石川博司著    (続)多摩石仏の会雑記07      発行 多摩野佛研究会 
  〔内 容〕 ◎荒川区内を廻る(8月)   ◎我孫子市内を廻る(10月)   ◎相模原市内を廻る(12月)    
         ◎多摩石仏の会写真展1  ◎多摩石仏の会写真展2   ◎多摩石仏の会写真展3
         ◎都内の一代守本尊石佛  
         あとがき
荒川区内を廻る 多摩石仏の会8月例会

 平成19年8月25日(土曜日)は多摩石仏の会8月例会、JR東北線尾久駅に午前9時30分集合、コースの案内担当は多田治昭さんで荒川区内を廻る。集まったのは、犬飼康祐さん・加地勝さん・五島公太郎さんの総勢5人である。炎天続きで予報も36度というから、集まりも悪い。
 9時10分に尾久駅に改札口を出ると、誰もいない。しばらくして改札口に加地さんがきて、写真展の目録、写真展の台紙貼りの連絡、例会写真など1式が入った封筒をいただく。次いで多田さんはどこか廻ってきたとみえ、通りから駅前へ、本日のB5判案内地図を受け取る。案内図には、昭和517年9月に撮影された地蔵山墓地の3基と馬捨場の1基の写真が載っている。現状とは異なるので貴重な記録写真である。続いて大塚駅から都電できた犬飼さん、最後に五島さんが改札口から出てくる。メンバーはこんなものと思いながら、定時5分過ぎの35分に駅前を出発する。
 最初の見学は西尾久子育地蔵(西尾久6−32)、あらかわ遊園近くである。地蔵堂が新築され、庚申塔や地蔵が堂内の祀られている。鍵が掛かっていて堂内に入ることができないので、ここにはある次の庚申塔2基は、以前のデータによる。
 1 宝永7 駒 型 「ウーン 奉供養庚申講中諸願成就攸」蓮華 (計測できず)
   2 享保6 板碑型 「ウーン 奉供養庚申待二世安楽所」    (計測できず)
 1は「ウーン 奉供養庚申講中諸願成就攸」の主銘、その脇に年銘をを刻み、下部に蓮華を陰刻する。
 2は私のデータベースの備考に「頂部欠失」と記録されている塔、主銘は「ウーン 奉供養庚申待二世安楽所」、主銘の脇に年銘を記す。
 地蔵堂の前にある荒川区教育委員会の説明板には、次のように書かれている。日待供養塔二基と延命子育地蔵
 ここには寛文九年・宝永二年銘の日待供養塔二基(区登録有形民俗文化財)をはじめ、寛永二十年銘の地蔵菩薩や庚申塔など、江戸時代に建てられたいくつかの石造物がある。なかでも日待供養塔は、江戸時代初期のものであり、現在のところ区内ではここ以外に確認されていない。
 日待とは、決められた日に講中が集まって日の出を待ちながら一夜を明かす行事である。日待供養塔には上尾久村講中の村人の名が刻まれており、江戸時代、日待や庚申待などの民間信仰が存在していたことがうかがえる。
 延命子育地蔵尊は、かつて荒川遊園通りの西側にあったが、戦後、道の向かい側の現在地へ移転した。
 延命・子育にご利益があるといわれ、今も多くの信仰を集めている。毎月二日・十二日・二十一日の「二の日」に縁日があり、毎年七月十二日に祭りをおこなう。                                         荒川区教育委員会
 2番目が大林寺(西尾久3−9−5)、境内の次の2基をみる。
   3 正徳3 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     84×33×28
   4 享保7 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     64×30×23
 3は上方手に円盤を持つ合掌6手の立像(像高43cm)、下部に正向型3猿(像高13cm)を浮彫りする。右側面に「奉造立庚申供養安楽也/庄左衛門(等6人の施主銘)」、左側面に「正徳三癸巳天十一月吉日/豊嶋郡尾久村/(6人の施主銘)/講中」とある。
 4は標準的な合掌6手立像(像高41cm)、下部に正向型3猿(像高9cm)を陽刻する。右側面には「奉造立庚申供養爲安楽也/(6人の施主銘)」、左側面に「享保七壬寅天/(6人の施主銘)」の銘を刻む。
 庚申塔以外には、京都・広隆寺像を模した弥勒菩薩丸彫像、平成14年のや白衣観音丸彫坐像の新しい石佛や、正和5年の弥陀三尊板碑がみられる。
 3番目は地蔵山墓地(西尾久1− )、事前に多田さんから古い3基が片付けれていると聞いていたが、入って左手の1角に次の3基が立っている。
   5 万治1 板碑型 「奉造立庚申二世安楽所」蓮華      134×56
   6 延宝6 光背型 聖観音「奉供養庚申待□」        125×44
   7 寛文9 板碑型 日月「ウーン奉供養庚申待二世安楽所」3猿・蓮華×54
 5は2折した塔を修復したもの、塔面の剥落がみられる。過去のデータの主銘は「奉造立庚申二世安楽所」、主銘の1部と右の「武州豊嶋郡」、左の「敬白」などの1部の銘文は現在でも読める。底部の陰刻の蓮華は健在である。
 6は全体的に破損が酷く菩薩の判別はつくが、一見して聖観音とはわからない。以前この立像(像高97cm)をみているから見当がつくが、現在は「延宝六戊午年」の年銘が読める程度である。
 7は日月が残る上部(48×57cm)と正向型3猿(像高22cm)の陽刻がある下部(88×58cm)とに2折され、別々に並べて置かれている。銘文データは以前の調査による。
 反対側の無縁石佛を集めた場所には、次の2基がある。
   8 寛文10 丸 彫 地蔵「奉待累年庚申構供養起立地蔵菩薩」 183×58
   9 元禄9 板碑型 「カ 奉造立庚申待講中二世安楽処」3猿 107×41
 8は錫杖と宝珠を執る丸彫地蔵(像高183cm)、右側面に寛文10年の年銘、左側面に「奉待累年庚申構供養起立地蔵菩薩」の銘を彫る。
 9は主銘が「カ 奉造立庚申待講中二世安楽処」、右に「元禄九丙子歳/武州豊嶋郡」、左に「霜月吉祥日/上尾久村」、下に「助七(等10人の施主銘)」、底部に正向型3猿(像高16cm)を浮彫りする。
 墓地には耳輪をつけた地蔵風の丸彫り像(像高76cm)があり、台石正面に「悲願金剛」と横書きされている。
 通りに立っている教育委員会の説明板には、次の記事がまいられる。地蔵山の庚申塔
 地蔵山(西尾久2−25)は、旧上尾久村の共同墓地で、江戸後期の上尾久村絵図(八幡神社所蔵 区指定有形文化財)にも記されており、古くから信仰の場としての機能を担ってきたことがうかがえる。
 ここには、江戸時代の庚申塔(西尾久3−1 寳蔵院所蔵)がある。寛文10年塔は、丸彫りの地蔵の庚申塔、元禄9年塔は、地蔵の種子(仏菩薩を表す梵字)があり、地蔵信仰と庚申信仰との関連がうかがえる。ここが地蔵山と呼ばれていることと無縁ではなかろう。かつて入口にあった万治元年、寛文9年、延宝6年造立の3基の庚申塔は、風化によって破損した。その残欠のみが保管されている。                   荒川区教育委員会
 次に訪ねた花蔵院(東尾久8−46)には、次の1基がみられる。
   10 享保9 柱状型 「ウーン 奉庚申供養9橋講中二世安楽祈所」  73×18×12
 10は山角型で主銘「ウーン 奉庚申供養九橋講中二世安楽祈所」の左右に長い偈文がみられ、裏面に「武州豊嶋郡尾久村 享保九甲辰年」の銘がある。両側面に「清水八太郎」など5人列記の施主銘を2段に記す。
 続いて行った花蔵院旧薬師堂墓地(東尾久8−41)には、六地蔵の中に「庚申講」銘が入る1体がある。後述の銘文の「庚申講」部分が2体は法名、3体は単に「講中」となっている。
   11 宝永2 光背型 地蔵「奉造立六地蔵庚申講爲二世安楽也」  96×42
 11は六地蔵の左端にある頂部に破損がみられる塔、両手で幡幢を執る地蔵立像(像高78cm)が主尊である。像の右に「奉造立六地蔵庚申講爲二世安楽也」、左に「宝永二乙酉歳三月八日 三屋同行七人」の銘を刻む。
 隅田川沿いの道を東に進むと、馬捨場の前に出る。以前と変わって広く明るい境内になり、次の庚申塔は木祠の中に安置されている。
  12 寛永15 板碑型 「バン 奉供養庚申待三ケ年成就攸」蓮華   88×43
12は主銘が「バン 奉供養庚申待三ケ年成就攸」、右に年銘の「寛永拾五戊寅年、左に地銘の「武州豊嶋郡尾久村」がみられる。下部に施主銘が刻まれ、底部に蓮華を陰刻する。
 12の塔の前には、馬頭観音の坐像(45×26cm 像高27cm)と立像(51×25cm 像高42cm)が両脇侍の如くに置かれている。区教育委員会の説明板の末尾に「開発によって移された石塔類も置かれている。この内、寛永十五年(1638)十二月八日銘の庚申塔は荒川区内最古のものである」と記されている。
 馬捨場から下尾久石尊(東尾久6−31)へ向かう。角に立つお堂の脇に次の1基が立つ。
   13 元禄11 板碑型 日月「バン 奉供養庚申講為二世安楽也」蓮華 92×39
 13は上部に日月を陰刻し、中央に主銘の「バン 奉供養庚申講為二世安禾也」、右に「元禄十一戊寅年」、左に「十一月吉祥日」、下部に12人の施主銘を彫る。底部には陰刻の蓮華がみられる。
 すぐ近くの天照寺(東尾久6−22)は、民家の構えで寺らしくない。玄関前に次の1基がある。
   参 昭和30 板石型 「猿田彦大神/地付龍神」         62×35
 参は板石型の表面に「猿田彦大神」と「地付龍神」の2行、裏面に「昭和三十年一月吉日 清水関吉」とある。
 天照寺から都電を越えて満光寺(東尾久3−2)へ、以前みた時とは景観が余りにも変わり過ぎている。境内に次の2基がある。
  14 正徳3 光背型 日月・地蔵「奉造立地蔵菩薩庚申供養・・」114×48
 14は浮彫りの錫杖と宝珠を執る地蔵立像(像高84cm)、像の右に「奉造立地蔵菩薩庚申供養爲講中二世安楽也」、左に 「正徳三癸巳年十月廾三日 敬白」の銘文を刻む。
   15 承応3 板碑型 「キリーク サ サク 奉待庚申三箇年二世安楽處」  130×57
 15は上部に「キリーク サ サク」の弥陀3尊種子、下に「奉待庚申三箇年二世安楽處」と3年1座の主銘がある。右に「承應3甲午年」、左に「二月八日」、下部の左右それぞれにに上段4人と下段に3人の7人の施主銘を記す。
庚申塔の左手に可愛らしい明治の3面馬頭観音坐像(37×19cm 像高26cm)があり、奥に戌と猫を線彫りする黒御影の「ペット塚」がみられる。
 見学の最後は、原稲荷(町屋2−8)である。社殿横に次の1基がある。
  16 正保4 板碑型 「奉造立庚申」弥陀来迎三尊・2猿    114×46
 16は上部に三尊の種子があり、「奉造立庚申」の下に三尊陰刻像(計測忘れ)、底部に向かい合わせの2猿(像高14cm)が陰刻されている。像の右上に「正保四年丁亥二月吉日」、左上に「待供養爲現當安楽也」の銘がある。2猿の間下部に「留左衛門/内方」など4組の夫名と「内方」、つまり夫婦4組を刻む。『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)の箱にこの2猿の拓本が示されている。
 横に立つ「荒川区/指定文化財 阿弥陀三尊来迎図像庚申塔」の標柱の側面には
 江戸時代初め正保四年(1647)に、庚申信仰にもとづいて造立された庚申供養仏を表す種子と阿弥陀如来来迎図像の線刻があり、下段には向かい合う二匹の猿の間に、造立者である町屋村の四組の夫婦名が刻まれている。中世の板碑に見られる阿弥陀三尊来迎図が江戸時代に継承されている石塔の例としても知られる。江戸時代初期に荒川(現隅田川)下流域に展開した庚申信仰の特徴を示す庚申塔として大変貴重である。と金属板に記されている。
 昭和53年12月17日(日曜日)の例会最後に廻ったのが原稲荷、当時に記録をみると
 解散はしたものの、せっかくここまで来たのだから、もう一カ所行こうと有志が都電に乗った。町屋駅前で下車して、そこから近い原稲荷(町屋2−8)の
   34 正保4年 板碑型 来迎三尊・二猿を見ることにする。薄暗い境内でのストロボ撮影、よく写っていればよいが、都内の阿弥陀主尊の庚申塔では、足立区花畑町・正覚院の元和九年塔に次ぐ古塔。足立のものが陽刻であるのに対して、ここのは線彫りと彫法が異なる。下部の二猿も陰刻で、横向きで合掌している。この境内にはもう一基庚申塔があったはずだが、今は境内に見当たらない。社殿や境内を整備した際にでも失われたものだろう。と書かれている。
 町屋には次の3基がみられるが、今回は見学の予定になく省略する。
   寛文8 板碑型 「キリーク サ サク ウーン 奉造立庚申供養一基二世安楽所」 町屋1−9  松栄寺   
   年不明 手洗鉢 「奉納 猿田彦大明神」                    町屋1−9  松栄寺
   延宝8 光背型 日月・青面金剛「奉供養為二世安楽也」2鶏・3猿        町屋2−20 慈眼寺
