石川博司著    石佛雑記ノート 17       発行 多摩野佛研究会  
 
   〔内 容〕 ◎『石佛月報』11月号  ◎日光初期の庚申塔
         ◎武蔵野讃歌写真展   ◎日本石仏協会写真展
         ◎『金昌寺の石仏』     ◎『石仏散歩 悠真』37号  ◎『石仏散歩 悠真』38号 
         ◎『石佛月報』12月号   ◎『神奈川の疱瘡神・2』   
         ◎『私の「あしあと」20』  ◎青梅七福神を廻る    ◎山梨の五神名地神塔
         あとがき
『石佛月報』11月号

 瀧澤龍雄さんさからの『石佛月報』11月号を平成19年11月30日に受け取る。年末になると色々なまととめをしなけらばならず、何かと気忙しい。やれ『平成十九年の地口行灯』とか、『続多摩石仏の会雑記07』や『平成十九年の祭事記』とか、これまでに書いたものが溜まり、冊子にしなければならない。そうした訳で、瀧澤さんからの『石佛月報』や日光市の『庚申塔』も積んでおくままで眼を通してない。やっと一段落したので手に取っている。まことにご好意に対して申し訳ない。
 『石佛月報』11月号は、特集「日光市小来川地区を中心とした日光の石物巡り」である。表紙は小来川・円光寺の自然石庚申塔2基を撮った写真を載せている。安永7年の自然石「庚申塔」の横に昭和庚申年の自然石「ウーン庚申」塔が並んでいるのが嬉しい。
 写真下の文章の末尾には、次のように次回の庚申年を心配している。
    それにしても、昭和五十五年から今年でまだ二十七年しか経っていないのに、今回来てみたら前回調査の時には実施されていた庚
   申講が、多く消滅していた事実には驚いています。当然ながら、その地区では昭和五十五年に祀られていた場所でさえ放置され始め
   ています。昭和五十五年にあった当地の庚申講は、その多くが若者に嫌われて今は廃止となっています。恐らく、次の2040年に
   庚申塔が建立される所は数えるほどになっていることでしょう。これも時代の趨勢です。それだけに、記録は性格をモットーとした
   1つの庚申塔調査により多くの時間をかけました。
 予想していた以上に昭和庚申年には、庚申塔の造立がみられた。長野県を最高にして、栃木県は新潟県に続く第3位の位置を占めている。これも高遠石工の影響と考えている。
 本文の第1は「野の秋に佇む馬頭尊」、東小来川の道路沿いの墓地にある寛政10年の2手馬頭観音にカメラを向けている。馬頭観音の石佛に対する瀧澤さんの感性は、文章を通して私ととは異なるのを感じる。
 次は「日光地区のネコ像」、和泉・中居の磐裂神社のネコの丸彫り像である。青梅市滝の上町の常保寺には、境内に丸彫りのネコ像があるが、『青梅市の石仏』や『石仏を歩く』でも無視している。その次も「ついでに、もう一匹もご紹介」と、和泉・下の原庚申塚の丸彫りネコ像を載せている。
 4番目は「日光の湯殿山信仰」、東小来川・新谷にある八坂神社の羽黒三山塔を紹介している。上部中央に「湯殿山」と大きく、両横に「月山」と「羽黒山」の文字を配している。文化13年の造立。瀧澤さんは、その背景をこの文化13年塔から寛永元年にまで遡って考察している。
 5番目は「今市地震の震災碑」、和泉・中居の磐裂神社にある昭和28年の石碑である。埼玉の高瀬正さんをこの碑に案内していたとは、驚きである。平成18年5月6日(土)の第151回の石仏談話室では、高橋さんの「埼玉の近世災害碑」をお聞きしていた。昭和61年から埼玉県内の災害碑を調査され、すでに80基を記録したと聞いた。
 次は「藪山に立つ不動明王様」、西小来川・さいかち原の東の山中にある年不明の浮彫り像。背後の火炎光背に赤で彩色され、その前に不動明王立像が浮彫りされる。
 次も「日光の不動明王像」、上鉢石町・金谷ホテル内にある年不明の丸彫り不動明王立像である。この像は大黒山上り口の上にあるが、小さな写真で同山頂の不動明王浮彫り像を紹介している。
 8番目は「塞の神の道祖神」、中小来川にある上部に「イ」と「サ」の種子を刻む「道祖神」自然石塔である。文化2年10月大吉辰日の造立。瀧澤さんは、この種子を聖観音と地蔵とみずに、合わせて「サイ=塞」とみるのは、想像もつかいない解釈である。意外と「塞」ヲ種子で表現したものかもしれない。
 ここから庚申塔が続き、その第1が「おふざけの二猿姿」、東小来川・黒下・庚申塚にある享保9年塔である。上部に日月、中央上部に「ウーン」の種子、その下に拝侍二猿の浮彫り、中央に「青面金剛供養攸」の主銘を刻む。
 第2弾が「日光の像容庚申塔2)」、東小来川・新谷にある八坂神社の寛延元年の丸彫り地蔵坐像、台石正面に「庚申供養」の銘を刻む。この地蔵の背後には、先刻みた文化13年の湯殿三山塔が写っている。
 庚申塔第3弾が「日光の像容庚申塔3)」、七里・尾立岩・二橋坪の庚申塚ある元禄14年の丸彫り地蔵坐像、祠に守られているせいか、前の寛延元年像よりスッキリしている。本体に「青面金剛童子」の銘を彫る。
 庚申塔第4弾が「日光の像容庚申塔4)」、地蔵から一転して東小来川・新谷にある八坂神社の安永7年造立の青面金剛である。合掌6手立像を主尊とし、下部に正向型3猿を浮彫りする。
 庚申塔第5弾の「日光の像容庚申塔5)」も前に続き青面金剛、違いは合掌6手ではなくて標準的な剣人6手立像である。小来川・宮ノ坪庚申塚にある寛政元年立像である。下部には、片手で塞ぐ姿態の変化がある3猿を浮彫りする。
 続く庚申塔第6弾の「日光の像容庚申塔6)」も寛政10年の標準的な剣人6手立像、中小来川・向原坪庚申塚にある。文中の記載から、この場所に昭和庚申年塔がある。
 庚申塔第7弾の「日光の像容庚申塔7)」も前記に続き明治12年の標準的な剣人6手立像、東小来川の温泉近くの路傍にある。前の塔は鶏も猿もないが、この塔は2鬼が足下に並んでいる。
 庚申塔の連続の「日光の像容庚申塔 8」は第8弾まで続き、第7弾と同じ東小来川の路傍にある。寛政元年造立の剣人6手立像、両脇下の2猿が浮彫りされている。
 17番目の「昭和庚申年塔」も庚申塔を扱う。昭和55年の庚申年に造立された自然石に「ウーン 庚申」の主銘を刻む文字塔、南小来川・山口にある。この辺りの庚申講の衰退から、瀧澤さんは文の最後に「この昭和五十五年庚申塔の隣に、次の新しい庚申塔が建つことはないだろうと思う」と述べている。
 次の「山中の馬鹿でかい庚申塔」は、御幸町の山中にある高さ256cmの「バク 庚申塔」と刻む自然石文字塔を取り上げている。弘化4年の造立である。
 「玄人好み?の庚申塔」も庚申塔が続く。西小来川・菅沢・渡戸地蔵尊にある安政6年の「ウーン 庚申供養塔」の自然石文字塔である。題名の「玄人好み」は、実は「揶揄」で「苦労人好み」の意味だとし、裏面の梵字2字を指している。
 次の「二猿表示の庚申文字」は、写真だけみただけでは自然石に単なる「庚申」の主銘の自然石文字塔とみられる。中小来川・水草沢の寿命院跡入口にある万延元年塔である。注意深く「申」の文字をみると、文章にもあるように「申」を縦に2つ重ねた字であるのに気付く。これが瀧澤さんのいう「二猿表示」なのである。
 最後は「小来川地区調査最後の庚申塔」、東小来川・清合地の福田家の畑にある「ウーン 庚申供養塔」の文字塔である。宝暦7年塔で「ウーン」の下に日月、下部に向かい合わせの2猿(瀧澤流には拝侍二猿型)を浮彫りする。元はこの場所が庚申塚、その残映がこの塔だという。 ともかく、通常の号よりも厚く、昭和庚申年の影がちらく11月号である。(平成19・12・22記)
日光初期の庚申塔

