石川博司著      石佛雑記ノート 14         発行 多摩野佛研究会     
〔内 容〕    笹川さん撮影の写真   ◎石田さんからのハガキ
         ◎
林国蔵さんを悼む    ◎『石仏散歩 悠真』32・33   ◎浄慶寺の石佛      
         ◎
多摩石仏の会写真展1  ◎多摩石仏の会写真展2  ◎多摩石仏の会写真展3

         
あとがき
笹川さん撮影の写真

 平成19年9月7日(金曜日)、足立の笹川義明さんからお手紙を受け取った。中には、お手紙に添えて下田八幡神社祭礼のなど資料と共に例によって石佛写真が多数同封されている。笹川さんの行動は、例えば8月の場合、11日(土曜日)は相模原市津久井・鳥屋の獅子舞、16日(木曜日)は横瀬町芦ケ久保の獅子舞と柏市篠籠田の獅子舞、19日(日曜日)は稲城市矢野口・穴沢天神社の獅子舞、25日(土曜日)は新座市大和田・氷川神社の獅子舞とさいたま市深作・氷川神社の獅子舞(夜の部)、26日は相模原市下九沢・御嶽神社の獅子舞と新座市中野の獅子舞(夜の部)、28日(火曜日)は富士見市鶴馬・諏訪神社の獅子舞と各地を廻っている。
 今回、送っていただいた石佛写真は、次の通りである。
   番 図 写真          所在地
   1−1 地蔵立像と馬頭観音立像 埼玉県東松山市神戸・妙昌寺前
   1−2 青面金剛立像      埼玉県東松山市神戸・妙昌寺前
   1−3 石佛群         埼玉県東松山市神戸・妙昌寺前
 1−1は、光背型塔に浮彫りされた地蔵と柱状型塔に浮彫りされた馬頭観音である。
 1−2は、板駒型塔に浮彫りされた元文の合掌6手青面金剛立像。
 1−3は、六地蔵単制石幢と板石型碑文に1と2が加わった石佛群を写す。
   2   十一面千手観音立像   埼玉県東松山市上唐子・白山神社脇
 2は、頂部が欠けている光背型塔に十一面千手観音立像を陽刻する。
   3   一石六地蔵       千葉県鴨川市大幡・六地蔵バス停横
 3は、笠付型塔の正面に3体ずつ2段に六地蔵を配す。
   4−1 地蔵菩薩        千葉県鴨川市山王 山王神社横
   4−2 一石六地蔵       千葉県鴨川市山王
 4−1は、「信士」銘がみられるから墓塔、地蔵の下に5輪塔・鬼・童子の陽刻がある珍しもの。 4−2は、板駒型塔の頂部に「カ」の種子、下に2体ずつ3段に地蔵立像を配す。ハッキリしないが上段の地蔵2体の間に「元禄十丁丑」銘が読み取れる。
   5−1 馬頭観音坐像      千葉県鴨川市 神蔵寺墓地入口
   5−2 馬頭観音坐像      千葉県鴨川市 神蔵寺墓地入口
 5−1は、光背型塔に3面6手の馬頭観音坐像を浮彫りする。
 5−2は、1同様に光背型塔に3面6手の馬頭観音坐像を浮彫りする。
   6   馬頭観音立像      千葉県鴨川市 観音寺入口
 6は、5と違って光背型塔に1面6手の馬頭観音立像を陽刻する。
   7−1 庚申塔         神奈川県相模原市津久井
   7−2 青面金剛        神奈川県相模原市津久井・鳥屋・渡戸路傍
   7−3 定印弥陀庚申      神奈川県相模原市津久井
   7−4 地蔵庚申        神奈川県相模原市津久井・鳥屋路傍
 7−1は、光背型塔に主尊が破損していて不明の立像、下に正向型3猿を陽刻する。
 7−2は上部に日月、中央に上方手に矛と宝輪、下方手に索と蛇を執る合掌6手の青面金剛立像、下部に正向型3猿を浮彫りする笠付型塔である。「ウーン 奉造立庚申供養為2世安念所 同行□□□ 村中」の銘がみられる宝永3年塔。
 7−3は、定印を結ぶ阿弥陀如来立像を主尊とする庚申塔、下部の枠内に正向型3猿を陽刻する。 7−4は、地蔵と思われる首なしの丸彫り立像が主尊、下の枠内に正向型3猿を浮彫りする。背面に「奉修造庚申供養 願主荒井吉兵衛 同行九人」銘文が刻まれている。元禄7年1月22日の造立。平成9年8月2日(土曜日)に鳥屋の獅子舞の日取りを間違えて、石佛巡りに変更した時に2と共にみている。
   8−1 青面金剛3基      千葉県柏市篠籠田・西光院
   8−2 馬頭観音坐像      千葉県柏市篠籠田・西光院
   8−3 不動明王3尊      千葉県柏市篠籠田・西光院
 8−1は、横1列に並ぶ3猿付きの合掌6手青面金剛3基を撮っている。
  8−2は、板駒型塔の上部に浮彫りされた3面6手馬頭観音坐像のアップ写真である。像の下に「奉」の一字がみられる。
  8−3は、上に迦楼羅鶏がある不動明王が岩座に坐る像、下に矜羯羅童子立像と制〓迦童子坐像の2童子を配す不動3尊を浮彫りする。
   9   青面金剛        千葉県柏市
 9は、上方手に矛と円盤、下方手が徒手の合掌6手青面金剛を主尊とし、上に日月、下に1鬼と内向型3猿を置く板駒型塔である。
   10   六地蔵立像       千葉県8千代市勝田 円副寺
 10は、横1列に並ぶ光背型6基に浮彫りされた地蔵立像を写す。
   11   青面金剛        千葉県八千代市勝田 公民館隣
 11は、笠付型塔の正面に日月・剣人6手青面金剛・2鶏・2猿を浮彫りし、両側面に童子陽刻像を配す。右側面に「延享二丁丑年十二月吉祥日」を記す。多田治昭さんの『関東地方の童子・夜叉付青面金剛塔(追加)』(私家版 平成16年刊)によると、所在地は勝田台5−2、右側面に「奉供養庚申一塔」の銘が刻まれている。塔の真正面から撮れないとみえて、笹川さんにしろ多田さんにしろ斜め横から写している。
   12−1 六地蔵立像       福島県南会津町田島 徳昌寺
   12−2 「家畜精霊」碑     福島県南会津町田島 徳昌寺
 12−1は、丸彫りの地蔵立像が6体横1列に並ぶ。
 12−2は、表面に行書で「家畜精霊」と記す板石型塔である。
   13−1 六地蔵立像       神奈川県真鶴町 龍門寺
   13−2 2層宝塔        神奈川県真鶴町 龍門寺
 13−1は、隅丸の柱状型塔6基のそれぞれに地蔵立像を陽刻する六地蔵である。
 13−2は、2層目に高欄を持つ2層の宝塔である。
   14−1 石佛群         千葉県銚子市 バス停陣屋前
   14−2 青面金剛        千葉県銚子市 バス停陣屋前
   14−3 青面金剛        千葉県銚子市 バス停陣屋前
   14−4 青面金剛        千葉県銚子市 バス停陣屋前
   14−5 青面金剛        千葉県銚子市 バス停陣屋前
 14−1は前列に如意輪観音3基と青面金剛1基、後列に青面金剛3基が並ぶ石佛群を撮っている。 14−2は、前列にある日月・剣人6手青面金剛・1鬼・2鶏・3猿を浮彫りする板駒型塔である。 14−3は、後列の右端にある日月・合掌6手青面金剛・1鬼・内向型3猿を陽刻する板駒型塔である。台石正面にも正向型3猿の浮彫り像がみられる。
 14−4は、後列の中央にある1段と高い板駒型塔である。日月・青面金剛・2鶏・正向型3猿を陽刻し、青面金剛の右に「奉造立庚申爲二世安禾」、左に「宝永八辛卯二月吉日」、下部に12人の施主銘を刻む。
 14−5は、後列の左端にある日月・合掌6手青面金剛・2童子・4薬叉・4薬叉を陽刻する板駒型塔である。4薬叉が2段にみられる珍しい塔である。
 多田治昭さんの『千葉県の童子・夜叉付青面金剛塔』(私家版 平成14年刊)と『関東地方の童子・夜叉付青面金剛塔(追加)』(私家版 平成16年刊)によると、銚子市内には次の4基の童子・夜叉付塔がみられる。
   1 明和2 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿・2童子  長塚町 庚申前バス停付近