 この原稲荷を最後に東京メトロの町屋駅から西日暮里に出て、JR山手線・中央線青梅特快で帰路につく。昨年8月20日(日曜日)の多田治昭さんの川越8月例会と同様、夏の暑さを避けて早仕舞いとなる。
我孫子市内を廻る 多摩石仏の会10月例会

 平成19年10月20日(土曜日)は多摩石仏の会10月例会、JR常磐線天王台駅に午前9時30分集合、コースの案内担当は関口渉さんで我孫子市内を廻る。集まったのは、犬飼康祐さん・加地勝さん・五島公太郎さん・多田治昭さん・森永五郎さん、写真展を機に新規に参加された小平の新井淳子さんの総勢8人である。
 天王台駅に着いたのが午前9時2分、少し早過ぎるかなと思っていたいたら、車両は別つだったが同じ電車に森永さんが乗っている。次いで案内の関口さんがみえ、レジュメをいただく。追々、人数が増えて時間間際にすでに近くを廻ってきた犬飼さんと多田さんがきてメンバーが揃う。
 いつもながら、関口さんの「我孫子市中部の石仏」案内はテンコ盛りである。B5判4頁に見学地が23か所、それぞれにギッシリと石佛の種類と年銘を記し B4大判の地図をつける。。とても、記載のコースを1日では廻れ切れない。最初の西音寺と続く八幡神社の石佛の多さで、2か所の見学時間がかかる。とても全コールが廻れないことが明らかであるので、途中でJR成田線新木駅までを湖北駅までに短縮する。
 最初の見学地、下ケ戸・西音寺で発参加の新井さんを迎えて会員が自己紹介、最後に新井さんが自己紹介する。西音寺の境内というか、次の八幡神社の参道横というか、1列に並ぶ石塔群から見学が始まる。
 ともかく、今回は見学対象にする石佛が多いので、通常行っているような記録方法(スケッチと銘文・寸法)では時間が足りない。幸い手許には、我孫子市史研究センター合同部会編の『我孫子の庚申塔』(同会 平成12年刊)と『我孫子の石造物(所在地別リスト)』(同会 平成17年刊)があるので、石佛のチェックと計測に専念して行う。○ 1 西音寺  (下ケ戸284)
 本堂の東側、八幡神社へ通じる参道沿いに次の石佛群がある。
   1 天保4 駒 型 日月「庚申塔」(台石)3猿        73×39×34
   2 天保12 柱状型 日月「庚申塔」(台石)3猿        75×30×30
   3 明治10 駒 型 日月「庚申塔」(台石)「講中」      65×37×19
   4 明治7 駒 型 日月「庚申塔」              57×25×17
   5 文久2 駒 型 日月「庚申塔」              63×25×19
   6 年不明 駒 型 日月「庚申塔」              65×26×17
 1は右側面の「天保癸巳正月吉日」左側面に「導師正泉寺現住二十七世□岸代」の銘があり、後で廻る正泉寺の影響が強く表れている。台石正面には、内向型3猿(像高15cm)を浮彫りする。
 2は右側面に「天保十二丑年二月吉日」、左側面に「導師正泉寺現住廿八世克文敬誌焉」の銘があり、1同様に正泉寺の影響がみられる。台石正面には、内向型3猿(像高13cm)を浮彫りする。
 3は台石の正面に「講中」銘がある。
 4は左側面に「村内中」の銘を記す。
 5は側面に「文久二戌二月吉日」の年銘を刻む。
 6は1から5にみられるように、上部に日月を浮彫りし、中央に「庚申塔」の主銘を彫る。○ 2 八幡神社(下ケ戸288)
 次の八幡神社は西音寺の裏、前記の庚申塔群と地続きの先にある。鳥居を潜って境内へ入って右手に次の2基がある。
  道1 嘉永2 駒 型 「道祖神」                38×21×22
 参1 寛政7 手洗鉢 「庚申講中/下戸村」           36×69×46
道1は正面中央に「道祖神」、その左右に年銘「(嘉)永二己年/酉四月吉日」の銘を刻む。
参1は正面に大きな字で「奉納」、その横の左右に小さな字で「下戸村/庚申講中」とある。右側面に「願主 小池□右衛門(他1人)/同 七壹人」の願主銘、左側面に「寛政七乙卯二月吉辰」を記す。上部彫込みの内法は、幅が43cmで奥行が26cmである。
 同じ側の少し離れた場所には、次の3基が並んでいる。
 三1 享和4 柱状型 「奉待廿三夜塔」(道標銘)        69×27×18
   7 明治17 柱状型 「庚申塔」「講中」            73×32×37
   8 明治25 駒 型 (剥落「庚申塔」か)「講中」       75×28×20
 7は台石正面に「講中」と記す。
三1は正面に「奉待廿三夜塔」の主銘、横に年銘、脇に道標銘「右弁財天ミち」を刻む。
 8は正面が剥落、主銘は「庚申塔」と思われる。台石正面に「講中」と記す。
 社殿の西側には、次の石佛がみられる。
   9 文政11 柱状型 「庚申塔」(台石)3猿            87×39×40
   10 享保4 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿・2童子・2薬叉 118×55×31
   11 元文5 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子  111×54×32
  参2 宝暦5 灯 籠 (竿石)「奉納青面金剛」           54×17×17
   12 天明7 年不明 「青面金剛王」2鶏・3猿           72×30×29
   13 文化7 柱状型 日月「奉待庚申塔」(台石)3猿        73×36×38
   14 享和3 柱状型 日月「庚申塔」(台石)3猿          84×34×32
   15 安永6 駒 型 日月「青面金剛尊」3猿           112×38×20
   16 文政6 駒 型 日月・青面金剛・1鬼(台石)3猿       83×34×22
   17 宝暦3 柱状型 「奉請青面金剛尊」(台石)3猿        90×31×31
   18 文化11 駒 型 日月「青面金剛王」              98×35×22
 9は1と同じ「導師正泉寺現住廿七世□岸叟」の開眼、台石の正面に3猿の浮彫りがある。
 10は剣人6手立像(像高55cm)が主尊、脚の両横に右方童子(像高22cm)と左方童子(像高23cm)の2童子を配す。主尊の頭部の横に「(欠)界皆是我有/其中衆生悉是吾子」の銘、下部の中央に外向型3猿(像高11cm)、両横に角がある合掌する薬叉坐像(像高21cmと26cm)を浮彫りする。
 11は10同様に剣人6手立像(像高64cm)が主尊、脚の両横に右方童子(像高25cm)と左方童子(像高26cm)の2童子を配す。主尊像の両横に「天延司命/勤善開士」銘を刻む。10は横向きであるが、11は前向きの鬼を彫り、下部の中央に正向型3猿(像高15cm)を陽刻する。
 参2は火袋のない灯籠で、竿石の正面に「奉納青面金剛」と記す。
 12は左側面に「導師正泉寺現住廿三太圓叟」の導師銘を彫る。主銘「青面金剛王」の下に文字塔では珍しい2鶏が陽刻され、台石の正面には3猿(像高15cm)がみられる。
 13は右側面に「開眼導師正泉寺現住廿五代太岸叟」と導師銘を刻む。台石の正面に内向型3猿(像高14cm)がある。
 14は台石の正面に内向型3猿(像高14cm)の浮彫り。
 15は下部に内向型3猿(像高14cm)を陽刻する。
 16は標準的な剣人6手像(像高47cm)が主尊、下部に内向型3猿(像高10cm)を浮彫りする。右側面に「開眼導師正泉二十五代太岸叟/時文政六癸未歳正月吉日」を記す。
 17は左側面に「導師正泉寺日秀輪叟」銘、台石の大半は土中に埋もれ3猿はハッキリしない。
 18の左側面には、「開眼導師正泉寺現住太岸叟」の導師銘を刻む。番外 西音寺墓地(下ケ戸284)
 西音寺と八幡神社の後に、西音寺と道1つ隔てた同寺墓地に行く。十九塔を探したがみつからず、奥まで進むと丸彫りの鶏が諌鼓鳥のように三つ巴紋の太鼓上に立ち、台石には鯉の滝登りの浮彫りがある。台石裏面に「昭和五十九年三月吉日/下ケ戸区民一同建之」とある。前に線香立てがあり、波模様がみえたがそのままに墓地の入口に戻る。後で聞くと、ウサギが波間を跳ねる図であるという。 関口さんから十九夜塔の場所を聞き、入口左手にある無縁塔の中に次の塔をみつける。
  九1 安永5 光背型 如意輪観音「奉造立十九夜講中」      77×29
 九1は如意輪観音(像高42cm)を主尊とするもので、上部に「奉造立十九夜講中爲二世安楽」、左端に「安永五申八月吉日」の銘を記す。○ 3 八幡神社(岡発戸540)
 岡発戸に入り、八幡神社を訪ねる。下ケ戸の八幡神社同様に庚申塔が多い。参道の右手に次のように庚申塔群がみられる。
   19 宝暦6 柱状型 「青面金剛王」1鶏1猿          74×30×20
   20 元禄5 板駒型 日月星「奉供養庚申青面金剛」3猿     72×35
  21 享保18 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    122×44
   22 享保3 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    102×44
   23 文化6 駒 型 日月「青面金剛王」3猿         100×42×28
   24 文化6 駒 型 日月「青面金剛」3猿           81×36×16
 19は主銘の左下に「導師正泉十七代日秀輪叟」銘、台石の正面には、右手に扇子を持つ猿(像高16cm)と鶏を浮彫りする珍しい図柄である。
 20は頂部に円、下に瑞雲を伴う日天と月天、この3者で日月星の三光を形成するものと思われる。中央に主銘、右に「元禄五壬申天十月吉日/施主」、右に「下総岡発と村/同行廿二人」、下部に正向型3猿(像高13cm)を浮彫りする。
 21は標準的な剣人6手立像が主尊(像高68cm)、像の右に「奉勧(請)青面金剛菩薩」、左に「享保十八丑十月吉日/庚申供養開眼導師」、下部に正向型3猿(像高16cm)がある。
 22は21と異なり、標準的な合掌6手像(像高50cm)が主尊、像の右に「庚申供養塔 享保戊戌年十月吉日」」、左に「諸願成就所 導師正泉慧月叟」、下部に正向型3猿(像高16cm)を陽刻する。
 23は左側面に「開眼導師正泉寺廿五代太岸叟」の銘がみられる。台石の正面に変則的な正向型3猿を浮彫りする。
 24は台石の正面に3猿の浮彫りがある。
   25 弘化5 駒 型 日月「庚申塔」              47×24×12
  26 安政5 駒 型 日月「庚申塔」              48×24×11
  27 弘化4 駒 型 日月「庚申塔」              48×27×12
  28 嘉永6 駒 型 日月「庚申塔」              47×27×11
  29 嘉永5 駒 型 日月「庚申塔」              47×26×11
  30 嘉永3 駒 型 日月「庚申塔」              48×26×10
  31 嘉永2 駒 型 日月「庚申塔」              44×23×11
  31 弘化4 駒 型 日月「庚申塔」              47×26×11
  33 嘉永6 駒 型 日月「庚申塔」              28×25×11
  34 安政2 駒 型 日月「庚申塔」              43×24×10
 24と の間に3基が3列と1基が立ち、その背後に百庚申と思われる文字塔が裏返されて数基みられる。26から36までの庚申塔は、前記の『我孫子の庚申塔』では百庚申として扱っている塔で計測は省略したので、同書88頁の数値を引用する。
  35 年不明 駒 型 2手立像(毘沙門天?)          57×24×16
   36 嘉永3 駒 型 (破損が酷い刻像)            54×27×19
 35は1応百庚申に入れたが、火炎光背の左手に矛、右手に索を執る2手立像、青面金剛とするには疑問のある刻像である。右手に宝塔を持てば、間違いなく多聞天(毘沙門天)であるが、あるいは、『佛像図彙』に示されている左右の持物が逆の増長天かもしれない。
 36は刻像の破損が酷いので推測でしかないが、もし35が増長天とするならば、4天王の他の多聞天・持国天・広目天の3天のいずれかに当たる。
   37 嘉永2 駒 型 日月「庚申塔」              45×28×12
 37は百庚申の類の塔と思われる。
 離れた場所に疱瘡に関係する次の2基がみられる。
  疱1 明治9 柱状型 「疱瘡神」                81×31×23
  三2 文政9 柱状型 「廾三夜供養塔」            (計測なし)
  待1 年不明 石 祠 「待道大権現」              36×25×22
