石川博司著      石佛雑記ノート2       発行 多摩野佛研究会 
目次   ◎ 高知県の調査報告書  ◎ 石田年子さんの論考  ◎ 古書目録から文献探し 
      ◎ 
日野の庚申掛軸     ◎ 日野の疱瘡神     ◎ 乙津の庚申掛軸  ◎ 阿南市の地神塔      ◎ 一代守本尊の石佛   ◎ 山形村の庚申塔     ◎ 『石仏散歩 悠真』        
                                                      
あとがき
高知県の調査報告書

 平成19年1月9日(火曜日)、高知の岡村庄造さんから大冊『高知県 社寺文化財総合調査報告書』(高知県 育委員会 平成16年刊)を送っていただいた。203頁の「論考篇」と355頁の「図版篇」の2冊からなり、ケースに入っている。
 「図版篇」の67頁に安芸郡北川村小島・円通寺にある青面金剛の写真が載っている。図版の下に「(図 104)青面金剛力士像/像高32.0cm)」、307頁に「青面金剛像 像高32・01木造(江戸時代)◇104 」と記されている。何れにしても最小限の説明である。
 図版からみると青面金剛は6手立像、中央右手の持物が宝剣、左手は持物が失われているが、人身と考えるのが妥当であろう。上方左手に矛、上方左手に弓と思われる持物を執る。失われた持物は上方右手が宝輪?、下方右手は矢と推測して剣人6手像とみて間違いなかろう。
 「図版篇」は木像を中心として石像はごく少ないが、図版の他に後の「寺記・調書」に中に石像にふれた部分がみられる。それらをピックアップすると次の通りである。
   順 像容        像高   造立年代 図版   頁数 所在地
   1 石刻地蔵菩薩坐像  36・3 江戸時代  27  45 北川村柏木
   2 磨崖仏大日如来坐像 65・0 江戸時代  38  45 北川村木積 金宝寺
   3 石造弘法大師坐像  34・3 天保5年 292 121 吾北村上八田古江
   4 石造弘法大師坐像  45・0 天保5年 313 121 吾北村上八田古江
   5 石造弘法大師坐像  記載なし 不  明 な し 323 吾北村大崎小森
   6 石造地蔵菩薩立像  16・4 江戸時代 504 173 大方町御坊畑正覚庵
   7 石造地蔵菩薩立像 53・0 江戸時代 529 180 大方町入野 長泉寺
   8 石造僧形坐像 27・5 江戸時代 533 181 大方町入野 長泉寺
   9 石造地蔵菩薩坐像  40・0 享保12年 538 182 大方町浮鞭 伝昌庵
 以上のように調査報告書は「社寺」、しかも堂内佛に限られるから、石佛についてはごく少ない。像高はcm単位、図版頁の以外にも「寺記・調書」にそれぞれの石佛についての記載がみられる。
 3と6は像高ではなく総高の数字である。5は石像に直接ふれていないが、図353の天明3年銘棟札表面に「奉勧請南無大師遍照金剛石像 壹体」と記す。その関係で323頁に載っている。7は左手に宝珠を執り、右手に幼児を抱く子安地蔵の像容である。
 「論考篇」には、岡村さんが執筆された「高知の石造文化財」が134頁から149頁にかけて掲載されている。内容は高知県内に散在する次の中世石佛を解説している。
   順 像容      造立年代       所在地            頁数
   1 如意輪観音   平安期(無銘)    室戸市室戸町最御崎寺宝物館  134
   2 十三重塔    鎌倉後期(無紀年)  須崎市多の郷 加茂神社前   135
   3 板碑      鎌倉後期(応長1)  室戸市佐喜浜町浦 宇田墓地  135
   4 磨崖碑     鎌倉末期(元享2)  中村市坂本 香山寺参道    136
   5 五輪塔     南北朝初期(暦応2) 高岡郡中土佐町久礼町 大師堂 137
   6 板碑      南北朝中期(延文2) 南国市岡豊町 歴史民俗資料館 138
   7 石塔群     南北朝中期〜室町期  土佐清水市加久見 香仏寺   138
   8 地蔵三尊板碑  南北朝前後(無銘)  南国市岡豊町 歴史民俗資料館 139
   9 古石塔     室町前期(銘不詳)  土佐清水市中浜 大覚寺    140
   10 弥陀三尊石仏  室町中期(文明11)  安芸郡東洋町野根川口 薬師堂 141
   11 古石塔群    室町中期(長享2)  宿毛市押の川市山       142
   12 地蔵石仏    室町中期(延徳4)  宿毛市平田町沖前 藤林寺   142
   13 地蔵石仏    室町中期(明応2)  宿毛市押の川市山       142
   14 石幢      室町期        中村市坂本 香山寺山     143
     石幢      室町期        安芸郡安田町別所北寺     143
   15 六十六部供養塔 室町中期(永正14)  宿毛市大深浦 島崎家後方   143
   16 一字一石供養塔 室町中期(永正14)  宿毛市錦           144
   17 一字一石塔他  室町後期(大永5)  宿毛市平田町中山       145
   18 宝筐印塔    室町後期(大永6)  安芸郡東洋町野根押根 地蔵庵 145
   19 地蔵石仏    室町後期(天文2)  高岡郡中土佐町教育委員会保管 146
   20 宝筐印塔・石仏 室町後期(永禄7)  中村市磯の川 高尾山     146
   21 宝塔      室町後期(無銘)   安芸市西浜 浄貞寺      147
   22 板五輪光背石仏 桃山期(無年号)   高岡郡窪川町志和 薬師堂   147
   23 石仏      桃山期(文禄5)   香美郡夜須藤西山 観音寺跡  147
   24 双体地蔵石仏  桃山期(慶長9)   香美郡香我町口西川箱尾山   148
   25 五輪塔板石塔婆 江戸初期(寛永14)  吾川郡伊野町成山横藪     148
 それぞれの解説文の下にその石仏石塔の写真や拓本を掲げ、視覚的にもわかりやすい。これによって高知の中世石佛・石塔を概観でき、おおよその造立の流れや分布状況を知ることができる。
 これまで高知の石佛については余り知られていない。溝淵和幸さんが執筆された『日本の石仏 2
 四国篇』(木耳社 昭和58年刊)には、18頁に「今までに刊行された書物についてみても、土佐の石仏についてほとんど触られていない」と書かれている。その後も大きく進展しているとは思えない。そうした中で手掛かりとなるのは日本石仏協会発行の『日本の石仏』である。後でふれる岡村さんの「四国の近世石仏」では僅かであるが、高知の近世石仏を扱っている。報告書の中世石佛が『日本の石仏』の近世石佛とつながりが幾分でもつながればよいが、岡村さんに高知の近世石佛の更なる発表を期待したい。
 平成14年に毎日新聞高知支局から発行された『歴史探訪 南海地震の碑を訪ねて 石碑・古文書に残る津波の恐怖』では、岡村さんは「資料編」を担当されている。徳島と高知に分布する南海地震関係の碑文拓本と計測図を付し、銘文の解読と解説を行っている。
 岡村さんは『史迹と美術』や 地元の郷土研究誌『土佐史談』、例えば『土佐史談』188号の「日蓮宗系廻国行者のもの」などのように論考を発表されているようである。、石佛研究者には日本石仏協会誌の『日本の石仏』を通じて論考に接している。参考までに次に挙げる。
    地区  題名                 号数  頁数    刊年
    各 地 「板碑」は原点に帰るべし 現代名称考  62 45〜48 平成4年
    高 知 高知県の地蔵石仏            71  8〜16 平成6年
    高 知 高知県の大日如来            73 38〜40 平成7年
    南四国 南四国の阿弥陀散策           74 31〜36 平成7年
    徳 島 徳島県庚申塔の変遷           74 50〜55 平成7年
    徳 島 石仏に歴史を読む            80 56〜64 平成8年
    高 知 あしずり遍路道の三五〇丁石       87 45〜50 平成10年
    4 国 遍路石に見える四国巡礼の諸相      88 47〜53 平成10年
    沖 縄 沖縄の石造遺品             90 56〜60 平成10年
    4 国 四国の近世石仏             94 17〜28 平成12年
    各 地 拓本による記録の重要性        100 78〜87 平成13年
    各 地 拓本気まま旅             106 18〜27 平成15年
    各 地 和合神発見              109 49〜51 平成16年
    各 地 拓本による資料の確認とお願い     113 47〜54 平成17年
    各 地 石塔の基礎知識・層塔         113 56〜57 平成17年
    各 地 石塔の基礎知識・宝塔・多宝塔     114 60〜61 平成17年
    各 地 石塔の基礎知識・板碑         115 60〜61 平成17年
    各 地 石塔の基礎知識・「石仏」とは     116 64〜65 平成18年
    各 地 石塔の基礎知識・層塔         117 58〜59 平成18年
    各 地 石塔の基礎知識・1石造り五輪塔    118 68〜69 平成18年
    各 地 石塔の基礎知識・無縫塔        119 64〜65 平成18年
 上記の岡村さんの執筆傾向をみると、当初は高知県を対象にし、その後は広がりをみせている。100号以降は拓本に興味が向いており、最近は石佛講座を担当されている。高知の石佛の1層の調査とその結果を公表していただきたい。(平成19・1・11記)
石田年子さんの論考

