石川博司著  石佛雑記ノート 7   発行 多摩野佛研究会 
目次    ◎ 石田の石佛巡り      ◎ 栃木・藤岡見学会
        ◎ 『石仏散歩 悠真』第23号 ◎ 『石仏散歩 悠真』第24号
        ◎ 笹川と梅田の石佛     ◎ 『石佛月報』春号
        ◎ 『石佛月報』4月号    ◎ 『長坂の石造物』     あとがき
石田の石佛巡り

 平成19年4月1日は、獅子舞の見物で川越市石田・藤宮神社を訪ねる。獅子舞が始まるまで時間があるので、石田周辺の石佛巡りに出掛ける。待ち時間があったら石田の庚申塔をみようと、事前に『民間信仰の形−地域と講』(川越市立博物館 平成17年)を調べている。同書の9頁には、石田共同墓地に元禄6年の青面金剛刻像塔が載っている。
 藤宮神社に着いたのが早く、獅子舞が始まるまで2時間半と充分に時間がある。先ず地元の方に石田共同墓地への道順を教えていただき、共同墓地へ向かう。
 途中で畑の一画に石佛があるのに気づき、近づくと出羽三山信仰の石佛である。右に「月山」と刻む石柱の上に丸彫り定印阿弥坐像、左の「羽黒山」の石柱上には丸彫り金剛界大日如来坐像が乗っている。奥には龍を浮彫りした石柱上に丸彫り金剛界大日如来坐像が安置されている。
 前が月山と羽黒山だから、奥にある龍柱の大日如来は湯殿山に当たる。この台石右側面に「奉建立/文化七庚午年七月」の年銘がみられ、羽黒山の台石に「文政六癸未十月吉日」、月山には年銘が見当たらない。2つの年銘から推測すると、先ず文化7年に湯殿山塔ができ、遅れて文政6年に月山と羽黒山の両塔が造られている。
 石佛の所在地からみても、湯殿山の台石前面に「石田村講中」が第1に記され、この講に府川村や谷中村の参加者があったことがわかる。羽黒山の台石に「當村願主」の筆頭ににある「福香院」は修験者と思われる。
 次いで訪ねたのが地元の方から所在地を聞いた共同墓地、門札には「地蔵堂 石田共同墓地」とある。墓地の外、道路に面して3基の石佛が並んでいる。右端は板碑型墓石、中央が丸彫り地蔵立像、左端が目指す次の庚申塔である。
   1 元禄6 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・(台石)3猿   129×51
 1は典型的な合掌6手立像(像高68cm)、像の右に「庚申供養之所」、右に「元禄六癸酉暦十一月庚申日」の年銘、鬼の下に「講中施主三十一人/石田村谷中村 □法」の施主銘を刻む。因みに年銘の「庚申日」は21日に当たる。台石正面に埋もれた正面向3猿(地上高7cm)がみられる。
 期待もなく墓地に入って一巡すると、奥に1石に六地蔵(像高13cm)を2段に浮彫りする柱状型塔(76×37×25cm)がある。上段の右から鉄鉢を持つ地蔵・宝珠と錫杖の地蔵・天蓋の地蔵、下段は幡幢の地蔵・合掌の地蔵・数珠の地蔵の順である。尊名はなく、左側面塔に「明和七庚寅年十一月/願主 石田村/□□惣左衛門」の銘がある。
 石田と谷中の境に火の見櫓があり、その下には上部に馬頭観音坐像(像高23cm)を浮彫りする柱状型塔(82×35×38cm)が立っている。文政5年の造立である。
 ぐるっと廻って「子育地蔵堂」へ出る。入口右手にあるブロック祠の中には、7体の丸彫地蔵立像が並んでいる。右端の1体は宝珠と錫杖を執る立像は、他の6体より1周り大きい。これを除く6体が六地蔵である。右から合掌の地蔵・幡幢の地蔵・柄香炉の地蔵・宝珠と錫杖の地蔵・天蓋の地蔵・数珠の地蔵の順である。台石には尊名は見当たらず、銘文から享和年間の造立とわかる。
 地蔵堂の奥は墓地になっている。塩野家墓所には、彫りがよい如来立像の墓石5体がある。中に衣の端を持つ阿〓如来が珍しい。
 谷中の地蔵堂を最後に藤宮神社へ戻る。約1時間の石佛散歩である。(平成19・4・3記)
栃木・藤岡見学会

 平成19年4月21日(土曜日)は、多摩石仏の会有志6人が参加して「藤岡見学会」を行う。東武線日光線藤岡駅に午前10時集合、コース案内を担当するのは宇都宮の瀧澤龍雄さんと佐野の高橋久敬さんの地元2人である。
 今回集まったのは犬飼康祐さん・加地勝さん・五島公太郎さん・多田治昭さん・中山正義さんに私と案内の2人を加えて総勢8人、2台の車に分乗して藤岡町にある石佛を廻る。瀧澤さん運転の車に加地さん・多田さん・中山さんが乗り、高橋さん運転の車に犬飼さん・5島さんと私の4人である。
