石川博司著    成田の庚申塔を歩く      発行 庚申資料刊行会
目次    ◎ 成田祇園祭 1   ◎ 成田祇園祭 2   ◎ 成田市内を廻る   
        ◎ 第161回石仏談話室  ◎ 成田の青面金剛  ◎ 成田市内の庚申塔巡り
        あとがき
成田祇園祭 1

 平成11年7月8日(木曜日)は、成田祇園祭の山車見物にいく。この祭りは、成田山新勝寺を中心に7月7日から9日までの3日間行われ、10台の山車や屋台がでる。かなり以前のことであるが、父の代わりに新勝寺の護摩札をうけにいったことがある。護摩札を申し込んで受け取る間の時間を利用して、周辺にある石佛を探したが成果があがらなかった。そうしたことがあったので、今回も特に期待しなかった。
 街中の山車をみてから新勝寺にお参りし、成田山仏教図書館を訪ねて祇園祭関係の図書に当たる。その後で東町屋台・仲之町山車と成田山御輿をみて、午後1時近くになったので食堂で昼食にする。食後、本町山車・仲之町山車を見物し、成田観光館(仲町383−1)によって展示されている成田山交道会の山車をみる。
 JR成田駅東口近くには、成田山が管理している権現社がある。8日の朝には、この祭りに関係のある権現社に因んで、駅前の広場で山車や屋台の勢揃いがみられる。観光館を出てから、この権現社にいってみると、境内に神輿のためのお仮屋があり、思いがけず庚申塔があるのに気付く。社殿に向かって左の駅側には
 1 天保12 駒 型 「青面金剛供養塔」             126×44×26がみられる。正面に主銘の「青面金剛供養塔」、右側面に「天保十二年辛丑九月吉日」、左側面に「開眼導師 成田山現住照阿」、台石正面に横書きで「上町」とある。この塔の近くに次の3基が並んでいる。
  2 年不明 駒 型 日月・青面金剛・1鬼            69×28×18
 3 文政8 柱状型 「庚申塔」                 79×41×23
  4 享保8 光背型 青面金剛(下欠)              36×31
 2は上部に日月を刻み、中央に鬼の上に立つ剣人6手の青面金剛(像高43cm)を浮き彫りする。銘文はみられないようである。
 3は「庚申塔」の文字塔で、右側面に「観音經五百巻 般若心經千巻 写王観音經五百巻 秘鏡五百巻」、左側面に「光明真言百万遍 慈救咒百万遍 念佛百万遍」、裏面に「文政八酉三月二十日□□□□ □□□□」の銘がみられる。
 3は青面金剛の上半分(像高27cm)が残るもので、像の右上に「奉供養 庚申」、左上に「享保八癸 卯四月吉日」と、共に2行の銘を刻んでいる。
 念のために境内を廻ると、駅の反対側に当たる北側にもう1基
 5 天保2 板石型 「庚申塔」                 116×82がある。正面に「庚申塔」の主銘、裏面に「天下泰平五穀成就 郷中安全講中安全 天保二辛卯年十一月吉日 奉開眼供養 成田山現住 法印□□」とあり、その下に施主銘が数多く並んでいる。
 今回、この権現社も祇園祭に関係がなかったら、訪ねなかったかもしれない。庚申塔を探している時にはみつからず、別の目的でいった場所でみつけるとは皮肉なものである。JRの駅の近くに庚申塔があったとは。それにしても3の左右側面に刻まれた銘文をみたのは、思いがけない収穫というべきであろう。場所柄、庚申塔の塔面をみても開眼導師を務めるなど成田山新勝寺の影響が大きい。
            〔初出〕『平成十一年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成11年刊)所収
成田祇園祭 2

 平成14年7月7日(日曜日)は、日取りが昨年の7月7・8・9日から7月初旬の金・土・日の3日間に変更されて初めての成田祇園祭の山車見物である。JR成田駅に着いたのが午前10時57分、先ず、平成11年7月8日(木曜日)に訪れた駅脇の権現山に行く。この時は、ここで
  1 天保12 駒 型 「青面金剛供養塔」            126×44×26
   2 年不明 駒 型 日月・青面金剛・1鬼           69×28×18
  3 文政8 柱状型 「庚申塔」                79×41×23
   4 享保8 光背型 青面金剛(下欠)             36×31
  5 天保2 板石型 「庚申塔」                116×82の庚申塔5基をみているが、今回は5を除く4基の写真を撮る。前回は気づかなかったが、ここには平成8年に建てられた黒御影にクリカラ不動を陰刻喉した刻像塔がある。
 権現山前を通る近道を選んで進み、表参道へ突き当たった店の前に恵比寿大黒の丸彫り像がある。近くに小さな鼠の丸彫りがみられ、近くの店の前には羊や鶏、猿なども丸彫りがある。猿には「平成十三年三月吉日」とある銅板がついている。帰り道で反対側の店の前で犬の丸彫り像をみたから、恐らくこの通りの両側を探せば、十二支が全部揃うのではないかと思う。
 新勝寺に参詣してから、成田山仏教図書館を訪ねて不動関係の図書に当たる。カウンターで不動三十六童子の図像が載った本があるか尋ねると、パソコンで検索して『法談』のバックナンバーを綴じた1冊をだし、図像の記載を確認して示された。
 法談会発行の『法談』第2号(昭和35年刊)には、22頁から30頁にわたって、1頁に4童子の割で図像が載っている。図像の後には、神崎照恵氏の「三十六童子図像について」が31頁から3頁にわたってみられる。これによると、この図像は「東叡山深秘絵所神田宗庭藤原要信謹画 写之」という墨絵を高田定吉氏が模写したものであるという。赤坂六郎さんが『日本の石仏』第17号に示した図像は、この模写であろう。
 図書館を出て総引きの集合場所を確認してから、再び新勝寺の境内に戻って三十六童子の銅製像を探す。以前童子をみた場所が移転したのだろかと探すと、本堂の裏手に童子像がある。よくみると、三十六童子以外にも胎蔵界の大日如来始め、五大明王・八大童子があるのがわかった。
 成田山公園にある石碑をみて歩いていると、「武蔵国青梅町」の銘がある板石の碑に出会う。詳しくは調べなかったが、下部に刻む世話人8人の末尾に「玉川捨次郎」の名があり、上部の筆頭に「平岡久左衛門」、次いで「山崎喜左衛門」、その後に「稲葉」の名字もみえる。この碑に年銘はないようだが、前に立つ石碑に「大正十二年」の年銘が刻まれている。その頃の造碑であろう。
 まだ総引きまでに約1時間の時間があるので、近くにある成田図書館成田分館を訪ね、館内で郷土資料を探すと、成田市史編さん委員会編の『成田市史 民俗編』(成田市 昭和57年刊) が目に止まる。393頁に「市内で確認した庚申塔は48基を数える」とあり、その後に「最古のものは幡谷・須賀辺田の正徳元年」と記されている。左上に北須賀の鈴人型の6手青面金剛の刻像塔の写真が載っている。
 成田市内の石佛で興味があるのは月待塔で、十三夜塔1基、十五夜塔8基、十六夜塔1基、十七夜塔2基、十九夜塔9基、二十二夜塔1基、二十三夜塔10基といろいろな月待塔が分布している。
 時間の関係で読めなかったが、『成田市史 民俗編』の講の目次に「武州御岳講」の項目がみられたことである。青梅の成田講が新勝寺に石碑を立て、一方では成田に武州御岳の講があるという関連が面白い。
 石佛オンリーの1日は中々望んでも無理があるが、獅子舞や山車や民俗芸能見学の間の時間を利用すると、今回のように思わぬ収穫が得られる。2股・3股かけてでも時間が許せば、石佛を追いかけるのも楽しい。     〔初出〕『平成十四年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成14年刊)所収
成田市内を廻る  日本石仏協会3月見学会

