石川博司 編著       田無の庚申塔を歩く      発行 庚申資料刊行会 

目次     ○田無市内を廻る
        ○
田無を歩く1   ○田無を歩く2    ○田無を歩く3
        ○
田無市の庚申塔年表  ○田無市庚申塔DB  ○田無市庚申文献目録

        ○
田無の青うめ市1   ○田無の青うめ市2
        ○
あとがき
田無市内を廻る 田無市単独調査

 田無に行くのも楽になったものだ。西武線が玉川上水駅から拝島駅まで延びたから、わざわざ武蔵境まで行ってバスに乗ることもなくなった。今となっては、学生時代に武蔵境行の終バスに乗り遅れて、田無の友人の家にとまったのもなつかしい思い出だ。
 田無市内の調査は、まだ市制を施いていない頃に7基、その後、小金井の松岡六郎氏のご教示で1基、計8基を採塔していた。当時でも向台の塔2基は、未調査のまま、『北多摩郡の庚申塔メモ』、後に『三多摩庚申塔資料』にその調査結果を載せておいた。一昨年前書に洩れた南芝久保の塔を赤木穆氏から報告を受けていたので、いつか調査しなくては、と思いながらその機会がなかった。やっと重い腰をあげて田無の調査に出掛けた。
 田無駅を降りて、南町の友人宅に一寸立ち寄り、そこから調査を始める。先ず、青梅街道に出て西に進み、上宿の角にある
   田1 年不明 笠付型 青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・蓮華    83×40×23を調べる。磨損していて、その持物はよくわからないが、主尊は青面金剛らしい。次いで、そこから西の方にある橋場交差点の
   田2 元禄13 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿・蓮華    93×40×35の前に出る。さらに青梅街道を西に進んで、北芝久保の庚申塚にある
   田3 延宝2 板碑型 日月・2鶏「為奉造立菩提鳴り」3猿  120×52を再調査する。この塔は、田無市指定文化財第6号だ。木祠も新しく作られて、塔の保存もよい。塔の前には立て札が立っている。それには
   北芝久保庚申塔
    延宝二年(一六七四年)にこの北芝久保地方に入植した出百姓、十八名によって造立された
   ものである。
    塔面は青面金剛が現れる以前の古い作風を伝えていて、日天、月天、剣先形など神道の信仰
   が残されている。また三猿は庚申の申(さる)から発展していったものだが、そのレリーフは
   他に比較し特に大きい。
    三猿の上方に陰刻されている、雄、雌の鶏は古くは「暁を告げ、悪魔を退散させる鳥」とい
   う民間信仰であったが、次第に「庚申の晩は鶏が鳴くまで語りあかす」という意味の具体化と
   なったもの。
    これらは三多摩地方でも珍しく、その描写も面白い。と記されている。個々の近くにあるバス停は「庚申塚」だ。
 そこから引き返し、橋場の交差点まで戻ると、その1角に立つ地蔵の前に供え物がある。近くにいた老婆に聞いたら、ここで交通安全のお祈りがあるという。珍しいので供え物などの写真を撮っていると、近所の人達が集まって来て、その前でお祈りが始まった。多分、総持寺の和尚なのだろう、僧侶が地蔵にお経をあげ、近所の人達が順々に地蔵を拝礼する。御詠歌のグループは、地蔵和讃を始める。そのような光景を4、5枚写して、お祈りが終わっていなかったが次の塔に向かった。
 本町と芝久保町の境、シチズン時計の東南の一隅に
   田4 延享2 笠付型 日月・青面金剛・2鬼・2鶏・3猿    88×39×33がある。赤木氏から教示を受けた塔だ。今まで見てきた塔が合掌6手の青面金剛だったのに対して時代が下るせいか、ここのは剣人6手像である。青面金剛足下の2鬼の姿態が面白い。この塔の前にも、次のような立て札が立っている。
   南芝久保 庚申塔
    ここにある石造遺物は、延享二年(一七四五年)に田無村芝久保の農民三八人の講中によっ
   て、この場所に建立されたものです。本尊は、三面六臂、青面、青衣、朱唇のすごい形相をし
   た青面金剛です。青面金剛は別に猿田彦命とも言われて居り、神道、佛教のいずれに属してい
   るのか、いまだ不明です。石塔の上部には、日天、月天に雲が浮ぼりされていますが、この形
   式は全国でも珍しいものです。塔の下部に刻まれている三猿は見まい、聞くまい、語るまい、
   の形を表してうずくまって居ります。これは当時の圧迫された農民が、支配者、権力者に対す
   る抵抗精神を表現したものでありましょう。村人たちはこの塔を建て庚申の夜は、一睡もしな
   いでお互の長寿や一家の安泰、豊作などを祈ったようです。この庚申待の行事は、平安の昔に
   起り、人の体の中に三尸という虫がいて庚申の夜に人が眠ると体の中より脱け出して天に昇り
   天帝に、その人の犯した罪を知らせると天帝は、その人の命を縮めるということが信じられた
   信仰で鎌倉、室町時代に盛んになり、江戸時代は広く全国的に行われるようになりましたが明
   治維新とともにすたれました。私達の祖先の生活を物語る石造遺物は近年都市及び交通機関の
   発展により、日毎にその影を没して来ましたが、昭和三五年八月当地のシチズン時計株式会社
   田無製造所の御厚意により堂宇が建てられて、この庚申塔が保存されることになりました。
                   昭和四十二年十二月五日  田無市文化財保護委員会どう見ても、立て札に書いてあるように「日天、月天に雲が浮ぼり」が、全国でも珍し形式とは思えない。北芝久保の塔と比較して、多分、オーバーに書いたものだろう。総持寺には、たしか3面6臂の青面金剛を刻んだ塔があるけれども、ここのは1面6臂だ。この他にも、この立て札をよく読めばおかしな所がある。そこからさらに南に進み、踏切りを渡って少し行った所、右手に
   田5 宝永3 笠付型 日月・青面金剛・3猿・蓮華       94×35×28がある。それは、段を上った木祠の中にある。そこから石川島の田無工場に向かう。工場の西南隅の一角、水道道路に面した所に
   田6 元禄14 笠付型 日月・青面金剛・3猿・蓮華       84×32×23がある。この塔は、松岡六郎氏(小金井)に教えていただいたものだ。台石に「田無村 拾二人 講中」(正面)、「文化七庚午三月吉日 建之再興」と刻まれている。台石は後で造ったものだろう。車を避けて歩いていたら、下向台の集会所の前に出た。その角に
   田7 享保6 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿       86×36×25がある。宝珠の下部に「文政七申天 世話人□□ 八月吉旦 講中十三人」と刻まれている。この部分だけ後世造ったものか。
 向台から総持寺に出た。境内は、すっかり整備され、以前に訪れた時の面影はない。本堂裏手の墓地に入ると
   田8 元禄1 笠付型 日月・青面金剛・3猿          59×28×17
   田9 宝永6 笠付型 日月・青面金剛・2鶏・3猿     138×44×32
   田10 享保5 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿       88×35×21の3基が並んでいる。特に9番塔(宝永6年)は、1段と高い塔なので眼につくが、3面の青面金剛が珍しい。この塔の他に三多摩で3面の青面金剛が刻まれているのは、保谷市本町の柳沢駅前通りの宝永6年塔がある。
 柳沢交差点も面目1新、かって交番の前にあった総高3米余りの見上げるばかりの塔もなくなった。5月の多摩石仏の会でその塔が近くに移されたことを聞いた。それは、すでに調査済のもだから、所在地をはっきりさせておけばよいと考えていた。総持寺から保谷市本町にお住まいの宮部栄喜氏を訪ねて、いろいろ話がはずんだ。帰り際に柳沢の塔を尋ねたら、交差点近くの米屋の裏手にあるという。宮部宅を辞し、田無駅に出る途中にも当たるから、かなり暗くなってはいたけれども、寄ってみることにした。本町の柳和会の集会所の前に
   田11 享保8 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・蓮華 147×48×42が立った。青梅街道にあった名残が左側面に「是より左りあふめミち」にしのばれる。ここからは、田無駅はもう近い。
 今日は、4番(延享2年)、5番(宝永3年)、7番(享保6年)の3基の新しい塔を調査したので、これで田無の調査は、全て終わったと思った。ところが、家に帰って資料に当たってみると、まだ1基、向台に寛保の塔があったのだ。どうも、あと1基が残っていまう。5月の保谷の場合も、上保谷新田に1基、武蔵野にも、まだ調査洩れが1基ある。完全に調査するということは、20基に満たない武蔵野・保谷・田無で起きるのだから全く難しいものだ。(昭45・6・24記)
                   〔初出〕『たま』第2号(三申研究会 昭和45年刊)所収
田無を歩く1 多摩石仏の会平成6年11月例会

