千社供養塔」が入間市小谷田にみられる。同市教育委員会発行の『入間市の石仏』(昭和43年刊)の54頁に写真が載っている。正面に主銘、右側面に道標銘、左側面に造立年がある。
 さいたま市下大久保770の路傍には、嘉永6年の「千庚申供養塔」がある。正面中央に主銘「千庚申供養塔」、左と右に「嘉永六丑年」「十一月庚申日」の2行、右側面に地銘の「武州足立郡下大久保村」、左側面に「願主 江口文左エ門」の施主銘を刻む。
 多くの「百庚申」や「千庚申」の庚申塔をみたは、昭和42年5月・8月・10月の都合3回、延べ9日間に桐生市・大間々町・足利市・田沼町を廻った時である。桐生市内の調査をまとめて桐生文化史談会の会誌『桐生史苑』第7号(昭和43年刊)に「桐生庚申塔覚書」を書発表した。この時にみた百庚申と千庚申は
   安永6  相生町1丁目  「百庚申塔」
   万延1  境野町庚申塚  「百庚申」
   昭和15  広沢町2丁目  「百庚申」
   寛政3  三吉町水神宮  「千庚申供養」
   寛政5  相生町1丁目  「千庚申塔」
   寛政6  広沢町7丁目  「千庚申」
   寛政12  川内町2丁目  「千庚申供養」
   文化4  広沢町間ノ島  「千庚申」
   文化9  川内町2丁目  「千庚申供養」
   安政4  相生町1丁目  「千庚申」
   年不明  梅田町1丁目  「千庚申塔」
   年不明  川内町2丁目  「千庚申」
   年不明  広沢町4丁目  「千庚申」であり、他にもう1基、広沢町比呂佐和神社の境内にある寛政元年塔は、自然石に主銘の「庚申塔」の他に「千庚申詣大願成就」の銘が刻まれている。
 以上の「百庚申」や「千庚申」以外に境野町・庚申塚では、一石百庚申塔をみている。この塔は「庚申」の2字が百刻まれたもの、塔正面の中央に「百庚申」、その両側に各側4段に8個の「庚申」(両側で16)、左右両側面に6行7段ずつ、合計百の「庚申」が字体を変えて刻まれている。これは万延元年の庚申年造立、高さが55cm、幅が26cm、奥行が23cmの角柱型塔である。
 群馬県では、前記の境野町・庚申塚以外に群馬郡群馬町で一石に「庚申」を百記した一石百庚申をみている。縣敏夫さんの『図説 庚申塔』(揺籃社 平成11年刊)には、付表4の「一石百文字庚申塔年表」が368〜9頁に載っているから参考になる。
 前記の瀧澤さんの調査によると、栃木県は「百庚申」や「千庚申」が多く、他に「二千庚申」から「一万庚申」がみられそうである。それを裏付けるように、昭和42年5月に義弟の運転で廻った足利市松田町では、湯ノ沢から順々に下りながら調べていくと、道了神社の入口にある、いずれも自然石塔の寛政5年「千庚申供養塔」と「千庚申供養」、文政13年の「千庚申塔」の3基がある。小西では、天明7年の日月付「百庚申供養」と年不明の「百庚申供養」2基をみる。
 葉鹿町では、篠生神社境内の塚上の百庚申をみている。正面向きでわかるものだけで92基あるから、倒れていたり、埋まっている塔を調べると、優に100基を越すと思われる。その中に寛政12年・同年間・年不明の「千庚申供養」自然石塔が3基ある。
 この神社で見逃せないのが、百庚申の中央にある文久元年の「庚申」の主銘を刻む、大きな自然石塔である。裏面に「余嘗有所歩願登高山渉深沢礼拝/庚申塔既歴七星霜其数一萬五千/躰所願成就因建此塔之文久紀元/歳次年酉冬十月十有六日/服部仙五郎和暁」の銘文が刻まれている。7年にわたり、各地にある1萬5千躰の庚申塔を礼拝している。田村允彦・星野光行両氏の『足利の庚申塔』(随想舎 平成14年刊)161頁に写真が載っている。
 その後に廻った足利市内の小俣町や濁沼、栃木県安蘇郡田沼町では「百庚申」も「千庚申」もみなかったが、前記の『足利の庚申塔』80頁によると
   百庚申       13基   百庚申塔       1基
   百箇所庚申塔     1基   百庚申供養      1基
   奉拝百庚申      1基   奉拝百ヶ所庚申供養  1基
   奉造立百庚申供養塔  1基   庚申百庚申満願記念  1基
   千庚申       46基   千庚申塔       3基
   千庚申供養     29基   千庚申供養塔     2基
   千詣庚申塔      2基   二千庚申       1基
   二千庚申塔      2基   庚申二千拾巡拝    1基
   三千庚申       1基   三千庚申塔      1基
   一万庚申       1基があり、100頁に青面金剛の刻像塔に「奉千庚申並信心供養」銘を記す1基がある。
 以上、百庚申と千庚申を中心にみてきたが、瀧澤さんのホームページや『足利の庚申塔』からもわかるように「二千」とか「三千」、「一万」以外の庚申塔がみられる。こうした塔、瀧澤さん流の表現による「数庚塔」は、地域によってかなりのバラツキがあることも分かる。(平成17・3・30記)
                〔初出〕『野仏』第36集(多摩石仏の会 平成17年刊)所収
日記からみた石造物

 日記が資料として活用できると知ったのは、後でもふれるが『市川家日記』の庚申の記述からである。それが契機となり、日記の有用性については早くから関心があった。それが具体化したのは、それまで知られていた日記の中から雨乞の記事を抜き出して「近世資料から見た多摩地方の雨乞い」をまとめ、『多摩郷土研究』第44号(多摩郷土研究の会 昭和48年刊)に発表した。その後は日記資料を加えて「近世史料から見た雨乞いと天気祭」を『あしなか』第146輯(山村民俗の会昭和50年刊)に寄稿した。
 当時使用した文献は五日市町(現・あきる野市)伊奈の岩走神社神官・宮沢安通が宝暦8年から天保6年まで書いた『安通萬歳記』、柴崎村(現・立川市)名主・鈴木平九郎が記した『公私日記』、『村山町史』から引用した『指田日記』、青梅市小曽木村の百姓・市川庄右衛門が安政6年から明治30年まで38年間に書き綴った『市川家日記』、それに日記ではないが青梅市長淵・中村保男家に残る文書『村鏡』(天保3年)であった。
 最初は青梅の『市川家日記』、あきる野の『安通萬歳記』や立川の『公私日記』などである。最近は『儀三郎日記』全5巻や『指田日記』か面白く、他に入手したまま手元に積んである八王子の『石川日記』、未だ部分的にしかみていないが檜原の『牛五郎日記』が気にかかっている。
 種々の日記を分析すると思いがけない発見がある。同じ事柄でも、例えば幕末期の打壊し騒動、置かれた地理的位置や立場によって視点が異なり、単に1つの日記を利用するだけでなく、数種の日記を並列的に比較すると別の視点が生じてくる。本稿は日記を利用した1例で、こうした試みがいろいろな面で行われると、意外な発見があると思う。その面で本稿が少しでも参考になれば幸いである。

1、『指田日記』