 平成19年3月11日(日曜日)は、日本石仏協会の「成田不動尊と宗吾霊堂の石仏」見学会に参加する。JR成田線成田駅に午前10時集合、町田茂さんのコース案内で成田市内を廻る。朝から雨にもかかわらず今回集まったのは、少々多めの25人である。
 京成の日暮里駅ホームで大津和弘さんにばったり、お陰で車中の1時間は雑談で過ごしたので退屈しない。京成成田駅で下車すると、世話役の1人・木村良平さんに出会う。改札を出て集合場所のJR成田駅では、講師の町田さんや世話人の三代川千恵子さん、他に何人かが集まっている。遅れて世話人の門前春雄が来て世話人3人が揃う。
 会費を払って受け取ったレジメは、表紙を含めてA4判18頁とペラのA5判2頁である。ペラは講師が『日本の石仏』第99号(日本石仏協会 平成13年刊)の「会員の広場」に書かれた「千葉県にもあった稜角6地蔵石灯籠」(70〜71頁)である。これには千葉県内にある
   1 寛永12年 燈 籠 千葉県八日市場市生尾 生尾屋敷墓地
   2 寛文9年 燈 籠 千葉県成田市 宗吾霊堂
   3 享保9年 燈 籠 千葉県成田市 宗吾霊堂
   4 年代不明 不 明 千葉県成田市北須賀
   5 寛文12年 不 明 千葉県栄町 竜角寺の5基である。加えて宇都宮市の瀧澤龍雄さんから受けた栃木県内に報告の
   1 元禄7年 不 明 栃木県那須町伊王野 千手観音堂の1基以外にもう1基、つまり栃木県には2基あるとしている。
 稜角6地蔵といえば、先月21日(水曜日)に青梅市沢井と梅郷の石佛を散歩した時に梅郷6丁目の大聖院(真言宗豊山派)を訪ね、地蔵堂の前にある竿石を失った石幢の龕部がみられ、陵角に地蔵が陽刻されているのをみている。この龕部の地蔵と地蔵の間には直径7cmの円に日烏、直径8cmの円内に月兎が浮彫りされている。
 参加メンバーの全員が揃ったので、成田駅を10時の定時に出発する。第1見学所は駅に近い「権現山」である。講師が成田生まれて育ったと挨拶の中で話されたのに続き、世話役を代表して三代川千恵子さんが挨拶する。
 挨拶に続いて境内にある石佛をみる。ここの庚申塔は、すでに平成11年7月8日の成田祇園祭に調べている。今回は雨の中で充分に調べれない。『平成十一年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成11年刊)に発表した「成田祇園祭」に記した。その時のデータをは、次の通りである。
   1 天保12 駒 型 「青面金剛供養塔」           126×44×26
   2 年不明 駒 型  日月・青面金剛・1鬼    69×28×18
   3 文政8 柱状型 「庚申塔」                79×31×
  廾三 宝永7 光背型 勢至菩薩「奉待廾三夜」         (計測なし)
   4 享保8 光背型 (上欠)青面金剛             36×31
  5 天保2 板石型 「庚申塔」               116×82
 この中の二十三夜塔は、前2回の時に気付かなかったが、町田さんから二十三夜塔があると教えられてみたものである。時間の関係で銘文の書き取り計測もできない。撮った写真を基にみると、中央に来迎相の勢至菩薩立像を浮彫りし、像の右に「奉待廾三夜 施主二十六人」、左に「宝永7庚寅年2月吉日」と記す。
 庚申塔各塔の詳細を「成田祇園祭」から引用すると、次の通りである
    1は正面に主銘の「青面金剛供養塔」、右側面に「天保十二年辛丑九月吉日」、左側面藻「
   開眼導師 成田山現住照阿」、台石正面に横書きで「上町」とある。
    2は上部に日月を刻み、中央に鬼上に立つ剣人6手の青面金剛(像高43cm)を浮彫りする。
   銘文はみられないようである。
    3は「庚申塔」の文字塔で、右側面に「観音經五百巻 般若心經千巻 写王観音經五百巻
   秘鏡5百巻」、左側面に「光明真言百万遍 念佛百万遍」、裏面に「文政八酉三月二十日 □
   □□□ □□□□」の銘がみられる。
    4は青面金剛の上半分(像高27cm)が残るもので、像の右上に「奉供養 庚申」、左上に「
   享保八癸 卯四月吉日」と、共に2行の銘を刻んでいる。
    念のため境内を廻ると、駅の反対側に当たる北側にもう1基がある。
    5は正面に「庚申塔」の主銘、裏面に「天下泰平五穀成就 郷中安全講中安全 天保三辛卯
   念十一月吉日 奉開眼供養 成田山現住 法印□□」とあり、その下に施主銘が数多く並んで
   いる。
 次に廻ったのが「不動様旧跡」、成田不動が現在地に移転するまでの間本尊を祀っていた場所である。羊羹で有名な米屋の敷地内にあり、自由に立ち寄れる。これも米屋が関係する羊羹資料館が近くにあり、館内を1巡する。
 大通りだけでなく横町や路地があるのは当たり前であるが、観光地へ行った場合は表通りを歩くだけで裏通りに入ることはない。僅かな短い道ながらバス通りを外れて歩き、次の「成田山薬師堂」へ出る。薬師堂は明暦元年に成田山本堂と建てられ、元禄14年に光明堂となり、安政2年に移築された。境内の一隅に石佛が並び、その中の1基が次の隔夜塔である。
  隔夜 元禄7 光背型 地蔵(像高69cm)             97×39
 写真を撮って計測するだけで手1杯、銘文などを記録する間がない。ここの石佛には、百地蔵廻りをする時にみられる半紙を細かく切った紙が貼られている。中央に大きく戒名、その横に小さく右の年と左の月日の日付を2行に墨書きする。
 薬師堂下の歩道には、大正8年の柱状型「成田町道路元標」があり、道を隔てた反対側には、女性俳人の3橋鷹女のブロンズ像がある。遠目には小柄にみえるが、近づいてみると思っていたよりも大きく、等身大と思われる。
 4番目は「成田観光館」、7月の成田祇園祭を平成11年・12年・14年の3回訪ねた都度、ここに寄っている。お祭りのために山車は道交会1台が展示されているに過ぎない。今回は普通の日なので、道交会の他に山車人形が飾られていない中町の山車が加わり、田町・幸町など3町の山車人形3体もガラス越しながら身近でみられる。驚いたのは 交会の山車の2層正面幕に太陽の中に8咫烏が刺繍されていたことである。残念ながら背面の幕をみられなかったが、図柄は月兎と考えられる。思わぬ拾い物である。
 祭りの時にはそれほど気にならなかったが、成田山までの道は下り勾配になっている。この坂を薬師堂まで曳き上げるのが山車の見所である。5番目の「成田山新勝寺」の前に昼食の場所となる信徒会館に行く。
 新勝寺の境内は広く、見所が多い。入口に総門工事を始め、三重塔も工事幕の中でみられない。石摺不動尊は、板石に不動三尊を線彫りする。不動の部分が墨で汚れいるのが残念である。拓本にとり、軸装したらみごたえがある
 本堂で詣でた後、裏手にある八大童子・五大明王・役の行者・三十六童子・胎蔵界大日如来の青銅像前を通る。仰ぎながらみるので目線がよくない。本堂裏の回廊からみると全体像がわかりよいが、工事中の幕に遮られて1望できない。
 そこから釈迦堂(国重要文化財)に出る。この堂の堂羽目に5百羅漢、扉に二十四孝が彫刻されているが、いずれも見事な木彫である。堂の前には狛犬がみられる。
 次いで訪ねたのが聖天堂、続いて出世稲荷(〓枳尼稲荷)、裏手に丸彫像が乗るトラックの珍しい石造物がみられる。丸彫像は顎髭がある老人風、左手に宝珠、右手に棒状の物を持って狐の上に座っているから、稲荷大明神坐像と思われる。『佛像図彙』に示された〓枳尼天の図像は、狐に乗る女神で左手に宝珠、右手に宝剣を持つ。トラックの荷台にある「保立運送」の文字は、この石造物を奉納した運送店名であろう。
 大塔裏の路傍に童子をモチーフにした石彫刻ある。右端には、中央に獅子頭を持つ童子、右端の童子は胴幕の下、左端の童子は獅子を先導する童子、獅子頭で遊ぶ3人の童子たちの図柄が特に興味をひく。その先の石碑がある場所に趺亀に乗る薬師如来坐像があるが、近くにある次の庚申塔に興味があって見逃す。
   6 年不明 笠付型 青面金剛・3猿              86×34×32
 6は珍しい合掌8手立像(像高34cm)、胸前の合掌手以外の6手は外へ拡げている。左手の上から宝輪・弓・索、右手は顔・矢・矛を執る。青面金剛の顔は剥落している。下部に正向型3猿(像高9cm)を陽刻する。左側面に「丙子」の年銘が残っているので、この干支は寛永13年・元禄9年・宝暦6年・文化13年が該当する。これらの年号から推測すると元禄9年が妥当と思われる。
