石川博司著      石佛雑記ノート1       発行 多摩野佛研究会 
目次     ◎ 弁天の分類再考         ◎ 鐘番塔の連鎖
         ◎ 珍しい石仏120         ◎ 『石佛月報』11月号
       ◎ 
小山市の初期庚申塔      ◎ 『石仏散歩 悠真』第16号
       ◎ 
『私の「あしあと」19』        ◎ 多摩青梅七福神巡り
                           ◎ 
『埼玉の疱瘡神・』
        ◎ 
亥年と年賀状       ◎ 『埼玉の疱瘡神・』追記     あ と が き
       
弁天の分類再考

 平成18年12月28日(木曜日)、足立区にお住まいの笹川義明さんから小包が届いた。その中には私が未見の松戸市和名ヶ谷・総和町女沼・尾島町堀口の獅子舞を撮影したビデオテープが入っており、石佛写真6葉が同封されている。
 お手紙に11月26日(日曜日)に群馬県利根郡川場村川原湯の温泉神社(川原湯神社)で行われた神楽を見物した際、早めに着いたので境内にある石佛を写したものである、と書かれている。同封の地図の注記に「参道には道祖神や石塔が立ち並び風情があります。4月の春祭りには太々神楽が奉納されます」とあり、少し離れた注記によると「双体道祖神二体・弁天・馬頭観音・地蔵菩薩・庚申塔他」と記されている。
 石佛写真6葉の内、4葉は石佛群を撮ったもので、2葉が双体道祖神、後の1葉が弁天を写したものである。弁天は光背型塔に頭上に鳥居を置き、左手に宝珠、右手に鍵を執る2手浮彫り像である。石佛群を撮った4葉をみると、順不同に聖観音坐像・弥勒如来坐像・定印弥陀坐像2体・奪衣婆・地蔵菩薩立像4体・不動明王坐像・馬頭観音立像、他に観音菩薩立像がみられる。写真に庚申塔が写っていない。
 弁天には2手・6手・8手の像容があることは『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)に記した通りである。大護八郎さんは『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)の中で、長野県下県郡厳原町田渕・長願寺の年不明(近代と推定)の4手坐像を紹介している。上方手に御幣と宝珠、下方手が合掌している4手浮彫り像である。
 身近にあった『野仏』第37集には、縣敏夫さんと犬飼康祐さんが八王子の弁天にふれている。縣さんは「高尾山の八手弁財天」と「弁財天に奉納された白蛇の絵馬」の2編、犬飼さんは「八王子の弁財天・蛇像 その2」の1編である。
 縣さんは「高尾山の八手弁財天」の最後で「結びにかえて−八王子市内の弁天と分類」を掲げ、12頁で仮の名称をつけて次のように弁天を8分類している。
   1 琵琶型弁天=琵琶を抱く2手。妙音天ともいう(座像・立像)
   2 剣宝型弁天=左に剣、右手に宝珠の2手(座像・立像)
   3 鳥居型弁天=鳥居を冠する8手弁財天(座像)
   4 交剣型弁天=頭上で剣を交差させる8手臂弁財天(高尾山例)
   5 人頭蛇身型弁天=顎髭老人の頭の蛇がトグロを巻く(宇賀神)
   6 蛇頭蛇身型弁天=鎌首を擡げた蛇がトグロを巻く(宇賀神)
   7 文字塔その他=「弁財天」「弁才天」「宇賀神」と文字で表すもの。弁天に関連する巳待
     塔、蛇を祀る塔など。
   8 奉納供養物=灯籠、鳥居、手洗石など。
 この分類はあくまでも八王子市内を対象とした分類であるから、ここの洩れた像容の弁天がみられるのは当然である。先に挙げた弁天の写真の2手像は、この分類に該当する型はない。強いて名称をつけると「珠鍵型弁天」、縣流の名称では「宝鍵型」となるのかも知れない。
 『日本石仏事典』で写真を掲げた東大和市芋窪・慶性院の安政2年6手像は、頭上に鳥居をいただくの「鳥居型弁天」の範疇に入るのであろう。いずれにしても弁天分類の試案としての存在価値はあるので、今後、各地の像容を集めてさらなる分類がなされる必要があろう。(平成18・12・28記)
鐘番塔の連鎖