 先ず最近手にした『指田日記』からみていこう。村山町内(現・武蔵村山市)に分布する庚申塔を知るのが目的で、発行翌年の昭和44年11月に『村山町史』(村山町教育委員会 昭和43年刊)を入手した。この町史によって『指田日記』の存在を知り、獅子舞や雨乞などが日記の中に記されているのに気づいたので注目していた。
 幸い昨年10月17日の多摩石仏の会10月例会で、日野の喜井晢夫さんから武蔵村山市教育委員会が平成6年に発行した『指田日記』を長期間借りることができた。今年2月にうやく時間の余裕ができので、先ず日記から興味がある記事を書き抜いた。これを項目毎に分類し、それを基にして各項目を考察すると、断片的な記事ではわからいことでも、まとまった傾向や思いがけない発見がみられる。この場を借りて『指田日記』の長期借用を許可された喜井さんに感謝申し上げる。
 『指田日記』には獅子舞・神楽・砂川の屋台などの民俗芸能に関する箇所、御嶽山・古峯ヶ原・大山などの山岳信仰関係、疱瘡・コロリなどの流行病、日待や廿六夜、雨乞や天気祭りなどの民俗行事について書かれている。武蔵村山市内で疱瘡神塔をみていないが、疱瘡にふれた日記は疱瘡神塔造立の背景を知る資料になる。
廿六夜待は江戸時代に農家や染色業者の間でみられ、高輪や品川で遊興的な月待が行われた。愛染明王が二十六夜待の主尊とされ、掛軸や石塔の本尊として用いられている。町田市つくし野には愛染明王を描く二十六夜待の掛軸が残っている。
 最も古い都内の二十六夜塔としては、中野区中央2丁目にある宝仙寺墓地の慶安元年文字塔が知られている。刻像塔としは葛飾区東金町3丁目の金蓮院境内にある宝永7年塔が最古である。多摩地方では町田市つくし野に廿六夜本尊を描く掛軸が残っており、同市大蔵町井の花の路傍には弘化4年造立の「廿六夜塔」文字塔がある。
 『指田日記』では文政3年正月26日から慶応3年6月26日まで、茂左衛門家で二十六夜待が行われたいたことが記録されている。この間に一貫して講宿を勤めた茂左衛門は染色と関係があったのだろうか。例えば、文久3年1月26日の日記にはただ「茂左衛門宅廿六夜」(333頁)と記されているに過ぎない。日記からは二十六夜待が記録されていても、武蔵村山市内では二十六夜をみていない。
 他にもいろいろな山岳信仰があっても、それが直ちに石造物に結びつくとは限らない。そうした面も信仰と石造物を考える上で役立つのではなかろうか。
 ここでは『指田日記』にが登場する石造物、具体的には石橋や石灯籠、石鳥居、敷石、石坂、墓石など、それに関連して石工を石造物を中心にみることにしよう。
 日記の中に「石橋」に関する記事があり、最初に出てくるのは天保13年6月29日に立川市砂川田堀で行われた石橋供養で「砂川田堀石橋供養 石橋ニテハ坂東ニテ一二ノ由ヲ申ス」(111頁)とある。文中に「坂東ニテ一二ノ由」とあるほどだから、当時としては立派な橋であったのだろう。
 次の石橋に関する記事は嘉永5年8月25日の「佐右衛門前・惣右衛門裏石橋両所 水附ヲ石ニテ築立 築地村より職人ヲ頼み今日卒業」の記事(213頁)である。築地(現・昭島市)の職人を依頼したのは、それに先立つ同月9日に多摩川原で3、40貫目より6、70貫目の大石を求め、村中で引取って金比羅の庭に置いて力石(カツキ石)としている(212頁)。こうしたことがあったからか、17日にまた「築地ヨリ村中ニテ石ヲ引」(213頁)、築地村の職人を頼んで2か所の橋に水付けを築いている。
 安政6年4月19日に「橋場石橋普請成ル」(297頁)とあり、同月21日付けで与右衛門前ノ
   石橋ト橋場ト両所 六兵衛弟金次郎発願ニテ 是迄石三枚ニシテ車ノ往返ニセバキ故 両所一
   枚ツゝ石ヲ倍シ 又両脇ヒカヘ石ヲ造ル 与右衛門寄進同断(297頁)と記し、橋場と与右衛門前の石橋は共に石板3枚を4枚と幅を拡げ、両脇に控え石を置いている。後に万延2年2月9日付けで、久保の石橋も交通量が多くなったので従来3枚であったものを1枚を加えて4枚と幅を広くしている。
   道普請 橋場金左衛門 久保ノ石橋以前三枚ナリシ一枚ヲ増シ四枚トス 是迄橋場ノ橋佐右衛
   門前石橋并三枚宛ノ処 近年作車多ク出来タルニヨリ 以前ト違ヒ通行不自由ナル故 両橋一
   枚宛増加ス 金左衛門心得奇特可賞者也(320頁)
 明治2年2月22日に村中(原山)が神明社の拝殿に集まって相談した結果、弥次郎屋敷を買取り、道を直して石橋を掛替えることに話がまととまる。3月4日に惣人足で橋道の普請を行い、翌日に摂津が石橋供養に道と橋を清め、村中が与右衛門宅に寄って酒を呑んでいる。6日は与右衛門宅に組頭中・世話人中を招き、金左衛門からの礼酒で終日呑むという一連の記事が日記にみられる。
 例えば東村山市久米川・梅岩寺には、文政3年の「敷石供養塔」がみられるが、次の天保6年2月15日の真福寺「敷石供養」は、供養塔もなくて日記では
   真福寺山門敷石供養 檀中の村役人ヲ招く(11頁)と簡単に記述されている。
 市外の石畑(現・瑞穂町)になるが、天保7年1月15日には
    石畠村ノ馬頭入仏供養(21頁)と馬頭観音の入佛供養が挙げられている。恐らくこの馬頭観音は文字塔であろう。
 続いて市外になると思うが、山口というのは山口観音(現・所沢市)のことだろうる。どのような石像に対して供養がどのようなものはハッキリしないが、次のように
   山口銅像・石像供養ニ付被招 通亭・哲蔵・8太郎・予同連(176頁)と嘉永元年8月23日に摂津が招かれて友人と共に行っている。
 嘉永4年の萩ノ尾・山王社や安政5年の中藤入・天神社では石灯籠の供養ご行われいるから、この時期に石灯籠の造立があったのであろう。供養と同時に狂言や神楽が催されている。嘉永4年4月18日に日記に
   萩ノ尾山王社地石灯籠ヲ建テ 供養手踊り狂言(201頁)とあり、安政4年5月6日の記録に
   中藤入天神石灯籠供養 十二座ノ神楽アリ(266頁)と記されている。
 安政2年10月2日に日記に安政の大地震が次のように詳しく書かれている。
    夜四ッ時大地震 倉庫破裂ス 明方迄七八度ニ及ブ 江戸所々焼 吉原近辺別而大地震・火
   事 存命ノ者十ニシテ二三に過キズ 江戸中ニテ二十万余ノ死人ト沙汰アリ(244頁)
 この大地震と関連して石碑につき翌3日の日記(244頁)に次のように書いている。
   今朝モ地震 昨夜 十王堂石碑十ニシテ九ッ倒ル 予か家の碑一モ不倒
 安政5年11月1日の太神宮では、石坂供養が鳥居の供養と合わせて行われた。
   太神宮鳥居ヲ建テ 又 商人中ヨリ石坂寄進ニヨリ供養ニヨリ供養 十二座神楽(281頁)2年に摂津が管理する神明宮の石鳥居造立がみられ、3月15日に「神明宮ニ新ニ石鳥居ヲ立ルニヨリ 引又ニ人足ヲ差遣シ引取」(332頁)と記され、引又(現・埼玉県志木市)に引き取りに行き、4月3日から地搗きなど原山の人足の力を借りている。日記には4月6日の「四日ヨリ今日ニ迄リ鳥居人足」(333頁)、7日に「石鳥居新ニ成就」(333頁)、11日に「石鳥居供養」し、同日に「人足ニテ石工ヲ送ル」(333頁)が書き込まれている。
