石川博司著    穂高道祖神巡り      発行 庚申資料刊行会
目次     ◎ 道祖神サイクリング   ◎ 松川村と穂高駅前        ◎ 穂高の道祖神巡り    
      あとがき
道祖神サイクリング  ―─安曇野・穂高町を回る──

 長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)は、北アルプスの東麓にひろがる安曇野のほぼ中央に位置する。現在の町は、昭和29年に穂高町と北穂高村・西穂高村・有明村の4カ町村が合併してできた。町の観光のポイントは、穂高神社と 山美術館それにワサビ田である。最近では道祖神を訪ね歩く人も増えてきたし、松本から道祖神巡りの定期観光バスも運行されている。穂高へは松本からJR大糸線、あるいはバスを利用する。
 石田益雄氏の調査(『道祖神を訪ねて 穂高』)によると、この穂高町には双体道祖神が84基と文字道祖神が41基の合計125基の道祖神があるという。この町の双体道祖神は、男女2神が仲よく肩を組んでいる。睦じく肩を抱きあって前で手を握りあう握手像と、盃と瓢あるいは酒器を持つ酒器像(祝言像)の大きく2つにわかれる。その割合は握手像が57基に対して酒器像が23基である。その他に笏と扇を持つものが2基、像が欠損して不明なものが2基ある。
 この町の道祖神の特徴として石田氏は
   1 双体像が多い。
   2 花崗岩の自然石を用いて造られたものが多い。
   3 屋根のついた柵の中に祀られているところが多い。
   4 彩色された道祖神が多い。
   5 「帯代」を刻まれた像碑、文字碑の多いこと。
   6 南安曇郡に特有のよく似た像容の道祖神が多くあり、「南安曇型」として
       1  飾り文字型
       2  細 萱 型
       3  山 崎 型
     のように分類できる。
   7 個人が施主となって造立し、所有されている道祖神が多いこと。の7項目を挙げている。
 JR穂高駅前にある商店には、自転車を貸してくれる店が4軒ある。さっそくレンタサイクル(1時間300円、1日1500円)で町内の道祖神を回ってみよう。道祖神巡りのコースは、観光案内所でくれる道祖神のガイドマップを基にして作っくてもよい。案内所は、夏期や5月と10月の連休の間しか開いていないから、閉まっている時には町役場の商工観光観光課(電話 0263ー82ー3131)に問い合わせるとよい。大体のコースができたらマップを持ってサイクリングに出発する。ここでは穂高駅を中心に比較的短時間に多くの道祖神を見学できる穂高・西穂高地区のコースを設定しておいたので、参考までに示しておくと
   番号 所在地   年  銘  西  暦  種 別   彩色
   1  神田町   天保12年  1841  握手像   彩色
   2  等々力   文政2年  1819  酒器像
   3  等々力   文政2年  1819  握手像
   4  等々力   明治19年  1886  「道祖神」
   5  等々力   明治18年  1885  握手像
   6  等々力   天保10年  1839  握手像
   7  矢 原   安政5年  1858  酒器像
   8  矢 原   年代不明        握手像
   9  矢 原   元治1年  1864  酒器像   彩色
   10  矢 原   明治25年  1892  酒器像   彩色
   11  矢 原   文政2年  1819  握手像
   12  矢 原   明治30年  1897  握手像
   13  矢 原   元治元年  1864  握手像   彩色
   114  柏矢町   元治元年  1864  握手像   彩色
            年代不明        「道祖神」
   15  柏原中下  天保13年  1842  握手像
   16  柏原長野  安政6年  1859  酒器像
   17  柏原長野  文政4年  1821  「道祖神」
   18  柏原中村  年代不明        握手像
   19  柏原倉底  寛政8年  1796  像損傷
   20  柏原神田  天保13年  1842  握手像
   21  柏原倉平  安政3年  1858  酒器像
            安政2年  1855  握手像
   22  三枚橋   文政14年  1831  握手像
            文政4年  1821  「道祖神」
   23  神田町   慶応2年  1866  酒器像   彩色である。21から足を伸ばして
   24  田 中   文政7年  1824  握手像   彩色
   25  本 郷   安政5年  1855  握手像   彩色