 待1は前面の右端に「待道大権現」、左端に「下総国岡保戸村」の名を刻む。この石祠の前には灯籠2基が立ち、その周りを玉垣で囲んでいる。入口には石鳥居がある。
 疱1は正面の彫り込みの中に「疱瘡神」の主銘、右側面に「明治九子九月吉日建立之」の年銘を刻む。右横には、同じ石を使った「大杉殿」の柱状型塔(81×30×22)があり、「疱瘡神」と同じ「明治九子九月吉日建立之」の年銘である。「大杉殿」は、茨城県旧桜川村阿波の大杉神社を指し、この辺りでは疱瘡神除けの神としての信仰があった。
 川戸彰さんは『続日本石仏図典』(国書刊行会 平成7年刊)に掲載された「大杉大明神」の項目を担当し、49頁に今回は廻らなかったが、中峠・龍泉寺に「大杉大明神」を刻む正徳5年造立の石祠があると、報告している。
 レジュメに載って道祖神が見当たらないので、関口さんに尋ねると、神社の入口、鳥居の近くにある、という。帰りがけに道祖神をみる。
  道2 天保3 石 祠 「道祖神」                34×23×12
 道2は、唐破風付きの屋根を乗せる石祠の正面に主銘を刻む。○ 4 白泉寺墓地(岡発戸541)
 八幡神社の東、1軒置いた路傍にブロックで囲われた1区画に次の石佛群がある。
  九1 延宝5 光背型 如意輪観音「十九夜間奉念佛」        × × 
  九2 元禄6 光背型 如意輪観音                07×47
  七1 明和1 光背型 如意輪観音                74×32
 九1は頂部に「卍」、右端に「十九夜間奉念佛/延宝5丁巳年」、左端に「十月十九日/所願現世安穏後生善所 岡發都村」の銘がある。主尊は2手の如意輪観音(像高61cm)である。
 九2は、九1と異なる6手如意輪観音(像高84cm)を主尊とする。頂部に円、右端に「同行六拾一人女生/十九夜間奉念佛/所願現世安穏後生善所」、左端に「元禄六癸酉九月吉祥日」の銘を記す。 七1は、主尊が2手如意輪観音(像高46cm)である。頂部に横書きで「十七夜」、右端に「明和元申十月吉日」、左端に「相馬郡岡發戸村講中」の銘がみられる。○ 5 正泉寺(湖北台9−12)
 予定を変更し、昼食の関係で水神社より先に正泉寺へ向かう。虚空蔵菩薩と思われる坐像を置き 正面に「龍宮出現血盆経道場」と彫った台石に迎えられて境内に入る。境内を廻ってから墓地へ行き、次の石佛をみる。
   38 元禄6 板碑型 日月「奉供養青面金剛王」3猿       78×35
   39 享保1 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     10×55
  三3 宝暦4 柱状型 「奉請求廿三夜徳大勢至菩薩」       89×37×20
  九3 天和3 光背型 如意輪観音「拾九夜念佛供養」       97×44
 38は主銘の右に「元禄六癸酉年九月如意日 下総国相馬郡都部村同行十人」の銘がある。下部に正向型3猿(像高12cm)を浮彫りする。
 39は標準的な合掌6手像(像高67cm)が主尊、像の右に「大龍山主照慧月導師曰 享保元丙申冬吉旦」、左に「今此三界皆是我有/唯我一人能爲救護 都部村同志拾七人」の銘を記す。3猿は線香立に隠れている。
 三3は主銘の右に「宝暦四甲戌天 相馬郡都部村」、左に「小春吉祥日 導師正泉寺」、底部には「新左門」などの施主銘がみられる。
 九3は2手の如意輪観音(像高60cm)が主尊、「拾九夜念佛供養」の銘がある。
 これらの石佛群から離れた場所に、次の石佛がみられる。
  七1 延宝2 光背型 聖観音                  01×37
 七1は左手で蓮華を執り、右手で与願印を結ぶ聖観音(像高77cm)が主尊である。像の右に「奉造立十七夜念佛供養」、左に「延宝二甲寅年十月吉日」の銘文を記す。○ 6 水神社(都部新田217)
 昼食のために後回しになった水神社へ向かう。境内には、次の石佛がみられる。
  三4 天保3 駒 型 「弐十三夜塔」              64×30×19
  40 宝暦2 駒 型 青面金剛・1鬼・3猿           88×37×33
   41 嘉永7 柱状型 日月「庚申塔」              74×29×29
   42 文政9 柱状型 日月「庚申塔」              77×37×38
   43 寛政9 駒 型 日月「青面金剛王」(台石)3猿      73×30×19
   44 安永4 柱状型 日月・青面金剛・1鬼・3猿・(台石)蓮華 85×37×34
   45 元禄15 板駒型 日月「奉請青面金剛」3猿         80×37
  待2 天保6 石 祠 「待道」                 35×25×17
三4は主銘の右に「天保三壬辰」、左に「十一月廿三日」の年銘を刻む。
 40は標準的な持物を執る剣人6手立像(像高40cm)、下部の内向型3猿(像高14cm)は塞耳猿を上に、向かい合う塞目猿と塞口猿の2猿を下にした3角形配列である。頂部に「奉/供養/庚申」、右端中央に「導師正泉寺」、左端上部に「宝暦二壬申/十一月吉日」、左端中央に「都部邑講中十人」の銘を彫る。
 41は左側面に「正泉卅一世太亮叟」の導師銘がみられる。
 42は「導師正泉亮(国)叟」が刻まれている。
 43は右側面に「下総国相馬郡都部村下講中」、左側面に「導師正泉二十三世大圓叟」が読める。
 44は合掌6手立像(像高54cm)、下部に内向型3猿(像高11cm)を浮彫りする。像の右に「安永4未十二月吉日、左下に「講中/十三人」とある。
 45は主銘の右に「新田村施主/元禄十五壬午年」、右に「十一月如意日/敬白/同行八人」の銘、下部に正向型3猿(像高17cm)を浮彫りする。
 待2は右側面に「天保(六)未年/正月吉日」、左側面に「江尻新田女人中」の銘。
 この神社境内には、板石型塔に「バ 鰻魚及一切水族霊」と刻む石塔(37×30cm)がみられる。○ 7 八坂神社(都部46)
 続いて訪ねたのが八坂神社、境内にある次の石佛をみる。
  待3 天保6 石 祠 「待道大権現」「女人講中」        47×27×25
  三5 文政3 駒 型 「二十三夜塔」              70×37×28
   46 明和5 駒 型 日月「青面金剛王」            93×43×31
   47 年不明 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     96×44
   48 文政7 駒 型 (剥落)(台石)3猿           68×28×19
   49 文政1 駒 型 日月「□□塔」              70×30×20
   50 享和1 駒 型 日月「青面金剛尊」            76×39×22
 待3は「待道大権現」を刻む石祠、台石の正面に横書きで「女人講中」と記す。石祠を中心として玉垣が囲む。この辺りでは一般的な形態である。
 35は台石正面に施主銘が列記されている。「開眼導師正泉太岸叟」の銘からも、庚申塔に限らず民間信仰に正泉寺の僧侶が関係していたことがうかがわれる。
 46は正面の右下に「導師正泉」、左下に「實参叟」、下部に横書きで「十九葉」と、この塔も正泉寺が導師として関与している。
 47は剣人6手像(像高56cm)が主尊、頭上に「奉請」、像の右に「青面金剛」、左に「大聖菩薩」の銘を刻む。下部には正向型3猿(像高8cm)があり、台石の正面に内向型3猿(像高14cm)があるから、台石の置換がみられる。人身から下は石がトロケており、鬼の両横に鶏らしい像がみられる。 48は正面の中央部分が剥落して主銘が不明、台石正面に内向型3猿(像高 cm)があるので、庚申塔とみなす。左側面に「正泉現亮國叟」と、この塔も導師に正泉寺が関係している。下の台石正面に横書きで「講中」とある。
 49は正面に剥落しているが、庚申塔と考えられる。右側面には「開眼導師廿五世太岸叟」の銘がある。台石の正面に地銘と願主銘がみられる。
 50は46・48・49同様に、左側面に「導師正泉二十四世機外思禅叟」とあり、正泉寺の代々の住職が導師を勤めていたことがわかる。○ 8 路傍(中峠台17)
 国道356号線の湖北台入口交差点角に、次の庚申塔が1基みられる。
   51 享保17 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     82×40
 51は円盤を持つ剣人6手立像(像高50cm)、下部が埋まっていて3猿(像高3cm)の顔がみられる程度である。頂部に「爲」、像の右に「享保十七壬子稔十月吉日/奉刻彫庚申聖像一尊」、左に「所願成就二世安楽矣/中峠村上宿同行□十三人」の銘を記す。○ 9 庚申塚(中峠1513)
 国道を左折し法岩院院方向へ進むと、右手に石塔群がみられ、その中に次の塔がある。
  聖1 享和3 駒 型 聖徳太子                 61×26×17
 三6 文化8 柱状型 「奉待/廾三夜待大勢至菩薩」       67×27×17
  52 天保9 駒 型 日月(剥落)「講中」           69×31×25
   53 元文3 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    122×51
   54 享保14 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・1鶏・3猿     96×45
   55 寛政12 柱状型 日月「青面金剛」             87×36×30
   56 天保3 駒 型 日月「庚申塔」(台石)3猿        75×40×35
   57 嘉永3 柱状型 日月「庚申塔」(台石)3猿        77×30×30
 聖1は中央に聖徳太子の孝養像(像高36cm)を浮彫りし、像の右に「享和三亥十一月廾一日立之」の年銘、左に「家根屋講中九人」の施主銘がみられる。太子は職人の神とされるから、屋根職人の講中で造立している。
 三6は頂部の「奉待」の下に「廾三夜待大勢至菩薩」と「光明真言十万返」の2行に記す。「〓」は「菩薩」の異体字である。塔の剥落が始まっているから、保存対策が必要である。
 52は上部に日月、中央の部分が剥落しているが、庚申塔と推定した。台石の正面には、右横書きで「講中」と刻む。
 53は円盤持ちの合掌6手立像(像高73cm)が主尊、像の右下に「元文三戊午年」、左に「奉敬請庚申尊天諸願成就之攸 九月吉日/中峠村/上宿同行廾七人」とある。下部に内向型3猿(像高19cm)を陽刻する。
 54は円盤持ちの合掌6手立像(像高54cm)、像の右に「奉刻彫/庚申像一尊」、左に「神乎鬼/乎面門已青/享保十四酉十月吉日/中峠村上宿/同行二十三人」の銘文がみられる。下部に内向型3猿(像高15cm)を浮彫りする。
 55は右側面に「中峠村講中 六十九人」の施主銘を記す。
 56は台石の正面に変則的な3猿の陽刻、中央の猿(像高20cm)は耳を塞いで正面向き、右が左手で目を塞ぐ猿で内側を向き、左の右手で耳を塞猿は穴の中から顔を出す。
 57は彫り込んだ枠の中に主銘を刻み、台石の正面に正向型3猿(像高9cm)がある。○ 10 法岩寺(中峠1561)
 庚申塚から法岩寺に至る。今回初めての百堂念佛の供養塔をみる。
  三7 文化7 柱状型 日月「奉待廾三夜徳大勢至菩薩」      66×26×19
  三8 正徳5 板駒型 日月・勢至菩薩              63×34
 三9 元禄15 光背型 日月・勢至菩薩「廾三夜」         91×36
 百1 貞享1 光背型 聖観音「百堂念佛供養」          97×33
  六1 元禄3 光背型 地蔵菩薩「十六夜念佛」       112×49
 三7は主銘の右に「文化七庚午年」、左に「二月大吉日」と年銘を振り分けている。
 三8は上部に来迎相の勢至菩薩坐像(像高23cm)を浮彫りし、頭の右に「奉請」、右端に「以念佛心 正徳乙未天」、下に「中峠邑」、左端に「入無生忍 九月廾三日」の銘がある。
三9は中央に来迎相の勢至菩薩立像(像高67cm)を陽刻し、像の右に「奉刻彫廾三夜本地勢至菩薩二世安楽所」、左に「元禄五壬午歳霜月廾三日 芝原村同行四十三人」の銘を刻む。下部の蓮座に「願主/浄西」の2行がある。
 百1は蓮華と与願印の聖観音立像(像高67cm)が主尊、像の右に「彫刻観音聖像一躯成百堂念佛供養」、左に「貞享元年甲子十月十二日 同行5十三人」の銘文を刻す。
 六1は中央に宝珠と錫杖を執る地蔵菩薩立像(像高76cm)、像の右に「奉供養爲十六夜念佛二世安楽」、左に「元禄三庚午天十月十六日 同行百廾九人」」の銘文がある。