 万延元年3月27日に中藤谷戸の熊野社で幟を立てる石杭の供養が行われている。
   中藤谷ッ熊野ノ社幟石杭供養(307頁)これも簡単に供養を述べただけで、石工などに全くふれいない。
 石工の動向が多少でもうかがえるのは、明治元年に行われた金比羅社の上塗石坂と浄水盤の供養を通じてである。
   9月15日 箱根ヶ崎より石工来ル 金一両手付トシテ渡ス(415頁)
   10月15日 金比羅石引人足二十二人 車五輌(415頁)
   10月2 日 石工仕事始メ(416頁)
   10月28日 沙翫仕事終ル 箱根ケ崎浄水盤を引取(416頁)
   10月30日 石屋来テ止宿(416頁)
   10年1日 石工宿ス(416頁)
   10年2日 石工来(416頁)
   10年3日 石工宿ス(416頁)
   10年4日 石工仕舞 石屋カヘル(416頁)
   10年10日 上塗石坂浄水盤供養 村中来テ酒 参詣ノ (416頁)
   10年20日 頭衆并世話中来リ 金比羅諸勘定終る   (416頁)
 日記に記録された墓石については、天保9年2月の摂津の師・斎藤寛卿先生の墓石から始まる。日記の最初に「先生トハ予カ師斎藤寛卿先生也」と書いている。前年の天保8年2月17日に寛卿先生は自殺したが、その徳によって真福寺の檀家では初の「義覚院□光梅嶺居士」の院号を贈っている。
 天保9年2月15日の告知から始まり、墓石を3輌の車で引き取り、3月20日に墓石が完成するまでを日記に書いている。
   2月15日 先生ノ墓碑ノ事ニヨリ 東隣哲蔵ト予 四方に馳セ 諸位ニ告ク(51頁
   2月17日 先生一周忌ニアタレバ 碑文出来ザルニヨリ延日(51頁)
   2月23日 先生石碑ノ事ニヨリ 山王前見世主人立寄(51頁)
   2月27日 先生碑文 通亭賢宅ニ来着ス(52頁)
   3月16日 先生石碑ヲ十三人ニテ車三輌ニ乗セ 十王堂ニ引来ラシム 石工二人来ル 十王堂
        ヨリ石碑ヲ通亭賢宅ニ引来ル(52頁)
   3月18日 先生一周忌ノ法事 奈良橋村岸栄三郎来ル 通亭賢宅ニ同伴ス十六日ヨリ石工2人
       ニテ碑文ヲ彫トイヘドモ未タ成ラズ ヨツテ台石二重を敷テ門人墓参(52〜3頁)
   3月20日 先生石碑刻成リ建(53頁)
 日記のように本来ならあば命日までに出来る碑文が遅れ、その上に刻文も未完成で日延べした3月18日の1周忌の法事に間に合わなかったので、2重に台石を敷いて墓参している。墓石の刻文が完成したのは3月20日と遅れた。
 次は翌10年の2基の墓石である。奈良橋大人は先生と同様に日記の最初に「奈良橋大人ト記スハ予カ妻ノ父也」と書いている。
  4月17日 山王前老主人石碑立(67頁)
   8月19日 奈良橋大人石碑立つ(73頁)
 天保11年10月18日に父と祖母の三十三年忌を期に墓石を建てるために所沢の石屋に注文し、同月25日に引き取って法事に墓石を建てている。日記を書いた本人の事柄だけに他のお記事に比べて石工の動向にふれている。
  10月18日 所沢ニ行キ石碑ヲ注文ス(87頁)
   10月20日 深沢村の與兵衛方へ書状ヲ以テ 亡夫三十三年・祖母三十三年故 石碑を建テ 廿
        六日法事ヲ告ルモノナリ(87頁)
   10月23日 所沢石工宅ニ行ク(87頁)
   10月25日 吉右衛門ヲ雇ヒ石碑ヲ附来ラシム(87頁)
   10月26日三十三年忌法事 親類・差場ヲ招請ス 則石碑ヲ立ル(88頁)
 嘉永元年11月5日の項に「三郎右衛門忌明 石碑ノ戒名ヲ書ス」(178頁)と、墓石の戒名を頼まれて書いている。
 指田摂津は文久元年10月17日に「小川村石屋ヨリ石碑を引取」(328頁)と、小川村(現・小平市)の石屋から墓石を受取り、母と娘の年忌の10月27日に「心鏡妙際信女七回忌・智賢貞芳信女三年忌 石碑ヲ立」(328頁)立てている。
 他にも墓石や墓所関連では文久3年に与右衛門家(348頁)、元治元年に惣兵衛家(362頁)の墓石の造立を記録し、慶応2年の指田姓四軒の墓所改修を記している。

2、『市川家日記』
 ここで取り上げた3種の日記ので私が最も古くから親しんでいたのが『市川家日記』、これは現在の青梅市小曽木・小布市の市川家に残るもので、先祖の市川庄右衛門が安政6年から明治30年まで記した。内容は市川家周辺の小布市の事項について書かれ、私の興味がある雨乞や天気祭など民俗的な事柄にふれている。
 民俗に関する中の1つが疱瘡で、家内や近所の疱瘡に関する箇所が流行した年に記されている。この日記は青梅市史史料集第10号(青梅市教育委員会 昭和44年刊)に収録され、後に『日本庶民生活史料集成』第12巻(31書房 昭和46年刊)に記載され、さらに青梅市史史料集第46号(青梅市教育委員会 平成8年刊)に他の史料共に収録されている。
 先にもふれたように、この日記の中から抜き出した雨乞の記事を中心に『多摩郷土研究』第44号に発表、天気祭りを加えて「近世史料から見た雨乞いと天気祭」を『あしなか』第146輯(山村民俗の会 昭和50年刊)に寄稿した。後になって『多摩のあゆみ』第36号(多摩中央信用金庫 昭和59年刊)に「忘れられた石塔」を発表、82〜83頁に『市川家日記』を引用し、かつて永山公園にあった年不明の疱瘡神塔を取り上げた。
 この日記の中で最初に気づいたのは、明治10年にある庚申の次の記事からである。
   一、当年三月の触に道ふちに在候地蔵、庚申の類は寺或は堂の地中へ引事、宮の類は村社の地
     中へ寄可申の触に候。依て所々村々にて是を引候也。(177頁)
 この日記の文章は『青梅市の石仏』(青梅市郷土博物館 昭和49年刊)収録の「市内の庚申塔」にすでに引用している。明治初年の廃佛毀釈に伴う触れについては、東北地方の実例を山村民俗の会を主宰されていた岩科小1郎翁から教示を受けたが、日記の中に記録されていたとは予想外であった。
 これ以外には安政6年の日記に「庚申塚」の地名が出てくるだけである。
   一、庄兵衛本宅普請は八月より木切初、庚申塚の畑に縄はり、十一月より初め、然共翌年二月
     本屋敷へ立前ある。(68頁)
 近くに石屋が住んでいたとみえ、安政7年の日記には
   一、正月廿九日より屋根修覆少々□小□□差かや三人掛り、次に石屋の屋根差かや正月卅日よ
     り初り二月四日くれ置。(70頁)
   一、同月(2月)4日、石屋のやねくれ置致し候。(同頁)と屋根替えの記事だけに止まっている。実際にこの石屋がどのような活動をしていたか、残念ながら日記には現れこない。
 明治25年9月には、福昌寺境内にある地蔵尊の手水石ふれている。
   一、同廿三日より荒田福昌寺地蔵尊の手水石出来に付、供養の談義有之、廿四日より二日にて
     終わり候(214頁)