 多摩石仏の会の総会から帰宅すると、野田市在住の石田年子さんから手紙が届いていた。開封すると、中に手紙に添えて論考のコピーが入っている。それは昨年3月に千葉県立関宿城博物館から発行された『研究報告』第10号に掲載されたもの。論題は「利根川中流域の女人信仰−野田市・十九夜塔を中心にして」で16頁から25頁にかけて載っている。
 論考は「はじめに」「1 十九夜念仏信仰の概略」「2 北総地方の女人講」「3 野田市の女人信仰」「おわりに」の構成、それぞれの項目には、例えば「1 十九夜念仏信仰の概略」の細目「(1)十九夜念仏の成立」「(2)十九夜信仰の発祥地」「(3)十九夜念仏の主題」の筋立てになっている。文末に「参考文献」を挙げ、「情報提供」に幸手市教育委員会がみえる。
 17頁に「この月待信仰の1種と考えられる十九夜信仰」とあるが、十九夜信仰は果して月待信仰かどうか、が先ず問題になる。同じ頁に月待の代表例として挙げられている二十三夜と比較し、十九夜が同列に論じられるのは不可解である。十九夜含む7夜待を除けば、単独の十九夜信仰は月待とは思えない。
 その論拠は次に挙げる理由による。二十三夜の先駆けの月待板碑には、碑面に「月待供養」の銘が刻み込まれている。その1方では「夜念佛」や「念佛供養」の板碑が造立されている。月待板碑の流れは近世に二十三夜待の信仰になり、二十三夜塔の造立につながっている。念佛板碑の流れは念佛供養塔の建立となっている。
 そこで問題になるのは「十九夜」と「十九夜塔」の解釈である。これまで多くの二十三夜塔をみているが、主銘に「二十三夜念佛」と「念佛」を使用している例を知らない。二十三夜塔以外にも2十六夜塔の場合は、二十三夜塔と同様に主銘に「念佛」銘がない。
 ところが、後には文字塔の主銘が「十九夜塔」と「念佛」を省いて造立されるものの、初発の十九夜塔では明らかに「十九夜念佛」と刻み、念佛板碑の系統に属する。このことは「十九夜信仰の発祥地」で示されている、つくば市北条新田の寛永十年塔に「十九夜念佛」の銘があることから自明である。その意味では「別時念佛塔」や「寒念佛塔」などと同列である。
 江戸時代の暦法で日時を指定するのに「十九夜」と「二十三夜」を使う。念佛の集まりの指定に「十九夜」を用いてもおかしくはない。この指定された日に行うから「十九夜念佛」になるし、行う日取りによって「十五夜念佛」や「二十一夜念佛」になる。この点が非常に紛らわしい。
 とんだところで「月待」と「念佛」の論議になったが、この点は本題に外れるので置いておいて論考に沿ってみていきたい。「はじめに」では、野田市内にある赤子を抱く観音の墓石から始まり、佛教思想の女性の穢れにふれ、「流れ潅頂」などの死んだ産婦の民俗を示した上で、野田市域の十九夜講を中心にして追うことを目的にしている。
 次の「十九夜念仏信仰の概略」では、「十九夜念仏の成立」「十九夜の発祥地」「十九夜念仏の主題」の3項目から成っている。「十九夜念仏の成立」は「主に栃木県・茨城県・千葉県・埼玉県等の利根川水系地域の女性達に広く受入れられた民間信仰で、現在も夥しい十九夜塔がこの周辺に残存している」と記している。深く調査した訳ではないので断言できないが、東京都の場合は千葉県寄りの葛飾区内で十九夜塔をみているが、他に極少数の分布がある程度ではなかろうか。
 続く「十九夜の発祥地」は、先にもふれたつくば市の寛永塔2基から、十九夜の発祥地をつくば周辺地域と推定している。その上で筑波山麓の十九夜塔の拡がりが利根川縁の布川(茨城県利根町)、さらに利根川流域に女人による十九夜講によって十九夜塔の造立が始まる、としている。
 「十九夜念仏の主題」は、幸手市神明内の路傍にある文化4年塔に刻まれた「十九夜念佛和讃」を紹介し、血盆経にふれている。如意輪観音は血盆経や血の池地獄に関連から主尊とされ、他地の十六夜講・十七夜講・二十二夜講で如意輪観音が信仰されるのも同じパターンとみている。最後に十九夜講の目的や行事の基本形にふれ、講員が出産可能の若い世代に多いことを指摘している。
 「北総地方の女人講」では「女人講の変遷」にふれた上で「子安信仰」と「待道信仰」の2項に別けて分析している。「女人講の変遷」は、十九夜塔の造立が江戸初期から昭和60年代まで1500基余あり、これを造立年代別に分析して述べている。
 20頁の「表1下総地方の年代別十九夜塔造立数」と「表2下総地方の年代別子安塔造立数」は寛文10年以降、10年刻みに昭和15年以降まで追っている。19頁の「図1 下総地方の十九夜塔・子安塔の推移」は、前記の数表(表1と表2)をグラフ化して対比している。
 こうした造塔数の変遷から、十九夜信仰に関連する「子安信仰」と「待道信仰」について記している。爆発的に造立数が多い寛文10年から60年余経て、享保5年以降に造塔の落ち込みがみられる。この時期、元文年間に印西市や八千代市で「子安」を付けた供養塔造立があり、江戸後期の北総女人信仰の流れを大きく変える「子安信仰」の芽生えがある。1方で東葛地方では、取手市を中心として安永年間から「待道塔」の造立が始まっている。
 「野田市の女人信仰」では、大きく「十九夜講」と「その他の女人講」の2つに分けて論じている。野田市域の女人講造立の供養塔は十九夜塔が263基、淡島塔が14基、待道塔が10基、子安塔が4基にのぼり、他に十三佛塔・地蔵・手児奈塔にも女性が造塔に関与している。
 「十九夜講」は、さらに「新生・十九夜講」「関宿町北部・関宿藩領の十九夜信仰」「旧野田町の十九夜塔」「河岸場の女人講」と4分割している。「新生・十九夜講」は、北総女人信仰が「子安信仰」へ再編成される過程で、野田市域の女人講も転換期を迎え、化政期の十九夜ブームが生じている、と指摘している。
 「関宿町北部・関宿藩領の十九夜信仰」は関宿藩領、特に関宿地区にみられる化政期より造立がみられる特徴を挙げ、この傾向が隣接する同じ藩領の五霞町も波及す点を記している。この時期に関宿を境にし、下流域では子安講や待道講が十九夜講衰退に追い込み、逆に関宿以北では十九夜講が急速に拡大しているとしている。その裏付けが「表3 野田市及び野田市以北の十九夜塔年代別造塔数」である。野田市と対比して以北の十九夜塔の推移をグラフ化して「図3」として載せている。
 「旧野田町の十九夜塔」は、都市型である旧野田町の女人講の独自性し指摘し、巨大な塔や華美な塔が目立つ点を示している。
 「河岸場の女人講」は、野田市内にある十九夜塔の半数が河岸場周辺の寺院や寮に造立がみられることを指摘し、『尾崎・西金野井の民俗』に収録された「十九夜和讃」の中に記された「えとき」に注目している。
 「その他の女人講」は「待道講」「子安講」「淡島講」の3つに分割し、考察を進めている。「待道講」は、南部地域と福田地域に10基の待道塔がみられ、この地域では幕末以降の十九夜塔の造立がなことから十九夜講が待道講へ移行した、とみている。
 「子安講」は、市内の地区によって散見されるが、石造物の上からは子安講の影響は少ない、としている。「淡島講」は、旧野田町を中心に幕末以降に14基の造立を行い、淡島様の木像を祀る堂もみられる。しかし並行して十九夜塔が造立されているから、淡島信仰は「婦人病除け」の女人信仰と推測している。
 「おわりに」では、文末で「地域における現代版・十九夜講(女性連体集団)のような女性たちのネットワークが出来ないものであろうか」で結んでいる。
 以上にみてきたように、石田さんの論考は女性のセンスや出産体験が背後にみられ、男性とは異なる視線やは配慮が働き、コンパクトにまとまっている。今後、概論から各論の充実を図り、さらなる論考の発展を期待したい。(平成19・1・21記)
古書目録から文献探し

 古書店や古書店の仲間で作る会から「古書目録」や「古書展出品書目録」が送られてくる。近頃はそうした目録の中で欲しいと思うような本は少なくなった。欲しいかどうかは別としても、目録の中に石佛に関する文献が含まれているの1応は眼を通し、チェックする。
 石佛の文献が多く含まれているものの1つに「第1書房古書目録」がある。この目録に中で石佛関係は「仏教美術・石仏・美術・工芸」の項目に圧倒的に多いが、他にも「文化財」「展観図録」「郷土史」「民族・言語・民俗」に中にも散見する。
 今回は最新の「第1書房古書目録NO36」の中から石佛関係の文献を拾い出すと、次の通りの古書が記載されている。書名が記載順(頁順)であると利用しにくいので、広範囲に地域を扱ったものは項目別とし、他は都道府県単位に市町村別に記載した。
 この記載順は、私が『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)の「石仏関係参考文献目録」で採用したやり方である。多少の違いがみられるが、後に刊行された『日本石仏図典』(国書刊行会昭和61年刊)では縣敏夫さんが「日本石仏関係主要文献」、『続日本石仏図典』(国書刊行会 平成7年刊)では中上敬1さんが「石造文化財関係の文献目録」で踏襲されている。

