石川博司著  石佛雑記ノート 5   発行 多摩野佛研究会
目次     ◎ 青梅の六地蔵の一様相  ◎ 青梅市内六地蔵巡り1   ◎ 青梅市内六地蔵巡り2  
        ◎ 青梅市内六地蔵巡り3   ◎ 青梅市内六地蔵巡り4  
        ◎ 『石仏散歩 悠真』21号   ◎ 『石仏散歩 悠真』22号    あとがき
青梅の六地蔵の一様相

 日本石仏協会主催の第158回の石仏談話室は、平成19年2月4日(土曜日)に池袋の東京芸術劇場6階小会議室で行われた。この時の講師の1人・鳥沢隆憲さんが「六地蔵について」を講演される。これまで余り注意を払うことがなかった六地蔵の諸点に触れられていて参考になった。
 真言系密教(東密)の『覚禅抄』や天台系密教(台密)の『阿婆縛書鈔』は、図像の研究には使われている。しかし、江戸時代の信仰を知る上では『佛像図彙』が一般的であり、多くの石工が利用しているので欠かせない。ただ、『佛像図彙』は簡潔にまとめられているために、各宗派の呼称や出典などが入り交じっており、その点で特に注意を払う必要である。また「十王経」には、中国・朝鮮伝来の『閻羅王授記経』と日本で作られた『地蔵十王経』の2系統がある。
 鳥沢さんのお話で特に参考になったのは、宗派により六地蔵の名称の違いがはっきり示される。また、真言宗や天台宗では片手に持物を執り、片手で印を結ぶが、禅宗系統では両手で持物を採るという。名称や持物、出典などが明になったのは収穫である。
 もっとも宗派による六地蔵の名称が異なるのは、かつて瑞穂町箱根ケ崎・円福寺の住職から教示を受けた。それがあったので『増補改定 青梅市史 下巻』(青梅市 平成7年刊)の執筆には、「六地蔵の形像と名称」の1項目を設け、平成に造立された六地蔵5組の名称を示した(949頁)。
 真言宗の2か寺は同じ名称を用いていたが、1か寺は臨済宗や曹洞宗の禅宗鶏兜地蔵の名称を使っていた。その点を寺に聞いたところ、施主が寺に相談をせずに勝手に石材店に注文して奉納した六地蔵である、という。
 六地蔵の名称を種々の文献と『佛像図彙』と対比し、宗派別の系統にグルーピングして示すと、次の表の通りである。
   文献と六地蔵の名称
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   ┃出典      ┃ 六地蔵の名称                ┃注記 ┃
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   ┃『佛像図彙』1 ┃預天賀│放光王│金剛願│金剛宝│金剛幡│金剛悲┃天台系┃
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   ┃天台宗常用法儀集┃預天賀│放光王│金剛願│金剛宝│金剛幡│金剛悲┃   ┃
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   ┃六地蔵和讃   ┃金剛願│金剛宝│金剛悲│金剛幡│放光王│預天賀┃   ┃
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   ┃地蔵十王経   ┃預天賀│放光王│金剛幡│金剛悲│金剛宝│金剛願┃注 1┃
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   ┃『佛像図彙』2横┃地 持│陀羅尼│宝 性│鶏 亀│法 性│法 印┃禅宗系┃
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   ┃曹洞宗行持規範 ┃法 性│陀羅尼│宝 陵│宝 印│鶏 兜│地 持┃注 2┃
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   ┃江湖法式梵唄抄 ┃法 性│陀羅尼│宝 陵│宝 印│鶏 兜│地 持┃   ┃
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   ┃『佛像図彙』2縦┃護 讃│辯 尼│破 勝│延 命│不休息│讃 龍┃真言系┃
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   ┃天台常用法儀集 ┃禅 林│無 2│護 讃│諸 龍│伏 勝│伏 息┃1般例┃
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   ┃高野山真言宗系 ┃禅 林│無 2│護 讃│諸 龍│伏 勝│伏 息┃   ┃
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   ┃伝授録(真言宗)┃禅 味│牟 尼│観 讃│諸 救│伏 勝│不休息┃   ┃
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   (注1) 字数の関係で「佛説地蔵菩薩発心因縁十王経」は「地蔵十王経」の略称で示した。
   (注2) 『曹洞宗行持規範』では「地蔵王菩薩」を省略した名称で示した。
   (注3) 『佛像図彙』1は前の頁を示し、『佛像図彙』2は次頁である。「横」は図上に横
        書きした名称をもの、同「縦」は図像の横に縦書きした名称である。
   (注4) 『佛像図彙』2縦の「延命」は「光味」の別名があり、「真言系」は天台宗の1部
        で用いられている。
   (注5) 『佛像図彙』の各項目では種子や印相などが記されているが省略、名称も「地蔵」
        を略している。
 前記の天台系の『六地蔵和讃』と『佛説地蔵菩薩発心因縁十王経』の出典による六地蔵と持物と印相を比較すると、「金剛旗」と「金剛幡」の違いがみられるが、次に示す通り同じである。
   六地蔵の持物と印相
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   ┃六地蔵和讃           ┃佛説地蔵菩薩発心因縁十王経   ┃
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   ┃六道│尊   名│左 手│右 手┃六道│尊   名│左 手│右 手┃
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   ┃天人│預天賀地蔵│如意珠│説法印┃天人│預天賀地蔵│如意珠│説法印┃
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   ┃人間│放光王地蔵│錫 杖│与願印┃人間│放光王地蔵│錫 杖│与願印┃
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   ┃修羅│金剛幡地蔵│金剛旗│施無畏┃修羅│金剛幡地蔵│金剛幡│施無畏┃
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   ┃畜生│金剛悲地蔵│錫 杖│引接印┃畜生│金剛悲地蔵│錫 杖│引接印┃
   ┠──┼─────┼───┼───╂──┼─────┼───┼───┨