 昨年4月22日(土曜日)には、JR両毛線山前駅に集合し、今回参加されなかった森永5郎さんが加わた多摩石仏の会の有志7人と共に「足利市西部の庚申塔」を巡った。この時も、今回と同様に前記の瀧澤さんと高橋さんのお2人の案内であった。
 青梅線〜中央線〜武蔵野線のJR線を乗り継ぎ、新岩槻で東武日光線に乗車する。春日部で中山さんと出会い、藤岡までの間を雑談したせいか、アッというまに藤岡駅に着く。他のメンバーはすでに揃っていて、中山さんと私が最後である。
 早速、挨拶もそこそに瀧澤さんから封筒入りの資料が手渡される。中には多くの見学用の資料が詰まっている。それらは次に示す通りである。
   資料1 「栃木県藤岡町の石仏巡り栞」 表紙共20頁
   資料2 「栃木県藤岡町藤岡 庚申信仰塔の碑塔一覧」 表紙共17頁
   資料3 「栃木県藤岡町藤岡 慈福院の碑塔目録」 表紙共3頁
   資料4 「栃木県藤岡町藤岡 宝光寺の碑塔目録」 表紙共3頁
   資料5 「栃木県藤岡町藤岡 篠山地区の碑塔目録」 表紙共2頁
   資料6 「栃木県藤岡町藤岡 史跡ゾーン内 延命院跡の碑塔目録」 表紙共2頁
   資料7 「栃木県藤岡町藤岡 旧谷中村合同慰霊碑碑塔写真」 表紙共7頁
   資料8 「栃木県藤岡町新町 歓喜院跡の宥専に関わる碑塔調査」 表紙共16頁
 資料名が長いので、以下では「資料○」と資料番号で示す。事前にこれらの各資料をみて銘文などをチェックすると調査が身につかないので、資料は封筒入りのままザックに入れておく。
 資料の配付が終わり、定時の10時を待たずに2台に分乗して出発する。第1の見学場所は藤岡・内町の慈福院(真言宗豊山派)である。1 内町・慈福院の石佛
 この寺にある石佛については「資料3」に記載されている。本堂西側には十九夜塔が3基、庚申塔が2基みられる。十九夜塔は「十九夜念佛」と如意輪観音(像高15cm)の明和6年柱状型塔(77×28×21cm)、「十九夜」と如意輪観音(像高35cm)の文化14年柱状型塔(77×31×24cm)、「十九夜供養」と如意輪観音(像高31cm)の政7年柱状型塔(90×36×30cm)である。
 庚申塔は、共に青面金剛を主尊とする刻像塔の次の2基である。
  1 正徳2 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     83×33×22
   2 元禄14 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    101×37×36
 1は合掌6手立像(像高40cm)が主尊、下部に内面向3猿(像高12cm)を陽刻する。側面に「正徳二壬辰十一月吉日」と「奉造立庚申供養爲二世安楽」の銘が読める。
 2は「資料1」の栞に写真入りで「青面金剛立身呪塔」と紹介されている。合掌6手立像(像高53cm)、下部に内面向3猿(像高13cm)を浮彫りする。右側面に「元禄十四辛巳年/イ 奉造立庚申二世安楽祈所/九月大吉日」、左側面に「下野國都賀郡藤岡内町/(梵字青面金剛立身呪真言)信心施主3組惣人数」の銘を刻む。2 内町・宝光寺の石佛
 2番目に訪ねたのが宝光寺、寺には「資料4」に記載されている石佛がある。
 最初にみたのが平成7年3月造立の丸彫り六地蔵立像、地蔵の前に置かれた線香立にそれぞれの尊名が記されている。右から順に幡幢の「堅固慧菩薩」、鉄鉢と片手拝みの「持地菩薩」、数珠の「宝印手菩薩」、柄香炉の「宝堂菩薩」、合掌の「宝処菩薩」、宝珠と錫杖の「地蔵菩薩」である。これは天道・人道・修羅・畜生・餓鬼・地獄に配当される。このような尊名を刻む例は少ない。たまたま六地蔵に興味を持ち、青梅市内の六地蔵巡りをしたお陰で、これまでだったら気付かなかった尊名に眼が行った。
 これらの「菩薩」がつく尊名は、次の表のような関係がある。
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┓
   ┃富士正晴『日本の地蔵』101〜2頁┃『佛像図彙』(天台系)  ┃江湖法式梵唄抄 ┃
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   ┃六道配当│菩薩名  │地蔵名   ┃地蔵名  │左 手│右 手┃地蔵名  │持物┃
   ┣━━━━┿━━━━━┿━━━━━━╋━━━━━┿━━━┿━━━╋━━━━━┿━━┫