 石佛関係文献目録      石仏  『石仏の美 第1 庶民の願い』 佐藤宗太郎・大護8郎著 木耳社 昭和43年刊石仏  『石仏の美 第2 岩のほとけ』 佐藤宗太郎・大護8郎著 木耳社 昭和43年刊石仏  『石仏の運命』 若杉慧著 木耳社 昭和48年刊石仏  『路傍の石仏』 武田久吉著 第1法規 昭和52年刊石仏  『野仏の泪』 相田百世木著 大陸書房 昭和53年刊石仏  『石仏巡礼』 森山隆平著 大陸書房 昭和54年刊石仏  『石仏遍歴 里美文明写真集』 木耳社 昭和54年刊石仏  『石造美術 新版』 川勝政太郎著 誠文堂新光社 昭和56年刊石神  『石神信仰』 大護八郎著 木耳社 昭和52年刊石塔  『日本の石塔』 若杉慧著 木耳社 昭和45年刊石塔  『石塔の民俗』 土井卓治著 岩崎美術社 昭和47年刊石塔  『企画展示古代の碑 石に刻まれたメッセージ』 国立歴史民俗博物館 平成9年刊石造物 『日本石造遺宝 上』 服部勝吉・藤原義1編 大和書院 昭和18年刊石造物 『石造美術 日本の美術45』 小野勝年編 至文堂 昭和45年刊事典  『日本石仏事典』 庚申懇話会編 雄山閣出版 昭和50年刊辞典  『日本石造美術辞典』 川勝政太郎 東京堂出版 昭和59年刊板碑  『板碑遍歴六十年 板碑名品拓本集』 石井真之助 八王子板碑研究会 昭和49年刊板碑  『板碑の美 板碑写真集』 鈴木道也著 昭和52年刊板碑  『板碑概説』復刻版 服部清道著 角川書店 昭和53年刊板碑  『修訂板碑入門』 小沢国平著 国書刊行会 昭和53年刊板碑  『板碑の総合研究1 総論編』 坂詰秀1編 柏書房 昭和58年刊板碑  『東京国立博物館所蔵板碑集成』 東京国立博物館 平成16年刊燈籠  『切利支丹燈籠の研究』 松田重雄著 同信社 昭和44年刊燈籠  『石燈籠新入門』 京田良志著 誠文堂新光社 昭和51年刊燈籠  『日本の石燈籠』 福地謙4郎著 理工学社 昭和54年刊燈籠  『切利支丹燈籠の信仰』 松田重雄著 恒文社 昭和63年刊庚申  『庚申塔』 大護8郎・小林太郎著 昭和47年刊庚申  『庚申待と庚申塔』復刻版 3輪善之助 第一書房 平成12年刊道祖  『道祖神百粋』 川口謙2著 光風社書店 昭和55年刊道祖  『光と影と道祖神』 長谷川聡子 青蛾書房 昭和57年刊道祖  『双体道祖神路傍での出会い 第2集』 よつば会 平成9年刊地蔵  『化粧地蔵 こどもの神さま』 池田弥3郎他著 淡交社 昭和48年刊墓石  『日本古代の墓誌』 奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編 同朋舎 昭和54年刊金石文 『日本金石図録』 大谷大学編 2玄社 昭和47年刊金石文 『大日本金石志』1〜5巻・付図 木崎愛吉著 歴史図書社 昭和47年刊金石文 『古代朝鮮・日本金石文資料集成』 斎藤忠編 吉川弘文館 昭和58年刊金石文 『日本金石文の研究』 篠崎4郎著 柏書房 昭和55年刊金石文 『日本名筆全集 金石文集』 入田整三編 雄山閣 昭和6年刊北海道 『北海道 庚申塚縁起話』 会田金吾著 函館文化会 昭和51年刊北海道 『北限の石仏たち』 山川力著 朱鷺書房 昭和62年刊東北  『日本の石仏9 東北篇』 板橋英3編 国書刊行会 昭和59年刊青森  『黒石市史 資料編1 社寺・金石文』 黒石市 昭和60年刊岩手  『岩手県金石志』 岩手県教委 昭和36年刊秋田  『横手市内の民間信仰塔』 横手市立文化財保護協会 平成7年刊秋田  『十文字町の石造物』 十文字町教委 平成1年刊山形  『山形県の石造物にみる梵字』 工藤忠雄著 種智舎 昭和63年刊山形  『新庄の石仏 路傍に生きる庶民の信仰』 大友義助著 新庄市教委 昭和49年刊福島  『石川町の板碑』 石川町中央公民館 昭和54年刊福島  『浅川町の石造物』 浅川町教委 平成4年刊茨城  『茨城県関係古代金石文資料集成 墨書・箆書』 茨城県立歴史館 昭和60年刊茨城  『しもつまの野仏 人々と石仏との語らい』 下妻市教委 平成3年刊茨城  『土浦の石仏』 土浦市教委 昭和60年刊茨城  『取手市史 石造遺物編』 取手市 昭和62年刊茨城  『岩間町の石仏・石塔』 岩間町教委 昭和59年刊茨城  『江戸崎の石仏・石塔2・2』 江戸崎町史編委 昭和62年刊群馬  『群馬の石仏』 佐鳥俊1著 木耳社 昭和50年刊群馬  『上野国板碑集録』 千々和実編 西北出版 昭和52年刊群馬  『群馬県史 資料編8 中世4 金石文』 群馬県 昭和63年刊群馬  『太田市石造美術調査報告書 付金工品』 太田市 昭和51年刊群馬  『渋川市誌 別巻 石造物と文化財』 渋川市 昭和61年刊群馬  『沼田の石仏』 沼田市 平成4年刊群馬  『新田町の石造物と金工品』 新田町誌編さん室 昭和57年刊群馬  『赤城村の石造物』 赤城村教委 昭和60年刊群馬  『笠縣村誌 別巻2 資料編 民俗・石造物・建造物編』 笠縣村 昭和58年刊埼玉  『新編埼玉県史 資料編9 金石文・奥書』 埼玉県 平成1年刊埼玉  『武蔵国板碑集録2 旧比企郡』 千々和実編 小宮山書店 昭和43年刊埼玉  『秩父路の石仏 野の信仰』 日下部朝一郎 国書刊行会 昭和47年刊埼玉  『上尾市史 第9巻 別編2 金石・文化財』 上尾市 平成11年刊埼玉  『上尾の中世石塔 上尾市史編さん調査報告書12』 上尾市教委 平成12年刊埼玉  『入間市史 中世資料・金石文編』 入間市 昭和58年刊埼玉  『北本市の板碑』 北本市教委 昭和54年刊埼玉  『行田市金石文集』 行田市役所 昭和30年刊埼玉  『越谷市金石資料集』 越谷市史編さん室 昭和44年刊埼玉  『坂戸市史 民俗資料編2 石造遺物』 坂戸市教委 昭和58年刊埼玉  『志木市史 民俗資料編2 石造遺物』 志木市 昭和56年刊埼玉  『志木市の碑文 志木市の文化財26』 志木市教委 平成11年刊埼玉  『草加の金石』 草加市 昭和59年刊埼玉  『鶴ヶ島の石造物』 鶴ヶ島市教委 平成10年刊埼玉  『入間碑集 所沢市史調資料別集1』 所沢市史編さん室 昭和53年刊埼玉  『所沢市の諸尊・供養塔 所沢市史調査報告37』 所沢市文化財保護課 平成10年刊埼玉  『富岡・所沢の石造物 所沢市石造物調査報告書1』 所沢市教委 平成11年刊埼玉  『戸田市の石造物』 戸田市市史編纂室 昭和55年刊埼玉  『戸田の石仏誌』 金子弘著 戸田市 平成2年刊埼玉  『新座の金石文 新座市調査報告書4』 新座市史編さん室 昭和57年刊埼玉  『高虫の石造物 蓮田市石造物調査報告書2』 蓮田市教委 平成3年刊埼玉  『上蓮田の石造物2・馬込の石造物 蓮田市石造物調査報告書8』 蓮田市教委 平成14年埼玉  『石仏 東松山市石造記念物調査』 東松山市教委 昭和56年刊埼玉  『吉川市の石塔 史料調査報告書1』 吉川市教委 平成10年刊埼玉  『児玉町の中世石造物 児玉町史史料調査報告中世3』 児玉町教委 平成10年刊埼玉  『嵐山町の石造物』 嵐山町教委 平成15年刊埼玉  『鷲宮町の板石塔婆』 鷲宮町 昭和51年刊埼玉  『かわさとの石仏 村史調査報告書4』 川里村教委 平成4年刊埼玉  『都幾川村史資料6−3 文化財編 中世石造物』 都幾川村 平成7年刊千葉  『千葉県史料 金石文編1・2』 千葉県 昭和53年刊千葉  『千葉県石造文化財調査報告』 千葉県教委 昭和55年刊千葉  『我孫子市史資料 