 額堂(国重要文化財)〜開山堂〜光明堂(国重要文化財)を廻り、光明堂の裏にある奥ノ院(県重要文化財)に出る。入口には石垣に埋め込まれた県指定の下総板碑2基がある。1基は延元元年銘の弥陀三尊種子、他は明徳5年銘の弥陀一尊種子を刻む。他にも下総板碑が埋め込まれているが、工事用の幕でみられない。
 6番目は「薬王寺」、観音堂脇の道を下って墓地に行くと、二十三夜塔と十九夜塔がみられる。
  廾三 正徳6 板駒型 弥陀三尊「奉待二十三夜/現當祈願成就」 113×57
  十九 年不明 柱状型 「十九夜」如意輪観音           66×21×12
 二十三夜塔は上部に弥陀三尊の立像、像の右に「奉待二十三夜 正徳六丙申天」、左に「現當祈願成就 閏二月九日」を記す。下部に施主銘を刻み、底部に蓮華を浮彫りする。
十九夜塔は上部に右横書きで「十九夜」、中央に2手如意輪観音坐像(像高38cm)を浮彫りし、像の右に「寺谷津」、左に「女人講中」の銘がある。
7番目は「平和大塔」の前を通り、「霊宝館」へ行く。館の横に石佛が並んでいる。石佛群の右端は、次の庚申文字塔である。
  7 寛政2 柱状型 日月「青面金剛明王」(台石)3猿     70×28×17
 7は正面に「青面金剛明王」、右側面に「寛政二庚戌七月吉祥日」の年銘を彫る。台石正面に内向型3猿を浮彫りする。この塔の上には、次の説明板がある。
   庚 申 塔
    庚申の夜に眠ると、体の中にいる三尸(さんし)の虫が抜け出して、天帝にその人の悪業を
   告げ寿命を短くさせるので、その夜は起きていなければならないという信仰からきたもの。江
   戸時代には青面金剛信仰と結びつき、無病息災・二世安樂などを祈願して造立された。
 この石佛群の中には舞勢立像を主尊とし、下部に舞勢立像2体を従えた三尊像がみられる。蔵王権現かとおもわれるが、主尊の頭部に中国風の兜をかぶっており、足下に蓮華は見当たらないので断定できない。気にかかる三尊石像である
 8番目に「小野忠明・忠常の墓」を訪ねる。小野派一刀流の流祖・小野治郎右衛門忠明と二代目小野治郎右衛門忠常の五輪塔墓が2基並んでいる。
 9番目に予定されていた永興寺は、時間の都合で省略する。レジメによると、勢至菩薩主尊の享保十五年の二十三夜塔と愛染明王主尊の享保8年の二十六夜塔があると記されている。
 10番目の「子安地蔵堂」では、二十二夜塔・二十三夜塔・庚申塔の3基をみる。
 信徒会館で昼食、食後は集合時間までの間に先刻訪ねた子安地蔵堂へ行き、二十二夜塔・二十三夜塔・庚申塔の銘文の記録と計測をする。
  廾二 明和  柱状型 日月・准胝観音「二十二夜講中」      78×29×17
  廾三 明和6 柱状型 勢至菩薩「二十三夜待」          71×29×19
  8 明和1 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        85×31
 二十二夜塔は上部に日月と瑞雲、中央に蓮台に乗る准胝観音坐像(像高27cm)を浮彫りする。観音は胸前で合掌し、上方手に矛と蓮華、下方手に草?と水瓶を執る6手像である。右側面に「奉造立准胝(観)音爲二世安樂之所」、左側面に「明和四丁亥二月□中 二十二夜講中」の銘がある。通常、二十二夜の主尊は如意輪観音である。
 この塔については、房総石造文化財研究会編の『房総の石仏』(たけしま出版 平成11年刊)に掲載されている、と町田さんから聞く。家に帰って本をみると、沖本博さんが「准胝観音」を担当し、58頁に解説、次の59頁に写真を載っている。同書には、成田の石佛はこの1基だけである。
 二十三夜塔は蓮台に乗る勢至菩薩の合掌立像(像高38cm)が主尊、右側面には「二十三夜待 田中町講中/十六人」、左側面には「明和六己丑三月二十三日」の銘文を彫る。
8は標準的な剣人6手立像(像高48cm)、像の右に「田中講中、左に「明和元甲申九月吉」の銘がある。下部に内向型3猿(像高11cm)を陽刻する。
 成田市内には十三夜塔1基、十五夜塔8基、十六夜塔1基、十七夜塔2基、十九夜塔9基、二十二夜塔1基、二十三夜塔10基あると『成田市史 民俗編』(成田市 昭和57年刊)にみえる。同書によると、最古の庚申塔は幡谷・須賀辺田の正徳元年としている。
3基の記録と計測が終わってから、堂の背後にある文化10年の単制六地蔵石幢をみる。後ろの坂を登り、3池大僧正銅像前を通って石碑が密集する場所に出る。平成14年の時にみた表面中央に大きく「永盛講」、右に「武蔵國青梅町」、左に「山本香渓書」の銘を彫る大型の石碑に出会う。裏面に明治39年の年銘を記す。『平成十四年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成14年刊)の「成田祇園祭」にこの石碑にふれた部分があるので、次に引用する。
    詳しくは調べなかったが、裏面下部に刻む世話人八人の末尾に「玉川捨次郎」の名があり、
   上部筆頭に「平岡久左衛門」、次いで「山崎喜左衛門」、その後に「稲葉」の名字もみえる。
 午後は成田と宗吾霊堂を結ぶ成宗電車が走っていたという「電車道」を通り、途中に煉瓦造りの短いトンネルが2つあり、京成線成田駅に出る。ここから電車で宗吾参道駅まで乗る。
 駅から宗吾霊堂(鳴鐘山医王院東勝寺)へ歩いて向かう。「佐倉義民伝」で知られる木内惣5郎の墓所があることで、東勝寺の寺名より「宗吾霊堂」で知られる。石造物としては、宝塔前の稜角六地蔵石燈籠2基に興味がある。1基は享保9年、他は寛文9年の造立である。前記のように先月21日に青梅市梅郷の大聖院で稜角六地蔵石幢の龕部をみたせいもある。
 伊藤介二さんが『日本の石仏』第71号に発表された「稜角六地蔵・石灯籠 〈広徳寺石燈籠を追う〉」では、梅郷・大聖院の他に台東区東上野・広徳寺の寛永19年銘と杉並区成田東・海雲寺の元禄9年銘の3基が都内に存在する。都外の燈籠としては、神奈川県鎌倉市・黄梅院と千葉県成田市の宗吾霊堂の2基を挙げている。
 境内には、康永元年と明徳2年の大型の下総板碑2基がみられる。成田山奥の院の2基に続く板碑見学である。本堂にある大黒天は、僅かなガラス越しにしかみえない。右手に宝剣、左手に金嚢を執る米俵上に座る木像である。
 ここを最後に講師の挨拶があり、三代川千恵子さんから次回以降の参加を勧めああって解散する。宗吾参道駅まで戻り、上り下りの2手に別れて各自が帰宅に向かう。
 上り電車に乗る方々と別れ、門田さんなど4人私たちは京成線宗吾参道駅から京成成田駅に戻る。京成成田駅でJR成田線に乗る方と別れ、先刻通った電車通りを成田山仏教図書館へ向かう。図書館で『法談』第2号(法談会 昭和35年刊)を借り、不動三十六童子の図像(22〜30頁に掲載)をみる。赤坂六郎さんが『日本の石仏』第17号(昭和 年刊)に発表された「不動明王の使者──特に田無持宝院の童子像について」の中でこの図像を引用している。なおこの図像については、神崎照恵師が「三十六童子図像について」(同誌31〜33頁)を発表している。
 図書館を出てJR成田駅へ向かう途中、神明通りにある十二支の石造物をみる。この十二支に気付いたのは、14年7月7日の成田祇園祭の時である。この時の猿の写真だけに「大日如来」の銘板が付いているの見付け、気になっていた。
 今回、十二支の石造物をチェックすると、写真を撮った側によって違いがみられ、猿にだけ銘板が写っていた。猿の石造物には黒御影に「申/守り本尊/大日如来/平成13年3月吉日」と記されている。他の動物も同様、例えば馬は「午/守り本尊/勢至菩薩/平成13年3月吉日」、蛇には「巳/守り本尊/普賢菩薩/平成13年3月吉日」と、干支と一代の守り本尊が結びついている。他に龍(普賢菩薩)・兎(文殊菩薩)・虎(虚空蔵菩薩)・牛(虚空蔵菩薩)・猪(阿弥陀如来)・鼠(千手観音)の9体を確認したから、今回チェックできなかった羊(大日如来)・鶏(不動明王)・犬(阿弥陀如来)の3体も同様なものと考えて間違いないと思う。
 JR成田駅から成田線〜常磐線〜山手線〜中央線〜青梅線を乗り継ぎで帰宅する。
 今回の見学会では、成田山内にある8手青面金剛や准胝観音が主尊の二十二夜塔が収穫である。広大な新勝寺の境内は石造物だけでなく、多くの見るべき場所がある。成田祇園祭で山車に夢中になっていては、とてもいろいろな場所を廻れない。祭り以外の日に訪ねないと駄目である。
第161回石仏談話室