 平成6年11月13日(日曜日)は、多摩石仏の会の11月例会、犬飼康祐さんの案内で田無市内を歩く。午前9時30分、JR中央線武蔵境駅改札口集合である。朝、集まったのは、鈴木俊夫さん、福島茂さん、多田治昭さん、それに久し振りに赤木穆さんの顔もみえる。犬飼さんから本日のコース案内「東京都田無市の石仏探訪」と先月の例会報告の「町田市西部の石仏探訪」をいただく。遅れてくる人があるかもしれないので、一バス遅らせた効果があって川端信一さんが間に合う。赤木さんは用事があるので、向台町のバス停で別れる。運よく山村弥五郎さんが合流する。
 見学の最初は、向台町2丁目13番の閻魔堂である。ここには、
   1 享保6 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        87×37×13がみられる。堂の前にある新井家の墓所には、
   参考年不明 自然石 「庚申霊」                47×38がある。多田さんの話だと、こうした塔が川越にもあるとか。向台町では、3丁目5番の石川島播磨重工業角に
   2 元禄14 笠付型 日月・青面金剛・3猿           84×32×25がある。御幤持ちの1猿を描く絵馬が1枚奉納されている。4丁目13番の向台ショッピング・センターの東側にある
   3 寛保3 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        85×38×24にも、御幤持ちの絵馬が2枚みられた。主尊は、合掌6手の立像で第1手の左に宝輪をもつが、右と第2手左右は持物がない。
 この塔をみてから、持宝院(向台町6丁目4番)にいく。ここの境内には、五大明王を始め、不動三尊、不動十六童子、不動三十六童子、大日如来、役の行者・前鬼・後鬼、などの石仏がある。大不動寄付者連名碑や奉納碑、開山碑などによると、これらの石仏は大正13年3月の造立である。奉納碑には、「矜羯羅童子 大沢茂3郎」とか「制咤伽童子 野口□□」のように、寄付した童子名と寄付者名を10行ずつ3段に刻んでいる。さらに最下段には六童子と四明王が加わっている。三十六童子の2体には、「昭和六十三年十一月吉日 田無市向台町四−二二−三一 岡部キク建之」と「昭和六十三年七月吉日 平山止花建之」の銘文が刻まれている。鈴木さんは、体調がすぐれないので、近くにバス停があるのでここで別れる。
 芝久保町に入って、1丁目13番の庚申湯の北側にある小祠の中に
   4 宝永3 笠付型 日月・青面金剛・3猿・蓮華        94×40×29が安置されている。北に進んで西武線の踏切を渡って、本町6丁目1番のシチズン時計の工場角に木祠があって、中には
   5 延享2 笠付型 日月・青面金剛・2鬼・2鶏・3猿     87×44×32がある。主尊は、剣人6手の立像で、像の上にバク種子が刻まれている。これまでの塔が鬼無しか、1鬼で合掌6手あるのに対して、この塔は剣人6手で2鬼である。祠の脇には、田無市教育委員会の立て札がある。なかなか面白い解説がしてある。
 青梅街道にでて、芝久保町4丁目1番の三叉路角には
   6 元禄13 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿・蓮華     92×43×37が木祠の中にみられる。隣には享保5年の念仏地蔵の木祠が並んでいる。青梅街道を西に進み、道路沿いの4丁目12番にある庚申堂の
   7 延宝2 板碑型 日月「為奉造立菩提也」2鶏・3猿    120×52をみる。この塔は、田無市の文化財に指定されており、解説板が立っている。ここで山村さんと福島さんがリタイアとなる。
 青梅街道を先の庚申塔まで戻り、東へ進むと、本町4丁目9番に
   8 年不明 笠付型 日月・青面金剛・3猿・蓮華        81×39×24がマンションの角にみられる。銘文は「十月」しか読めない。主尊は合掌6手。5丁目7番の観音寺で昼食をとる。コースの最後は、3丁目8番の総持寺である。妙見堂の再建供養があったので、本堂前には供養の角塔婆が立ち、本堂には幕がめぐらされている。本堂の裏の墓地にまわり、
   9 元禄1 笠付型 日月・青面金剛・3猿・蓮華        59×30×12
   10 宝永6 笠付型 日月・青面金剛・2鶏・3猿・蓮華    139×49×34
   11 享保5 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        88×35×22の3基をみる。いずれも主尊は合掌6手、10のみ3面で「バク」種子がある。11には「ウーン」と思われる種子が刻まれている。
 見学の予定は、総持寺までであったが、もう1基、柳沢集会所を訪ね
   12 享保8 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿       148×53×43をみる。主尊は合掌6手、像の上に「ウーン」の種子、両側面には「是より右りはんのふ道」「是より右りあふめミち」の道標銘が刻まれている。この塔は、もと青梅街道にあったもので、三多摩一の高さを誇る塔である。
 ここから西武線の田無駅にでて、帰路につく。
               〔初出〕『平成六年の石佛巡り』(ともしび会 平成6年刊)所収
田無を歩く2 田無・青うめ市調査

