石川博司著   石仏談話室雑記8       発行 多摩野佛研究会 
〔内 容〕  第158回石仏談話室  第160回石仏談話室  第161回石仏談話室  第163回石仏談話室
        第165回石仏談話室  気になる六地蔵     小花波さんを偲ぶ        
        あとがき
第158回石仏談話室

 平成19年2月4日(土曜日)は節分、今年最初の第158回の石仏談話室が開催される。会場は通常の池袋・東京芸術劇場6階小会議室である。本日の講演は中森勝之さんの「近江 湖東の石仏巡り」と鳥沢隆憲さんの「六地蔵について」の2本立て。
 午後1時10分に遠藤和男さんが開会、その後に坂口和子会長の挨拶がある。会員の高齢化による訃報に接し、それぞれの報告が多様な様子が話される。続けて梶川賢二さんから講師の紹介があり、3年前に平塚の石仏を調べる会に入会された中森さんの活動について紹介される。
 開会する前に中森さんとの話の中で今回初の東京マラソンに応募し、抽選に当たって参加できるという。前回の時に板橋に佛足石があると報告したので、蓮沼・蓮華寺の写真をおみせしたが、ご存じなかった。また書棚を整理した時に出てきた、渡辺信幸が撮影した宇佐神宮の佛足石の写真と雑誌『古美術』第25号(3彩者 昭和43年刊)の「現存近世仏足石一覧」はご存じであった。
 事前に配付されたレジメは表紙を含めA4判10枚、滋賀県の地図、石佛巡りの特徴、1覧表、石佛写真から構成されている。これは昨年10月22日(日曜日)から翌23日(月曜日)に行われた日本石仏協会主催の秋の1泊石仏見学会の報告である。
 見学会は青木安勝さんのコーディネートで写真家の黄瀬三朗さんの案内で行われた。先ず滋賀県の地図に今回廻った市町を示し、レジメの「近江・湖東石仏めぐりの特徴」から本題に入る。イントロで「近江」の地名は、琵琶湖から「淡海(あわみ)」と呼ばれ、転じて「近江」になった、という。柿本人麻呂の「淡海の海」の和歌が紹介され、静岡の「遠江」と対比される。
 次いで滋賀県の「像容の特徴」として、石造物、特に中世の石塔が多く遺存し、近世の民間信仰の石佛が少ないこと、宝筐印塔・宝塔・石燈籠が多く、大和とは様相を異にする2点を指摘する。
 3番目に「今回の見学会のポイント」、第1に鎌倉時代と南北朝時代の石造物に絞って見学地を設定した。これは技術的に優れている、大型の石造物が多い、品格がある3つの特徴から選定された。第2に黄瀬さんの話しから「優れた石造物が多い理由」として、交通の要衝・時代が不安に向かっていた・比叡山延暦寺の文化発信・渡来人の移住の4点を指適している。
 1時22分から「近江・湖東石仏めぐり一覧」に記載された順に15か所の石造物の写真がモニター画面に映し出される。最初は多賀町の敏満寺跡にある線刻の聖観音、次いで小野道風の筆という下乗石、胡宮神社の小石佛群と続く。以下、同町の大日場路傍の阿弥陀や地蔵、愛荘町・金剛寺の地蔵から最後の東近江市・三所神社の燈籠まで石造物が次々に映写される。
 レジメには燈籠・宝筐印塔・層塔の図解があり、代表的な「近江式装飾文の概念図」がみられる。画面をみるのに参考になる。予定より早く2時20分に講演を終える。
 続いて新規出席者2人の自己紹介がある。1人は千葉県市原市の鈴木さん、他はさいたま市の斉藤さんである。坂口さんから総会出席の勧め、青木安勝さんから「置賜・村山の石造物巡り」の1泊見学会、栗原栄子さんから成田の石佛見学会の誘いがある。最後に内山孝男さんから伊奈石の会誌『伊奈石』が紹介される。


 約40分間の休憩を済ました後、2時59分から坂口さんから曹洞宗・福井・宝林庵の住職である講師の紹介がある。講師の鳥沢隆憲さんは、すでに17年19月1日(土曜日)の第145回石仏談話室で「延命地蔵菩薩経をよむ」について講演されている。今回も引き続き地蔵、演題は「六地蔵について」である。
 事前に配付されたレジメは、A3判4枚の文章とA4判2枚の両面にコピーされた資料である。A4判の1枚は両面を使って『佛像図彙』の「六地蔵」と「十王」のコピー、他の1枚は表面が村越英裕著『イラストで分かる「あの世」の物語』からの引用、裏面が「参考文献書籍」を並べている。
 曹洞宗『地蔵講式』の「地蔵歎偈」や六地蔵の尊名などが短冊状の和紙に墨書され、ホワイトボードに貼られている。講演中に『佛像図彙』、伊藤武美著『仏神霊像図彙 仏たちの系譜』、斎藤忠著『六地蔵幡の研究』の3冊が回覧される。
 鳥沢さんの講演はレジメに沿って進められる。先ず「三界萬霊塔 三界萬霊等」、三界の説明があり、日本の禅宗(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗)三宗にふれ、経典の歴史や中国天台の流れ、天台宗と禅宗の対比がなされる。
 次いで「引路菩薩」である。引路菩薩は臨終に現れて死者に浄土への道を示す菩薩、経典には具体的な尊名がなく、六光菩薩に宛てられる例がある。通常は六道の救済は観音と地蔵が宛てられ、天台六観音の成立となる。
 「十王経」は中国・朝鮮伝来の『閻羅王授記経』と日本で作られた『地蔵十王経の2系統がある。次の「中陰と六道」では、七本塔婆の書式や十王と忌日、道教の十王を説明し、佛教と道教の相互の影響で地獄の裁判官としての閻魔王が信仰されていくという。
 資料の原本となる『佛像図彙』について解説する。真言系密教(東密)の『覚禅抄』や天台系密教(台密)の『阿婆縛書鈔』が図像の研究には使われるが、江戸時代の信仰を知る上では『佛像図彙』がよく、石工が利用している。ただ、簡潔にまとめられているために、各宗派の呼称や出典などが入り交じっているので注意が必要である。
 今回のお話で参考になったのは、宗派により六地蔵の名称の違いがはっきり示される。また、真言宗や天台宗では片手に持物を執り、片手で印を結ぶが、禅宗系統では両手で持物を採るという。名称や持物、出典などが明になったのは収穫である。
 レジメに示された出典と六地蔵の名称を『佛像図彙』と対比し、宗派別の系統にグルーピングして示すと、次の表の通りである。
 出典と六地蔵の名称
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   ┃出典      ┃ 六地蔵の名称                ┃注記 ┃
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   ┃『佛像図彙』1 ┃預天賀│放光王│金剛願│金剛宝│金剛幡│金剛悲┃天台系┃
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   ┃天台宗常用法儀集┃預天賀│放光王│金剛願│金剛宝│金剛幡│金剛悲┃   ┃
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   ┃六地蔵和讃   ┃金剛願│金剛宝│金剛悲│金剛幡│放光王│預天賀┃   ┃
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   ┃地蔵十王経   ┃預天賀│放光王│金剛幡│金剛悲│金剛宝│金剛願┃注 1┃
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   ┃『佛像図彙』2横┃地 持│陀羅尼│宝 性│鶏 亀│法 性│法 印┃禅宗系┃
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   ┃曹洞宗行持規範 ┃法 性│陀羅尼│宝 陵│宝 印│鶏 兜│地 持┃注 2┃
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   ┃江湖法式梵唄抄 ┃法 性│陀羅尼│宝 陵│宝 印│鶏 兜│地 持┃   ┃