 何気なく手にしたのは『日本の石仏』第118号(日本石仏協会 平成18年刊)、目次をみたら野田の石田年子さんの「江戸川流域の別時念仏千日廻向」が載っている。石田さんといえば、11月4日(土曜日)に池袋の東京芸術劇場で催された石仏談話室で「赤痢流行とマタリ神」を講演された。
 逆上れば平成14年2月17日、関宿町(現・野田市)の千葉県立関宿城博物館で行われた石田さんの講演「関宿周辺流れ仏と富士講──不動明王が教えてくれた事」を聞き、終わってから周辺の石佛を案内していただいた。台町・不動堂にある寛文3年6手像、平井・路傍の寛文8年4手像、台町・光岳寺の延宝元年2手像の青面金剛など古い時期の庚申塔を廻った記憶が残っている。1連のことは「関宿城博物館」の題名で書き、『平成十四年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成14年刊)で発表している。
 話が横に逸れたが、石田さんの「江戸川流域の別時念仏千日廻向」を読むと、埼玉県杉戸町椿地区の倉常寺の参道両側に九品佛の9基と六観音・六地蔵の12基が並んでいるとある。六観音も少ないが、九品佛の阿弥陀如来の石佛は珍しい。去る11月26日(日曜日)に庚申懇話会見学会で九品山浄真寺(世田谷区奥沢)の3佛堂にある9品佛に接したばかりである。
 阿弥陀如来について書かれた『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)に九品佛をふれているものの石佛の事例は載っていない。『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)は「弥陀三尊」「善光寺式弥陀三尊」「五劫思惟像」、『続日本石仏図典』(国書刊行会 平成7年刊)は「弥陀三尊像」「四十八体仏」に関して事例を挙げただけである。6観音・六地蔵と合わせて倉常寺を訪ねてみたいものである。
 次いでこの寺にある「千日廻向塔」にふれ、「鐘番塔」へ進む。鐘番塔と聞くと、中山正義さんが浮かぶ。文中にも『野仏』が出てくる。たまたま手近にあった『野仏』第37集(多摩石仏の会 平成18年刊)に手に取ると、中山さんの「鐘番について その3」が載っている。それによって第20集(平成元年刊)に「鐘番について」、第30集(平成11年刊)に「続・鐘番について」が掲載されているのがわかる。
 3冊に記された鐘番塔を列記すると、次の通りである。(※印は文献引用)
   順 集 西暦 元 号 主尊  塔 形 鐘番銘     所在地
   1 20 1670 寛文10 阿弥陀 光背型 鐘番同行    埼玉県吉川市須賀 豆腐屋屋敷
   2 20 1727 享保12 地 蔵 丸 彫 鐘番同行(台石)岩槻区慈恩寺 毘沙門堂
   3 20 1674 延宝2 阿弥陀 丸 彫 鐘番惣人数   幸手市中野 墓地
   4 20 1671 寛文11 名 号 笠付型 鐘番人数    久喜市上清久 東明寺
   5 20※1685 貞享2 阿弥陀 光背型 鐘番衆     加須市久下 千日堂
   6 20※1715 正徳5 名 号 柱状型 鐘番同行    加須市久下 千日堂
   7 20※1695 元禄8 地 蔵 光背型 鐘番      北川辺町飯積本村 観音堂
   8 20 1760 宝暦10 阿弥陀 丸 彫 鐘番(台石)  川越市小仙波 中院
   9 30 1680 延宝8 名 号 笠付型 鐘番同行衆   栃・佐野市金井上町 涅槃寺
   10 30 1690 元禄3 名 号 笠付型 鐘番 鐘番   茨・岩井市上出島 浄泉寺
   11 30 1692 元禄5 名 号 笠付型 鐘番村     茨・水海道市坂手町 三福寺
   12 30 1697 元禄10 名 号 笠付型 鐘番廻向袋   茨・水海道市坂手町 願海寺
   13 30 1678 延宝6 法 名 柱状型 鐘番男女同行  白岡町高岩 忠恩寺
   14 30 1733 享保18 弥陀3 笠付型 鐘番      幸手市惣新田 芝原墓地
   15 30 1669 寛文9 弥陀3 笠付型 鐘番/同行   杉戸町上椿 集会所墓地
   16 30 1666 寛文6 弥陀3 笠付型 鐘組      杉戸町椿 倉常寺
   17 30 1666 寛文6 阿弥陀 光背型 鐘組      杉戸町椿 倉常寺
   18 30 1666 寛文6 阿弥陀 光背型 鐘組      杉戸町椿 倉常寺
   19 30 1666 寛文6 阿弥陀 光背型 鐘組      杉戸町椿 倉常寺
   20 30 1666 寛文6 阿弥陀 光背型 鐘組      杉戸町椿 倉常寺
   21 30 1666 寛文6 阿弥陀 光背型 鐘組      杉戸町椿 倉常寺
   22 30 1666 寛文6 阿弥陀 光背型 鐘組      杉戸町椿 倉常寺
   23 30 1666 寛文6 阿弥陀 光背型 鐘組      杉戸町椿 倉常寺
   24 30 1666 寛文6 阿弥陀 光背型 鐘組      杉戸町椿 倉常寺
   25 30 1666 寛文6 阿弥陀 光背型 鐘組      杉戸町椿 倉常寺
   26 30※1683 天和3 地 蔵 光背型 花灯明鐘番   群・伊勢崎市田中町692
   27 37 1733 享保18 文 字 笠付型 鐘番佛餉    千・野田市西ヶ尾 花崎庵
   28 37 1690 元禄3 名 号 笠付型 鐘番人数    春日部市下柳 墓地
   29 37 ── 年不明 弥陀3 笠付型 爲鐘番     杉戸町目沼 墓地
   30 37 1697 元禄10 阿弥陀 笠付型 鐘番      茨・古河市横山町 徳星寺
   31 37 1689 元禄2 名 号 笠付型 鐘番同行    栃・佐野市赤坂町 厳浄寺
   32 37 1696 元禄9 弥陀3 笠付型 千日鐘番組   幸手市惣新田 正福寺
   33 37 1682 天和2 名 号 笠付型 鐘番施主    茨・水海道市菅生 無量寺
   34 37 1688 貞享5 名 号 笠付型 鐘番廻向袋   茨・水海道市菅生 極楽寺
なお、主尊の「弥陀3」とあるのは「阿弥陀如来 観音菩薩 勢至菩薩」の弥陀三尊文字を記したものをいう。
 上記のように、34基の塔に「鐘番」か「鐘組」の銘文が刻まれている。この中で最も古いのが倉常寺にある寛文6年「7月朔日」銘の笠付型1基(16)と光背型9基(17〜25)、最新は川越市中院の宝暦10年阿弥陀像の台石(8)である。
 中山さんの庚申塔調査は埼玉県が主体であるが、現在では関東の各県に及んでいる。庚申塔以外は特に「鐘番塔」に注意することではなく、寛文や延宝の石佛をチェックする過程で発見されていると思われる。従って、埼玉県以外では茨城県(10・11・12・30・33・34)が6基、栃木県(9・31)が2基、群馬県(26)と千葉県(27)が各1基である。
 20集記載の3には「奉造立千日供養仏」、4は「千日供養」、5は「千日廻向」とキーワードが「千日」になっている。他は2の「庚申講中」、6の「三千日回向仏」がみられ、6は3倍の日数でである。
 30集記載の10は「千日惣廻向佛」、11は「千日惣供養」、12は「千日惣廻向供養」、16は「千日別時供養」、17から25までの9基は「千日供養」と、やはりキーワードは「千日」である。しかし9が「万日廻向」、13が「念佛壱萬日数供養」、15が「万人供養」と、「万」の数字がみられる。14の「二十日供養」は「二千日供養」と考えられる。
 37集記載の29には「千日別時供養」、30には「千日念佛供養」、32には「千日薪施主」と「千日導師」、33には「千日廻向佛」、34には「千日惣廻向供養」と「千日」が鍵である。27は「二千日回向」が主銘と倍の日数となり、10倍の「一万」が28の「萬日念佛回向」と31の「一万日惣廻向」にみられる。
 8月川越見学会では石原町の観音寺にある宝暦12年の「二万日念佛供養塔」が眼についたが、この日に廻ったにある宝暦10年塔(8)の銘文には気付かなかった。犬飼康祐さんは集合前に廻った新富町の西雲寺で天明3年の「五萬日供養塔」と「一萬日別時念佛回向供養之塔」を記録している。
 犬飼さんは後に廻った中院で8に「3萬日回向所」の銘があるのをみているし、同所にある文政4年の「常念佛五萬日回向塔」(定印弥陀坐像)、観音寺にある「二万日念佛供養塔」を「川越市中心部の石佛探訪」に報告している。
 当初「鐘番」から青梅市勝沼町・乗願寺、あきる野市二宮・玉泉寺、日の出町大久野・水口・西徳寺、武蔵村山市3ツ木・宿薬師堂などで行われている「双盤念佛」とか「鉦張念佛、あるいは「念佛鉦はり」と呼ばれている鉦打ちの方を連想した。しかし、例えば1には「一千人」、3に「三百人」4に「千五百五拾人」の銘文をみると、鉦の番(鉦を打つ人)だけでなく、双盤念佛に参加し、寄進した人達全体をいうのであろう。
 中山さんが平成15年9月に茨城県境町の寺で鐘番をやっていた聞いた、猿島町逆井の常繁寺で次の聞取を行っている。
    昔旧暦十月六日より各村の代表が蒲団持参でお籠り、十日目に各村より多くの人が集まり、
   その夜供養した。鐘は四個あっが、今は二個残っている。現在は、集まりはなく住職が供養し
   ている。(『野仏』第37集16頁)
 この中山さんの聞取から判断すると、前記の乗願寺(時宗)の「お十夜」のように思われる。高校生時代に八王子市大横町の大善寺の「お十夜」が有名であったが、1度も機会がなく、どのようなものなかのわからない。名前だけは「お十夜」で知っているが、詳しい調査をしたことがないので、中村規さんの『江戸東京の民俗芸能2 風流』(主婦の友社 平成4年刊)から引用すると
    十夜は現在、十一月二十三日(旧暦の十月)の午後一時から行われている。ここでは毎年、
   世話人が受付帳を持って諷誦文回向の勧募をし、約三百本ほど集める。双盤は本尊に向かって
   左から太鼓、一番鉦、二番鉦、三番鉦、四番鉦、半鐘と並ぶ。講員は着物を着用する。
    十夜法要は、焼香讃、三宝礼、三奉請、略懺悔、変食陀羅尼、根本陀羅尼、弥陀回向、四誓
   偈、英霊供養、仏身観、諷誦文回向、光明遍照文、念仏一会、総回向、四佛弘誓願、送仏偈、
   十念の順に行われる。(130頁)である。また、同書の府中市白糸台の「本願寺双盤念仏」の項(128頁)に「お十夜」について、次のように記している。
    本願寺は八幡山広得員と号し、本尊は阿弥陀三尊木像で浄土宗である。同寺のお十夜は昔、
   十日十夜連続して行われ、このお十夜に双盤念仏が行われていたが、のちに三日三夜、二日二
   夜となり、北多摩は四、五年に一度となっている。
 恐らく浄土宗の本願寺で行われていた「お十夜」が「鐘番塔」の造立に関係していた、と中山さんの聞取から推測される。
 鐘番塔自体が銘文からしかわからないので、石佛、特に念佛塔を丹念に調査する以外に途はない。現在の調査から判断すると、埼玉県を中心にその周辺の各県、茨城・栃木・群馬に分布している。この範囲にある念佛塔が狙い目であるし、寛文から享保の間に造立された光背型や丸彫りの阿弥陀如来像や弥陀三尊像を注意する必要があろう。ただ今のところ鐘番塔に特別関心を持つこともないし、川越・中院の「鐘番」を見逃すようでは「鐘番塔」を追いかける資格はなさそうである。
                                  (平成18・12・29記)
   〔付 記〕
    この原稿を書いている最中に『日本の石仏』第120号が届いた。これも偶然としかいいよ
   うがないが、88頁の「プロフィール 人間探訪」に石田年子さんが取り上げられている。
    坂口和子さんのインタビューにより、手許にある『関宿腸の石造物』が処女作であったとは
   知らなかった。その「おわりに」の中に平成6年に本屋で手にした『東葛のみちしるべ』(金
   田英2著)に興味をおぼえ、サークル仲間と関宿の道標を調べたのが関宿の石佛の出会いだっ
   た、と記されている。また『日本石仏事典』と一色勝正さんの調査カードが手掛かりだったよ
   うで、私も及ばずながら力になっていたことになる。
    石田さんがこれからどのように「鐘番塔」を追いかけるのか、見守りたい。
珍しい石仏120