 平成10年6月26日(金曜日)は、田無の青うめ市に出掛ける。西武新宿線田無駅で下車、青うめ市の総持寺についたのは午後1時である。ここで市に出ている川越の北田さんからいろいろ話を聞き、市の写真など撮ってから墓地にある庚申塔をみる。
   1 元禄1 笠付型 日月・青面金剛・3猿・蓮華        59×29×17
   2 宝永6 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・蓮華 140×47×32
   3 享保5 笠付型 日月・青面金剛・3猿           88×35×21の3基が並んでいる。
 1は合掌6手(像高18cm)で、下部の3猿(像高9cm)は正面向きである。正面右端に「奉造立庚申如意信心施主二世安楽所」、左端に「元禄元年戊辰十月吉日」、3猿の下に「田中□兵衛」など11人の施主銘を刻んでいる。両側面には蓮華が浮き彫りされ、左側面に「同行拾一人」とある。
 2も合掌6手(像高51cm)で、1と異なり3面である。正面中央の上に「バク 奉造立」とあって右端の「庚申項為二世安楽也」に続く。左端には年銘の「宝永六己丑年十一月吉日」、下部には正面向きの3猿(像高10cm)がある。両側面には蓮華が浮き彫りされ、左側面に「武州多麻郡田無村/同行三十九人」とある。
 3も合掌6手(像高34cm)で、下部の3猿(像高12cm)は前の2基とは異なり、中央が正面向きで両端が内側を向く。右端には「奉造立庚申尊像二世安楽所 享保五庚子歳十月廾七日」、左端には「武州多摩郡田無村 二十七人」の銘がみられる。台石には蓮華の陽刻がある。
 総持寺から田無神社に寄って茅の輪を写し、西原町に向かう。六角地蔵尊交差点の先に木祠(西原町5−1)がみえる。その前には、石燈籠(総高130cm)と
   4 平成3 板石型 「庚申塔改修記念」       106×73があり、祠の中には次の2基が安置されている。
   5 寛延2 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    102×41×40
   6 平成3 柱状型 「庚申塔」                43×21×20
 4は、表面に「庚申塔改修記念/平成三年九月十日」、裏面に「所沢街道拡張の為/修理落成記念/並木重子/並木五郎/九区講中一同/平成三年十月吉日」の銘がある。
 5は、正面上部に「バン」の種子、その下には合掌6手の青面金剛(像高40cm)、右端に「奉造立庚申尊像」、左端に「寛延二己巳年十一月吉日」、右側面に「これより右まへさわみち」、左側面に「武州多摩郡田無村/これよ里/ところざわ/ちゝふ道」とある。正面下部の3猿(像高17cm)は、3と異なる中央の猿が正面向きで両端の猿が外側を向いている。台石正面には「講中/三十五人」の銘文が刻まれている。
 6は、正面に「庚申塔」、背面に「平成三年十月吉日改修」の銘がみられる。田無市内で最も新し庚申塔である。
 ここから中央図書館に向かう途中で、交差点付近の西原町2−1にある木祠に安置された安永8年の6地蔵石幢、同町1−9の木祠内の寛政9年の馬頭観音座像をみる。馬頭観音には、馬を描く絵馬が奉納されている。裏面には横書きで「平成十年 月十五日/海老沢家」と奉納の日と名前が記されている。
 田無市立中央図書館(南町5−6−11)では、青うめ市を調べながら石佛関係にも注意していると、下田富宅氏の『田無宿風土記 (2)』(私家版 昭和53年刊)の中に「田無の石仏」が載っている。これには、先刻みてきた5の塔について「バス停六角地蔵の近く、前沢道、所沢道の別れ道に庚申尊像があります。寛延二巳年(一七四九年)十一月に講中三十五人が造立した養蚕の神、方角除けの神でありました」とあり、外にも芝久保町4丁目の元禄十三年塔・本町6丁目の延享2年塔・芝久保町4丁目の延宝2年塔・本町3丁目の享保8年塔にふれている。
 『田無地方史研究紀要』第15号には、河田角二郎氏が「石仏調査おぼえ書き」(30〜7頁)で向台町1−10先にある安永7年塔の主尊について長々と論じているので不思議に思ったら、『田無の石仏』(田無市教育委員会・同市文化財保護審議会 昭和52年刊)ではこの塔を青面金剛とみて庚申塔にしていたからである。1見して馬頭観音とわかる像を青面金剛と判断するから話がややこしくなる。
 『田無地方史研究紀要』第16号(平成8年刊)には、「江戸の民間信仰」の中で市内の庚申塔を13基挙げている。勿論、これには『田無の石仏』の安永7年塔が含まれていない。多田治昭さんの『田無の庚申塔(多摩の庚申塔4)』(私家版 平成8年刊)には参考を加えて15基が記載されている。この中の6(西原町5−1)の塔は平成3年造立で、他の参考に上げられた向台墓地の「庚申霊」塔を除くと13基で合致する。
 多摩地方及び北多摩地方で田無の庚申塔をふれた文献はあるが、それらは『多摩庚申塔夜話』(庚申資料刊行会 平成9年刊)に譲るとして、参考までに田無市内に限ると
  石川 博司   「田無市の庚申塔年表」(『たま』2号)    昭和45年刊
   田無市教育委員会『田無の石仏』                昭和52年刊
   下田 富宅   「田無の石仏」『田無宿風土記(2)』所収   昭和53年刊
   多田 治昭 『田無市の庚申塔』 平成8年刊の文献がみられる。    〔初出〕『平成十年の石仏巡り』(多摩野佛研究会 平成10年刊)所収
田無を歩く3 庚申懇話会平成11年12月例会