 平成19年11月30日(金曜日)に宇都宮の瀧澤龍雄さんから、『石佛月報』11月号と1緒に『栃木県旧日光市・江戸前記迄の 庚申塔』(以下『庚申塔』と略称する)が送られてきた。『庚申塔』の表紙上部には、「日光型」と知られる向かい合いの猿の拓本がみられる。拓本の主は、日光市上鉢石町・磐裂神社の慶安3年塔の2猿を写している。2猿の拓本といえば、清水長輝さんの『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)に使われた凾を思い出す。
 『庚申塔』の表題は、先にも記した『栃木県旧日光市・江戸前記迄の 庚申塔』であるが、頁を開けると扉に「『日光型庚申塔』について−拝侍二猿型の像容名を含めて−」とある。本文の最初は、論考「『日光型』という庚申塔像容の分類名称等について」、次いで「栃木県旧日光江戸前期までの碑塔リスト」となっている。
 後者は7頁にわたり、初発の本町・八幡神社にある寛永11年塔から野口町・日吉神社にある貞享5年灯籠1対まで56基、最後に参考の久次良町・安良沢橋北の文政4年塔と延宝以前と推定される2基を加えている。これらの詳細なデータの後には、1頁に9枚宛で7頁にわたり庚申塔の写真を載せている。
 論考と写真を含めた塔データは、すでに瀧澤さんのホームページ「栃木の石仏とたおやかにのんのさま」に公開されている。ホームページには、GOOGLEで「瀧澤龍雄」を検索するとトップに出ますから、表紙から「栃木の碑塔」を選んで目的の論考かデータを選択すればよい。
 これまで「日光型」の用語が使われたが、多くの方が主として向かい合わせの2猿(拝侍2猿型)を指している。ところが「日光にある庚申塔」の意味で「日光型」が使われると、2猿の「日光型」と混乱する。
 2猿の場合は、日光地方以外の各地に向かい合わせの2猿があるから「日光型」が不適切であるという意見がある。しかし、こうした2猿を一々こと細かに形態を説明するよりは、単に「日光型」と表現するのがわかりやすい。考古学で使われる「勝坂式」は、相模原市勝坂の出土に由来する。2猿の形態を「日光型」と簡潔に表せるのであれば、「向かい合わせの二猿」とか「拝侍二猿型」よりわかり易いと思う。
 「勝坂式」のように2猿に限定して「日光型」を使うのであれば理解できるが、2猿から「日光型」を安易に拡大解釈して「日光型庚申塔」とするのは、非常に問題が残る。「日光型」は2猿の姿態を表すにの使用を限定すべである。
 土地に密着した庚申塔に限定すのであれば、地元の特徴を捉えて厳密に規定する必要がある。その意味で瀧澤さんが「日光型庚申塔」の定義を提案することには賛成である。詳しい内容はホームページに公開されているから、よく読んで考えていただきたい。(平成19・12・22記)
武蔵野讃歌写真展

 平成19年12月14日(金曜日)、朝配達された『西多摩新聞』第2122号5面に「田沼武能写真展」の紹介記事が載っている。写真展は、青梅市立美術館(滝の上町1346)で16日(日曜日)まで催され、これに併せて15日(土曜日)に田沼武能さんの講演が午後2時から青梅市福祉センターで行われる。
 これから今年発行する小冊子のコピー原稿ができて一段落したので、新聞記事にひかれて青梅市立美術館を訪ねる。写真展は、美術館1階の市民ギャラリーに約80点のモノクロ写真を中心に展示されている。これらの写真は、すでに発行された『武蔵野讃歌』(ネット武蔵野 平成18年刊)からカラー写真3点と地元を中心としたモノクロ写真をセレクトしている。
 去る平成17年12月10日(土曜日)には、同館で開催された写真展「田沼武能の武蔵野」に行き展示された獅子舞の写真を観覧した。今回も獅子舞の写真を期待して訪ねた。展示には、「祭りと祈り」のコーナーの前に思いがけず「野の石仏たち」がみられる。いずれもモノクロ写真である。
 「野の石仏たち」のコーナーには、次の21点(1部4点が2段展示)が横1列に並んでいる
   順 題名           撮影地               撮影年
   1 多聞院の石像       埼玉県所沢市中富 多聞院      98年
   2 6角石幢 普済寺     東京都立川市柴崎町 普済寺     01年
   3 慈光寺の石仏       埼玉県比企郡ときがわ町 慈光寺   98年
   4 供養塔 慈光寺参道    埼玉県比企郡ときがわ町 慈光寺   98年
   5 海禅寺の墓石群      東京都青梅市二俣尾 海禅寺     97年
 1の石像は、丸彫りの「鬼の寒念佛」を撮っている。大津絵の中にみられる絵柄である。『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)50頁には、南湖峯夫さんが執筆した「鬼(鬼の寒念仏)」が載り、説明の横に目黒区八雲・東光寺にある立像の写真がある。この像は庚申懇話会の目黒見学会でみているが、所沢の石像は知らなかった。
 2の普済寺の六面石幢は、母方の祖父母の墓がある寺であり、覆堂の工事を祖父が請負って作っている。富士見町の歴史民俗資料館のレプリカには体面したにも関わらず、未だに実物をみたことがない。
 3の「慈光寺の石仏」は、如意輪観音と青面金剛の写真である。青面金剛の台石に僅かにみる猿は烏帽子をかぶっている。この寺の境内には、烏帽子をかぶり、左手に御幣、右手に扇を持って踊る猿「申八梵王」がある。これは昭和49年10月に多摩石仏の会で慈光寺を訪ねた時にみているが、青面金剛には気付かなかった。
 4の供養塔は、板碑群で有名の慈光寺の参道にあるもので、弥陀3尊を浮彫りした立像である。
 5の「海禅寺の墓石群」は、市内2俣尾にある禅寺の墓石群を撮った写真である。
   順 題名           撮影地               撮影年
   6 地蔵菩薩像 慈光寺    埼玉県比企郡ときがわ町 慈光寺   98年
   7 四国八十八カ所巡り石仏群 東京都国分寺市西元町 国分寺薬師堂 01年
   8 鬼子母神の仁王様     東京都豊島区雑司ケ谷 鬼子母神   81年
   9 石仏 小林寺       埼玉県大里郡寄居町末野 小林寺   99年
   10 磨崖仏          埼玉県秩父郡小鹿野町 観音院    04年
 6は、慈光寺にある丸彫りの地蔵菩薩立像を撮っている。
 7は、国分寺薬師堂境内にある四国八十八か所巡り石仏群である。多摩石仏の会の関口渉さんは、この石佛群にふれて『新多摩石仏散歩』(たましん歴史・美術館 平成5年刊)の43頁に次のように書いている。
 薬師堂の裏にまわると、四国八十八所の石佛がならぶ。戦後、不心得者に持ち去られたものもあって数は揃っていない。小さいながら一列にならんださまは壮観である。いろいろな仏様の姿がみられるのも楽しい。
 8の鬼子母神の仁王様は、『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)の66頁にこの仁王の写真を載せているので思い出がある。
 9の小林寺の石佛は、五百羅漢を写した4点で2段に展示されている。この小林寺については、『石仏を歩く』(日本交通公社出版事業局 平成6年刊)の「寄居」で「裏山の五百羅漢は有名」(67頁)と簡単に紹介しただけで、三宝荒神の写真を載せた。
 10の「磨崖仏」は、爪彫りしたと伝承がある石佛である。
   順 題名           撮影地               撮影年
   11 黒山三滝の石仏      埼玉県入間郡越生町黒山       98年
   12 馬頭観音         埼玉県入間郡越生町         99年
   13 石仏群 長命寺奥の院   東京都練馬区高野台 長命寺     93年
   14 板碑 八雲神社      東京都府中市分梅町 八雲神社    93年
   15 石仏群 聞修院      東京都青梅市黒沢 聞修院      98年
 11の「黒山三滝の石仏」は、触地印を結ぶ丸彫り如来坐像が被写体である。この印相の如来は釈迦如来か阿〓如来、知名度からみて釈迦如来と思われる。
 12の「馬頭観音」は、3面6手立像を浮彫りしたもの。
 13の「石仏群」は、作家・若杉慧の写真で知られる長命寺の十王坐像を写している。
 14の「板碑」は、板碑と板碑を包みこんだ背後の木を撮ったもの。
 15の「石仏群」は、聞修院の墓地入口にある無縁塔群である。最上部に丸彫り地蔵坐像を置く。
   順 題名           撮影地               撮影年
   16 六地蔵 最勝寺      埼玉県入間郡越生町堂山 最勝寺   99年
   17 ケヤキ並木の石仏     埼玉県入間市            86年
   18 塩船観音寺        東京都青梅市塩船 塩船観音     98年
 16の「六地蔵」は一石に横に浮彫り六地蔵立像が並ぶもので、右から宝珠と錫杖・数珠・鉄鉢・幡幢・柄香炉・合掌の順である。
 17の「ケヤキ並木の石仏」は、根元にある文化7年銘の地蔵立像を浮彫りする墓石である。背後をバイクが通っている。
 18の「塩船観音寺」は、杉と根元にある五輪塔を写している。塩船観音の境内の杉の目元に五輪塔があるとは知らなかった。
 獅子舞を期待して行った写真展では、思いがけずに石佛写真に出会った。これらの展示写真の他にも『武蔵野讃歌』には石佛写真が載っている。(平成19・12・15記)
日本石仏協会写真展