 平成18年12月29日(金曜日)に『日本の石仏』第120号(日本石仏協会 平成18年刊)を受け取った。120号に因んで「珍しい石仏120」の特集号である。『日本石仏図典』(昭和61年刊)と『続日本石仏図典』(平成7年刊 共に国書刊行会発行)に掲載されていないのが採用の基準であるという。
 この基準があるので、例えば『農村信仰誌──庚申念佛篇』(六人社 昭和18年刊)に発表された塩尻市の「宿星庚申塔」や窪徳忠博士の『庚申信仰』(山川出版社 昭和31年刊)に記載の「北斗山王庚申塔」、すでに研究者の間では周知の庚申塔が含まれている。これらは一般の石佛愛好家にとっては「珍しい石仏」といえると思う。
 「珍しい石仏120」の中には、次の庚申塔が含まれているので頁順に挙げると
   順 表題       所在地              報告者    頁
   1 兎を持つ青面金剛 群馬県吾妻郡東吾妻町       長島  誠  8
   2 宿星庚申塔    長野県塩尻市洗馬 芦ノ田観音堂  井戸  寛  22
   3 僧形三尊庚申塔  香川県善通寺市吉原町       近藤 行雄  25
   4 篆刻3猿庚申塔  茨城県土浦市中央1丁目 不動院  佐藤不二也  30
   5 燈籠庚申塔    山梨県東8代郡境川村藤岱 智光寺 井戸  寛  31
   6 百体庚申社    さいたま市北区土呂町       長島  誠  36
   7 北斗山王庚申塔  静岡県裾野市野方382 立塔群中 井戸  寛  40
   8 六地蔵庚申塔   山梨県西八代郡市川大門町 宝珠院 井戸  寛  47の8項目である。
 1は大護8郎さんの『石神信仰』(木耳社 昭和52年刊)643頁にこの庚申塔の写真が載り、多田治昭さんの「庚申ファイル(2) その2」(『野仏』第32集63頁 多摩石仏の会 平成13年刊)に紹介されている。最近発行去れたものでは、栗田直次郎さんの『神使・供養の動物石造物』(私家版 平成18年刊)の63頁に写真がみられる。私も昭和55年8月24日に仲間と一緒に前橋市から群馬町・倉渕村・吾妻町・中之条町(当時の市町村名)を廻った時、吾妻町根古屋の庚申山でみている。
 2は前記の『農村信仰誌』23頁や64頁に、朝日村(当時)の「宿星庚申供養塔」と共に紹介され、この類の庚申塔が4基あって寛文13年から享保20年の間に造立(26頁)されている。これらの塔については、小花波平6さんが『庚申』第13号の「庚申信仰と星宿信仰」の中で触れられている(32頁・38頁など)。この論考は『庚申 民間信仰の研究』(同朋社 昭和53年刊)に収録されている。
 3は坊主頭の剣人6手の青面金剛、両横に童子が並ぶ。僧形の青面金剛というと、御殿場の庚申寺の掛軸(平野實『庚申信仰』67頁)やこれを模刻した大堰の文化6年塔(『石仏の旅 東日本編』232頁)を思い出す。もっとも善通寺のは立像であるが、御殿場のは坐像という違いがある。
 4は『土浦の石仏』(土浦市教育委員会 昭和60年刊)141頁に写真と解説が載っている。平成5年11月7日に土浦市立博物館を訪ねた際にこの塔をみた。多田治昭さんは「庚申塔ファイル(4)」(『野仏』第34集 多摩石仏の会 平成15年刊)68頁に台石の3猿が文字化された部分の写真を載せている。これには3猿と日月の文字化が扱われていて参考になる。
 5は武田久吉博士の『路傍の石仏』(第1法規出版 昭和46年刊)で写真をみた記憶があるので、原本に当たったところ238頁に中沢厚さんが提供した写真が載っている。竿石に浮彫りされた3猿の姿態が一風変わっていたのと燈籠というので記憶に残っていた。
 6は『大宮の庚申塔』(大宮市教育委員会 平成10年刊)23頁に記載、産業道路の工事で現在地に移されたと記す。同じ頁に従前の写真がみられる。今年7月9日(日曜日)の多摩石仏の会大宮見学会で訪ねた。これは『さいたま市庚申塔散歩・』(庚申資料刊行会 平成18年刊)に収録した「さいたま大宮を廻る」18〜20頁に記した。この百体庚申社については『ともしび』第14号(ともしび会 昭和43年刊)でふれ、『庚申』第53号(庚申懇話会 昭和43年刊)に転載した。
 7は先に記したように『庚申信仰』の89頁に当時の富岡村金沢の寛文7年塔にふれ、清水長輝さんの『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)に233〜235頁に詳述されている。前記の『石神信仰』の654頁に記されている。さらに銘文については縣敏夫さんの『図録庚申塔』(揺藍社 平成11年刊)178頁が参考になる。
 8は初耳で、これまで六地蔵の何体かに庚申関係の銘文が彫られた例があるが、1石に六地蔵と3猿が浮彫りされる例は初めてである。「銘文、紀年銘など不詳」なのは残念であるが、天蓋の上に日月を浮彫りし、庚申塔の「三猿基準」を満たした塔である。
 つい庚申塔というと種々口を出してしまうが、いろいろな主尊がみられる庚申塔のことだから、まだまだ思いがけない主尊の塔が出てくる、と考えられる。例えば沖本博さんが報告した山王権現立像(『房総の石佛百選』161頁 たけしま出版 平成11年刊)も「珍しい石仏」の範囲であろう。
 山王ついでに、山下立さんが『日本の石仏』第72号81頁で紹介された神奈川県愛川町上の原・山王社の山王神坐像も稀な例である。さいたま市桜区沼影・沼影公会堂の山王七社坐像を浮彫りする元禄14年塔、これについては「山王七社主尊の庚申塔」(『野仏』第29集 多摩石仏の会 平成10年刊)でふれたし、拓本が前記『図録庚申塔』247頁に掲載されている。
 庚申塔以外にも「珍しい石仏」として、先述の『房総の石佛百選』の21頁の「子安釈迦如来」、99頁の「四国八十八所尊」、163頁の「大山権現」、181頁の「疱瘡神」、189頁の「稲荷大明神」、209頁の「7面大明神」などが該当する。
 どこに入っていたのかわからなかったが、たまたま出てきた豊前市の渡辺信幸さんから送られてきた写真の1葉に「船玉神三尊」がある。裏には「福岡市(西公園の西側)伊崎」の所在地が記されている。探せば渡辺さんの写真の中に「珍しい石仏」が含まれている。
 ともかく、ローカルな神佛は全国各地に存在するし、その中には「珍しい石仏」は多々あることと思う。『日本の石仏』(日本石仏協会 昭和57年刊)第23号に「稲荷の像容の分類」を発表したが千葉県流山市深井・駒形神社にある象徴型石祠に挙げたように、稲荷の掛軸はいろいろとみられる。そうした掛軸、あるいは稲荷神社発行のお札の像容を石に刻んだものがある可能性がある。これはほんの1例に過ぎない。(平成18・12・31記)
『石佛月報』11月号

 平成18年12月10日(日曜日)、宇都宮の瀧澤龍雄さんから『石佛月報』11月号を受け取った。6部限定の発行だから入手は困難、ご厚意である。一つには私が気にしている「疱瘡神」塔が収録されていることもある。
 この号は「芳賀町と日光の庚申塔を中心に」の特集である。表紙に
    芳賀町の主な庚申塔を一気にご紹介して、ここへ載せた庚申塔を訪ねればおおよその芳賀町
   の庚申塔が理解できるようにしてみた。また、日光の庚申塔案内は、主に日光型を選んで掲載
   してみた。とあり、芳賀町の主な庚申塔と日光の塔から日光型塔を選んだ趣旨が記されている。
 先ず芳賀町の庚申塔のトップは「芳賀町の青面金剛心咒塔」、所在地は同町与能・明宝池内の森の中である。柱状型塔の正面上部に日月、中央に「バイ」に続けて3行に斜めに読む青面金剛心呪咒を刻み、下に続けて「庚申供養塔」、これの右に「元文五庚申年」、左に「十二月二十四日」の年銘がある。右側面に「與能村 妙法紋」、左側面に「願主 二世安樂攸」の銘を彫る。
 縣敏夫さんはこの「青面金剛心呪咒」を含めて「庚申真言」とし、その著作『図説庚申塔』(揺藍社 平成11年刊)363頁から366頁にかけて「庚申真言塔」の年表掲載し、次に367頁に庚申真言を分類した付表を載せている。
 年表には栃木県の「庚申真言塔」として、次の3基を挙げている。
   順 真言      元号  主尊   所在地
   1 青面金剛立身咒 元禄14 青面金剛 下都賀郡藤岡町内町 慈福寺
   2 青面金剛心咒  寛政12 青面金剛 足利市猿田町 徳蔵寺
   3 青面金剛心咒  文化10 ア    下都賀郡藤岡町内町 宝光寺
 この年表からみると、芳賀町の心咒塔は徳蔵寺より先行している。
 次が「芳賀町最古の庚申塔」、所在地は同町東水沼・道上地区の三社稲荷神社である。光背型塔に剣徒手6手の青面金剛を浮彫りし、像の右に「宝永四年亥九月申日」、左下に「東水沼村」の銘を記す。先に「剣徒手六手」と書いたが、「剣人六手」の変形と思える。というのは、手には何も持っていないが、左の中央手の上に合掌した人身らしい像があるからである。
 続いて「芳賀町の4臂青面金剛像」、同町下高根沢・大久保地区の庚申塚上にある。青面金剛は上方手に宝輪と矛、下方手に蛇と羂索を執る4手像である。下部に正向型3猿を浮彫りする宝永7年造立の柱状型塔である。
 次いで「一猿一鶏の青面金剛」、同町下延生・宿延生の個人宅にある。主尊は背後に火炎光背ある剣人6手青面金剛、上部に日月瑞雲、足下に1鬼、下部に1鶏1猿を浮彫りする。万延元年9月造立の駒型塔である。
 芳賀町庚申塔の最後は「平成最新の庚申塔」、同町給部の路傍にある。板石型塔の正面に「庚申大神」、右に「後世に伝承しよう/心のふるさと行事」、左に「給部庚申講庚申山登拝記念/・小林石材店寄進」の銘を刻んでいる。裏面に「平成十四年二月二十一日初庚申建立」の銘を記す。
 日光の庚申塔は先にもふれたように一般に「日光型」と呼ばれている庚申塔を集めている。向かい合う2猿が拝みのポーズをとる形式を「日光型」、かつては「下野型」という場合があった。この11月号では次の庚申塔が取り上げられている。
   順 表題          年銘  塔形  所在地
   1 なし(表紙)      貞享5 燈 籠 日光市野口 日枝神社
   2 暫くぶりに日光の庚申塔 延宝8 板駒型 日光市宝殿 志渡渕川沿い古道
   3 日光型の清面金剛文字  元禄5 柱状型 日光市宝殿 志渡渕川沿い古道
   4 麗しの日光型庚申塔   寛文11 板駒型 日光市山内 滝尾道沿い
   5 宝珠を拝侍する庚申塔  延宝8 駒 型 日光市所野 磐裂神社
   6 所野のもう一つの庚申塔 寛文11 板駒型 日光市所野 滝尾神社
 1は1対の燈籠のぞれぞれの火袋に拝侍する猿が浮彫りされている。
 2は日月「ウーン」2猿の下に「奉敬礼庚申供養 敬白」、右に「延宝八天 同衆」、左に「庚申十一月吉日 拾三人」とある。
 3は日月・2猿の下に「清面金剛性躰二世安樂也 敬白」、右に「元禄五壬申稔 施主」、左には「十一月吉祥日 拾一人」の銘がある。
 4は日月「ア」2猿の下に「青面金剛供養妙塔攸」、右に「寛文十一年 敬 惣」、左に「辛亥六月日 白 衆」と刻む。
 5は、日月・宝珠・2猿の下に「バイ 奉精誠青面金剛供諸願成弁之所」、右に「延寳八庚申年敬」、左に「十月吉日 白」と彫る。
 6は日月・2猿の間に「カーン 奉精誠庚申待供養之攸 檀衆 導師恵會坊」、右に「寛文十一辛亥天 欽」、左に「三月吉日 白」、下部に蓮華を陰刻する。
 以上の他に「水神様の種子塔」と「疱瘡太神」の2編が掲げられている。(平成19・1・2記)
小山市の初期庚申塔