 平成11年12月12日(日曜日)は庚申懇話会12月例会、西武新宿線田無駅改札口前に午前10時集合、若松慶治さんが案内で田無市内を歩く。集まったのは30人弱、小花波平6さんや芦田正次郎さんは欠席である。
 本日のレジメ「富士大山道・田無からの道」と若松さんが編集された『横須賀の庚申塔』(庚申懇話会 平成11年11月刊)をご本人からいただく。調査資料は藤井慶治さんが提出したもので、旧町名の箇所があるので新町名を教えてほしいと頼まれる。斎藤直樹さんからは、12月4日におこなわれた武蔵野文化協会の見学会レジメ「蕨宿の史跡と河鍋暁斎美術館を訪ねて」をちょうだいする。いつものように、新聞やPR誌などいろいろな資料を遠藤陽之助さんから受け取る。中でも昭和59年12月に発行された東京駅開業70周年記念入場券のカラーコピーは、A4版を横長につないだ大きさで、開業当時の東京駅の風景を描いた「東京驛開業當時之圖」が見事である。裏面に印刷された「国鉄東京南鉄道管理局」も時代を反映している。
 最初の見学は、田無村の名主を勤めた下田家(本町2丁目10番9号)を訪ねる。外から銅板葺き入母屋造りを拝観する。建築年代は不明であるが、安政年間に建てられたものという。明治16年には、明治天皇がこの家に立ち寄られている。
 宿の裏側には用水路があったが、現在は舗装されて「ふれあいのこみち」として通行可能である。道路に接する所には車が進入しないように車止めがあるので、路幅が狭いけれども安心して歩ける。この小道をすすんで観音堂(本町5丁目7番5号)にでる。
 観音堂の境内には、寛保3年の宝筐印塔があり、正面に「ア 奉造立宝筐印塔六十六部日本回國供養成就」の銘を刻む。若松さんがレジメと共に「田無市・観音寺の宝筐印塔」を作成されているので、塔身に刻まれた梵字とその説明がよくわかる。
 ここには、寛文8年造立の阿弥陀立像を浮き彫りする光背型塔がある。「念佛講逆修女人□道行四拾壹人」を刻む。聖徳太子孝養像を浮き彫りし、その下に「聖徳太子」の主銘の文政5年塔や天保11年の「サク 奉納大乗妙典日本廻國供養塔」がみられる。
 久米川道入口の両側(本町7丁目1番4号と2番37号)にある馬頭観音座像(天保15年の造立であるが、現在では風化して読めない)と安永8年に地蔵立像をみる。そこからさらにすすんで青梅街道に出て、橋場交差点の三叉路角路傍(芝久保町4丁目1番4号)にある
  1 元禄13 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿・蓮華      92×43×37と享保5年の丸彫りの地蔵をみる。庚申塔の主尊は合掌6手立像で、右手の上方手に矢、下方手に矛を持つ通常と逆になっている。
青梅街道を東へ進むと、本町4丁目19番7号の建物に組入れられた木祠がある。中には安永5年の如意輪観音と
  2 年不明 笠付型 日月・青面金剛・3猿・蓮華         81×39×24が安置されている。銘文は「十月」しか読めない。主尊は合掌6手立像。
 駅前にあるアスタの飲食街で昼食の後、午後は総持寺(本町3丁目8番)の見学から始まる。墓地には
  3 元禄1 笠付型 日月・青面金剛・3猿・蓮華         59×30×18
  4 宝永6 笠付型 日月・青面金剛・2鶏・3猿・蓮華      139×49×34
  5 享保5 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿         88×35×22の3基が並んでいる。。いずれの主尊も合掌6手の立像、4のみ3面で「バク」種子がある。5には「バン」の種子が刻まれている。無縁墓地には、恵比須・大黒の丸彫り像がある。
 次いで、青梅街道と所沢街道の分岐点に建っていた庚申塔を訪ねる。現在は、柳沢集会所(本町2丁目21番3号)の前に移されている。多摩地方随1の大型塔の
  6 享保8 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿         148×53×43で、主尊は合掌6手立像、像の上に「ウーン」の種子、両側面には「是より右りはんのふ道」「是より右りあふめミち」の道標銘が刻まれている。
 青梅街道と富士街道の分岐点にある嘉永6年の「弘法大師」塔をみてから、深大寺道を南下する。続いて南町1丁目9番9号にある丸彫の地蔵座像、保谷市柳沢4丁目1番20号角路傍にある文政元年の「馬頭観世音」塔、向台町1丁目10番路傍にある安永7年の馬頭観音座像とすすんで大通りにでる。保谷市新町1丁目2番の路傍には
  7 天明4 柱状型 「ウーン 庚申塔」3猿           (計測なし)が建っている。正面と両側面に道標銘が刻まれている。
 千川上水沿いに歩き、左折して武蔵境通りにはいる。浄水場の近くにある桜橋公園(武蔵野市境4丁目4番)には、国木田独歩の『武蔵野』の一節を記した文学碑がみられる。碑面には「今より三年前の夏のことであった。時分は武友と市中の寓居を出でゝ三崎町の停車場から境まで乗り、其處で下りて北へ真直ぐに四五丁ゆくと桜橋といふ小さな橋がある。」とある。
 JR中央線武蔵境駅の北口で解散し、希望者は杵築大社(武蔵野市境南町2丁目10番)を訪ね、境内にある明治14年に造られた冨士塚を見学する。ここを最後に見学会が終わり、武蔵境駅にむかう。          〔初出〕『平成十一年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成11年刊)所収
田無市の庚申塔年表 田無市庚申塔資料1