   2 天明2 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子・4薬叉 栄町 威徳寺
   3 年不明 光背型 青面金剛・1鬼・2童子・4薬叉    本町 庚申神社
   4 年不明 光背型 青面金剛・3猿・2童子        春日町 観行院(堂内)
 多田さんはデータからみて14−5をみていないようである。
   15−1 石灯籠         静岡県下田市 八幡神社入口
   15−2 石灯籠         静岡県下田市 八幡神社入口
 15−1と2は、正面に「献燈」の2文字を刻む蕨手のある石灯籠1対である。
   16   石佛群         東京都足立区梅田 真福寺墓地
 16は笹川さんの地元の石佛、五輪塔2基と1基を浮彫りする墓碑の間に地蔵立像があり、それらの奥に笠付型塔や如意輪観音の光背型塔がみえる。
 写真を通して、11や14−4の2童子や4薬叉付きの青面金剛立像がみられるのは楽しい。(平成19・10・2記)
石田さんからのハガキ

 平成19年9月13日(木曜日)、安曇野市豊科町にお住まいの石田益雄さんからいただいたおハガキを受け取る。ハガキの裏面は、上部に「蠶玉大神」とあり、下の円内に雲上に立ち、両手で桑の枝を持つ女神が浮彫りされたが像を撮った写真である。先に『穂高道祖神巡り』(多摩野佛研究会 平成19年刊)をお送りした礼状である。
 書中で「年銘は刻まれていないが、道祖神めぐりの「穂高町の道祖神一覧」によると、昭和53年と記されている」と記したことから、ハガキの文中に「『水色の時』道祖神は年銘・解説が台石に記述されています」と指摘さている。幸いにも『穂高町の石造文化財』(穂高町教育委員会 平成8年刊)の「解読・資料編」と「写真編」の2冊が手許にある。
 早速、「解読・資料編」を調べると、110頁に等々力・道祖神公園にある双体道祖神2基(55と56)が記載されている。その2基の前に年不明の「道祖神」の文字塔(54)が載っているが、これを見逃していたのがわかる。これら3基の写真は、「写真編」の32頁に載っている。
 「解読・資料編」110頁の「地図番号」が55の双体道祖神は、「碑文(補遺1)」とあるので、該当する115頁を参照すると、次のように記されている。
   1 道祖神 (55)   「水色の時」道祖神
   昭和五十年(1975)NHK放映のテレビドラマ「水色の時」に登場し全国の視聴者の心を魅了した道祖神である。彫刻者須藤賢
   氏の厚志を受け、ドラマの舞台となった松本市の西北、詩情豊にして日本人の心のふるさとを思わせる安曇野の、アルプスを背にし
   たれんげ花咲く穂高の里にこの像を安置し、諸願成就を念じた素朴なたたずまいを後世に伝えんとするものである。
            昭和五十四年五月吉辰        寄贈 信濃金石拓本研究会 穂高町拓友会
 この「水色の時」道祖神の指摘を契機に、『穂高町の石造文化財』をみると、いろいろなことがわかる。例えば、等々力のデータには、前記の道祖神公園3基の前に大王わさび農園にある双体道祖神9基が示されている(「解読・資料編」110頁)。「写真編」にもその写真が、25・26・27・29頁の4頁に載っている。いずれの双体道祖神には造塔年代が記されていないが、両書に記載されているいることから、少なくとも平成8年の刊行年以前に造塔されたことは明らかである。これも1つわかった点である。
 穂高町の双体道祖神をみると、8月28日(火曜日)に廻った駅前2基、田舎家1基が載り、昭和54年にみた田舎家の童子童女の1基を見逃していたことがわかる。また、「写真編」52頁の地図と「解読・資料編」130頁のデータから推測すると、現在の松本信金前にある石佛群は、裏通りの朝倉宅東にあったものを平成8年以降に移したと考えられる。
 探し方が悪いのか、穂高神社の入口でみた寛政7年「庚申」塔と年不明の「道祖神」塔(共に自然石)は、「写真編」にも「解読・資料編」にも見当たらない。両書に記載がないといえば、穂高神社境内にある町内の田川氏が寄贈した「餅搗き道祖神」と旧役場(現・穂高支所)前にある双体道祖神がある。旧役場のは、台石の下部に横書きで「穂高町役場」の銘を刻む黒御影石がはめ込まれているから、恐らく安曇野市へ合併以前に造立されたもので、刊行の平成8年以後の造立と推測できる。
 ついでながら、松本信金前にある庚申塔2基を「解読・資料編」130頁のデータでチェックすると、私は(35)の文字庚申塔を「明治廾八乙未/六月廾九日」と判読したが、写真で確認したところデータでにある「明和八 三月十九日」が正しい。私が「年不明」とした「青面金剛」(36)は、年銘が「明和八 卯三月」と記載されている。当日撮った写真は鮮明ではないが、よくみいると主銘の左に「維時明和八辛卯歳/九月庚申日」と読める。因みに「九月庚申日」は23日である。
 日本石仏協会発行の『日本の石仏』「道祖神再考」特集第103号(平成14年刊)に「双体道祖神今昔」を投稿、その中の47頁で烏川橋の親柱代わりに4か所で使われた自然石の双体道祖神にふれた。バスの車窓からみただけので造塔年代がわからなかったが、「写真編」の写真説明(432・433頁)に「道祖神 昭和62年」とあり、「解読・資料編」258頁に「昭和六十二年八月」の年銘が記載されいる。
 親柱といえば、等々力大橋の4か所にも双体道祖神がある。『穂高道祖神巡り』の中で「橋の竣工が平成6年だから、他の3体共にその頃に作られたと像と推測される」と書いた。『穂高町の石造文化財』3頁の「はじめに」には、「平成五年四月、ほぼ調査を完了し」とあるから、当時の調査対照から外れいるので記載がみられない。
 石田さんのオハガキに「にわかに合点の行かない所もあります」は、道祖神公園の双体像や松本信金前の文字庚申の年銘の誤記を指しているものと思われる。改めて『穂高町の石造文化財』と対照して誤りが発見できた。他にもまだ合点が行かない間違いがあるかもしれないが、幾分でも正すことができてよかったと思う。
 このように、穂高地区でみた双体道祖神を中心に、今回廻った石佛を1基1基『穂高町の石造文化財』と対照してチェックすると、まだまだいろいろな事柄が明らかになるし、さらに全体的に分析するとよいかもしれない。
 石田さんのおハガキから予想もしなかった方向に進み、思わぬ結果が得られた。現在、立川のたましん地域文化財団ギャラリーで多摩石仏の会の写真展が開催されている。国立の関口渉さんが出品されたカラー写真の中には、矢原や穂高の双体道祖神、矢原の3面大黒天、等々力町や穂高2基の青面金剛、本郷上手村の石佛群など安曇野市穂高地区に散在する石佛が中心にし、他に豊科地区の双体道祖神が加わり、さらに高山の青面金剛、奈良と兵庫の地蔵2点が展示されている。これらは12点の写真は、いずれも彩色された石佛を写している。
 関口さんのカラー写真をみていると、また穂高を訪ねたくなる。次回は手許にあるデータを基にして、庚申塔を中心にした詳細なプランを立て石佛巡りを行いたい。無論、特色がある彩色双体道祖神は見逃せない。(平成19・10・2記)
林国蔵さんを悼む

 平成19年9月22日(土曜日)は、林国蔵さんのご子息・正雄さんから「父・国蔵儀、天寿を全うし、八月十日九十六歳で死去しました」の書き出しのおハガキをいただいた。今年も手書きの年賀状を受け取ったので、お元気でお過ごしのことと思っていた。おハガキによると、初夏頃から体調を崩されたそうで、今年の酷暑がお体に影響をあたえたのかも知れない。