   26  本 郷   天保4年  1833  握手像   彩色
   27  本 郷   安政5年  1858  握手像   彩色の彩色握手像を回るのも興味あるコースである。彫りを深くしても平板にみえる白い花崗岩の石質が彩色の習慣を生んだのではなかろうか。町内には今で祭りの時に色がぬられたり、塗られた色が残っているものが15基程あるそうで、24から27まで加えたこのコースで彩色道祖神の大半はみられる。
 ここでは道祖神だけを示したが、例えば1には二十三夜塔や馬頭観音がみられるし、24には同年の二十三夜塔がある。27には彩色された恵比須と大黒天が並んでいるから、道祖神を楽しむと同時に他の石仏にも目を向けてほしい。
 町内では、道祖神の祭りが行われている。正月には柏原の倉平で御柱がたつし、2月には矢原の東村や中村で、神田町では8月の初旬に道祖神の祭りがある。それぞれの木戸で月をちがえ、日をたがえて道祖神の祭りを行っているから、機会を逃さずに見学し、地元の人たちに祭りについていろいろと聞くとよいだろう。ただ道祖神を巡るのもよいけれども、どのような信仰が残っているのか、どのような祭りがあるのか、を知ると、一層、道祖神についての興味が深まってくる。さらに同じ長野県内の佐久地方や諏訪地方の傾向の異なる道祖神、できるならば群馬や神奈川・山梨・静岡など他県の道祖神を見て比較すると、安曇野の道祖神の特徴がよくわかってくる。
                〔初出〕『野仏』第19集(多摩石仏の会 昭和63年刊)所収
                〔再録〕『全国、石仏を歩く』(雄山閣出版 平成2年刊)所収
松川村と穂高駅前

 平成19年8月28日(火曜日)は、妻と2人で長野県北安曇郡松川村を訪ねる。目的は、村内にある安曇野ちひろ美術館である。美術館は絵本作家として活躍したいわさきちひろ(1918〜1974)の絵本原画や油絵など、ちひろの画業を紹介する。
 JR大糸線信濃松川駅で下車。駅員に美術館まで徒歩でどの位の時間がかかるかと聞くと、25分位と答えが返ってくる。この位の時間なら歩くのが適当と思い、美術館へ向かう。途中で早めに左折したために多少は大回りになるが、それが却って幸いする。
 大門橋を渡り、旧道から松川神社の境内に入る。境内と安曇野ちひろ公園の第1駐車場の間に、次の2基が並んでいる。
  道1 平成5 自然石 双体道祖神                77×60
  廾1 平成5 自然石 「二十三夜塔」              93×43
 道1は、表面に童風の男神(像高41cm)と女神(像高39cm)が握手する像を浮彫りする双体道祖神である。裏面に「平成五年十一月吉日建之」の年銘を刻む。
 廾1は、表面に「二十三夜塔」の主銘、裏面に隣の双体道祖神と同じ「平成五年十一月吉日建之」の年銘を彫る。双体道祖神と共に平成の造立である。
 安曇野ちひろ美術館でちひろの画業や世界の絵本、巻物や浮世絵などのコレクションを拝観した後で駅に戻る。帰り道は往路と違ったコースを進む。これも往路と同様に、多少大回りして矢地橋を渡り、国道を越えて駅に出る道を選ぶ。結果的には多少時間がかかったが、下屋敷公会堂の敷地に並ぶ次の3基をみる。
  道2 年不明 光背型 双体道祖神                43×31
  道3 年不明 自然石 双体道祖神                67×60
  廾2 文政4 自然石 「二十三夜」              106×47
 道2は、頂部が欠けた正面に男神(像高34cm)と女神(像高33cm)の袖入り(握手)像を円内に浮彫りする双体道祖神である。牛越嘉人さんの『北安曇の道祖神』(柳沢書苑 昭和48年刊)によると、8頁の「松川村の道祖神分布図」の所在位置、写真説明の「新屋敷11」(12頁)と「同19」(15頁)が寸法の誤差が同じか1cmであるから、道2と道3の所在地が「新屋敷」と記載されている塔に符合する。次の道3と同じく年銘は見当たらないが、牛越さんは道2を「明治二」(12・147頁)と読んでいる。
 道3は、正面に男神(像高40cm)と女神(像高39cm)の祝言像(酒器持ち像)を浮彫りする双体道祖神である。年銘は『北安曇の道祖神』と同様に不明である。
 廾2は正面に主銘の「二十三夜」、裏面に年銘の「文政四巳年十一月」がみられる。
 松川村の道祖神に関しては、私の知るかぎりでは前記の『北安曇の道祖神』が参考になる。松川村の道祖神は一般書や研究書に少ないようである。『安曇野と道祖神』(文一総合出版 昭和54年刊)25頁に椚原の道祖神2基を撮った写真が載っているが、説明に「北安曇郡松川村椚原 (左)天保2(1831)(右)正保元(1644)」(原文は横書き)とある。
 写真をみても正保元年の双体道祖神とは思えない。牛越さんは書中で次のように記している。