   ┏━━━┯━━┯━━━━┯━━━━━━━━━━━━━┯━━━┯━━━━━┯━━━━┓
   ┃元 号│月日│刻  像│銘           文│塔 形│所 在 地│備  考┃
   ┣━━━┿━━┿━━━━┿━━━━━━━━━━━━━┿━━━┿━━━━━┿━━━━┫
   ┃延宝2│2 │日月2鶏│延宝二寅年二月大吉日   │板碑型│芝久保町 │田3  ┃
   ┃   ├──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │3猿蓮華│為 奉 造 立 菩 提 也│   │4−12 │    ┃
   ┃   ├──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │    │新倉田無村領内□□    │   │     │    ┃
   ┃   ├──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │    │喜兵衛(等18名)    │   │     │    ┃
   ┠───┼──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃元禄1│10 │青面金剛│奉造立庚申如意信心施主二世│笠付型│本町3−8│田8  ┃
   ┃   ├──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │    │安楽所 田中□兵衛(等11名│   │総持寺墓地│合掌6手┃
   ┃   ├──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │    │元禄元年戊辰十月吉日   │   │     │    ┃
   ┠───┼──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃元禄13│10 │青面金剛│奉造立庚申供養為二世安楽也│笠付型│芝久保町 │田2  ┃
   ┃   ├──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │日月1鬼│元禄十三庚辰年十月吉日  │   │4−1  │合掌6手┃
   ┃   ├──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │3猿蓮華│同行二十九人       │   │橋場交差点│    ┃
   ┠───┼──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃元禄14│1019│青面金剛│武州多摩郡田無村向台同行廿│笠付型│向台町  │田6  ┃
   ┃   ├──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │日月3猿│二人  庚申供養     │   │3−5  │合掌6手┃
   ┃   ├──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │蓮華  │元禄十四巳十月十九日   │   │石川島工場│    ┃
   ┃   ├──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │    │文化七庚午三月吉日建之再興│   │     │    ┃
   ┃   ├──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │    │田無村 拾二人 講中   │   │     │    ┃
   ┠───┼──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃宝永3│9 │青面金剛│奉造立庚申講供養為二世安楽│笠付型│芝久保町 │田5  ┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │日月3猿│武州多摩郡田無村芝窪   │   │1−13 │合掌6手┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │蓮華  │宝永三丙戌歳九月吉日   │   │庚申塚  │    ┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │    │同行三十人        │   │     │    ┃
   ┠───┼──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃宝永6│11 │青面金剛│奉造立庚申講為二世安楽也 │笠付型│本町3−8│田9  ┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │日月1鬼│宝永六己丑年十一月吉日  │   │総持寺墓地│合掌6手┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │2鶏3猿│武州多麻郡田無村     │   │     │3  面┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │蓮華  │同行三十九人       │   │     │    ┃
   ┠───┼──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃享保5│  │青面金剛│奉造立庚申尊像□□所   │笠付型│本町3−8│田10 ┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │日月1鬼│享保五庚子歳十月□□□  │   │総持寺墓地│合掌6手┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │3猿  │武州多麻郡田無村 二十七人│   │     │    ┃
   ┠───┼──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃享保6│103│青面金剛│奉造立青面金剛尊 田無村 │笠付型│向台町  │田7  ┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │日月1鬼│享保三辛丑歳十月三日   │   │2−13 │合掌6手┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │3猿  │武州多摩郡 講中廿三人  │   │集会所角 │    ┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │    │  文政七申天 世話人□□│   │     │    ┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │    │  八月吉旦  講中十三人│   │     │    ┃
   ┠───┼──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃享保8│10 │青面金剛│是より右りはんのふ道   │笠付型│本町2− │田11 ┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │日月1鬼│奉供養庚申待為二世安楽也 │   │21−3 │合掌6手┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │2鶏3猿│武州多摩郡田無村同行十三人│   │柳和会  │(移転)┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │蓮華  │ウーン享保八癸卯年十月吉日│   │集会所  │    ┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │    │是より左りあふめミち   │   │     │    ┃
   ┠───┼──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃寛保3│111│青面金剛│寛保三癸亥稔十一月朔日  │笠付型│向台町  │(註1)┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │日月1鬼│奉造立庚申尊 講中二十九人│   │4−13 │    ┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │2鶏3猿│武州多摩郡田無村向台   │   │     │    ┃
   ┠───┼──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃延享2│9 │青面金剛│バク 奉造立庚申尊像   │笠付型│本町6−1│田4  ┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │日月2鬼│延享二乙丑天九月吉祥日  │   │シチズン │剣人6手┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │2鶏3猿│武州多摩郡田無村芝久保  │   │時計角  │    ┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │    │講中二十九人       │   │     │    ┃
   ┠───┼──┼────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃年不明│  │青面金剛│ふちうみち 講中□十四人 │笠付型│本町4−9│田1  ┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │1鬼2鶏│□□□□二世安□□    │   │上宿交差点│    ┃
   ┃   │  ├────┼─────────────┼───┼─────┼────┨
   ┃   │  │3猿蓮華│十月□日 多摩郡田無村  │   │     │    ┃
   ┗━━━┷━━┷━━━━┷━━━━━━━━━━━━━┷━━━┷━━━━━┷━━━━┛
     (註1) 八代恒治『三多まの庚申塔』33頁(昭和36年刊)より引用
                   〔初出〕『たま』第2号(三申研究会 昭和45年刊)所収
田無市庚申塔DB 田無市庚申塔資料2