 境内にある「鯖大師万人講」の大正7年塔が珍しい。前記の『我孫子の石造物』をみると、この寺には、元禄4年と元禄16年の十九夜塔(如意輪観音が主尊)・正徳5年の二十三夜塔(勢至菩薩が主尊)の3基が記載されているが、3基いずれの塔も見逃した。○ 11 長光院(中峠1513)
 法岩寺から国道へ戻り、東に向かって国道沿いの長光院を訪ねる。
  九4 延宝7 光背型 如意輪観音「十九夜念佛」        123×52
  九5 貞享2 光背型 如意輪観音               105×56
  58 延宝9 光背型 青面金剛                104×47
 三10 元禄16 光背型 勢至菩薩「奉造立/廾三夜」        71×32
  七3 安永2 台 石 地蔵菩薩(台石)「十七夜講」       20×49×42
  59 明和1 柱状型 日月「青面金剛王」(台石)1鶏・1猿   76×35×35
 九4は6手如意輪観音(像高63cm)が主尊、頭上の右に「奉刻彫如意輪尊」、左に「爲十九夜念佛諸願成就」、右端に「下総国相馬郡芝原村同行四十七人」、左端に「延宝七己未年十一月十九日」の銘文を彫る。
 九5は2手如意輪観音(像高70cm)が主尊、頭上に「奉請」、右端に「刻彫如意輪観音霊像1尊成 十九夜念佛供養」、左端に「貞享二乙丑十一月十九日 芝原村善音女同行六十一人」を記す。
 58は上方手に円盤と刷毛?、下方手に矛と独鈷を執る合掌6手立像(像高69cm)、日月・鬼・鶏・猿もなく、青面金剛と考えられる刻像である。頭上に「奉請」、像右に「延宝九辛酉年」、左に「十月廾九日」の銘を彫る。他にも下半部の左右に多くの施主銘がみられる。
 三10は上部に来迎相の勢至菩薩坐像(像高30cm)を陽刻し、右に「奉造立 元禄十六癸未年」、左に「廾三夜 十一月廾三日」、下に「諸願成就/爲二世安楽」の銘がある。
 73は地蔵菩薩(像高90cm)が主尊かどうかは疑問、台石には「十七夜講」の銘が読める。
 59は主銘の右に「明和元甲申歳」、左に「十一月吉日」の年銘を記す。この塔で眼を惹くのは、台石に浮彫りされた1鶏と1猿である。背に御幣を負い、右手に扇を持ち、烏帽子をかぶる猿(像高15cm)が鶏を追っている珍しい図柄が面白い。
 ブロック塀を背にして並ぶ石佛郡の右端には、寛文8年の6手如意輪観音がある。頭上に天蓋がみられ、彫りのよい尊像である。他に境内には、横長の一石に右から幡幢・宝珠と錫杖・柄香炉・宝珠と片手拝み・数珠・合掌の六地蔵立像が横1列に並ぶ石塔がみられる。年銘はみられないが、現代の作である。○ 12 天照神社(中峠1148)
 長光院から天照神社に向かい、境内にある次の庚申板碑をみる。
  60 天正9 板 碑 天蓋(二十一社本地佛種子)「申待/供養」(計測なし)
 60は上部に天蓋、首尊の釈迦如来種子「バク」の両横に「申待/供養」、下に20佛種子を4列5段に配し、下部の中央に経机の上に三具足を置き、左右に人名と年銘を記す。
 木祠の中コンクリの枠入りの二十一佛種子板碑が収蔵されている。暗いこともあるが、柵越しにみるだけでは物足りない。近くに立つ説明板には、次の記述がある。
   我孫子市指定文化財  二十一仏武蔵石板碑 
    関東地方に残る中世の石造物の中で最も多いのが板碑です。板碑とは主として死者の追善供養や、自らの現世安穏後生善処を祈願して建立したもので、後には
   墓石を兼ねるものも見られます。大きく武蔵板碑と下総板碑に分けられます。
    武蔵板碑は、秩父地方に産出する緑泥片岩を素材としています。頭部を山形にして中央に仏・菩薩の画像や種子を彫り、その下に造立の趣旨や年号あるいは戒
   名などをしるした板状の石塔婆です。千葉県下では利根川中流域から東京湾岸にかけて広く分布しています。
    二十一仏石板碑は全国的にも少なく、埼玉県大宮市を中心に発見されています。その分布範囲は狭く、我孫子市(中峠)はその東端になります。
    二十一仏信仰は平安時代に始まりました。比叡山の二十一社の諸神を、仏教の如来・菩薩・明王・天のおもなものをあてはめて本地仏としたものです。
    この二十一仏石板碑は天正九年(1581年)十一月の作で、中世の宗教資料としても貴重なものです。
    平成七年五月十一日に我孫子市指定文化財として指定されました。       平成八年三月                  我孫子市教育委員会 
 境内には、板石に「月読尊」の主銘を刻む明治7年塔(101×71cm)がみられる。○ 13 庚申堂(中里1)
 天照神社から中里へ入り、庚申堂に向かう。国道から湖北駅へ行く途中角、道路に面して鳥居や庚申堂がある。鳥居には、白地に墨で「奉納/青面金剛菩薩/湖北庚申講中」と記したノボリが対で立っている。堂には右横書きで「庚申塔」の木額が掛かっている。
  61 正徳1 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿       106×49
 三11 享和3 柱状型 (上欠)「二十三夜供養塔」        44×28×19
  62 昭和37 板石型 「庚申塔」                83×34
   63 明治35 板石型 「庚申塔」                96×54×15
   64 大正1 柱状型 「心願/成就 猿田彦大神」        57×25×15
  参3 平成16 手洗鉢 「祈 庚申様」              36×85×37
  参4 昭和58 板石型 「庚申塚再建記念」           115×53
 61は庚申堂の中に安置された6手立像(像高70cm)、上方手と下方手は一般的な持物であるが、中央手が剣と他方がわからないが、3つの花がついた輪のように思われる。青面金剛の像の右に「奉造立庚申尊像 中里村」、左に「正徳元辛夘九月如意日/同行3拾2人」の銘を記す。下部に正向型3猿(像高15cm)を浮彫りする。
 三11は上欠なので主銘の右に「和3癸亥」と読める。この年銘に該当するのは、天和3年か享和3年である。塔形や銘文などから判断すると、享和3年が妥当と思う。主銘の左下に「中里村講中」の施主銘がある。
 62は正面中央を彫り窪め主銘「庚申塔」、裏面に「藤代町椚木新田小板橋つね」の施主銘を記す。 63は正面に主銘、裏面に「中里区 中峠区講中」に世話人の名を刻む。
 64は左側面に「東葛飾郡中峠 染谷□□ 行年四十二歳」の施主銘を刻む。
 参3は正面に「奉納」の横書き、裏面に縦書きで「祈 庚申様/平成十六年十二月吉日/有番場石材店」と記す。内法は幅が64cmで奥行が21cm、深さが18cmである。
 参4は再建記念碑、正面の下部に「昭和五十八年五月吉日/庚申塚再建奉賛会世話人」とあり、中里の3人と中峠上の2人の5人の氏名を列記する。○ 14 薬師堂(中里238)
 庚申堂をみた後、同じ中里の薬師堂を訪ねる。ここも石佛が多い。
  65 文政8 柱状型 日月「庚申塔」(台石)3猿        98×36×36
   66 宝暦9 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        81×37
  67 享保14 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        75×31×20
  68 享保5 板駒型 日月「青面金剛神」3猿          61×34
  69 享保18 柱状型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     69×31×20
  三12 弘化5 駒 型 「二十三夜塔」              67×29×19
   70 年不明 板駒型 日月・青面金剛・3猿           87×48×42
   71 年不明 板駒型 (上欠)合掌2手立像・3猿        94×40×26
   72 寛政11 駒 型 日月「青面金剛尊」3猿          88×41×29
   73 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    101×46
  九5 享保16 光背型 聖観音「十九夜」            (計測なし)
  九6 寛文8 光背型 如意輪観音「十九夜」          (計測なし)
  九7 寛政5 光背型 如意輪観音「奉待十九夜」        (計測なし)
  九? 年不明 光背型 (上欠)如意輪観音           (計測なし)
   74 弘化4 駒 型 日月「庚申塔」             (計測なし)
 65は「庚申塔」の主銘の文字塔である。
66は典型的な合掌6手立像(像高51cm)、下部に内向型3猿(像高10cm)を浮彫りする。
67は合掌6手立像(像高46cm)、像の右に「享保十四己酉十月吉日 中里村」、左下に「同行廾九人」、下部に内向型3猿(像高11cm)を陽刻する。
68は主銘の右に「享保5庚子歳」、左に「十月十七烏」、下部に内向型3猿(像高14cm)がある。 69は合掌6手立像(像高35cm)、下部に内向型3猿(像高11cm)を浮彫りする。
312は「二十三夜塔」が主銘の文字塔である。
 70は典型的な合掌6手立像(像高 cm)、像の右に「佛法無有差別」、左に「只住し信力厚薄主願同行二十五人」、下部にお正向型3猿(像高 cm)がみられる。
 71は合掌2手立像(像高 cm)、頭部が欠けているので不明であるが、勢至菩薩の立像かもしれない。像の左右に「信女」の法名が刻まれ、下部には、正向型3猿の(像高 cm)を浮彫りする。
 72は上部に「ウーン」の種子、その下に「青面金剛尊」の文字塔である。
 73は顔面に傷がある合掌6手立像(像高61cm)、像の右に「奉供養二世安楽也」、左に「元禄十五壬午天九月吉祥日 同行二拾七人」の銘、下部に正向型3猿(像高15cm)がある。
 九7は左手に蓮華を執り、右手が与願印の聖観音立像(像高 cm)、像の右に「奉刻聖観音聖像1基/享保十六亥正月吉旦」、左に「右十九夜念佛所/願成就二世安楽中里村同行二十人」と彫る。
 九6は2手如意輪観音が主尊、像の右に「□寛文八年□申二月吉日/立十九夜念佛」、左は銘文が読めない。
 九7は6手如意輪観音が主尊、像の右上に「奉待十九夜」、左に「寛政五癸丑十一月吉日」の造立年銘を刻む。
 九?は如意輪観音が主尊、像の右に「(上欠)/中里村」、左に「(上欠)十九日/同志七十人」とある。日付から十九夜の可能性がある。
 74は主銘の「庚申」が辛うじて読める。○ 15 不動堂(中峠1401)
   75 寛保1 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 103×41
   76 享保20 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 135×41
   77 享保9 柱状型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    124×52
   78 正徳3 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    118×55
  九8 正徳2 光背型 如意輪観音               117×57
   79 寛政7 柱状型 日月「青面金剛」             87×37×37
  九9 文政13 柱状型 如意輪観音「十九夜」           65×27×20
  九10 文政2 柱状型 如意輪観音「十九夜」           76×30×28
  三13 文政12 柱状型 「二十三夜供養塔」            75×33×23
  待4 天保8 柱状型 「待道大権現」             (計測なし)
  80 元禄16 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿       115×56
   81 安永8 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     96×43
 六1 宝暦11 光背型 愛染明王                 70×30
  九13 安永2 光背型 如意輪観音               (計測なし)
  六2 寛延1 光背型 愛染明王                 68×29
  六3 元治1 柱状型 愛染明王                (計測なし)
 75は典型的な剣人6手立像(像高56cm)、脚部の横に童子(左方童子と左方童子共に像高22cm)、下部に正向型3猿(像高14cm)を浮彫りする。台石正面に「寛保元年龍舎辛酉/十月吉祥日/相馬郡中峠村下宿/同行四十八人恭彫造/庚申尊天以/奉供養□□/家内繁昌/子孫安全願所/奉祈者也」の銘を刻む。