 暮れも押し詰まった平成18年12月28日(木曜日)に宇都宮の瀧澤龍雄さんから『栃木県小山市 江戸前期迄の庚申塔のまとめ』が送られてきた。瀧澤さんがいう「江戸前期」とは貞享年間までを指し、この冊子は昭和18年12月末日までの現地実査を踏まえての制作である。
 冊子には網都・長慶寺の寛文9年塔から松沼・本郷・薬師堂の貞享3年塔まで、1頁から3頁にかけ、各塔毎に台帳番号・所在地・紀年銘・像容名・サイズ・信仰名・形態名・石文他の項目が記さされている。
 4頁目に当たる頁から・・・・・の頁数が振られ、・頁に1番塔から9番塔、・頁に10番塔から18番塔、・頁に19番塔から24番塔までの庚申塔の写真を掲げている。
 ・から・に載った写真で眼を惹くのは8番塔、日光型の2猿と正向型3猿の組合わさった5猿、それにその上に北斗七星を浮彫りする。小宅・上坪の八幡神社にある延宝3年塔である。この塔の写真は『野仏』第31号(多摩石仏の会 平成12年刊)の33頁に多田治昭さんの写真が載っている。
 5猿は稀に存在し、東京都では町田市広袴町の神明社にある延宝7年塔にみられる。小山市の隣の栃木市では沼和田町の東泉寺にある正徳2年塔にみられ、他に惣社町内匠屋坪の板碑型塔にある。
 青面金剛は圧倒的に6手像が多く、剣人6手像の初発は下生井・川東の延宝3年塔(5番塔)、合掌6手像は下河原田・共同墓地入口の延宝3年塔(7番塔)が初発である。
 4手青面金剛像は、中里・橋本家北にある寛文11年塔(3番塔)にある1基のみ、1猿1鶏を伴う。中島昭さんの『小山市 野仏の風景』(私家版 平成7年刊)の33頁に写真が掲げれている。
 4手青面金剛といえば、隣の栃木市片柳町1丁目の墓地にある万治2年塔を思い出す。中島昭さんの『栃木市 野仏の風景』(私家版 平成4年刊)34頁には、同市薗部町3丁目6道にの4手青面金剛が報告されている。
 2手青面金剛像は鉢形・本田の中央公民館東側路傍にある延宝8年塔(15番塔)、合掌の2手像である。先の『小山市 野仏の風景』32頁にこの2手像の写真がみられる。
 2手の青面金剛像については、私も「石仏研究の事例」(『石仏研究ハンドブック』 雄山閣出版
 昭和60年刊)の中の「2手青面の系譜」(134〜142頁)で千葉・東京・神奈川・山梨の事例を取り上げた。
 塔面に「南無阿弥陀佛」の六字名号を刻んだ庚申塔が市内に3基ある。大本・谷新田・大杉祠前にある寛文10年塔(2番塔)、井岡集落中央の角地にある延宝3年塔(6番塔)、間中・県道クランク北角地にある延宝8年塔(11番塔)である。
 2鶏3猿形式が普通であるが、1鶏1猿形式の塔は先に挙げた4手像の寛文11年塔(3番塔)、2手像の延宝8年塔(15番塔)の2基である。2鶏2猿形式の塔は前記の6字名号の寛文10年塔(2番塔)にみられる。
 拝侍2猿は先の8番塔の5猿に内の2猿、他に下河原田の7番塔、松沼・仲内・公民館の貞享元年塔(21番塔)の3基ある。(平成19・1・2記)
『石仏散歩 悠真』第16号

 平成18年12月22日(金曜日)、多田治昭さんから『石仏散歩 悠真』第15号と第16号を受け取った。第15号は「地蔵菩薩 1」、第16号は「栃木県の石仏 5」の特集である。
 『石仏散歩 悠真』は多田さん発行する個人誌、「悠真」は孫の名前に由来する。第1号は「血盆経の石仏」が特集、昨平成18年5月21日(日曜日)の発行である。これまでに発行された号数の発行日と特集名を記すと、次の通りである。
   号数  発行日  特集名       号数  発行日  特集名
   第1号 5月21日 血盆経の石仏    第2号 6月15日 庚申塔の蛇
   第3号 6月17日 栃木県の石仏調査1 第4号 7月10日 三十三観音
   第5号 7月15日 栃木県の石仏2   第6号 8月15日 栃木県の石仏3
   第7号 8月18日 四十九院の石仏   第8号 9月5日 釈迦如来と十大弟子
   第9号 9月10日 千葉県の石仏1   第10号 10月6日 関東地方の宝筐印塔庚申塔
   第11号 10月10日 栃木県の石仏4   第12号 11月20日 関東地方の如来庚申塔1
   第13号 11月23日 神奈川県の石仏1  第14号 11月24日 栃木県の石仏5
   第15号 12月14日 地蔵菩薩1     第16号 12月18日 栃木県の石仏5
 第16号は第3号・第5号・第6号・第11号・第14号に続く「栃木県の石仏」の特集号である。扱っている地域は日光市・都賀町・芳賀町の1市2町である。日光市では
   順 年号  塔形  特徴                所在地
   1 寛永13 駒 型 日月「バク 奉庚申供養攸」2猿   本町 八幡神社
   2 寛文3 柱状型 日月・2猿「奉待庚申供養所」    本町 八幡神社
   3 寛文3 駒 型 日月・2猿「バイ 奉敬禮庚申」蓮華 本町 八幡神社
   4 寛永14 駒 型 日月「バン 奉成就庚申供養所」蓮華 山内 滝尾神社
   5※寛文11 板駒型 日月「ア」2猿「青面金剛供養・・」 山内 滝尾道
   6 年不明 板駒型 日月・2猿「奉信厚青面金剛・・」  所野 磐裂神社
   7※延宝8 板駒型 日月・2猿「バイ 奉精誠青面金剛・」所野 磐裂神社
   8※寛文11 板駒型 日月・2猿「カーン 奉精誠庚申待」 所野 滝尾神社の8基の庚申塔の写真を掲げている。同じ11月29日(水曜日)に廻った都賀町では次の
   順 年号  塔形  特徴                所在地
   1 寛文4 板駒型 日月・2猿             家中・桜本 薬師堂の1基の他に同地にある石佛群の写真、同じ家中にある鷲宮神社を訪ね、燈籠1対上にある雌雄の鳥、狛狐の写真を載せている。狛狐の雄の台石には鍵、雌の台石には宝珠が浮彫りされている。また雌狐は子狐に授乳した姿に作られ、珍しい。
 翌30日(木曜日)は芳賀町を訪ね、次の庚申塔を調べている。
   順 年号  塔形  特徴              所在地
   1※平成14 板石型 「庚申大神」          給部 路傍
   2 平成10 自然石 「庚申塔」           芳志戸 津久方公民館
   3※宝永7 柱状型 日月・4手青面金剛・3猿    下高根沢・大久保
   4※宝永4 光背型 6手青面金剛          東水沼・道上 稲荷神社
   5※元文5 柱状型 日月(青面金剛心咒)      与能・明宝池
   6※万延1 板駒型 日月・剣人青面金剛・1鶏・1猿 下延生・宿延生 平石宅
   7 年不明 不 明 6手青面金剛・3猿       西高橋 行事神社の7基を調査し、西水沼の常珍寺の六地蔵の写真がみられる。
 ※印がついた塔は、すでに宇都宮・瀧澤龍雄さんの『石佛月報』11月号に載っていた庚申塔で、お復習いした気分である。(平成19・1・3記)
『私の「あしあと」19』