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━年号  特徴                   (備考) 塔形  所在地━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━延宝2 日月「爲奉造立菩提也」2鶏・3猿 (市指定文化財) 板碑型 芝久保町4−12 庚申塚元禄1 日月・青面金剛「奉造立庚申如意信心…」3猿・蓮華  笠付型 本町3−8 総持寺墓地元禄13 日月・青面金剛「奉造立庚申供養…」1鬼・3猿・蓮華 笠付型 芝久保町4−1橋場路傍元禄14 日月・青面金剛「庚申供養」3猿・蓮華(文化7年銘) 笠付型 向台町3−5 路傍宝永3 日月・青面金剛「奉造立庚申講供養為…」3猿・蓮華  笠付型 芝久保町1−13 庚申塚宝永6 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・蓮華 (3面像) 笠付型 本町3−8 総持寺墓地享保5 日月・青面金剛「バン奉造立庚申…」1鬼・3猿・蓮華 笠付型 本町3−8 総持寺墓地享保6 日月・青面金剛・1鬼・3猿 剛尊  (文政7年銘) 笠付型 向台町2−13 集会所角享保8 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・蓮華 (道標銘) 笠付型 本町2−21 柳和会集所寛保3 日月・青面金剛「奉造立庚申尊」1鬼・3猿      笠付型 向台町4−13 路傍延享2 日月・青面金剛「バク奉造立庚申尊像」2鬼・2鶏・3猿笠付型 本町6−1シチズン時計寛延2 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    (道標銘) 笠付型 西原5−1 庚申祠平成2 「庚申塔」                     柱状型 西原5−1 庚申祠年不明 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・蓮華 (道標銘) 笠付型 本町4−9交差点角路傍〔参考〕年不明 「庚申霊」                 板石型 向台町2−13 墓地━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

田無市庚申文献目録 田無市庚申塔資料3

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━編著者   書名・題名・雑誌名                        刊行年━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━赤木  穆 「武蔵野・田無・保谷コース」『野仏』2              昭和45年刊石川 博司 「田無市内を廻る」『たま』2                   昭和45年刊石川 博司 「田無市の庚申塔年表」『たま』2                 昭和45年刊犬飼 康祐 「6月例会 吉祥寺〜田無の石仏見学」『あしあと』20        昭和46年刊田無市教育委員会『田無の石仏』                        昭和52年刊犬飼 康祐 「東京のベッドタウン化すすむ 保谷から田無へ」『野仏』22     平成3年刊石川 博司 「田無を歩く」『平成六年の石仏巡り』               平成7年刊多田 治昭 『田無市の庚申塔』            平成8年刊犬飼 康祐 『私の「あしあと」7』                      平成9年刊石川 博司 「田無を歩く」『平成十年の石仏巡り』               平成10年刊石川 博司 「田無を歩く」『平成十一年の石仏巡り』              平成11年刊舞田 1夫 「庚申塔の邪鬼−江戸西郊の事例」『あしなか』255         平成12年刊━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
      以上の他にも次に掲げる文献に田無の庚申塔が載っている。
多摩広域庚申文献目録

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━編著者   書名・題名・雑誌名                        刊行年━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━八代 恒治 『三多まの庚申塔』                        昭和36年刊石川 博司 『三多摩の庚申塔年表』(庚申塔資料2集)             昭和38年刊石川 博司 『三多摩庚申塔資料』                       昭和40年刊三猿斉一鬼 「三多摩庚申関係文献目録」『ともしび』創刊号        昭和41年刊石川 博司 「東京都の庚申塔数」『庚申』48                  昭和42年刊石川 博司 「付録 三多摩庚申塔資料追録」『ともしび』9           昭和42年刊石川 博司 「多摩庚申資料文献目録」『たま』3                昭和47年刊石川 博司 「都内庚申塔調査文献考」『多摩郷土研究』37            昭和55年刊石川 博司 「東京都の庚申年造塔」『日本の石仏』17              昭和56年刊多田 治昭 『三多摩の百庚申塔』                       昭和56年刊小幡  晋 『多摩の庚申紀行』                        昭和57年刊多田 治昭 『東京都の庚申塔』(改定版は平成5年刊)            昭和63年刊石川 博司 『東京多摩庚申塔資料』                      平成6年刊多田 治昭 『三多摩の庚申塔』            平成7年刊石川 博司 『東京多摩庚申塔DB』                      平成7年刊石川 博司 『多摩庚申塔夜話』改訂版                     平成9年刊━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
                  『東京多摩庚申塔DB』(ともしび会 平成7年刊)を追補
田無の青うめ市1 田無・青うめ市調査