 76は主尊が剣人6手立像(像高59cm)、足下に2童子(左方童子像高26cm・右方童子像高27cm)、下部に正向型3猿(像高14cm)を陽刻する。頭上に「奉造立」、左方童子の右に「享保二十乙卯年十一月吉日」、2童子の中間に「青面金剛、右方童子の左に「中塔へ下宿同行三十五人」と彫る。
 77は上方手の持物が逆に持つ剣人6手立像(像高60cm)、像の右に「奉刻彫青面金剛明王 中峠村下宿」、左に「享保九甲辰歳十月吉祥日 同行二十六人」と記す。下部に内向型3猿(像高19cm)の浮彫りがある。
 78は変則の持物の合掌6手立像(像高68cm)、頭上に「奉請」、像の右に「現世安穏 正徳3癸巳天 芝原下宿」、左に「後生善處 九月吉日 施主三十六人」の銘を刻む。下部に内向型3猿(像高20cm)を陽刻する。
 九8は如意輪観音像(像高62cm)が主尊、頭上には「奉請」、像の右に「十九夜石佛供養 中峠下宿」、左に「正徳二壬辰九月吉日/総百五十人男女」の銘を記す。
 79は主銘が「青面金剛」の文字塔、左側面に「講中/中峠下/六十一人」の銘がある。
 九9は正面上部に如意輪観音像の主尊、下に「十九夜」と刻む。
 九10は正面の上部に主尊の如意輪観音像、下に「十九夜」と彫る。
 三13は正面に主銘の「二十三夜供養塔」を刻む文字塔である。
 待4は「待道大権現」の文字塔である。
 80は標準的な剣人6手立像(像高59cm)、頭上に「奉彫刻」、像の右に「庚申尊影一基所願成就二世安楽所」、左に「元禄十六癸未天十月廾四日/芝原村下宿/同行二十一人」の銘を刻む。下部に正向型3猿(像高16cm)を浮彫りする。
 81は剣人6手立像、左側面に「奉待大願成就」の銘、下部に内向型3猿を浮彫りする。
 六1は愛染明王の刻像塔、頭上に「愛染明王」、像の左に「宝暦十一巳十月吉日 講中五十六人」の銘文を刻む。
 九11は如意輪観音像を主尊とする十九夜塔である。
 六2は愛染明王(像高20cm)刻像塔、「寛延元辰/十月二十六日/下中峠村三十四人」銘がある。 六3はは愛染明王(像高26cm)刻像塔、年銘「元治元甲子十月吉日」を彫る。
 以上の他にも文久元年の聖徳太子塔、明治41年の「道六神」、堂内にある文化8年の勝軍地蔵刻像塔や大正4年の天神刻像塔など多数の石佛があるが、とても暗くなっているし、帰りの時間のこともあってみるのを諦める。
 この不動堂で見学を終了し、JR成田線湖北駅に向かう。駅近くになって、眼の前を上野行き快速電車が出る。40分待って我孫子行き電車に乗り、常磐線〜京浜東北線〜中央線〜青梅線を乗継いで9時近くに帰宅する。
相模原市内を廻る 多摩石仏の会12月例会

 平成19年12月8日(土曜日)は多摩石仏の会12月例会、JR横浜線橋本駅改札口に午前9時30分集合、コースの案内担当は萩原清高さんで相模原市内を廻る。集まったのは、新井淳子さん・犬飼康祐さん・遠藤塩子さん・加地勝さん・喜井皙夫さん・五島公太郎さん・関口渉さん・多田治昭さん・森永五郎さんの総勢11人である。前回の東村山が7人から比べても、10人以上が集まるのは稀である。
 橋本駅改札口前についたのが午前9時9分、すでに犬飼さん・加地さん・喜井さん・多田さんなどが集まっている。犬飼さんから小林太郎・元会長の訃報を聞く。案内の萩原さんは、町田から近いのに後からきてレジュメを配る。加地さんから、欠席した東村山例会の記念写真をいただく。
 森永さんからは、川崎市麻生区上麻生・浄慶寺の写真2枚を受け取る。1枚は田の神、他は「手洗い・変形小坊主六地蔵」の注記がある。去る10月7日(日曜日)には、横浜市青葉区鉄町・鐡神社の獅子舞の帰り道に浄慶寺を訪ねた。その時に境内にある五百羅漢をみたが、森永さんの写真の石佛は見逃していた。
 すでに定刻には、来るべき人が集まっているから、駅北口のバス停へ向かう。橋本駅もそうだが、以前の町並みは一変して驚くばかりである。程なく「上中沢」行きのバスに乗車、終点まで乗る。
 「上中沢」終点の降車場から坂を登り、レジュメ16中沢の山王森から 1へとの逆順に第1見学場所へ向かう。通りから右折し、貨物用のモノレールに沿って進むと、左奥に中沢山王様がある。入口にある庚申塔は後回しにして、小さなトタン屋根の下に安置さている次の庚申塔をみる。
   1 年不明 丸 彫 山王・1猿                37×13
 1は主尊が山王丸彫り立像(像高37cm)、前に小さい合掌猿坐像(像高11cm)がいる。山王といっても定印弥陀を意識した像容、定印弥陀ならば両手の指を丸めているが、定印とはいいにくい指の開きををしている。赤の帽子や前掛けを取って写す。道路から少し外れた林の中にあるので、悪戯もされずに地元の人達の信仰で守れてきた。
 次いで入口にある同形の庚申塔2基をみる。
   2 元禄6 笠付型 「奉造立庚申供養塔」(3面)3猿     57×27×23
   3 元文2 笠付型 「ウーン 奉造立庚申供養塔」(3面)3猿   54×23×22
 2は入口右側にあるもので、地上から宝珠のまでの総高が103cmである。正面に「奉造立庚申供養塔」の主銘、右側面に「元禄六□酉年/惣太郎(等4人の名前)」、左側面に月日が記されていると考えらられるが、石面が磨耗して判読できない。猿(像高12cm)は正面と両側面の3面の枠内に配されている。
3は、ほぼ2と同じ塔形した総高100cmの塔で、造塔年代が遅れる。正面に「ウーン 奉造立庚申供養塔」の主銘、右側面に「元文二丁巳歳」、左側面に「三月吉祥日/同行/六人」と彫る。2と同様に猿(像高6cm)が3面下部に浮彫りされる。
 入口には、石段の小さな石柱がみられる。
 参1 安永7 柱状型 「安永七年/戌四月二日」         22×12×12
参1は、参道の面に「安永七年/戌四月二日」の年銘を刻む。
 先の峯の薬師の参道に庚申塔があるという、森永さんが提言に賛同して坂道を登る。途中に庚申塔は見当たらず、峯の薬師まで行く。幸い予定していなかった次の塔ある。
  4 年不明 板石型 「庚申塔」                99×41
 4の正面には、主銘「庚申塔」と「九十二翁南海書」の書家銘を記す。台石の正面に「八幡宿」、左側面に「亀屋又□」など屋号のある名前が6人列記する。「八幡宿」は、場所から考えて八王子の八幡宿と思われる。
 帰りは目的の塔がみつからないので、道を変えて三井へ出る峯の薬師参道を下る。幸いにも途中に次の庚申塔が多数の馬頭観音の前に建っている。
   5 宝永3 笠付型 定印弥陀・(3面)3猿          53×25×24
 5は定印弥陀立像(像高24cm)が主尊、下部の3面に浮彫りの猿(像高13cm)を配している。右側面に「奉造立庚申供養」ち施主銘3人の名前、左側面に「結衆」の下に「吉田惣太郎」など4人の氏名、裏面に「寳永三天/丙戌十一月吉日」の年銘を刻む。右側面の塞口猿は刻像が残っているが、正面と左側面の猿は剥落している。
 中沢の集落に入り、15旧道路傍にある安永8年の一石六地蔵をみてから、養豚業者の家の入口にある次の塔をみる。
 参2 昭和47 板石型 「豚魂碑」               142×86
参2は表面に「豚魂碑」と「武相養豚有限会社」、裏面に「昭和四十七年四月/安西秀一建之」と彫る。これも馬頭観音の馬供養の延長線上にある。
 その先にある14中沢旧道の路傍は、地蔵を示す珍しい次の石塔がみられる。
 参3 安永7 柱状型 「六道能化佛」              80×28×23
参3は正面に「六道能化佛」、右側面に梵字で「ア・ビ・ラウン・ケン」、左側面に「維安永七戊戌年十一月吉祥日」の年銘がある。台石正面に「下村中」と横書きする。
 中沢の路傍に並ぶ13石佛群の前を通り、中沢の123嶋神社へ向かう。神社の参道を挟んで右に二十三夜塔、左に庚申塔がある。
  6 文政2 自然石 「庚申塔」                75×51
 廾1 文政2 自然石 「サク 二十三夜」             01×60
 6は正面に「こと」の主銘、横に「文政二己夘歳四月/上村講中」とある。
廾1は正面に「サク 二十三夜」、裏面に「維時「文政二己夘年三月/村中」と彫る。
 鳥居前で昼食をとり、記念撮影をする。午後の出発前にこれまでの感謝を述べ、私がこの例会を最後に多摩石仏の会を退会すると話す。
 午後の見学は、11中沢の普門寺から始まる。境内にある6面石幢の六地蔵立像(像高32cm)は、1体が宝珠と錫杖を執る以外は、他の5体はいずれもが合掌像である。
 参4 昭和63 板石型 「自開龍王」龍陰刻            66×43
参4は新しい塔で、正面に「自開龍王」の主銘があり、下に龍(像高16cm 像横34cm)を線彫りする。裏面に「昭和六十三年五月建之」と記す。「自開龍王」とは、一体どんな龍王なのであろうか。 普門寺から10畑久保の慈眼寺(城山4丁目)で境内の石佛をみてから、 9都井沢の地蔵堂(城山4丁目)で次の庚申塔を調べる。
  7 宝暦13 柱状型 「ウーン 庚申塔」              74×29×21
7は正面に「ウーン 庚申塔」、右側面に「維寳暦十三癸未霜月日」、左側面に「尻無沢 講中7人」の銘文である。
  73叉路の路傍(谷ケ原1丁目)にある寛政11年の六字名号塔をみてから、 6信清瀧不動堂(谷ケ原1丁目)を訪ね、堂の前にある七沢石工が明治16年に作った不動明王丸彫坐像をみる。時間の都合で 8大正寺入口(谷ケ原1丁目)を省略し、久保沢観音堂(久保沢2−6−10)へ急ぐ。
 今回の目玉は、中沢の山王森の庚申塔と久保沢観音堂の弥陀庚申である。観音堂の弥陀庚申は入口の石段横にあり、もう1基の文字塔は背後の境内にある。
   8 享保3 笠付型 日月・定印弥陀・3猿           09×40×44
 目当ての8は定印弥陀立像(像高81cm)を主尊とし、下部に正向型3猿(像高14cm)を陽刻する。両側面には長文の銘、裏面に「享保三戊戌年十一月吉祥日 桂昌四代」の年銘を刻む。右側面の銘文は多少、左側面は金網と絡みついた草で読めない。裏面は背後の石垣との間からかろうじて読む。
 この塔については、多摩石仏の会の初代会長の八代恒治さんが『庚申』第27号(庚申懇話会 昭和37年刊)に「三尸銘の塔」の題名で発表している。所在地・塔形の次に記した銘文の最初に「文字は若干の磨滅不明あれども、大体は左記の通り」として、次のように報告している。
   (右側面) 庚申□歳守尊崇自靡三尸窺諸衆/直下造言一霊塔活功徳徹梵□言
   (左側面) 伏惟扶桑國裏相模州津久井県上川/尻之内久保沢村信心之壇運年六
         庚申長坐不臥摂念修吉方聞鶏鳴散/□茲年久加之今常結願之辰而聞亦
         抽再情□□□□硲以伸供養之玄表/□仰□依茲活切力講衆等現世安穏
         共砕三彭□受福養後生到千宝處必/矣
   (背 面) 享保三戊戌年十一月吉祥日/桂昌四代/高崎権七/願主/□英/玄□
         碑の総高さ146cm・幅39・5cmである。
 境内には、次の庚申塔と二十三夜塔がみられる。レジュメには、他に文政3年の自然石道祖神が記録されているが見逃した。
   9 天保14 自然石 「庚申塔」                74×50
 廾2 文政3 自然石 「廾三夜」                92×80
 9は表面に「庚申塔」、裏面に横書きで「講中」、その下に「樋口九兵衛」など14人の氏名と左端に「みぎり八王子」の道標銘は彫られている。
 廾2は表面に「廾三夜」の主銘、右側面に「文政三庚辰三月吉日」の年銘を彫る。
 久保沢観音堂を最後に、予定の 1原宿自治会館・ 2原宿浅間神社・ 3向原山王神社・ 4向原山野県道路傍の4か所を省略し、先にある久保沢のバス停から神奈中のバスで橋本駅北口へ出て、JR横浜線〜八高線〜青梅線を乗り継いでで帰宅する。
多摩石仏の会写真展1

 平成19年9月27日(木曜日)から10月9日(火曜日)まで、立川・多摩中央信用金庫本店9階にあるたましんギャラリーで多摩石仏の会写真展が開催されている。この写真展は、会の創立40周年を記念したもので「民間信仰の石仏」がテーマである。
 目録の「ごあいさつ」に「多摩地方を中心に、日本各地にみられる民間信仰によって立てられた石佛を紹介しています。同じ信仰でもいるおいろな形で石佛が表現され各地間の地域差が見られます」とあるように、地元の多摩地方に限らず、近県や中国・四国にまで及んでいる。
 ここでは、写真展に出品された写真の中から庚申信仰に関する作品を取り上げてみる。庚申信仰は、北は北海道から南は九州まで地域差はあっても信仰がみられ、その信仰に基ずいて供養塔が造立されている。いわゆる「庚申塔」である。展示順に庚申塔をみていきたい。○ 明石延男さんの作品