金石文編1 石造物』 我孫子市 昭和58年刊千葉  『印西町石造物 第2集 小林地区調査報告書』 印西町教委 昭和56年刊千葉  『鎌ヶ谷市史 資料編2 金石文』 鎌ヶ谷市教委 昭和61年刊千葉  『ふるさとの石仏 佐倉市の文化財』 佐倉市教委 昭和50年刊千葉  『流山市金石文目録』 流山市教委 昭和51年刊千葉  『板碑 文化ホール紀要4』 松戸市文化ホール 昭和56年刊千葉  『沼南町史史料週 金石文1』 沼南町教委 平成4年刊東京  『東京都板碑所在目録 23区分』 東京都教委 昭和54年刊東京  『東京都板碑所在目録 多摩分』 東京都教委 昭和55年刊東京  『足立区文化財調査報告 板碑編』 足立区教委 昭和59年刊東京  『足立風土記資料 金石文1 記念碑等』 足立区教委 平成4年刊東京  『葛飾区金石文(記念碑梵鐘等)』 葛飾区教委 昭和62年刊東京  『葛飾区宝筐印塔・道標調査報告』 葛飾区教委 昭和62年刊東京  『杉並の石造物 民間信仰』 杉並区教委 昭和48年刊東京  『練馬の石造物 神社篇』 練馬区教委  昭和63年刊東京  『多麻金石文4 北多摩地区編』 山本正夫編 晴耕書屋 昭和48年刊東京  『稲城市の石造物 続』 稲城市教委 昭和52年刊東京  『青梅市の石仏』 青梅市郷土博物館編 青梅市教委 昭和49年刊東京  『青梅市の板碑』 青梅市郷土博物館編 青梅市教委 昭和55年刊東京  『多摩市文化財調査資料 石仏編』 多摩市教委 昭和51年刊東京  『多麻金石文2 八王子編下』 山本正夫編 晴耕書屋 昭和48年刊東京  『東村山の石仏と信仰』 小林太郎著 多摩石仏の会 昭和57年刊東京  『新田義貞の鎌倉攻めと徳蔵寺元弘の板碑』 東村山市教委 昭和58年刊東京  『東村山の板碑』 東村山市教委 昭和60年刊東京  『府中市の石造遺物』 府中市教委 昭和55年刊東京  『福生市石造遺物調査報告書』 福生市教委 平成1年刊東京  『みたかの石造物』 3鷹市教委 平成8年刊東京  『東京都瑞穂町文化財調査報告書2 石造文化財』 瑞穂町 昭和47年刊神奈川 『相模の石仏 近世庶民信仰の幻想』 松村雄介著 木耳社 昭和56年刊神奈川 『厚木の石造物 記念碑』 厚木市教委 昭和45年刊神奈川 『野だちの石造物』 厚木市教委 昭和47年刊神奈川 『海老名市の道祖神』 篠崎信著 海老名市教委 昭和63年刊神奈川 『鎌倉の五輪塔 鎌倉国宝館図録21集』 鎌倉市教委 昭和52年刊神奈川 『鎌倉の石仏・宝塔 鎌倉国宝館図録23集』 鎌倉国宝館 昭和55年刊神奈川 『鎌倉の板碑 鎌倉国宝館図録24集』 鎌倉市教委 昭和56年刊神奈川 『秦野の道祖神・庚申塔・地神塔』 秦野市教委 平成1年刊神奈川 『大和市の石造物』 大和市役所 昭和57年刊神奈川 『保土ヶ谷金石誌』 横浜市教委同会 昭和44年刊神奈川 『港北ニュータウン地域内文化財報告 金石文』 横浜市文研調 昭和50年刊神奈川 『私の中の道祖神 よこはま』 土方充著 私家版 昭和63年刊山梨  『塩山市の石造美術』 塩山市文化協会 昭和58年刊山梨  『甲斐区にの板碑1 郡内地方の基礎調査』 持田友宏著 クリオ 昭和63年刊長野  『東筑摩郡誌別編2 農村信仰誌 庚申念仏編』 六人社 昭和18年刊長野  『北安曇の道祖神』 牛越嘉人著 柳沢書苑 昭和48年刊長野  『伊那谷の石仏』 竹入弘元著 伊那毎日新聞社 昭和51年刊長野  『筑摩野の道祖神』 今成隆良著 柳沢書苑 昭和54年刊長野  『塩の道石仏紀行』 日本石仏写真家協会撮影 創林社 昭和58年刊長野  『松本平の道祖神』 今成隆良著 柳沢書苑 昭和50年刊長野  『岡谷市の石造文化財1 道祖神・石祠・道標』 岡谷市教委 昭和50年刊長野  『長野その石造文化財 第2集』 長野市教委 昭和54年刊長野  『上松町の石造文化財 上松町誌別巻』 上松町教委 昭和58年刊長野  『南木曽町の石造文化財』 南木曽町教委 平成1年刊長野  『道祖神をたずねて 穂高』 石田益雄著 出版安曇野 昭和59年刊長野  『穂高町の石造文化財 解説・資料編 写真編』2冊 穂高町教委 平成6年刊長野  『山ノ内町の石造文化財』 山ノ内町教委 平成4年刊長野  『王滝村の石造文化財』 王滝村教委 昭和50年刊長野  『原村の道しるべ 付道路改修碑等』 原村教委 平成3年刊長野  『三水村の石造文化財』 3水村教委 平成2年刊新潟  『越後の庚申信仰』 尾身栄1・大竹信雄著 庚申懇話会 昭和41年刊新潟  『新潟県の道祖神』 横山旭3郎著 野島出版 昭和52年刊新潟  『み仏の心を刻む 越後の石彫師 高橋3広』 米峰出版 昭和56年刊新潟  『柏崎の石仏』 柏崎博物館 平成5年刊新潟  『石仏の里栃尾』 栃尾市教委 昭和62年刊石川  『石川県銘文集成 近世初期金石文編上下』 桜井甚一著 北国出版社 昭和47年刊石川  『石川県銘文集成 中世金石文編』 桜井甚一著 北国出版社 昭和47年刊福井  『小浜市史 金石文編』 小浜市 昭和57年刊中部  『郷土の碑を訪ねて』 建設省中部地方建設局 昭和62年刊岐阜  『奥飛騨の石仏 写真集』 高原郷土研究会 昭和55年刊岐阜  『笠原町史 その2 かさはらの石造物』 笠原町 昭和61年刊岐阜  『かみのほの石造物』 上之保村教委 平成4年刊静岡  『富士市石造文化財3 今泉・原田・吉永』 富士市教委 昭和62年刊愛知  『東三河の庚申信仰』 鈴木源一郎著 豊橋地方史研究会 昭和49年刊愛知  『安城の石仏』 安城の歴史を学ぶ会 昭和54年刊愛知  『岩倉市史 資料1 近世村絵図・金石文』 岩倉市 昭和56年刊京都  『京都の石造美術』 川勝政太郎著 木耳社 昭和51年刊大阪  『大阪金石志 石造美術』 天岸正男・奥村隆彦著 三重県郷土史刊行会 昭和48年刊兵庫  『淡路島の社日信仰 農民のまつり』 田村正著 淡路地方史研究会 平成1年刊兵庫  『播磨古法華山石仏と繁昌天神森石仏』 甲陽史学会 昭和34年刊奈良  『奈良の石仏』 西村貞著 全国書房 昭和18年刊奈良  『南都石仏巡礼』 西村貞著 成光館書店 昭和18年刊奈良  『奈良県金石文年表』 土井実著 友山文庫 昭和38年刊奈良  『奈良県史7 石造美術』 名著出版 昭和59年刊奈良  『奈良県史16・17 金石文 上下』 名著出版 昭和60年刊鳥取  『塞神考 因伯のサイノカミと各地の道祖神』補訂版 森納著 私家版 平成3年刊島根  『野の仏 石見町文化財シーズ1』 石見町故里を探る会 昭和61年刊香川  『讃岐の石仏 峠の地蔵』 安川満俊編 讃岐写真作家の会 平成7年刊広島  『3原市の石造物』 3原市民俗編 昭和54年刊徳島  『ふるさと探訪 お不動さん調査』 阿南市教委 平成3年刊徳島  『三好郡の庚申塔』 三好郡郷土史研究会 平成7年刊高地  『土佐の石造遺品集 平安〜江戸時代』 林勇作著 私家版 平成7年刊9州  『石の九州 もうひとつの日本文化』 源弘道著 あすなろ書房 昭和49年刊9州  『田の神像 南9州大隅地方』 野田千尋著 木耳社 昭和46年刊佐賀  『肥前鹿島の石造文化 鹿島市史資料編1』 鹿島市立図書館 昭和53年刊大分  『国東文化と石仏』 大嶽順公・渡辺信幸著 木耳社 昭和45年刊大分  『国東半島の石仏』 渡辺信幸・大護8郎著 木耳社 昭和46年刊大分  『国見の石造文化財』 国見町文化財調査委 平成12年刊