 それに先立つ明治6年には、次のように馬頭観音の再建が記録(160頁)されているが、文面から推測すると木像のように考えられる。
   二月十五日、荒田福昌寺地蔵尊地内に馬頭観音再建に付、馬町立候。南方より馬多く来る。
 文久2年の日記には麻疹の流行を伝え、青梅市友田の大日石佛にふれている。この石佛には、残念ながら今日に至まで出会っていない。石佛に関する唯一の記録(84頁)である。
   一、当庭中世間に唐人はしか(麻疹)はやる。七月十九日頃より村の熊次郎はしか致す。日向
     紺屋にても二人斗致す。七月廿日頃より水穴の袈裟三郎はしか致す。小貝登おたつもはし
     かなり。廿日後の事。此頃所々村々はしか多くはやる。此節友田村(青梅市友田)の大日
     如来はやる。参詣の人多し。此大日は石仏にて在家のうらの草やぶの中に立て有也。
 慶応4年(明治元年)の記事は、黒疱瘡の流行で各所を廻るお呪いが記されている。一、三月十二三日頃、黒ほうそうはやり候に付、石はし七ヶ所、馬捨ば七ヶ所、新墓所七つ参り候へば黒ぼうそう取付不申候迚、諸人大に出参り候。四五日の間にて候也。(129頁)
 医療事情が悪い時代では、こうしたお呪いもしょうがなったのだろう。
 日記に記された石造物といえば、墓石の記事が多い。万延2年には
   一、八月七日、直右衛門方にて忌明、并に石塔二本立也。(77頁)とあり、慶応2年の日記には
   一、八月十二日、村の亀右衛門父の3年忌に付、石塔立法事致し、両人に子とも壱人呼ばれ申
     候。うんとん(うどん)ふるまいなり。(115頁)がみられ、明治4年には
   一、八月朔日、上の庄兵衛亡父三年忌石塔立、法事に付、庄右衛門と内両人呼れ申候。御茶酒
     うどん振舞、引菓子焼まんじゆう出る。(152頁)とある。明治10年の日記簿には海蔵院に関係する記事があり、先住の墓石が建立されて石塔を含めて諸費用が約44円掛かっている。
   一、十月中、海蔵院田畑売払に相成、(中略)、右百十二両家代金等を以借入金を払、残金を
     以、先住の一周忌法事を致す事に相成候。(179頁)
   一、十一月廿二日、海蔵院へ世話人寄合相談、法事の定日取究、廿九日定日と究候。(同頁)
   一、廿九日三十日迄相掛り候。近所の者は廿八日より三十日迄也。(中略)此時石塔を建候也。     諸入費四十四円斗掛り候。(188〜9頁)
 明治11年は6月5日に病死した芳三郎の父・直右衛門の忌明けに
   一、七月廿三日、右同人忌明に付、組合弍人つつ、外に子供呼れ、親類中来る。此時石塔直右
     衛門夫婦の塔壱本、おくまの当壱本立る也。(181頁)と墓石2基が造立されている。明治17年1月15日に病死した清兵衛の忌明けに際し
   一、三月十七日、水穴伊左衛門父清兵衛の忌明に付、石塔弍本立。法事塔波(婆)四本立。此
     時に組合家内中呼れ候也。(195頁)と墓石が作られ、同じ年の10月には9月1日に死去した綱五郎の父・政右衛門
   一、十月十九日、綱五郎父の忌明に付、石塔を立、親類組合中を呼れ候。(197頁)
 明治22年は野上家墓石を立てていし、
   一、三月廿日、野上伊勢太郎父母の石塔を立、法事に呼れ庄右衛門魚也。(207頁)
 明治27年には、次のように市川家の墓石が立っている。
   一、三月廿二日、市川富蔵、両親と兄熊次郎の石塔を立、(218頁)
 いずれにしても何処の石工がどの位の費用で石塔を造ったのは不明である。

3、『儀三郎日記』
 先の『指田日記』や『市川家日記』にもいえることであるが、石造物だけでなく民俗行事や民俗芸能に筆が及んでいる。星竹(現・あきる野市戸倉)の獅子舞に関与した黒山儀三郎が断片的でも獅子舞について『儀三郎日記』に書いている。この日記は単に獅子舞だけでなく、当時の民俗を知る上で有益であり、石造物の面から取り上げたい。。
 『儀三郎日記』は黒山儀三郎が安政6年から明治41年まで書いた日記、現在は戸倉・星竹の黒山家に残っている。あきる野市教育委員会から1冊目の『幕末の元締』が平成10年に発行されて以来13年に『明治の元締1』、15年に『明治の元締2』と『明治の元締3』、16年の最終『明治の元締4』が続刊されて全5巻が完結した。特に獅子舞については儀三郎が星竹の獅子舞に参加していたこともあり、全5巻から獅子舞に関する記事を書き抜きし、コメントを加えて『星竹の獅子舞を訪ねる』(多摩獅子の会 平成16年刊)に「日記上の星竹獅子舞」を載せた。
 『儀三郎日記 幕末の元締 安政六年より慶応四年まで』との出会いは、平成10年1月30日(金)のルミネ立川店1階マグノリアホールで開催された第10回多摩郷土誌フェアである。あきる野市のコーナーで発行されたばかりの『儀三郎日記 幕末の元締 安政6年より慶応4年まで』を手にして頁をくると、偶然に開けた頁が34頁の中央の「十一日○ 石屋庚申塔始」の文字が眼に入る。これは他にも庚申塔の記事があると考えて、早速、買うことに決めた。
 これまで青梅市内にみられる2俣尾の『谷合氏見聞録』や小曽木の『市川家日記』を始めとして、あきる野市の『安通萬歳記』、立川市の『公私日記』などから、いろいろと江戸時代の民俗を知る恩恵を受けた。こうした点が無意識に『儀三郎日記』を取り上げて、購入に結びついたのだろう。
 家に帰って『儀三郎日記』を調べてみると、庚申塔の記事以外にも信州石屋・六地蔵・石塔など石佛関係の記録がみられる。他に星竹の獅子舞や湯花神事、雨乞いなど日頃興味を抱いている民俗を知る上で、興味がある事柄が記されている。
 儀三郎の生地であるあきる野市戸倉・星竹の神明社には、現在も手洗鉢が残っている。信州高遠の石工が出稼ぎで各地で石佛や石塔を造っていることは、一般に広く知られている。『儀三郎日記』にも「信州石屋」が記されている。先ず信州石屋を追ってみると、安政6年10月の日記に
   19日 信州石やちょうず(33頁)と書かれ、12月に
   朔日 森ちょうずばちすえる(35〜6頁)とあることから信州の石屋が手水鉢を造り、神明社に据えられた経過がうかがえる。
 次の同社に現存する庚申塔の場合も、同じ年に造り始めているので、おそらく地元の石工を頼んだのではなく、特に石工について記載がないから、引き続き信州の石屋に依頼したと考えられる。
 星竹の神明社には庚申塔が2基あり、1基は延享4年造立の青面金剛(像高34cm)の刻像塔(72×28×22cm)、他の1基は安政7年造立の「庚申塔」と刻む自然石文字塔(109×72cm)である。ここで取り上げるのは、安政7年塔である。
 安政6年11月の日記をみると、次のように記されている。
   6日 朝庚申塔□□より引取 石屋に金三分ニテ渡ス(34頁)
   11日 石屋庚申塔始 長老様出(34頁)
 文中の「長老様」は注記によると「前の光厳寺住職で普光寺に隠居している。黒山家は普光寺檀家総代」(35頁)である。