 大晦日の平成18年12月31日(日曜日)、八王子の犬飼康祐さんから多摩石仏の会例会記録平成18年版『私の「あしあと」19』(以下『あしあと』と略称する)が届いた。犬飼さんが不参加の3月と中止の6月を除き、2月から12月までの例会に有志参加の稲城庚申神社祭礼と足利市内の見学を加えた記録が写真入りで87頁に記されている。
 犬飼さんは例会の度に記録をまとめ、写真入りで1頁をA4判30字詰26行2段で構成した報告書を作成されている。初めの2冊は数年まとめて作られたが、3冊目の平成2年分からは1年1冊宛とし、前の2冊を含めて年間のまとめが平成18年版で19冊になった。
 創刊号は頁数が37頁で出発し、平成9年1月1日に発行された。この年の奇数月に「6」まで出ている。翌10年の7月までに「10」まで刊行し、平成10年以降は「11」より翌年1月に前年1年の例会記録を1冊にまとめている。
 平成18年の場合は犬飼さんが欠席した3月例会に私は参加したが、関口渉さんが案内された4月の我孫子と加地勝さんの案内による10月の立川は不参加であった。
 奥付に記された『あしあと』19の発行の日付をみると、「発行日 平成19年(2007)1月1日」とある。封筒の消印は「18 1230」となっているから、元日配達の可能性も充分にあったわけである。たまたま1日早い大晦日に受け取ったことになる。
 犬飼さんと同様に私も参加した例会は記録を残し、昭和50年以来発表している。最初は『私の石仏巡り』や『平成3年の石仏巡り』のように一括にしていたが、平成15年からは『多摩石仏の会雑記03』のように別立てにしている。
 昨年の場合は2月の稲城市から7月のさいたま市の分は『多摩石仏の会雑記06』にまとめ、7月30日に発行した。その後の8月の川越市から12月の杉並区までを『続多摩石仏の会雑記06』とし、『野仏』第37集に載せた「佛足石を追う」「続・佛足石を追う」「佐久地方の庚申塔」の3編を加えて12月15日に多摩野佛研究会から刊行した。
 今回の19では「はじめに」の末尾に、次のように記している。
    平成十八年(2006)も参加出来た例会の記録をその都度作成したが、その一年分を例年
   のように年間の記録としてまとめた。まとめるにあたっては、読み返して文章を一部変更、写
   真を入れ替えも行った。
 一応、個々の例会記録を比較すると、例えば2月の稲城市の場合は8頁の写真が塔全体より石像を中心とした拡大された写真に替わっている。以前使われた写真が口絵として使用されている。
 4月の我孫子の場合は、書き出しの部分に加筆があり、我孫子駅構内の庚申塔の銘文を87頁に移している。そうしたこともあり、二十六夜塔の写真を省き、青面金剛・2手如意輪観音・6手如意輪観音・子安観音の写真を加えている。
 いずれにしても、写真が増加する傾向がみられ、主要な石佛をカバーしているので視覚的にも受け入れいやすい。私のように庚申塔以外は興味がある石佛のみを記録しているの違い、犬飼さんはできるだけ多くの石佛を記録されているから、後であの石佛はどうかと思った時に役に立つ。資料的に有益である。(平成19・1・3記)
多摩青梅七福神巡り

 平成19年1月5日(金曜日)は妻と1緒に、青梅市内にある多摩青梅七福神を巡る。昨年と同じ日取りである。例年、1日から3日まではテレビの駅伝漬け、七草までに多摩青梅七福神を巡るのが慣例になっている。
 庚申懇話会の1月見学会が芦田正次郎さんが案内する各地の七福神巡りの影響を受け、私も『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)で「七福神」の項目(85〜88頁)を担当した関係からでもある。正月の多摩青梅七福神巡りは興味もさることながら、大きな目的は全コースを歩き通すことでその年の体力測定になる。
 このところ住江町・延命寺(大黒天)を1番目に、次に千ケ瀬・宗建寺(毘沙門天)から長渕・玉泉寺(弁財天)へ廻り、黒沢・聞修院(寿老人)を経て日向和田・明白院(福禄寿)、多摩川を渡って畑中・地蔵院(布袋和尚)、最後は大柳・清宝院(恵比須神)というコースが定型化している。今回はコースにある庚申塔をチェックするのが副次的な区的である。ところが最初から宗建寺にある
  参1 文化9 雑 型 日月・青面金剛・2鬼・2鶏・3猿を無視してしまい、次の玉泉寺で山門前のある次の庚申塔2基からチェックに入る。
   1 元治2 自然石 「庚   申」
   2 年不明 光背型 日月・青面金剛・3猿をみてから、少し離れた境内の層塔前にある
   3 年不明 板石型 「庚 申 塔」を写す。この塔は長野県から移入されたものである。
 成木街道かた中山通りを抜けて聞修院へ向かう。途中で黒沢3丁目の下栃谷路傍にある次の自然石文字庚申塔2基を撮る。
   4 年不明 自然石 「庚 申 塔」
   5 年不明 自然石 「庚申供養塔」
 次いで聞修院入口と反対側にある地蔵堂内にある次の塔を外から写す。
   6 延享1 笠付型 日月・青面金剛・3猿
 聞修院でお参りを済ませ、次の明白院へ向かう黒沢3丁目の上栃谷路傍に
   7 文化14 自然石 「庚 申 塔」があり、青梅坂トンネルの手前の石組祠にあるはずの
  参2 享保6 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿が見当たらない。昨年の七福神巡りでは存在を確認している。近くの社寺に移されたものならよいが、主のない石組の祠は寒々しい。
 何時もの裏道から出て、裏宿町の7兵衛公園前にある
   8 宝永1 笠付型 日月・青面金剛・3猿を道路の反対側から石佛群の全体を撮る。
 脚の筋肉が突っ張って宮の平駅から裏道を通って明白院裏の墓地入口にある
  参3 宝暦12 笠付型 日月・青面金剛・3猿
  参4 文化1 自然石 「庚 申 塔」の2基をみてから明白院へ出るのが、これまでのコースである。今回は青梅街道を直進し、手前にある山城屋で昼食を兼ねて小休止をとったために前記の2基を見ずじまいである。
 明白院の開山堂が新築されたことは昨年暮れに発行された『西の風』第893号で知っていた。新築の堂内に福禄寿が祀られている。
 地蔵院から清宝院のコース途中にある畑中2丁目三叉路の次の塔も見過ごす。
  参5 元禄10 雑 型 日月・青面金剛・2鶏・3猿
 今回はコースを約4時間半で走破したが、家に戻ってしなし座り込む始末で年々空での衰えを進んでくるのがよくわかる。今年の結果を踏まえ、来年は1部に青梅線や路線バスを組み入れるコースを考え直す必要があるかもしれない。
 今回は8基と見逃し5基(内1基は行方不明)である。見逃した参2の享保6年の青面金剛像1基が行方不明であるから、このコースに限らず、5年に1度位はチェックしないと。特に長渕9丁目の大仁田峠旧道にある文字塔2基は平成に入ってからみていないので、要注意の庚申塔である。
                                  (平成19・1・5記)
亥年と年賀状