   ・正保元年のものはずっと後の作
    緑町から少し北西に入った椚原に、正保元年(1644)と造立年を刻んだ道祖神がある。(写真
   1)銘より見ると、池田町会染中島の弘治(1556)についで北安曇で二番めに古いことになる。
   然し次のような点から、この道祖神はずっと後の、慶応〜明治頃の作と思われる。その1つは
   、銘に「正保元甲申年安置夫より三代之尊神」とあること、次に、像の彫りが穂高町宮城の慶
   応元年(1865)のものや松川村新屋敷の明治2年(1869)のものと極めてよく似ており、同じ頃同
   一石工によって彫られたものと考えられること、もう一つは「帯代三十五両」とあることであ
   る。帯代は普通あまり古いものには無く、文政七年(1824)池田町陸郷天地のものが初めてで、
   天保末(1840)から盛んに見られるようになっているからである。(147頁)
 この文章からみると、年銘に「正保元甲申年」とあり、実体はこの年銘に適合する造像でないと指摘している。椚原の正保元年像はみていないが、写真を一見しておかしね年銘と感じる。

 信濃松山駅から大糸線上り電車に乗車、午後4時頃に穂高駅に着く。駅前にホテルの送迎バスがくるで40分ほど時間があるので、駅前周辺の道祖神巡りを行う。先ず、駅前にある次の道祖神からである。初めて穂高を訪ねた昭和54年8月12日、すでに駅舎近くに双体道祖神があった。次は平成7年4月18日、この時は短時間で駅周辺を周辺を廻り、穂高神社の道祖神を訪ねた。今回は3回目である。
  道4 年不明 自然石 双体道祖神               113×101
 4は男神(像高52cm)と女神(像高46cm)の握手像である。背面をみたが銘文はない。
 駅前の看板に2体とあるが、後の1体がわからない。穂高駅前案内所に寄って聞くと、パソコンスクールの前にあるという答えがある。道祖神巡りの無料マップをもらい、ついでに「道祖神めぐり」のマップを購入(200円)する。駅前の1基は後回しにして穂高神社へ向かう。
 40分程の時間で廻れるのは、この神社にある道祖神である。前回みているから簡単にわかると思ったのが間違いで新しい大鳥居から境内へ入り、ザット境内をみても見当たらない。神社の入口までいくと、次の2基が並んでいる。この時は近くの穂高支所にある双体道祖神には気付かなかった。
   1 寛政7 自然石「庚申」                  99×65
  道5 年不明 自然石 「道祖神」                97×73
 1は正面に「庚申」の主銘、裏面に「寛政七乙卯八月吉日」の年銘を記す。
 道5は正面に「道祖神」の主銘だけで、裏面にも年銘はみられない。
 もっとも、この日3回目の間違いが幸いを呼び、前2回にみなかった庚申塔の発見につながる。
 神社の駅前通りの別の入口から入ると、道祖神群がみられる。
   6 年不明 自然石 双体道祖神                55×46
 6は正面を丸く彫り下げ、中に男神(像高38cm)と女神(像高37cm)の酒器像を浮彫りする。
   7 年不明 柱状型 双体道祖神                78×43×27
 7は正面を花頭形に彫り下げ、中に男神(像高34cm)と女神(像高32cm)酒器像を浮彫りする。
  廾3 文政7 自然石 「二十三夜塔」              59×47
 廾3は正面の中央に大きく「二十三夜塔」の主銘を彫り、その右に「文久七酉□」、左に「9月吉日」の年銘を記す。年銘「□」の部分に「山」と「二」の2字にしているが、「年」を示すものか。
   8 光背型 自然石 双体道祖神                71×37×
 8は女神(像高46cm)と男神(像高47cm)の酒器像を陽刻する。
 以上の4基は、八坂村(現・大町市)から移されたものである。「千国街道(塩の道)と道祖神」の立て札には、「過疎の村里に取り残された道祖神、二十三夜塔を関係者の願いにより由緒の深いこの場所にお祀りいたしました」と記されている。いずれも四手を下げる。
   9 年不明 笠付型 双体道祖神                46×27×18
 9は女神(像高36cm)と男神(像高36cm)の双立像を浮彫りする。四方に角柱を立て、萱の屋根を付け、前柱に縄を張って四手を下げる。この塔の脇に、次の文章を記す説明板が立つ。
   この道祖神は、元は北安曇郡美麻村高出品生にあり、昔から縁結びの道祖神として信仰され、
   一年に一月一五日の道祖神祭を行われていた道祖神です。
 説明文の中にある「美麻村」は、現在は大町市に編入している。
   10 年不明 自然石 双体道祖神                76×37