 この文字塔は自然石の中央に大きく「庚申塔」、その右に小さく「安政七年庚申秋」、左下に安政の年銘よりは大きな治で「講中」、裏面に「世話人 黒山忠蔵」と刻まれている。年銘に「安政七年庚申秋」とあるが、実際はこの年の3月18日に「万延」と改元されているから「万延元年庚申秋」である。
 この日記にある石屋は、前月19日の項に「信州石屋ちょうず」と書かれているので、地元の石工ではなかろう。この庚申塔を信州の石屋が関係したと考えられることがもう1点ある。それは、信州(長野県)では、庚申年に庚申塔を建てる風習がある。昭和55年の庚申年もその例に洩れず、長野県は、造塔数第2位の新潟県を大きく引き離して群を抜く造塔数である。おそらく信州の石屋の勧めもあって庚申塔を庚申年の安政7年(万延元年)に造立したのではあるまいか。
 この塔は、庚申年である翌年の万延元年11月になって長老様によって開眼供養が行われている。日記には
   2日 庚申塔供養致ス 庚申石垣不残スル 長老様開げん(51頁)とある。庚申塔を作り始めた安政6年には改元が予想できなから、塔には「安政七年」となっている。またこの年8月の日記をみると、庚申塔の開眼供養の前に庚申講の記録が
   21日 庚講日待ニ参(46頁)とある。しかし庚申日待の記録は、何故かこの1回だけである。
 『儀三郎日記』はどうしても1日3行で日記の制約があるので、詳細に書き込まれていない。大まかであるが庚申塔を造り始めてから供養までの経過は、日記から状況が推測できてくる。日記にしるされていないが、おそらく星竹で人足を出し、河原か山などから自然石を神明社に運び、主銘の「庚申塔」を長老(普光寺住職)か、あるいは長老の知人に書いてもらって石屋が刻んだものだろう。
 次いで文久2年5月の日記をみると、次のように記されている。
   3日 朝信州石屋石塔拵咄しニ来ル 金壱両弐分ニテ渡ス 同日始メル(98頁)
   5日 石屋養沢へ仕事ニ行 名主より石屋へ咄し有(98頁)
   6日 儀三郎養沢へ石塔咄ニ木和田平次郎兵衛殿迄行(98頁)
   7日 朝より文蔵・周蔵内二人り右四人ニテ養沢より石塔棹石・柴付二ツ二度引取(99頁)
   16日 朝石屋殿ニ石塔作料相渡し申候(99頁)文中の「柴付」は、脚注に「柴(芝)付 土台石のこと」(99頁)とある。
 石工銘が刻まれてなければ、信州の石工に頼んだのか、地元の石工の作なのかはわからない。その意味でも『儀三郎日記』は、石工銘がなくても信州の石屋の手になることを明らかにしている。
 文久2年7月の日記に石塔に関係した記事がみられるので示すと
   13日 朝草刈 其より先祖石塔へ黒ヲ入(106頁)
   14日 朝石塔へ漆ヲ入 昼頃より寺へ施我鬼に行申候(106頁)とこの年に限って石塔の刻字にに黒や漆を入れている。石塔の新造に関係があるのか。
『儀三郎日記』には次の地蔵に関する記述がみられる。文久2年の日記には
   8月晦日 夜東お祢貫番 戸くら村地蔵勧化(111頁)
  閏8月5日 夜村喜兵衛殿戸くら地蔵勧化百文渡ス(112頁)が記されている。『五日市の石仏』(五日市町郷土館 昭和62年刊)によると63頁に「38 文久二年壬戌秋九月吉旦 倚象宝珠錫杖 半丸彫 火焔型光背 65・37・17 戸倉貢(伝承 耳病に霊験)
 戸倉 166 戸倉弘氏 (呼称)能化地蔵(子育延命)」の記載がみられ、日記の日付から推測するとこの地蔵と思われる。同書の135頁に「No38 子育、延命、能化地蔵。旧戸倉村名主家所蔵」の説明文と写真がみられる。
星竹には『儀三郎日記』に書かれた六地蔵が慶応元年9月に新造され、普光寺に現存する。道路から石段を登ると、本堂右手にある覆屋下に丸彫りの地蔵6体が並んでいる。持物は、右から合掌・杖と宝珠・数珠・香炉・幡幢・宝珠の像高が57cmの地蔵である。幡幢を持つ像の台石(26×20×18cm)右側面には「慶応元丑年/九月如意日」とあり、合掌像の台石右側面には「念佛講中」と刻む。慶応元年の日記には
   4月晦日 夜小十郎殿六地蔵咄しニ来ル(218頁)
   5月29日 母横沢迄六地蔵尊見ニ行(221頁)
   8月19日 朝六地蔵引取ニ村方一同行(233頁)とあり、慶応2年の日記に
   1月28日 夜村方六地蔵尊咄し合有(248頁)
     29日 六地蔵尊土台くり切り申候(248頁)
     晦日 今日六地蔵尊石垣始メル(248頁)
   2月3日 儀三郎六地蔵尊上家拵手伝い行申候(249頁)
     5日 六地蔵尊開げんニ御座候 村中一統立合場所ニテ酒振舞 寺ニテ供養振舞仕候
        (249頁)
     26日 六地蔵尊勘定仕候(251頁)と書き込まれている。なお、26日に「勘定」とあるが、この六地蔵造立に要した費用に一切ふれていない。
実地を歩くと思わぬ収穫がある。普光寺墓地の入口左手に、この日記を書いた儀三郎の「彰徳碑」がみられる。明治33年5月の造立。板石型塔に刻まれた長い碑文の中に「通稱儀三郎姓黒山家」の銘文が刻まれている。廃佛棄釈後に寺にトラブルがあり、普光寺が一時廃寺されたのを後に再興した功績が認められて彰徳碑が建ったのである。
平成15年刊行の『儀三郎日記(3)』には、地蔵に関して明治15年10月の日記に
   27日 日暮に三内石屋へ行 地蔵尊金五円ニテ頼む(158頁)とあり、翌明治16年3月の日記には
   18日 村人足地蔵尊取ニ行(172頁)
   23日 今日皆々地蔵尊ニ付儀三郎宅ニテ餅搗仕候(同頁)
   24日 今日地蔵尊供養女人其外なげ(投)餅 後徳雲庵頼供養ス 寺ニテ酒飯馳走す(同頁)と記されている。前年の記事から、3月18日に三内の石屋へ地蔵尊を取りに行ったのがわかる。この地蔵は自然石(93×53cm)の正面に「地蔵尊」の主銘を刻み、年銘の「明治十六年未二月」と施主銘の「戸倉/西坂下/盆堀/女念佛講中/世話人/土士他嘉右衛門/私市八百吉/内倉傳吉/来住野孫右エ門」がみられる。
 平成13年発行の『儀三郎日記(2) 明治の元締1 明治2年より明治11年まで』では、石造物関係するものに二十三夜塔がある。先ず日記の中から抜き出してみると、明治2年4月の日記に
  17日 相原より廿三夜勧化ニ来ルとあるのが、これ以後、明治7年6月6日の日記に
  6日 午後4時頃廿三夜供養〔虫食い〕川へ直吉殿ト行候(230頁)とある。因みにこの日は旧暦4月22日に当たる。明治9年になると
   1月17日 今日廿三夜供養塔引取ニ兵2郎行(282頁)
   3月26日 今日儀三郎五日市柴野氏迄行 廿三夜塔ニ付頼ミ(287頁)
     31日 今日廿三夜塔柴野様書(288頁)
   4月19日 今日儀三郎廿三夜へ朱ヲ入申候(289頁)
     20日 午後四時頃より又廿三夜へ朱ヲ入申候(同頁)
     23日 今日廿三夜塔供養 村方〔男女〕1同寄
      今夜の地(馳)走ニ懸リ 宿寺向(同頁)