 前回の「第一書房古書目録NO35」をみるとダブリがみられるが、古書の性格上売れたものは今回の分から省かれ、新規の分が加わっている。例えば「NO35」に記載さて今回省かれた本には、例えば310頁を調べると次の古書7例が含まれている。

燈籠  『慶長以前の石燈籠』 天岸俊1 スズカケ出版部 昭和15年刊神奈川 『綾瀬の石造物1 道祖神・庚申塔』 綾瀬市教委 昭和61年刊神奈川 『元箱根石仏・石塔群の調査1・2』 箱根町教委 平成4年刊神奈川 『元箱根石仏・石塔群の調査 箱根町文化財研究紀要25』 箱根町教委 平成5年刊神奈川 『元箱根石仏・石塔群の調査・研究』 東海大学教養学部芸術学科 平成5年刊滋賀  『近江の石造美術1・2』 田岡香逸著 民俗文化研究会 昭和44年刊滋賀  『近江の石造美術6 近江石造美術概説他』 田岡香逸著 民俗文化研究会 昭和48年刊

 丹念に古書目録から文献を拾い上げると、『日本石仏事典』『日本石仏図典』『続日本石仏図典』に掲載された「文献目録」から洩れたものがみられる。特に『続日本石仏図典』以後に出版された文献はこうした形で収録する必要がある。無論、『日本の石仏』など石佛関係の雑誌に文献が載っているし、インターネットを利用して各地の図書館の蔵書から抜き出すなど多チャンネルを使うことと並行すればより多くの文献を知ることができる。(平成19・1・23記)
日野の庚申掛軸

 平成19年1月20日(日曜日)は多摩石仏の会新年例会であった。例年の通りに午前中は石佛見学に当て、午後から総会を行い、その後は歓談という段取りである。石佛の見学は多摩モノレール万願寺駅に午前9時30分集合、加地勝さんのコース案内によって総勢8人が日野市内を廻った。
 石佛巡りでは思わぬハプニング、サプライズがあった。加地さんの予定コースに入っていなかった青面金剛の掛軸と対面できたのである。犬飼さんが下田八幡宮の近くの生沼家に掛軸があるという話から、加地さんに拝見を断れて元々と気で交渉したらと勧めた。運がよいというか、玄関に出てきた生沼夫人は快く承諾され、座敷で掛軸を拝見できた。
 座敷でみた青面金剛の掛軸2幅については、すでに多摩石仏の会新年会の報告「日野市内を廻る」に書いたから、関係部分を抄出すると次の通りである。
    次に訪ねたのが生沼家(万願寺4−11)、この家に庚申講の掛軸があるというので、事前
   の連絡もなしに訪ねる。座敷に上がって快く掛軸2幅を拝見させていただく。掛軸は2幅共に
   青面金剛を描くもので、両者の大きな違いは2猿か3猿かにある。1幅は日月・火炎光背付青
   面金剛剣人6手・1鬼・2鶏・2猿・2童子・4薬叉、他は日月・火炎光背付青面金剛剣人6
   手・1鬼・2鶏・2猿・2童子・4薬叉である。
    前者は軸の長さが114cmで幅が34cm、画面の長さが58cmで幅が28cm、像高は青面金剛が26、
   童子が10cm、薬叉が11cm、猿が4cm、鶏が3cmである。後者は長さが114cmで幅が35cm、画面
   の長さが55cmで幅が27cm、像高は青面金剛が20cm、童子が13cm、薬叉が9cm、猿が5cm、鶏が
   4cmである。
    この掛軸を入れる記箱の表面に「猿田彦大神/金太郎」とあり、木蓋の裏側に「明治四辛未
   年六月/生沼金太郎」と記されている。木箱の底にも「猿田彦大神/□□表具入組入/生沼金
   太郎」と墨書される。木蓋の寸法は縦が48cmで幅が11cm、木箱は縦が47cmで幅が11cm、深さが
   8cmである。
    ゆっくりと掛軸の細部まで計測し、写真を撮り、急な訪問にお茶の接待を受る。こうした恵
   まれた機会が得られたのは幸いであるし、予定外の大収穫である。快く見学を承知された生沼
   夫人に感謝申し上げたい。
 日野の庚申塔・庚申講については犬飼さんが詳しく、昭和58年10月に日野市史編さん委員会から発行された『日野市史 民俗編』で「石仏と信仰」を執筆されている。
 『日野市史 民俗編』の259頁に載る第115図「庚申講の掛軸(下田)」の写真は生沼家で拝見した後者の掛軸である。この頁で新井の平姓9軒の庚申講にふれ、次の記述の中に青面金剛の掛軸がみられる。前後の文章を省いて示す。
    今は当番の家が力に応じた支度をする。青面金剛の掛軸を掛け、御神酒と、宿が用意した御
   馳走やそばをあげ、出席者もともに飲み食いし、世間話や相談事を話し合ったりした。
 この新井の他に落川上河内の庚申講が記されているが、庚申の掛軸の記述はない。河野正夫さんが担当された同書の「村の信仰」中で、246頁に「猿田彦命」にふれて「新井・川辺堀之内下組・東光寺中組などのように、青面金剛とは別に猿田彦命の掛軸を掲げて庚申待ちを行う村もあった」と記している。
 『日野市史 民俗編』からみる限り、下田と新井の青面金剛、新井・川辺堀之内下組・東光寺中組に猿田彦の庚申掛軸が記録されている。ここで問題となるのは猿田彦の掛軸というが、はたして主尊が猿田彦なのか疑問が残る。
 というのは先の報告に書いたように、青面金剛掛軸2幅を入れた木箱の表書きが「猿田彦大神」となっている点である。かつて、あきる野市伊奈の上伊奈庚申堂で行われた庚申の祭りを見学した。その庚申堂に安置されていたのが青面金剛石像、しかし堂の前に立てられた幟には「猿田彦大神」と記されていた。廃佛毀釈以後は青面金剛と猿田彦大神とが混同される例がみられる。機会があれば日野の庚申掛軸を実見したい。(平成19・1・23記)
日野の疱瘡神

 先の「日野の庚申掛軸」を書くに当たって、参照するために『日野市史 民俗編』(日野市史編さん委員会 昭和58年刊)を取り出し、頁を繰った。たまたま、河野正夫さんが担当された同書の「村の信仰」の最初205頁に「疱瘡神」の項目がある。
 205頁で疱瘡の信仰にふれ「古くから村々では疱瘡や赤痢などの疫病流行の際、桟俵を裏返して赤・青の幣束を立て、小豆飯を供えた。昭和15年ごろまで村の辻で見られた風景である」と書かれている。赤い幣束を桟俵裏に立て小豆飯を供える風習は、広く各地に行われいたことがわかる。
 疱瘡神については、206頁に次の記述がみられる。
    日野八坂神社では嘉永七年(1854)に八幡宮を再建したとき、境内に祀られていた末社
   疱瘡神・秋葉大権現・天満宮・蚕神の四社を合わせ、五社を合殿にして一宇に祀ったことが記
   されている(「同社400年祭年表)。
 境内末社であった疱瘡神は、八幡宮の他の末社3社と合祀された、と記録を紹介している。現在は疱瘡の恐怖がないだけに、このように他の神と合祀され、一見して「疱瘡神」とわからない事例があることを示している。
 同書に「疱瘡神」が記載されていないかと探すと、下田九一さんが執筆された「屋敷神と同族神」に記述がみられる。338頁の「表41 屋敷神祭神(仏・天)一覧表」の中には、「祭神名」に「疱瘡神」があり、「祭神数」が「5」とある。所在地には全くふれいないから、後述の56戸で複数の祭神を祀っているとしても、総数630柱の屋敷神から探すのは困難であろう。
 次頁の「表42 屋敷神の複合祭祀書上げ」には、「谷仲山」に2社以上の屋敷神を祀る家が4戸あり、その4番目に「疱瘡稲荷/観音/不明(1)」が記されている。後の343頁には「稲荷のうちにおしゃもじ稲荷とか、疱瘡神と呼ばれるものがる」とあるから、3社の中の「疱瘡稲荷」は「瘡守稲荷」を指すものかどうか。
 これも下田九一さんが担当の「俗信と民間療法」の中で「疱瘡神」にふれている。363頁の「マジナイ」の中で「疱瘡神の除けはさんだわらに赤い御幣を四本立てて四つ辻へ捨てる」とある。前記の河野さんと桟俵と御幣と辻の点では共通している。
 これも下田さんが書かれた「神社と寺院」を念のためにチェックすると、疱瘡神にふれた箇所がある。前記の八坂神社(日野本町3−14−12)の境内神社に「八幡社」があり、合祀された神として宇賀御魂神(稲荷)と市杵島姫命(弁財天)を挙げ、疱瘡神は無視されている(483頁)。
 ところが、八幡大神社(下田184 現・万願寺4−18−1)には境内神社が2社あり、十二天社の次に「疱瘡神社−祭神 大山咋大神 0・5坪」と記されている。20日の多摩石仏の会でこの神社の庚申宝筐印塔は注意してみたが、疱瘡神社には全く存在に気付かなかった。次の見学場所に向かうために境内を横切った時に木祠があったのは記憶しているが、これは1.5坪とある十二天社と思われる。(平成19・1・24記)
乙津の庚申掛軸