   ┃餓鬼│金剛宝地蔵│宝 珠│甘露印┃餓鬼│金剛宝地蔵│宝 珠│甘露印┃
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   ┃地獄│金剛願地蔵│炎魔幡│成弁印┃地獄│金剛願地蔵│炎魔幡│成弁印┃
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 前記の表は天台宗系統の六地蔵の持物と印相であるが、次表は臨済宗十七派の『江湖法式梵唄抄』と『佛像図彙』による尊名と持物を表示すると、次の通りである。天台宗や真言宗系統の六地蔵と異なり、片手で印を結ばずに両手で持物を執る。参考までに『江湖法式梵唄抄』に合わせて比較し易いように、下段に記載順序を変えて『佛像図彙』を示す。
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   ┃江湖法式梵唄抄         ┃佛像図彙         ┃
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   ┃尊   名│持  物│六道配当 ┃尊   名│持 物┃備 考┃
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   ┃法性地蔵 │手持香炉│地獄道教主┃法性地蔵 │柄香炉┃   ┃
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   ┃陀羅尼地蔵│手持宝珠│餓鬼道教主┃陀羅尼地蔵│鉄 鉢┃注 記┃
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   ┃宝陵地蔵 │合  掌│畜生道教主┃宝性地蔵 │合 掌┃   ┃
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   ┃宝印地蔵 │手持旌旗│修羅道教主┃法印地蔵 │金剛幡┃   ┃
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   ┃鶏兜地蔵 │手持錫杖│人道道教主┃鶏亀地蔵 │錫 杖┃   ┃
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   ┃地持地蔵 │手持念珠│天道道教主┃地持地蔵 │数 珠┃   ┃
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   〔注 記〕 この陀羅尼地蔵に限り、左手に鉄鉢を持ち、右手で施無畏印を結ぶ。他の地蔵は
         両手で持物を執る。
 今月13日(火曜日)には、青梅市2俣尾と梅郷地区の石佛を散歩した。この時の記録は『石佛雑記ノート4』(多摩野佛研究会 平成19年刊)に記載したので、詳しいことは同書に譲る。この日はJR青梅線青梅青梅市2俣尾・長泉院(曹洞宗)、柚木町・即清寺(真言宗)、梅郷・大聖院(真言宗)の3か寺を廻り、寺にある六地蔵を記録したので比較のために一表にまとめる次の通りである。
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   ┃長泉院(曹洞宗)  ┃即清寺(真言宗)  ┃大聖院(真言宗)  ┃
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   ┃尊   名│持  物┃尊   名│持  物┃尊   名│持  物┃
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   ┃鶴亀地蔵 │錫杖宝珠┃護讃地蔵 │数  珠┃放光王地蔵│錫杖宝珠┃
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   ┃陀羅尼地蔵│印/宝珠┃無二地蔵 │棒(幡)┃金剛宝地蔵│印/宝珠┃
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   ┃法性地蔵 │合  掌┃禅林地蔵 │錫杖宝珠┃金剛悲地蔵│印/錫杖┃
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   ┃地持地蔵 │数  珠┃伏息地蔵 │印/宝珠┃地持地蔵 │柄香炉 ┃
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   ┃宝性地蔵 │柄香炉 ┃伏勝地蔵 │柄香炉 ┃法性地蔵 │数  珠┃
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   ┃法印地蔵 │幡  幢┃諸龍地蔵 │合  掌┃宝性地蔵 │合  掌┃
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 先ず六地蔵の名称からみると、長泉院は『佛像図彙』の通りの名称を用いている。「宝陵」が「宝性」に、「宝印」が「法印」になる違いがみられるもの、他は『曹洞宗行持規範』や臨済宗十七派の『江湖法式梵唄抄』や禅宗系である『佛像図彙』とほぼ同じ名称を用いている。即清寺は『高野山真言宗系』や『天台常用法儀集』と同じ名称である。
 前の2か寺と著しく異なるのは、大聖院が用いている名称である。「放光王地蔵」「金剛宝地蔵」「金剛悲地蔵」の3地蔵は、天台(密教)系の『天台宗常用法儀集』や『六地蔵和讃』『佛説地蔵菩薩発心因縁十王経』と同じ名称を用いている。他の「地持地蔵」「法性地蔵」「宝性地蔵」の3地蔵は、禅宗系の『曹洞宗行持規範』や『江湖法式梵唄抄』の名称である。つまり天台系の名称と禅宗系の名称とが入り交じっている。
 こうした密教系3体と禅宗系3体の名称を用いたのは、この3体ずつの間にある願王尊(錫杖と宝珠を執る大型の地蔵坐像)の台石に謎解きの手掛かりがある。この台石には、吉野村の由来が木戯れているからである。
 江戸時代の村別に旧吉野村の寺院を挙げると、次の通りである。
   畑中村 地蔵院(臨済宗)  〔廃寺〕普通庵(臨済宗)・大宮寺(本山修験)
   和田村 徳昌寺(臨済宗)
   下 村 大聖院(真言宗)・竹林寺(曹洞宗)・天沢院(曹洞宗) 〔廃寺〕聖寿院(修験)
   柚木村 即清寺(真言宗)・忠堂院(真言宗)
 この寺院分布からみて、旧吉野村は真言宗と禅宗系の臨済宗と曹洞宗から成り立っていたことがわかる。こうした宗派の状況から、折衷の六地蔵が生まれたものと推測される。
 次に六地蔵の持物をみると、長泉院は『江湖法式梵唄抄』『佛像図彙』と比較すると、法性地蔵が柄香炉を執らずにが合掌し、宝性地蔵が合掌せずに柄香炉を執っている。つまり本体と台石が逆に配置されている。
 仮に『天台宗常用法儀集』の名称の順が6道配当や持物が同じとすると、次の表のように推定される。これを即清寺の持物を当てはめてみると、余りに違いありすぎる。即清寺の場合は何を基本として持物を定めたのであろうか。
   ┏━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
   ┃出典      ┃六地蔵の名称                 ┃