   ┃天上能化│堅固慧菩薩│大堅固地蔵 ┃預天賀地蔵│如意珠│説法印┃地持地蔵 │念珠┃
   ┠────┼─────┼──────╂─────┼───┼───╂─────┼──┨
   ┃人間能化│持地菩薩 │大清浄地蔵 ┃放光王地蔵│錫 杖│与願印┃鶏兜地蔵 │錫杖┃
   ┠────┼─────┼──────╂─────┼───┼───╂─────┼──┨
   ┃修羅能化│宝印手菩薩│清浄無垢地蔵┃金剛幢地蔵│金剛幢│施無畏┃宝印地蔵 │旌旗┃
   ┠────┼─────┼──────╂─────┼───┼───╂─────┼──┨
   ┃畜生能化│宝処菩薩 │大光明地蔵 ┃金剛悲地蔵│錫 杖│引接印┃宝陵地蔵 │合掌┃
   ┃────┼─────┼──────╂─────┼───┼───╂─────┼──┨
   ┃餓鬼能化│宝堂菩薩 │大徳清浄地蔵┃金剛宝地蔵│宝 珠│甘露印┃陀羅尼地蔵│宝珠┃
   ┃────┼─────┼──────╂─────┼───┼───╂─────┼──┨
   ┃地獄能化│地蔵菩薩 │大定智悲地蔵┃金剛願地蔵│炎魔幢│成弁印┃法性地蔵 │香炉┃
   ┗━━━━┷━━━━━┷━━━━━━┻━━━━━┷━━━┷━━━┻━━━━━┷━━┛
   〔注記〕 表中の『佛像図彙』には、・天台系・・禅宗系・・真言系の3種の名称が記され、
   ・と・の図像が描かれている。・の図像は・と同じである。ここでは天台系を取り上げた。天
   台系といっても『佛説地蔵菩薩発心因縁十王経』(『十王経』と知られる)の系統である。
    下段の臨済宗十7派の『江湖法式梵唄抄』は天台系と異なり、両手で持物を執る。
 次いで境内にある宝暦6年の宝篋印塔、この塔については「資料1」の栞に写真入りで「延命院にあった寶篋印塔」と掲載されている。延命院は旧・谷中村にあった寺、この寺から現在の宝光寺に移されている。その移動の経緯は、基礎に記された後刻の銘文から知ることができる。
 山門の前には、十九夜塔2基がある。1基は上部に如意輪観音を浮彫りし、下に「十九夜」の主銘がある天保7年柱状型塔、他は「十九夜供養」が主銘の寛政7年柱状型塔である。寺の入口に並ぶ石佛群の中に、次の庚申塔3基が立っている。
   3 慶応3 板石型 「庚 申」                52×31
   4 文化10 柱状型 「大青面金剛」3猿(台石)        67×27×21
   5 享保18 笠付型 「バク 奉造立庚申供養諸願成就所」3猿   75×30×24
 3は「庚申」が主銘の文字塔、裏面に「慶応三丁卯年九月吉日/酒井藤四郎」の銘がある。
 4は「資料1」に「青面金剛小呪塔」の題名で記され、正面の写真と拓本、両側面の拓本を載せている。上部中央に大きく「ア」、これを中心に梵字真言(青面金剛小呪)を配し、下に主銘の「大青面金剛」、その右に「文化十年癸酉 建主新町」、左に「十一月吉祥日 酒井郷助」の銘を彫る。両側面に長文の銘を記す。台石正面の枠内に正面向3猿(像高11cm)を陽刻する。
 5は正面に「バク 奉造立庚申供養諸願成就所」主銘の文字塔、その右に「享保十八癸丑歳 醫王山/寳光寺」、左に「十二月吉日 開光 法印通行」の銘文がある。台石の正面に正面向3猿(像高9cm)を浮彫りする。3 原向・猿田彦堂
 続いて原向・猿田彦堂を訪ねる。道路に面した瓦葺き屋根のお堂には、正面の梁に右横書きで「猿田彦大神」の金文字、奥に寛文の青面金剛、上に「猿田彦大神」の額が掛かっている。額の上部に右横書きで「奉納」、下に縦書きで「猿田彦大神」、右に「昭和四年四月吉日」、左に願主2人に名が記されている。
 柱にこの庚申塔を模したお札(39×18cm)が貼ってある。上部中央に黒字の「庚申尊」の上に丸い朱印(直径6cm)、右に「右方童子」、左に「左方童子」とある。下に庚申塔の図版、下段の二重枠の中に右横書きで「下野藤岡字原」の文字がある。図版には青面金剛(像高19cm)・両童子(共に像高4cm)・3猿(像高1cm)が描かれている。
 庚申塔は上部が2折し、セメントで補修されている。塔は次の通りである。
   6 寛文10 光背型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 139×56