 10は上部に3角形、続く長方形の枠の中に男神(像高39cm)と女神(像高29cm)の酒器像を浮彫りする。4方に丸柱を立て、萱の屋根を付け、前柱に縄を張って四手を下げる。
   11 年不明 自然石 双体道祖神                73×38
 11は女神(像高36cm)と男神(像高43cm)の2神がが餅を搗く双体道祖神である。杵を持つ男神の横に「道祖神」とある。次の文章を記す説明板が脇に立っている。
   餅搗き道祖神の由来
   群馬県安中市東上秋間二軒茶屋に餅を搗いている男女の双体石像寛政八年(1796)と銘が
   あり、部落では昔から道祖神として崇められてきた。
   杵を男性、臼を女性に見立て、男女の睦事を「餅搗き」とし、夫婦円満の神として祀った。道
   祖神に餅搗き像を思いついた江戸時代の庶民感覚に感心する。
   餅は祭りの供物として最も多く用いられ、又人生の吉凶禍福に餅を搗いて供えられることは極
   めて多い事である。                  寄贈 穂高町有明 田川 博氏
 松本信金穂高支店前に石佛群があるのは、先の鳥居を入る時に気付く。穂高神社の斜め駅寄りあるので反対側の穂高支店前に行く。これらは今回初めてみるものである。
   2 明治28 自然石 「庚申塔」               (計測なし)
   3 年不明 自然石 日月「青面金剛」             95×43
  大1 年不明 自然石 「大黒天」               (計測なし)
  廾4 年不明 自然石 「二十三夜塔」              67×29
  廾5 年不明 自然石 「二十三夜塔」             (計測なし)
  道12 明治19 自然石 双体道祖神                62×42し)
  道13 昭和8 自然石 「道祖神」               (計測なし)
  道14 文政14 自然石 「道祖神」               (計測なし)
 2は中央には「庚申塔」の主銘、下に「講中/六人」の施主銘、右には「明治廾八乙未」、左には「六月廾九日」の年銘を刻む。
 3は中央に「青面金剛」の主銘を彫る。
 大1は主銘が「大黒天」の文字塔である。
 廾4と廾5は中央に「二十三夜塔」の主銘である。
 道12は男神(像高28cm)と女神(像高27cm)の握手像、年銘は読んでいないので「道祖神めぐり」の「穂高町の道祖神1覧」による。次の2基も同じ。
 道13と道14は、外からみただけで中央に「道祖神」の文字塔である。
 駅近くの田舎家の前面には、次の双体道祖神がある。計測は翌日行った。
  道15 年不明 自然石 双体道祖神                64×66
 道15は男神(像高33cm)と女神(像高31cm)の双体道祖神を浮彫りする。この双体像は、すでに昭和54年にみている。
 駅前に戻ると、送迎バスが待っている。広場にある松の木の下には、案内所で聞いた次の道祖神ある。これを慌ただしくみてバスに乗車する。
  道16 昭和60 自然石 双体道祖神               112×90
 道16は男神(像高59cm)と女神(像高56cm)の握手像である。裏面の「昭和六十年」の年銘を確かめたが、平成7年の時は裏面の銘文には気付かなかった。計測は翌日に行う。(平成19・8・30記)
             〔初出〕『石佛雑記ノート13』(多摩野佛研究会 平成19年刊)所収
穂高の道祖神巡り

 平成19年8月29日(水曜日)は、ホテル午前9時30分発の送迎バスで穂高駅前にでる。途中、烏川に架かる烏川橋の親柱4本に双体道祖神が使われている。この親柱の道祖神は、平成7年に穂高を再訪した時にみた。
 日本石仏協会の『日本の石仏』第103号(平成14年刊)は「道祖神再考」の特集である。その号に「双体道祖神今昔」を投稿、その中の47頁に次のように記した。
   穂高駅からホテルまでの送迎バスの車窓から、烏川橋の4か所に標柱代わりに自然石の双体道
   祖神が置かれているのがみえた。車窓からみただけなので、造立の年月は不明である。
 文中の「穂高駅からホテルまで」は記憶間違い、今回と同様に逆の「ホテルから穂高駅まで」が正しい。この日、大王わさび農場から「水色の時」の道祖神へ向かう途中、等々力大橋の4か所に親柱代わりに双体道祖神が4基使われている。
 穂高駅で帰りの切符を手配し、観光案内所で大王わさび農場までの時間などの情報を得る。その中で農場に中に双体道祖神6基があると聞き、大きな収穫となる。10時に近くの久田自転車店で自転車を借り、大王わさび農場へ向けて出発する。
 東光寺の手前の等々力路傍には、次の2基が並んでいる。
  道1 文政2 自然石 双体道祖神               104×68