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   ┃天台宗常用法儀集┃預天賀│放光王│金剛願│金剛宝│金剛幡│金剛悲┃
   ┣━━━━━━━━╋━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┫
   ┃天台宗常用法儀集┃禅 林│無 二│護 讃│諸 龍│伏 勝│伏 息┃
   ┠────────╂───┼───┼───┼───┼───┼───┨
   ┃高野山真言宗系 ┃禅 林│無 二│護 讃│諸 龍│伏 勝│伏 息┃
   ┠────┬───╂───┼───┼───┼───┼───┼───┨
   ┃推  定│六 道┃天 人│人 間│修 羅│畜 生│餓 鬼│地 獄┃
   ┃    ├───╂───┼───┼───┼───┼───┼───┨
   ┃    │持 物┃如意珠│錫 杖│金剛旗│錫 杖│宝 珠│炎魔幡┃
   ┣━━━━┿━━━╋━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┫
   ┃即清寺 │持 物┃杖/珠│棒  │数 珠│合 掌│柄香炉│印/珠┃
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 大聖院の持物の場合も、何を基準にして像像されたものか不明である。
   ┏━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━┓
   ┃大聖院の六地蔵   ┃出典の六地蔵       ┃     ┃
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   ┃尊   名│持  物┃尊   名│持 物│印 相┃出   典┃
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   ┃放光王地蔵│錫杖宝珠┃放光王地蔵│錫 杖│説法印┃六地蔵和讃┃
   ┠─────┼────╂─────┼───┼───┨     ┃
   ┃金剛宝地蔵│印/宝珠┃金剛宝地蔵│宝 珠│与願印┃     ┃
   ┠─────┼────╂─────┼───┼───┨     ┃
   ┃金剛悲地蔵│印/錫杖┃金剛幡地蔵│金剛幡│施無畏┃     ┃
   ┣━━━━━┿━━━━╋━━━━━┿━━━┿━━━╋━━━━━┫
   ┃地持地蔵 │柄香炉 ┃地持地蔵 │数 珠│───┃佛像図彙 ┃
   ┠─────┼────╂─────┼───┼───┨     ┃
   ┃法性地蔵 │数  珠┃宝性地蔵 │合 掌│───┃     ┃
   ┠─────┼────╂─────┼───┼───┨     ┃
   ┃宝性地蔵 │合  掌┃法印地蔵 │金剛幡│───┃     ┃
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 ともかく宗派によって尊名の違いがみられ、持物にも異同がみられることは、実地で六地蔵をみて記録すればわかる。しかし、実際と出典との違いが何によって生ずるかは今の所は不明である。これからも事例を集めて調査してみないことには埒があかない。
 今回のように僅か3例を取り上げただでも、単に尊名や持物を列記する分には問題は少ないが、拠り所となる物が何か、となるとくわからないのが実情である。ただ六地蔵がある程度の理解であればよいが、突っ込んでみてみると益々わからなくなる。(平成19・3・16記)
青梅市内六地蔵巡り1

 平成19年3月20日(火曜日)は、青梅と千ケ瀬の六地蔵を巡る。
 最初に訪ねたのは、住江町の延命寺(臨済宗)である。山門前の左右に木祠があり、文政3年に造られた丸彫六地蔵(像高76cm)が3体ずつ安置されている。右側は手前から拱手上に宝珠を持つ「陀羅尼地蔵」、宝珠と錫杖を執る「鶏兜地蔵」、幡幢を持つ「寳印地蔵」の順に並ぶ。左側は奥から数珠と片手拝みの「地持地蔵」、合掌の「宝陵地蔵」、柄香炉の「法性地蔵」である。
 次は近くにある千ケ瀬町6丁目の宗建寺(臨済宗)、墓地入口の木祠内に寛政10年の造立の丸彫六地蔵(像高76cm)が1列に並ぶ。右から柄香炉を執る「葆勝地蔵」、龍頭が付く幡幢を持つ「陀羅尼地蔵」、合掌の「瑞陵地蔵」、天蓋を執る「寳印地蔵」、宝珠と錫杖を持つ「鶏兜地蔵」、数珠を執る「地持地蔵」の順である。「葆勝地蔵」や「瑞陵地蔵」は聞き慣れない尊名である。
 3番目は千ケ瀬町3丁目にある聚徳院(臨済宗)、墓地入口にある瓦葺き木祠の中に平成4年造像の丸彫六地蔵(像高61cm)が安置される。右端は柄香炉を執る「法性地蔵」、以下、数珠の「地持地蔵」、合掌の「宝陵地蔵」、幡幢の「宝印地蔵」、数珠と片手拝みの「陀羅尼地蔵」、宝珠と錫杖の「鶏兜地蔵」が順に並ぶ。
 次の勝沼町1丁目の乗願寺(時宗)には、かつて1石六地蔵があったが境内に見当たらない。
 4番目に西分町の宗徳寺(臨済宗)を訪ねる。坂を登った墓地の入口にあるブロック祠の中には、昭和55年に造られた六地蔵が1列に並ぶ。右から数珠の「地持地蔵」、柄香炉を逆手で持つ「法性地蔵」、宝珠と片手拝みの「陀羅尼地蔵」、合掌の「宝陵地蔵」、幡幢の「寳印地蔵」、宝珠と錫杖を執る「鶏兜地蔵」である。
 5番目が仲町の梅岸寺(真言宗)、鐘楼の手前にある木祠内に円光背をつけた六地蔵(像高71cm)がみられる。昭和4年の丸彫像である。右から宝珠と錫杖の「禅林地蔵」、幡幢の「無二地蔵」、数珠の「護讃地蔵」、合掌の「諸龍地蔵」、柄香炉の「伏勝地蔵」、天蓋の「伏息地蔵」の順である。台石正面に尊名を刻むのは、これまでに廻ってきた寺と同じであるが、例えば「カ 伏息地蔵」のように尊名の上に種子を記している。これまでが臨済宗の六地蔵を廻ってきたので、真言宗とは種子と尊名の点で違いがある。
 6番目に寄ったのが天ケ瀬町の金剛寺、梅岸寺と同じ真言宗豊山派の寺である。本堂の南側にある木祠の中には、六地蔵(像高61cm)が1列に並ぶ。右から宝珠と錫杖を執る「禅林地蔵」、幡幢を持つ「無二地蔵」、数珠を執る「護讃地蔵」、合掌の「諸龍地蔵」、柄香炉を持つ「伏勝地蔵」、天蓋を執る「伏息地蔵」である。梅岸寺と同様に配列も持物も同じで、尊名の上に種子を刻んでいる。
 7番目が大柳町の清宝院(大柳不動)、真言宗醍醐寺系の当山派修験である。墓地入口前の木祠に六地蔵(像高60cm)が安置されている。石像や蓮華座には造立年代がみられないが、六地蔵堂の寄付者連名の最後に「平成十三年七月吉日」とあるから、同年の造立である。これまでの寺では、台石正面に尊名を記しているが、ここでは木札に例えば「諸龍地蔵尊」と記されて背後に掲げている。これまでの6か寺と異なるのは、左右3体ずつの間に丸彫りの聖観音(像高92cm)を置いていることである。右から幡幢の「諸龍地蔵尊」、宝珠と片手拝みの「辨尼地蔵尊」、数珠の「護讃地蔵尊」で次に聖観音が並ぶ。隣に逆手で柄香炉を持つ「不休息地蔵尊」、合掌の「破勝地蔵尊」、宝珠と錫杖を執る「延命地蔵尊」の順である。これまでとは違った尊名が登場する。