 平成19年12月22日(土曜日)は、西武池袋線大泉学園駅近くの「ゆめりあギャラリー」(ゆめりあホール7階)を訪ねる。3日ほど前に、たまたま日本石仏協会のホームページをみたら、石仏写真展の記事が載っており、12月20日(木曜日)から23(日曜日)まで開催されているのを知った。
 初めてゆめりあギャラリーを訪ねた時とは違い、今回が3回目なので会場へは迷わず駅から直行する。受付の森正彦さんに挨拶し、記帳してから展示された66点の写真を拝見する。前回と比較すると、出展数が少ないのが残念である。会場にいた杉本康希さんの話では、出品の呼び掛けが少なかったかったようである。
 会場の展示写真の初めは岡崎の長岡和慶さんの写真が5点並んでいる。その中の1点は、長岡和慶アトリエで撮られたもので、題名は「仏足石と十大弟子」である。上部に佛足石、中央より下に僧形の十大弟子を2段に浮彫りしている。『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)で「仏足石」を担当したのから、いまだに佛足石の写真で展示されていると気になる。
 長岡作品に続く6番目、中森勝之さんの「石垣にされた石仏たち」は、横須賀市長井・不断寺で撮影している。横に倒して石垣にされた石佛の1つが、天保4年「青面金剛」主銘の文字塔である。無残な仕置きである。
 受付にいた森さんの作品15番の「真高寺の石仏」は、市原市・飯給にある真高寺で撮影したものである。被写体は、四国八十八か所の本尊を浮彫りした寛政7年の笠付型塔2基である。先月27日(火曜日)には、地元の町田茂さんに案内していただいて庚申塔を廻った。市原にこうた塔があるとは知らなかった。
 庚申塔は、先刻の石垣の文字塔と森田道男さん撮影の20番「浅間神社の一石百庚申」である。高崎市倉淵にある青面金剛を100体4面に浮彫りした寛政6年塔である。昭和55年頃にみた記憶があり、探せば写真が残っている。
 22番の青木安勝さん撮影の「安曇野の神々1」は、安曇野市穂高・古厩の彩色道祖神が被写体である。これまでに3度、今年も8月に穂高を訪ねているが、いまだ古厩の彩色双体道祖神には対面していない。町内に18基ある彩色双体道祖神の中では、矢原・橋詰の双体像が私の好みである。どちらかといえば、古厩像の彩色は渋く落ち着いている。
 ふじみ野の遠藤和男さんが美里町白石・宗清寺で撮られた如意輪観音は、31番「四臂の如意輪観音」の題名で展示されている。この寺は、今年9月9日(日曜日)の日本石仏協会見学会で地元の田中憬さんの案内で廻っている。石佛は享保11年造立の丸彫り像で、銘文の「奉造立廾二夜待供養」から、二十二夜の本尊として「白石村善女」によって造られた。
 遠藤さんの32番「四十九院の石仏」は、同日に訪ねた小栗・普門寺の弥陀坐像である。私にとっては、像容的に変化がある像に注意を注ぎ、阿弥陀如来は見慣れているので意識していなかった。
 遠藤さんの33番「祠の中の青面金剛」は、同日の見学会で行った沼上・長福寺で撮影したものである。この彩色された青面金剛像は、残念ながら木像である。遠藤さんの3点は、いずれも見学会の日に写されたものである。
 先刻、森さんの四国八十八か所本尊の塔を挙げたが、大木英雄さんが1から3の「散歩道の石仏」題名で出品した3点も市原市内で撮ったものである。
 梶川賢二さん撮影の40番「樹下の羅漢」は、福島県小野町・満福寺の羅漢を写している。この羅漢は、十六羅漢か五百羅漢か気にかかる。前の「苔の衣を着た地蔵」と併せ、梶川さんは石佛写真は、石佛に付着した苔の美に注目している。
 48番の「慈眼観音」は、小島隆司さんが御殿場市の平和公園で撮ったものである。下の説明文に「参道下の歩道に三十三観音がずらりと並び」とあり、この文章でに引きずられて写真の観音の像容の確認を怠った。勿論三十三観音の中には、題名の「慈眼観音」はない。これも『日本石仏事典』で「三十三観音」を分担執筆しために注目した写真である。
 52番の清水亨桐さんの写真「七福神と地蔵」は、八王子市高尾町のケーブル駅近くで撮った写真である。近頃は七福神の石像が各地で造られているので、これもこの種のものである。高尾山では、飯綱権現は気になっても七福神まで注意が届かなかった。
 写真展の会場を一巡して興味を覚えた写真は、以上に挙げた通りである。
 写真展をみてから大泉学園駅から近い妙延寺を訪ねる。これまで写真展の後に周辺の石佛を廻ることがなかったが、今回は事前に庚申塔を手持ちのデータベース『練馬区庚申塔D/B』で検索してみた。その結果「大泉」で次の3基が網にかかった。
   1 嘉永3 日月・青面金剛(剣人6手)1鬼    駒 型 大泉町2−59 別荘橋
   2 正徳5 日月・青面金剛(合掌6手)3猿・蓮華 笠付型 大泉町5−6 路傍
   3 大正9 青面金剛(合掌6手)3猿       駒 型 東大泉3−16 妙延寺
 この中で3の妙延寺は、地図でみても大泉学園駅から近い。そこでこの寺を訪ねることにする。寺名から日蓮宗の匂いを感じていたが、予想通り日蓮宗の寺である。一般に日蓮宗のてらには庚申塔がないのが常識で、事前に調べてなければパスするところである。
 境内の墓地に近い場所に石塔がみられ、その中に次の庚申塔がある。
   1 大正9 駒 型 青面金剛・3猿              62×25×20
 1は標準的な合掌6手立像(像高45cm)が主尊で、下部に正向型3猿(像高12cm)を浮彫りする 。右側面に「大正九年拾一月建之/山田宏次」と年銘と施主銘を記す。
 近くには、「水子観音」と彫る茶系の御影石を台石に嵌め込んだ丸彫りの観音像がみられる。観音の裾に2人の幼児がまとわりついている。ここでは、水子地蔵ではなくて水子観音である。
 妙延寺の境内で庚申塔と水子観音をみてから、大泉学園駅へ戻って帰途につく。とにかく青梅からは、西武線で往復共に乗換が多い。(平成19・12・22記)
『金昌寺の石仏』