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   ┃『佛像図彙』2縦┃護 讃│辯 尼│破 勝│延 命│不休息│讃 龍┃真言系┃
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   ┃天台常用法儀集 ┃禅 林│無 2│護 讃│諸 龍│伏 勝│伏 息┃一般例┃
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   ┃高野山真言宗系 ┃禅 林│無 2│護 讃│諸 龍│伏 勝│伏 息┃   ┃
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   ┃伝授録(真言宗)┃禅 味│牟 尼│観 讃│諸 救│伏 勝│不休息┃   ┃
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  (注 1) 字数の関係で「佛説地蔵菩薩発心因縁十王経」の略称で示した。
  (注 2) 『曹洞宗行持規範』では「地蔵王菩薩」を省略した名称で示した。
  (注 3) 『佛像図彙』1は前頁を示し、『佛像図彙』2横は図上に名称を横書きしたもの、同縦は図像の横に縦書きした名称である。
  (注 4) 『佛像図彙』2縦の「延命」は「光味」の別名があり、「真言系」は天台宗の一部で用いられている。
  (注 5) 『佛像図彙』の各項目では種子や印相などが記されているが省略、名称も「地蔵」を略している。
 『六地蔵和讃』と『佛説地蔵菩薩発心因縁十王経』の出典による六地蔵と持物と印相の違いを示すと、次の通りである。
   六地蔵の持物と印相
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   ┃六地蔵和讃           ┃地蔵十王経           ┃
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   ┃六道│尊   名│左 手│右 手┃六道│尊   名│左 手│右 手┃
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   ┃地獄│金剛願地蔵│炎魔幡│成弁印┃天人│預天賀地蔵│如意珠│説法印┃
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   ┃餓鬼│金剛宝地蔵│宝 珠│甘露印┃人間│放光王地蔵│錫 杖│与願印┃
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   ┃畜生│金剛悲地蔵│錫 杖│引接印┃修羅│金剛幡地蔵│金剛幡│施無畏┃
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   ┃修羅│金剛幡地蔵│金剛旗│施無畏┃畜生│金剛悲地蔵│錫 杖│引接印┃
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   ┃人間│放光王地蔵│錫 杖│与願印┃餓鬼│金剛宝地蔵│宝 珠│甘露印┃
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   ┃天人│預天賀地蔵│如意珠│説法印┃地獄│金剛願地蔵│炎魔幡│成弁印┃
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 前記の表は天台宗系統の六地蔵の持物と印相であるが、次表は臨済宗十七派の『江湖法式梵唄抄』による尊名と持物を表示すると、次の通りである。天台宗や真言宗系統の六地蔵と異なり、片手で印を結ばずに両手で持物を執る。参考までに下段に『佛像図彙』を示す。
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   ┃尊  名│持  物│六道配当 ┃尊   名│持 物┃備 考┃
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   ┃法性地蔵│手持香炉│地獄道教主┃地持地蔵 │数 珠┃   ┃
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   ┃羅尼地蔵│手持宝珠│餓鬼道教主┃陀羅尼地蔵│鉄 鉢┃注 記┃
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   ┃宝陵地蔵│合  掌│畜生道教主┃宝性地蔵 │合 掌┃   ┃
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   ┃宝印地蔵│手持旌旗│修羅道教主┃鶏亀地蔵 │錫 杖┃   ┃
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   ┃鶏兜地蔵│手持錫杖│人道道教主┃法性地蔵 │柄香炉┃   ┃
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   ┃地持地蔵│手持念珠│天道道教主┃法印地蔵 │金剛幡┃   ┃
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   〔注 記〕 この陀羅尼地蔵に限り、左手に鉄鉢を持ち、右手で施無畏印を結ぶ。他の地蔵は両手で持物を執る。
 六地蔵に付随して「倶生神」や「同生」と「同名」の二神、三尸や地盆経など関連する「道教」にふれた講話があり、4時5分に話を終える。
 講演後に遠藤さん・梶川さん・坂口さん・内山さんなどの質問を受け、宗派と関係がない六地蔵や六地蔵札について質問する。お寺によっては六地蔵に無関心で施主の希望や石工の都合で造立が行われる例がある、という。六地蔵札は宗派の書式によってしるされるので、ブレがないそうである。質問も4時30分に終了する。
 最後に遠藤さんから次回は3月3日(土曜日)に同じ会場で、講師が門田春雄さんと大野邦弘さんで行われると予告があり、閉会となる。
第160回石仏談話室

 平成19年4月7日(土曜日)は、第160回の石仏談話室である。会場は、いつも使っている豊島区西池袋の東京芸術劇場の6階会議室である。今回は大津和弘さんの「石仏行脚から鋳造行脚へ 石仏を巡っての展開」と中上敬一さんの「念仏信仰と石仏 十九夜念仏・日記念仏にみる石仏・石塔の諸相」である。
 午後1時15分に遠藤和男さんが開会を宣し、今回の回数が160回にもかかわらず、会誌では次回が160回となっている点を指摘される。続いて坂口和子会長の挨拶、その中で高知の岡村庄造さんが長野県南木曽町の寒山・拾得の拓本が話題になり、講演を行った話題が取り上げられる。
 20分に遠藤さんから講師・大津さんの簡単な紹介があり、続いて大津さんが登壇し、事前に配付さられたレジメに従って「石仏行脚から鋳造行脚へ」の話が進む。講演が始まる前に、私が大津さんに石仏から金仏へ「宗旨替え」とからかったので、講演ではその言い訳から話が進む。
 大津さんが日本石仏協会へ入会したのは平成4年のこと、会誌『日本の石仏』は第64号からだという。当時は地蔵庚申塔を追いかけていた頃で、この号に佐藤不二也さんの「茨城県南西部の石仏」が載り、鼻の大きな異様な大日如来に興味を持ったそうである。以後、会誌に連載される各氏の「石仏の旅」に楽しみに待って読んだという。
 第65号の「石仏の旅」は高木六男さんが「世田谷の石仏」を担当、文中に難解な文字が出ていることから難しい文字に興味を持つ。一方、協会が主催する年2回の海外研修に参加して、中国やタイなどの各地でみた銘文に面白さを感じた。また、協会に入る以前の昭和63年には、品川区南品川の品川寺の梵鐘の写真を撮っており、海外研修の時も石佛以外にも梵鐘や鉄塔などの鋳造物にカメラを向けていたそうである。