 次いで滝の上町の東光寺(真言宗)、ここは六地蔵ではなく青面金剛木像が目的である。『青梅市仏像調査概報告・』(青梅市教育委員会 平成6年刊)46頁(写真)と73頁(データ)に載っていたので訪ねる。思ったよりも小さなもの、厨子(総高21cm)に入っている。厨子の扉の幅が9cm、奥行きが6cmである。青面金剛は木彫、火炎光背のある彩色6手立像(像高10cm)、上方手は矛と持物なし、中央手は首(鈴かもしれない)を下げてと独鈷を横に持ち、下方手は弓と片腕と持物に欠けている。市内にはもう1か寺、友田町4丁目の花蔵院(臨済宗)の青面金剛木像がみられる。
 最後に訪ねたのが滝の上町の常保寺,千ケ瀬町の宗建寺などと同じ臨済宗建長寺派の寺である。墓地をバックにして入口に木祠があり、中に六地蔵(像高59cm)を安置する。六地蔵の中央に厨子に安置された聖観音木像が置かれている。六地蔵の台石をみると、右端の鶏兜地蔵の台石左側面に「維時明治十七年甲□」とあり、寳勝地蔵の台石右側面に「明治十五年」と年銘が2種みられる。右から数珠と片手拝みの「鶏兜地蔵」、宝珠と錫杖の「寳陵地蔵」、合掌の「寳印地蔵」、間に聖観音厨子があって幡幢の「陀羅尼地蔵」、天蓋の「寳勝地蔵」、柄香炉の「地持地蔵」である。それぞれの地蔵の背後には「鶏兜地蔵 人間」、以下「寳陵地蔵 畜生」、「寳印地蔵 修羅」、「陀羅尼地蔵 餓鬼」、「寳勝地蔵 地獄」、「地持地蔵 天上」の木札が掛かっている。
 これまで記したように、真言宗と臨済宗では六地蔵の尊名に違いがみられるのは明かである。配列については、それぞれの寺でバラバラであるのも分かる。かつて『増補改定 青梅市史 下巻』(青梅市 平成9年刊)で六地蔵を取り上げたが、尊名は尊名だけ、持物は持物だけにわけて記載し、両者の関連には1切ふれていなかった。今回の六地蔵巡りで、その欠は補えたはずである。
 今回は午後1時から約3時間半で10か寺を廻り、8か寺で六地蔵を調べる。歩数は11806である。(平成19・3・20記)
青梅市内六地蔵巡り2

 平成19年3月21日(水曜日)は春分の日、昨日に続いて青梅市内の六地蔵巡りを行う。今回は調布地区を中心とする。青梅駅前から午後0時32分発の小作駅西口行き多摩バスで「友田南」のバス停まで乗る。
 最初に訪ねたのは、バス停前にある友田町4丁目の花蔵院(真言宗)、お彼岸で墓参の人たちで賑わっている。墓地の入口にある木祠の中には、丸彫六地蔵(像高41cm)が安置されている。右から宝珠と錫杖を持つ「禪林地蔵」、柄香炉を執る「無二地蔵」、数珠を持つ「護讃地蔵」、合掌の「諸竜地蔵」、宝珠を両手で持つ「伏勝地蔵」、幡幢を執る「伏息地蔵」の順に並ぶ。台石の尊名の上には各々の地蔵の種子を刻む。昨日廻った梅岸寺や金剛寺でみた真言宗の六地蔵と同様である。年銘は見当たらない。この寺には青面金剛木像があるが、忙しそうなので見学は遠慮する。
 多摩川橋を渡って羽村市へ入り、途中の羽西3丁目の松本神社に寄る。
 青梅市に入って2番目は河辺町2丁目の東円寺(真言宗)、先ず境内にある光背型庚申塔(102×46cm)を調べる。主尊は合掌6手の青面金剛立像(像高32cm)、像の右に「元禄四辛未暦」、左に「十一月吉日」の年銘がある。中間にある正向型3猿(像高12cm)の下に「武州多摩郡三田領/汝等所行是菩薩行敬白/奉造立爲供養□諸施主二世安樂/漸々修学悉當成佛寒念佛/庚申待河邊村同行三十人」の銘文を刻む。『青梅市の石仏』(青梅市郷土博物館 昭和49年刊)156頁に「河辺町東円寺の旧状・と現状・」として撮影年の異なる新旧2枚の写真を掲げたが、今回みるとまた周囲の状況が変わっている。
 この寺の平成9年造立の丸彫六地蔵(像高59cm)は、本堂西側(春日神社寄り)にある木祠の中に1列に並んでいる。先にみた花蔵院と尊名が同じ配列、尊名の上に種子を刻むところも同1である。違いがあるのは地蔵2体の持物、「無二地蔵」が柄香炉でなく宝珠と片手拝み、「伏勝地蔵」が両手で持つ宝珠が柄香炉に代わっている。
 東円寺から西へ進み、左折して南へ向かい、下奥多摩橋を渡って3番目の長渕4丁目の玉泉寺(臨済宗)へ出る。山門脇の木祠内に丸彫六地蔵(像高66cm)が並んでいる。右から「地持」、宝珠と錫杖の「鶏兜」、「宝印」「陀羅尼」「宝陵」「法性」の順である。1体毎にに前掛けが10枚も掛けてあるので、「鶏兜地蔵」の錫杖が僅かにみえる以外は持物や印相が全くわからない。墓参の方々が多いので、前掛けを1枚1枚はずしていては時間が掛かるので外しているわけにはいかない。諦めて参道にある庚申塔をみる。
 この寺には3基の庚申塔がある。層塔の傍らにある板石型の「庚申塔」は、正月5日の7福神詣でみているので、省略した2基をみる。1基は合掌6手の青面金剛立像(像高32cm)、像の右は欠けてわからないが年銘らしい。左は施主銘で上が不明で、下の「下長淵村中」が読める。下部に正向型3猿(像高8cm)を浮彫りする。
 他の1基は自然石の文字塔(88×52cm)で、主銘は「庚申」、離れて右に「元治二丑年」の年銘、左には「下長淵 双木長右ヱ門」の施主銘を彫る。
 玉泉寺から吉野街道を西に向かい、途中で郷土博物館に寄ってから4番目に駒木町3丁目の寿香寺(曹洞宗)を訪ねる。山門の手前にある鉄骨の柱に覆屋根をつけた下には、丸彫六地蔵(像高62cm)が並んでいる。台石は1つになっていて、それぞれの地蔵の前に黒字で記された金属プレートがついている。右から柄香炉の「法性地蔵」、数珠の「地持地蔵」、合掌の「宝陵地蔵」、幡幢の「宝印地蔵」、宝珠の「陀羅尼地蔵」、宝珠と錫杖の「鶏兜地蔵」の順である。六地蔵の脇にある金属プレートには、六地蔵につて記され、それぞれの地蔵の6道の配当が示されている。法性地蔵の「地獄道」から始まり、以下順に餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道、鶏兜地蔵の「天道」となっている。
 この寺の六地蔵は、白御影石を使っているので新しいのがわかる。年銘がどこにも見当たらないので庫裏を訪ね、奥さんに聞くと「平成8年」という。それでも11年が経っていることになる。境内が整備されていない頃を知っているだけに、現在が山門が作られ、墓地の周囲を塀で囲った光景は違和感がある。
 寿香寺からさらに吉野街道を西へ進み、最後の地蔵院(臨済宗)に向かう。山門前の木祠の中に1列に並ぶ昭和51年造立の丸彫六地蔵(像高32cm)がみられる。右から左へ、宝珠と錫杖の「法性地蔵」、宝珠と片手拝みの「陀羅尼地蔵」、幡幢の「宝陵地蔵」、合掌の「宝印地蔵」、数珠の「鶏兜地蔵」、柄香炉の「地持地蔵」である。
 地蔵院からさらに日向和田の明白院(曹洞宗)を予定していたが、連日の疲れが出たので地蔵院で打ち止めにする。昨日寄った清宝院や常保寺の前を通り、4時45分に帰宅する。約4時間15分の六地蔵巡り、歩数は18389歩である。(平成19・3・21記)
青梅市内六地蔵巡り3

 平成19年3月23日(金曜日)は、3回目の青梅市内六地蔵巡りを行う。今回は小曽木地区に重点を置く。午後0時40分に家を出て、青梅坂トンネルを経由して黒沢に入る。青梅坂を下って右手にある大谷石で囲われた祠の中には、以前あった享保6年の青面金剛光背型塔がない。すでに、今年1月5日の七福神巡りの時に失われているのに気付いていた。