 平成19年5月5日(土曜日)は、いつも使っている豊島区西池袋・東京芸術劇場の6階会議室で第161回の石仏談話室が開催される。今回の講演は、谷相一夫さんの「第(大)六天について」と町田茂さんの「成田不動尊・宗吾霊堂周辺の石仏」である。
 午後1時13分に遠藤和男さんから開会の言葉、続いて坂口和子会長が挨拶と講師・谷相さんが油絵の画家という簡単な紹介がある。第六天というわかり難い演題に興味があってか、GWにもかからず満員の盛況である。
 16分に谷相さんが登壇する。事前にA4判1枚のレジュメ、A4判4枚とB4判1枚の参考資料が配付される。参考資料は、理趣品と理趣釈・他化自在天画像・伊舎那天画像・第六天関係図のA4判4枚とカラーの胎蔵界曼陀羅図である。
 谷相さんは先ず土佐の出身、次いで武蔵野美術大学卒、弘前大学教授と自己紹介をする。
 最初の「はじめに」で谷相さんが強調したのは、空海が理趣品と理趣釈を取り違えてわが国に伝えたことから混乱の原因があるという。「理趣品」には「他化自在天王宮中」と記されているが、空海が伝えた「理趣釈」にはその部分が欠けている。このことが原因でボタンの欠け違いが生じた。
 2番目が「中世より明治維新 第六天最盛期」、ここでは「文芸上の第六天」「江戸文化の中で花開く第六天」「合祀・合集」の話である。面足尊に関係して立川流が話題にあがったが、第六天戸立川流と関係があったとは知らなかった。
 仏教上の第六天は他化自在天であるが、神道では神世七代の6番目に当たる面足尊面足尊、明治以降は高皇産霊尊が第六天に充てられる。また、第六天神に係わるものもみられる。いるいろな系統が混在しているので、余計に第六天をわかり難くいている。
 最後が「神仏分離令から平成の現在まで」、分離令によって第六天の苦難の歴史が始まる。それに加えて関東大震災があり、東京空襲が追い打ちをかけた。その結果の23区の現状を紹介している。
 第六天社は小社が多く、分離令後は一村一社に宮寄せ(合祀)が行われ、吸収された経緯がある。小社故に関東大震災や東京空襲のために潰れたものがみられる、「天神」がつく社名の場合は、天満宮系と第六天神系があるので注意が必要である。
 ともかく、谷相さんのお話を聞くにつれ、第六天がますます捕まえ所がなく、系統を追うことが1つの決め手ではないかと思う。いずれにしても、第六天は祟る神であり、その意味では菅原道真に通じる所がある。
 講演後に遠藤さんから質問があって2時43分に終わる。
 次いで坂口さんから、万治の石佛についてテレビ局から問い合わせがあった、と報告がある。首との継ぎ目のせいか、石佛が傾いて高くなったという。
 休憩後、3時10分に再開され、栗原栄子さんから5月27日(日曜日)に行われる海老名見学会の申込を受付る案内がある。
 11分から大津和弘さんが講師・町田茂さんを紹介する。房総の石佛や馬乗馬頭観音をまとめて出版していること、歳にかかわらず健脚家である。狛犬にも造詣が深い。
 14分から町田さんの「成田不動尊・宗吾霊堂周辺の石仏」が始まる。すでに受付でA4判18頁のレジュメが配られている。地図や「石仏一覧表」「成田街道の道標」を含め、新勝寺と東勝寺の解説がされ、「主な石仏」を項目別に写真を載せて説明している。
 今回の講演は、去る3月11日(日曜日)に行われた成田見学会を踏まえた形で、当日廻らなかった場所をカバーしている。初めに見学会の話から始まり、成田生まれで成田育ちの自己紹介がある。
 先ず成田山の縁起にふれから、団十郎との関わりや江戸庶民の成田山信仰を話し、成田山にある文化財や佐倉道(成田街道)の道標に話題が進む。続いて宗吾霊堂で知られる東勝寺の縁起と文化財を簡単に話す。
 「主な石仏」はレジュメに多くの写真が載っているが、それ以外の写真がモニター画面に写し出される。例えば、権現山にあるカンマン三尊種子塔はレジュメに載っているが、その他に境内にある明治19年カンマン種子塔や霊光館にある不動明王坐像などが画面に映写され、視覚に訴えて現場感覚を刺激する。
 最初の「不動明王」は、坐像や種子塔以外に不動明王の象徴である宝剣、倶梨迦羅不動を取り上げる。石佛だけでなく本堂裏にある金銅佛の大日如来や役の行者、五大明王や八大童子、三十六童子を含めて紹介する。
 不動明王関係の石佛に続き「道標」を取り上げ、江戸から成田までの成田街道にある道標を紹介する。成田以外の市川市行徳の常夜灯や酒々井町伊篠の道標も含まれている。
 道標の次は「念仏塔」、隔夜念佛塔・十九夜塔・二十二夜塔・二十三夜塔・二十六夜塔を扱う。見学会で寄らなかった寺台・永興寺の十九夜塔・二十三夜塔・二十六夜塔の3基はみていない。
 「狛犬」は町田さんの得意分野である。青銅製を含め、成田山境内にある狛犬を中心に東勝寺の狛犬に及ぶ。出世稲荷にある石狐に加え、ここにあるトラックに乗る稲荷神の写真を披露する。
 次の「下総板碑」は、奥の院の弥陀1尊種子板碑や東勝寺の十三佛板碑にふれる。続く「薬師如来」は、大道裏道にある亀趺に乗る薬師如来、見学会の時には庚申塔に集中していて見逃した石佛である。「六地蔵」は、東勝寺にある2基の稜角灯籠の他に単制や重制の六地蔵石幢である。成田市下総町高には、下部に後生車がついた六地蔵石幢「車地蔵」がある。
 関心がある「庚申塔」は、見学会でみた権現山の安永2年青面金剛や子安地蔵堂の明和元年青面金剛に他に興味があったのは、成田市竜台の百庚申にある庚申塔の台石である。台石には、扇子を持って踊る猿・御幣を執る猿・太鼓を打つ猿の烏帽子をかぶった3猿が浮彫りされて面白い。
 成田市成毛にある「孝心」塔が写し出される。塔の正面上部が山形らしいので、町田さんに質問すると、やはり山形が刻まれている。この質問から千葉県の会員2人がこれは庚申塔ではないといいだす。時間がないので、私は揉めるのを避けて何もいわなかった。恐らく富士を象徴する山形と小谷三志が影響を与えた富士信仰に基づくから、庚申塔ではない、といいたいのであろう。町田さんが「庚申日」の銘があるといったが、2人は自説を曲げなかった。庚申塔の資格基準のどの項目に該当するのか、庚申塔でない理由を知りたいものである。
 時間に追われたために「馬頭観音」はレジュメの1基、最後の「その他」は、2股大根絵馬や小野派1刀流親子の5輪塔など3点が紹介されて4時40分に終わる。
 司会の遠藤さんから次回は5月2日(土曜日)に行われると案内があり、閉会する。
成田の青面金剛