 前置きが済んでからレジュメの表紙の説明から、いよいよ本題へ入る。レジュメはA4判4頁、表紙は皇居東御苑にある鯱を写したものである。鯱に関連して湯島聖堂の鯱を取り上げ、江戸期のものと関東大震災以後に造られたものをモニターに映して説明される。東御苑から木造の平河橋へ抜ける時に、橋の擬宝珠をみる。この擬宝珠に橋替えの記録が刻まれていて鋳造物に関心が高まった。
 先にも話題にした品川寺の梵鐘は、慶応3年のパリ万博に出品したが行方不明となった。63年後にジュネーブでみつかり、昭和5年に戻ってきた六観音が浮彫りされた鐘である。明暦3年の鋳造。 港区虎の門・大倉集古館の青銅灯籠、新宿区新宿・永福寺の大日如来と地蔵の坐像、墨田区両国・回向院の定印阿弥陀如来坐像、桐生市黒保根町・医光寺の観音坐像、皆野町日野沢・水潜寺の子安観音坐像、小鹿野町般若・法性寺の金剛界大日如来坐像、杉並区堀之内・妙法寺の竈、千葉県成田市・新勝寺の狛犬、新宿区西早稲田・放生寺の役の行者坐像などレジュメに載る鋳造物を映写し、説明が加えられる。
 鋳造物を造る職人を「鋳物師」と呼ぶが、古くは「大工」といわれ、「釜屋」の呼称がある。職人の西村和泉守などや金工芸の香取秀真や香取正彦などにふれ、蘊蓄のある話に時間が経つのを忘れるほどである。時間一杯の講演で質問時間がとれない。
 2時45分から今回初めて参加された取手の脇田さんの自己紹介、停年後に石佛に興味を持つ。先日の成田見学会に参加されたという。3時10分まで休憩。
 後半は中上敬一さんの「念仏信仰と石仏」である。休憩中に資料「十九夜念仏信仰」と「日記念仏信仰」をいただく。前者は4頁のレジュメに分布図1頁、茨城県5頁と千葉県2頁の年表がつく。
 後者は、平成5年6月発行の『宗教民俗研究』第3号の抜刷りである。「はじめに」に続き「日記念仏とは」「日記念仏塔」「日記念仏講」「日記念仏に関する古文書」「日記念仏の由来」「功徳日の由来」「日記念仏の源流」の項目からなる。
 3時11分に坂口さんから『続日本石仏図典』(国書刊行会 平成7年刊)の編集に携わったと、簡単な講師の紹介がある。
 続いて12分に中上さんが登場し、現住所が埼玉県比企郡ときがわ町と話す。次いでホワイトボードに「時念仏/日記念仏/十九夜念仏/百堂念仏」に書き、それぞれを簡単に説明する。「時念佛」は中世に「時供養」と呼ばれ、日記念佛の説明は簡単で、配付資料によるのであろう。
 配付された中上さんの「日記念仏信仰」は、平成5年の発行の『宗教民俗研究』抜刷りである。この時点では千葉県が24基、茨城県が11基、埼玉県が3基、東京都が2基、栃木県と群馬県が各1基である。栃木県はとても1基ということはありえないので、瀧澤龍雄さんが調査して現在は公開を停止しているが、ホームページにデータを載せていた。いずれ公開される日もくるものと思われ、確実に栃木県の塔数が増える。
 中上さんが調査された千葉県印西市浦部・浦内地区の「オニキ念仏和讃」に1月から12月までの功徳日が記されている。多摩地方でみられる融通念佛塔には「例會毎月一集/別會正月廿三日/三月廿三日/十月廿三日」とある。それぞれの念佛信仰に共通する集まりがあるのがうかがえる。
 次の十九夜念佛は月待信仰ではなく、和讃や念佛講から念佛信仰であると強調される。十九夜念佛は月待信仰ではないことを、レジュメの「はじめに」の中で
 膨大な数量の供養塔は、書く市町村の寺院や神社あるいは村や町の共有地、共同墓地などで多くの人々に見られているにもかかわらず、この石仏に目を向けるはなく、ましてや十九夜念仏とはどのような信仰であったのか、十九夜という功徳日はどのような意味があるのか、その信仰内容まで立ち入った調査はされていないのが現状である。(中略)
 十九夜念仏塔のほかに、十九夜念仏講や文献(特に十九夜和讃)などを調査すれば十九夜信仰は月待信仰ではないことは明白である。と記し、『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)や『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)、各市町村教育委員会発行の石佛調査報告書で月待塔に分類されている点を非難している。
 『日本石仏事典』にしろ『日本石仏図典』では、直接私が「十九夜塔」を担当した訳ではないが、執筆者の1員である。特に『日本石仏事典』は約30年以前の著作である。当時の状況を考えれば、得られた石佛情報はかなり限られている。『第2版』(昭和55年刊)で1部を書換え、補遺を加えたものの充分ではない。非難するよりも、研究成果を『日本の石仏』に発表し、多くの研究者に示す必要があるのではないだろうか。
 この点はもっともで、私も十九夜塔の場合は初期の塔が「十九夜念佛」としているのに対し、二十三夜の場合は塔に「念佛」の文字がみられないことなどから、疑念を抱いていた。そうわいっても、十七夜から二十三夜までの七夜待の中に「十九夜」が含まれているのも事実である。ただし『文殊日礼』や『七夜待本尊之事』などに示された主尊は、十九夜塔に刻まれた如意輪観音ではなく「馬頭観音」である。
 『日本石仏事典』をよく読んでいただければ、十九夜塔を含めて「月待塔総説」の中で次のように記している。(164頁参照)
 特に留意したいのは念仏供養塔との関連である。例えば十六夜・十八夜・十九夜などの塔には単に○○夜とか○○夜待の塔もあるが、○○夜念仏塔とか○○夜念仏供養塔と刻むものも多い。
 したがって月待塔と念仏塔との区別はかなりむずかしく、截然と区分できない。そこで○○夜供養とあるものは、1応「月待塔」にふくめた。
 また、171頁上段に「十九夜の月待講といわれるが婦人たちの念仏講でもある」とし、下段には 和讃には十九夜念仏和讃をあげる所もあるが、如意輪観音の徳をたたえ、安産を祈り、中には女人が死後血の池地獄の苦を逃れる祈願のもられたものもある。と書かれており、全てを月待塔と断定している訳ではない。
 次いで十九夜念佛塔の分布、栃木県が2772基、茨城県が1801基、福島県が1449基、千葉県が1277基、群馬県が142基を報告書などから集計している。これ以外には、東京都・長野県・宮城県で数基が報告されている。
 続いて各県の分布状況にふれる。千葉県の場合は、印西市が220基、千葉市が158基、船橋市が88基、8千代市が75基など、全県下の悉皆調査が済めば1500基を越えると予測している。 栃木県の場合は、小山市が399基、栃木市が372基、藤岡町が154基、粟野町が132基、特に中島昭さんの調査(『栃木市 野仏の風景』など)が中心となっている。栃木県の総数2772基は、補完して集計というより瀧澤龍雄さんのホームページに載るブログから採ったとらしい。
 茨城県の場合は「筆者(中上さん)が集計した結果」1801基、市町村別の塔数を明らかにしていない。悉皆調査の実施で2000基を越すと予測している。
 福島県の場合は、郡山の小林剛3さんの『郡山市の石仏(II)−月待系』(私家版 昭和63年刊)など5冊によって1337基を中心にしている。
 3番目の「十九夜念仏塔の発祥地」では、レジュメに次のように記している。
 江戸初期の古い塔が密集している地域は、日本全国各地を調べてみたが、千葉、茨城の2県以外見当たらないのである。したがって千葉、茨城の県境を流れる利根川下流の沿岸地域が十九夜念仏塔の発祥の地であることがわかる。また十九夜念仏信仰もこの地域から埼玉県、栃木県、群馬県に波及し、さらに茨城県北部から福島県に伝播したものと推測される。
 4番目に「初出と最新の十九夜念仏塔」、最古の塔は茨城県つくば市北条の寛永10年の上部に弥陀3尊種字、中央に「奉造立石塔者十九/念仏」と刻む文字塔である。栃木県小山市出井・中井薬師堂にある「十九夜観音塔」の文字塔が最新の塔という。