 林さんには、町田やその周辺の石佛や博物館の展示情報をお知られいただき、大変、お世話になった。林さんとの出会いのきっかけは、多摩石仏の会である。林さんが多摩石仏の会にいつ入会されたのかは不明であるが、手許にある昭和61年以降の記録によると明らかになる。例えば、『私の石仏巡り 昭和編』(ともしび会 平成7年刊)で昭和61年から同63年までに間に林さんとご一緒に廻ったの次の通りである。
   種 年月日         題名      集合場所
   ○ 昭和61年1月12日(日) 「横山行」   国電高尾駅改札口前
   ○ 昭和61年2月9日(日) 「2宮行」   東海道線二宮駅改札口前集合
   ◎ 昭和61年3月16日(日) 「町田行」   小田急線鶴川駅改札口前
   ○ 昭和61年4月13日(日) 「関宿行」   東武線春日部駅東口改札口前
   ○ 昭和61年6月15日(日) 「杉戸行」   東武動物園駅改札口
   ○ 昭和61年11月17日(日) 「続練馬行」  西武新宿線武蔵関駅改札口前
   ○ 昭和62年5510日(日) 「荒川・台東行」JR線西日暮里駅改札口前
   ○ 昭和63年7月10日(日) 「新宿行」   西武新宿線下落合駅改札口前
 この中の昭和61年3月例会では、初めて林さんが見学会の案内役となった。ところが資料に「案内役の林さんは、親戚の急な葬式で出られらなかったけれども、今日のコースの案内図は届いていた」と記されているように、欠席された。この日の記録には「今日の目玉である庚申石祠は、椙山神社の境内にある。すでに林さんから報告を受け、写真も戴いている。以前の調査で見逃していたものである」とも書かれている。
 同年6月例会の項には、「遅刻だったが、案内の中山正義さんを始めとして、林国蔵さん・鈴木俊夫さん・山村さん・犬飼康祐さんが待っていてくれた」と記録されている。次の11月例会で「林さんからは、今月十日に神奈川県寒川町一之宮で撮られた寛文四年板碑型塔の写真を頂く。上部に日月を陰刻し、下部に竜前院型の三猿を陽刻する」と庚申塔の写真を受け取っている。
 平成元年は、ご一緒に多摩石仏の会の例会に参加したのは、次の3回である。
   ○ 平成1年1月15日(日) 「豊島の石仏」 JR山手線巣鴨駅改札口前
   ○ 平成1年6月16日(日) 「府中の石仏」 JR南武線府中本町駅改札口前
   ◎ 平成元年7月9日(日) 「緑区の石仏」 JR横浜線中山改札口前
 『私の石仏巡り 平成編』(ともしび会 平成7年刊)の記述の中で、特に印象に残っているのは林さんが案内された次の平成元年7月例会である。この時は雨に祟られたが、見学会が十日市場駅前で解散した後で、雨もあがって日差しがあるので、林さんのご案内で犬飼さんと多田さんと共に十日市場町にある地蔵庚申2基や観音庚申1基を歩いた記憶が残っている。
 翌2年の場合は、ご1緒に多摩石仏の会の例会に参加したのは、前年よりも多く次の7回である。
   ○ 平成2年1月14日(日) 「杉並の石仏」 JR中央線西荻窪駅改札口前
   ○ 平成2年3月11日(日) 「世田谷の石仏」小田急線千歳船橋駅改札口前
   ○ 平成2年4月22日(日) 「厚木の石仏」 小田急線本厚木駅改札口前
   ○ 平成2年6月10日(日) 「世田谷の石仏」小田急線世田谷代田駅改札口前
   ◎ 平成2年7月8日(日) 「相模原の石仏」JR相模線橋本駅改札口
   ○ 平成2年11月23日(日) 「上野原の石仏」JR中央線4方津駅
 平成2年の7月例会の場合は、「相模原の石仏」に次のような記述がみられる。
 平成二年七月八日(日曜日)は、多摩石仏の会七月例会である。林国蔵さんの案内で神奈川県相模原市の田名地区を廻る。JR相模線橋本駅改札口に午前九時二〇分集合。集まったのは、鈴木俊夫・山村弥五郎・明石延男・犬飼康祐・福島茂・遠藤塩子の各氏、林さんから「神奈川県相模原市田名の石仏探訪」のパンフレットが配られる。九時三五分発の茅ヶ崎行きのディゼル・カーに乗り、上溝駅で下車する。(中略)
 田名五〇五五番地の半在家山王神社の境内には、珍しい石仏がみられる。左手にに宝珠、右手に剣を執る坐像で、林さんの持参された『仏像図彙』弁天十六童子のコピーにある生命童子と同じ持物である。(中略)
 解散後、林さんの案内で鈴木さんと犬飼さんと共に上溝の石仏を廻る。(中略)これ(上溝二五七八番地の庚申塔)を最後に上溝駅に向かう。
 平成3年は次の例会4回に参加し、行動を共にしている。1月例会の「練馬の石仏」、3月例会の「青梅石仏散歩」、5月例会の「多摩の石仏」、11月例会の「檜原北谷を歩く」である。
 残念ながら4月14日は、林さんのご案内で町田市南部の石佛巡りを行っているが、私は不参加なのでこの日の行動は不明である。この日の記録は幸運なことに、犬飼康祐さんの『私の「あしあと」4』(私家版 平成9年刊)の「町田市南部の石仏探訪」に記載されている。
 林さんとは、もっぱら多摩石仏の会を通じて石佛を巡ったが、唯一の例外は、次に示す庚申懇話会の6月例会である。
   △ 平成3年6月23日(日) 「最古の庚申板碑」JR武蔵野線東川口駅前
 この日の記録をみると、次の「すでに案内の芦田さんや多摩石仏の会で顔を合わせている鈴木俊夫さんや林国蔵さん来ている」の記述がみられる。現存最古の川口市領家・実相寺(日連宗)にある文明3年(1471)銘庚申板碑を見学できるというので、特に庚申懇話会に参加された。
 平成4年3月8日は、林さんのご案内で町田市東部の石佛巡りを行った。残念にも私は不参加でこの日の行動は不明であるが、幸いにもこの日の記録は、犬飼康祐さんの『私の「あしあと」5』(私家版 平成9年刊)の「町田市南部の石仏探訪」に記載されている。
 この4年は、林さんが前記の3月例会の他に4月例会・8月例会・11月例会・12月例会に参加されたのに対し、私が参加したのは1月例会・6月例会・7月例会で、すれ違いで顔を合わせる機会がなかった。
 林さんは高齢にも関わらず、例会ではお元気に参加されていたが
   ○ 平成5年3月14日(日) 「福生の石仏」 JR青梅線福生駅改札口前この時には「奥多摩街道を東にすすみ、途中のバス停で林さんと別れる」とあるように、途中でリタイアされている。私の記録では、初の中途リタイアである。
 その後は、リタイアの記録もなく、林さんのご案内で次の例会を行った。
   ◎ 平成6年10月16日(日) 「町田を歩く」 京王線高尾駅改札口前
 この日は、高尾駅前のバス停から館が丘団地行バスで終点まで行き、恋地にある宝暦3年の五智如来石幢が最初の見学である。以下、蔵王社、法政大学のグランド門の近くの馬頭観音、大戸観音堂などを経て、一時相模原市に入り、再び町田市相原町に戻って相原駅に至るコースを廻った。
 平成7年2月19日(日)は、庚申懇話会と多摩石仏の会の2月例会が重なった。というものの、どちらの例会も町田市内の石仏を巡り、午後は町田市立博物館で窪徳忠・東大名誉教授の講演「庚申信仰の話」を聞くことになっていたから、どちらを選んでも午後には博物館で会えることになっている。午前中は庚申懇話会に参加し、午後の講演の後は多摩石仏の会に同行する。この日のご案内は林さんで、本町田の養運寺や稲荷坂の藤木稲荷を訪ねた。
 さすが平成7年になると、中途リタイアが増えてくる。4月例会の「稲城を歩く」では、「京王稲城駅の近くで林国蔵さんと別れ」、翌5月例会の「村山・瑞穂を歩くでは、「ここ(本町4ー1の青梅街道沿い)で、林・山村・福島の3氏とわかれる」、10月例会の「八潮を歩く」では、「ここ(大瀬・観音堂)で亀有行きのバスに乗る山村さんと林さんに別れる」、12月例会の「鎌倉を歩く」では、「ここ(雪の下3丁目の交差点角)で山村さんと林さんと別れる」という具合である。