 平成19年6月29日(金曜日)、市原の町田茂さんからお手紙をいただいた。その中に今年3月に発行された『立正大学大学院報』24号に掲載された、土井照美さんの「庚申信仰の石造物──特に成田市を中心として」の抜刷が同封されていた。
 土井さんは仏教学専攻博士課程1年である。この論考の中で「百庚申調査報告」は、竜台にある百庚申にふれている。この百庚申にある青面金剛塔を「報告」と「表3 竜台百庚申一覧表」から一表にまとめると、次の通りである。なお、単位はcmである。
   ┏━┯━━━┯━━━┯━━━┯━━━━━┯━━━┯━━━┯━━┯━━┯━━┯━┓
   ┃番│種 別│年 銘│塔 形│刻像・主銘│総高 │塔高 │塔幅│奥行│像高│注┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━┿━━━┿━━━┿━━┿━━┿━━┿━┫
   ┃1│刻像塔│安政6│駒 型│剣人6手像│ 80│ 66│26│14│45│1┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃2│文字塔│安政6│自然石│青面金剛尊│140│105│50│ 7│──│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃3│刻像塔│安政2│駒 型│合掌6手像│ 81│ 67│28│15│47│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃5│刻像塔│安政X│駒 型│合掌6手像│   │ 45│24│12│36│2┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃17│刻像塔│安政X│駒 型│合掌6手像│   │ 52│25│12│37│3┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃29│刻像塔│年不明│駒 型│中央破損像│   │ 45│25│14│37│4┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃32│刻像塔│年不明│駒 型│合掌6手像│   │ 43│25│12│36│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃45│刻像塔│年不明│駒 型│合掌6手像│   │ 44│23│12│37│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃50│刻像塔│天保9│駒 型│剣人6手像│113│ 94│31│16│51│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃51│文字塔│天保7│駒 型│青面金剛王│105│ 85│29│22│──│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃53│刻像塔│年不明│光背型│合掌6手像│108│ 84│41│13│61│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃54│文字塔│寛政12│駒 型│青面金剛尊│115│ 92│33│18│──│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃56│刻像塔│年不明│駒 型│合掌6手像│   │ 45│21│11│35│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃59│刻像塔│安政3│駒 型│合掌6手像│   │ 41│23│14│33│5┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃61│刻像塔│安政6│駒 型│合掌6手像│   │ 44│21│12│34│6┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃90│刻像塔│安政5│駒 型│合掌6手像│   │ 41│24│12│33│7┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃〓│刻像塔│安政2│駒 型│合掌6手像│   │ 44│24│12│38│8┃
   ┗━┷━━━┷━━━┷━━━┷━━━━━┷━━━┷━━━┷━━┷━━┷━━┷━┛
   注1 塔幅は25.5cmであるが、4捨5入してある。以下の塔もコンマ以下は4捨5入。
    2 奥行き11.5cmを12cmに4捨5入。
    3 塔幅24.5cmを25cmに4捨5入。
    4 奥行き13.5cmを14cmに4捨5入。
    5 塔幅23.2cmを23cmに4捨5入。
    6 塔幅20.5cmを21cmに4捨5入。
    7 像高32.5cmを33cmに4捨5入。
    8 塔高43.5cm44cm、像高37.5cmを38cmに4捨5入。
 前記の一覧表を年銘順に並び換えると、次の表になる。
   ┏━┯━━━┯━━━┯━━━┯━━━━━┯━━━┯━━━┯━━┯━━┯━━┯━┓
   ┃番│種 別│年 銘│塔 形│刻像・主銘│総高 │塔高 │塔幅│奥行│像高│注┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━┿━━━┿━━━┿━━┿━━┿━━┿━┫
   ┃54│文字塔│寛政12│駒 型│青面金剛尊│115│ 92│33│18│──│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃51│文字塔│天保7│駒 型│青面金剛王│105│ 85│29│22│──│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃50│刻像塔│天保9│駒 型│剣人6手像│113│ 94│31│16│51│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃3│刻像塔│安政2│駒 型│合掌6手像│ 81│ 67│28│15│47│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃〓│刻像塔│安政2│駒 型│合掌6手像│   │ 44│24│12│38│8┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃59│刻像塔│安政3│駒 型│合掌6手像│   │ 41│23│14│33│5┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃90│刻像塔│安政5│駒 型│合掌6手像│   │ 41│24│12│33│7┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃1│刻像塔│安政6│駒 型│剣人6手像│ 80│ 66│26│14│45│1┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃2│文字塔│安政6│自然石│青面金剛尊│140│105│50│ 7│──│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃61│刻像塔│安政6│駒 型│合掌6手像│   │ 44│21│12│34│6┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃5│刻像塔│安政X│駒 型│合掌6手像│   │ 45│24│12│36│2┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃17│刻像塔│安政X│駒 型│合掌6手像│   │ 52│25│12│37│3┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃53│刻像塔│年不明│光背型│合掌6手像│108│ 84│41│13│61│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃29│刻像塔│年不明│駒 型│中央手破損│   │ 45│25│14│37│4┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃32│刻像塔│年不明│駒 型│合掌6手像│   │ 43│25│12│36│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃45│刻像塔│年不明│駒 型│合掌6手像│   │ 44│23│12│37│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃56│刻像塔│年不明│駒 型│合掌6手像│   │ 45│21│11│35│ ┃
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 年代順の表から、幾つかの推測が可能である。ただ、竜台の百庚申の範囲からの推定で、この周辺のデータが明になれば、推測の確度が高くなる。誤りを恐れずに推論を示すと、次の通りである。
   1 年銘の明らかな塔からいうと、文字塔が寛政12年と天保7年に建ち、青面金剛の刻像塔
     に先行している。
   2 示された総高からみると、100cmを越す塔は寛政1基・天保2基・安政1基・年不明1
     基である。このことは寛政から安政の間に建った可能性が高い。
   3 剣人6手像は、天保9年塔と安政6年塔の各1基である。前者の塔高が94cmで像高が5
     51cm、後者は塔高が66cmで像高が45cmである。この傾向から、駒型塔で塔高が50
     cm台から40cm台、像高が30cm台の刻像塔は、安政2年以降の安政年間の造立の可能性
     が高い。恐らく中央手が破損のために不明の6番塔も安政年間の造塔と考えられる。
   4 11番塔は、総高からは・となるが、塔形が光背型で明和6年の月待塔から推測し、その前
     後の造塔と思われる。周辺の刻像塔の傾向がわかると、誤差の範囲は縮まる。
 参考までに「庚申塔調査報告」から竜台以外の特異な青面金剛塔を拾い出し、一覧表にすると、次次の通りである。この報告には、他に2基の文字塔が示されている。
   ┏━┯━━━┯━━━┯━━━┯━━━━━┯━━━┯━━━┯━━┯━━┯━━┯━┓
   ┃番│種 別│年 銘│塔 形│刻像・主銘│総高 │塔高 │塔幅│奥行│像高│注┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━┿━━━┿━━━┿━━┿━━┿━━┿━┫
   ┃1│刻像塔│天保15│駒 型│人鈴6手像│151│124│38│21│63│1┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃2│寛延2│安政6│駒 型│剣人6手像│106│ 75│31│22│55│2┃
   ┗━┷━━━┷━━━┷━━━┷━━━━━┷━━━┷━━━┷━━┷━━┷━━┷━┛
   注1 北須賀・水神宮境内にある。
    2 北須賀・松崎集水路脇三叉路所在。塔幅は30.5cmであるが、4捨5入して31cmと
      とする。
 この2基のデータからも、竜台の年代推定の補強になる。なお、1の人鈴型の6手像は、さいたま市旧浦和市を中心に周辺地域の分布している。
 36頁から38頁にかけて「表1 庚申塔建立年代地域別分布表」が載っている。38頁の刻像塔と文字塔を合わせて年不明塔の総計が137基、市内の総塔数が307基だから庚申塔全体の44・6%が造塔年代が不明である。年不明塔の内訳をみると最も多いのが宝田が93基、次いで竜台の34基が目立つ。この2か所で127基、市内全体の41.3%に相当する。この2か所の造塔年代の推定が可能ならば、全体の傾向が正される。
 そのためには、宝田と竜台の詳細な塔データ(塔高・塔幅・奥行の計測データ 刻像塔なら剣人6手か合掌6手かの種別と像高、文字塔なら主銘など)が明らかになれば、大雑把ながら造塔年代推測は可能になる。(平成19・7・2記)
              〔初出〕『石佛雑記ノート10』(多摩野佛研究会 平成19年刊)所収
成田市内の庚申塔巡り