 最後は「十九夜塔の本尊如意輪観音像」、十九夜塔で圧倒的に多い刻像塔は如意輪観音が主尊である。如意輪観音の十九夜塔の初出は、茨城県利根町・徳満寺の万治元年の造立された塔である。この塔は、板碑型塔に4手の如意輪観音を線彫りする。
 中上さんに注文をつけるとすれば、月待信仰ではないことは明白であるとされる、肝心の十九夜念仏講や十九夜和讃などの文献がレジュメなり説明なりで提示されないのは片手落ちではなかろうか。是非『日本の石仏』誌上に発表されることを望む。
 4時10分に講演を終え、質疑応答に移る。先ず遠藤さんから質問があり、次いで私が葛飾の十九夜塔について尋ね、坂口さんから不食念佛や6斉念佛の質問がある。次に私が天道念佛について聞くと、西岡宣夫さんが船橋市に天道念佛講があると補足される。
 質疑応答が4時31分に終わり、遠藤さんから次の第161回が5月5日(土曜日)に行われると案内があり、閉会する。
第161回石仏談話室

 平成19年5月5日(土曜日)は、いつも使っている豊島区西池袋・東京芸術劇場の6階会議室で第161回の石仏談話室が開催される。今回の講演は、谷相一夫さんの「第(大)6天について」と町田茂さんの「成田不動尊・宗吾霊堂周辺の石仏」である。
 午後1時13分に遠藤和男さんから開会の言葉、続いて坂口和子会長が挨拶と講師・谷相さんが油絵の画家という簡単な紹介がある。第6天というわかり難い演題に興味があってか、GWにもかからず満員の盛況である。
 16分に谷相さんが登壇する。事前にA4判1枚のレジュメ、A4判4枚とB4判1枚の参考資料が配付される。参考資料は、理趣品と理趣釈・他化自在天画像・伊舎那天画像・第6天関係図のA4判4枚とカラーの胎蔵界曼陀羅図である。
 谷相さんは先ず土佐の出身、次いで武蔵野美術大学卒、弘前大学教授と自己紹介をする。
 最初の「はじめに」で谷相さんが強調したのは、空海が理趣品と理趣釈を取り違えてわが国に伝えたことから混乱の原因があるという。「理趣品」には「他化自在天王宮中」と記されているが、空海が伝えた「理趣釈」にはその部分が欠けている。このことが原因でボタンの欠け違いが生じた。
 2番目が「中世より明治維新 第六天最盛期」、ここでは「文芸上の第六天」「江戸分化の中で花開く第六天」「合祀・合集」の話である。面足尊に関係して立川流が話題にあがったが、第六天戸立川流と関係があったとは知らなかった。
 仏教上の第六天は他化自在天であるが、神道では神世7代の6番目に当たる面足尊面足尊、明治以降は高皇産霊尊が第六天に充てられる。また、第六天神に係わるものもみられる。いるいろな系統が混在しているので、余計に第六天をわかり難くいている。
 最後が「神仏分離令から平成の現在まで」、分離令によって第六天の苦難の歴史が始まる。それに加えて関東大震災があり、東京空襲が追い打ちをかけた。その結果の23区の現状を紹介している。 第六天社は小社が多く、分離令後は1村1社に宮寄せ(合祀)が行われ、吸収された経緯がある。小社故に関東大震災や東京空襲のために潰れたものがみられる、「天神」がつく社名の場合は、天満宮系と第六天神系があるので注意が必要である。
 ともかく、谷相さんのお話を聞くにつれ、第六天がますます捕まえ所がなく、系統を追うことが1つの決め手ではないかと思う。いずれにしても、第六天は祟る神であり、その意味では菅原道真に通じる所がある。
 講演後に遠藤さんから質問があって2時43分に終わる。
 次いで坂口さんから、万治の石佛についてテレビ局から問い合わせがあった、と報告がある。首との継ぎ目のせいか、石佛が傾いて高くなったという。
 休憩後、3時10分に再開され、栗原栄子さんから5月27日(日曜日)に行われる海老名見学会の申込を受付る案内がある。
 11分から大津和弘さんが講師・町田茂さんを紹介する。房総の石佛や馬乗馬頭観音をまとめて出版していること、歳にかかわらず健脚家である。狛犬にも造詣が深い。
 14分から町田さんの「成田不動尊・宗吾霊堂周辺の石仏」が始まる。すでに受付でA4判18頁のレジュメが配られている。地図や「石仏1覧表」「成田街道の道標」を含め、新勝寺と東勝寺の解説がされ、「主な石仏」を項目別に写真を載せて説明している。
 今回の講演は、去る3月11日(日曜日)に行われた成田見学会を踏まえた形で、当日廻らなかった場所をカバーしている。初めに見学会の話から始まり、成田生まれで成田育ちの自己紹介がある。 先ず成田山の縁起にふれから、団十郎との関わりや江戸庶民の成田山信仰を話し、成田山にある文化財や佐倉道(成田街道)の道標に話題が進む。続いて宗吾霊堂で知られる東勝寺の縁起と文化財を簡単に話す。
 「主な石仏」はレジュメに多くの写真が載っているが、それ以外の写真がモニター画面に写し出される。例えば、権現山にあるカンマン三尊種子塔はレジュメに載っているが、その他に境内にある明治19年カンマン種子塔や霊光館にある不動明王坐像などが画面に映写され、視覚に訴えて現場感覚を刺激する。
 最初の「不動明王」は、坐像や種子塔以外に不動明王の象徴である宝剣、倶梨迦羅不動を取り上げる。石佛だけでなく本堂裏にある金銅佛の大日如来や役の行者、五大明王や八大童子、三十六童子を含めて紹介する。
 不動明王関係の石佛に続き「道標」を取り上げ、江戸から成田までの成田街道にある道標を紹介する。成田以外の市川市行徳の常夜灯や酒々井町伊篠の道標も含まれている。
 道標の次は「念仏塔」、隔夜念佛塔・十九夜塔・二十二夜塔・二十三夜塔・二十六夜塔を扱う。見学会で寄らなかった寺台・永興寺の十九夜塔・二十三夜塔・二十六夜塔の3基はみていない。
 「狛犬」は町田さんの得意分野である。青銅製を含め、成田山境内にある狛犬を中心に東勝寺の狛犬に及ぶ。出世稲荷にある石狐に加え、ここにあるトラックに乗る稲荷神の写真を披露する。
 次の「下総板碑」は、奥の院の弥陀一尊種子板碑や東勝寺の十三佛板碑にふれる。続く「薬師如来」は、大道裏道にある亀趺に乗る薬師如来、見学会の時には庚申塔に集中していて見逃した石佛である。「六地蔵」は、東勝寺にある2基の稜角灯籠の他に単制や重制の六地蔵石幢である。成田市下総町高には、下部に後生車がついた六地蔵石幢「車地蔵」がある。
 関心がある「庚申塔」は、見学会でみた権現山の安永2年青面金剛や子安地蔵堂の明和元年青面金剛に他に興味があったのは、成田市竜台の百庚申にある庚申塔の台石である。台石には、扇子を持って踊る猿・御幣を執る猿・太鼓を打つ猿の烏帽子をかぶった3猿が浮彫りされて面白い。
 成田市成毛にある「孝心」塔が写し出される。塔の正面上部が山形らしいので、町田さんに質問すると、やはり山形が刻まれている。この質問から千葉県の会員2人がこれは庚申塔ではないといいだす。時間がないので、私は揉めるのを避けて何もいわなかった。恐らく富士を象徴する山形と小谷3志が影響を与えた富士信仰に基づくから、庚申塔ではない、といいたいのであろう。町田さんが「庚申日」の銘があるといったが、2人は自説を曲げなかった。庚申塔の資格基準のどの項目に該当するのか、庚申塔でない理由を知りたいものである。
 時間に追われたために「馬頭観音」はレジュメの1基、最後の「その他」は、二股大根絵馬や小野派一刀流親子の五輪塔など3点が紹介されて4時40分に終わる。
 司会の遠藤さんから次回は5月2日(土曜日)に行われると案内があり、閉会する。
第163回石仏談話室

 平成19年7月7日(土曜日)は、常用の豊島区西池袋・東京芸術劇場の6階会議室で石仏談話室が開催される。今回の講演は、野口進さんの「長野県望月町の石仏」と角田尚士さんの「しぶかわ 山の神々」である。
 午後1時12分に遠藤和男さんから開会の言葉、続いて坂口和子会長の挨拶があり、公開講座参加への勧めと6月に行われた韓国の方々の交流にふれる。講師の紹介がないままに、18分に野口さんが登壇し、事前に配付されるA3判2枚のレジュメとA3判1枚の地図からレジュメに沿って話始める。