 明石さんは、田の神など6点の写真を出品されている。その中の1点が次の石佛である。
   3 寛文4 光背型 青面金剛・3猿          相模原市藤野町長竹 白山神社裏 この青面金剛は、津久井町を中心に愛川町や町田市に分布する一連の2手青面金剛の系統である。明石さんはこの種の2手青面金剛に思い入れが強く、前回の写真展に「私の好きな・心に残る石仏」に出品したものに洩れ、その後に発見された青面金剛が3である。今回の写真展の解説には、「前回の写真展で紹介した同種8点に追加されます」とある。
 愛川・津久井にみられる2系統2手青面金剛については、清水長明さんが『相模道神図誌』(波多野書店 昭和40年刊)に3基の写真を発表されたのをきっかけに、広く一般に知られるようになり、かつて私も庚申懇話会編の『石仏研究ハンドブック』(雄山閣出版 昭和60年刊)に掲載された「2手青面の系譜」の中で、「津久井の2手青面」として2系統の6基を書いたことがある。その後、鳥屋の獅子舞調査の折りに馬石系の2手青面金剛に出会った。前記の明石さんがみつけた上の原系の2手青面金剛は、今回の写真展で初めて知った。
 なお、武田久吉博士は、戦前の道祖神調査の折りに愛川町の2手青面金剛に出会い、その著『路傍の石仏』(第一法規 昭和46年刊)201頁に写真を載せている。多田治昭さんは、『野仏』第14集(多摩石仏の会 昭和57年刊)に発表された「愛川町周辺の2手青面金剛塔」に5基にふれる。○ 五島公太郎さんの作品
 五島さんはお住まいのさいたま市の庚申塔を主体に、その周辺に調査の輪を拡げている。今回出品した青面金剛3点は、「人鈴型」と呼んでいる合掌6手の青面金剛を撮ったものである。すなわち、次の8点である。
   1 寛政7 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿    さいたま市緑区大門
   2 宝暦8 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿    川口市安行領家 興禅寺
   3 享保5 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿    鳩ヶ谷市辻 真福寺
 1から3までの3点は個々の青面金剛を写しているが、4から8の5点は浦和を中心に周辺の川口や鳩ヶ谷に分布する人鈴型の青面金剛を1点に小型の写真を4枚2段に並べている。つまり40基の人鈴型青面金剛のカタログになっている。
 五島さんは、最新号の『野仏』第38集(多摩石仏の会 平成19年刊)に「旧浦和市の庚申塔」を発表され、41頁に周辺地域を含む「人鈴持ちの庚申塔一覧」を掲げている。私も庚申懇話会や日本石仏協会の見学会でみたこの種のの青面金剛に興味を持ち、「人鈴型」と命名した。○ 石川博司の作品
 今回の写真展には、私は「青梅市の民間信仰」をテーマにして市内にある庚申塔6点と他の信仰の石佛4点を出品した。庚申信仰に関するものは、次の6点である。
   1 寛文10 板碑型 3猿・蓮華            青梅市黒沢・小枕
   2 元禄11 光背型 日月・勢至菩薩・3猿       青梅市吹上 本橋宅
   3 宝永6 板碑型 (上欠)「六種子」3猿      青梅市柚木町 旧鎌倉街道
   4 文化9 雑 型 日月・青面金剛・2鬼・2鶏・3猿 青梅市千ケ瀬町 宗建寺
   5 文化9 雑 型 (台石)3猿           青梅市千ケ瀬町 宗建寺
   6 天保2 駒 型 猿田彦大神            青梅市成木 松木峠
 写真展では、青梅市内で特色がある5基(1基は重複)の庚申塔を取り上げた。○ 遠藤塩子さんの作品
 遠藤さんが出品した写真は、いずれも杉並区を代表する庚申塔5点である。
   4 正保3 五輪塔 「奉供養庚申今月今日」      杉並区永福 永福寺裏
   5 承応2 石 幢 聖観音「此一躰者庚申為供養」   杉並区梅里 西方寺
   6 寛文8 笠付型 日月・2手青面金剛・1鬼・3猿  杉並区方南 東運寺
   7 寛文8 光背型 日月・4手青面金剛・1鬼・3猿  杉並区成田西 宝昌寺
   8 享和1 手洗鉢 3猿(再建塔)          杉並区宮前 慈宏寺
 塔形からみても、他地ではみられない5輪塔・石幢・手洗鉢を選び、青面金剛も一般的な6手像を避けて2手像と4手像を出品している。○ 中山正義さんの作品
 中山さんは、かなりマニアックな庚申塔を次のように各地から選んでいる。
   1 寛永6 板石型 日輪「庚申供養佛」蓮華      三重県伊勢市中村町 墓地
   2 万治4 光背型 日月・青面金剛・2鶏・2猿2童子 岐阜県加茂市坂祝町取組 宝積寺
   3 延宝3 板駒型 日月・北斗七星・5猿       栃木県小山市小宅 八幡神社裏
   4 万治3 光背型 如意輪観音「庚申供養十二人」   埼玉県越谷市平方 山谷共同墓地 
   5 嘉永3 丸 彫 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿 埼玉県鷲宮町八甫 墓地
 1は実物と拓本の写真を2枚並べて展示しているので、銘文などがよくわかる。伊勢市内には古い庚申塔があり、中山さんの『全国江戸初期の庚申塔』(私家版 平成8年刊)には、元和元年塔から万治元年塔まで24基が掲載されている。
 2は火炎光背を持つ4手像、これより1年早い万治3年塔が『坂祝町の石造物』(坂祝町教育委員会 平成1年刊)に報告が載っている。
 3は「ア バン ウーン」の種子を刻む塔、上に4つ、下に3つの円で北斗七星を表す。向かい合わせの2猿を上にし、下に正向型3猿を浮彫りする。
 4は平成15年12月例会に中山さんの案内で廻った、越谷市平方の山谷覚山坊墓地でみた6手如意輪観音像である。塔には「庚申供養十二人」の銘文がみられる。
 5は剣人6手立像、多田治昭さんの『石仏散歩 悠真』第28号(私家版 平成19年刊)には、埼玉県下の寛文12年像から嘉永3年像まで年不明像2基を含めて12基の報告がみられる。○ 喜井皙夫さんの作品
 喜井は写真展のためにかつて暮らした池田町(現・三好市)に行き、次の町内の庚申塔を撮影して出品した。
   1 寛文10 笠付型 「ウーン奉供養庚申講1座拾8度」 徳島県三好市池田町シマ 大師堂
   2 明和7 笠付型 日月・青面金剛・2鶏・3猿    徳島県三好市池田町シンマチ
   3 文政10 笠付型 日月・青面金剛・2鶏・3猿    徳島県三好市池田町マチ
   4 宝暦8 笠付型 日月・青面金剛・2鶏・3猿    徳島県三好市池田町ウエノ
   5 元文2 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿 徳島県三好市池田町イケミナミ
   6 元禄9 笠付型 日月・4手青面金剛・2鶏・3猿  徳島県三好市池田町3縄
   7 元禄3 笠付型 「奉供養庚申尊爲二世安楽」2猿  徳島県三好市池田町州津下の段
   8 元禄4 笠付型 4手青面金剛・2鶏・3猿     徳島県三好市池田町州津上の段
   10 明治29 自然石 「猿田彦大神」          徳島県三好市池田町州津宮の久保
   12 昭和11 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿 徳島県三好市池田町とうげ
 池田町を含めた三好市と東みよし町の庚申塔については、三好郡郷土史研究会編集発行の『三好郡の庚申塔』(平成7年刊)が参考になる。○ 関口渉さんの作品
 関口さんが写真展に出品した写真は、安曇野市を中心とした彩色の石佛を対象としている。
   4 享保16 自然石 日月・青面金剛・2鶏・3猿    長野県安曇野市等々力 十王堂東
   5 文政7 自然石 日月・青面金剛・2鶏・3猿    長野県安曇野市穂高 
   8 寛政10 自然石 青面金剛・3猿          長野県安曇野市穂高 宗徳寺南西
   9 寛延3 自然石 日月・青面金剛・2鶏・3猿    長野県安曇野市穂高 本郷庚申原
   10 年不明 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿    岐阜県高山市総和町 飛騨国分寺
 今回の青面金剛は、高山市を含めていずれも合掌6手立像である。『穂高町の石造文化財 解説・資料編』(穂高町教育委員会 平成6年刊)には、他にも町内に彩色された青面金剛がみられる。○ 多田治昭さんの作品
 多田さんは、庚申塔を熱心に追っているが、今回の写真展には次の1枚を除いて待道尊や疱瘡神、各種の念佛塔の写真を出品している。
   1 寛文8 光背型 日月・青面金剛・1鬼・3猿・2童子 千葉県袖ケ浦市横田 阿弥陀堂 1の写真は、今回の写真展の案内状に使われている。千葉県には、童子や薬叉付きの庚申塔が多くみられる。多田さんの『関東地方の童子・夜叉付青面金剛塔(追加)』(私家版 平成16年刊)によると、1の塔は古さが7番目、千葉県内には103基が分布し、関東地方にある231基の44.6%に当たる。○ 縣敏夫さんの作品
 縣さんが群馬と山梨で撮った庚申塔の次の写真5点である。
   1 元文5 柱状型 日月「ウーン」3猿        山梨県甲府市東光寺 東光寺
   2 寛政6 柱状型 青面金剛百体像          群馬県高崎市倉渕宮原 浅間神社
   3 万延1 板石型 「青面王」(百庚申文字)     群馬県藤岡市下須栗 稲荷社
   4 享保6 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿    山梨県甲府市平瀬 香積寺
   5 文政6 石 祠 日月・富士・2猿(台石)     山梨県甲斐市竜王 慈照寺
 群馬の2点は、一塔に青面金剛百体像を浮彫りしたものと一石に百種の「庚申」文字を彫ったものである。縣さんの『図録 庚申塔』(揺籃社 平成11年刊)368頁には、71基を記載した「一石百文字庚申塔年表」がある。山梨の3点は、県史の調査で出会った庚申塔である。○ 水野英世さんの作品
 水野さんは、富山県5基と広島県4基の庚申塔を撮った写真を展示した。
   1 年不明 柱状型 青面金剛庚申塔          富山県魚津市道坂 公民館付近
   2 安政4 柱状型 3宝荒神庚申塔          富山県上市町和合 公民館前
   3 昭和17 不 明 馬頭観音庚申塔          富山県富山市大山町花咲
   4 嘉永5 雑 型 青面金剛・2鶏・3猿・童子・薬叉 富山県富山市大山町善名
   5 享和1 光背型 女神庚申塔            富山県富山市本郷町 三区公民館
   6 天正7 石 幢 六地蔵幢             広島県廿日市市宮島町 大聖院
   7 安政3 自然石 青面金剛庚申塔          広島県庄原市本村町野谷
   8 享保17 自然石 青面金剛庚申塔          広島県庄原市実留町明神谷
   9 年不明 自然石 遊戯3猿庚申塔          広島県庄原市口和町向泉 薬師堂 1は青面金剛や2童子、4薬叉などが彩色されている。主尊の青面金剛は、標準的な剣人6手立像である。2童子の下に2鶏、鬼の下に3角形に正向型3猿を配している。下部の3猿の両横に4薬叉を浮彫りする。この種の青面金剛が上手にある島尻の集落にみられる、という。
 2は3面6手の3宝荒神立像、青面金剛とは1風違った持物を執る。上方手に3叉矛と矛?、中央手に短剣?と短い宝棒、下方手に弓と矢を持つ。水野さんが「全国的に見てもあまり例がないのではなかろうか」と記すように、3宝荒神が石佛で少ない上に、まして庚申塔の主尊の例を知らない。
 3は頭部に馬首を付ける6手立像、上方手に宝珠と矛、中央手に索と剣、下方手に弓と矢を持つ。戦中の昭和17年の造立で比較的新しい。水野さんは藤沢市遊行通りの例を挙げているが、多摩では東村山市久米川町1丁目26番の路傍に「庚申待講中」銘の安永8年馬頭観音がみられる。
 4は、青梅市千ケ瀬町宗建寺にある文化9年塔に近い塔形で笠を乗せる。2鬼の上に青面金剛が立つところは同じであるが、4は2童子と4薬叉を伴っている。同形の刻像塔が隣の田畑や下番の両集落にみられるそうである。
 5は、主尊に合掌2手の立像を浮彫りする。水野さんは髪形から「女神」とみているが、像容から勢至菩薩の可能性がある。像の右に「庚申塔」の銘を刻むから、庚申塔であるのは間違いがない。
 以上の富山の5基は魅力的で、近くて簡単に行ける場所なら行ってみたいものである。
 6は宮島にある中世の六地蔵石幢、「願主庚申講衆」の銘を刻む。『日本石仏事典』第2版の193頁に載った広島唯1の中世庚申塔と、思われる。