 平成19年は丁亥年、年賀状に色々な石の猪が登場すると期待した。私も第1候補に北区中里の摩利支天、第2候補に青梅市御嶽山・武州御嶽神社の石猪に挙げた。採用したの摩利支天であったが、原版が黒一色に近く、インクジェット葉書にプリントごっこ使用したしたことも悪かった。むしろ御嶽山の石猪が結果が良かっただろう。
 当然のことながら、今年いただいた年賀状の中には何らかの形で猪のイラストがみられたのが47通ある。これに「亥」の字のデザインしたものを加えると、亥年の年賀状の傾向は例年の干支を使うものと余り代わりはない。
 そうした中で、あくまで自分の趣味を知られせるものがみられる。例えば古文書の研究家は北条氏照印判状の写真入りである。地口行灯に興味のある方は「破れても番傘ささぬ定9郎」、あるいは「亥頭の踊り子」の地口絵入りの年賀状である。
 山車好き、祭り好きは愛知県長久手町の天王車、掛川市横須賀の祢里、川越市三久保町の拍子木と金棒、笠間市下郷の曳き手を含む山車行列、秩父夜祭の屋台、栃木市倭町3丁目の山車などの写真がみられる。
 獅子舞の趣味の方ではないが、胃の中に獅子頭を描く「猪」の判じ絵、自分の名前も判じ絵のイラストで面白い。友人には獅子舞仲間も多いから、猪(シシ)に因むというよりは趣味の延長上にある獅子舞を撮ったものがある。自作の獅子頭、東秩父村朝日根の「白刃」、奥多摩町日原の女獅子、青梅市成木・高水山の「竿掛り」、相模原市鳥屋の獅子舞、秩父市三峰の獅子舞と各地の獅子舞を楽しめる。
 世田谷の栗田直次郎さんは動物の石造物を追いかけ、数多くの写真を撮っている。その成果は著書『神使・供養の動物石造物』(私家版 平成18年刊)にまとめられている。最新の『日本の石仏』第120号(日本石仏協会 平成18年刊)の口絵に「十二支揃い」の写真が並んでいる。亥年は次の4の写真が使われている。ついでながら栗田さんの本に紹介された猪関係の石造物は、次の通りである。
   1 大正2 摩利支天 神奈川県鎌倉市材木座 五所神社
   2 年不明 摩利支天 長野県千曲市八幡・郡 霊諍山
   3 延宝4 将軍地蔵 栃木県日光市中小来川 愛宕山
   4 享保14 将軍地蔵 埼玉県坂戸市浅羽 長久寺
   5 明治23 石  猪 京都市上京区烏丸通り下長者町 護王神社
   6 現代作 石  猪 東京都青梅市御岳山 御岳神社
   7 昭和55 文字塔※ 神奈川県相模原市青野原 尾崎製材所裏
     ※ 主銘は「猪頭観世音」、右に年銘、左に施主銘を刻む。
 参考までに現在みられる6の石猪は、私が第2候補に挙げた江戸末期のものではなく、この石猪が台風の被害を受けて新たに作られたものである。
 友人には石佛関係が多いから、摩利支天の写真が多いと予想した。しかし、摩利支天の画像と7匹の猪に乗る摩利支天木像を含めても、更埴市霊諍山、川崎市中原区上新城・安養寺の4枚である。他に富山に摩利支天石像の報告が見られる。
 予想していなかったのが『日本の石仏』第97号(平成13年刊)63頁で紹介した所沢市山口・瑞岸寺の「十二支童子」の系統である。右膝に猪が乗る地蔵坐像、左膝に猪が乗る地蔵坐像は、台石に「亥歳地蔵」とある2枚である。
 これまた予想外だったのが方角を刻んだ石造物である。中央の円内に「東西南北」の方角を記し、その外周に「子」から「亥」までの方角を示す十二支の文字が刻まれている。明治43年の作で高尾山にあるという。
 猪に関係がない石佛写真入りの年賀状には、雪中の双体道祖神、冨士をバックの双体道祖神、新潟県津南町の双体道祖神がある。道祖神以外の石佛には三原市白滝山の釈迦如来三尊、栃木県那須町の一石七福神、横浜市内の石佛群、2猿付き宝塔型庚申石祠、京都市内の佛足石、岡山市内の「地神」塔などがあり、海外のガンダーラ磨崖佛と変化に富んでいる。ともかく年賀状の各種情報が参考になる。(平成19・1・6記)
『埼玉の疱瘡神・』

 平成19年1月6日(土曜日)、鎌倉の中村光夫さんから『埼玉の疱瘡神・』(私家版)を送っていただいた。この本は昨年12月31日に20部発行の限定版である。先に刊行された『東京の疱瘡神』(私家版 06年刊)を作成された際に、私の『疱瘡神を考える』(多摩野佛研究会 平成16年刊)が参考になった縁で、次の『千葉の疱瘡神』(私家版 06年刊)に続く3冊目を受け取ったことになる。
 中村さんは単に疱瘡神の石塔だけが目的ではなく、広く末社や疱瘡神祠に眼を向け、今回の『埼玉の疱瘡神・』では、疱瘡で亡くなった子供の墓石や鴻巣の郷土玩具まで収録している。今回の発行はネット上で志木市の疱瘡神を発見したことから再度、埼玉の調査を始められている。
 『埼玉の疱瘡神・』に収録されている疱瘡神石塔は、次の通りである。本には地番まで記載されているが、ここでは地番を省略した。
   順 年号  主銘        塔形  所在地             頁
   1 年不明 「疱瘡神」     板石型 志木市下宗岡 下之氷川神社   2
  参考 年不明 (墓 石)(注1) 柱状型 志木市柏町 千手同墓地     3
   2 年不明 「疱瘡神」     柱状型 杉戸町高野台西 香取神社    4
   3 年不明 「疱瘡神」     柱状型 杉戸町堤根 大日神社      5
   4 文政2 「疱瘡神」     石 祠 幸手市西関宿 大6天      7
   5 大正8 「疱瘡神」     駒 型 吉川町川藤 島田家屋敷神    8
   6 文政10 「疱瘡神」     石 祠 川口市藤兵衛新田 稲荷神社   10
   7 文化3 「疱瘡神」     石 祠 川口市西立野 2宮神社     11
   8 宝暦11 「疱瘡守護神」   石 祠 草加市清門町 稲荷神社     15
   9 明治27 「疱瘡神」     板石型 草加市新栄町 下組稲荷神社   16
   10 平成14 「疱瘡神」     石 祠 草加市新栄町 川戸稲荷    17
   11 安永5 「疱瘡大明神」   雑 型 岩槻市大森 薬師堂・自治会館  19
   12 延享4 「疱瘡神」(注2) 石 祠 岩槻市大野島 普門院・自治会館 20
   13 年不明 「疱神」      石 祠 越谷市小曽川 久伊豆神社    21
   14 文久2 「疱瘡神」     駒 型 越谷市南荻島 薬師堂・自治会館 22
   15 安永5 「疱疹神/瘡疹神」 柱状型 越谷市船渡 香取神社      24
   16 天保X 「疱瘡神」     柱状型 越谷市川柳 稲荷神社      25
   17 天保12 「疱瘡□」     石 祠 越谷市大成町 中村家屋敷神   26
   18 年不明 「疱瘡神」     石 祠 松伏町大川戸 鈴木家屋敷神   27
   19 明和7 「疱瘡神」(注3) 石 祠 蓮田市上天野 小林家屋敷神   28
   20 天明5 伝疱瘡神 (注4) 石 祠 蓮田市駒崎 小川家屋敷神    29
   21 年不明 立て札  (注5) 石 祠 朝霞市膝折 氷川神社      30
     (注1) 墓石の上部に賽の河原で2児が石積みする様子を浮彫りし、その下に「疱□□
         □童女 疱維童子 弥吉 源右エ門」の銘文が刻まれている。
     (注2) 平成の合併により、現在地はさいたま市岩槻区である。
     (注3) 主銘は「疱瘡神 三宝荒神 水神」の併記、古い「延宝三年丙辰正月吉日」銘
         があるから、「明和七庚寅年十一月吉日」は再建銘である。
     (注4) 側面に「天明五乙巳三月吉 小川林藤代建立」の銘だけで、石祠正面は無銘。
     (注5) 石塔は無銘、傍らに「疱瘡守護神社 云々」の立て札が立つ。
 今回の疱瘡神塔をみると岩槻の延享4年塔が最も古く、最新は草加の平成14年塔である。これまで知る範囲では、蓮田の明和7年塔にみられる「延宝4年」まで逆上るものは見当たらない。また記載されている主銘以外の「平成十四年二月吉日 氏子建立」の銘文から判断できないが、御影石の石祠は恐らく古い塔の再建と考えられる。
 疱瘡神塔の形態は石祠型が半数を越える。多くは本塔の上に笠部を置き、正面を彫り窪めて「疱瘡神」の主銘を刻んでいる。中には平成14年塔のように「笠付型」と分類してもよいと考えられる塔を含む。意外に板石型を含む自然石が1基というのも疱瘡神塔の特色であろう。
 写真から判読できないが、草加の宝暦11年塔の上部に「梵字」が刻まれている。「神主田中八右□保□」の銘、「奉建立請願成就祈 3密斎折法印□」から修験系の指導者を感じる。
 中村さんの影響を受けてそれほど積極的ではないが、さらに疱瘡神に関心を持つようになった。昨年10月22日(日曜日)にときがわ町椚平の獅子舞を訪ねた時に、稲荷神社神社の向かって左側に疱瘡神の木祠がある、と地元の方からうかがった。木祠には何の表示もなく、1見して疱瘡神を祭っているとはわからない。
 最近は秩父地方の獅子舞に興味があり、さいたま市浦和区にある埼玉県立浦和図書館で埼玉県の石佛や獅子舞を調べている。図書館だけが目的ではなく、最近行った12月19日(火曜日)の場合も大宮の吉野忠夫さんの似顔絵展に合わせてである。
 獅子舞に関する事項は県や各市町村発行の県市町村史誌、特に民俗編にみられる。例えば『長瀞町史 民俗編・』(長瀞町 平成3年刊)には唐沢の獅子舞が扱われているし、140から142頁にかけて「ホウソウ儀礼」、228頁に「ほうそう流し」が記述されている。しかしこうした民俗編には、これまで行われた風習は記録されているが、疱瘡神祠にはふていない。
 疱瘡の民俗でいわれるのは、疱瘡神を象徴する赤の幣束をサンダワラに乗せる風習である。『埼玉の疱瘡神・』でもB4判の見開きに「赤い色で祀られている疱瘡神たち・」として、赤の注連縄や赤の幣束、塔を赤く塗った事例をカラーで示している。
 前記の『長瀞町史 民俗編・』には、疱瘡棚やサンダワラに立つ赤い幣束、代用の台座の三角台、藁馬と馬上の台座と鞍を「ホウソウ流しの祭具」として図解して141頁に載せている。また「ホウソウ流し」にふれている。
 昨年2月19日(日曜日)の多摩石仏の会で稲城市内を見学した。たまたまその時に、大丸の谷戸川橋際の路傍に馬頭観音と大乗妙典塔が並び、その前に赤の幣束を立てたサンダワラをみた。今時珍しい光景である。全く赤幣の風習がなくなったわけでない。(平成19・1・7記)
『埼玉の疱瘡神・』追記

