石川博司著     石佛雑記ノート 3     発行 多摩野佛研究会  
目次    ◎ 『石佛月報』1月号  ◎ 小山江戸初期の庚申塔    ◎ 栃木の庚申塔年表   
        ◎ 不動三十六童子   ◎ 〔参考〕不動三十六童子図像  
        ◎ 岡村庄造さんの来信   ◎ 『秩父民俗』より            あとがき
『石佛月報』1月号

 平成19年2月1日(木曜日)、宇都宮の瀧澤龍雄さんから『石佛月報』1月号が送られてきた。前回の6部限定の発行が、今回は2部増えて8部発行だという。月報に添えて改訂版の『栃木県小山市 江戸前期迄の庚申塔まとめ』が同封されている。
 先月17日(水曜日)には、小山市網戸の寛文9年3猿塔のカラー写真入りのおハガキを受け取った。上部に日月、下部に正面向3不型3猿と蓮華を浮彫りした板碑型塔で、1見して延宝期を下ることはないと感じられる。これに「石佛月報1月号は『小山市の庚申塔特集』として執筆中」とあり、別の場所に「詳細は月報にて」とも記されていた。
 『石佛月報』1月号は、タイトルに「栃木県小山市の庚申塔特集号(1)」が付く。「(1)」とあるから、今後「(2)」以下の発行が考えられているのであろう。これまでカラー印刷された月報の写真が今年から原則としてモノクロ印刷ということで、この号は表紙に1色使いの写真を載せているが、本文は白黒の写真である。この号で取り上げられた庚申塔は、次の15基である。
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   ┃番│題名        │年銘  │所在地          ┃
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   ┃1│小山市の数庚塔   │万延1年│生良 愛宕神社付近路傍  ┃
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   ┃2│道標付き庚申文字塔 │寛政12年│間中 観音堂       ┃
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   ┃3│小山市の名号庚申塔 │寛文10年│大本 谷新田地区路傍   ┃
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   ┃4│県内初見の青面金剛様│無年銘 │宮本町2丁目 千手観音北西┃
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   ┃5│念佛講中の造塔庚申 │享保13年│間中 観音堂       ┃
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   ┃6│不逞3猿の庚申塔  │元文5年│中久喜 持福院      ┃
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   ┃7│紀年銘の推定作業  │貞享3年│松沼・本郷 薬師堂    ┃
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   ┃8│泣き伏す猿さあん  │元文5年│松沼 仲内公民館     ┃
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   ┃9│自問自戒の庚申塔  │延宝8年│間中 県道クランク北角地 ┃
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   ┃10│邪鬼と言えども・・・│元文5年│萩島 田神神社南路傍   ┃
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   ┃11│読めぬ梵字庚申塔  │元禄5年│黒本 薬師堂敷地     ┃
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   ┃12│またまた庚申塔   │延宝5年│島田 南島田路傍     ┃
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   ┃13│スカッとした出会い │正徳4年│上初田 星宮神社前    ┃
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   ┃14│仰向けの邪鬼    │万延1年│上初田 愛宕神社     ┃
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   ┃15│嬉しくも当惑の出会い│寛文9年│網戸 本宿集落センター  ┃
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 1は110cmを越す「百庚申」と刻む主銘の自然石塔である。瀧澤さんは「百庚申」や「千庚申」などの主銘の庚申塔を「数庚塔」と呼び、栃木県内のこの種の塔を記録している。文中に「私が持っている小山市庚申塔データから、万延年間の庚申塔造立数を見てみると総数55基があった」と庚申年の造塔が盛んであったことがわかる。
 この生良地区の庚申塔は4基、内この塔の隣に立つ延宝8年塔は庚申年造立であるが、ここには元文5年と寛政12年の庚申塔は見当たらない、という。必ずしも庚申年毎に庚申塔を建てたわではなさそうである。
 栃木県は昭和庚申年の塔が長野・新潟に続く第3位の造立数である。そのことは小山市内に万延年間55基からもうかがえる。また同封の『栃木県小山市 江戸前期迄の庚申塔まとめ』に記載された延宝年間の17基中、過半数の9基が延宝庚申年塔である。
 2は120cmを越す寛政庚申年造立の駒型文字塔、正面に隷書体で「庚申塔」とある。境内にもう1基、隷書体庚申塔があるが、この塔を「暫くぶりに見る、惚れ惚れするような庚申文字塔である」と評している。この文字を揮毫した人物の名前が当面に見当たらないのが「残念」と書いている。
 この塔の表題にある「道標付き」は両側面に記す「右満々田」と「左小やま道」に由来する。瀧澤さんはこの道標銘から近くの十字路から移動されたと推測している。
 3は中央に2猿を大きく扱い、底部の2鶏も比較的大きく浮彫りしている。上部の日月の間に「南無阿彌陀佛」の名号を刻み、表題の「名号庚申塔」となる。栃木県内で最古の名号庚申塔という。
 中央に大きく2猿を陽刻することは、小山市では同年翌々月の11月に青面金剛が中里に出現するから、まだ猿の神格が認められたことを示すのであろう。2猿が向かい合う日光型の初出が延宝元年だから、1方の猿が正面向き、他方が横向きである。
 4は紀年銘がない剣人6手立像、円光を背負う青面金剛である。瀧澤さんが「初見」とういのは、青面金剛の上方手に宝珠と宝鈴を執るからで、こうした持物を栃木県内で初めて見たという意味である。宝鈴から旧浦和市にみられる人鈴型の青面金剛を思い出す。