 平成19年12月26日(水曜日)、日本石仏協会の栗原榮子さんから表題の『金昌寺の石仏』を送っていただく。この本は、編集と発行を日本石仏協会埼玉支部を担当し、金昌寺の石佛を調査して184頁に仕上げている。
 表紙と裏表紙のイラストを描き、本文の最初に「『金昌寺の石仏』発刊によせて」を書かれた金子弘さんは、9月21日に87歳で亡くなられた。10月6日(土曜日)の第165回石仏談話室で、坂口和子会長が挨拶の中で金子さんの訃報を伝えた。暮れにきた『日本の石仏』第124号には、坂口さんの「金子弘先生を悼む」と野口進さんの「金子弘先生を偲んで」の追悼文が載っている。遅ればせながら、この場を借りて金子さんの冥福を祈りたい。
 本文は先ず秩父観音札所、次いで荒木観音堂と金昌寺の歴史にふれた後、石佛造立数や造塔年代など金昌寺石佛の概要を述べている。頁を繰ってみていくと「造立者の地域」が示され、30頁に「青梅宿下町 青梅中町 青梅中宿 青梅下宿 青梅下町」が縦1列に載っている。それぞれの造立者銘が気になって頁をさらに進める。
 最初は55頁のA2群25番の丸彫立像羅漢、銘文が「青梅下宿/奥野弥右衛門内/先祖一切霊」である。次が76頁のB1群22番の丸彫立像観世音菩薩、銘文が「青梅中町/□□□□/家内祈祷」である。3番目が116頁のC5群19番の丸彫立像地蔵菩薩、銘文が「青梅宿下町/小沢源左ヱ門/先祖一切霊」である。4番目が172頁のE2群11番の丸彫立像不詳、銘文が「青梅中宿/小沢□□/森下 一切氏子子供三人菩提」である。最後が180頁のE3群36番の丸彫立像不詳、銘文が「青梅宿下町/嶋屋平太娘/先祖一切霊」である。
 地銘の青梅下宿・青梅宿下町・青梅宿下町は、いずれも私が住んでいる現在の本町である。青梅中町と青梅中宿は、現在の仲町を示している。本町には奥野家や小沢家があり、年代がずれるが明治5年の「祭礼出シ行列順番控」をみると、小沢弥左衛門・奥野忠左衛門・奥野茂兵衛の名前が載っている。嶋屋は旅籠で、天保5年刊行の『御嶽菅笠』の絵図に載っている。仲町にも小沢家がある。
 埼玉支部の悉皆調査では、金昌寺石佛の1172基を記録している。この金昌寺の石佛調査報告から、思いがけない青梅と秩父の結び付きがうかがわれる。これも記録の分析の1つである。今後、この調査報告書をいかに活用するかが問題である。(平成20・1・10記)
『石仏散歩 悠真』37号

 平成19年12月27日(木曜日)には、多摩石仏の会の多田治昭さんから『石仏散歩 悠真』の第37号と第38号の2冊が届く。昨年は『石佛雑記ノート』を月に1冊以上発行してきたから、同じ月に刊行された『石仏散歩 悠真』が2号重なることはあった。本号では幸いにして同時発行の2冊を採り上げたが、今後は季刊か、よくて隔月刊になるから2か月分、あるいは3か月分が同一号に載ることになるので、同1号に4冊なり6冊載る可能性がある。
 第37号は「塞ぎの二猿」の特集である。庚申塔に2猿の像を刻む例はあって、例えば「日光型」で知られる向かい合わせの2猿(拝侍型2猿)も各地で見掛ける。多田さんも最初に「二箇所目の柏原・柏原神社で文字の庚申塔に塞ぎの二猿が刻まれる塔を見た。あまりみかけないので帰ってから、庚申塔ファイルを見るといくつかある」と書いている。
 確かに指摘されれば、塞ぎの2猿は、咄嗟には思い浮かばない。前記の柏原神社の2猿は、昨年11月に市原の町田茂さんのご案内で多田さんと共にみている。第37号には、塞ぎの2猿の塔が18基紹介されている。
 これを県別に分析すると、群馬県が5基で最も多く、次いで栃木県・神奈川県・埼玉県の各3基、千葉県・茨城県・長野県・山梨県の各1基である。掲載された写真から抜けている市原の1基を加えると、千葉県は2基となる。
 記載の中で最も古いのが神奈川県茅ヶ崎市下寺尾・健彦神社の万治2年塔、次いで同県小田原市下曽我の延宝2年塔、埼玉県秩父郡長瀞町岩田の延宝6年塔、同県さいたま市南区関・東福寺の延宝8年塔、以下、天和1基・元禄1基・宝永1基・正徳2基・宝暦1基・文化1基・年不明7基である。塞ぎの2猿は、三不型の3猿が普及する過程で生じた現象ではなかろうか。
 掲載写真の中で山梨県上野原市羽佐間の年不明石祠は記憶にあるが、塞ぎの2猿であったかは定かではない。神奈川県相模原市沢井の宝暦塔もみているかも知れないが、全く覚えていない。
 いずれにしても「塞ぎの二猿」は、他の2猿と比べても2猿の中でも少数派である。普段見過ごしている中にも形態分析すると、思いがけない事柄がわかる。(平成20・1・9記)
『石仏散歩 悠真』38号