 翌8年の場合は体調がようせいか、ご1緒した4月例会の「野田を歩く」、5月例会の「川崎を歩く」、10月例会の「小宮を歩く」は途中で抜けることがなかった。ただ私が案内した11月例会の「青梅・飯能を歩く」では、「ここで(成木1丁目の軍荼利堂)先に帰る林さん・明石さん・川端さんの3人と別れる」ことがあった。
 9年の新年会は、国立のたましん歴史・美術館5階会議室で開催された。この時の記録には
    雑談の途中に、林さんの『会津田島の野仏』が回覧される。福島県南会津郡田島町教育委員会が昭和八十一年に「田島町文化財調
   査報告書第2集」として発行したものである。明治三十二年の「土公神」自然石塔が興味をひいた他に、この町では三日月供養塔が
   六基みられ、文化七年の月天供養塔(自然石)がある。林さんからはもう一冊、神奈川県足柄上郡山北町地方史研究会発行野『足柄
   乃文化』第16号を見せていただく。これには庚申塔が載っている。と記されている。
 この9年は、3月例会の「恩方を歩く」、5月例会の「由木を歩く」、6月例会、8月例会の「横山を歩く」、9月例会の「浦和を歩く」、11月例会の「加住を歩く」は最後まで歩かれている。年末の12月例会の「柚木を歩く」は、「先に帰る遠藤さんや林さん、矢島さんと(上柚木・神明社入口で)別れ」
 翌10年の新年会も、前年と同じ国立のたましん歴史・美術館5階会議室で開かれた。「大雪の後、朝から雨模様の天候のせいか、例会常連の明石延男さん・川端信一さん・鈴木俊夫さん・林国蔵さんのお顔が見えないのが残念である」
 2月例会の「調布を歩く」、4月例会の「浦和を歩く」 7月例会の「世田谷を歩く」、9月例会の、「高尾を歩く」、12月例会の「所沢を歩く」は最後まで歩かれている。私が案内した11月例会の場合は、「武蔵小金井駅前で林さんと明石さん、川端さんの3人と別れる」
 次の11年新年会も「常連の多田治昭さんや林国蔵さんは風邪で欠席」である。2月例会の「所沢を歩く」、2月例会の「東松山を歩く」も通常の通りに歩かれている。林さんと一緒に廻った最後は私が案内した12月例会の「梅郷を歩く2」である。以後、例会で再び共に歩くことはなかった。
 『野仏』第33集(多摩石仏の会 平成14年刊)の「あとがき」には
   終わりに、多摩石仏の会もと会長小林太郎氏と『新多摩石仏散歩』の執筆にも参加された古い会員林国蔵氏が、体力的に会に参加で
   きなくなったと退会されました。非常に残念です。初期の会員が、だんだん少なくたっていくのも、会が経てきた歳月の移り変わり
   なのでしょうか。と犬飼康祐さんが書かれています。全く同感である。
 その後は、年賀状のやりとりだけで今日に至った。これまで町田を中心に周辺のご案内、更にいろいろな催し物や行事などをご教示いただいたことを感謝申し上げたい。今は過去の行動を思い出し、ただご冥福を祈るばかりである。(平成19・9・25記)〔付  記〕
 多摩石仏の会40周年記念写真展の初日の9月27日(木曜日)、萩原清高さんから林さんの戒名「学究院蔵誉翁寿居士」を教示いただいく。石佛調査に後半生を捧げた林さんに相応しい法名である。
『石仏散歩 悠真』32・33

 平成19年9月26日(水曜日)は、多摩石仏の会の写真展準備から家に戻ると、多田治昭さんから『石仏散歩 悠真』第32号と第33号の2冊が届いている。第32号は「関東の猿田彦塔」、第33号は「青面金剛の持物6(弓・矢・首)」の特集号である。
 第32号の「関東の猿田彦塔」特集は、「まえがき」に「今回の『猿田彦塔』は以前(平成十六年十月)に『関東の猿田彦像』とし発表したものです」と記されている。従って、頁数も新・旧どちらも16頁である。当然のことながら、多田さんが猿田彦について最初にまとめたのが『野仏』第27集(多摩石仏の会 平成8年刊)に掲載された「多摩の猿田彦塔」である。
 『関東の猿田彦像』と大きく変わったのは表紙、野田市清水・八幡宮の文政6年塔の縦位置の写真を使っていたのに対し、今回の第32号では佐野市田沼町御神楽の万延元年塔の横位置写真に変わっている。表題も旧号では「関東の猿田彦像」の表題で、写真の下に目次がついている。新号は、当然『石仏散歩 悠真』と第32号の号数、特集の表題も1字違いの「関東の猿田彦塔」である。目次はなく、次頁に「まえがき」がある。
 中で使われている写真の1部に違いがみられるが、大半は旧号と同じ写真を1部差し替え、左右を替えて使用している。レイアウトに多少の変化がみられるが、内容的は変わっていない。
 記載された東京都の4基、神奈川県の2基、群馬県の1基は全てみているもの、埼玉県や千葉県、茨城県の3県はみていない猿田彦塔がある。先日、流山市流山・流山寺の年不明像は調べたが、千葉県が1番洩れている。
 猿田彦といえば、生前に小花波平六さんが調べていた。多田さんも各地で撮られた写真を多数提供されていたが、小花波さんが集大成される前に亡くなられたのは残念である。私も石像ではなく、獅子舞の先導を務める猿田彦(天狗)の写真を送っていた。
 参考までに『石佛雑記ノート9』(多摩野佛研究会 平成19年刊)に発表した「小花波平6さんの著作」から猿田彦を表題とする論考を拾い出してみると、次の通りである。
   「庚申信仰・道祖神信仰における猿田彦と鈿女」『謎のサルタヒコ』 創元社 平成9年刊
   「富士山御縁年と猿田彦大神」『武蔵野』75−1 武蔵野文化協会 平成9年刊
   「猿田彦大神のなぞ──神話の神と民俗神」『庚申』101庚申懇話会 平成10年
   「庚申の神 猿田彦大神の謎」『庚申』103 庚申懇話会 平成10年
   「庚申・猿田彦大神の面影」『庚申』104 庚申懇話会 平成11年
   「石造の仏と申と猿田彦──庚申信仰の起源と変容1〜3」『庚申』105〜107 庚申懇話会 平成11年
   「山口県の庚申塔1・2」『庚申』108・109 庚申懇話会 平成12年刊
   「猿田彦大神の庚申塔」『庚申』112 庚申懇話会 平成13年刊
   「猿田彦・鈿女1・2」『庚申』120・121 庚申懇話会 平成16年刊
 猿田彦に関しては、私も次のものを発表している。
   「3多摩の猿田彦塔」『庚申』38号 庚申懇話会 昭和39年刊
   「松ノ木峠の猿田彦」『広報おうめ』245号 昭和47年刊
   「猿田彦の山里」『野仏』23 多摩石仏の会 平成4年刊
   「猿田彦の庚申塔」「猿田彦文字庚申塔」『多摩庚申塔夜話』 庚申資料刊行会 平成9年刊 なお、『野仏』の「猿田彦の山里」は、多摩石仏の会編『新多摩石仏散歩』(たましん地域文化財団 平成5年刊)に再録され、白倉の猿田彦塔の他に猿田彦木像3体と猿田彦掛軸1福の写真を載せているので、猿田彦を知る上で参考になろう。
 第33号は「青面金剛の持物」シリーズの第6回、矢・弓・首を扱っている。それを示すように、表紙に使われた荒川区西日暮里・養福寺の元禄13年塔の写真は、合掌6手像の上方手に弓と矢、下方手に索と首を持つ。
 「まえがき」では、弓矢の持物にふれ、「弓と矢は、六手青面の場合下の両手にそれぞれ弓と矢を持つのが多くみられるが、中には上の両手に持つ像や片手で弓と矢を握る像が見られる」と述べている。確かに多田さんが指摘するように、青面金剛の合掌6手像や剣人6手像に限らず、標準的な6手像では、下方手に弓と矢を持つ。「まえがき」にある、上方手の両手に弓と矢を執る事例が、1頁から3頁にかけて写真で示されている。他の場合も同様であるが、矢が1本のものと2本持つものとがある。通常は矢摺を外側に、弦を内側にする。少ないが矢摺を内側とする逆にする事例もみられる。 後半に書かれた「片手で弓と矢を握る像」は、4頁から7頁と14頁に示されている。この場合は上方手の片手もあれば下方手の片手もある。また、弦と矢を執るものと矢摺と矢と一緒にもつものとがみられる。矢の数も1本と2本とがある。