 この塔の興味があるのは、下部にある横長の絵馬状枠内に御幣を持つ横向きの猿と脇に雌雄の2鶏を浮彫りするところである。この絵馬枠の上に正向型3猿がみられるから、1体ならば4猿2鶏ということになる。
 5は駒型塔正面に「奉造立庚申爲惣村中安穏也」の主銘、台石正面に内向型3猿を浮彫りする。左側面に「下野國都賀郡間中村念佛講中」の施主銘から、表題の「念佛講中の造塔庚申」が生まれた。庚申信仰と念佛信仰との交流がみられる。
 6は柱状型塔の正面の上部に日月、中央に「ウーン 庚申供養」の主銘を刻み、下部に正向型3猿を浮彫りする。元文5年の庚申年の造立である。表題は下部の3猿の姿態から出たもの、3猿それぞれが足を投げ出した姿である。中央の塞目猿の左手は目を塞いでいるが、右手は目からずれている。この猿は「あかんべ」をして瀧澤さんをからかっている姿に感じている。
 7は合掌6手像と正向型3猿を浮彫りする板駒型塔。瀧澤さんは・青面金剛が合掌6手像、・上方手が蛇でなく宝輪の持物、・大型3猿の3点から江戸前期の可能性を感じて再調査した。その結果、年号は欠けて不明であるが、日付の「十月九日」は読める。「十月九日」は庚申の当たり日とすると貞享3年が該当する。
 当たり日から「貞享三年」と推定するため松沼周辺の庚申塔を含め、他の石佛まで調査している。ともかくある範囲にある同1種の石佛を数多くみれば、おおよその造立年代は推定である。かつで昭島市にある庚申塔の造立年代を推定したら、後に台石が発見されて推定が妥当だった体験がある。
 8は「ウーン 青面金剛」が主銘の板駒型文字塔、上部に日月瑞雲、下部に内向型3猿を浮彫りする。題名の「泣き伏す猿さん」は、左端の塞口猿が「一猿が何が悲しいのか泣き伏している姿」に見立てて付けられている。
 この頁で「不読箇所」がある場合に、それぞれの塔に「欠け」「剥離」「磨耗」「埋没」「再読挑戦」などと不読原因が記されている。こうしておけば再調査する時にも対応がとりやすい。今後の調査に参考になる。
 9は正面に「キリーク 奉供養庚申二世安樂攸施主敬白」と主銘を刻む柱状型の文字塔、右側面に「供養数三十人捨悪自善之所」、裏面に「南無阿彌陀佛」の名号を刻む。瀧澤さんは裏面の6字名号をみて「まだまだ昔の人々には足下にも及ばぬ事を悟る一時である」と、思いを込めて表題にある「自問自戒」したのである。
 10は元文5年の庚申年造立の合掌6手像、1見するとどこにでもある日月・青面金剛・1鬼・3猿を陽刻する刻像塔である。指摘されて気が付くが、邪鬼上に布状の敷物が乗っている。瀧澤さんは青面金剛が「素足で毛氈を敷いた姿と理解する」とし、題名を「邪鬼と言えども・・・」としている。
 11は上部に日月・瑞雲、下部に正向型3猿を浮彫りする元禄5年塔である。主銘は梵字5字が刻まれている。塔写真の5字を拡大した拓本が載っているが、通常の庚申塔にみられる梵字ではない。瀧澤さんは3字目を「シン」、5字目を「ヨウ」とよみ、これから類推して「奉供養庚申」の当て字とみている。これが表題の「読めぬ梵字庚申塔」、何とも読めない梵字である。
 12は光背型塔に剣人6手像の青面金剛の刻像塔である。この塔で眼を惹くのは上部に天蓋がみられる点である。板碑には天蓋や瓔珞が付くものがあるが、庚申塔では稀である。表題の「またまた庚申塔」は天蓋ではなく、青面金剛の「写真写りの良い姿に出会うと又してもカメラを向けている」と文中に記して点から付けられている。
 13は青面金剛の光背型刻像塔、標準的な合掌6手像とは上方左手にトグロを巻く蛇を掌上に乗せているが異なる。こんれが表題の「スカッとした出会い」とは関係なく、写真を撮るには不適な石佛調査が続き、それを吹き飛ばす出会いをいっている。見慣れた石佛でも時と場合によると「スカッとした出会い」になる例である。
 14は標準的剣人6手像の刻像塔、変わっているのは題名の「仰向けの邪鬼」である。瀧澤さんの調査でこの種の邪鬼は、県内に真岡市の正徳5年塔と佐野市の万延元年塔と併せて3基あるという。
 多田治昭さんの『仰向けの邪鬼』(私家版 平成16年刊)には、関東地方でみた仰向けの邪鬼の写真が載っている。神奈川が10基で最も多く、次いで千葉の8基、埼玉の7基と続き、群馬が2基、東京と栃木が各1基の計29基である。この中で瀧澤さんが撮影された真岡市の正徳5年塔が最古の邪鬼である。私も荒川区でこの種の邪鬼をみているから、まだまだ塔数は増えるだろうが、そう簡単に出会える邪鬼の姿態ではない。
 最終の15は前記のお葉書にあった寛文9年塔、それまで小山市最古の庚申塔は網戸の長慶寺の寛文9年塔であった。15の塔は同じ網戸で同じ日付に造立されている。瀧澤さんは昨年暮れに小山市の江戸初期の庚申塔をまとめたが、今年になって延宝元年塔とこの塔を発見している。
 表題の「嬉しくも当惑の出会い」は、小山市内にある江戸初期の庚申塔の調査が済んだと思っていたところに、今年に成って新たに2基の塔が発見されたことによる。塔の新発見による嬉しさがある反面、改訂版を考えて当惑した状況が現れている。
 これまでに庚申塔を調査した私の体験からいえば、普通の調査では分布している塔の5割から7割位しか調べられない。まして手抜き調査では5割を割るし、日数をかけて自分では充分に調べた積もりでも9割程度である。もっとも、現在では各市町村の石佛悉皆調査が進んでいるので、このデータを使えば簡単に9割程度の調査はできるであろう。ともかく、瀧澤さんさんの小山の調査は取り敢えず一応の結末をみた。(平成19・2・2記)
小山江戸初期の庚申塔
 宇都宮の瀧澤龍雄さんから平成19年2月1日(木曜日)に『石佛月報』1月号が送られてきた。この月報に添え、改訂版の『栃木県小山市 江戸前期迄の庚申塔まとめ』が同封されている。
 先の『石佛雑記ノート1』に発表した「小山市の初期庚申塔」は、昨年暮れに送られてきた『栃木県小山市 江戸前期迄の庚申塔まとめ』を基にしている。今回の『石佛月報』1月号に同封されたのは、前回同様「江戸前期迄」の範囲を「貞享年間」としている。
 前回の版は平成18年12月末日現在の24基を記載、今回の改訂版では19年1月末日現在で、その後に調査した庚申塔を加えて29基に増加している。冊子の最初に
   小山市/江戸前期迄の庚申塔/まとめについて
    二〇〇六年十二月に、栃木県小山市の庚申塔(江戸前期迄)を纏めて印刷下が、年が開けた
   新年早々に寛文九年銘と延宝元年銘が相次いで新たに確認できた。その後、これはいかんと更
   に本気になり、一月に六度続けてまだ精査の終えていない、庚申塔を再確認したところ、見落
   としを含めて次々と新たな江戸前期造塔の確認された。(中略)今回、どうにか小山市の庚申
   塔(特に紀年銘不明塔を中心に)は見終えたつもりでいるので、これ以上の江戸前期造立の庚
   申塔はまず出てこないだろうと思っている。(後略)と、今回の改訂版発行の経緯を記している。