 平成19年7月28日(土曜日)は、JR成田線成田駅に午前10時予定で集まり、町田茂さんの運転と案内で成田市内を廻る。京成成田駅に着いたのが9時48分、日暮里駅で会った多田治昭さんと京成成田駅で待っていた加地勝さんの2人と成田駅改札口で町田さんと1緒になる。車を駐車してある西口に出て、定員4人で出発である。

1 西和泉・百庚申最初に向かったのは、西和泉の百庚申である。香取大神の石碑のある場所で、うっかりすると通り過ぎてしまいそうな通りに面した所である。通りから入ると、自然石に「西和泉の/百庚申」と彫られた黒御影石がはめ込まれている。末尾に「平成十七年三月吉日/整備 成田市西和泉区/協力 成田市教育委員会」と記されている。裏面には、次の長文の銘が刻まれている。
    庚申(こうしん)信仰は、遠い平安の昔、中国から伝わった同郷の教え/の中に、「庚申(
   かのえさる)の日の晩に、人間の体の中に住むという三尸(さんし)/の虫が、天帝のその人
   の悪業を告げ、寿命を短くさせるので/この夜は1晩中眠らない方がよい。」という言い伝え
   にる/信仰からきたものです。
    この信仰は、江戸時代の後期には、庶民的な信仰として普/及し、この功徳の増大をねがぬ
   現れとして建てられたものが/庚申塔で、この功徳を「百」という数値まで高めようとして/
   建てられたものが「百庚申(ひょくこうしん)」です。
    西和泉の百庚申には庚申塔、庚心塔、孝心塔、青面金剛/の文字塔と青面金剛像の5種類が
   刻まれており、信仰の深さ/が感じられます。なお、これらには、建てられた年代が刻まれて
   いないが、建てた人々の年だから江戸時代末期にたてられたものと推測される。
     ○ 移設整備の経緯
    かつて、これらの石塔は、約二百メートル南方の野毛平と/の村境の路傍にあったが、市道
   の改良工事に際し、隣接土/地所有者のご厚意により仮移設されていたものを、今般、関/係
   者のご理解を得てこの場所に移設し整備したものです。     施工 (有)木川政石材店
 先日、町田さんからのお手紙に添え、ここの庚申塔の写真をいただいている。多田さんの話だと、以前にこれらの庚申塔をみているそうで、これほど整備されない別の場所だったというから、平成17年3月以前にみたことになる。
 現在は庚申塔が3列に並び、最前列に「孝心塔」5基・「庚心塔」1基・「庚申塔」3基の9基、2列目が「庚心塔」9基、3列目が「庚心塔」1基・「青面金剛」3基の文字塔と青面金剛刻像塔5基の9基である。
 青面金剛の刻像塔は、いずれも上部に日月・瑞雲を浮彫りし、鬼の上に立つ剣人6手像である。5基の間で違いがみられるのは上方手で、宝輪を持つものが2基、円盤を持つものが3基である。頭部も炎髪が1基(宝輪)で、他の4基は帽子状である。
   1 年不明 駒 型 「孝心塔」                42×22×16
   2 年不明 駒 型 「庚申塔」               (計測なし)
   3 年不明 駒 型 「庚心塔」                44×21×17
   4 年不明 駒 型 「青面金剛」               44×21×15
   5 年不明 柱状型 日月・青面金剛・1鬼           68×30×21
   6 年不明 柱状型 日月・青面金剛・1鬼           69×29×21
   7 年不明 柱状型 日月・青面金剛・1鬼
   8 年不明 柱状型 日月・青面金剛・1鬼          (計測なし)
   9 年不明 柱状型 日月・青面金剛・1鬼          (計測なし)
 1は正面に「孝心塔」の主銘のみを刻む。他に同形同主銘の塔が4基ある。
 2は正面に「庚申塔」の主銘のみを刻む。他に同形同主銘の塔が2基ある。
 3は正面に「庚心塔」の主銘のみを刻む。他に同形同主銘の塔が9基ある。
 4は正面に「青面金剛」の主銘のみを刻む。他に同形同主銘の塔が2基ある。
 5は上方手に円盤を持つ剣人6手立像(像高49cm)、右側面に「世ハ人 □兵ヱ」の銘がある。
 6は上方手に円盤を持つ剣人6手立像、右側面に「西和泉」、左側面に「善兵衛」の銘を刻む。6は5と同様に頭部が帽子状である。
 7は頭部が炎髪の剣人6手立像(像高52cm)、右側面に「世ハ人 七兵ヱ」の銘がある。ほぼ6の塔や青面金剛の寸法に準じる。
 8は上方手に円盤を持つ剣人6手立像、両側面に銘文がみられない。
 9は上方手に円盤を持つ剣人6手立像、両側面に銘文がみられない。8・9の2基は、ほぼ5の塔や青面金剛の寸法に準じる。

2 西和泉・庚申塔
 2は1と同じ西和泉であるが、1は西和泉の飛地なので東和泉を抜けて行く。「六論□義大意」の石碑近くの場所にある次の庚申塔をみる。
   10 天保11 柱状型 「庚申塔」(台石)3猿          83×38×40
   11 寛政11 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     73×32
   12 宝暦2 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     97×50
 10は正面に「庚申塔」の主銘、右側面に「天保十一庚子二月吉日」、台石正面に正向型3猿(像高14cm)、その下に「西和泉/講中」の2行がある。
 11は典型的な合掌6手立像(像高42cm)、下部に内向型3猿(像高12cm)を浮彫りする。右側面に「寛政十一己未二月吉日」、左側面に「講中」の銘を刻む。
 12は上方手に円盤を執る剣人6手立像(像高59cm)、像の右に「宝暦二壬申天」、左に「十一月吉日 和泉 村中」、下部に内向型3猿(像高11cm)を陽刻する。
  道1 平成6 板石型 「道祖神」                95×64
 道は表面に主銘「道祖神」、右に「子孫繁榮」、左下に「上寺 岩澤虎之助」、裏面に「平成六年一月再修/西和泉」とある。

3 成毛の孝心塔
  孝1 天保15 柱状型 山形「孝 心」              73×31×23
 孝1は八角柱の石塔で正面上部に山形を彫り、下に「孝心」に2字、時計廻りに「此形 なりたミち」、「天保十五年歳次閼逢/執除夏六月庚申建之」、銘文なし、「語云孝者人之高行/乃不二信心之行成り」、「此方 すけさき道」、不明、「此方 こいづミみち」と各面に銘文が刻まれている。台石の正面に隷書体で「同□中」と横書きされる。
 隣の西和泉には、先刻みたように百庚申の中に「孝心塔」や「庚心塔」がみられるので、庚申塔の可能性を考えたが、孝1はこの塔は単独に建っており、銘文の内容からみると不二道の造塔である。