 庚申講で使われている多摩地方の掛軸を初めてみたのは、昭和40年9月である。現在はあきる野市となったが、当時は五日市町乙津である。乙津の追分組・荷田子上組・荷田子下組・日向上組・日向下組・青木平の6講で青面金剛の掛軸を用いている。
 乙津より遅れて調査した檜原村では青面金剛でなく、神戸上組と中里で猿田彦大神の掛軸を用いて以外に、八割組・暮沼組・白倉組の3組で猿田彦大神の木像を祀っていた。神戸の掛軸は『新多摩石仏散歩』(たましん地域文化財団 平成5年刊)の230頁、八割組など3組の木像は同書236・7頁に写真が載っている。
 乙津の調査は『乙津の庚申講』(私家版 昭和41年刊)にまとめている。檜原は『檜原村北谷の庚申講』(私家版 昭和40年刊)に書き、概略は前記の『新多摩石仏散歩』に載る「檜原村 猿田彦の山里」に記されている。
 乙津の6講で使われている青面金剛の掛軸は次の通りである。
   ┏━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━┓
   ┃組名   ┃掛軸の画像                   ┃年銘  ┃
   ┣━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━┫
   ┃追 分 組┃青面金剛・3猿                 ┃昭和11年┃
   ┠─────╂────────────────────────╂────┨
   ┃荷田子上組┃青面金剛・3猿                 ┃昭和11年┃
   ┠─────╂────────────────────────╂────┨
   ┃荷田子下組┃青面金剛・3猿                 ┃昭和11年┃
   ┣━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━┫
   ┃日向上組 ┃日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子・4薬叉┃安永10年┃
   ┠─────╂────────────────────────╂────┨
   ┃日向下組 ┃(前記の軸を日向上組と共有)          ┃    ┃
   ┣━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━┫
   ┃青 木 平┃日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子    ┃ 無年銘┃
   ┗━━━━━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┻━━━━┛

 追分組・荷田子上組・荷田子下組の3組の掛軸の年銘が同一であるのは、次の経緯があるからである。昭和11年に荷田子の庚申講を解散し、追分組・荷田子上組・荷田子下組の3組のに分割した。その際に寄付を募り、各講に1幅宛の青面金剛の掛軸を作った。これら3講の青面金剛は同1の絵柄で、中央に輪後光がある剣鈷6手立像、下部に3不型正向き3猿が描かれている。
 3講に分離した経緯については、荷田子上組の昭和11年4月庚申日付けの「庚申講連名簿」には
      略    歴
   昭和十年十一月二十六日浦野金一様宅ニ於テ日待執行ノ際講連二十九名決議ノ上三組ニ分離シ
   タリ別冊寄附帖之通リ講員之寄附ヲ仰ギ庚申尊画像3帖ヲ新調浦野恵都蔵様宅ニチ最後之日待
   ヲナシ開散三組ニ分ル同夜中島宗元師ヲ招キ開眼供養ヲナス  昭和十一年四月八日
      記
   寄附金消費決算
     一金拾壱円也     庚申尊画幅三幅新調費
     一金弐円五十銭也   画幅入箱代
     一金五十銭也     開眼供養読経御礼
     一金一円〇五銭也   清酒1升代
     一金弐円参拾五銭也  日待へ繰越
   収入金拾七円四拾銭也/支出金拾七円四拾銭也
         差引残金ナシ     以上と記されている。例えば荷田子下組の掛軸の裏面には、次のように記されている。
   昭和十一年三月 爰抽悃志委命工奉畫 庚申尊像涓取
   昭和十一年四月八日令辰 拜請安座入神讃揚 現天照山龍珠印 無因宗元
 追分組の掛軸を入れる木箱には「庚申御像入/昭和十一年四月八日 坂本月波寫」と墨書されている。例示したのは1例であるが、3講それぞれに記録が残っている。
 日向上組と日向下組の2組では青面金剛の掛軸を共有している。破損が酷くて不明の部分がみられるが、これも輪後光付きの6手立像(推定)を描くもので、3不型の3猿ではなく、御幣を持つ2猿である。2童子と4薬叉の画像がみられ、他の掛軸に比べて眷属が完備している。
 青木平の掛軸は「行年六十九年 眞南」の署名があるものの、年銘は見当たらない。輪後光付き剣人6手立像で2童子を伴い、4薬叉が省かれている。猿は日向両組と異なり、三不型の猿を描いている。
 掛軸を通して比較すると、荷田子3講が新しく、青木平は日向との中間、江戸末期から明治の作と推測できる。20日に日野の生沼宅で拝見した2幅は次の通りである。
   日1 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・2猿・2童子・4薬叉
   日2 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・2猿・2童子・4薬叉
 両軸共に木蓋の裏側に「明治4辛未年6月/生沼金太郎」と記されている点から考えても、廃佛毀釈以前、つまり江戸末期頃の制作であろう。乙津の傾向からみると、日1の軸が2猿の点で時代が日2より逆上ると考えられる。(平成19・1・24記)
阿南市の地神塔

 書棚をみていたら、最上段に並ぶファイルの中に「四国地神塔」と記された1冊がある。取り出して中をみると、阿波郷土会報『ふるさと阿波』や『岡山民俗』に混じり、徳島県羽ノ浦町の森本嘉訓さんから送っていただいた『ふるさと探訪 地神さんの調査(その1)(その2)』(阿南市教育委員会 昭和55・56年刊)2冊が入っている。
 『日本の石仏』第21号(日本石仏協会 昭和57年刊)に私が「地神塔の全国分布」を発表、文中に「阿南市婦人ボランティア活動文化財愛護コース『地神さんの調査(その1)』(昭和55年)があるけれども、まだ未見なのでふれられない」と書いた。これを読まれた森本さんからその後に発行された『地神さんの調査(その2)』を併せ、昭和58年3月にご送付いただいた。
 金沢治氏著の「徳島県」(『四国の民間信仰』に収録 明玄書房 昭和48年刊)で
    県内の地神さんは、だいたい同形であるのは、寛政の初年に藩は、地神さんの信仰と地神さ
   んを建立することを奨励したのである。そのために、県内の隅々にまで同じような形で点在し
   ているのである。明治維新後も「社日休奨励之事」と題するお触れが民政部名で発せられてい
   る。(44頁)と記るしている。
 この後に発行された『日本の民俗 徳島』(第一法規 昭和49年刊)では
    地神さんは徳島特有の農神で、藩政時代中期の寛政元年(1787)に、当時勢力のあった
   徳島城下富田八幡宮の祀官早雲古宝が藩主治昭に唱いて各村に地神祠を奉斎せしめ、朝野に祀
   らせたものという。と、先の著よりも詳しく書いている。
 改めて『地神さんの調査(その2)』を読むと、気になった点があるのに気付いた。というのはいうのは、後者を「地神塔の全国分布」の中で引用したからである。それが頭に残っていたから、徳島の地神塔は寛政以降の造立と思っていた。
 ところが、前記の『地神さんの調査(その1)』(以下『その1』と『その2』と略称)58頁の「第1表」、『その2』32頁の「造立年号と所在津」のトップには、横見町願能寺西分にある宝暦11年塔が載っている。その塔の明細を知るために『その1』の「地神さんの1覧表」を調べると、8頁に掲載されている。
 本塔は方形の石垣の上に方形の台石がのり、その上に平頭型の五角柱が置かれている。五神名は塔の五角柱に1面1神に配当され、正面から「五穀祖神 倉稲魂/○○祖神 天照大神/よめない/○○○○ 少彦名命/○○○○ 埴安媛命」の順に神名を刻む。年号は「宝暦十一天」、世話人に「喜太郎/亀之助/江川和三郎/江川嘉五郎」とある。
 2番目に古い塔は、津の峰町中分舳先の寛文3年塔である。この塔は『その1』の「地神さんの1覧表」の18頁にみられ、同地の古路神社にある。自然石の上に方形の台座を置く五角柱、正面に「天照皇太神」、以下時計廻りに「大己貴命/少名彦命/埴安媛命・倉稲魂命」の神名を刻む。年銘は「寛政十亥年二月十三日」、世話人銘はない。
 宝暦11年塔は五神名の上に「五穀祖神」などを冠しているいるが、この種の地神塔は桑野町にある明治27年塔2基にみられるだけである。寛政以降幕末までの江戸時代の塔では、単に5神名を記すのみである。こうした点を勘案すると、藩主の意向で造立された地神塔とは違いある。
 森本嘉訓さんが『ふるさと阿波』第100号(阿波郷土会 昭和54年刊)に発表された「3好町における地神塚と地神信仰・」には、同町中村の地神塔にふれている。この塔は「土御祖神 埴安媛命・五穀祖神 倉稲魂命・農業祖神 天照大神・五穀祖神 大己貴命・五穀祖神 少彦名命」の五神名が、台石2段目に「寛政六□八月吉□」の年銘が刻まれている。寛政6年塔に「五祖神」があるのが気にかかる。
 また同年同月銘のツヅラの地神塔にも「土御祖神 植安姫命・五穀祖神 倉稲魂命・農業祖神 天照大神・五穀祖神 大己貴命・五穀祖神 少彦名命」の五神名が、台石2段目に「寛政六寅年八月吉日」の年銘が刻まれている。
 さらに 男山の文化8年塔と貞安の無年銘地神塔にも前記と同じ冠付きの五神名があり、報告の17基中4基にみられる。この点は指導者の問題かもしれないが、藩主の命があってからの造立で、阿南市の造立年代とは異なっている。阿南市と併せて今後の課題である。
 阿南市の地神塔では、もう1つ気になる点がある。それは、町内にある六角柱の地神塔の存在である。『その2』13頁の塔形分類が載っており、五角柱が144基(94・1%)、6角柱4基(2・6%)、自然石3基(2・0%)、石祠2基(1・3%)と圧倒的に五角柱が多い。同じ頁に指摘されているように、6角柱は椿町に4基分布し、五神名の他に「埴安彦命」が加わっている。
 また福井町の年不明石祠には「倉稲魂命」に代えて「埴安彦命」を入れ、更に「猿田彦命」が増えている。同町の明治40年の五角柱塔は「埴安媛命」の代りに「猿田彦命」を宛てている。五神名地神塔に「猿田彦命」がみられるのが変わっている。(平成19・1・25記)
一代守本尊の石佛