昨日、中村光夫さんの『埼玉の疱瘡神・』について本文の1頁から31頁についてはふれたが、頁数のない「埼玉の疱瘡神1覧」を見逃していた。この中にも疱瘡神の石塔が載っているのに気付いたので、今日はこれを取り上げることにする。
 この「1覧」には頁数がないから、仮に振ることにする。ただ38頁から32頁へ逆頁で記載されているので、連番にするよりも38頁を「・」から始め、37頁を「・」のように32頁の「・」までローマ数字を使って示す。前日と違い、全ての塔について塔形を判定する写真がないために「調査結果」に示された「石塔」と「石祠」「自然石」とわかる範囲で示す。なお、本文に示された塔(番号上の※印)については塔形を分類する。
 1覧表の中には「神名なし」と記された石塔が含まれているが、それらも全て次のリストに記載する。原文では所在地が例えば現・さいたま市が「浦和市」や「大宮市」のように、合併以前の表示になっている。ここでは所在表記を受け継いでおく。
   順 年号  主銘         塔形  所在地            本文頁 頁
   1 年不明 「□瘡神社」     石 塔 川越市高島 稲荷神社         ・
   2 (注1)「疱瘡社」      石 塔 川越市岸町 熊野神社         ・
   3 年不明 「疱瘡神」      石 塔 川越市富士見町 浅間神社       ・
   4 年不明 (神名なし)(注2) 石 祠 所沢市東所沢 亀谷神社        ・
  ※5 年不明 「疱瘡神」      板石型 志木市下宗岡 下之氷川神社(注3)2 ・
   6 年不明 (神名なし)     石 塔 坂戸市石井 勝呂神社         ・
   7 元治1 「疱瘡神」      石 塔 鶴ヶ島市脚折 白髭神社        ・
   8 年不明 (神名なし)     自然石 日高市野々宮 野々宮神社(注4)   ・
   9 年不明 (神名なし)     石 塔 毛呂山町下川原            ・
   10 寛延3 「疱瘡神」      石 塔 北川辺町柏戸 鷺神社         ・
   11 年不明 「疱瘡神」      石 塔 南河原村江袋 剣神社         ・
   12 年不明 「種痘神社」     石 塔 深谷市上手計 二柱神社        ・
   13 年不明 「疱瘡神社」(注5) 台 石 岡部町沓掛 熊野大神社        ・
   14 年不明 (神名なし)     石 塔 岡部町山崎 天神社          ・
   15 慶応X 「疱瘡神社」     石 塔 3郷市彦倉 子乃神社         ・
   161 年不明 「疱瘡神」      石 塔 庄和町倉常 倉常神社         ・
   17 明和8 「疱瘡神」      石 塔 杉戸町堤根 稲荷神社         ・
   18 年不明 「疱瘡宮」      石 塔 杉戸町大塚 豊明神社         ・
   19 文政3 「大杉大明神」    石 塔 杉戸町北蓮沼 香取神社        ・
  ※20 年不明 「疱瘡神」      柱状型 杉戸町高野台 香取神社      4 ・
  ※21 年不明 「疱瘡神」      柱状型 杉戸町堤根 大日神社       5 ・
  ※22 文政2 「疱瘡神」      石 祠 幸手市西関宿 大六天       7 ・
   23 年不明 (神名なし)     石 塔 吉川市半割 春日神社         ・
   24 年不明 (神名なし)     石 塔 吉川市土場 八幡神社         ・
   25 年不明 (神名なし)     石 塔 吉川市(注6)香取社         ・
   26 天保2 「疱瘡神」      石 塔 吉川市中曾根 稲荷神社        ・
  ※27 大正8 「疱瘡神」      駒 型 吉川市中曾根 島田家屋敷神(注7)8 ・
   28 享和3 「疱瘡神」      石 塔 吉川市川藤 元・恵日院墓地      ・
   29 宝暦X 「疱瘡神」      石 塔 吉川市拾壱軒 拾壱軒無量寺      ・
   30 嘉永5 「疱瘡守護神」    石 塔 吉川市深井新田 六所神社       ・
   31 天明8 「疱瘡神」      石 塔 吉川市吉屋 香取神社         ・
   32 嘉永3 「疱瘡神」      石 塔 吉見町地頭方 天神社         ・
  ※33 文化3 「疱瘡神」      石 祠 川口市西立野 2宮神社      11 ・
   34 寛政11 (神名なし)     石 塔 川口市赤井 氷川神社         ・
   35 年不明 (神名なし)     石 塔 川口市領家 神明社          ・
  ※36 文政10 「疱瘡神」      石 祠 川口市藤兵衛新田 稲荷神社    10 ・
   37 文化10 (神名なし)     石 塔 川口市長蔵 稲荷神社         ・
   38 文政9 「疱瘡神」      石 塔 浦和市栄和 東神社          ・
   39 寛政1 「疱瘡神」      石 塔 浦和市大間木 氷川神社        ・
   40 天明3 「疱瘡神」      石 塔 大宮市櫛引町 櫛引氷川神社      ・
   41 寛延2 「疱瘡社」      石 塔 大宮市天沼 天沼神社         ・
   42 慶応X 「疱瘡神」      石 塔 大宮市中釘 秋葉神社         ・
   43 寛延2 「疱瘡神」      石 塔 大宮市3橋 橋崎天神社        ・
   44 寛政1 「宗像大神」     石 塔 大宮市大和田町 老人ホーム      ・
   45 年不明 「疫神社」      石 塔 上尾市平方 八枝神社         ・
   46 年不明 「疫神社」      石 塔 上尾市平方 八枝神社         ・
  ※47 宝暦11 「疱瘡守護神」(注8)石 祠 草加市清門町 稲荷神社      15 ・
  ※48 明治27 「疱瘡神」      板石型 草加市新栄町 下組稲荷神社    16 ・
  ※49 平成14 「疱瘡神」      石 祠 草加市新栄町 川戸稲荷      17 ・
   50 年不明 (神名なし)     石 祠 新座市野寺 武野神社         ・
   51 年不明 (神名なし)     石 祠 本庄市傍示堂 稲荷神社        ・
   52 年不明 (神名なし)     石 祠 本庄市栄 金鑽神社          ・
   53 年不明 (神名なし)     石 祠 本庄市4方田 金佐奈神社       ・
   54 年不明 「疱瘡神社」     石 祠 本庄市宮戸 八幡大神社        ・
   55 年不明 「疱瘡神様」     石 塔 上里町長浜 皇大神社         ・
   56 年不明 (神名なし)     石 塔 美里町北十条             ・
   57 年不明 (神名なし)     石 塔 神川町小浜 小松神社         ・
   58 年不明 (神名なし)     石 塔 神川町4軒在家 日枝神社       ・
   59 年不明 (神名なし)     石 塔 神川町中新里 御霊明神社       ・
   60 享保X 「奉納疱瘡神1宇」  石 塔 岩槻市小溝 大六天神社        ・
  ※61 安永5 「疱瘡大明神」(注9)雑 型 岩槻市大森 薬師堂・自治会館   19 ・
  ※62 延享4 「疱瘡神」(注10)  石 祠 岩槻市大野島 普門院・自治会館  20 ・
   63 年不明 「疱瘡神宮」     石 塔 春日部市中野 稲荷神社        ・
   64 文政10 「疱瘡神」      石 塔 春日部市上大増新田 香取神社     ・
   66 天明2 「疱瘡神」      石 塔 春日部市下大増新田 香取神社     ・
   66 元文5 「疱瘡神」      石 塔 春日部市新川 香取神社        ・
   67 元文1 「疱瘡神宮」     石 塔 春日部市銚子口 香取神社       ・
   68 安政2 「痘神」       石 碑 春日部市粕壁 明神社         ・
   69 宝暦6 「石疱大明神」    石 塔 春日部市藤塚 香取神社        ・
   70 寛延2 「疱瘡神」      石 塔 春日部市小渕 鷲神社         ・
   71 年不明 「疱□□」      石 塔 春日部市不動院野 下谷神社      ・
   72 天明8 「疱瘡神」      石 塔 春日部市不動院野 香取神社      ・
   73 年不明 「疱瘡神」      石 塔 春日部市一ノ割 香取神社       ・
   74 享和1 「石疱大明神」    石 塔 春日部市内牧 内牧鷲香取神社     ・
   77 弘化4 「疱瘡□」      石 塔 越谷市東町 伊南理神社        ・
  ※77 年不明 「疱神」       石 祠 越谷市小曽川 久伊豆神社     21 ・
  ※77 年不明 「疱瘡神」(注11)  駒 型 越谷市南萩島 薬師堂・自治会館  22 ・
  ※78 安永5 「疱疹神 痘疹神」  柱状型 越谷市船渡 香取神社(注12)   24 ・
  ※79 天保X 「疱瘡神」      柱状型 越谷市川柳 稲荷神社       25 ・
  ※80 天保12 「疱瘡神」(注13)  石 祠 越谷市大成町 中村家屋敷神    26 ・
  ※81 □治X 「疱瘡神」      石 祠 松伏町大川戸 鈴木家屋敷神    27 ・
  ※82 明和7 「疱瘡神」(注14)  石 祠 蓮田市上平野 小林家屋敷神    28 ・
  ※83 天明5 伝・疱瘡神(注15)  石 祠 蓮田市駒崎 小川家屋敷神     29 ・
   84 年不明 「疱瘡神」      石 塔 白岡町篠津 久伊豆神社        ・
   88 年不明 「奉修疱瘡神宮」   石 塔 白岡町寺塚 鷲神社          ・
   88 年不明 「疱瘡神宮」     石 塔 宮代町宮東 松ノ木集会所       ・
   88 年不明 「南無疱瘡神宮」   石 塔 宮代町宮東 成田家門右側       ・
  ※89 年不明 (注16)       石 祠 朝霞市膝折 氷川神社       39 ・
    (注1) 調査結果の項に「(昭和46年改修)」とある。
     (注2) 調査結果の項に「石原昴氏調査済み(石祠3基・神名無し)」とあり、以下、
          神名の無い石塔も記載する。
     (注3) 『埼玉の疱瘡神・』記載の石塔、この種の石塔は番号の上に「※」を付す。※
          印のローマ数字は『埼玉の疱瘡神・』の記載頁を示す。
     (注4) 調査結果の項に「自然石塔(神名なし)の前に赤い幣束」。
     (注5) 調査結果の項に「社殿裏の石祠台座に「疱瘡神社」の銘」
     (注6) 所在地の表示が「吉川町吉川市」となっている。
     (注7) 本文8頁の所在地は「中曾根」ではなく、「川藤」である。
     (注8) 調査結果の項に「石塔に『梵字 疱瘡守護神・・・』銘」。年号は本文15頁に
          よる。
     (注9) 年号は・頁に記載がないが、本文19頁の通り。
    (注10) 年号は・頁に記載がないが、本文20頁による。
     (注11) 年号は・頁に記載がないが、本文22頁に示す通り。
     (注12) 年号は・頁に記載がないが、本文24頁で補正する。
     (注13) 年号は・頁に記載がないが、本文26頁による。
     (注14) 年号は・頁に記載がないが、本文28頁に示す通り。
    (注15) 年号は・頁に記載がないが、本文29頁で修正。(注16) 調査結果の項に「小石塔の立て札に『疱瘡守護神社』」。
 いずれにしても、東京都に比べて石塔の造立が多いのに気付かされる。
 上記の疱瘡神塔をリストの中で最も古いものは、さいたま市岩槻市小溝・大六天神社にある「奉納疱瘡神1宇」と刻む石塔で、享保年間の造立である。次いで元文元年の春日部市銚子口・香取神社の「疱瘡神宮」、同5年の同市新川・香取神社の「疱瘡神」、延享4年のさいたま市岩槻区大野島・普門院・自治会館にある疱瘡神」石祠である。寛延年間には4基が造立されている。
 1方、最も新しい疱瘡神塔は平成14年の草加市新栄町・川戸稲荷にある「疱瘡神」石祠である。その前は吉川市川藤・島田家の屋敷神である大正8年の「疱瘡神」駒型塔、草加市新栄町・下組稲荷神社の明治27年板石型「疱瘡神」塔である。
 造立年代が不明な石塔が多いが、種痘が普及する以前の多くは江戸末期の造立と考えられる。疱瘡神塔の造立に関する古文書や日記が残っていると、さらに興味が沸いてくる。