4 赤萩・八幡神社
 成毛からゴルフ場入口までこれで来た道を戻り、赤萩の八幡神社を訪ねる。境内には、次の3基の庚申塔がみられる。
   13 享保12 柱状型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     96×45×27
   14 文政2 駒 型 日月「青面金剛王」(台石)3猿     122×46×33
   15 天保2 駒 型 日月星・青面金剛・1鬼・3猿      121×46×30
 13は円盤を持つ合掌6手立像(像高40cm)、像の右には「享保十二丁未年八月日/施主/男女/講中」の銘、下部に内向型3猿(像高14cm)を浮彫りする。
 14は正面の上部に日月・瑞雲、中央に主銘「青面金剛王」、右側面に「文政二己卯二月吉日」の年銘を記す。台石の正面に半内向型3猿(像高13cm)を陽刻する。
 15は頂部に日月の瑞雲が交わる上にもう1つ瑞雲があり、雲の中に小さな円形がある。この円形は星を表し、日・月・星の三光を構成する。下に標準的な剣人6手立像(像高66cm)、右側面に「天保二辛卯十一月吉日」の年銘がみられる。台石の正面には、一風変わった3猿(像高14cm)を浮彫りする。中央の猿は両手で不聞のポーズをとるが、右の不見猿は左手で目を塞ぎ、右手に御幣を執る。左の不言猿は左手で口を塞ぎ、右手で桃を持つ。

5 芦田・共同利用施設
 芦田共同利用施設横の石佛群の中には、珍しい十五夜講の次の子安観音がみられる。
  五1 寛政12 柱状型 子安観音                 78×29×18
 五1は中央に幼児を抱く子安観音坐像(像高41cm)、像の右に「奉待十五夜講」、左に「寛政十二庚申二月十五日」の銘文を記す。多摩地方では、十五夜塔が全くみられない。
 珍しといえば、柱状型塔(57×18×20cm)に宝珠と錫杖を執る地蔵菩薩の立像(像高49cm)を浮彫りする。左足は普通であるが、右足を蓮華台の上に置く姿態が眼を惹く。明治26年造立である。
 芦田共同利用施設裏の墓地には、如意輪観音(像高18cm)を首尊にし、次の2段に六観音(像高17cm)、下2段に六地蔵(像高17cm)を隅丸柱状型(114×42×30cm)に浮彫りする。頂部に横書きで「奉納」、如意輪観音の右に「西國/秩父」の2行、左に「板東」、下に「先祖代々」の銘を刻む。左側面に「維時寛政四壬子星三月吉日」の年銘がある。

6 滑川・龍正院
 龍正院は板東28番札所、境内には次の庚申塔3基が並ぶ。
   16 元文4 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    126×55×33
   17 年不明 光背型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    129×53
   18 寛文6 板碑型 3猿・蓮華                93×41
 16は上部に「ウーン」種子、中央に剣人6手立像(像高70cm)、下部に内向型3猿(像高16cm)を陽刻する。右側面に「元文四年己未年/十一月吉日」、左側面に「下布中」の銘がある。
 17は上方手に宝輪と矛、下方手に索と独鈷を執る4手立像(像高81cm)、像の右に「(欠失)丁酉3月吉日」、左下に「四拾人」の銘を記す。「丁酉」は明暦3年・享保3年・安永6年・天保8年が該当するが、4手像から推測すると享保3年ではなかろうか。2鶏が正向型3猿(像高13cm)の下にあるので、ウッカリ見逃しやすい。
 18は、中央の3猿を1猿(像高17cm)と2猿(像高17cm)の2段に配する。猿の右に年銘の「寛文六年丙午十月吉日」、左に施主銘の「なめかわ村堀田□左衛門」とある。
 この境内で昼食とする。食後は如意輪観音を主尊とする十九夜塔5基をみてから、入口にある「ぼけ封じ/健康長寿/道祖神/交通安全/家庭円満」の立札の横にある
  道2 現代作 柱状型 双体道祖神「ぼけ封じ 道祖神」     117×102
 道2は男神(像高86cm)と女神(像高94cmが握手像する安曇野系の双体道祖神である。黒御影石の台石正面に「ぼけ封じ 道祖神」の文字を彫り込む。
 双体道祖神の横には、丸彫りの毘沙門天が鬼の上に立つ。脇に「七福神めぐり/龍正院/毘沙門天/商売繁盛/厄除開運/の神」の立札がある。

7 滑川・浅間神社
 板東札所の龍正院へ行く途中で、町田さんから馬頭観音があると教えられる。反対車線側なので帰りに寄ることとして通りすぎた場所である。
 神社の石段登り口右側には、次の庚申塔がある。
   19 寛政12 板石型 「青面金剛王」             111×62
  は中央に主銘の「青面金剛王」、右に「寛政十二歳」、左に「庚申十一月吉日」の年銘を記す。
 ここには房総石造文化財研究会編の『房総の石仏百選』(たけしま出版 平成11年刊)紹介された馬頭観音がある。町田さんが48頁に解説を書かれ、次頁に写真を載せている。3面6手立像(像高90cm)を浮彫りする、寛文11年造立の光背型塔(102×41cm)である。

8 名古屋・助崎城址
 続く助崎城址にある妙見菩薩も、前記の『房総の石仏百選』に掲載されている。96頁に沖本博さんが解説、次頁の写真は戸ヶ崎悦子さんの撮影である。剣を立て亀の上に立つ妙見菩薩(像高53cm)が光背型塔(84×35cm)に陽刻されている。像の右に「村中惣旦那施主 供養」、左に「寛文八戊申天十一月吉日 等覚院」の銘を刻む。9 名古屋・乗願寺
 乗願寺墓地の入口には、次の庚申塔が立つ。
   20 延宝7 光背型 日月・青面金剛・3猿           92×36
 20は中央手に円盤と剣を執る2手立像(像高60cm)、像の右に「時延宝七己未年〔不 明〕供養庚申□□ 信心施主」、左に「二月八日/□□□□□□也」の銘を記す。下部には、正向型3猿(像高14cm)を浮彫りする。

10 名古屋・八幡神社
 神社横の細い道を入り、なおも真っ直ぐに進むと八幡神社に出る。
   21 寛政12 駒 型 日月「青面金剛」(台石)3猿       69×25×15
 21は中央に「青面金剛」の主銘、右に「庚申十二庚申天」、左に「十二月吉日」を刻む。台石の正面に正向型3猿(像高計測なし)を陽刻する。
   22 寛文12 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿        87×44
 22は中央手を下げて剣と人身が向き合う剣人6手立像(像高64cm)、上方手と下方手がH形に浮彫りされる。像の右に「施主修□乗法印」、左に「寛文十二□□吉日□□□欽□」の銘、下部に中央の塞目猿が欠けた3猿(像高13cm)を陽刻する。

11 名古屋・路傍
 上総町郷土史研究会発行の『史談しもふさ』13号(平成4年刊)には、内藤武雄さんが発表された石佛の記事に寛文庚申塔が記載されている。目標がレストラン萩付近とあるから探すと、路傍に次の庚申塔がある。
   23 寛文9 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    120×50
 23は剣人6手立像(像高36cm)、像の右に「奉待庚申」、左に「奉造立」、下に「寛文九己酉/今月吉日」の銘を刻む。正向型3猿(像高15cm)に下に2鶏を陰刻する。
 この庚申塔の前には小さな石祠が8基が3列・9基2列・4基1列に上を向けて置かれている。その中の1基だけが「道祖神」と刻む。こうした小型の石祠形の道祖神は、酒々井町でみている。

12 猿山・路傍
   24 宝暦13 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    113×40×23
 24は下方手に矢を2本持つ合掌6手立像(像高57cm)、像の右に「宝暦十三癸未天」、左に「正月吉日」、下部に内向型3猿(像高12cm)がある。
   25 嘉永3 駒 型 日月・青面金剛・1鬼           61×28×20
 25は剣人6手舞勢像(像高45cm)、隣の宝暦13年塔に比べて石質が悪く、古いようにみえる。右側面に「嘉永3戌9月吉日」の年銘を記す。

13 芦田・古市場
 芦田に入り、古市場にある次の庚申塔をみる。
   31 延享6 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    128×54
 31は標準的な剣人6手立像(像高72cm)、像の右に「延享五戊辰年」、左に「二月三日」の年銘、下部にある3猿(像高17cm)は、左の塞耳猿と塞口猿が内側を向き、左の塞目猿も内側を向いて3匹が横向きとなり、2猿と1猿が相対している。