 今回の話の対象は「長野県望月町」、現在は合併によって佐久市である。先ずホワイトボードに大まかな地図を描き、望月の中山道と東山道が接する交通の要衝であるなど地勢を説明する。次いで縄文遺跡が203か所があり、「望月牧」の歴史にふれる。
 ここから本論の「望月の石仏」、最初は道祖神を取り上げる。先ず「道祖神祭り」を『望月町誌』や望月出身の小林巳知さんの『日本の石仏』の記述から語る。次にモニター画面に写真を写して個々の道祖神を解説する。
 最古の道祖神は、天神・菅公社前にある元禄9年の双体道祖神、ここには4基の道祖神があり、鉄柵に囲まれている。『望月町誌』には、ここの道祖神は141基、双体道祖神はその中の約70%という。
 百沢・旧中山道路傍の祝言像、長坂・旧中山道路傍の合掌像、春日本郷・諏方神社前の握手像、式部・熊野神社の片手拝み像、協和小平の祝言系、春日本郷・岩下路傍の握手像、春日温泉・源泉公園の握手像、茂田井・諏訪神社の7基など、地域内にあるいろいろな双体道祖神のパターンが映し出される。
 双体道祖神から文字塔に移り、望月小平にある高さ92cmの「辻立神」塔、同所にある「猿田彦尊」塔、牧布施路傍の「道祖神」塔の3基が紹介される。
 道祖神の次が観音、第1が春日本郷・入新町の百観音、第2が長坂の石佛群、春日本郷・宮ノ入の7観音、最後が望月の昭和百観音である。中でも宮ノ入の七観音の詳細を知りたかったが、生い茂る草の間の写真で個々の観音はよくわからない。なお、昭和百観音は西国・板東・秩父の百観音に加え、信濃三十三観音と佐久三十三観音などを祀り、現在は約200体に増えている、という。
 次いで庚申塔、最初の望月・城光院の延宝8年塔は4手青面金剛や向かい合わせの2猿を浮彫りする。第2は牧布施・駒形神社近くにある年不明の合掌6手像、合わせの2猿を陽刻する。第3が布施・常福寺の万歳型合掌6手像、前2基と異なり3猿である。最後が協和・三井の万歳型合掌6手像で3猿付きである。
 続いて大日如来であるが、協和天神の万治2年像と寛文12年像共、に僧形で智拳印を結ぶ坐像である。大日如来かの判定に疑問が残る。
 次の地蔵は協和・高呂の六地蔵石幢、春日本郷・蓮華寺の六地蔵石幢、布施・威徳院の子安地蔵丸彫り坐像、茂田井・無量寺の六地蔵である。最後はその他の石佛で、望月・城光院の十王坐像と人頭杖・浄玻璃の鏡、望月・信永院の「六道四生河沙含霊塔」、望月・天神林の「念三夜」塔を取り上げている。
 「念三夜」塔が「當邑婦女社中敬立」の銘から、踊り念佛の造立というのはどうだろうか。「念」は「廾」を表すが、それを無視して「踊り念佛」というのも考えものである。周辺の二十三夜信仰はどうなっているのか、みないと判断できない。一度、岡村知彦さんに聞いてみたい。
 2時30分に野口さんの講演が終わり、今回新たに参加された永井さんの自己紹介がある。次いで青木安勝さんから10月28日の1泊見学会、栗原栄子さんから9月9日の美里見学の申込を受付る案内があり、、角田さなから赤城歴史民俗資料館の写真展について説明がある。
 休憩後、3時9分に再開され、青木安勝さんから講師の角田尚士さんについて、1泊見学会の講師、渋川市の文化財調査委員や資料館運営委員、或いは群馬歴史散歩の会の役員などを勤め、「群馬の達人」の称号を持つという。
 先ず角田さんから『日本の石仏』121号の「談話室案内」には、演題「群馬県赤城村 高遠石工の足跡」となっているが、今回は都合で「しぶかわ 山の神々」に変更になったと断りがある。「高遠石工の足跡」については、後日の機会に話されるという。
 今回は、4月28日から6月30日まで行われた春季ミニ企画展「しぶかわ 山の神々」に因む講演である。事前に「展示解説図録」が配付され、記載の順にモニター画面にスライドが映写される。 先ず渋川市とその周辺の地図で山々の位置を示してから、本題の「山の神々」石佛の映写に移る。順序は「図録」の通り、付随して周辺全景やアップの写真を追加する。最初は「赤城山系の神々」、第1に鈴ケ岳を取り上げ、山の全景・山頂の文字塔3基・祈祷所や御嶽行者の行衣・法螺貝・念珠などを写し、宮田の不動明王立像、棚下の不動明滝、赤城神社にふれる。
 次が「榛名山系の神々」、磨墨岩頂の烏天狗、行人窟と中にある役行者・前鬼・後鬼を紹介する。図録表紙の写真は磨墨岩頂の烏天狗を右隅に採り入れたもの、過去に『日本の石仏』第112号(平成16年刊)の表紙を飾っている。
 3番目が「水沢山頂の十二神将」、柱状型塔の薬師如来坐像以外は、神将を1基1体ずつ11基に浮彫りしている。延享4年11月の造立である。十二神将の内「吽陀羅大将」が欠けているのが、何とも惜しまれる。背後に落ちているのかもしれない。
 4番目が「相馬山々頂の神々(黒髪山)」、大山祗命・相満大権現・御嶽大権現、黒髪神社、御嶽三座神像、5番目が「東吾妻泉沢・御嶽山」、八海大頭羅神王・御嶽山座王大権現・三笠山刀利天宮、最後の「子持山々頂の神々」では、三笠山刀利天宮・御嶽山座王大権現・八海大頭羅神王、子持神社、役行者浮彫り像をスライドで映写する。
 図録の載った神々をスライドで紹介した後、富士石祠の隣にある丸彫り立像3体を最後に映写する。左端は蚕の種紙を持つ姥、左端は桑の枝を持つ翁、問題は中央の花の枝を執る女神である。角田さんは花を桜と解し、木花開耶姫命と推測する。群馬県邑楽郡板倉町石塚でみた万延元年の木花開耶姫命立像は4手が垂れた榊を持物としていた。
 種紙の姥と桑枝の翁は蚕神と推測できるが、中央の像の持物に疑問があるが、3体1組で蚕神とみるべきかもしれない。中央の1体の解明が待たれる。これまで馬鳴菩薩が蚕神とされきた。「蚕玉」なり「蚕影」なりの銘文が刻像や台石に刻まれていると問題はないが、蚕神としての信仰がある同種の像が発見されると解決する。
 角田さんの講演が4時25分で終わり、遠藤さんから次回9月1日の講師を紹介し、場所が第7会議室に変更になる通知で閉会する。
第165回石仏談話室

 平成19年10月6日(土曜日)は第165回の石仏談話室、池袋・東京芸術劇場6階小会議室が会場である。今回は横浜・前川勲さんの「海老名市石仏見学会報告」と横浜・青木安勝さんの「双体道祖神こと始め」の2人の講師による講演である。
 午後1時17分に遠藤和男さんが開会し、続いて坂口和子会長の挨拶、先ず戸田市の金子弘さんの訃報を伝え、子息が住むスエーデンの感想を話す。続く講師・前川さんの紹介は、神奈川支部の理事という簡単なものである。
 事前に配付されたレジュメはA4判4枚、5月27日(日曜日)に行われた協会主催の第74回海老名市石仏見学会の報告である。神奈川支部の永瀬隆夫さんが案内を担当された。コース順に場所と石佛を記したもの2頁、コースにある石佛を撮った写真12枚を3頁に廃止、最終頁に順序が丸数字入りの地図を添えている。
 1時21分に前川さんが登壇し、先ずイントロは、海老名市は県央にある南北に長い位置関係や地名由来、特産品など概要を説明して本題に入る。レジュメにもコースにある石佛の写真が載っているが、モニターを使って見学会の順序に従って写真を映し出して説明を加える。
 この日の見学会には私も参加しているので、特に違和感もなくモニターの写真みて説明を聞く。前川さんは、見学会の後にもう1度コースを歩かれているから、当日省略された場所の写真がモニターに出る。例えば、6の温故館(郷土資料館)の石標3本、道路越しにみた8の逆川の碑などである。 報告が予定の時間より早く終わったので、4月に行われた協会主催の1泊旅行「出羽、置賜・村山の石造物めぐり」の写真をモニターに写す。なお、この時の報告を西岡宣夫さんが『日本の石仏』第122号に発表している。
 さらに別所や軽井沢、小諸などを廻った時の撮った写真10点ほど披露される。2時43分に前川さんの報告が終わる。