     24日 今朝寺向行 廿三夜勘定仕(同頁)と日記に記載があり、突然に二十三夜塔の造立に関する事柄が記録されている。前年6月の「廿三夜供養」が伏線になっているのかもしれない。
初めて私がこの普光寺前の二十三夜塔をみたのは昭和30年代後半のこと、塔について「三多摩の石塔」(『ともしび』第6号所収 たもしび会 昭和42年刊)に記載している。これを基にしてその後『武蔵野』第51巻3号(武蔵野文化協会 昭和47年刊)に「西多摩地方の月待塔」を発表した。
 実際にこの塔をみると、自然石(109×72cm)の表面中央に主銘の「廾三夜」、その右に「丙子四月」、左下に「女念佛講中」と刻まれている。裏面の下部に「明治九年/黒山儀三郎/田中銀蔵」とあって、銀蔵の名の次に小さい字で「石工同人」と彫る。
庚申塔では主銘を誰が書いたのか明らかにしていなかったが、今回の二十三夜塔は五日市の漢学者・柴野氏(俊策)と日記に記している。
 開眼供養に関して庚申塔は、前の光厳寺住職で隠居して普光寺住職なった長老が開眼供養を行っている。ところが二十三夜塔は単に「今日廿三夜塔供養」とあるだけで、関与した僧侶が不明である。1つに普光寺が廃寺となり、本寺の光厳寺との関係がしっくりいかなかったとも考えられる。こうした塔の供養に廃佛毀釈が関係しているのだろう。
この三夜塔の両隣に自然石の文字馬頭が2基並ぶ。右の文字塔(69×30cm)天保10年に「田中氏」の造立、左の文字塔(84×46cm)は明治2年の「田中銀蔵建之」である。共に「馬頭觀世音」の主銘を刻んでいる。この田中銀蔵は三夜塔の「田中銀蔵」と同1人物である。
 普光寺の西側に家名「寺向」の田中雅夫家がある。家先の路傍より1段高い場所には、自然石塔2基と後述の燈籠が並んでいる。自然石塔の1基は日記の百万遍供養塔である。二十三夜塔に先立つ明治4年10月の日記をみると、百万遍供養塔に関して
   19日 百万遍供養書一日掛り(144頁)
   28日 寺向へ供養塔朱入ニ行(145頁)と記され、この朱入れは銀蔵が彫りやすいように、儀三郎が朱で輪郭を写したとも思われるが、生前の戒名に朱を入れるように、彫り上がった塔の文字に朱を入れたものと推測される。この塔(119×50cm)は自然石の中央に主銘の「百万遍供養塔」があり、右に「明治四辛未十一月日」、左下に「施主 田中銀蔵」の銘が刻まれている。この塔の左に明治3年の「馬頭觀世音」自然石塔(高さ73×幅43cm)がある。
 百万遍については、この後の日記の明治5年8月21日に「村方百萬遍有」とあり、同7年7月16日と同11年11月17日に同じ「村方百萬遍有」が3回が記録されている。前著『儀三郎日記』の場合は、文久3年6月21日・元治元年7月22日・慶応4年6月27日に記事がみられる。
 百万遍供養塔に続く翌11月の日記には、石灯籠と供養について
   7日 昼より寺向の燈籠かつぎに行申候※
   14日 今日寺向へ供養ニ行
   15日 昼より寺向へ供養ニ行 夜寺向ニ女衆供養念仏有り母行
   16日 夜寺向ニ供養仕舞 若衆へ一同へ酒地走有と書かれている。日記に記された燈籠(総高159cm)は竿石の正面に「奉納 御□□」、右側面に「神明宮/八幡大神/今熊宮」、左側面に「阿夫利大神/御嶽山/不動明王」、裏面に「明治四辛未/十一月日」の銘がみられる。竿石正面の「□□」は、「神燈」の可能性が高い。台石正面には、右横書きで「田中」とある。
 1か月足らずの間に百万遍供養塔と石灯籠を造立しているので、その供養は併せてやったのであろう。供養塔にしても、灯籠にしても寺向個人の造立と思われるから、儀三郎が関わった百万遍塔の書と朱入れや燈籠かつぎの事柄を記すに止まり、供養に僧侶の関与したかどうか、などについては一切不明である。施主の「田中銀蔵」の名は、前述の二十三夜塔や文字馬頭にもみられる。
このように星竹という小字の狭い地域で、安政6年から明治11年までの限られた年代ながら儀三郎の日記によって、石塔の造立当時の事情が少しでも明らかになる。庚申塔の供養を菩提寺の僧侶が関与したり、二十三夜塔の主銘を漢学者に依頼したり、塔面からはうかがえない事柄が日記に記されている。
日記を土台にして平成14年1月10日(木)にあきる野市戸倉の星竹を訪ね、狭い範囲の石佛探訪を約2時間行った。星竹に近い「西戸倉」のバス停で下車、檜原街道と旧街道を横切り、坂を下ると星竹橋手前にある「地蔵尊」を最初に橋を渡って右の坂を登ると、二十三夜塔の前に出る。二十三夜塔から普光寺〜田中家前〜神明社の順に廻った。
 これは『儀三郎日記』と『儀三郎日記(2)』の2冊にみられる石佛の記述を追って、実地で日記と石造物を対照しながらの石佛探訪である。この時の記録は、日本石仏協会の『日本の石仏』第102号(平成14年刊)に「日記を追う石仏探訪」を発表した。石仏探訪と日記、一寸、両者の間がかけ離れたようではあるが、石仏を通して結びついてくると面白くなる。今まで存在を無視していた石仏でも、造立の背や人のつながりなどが明らかになることで、興味が湧いてくる。

 以上にみるように本稿では『指田日記』『市川家日記』『儀三郎日記』の中から石造物に関する記事を抜き出し、わかる範囲でコメントした。ここでは日記3種であったが、他の日記や古文書類、あるいは実地調査によって得られた情報を加味して石造物を考察すると、これまでとは異なる視点からの推測が生じる。
 普段にみられる石造物は刻まれた銘文から考える他ないが、日記によって造立の背景となる事情が判明し、石造物についての情報が入手できるならばより一層、石造物に対する理解が深まってくる。その意味でも日記の利用を考えるべきであろう。
 しかし1方では、日記には日記としての制約があることも理解すべきである。日記の書き手が当然知っている常識的なことは省略されやすい。むしろ異常事態の場合の方が日記に書かれ可能性が高いのである。
 例えば石造物以外の場合になるが、岩走神社(あきる野市伊奈)神官・宮沢安通が記した『安通萬歳記』をみると、官位をもらうために寛政6年1月7日に伊奈を発って京都に滞在した折りの記録に
   夏、旱魃。京都近在毎夜祈雨いたす。所の農夫集リ夜一夜、素肌ニテ雨を乞ふ。唱曰、雨ヲタ
   フ、イワフゾと云也。当辺杯と違、昼之間いたさず、夜ばかりいたすなり。がみえる。伊奈付近の雨乞いに比べて京都のそれが違うので、こうした記録がなされたのであろうが、それによって当時の伊奈の辺りでは雨乞いが昼間に行われていたことがわかるのである。こうした点は日記を扱う上で心したい。
 その意味で石造物が日記に書かれるのは通常とは異なることであるが、自分の関心の無いことや常識的な事柄は省かれている。できれば日記と現物の石造物とを交互に比較して観察し、日記の文章となってない部分を考察する必要があろう。(平成17・3・18記)
                 〔初出〕『野仏』第36集(多摩石仏の会 平成17年刊)所収
現代作の双体道祖神