 矢のアップ写真は、7頁から13頁にかけて載っている。矢の向きをみると、矢羽が上で鏃が下にある場合とその逆があり、矢が上下方向だでなく斜めの例もみられる。矢羽にしろ鏃にしろ、形が微妙に違うのも面白い。
 「まえがき」で「首といっているが、頭部だけを片手で持つ青面金剛」という事例を15頁から20頁に掲載している。確かに刻まれているのは、頭髪と顔面であるが、中央手が明らかな写真をみると、反対の手に宝剣を持っている。つまり、剣人6手像で、人身の全体を彫らずに首だけに省略されているのがうかがえる。
 今回は弓であり矢であり首であるが、細部の比較を通して違いがみえてくる。この差異が普遍的なものか、あるいは1地域にみられるものか、の分析によって石工の作例パターンや原形となった刻像を追求することも可能と思われる。
 例えば、日月の例で示せば、日天と月天を上方手で捧げる形像を「万歳型」と呼んでいる。こうした持物を分析すると、この万歳型像の青面金剛は、多摩地方の場合は八王子を中心とする分布がみられ、周辺、さらに距離が離れると密度が薄くなる。古い例では中央手の持物が異なり、地域的にも分布のズレがみられる。
 多田さんの「青面金剛の持物」シリーズから、持物の分析による新しい視点が生まれ、石工や地域的な特徴が把握できるかもしれない。(平成19・10・1記)
浄慶寺の石佛

 平成19年10月7日(日曜日)は、横浜市青葉区鉄町の獅子舞を訪ねたが、早い時間に終わったので、帰りに川崎市麻生区上麻生の浄慶寺に寄る。鉄神社へ行く途中、バスの車窓から中野橋のバス停手前で寺らしい大屋根をみる。それが頭にあったから、帰りのバスを中野橋のバス停で降り、その先の交差点を右折して進むと、浄土宗の浄慶寺(上麻生7丁目)の入口に出る。
 『日本の石仏』か石佛の本だったか記憶にないが、柿生の寺に羅漢があると記されていた。それが頭にあったからバスを途中下車したが、果して羅漢の寺かどうかわかららずに坂を登ると右手に秋葉神社、その先に浄慶寺がある。
 境内に入ると、先ず眼についたのが童顔の六地蔵である。犬と戯れている地蔵、座って錫杖を持ち眠る地蔵、半身で微笑む地蔵、蓮華を両手で持つ地蔵、立って鳥と遊ぶ地蔵、立って両手を口許に当てて口を開ける地蔵と姿態が自由である。次いで 羅漢が眼に入る。羅漢の反対側に石佛があるのでみると、3面8手の馬頭観音坐像と並んで次の庚申塔がある。
   1 年不明 板駒型 (日月・青面金剛)・3猿         61×30
 1は破損がひどくて主尊がハッキリしないが、青面金剛(像高33cm)と思われる立像があり、下部に正向型3猿(像高11cm)を浮彫りする。
 羅漢はいろいろな姿態をしたものがあり、川越・喜多院の五百羅漢を模したように1方が「名酒/浄慶」と記す徳利を持ち、他方が杯で受けろ羅漢がある。同じく徳利を膝の前に置き、杯で1杯やっている羅漢の前で捩じり鉢巻きで口を歪めて踊る羅漢、酒を酌み交わす羅漢、あるいは碁盤を中に対局している羅漢、それを奥で肘をを立てて寝そべって見守る羅漢など様々な形である。その他に童顔の双体像(像高23cmと24cm 46×41×9cm)がある。
 急に思い立って準備もなく寺に寄ったから、ただ境内の石佛を眺めるのが主体である。たまたま庚申塔があったから、計測しただけである。
 家に帰ってから川崎市博物館資料調査団編『川崎の庚申塔』(同団 昭和61年刊)のデータを調べてみると、この庚申塔は記録されていない。その代わりに
   正徳2 板駒型 地蔵「奉造立庚申待供養」      上麻生386 浄慶寺が載っている。どうやらこの地蔵庚申を見逃していたことになる。それとも、青面金剛と思った立像が地蔵なのかもしれないが、破損が進んでいるので何ともいえない。ただ1の塔では、データにある「奉造立庚申待供養」の銘文は読んでいない。(平成19・10・7記)
多摩石仏の会写真展1

 平成19年9月27日(木曜日)から10月9日(火曜日)まで、立川・多摩中央信用金庫本店9階にあるたましんギャラリーで多摩石仏の会写真展が開催されている。この写真展は、会の創立40周年を記念したもので「民間信仰の石仏」がテーマである。
 目録の「ごあいさつ」に「多摩地方を中心に、日本各地にみられる民間信仰によって立てられた石佛を紹介しています。同じ信仰でもいるおいろな形で石佛が表現され各地間の地域差が見られます」とあるように、地元の多摩地方に限らず、近県や中国・4国にまで及んでいる。
 ここでは、写真展に出品された写真の中から庚申信仰に関する作品を取り上げてみる。庚申信仰は、北は北海道から南は9州まで地域差はあっても信仰がみられ、その信仰に基ずいて供養塔が造立されている。いわゆる「庚申塔」である。展示順に庚申塔をみていきたい。○ 明石延男さんの作品
 明石さんは、田の神など6点の写真を出品されている。その中の1点が次の石佛である。
   3 寛文4 光背型 青面金剛・3猿          相模原市藤野町長竹 白山神社裏 この青面金剛は、津久井町を中心に愛川町や町田市に分布する1連の2手青面金剛の系統である。明石さんはこの種の2手青面金剛に思い入れが強く、前回の写真展に「私の好きな・心に残る石仏」に出品したものに洩れ、その後に発見された青面金剛が3である。今回の写真展の解説には、「前回の写真展で紹介した同種8点に追加されます」とある。
 愛川・津久井にみられる2系統2手青面金剛については、清水長明さんが『相模道神図誌』(波多野書店 昭和40年刊)に3基の写真を発表されたのをきっかけに、広く1般に知られるようになり、かつて私も庚申懇話会編の『石仏研究ハンドブック』(雄山閣出版 昭和60年刊)に掲載された「2手青面の系譜」の中で、「津久井の2手青面」として2系統の6基を書いたことがある。その後、鳥屋の獅子舞調査の折りに馬石系の2手青面金剛に出会った。前記の明石さんがみつけた上の原系の2手青面金剛は、今回の写真展で初めて知った。
 なお、武田久吉博士は、戦前の道祖神調査の折りに愛川町の2手青面金剛に出会い、その著『路傍の石仏』(第一法規 昭和46年刊)201頁に写真を載せている。多田治昭さんは、『野仏』第14集(多摩石仏の会 昭和57年刊)に発表された「愛川町周辺の2手青面金剛塔」に5基にふれる。○ 五島公太郎さんの作品
 五島さんはお住まいのさいたま市の庚申塔を主体に、その周辺に調査の輪を拡げている。今回出品した青面金剛3点は、「人鈴型」と呼んでいる合掌6手の青面金剛を撮ったものである。すなわち、次の8点である。
   1 寛政7 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿    さいたま市緑区大門
   2 宝暦8 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿    川口市安行領家 興禅寺
   3 享保5 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿    鳩ヶ谷市辻 真福寺
 1から3までの3点は個々の青面金剛を写しているが、4から8の5点は浦和を中心に周辺の川口や鳩ヶ谷に分布する人鈴型の青面金剛を1点に小型の写真を4枚2段に並べている。つまり40基の人鈴型青面金剛のカタログになっている。
 五島さんは、最新号の『野仏』第38集(多摩石仏の会 平成19年刊)に「旧浦和市の庚申塔」を発表され、41頁に周辺地域を含む「人鈴持ちの庚申塔一覧」を掲げている。私も庚申懇話会や日本石仏協会の見学会でみたこの種のの青面金剛に興味を持ち、「人鈴型」と命名した。○ 石川博司の作品