 前回は塔データ3頁と塔写真3頁とが別建てで編集されていたが、改訂版では塔データ9基の次の頁にその塔の写真を掲載している。網戸・本宿・集落センターの寛文9年塔から松沼・本郷・薬師堂の貞享3年塔までの29基を収録する。前回と同じように、各塔毎に台帳番号・所在地・紀年銘・像容名・サイズ・信仰名・形態名・石文他の7項目が記入されている。
 改訂版で新たに記載された庚申塔は、次の5基である。
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   ┃番│年銘 │塔形 │特徴           │所在地         ┃
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   ┃01│寛文9│板碑型│日月・3猿        │網戸・本宿 集落センター┃
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   ┃05│延宝1│光背型│日月・日光型2猿・蓮華  │大本・岡坪 お地蔵様  ┃
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   ┃13│延宝8│駒 型│青面金剛・1鬼・3猿   │生良 水神社      ┃
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   ┃20│延宝8│丸 彫│来迎阿弥陀如来      │出井 薬師堂境内    ┃
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   ┃26│貞享1│光背型│日月・青面金剛・2鶏・3猿│上生井 大乗寺跡・公民館┃
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 01は『石佛月報』1月号の「嬉しくも当惑の出会い」で取り上げた塔。
 05は「キリーク クアカラバア 奉刻立石塔庚申待 成就 □□ 意趣者爲二世安禾」の銘文がある。
 13の主尊は合掌6手立像、注記に「年号箇所が欠けているが、延宝8年塔とした」とある。塔の写真からみて、この推定は妥当である。
 20は首が欠失し、全体的に傷がある来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像である。注記に
    三猿姿も無く、(中略)紀年銘が庚申当たり日であること、「結衆」の文字があること、加
   えて「申得」(「申待」?)とあるので、庚申塔と確定した。と、年号確定の理由が書かれている。
 26の主尊は合掌6手立像、下部に正向型3猿が浮彫りされている。注記に「年号部分が欠けているが、干支と像容から延享元年塔ではなく貞享元年塔とする」とあり、妥当と考えられる。
 新記載の5基は以上に述べた通りで、他の24基については、前記の「小山市の初期庚申塔」で簡単にふれている。(平成19・2・2記)
栃木の庚申塔年表

 平成19年2月2日(金曜日)、多摩石仏の会の中山正義さんからお手紙が届いた。封を切ると中にお手紙に栃木の庚申塔年表が同封されている。年表は「栃木県寛文の庚申塔年表」と「栃木県延宝の庚申塔年表」である。
 中山さんは地元の埼玉県を始めとし、隣接する関東地方各都県の「寛文」と「延宝」に絞った庚申塔年表を作成している。これまでに送られてきた茨城・群馬・栃木・埼玉・千葉・東京・神奈川の1都6県の庚申塔年表が手許にある。
 「栃木県寛文の庚申塔年表」は、B5判2頁に栃木市の寛文元年から足利市の寛文年間までの42基の庚申塔を列記している。末尾に「2007・1・15(第十五稿)」とあり、これまで14回にわたり新規の塔を加え、塔の内容について書き換えが行われたことがうかがわれる。

 年表は「寛文」も「延宝」も同じ形式で、上から順に番号・年銘・刻像と銘文・塔形・所在地・調査度合が1基毎にされている。「番号」は造立の日付順、「刻像と銘文」はその位置がわかるように記載される。塔形は清水長輝さんの『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)に準じた分類である。「所在地」は限られた13字に収めている。
 最下段にある「調査度合」の記号は、平成16年にいただいた「神奈川県 寛文の庚申塔仮年表」に「○印は実査 △印は教示、文献で、銘文と配列のわかるもの」とあり、それ以外の塔は無印である。栃木の寛文の場合は、○印や△印の説明が省かれているが、記載された42基の中で○印が41基、△印1基で無印は1基もない。
 中山さんは、すでに金石資料第13集再改訂版の『全国江戸初期の庚申塔 元和から万治まで』(私家版 平成8年刊)を発表されている。表紙裏の「都府県別年代1覧表」によると、栃木県は寛永が3基、正保が1基、慶安が2基、承応が4基、万治が3基の計13基がみられる。それら13基の明細は、2頁から4頁にかけて刻像・銘文・塔形・所在地・参考文献を記載し、実査した慶安元年の「参考」塔1基を加えている。

 ともかく年表からいろいろ事柄が読み取れる。猿が庚申塔面に出現するのは、日光市の寛永18年塔からで前記13中に9基に猿がみられる。その内の8基までが2猿、栃木市の万治2年塔のみが御幣を持つ1猿である。
 寛文年間になると、その様相が変わることがわかる。寛文7年1月までは初期の2猿の傾向が続くが、鹿沼市の寛文7年2月造立の合掌地蔵庚申に初めて3猿が現れる。翌3月に足利市の文字塔、翌8年に下野市の弥陀庚申と3猿の比率が高くなってくる。勿論、2猿が消えたわけではなく、大平町・足利市・小山市・栃木市・日光市などでみられる。
 江戸初期(元和〜万治)の庚申塔では、2猿が上部に刻まれることはあっても、佛像が主尊となるのは栃木市の万治2年に青面金剛以降である。寛文年間になると、藤岡町の寛文5年塔など6基に栃木万治の系統を引く4手青面金剛像が刻像塔が主体となる。藤岡町ではの寛文10年塔には、初めて2童子が登場する。まだ4薬叉は塔面には現れない。
 青面金剛以外の主尊が刻像塔で3基あり、鹿沼の寛文7年塔と佐野市の寛文11年塔に地蔵菩薩、下野市の寛文8年塔に阿弥陀如来坐像が登場する。鹿沼の地蔵は合掌像で3猿を伴い、下野市の阿弥陀に日月と3猿、佐野の地蔵に2鶏3猿が付く。ともかく佐野市の地蔵には「勝面金剛」の銘がみられるから、青面金剛の波及が各地に及んでいる。
 前記のように江戸前期は万治の青面金剛が僅かに1基だであったが、寛文年間になると6基に増加している。万治の傾向を受け継いでいていずれも4手像である。

 鶏は万治2年に御幣猿と1鶏1猿の形式で初登場し、この型は小山市の寛文10年塔・藤岡町の11年塔の2基にみられる。2鶏は佐野市の寛文5年塔以降に6基が造立され、内2鶏2猿形式が3基、2鶏3猿形式が4基となる。
 塔形をみても江戸初期の場合は板碑型地が10基主体、他に石燈籠と柱状型塔と光背型塔の各1基である。寛文年間に入ると板碑型塔が28基と優位性が続くが、光背型塔が10基に増す。寛文3年からは笠付型が新規参入するが、まだ2基に止まる。他に日光市に自然石塔(寛文9年)、鹿沼市に石燈籠(寛文13年)が各1基ある。