 講演後は初参加の方の自己紹介があり、会合をインターネットで知って参加したという。続いて大津和弘さんから、9月26日(水曜日)に放映されたフジテレビ「スーパーニュース」の出演報告がある。徳島で17体の石佛が盗難にあったので、日本石仏協会を代表しのコメントを述べている。放映前に30分ほどの取材を受けたが、盗難のニュースを含めて3分間の放映で、短いコメントのみであったという。当日の写真3枚がモニターを通してみる。次に渋川の角田尚士さんから、赤城郷土資料館で行われる「カイコの神さま」展と群馬支部の石仏写真展「上州石仏の詩」の紹介がある。
 2時25分から3時10分まで休憩時間。気になったのは龍峰寺にある「宝掌地蔵尊」である。質問するのも気が引けたので、これについては休憩時間に聞くと、「宝掌」という名称は地蔵脇の石標に刻まれているという。問題の石佛は、昭和60年春に造立された地蔵菩薩丸彫立像である。
 3時10分から再開、遠藤和男さんから講師・青木安勝さんについて「道祖神の第一人者」という簡単な紹介があり、青木さんの「双体道祖神こと始め」が始まる。
 青木さんの場合も、事前にA4判8頁のレジュメが配付されている。「銘年のある古い双体道祖神」の年表や記載の双体道祖神の写真などは、資料として役立つ。
 レジュメに記載された平成11年8月現在の「銘年のある古い双体道祖神」の年表には34基が記され、これに洩れた道祖神として『日本の石仏』第26号(日本石仏協会 昭和58年刊)に掲載された松村雄介さんの「造塔を伴う道祖神信仰──その発生と展開1」から、神奈川県内の5基(寛文4基と延宝1基)を追加して挙げている。
 青木さんは、レジュメの最初に「初期のかたち」として1.僧形 合掌、2.男女の区別不明の2点を指摘してる。それを受けて次の「銘年像の真偽について」で、1.像容からみて疑問がある長野県辰野町の永正2年銘など8基、2.真偽のほどは不明の群馬県倉渕村(現・高崎市)の寛永2年銘など4基を列記している。
 続いて「年代別一覧」、前記神奈川県内の5基の「追加」、「参考資料」の順にレジュメの項目が並んでいる。「年代別1覧」をみると、寛永の2基を除けば永正・天文・弘治・天正・正保・承応は各1基である。それが寛文に入ると13基に激増し、次の延宝2基と少ないが、天和5基と貞享6基と増えている。この傾向をみても、承応以前の8基には疑問符つく。
 青木さんも永正から天正の4基は前記1の「像容からみて疑問」とし、以降の寛永2基・正保と承応各1基の4基については2の「真偽のほどは不明」と指摘している。寛文以降であれば年銘が正しいわけではなく、延宝1基と天和3基の4基についても、 2の「真偽のほどは不明」としている。
 3時18分から、先ず永正2年銘の辰野町沢底の双体道祖神の写真をモニター画面に映し出す。小松光衛さんの「石工通信」(『日本の石仏』第9号9頁 昭和54年刊)には、昭和53年12月14日付け『辰野朝日新聞』(後に『辰野日報』に改題)に載った記事の簡単な報告が載った。
 これを受け、柴田清義さんが「永正2年銘をもつ双体道祖神の真偽について」を『日本の石仏』第31号(昭和59年刊)を発表している。この論考の中で新聞記事の全文が21〜22頁に紹介されているから詳細は省くが、宮沢武男さんが石材業の父・有賀関次郎さんが沢底の双体道祖神にノミを入れた証言したこと取り上げて報じている。
 武田久吉博士は、その著『路傍の石仏』(第1法規 昭和46年刊)の「道祖神の古い碑石」の中で文正・永正・天正・明暦・万治の計6基の双体道祖神を否定している。永正2年像を「恐らく天保時代の作かと思われる」と記している。山田宗睦氏の『道の神』(淡交社 昭和47年刊)の「道祖神編年表」でも、永正から天正までの5基は、注記に「以上、いずれも疑義がある」とある。
 すでに清水長明さんは、『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)の「道祖神」の項で「(万治以前の双体道祖神は)像容からみていずれも江戸中期以降のもののようである」と指摘している。後の「双体道祖神のルーツをさぐる」(『日本の石仏』第103号 平成14年刊)に中では、文中に「中世末期にあたる永正より天正の4基は、いずれも追刻か改ざんの疑いがみられる」とさらに疑義を深めている。
 レジュメには、「銘年のある古い双体道祖神」年表記載の34基の写真を載せている。これらの写真は、プロジェクターを通してモニター画面に映し出され、関連して説明が加えれていく。最後に前記の『路傍の石仏』と今成隆良さんの『筑摩野の道祖神』(柳沢書苑 昭和54年刊)、牛越嘉人さんの『北安曇の道祖神』(柳沢書苑 昭和4年刊)からの引用について話す。朝日村古見と松川村椚原双体道祖神の例を引いて、古い年銘が道祖神自体の年銘ではなく、古い塔が何代か経て現在の双体道祖神となった事例と説明している。4時18分に講演が終わる。
 講演後に質問を受け付け、大津和弘さんが「最も高い帯代は」の質問する。青木さんが答える前に私が「百万円」といったら、場内は驚き顔である。この帯代は、8月末にみた穂高駅のロータリーにある昭和60年の双体道祖神に刻まれている。大津さんは当然、江戸時代の帯代を期待して聞いたのであろうが、昭和、しかも百万円の金額に唖然としている。
 東筑地方や安曇野地方に「帯代」を記す道祖神がみられる。江戸期の帯代は、例えば『穂高町の石造文化財 解説・資料編』(穂高町教育委員会 平成6年刊)21頁には、町内の事例を双体道祖神12基(内追刻1基)を示し、最低の柏矢町(安政2年)の10両から最高が新屋(宝暦9年)の9百両である。15両が穂高(文政7年)・橋爪(天保13年)・富田(元治2年)・柏矢町(安政6年)・牧(天保12年)5か所で最も多い。参考までに明治年間の双体道祖神6基、文字道祖神4基に帯代が刻まれている。
 帯代の質問に関連し、青木さんが「道祖神盗み」にふれられる。前記の『路傍の石仏』には、松本市4ツ家の天保12年像の裏面に「担此神石移他邑祭之為後栄祝賀之方金五両受唯」(128頁)、波田町新田の天保15年像の裏面に「担此神石移他村祭之為後栄祝賀之方金5両受焉」(130頁)の銘文がみられる。
 質疑が終わったのが4時20分、遠藤さんから会場変更を含めて次回の案内、出席していた次回講師の鳥澤隆憲さんの紹介があって21分に閉会となる。
気になる六地蔵 石仏探訪6

 平成19年の多摩石仏の会5月例会を担当しているので、2月21日(水)に下見を兼ねて青梅市沢井と梅郷の石佛を散歩した。翌月13日(火)は、下見コースに欠けた場所があり、それを確認と昨年造られた閻魔大王石像などをみたいので、青梅市二俣尾と梅郷地区の石佛散歩を行った。
 3月13日は泉蔵院(真言宗豊山派 二俣尾2−785)を訪ね、目的の1つであった閻魔大王石像に接した。昨年の新聞記事に「庭には重さ約7トンの『閻魔大王』の像も置かれた」とあるように、実物は非常に大きい。白御影石(184×167cm)の中央を深く窪め、冠をかぶって道服をつけ、憤怒相で右手に笏を執る閻魔坐像(像高116cm)を肉彫りする。
その後で海禅寺(曹洞宗 二俣尾4−962)に行き、第2の目的の血盆經銘がある如意輪観音をみて、長泉院(曹洞宗 二俣尾4−1066)に寄った。ここは明治23年造立の六地蔵単制石幢(69×31×28cm)があり、6面の1面(幅16cm)に1体ずつ地蔵菩薩立像(像高36cm)を浮彫りする。 この寺も長らく訪れていないので、第3の目的である平成9年造立の六地蔵丸彫立像(像高48cm)を初めてみる。右から鉄製錫杖と宝珠の「鶴亀地蔵」、右手で施無畏印を結び、左手に鉄鉢を執る「陀羅尼地蔵」、合掌する「法性地蔵」、数珠を持つ「地持地蔵」、柄香炉を執る「宝性地蔵」、幡幢を持物とする「法印地蔵」の順に並ぶ。