 下栃谷・薬師堂の脇にある自然石「庚申塔」があるのを確認し、六地蔵の最初は黒沢3丁目1578の聞修院(曹洞宗)を訪ねる。寺の入口には、昭和61年造立の露座の丸彫り六地蔵立像(像高61cm)が並ぶ。右から宝珠と錫杖の「地獄 大智悲地蔵菩薩」、合掌の「餓鬼 大清浄地蔵菩薩」、幡幢の「畜生 大光明地蔵菩薩」、柄香炉の「修羅 清浄無垢地蔵菩薩」、数珠の「人道 大清浄地蔵菩薩」、宝珠の「天道 大堅固地蔵菩薩」の順である。
 聞修院の場合は、これまで青梅市内でみた尊名にみられない六地蔵名が記されている。『覚禅鈔』には、次の六道配当、尊名、別称、持物(印相を含む)を挙げている。
   六道 尊名     別称    持物・印相
   地獄 大定智悲地蔵 地蔵菩薩  錫杖・宝珠
   餓鬼 大徳清浄地蔵 宝手菩薩  宝珠・与願印
   畜生 大光明地蔵  宝処菩薩  宝珠・如意
   修羅 清浄無垢地蔵 宝印手菩薩 宝珠・梵筺
   人道 大清浄地蔵  地持菩薩  宝珠・施無畏印
   天道 大堅固地蔵  堅固意菩薩 宝珠・経
 これをみると、聞修院の六地蔵はほほこの『覚禅鈔』に準じているが、印相を示すものはなく、大清浄地蔵が「宝珠・施無畏印」ではなく「数珠」に代わるように、印相はなくて持物にも違いがみられる。左端の地蔵の台石左側面に「六道能化地蔵願王菩薩建/願以此功徳 普及於一切/我等與衆生
 皆共成佛道/維時昭和六十一丙寅年四月吉日/先祖累代精霊供養之處/志主 田中良之助/妻 ヒサ」の銘文を刻む。
 路傍にある2か所の庚申塔、柳井宅西側の庚申塔を確認し、黒沢1丁目519の竜雲寺(曹洞宗)へ寄ってから、次は小曽木3丁目目1866の福昌寺(真言宗)へ行く。境内にも庚申塔がみられるが、今回は調査省略である。
 墓地の入口にある木祠の中には、昭和43年造立の光背型塔に浮彫りされた六地蔵立像(像高54cm)が1列に並ぶ。右から宝珠と錫杖の「禅林地蔵菩薩」、宝珠と片手拝みの「無二地蔵菩薩」、数珠の「護讃地蔵菩薩」、合掌の「諸龍地蔵菩薩」、柄香炉の「伏勝地蔵菩薩」、幡幢の「伏息地蔵菩薩」の順である。尊名の上には種子が刻まれ、尊名は全て横書きである。各地蔵の裏面には「昭和四十三年四月吉日」の年銘と施主が希望した銘文が彫られている。例えば「禅林地蔵菩薩」の裏には、造立年銘の月に「爲万田家先祖菩提/万田松五郎」の銘がある。
 3番目は小曽木4丁目2809の高徳寺(曹洞宗)、参道に露座の頭部に円光背がついている丸彫り六地蔵立像(像高57cm)がみられる。右から数珠の「陀羅尼地蔵尊」、合掌の「法性地蔵尊」、幡幢の「寶積地蔵尊」宝珠と片手拝みの「宝印地蔵尊」、天蓋の「地持地蔵尊」、柄香炉の「鶏兜地蔵尊」の順である。
 地蔵本体にも台石にも年銘がないので庫裏へ行って若住職に尋ねると、台石は明治年間のもので、地蔵が破損したので現在の六地蔵立像は昭和43年に造られたという。明治の丸彫り六地蔵立像1体だけ残っていて墓地にあるというので、案内していただく。地蔵は宝珠と錫杖を執る立像(像高65cm)、その台石とは違う物である。
 高徳寺から石倉院へ向かう途中で文字庚申塔の存在を確認する。4番目は小曽木5丁目岩蔵の石倉寺(曹洞宗)、今月10日(土曜日)に寺の下にある御嶽神社祭礼を訪ね、地口行灯を調べたばかりである。参道を隔てて本堂前に向かい合って木祠があり、中には丸彫り六地蔵立像(像高60cm)が安置されている。ここの地蔵台石には、これまでみた寺の六地蔵と異なり、地蔵の背後に縦41cmで幅が10cmの木札に尊名が記されている。右から柄香炉の「法性地蔵尊」、合掌の「陀羅尼地蔵尊」、数珠の「寶陵地蔵尊」、宝珠と片手拝みの「寶院地蔵尊」、幡幢の「鶏兜地蔵尊」、宝珠と鉄製の錫杖の「地持地蔵尊」が1列に並ぶ。六地蔵の中央に「奉6道能化地蔵願王菩薩」と記す木札(66×10cm)がみられる。
 この寺の六地蔵の造立年代は、地蔵本体にも台石にも刻まれてない。地蔵堂の左側面にある(41×10cm)には「六地蔵小屋建造/平成6年5月二十七日/塩野年1/塩野弘/塩野貞雄」と記されている。六地蔵の造立は、木祠ができた「平成6年5月二十七日」とみてよいと思う。
 小曽木から先の富岡に入り、5番目に訪ねたのが富岡3丁目1107の常福寺(曹洞宗)、無縁塔の手前にある木祠に平成4年秋彼岸に造立された丸彫り六地蔵立像(像高75cm)が安置されている。右から柄香炉の「地持地蔵王菩薩」、数珠の「鶏兜地蔵王菩薩」、合掌の「宝印地蔵王菩薩」、幡幢の「宝陵地蔵王菩薩」、宝珠と片手拝みの「陀羅尼地蔵王菩薩」、宝珠と錫杖の「法性地蔵王菩薩」の順の配列である。
 先に進んで6番目は富岡1丁目132の常秀院(曹洞宗)、駐車場にある木祠に平成8年に造られた丸彫り六地蔵立像(像高76cm)が並ぶ。右から合掌の「法性地蔵尊」、数珠の「陀羅尼地蔵尊」、幡幢の「寶陵地蔵尊」、宝珠と錫杖の「寶印地蔵尊」、宝珠と片手拝みの「鶏兜地蔵尊」、柄香炉の「地持地蔵尊」である。
 常秀院から富岡2丁目の畑の中にある弁天をみてから、日影林通りを抜けて最後の成木1丁目583の安楽寺(真言宗)へ向かう。辺りは段々と暗くなってくる。
 安楽寺の本堂の西側、墓地の入口に丸彫り六地蔵立像(像高91cm)を祀る木祠がある。右から3番目の地蔵の台石に年銘が刻まれ、六地蔵は平成元年8月に造立である。台石には尊名がみられず、木札などの記入もない。右から幡幢の地蔵、柄香炉の地蔵、宝珠と錫杖の地蔵、合掌の地蔵、宝珠と片手拝みの地蔵、数珠の地蔵の順である。これまでみてきた真言宗の寺にある六地蔵は、台石正面に種子と尊名を記している。この安楽寺の場合は施主銘や年銘、僧侶名が台石正面に記されている。
 バスの通過時間まで間があるので安楽寺から「成木2丁目自治会館」のバス停まで歩き、ここから都バスで「青梅駅前」まで乗る。家に着いたのは6時18分、歩数計の数字は22779歩である。
                                   (平成19・3・23記)
青梅市内六地蔵巡り4

 平成19年3月27日(火曜日)は、青梅六地蔵巡りの4回目である。青梅駅前から午前8時13分発の上成木行きのに都バス乗り、「北小曽木」で下車して軍畑方面へ向かう。目的の成木8丁目正沢の正沢寺(曹洞宗)を見逃し、同・白岩の大泉院(曹洞宗)まで行く。
 道路に面した「白岩地蔵尊」の洗い出しのセメント造りの祠には、地蔵3体(内坐像1体)と如意輪観音が安置されている。何も期待はしていなかったが、光背型塔(52×31cm)に浮彫りされた如意輪観音(像高32cm)をみると、像の右に「北小曽木 吉5良/寒念佛行」、右に「寛政9年丁巳正月吉日」の銘がある。上にある寺まで行くと、西端の墓地に彫りのよい聖観音と如意輪観音の墓塔がある。共に延宝6年銘である。
 白岩から佐藤塚まで戻り、左折して松ノ木通りを北上し、松ノ木トンネルを抜けて成木7丁目大指へ出る。山道を松ノ木峠にある猿田彦大神を目指す。松ノ木峠へ登る道は荒れていて、途中で道を間違えて水のない谷川を進む。何か方角が違うようなので、左折して進むと峠に通じる道へ出る。
 峠には馬頭観音が3基と猿田彦大神1基が並んでいる。右端が「馬頭觀世音」安政5年柱状型塔(27×19×12cm)、次が光背型(62×33cm)塔に6手馬頭観音立像(像高39cm)を浮彫りする元禄元年塔、その横が上部に3面6手の馬頭観音坐像(像高17cm)を浮彫りし、像の下に「觀世音」と刻む天保6年柱状型塔(64×26×19cm)、左端が次の猿田彦大神塔である。