 文末に宇都宮の瀧澤龍雄さんの調査報告を受け、野田市の戸向朝夫さん運転の車で廻っている。この年表の影には2人の強力な協力者が付いている、と記している。

 同送の「栃木県延宝の庚申塔年表」は、B5判6頁に足利市の延宝元年塔から小山市の延宝9年塔までの182基に、参考として延宝以前に推定される下野市の1基を加えている。末尾に「(第34稿)2007・1・22」とあり、寛文以上に塔数が多いために、これまで何度となく塔の挿入や書換えが行われたことが推測される。
 延宝の年表は前記の「寛文」と同じ形式で、上から順に番号・年銘・刻像と銘文・塔形・所在地・調査度合が1基毎にされている。「番号」は造立日付順、「刻像と銘文」はその位置がわかるように記載、塔形は『庚申塔の研究』に準じた分類である。12字の範囲で「所在地」を記している。
 最下段にある「調査度合」は、183基記載の中で△印が日光市2基と2宮町・小山市各1基の4基、無印は日光市と茂木町に各1基である。以前の年表は「仮年表」となっていたが、今回は「仮」が取れている。
 ともかく、寛文年表同様に延宝の年表からいろいろ事柄が読み取れる。
 寛文年間になると、藤岡町の寛文5年塔以降の刻像塔6基に青面金剛の全部が4手像である指摘した。延宝年間では2手像が小山市の8年塔、4手像が足利市の3年塔、佐野市と足利市の8年塔と3基だけとなり、佐野市の延宝元年塔以降は6手像が圧倒的に多くなる。この中に上方手に日月を捧げもつ「万歳型」と呼ばれている6手像は、足利市の3年塔以降に12基を数える。
 寛文年間には青面金剛以外に地蔵菩薩と阿弥陀如来が主尊にみられたが、延宝年間では上記二尊の他に、次に示すように薬師如来と如意輪観音菩薩が加わる。すなわち佐野市の2年塔に地蔵、日光市の6年塔に薬師坐像、2宮町の8年塔に如意輪観音坐像、足利市の延宝8年推定塔に阿弥陀である。また北斗7星を刻むものが、小山市の3年塔と鹿沼市の8年塔と2基ある。
 寛文年間に3猿の比率が高くなったと前に指摘したが、寛文同様に2猿が消えたわけではない。延宝元年は2基、2年は4基、3年は5基、4年は3基、5年は1基、6年は4基、8年は14基、の33基みられる。この他に1猿が2年に足利市1基、3年に同市1基、4年に佐野市1基と僅かながら3基存在する。特に異なるのは、小山市の延宝3年塔に2猿と3猿を組み合わせた5猿、荷宮町の6年塔に4猿がみられる点である。
 鶏は2鶏3猿形式が圧倒的に優位であるが、それ以外の2鶏と1鶏の塔は次の6基である。
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   ┃塔番号┃形  式│年 号│主尊主銘│手数│塔 形│所    在     地 ┃
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   ┃ 21┃2鶏1猿│延宝4│青面金剛│6手│板碑型│栃木市新宿 勢至堂    ┃
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   ┃176┃2鶏2猿│延宝3│青面金剛│文字│板碑型│栃木市大宮町 大宮小学校側┃
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   ┃ 48┃2鶏4猿│延宝6│青面金剛│6手│板駒型│二宮町長沼 八幡神社   ┃
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   ┃118┃1鶏1猿│延宝8│青面金剛│2手│光背型│小山市鉢形 中央公民館前 ┃
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   ┃ 33┃1鶏1猿│延宝4│青面金剛│6手│光背型│栃木市沼和田 愛宕神社  ┃
   ┣━━━╋━━━━┿━━━┿━━━━┿━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━┫
   ┃ 53┃1鶏2猿│延宝6│青面金剛│6手│光背型│足利市本城1 善徳寺墓地 ┃
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 塔形をみても江戸初期の場合は板碑型塔が10基で主体、他に石燈籠と柱状型塔と光背型型塔が各1基である。寛文年間に入ると板碑型塔が28基と優位性が続くが、光背型塔が10基に増す。寛文3年からは笠付型が新規参入するが、まだ2基に止まる。他に日光市に自然石塔(寛文9年)、鹿沼市に石燈籠(寛文13年)が各1基ある。
   年号別塔形一覧表
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   ┃年 号┃板碑│光背│板駒│丸彫│柱状│駒型│笠付│自然│手洗石│不明┃合 計┃
   ┣━━━╋━━┿━━┿━━┿━━┿━━┿━━┿━━┿━━┿━━━┿━━╋━━━┫
   ┃延宝1┃ 3│ 1│ 1│ 0│ 0│ 0│ 0│ 0│  0│ 0┃  5┃
   ┠───╂──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼───┼──╂───┨
   ┃延宝2┃ 5│ 2│ 0│ 1│ 0│ 0│ 0│ 0│  0│ 0┃  8┃
   ┠───╂──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼───┼──╂───┨
   ┃延宝3┃ 5│ 1│ 7│ 1│ 2│ 0│ 0│ 0│  0│ 0┃ 16┃
   ┠───╂──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼───┼──╂───┨
   ┃延宝4┃ 3│ 4│ 3│ 1│ 1│ 1│ 0│ 0│  0│ 0┃ 13┃
   ┠───╂──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼───┼──╂───┨
   ┃延宝5┃ 1│ 3│ 0│ 0│ 0│ 0│ 0│ 0│  0│ 0┃  4┃
   ┠───╂──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼───┼──╂───┨
   ┃延宝6┃ 2│ 7│ 1│ 0│ 0│ 0│ 1│ 0│  1│ 0┃ 12┃
   ┠───╂──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼───┼──╂───┨
   ┃延宝7┃ 0│ 0│ 0│ 0│ 0│ 0│ 0│ 0│  0│ 0┃  0┃
   ┠───╂──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼───┼──╂───┨