 平成19年12月27日(木曜日)には、多摩石仏の会の多田治昭さんから『石仏散歩 悠真』の第37号と第38号の2冊が送られてくる。第37号は「塞ぎの2猿」、第38号は「千葉県市原市の庚申塔」の特集である。
 市原には、昨年11月27日(火曜日)に行き、地元の町田茂さんのご案内で多田さんと共に市内の庚申塔を廻った。また、町田さんから先年『市原市の庚申塔』と『市原市の馬頭観音』の2冊をいただいた。共に市原市石造物同好会の調査・編集で前者が196基記載で平成6年、後者が415基掲載で平成7年に刊行された。なお『市原市の馬頭観音』には、『市原市の庚申塔』発行後に発見された16基を載せている。両書を併せると、市内の庚申塔は212基になる。
 多田さんは「まえがき」で次のように書いている。
 市原市については、町田さんが平成6年にお出しになった「市原市の庚申塔」により、何度か調査をしている。童子付青面金剛塔が25基、石祠の庚申塔は11基とほかの地域に比べて多くみられるのが、市原市の庚申塔の特徴の一つであろう。今度の調査は、山の中にあって案内がなければ行けない場所を選んでコースを作成してもらった。
 多田さんさんの主たる目的は、市内にある童子付青面金剛塔と庚申石祠である。私の場合は、市原といえば、「岩槻型」に対する「市原型」の青面金剛である。岩槻型も市原型も、中央手が合掌でそれ以外の手に人身を持つ青面金剛像を指す。岩槻型では前向きの鬼という特徴がみられるが、市原型には人身を持つ以外に共通する特徴がない。
 今回は町田さんに市原型を特に廻るようには要求しなったので、該当するのは、川在・大宮神社にある延宝8年塔1基である。この塔については、後述の「市原市内の庚申塔巡り」には
   19 延宝8 光背型 日月・青面金剛・1鶏・1猿        67×37
 19は下方手に羂索と人身を執る合掌6手立像(像高42cm)、像の右に「奉造立庚申供養成就之攸願主/川在村」、左に「延宝八庚申年十一月吉日」の銘を刻む。像の左足元に烏帽子をかぶって御幣を猿(像高15cm)を陽刻する。と記した。特に「市原型」とは断っていない。
 第38号の表紙は、髑髏の胸飾りをする青面金剛のアップの写真、不入斗・行屋跡の享保3年塔である。「あとがき」下に馬乗馬頭2基の写真がある以外は、昨年11月27日に廻ったコース順に写真を載せている。
 今回のコースは、山木・交差点付近路傍の万治4年塔から始まっている。次いで訪ねたのが柏原にある柏原神社、境内にある天和2年塔をみる。第37号の「塞ぎの二猿」特集の初めでふれた塔であるが、写真が省略されていた。
 ともかく、廻った庚申塔の銘文と写真が載っており、記録としてもビジュアル的で細かい点まで写真を通して理解できる。特に安久谷の寛文7年3猿石祠は、太い竹が組合わされていて写真に不向きである。その点で多田さんは、平成5年に撮影された写真を載せているので、現状ではわかりにくい点が理解できる。
 今回、多田さんが扱ったコースは、私も『石佛雑記ノート16』(多摩野佛研究会 平成19年刊)の「市原市内の庚申塔巡り」でふれている。写真が主体の多田さんと文章が主体の私と、表現方法に違いがあるものの庚申塔に対する興味は同じ目線であるのがわかる。(平成20・1・9記)
石佛月報』12月号

 平成19年12月29日には、瀧澤龍雄さんから『石佛月報』12月号を受け取る。昨年は『石佛雑記ノート』を月に1冊以上発行してきたから、同じ月に『石佛月報』を重ねて記載することはなかった。今年は季刊か、よくて隔月刊になるから2か月分、あるいは3か月分が同一号に載ることになると思う。今回も11月号と同時掲載である。
 12月号は、特集「五目釣果の石造物報告」である。表紙には、黒石市堀越・温泉神社のネコ像2体の写真を載せ、この1年を振り返って次のように記している。
 この一年間を振り返りますと、年間を通しまして毎週末は必ず石仏巡りに出かけられ、その意味では皆勤賞ものだと自分を褒めています。その一年間の成果内容としては、念願だった旧日光市の庚申塔はほぼ終了したことです。
 次の頁には、それを裏付ける「2007年の石仏巡り実績表」が日付と行き先や調査内容を逐一記録されている。とてもこのような行動がとれないので、只々感心して見ているだけである。
 最初の「那須の地のネコ」は、12月1日に多摩石仏の会の加地勝さんの発案で、多田治昭さんと五島公太郎さんが同行した石佛巡りに撮られた猫である。ネコの造像の目的は、養蚕の守り神としてである。表紙に続きネコである。
 次は「那須の地の地神塔」、この地神塔が五神名地神塔であるのが注目される。徳島県阿南市辰巳町から那須開拓に移住した方々が明治23年の造立した。巻末にある「那須地方の石仏巡り記」でも、この地神塔にふれている。
 かつて『日本の石仏』第21号(日本石仏協会 昭和57年刊)に発表した「地神塔の全国分布」では、栃木について「関東地方では、今のところ茨城と栃木の手掛かりがつかめていない」と書いてだけに、栃木で地神塔がみつかったのは嬉しい。『岡山の地神様』(吉備人出版 平成13年刊)の著者・正富博行さんも歓迎するであろう。
 こうした事例は、北海道にみられる。徳島から北海道へ移住して開拓に従事した人達によって、移住先の地に五神名地神塔を造立している。小寺平吉氏は、その著『北海道の民間信仰』(明玄書房 昭和48年刊)の中で「もともと地神は四国出身の移民や、中国地方の岡山など両県人移民が、それぞれの郷土の習俗信仰を移したものであるとこが原所である」と指摘している。高倉新一郎氏は『日本の民俗 北海道』(第一法規 昭和49年刊)で「地神宮は主として香川県や徳島県などの移民によって移されたと思われるもので、碑面に単に地神宮と記し、もしくは五角柱に天照皇大神その他豊作に関係のある神の名が記されている」と述べている。
 3番目は「変態石幢六地蔵」、所在地は那須町寺子乙・落合の路傍である。注釈に「中に重制石幢の龕部が納められ、そこに6体六地蔵が浮彫りされている」とある、なとも石祠の中に龕部がへんてこな形態である。
 次は「光明真言読誦塔にみる石文」、足利市借宿町・円満寺の光明真言塔に付随する銘文である。正面に「ア 光明真言百遍」と刻む石塔の上には、不釣り合いな浮彫りする不動明王坐像をのせている。不動堂の前にある石佛だけに、不動明王でもと思われがちであるが、上に笠部が置かれていたのかもしれない。
 続いて「三日月不動尊の灯籠」は、同じ寺にある「奉献三月夜燈」刻む灯籠を扱っている。この灯籠の銘から「三日月不動」を追求している。
 6番目は「血盆経に基づく地蔵塔」、正徳3年造立の丸彫り地蔵立像の台石に刻まれた銘文「爲除不浄齋卅三日修業」から血盆経に関係する造像とした。台石には、直接「血盆経」の銘文はない。青梅にも血盆経に関係した石佛があったが、8王子の犬飼康祐さんに指摘されるまで気付かなかった。 次は「十六日念佛供養の石幢」、足利市下渋垂町・墓地にある享保13年の六地蔵単制6面石幢に彫られた銘文である。栃木には現時点で87基とあるというが、東京では全くみたこともない「十六日念佛供養」銘である。
 続いて「足利の十王塔」、足利市久保田町・本源寺にある寛政2年駒型塔である。上部に閻魔大王坐像を浮彫りし、下に2段に十王名を列記している。十王が1体ずつのものは各地でみられるが、この主の石塔は珍しい。
 9番目は「光明真言読誦塔に見る偈頌」、足利市久保田町西久保田・集落センターにある享保21年塔に関する偈頌である。「普及於一切」の「普」の字が「不」に彫られている。こうした偈頌には全くといっていいほど注意を払っていなから、こうした事例に出会っても恐らく気付かない。瀧澤さんならではの発見である。
 次は「十九夜像修復について」、前の偈頌の塔の西のT字路の木祠に安置された明和5年如意輪観音坐像の首部欠損を修復した石碑の銘文を紹介している。女人の講の修復だけに、修復の功徳として安産を挙げている。
 最後は「石敢當」、沖縄でみられる石塔である。現在は数は少ないが各地に分布している。日本石仏協会編の『江戸・東京石仏ウォーキング』(ごま書房 平成15年刊)の各コースを歩いた時に渋谷区内でみているし、多摩石仏の会であきる野市内を廻って時に伊奈のラーメン屋の前でみている。
 巻末には、6頁にわたり12月1日(土曜日)に多摩石仏の会有志と行った「那須地方の石仏巡り記」の載せている。文中でも「那須の地の地神塔」以上にふれている。(平成20・1・9記)
『神奈川の疱瘡神・2』