 会場の都合で延期になっていた多摩石仏の会の創立40周年記念写真展が、立川のたましんギャラリーで4月14日(木曜日)から26日(火曜日)で開催される。遅れついでに会誌『野仏』第35集を併せて祝う。

 今回の写真展のテーマは「私の好きな石仏」である。どの写真を選ぶか迷ったが、1つは「青梅の石佛」をモノクロ写真で10点、他は「現代作の双体道祖神」をカラー写真で10点を出品することに決めた。前者は昭和48年に行った青梅市内の石佛調査で撮った中ら10点を選び、後者は最近写した双体道祖神を出品対象にした。
 青梅の10点は地元の石佛を「私の好きな石仏」の写真展テーマに沿ったもので、出品以外でも良い写真があるが、市内石佛調査時の昭和48年に絞った。1方の双体道祖神は研究者からは白い眼でみられている現代作を敢えて取り上げた。
 旧来からの道祖神分布圏では比較的調査が行き届き、各市町村から調査報告書が刊行されている。それに比較すると、現代作の双体道祖神はどこにあるのかも余り知られていない。ビルや商店街にある民芸店や骨董品店で双体道祖神が売られているし、現在も各地で双体道祖神が造られている。石材店にも双体道祖神が展示されている。
 見学会で各地を廻ると、思いがけない場所で双体道祖神を見掛ける。平成16年に参加した本会の例会では、森永五郎さんが6月に案内された大和市福田・常泉寺の参道や境内で多数みているし遠藤塩子さんが11月に案内された杉並区上高井戸・長泉寺で境内にある釈迦三尊横に2基があった。
 双体道祖神の写真の出品内容は、次に挙げる撮影日順の10点である。
   順 撮影日      所在地             造立年
   A 平成7年4月9日 東京都稲城市東長沼 常楽寺   昭和60年
   B 平成7年4月17日 長野県松本市大名町 駐車場角  平成4年
   C 平成14年7月16日 長野県楢川村奈良井宿・上町路傍 昭和61年
   D 平成15年1月8日 東京都青梅市長淵 玉泉寺    年銘不明
   E 平成15年7月13日 東京都品川区5反田 専修寺   年銘不明
   F 平成16年2月15日 東京都国立市谷保 石塚様    年銘不明
   G 平成16年5月13日 東京都江東区亀戸 天祖神社
   H 平成16年5月13日 東京都江東区亀戸 天祖神社
   I 平成16年6月13日 神奈川県大和市福田 常泉寺
   J 平成16年6月13日 神奈川県大和市福田 常泉寺
 Aは記憶にも記録にもなかったが、ネガポジアルバムをみて気がついた。多摩石仏の会の4月例会なので、犬飼康祐さんの『私の「あしあと」8』に当たると、寺の石佛の中に
   4一、双体道祖神(昭和60年) 衣冠束帯の男神と女神が手をとりあう。と13頁に記録されている。
 Bは「道祖神再考」を特集した『日本の石仏』103号(日本石仏協会 平成14年刊)に発表した「双体道祖神今昔」の46頁に載ったものである。写真と共に
    平成七年四月に妻と信州を旅行した時、松本駅で下車して松本城内へ向かう途中、大名町の
   駐車場角で平成四年造立の双体道祖神に気付いた。横長の自然石の表面を丸く彫り窪め中央に
   双体像を肉彫りしている。裏面に「(贈)大成建設・北建共同企業体 大同設備工業 中川電
   気・松本電業建設共同企業体」の施主銘が刻まれている。と記している。この時の旅行でJR穂高駅前や近くにある商店の前でみているし、JR中央線松本駅のフォームにある洗面台の台石両側面の2か所に双体道祖神像のレリーフがあった。また穂高駅からホテルまでの送迎バスの車窓から、途中の烏川橋の標柱代わりに4か所に自然石の双体道祖神が置かれているのが見えた。
 Cは平成14年7月15日に妻同伴のバスツアーで長野県木曽郡楢川村の奈良井宿を訪ねる時に雨の中でみたのものである。当時の記録には
    次の石佛は、上町の路傍にある双体道祖神である。自然石の中央を丸く彫り窪め、その中に
   双体を浮彫りする。いかにも安曇野でみられる双体像である。像の右に「道祖神」、左に「道
   中安全」とあり、裏面に「昭和六十一年十二月吉日/願主/松尾由次郎/八十六才」の銘がみ
   られる。と記されている。
 Dは今年の正月8日(土曜日)にもみてきたが、平成15年撮影のものを提出した。平成7年11月発行の『青梅市史 下巻』に載った「青梅の石仏」には
    双体道祖神は、長淵・玉泉寺や成木・紫雲院にみられるが、住職の好みで佐渡や飯能で買っ
   たものである。個人の家の庭にも、現代作の双体道祖神がみられると、聞く」と書いた。これは単に青梅市内だけの傾向ではない。
 Eは平成15年7月13日に本会例会で喜井晢夫さんの案内で廻った品川区内でみたものである。
   当時の記録をみると、次のように記されている。
    子別れ地蔵の途中の専修寺(西五反田6−11)で双体道祖神(61×33cm)を撮る。群馬に
   ある御高祖頭巾の双体(像高43cm)を模倣した現代作である。
 Fは平成16年2月15日に関口渉さんが案内した「くにたちの石造物を歩く」に参加した際にみたものである。
    最後の見学地である石塚様(谷保7179)へ向かう。
    石塚様で驚いたのは童子と童女が並ぶ双体像がみられたことである。自然石の前面を丸く掘
   りさげて、円の中に双体像が浮彫りされている。バックも体も梨地状に彫られ、二人の顔だけ
   が丁寧な仕上げになっている。石塚様の石祠や鳥居が新造された近年のこの双体像も造られた
   のだろう。『くにたちの石造物を歩く』(くにたち文化・スポーツ振興財団 平成11年刊)の
   調査の頃にはみられなかった石像である。と記録が残っている。
 GとHの双体道祖神を初めてみたのは、平成6年7月24日に多田治昭さんの案内で江東区内を歩いた本会の月例会である。当時の記録には
    最初は、亀戸三丁目三八番の天祖神社に向かう。境内の各所には、現代作の双体道祖神が一
   〇基みられ、丸彫りの童子が数多く配置されている。現在では、各地で現代の双体道祖神に出
   会うが、ここのように一か所で一〇基というのは珍しい。道祖神の中には「朝凪」とか「まほ
   ろば」、あるいは「みちづれ」や「きづな」「平安」「あけぼの」のように名付けられて、石
   標が建っているものもある。とある。昨年5月13日の石佛ウォーク最終回に再訪し、次のように記した。
    境内には数多くの丸彫り童子像があり、11基の双体道祖神がみられる。ここの双体道祖神
   については『日本の石仏』第103号(日本石仏協会 平成14年刊)に発表した「双体道祖神
   今昔」の中で簡単にふれている。
    記録した順に双体道祖神の名称・塔寸法・男神と女神の像高を示す。
      ┏━━┳━━━━┯━━━┯━━━━━━┯━━┯━━┳━━━━┓
      ┃順番┃名  称│塔 形│寸法 高×幅│女神│男神┃備  考┃
      ┣━━╋━━━━┿━━━┿━━━━━━┿━━┿━━╋━━━━┫