 昨日は「四国地神塔」のファイルから話題を選んだが、今日はその隣にある「山形村関係資料」から取り上げる。山形村は長野県東筑摩郡にある。この村には昭和52年8月と翌53年8月、1年おいた55年8月と夏休みに3度訪ねている。
 ファイルの中にある『石造文化財 その1(道祖神篇)』(山形村教育委員会 昭和47年刊)にみられるように、村内には文字道祖神を含めて35基の道祖神がある。双体道祖神の中では、代表的なのは下大池の「筒井筒」である。村で発行した「石仏と道祖神の宝庫 信州山形村」のリーフレットには、村内の双体道祖神15基の写真を掲げている。
 そうした双体道祖神も魅力的であるが、私にとって思い出があるのは清水寺の石佛である。特に特異な仁王と3重塔に興味を持った。『石造文化財 その2(解説篇)』(山形村教育委員会 昭和47年刊)の32頁で仁王、35〜36頁で3重塔を解説している。
 清水寺にある享保15年造立の3重塔の第1層と第2層の4面には、各面に1体ずつの佛像と十二支の動物が浮彫りされている。この8体の佛像こそが表題に使った「一代守本尊」の石佛である。一代守本尊は『佛像図彙』に載っているので知っていたが、実際に石佛をみたのはこの三重塔が初めてである。
 『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)では明王と天部の像容が主たる担当、1部の如来や菩薩にふれた。第2版の「補遺」では広範囲の像容を扱ったが、全く「一代守本尊」を採り上げることはなかった。
 最初に「一代守本尊」について執筆したのは、日本石仏協会編の『日本石仏図典』(国書刊行会昭和61年刊)である。26頁に「概説」を載せ、以下、子年の「千手観音」、丑・寅年の「虚空蔵菩薩」、卯年の「文殊菩薩」、辰・巳年の「普賢菩薩」、午年の「勢至菩薩」、未年の「大日如来」、酉年の「不動明王」、戌・亥年の「阿弥陀如来」の各項目にわけ、27頁から29頁までに示した。
 「一代守本尊」は8体の佛像が生まれ年の守本尊に配当されている。8体の佛像とは、2如来・5菩薩・1明王から構成され、このことから「8体佛」とも呼ばれる。
 『日本石仏図典』ではこの清水寺の他には、報告があった次の石佛を取り上げた。
   福島県双葉郡浪江町井戸 山神祠参道   佐藤俊1氏報告
   長野県更埴市八幡 霊諍山        多田治昭氏報告
   愛知県豊川市麻生田町 養学院      加藤孝雄氏報告
 なお、多田治昭・加藤孝雄の両氏からは写真の提供を受けた。
 『日本石仏図典』で「一代守本尊」を担当したことから、以後はこの種の石佛に注意を払うようになった。これまでみたものはいずれも都内にある現代作の「一代守本尊」である。
   順 見学日      所在地                出典
   1 平成6年6月11日 東京都小平市小川町1丁目 小川寺   『平成六年の石佛巡り』
   2 平成10年1月4日 東京都文京区小石川3−7−4 真珠院 『平成十年の石佛巡り』
   3 平成13年5月4日 東京都府中市片町2丁目 高安寺    『野仏』第32集
   4 平成16年2月18日 東京都豊島区巣鴨5−35−5 功徳院 『東京石佛ウォーク2』
 ただし1は純然たる「一代守本尊」ではなく、十三佛の中で該当する7体に別に作った千手観音を加えて構成している。他の3か所は独立した「一代守本尊」である。
 多摩石仏の会の犬飼康祐さんから聞いた話では、東京都町田市高ケ坂に祥雲寺にもある、という。『石仏を歩く』(日本交通公社出版事業部 平成6年刊)に「町田」のコースを担当し、コースの最後に祥雲寺を取り上げているが、当時は「一代守本尊」は見当たらなかった。その後の造立であろう。 「一代守本尊」自体が余り知られていないので、石佛も少ないようで江戸時代まで逆上るものは少数である。都内でみたものは何れも戦後以降の造立である。(平成19・1・26記)
山形村の庚申塔

 「一代守本尊の石佛」でふれた「山形村関係資料」ファイルには、実に思いがけない資料が入っている。その1つは、この地方で知られている上野庚申堂の御札である。御札は縦が31cmで幅が14cmの和紙、中央に火炎光背付きの剣人6手の青面金剛立像(像高14cm)が鬼の上に立ち、両横に内側を向く童子(像高4.5cmと5cm)を従える。岩座の下に右横書きで「松本/市外 上野庚申總本山」、下部に内向型3猿(像高2.5cm)を描く。2鶏や4薬叉はない。
 もう1つが「上野庚申総本山」他の連名による「趣意書」、昭和54年9月の日付が記されている。前半部と後半部を省略するが、これには中間に次のように記されている。
   昭和五十五年は六十年に一度の庚申の年に当たります。
   庚申年の記念事業として(中間省略)
   庚申殿(本堂建立寛延元辰年)は 明治4年廃寺となり明治十五年信徒の方々の熱意に依り再
   興。此のときに大改修を行いました。その後余り手も入らず、堂宇は荒れるままになっており
   ました。此の由緒ある庚申殿を修理致し六十年に一度の大開帳を執り行いたく計画しました。
 この趣意書裏面に「記念事業/1、阿弥陀如来三尊仏収蔵庫建設/2、阿弥陀如来三尊修理/3、庚申殿大改修及周辺整備/総工費 4千5百万」とあり、収蔵庫の正面図と平面図を添えている。
 話題が上野庚申堂に逸れたが、山形村の庚申塔に戻して筆を進める。ところが、村内の庚申塔の記憶が余りない。確かに昭和53年・53年・55年の3回に撮った写真をみても、双体道祖神の写真は多いが、庚申塔の写真は僅かである。たまたま双体道祖神と並んでいたから撮ったような写真が含まれている。
 もっとも52年は上諏訪で1泊してから山形村へ行き、翌年は辰野へ寄ってから山形村に入り、朝日村や松本市へ足を延ばしている。特に55年の場合は、波田町を廻った上に目的が松本市今井・北耕地の庚申講と昭和庚申年塔、梓川村上野で前記の庚申講と上野庚申堂の聞取調査だったので、山形村内の石佛は写真を撮る程度であった。
 話が上野庚申堂に戻るが、梓川の斎藤弥久次さん(大正14年生まれ)からの聞書によると、初庚申の参詣者は例年の2割増し、庚申堂(真光寺)発行の青面金剛の庚申掛軸も例年10幅から15幅出ているそうである。北耕地の庚申講で用いられている掛軸2幅の内、白描のものは上部に真光寺の丸印と上野庚申の角印が押されている。この調査結果は「松本辺の庚申2講」(『まつり通信』247号 まつり同好会 昭和56年刊)に発表している。
 山形村では双体道祖神を中心に写真を撮っただけで、調査のメモを取らなかった。ここで庚申塔を取り上げたのは、『石造文化財 その2(解説篇)』(山形村教育委員会 昭和47年刊)の「庚申塔」に記載の塔の中に3尸銘がみられるからである。この解説に取り上げられた代表的な庚申塔は次の4基である。
   1 村内最古の庚申塔  元禄2 笠付型 上大池・公民館前の墓地内 26〜7頁
   2 朱塗りの庚申塔   元禄11 板碑型 下大池・橋爪西の辻の広場 27〜8頁
   3 学術上貴重な庚申塔 安永8 柱状型 中大池・中下耕地     28頁
   4 龍頭の庚申塔    寛政7 自然石 上大池・上耕地三叉路南  28〜9頁
 1・2・4の3基は青面金剛の刻像塔、3は文字塔である。1の像容は日月・青面金剛・2鶏・2猿、4手の青面金剛を主尊とする。2も1と同様の像容で4手像である。3は日月・青面金剛・2鶏・3猿で、主尊は1と2の4手像と異なり合掌6手である。
 紹介したいのは3の文字塔である。柱状型塔の上部には日天と月天を配し、中央に「二十三夜」と「天帝三膨」と2行にわけ、その下に「供養塔」と刻む。側面に「安永八己亥年三月吉日」の年銘と「中村講中」の施主銘を彫っている。「三膨」は上尸・中尸・下尸の三尸を示す。
 この塔に関してはすでに『農村信仰誌−庚申念佛篇』(六人社 昭和18年刊)23頁に「二十三夜天帝三膨供養塔 1 (山形)」とあり、164頁に「二十三夜天帝三膨供養塔(安永8年、中村講中)(山形中大池)」と記されている。
 多摩石仏の会の中山正義さんは「三尸銘」を刻む庚申塔に関心を持ち、平成6年8月に『全国の三尸塔』(私家版)を発行している。長野県の項をみると
   1 延宝8 板碑型 「・・去三尸何□除」  上伊那郡高遠町御堂垣外 諏訪神社
   2 明和1 笠付型 「除三支之塔」     中野市金井 本水寺参道
   3 安永8 柱状型 「・・天帝三膨供養塔」 東筑摩郡山形村中大池
   4 寛政12 自然石 「庚申三尸神」     諏訪市下諏訪 来迎寺
   5 文政3 柱状型 「・七守庚申三尸滅・」 下伊那郡豊丘村
   6 年不明 笠付型 「除〓尸之罪」3猿   木曽郡大桑村須原 定勝寺の6基を掲げている。
 山形村では双体道祖神に気を取られ、庚申塔、特に中大池の三尸塔を見逃して点を自戒する。その意味でもここで取り上げた。(平成19・1・26記)
『石仏散歩 悠真』