 平成20年1月2日(水曜日)は、2人の方からお年玉の2冊をいただく。1冊は表題にある鎌倉・中村光夫さんの『神奈川の疱瘡神・2』、他の1冊は多摩石仏の会・犬飼康祐さんの『あしあと』である。
 中村さんは、熱心に疱瘡神を追求されている。これまでにも『東京の疱瘡神』『千葉の疱瘡神』『埼玉の疱瘡神・2』の3冊を送っていただいた。前記の他にも中村さんの疱瘡神に関する著作はあるようで、わかる範囲で編年順にみると次の通りである。
   順 書名            刊行年   本文頁 一覧頁 分布図 発行部数
   1 『疱瘡の神仏』       2002年  不明  不明  不明   不明
   2 『神奈川の疱瘡神』     2005年  不明  不明  不明   不明
   3 『神奈川の疱瘡神を訪ねて』 2005年  不明  不明  不明   不明
   4 『埼玉の疱瘡神』      2005年  不明  不明  不明   不明
   5 『東京の疱瘡神』      2006年  40   5   1   30
   6 『千葉の疱瘡神』      2006年  25   0   0   50
   7 『埼玉の疱瘡神・2』    2006年  31   7   1   20
   8 『神奈川の疱瘡神・2』   2007年  35   5   1   30
 今回の『神奈川の疱瘡神・2』は、本文の内容が3つに別れている。第1部の13頁までは、これまで通りのスタイルで所在地・銘文・説明板・文献と写真を載せている。第2部の14頁から24頁は、市町村史誌や民俗誌から「神奈川の疱瘡習俗」を抜粋引用している。第3部は、25頁から35頁の「調査日記・神奈川の疱瘡神を訪ねて・2」の3部構成になっている。最初に取り上げているのは、横浜市都築区中川・慈眼院の2神並座の疱瘡神塔である。平成16年2月22日(日)の多摩石仏会2月例会、犬飼康祐さんの案内で横浜市都筑区内を廻った時にこの疱瘡神塔をみている。その時の記録は、次の通りである。
 近くに上部に種子と「疱瘡神」を刻み、下部に坐像二体(共に像高20cm)を浮彫りする寛政七年塔(48×30cm)がある。坐像は螺髪の如来形で胸前に円形を置き、拱手で刻みのある半球を持つ。右端に「大願成就」、左端に「如意吉祥攸」、右側面に年銘を刻む。
 案内された犬飼さんはの記録『私の「あしあと」17』(私家版 平成17年刊)には、7頁に疱瘡神塔の写真を載せ、説明の「薬師座像2体『疱瘡神』(寛政7年)」をつけている。改め写真を見直すと、2体とも螺神で如来形である。腹前で薬壺かどうか明ではないが、両手で何物を持っている。薬師如来といえば眼病を思い出すが、他の病気の信仰あってもおかしくはない。ただ持物の判断がつかないので、薬師如来と断定はできない。
 『神奈川の疱瘡神・2』では、石祠を収録している。横須賀市緑が丘・諏訪大神社始めとして、鎌倉市梶原・御霊神社、平塚市中里・八雲神社、同市徳延・徳延神社、厚木市林・林神社、秦野市西田原・八幡神社の石祠が疱瘡神とされている。
 特に横須賀の諏訪大神社を除くと、中村さんが「二つ目石祠」と呼んでいる2つ窓の石祠である。確かに多くの石祠、特に新しい石祠には銘文を刻む例が少ない。書中に記載された石祠には、明確に「疱瘡神」の銘文はみられない。
 例えば、御霊神社の場合は「前社殿右側の石塔群の左側『二つ目石祠』が疱瘡神」、8雲神社は単に「参道左側の『二つ目石祠』が疱瘡神」、林神社は「縁起案内板に『疱瘡神』の文字。社殿左前の『二つ目石祠』が疱瘡神」と説明されている。八幡神社の「明治十一年」銘を除いては、いずれも場合も銘文が記録されていない。
 青梅市塩船・塩船寺の笠付型塔の正面に「疱瘡神」と刻まれていれば、問題なく疱瘡神と認められるが、無銘の石祠を「二つ目石祠」だかといって疱瘡神として扱ってよいものだろうか。それなりの根拠、例えば『新編相模風土記稿』や『新編武蔵風土記稿』などの文献によるのか、地元などの伝承にようのか、無銘の石祠や石塔の判定には慎重でありたい。(平成20・1・10記)
『私の「あしあと」20』

 平成20年1月2日(水曜日)は、鎌倉の中村光夫さんの『神奈川の疱瘡神・2』と共に8王子の犬飼康祐さんから表題にある『私の「あしあと」20』の2冊が届く。実に嬉しいお年玉ある。『私の「あしあと」20』の正確な表題は、長く「多摩石仏の会例会記録 私の『あしあと』20 平成19年(2007)」である。奥付には「発行日 平成二十年(2008)一月一日」と記されている。
 犬飼さんは、このところ多摩石仏の会における年間記録を『私の「あしあと」』にまとめている。前号『私の「あしあと」19』は、奥付の発行日より1日早い大晦日の平成18年12月31日(日曜日)に配達された。
 今号(20)は、本文最初の「はじめに」に「私が、年間の例会・特別見学会に全部参加できたのは初めてである」と記すように、本文109頁になっている。試みに以前の号の頁数を調べると、平成14年の「14」が91頁、平成14年の「15」が77頁、平成15年の「16」が69頁、平成16年の「17」が82頁、平成18年の「18」が72頁という具合である。昨年の「19」については、『石佛雑記ノート1』でふれた。
 今号(20)では、1月の日野市・2月の江東区・3月の戸塚区・4月の足立区・5月の青梅市・6月のさいたま市・7月の川口市・8月の荒川区・10月の我孫子市・11月の東村山市・12月の相模原市の例会、それに5月の特別見学会の栃木県藤岡町と1月の有志会の同県那須地方である。9月例会が抜けているのは、9月27日から10月9日まで立川市のたましんギャラリーで「民間信仰の石仏」写真展を催しためである。
 犬飼さんは皆勤賞であるが、私はというと5月の青梅市が案内担当だから参加は当然で、その他は日野市・江東区・さいたま市・荒川区・我孫子市・相模原市の例会6回、それに特別見学会の栃木県藤岡町に参加という状態である。
 犬飼さんのこの1冊があれば、平成19年の多摩石仏の会の行動が把握できる。書中には、例会で廻った主要な石佛がカバーされ、写真が多いので視覚的にも受け入れいやすく、理解しやすい。また犬飼さんは、私と違って見学会でみた多くの石佛を記録されているから、後であの石佛はと思った時に役に立つし、資料的にみても有益である。(平成20・1・10記)
青梅七福神を廻る