   ┃延宝8┃22│68│16│ 0│ 5│ 0│ 9│ 1│  1│ 1┃123┃
   ┠───╂──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼───┼──╂───┨
   ┃延宝9┃ 1│ 0│ 0│ 0│ 0│ 0│ 0│ 0│  0│ 0┃  1┃
   ┣━━━╋━━┿━━┿━━┿━━┿━━┿━━┿━━┿━━┿━━━┿━━╋━━━┫
   ┃合 計┃42│86│28│ 3│ 8│ 1│10│ 1│  2│ 1┃182┃
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 塔形からも寛文年間にみられなかった板駒型・丸彫・駒型・笠付・自然石・手洗石が加わり、石燈籠の造立がみられない。この辺にも寛文と延宝の違いがみられる。
 寛文と延宝の年表から読み取れる事例を示したが、これはごく大雑把なもので表面的な部分のみを述べただである。前記の『全国江戸初期の庚申塔 元和から万治まで』と年表を併せて分析すると、栃木県の江戸時代初期における庚申塔の傾向が理解できる。例えば、直前に掲げた「年号別塔形一覧表」を寛永から延宝までの期間で作成すると、塔形の変遷がよくわかってくえう。期間を短く切らずに長期の視野で一連の流れをみると、まだまだ指摘いない事例が多い。
 寛文の年表と同様に文末には、宇都宮の瀧澤龍雄さんの調査報告を受け、野田市の戸向朝夫さん運転の車で廻った、と記している。この年表の背後に2人の強力な協力者がいることを示している。
 いずれにしても中山さんは長年根気よく文献調査を行い、広く情報を集めて実地で調査している。精度の高い情報ならよいが、中には不確実な情報が混じっている。所在は確かでも銘文の誤読があったり、調査洩れの項目がみられたりする。そうしたことは実地でなければ情報の精度も確認できないし、それによって報告者の正確度が読めてくる。
 今回の寛文と延宝の年表によって栃木県内のこの期間の庚申塔はカバーできた。ともかく中山さんの熱意、それを支える瀧澤龍雄さんや戸向朝夫さんの協力に感謝したい。(平成19・2・4記)
不動三十六童子

 不動三十六童子は『日本の石仏』第14号(日本石仏協会 昭和55年刊)に発表した私の「いろいろな石仏 『日本石仏事典』補遺」の中で「不動八大童子」と共に取り上げたのが最初である。これを加筆して『日本石仏事典』第2版(雄山閣出版 昭和55年刊)の「補遺」には「不動八大童子」と「不動三十六童子」を執筆した。写真は杉並区高井戸西・吉祥院の八大童子2葉、鎌倉市今泉・称名寺の三十六童子4葉を選んで載せた。
 多摩石仏の会の赤坂六郎さんは『日本の石仏』第17号(日本石仏協会 昭和56年刊)に「不動明王の使者石像 特に田無持宝院の童子について」を発表された。この中で西東京市(当時は田無市)向台町の持宝院の八大童子と三十六童子にふれている。
 その後『庚申』第89号(庚申懇話会 昭和60年刊)に「三十六童子石仏全国分布」を公表した。これに記載した三十六童子は、昭和60年9月16日現在で次の通りである。
   ┏━┯━━━━━━━━━━━━━━━━━━┯━━━━━━━━━━━━┯━━━━━┓
   ┃番│所在地               │文献/報告       │備考   ┃
   ┣━┿━━━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━━┿━━━━━┫
   ┃1│栃木県今市市轟 富士山南麓     │『日本の石仏 南関東篇』│現・日光市┃
   ┠─┼──────────────────┼────────────┼─────┨
   ┃2│埼玉県朝霞市岡 東円寺       │            │     ┃
   ┠─┼──────────────────┼────────────┼─────┨
   ┃3│埼玉県朝霞市根岸台 御岳神社    │            │文 字 塔┃
   ┠─┼──────────────────┼────────────┼─────┨
   ┃4│埼玉県朝霞市根岸台5丁目      │            │文 字 塔┃
   ┠─┼──────────────────┼────────────┼─────┨
   ┃5│東京都杉並区高井戸西 吉祥院    │            │     ┃
   ┠─┼──────────────────┼────────────┼─────┨
   ┃6│東京都田無市向台町 持宝院(大正12)│            │現西東京市┃
   ┠─┼──────────────────┼────────────┼─────┨
   ┃7│東京都武蔵村山市三ツ木 滝ノ入不動 │            │     ┃
   ┠─┼──────────────────┼────────────┼─────┨
   ┃8│神奈川県鎌倉市今泉 称名寺     │            │明治年間 ┃
   ┠─┼──────────────────┼────────────┼─────┨
   ┃9│山梨県北巨摩郡白洲町島原 奥石尊神社│『日本の石仏 甲信篇』 │     ┃
   ┠─┼──────────────────┼────────────┼─────┨
   ┃10│広島県尾道市日比崎町 龍王山    │『日本の石仏 山陰篇』 │     ┃
   ┗━┷━━━━━━━━━━━━━━━━━━┷━━━━━━━━━━━━┷━━━━━┛
    〔注 記〕 明治25〜26年の造立で平成の大合併で現在は北杜市である。
 『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)では大護八郎さんが「不動三十六童子」を担当し、「八大童子」の「概説」と各童子の解説を私が受け持った。『続日本石仏図典』(国書刊行会 平成7年刊)では、松村雄介さんが「八大童子9」と「不動三十六童子」、中上敬一さんが各童子を執筆した。『続日本石仏図典』で前記を除いて明らかになった三十六童子は、次の通りである。
   ┏━┯━━━┯━━━━━━━━━━━━━━━━━┯━━━━━┓
   ┃番│年銘 │所在地              │備考   ┃
   ┣━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━┫
   ┃11│現 代│神奈川県横浜市西区 成田山横浜別院│     ┃
   ┠─┼───┼─────────────────┼─────┨
  ┃12│近 代│長野県岡谷市成田町 蓮華不動院  │     ┃
   ┠─┼───┼─────────────────┼─────┨
   ┃13│大正6│長野県木曽郡上松町 駒ヶ岳神社  │     ┃
   ┠─┼───┼─────────────────┼─────┨