 その後廻った青木宅(柚木町3−534)では、龕部(33×38×44cm)に定印弥陀らしい坐像(像高19cm)の中尊を置き、3面に2体ずつの地蔵立像を配する重制石幢をみる。竿石には長文の銘を刻み、文中に「爲廾三夜供養」があり、多摩地方で最古の二十三夜塔である。その隣にも明和4年の地蔵丸彫立像(像高75cm)があり、台石左側面に「柚木村/月待講中」の銘を彫る。
 即清寺(真言宗豊山派 柚木町1−4−1)では、山門前にある昭和59年秋彼岸の造立の六地蔵(像高61cm)に注目する。参道を挟んで3体ずつ並ぶ。右手前から数珠の「護讃地蔵」、棒の「無2地蔵」、錫杖と宝珠の「禅林地蔵」、左奥から印と宝珠の「伏息地蔵」、柄香炉の「伏勝地蔵」、合掌の「諸龍地蔵」の順である。
 次は大聖院(真言宗豊山派 梅郷6−1542)を訪ね、地蔵堂に安置された六地蔵をみる。右から「放光王地蔵」、印と宝珠の「金剛宝地蔵」、錫杖と宝珠の「金剛幡地蔵」、間に願王尊があって柄香炉の「地持地蔵」、数珠の「法性地蔵」、合掌の「宝性地蔵」の順に並んでいる。右が天台系の尊名、左が禅宗系の尊名で両系折衷の尊名である。
 長泉院の平成9年六地蔵、青木宅の慶安3年二十三夜六地蔵石幢、即清寺の昭和59年六地蔵、大聖院の寛文10年稜角六地蔵重制石幢と明治22年六地蔵と廻ると、2月4日(土曜日)の石仏談話室で鳥沢隆憲さんが話された「六地蔵について」講演が思い出される。
 これまでに本誌第32号(昭和59年刊)に「現代の地蔵造立を考える」、第71号(平成6年刊)に「現代の地蔵信仰の1端」、第77号の「青梅周辺の将軍地蔵と愛宕信仰」や第92号の「青梅市沢井の黒地蔵」などを発表してきたがこれらは、どちらかといえば地蔵単体が対象である。
 他にもたましん地域文化財団の『多摩のあゆみ』や多摩石仏の会の『野仏』などでも単体の地蔵について書いた。しかし、六地蔵については『青梅市史 下巻』(青梅市 平成9年刊)で六地蔵の項目を設け、尊名や持物に触れたものの、かなり不充分であった。
これまでは余り注意を払わなかった六地蔵の諸点が、鳥沢さんが講演で明らかにされて参考になった。真言系密教(東密)の『覚禅抄』や天台系密教(台密)の『阿婆縛書鈔』は図像の研究には使われているが、江戸時代の信仰を知る上では『佛像図彙』が一般的で、多くの石工が利用しているので欠かせない。余りにも簡潔にまとめられているために、各宗派の呼称や出典などが入り交じっているので注意が必要である。また「十王経」は、中国・朝鮮伝来の『閻羅王授記経』と日本で作られた『地蔵十王経』の2系統がある。
 江戸時代に石工が参考にした『佛像図彙』では、天台系の預天賀・放光王・金剛願・金剛宝・金剛幡・金剛悲の尊名、禅宗系の地持・陀羅尼・宝性・鶏亀・法性・法印の尊名、真言系の護讃・辯尼・破勝・延命・不休息・讃龍の尊名の3系統が示されている。実地の六地蔵の場合はどのようなのか、知りたくなってきた。
 3月13日(火)に青梅市二俣尾・長泉院(曹洞宗)、柚木町・即清寺(真言宗)、梅郷・大聖院(真言宗)の3か寺を廻り、寺にある六地蔵を記録したので比較のために一表にまとめると「表1 三か寺の六地蔵」の通りである。
   表1 三か寺の六地蔵
   ┏━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┓
   ┃長泉院(曹洞宗)  ┃即清寺(真言宗)  ┃大聖院(真言宗)  ┃
   ┣━━━━━┯━━━━╋━━━━━┯━━━━╋━━━━━┯━━━━┫
   ┃尊   名│持  物┃尊   名│持  物┃尊   名│持  物┃
   ┣━━━━━┿━━━━╋━━━━━┿━━━━╋━━━━━┿━━━━┫
   ┃鶴亀地蔵 │錫杖宝珠┃護讃地蔵 │数  珠┃放光王地蔵│錫杖宝珠┃
   ┠─────┼────╂─────┼────╂─────┼────┨
   ┃陀羅尼地蔵│印/宝珠┃無二地蔵 │棒(幡)┃金剛宝地蔵│印/宝珠┃
   ┠─────┼────╂─────┼────╂─────┼────┨
   ┃法性地蔵 │合  掌┃禅林地蔵 │錫杖宝珠┃金剛悲地蔵│印/錫杖┃
   ┠─────┼────╂─────┼────╂─────┼────┨
   ┃地持地蔵 │数  珠┃伏息地蔵 │印/宝珠┃地持地蔵 │柄香炉 ┃
   ┠─────┼────╂─────┼────╂─────┼────┨
   ┃宝性地蔵 │柄香炉 ┃伏勝地蔵 │柄香炉 ┃法性地蔵 │数  珠┃
   ┠─────┼────╂─────┼────╂─────┼────┨
   ┃法印地蔵 │幡  幢┃諸龍地蔵 │合  掌┃宝性地蔵 │合  掌┃
   ┗━━━━━┷━━━━┻━━━━━┷━━━━┻━━━━━┷━━━━┛
先ず、六地蔵の名称からみると、長泉院は『佛像図彙』の通りの名称を用いている。「宝陵」が「宝性」に、「宝印」が「法印」になる違いがみられるもの、他は『曹洞宗行持規範』や臨済宗十7派の『江湖法式梵唄抄』や禅宗系統である『佛像図彙』とほぼ同じ名称を用いている。即清寺は『高野山真言宗系』や『天台常用法儀集』と同じ名称である。
 前の2か寺と著しく異なるのは、大聖院が用いている名称である。「放光王地蔵」「金剛宝地蔵」「金剛悲地蔵」の三地蔵は、天台(密教)系の『天台宗常用法儀集』や『六地蔵和讃』『佛説地蔵菩薩発心因縁十王経』と同じ名称を用いている。他の「地持地蔵」「法性地蔵」「宝性地蔵」の三地蔵は、禅宗系の『曹洞宗行持規範』や『江湖法式梵唄抄』の名称である。
 こうした密教系3体と禅宗系3体の名称を用いたのは、この3体ずつの間にある願王尊(錫杖と宝珠を執る大型の地蔵坐像)の台石に謎解きの手掛かりがある。この台石には、吉野村の由来が刻まれているからである。
 江戸時代の村別に旧吉野村の寺院を挙げると
   畑中村 地蔵院(臨済宗) 〔廃寺〕普通庵(臨済宗)・大宮寺(本山修験)
   和田村 徳昌寺(臨済宗)
   下 村 大聖院(真言宗)・竹林寺(曹洞宗)・天沢院(曹洞宗) 〔廃寺〕聖寿院(修験)
   柚木村 即清寺(真言宗)・忠堂院(真言宗)の通りである。この寺院分布からみて、旧吉野村は真言宗と禅宗系の臨済宗と曹洞宗から成り立っていたことがわかる。こうした宗派の状況から、折衷の六地蔵が生まれたものと推測される。
 次に六地蔵の持物をみると、長泉院は『江湖法式梵唄抄』『佛像図彙』と比較すると、法性地蔵が柄香炉を執らずにが合掌し、宝性地蔵が合掌せずに柄香炉を執っている。つまり本体と台石が逆に配置されている。
 仮に『天台宗常用法儀集』の名称の順が六道配当や持物と同じとすると、「表2即清寺の六地蔵」のように推定される。これを即清寺の持物を当てはめてみると、余りに違いありすぎる。即清寺の場合は何を基本として持物を定めたのであろうか。
   表2 即清寺の六地蔵
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   ┃出典      ┃六地蔵の名称                 ┃
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   ┃天台宗常用法儀集┃預天賀│放光王│金剛願│金剛宝│金剛幡│金剛悲┃
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   ┃天台宗常用法儀集┃禅 林│無 二│護 讃│諸 龍│伏 勝│伏 息┃
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   ┃高野山真言宗系 ┃禅 林│無 二│護 讃│諸 龍│伏 勝│伏 息┃
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   ┃推  定│六 道┃天 人│人 間│修 羅│畜 生│餓 鬼│地 獄┃