14 芦田・海老川路傍
 通称・海老川の路傍には、道路より1段高い場所に次の庚申塔3基が並んでいる。
   32 明治27 板石型 「庚申塔」                80×71
   33 享保4 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・(台石)3猿120×55
   34 天保9 駒 型 *                   121×47×21
 32は表面に「庚申塔」の主銘、裏面に「明治二十七甲午九月吉日」の年銘を刻む。
 33は標準的な合掌6手立像(像高67cm)、像の右に「庚申講中二世安樂所/信心施主」、右側面に「享保元丙申年十一月吉日 敬白」、下部に正向型3猿(像高14cm)を陽刻する。
 34は標準的な剣人6手立像(像高70cm)、右側面に「天保九戌四月吉日 敬白」、左側面の石工銘がある。台石の正面に3猿(像高17cm)を浮彫りする。赤萩・八幡神社の天保2年塔と同じように、中央の猿が両手で耳を塞ぎ、右の不見猿は左手で目を塞いで右手で御幣を執る。左の不言猿は左手で口を塞ぎ、右手で桃を持つ。

15 宝田・桜谷津百庚申
 百庚申の入口には、次の十五夜塔がある。
  52 文化9 柱状型 定印阿弥陀                89×38×23
 52は上部に定印を結ぶ阿弥陀如来坐像(像高38cm)を浮彫りし、下部中央に「十五夜爲安楽」、右に「文化四丁卯年」、左に「七月十五日」の銘を刻む。
 奥にある百庚申には、一石に「庚申塔」を7基分を連続する塔(103×36×23cm)が親庚申塔前の参道左右に並んでいる。親庚申は、次の塔である。
35 年不明 柱状型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    103×36×23
 35は標準的な合掌6手立像(像高62cm)、下部に半内向型3猿(像高14cm)を陽刻する。銘文は記録していない。
 こうの親庚申の前に「庚申塔」や「青面金剛」の文字塔9基あり、背後にも折れた「庚申塔」がみられる。これらの塔と参道の塔を含めても100基はなく、70基前後である。

16 宝田・後百庚申
 桜谷津百庚申に続き、同じ宝田の後百庚申を訪ねる。ここの親庚申は木祠内に安置された次の庚申塔である。
   36 明和4 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     99×47×26
 36は標準的な合掌6手立像(像高48cm)、像の右に「明和四丁亥天」、左に「十月吉日」の年銘を刻む。下部に内向型3猿(像高15cm)を陽刻する。
 木祠の横には2列に立ち、前列は青面金剛の刻像塔が1基と文字塔が11基程、後列は青面金剛の刻像塔が3基と文字塔が10基並ぶ。
   37 年不明 駒 型 「庚申塔」                40×20×12
   38 年不明 駒 型 日月・青面金剛・1鬼           50×38×14
   39 年不明 柱状型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        68×28×20
  40 安政7 駒 型 青面金剛・1鬼              44×24×12
  41 文久2 駒 型 青面金剛・1鬼              45×23×13
 37は前列の右端にある文字塔。これとほぼ同じ寸法の20基を越す文字塔が前後2列に並ぶ。
 38は前列にある剣人6手立像(像高46cm)、両側面の銘文は不明である。
 39は後列の右端にある剣人6手立像(像高51cm)、下部に3猿(計測なし)の浮彫り、両側面の銘文はチェックぜす。
40は後列の剣人6手立像(像高31cm)、左側面に「安政七庚申六月日」の年銘がある。
41は後列の剣人6手立像(像高30cm)、左側面に「文久二壬戌十一月」を刻む。

17 龍台・百庚申
 宝田の百庚申が2か所に続き、次の龍台・百庚申に寄る。百庚申の手前に胎蔵界大日如来坐像(像高54cm)が光背型塔(106×47cm)に浮彫りされる。上部に日月・瑞雲を彫り、像の右に「下総國□□郡龍臺村 施主」、左に「宝暦八戊寅年十月八日 □□法印」の銘を彫る。塔の前に篠竹2本を間隔を取って立て、3本の梵天に藁で作った格子を下げる。
ここの百庚申については、院生の土井照美さんが『立正大学大学院年報』第24号(平成19年刊)に発表された「庚申信仰の石造物──特に成田市を中心として」に詳しい。40頁から次頁にかけえて「表3 竜台の百庚申1覧表」が掲げられ、番号・名称・形態(塔形)・像容・備考の項目を記されている・備考欄には、破損状況や持物、「庚申塔」以外の文字塔の主銘が注記されている。
  42 安政6 駒 型 日月・青面金剛・1鬼           65×31×22
  43 嘉永7 自然石 「青面金剛尊」(台石)3猿       105×52
  44 天保9 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        95×33×20
  45 寛政12 駒 型 「青面金剛尊」              92×33×19
 五3 明和6 光背型 如意輪観音                74×30
  廾一 宝暦12 光背型 勢至菩薩                 54×27
42は標準的な剣人6手立像(像高44cm)、内向型3猿(像高19cm)を陽刻する。右側面に「大木得兵衛」、左側面に「安政六年未十二月」の銘を刻む。
43は「青面金剛尊」が主銘、台石の正面に浮彫りされた3猿の踊る姿態が面白い。太鼓を打つ猿(像高13cm)、御幣を担ぐ猿(像高10cm)、扇子を持つ猿(像高11cm)でいずれも烏帽子をかぶる。
44は後列の右端にある中央手の右手を欠くが、左手の人身を下げているので剣人6手立像(像高51cm)、脚下の鬼が横を向く姿勢をとる。鬼も1風変わっているが、下部の3猿(像高10cm)も右端の塞目猿が外側を向き、中央の塞口猿と左端の塞耳猿の2匹が外側を向く。左側面に「天保九戊戌二月吉日」の年銘がみられる。
45は「青面金剛尊」の文字塔、右側面に「寛政十二庚申年/十二月吉日」、左側面に「龍臺村下□□/十六人」の銘がある。
53は頂部に「ア」種子、中央に輪王座の2手如意輪観音(像高41cm)、像の右に「奉供養十五夜講」、左に「明和六己丑二月吉日」、下部に「龍臺/若女中/十七人」の銘を刻む。
廾1は二十三夜本尊である合掌する来迎相の勢至菩薩立像(像高40cm)、像の右に「奉待廾3夜供養」、左に「宝暦十二壬午天七月廾三日」、下部に「同行/六人」の銘を記す。
45は「青面金剛尊」の文字塔、右側面に「寛政十二庚申年/十二月吉日」、左側面に「龍臺村下□□/十六人」の銘がある。
53は頂部に「ア」種子、中央に輪王座の2手如意輪観音(像高41cm)、像の右に「奉供養十五夜講」、左に「明和六己丑二月吉日」、下部に「龍臺/若女中/十七人」の銘を刻む。
廾1は二十三夜本尊である合掌する来迎相の勢至菩薩立像(像高40cm)、像の右に「奉待廾三夜供養」、左に「宝暦十二壬午天七月廾三日」、下部に「同行/六人」の銘を記す。
 以上に挙げなかった青面金剛の刻像塔は、一応、計測したので次に示しておく。「番号」は土井さんと同じにし、「青面種類」は中央手による区別、「像高」は青面金剛のもので単位はcm、「塔形」は塔の形式、「塔寸法」は高さ×幅×奥行で単位はcmである。実際は後列の右端から始め、後列の左端へ戻る順で行ったが、土井さんの番号に合わせて並び変えた。
   番 年銘  青面種類 像高 塔形  塔寸法
   3 安政6 剣人6手 47 駒 型 67×30×21
   5 安永2 合掌6手  36 駒 型 45×24×12
   17 安政X 合掌6手  37 駒 型 52×25×12
  29 年不明 合掌6手  37 駒 型 44×26×16
   32 年不明 合掌6手  34 駒 型 43×27×17
   45 年不明 合掌6手  37 駒 型 44×23×12
  56 年不明 合掌6手 36 駒 型 42×20×13
   59 安政3 合掌6手 35 駒 型 41×26×16
  61 安政6 合掌6手 35 駒 型 44×25×16
   90 安政5 合掌6手 33 駒 型 42×27×16
  100 安政2 合掌6手 39 駒 型 44×25×16

18 北羽鳥・原田堂
 龍台から北羽鳥へ戻り、原田堂(はらんどう)を訪ねる。主な石佛は享保7年の車地蔵であるが、手前にある十九夜塔からみる。
 九1 正徳1 
(以下脱落?)
 
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