   1 天保2 駒 型 猿田彦大神                42×19×12
 1は両手で杖を持つ猿田彦大神の立像(像高32cm)を主尊にし、像の右に「猿田彦大神」の銘、左側面に「天保二卯六月」とあり、続く「吉日」の2字は苔の下である。以前から猿田彦大神の膝の部分から斜めに折れている。
 帰り道は迷わずに下る。途中までは最近も人の行き来があるみえて道もわかりやすが、その先は倒木が残っていたり、草が道を隠すような状態である。後少しという所で安心して気が緩み、滑って尻餅をつく。脚が弱くなったせいである。
 バス通りに出て高水山方面に行き、ついでだから成木7丁目大指の延命寺(真言宗)を訪ねる。現在、山門を改修中でネットが掛かっている。境内へ入り、薬師堂をガラス越しに覗くと厨子の前に奪衣婆坐像を真ん中に置き、左右に5体ずつ十王坐像が並ぶ。右端の置くに人頭幢があり、いずれも彩色されている。
 延命寺から東へ向かい、成木6丁目所久保の慈眼院を訪ねる。以前は本堂の前にあり、3猿台石の置換がみられた。『青梅市の石仏』(青梅市郷土博物館 昭和49年刊)の151頁に当時の写真が載っている。現在は観音堂の参道横に移され、庚申塔の下に3猿台石が納まっている。
 次の庚申塔と並んで上部に3面6手の馬頭観音坐像(像高20cm)を陽刻し、下に「觀世音」の文字を彫る文政2年柱状型塔(75×27×29cm)がある。
   2 文政9 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        71×27×19
 2は剣人6手立像、右側面に「文政9丙戌8月吉日/信心講中」、左側面に「上成木村所久保/願主 木崎次右ヱ門」の銘を記す。台石の正面に枠を造り、中に3不型の猿を浮彫りする。右端の塞目猿は閉じた扇子で目を隠し、中央の塞耳猿は両手で耳を抑えている。左端の塞口猿は拡げた扇子で口を覆っている。千ケ瀬・宗建寺の3猿などと同じ系列の「扇子型3猿」である。
 六地蔵の第1番は、成木5丁目久道の新福寺(曹洞宗)である。参道に沿って木祠があり、中に丸彫り六地蔵立像(像高62cm)が安置されている。右から柄香炉の「法性地蔵」、宝珠と片手拝みの「陀羅尼地蔵」、合掌の「宝陵地蔵」、幡幢の「宝印地蔵」、宝珠と鉄製の錫杖の「鶏兜地蔵」、数珠の「地持地蔵」の順に並ぶ。「法性地蔵」の台石右側面に「昭和五十八年四月建立/新福寺第二十二世・・・」とある。
 次に訪ねたのが六地蔵第2番の新福寺の先にある久道の慈福寺(曹洞宗)、先ず境内のある次の庚申塔をみる。裏面の年銘部分が拓本のためか墨で汚れている。
  3 享和3 自然石 「庚 申」               108×146
 3は表面に「庚申」の主銘、裏面に「享和三癸亥/十一月吉日」の年銘を刻む。
 庚申塔と反対側の本堂の左手に、露座の丸彫り六地蔵立像(像高52cm)が並ぶ。首のないものがあり、破損がみられる。尊名は台石からうかがえず、台石には「念佛講中」や「信心講中」、表面が剥落してしてい台石もある。右端から宝珠の地蔵、宝珠と片手拝みの地蔵、天蓋の地蔵、柄香炉の地蔵、宝珠と錫杖の地蔵(像高66cm 願王尊と思われる)、欠けている宝珠と錫杖の地蔵、欠けて持物不明の地蔵の順である。台石にも年銘が刻まれていないので、地蔵の石質や破損などの状態からみて江戸末期から明治年間頃の造立と思われる。
 3番目に成木4丁目八子谷の高岩寺(曹洞宗)を訪ね、金網外に並ぶ石佛群の中に丸彫り六地蔵立像がある。六地蔵といっても2体が失われている。右から幡幢を持つ地蔵、柄香炉を持つ地蔵、合掌の地蔵、2手の明治5年馬頭観音、寛政3年の定印阿弥陀坐像、宝珠と錫杖の地蔵である。台石正面に「念佛講中」(2体)、「爲有縁無縁」(2体)の銘があり、何れも「寛政三年」の年銘を刻む。
 これらの石佛群の右端に次の庚申塔がある。
   4 寛政10 柱状型 「庚申塔」                63×27×16
 4は正面に主銘の「庚申塔」、右側面に年銘の「維時寛政十戊午十月吉日」を彫る。
 次いで成木小学校(成木3丁目)前の墓地では、木祠の中に安置された勢至菩薩をみる。合掌の来迎相の丸彫り坐像(像高54cm)である。台石(88×43×24cm)の右側面に「武州多摩郡成木村」、左側面の「天ケ指/念佛講中」の銘がある。年銘が見当たらないので江戸時代の造立と推測できるが、造立年代は不明である。
 この勢至菩薩は地元で「産夜さま」と呼ばれ、赤の前掛けの他に名入りの輪が掛けられている。白布を重ねて縫った幅5cm、長さ100cmほどの白布を輪状にし、表面に氏名、裏面に誕生日を記す。昭和48年に調査した地元の師岡モトさん(明治31年生まれ)の聞書を『青梅市の石仏』97頁に載せた。
 通りに面している木祠の内には石佛が並び、中に馬頭観音3体がみられる。馬頭観音は右から明和7年の3面8手坐像、万延元年の3面6手坐像、享保10年の2手立像の3基である。この中で享保10年像(像高38cm)は両手で蓮華を執るもので、像の右に「奉納馬頭観音」、左に「享保十乙巳五月吉日」の銘文を刻む。この像の頭部の違いによって、馬首の馬頭観音か宝冠の聖観音かにわかれるところである。ハッキリした馬首とは断言しにくいが、かといて宝冠ともいいにくい。「奉納馬頭観音」の銘から馬頭観音の方が相応しい。
 安楽寺通りに入り、4番目の六地蔵がある成木3丁目2本竹の長蔵寺(曹洞宗)に向かう。薬師堂の裏に丸彫り六地蔵立像(像高58cm)を含む石佛群がみられる。右から合掌の「放光王地蔵」、数珠の「預天賀地蔵」、幡幢の「金剛宝地蔵」、天蓋の「金剛悲地蔵」、宝珠と錫杖の「金剛願地蔵」、宝珠と片手拝みの「金剛幢地蔵」である。
 金剛宝地蔵と金剛悲地蔵の間には、宝珠と錫杖を執る丸彫り地蔵立像と来迎印を結ぶ丸彫り阿弥陀如来立像(安永7年)の2体が立つ。この地蔵は六地蔵の願王尊かもしれない。台石正面に「二本木/寛政六甲寅年/有縁無縁三界万霊等/孟秋吉祥日/念佛講中」、右側面に「願主/現長蔵十二世笠雲謹誌」、左側面に「願以此功徳/普及於一切/我等與衆生/皆共成佛道」の偈文を刻む。
 次いで5番目の成木3丁目大蔵野の長全寺(曹洞宗)を訪ねる。この寺の地蔵木祠の中には、享保1年の安産疣取延命地蔵尊(丸彫り立像 像高約170cm)が祀られている。その木祠の手前に六地蔵の木祠がある。
 六地蔵は丸彫り立像(像高55cm)、台石(31×36×46cm)に尊名がみられず、左端の台石に「当山第二十世青龍守正/平成三年六月吉日建立」の2行が刻まれている。右から柄香炉を執る地蔵、宝珠と片手拝みの地蔵、合掌の地蔵、幡幢を地蔵、宝珠と錫杖の地蔵、数珠の地蔵である。
 成木2丁目小中尾の紫雲院に寄り、門前にある釈迦如来と十六羅漢をみてから、五百羅漢がある境内へ入る。以前訪ねた時に比べて5百羅漢の数が増え、自然石をくり抜き中に如意輪観音を浮彫りした像がみられる。
 太多摩霊園の管理棟の下を東へ向かう。成木2丁目の小中尾路傍にある次の塔をみる。
  5 年不明 自然石 「庚 申」                40×35
 5は上部が欠けて「庚申」と彫られているだけで、他の銘文はない。以前あった場所とはほとんど動いていないように思われるが、以前は地上にあった塔が、現在は石垣の中に祀られている。前には奉納されたものか、数多くの小石が置かれている。