 平成19年1月26日(金曜日)、多摩石仏の会の多田治昭さんから私家版『石仏散歩 悠真』の第17号と第18号の2冊を受け取る。第17号は1月15日発行で「地蔵菩薩2」特集、第18号は1月22日発行の特集「神奈川県の石仏2」である。
 今回送られてきた第17号は、第15号(昨年12月14日の発行)の「地蔵菩薩1」の続編である。前回の特集は「六地蔵」を扱っている。今回の第17号は、いろいろな持物をを執る地蔵菩薩の特集である。表紙には胸前で蓮台を両手で持つ地蔵菩薩立像の写真を掲げている。
 「まえがき」に続き、卍字を持つ地蔵菩薩と蝋燭を持つ地蔵菩薩の写真が2枚掲げている。次ぎに本文に入り、一般にみられる「錫杖」を取り上げ、通常接する錫杖の次ぎに予想外の曲がった錫杖を持つ地蔵を紹介し、さらに錫杖上部の拡大写真で変化相を示している。
 錫杖に次いで取り上げたのが「柄香炉」を執る地蔵の写真、一口に「柄香炉」といっても種々の形があるのがわかる。参考までに「柄香炉」を持物にする石仏には、聖徳太子の孝養像がみられる。
 続いて「香炉」を手にする地蔵の写真を並べる。通常は腹上に両手で香炉を持つが、左手に香炉を持ち、右手の片手拝みの立像が紹介されている。ただこの地蔵の持物が香炉か、あるいは蓮台か迷うところがある。
 「幡幢」を執る地蔵菩薩は六地蔵の中の1体にみられ、幡幢が頭上で靡くもの、横側に下げるものがある。昨年の日本石仏協会の寒川・茅ヶ崎見学会で茅ヶ崎の寺でみた六地蔵の中には、幡幢を腹前で横に両手で持つ1体があった。また同じ六地蔵の中に次の「天蓋」に入る腹前に両手で天蓋を執るものがみられた。
 また、幡幢の先端にも変化があり、先に動物や閻魔がついたものがある。人頭杖に幡幢が付くものがあり、単に人頭が坊主頭の他に髪を結ぶものが珍しい。ここに分類された写真の中には、次の「天蓋」へ移行した方がよいと考えられる地蔵がある。「天蓋」も思いがけない持物である。
 続いて「宝珠」を取り上げ、普通は両手で宝珠を持つが、三角形のオムスビ状のものがある。「宝珠」と次の「数珠」は、六地蔵の持物では一般的である。続いて仏具の「如意」や「拂子」執る地蔵の写真が並んでいる。
 来迎2十五菩薩にみられる持物に楽器がある。これが地蔵の持物になり、「銅鑼鼓」や「鉞」の楽器を持つ地蔵が存在する。ここに分類された1枚には、叩き鉦と棒を持つ地蔵を撮ったものがある。
 最後の「蓮華」は、未敷蓮華や蓮台を執る地蔵が並んでいる。蓮台の場合には、両手を重ねた上に蓮台を持つもの、蓮台を両手の間に置くもの、片手に持って他の手で印を結ぶもの等がみられる。
 これまで漫然と六地蔵をみていたが、持物の種々相にも注意を払うと興味が出てくるだろう。
 第18号は第13号(昨年11月23日の発行)の「神奈川県の石仏1」の続編である。松田町・南足柄市・小田原市の庚申石祠を含み庚申塔を廻っている第13号に続き、今回は秦野市・大井町・小田原市・中井町にある次の庚申塔を廻っている。
   1 寛文11 流造型 「奉山王権現離・・・」2猿   秦野市渋沢峠
   2 天和3 笠付型 「山王権現/奉造立庚申」3猿  秦野市渋沢 喜叟寺
   3 延宝8 笠付型 日月「起請善法□是□・・」3猿 大井町山田 天神社
   4 天和2 笠付型 (二十一種子)3猿       大井町雑色 BS「雑色」
   5 寛文11 笠付型 「奉造立庚申供養」3猿     大井町比奈窪 公民館
   6 寛文8 宝塔型 「山王□□」2鶏・2猿     大井町半分形
   7 寛文8 宝塔型 「奉造立庚申供養」3猿     大井町久所 八幡神社
   8 寛文11 駒 型 3猿              小田原市沼代
   9 享保2 笠付型 「奉納庚申供養」        小田原市沼代
   10 寛文12 板碑型 3猿              中井町藤沢
  11 年不明 笠付型 「爲庚申供養也」3猿      中井町井の口 蓑笠神社付近
 1は側面にに猿を配した庚申石祠、昭和58年8月21日の多摩石仏の会の例会では犬飼康祐さんの案内で秦野市を訪ね、渋沢では庚申石祠と地天の掛軸をみている。2は正向型3猿で塔の3面に、3も同様に正向型3猿の3面配列、4は正面に正向型3猿を浮彫りする。5は正向型3猿を3面に配列する。
 6は表紙に写真が使われ、正面の2鶏の下に向かい合わせの2猿、7は正面下部に塞口猿、本文ではふれていないが猿が3面に配置されていると思われる。8は塔の下部に内向型3猿とういうより、左端の塞口猿が内を向き、中央の塞耳猿と右端の塞目猿が塞口猿に向き合う。9は3面に猿を配し、10は塔の下部に正向型3猿を浮彫りする。 11 は3面下部に猿を配置する。ここにはもう1基か2基の笠付型の庚申塔がみられるようであろう。
 『石仏散歩 悠真』の特色である写真を使った表現は、文章表現と違って視覚に直接的に訴える。第1号の「血盆経」特集が昨年5月21日に発行されて以来、これまで8か月で18冊のハイペースで発行されている。小冊子といえども、関東地方の各地で撮影した写真を特集としてグルーピングし、視覚に訴える手法は現代的である。
 多田さんのこうしたハイペースの発行がいつまで続くか予測がつかないが、今後も今よりも間隔があき、頁数が少なくても続けて発行されることを期待したい。同時にこのような好資料をいかに効果的に利用できるかも、受け手側の手腕によるし、責任でもある。このような発信(発行者)と受信(受け手)の好関係が保たれることが望まれる。(平成19・1・26記)
 
あとがき
      前書『石佛雑記ノート1』は1月15日に発行された。本書はその続編である。今回は
     1月に2回と、かなりハイペースの発行である。今後は1か月か2か月に1冊の割りで刊
     行し、年間に少なくても10冊が出せればと考えている。
      ただ書き出すと連鎖的に次々に進む傾向があり、今回も「四国地神塔」のファイルから
     「阿南市の地神塔」が生まれた。これに続いて隣にあった「山形村関係資料」ファイルへ
     と移行し、「一代守本尊の石佛」と「山形村の庚申塔」につながった。2冊のファイルに
     はまだ書く種は詰まっている。
      蔵書の中にも書く種が山ほど潜んでいるので、積んである本の中から発想を得て書く方
     法がある。結構、買ったり貰ったりした本が読まずに眠っている。こうした本を利用する
     ためにも、読んで種にし、種を発酵すればよい。
      ともかく書くことで意外に知らないことが多々あり、これを調べて書けば勉強になる。
     書けないのは不明な点が多いからで、書くために物事を注意深く観察し、調査するように
     なる。まえに書いたものを読んで不満があるようなら、進歩があった結果である。
      書く種は常に身の回りにあるのだから、種を発見してこれからも焦らずに弛まずに『石
     佛雑記ノート』を書き進め、号数を重ねていきたい。内容的には一方に偏らず、変化に富
     むように心掛けたい。
      末筆ながら今号の種を提供された岡村庄造さん・石田年子さん・加地勝さん・森本嘉訓
     さん・中山正義さん・多田治昭さんなど多くの方々に感謝したい。
                            ─────────────────
                             石佛雑記ノート2
                               発行日 平成19年1月30日
                               TXT 平成19年9月19日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 多摩野佛研究会
                            ─────────────────
 
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