 平成20年1月6日(日曜日)は、青梅七福神を廻る。暮れの地元紙『西多摩新聞』の「くるっと西多摩催物ガイド」に青梅七福神めぐりの誘いが載っていあた。毎年、妻と一緒に巡っていた恒例の行事にしてる七福神巡りだから、主催者が青梅永山丘陵の自然を守る会、いつもと目先を変わる。早速FAXで申込みし、当日参加した訳である。
 例年、1日から3日まではテレビの駅伝漬け、七草までに多摩青梅七福神を巡るのが慣例になっている。昨年の1月5日(金曜日)の妻と共に廻っている。
 庚申懇話会の1月見学会は、毎年、芦田正次郎さんが七福神巡りを案内する。その影響を受けたのと、私自身も『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)で「七福神」の項目を担当した関係からでもある。七福神の興味もさることながら、20年以上続けている最大の目的は全コースを歩き通すことでその年の体力測定になる。
 このところは1番目に住江町・延命寺(大黒天)、次いで千ケ瀬・宗建寺(毘沙門天)から下奥多摩橋を渡って長渕・玉泉寺(弁財天)へ廻り、黒沢・聞修院(福禄寿)を経て日向和田・明白院(寿老人)、再度多摩川を渡って畑中・地蔵院(布袋和尚)、最後は大柳・清宝院(恵比須神)というコースが定型化している。
 今回はJR青梅線東青梅駅北口に午前8時30分に集合だから、青梅発8時18分の立川行きの電車で1駅、受付で参加費200円を払い、B4判のレジュメを受け取る。駅前で簡単な挨拶で出発し、根ケ布の諏訪神社の手前から永山丘陵に向けて細道を進む。丘陵入口で体慣らしの準備体操を済ます。9時15分に丘陵の坂道に入る。
 自然を守る会らしく、落ち葉の登り道を進み、尾根道の先にある鉄塔で西の山々、東の広がり、その先に新宿の高層ビルが霞んでみえる。全員が集まったところれ説明があり、9時38分に出発する。下り道では1か所足を滑らせたが、何事もなく黒沢の通りに出る。予想していたよりも西に出て最初の聞修院へ戻る形になる。
 聞修院とは反対側の道1つへだてた地蔵堂内には、次の塔があるので扉の間か写す。
   1 延享1 笠付型 日月・青面金剛・3猿          黒沢・聞修院
 黒沢の聞修院(曹洞宗)に10時2分着、先ずお堂に祀る福禄寿をお参りしてから、境内にある白御影石の小型丸彫り七福神をみる。本堂でお参りして集合場所へ戻る。いつものコースならば、途中で黒沢3丁目の下栃谷路傍にある次の自然石文字庚申塔2基がみられるが、今回はコースの関係でみられない。
  参1 年不明 自然石 「庚 申 塔」           黒沢・下栃谷路傍
  参2 年不明 自然石 「庚申供養塔」           黒沢・下栃谷路傍
 聞修院から次の明白院へ向かう途中、黒沢3丁目の上栃谷路傍には
   2 文化14 自然石 「庚 申 塔」           黒沢・上栃谷路傍がある。逆行でいつも写真の出来が悪い。今回もその例である。
 青梅坂トンネルの手前には、昨年、この前を通った時に石組みの祠にあるはずの
  参3 享保6 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿が見当たらない。一昨年の七福神巡りでは存在を確認している。今年はどうなっているのか、非常に気になっていた場所である。近くの社寺に移されたものならよいのだが、と思っているけだで調べてもいなかった。今回、驚いたことに次の新塔が安置されている。
   3 年不明 自然石 「庚   申」           黒沢・青梅坂路傍
 祠内には、正面に庚申」と彫る高さが37cmで幅が25cm自然石塔がある。塔の前には花を挿したガラス瓶と沢の井の4合瓶が供えられている。自然石の新塔があるところをみると、享保6年塔は盗難に遭ったと推測される。
 上町から七兵衛通りを西へ進む。途中の裏宿町の七兵衛公園の前には
  参4 宝永1 笠付型 日月・青面金剛・3猿       裏宿町・七兵衛公園
 2番目の明白院(曹洞宗)に着いたが11時17分、この寺は福禄寿を安置する。30分の集合時間までを利用して裏の墓地入口にある
   4 宝暦12 笠付型 日月・青面金剛・3猿      日向和田・明白院墓地
   5 文化1 自然石 「庚 申 塔」         日向和田・明白院墓地の2基をみる。宝暦12年塔は、みる度に風化が進んでいる。
 布袋尊を祀る3番目の畑中・地蔵院(臨済宗)に11時57分着、ここで40分の休憩の間に昼食をとる。境内にある無縁塔には、新しい地蔵が数多くみられる。頂点に置かれた地蔵は宝珠と錫杖を執るが、周りにある小さな地蔵は宝珠と錫杖・合掌・児抱きの3種がみられる。
 この地蔵院には、七夜待本尊の「浮彫七尊像」がある。『青梅市仏像彫刻調査概報1』(青梅市教育委員会 平成6年刊)の80頁には、7尊像の内の千手観音・聖観音・馬頭観音・十一面観音・如意輪観音の5尊は明らかである。他の2尊に内1尊は「合掌する菩薩坐像」とあるから勢至菩薩とみて間違いあるまい。とすると7夜待本尊の可能性が高いから。残る1尊の「八臂の菩薩坐像」は、准胝観音と考えられる。七福神巡りで賑わっている日曜日に拝観するわけにはいかない。他にも厨子に入る十三佛立像や弁財天坐像などがある。
 地蔵院から次の清宝院のコース途中には、畑中2丁目3叉路に
   6 元禄10 雑 型 日月・青面金剛・2鶏・3猿     畑中・三叉路路傍をみてから、旧道を通って交差点に出る。恵比寿を安置する清宝院には、庚申塔はないが『日本石仏事典』に紹介した毘沙門三尊の石佛がある。
 清宝院の次は毘沙門天の千ケ瀬・宗建寺(臨済宗)、午後1時32分に到着する。ここには
   7 文化9 雑 型 日月・青面金剛・2鬼・2鶏・3猿   千ケ瀬・宗建寺がある。菩提寺なので墓参に行く度にみている塔である。大黒天の住江町・延命寺(臨済宗)は宗建寺に近いので2か寺まとめて参詣することになる。延命寺も宗建寺も、例年裏門から入って表門から出ている。今回は表門から入り表門へ出る。
 最後は弁財天を祀るる玉泉寺(臨済宗)、2時18分に到着する。先ず山門の前ある次の庚申塔2基からチェックする。
   8 元治2 自然石 「庚   申」            長渕・玉泉寺
   9 年不明 光背型 日月・青面金剛・3猿         長渕・玉泉寺
 さらに少し離れた境内の層塔前にある長野県から移入された次の
   10 年不明 板石型 「庚 申 塔」            長渕・玉泉寺を撮る。ここも延命寺も宗建寺同様に例年、裏から入って裏から出ている。今回のコースでは、表門から入って表門から出る。これで青梅七福神巡りを終わり、出発点の東青梅駅で解散するが、青梅街道の千ケ瀬2丁目交差点で別れ、岐路に向かう。(平成19・1・8記)
山梨の五神名地神塔