   ┃14│近 代│愛知県岡崎市能見町 能見不動山  │     ┃
   ┠─┼───┼─────────────────┼─────┨
   ┃15│現 代│徳島県板野郡板野町大寺 歓喜天  │     ┃
   ┗━┷━━━┷━━━━━━━━━━━━━━━━━┷━━━━━┛
 日本石仏協会の田中英雄さんは『日本の石仏』第70号(日本石仏協会 平成6年刊)に「御岳信仰と不動三十六童子」を発表されている。その中で次の文字塔3か所を報告している。
   ┏━┯━━━┯━━━━━━━━━━━━━━━━━┯━━━━━┓
   ┃番│年銘 │所在地              │備考   ┃
   ┣━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━┫
   ┃16│年不明│群馬県甘楽郡下仁田町 吉崎御岳  │文 字 塔┃
   ┠─┼───┼─────────────────┼─────┨
   ┃17│年不明│埼玉県秩父郡両神村 両神山    │現小鹿野町┃
   ┠─┼───┼─────────────────┼─────┨
   ┃18│年不明│長野県木曽郡大滝村 御嶽山    │文 字 塔┃
   ┗━┷━━━┷━━━━━━━━━━━━━━━━━┷━━━━━┛
 多摩石仏の会の縣敏夫さんは『日本の石仏』第87号(日本石仏協会 平成10年刊)に「高尾山の町石」を発表、現存する明治9年の町石8基に三十六童子の中の1童子がそれぞれに陰刻されていると報告している。高尾山薬王院にある青銅製の三十六童子はよく知られている。
   ┏━┯━━━┯━━━━━━━━━━━━━━━━━┯━━━━━┓
   ┃番│年銘 │所在地              │備考   ┃
   ┣━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━┫
   ┃19│明治9│東京都八王子市高尾町 高尾山   │町石陰刻像┃
   ┗━┷━━━┷━━━━━━━━━━━━━━━━━┷━━━━━┛
 その後発見されたものに、次の所沢の三十六童子がみられる。ここには明治10年の主銘「三十六童子供養塔」の文字塔があり、造立由来や配置図を刻む平成10年の「南無三十六童子」塔がある。
   ┏━┯━━━┯━━━━━━━━━━━━━━━━━┯━━━━━┓
   ┃番│年銘 │所在地              │備考   ┃
   ┣━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━┫
   ┃20│明治10│埼玉県所沢市本郷 東福寺     │破損・欠失┃
   ┠─┼───┼─────────────────┼─────┨
   ┃21│平成10│埼玉県所沢市本郷 東福寺     │     ┃
   ┗━┷━━━┷━━━━━━━━━━━━━━━━━┷━━━━━┛
 平成18年4月1日(土曜日)の石仏談話室で前記の田中英雄さんが「不動三十六童子」を話された。レジメに以上の表に洩れた次の3か所の三十六童子を挙げている。他に福島県2か所・千葉県1か所・東京都2か所・神奈川県1か所の計6か所にある青銅製の三十六童子を加えている。
   ┏━┯━━━┯━━━━━━━━━━━━━━━━━┯━━━━━┓
   ┃番│年銘 │所在地              │備考   ┃
   ┣━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━┫
   ┃22│年不明│群馬県桐生市 三峰山       │文 字 塔┃
   ┠─┼───┼─────────────────┼─────┨
   ┃23│年不明│山梨県甲州市 大滝不動尊     │     ┃
   ┠─┼───┼─────────────────┼─────┨
   ┃24│年不明│長野県伊那市西箕輪        │文 字 塔┃
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 手許には表紙に「不動関係」と記されたA4判写真ファイルがあり、ファイルは5大明王・八大童子・三十六童子の3つの見出しで区分されている。
 ファイルの「三十六童子」の場合は1頁を4分割し、見開きの右側(奇数頁)の上段2区に童子図像のコピー、下段2区には上段に対応する童子のL判写真を貼っている。左側(偶数頁)には図像以外の写真を貼る。童子の図像は、成田山佛教図書館蔵の『法談』第2号(成田山新勝寺法談会 昭和35年刊)と『朝霞の石造物・』に掲載された図像による。
 ファイルの上段に図像を2枚並べ貼るったのは、成田と朝霞の童子図像に違いがみられるからである。例えば阿波羅底童子の図像を例にすると、成田は左手に羂索、右手に矛を執る。ころが朝霞は両手で柄香炉を持つ。もう1例の戒光慧童子を示すと、成田は左手に宝鈴、右手に利剣を持ち、朝霞は両手で矛を執る。所沢・東福寺の新丸彫像は台石に童子名を記す成田の系統、朝霞・東円寺の丸彫像は童子名がなく、朝霞図像の系統である。
 鎌倉・称名寺の浮彫り像は童子名を刻み、阿波羅底童子が左手に羂索、右手に羂索を執り、成田とも朝霞とも違いがみられる。しかし戒光慧童子は左手に宝鈴、右手に利剣を持つ成田と同じ像容がある。このように称名寺の場合は、成田の図像と同じ持物と違う持物の像とが混合している。
 尾道・龍王山の浮彫り像の場合は、例えば小光明童子は像の右側に「小光明童子」の童子名、左側に「廾2番」の番数を彫る。持物をみると阿波羅底童子が左手に独鈷、右手に短剣を執り、戒光慧童子は両手で短剣を持つ。成田とも朝霞とも図像の共通性がない。
 八大童子は『諸尊図像集』や『佛像図彙』に図像が示され、儀軌に記されている。これと異なり三十六童子は儀軌もないし、従って図像集に載っていない。各地にある同じ童子の像を並べて比較すると、系統が明らかになる。
 所沢・東福寺の新丸彫像は成田図像、朝霞・東円寺の丸彫像は朝霞図像であるように、いずれの三十六童子も何らかの図像を基にして造像されていると考えられる。現在のところ、基本となる図像が何種類あるかは不明であるが、少なくとも成田系の所沢・東福寺、朝霞系の朝霞・東円寺、混合系の鎌倉・称名寺、別系統の尾道・龍王山の4系統がみられる。ただ鎌倉や尾道の場合は、石像の背後に図像が存在するかどうか不明である。(平成19・2・6記)
〔参考〕不動三十六童子図像

 前項で成田図像と朝霞図像にふれたが、具体的にどのような図像であるのか、ここに示したい。
 ここで取り上げた成田図像は、多摩石仏の会の赤坂6郎さんが『日本の石仏』第17号(日本石仏協会 昭和56年刊)に発表された「不動明王の使者石像 特に田無持宝院の童子について」の中で死された図像である。54頁の「三十六童子肖像(1)」と55頁の「三十六童子肖像(2)」の2頁にわたる。この原画は「成田図書館蔵」とあり、52頁に「高田定吉」が「東叡山深秘絵所神田宗庭藤原要信謹写之」を模写したというから、『法談』第2号に記載されたのものと思われる。なお、『法談』第2号は成田山佛教図書館に蔵書がある。