 今回の写真展には、私は「青梅市の民間信仰」をテーマにして市内にある庚申塔6点と他の信仰の石佛4点を出品した。庚申信仰に関するものは、次の6点である。
   1 寛文10 板碑型 3猿・蓮華            青梅市黒沢・小枕
   2 元禄11 光背型 日月・勢至菩薩・3猿       青梅市吹上 本橋宅
   3 宝永6 板碑型 (上欠)「六種子」3猿      青梅市柚木町 旧鎌倉街道
   4 文化9 雑 型 日月・青面金剛・2鬼・2鶏・3猿 青梅市千ケ瀬町 宗建寺
   5 文化9 雑 型 (台石)3猿           青梅市千ケ瀬町 宗建寺
   6 天保2 駒 型 猿田彦大神            青梅市成木 松木峠
 写真展では、青梅市内で特色がある5基(1基は重複)の庚申塔を取り上げた。○ 遠藤塩子さんの作品
 遠藤さんが出品した写真は、いずれも杉並区を代表する庚申塔5点である。
   4 正保3 五輪塔 「奉供養庚申今月今日」      杉並区永福 永福寺裏
   5 承応2 石 幢 聖観音「此一躰者庚申為供養」   杉並区梅里 西方寺
   6 寛文8 笠付型 日月・2手青面金剛・1鬼・3猿  杉並区方南 東運寺
   7 寛文8 光背型 日月・4手青面金剛・1鬼・3猿  杉並区成田西 宝昌寺
   8 享和1 手洗鉢 3猿(再建塔)          杉並区宮前 慈宏寺
 塔形からみても、他地ではみられない5輪塔・石幢・手洗鉢を選び、青面金剛も一般的な6手像を避けて2手像と4手像を出品している。○ 中山正義さんの作品
 中山さんは、かなりマニアックな庚申塔を次のように各地から選んでいる。
   1 寛永6 板石型 日輪「庚申供養佛」蓮華      三重県伊勢市中村町 墓地
   2 万治4 光背型 日月・青面金剛・2鶏・2猿2童子 岐阜県加茂市坂祝町取組 宝積寺
   3 延宝3 板駒型 日月・北斗七星・5猿       栃木県小山市小宅 八幡神社裏
   4 万治3 光背型 如意輪観音「庚申供養十二人」   埼玉県越谷市平方 山谷共同墓地
   5 嘉永3 丸 彫 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿 埼玉県鷲宮町八甫 墓地
 1は実物と拓本の写真を2枚並べて展示しているので、銘文などがよくわかる。伊勢市内には古い庚申塔があり、中山さんの『全国江戸初期の庚申塔』(私家版 平成8年刊)には、元和元年塔から万治元年塔まで24基が掲載されている。
 2は火炎光背を持つ4手像、これより1年早い万治3年塔が『坂祝町の石造物』(坂祝町教育委員会 平成1年刊)に報告が載っている。
 3は「ア バン ウーン」の種子を刻む塔、上に4つ、下に3つの円で北斗七星を表す。向かい合わせの2猿を上にし、下に正向型3猿を浮彫りする。
 4は平成15年12月例会に中山さんの案内で廻った、越谷市平方の山谷覚山坊墓地でみた6手如意輪観音像である。塔には「庚申供養十二人」の銘文がみられる。
 5は剣人6手立像、多田治昭さんの『石仏散歩 悠真』第28号(私家版 平成19年刊)には、埼玉県下の寛文12年像から嘉永3年像まで年不明像2基を含めて12基の報告がみられる。○ 喜井皙夫さんの作品
 喜井は写真展のためにかつて暮らした池田町に行き、次の町内の庚申塔を撮影して出品した。
   1 寛文10 笠付型 「ウーン奉供養庚申講一座拾八度」 徳島県三好市池田町シマ 大師堂
   2 明和7 笠付型 日月・青面金剛・2鶏・3猿    徳島県三好市池田町シンマチ
   3 文政10 笠付型 日月・青面金剛・2鶏・3猿    徳島県三好市池田町マチ
   4 宝暦8 笠付型 日月・青面金剛・2鶏・3猿    徳島県三好市池田町ウエノ
   5 元文2 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿 徳島県三好市池田町イケミナミ
   6 元禄9 笠付型 日月・4手青面金剛・2鶏・3猿  徳島県三好市池田町三縄
   7 元禄3 笠付型 「奉供養庚申尊爲二世安楽」2猿  徳島県三好市池田町州津下の段
   8 元禄4 笠付型 4手青面金剛・2鶏・3猿     徳島県三好市池田町州津上の段
   10 明治29 自然石 「猿田彦大神」          徳島県三好市池田町州津宮の久保
   12 昭和11 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿 徳島県三好市池田町とうげ
 池田町を含めた三好市と東みよし町の庚申塔については、三好郡郷土史研究会編集発行の『三好郡の庚申塔』(平成7年刊)が参考になる。○ 関口渉さんの作品
 関口さんが写真展に出品した写真は、安曇野市を中心とした彩色の石佛を対象としている。
   4 享保16 自然石 日月・青面金剛・2鶏・3猿    長野県安曇野市等々力 十王堂東
   5 文政7 自然石 日月・青面金剛・2鶏・3猿    長野県安曇野市穂高
   8 寛政10 自然石 青面金剛・3猿          長野県安曇野市穂高 宗徳寺南西 
   9 寛延3 自然石 日月・青面金剛・2鶏・3猿    長野県安曇野市穂高 本郷庚申原
   10 年不明 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿    岐阜県高山市総和町 飛騨国分寺
 今回の青面金剛は、高山市を含めていずれも合掌6手立像である。『穂高町の石造文化財 解説・資料編』(穂高町教育委員会 平成6年刊)には、他にも町内に彩色された青面金剛がみられる。○ 多田治昭さんの作品
 多田さんは、庚申塔を熱心に追っているが、今回の写真展には次の1枚を除いて待道尊や疱瘡神、各種の念佛塔の写真を出品している。
   1 寛文8 光背型 日月・青面金剛・1鬼・3猿・2童子 千葉県袖ケ浦市横田 阿弥陀堂 1の写真は、今回の写真展の案内状に使われている。千葉県には、童子や薬叉付きの庚申塔が多くみられる。多田さんの『関東地方の童子・夜叉付青面金剛塔(追加)』(私家版 平成16年刊)によると、1の塔は古さが7番目に当たる。また、千葉県内には童子・夜叉付塔103基の塔が分布し、関東地方にある231基の44.6%を占める。○ 縣敏夫さんの作品
 縣さんが群馬と山梨で撮った庚申塔の次の写真5点である。
   1 元文5 柱状型 日月「ウーン」3猿        山梨県甲府市東光寺 東光寺
   2 寛政6 柱状型 青面金剛百体像          群馬県高崎市倉渕宮原 浅間神社
   3 万延1 板石型 「青面王」(百庚申文字)     群馬県藤岡市下須栗 稲荷社
   4 享保6 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿    山梨県甲府市平瀬 香積寺
   5 文政6 石 祠 日月・富士・2猿(台石)     山梨県甲斐市竜王 慈照寺
 群馬の2点は、1塔に青面金剛百体像を浮彫りしたものと1石に百種の「庚申」文字を彫ったものである。縣さんの『図録 庚申塔』(揺籃社 平成11年刊)368頁には、71基を記載した「一石百文字庚申塔年表」がある。山梨の3点は、県史の調査で出会った庚申塔である。○ 水野英世さんの作品
 水野さんは、富山県5基と広島県4基の庚申塔を撮った写真を展示した。
   1         青面金剛庚申塔          富山県魚津市道坂 公民館付近
   2         3宝荒神庚申塔          富山県上市町和合 公民館前