  廾1 文政2 自然石 「二十三夜塔」             123×94
 道1は3角屋根の下に縦長の長方形の枠を作り、その中に男神(像高44cm)と女神(像高43cm)の酒器像、右脇に「若者中」、左脇に「文政二卯年/二月吉日」の年銘を刻む。
 廾1は正面に主銘の「二十三夜塔」、背面に「維時文政二己卯年/二月廾四日」の年銘を彫る。
 次に訪ねたのは等々力・東光寺、入口にある石垣の基壇の上に次の石佛4基が並んでいる。
  道2 文政2 自然石 双体道祖神                86×53
  廾2 安政6 自然石 「弐十三夜塔」              83×47
  大1 元治1 自然石 「大黒天」                76×61
   1 年不明 光背型 (頂部決)青面金剛            90×44
 道2は道1同様に縦長の長方形の枠内に男神(像高36cm)と女神(像高36cm)が握手する立像を陽刻し、横に「文政二己卯年/二月吉日/内堀若者中」の銘がみられる。
 廾2は正面に「弐十三夜塔」の主銘、裏面に「安政六未十月吉日」の年銘を記す。
 大1は正面に「大黒天」、背面に「元治元甲子/十一月吉日/下村中」の年銘と施主銘を彫る。
 1は頂部が欠けて首がセメントで補修された剣人6手立像(像高71cm)を浮彫りし、日月や3猿は見当たらず、銘文もない。
 大王わさび農場までは妻と一緒に自転車で行動したが、駐輪場からは別行動をとる。場内にある案内図に石佛の場所が示されている。魏石鬼八面大王立像と脇侍の鬼坐像の丸彫り3体をみてから、先ず1基の所へ行く。
  道3 現代作 自然石 双体道祖神                68×101
 道3は、男神(像高41cm)と女神(像高41cm)が握手した坐像である。
 次いで、駅前の観光案内所で聞いた双体道祖神6基が並ぶ場所を訪ねる。
  道4 現代作 自然石 双体道祖神                74×97
 道4は、半円の中に男神(像高36cm)と女神(像高31cm)の酒器像を浮彫りし、道3と異なり以下の6基共に立像である。
  道5 現代作 自然石 双体道祖神                90×71
 道5は、上部が丸みを帯びた枠の内に男神(像高47cm)と女神(像高41cm)の握手像を陽刻する。
  道6 現代作 自然石 双体道祖神                98×82
 道6は円を彫り込み、中に男神(像高48cm)と女神(像高45cm)が合掌立像を浮彫りする。
  道7 現代作 自然石 双体道祖神               182
 道7は、道5のように上部が丸みを帯びた枠の内に男神(像高95cm)と女神(像高72cm)の酒器像を浮彫りする。
  道8 現代作 自然石 双体道祖神               108×111
 道8は、円の枠の中に男神(像高47cm)と女神(像高41cm)の握手像を陽刻する。
  道9 現代作 自然石 双体道祖神                76×92
 道9はこれまでの枠と違い、下部が広い5角形の枠内に男神(像高38cm)と女神(像高36cm)の握手像を浮彫りする。
 続いて場内を廻ると、レストランの近くに次の道祖神がある。
  道10 現代作 自然石 双体道祖神               106×50
 道10は上部が縦に3つ、横に4つのの12の格子窓があり、下の花頭状の彫り込みの中に男神(像高37cm)と女神(像高36cm)の袖入れ握手立像を陽刻する。
 場内にはもう1基、ワサビ田をバックに次の双体道祖神がみられる。
  道11 現代作 自然石 双体道祖神               (計測なし)
 道11は、花頭状の彫り込みの枠内に男神と女神の握手像を浮彫りする。
 大王わさび農場を出て交差点を右折、MHKの朝ドラ「水色の時」の画面に登場した道祖神へ向かう。途中の等々力大橋の親柱には、朝のバスでみたように双体道祖神が用いられている。
  道参 現代作 自然石 双体道祖神               142×179
 道参は橋を渡った左側の1体で、男神(像高97cm)と女神(像高100cm)の握手像、現代の作に間違いないが、橋の竣工が平成6年だから、他の3体共にその頃に作られたと像と推測される。
 等々力・道祖神公園には、「水色の時」の画面に出た道祖神が大小2基ある。
  道12 昭和53 自然石 双体道祖神                63×30
  道13 昭和53 自然石 双体道祖神                43×20
 道11は男神(像高47cm)と女神(像高43cm)の握手像、年銘は刻まれていないが、道祖神めぐりの「穂高町の道祖神1覧」によると、昭和53年と記されている。