 朝霞図像は『朝霞の石造物・』(同市史編さん室 平成5年刊)に掲載されたものである。原本は「真言宗智山派別格本山 高幡山明王院金剛寺所蔵」とある。引用された図像には「倶梨迦羅不動及び八大童子 高幡山蔵」と「不動尊眷属 三拾六童子 高幡山蔵」の2種がある。
  〔注 成田図像と朝霞図像は、省略する〕              (平成19・2・6記)
岡村庄造さんの来信

 平成19年2月13日(火曜日)、高知市の岡村庄造さんからお手紙をいただく。中に岡村さんがいう「拓影カード」が20枚同封されている。「拓影カード」は縦が132mmで横が180mm、横位置の場合は縦横が逆である。このカードは拓本の写真に計測図と銘文を付し、注記がみられる。
 同封された「拓影カード」の1枚が青梅市柚木町・即清寺を扱ったものである。これを例に説明すると、題名が「即清寺 除災招福尊4面塔」、下に造立年代を示す「江戸末期(無年号)」、横に所在地の「東京都青梅市柚木町1−4−1 即清寺石段途中」がある。
 カード上部に正面と両側面の拓本3枚を並べ、左端下に背面の拓本を縮尺して配置している。拓本の縮尺は12・3分の1である。拓本の下には4面の銘文と参考文献を記し、右下に石塔の図と計測値(cm単位)を入れている。
 下手な説明を加えるよりも、手許に『日本の石仏』第116号(日本石仏協会 平成17年刊)あれば、口絵を参照されるとよい。実物よりも多少縮小されていうが、福岡県嘉穂郡庄内町筒野権現谷にある養和2年板碑の岡村さん作成の「拓影カード」が載っている。この号には岡村さんが連載されている「石塔の基礎知識・」があり、文中に拓本が利用されている。
 このようなカードが他に19枚あるので、紹介すると次の通りである。配列は東から西へ、同じ県の場合は造立年代順とする。番号上の「※」印は横長を示す。
   番 題名             造立年代    所在地
   1 碓氷峠旧中仙道 上り下り地蔵 室町期(無銘) 群馬県碓氷郡松井田坂本 旧中仙道
   2 熊久保道祖神         寛永2年    群馬県群馬郡倉渕村権田 熊久保
   3 小沢神社 偈頌入道祖神    明和1年    群馬県甘楽郡南牧村小沢 小沢神社前
   4 吉見長源寺 複合六地像板碑  康永2年    埼玉県比企郡吉見町吉見 長源寺庫裏
   5 宗清寺 阿弥陀三尊画像板碑  応安6年    埼玉県児玉郡美里町白石 宗清寺覆堂
   6 下高萩 蚕神三尊石仏     文化5年    埼玉県日高市下高萩 公会堂前
   7 岡田 秘密念仏弥陀石仏    承応3年    神奈川県寒川町岡田3−6−24墓地
   8 平穏弥勒石仏         大治5年    長野県下高井郡山ノ内屁平穏 弥勒堂
   9 中谷蚕影山三尊石仏      安政2年    長野県木曽郡木曽福島町新開 公民館
   10 妻籠 寒山拾得石仏      江戸後期(無銘)長野県南木曽町妻籠宿 延命地蔵堂前
  ※11 西耕地 真造道祖神      明治45年    長野県松本市今井・西耕地(空港西)
   12 駒場 一身双頭道祖神     文化13年    岐阜県中津川市駒場 小手の木坂上
   13 八百津 播隆名号塔2題    天保5年    岐阜県加茂郡八百津町野上大門西 他
   14 美濃上野 白隠法華塔     天保14年    岐阜県美濃市上野・歩岐 県道路傍
  ※15 柳生 徳政磨崖碑       正長1年    奈良県奈良市柳生町中村 疱瘡地蔵
   16 藤尾 阿弥陀石仏       文永7年    奈良県生駒市藤尾町 暗越え峠道中腹
  ※17 当尾 唐臼の壺弥陀磨崖仏   康永2年    京都府相楽郡加茂町東小 旧東小田原
  ※18 高瀬 石堂薬師石佛      嘉元4年    岡山県阿哲郡神郷町高瀬・仲村
   19 御來迎臼井水碑        江戸後期(無銘)愛媛県東予市楠・臼井水
 14のカードには付箋がついており、次の文章が記されている。
   『続日本石仏図典』186頁に白隠名号塔とありありますが、名号ではなく「常念」で側面には
   「法華塔」と記されています
 確かに『続日本石仏図典』(国書刊行会 平成7年刊)の当該の頁をみると、この塔の写真が載っている。カードをみると、塔の表面中央に大きな字で「常念」、左下に小さな字で「観世音菩薩」、その下に「白隠」の角印を陰刻する。右側面に「法華塔」、下に「覚堂写」、横に「天保十四年癸卯暮秋上浣」の年銘がある。
 通常「名号」といえば「南無阿弥陀佛」の「六字名号」、また「法華塔」の「法華」からは「南無妙法蓮華経」の「題目」を想起する。法華経(妙法蓮華経)の第25章は「観世音菩薩普門品」(観音経)で、この点から「観世音菩薩を常に念ずる」と理解できる。地元では「常念さま」と呼ばれて信仰されているという。カードの注記には次のように記されている。
   ○ 白隠慧鶴禅師は、臨済禅中興の祖と云われ、禅の大衆化をはかり、法華を重んじて観音信
   仰の一句で、常に思い念ずることまた「正念」なりとして、深遠の理義ありという。
 「白隠名号塔」の説明には白隠について大半を費やし、肝心の部分は「白隠の筆跡を写し刻んだ名号塔」とあるだけで、具体的にそのような「名号」であったかは示していない。
 各カードを詳しくみると、いろいろな問題を含んでいる。前記の「白隠名号塔」もその1例で、最初に書いた即清寺の石塔には、背面に「七九供養塔」が刻まれている。これが何を意味するものかもわかっていない。
 鶴ヶ島市の臼井政枝さんが『日本の石仏』第80号(平成8年刊)に「妙見菩薩の像容を追って」を発表し、その中で即清寺の石塔を取り上げている。この「七九供養塔」を北斗七星・九曜・星供養の関連を考えておられる。恐らくその延長上にある信仰と思われる。
 拓本の大きさがまちまちで整理に苦労する。私の場合は拓本を巻いて保存しているが、数が少ないのでそれほど大きな問題になっていない。それでも原本に当たるのは大変である。岡村さんのようにB6判大のカードけで整理してあると、執筆など利用する上で便利である。拓本を整理する1つの方法である。多摩石仏の会の縣敏夫さんや中山正義さんの場合は、どのような整理をしているのか改めて聞いてみたいものである。
 『日本の石仏』第113号(平成17年刊)掲載の岡村さんの「拓本による資料の確認とお願い」、同誌第117号(平成18年刊)掲載の縣さんの「近世墓塔における頭字・下置字」には、拓本が資料として利用されている。縣さんの場合は、縮小コピーを使って拓本の原稿を作っている。
                                  (平成19・2・14記)
『秩父民俗』より