 田無では、6月11日・16日・21日・26日・7月1日の1の日と6の日に青うめ市が開かれる。梅干しや梅酒に使う青梅を総持寺の門前で売る市である。
 平成10年6月26日に田無の青うめ市を訪ねた。田無山総持寺(本町3−8−12)の門前には梅を売る露店が2軒、団子を商う露店が1軒の計3軒が店を開いている。梅の露店の1軒は、川越市今福からきたという北田さん、この市に出て50年という。他の1軒は、テキ屋の系統である。
 北田さんは、群馬の山から前日に取ってきたという青梅を店に並べている。店は朝8時に開け、主に午前中に商売して午後は暇だという。現在、店に出ている青梅の種類は、甲南と白加賀の2種である。甲南がkg当たり700円と800円、白加賀が300円と400円である。その他に5kgに使える「揉み紫蘇」が300gで500円、白加賀の梅干しがパック入りで1個400円(3個で1000円)である。
 商売の合間に北田さんと話をする。北田さんは、昔、青梅の梅郷で梅干しを売ったことがあるが、安売りしたために嫌われて店が出せなくなったことがあるという。一時期は梅郷から梅を買っていたが、梅の出来が遅いので昭和23、4年ごろから群馬から買うようになった。当時、群馬では梅の実を竿で落とすのが主流で、kg当たり20円で出荷していた。竿では梅の実が痛むので、手摘みならkg90円と高値で買うといって集めたので、かなりの量が集まった。
 北田さんが店を出し始めた頃は、青梅街道沿いであったが、次第に多くなる車に街道から総持寺の境内に移り、山門が完成してからは現在のように参道に場所を移動した。本堂前の頃には、大きな木が日除けになって涼しかったが、現在の場所ではテントで日除けにしている。
 北田さんは、ここ以外にこの時期、所沢の旧市役所付近で3日と8日の市で梅を販売している。6月28日には、高幡不動(日野市)で奈良漬けを中心に梅干しなど漬物を売るという。高幡はかなりの売上があるらしい。
 総持寺墓地や西原にある庚申塔をみてから、田無・青うめ市についての資料がないかと田無市立中央図書館(南町5−6−11)を訪ねた。『田無市史 第4巻 民俗編』(市史編さん室 平成6年刊)や『田無宿風土記』(下田富宅 昭和53・57年刊)3冊をみても田無・青うめ市にふれていない。司書にお願いして該当する本を探していただいたの次に示す3冊である。
 中原幹生さんの『東京の市と縁日ガイド』(実業之日本社 昭和56年刊)には、昭和54年当時の状況が記されている。当時売られていたのは梅の実・紫蘇の葉、それに泥付きラッキョウである。梅の実は400kgの出品で、kg当たり300円から450円など4段階くらのランクがあった。また昭和54年6月26日(火)の取材ノートが載っている。午前7時15分から9時30分までの動きがメモされている。8時に店開きしているから、現在も当時と変わっていないようである。「最近は10時がピーク。良いモノを買うなら少し早目が得策のようだ」とアドバイスしている。
 川端誠さんの『東京市暦』(リブロポート 平成2年刊)には、「青うめ市(6月1と6の日)田無市総持寺」のタイトルで版画2点を載せ、「6月上旬とえば梅の季節であるが/青うめの実を商う市は都内でも珍しい/市と呼ぶにはあまりにも小規模だが/それでも1と6のつく日山門の外で開かれ/ゴザの上に青うめば山積みされて売られる」の説明をつけている。この絵をみると、値段表に「1キロ 織姫 1000えん」とあり、店の端には「砂丘らっきょう」の箱が積まれ、1K500円の札がみられる。店の上部に「梅酒一升漬には/梅は1・5キロです」や「梅酒の/作り方/梅1・5キロ/ホワイトリカー1・8l/氷砂糖1kg」の表示がみられる。
 小峰順誉師の『五色の日記』(田無山総持寺 昭和57年刊)には、232頁に「六月は、青梅市、苗木市、植木市、サツキの展示会と、それぞれ賑わいをみせる。青梅市では梅酒や梅干しを作る梅が売られ、6、7年前から時折フジテレビで中継された」と、極簡単に記されている。
 別にこの青うめ市に限らず、達磨市にしても意外にわからないことが多い。家に帰ってきてから佐藤高さんの『ふるさと東京 江戸風物誌』をみると、青うめ市について145頁に記している。室町時代の毎月1と6の日に開かれたという「観音市」の名残としている点が注目されるが、田無にその頃に市立でがあたのであろうか。
   〔付 記〕
    翌日(27日)に青梅中央図書館で『田無市史 第4巻 通史編』(平成8年刊)を調べる
   と、743頁に「図2−18 現在も続いている恒例の梅の市(総持寺境内 1987)」の説
   明文のついた写真が載っている。その前の頁で「田無では、すでに1858年(安政5)に市
   場が設けられ、1872年(明治26)に改めて毎月1および6のつく日の市場開設が神奈川
   県によって認められた」とある。この裏付けとなるのが、『田無市史 第2巻 近代現代資料
   編』(平成4年刊)に載る161の文書である。
    昭和52年に『田無のむかし話 年中行事について』が田無市から刊行され、その中でも「
   青うめ市」が古老の話に出ていない。これが尾をひいているのと「富3郎日記」(大正15年
   )に記載がないことから『田無市史 第4巻 民俗編』も青うめ市を無視したと思われる。総
   持寺境内で3月1日と4月1日に行われる達磨市にふれながら、青うめ市を取り上げないのは
   不可解である。
    なお同館にある『東京の市と縁日』(婦人画報社 平成6年刊)69頁に「青梅市 田無」
   で紹介されている。これには青梅街道沿いにある古くから立つ六斉市の名残としている。日取
   りからみて、達磨市と同様に青うめ市が1・6日の六斉市と関係のあったことはうかがえる。
               〔初出〕『平成十年の祭事記』(ともしび会 平成10年刊)所収
田無の青うめ市2 『まつり通信』掲載記事