   3         馬頭観音庚申塔          富山県富山市大山町花咲
   4 嘉永5 雑 型 青面金剛・2鶏・3猿・童子・薬叉 富山県富山市大山町善名
   5         女神庚申塔            富山県富山市本郷町 三区公民館 
   6     石 幢 六地蔵幢             広島県廿日市市宮島町 大聖院
   7         青面金剛庚申塔          広島県庄原市本村町野谷
   8         青面金剛庚申塔          広島県庄原市実留町明神谷
   9         遊戯三猿庚申塔          広島県庄原市口和町向泉 薬師堂
 残念ながら水野さんの写真メモを失ったしまったので、4は写真を写したのでこれを除くと記憶が定かでない。4の塔形は、私が出品した宗建寺の塔形の上に笠を置く。この種の塔形は、ここの他に2か所あると聞いた。5は合掌の立像を浮彫りしたもので、来迎相の勢至菩薩かもしれない。
 関口さんの彩色青面金剛像と同じように、7か8の青面金剛が彩色されている。上部に日月、中央に剣人6手像が鬼の上に立ち、両横に童子が立つ。下部の中央に3猿と2鶏、両横に薬叉が2体ずつ立っている。掛軸を参考にして彩色したものかも、華やかな色使いである。
 いずれにしても、各地の庚申塔が1か所でみられるから、庚申塔の多様性がうかがわれて楽しい。関東や山梨ならば行く機会があるが、三重・岐阜・富山・広島までは行けそうにもない。多種多様な庚申塔を写真を通して知り、面白さが倍増する。(平成19・10・8記)
多摩石仏の会写真展2

 多摩石仏の会の石佛写真展では、庚申塔以外にも地神塔の写真が気にかかる。今回の出品では、喜井皙夫さんが1点、萩原清高さんが7点、森永5郎さんが16点が地神塔を扱っている。喜井さんは徳島県三好市池田町、萩原さんは町田市を中心、森永さんはタイトルに「神奈川の地神塔」とあるように、県内の各地にある地神塔をいろいろなタイプをセレクトしている。○ 喜井皙夫さんの作品
   5 年不明 柱状型 「五神名」       三好市池田町州津下の段
 5は5角柱の五神名地神塔とわかるが、塔は色付きのハタで飾られていて塔全体の様子はわからない。写真説明には「五色の旗や注連縄で飾られ信仰の深さを想像されます」とあり、現在も地神信仰が受け継がれている様子がうかかがわれる。。神奈川・千葉・埼玉にも五神名地神塔の分布がみられるが、このようにハタで飾る風習はない。
 なお、三好市を含め『三好郡の石造文化財』(徳島県3郡郷土研究会 平成10年刊)によると、郡内に152基の地神塔が散在する。その中には、東祖谷山村(現・三好市)大西・新田神社に昭和23年造立の地神塔がみられる。○ 萩原清高さんの作品
   1 文化7 柱状型 「地神社」       町田市金森 杉山神社
   2 天保14 柱状型 「堅牢神」       町田市町田 町田天満宮
     年不明 柱状型 「地 神」(石工銘)  町田市町田 町田天満宮  
   3 文化4 柱状型 「堅牢地神」      町田市高ケ坂 地蔵堂
   4 文化2 柱状型 「五神名」       大和市下鶴間 諏訪神社
   5 安政5 自然石 「土公神」       多摩市落合 白山神社
   6 弘化4 柱状型 日月「地神斎」狐2匹  町田市下小山田 白山神社
   7 嘉永2 柱状型 日月「地神塔」     町田市下小山田 六部塚
 萩原さんの写真は、前記のように町田市を中心に町田市が5点、多摩市と大和市が各1点の7点を展示している。
 3の年不明塔には、煤ケ谷の石工・城所権右衛門の名がみられる。4の写真説明には、町田に隣接す神奈川の五神名地神塔にふれ、大和市2基・座間市2基・綾瀬市2基・海老名市1基・相模原市2基の分布を記している。この種の五神名地神塔は多摩地方には分布していない。
 6の台石には、向かい合わせの狐2匹が浮彫りされている。地神と狐の関係はどうなんだろうか。7の両側面には道標銘が刻まれている。○ 森永五郎さんの作品
   1 元文5 光背型 土公神「奉祭土公神」    南足柄市向田361
   2 文政12 柱状型 地神(神礼寺型)      藤沢市柄沢 柄沢神社
   3 天保8 柱状型 地神(正覚寺型)      伊勢原市東富岡 東富岡八幡宮
   4 天保5 柱状型 地神(女神)        山北町北町 鷲鷹神社
   5 享和2 自然石 「天社神」         秦野市寺山 鹿島神社
   6 安政2 自然石 「后土神」         秦野市今泉1168
   7 文政13 柱状型 (五神名5角柱)      横浜市旭区上川井町 路傍
   8 天明6 柱状型 (五神名6角柱)      小田原市上曽我 須賀神社
   9 文久2 自然石 「埴山毘賣神」       伊勢原市日向 洗水路傍
   10 明治4 自然石 「大己貴/猿田彦」     大井町山田 中ノ下
   11 天明7 自然石 「天社神/后土神」     大井町赤田 八幡神社
   12 年不明 柱状型 「南無大金光明最勝王経福塔」開成町金井 金井公民館
   13 昭和58 柱状型 「地主神」         大磯町南下町 熊野神社
   14 明治28 板石型 「地鎮神」         小田原市府川 寺山神社
   15 年不明 自然石 「土の神」         山北町岸 個人宅
   16 昭和31 板石型 「地所全部之霊」      綾瀬市深谷 路傍
 森永さんは、神奈川県内各地にある地神塔をいろいろなタイプを1例ずつ挙げて展示している。地神塔の写真全体の説明文に「神奈川県は全国屈指の地神塔の多産地として知られており、現在まで700基近い記録がありますが、その内容に富んだ他県に類を見ない、実に多種多様の塔があります」と書いている。
 1〜4は刻像塔の主尊の各タイプを示し、県内に武神像18基・土公神1基・女神4基・如来1基・文神2基の計26基が記録されているという。特に1は珍しい刻像塔、2と3は寺で発行するお札の像容を写している。地天はしばしば女神として表現され、そうした刻像塔を1例示している。
 5と6は、秦野市を中心とした周辺の限られた狭い範囲にみられるローカルな文字塔である。他県にはない神奈川県独自の地神塔といえる。「天社神」は、秦野市の62基を含む計89基が分布している。「后土神」は秦野市13基を含み計15基があり、「天社神」よりも分布範囲が狭い。11は「天社神/后土神」の両神名を併記する。
 7と8は五神名地神塔、7は単純に神名のみを刻むが、8は「農業神 天照大神/五穀護神 大己貴命/五穀護神 少彦名命/土御祖神
 埴安媛命/5穀祖神 倉稲魂命」のように、尊名の上に神の性格を記している。9は五神名の1神「埴山毘賣神」、10は「大己貴(神)」と「猿田彦」の2神名を刻むが、両者の関係は不明である。
 12は「南無大金光明最勝王経福塔」と堅牢地神品を示す文字塔である。13は境内鎮守を願う塔、14は「村内安全」銘がみられる。15と16は屋敷神と考えられる。
 これらの地神塔の詳しい説明は、森永さんが『野仏』第38集(多摩石仏の会 平成19年刊)に発表された「神奈川の地神塔」に載っている。写真展に展示された以上の地神塔の写真が数多くみられ、所在地別分布表や刻像塔一覧表まどの分析表を含んでいるので、地神塔の研究者には見逃せない基礎資料である。
 今回の石佛写真展では、各人がテーマを持って民間信仰に関係した石佛写真をセレクトしているので、その点で萩原さんと森永さんが地神塔を主題にしているので大いに参考になる。多摩地方には全くみられない五神名地神塔が境を接する神奈川県に分布し、千葉県佐倉市周辺、埼玉県児玉地方にもみられる。単に地神塔の1種、五神名地神塔だけをとられても地域差がみられる。「天社神」や「后土神」のような神奈川県にのみ分布する独特な塔も存在する。1種類の石佛石塔を追いかけてみるのも面白いものである。(平成19・10・8記)