最後に成木2丁目小中尾の光照院(成木不動 真言宗醍醐派)の前を通り、境内に石佛がないのを確かめてバス停へ向かう。バスが来るまで時間があるので「坂久橋」のバス停まで歩き、そこから都バスで帰宅する。のんびり歩いたせいか、28924歩の割りには疲れが少ない。もっとも松ノ木峠の山道を登ったのを除けば、下り道が長かったせいかもしれない。(平成19・3・27記)
 
『石仏散歩 悠真』21号

 平成19年3月22日(木曜日)には、多摩石仏の会の多田治昭さんから『石仏散歩 悠真』第21号と第22号の2冊が郵送で届く。第21号は「地蔵菩薩4」の特集で、4回目の地蔵特集である。第15号(平成18年刊)が最初の特集で、2回目が第17号(同年刊)、3回目が第19号(同年刊)である。
 この号の表紙は、千葉県君津市清和市場・妙薬寺の丸彫り地蔵菩薩立像の写真である。地蔵に「カ奉納〜地蔵菩薩爲2世安樂也」と記す紙札(地蔵札)が貼られている。地蔵特集の『日本の石仏』第71号(日本石仏協会 平成6年刊)に発表した「現代の地蔵信仰の1端」の中では、「地蔵札」を取り上げ、次の草加市の事例にふれた。
 平成6年4月18日に多摩石仏の会の例会では、中山正義さんの案内によって埼玉県草加市内を廻り、谷塚町・宝持院を始めとして何か所で地蔵札をみている。柳町・大日堂でみた地蔵札は、印刷されたもので部分的に手書きしてしている。上部に横書きで「奉納」中央に縦書きで「百地蔵為2世安樂菩提也」とある。
 この項目の最後には、平成5年9月7日付けの『千葉日報』に載った「┌地蔵札┌で新盆供養」を引用した。記事によると、君津市清和地区ではお盆に宝性寺から100枚の地蔵札が配られ、これを5か寺で地蔵札を貼る風習がみられる。
 本文の最初は、埼玉県吹上町本町・勝竜寺にある昭和7年の丸彫り地蔵立像である。この地蔵の胸に乳房がみられ、多田さんは「乳出し地蔵」と名付けている。
 次は各地でもみられる「子育地蔵」、青森・茨城・埼玉・東京・神奈川・千葉・群馬・静岡の幼児を抱く地蔵を取り上げている。先日も青梅市柚木町・即清寺で大型の丸彫り立像をみた。中でも所沢市北野・全徳寺の文久3年の六地蔵は珍しい。六地蔵それぞれが子供を抱く丸彫り坐像である。中の1体は子供がデンデン太鼓を持っている。
 墓地にある「水子地蔵」を東京・埼玉の事例4例の写真を載せている。前記の「現代の地蔵信仰の一端」の中でも「墓地の水子地蔵」でふれが、『全国、石仏を歩く』(雄山閣出版 平成2年刊)で秩父の地蔵寺の事例を書いたことがある。
 「ランドセル地蔵」は、八王子市泉町・相即寺にあるので有名である。右手に錫杖、左手に宝珠を執った丸彫り地蔵立像がランドセルを背負っている。このことから「ランドセル地蔵」と呼ばれている。平成2年の造立。
 特に題名がついていないが、面白い地蔵が並んでいる。首を傾げた地蔵、銅鑼を打つ地蔵、如意輪観音のように頬に手を当てる地蔵、頭に瘤がある地蔵、背中に石輪がついている地蔵などバラエティがみられる。
 「逆手地蔵」は主に柄香炉を持つ地蔵にみられる現象、前記の「現代の地蔵信仰の一端」でも「逆手の地蔵」で扱っている。昨日も青梅市西分町・宗徳寺にある六地蔵の1体が逆手で柄香炉持っている。韓国や中国で作られた地蔵にみられる現象である。多田さんは幡幢の事例を示している。
 春日部市備後東・新福寺の宝暦3年丸彫り立像の台石は、月の異称「衣更着」や「當村施入面々」の銘文を刻んでいる。またマンジュウ部分にボタンに唐獅子を浮彫りし、反花の付いた台石の正面に献花を陽刻している。他にも館林市や行田市、川越市、さいたま市などにみられる地蔵台石の変化相を紹介している。意外に気付かずに済ませている場合が多い。
 続いては「十二支地蔵」、宮城県仙台市2例・同県石巻市・東京都稲城市の計4例の写真を並べている。幸手市上宇和田・祖師堂の享保4年の笠付型塔には、2面の上部に日月の陰刻があり、下部に浮彫り地蔵立像が3体ずつみられる。山口県萩市南古花町・円教寺の光背型塔には10段に地蔵坐像100体を浮彫りしている。本庄市新田尾三田・宥宝寺の地蔵群の写真がある。最後は東久留米市小山・大円寺の背後に「六号/安置供養料/一金五万二阡円」の張り紙がある六地蔵、地蔵真言を木札や半紙に記す2例を紹介している。
 地蔵石佛をみても通常は余り注意を払わない。地蔵かで済ますことが多い。最近は青梅市内の六地蔵を追いかけいるので、特に六地蔵には関心を持っている。ともかく、掲載された写真を通して多田さんは地蔵石佛を多角的にみているのがうかがえる。(平成19・3・22記)
『石仏散歩 悠真』22号

 昨22日(木曜日)に受け取った多田治昭さんの個人誌『石仏散歩 悠真』第22号は、「埼玉県
 所沢市の石仏」の特集である。「まえがき」に多田さんが昭和55年に初めて所沢を廻られてから、それ以降に「多摩石仏の会で何回か歩いている」と記され、私も平成13年の見学会で所沢を案内したことがある。多田さんは写真展に出品する写真を撮るために2月に所沢を廻られ、これを機にこれまでの写真を加えて第22号をまとめられている。
 所沢、特に祠内の庚申塔に私の関心があったのは、1つには調査対象の入間地方といことと、もう1つ杉本林志翁の「百庚申巡礼記」がからんでいたからである。所沢の庚申塔を昭和38年12月4日に廻ったのが、私の所沢石佛巡りの始まりである。
 林志翁の「百庚申巡礼記」の関わりとでいえば、『庚申』第37号(庚申懇話会 昭和39年刊)に「林志翁百庚申巡礼記」を発表し、更にそれを踏まえて『所沢市の庚申塔』(私家版 昭和40年刊)をまとめた。その後に『林志翁百庚申巡礼記』(ともしび会 平成6年刊)や『所沢を歩く』(ともしび会 平成12年刊)を発表している。
 第22号の表紙は、本郷・東福寺にある五大明王の1体、丸彫りの降三世明王立像を撮ったものである。この寺には、最後に出てくるが大日如来・五大明王・新旧の不動三十六童子がみられる。
 本文は、東町(旧旭町)の庚申堂境内にある2童子4薬叉付きの青面金剛寛文3年塔から始まる。2頁を使って寛文3年塔を写真で示し、庚申堂に奉納された桃持ち猿を描く絵馬の写真が添えられている。寛文庚申塔に続き、庚申堂全景や厨子の青面金剛木像、青面金剛画像の掛軸、平成17年の祈願祭木札、境内にある2基の庚申塔などの写真が3頁にわたって並ぶ。
 この庚申堂については、前記の『林志翁百庚申巡礼記』の22頁に次の記載がみられる。
   第76番 同村坂に金仏庚申堂本尊
    (註) 所沢市旭町(現・東町)の基寮寺前に「庚申青面金剛」の額が掛かった庚申堂があ
       る。本尊は厨子に入っており、前に鏡と御幣が供えてある。
 また、平成10年12月13日(日)の多摩石仏の会は、犬飼康祐さんの案内で所沢を廻っている。この時の記録「所沢を歩く」(『平成十年の石佛巡り』所収 多摩獅子の会 平成10年刊)には、次のように書いた。
    見学の最初は、東町の庚申堂である。すでに犬飼さんが連絡をとってあったので3上さんが
   待っていて、庚申堂の扉を開けていただく。杉本林志翁が「百庚申巡礼記」に「第七十六番
   同村坂に金佛庚申堂本尊」と記された像を安置している。実際は、「金佛」ではなくて木像で
   ある。(中略)