 平成19年2月15日(木曜日)は、さいたま市の県立浦和図書館を訪ねる。秩父地方の獅子舞を調べようと秩父民俗研究会の『秩父民俗』の合本をみていたら、創刊号(昭和43年刊)と第8号(昭和47年刊)が目に入った。創刊号の8頁から11頁に載っていたのは、亀倉貞雄さんの「秩父路の民間信仰 素材調査報告」である。調査地は旧荒川村・横瀬町・皆野町日野沢地区の3地区である。
 報告の構成は「1、はじめに」「2、像碑の種類」「3、像碑の地域別調査数」「4、像碑の分布概況」「5、像碑の建立年代」「6、建立者、目的、その他」で、「3」は数表のみ、他に「建立年代1覧表」がみられる。
 「1」では、すでに秩父市内の2回の調査があり、その結果は市教育委員会から報告書の形で発表され、3回目の今回は市の報告書と同一形式を取ったと記している。調査地3か所は前記の3か所である。「2」像碑の種類では、地区別に「地蔵」から「大黒天」まで16種の刻像塔と文字塔にわけ、供養塔は独立した1項目としている。ごく簡単に地区別調査数を示すと、次の通りである。
   ┏━━━━━┳━━━┯━━━┯━━━┳━━━┓
   ┃地  区 ┃刻像塔│文字塔│供養塔┃合 計┃
   ┣━━━━━╋━━━┿━━━┿━━━╋━━━┫
   ┃荒川地区 ┃ 64│ 14│ 15┃ 93┃
   ┠─────╂───┼───┼───╂───┨
  ┃横瀬地区 ┃ 94│ 22│  5┃121┃
   ┠─────╂───┼───┼───╂───┨
   ┃日野沢地区┃ 12│  2│  4┃ 18┃
   ┗━━━━━┻━━━┷━━━┷━━━┻━━━┛

 関心がある庚申塔をみると荒川2基、横瀬3基、日野沢1基、内青面金剛刻像塔が横瀬と日野沢に各1基である。この調査結果からみると、秩父地方の庚申塔の分布はそう多いとは思えない。
 「3」の像碑の地域別調査数は、昭和42年12月30日現在の「像碑の地区別調査数」が1覧表形式で示されている。この表は、地区を荒川、横瀬(横瀬と芦ヶ久保)、日野沢と4区分して掲載している。「4」の像碑の分布概況では、秩父市と比較して「おおむね農山村であるので万遍なく分布している」とし、寺院や墓地、辻などに集められ、旧道沿いに多い1般的な傾向としている。続いて各地区の特長を述べている。
 「5」像碑の建立年代では、荒川と横瀬が秩父市と比較して「平均して建立されている感を持つ」と述べている。この項でいただけないのは「延宝以後であるのは、秩父市の寛文年代にくらべ、約70年後になっている」の箇所である。「寛文」の次が「延宝」で70年の差がありようがない。
 「6」の「建立者、目的、その他」では、建立者は個人と講中とし、個人造立が多いのが地蔵と指摘している。大黒天を「他地区の例から考えて商人仲間の手になるものであろう」推測しているが、多くの場合は甲子講の造立が考えられる。石材や規模にふれ、最後に荒川・日野の延命地蔵を中心とする講にふれている。
 第8号には32頁から34頁にかけ、栃原嗣雄さんの「秩父の社日信仰」が掲載されている。社日信仰に関係がある次の6例を挙げている
   ┏━┯━━━┯━━━┯━━━━━━━━━━━┯━━━┓
   ┃順│年銘 │形態 │所在地        │備考 ┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━┿━━━┫
   ┃1│年不明│5角柱│野上町長瀞 荒神堂境内│写真1┃
   ┠─┼───┼───┼───────────┼───┨
   ┃2│明治31│5角柱│秩父市中寺尾 県道路傍│写真2┃
   ┠─┼───┼───┼───────────┼───┨
   ┃3│年不明│5角柱│皆野町金沢・諏訪平  │写真3┃
   ┠─┼───┼───┼───────────┼───┨
   ┃4│昭和26│木 祠│秩父市大野原・下宿  │移 転┃
   ┠─┼───┼───┼───────────┼───┨
   ┃5│年不明│5角柱│旧大駄村       │   ┃
   ┠─┼───┼───┼───────────┼───┨
   ┃6│年不明│不 明│皆野町下田野     │未調査┃
   ┗━┷━━━┷━━━┷━━━━━━━━━━━┷━━━┛

 1・2・3は5神名地神塔であるが、4は「地神社 昭和二十二年当所氏子中」の額がかかる9尺4方の木祠である。境内の「地神社新築記念碑」によって昭和26年に現在地に移された。実際に調査したわけではないが、秩父地方の場合は、児玉地方の影響を受けて5神名地神塔が造立されたと考えられる。地神塔とはいわずに「シャニッッアマ」(社日塔)と呼んでいるのも共通する。
                                   (平成19・2・16記)
あとがき
     
      『石佛雑記ノート1』と『2』の前2書は、思ったよりも気軽に簡単に早く書けたが、
     本書は多少無理してまとめた面がある。1か月に1冊という期限は、思ったよりも大変で
     ある。『日本石仏事典 第2版』の「不動三十六童子」のフォローもあるが、その1例は
     「〔参考〕不動三十六童子図像」に多くの頁を割いたことである。苦肉の策といえる。
      多摩石仏の会や日本石仏協会を含めて石仏談話室は、本書の別枠として処理しているた
     めでもある。すでに多摩石仏の会の新年会、2月の石仏談話室の原稿はすでにできている
     ので、これを加えればボリュームは充分にある。しかし、これらは例年の通り、別に年間
     で1書にまとめようと考えている。
      行動を起こして書き続けるのも1法であるが、手許にある蔵書を利用すれば、書く材料
     もあるかもしれない。今後はこうした点を考慮し、題材として取り上げないと、1か月に
     1冊のペースは保てない。また、これまでに発表した中から中途半端だったもの、あるい
     はその後に見つけたデータを折り込むことも行う必要がある。なるべく広い範囲を視野に
     入れて続編を発行したい。
      行動を起こしてといえば、2月17日(土曜日)に神奈川県足柄上郡山北町向原の能安
     寺で行われた世附百万遍念佛を見学した。その折りに堂の前に佛足石がみられる。念佛が
     終わってから寺の境内を廻ると、百番観音の石佛がみられる。これらも当然書く材料にな
     るはずである。特に石佛と考えて行動しなくても、他の事柄で出掛けたついでに題材が得
     られることがある。
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                             石佛雑記ノート3
                               発行日 平成19年2月28日
                               TXT 平成19年9月21日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 多摩野佛研究会
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