 一覧表のリストを書き上げてから、しばらして何気なく手許にある『志木市史 民俗資料編・ 石造遺物』(志木市 昭和56年刊)を取り上げた。別に期待したわけではないが、目次をみると「その他の石仏と石神」の中に「疱瘡神」と443頁の頁数が載っている。
 早速、その頁を開けると「疱瘡神」の項目があり、次の文章がみられる。
    現在は種痘が施行され、疱瘡はすっかり姿を消してしまったが、かつては厄病中の中でも最
   もおそろしい病気として恐れられていた。疱瘡が流行しそうなると他所者を村に入れなかった
   り、長さ30センチ余りもの巨大な草鞋を吊るしたりし、赤御幣を供えるなど、様々な民俗が
   残っている。
    下氷川神社にある疱瘡神(十一−34)が建立された年は不明であるが、疱瘡の流行した年か
   翌年の建立かもしれない。石原某も自分の子供を疱瘡で失ったのだろうか。
    疱瘡で亡くなったと思われる子供の墓石が千手堂墓地にも残されている。田中源左右門の子
   の弥吉は嘉永5年・4歳で死んでいる。法名は疱維童子。賽の河原の石を積んでいるらしい浮
   彫りのついた墓石である。
 文中にある「疱瘡神(十一−34)」は、292頁に写真とデータが載る疱瘡神を示している。記載のデータは次の通りである。
   所在地 下宗岡4丁目7 氷川神社
   正 面 疱瘡神
   裏 面 阿免多茂津むつの春弥生建立/石原彌惣兵衛
 引用文でふれた千手堂墓地の墓石は、凡例に「石造遺物のうち、原則として墓石及び記念碑は除いた」の通り、残念ながら写真掲載やデータ記載はない。
 意外な本に意外なデータが載っている。石佛関係の文献を探せば、まだまだ出てきそうな気がするが、庚申塔のように像容を伴う石佛と異なり、多くが「疱瘡神」の文字塔だから注目する石佛研究者も少ない。これからは、一層「疱瘡神」について石佛や文献に注意していきたい。
                                   (平成19・1・8記)
あとがき
     
      昨年暮れに次々と書いた「弁天の分類再考」「鐘番塔の連鎖」「珍しい石仏120」の
     3編がキッカケとなり、歳が明けてから書き続けようと考え、2日から思いついたテーマ
     で記すようになった。
      このような体験は、庚申懇話会発行の『庚申』第43号(昭和41年刊)に「庚申雑記帳
     (1)」、次号に「庚申雑記帳(2)」(同年刊)を発表したのが始まりである。それが
     発展的に受け継がれ、ともしび会から発行された『ともしび』に掲載された「新庚申雑記
     帳(1)」「同(2)」(第7号・9号 共に昭和42年刊)につながった。
      その後、毎日1題で庚申関係について書こうと、昭和42年12月1日から始めて6か
     月続けたのが「庚申日録」である。その内の12月分(『ともしび』第10号)・1月分
     (同誌第12号)・2月分(同誌第14号 いずれも昭和43年刊)の3か月分が3号にわ
     たって分載されたわけである。
      毎日は「庚申日録」のように書いていられないので、書ける日に書く方式に戻ったのが
     「庚申つれづれ」で『ともしび』第18号(昭和44年刊)と第19号(昭和46年刊)に発
     表した験済がある。
      大分「庚申つれづれ」から間があいたが、以前のように「庚申」に限らず、対象を広く
     石佛一般に範囲を拡大した。本書を「1」として今後どの程度続くか不明であるが、間隔
     が長くなっても続けていきたいと考えている。適当な分量(50〜60頁)がまとまり次
     第、順次発行していく積もりである。
     
                            ─────────────────
                             石佛雑記ノート1        
                               発行日 平成19年1月15日
                               TXT   平成19年9月14日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 多摩野佛研究会
                            ─────────────────
 
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