 7は備後地方でも刻像塔が偏在する庄原市内にある青面金剛、多摩地方で見慣れた青面金剛とは大分イメージが異なる存在である。
 8は剣人6手立像であるが、幼児を抱き上げているの何とも異風である。「施主いずみ石工 佐衛門」の施主銘から、石工が自ら造立した庚申塔である。
 9は広島県備北地方で唯1の3猿塔である、といわれる。各々の猿の位置が異なるのも変わった刻像塔である。薬師堂に青面金剛と共に祀られている。
 広島の4基も富山に劣らず魅力がある。富山の塔と共に実見できると、一層感動すると思う。
 いずれにしても、各地の庚申塔が1か所でみられるから、庚申塔の多様性がうかがわれて楽しい。関東や山梨ならば行く機会があるが、三重・岐阜・富山・広島までは行けそうにもない。多種多様な庚申塔を写真を通して知り、面白さが倍増する。(平成19・10・8記)
          〔初出〕『石佛雑記ノート 14』(多摩野佛研究会 平成19年刊)所収を補正   〔付 記〕
 『石佛雑記ノート』に発表したものは、水野さんの作品についいてのメモを紛失したので、簡略になっている。幸い加地勝さんが『多摩石仏の会写真展』の冊子を編集されたので、細部が明らかになり、これによって水野さんに関する記述を補正した。(平成19・12・6記)
多摩石仏の会写真展2

 多摩石仏の会の石佛写真展では、庚申塔以外にも地神塔の写真が気にかかる。今回の出品では、喜井皙夫さんが1点、萩原清高さんが7点、森永五郎さんが16点が地神塔を扱っている。喜井さんは徳島県三好市池田町、萩原さんは町田市を中心、森永さんはタイトルに「神奈川の地神塔」とあるように、県内の各地にある地神塔をいろいろなタイプをセレクトしている。○ 喜井皙夫さんの作品
   5 年不明 柱状型 「五神名」       三好市池田町州津下の段
 5は5角柱の五神名地神塔とわかるが、塔は色付きのハタで飾られていて塔全体の様子はわからない。写真説明には「五色の旗や注連縄で飾られ信仰の深さを想像されます」とあり、現在も地神信仰が受け継がれている様子がうかかがわれる。。神奈川・千葉・埼玉にも五神名地神塔の分布がみられるが、このようにハタで飾る風習はない。
 なお、三好市を含め『三好郡の石造文化財』(徳島県三好郷土研究会 平成10年刊)によると、郡内に152基の地神塔が散在する。その中には、東祖谷山村(現・三好市)大西・新田神社に昭和22年造立の地神塔がみられる。○ 萩原清高さんの作品
   1 文化7 柱状型 「地神社」       町田市金森 杉山神社
   2 天保14 柱状型 「堅牢神」       町田市町田 町田天満宮
     年不明 柱状型 「地 神」(石工銘)  町田市町田 町田天満宮  
   3 文化4 柱状型 「堅牢地神」      町田市高ケ坂 地蔵堂
   4 文化2 柱状型 「五神名」       大和市下鶴間 諏訪神社
   5 安政5 自然石 「土公神」       多摩市落合 白山神社
   6 弘化4 柱状型 日月「地神斎」狐2匹  町田市下小山田 白山神社
   7 嘉永2 柱状型 日月「地神塔」     町田市下小山田 六部塚
 萩原さんの写真は、前記のように町田市を中心に町田市が5点、多摩市と大和市が各1点の7点を展示している。
 3の年不明塔には、煤ケ谷の石工・城所権右衛門の名がみられる。4の写真説明には、町田に隣接す神奈川の五神名地神塔にふれ、大和市2基・座間市2基・綾瀬市2基・海老名市1基・相模原市2基の分布を記している。この種の五神名地神塔は多摩地方には分布していない。
 6の台石には、向かい合わせの狐2匹が浮彫りされている。地神と狐の関係はどうなんだろうか。 7の両側面には、道標銘が刻まれている。○ 森永五郎さんの作品
   1 元文5 光背型 土公神「奉祭土公神」    南足柄市向田361
   2 文政12 柱状型 地神(神礼寺型)      藤沢市柄沢 柄沢神社
   3 天保8 柱状型 地神(正覚寺型)      伊勢原市東富岡 東富岡八幡宮
   4 天保5 柱状型 地神(女神)        山北町北町 鷲鷹神社
   5 享和2 自然石 「天社神」         秦野市寺山 鹿島神社
   6 安政2 自然石 「后土神」         秦野市今泉1168
   7 文政13 柱状型 (五神名5角柱)      横浜市旭区上川井町 路傍
   8 天明6 柱状型 (五神名6角柱)      小田原市上曽我 須賀神社
   9 文久2 自然石 「埴山毘賣神」       伊勢原市日向 洗水路傍
   10 明治4 自然石 「大己貴/猿田彦」     大井町山田 中ノ下
   11 天明7 自然石 「天社神/后土神」     大井町赤田 八幡神社
   12 年不明 柱状型 「南無大金光明最勝王経福塔」開成町金井 金井公民館
   13 昭和58 柱状型 「地主神」         大磯町南下町 熊野神社
   14 明治28 板石型 「地鎮神」         小田原市府川 寺山神社
   15 年不明 自然石 「土の神」         山北町岸 個人宅
   16 昭和31 板石型 「地所全部之霊」      綾瀬市深谷 路傍
 森永さんは、神奈川県内各地にある地神塔をいろいろなタイプを1例ずつ挙げて展示している。地神塔の写真全体の説明文に「神奈川県は全国屈指の地神塔の多産地として知られており、現在まで700基近い記録がありますが、その内容に富んだ他県に類を見ない、実に多種多様の塔があります」と書いている。
 1〜4は刻像塔の主尊の各タイプを示し、県内に武神像18基・土公神1基・女神4基・如来1基・文神2基の計26基が記録されているという。特に1は珍しい刻像塔、2と3は寺で発行するお札の像容を写している。地天はしばしば女神として表現され、そうした刻像塔を1例示している。
 5と6は、秦野市を中心とした周辺の限られた狭い範囲にみられるローカルな文字塔である。他県にはない神奈川県独自の地神塔といえる。「天社神」は、秦野市の62基を含む計89基が分布している。「后土神」は秦野市13基を含み計15基があり、「天社神」よりも分布範囲が狭い。11は「天社神/后土神」の両神名を併記する。
 7と8は五神名地神塔、7は単純に神名のみを刻むが、8は「農業神 天照大神/五穀護神 大己貴命/5穀護神 少彦名命/土御祖神
 埴安媛命/5穀祖神 倉稲魂命」のように、尊名の上に神の性格を記している。9は五神名の1神「埴山毘賣神」、10は「大己貴(神)」と「猿田彦」の2神名を刻むが、両者の関係は不明である。
 12は「南無大金光明最勝王経福塔」と堅牢地神品を示す文字塔である。13は境内鎮守を願う塔、14は「村内安全」銘がみられる。15と16は屋敷神と考えられる。
 これらの地神塔の詳しい説明は、森永さんが『野仏』第38集(多摩石仏の会 平成19年刊)に発表された「神奈川の地神塔」に載っている。写真展に展示された以上の地神塔の写真が数多くみられ、所在地別分布表や刻像塔1覧表まどの分析表を含んでいるので、地神塔の研究者には見逃せない基礎資料である。
 今回の石佛写真展では、各人がテーマを持って民間信仰に関係した石佛写真をセレクトしているので、その点で萩原さんと森永さんが地神塔を主題にしているので大いに参考になる。多摩地方には全くみられない五神名地神塔が境を接する神奈川県に分布し、千葉県佐倉市周辺、埼玉県児玉地方にもみられる。単に地神塔の1種、五神名地神塔だけをとられても地域差がみられる。「天社神」や「后土神」のような神奈川県にのみ分布する独特な塔も存在する。1種類の石佛石塔を追いかけてみるのも面白いものである。(平成19・10・8記)
             〔初出〕『石佛雑記ノート 14』(多摩野佛研究会 平成19年刊)所収◎ 多摩石仏の会写真展3

 多摩石仏の会が主催する今回の石佛写真展は、会員がこれまで撮り溜めた石佛写真の中ら民間信仰に関するものを選んで展示している。民間信仰という枠はあっても、会員が独自の視点でテーマを持ち、テーマに沿った写真を出品している。
 中でも関口渉さんは「彩色された石佛」をテーマに、長野県安曇野市穂高地区を中心に岐阜・奈良・兵庫の彩色石佛を撮った12点を展示する。他の誰もが予想していなかったテーマ、カラー写真として打って付けである。
 ここでは、去る8月末に妻と旅行した時に廻った穂高地区の石佛にふれたい。これまでに3度、穂高の双体道祖神を中心に石佛をみている。当然、彩色された双体道祖神や青面金剛、大黒天に出会っている。
 最初に穂高を訪ねたのは昭和54年8月12日、この時には約3時間にわたりサイクリングし、多くの彩色双体道祖神に出会っている。2度目は平成7年4月18日、穂高駅の周辺を廻ったのみで彩色像をみていない。3度目は今年8月28日と翌29日、前日は穂高駅の周辺、翌日は約4時間のサイクリングで矢原の彩色双体道祖神を中心に廻った。
 今回、関口さんが出品された穂高の写真は、次の8点である。
   2 元治1 自然石 双体道祖神          安曇野市矢原 路傍
   3 明治9 自然石 「題目」3面大黒天      安曇野市矢原 公民館前
   4 享保16 自然石 日月・青面金剛・3猿     安曇野市等々力 十王堂
   5 文政7 自然石 双体道祖神          安曇野市穂高 農業センター前
     文政7 自然石 日月・青面金剛・3猿     同    上
   6 安政5 自然石 双体道祖神          安曇野市穂高 平林宅南
     慶応4 自然石 恵比寿            同
     慶応4 自然石 大黒天            同
   7 天保4 自然石 双体道祖神          安曇野市穂高 消防団詰所左
   8 寛延3 自然石 青面金剛           安曇野市穂高 本郷庚申原
   9 寛政10 自然石 青面金剛           安曇野市穂高 宗徳寺南西
 2は私好みの彩色像で、第1回と今回と2度対面している。肩を抱いた握手像、画家が関わったとか。ともかくほのぼのした双体道祖神で、穂高の彩色双体道祖神の代表的な存在である。『安曇野道祖神』(創林社 昭和59年刊)の34頁に大きく、『信濃路道祖神百選』(あさを社 昭和60年刊)の21頁「穂高町の彩色道祖神」の中の1体として小さく登場する。男神の像高が54cm、女神の像高が52cmである。
 3は2の道祖神と異なり、全く気付かなかった大黒天である。「南無妙法蓮華経」のヒゲ題目の下に3面大黒天彩色像を浮彫りする。矢原には大正甲子年の「大国天」文字塔がある。
 4は第1回の時にみたが今回は見逃した青面金剛である。上方手に三叉戟と金剛杵、下方手に蛇と宝珠を執る4手像、上部に日月、下部に正向型3猿を浮彫りする。『穂高町の石造文化財 写真編』(穂高町教育委員会 平成6年刊)の口絵には、カラー写真が掲載されている。
 石佛群の中に5の双体道祖神も青面金剛があり、共にも彩色されいる。これまでみたことがない。 6は握手する双体道祖神・鯛を抱えた恵比寿・袋を背負って右手に小槌を持つ大黒天の自然石塔3基が並び、いずれも彩色されている。双体道祖神は年銘を左右に記し、下部に「上手村中」の銘がみられる。昭和54年に写したことがある。前記の『安曇野道祖神』の表紙カバーに双体道祖神が使われ、『穂高町の石造文化財 写真編』の口絵に3基並んだ風景のカラー写真が載っている。
 7は鳥居の中に握手する双体像を浮彫りし、鳥居と共に彩色されている。6と同じ時にみたもので「貝梅中」の銘を刻む。この地銘に関して武田久吉博士は『路傍の石仏』(第1法規 昭和46年刊)の120頁で「道祖神盗み」の風習にふれている。前記『安曇野道祖神』43頁、『信濃路道祖神百選』の表紙カバーにカラー写真が用いられている。
 8は下方手に蛇と索を執る合掌6手青面金剛立像、上部の日月・瑞雲や下部の正向型3猿共々彩色されている。れも次の9もみていない。
 9は中央の合掌6手青面金剛立像と下部の正向型3猿を彩色し、右の「寛政十戊午年」の年銘と左下の「村中」の施主銘に墨が入っている。
 関口さんは、穂高地区にある彩色石佛の中から双体道祖神を中心に写真を選んでいる。今回廻った矢原や等々力、神田町にも彩色された石佛がみられる。『穂高町の石造文化財 資料編』(穂高町教育委員会 平成6年刊)を調べると、彩色された青面金剛が載っている。次回、穂高を訪ねた時には彩色像を中心に庚申塔を廻ってみたいものである。
 いずれにしても、穂高地区の彩色を含めた道祖神については、安曇野市豊科在住の石田益男さんの『道祖神をたずねて 安曇野・穂高』(安曇野 昭和53年刊)が参考になる。なお、1の安曇野市豊科踏入路傍にある慶応3年双体道祖神の写真は、前記『安曇野道祖神』の97頁にカラー、『信濃路道祖神百選』の64頁にモノクロで載っている。(平成19・10・7記)