 東京都田無市では、総持寺(本町3丁目8番12号)の門前で6月11日・16日・21日・26日・7月1日の1と6の日に青うめ市が開かれる。この市で梅干しや梅酒に使う青梅が売られる。
 このような1・6の日取りは、江戸末期以降に田無で行われていた6斉市の名残である。数年前からは、白加賀や南甲などの早生の梅が出回るようになって、6月6日に市を開くようになった。
 田無山総持寺の門前には梅を売る露店が2軒、団子を商う露店が1軒の計3軒が店を開いている。梅の露店の1軒は、川越市今福からきたという北田仲次さん、この市に出て50年という。他の1軒は、テキ屋の系統である。
 北田さんは、群馬の山から前日に取ってきたという青梅を店に並べている。店は朝8時に開け、主に午前中に商売して午後は暇だという。現在、店に出ている青梅の種類は、南甲と白加賀の2種である。
 平成10年の北田さんの場合は、南甲がkg当たり700円と800円、白加賀が300円と400円である。300円の白加賀は、3kgで1000円と割引になる。
 青梅の他に「揉み紫蘇」が300gで500円である。この1パックで梅5kgを目安に使えるが、種類によっては多少の増減が必要という。揉み紫蘇は、少なくても古いストッキング3個に分けて入れ、上・中・下の3ヶ所に置くと紫蘇を除く手間が省ける。
 青梅だけでなく、店には梅干しが置いてある。白加賀の梅干しがパック入りで1個400円、3個で1000円と割安になる。市販されている梅干しには、梅干調味液が使われるが、北田さんの自家製にはこうした液を使っていない。
 北田さんは昔、東京都青梅市梅郷で梅干しを売ったことがあるが、安売りしたために業者に買われたり、嫌われて出店できなくなったという。1時期は青うめ市のために梅郷から梅を買っていたが、梅郷は梅の出来が遅いので昭和23、4年ごろから群馬から買うようになった。当時、群馬では梅の実を竿で落とすのが主流で、kg当たり20円で出荷していた。市では傷んだ梅の実は売れない。そこで竿では実が痛むので、手摘みならkg90円と高値で買うといってかなりの量を集めた。
 北田さんが店を出し始めた頃は、青うめ市が青梅街道沿いで開かれていたが、次第に多くなる車に街道を追われて総持寺の境内に移り、山門が完成してからは現在のように参道に場所を移動した。本堂前に店を出していた頃には、大きな木が日除けになって涼しかったが、現在の場所ではテントを張って日除けにしている。
 北田さんは、ここ以外にこの時期、埼玉県所沢市有楽町の旧市役所付近で3日と8日の市で青うめを販売している。不動明王の縁日の6月28日には、東京都日野市の高幡不動(金剛寺)で奈良漬けを中心に梅干しなどの漬物を売るという。高幡は、田無の青うめ市以上にかなりの売上が見込めるらしい。
 隣の店先には、青梅以外に「鳥取砂丘らっきょう」「1K700円」の札をつけて売っている。北田さんは市場を通したものは扱わないから、ラッキョウの販売はしていないがお客さんから注文があれば取り寄せている。   〔初出〕『まつり通信』第460号(まつり同好会 平成11年刊)所収

あとがき
      
       現在は「田無市」が保谷市と合併して「西東京市」となったために存在しない。過去
      の記録としてまとめた本書は、先に発行した『田無を歩く』(庚申資料刊行会 平成10
      年刊)に「田無市庚申塔DB」や「田無市庚申文献目録」などを加えた増補版である。
       田無市内(現・西東京市田無地区)の庚申塔との付き合いは、本書に収録した「田無
      を廻る」の冒頭に書いたような次第である。その後、昭和56年4月19日に多摩石仏
      の会で市内を廻り、向台町の持宝院の五大明王・不動八大童子・不動三十六童子など不
      動明王に関連のある石佛を調べる。次いで昭和60年4月14日に庚申懇話会で保谷市
      内を歩いた時に田無まで足を延ばし、持宝院を訪ねている。さらに同月21日に持宝院
      を再訪して境内の石佛を調査した。
       平成に入ってからは、前記のように6年11月13日の多摩石仏の会例会、10年6
      月26日の青うめ市見学の2回田無を歩いた。ここまでは前書『田無を歩く』の「あと
      がき」に記した通りで、それ以後は庚申懇話会の平成11年12月例会だけである。
       田無に比較的関心が薄いのは、1つには魅力的な庚申塔がないから中々1人だけで歩
      かず、見学会の同行になる。その中でも向台町・持宝院にある不動明王に関連した石佛
      は興味があって3度訪ねている。その結果は日本石仏協会編の『日本石仏図典』(国書
      刊行会 昭和61年刊)で五大明王と八大童子の項目で紹介している。
       庚申塔と青うめ市の取り合わせは妙でミスマッチだが、同じ田無という風土に根ざし
      ているので敢えて一書にまとめた。参考になれば幸いである。

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                              田無の庚申塔を歩く
                              発行日 平成17年 1月30日
                              発行日 平成17年12月18日
                              著 者 石  川  博  司
                              発行者 庚 申 資 料 刊行会
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