 道12は男神(像高29cm)と女神(像高26cm)の握手像、年銘は前の像と同じく1覧による。道11と頭部や顔面に違いがみられ、像の周りの彫りが荒い。
 道祖神公園から気の向くままに進んだのが災いし、方角がわからくなる。地元の方に教えていただき、やっと国道へ出て矢原を目指す。またも道を間違えて白金に出て、泉柳庵近くにあるトタン屋根の下、石垣の基壇の上に並ぶ次の石佛3基をみる。
   2 年不明 光背型 日月・青面金剛・2鶏・2猿        77×36
  道13 文化3 自然石 双体道祖神                64×37
  廾3 天保6 自然石 「二十三夜塔」             127×61
 2は上方手に剣と宝珠、下方手に索と人身を執る変則的な剣人4手立像(像高55cm)、下部に向かい合わせの2鶏と2猿(像高14cm)を浮彫りする。
 道13は屋根部と軒や柱が線刻され、縦長の枠の中に男神(像高34cm)と女神(像高33cm)の握手像があり、右脇に「文化三丙寅正月」の銘がある。
 廾3は正面に「二十三夜塔」の主銘、背面に「天保六乙未年/二月吉日/村中」と記す。
 道を返して矢原に入り、先ず覆屋根の下にある次の彩色された道祖神をみる。
  道14 明治25 自然石 双体道祖神                89×85
 道14は空色の着物の男神(像高52cm)と青の着物の女神(像高52cm)の彩色酒器像、両神とも神は黒で顔や首は白で彩られている。頂部に丸に一つ矢の紋、右縁に「明治廾五年」、左縁に「辰二月吉日」、下部に横書きで「中木戸」と彫る。紋は白、銘文は黒で彩色されている。
 中木戸に続き、次いで矢原西村の彩色像をみる。
  道15 元治1 自然石 双体道祖神                98×87
 道15は男神(像高48cm)と女神(像高47cm)の彩色酒器像、冠や髪は黒、顔は白で眉や目は黒である。男神は水色、女神はピンクの着物で杯と瓠は金色で彩色されている。右縁に「甲元治元年」、左縁に「子四月吉日」、下部に横書きで「西村中」と記す。頂部の丸に一つ矢紋と銘文が黒である。
 次は東村の双体道祖神である。
  道16 明治30 自然石 双体道祖神                87×82
 道16は男神(像高42cm)と女神(像高41cm)の握手像、中木戸のように頂部に丸に一本矢の紋、右縁に「明治三十年」、左縁に「酉三月吉日」、下部に横書きで「東村中」と刻む。
 続いて覆屋根の下に安置されたこじんまりした次の道祖神。
  道17 年不明 自然石 双体道祖神                42×30
 道17は男神(像高21cm)と女神(像高19cm)の握手像、銘文はみられない。
 次に、覆屋根に下で木柵に囲まれている北村の道祖神をみる。
  道18 安政5 自然石 双体道祖神                96×82
 道18は男神(像高54cm)と女神(像高54cm)の握手像、頂部に紋がなく、右縁には「安政五午年」、左縁には「正月吉日」、下部に横書きで「北村中」とある。
 次は今回最もみたかった彩色像で、トタン屋根の下で木の柵に囲まれて安置されている。隣には二十三夜塔がある。
  廾4 年不明 自然石 「二十三夜塔」              67×48
  道19 元治1 自然石 双体道祖神                89×79
 廾4は正面に「二十三夜塔」の主銘を刻む塔である。
 道19は男神(像高54cm)と女神(像高52cm)の彩色握手像、下部に横書きで「仲間中」とあり、背面に「元治元甲子四月吉日/矢原村」と彫る。カラー写真向きの双体道祖神で、今回初めてカラーで撮る。男神は空色の着物に白の袴、女神は白襟がつく赤の着物である。両神共に冠や髪を黒、眉と目も黒、唇に紅をさして黒の履物である。
 モノクロ写真ではすでに昭和54年に撮り、庚申懇話会編『全国、石仏を歩く』(雄山閣出版 平成2年刊)137頁に掲載した。
 この道祖神については、地元の石田益雄さんは『道祖神をたずねて──穂高』(出版・安曇野 昭和53年刊)の「穂高の神々」の最初に掲げ、11頁から次頁にかけて、次のように述べている。
   この神を見る人は、きっとカラー写真をで撮影したくなる。男神は青や水色、女神は赤やピン
   クや黄色と、エナメルのように光沢のある塗料で彩色され、肌の色までついて、目はパッチリ
   と口紅もきかせてあり、あたかも3月の雛人形を思わせる装いであるからだ。冠や髪、履物や
   足下の「仲間中」の文字の黒がよく全体をひきしめている感じである。四頭身ほどのプロポー
   ションが、あどけなさを感じさせるようだ。
 矢原から等々力へ入り、路傍の基壇の上で横1列に並ぶ次の3基をみる。
  道20 天保10 自然石 双体道祖神                79×61