    堂内に2幅の掛軸があったので、3上さんにお願いして拝見する。1幅は、庚申の掛軸(画
   面65×26cm)で、剣人6手の青面金剛(像高26cm)を主尊とし、足下に1鬼、岩座の前に私有
   の2鶏、下部に3不型の3猿(像高9cm)が描かれている(中略)。
    庚申堂の隣の家に青面金剛のお札があると聞いたので訪ねる(中略)。
    青面金剛のお札(長さ36cm・幅15cm)は、和紙に1鬼の上に立つ4手び青面金剛を足掻
   く。主尊は、火炎のついた輪光背を背負い、左上方手の宝輪、右上方手にお宝棒、左下方手に
   矛、右下方手に羂索を執る。上部に右横書きで庚申霊像」、下部に右横書きの「武州野老澤村
   」の文字を枠で囲んでいる。中央より下には、朱の枠の中に「霊像」の文字が入った角印が押
   されている。(181〜2頁)
    他の1幅(画面58×18cm)は、中央に梵字真言が記され、その下に2手の疫神立像(像高15
   cm)、横書きで「教覺院」とある。真言の左右には「無明法性 不2疫神」「信心合掌 亦復
   福神」の銘文が記されている。
 東町・庚申堂に続き、各地の庚申塔が取り上げれている。久米・永源寺の安政2年塔(合掌)、本郷の寛政12年塔(剣人)、南永井・8幡神社付近の元禄6年塔(合掌)、本郷・東福寺の天和3年塔(剣人)、上山口・清照寺の宝暦14年塔(剣人)、山口・仏蔵院の明和5年塔(合掌)、久米の陰刻像の安永2年塔と6手の青面金剛立像が並ぶ。刻像塔に次いで南永井・大岾稲荷にある「青面金剛王」天保9年塔、3猿を伴う東狭山ケ丘6と同4の「庚申塔」文政8年塔2基を載せる。
 続いて今私が興味を持っている「六地蔵」である。荒幡・光蔵寺にある延宝5年の光背型塔に浮彫りされた六地蔵立像は、右から順に数珠・幡幢・合掌・蓮華・宝珠と錫杖・鉢をそれぞれの地蔵が執る。この六地蔵で注目されるのは、地蔵に刻まれた「爲庚申待供養立之七人」「爲日待供養施主十二人」「爲月待供養立之十二人」の施主銘である。
 次に掲げられた北野・全徳寺の文久3年の丸彫り六地蔵坐像、いずれも子供を抱いている。銘文も例えば「餓鬼飢渇水皆飽満/畜生被元即解脱」とか「修羅調伏我慢幢/人間済度生死海」などのように余りみられないのもの揃っている。
 次の「愛宕地蔵」は、山口・仏蔵院の宝永7年立像と3ケ島・常楽院の延宝4年の2基を紹介している。続く「勝軍地蔵」には、山口・中氷川神社にある安政5年塔と山口・佛蔵院にみられる延享4年塔の2基、共に浮彫り騎乗像である。
 「日天」は光背型塔に日天の乗る蓮華を執る浮彫りする荒幡・荒幡冨士の立像、多田さんは「聖観音」としているが、先の「所沢を歩く」には、「月光菩薩か月天子と思われる年不明の立像(像高74cm)」と記した。
 「6手地蔵」は山口・仏蔵院にある宝暦11年塔に浮彫りされた1身で6手の坐像、すでに『石仏散歩 悠真』第19号(平成19年刊)の「地蔵菩薩3」に取り上げられている。同書には東大和市奈良橋・雲性寺の同形・同年の6手地蔵が並んで掲げられている。
 「日待塔」は荒幡・光蔵寺にある宝永5年の丸彫り地蔵立像、「御日待供養/爲二世安樂」の銘がある。この寺には「爲日待供養施主十二人」銘の六地蔵の1体がある。本郷・東福寺の墓地入口にある六地蔵石幢には、「奉納日待供養」の銘が刻まれている。次の「月待塔」も丸彫り地蔵立像、本郷・東福寺にある正徳3年造立の「奉造立御月待講中供養佛」銘を持つ。なお、
 先日、青梅市2俣尾・海禅寺で台石に「血盆経」銘がある延宝2年の丸彫り如意輪観音をみてきただけに、「血盆経供養」銘を刻む荒幡・光蔵寺にある元禄5年の丸彫り地蔵立像に興味がある。地蔵の持物が面白く、右手に円相の物、左手に拂子を持っている。
 「無食念仏塔」は上山口・正智庵の貞享3年塔、主尊を大日如来としているが、木祠の中に写っているのは如意輪観音にもみえる。「奉納三十三日無食念佛供養中間十二人」の銘を記す。上山口・清照寺には、延宝5年の「不食念仏供養」銘がある金剛界大日如来立像が『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)111頁に載っている。
 山口・勝光寺にある天保6年の「百番観音」塔、荒幡・荒幡冨士にある享和3年の丸彫り「隋神」2体がみられる。
 最後は本郷・東福寺にある不動関係の石佛である。先ず明治10年の胎蔵界大日如来丸彫り坐像、同年の軍荼利明王・不動明王2体・金剛夜叉明王・降3世明王の写真を載せている。続いて不動3十6童子、平成10年の新童子の「不思議童子」と「召請光童子」、明治10年の尊名不明旧童子である。
 所沢市は私のフィールドにあるので、多摩石仏の会や庚申懇話会で案内したことがある。多田さんもよく市内を廻られ、各地の石佛に目配りしている様子が第22号からうかがわれる。多田さんに誌刺激され、てこのところ所沢に行っていないので、まだみていない「百庚申巡礼記」記載の庚申塔を全て廻ってみたい気持ちがある。(平成19・3・23記)
 
あとがき
     
      本書では「目次」でわかるように「青梅市内六地蔵巡り」と『石仏散歩 悠真』の2本
     立てである。
      「青梅の六地蔵の一様相」は、2月4日(土曜日)に行われた石仏談話室で講演された
     鳥沢隆憲さんが「六地蔵について」が頭にあり、『石佛雑記ノート3』収録の翌3月13
     日(火曜日)に廻った「2俣尾・梅郷石佛散歩」を受けている。
      これは機縁で20日(火曜日)に青梅と千ケ瀬の六地蔵を巡ったのを始めとし、第2回
     目を翌21日(水曜日)の春分の日に調布地区を中心に廻る。第3回は23日(金曜日)
     に小曽木地区に重点を置き、成木1丁目の安楽寺まで巡る。さらに4回目を27日(火曜
     日)に、安楽寺を除く成木地区を歩く。8丁目の正沢寺(曹洞宗)を見逃したために、北
     小曽木まで行かなくてはならない。
      本書のもう1本の柱は、あきる野の多田治昭さんの『石仏散歩 悠真』である。本書で
     は「地蔵菩薩」特集の第21号と「所沢市の石仏」特集の第22号の2冊を取り上げた。
     1か月に1回の『石佛雑記ノート』と違い、1か月2冊のペースによく息切れがしないに
     の関心する。
      『石佛雑記ノート5』は霞地区を廻る「青梅市内六地蔵巡り」の続編を予定している。
     彼岸の中日だったの遠慮したが、青梅市友田町の花蔵院にある青面金剛木像をみたいもの
     である。他に手持ちの原稿がないから、何か材料を集めなければならない。

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                             石佛雑記ノート5
                               発行日 平成19年4月15日
                               TXT 平成19年9月21日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 多摩野佛研究会
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