多摩石仏の会写真展3

 多摩石仏の会が主催する今回の石佛写真展は、会員がこれまで撮り溜めた石佛写真の中ら民間信仰に関するものを選んで展示している。民間信仰という枠はあっても、会員が独自の視点でテーマを持ち、テーマに沿った写真を出品している。
 中でも関口渉さんは「彩色された石佛」をテーマに、長野県安曇野市穂高地区を中心に岐阜・奈良・兵庫の彩色石佛を撮った12点を展示する。他の誰もが予想していなかったテーマ、カラー写真として打って付けである。
 ここでは、去る8月末に妻と旅行した時に廻った穂高地区の石佛にふれたい。これまでに3度、穂高の双体道祖神を中心に石佛をみている。当然、彩色された双体道祖神や青面金剛、大黒天に出会っている。
 最初に穂高を訪ねたのは昭和54年8月12日、この時には約3時間にわたりサイクリングし、多くの彩色双体道祖神に出会っている。2度目は平成7年4月18日、穂高駅の周辺を廻ったのみで彩色像をみていない。3度目は今年8月28日と翌29日、前日は穂高駅の周辺、翌日は約4時間のサイクリングで矢原の彩色双体道祖神を中心に廻った。
 今回、関口さんが出品された穂高の写真は、次の8点である。
   2 元治1 自然石 双体道祖神          安曇野市矢原 路傍
   3 明治9 自然石 「題目」3面大黒天      安曇野市矢原 公民館前
   4 享保16 自然石 日月・青面金剛・3猿     安曇野市等々力 十王堂
   5 文政7 自然石 双体道祖神          安曇野市穂高 農業センター前
     文政7 自然石 日月・青面金剛・3猿     同
   6 安政5 自然石 双体道祖神          安曇野市穂高 平林宅南
     慶応4 自然石 恵比寿            同    上
     慶応4 自然石 大黒天            同    上
   7 天保4 自然石 双体道祖神          安曇野市穂高 消防団詰所左
   8 寛延3 自然石 青面金剛           安曇野市穂高 本郷庚申原
   9 寛政10 自然石 青面金剛           安曇野市穂高 宗徳寺南西
 2は私好みの彩色像で、第1回と今回と2度対面している。肩を抱いた握手像、画家が関わったとか。ともかくほのぼのした双体道祖神で、穂高の彩色双体道祖神の代表的な存在である。『安曇野道祖神』(創林社 昭和59年刊)の34頁に大きく、『信濃路道祖神百選』(あさを社 昭和60年刊)の21頁「穂高町の彩色道祖神」の中の1体として小さく登場する。男神の像高が54cm、女神の像高が52cmである。
 3は2の道祖神と異なり、全く気付かなかった大黒天である。「南無妙法蓮華経」のヒゲ題目の下に3面大黒天彩色像を浮彫りする。矢原には大正甲子年の「大国天」文字塔がある。
 4は第1回の時にみたが今回は見逃した青面金剛である。上方手に3叉戟と金剛杵、下方手に蛇と宝珠を執る4手像、上部に日月、下部に正向型3猿を浮彫りする。『穂高町の石造文化財 写真編』(穂高町教育委員会 平成6年刊)の口絵には、カラー写真が掲載されている。
 石佛群の中に5の双体道祖神も青面金剛があり、共にも彩色されいる。これまでみたことがない。 6は握手する双体道祖神・鯛を抱えた恵比寿・袋を背負って右手に小槌を持つ大黒天の自然石塔3基が並び、いずれも彩色されている。双体道祖神は年銘を左右に記し、下部に「上手村中」の銘がみられる。昭和54年に写したことがある。前記の『安曇野道祖神』の表紙カバーに双体道祖神が使われ、『穂高町の石造文化財 写真編』の口絵に3基並んだ風景のカラー写真が載っている。
 7は鳥居の中に握手する双体像を浮彫りし、鳥居と共に彩色されている。6と同じ時にみたもので「貝梅中」の銘を刻む。この地銘に関して武田久吉博士は『路傍の石仏』(第1法規 昭和46年刊)の120頁で「道祖神盗み」の風習にふれている。前記『安曇野道祖神』43頁、『信濃路道祖神百選』の表紙カバーにカラー写真が用いられている。
 8は下方手に蛇と索を執る合掌6手青面金剛立像、上部の日月・瑞雲や下部の正向型3猿共々彩色されている。れも次の9もみていない。
 9は中央の合掌6手青面金剛立像と下部の正向型3猿を彩色し、右の「寛政十戊午年」の年銘と左下の「村中」の施主銘に墨が入っている。
 関口さんは、穂高地区にある彩色石佛の中から双体道祖神を中心に写真を選んでいる。今回廻った矢原や等々力、神田町にも彩色された石佛がみられる。『穂高町の石造文化財 資料編』(穂高町教育委員会 平成6年刊)を調べると、彩色された青面金剛が載っている。次回、穂高を訪ねた時には彩色像を中心に庚申塔を廻ってみたいものである。
 いずれにしても、穂高地区の彩色を含めた道祖神については、安曇野市豊科在住の石田益男さんの『道祖神をたずねて 安曇野・穂高』(安曇野 昭和53年刊)が参考になる。なお、1の安曇野市豊科踏入路傍にある慶応3年双体道祖神の写真は、前記『安曇野道祖神』の97頁にカラー、『信濃路道祖神百選』の64頁にモノクロで載っている。(平成19・10・7記)

 
 
あとがき

 もっと早くに本号を出す予定であったが、原稿のフロッピーを紛失したので発行が遅くなった。探して探してもフロッピーが見当たらない。たまたま古いフロッピーが必要なので探していたら、予想もしていなかった場所から紛失したフロッピーが出てきた。
 「笹川さん撮影の写真」は、足立の笹川義明さんから送られてきた写真について書いたものである。次の「石田さんからのハガキは、お送りした『穂高道祖神巡り』についていただいたハガキを基に調べたことである。

 「林国蔵さんを悼む」は、多摩石仏の会でご一緒した林さんが亡くなられたので、追悼文を記した。小花波平六さんに続いて訃報は思いがけない時に届く。写真展で埼玉の門間さんから、戸田の金子弘さんの訃報に接した。

 「『石仏散歩 悠真』32・33」は、多田治昭さん発行の『石仏散歩 悠真』第32号と第33号を取り上げた。「関東の猿田彦塔」と「青面金剛の持物」の特集である。
 「浄慶寺の石佛」は、横浜の鉄獅子舞が早く終わったので、帰り道によった浄慶寺にある羅漢などの石佛見学記である。
 「多摩石仏の会写真展」の3点は、先日多摩中央信用金庫ギャラリーで行われた写真展を通して「1」は庚申塔、「2」は地神塔、「3」は安曇野市穂高地区の彩色された石佛について書いたものである。             
 フロッピーの紛失騒ぎで意外な時間を取られ、本号の発行が遅くなった。その間、獅子舞関係の冊子を発行する準備にも時間を費やし、次号の原稿が全くない。11月末までになとか、第15号を発行したいと思う。
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                            石佛雑記ノート14 
                              発行日 平成19年10月30日
                              TXT 平成20年 2月 6日
                              著 者 石  川  博  司
                              発行者 多摩野佛研究会
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