      ┃ 1┃感  謝│自然石│55× 51│21│24┃    ┃
      ┠──╂────┼───┼──────┼──┼──╂────┨
      ┃ 2┃みちづれ│自然石│44× 47│21│23┃鳥居あり┃
      ┠──╂────┼───┼──────┼──┼──╂────┨
      ┃ 3┃あけぼの│自然石│45× 47│24│26┃    ┃
      ┠──╂────┼───┼──────┼──┼──╂────┨
      ┃ 4┃平  安│自然石│45× 47│29│32┃    ┃
      ┠──╂────┼───┼──────┼──┼──╂────┨
      ┃ 5┃無  題│自然石│60× 32│28│29┃    ┃
      ┠──╂────┼───┼──────┼──┼──╂────┨
      ┃ 6┃無  題│自然石│43× 32│29│30┃    ┃
      ┠──╂────┼───┼──────┼──┼──╂────┨
      ┃ 7┃まほろば│自然石│53×107│26│27┃鳥居あり┃
      ┠──╂────┼───┼──────┼──┼──╂────┨
      ┃ 8┃朝  風│自然石│64× 43│31│34┃    ┃
      ┠──╂────┼───┼──────┼──┼──╂────┨
      ┃ 9┃きづな │自然石│53× 56│28│31┃    ┃
      ┠──╂────┼───┼──────┼──┼──╂────┨
      ┃10┃無  題│丸 彫│(計測なし)│35│34┃    ┃
      ┠──╂────┼───┼──────┼──┼──╂────┨
      ┃11┃無  題│自然石│24× 43│15│17┃    ┃
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 IとJは先にもふれたように、昨年6月の本会例会で森永五郎さんが案内された大和市福田・常泉寺の参道や境内にある双体道祖神である。記録には
    見学の最後は福田・常泉寺、レジメに「今回は時間の都合で立寄ることが出来ないのが残念
   です」と記されているが総意で訪ねる。参道には現在作の双体道祖神が間隔を置いて配されて
   いる。境内にも現在作の双体道祖神がみられ、河童7福神を始めとして河童の石像が点在する
   。そうした中に次の庚申塔2基がある。とあり、GとGがある亀戸・天祖神社以上の基数である。犬飼康祐さんの『私の「あしあと」17』(私家版 平成17年刊)に細かに記されいるので、引用すると
   51、双体道祖神 角髪の男女二神立像が肩を抱き手をつなぐ。
   52、双体道祖神 町人風の男女が肩を抱き手をつなぐ。
   53、双体道祖神 男女二神の餅つきの図。過去の神像に捉われない自由な発想の構図である
   54、双体道祖神 衣冠束帯の男女二神が肩を抱き手をつなぐ。
   55、単体道祖神 単体で右手に徳利、左手に盃を持つ男神。単体で祝言をあらわているので
            あろうか。
   57、双体道祖神 衣冠束帯の男神に女神が寄り添っている。
   59、双体道祖神 男神が三角の帽子をかぶり女神が笠を持つ。
   60、双体道祖神 二神が向き合い頬をよせている。
   62、双体道祖神 二神が肩を抱き、頬を寄せ合う。
   64、双体道祖神 石祠内、二神は坐って肩を抱き頬を寄せる。
   65、双体道祖神 坐像。男神は右手に扇子を持つ。二神抱き合い頬を寄せる。
   68、双体道祖神 二神抱き合い頬を寄せる。
   7一、双体道祖神 雲上の二神、男神は矛(棒?)をもち直立、女神が寄り添う。である。この単体1体を含む13体の外に、宝暦2年銘の63番「農民風の二神が肩を抱き手をつなぐ」双体道祖神がみられる。

 先述の「双体道祖神今昔」には、各地でみられる現代作の双体道祖神、例えば群馬県水上温泉・松ノ井ホテルの10基などを挙げているので調査される方に参考になろう。現在は余りにも現代作の双体道祖神についての調査データや情報が乏しいので、写真展出品の像についてコメントをしておく。(平成17・1・19記)       〔初出〕『野仏』第36集(多摩石仏の会 平成17年刊)所収

     
あとがき
     
      昨年と同様に『平成17年の石佛巡り』から、多摩石仏の会関係分を分離・独立し『多
     摩石仏の会雑記05』の前半を発行した。本書は分離・独立後の3冊目に当たる。
      昨年の「あとがき」で「来年からは前期と後期にわけて刊行を考える必要があるかもし
     れない。2分割した方が編集しやすい。文章の頁の充実以上に写真を多く掲載するのが参
     考になると思うので、その点にも配慮すべきであろう。」と書いた。そこで6月までの例
     会記録を前編とし、7月以降の記録と『野仏』第36集に発表した3編で後半とする。
      本書は今年の後半部であるが、7月以降の記録というもの、7月(中止)・8月(獅子
     舞)・9月(中止)の3回分は不参加のため記録なしである。収録したのは10月の「杉
     並区内を廻る」、11月の「佐野・足利庚申塔巡り」と「座間市内を廻る」、12月の「
     日野市内を廻る」の4編である。
      通常、月例会は1回だけであるが、11月が2回となっているのは「佐野・足利庚申塔
     巡り」が有志だけの特別会であり、月例会としては「座間市内を廻る」である。特別会は
     宇都宮の瀧澤龍雄さんと佐野の高橋久敬さんの運転とガイドで廻った。2日間約200キ
     ロのドライブによる両氏のご案内には感謝の外ない。
      今後は6月までの前半部と7月以降の後半部に分け、年間2冊発行の形式を続けていき
     たい。この方が編集が2回になるので、12月に行う他の「石佛巡り」「獅子舞巡り」「
     山車巡り」「祭事記」「地口行灯」などとの集中が幾分避けられる。
      本書が活用されることを祈る。

                             ────────────────
                              続多摩石仏の会雑記05
                              発行日 平成17年12月15日
                              TXT 平成17年12月18日
                              著 者 石  川  博  司
                              発行者 多 摩 野 佛 研究会
 
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