 平成20年1月9日(水曜日)の朝、午前9時過ぎに山梨県北杜市の佐藤勝広さんから多摩石仏の会の『野仏』についての問い合わせの電話があった。『野仏』の話に一段落したところで、耳寄りな北杜市内の地神塔情報をいただく。
 かつて『日本の石仏』に「地神塔の全国分布」を発表したことがある。かなり昔の話しである。いまでも地神塔には関心があり、いろいろと注意は払っている。昨年暮れの押し詰まって宇都宮の瀧澤龍雄さんから送っていただいた『石佛月報』12月号には、「那須の地の地神塔」が載っていて興味を覚えた。
 那須の塔は、栃木県黒磯市宮町・黒磯神社にある明治23年の五神名地神塔である。ここの場合は、横にある説明板から、徳島県から那須開拓のために移住した方々が建立している。こうした事例は、北海道へ移住した場合にもみられる。
 先にふれた「地神塔の全国分布」は、昭和56年8月22日に記したものである。翌年発行された日本石仏協会の『日本の石仏』第21号(昭和57年刊)に掲載され、山梨県については、次のように記した。
   〔 山 梨 〕
    県内で私が調査した地神塔は、北都留郡上野原町荻野にある文化十年造立の「堅牢神」と刻んだ自然石文字塔一基である。この塔
   には、横に「請 雨宮 風宮」と彫る。同町大倉の集荷所には「奉請地神祭」銘の文化十三年自然石塔があると、多摩石仏の会の大
   村稲三郎氏(日本石仏協会々員)から報告を受けている。また、植松森一氏(多摩石仏の会)からは、大月市駒橋にある「春秋社日
   堅牢地神守護」の年不明塔を聞いている。
    大森義憲氏は、南巨摩郡増穂町青柳には「町に四ヵ所、地神を古くから祀っており、現在は一丁目の地神のみが残っている」
   (『北中部の民間信仰』明玄書房 昭和48年刊)と記し、土橋里木氏との共著『日本の民俗 山梨』(昭和49年刊)には、同町で
   「各部落ごとに『地神』と刻した碑が道祖神と並べて祀ってある」と述べている。同郡富沢町福士では、「同族集団をイットウ(一
   統)という。イットウではジガミ(地神)を祀り、現在でも2〜3の例が残っている」そうである。
    井上青龍氏が撮影した『道の神』(淡交社 昭和47年刊)のグラビアには、西八代郡市川大門町・浅間神社の写真が見られ、自然
   石に「地神」の主銘を刻む塔が写っている。他にも、同町に地神塔が分布することは、大護八郎氏の『私の石仏津図手帳 5』(木耳
   社 昭和49年刊)に載るスケッチから下鳥居の二基が知られる。
 和田正州氏によると、「地神の日には、道志村小椿の神主が大室山を越えて山北辺まで行ったといい」(『関東の民間信仰』)とあるから、南都留郡道志村にも地神塔の分布が見られるかもしれない。また、その神主の関係者が大月や上野原の塔に係わりがあったのだろうか。
 当時もその後も、山梨県に五神名地神塔が存在することは聞いていなかった。佐藤さんの電話で北杜市に現存し、市内で最も古いのは文化年間であるという。しかも旧敷島町(現・甲斐市)には、寛政7年の塔があるというから、徳島の造塔年代とは離れていない。
 千葉県の五神名地神塔は、平岩毅さん(故人)の調査で明らかになった。他県の例を含めて『石仏研究ハンドブック』(雄山閣出版 昭和60年刊)の「地神塔の全国分布」で補足しておいた。埼玉県の場合は、秩父・児玉地方に分布することは、その中で指摘しておいたが、実際に何基か調べる機会があった。寄居町や本庄市でも実見した。
 先年の石仏談話室で話された田中憬さんの「児玉郡美里町の特異な石仏」講演では、町内に分布する「社日さま」と呼ばれる地神塔が10基みられ、神社の境内に五神名地神塔がみられるという。5角柱塔の他に1面に五神を列記する塔や文久の「社日塔」と刻む塔ががみられるそうである。
 加えて『児玉町史 民俗編』『神川町誌』『上里町史 別巻』からみると、児玉町の17基や美里町の10基、神川町や上里町にも町内に分布がみられるから、児玉地方には30基を越す五神名地神塔が存在すると考えられる。
 前記の地元・田中憬さんのご案内で昨年9月9日(日)の日本石仏協会の美里町見学会では、沼上・北向神社で境内にある五神名地神塔をみた。その時の記録には、次のように記録している。
   地1 安政4 柱状型 「稲倉魂命」               78×24×25
 地1は一辺の幅が16cmの五角柱に「稲倉魂命」「天照大神」「大己貴命」「少名彦命」「埴安媛命」の尊名を刻む五神名地神塔である。台石の面に「世話人 御祓講中」「惣村中」「安政四辛巳/二月十七日」を記す。
 先にもふれたように田中さんのお話では、美里では「社日様」と呼んでいるそうで、佐藤さんの話でも「地神塔」といわずに「社日様」という。いずれにしても、五神名地神塔が栃木の発見に続き、山梨から情報がもたらされたことは、まだまだ各地に広がりが予測される。『岡山の地神様』(吉備人出版 平成13年刊)の著者・正富博行さんが喜びそうな話である。(平成19・1・9記)
あとがき

 今年の主たる目標は獅子舞に置くので、すでに『獅子舞雑記ノート』を立ち上げ、次の『青梅三匹獅子舞事典』を10日付けで刊行した。続く『西多摩獅子舞事典』と『北多摩獅子舞事典』も原稿の準備が整い、後はコピーして製本するだけでになった。時間的な余裕ができたので『石佛雑記ノート17』の編集に取りかかった。
 「『石佛月報』11月号」は、昨年11月30日に受け取ってた「日光初期の庚申塔」共に昨年暮れに書いたものである。
 「武蔵野讃歌写真展」は、昨年12月14日に拝観した田沼武能さんの写真展にふれ、次の「日本石仏協会写真展」は、写真展をみてから訪ねた妙延寺の石佛を書いた。「『金昌寺の石仏』」は、協会埼玉支部の労作である。

 「『石仏散歩 悠真』37号」と「『石仏散歩 悠真』38号」は、多田治昭さんから届いた2冊をに記した。「『石佛月報』12月号」は、先の11月号の続く感想である。その書中でも、特に五神名地神塔の発見が気にかかる。今まで栃木県の地神塔の報告を聞かなかっただけに、朗報といえる。
 「『神奈川の疱瘡神・2』」と「『私の「あしあと」20』」は、新年のお年玉である。

 「青梅七福神を廻る」は、今年になって青梅永山丘陵の自然を守る会が主催した七福神巡りに参加した時の記録である。昨年失われた青梅坂の青面金剛に替わり、文字庚申塔の新造がみられた。
 「山梨の五神名地神塔」は、たまたま『野仏』の問い合わせの電話から得られた情報である。まさか山梨に五神名地神塔があるとは予想していなかった。
 今年は刊行の回数が昨年に比べて減るが、何としてでも『石佛雑記ノート』を続けていきたい。獅子舞に集中したからといって、石佛を全く無視するわけではないのだから。
 ともかく、今年もよろしくお願いします。
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                              石佛雑記ノート17 
                                発行日 平成20年1月20日 
                                TXT 平成20年2月 6日
                                著 者 石  川  博  司
                                発行者 多摩野佛研究会
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