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   ┃    │持 物┃如意珠│錫 杖│金剛旗│錫 杖│宝 珠│炎魔幡┃
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   ┃即清寺 │持 物┃杖/珠│棒  │数 珠│合 掌│柄香炉│印/珠┃
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 「表3 大聖院の六地蔵」にみるように聖院の持物の場合も、何を基準にして像像されたものか不明である。
   表3 大聖院の六地蔵
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   ┃大聖院の六地蔵   ┃出典の六地蔵       ┃     ┃
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   ┃尊   名│持  物┃尊   名│持 物│印 相┃出   典┃
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   ┃放光王地蔵│錫杖宝珠┃放光王地蔵│錫 杖│説法印┃六地蔵和讃┃
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   ┃金剛宝地蔵│印/宝珠┃金剛宝地蔵│宝 珠│与願印┃     ┃
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   ┃金剛悲地蔵│印/錫杖┃金剛幡地蔵│金剛幡│施無畏┃     ┃
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   ┃地持地蔵 │柄香炉 ┃地持地蔵 │数 珠│───┃佛像図彙 ┃
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   ┃法性地蔵 │数  珠┃宝性地蔵 │合 掌│───┃     ┃
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   ┃宝性地蔵 │合  掌┃法印地蔵 │金剛幡│───┃     ┃
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ともかく青梅市内3か寺の地蔵を比較すると、宗派により尊名の違いがみられ、持物にも異同がみられることがわる。実際と出典との違いが何によって生ずるかは今の所は不明である。これからも事例を集めて調査してみないことには埒があかないと、考えて青梅市内の六地蔵に焦点を当ててしらべようと考えて実行に移した。
 3月20日(火)は、その第1回として青梅地区と千ケ瀬にある六地蔵を巡った。住江町延命寺(臨済宗)の文政3年六地蔵、千ケ瀬町6丁目宗建寺(臨済宗)の寛政10年六地蔵、同町3丁目聚徳院(臨済宗)の平成4年六地蔵、西分町宗徳寺(臨済宗)の昭和55年六地蔵、仲町梅岸寺(真言宗)の昭和4年六地蔵、天ケ瀬町金剛寺(真言宗)の昭和10年六地蔵、大柳町清宝院(真言宗)平成13年六地蔵、滝の上町常保寺(臨済宗)の明治17年六地蔵を実地調査した。
 こうした調子で3月21日(水)に第2回目、調布地区を中心に花蔵院(真言宗)・東円寺(真言宗)・玉泉寺(臨済宗)・寿香寺(曹洞宗)の4か寺と吉野地区の地蔵院(臨済宗)、計5か寺を廻った。3月23日(金)が3回目、聞修院(曹洞宗)など小曽木地区の6か寺と成木の1か寺の計7か寺の調査を済ます。
 第4回目の3月27日(火)は、成木地区の青梅市内六地蔵巡りである。新福寺(曹洞宗)から始めて5か寺を調べる。翌々日の29日(木)の5回目の六地蔵巡りを行い、前回見逃した成木の正沢寺(曹洞宗)の六地蔵をみてから、霞地区の報恩寺(天台宗)までの6か寺と共同墓地にある六地蔵と大門の六地蔵単性石幢を廻る。
 今後、この青梅市内六地蔵巡りは、残す霞地区と沢井地区の2地区の調べ、不備な点を補う調査を行う予定である。その上で調査をまとめてみたい、と考えている。どのような結論が得られるかは、今後の調査・研究に待ちたい。これが現在私が行っている石仏探訪である。(平成19・3・30記)        〔初出〕『日本の石仏』第122号(日本石仏協会 平成19年刊)所収
小花波さんを偲ぶ

 小花波平六さんは、大正8年の庚申年生まれ「庚申の申し子」の大先輩である。庚申懇話会の創立会員で発足以来、会のリーダー役として中心的な存在であった。
 執筆活動の中心は、庚申懇話会の会誌『庚申』であったが、それ以外に日本民俗学会の『日本民俗学会報』を始め、日本民族学会の『民族学研究』、山村民俗の会の『あしなか』や茨城民俗学会の『茨城の民俗』など実に広範囲に多くの雑誌に寄稿されている。本誌『日本の石仏』第100号(平成13年刊)記念特集「石仏研究の現在」には、論考「庚申塔」を発表されている。
 庚申懇話会編『日本石仏事典』に始まり、『石仏研究ハンドブック』や『全国 石仏を歩く』など、出版活動の先頭に立ち、企画や執筆に携わった。以後も多くの本の執筆に係わっている。また、編者としての活躍は『庚申──民間信仰の研究』や『庚申信仰』に現れている。
 法名は「廣教平静居士」、小花波さんの人柄をよく表している。今はただご冥福を祈るばかりである。9
             〔初出〕『日本の石仏』第123号(日本石仏協会 平成19年刊)所収
あとがき

 昨年までは、石仏談話室・見学会・『日本の石仏』の3部門を1冊にまとめていた。今年は、参加した見学会が3回在り、記録もボリュームが増えたので別冊『石仏協会見学記07』にし、参加した石仏談話室5回分と『日本の石仏』掲載2回分で1冊にした。
 本書は次の5回の石仏談話室を集録している。
 2月4日の「第158回石仏談話室」は、中森勝之さなが「近江 湖東の石仏巡り」、鳥沢隆憲さんが「六地蔵について」を講演する。
 4月7日の「第160回石仏談話室」は、大津和弘さんが「石仏行脚から鋳造行脚へ 石仏を巡っての展開」、中上敬一さんが「念仏信仰と石仏 十九夜念仏・日記念仏にみる石仏・石塔の諸相」と2人が話す。
 5月5日の「第161回石仏談話室」は、谷相一夫さんの「第(大)六天について」と町田茂さんの「成田不動尊・宗吾霊堂周辺の石仏」である。
 7月7日の「第163回石仏談話室」の講演は、野口進さんの「長野県望月町の石仏」と角田尚士さんの「しぶかわ 山の神々」である。
 10月6日の「第163回石仏談話室」は前川勲さんの「海老名市石仏見学会報告」と青木安勝さんの「双体道祖神こと始め」の2人の講師による。
 『日本の石仏』掲載2回分は、第122号の「気になる六地蔵」と第123号の「小花波さんを偲ぶ」の2編である。前者は前記の鳥沢隆憲さんの「六地蔵について」に刺激され、青梅市内の六地蔵を調べた報告である。校舎は今年6月に亡くなられた庚申懇話会の小花波平六さんの短い追悼文である。
本書と別冊の『石仏協会見学記07』は、今年の日本石仏協会関係の記録である。
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                            石仏談話室雑記8 FD版
                             発行日 平成19年12月10日
               TXT 平成20年 2月 5日   
                             著 者 石  川  博  司
                             発行者 多摩野佛研究会
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