  廾5 嘉永5 自然石 「二十三夜塔」             126×64
  大2 元治1 自然石 「大黒天」                54×47
 道20は屋根と柱を陰刻し、屋根の下に菊花紋を浮彫りする。屋根下の枠内に衣冠束帯の男神(像高40cm)と長い髪を垂らす女神(像高38cm)の握手像を浮彫りし、銘文は年銘の「天保十己亥年/正月吉日」がみられる。
 廾5は正面が「二十三夜塔」の主銘、裏面が「嘉永五壬子/二月吉祥日/仲間中」の銘がある。
 大2は正面に「大黒天」、背面に「元治甲子年/正月吉日」の年銘。
 次も等々力の路傍にある基壇の上に次の3基が並び、基壇の右下に二十三夜塔1基と馬頭観音が2列18基ある。前列は刻像塔、後列は文字塔である。
 廾6 年不明 自然石 (上欠)「十三夜」            57×52
 道21 明治18 自然石 双体道祖神                86×62
 大3 年不明 自然石 「大黒天」                62×43
 廾7 明治2 自然石 「二十三夜塔」             106×51
 廾6は基壇下にある文字塔、上が欠けた正面に「十三夜」とある。
 道21は線彫りの屋根の下に半菊紋があり、下に衣冠束帯の男神(像高48cm)と長い髪を垂らす女神(像高47cm)が握手する立像である。武田久吉博士の『路傍の石仏』(第一法規 昭和46年刊)には、撮影年代は明らかではないが、過去に彩色された跡がモノクロ写真ながら155頁に載っている。現在は彩色の跡がみられない。背面には「明治十八年乙寅八月建之/帯代金五拾円/等々力耕地仲間中」の銘文を刻む。後でみた駅前の昭和60年双体像には、帯代が「金壱百万円」とある。明治の50円と比較するとどうなのであろうか。
 また、その道祖神については、154頁に次のように記している。
    同県南安曇郡穂高町等々力の南方には、「明治十八年乙酉八月」「帯代金五拾円」「等々力
   耕地仲間中」と背面に刻まれたものがある(写真218)。高さ88センチばかりの自然石にや
   んを陰刻し、その下に半菊形と菊葉で装飾を施し、下に握手する両神を立たせてあるが、男神
   は衣冠束帯、女神は盛装して、束ねた髪を長く背後に垂らしている。
 この道祖神のように「帯代」を刻む背景には、「道祖神盗み」がある。その事例を本郷の道祖神について同書120頁に次のように紹介している。
    長野県南南安曇郡穂高町の本郷にある1基は(写真176)、高さ137センチもある大きな
   尖った自然石に稲荷鳥居を浮彫りにし、その中に両神を立たせたもので、向かって右の男神は
   衣冠束帯、左の女神は束ねた髪を長く垂らし、握手形式であるが、なぜか鳥居や髪などに墨を
   塗ってある。碑石の裏側には、「天保四巳年 貝梅中」と彫ってあるのは、木谷数丁離れた、
   同じ村の貝梅から運んで来たものであることの証明である。
    この道祖神盗みの風習については、昭和十三年十二月に岡書院から発行された民俗学的雑誌
   『ドルメン』第4巻第10号に略記したが、さらに詳しい実情は、昭和四十四年十月の『民間
   伝承』286に数枚の写真をはさんで記述しておいたから、それを見られれば幸いである。
 大3は正面に「大黒天」と刻む文字塔である。
 廾7は正面に「二十三夜塔」、背面に「明治二己巳年/十月吉日/等々力耕地中」の銘を記す。
朝に山門前の石佛類をみた東光寺であるが、後で境内に「子育て道祖神」があるのを思い出し、再度、東光寺を訪ねる。
  道22 現代作 自然石 3体道祖神                83×51
 道22は、男神(像高36cm)と女神(像高27cm)の間に子供(像高8cm)がいる3体像である。上部に黒字の「子育て/道祖神」と縦2行に彫る。昭和54年には無彩色であったが、今回みると彩色が施されている。男神の冠や眉、目は黒、首下に白の蝶結び、空色の狩衣をきる立像である。間の子供は立像で金色の冠に金色の着物、女神は長い黒髪に眉や目を描き、ピンクの着物の坐像である。
 国道を渡って直ぐの左手に神田町の次の3基(中央の馬頭観音は省略)が並んでいる。
  道23 天保12 自然石 双体道祖神                90×78
  廾8 嘉永2 自然石 「廾3夜塔」               87×74
 道23は彩色の跡が残る屋根と柱を浮彫りし、枠内に男神(像高40cm)と女神(像高39cm)の握手立像を陽刻する。背面に「天保十二辛丑年/閏正月吉日/等々力邑新町中」の銘を刻む。男子の冠や女神の長く垂れる髪の上部に黒が残る。
 この道祖神については、前記の『路傍の石仏』128頁に次のように書かれている。