             〔初出〕『石佛雑記ノート 14』(多摩野佛研究会 平成19年刊)所収
都内の一代守本尊石佛

 一代守本尊は、十二支それぞれの生まれ年の守本尊として8体の佛像が配当されている。8体の佛像は2如来・5菩薩・1明王から構成され、このことから「八体佛」とも呼ばれている。
 十二支の生まれ年にそれぞれの守本尊があるとすれば、12尊の本尊が必要となる。ところが実際には8尊だから、生まれ年によっては1支1尊ではなく、次の表の通り2支1尊とダブル生まれ年発生する。
   生まれ年と守本尊
   ┏━━━━━━┯━━━━━┳━━━━━━┯━━━━━┓
   ┃生まれ年  │本   尊┃生まれ年  │本   尊┃
   ┣━━━━━━┿━━━━━╋━━━━━━┿━━━━━┫
   ┃子    年│千手観音 ┃午    年│勢至菩薩 ┃
   ┠──────┼─────╂──────┼─────┨
   ┃丑 ・ 寅年│虚空蔵菩薩┃未 ・ 申年│大日如来 ┃
   ┠──────┼─────╂──────┼─────┨
   ┃卯    年│文殊菩薩 ┃酉    年│不動明王 ┃
   ┠──────┼─────╂──────┼─────┨
   ┃辰 ・ 巳年│普賢菩薩 ┃戌 ・ 亥年│阿弥陀如来┃
   ┗━━━━━━┷━━━━━┻━━━━━━┷━━━━━┛
 初めて私が一代守本尊に出会ったのは、昭和51年8月の夏休みに訪れた長野県東筑摩郡山形村清水高原にある清水寺である。この寺には参道に並ぶ百番観音や毘沙門天浮彫り像、仁王門に安置された仁王丸彫り像などの石佛がみられ興味がある。石造物の中で特に関心を持ったのは、境内にある享保15年に造立された石造三重塔である。
 この3重塔の第1層と第2層の4面には、各面に1体ずつの佛像と十二支の動物が1匹か2匹浮彫りされている。この8体の佛像は「一代守本尊」である。すでに一代守本尊は『佛像図彙』に載っているので知っていたが、実際に石佛をみたのはこの3重塔が初めてである。
 最初に私が「一代守本尊」について執筆したのは、日本石仏協会編の『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)である。26頁に「概説」を載せ、以下、十二支順に各年の守本尊を26頁から29頁に示した。この3重塔の各面に浮彫りされた勢至菩薩・大日如来・不動明王・阿弥陀如来の写真4枚を掲げている。
 『日本石仏図典』で「一代守本尊」を担当したことから、以後はこの種の石佛に注意を払うようになった。これまで都内でみたものは次に示す3例で、いずれも現代作の「一代守本尊」である。
   ┏━┯━━━━┯━━━━━━━━━━━━━━━┓
   ┃順│見学年 │所在地            ┃
   ┣━┿━━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━┫
   ┃1│平成10年│文京区小石川3−7−4 真珠院┃
   ┠─┼────┼───────────────┨
   ┃2│平成13年│府中市片町2−4−1 高安寺 ┃
   ┠─┼────┼───────────────┨
   ┃3│平成16年│豊島区巣鴨5−35−5 功徳院┃
   ┗━┷━━━━┷━━━━━━━━━━━━━━━┛
 1は平成10年1月4日(日曜日)に庚申懇話会例会で小石川七福神を廻った時、布袋尊を祀る真珠院(浄土宗)に入口にある一代守本尊を見学した。この時の見聞記(『平成六年の石佛巡り』 ともしび会 平成10年刊)に
 寺の入口にある「欣求浄土の庭」には、一石七福神浮彫り像と八面体の各面に一体ずつ守り本尊の浮彫り像を刻む八体佛がみられる。と記した。この寺を再訪した平成16年1月28日(水曜日)の記録(『東京石佛ウォーク2』 多摩野佛研究会 平成16年刊)には、次のように書いた。
 寺の入口にある「欣求浄土の庭」には、一石に七福神を浮彫りした石塔と八面体の各面に1体ずつ守り本尊の浮彫り像を刻む回転八体佛がみられる。
 両書では、いずれも一代守本尊について簡単にふれただけなので、ここではさらに補足して説明する。白御影の8角柱各面を花頭形に彫り窪め、中央に一代守本尊を1尊宛てに坐像を浮彫りする。その下に尊名と生まれ年、例えば「文殊菩薩/卯(うさぎ)年生」と2段に記す黒御影の説明板をつけている。8角柱の石塔の上には、宝珠をいただく8角形の笠部がのる。
 千手観音は中央手を合掌し、その下に宝鉢印を結ぶ。背後の左手は上から順に矛・日天・宝珠・未敷蓮華、右手は上から錫杖・月天・宝鈴・宝矢の持物を執る12手像である。虚空蔵菩薩は左手に宝珠を持ち、右手で与願印を結ぶ2手像、文殊菩薩は左手に経巻、右手で宝剣を執る。
 普賢菩薩と勢至菩薩は共に合掌の2手像、大日如来は金剛界を示す智拳印を結ぶ。不動明王は左手に羂索、右手に宝剣を持ち、阿弥陀如来は定印を結ぶ。普賢菩薩は獅子、文殊菩薩は象の禽獣座にのり、不動明王は岩座に座し、他の尊は蓮華座の上にある。
 2は平成13年5月4日(金曜日)の府中・暗闇祭で、旧甲州街道に曳き出される山車を待つ間に訪ねた高安寺で出会った。『平成十三年の山車巡り』(ともしび会 平成13年刊)で、極めて簡単に「ついでだから高安寺に寄り、六地蔵や八体佛などの石佛を撮る」と記した。これより多少詳しいのが本誌第32集(平成13年刊)の「暗闇祭の間」である。
 一代守本尊の右端には黒御影石に刻まれた「干支本尊建立のいわれ」が立ち、次いで十二支順に子年の千手観音から戌・亥年の阿弥陀如来まで八体佛が横1列に並ぶ。いずれも白御影石の光背型塔に坐像を半肉彫りする。
 千手観音は前方の中央6手が上から拳の2手、合掌手、宝印手である。背後の左手の上から開敷蓮華・矛・不明・水瓶・数珠、右手上から未敷蓮華・錫杖・宝螺・宝鉤・数珠を執る16手像である。虚空蔵菩薩は左手に3宝珠がのる蓮台、右手に宝剣を持つ2手像、文殊菩薩は左手に経巻、右手に宝剣を執る。
 普賢菩薩は合掌の2手像、勢至菩薩は左手をあげて来迎印、右手を膝の上において与願印を結ぶ。大日如来は金剛界の智拳印、不動明王は左手に羂索、右手に宝剣を持ち、阿弥陀如来は定印を結ぶ。普賢菩薩は獅子、文殊菩薩は象の禽獣座に乗り、不動明王は背後に火炎を負って岩座に座る。他の尊は蓮華座の上にある。
 3は平成16年2月18日(水曜日)に予定外のコース功徳院で出会ったものである。4角柱の上に4角の台石を置き、上の尊像を含めて白御影石を使用している。後でふれるように一代守本尊は12尊いずれも厚肉彫りである。不動明王は火炎光を背に負って瑟瑟座、それ以外の11尊は二重円光背で蓮華座に座る。
 境内には白御影の一代守本尊がある。八体佛が十二支の守本尊となるから、例えば阿弥陀如来は戌年と亥年の守本尊を兼ねている。ここでは十二支それぞれに1体ずつ宛てて12体の像がみられる。従って未と申の守本尊は大日如来だから、未の本尊として金剛界大日、申年の本尊として胎蔵界大日とするように像容を変えている。像高の最低は不動明王で17cm、最高は阿弥陀如来で20cm、他の像はその間の高さである。と前記の『東京石佛ウォーク2』に記した。
 多少説明を加えておくと、左から右へ子年の千手観音から巳年の普賢菩薩までの6体、背中合わせに反対かわ左から右へ午年の勢至菩薩から亥年の阿弥陀如来まで6尊が横2列に並ぶ。
 千手観音は中央手を合掌し、左手は上が矛を持ち、下の4手は持物なし、同様に右手は最上の錫杖以外は4手とも徒手である。丑年の虚空蔵菩薩は左手に火炎宝珠を乗せる蓮華を執り、右手で与願印を結ぶ。寅年の虚空蔵菩薩は左手に三宝珠を蓮華、右手に宝棒を持つ。文殊菩薩は左手に開敷蓮華、右手に梵筐を持つ。辰年の普賢菩薩は正面を向いて両手で未敷蓮華を執り、巳年の普賢菩薩はやや俯き加減で未敷蓮華を持つ。
 勢至菩薩は左手で未敷蓮華を持物とし、右手は腹前で印を結ぶ。未年の大日如来は智拳印で金剛界、申年の大日如来は定印で胎蔵界を示す。不動明王は左手に羂索、右手に宝剣を持つ。戌年の阿弥陀如来は定印を、亥年の阿弥陀如来は来迎印を結ぶ。
 以上の3か所は独立した「一代守本尊」であるが、次の小川寺の場合は少し趣が異なる。
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   ┃順│見学年 │所在地            ┃
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   ┃4│平成6年│小平市小川町2−733 小川寺┃
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 4は純然たる「一代守本尊」ではない。『平成六年の石仏巡り』(ともしび会 平成8年刊)に「十三佛の内の7体と十一面千手観音1体を併せて八体佛(一代の守本尊)としている」と書いたように変則的な一代守本尊である。十三佛の中で該当する虚空蔵菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩・勢至菩薩・大日如来・不動明王・阿弥陀如来の7体に、別に作った千手観音を加えて構成している。
 十三佛で一代守本尊に該当する7体の尊像には、横に「○年生 御守本尊」の小さな石標を立っている。子年の千手観音は十三佛に含まれていなために、離れた場所に造立されている。下記に小さな「子年生 御守本尊」銘の石標が立つ。
 千手観音の頭上には中央に化佛を置き、頭部6面を配している。中央手は合掌手と下には鉄鉢を両手で持つ宝鉢手である。左手は上から矛・宝塔・宝棒・日天・宝弓・宝矢・宝印・羂索、右手は上から順に錫杖・宝輪・未敷蓮華・月天・不明・玉環・開敷蓮華・数珠を持物とする20手である。
 本会の犬飼康祐さんから聞いた話では、東京都町田市高ケ坂の祥雲寺にもあるという。『石仏を歩く』(日本交通公社出版事業部 平成6年刊)で「町田」のコースを担当し、コースの最後に祥雲寺を取り上げているが、当時は「一代守本尊」は見当たらなかった。おそらくその後の造立であろう。 これまで「一代守本尊」自体が広く知られれいないので石佛は極めて少なく、都内でみたものはい何れも戦後以降の造立で、東京以外でも江戸時代まで逆上るものは稀である。崎の清水寺や『佛像図彙』のように、十二支を伴う一代守本尊は都内では現在のところ見当たらないようである。(平成19・2・1記)      〔初出〕『野仏』第38集(多摩石仏の会 平成19年刊)所収
あとがき

 本書は、先に発行した『多摩石仏の会雑記07』の続編である。内容は、大きく例会記録3編・写真展の3編・『野仏』に掲載分の3部構成である。
 「荒川区内を廻る」は、8月25日(土)に多田治昭さんの案内で廻る。始点は尾久駅、話には聞いていたが、以前みた地蔵山墓地の変わり方に驚く。馬捨場や下尾久石尊など懐かしい。見学の最後は原稲荷、東京メトロ町屋駅が終点である。
 我孫子市内を廻る」は、10月20日(土)に関口渉さんの案内で廻る。始点はJR常磐線天王台駅、暗くなってからも中里の薬師堂や中峠の不動堂の石佛を調べ、JR成田線湖北駅から帰途につく。
 「相模原市内を廻る」は、12月8日(土)に萩原清高さんに依る市内城山地区を歩いた記録である。バスで終点の上中沢に行き、コース予定になかった思いがけず峯の薬師を訪ね、城山湖周辺の眺望を楽しんだ。かねての予定通り、昼食後の三嶋神社の境内でに多摩石仏の会を退会する旨を出席者に伝えた。
 続く「多摩石仏の会写真展1」「多摩石仏の会写真展2」「多摩石仏の会写真展3」の3編は、創立40周年を記念して行われた「多摩石仏の会写真展」について書いたものである。「1」は庚申塔、「2」は地神塔、「3」は関口渉さんの安曇野の彩色された石佛を扱っている。
 最後の「都内の一代守本尊石佛」は、会誌『野仏』第38集に掲載されたものである。 
創立40周年の写真展も無事に終わったのを機に、多摩石仏の会を12月例会をもって退会したので、本書が『多摩石仏の会雑記』の最終刊となる。創立会員も私が最後として全員いなくなる。
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                            続多摩石仏の会雑記07
                              発行日 平成19年12月25日
                              TXT 平成20年 2月 6日
                              著 者 石  川  博  司
                              発行者 多摩野佛研究会 
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