   同県南安曇郡等々力小字新町にあるものは(写真182)、自然石に屋根と柱を陰刻し、細萱の
   に多少似た形式の両神を立たせてある。(写真は132頁掲載)
 廾8は正面に「廾三夜塔」の主銘、背面に「嘉永二己酉年/六月吉日/等々力新町中」とある。
 サイクリング調査の最後は、旧穂高町役場、現在の安曇野市穂高支所前の路傍に面した敷地内に立つ次の双体道祖神である。
  道24 現代作 自然石 双体道祖神               138×46
 道24は男神(像高78cm)と女神(像高78cm)の握手像、正面の上部に横書きで黒字で「道祖神」、台石の下部に横書きで「穂高町役場」の銘を刻む黒御影石をはめ込む。背面に「寄贈/黒岩石材」の銘だけで、他の銘文はみられない。従って造立年は不明であるが、現代の作である。
 午後2時前に自転車を返し、遅い昼食をご主人が薦める一休庵で蕎麦を食べる。まだ時間があるので、神田町簡易郵便局筋向かいの路傍にある覆屋根下の次の2基をみる。
  道25 慶応2 自然石 双体道祖神                75×64
  道参 年不明 自然石 双体道祖神                18×8
  大4 明治41 自然石 大黒天                  81×70
 道25は男神(像高53cm)と女神(像高53cm)の酒器像、背面に「丙慶應二寅三月吉日/穂高8軒上町/仲間中」と刻む。昭和54年にみた時は彩色されていたが、今回みると彩色の跡が僅かに残って淡い色に仕上がっている。彩色の写真は、モノクロ写真ながら前記『全国、石仏を歩く』140頁に載せている。
 道参は秋葉祠に置かれた黒石製の両神共に像高2cmの双体道祖神ミニチュアーである。
 大4は今回初めての刻像塔、大黒天が俵の上に立つ像(像高56cm)を陽刻し、背面に「明治四十一年戊申十月吉日/穂高八軒町中」の銘を彫る。
 今回の「穂高道祖神巡り」は、ここを最後に穂高駅へ向かう。
 帰りは穂高駅午後3時35分発のスーパーあずさ28号に乗車、八王子で中央線電車に乗換、立川経由で帰宅する。(平成19・8・31記)
               〔初出〕『石佛雑記ノート13』(多摩獅子の会 平成19年刊)所収
あとがき
     
      初めて穂高町(当時)の道祖神巡りをサイクリングで行ったのは、夏休みの昭和54年
     8月12日である。翌日は白馬村の石佛を歩き廻った。
      多摩石仏の会の『野仏』第19集に発表した「道祖神サイクリング」は、54年の体験
     をまとめたものである。後に『全国、石仏を歩く』(雄山閣出版 平成2年刊)に写真を
     加えて再録した。
      本書2頁の文中には「レンタサイクル(1時間300円、1日1500円)」と記した
     が、平成19年の今回は1時間200円である。たまたま、54年当時の値段が書いてあ
     ったので、思わないことながら現状と比較できる。
      「松川村と穂高駅前」は、今回の穂高の道祖神サイクリングを行った前日の8月28日
     (火)に訪ねた松川村と穂高駅周辺の道祖神を廻った記録である。穂高神社の道祖神は前
     回訪ねた平成4月18日にみてた。この時の記録は残っていないが、『日本の石仏』第1
     03号(平成14年刊)に発表した「双体道祖神今昔」で1部ふれている。
      「穂高の道祖神巡り」は、今月発行した『石佛雑記ノート13』に書いたことであるが、
     大王わさび農場には「あとがき」で「たまたま、駅前の観光案内所で双体道祖神が6基あ
     ると聞いて行ったわけである」。こうした情報は、予想外の場所で得られるから、地元の
     方との会話も情報源になる。
      本書では、昭和と平成の「道祖神巡り」を通じて、思わぬ発見があった。前記の大王わ
     さび農場の道祖神もそうした1例である。なまじ以前に廻っているから、必ずしも効率が
     よいサイクリングではなく、事前にプランを練るべきと反省した。
                            ─────────────────
                             穂高の道祖神巡り
                               発行日 平成19年9月30日
                               TXT 平成19年9月22日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 多摩野佛研究会
                            ─────────────────
 
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