 6は4手の青面金剛立像(像高90cm)が主尊、両脇に童子(像高21cmと19cm)、下部に正面向3猿(像高16cm)を陽刻する。銘文が各所に刻まれ、しかも読みにくい。銘文の個所ごとに拓本をとり、解読を進める。どうにか1部不明ながら、像の右に「奉建立像1尊/爲二世安楽也/下野国都賀郡藤岡/功徳主□□左エ門」、左に「寛文十庚戌□□十八日/藤岡村功徳主□兵衛/本願結衆三十八人/助力衆百三十五人」が読める。4 篠山・日枝神社
 猿田彦堂の次は日枝神社、「資料5」にこの神社境内にある石佛のデータが載り、次の庚申塔の写真が表紙にみられる。庚申塔横に文化3年「大杉大明神」塔と天保14年「大黒天」塔が並ぶ。
  7 享保11 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 139×57
 7は合掌6手立像(像高66cm)を主尊、頭上に「奉造立」、像の両横に童子(共に像高23cm)、像の右に「享保十一丙午年十一月吉日」、左に「下野國都賀郡」、鬼の下に内向型3猿(像高15cm)を浮彫りする。台石の正面には「篠山村/施主十四人」と2行に記す。5 篠山・農協倉庫北路傍
 続いて篠山路傍にある石佛群を訪ねる。右から庚申塔・頂欠の地蔵・地蔵菩薩・十九夜塔が並ぶ。データは「資料5」に掲載され、表紙に次の十九夜塔の写真を掲げている。ている。左端の十九夜塔(91×39×40cm)は、台石に「十九夜」とある円光背を付ける如意輪観音(像高34cm)を主尊としたもの、この像は波の上にある雲紋を敷いている珍しい像容である。右端には、次の庚申塔がある。
   8 宝永7 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    118×56
 8は頂部から日月が突き出て合掌6手立像(像高63cm)を浮彫りし、下部の枠内に内向型3猿(像高15cm)を陽刻する。像の右に「奉造立庚申/諸願成就祈所 下野國都賀郡中泉庄」、左に「宝永七庚寅十月吉日 山中惣供養」の銘を彫る。6 史跡保存ゾーン・延命寺跡
 延命寺跡は駐車場から離れた場所にある。案内がないと直ちに行くわけにはいかない。「資料6」の表紙に次の庚申塔9の写真が示されている。隣に10がある。
  9 享保9 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 140×50
  10 万延1 柱状型 日月「庚申塔」              66 ×29×50
 9は標準的な合掌6手立像(像高64cm)、両脇に2童子(共に像高24cm)を従える。像の右に「奉造立/下野國都賀郡古川」、左に「享保九甲辰天/十月吉日」、下部の枠内には内向型3猿(像高15cm)を浮彫りする。
 10は「庚申塔」が主銘の文字塔、側面に「萬延元年庚申十一月吉日」、「下野國都賀郡小山庄/古川/鎌立/両講中」の銘がある。
 延命寺跡の塔をみて駐車場近くの人と合流して昼食をとる。食事が済んでから記念撮影を行う。7 旧谷中村合同慰霊碑
 食後最初に訪ねたのは、旧谷中村合同慰霊碑を中心に周囲に集められた石佛群である。「資料1」に「邪鬼と3猿さん」と共に「栃木県藤岡町藤岡 旧谷中村合同慰霊地 碑塔目録」が記載されている。「資料7」は「碑塔目録」と共通の番号が付され、6頁にわたっ庚申塔8基、十九夜塔20基を含むて50葉の写真を掲げている。
 庚申塔8基の内、調べたのは次の3基である。
  11 延宝  板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    106×50
  12 宝暦13 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿・2童子   107×52
  13 年不明 柱状型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    104×45
11は標準的な合掌6手立像(像高59cm)、頭上には種字が彫られていたと思われるが、セメントで埋められていて不明である。像の右に「下野國小山之庄内野新田」、左に「時延寳四丙辰稔拾月吉日
 願主等敬白」の銘がみられる。下部に正向型3猿(像高10cm)を浮彫りする。
12は上方手に執る矛と宝輪の持物が逆の合掌6手立像(像高53cm)、右脇に童子(像高18cm)と左脇に童子(像高17cm)の2童子を従え、下部に内向型3猿(像高9cm)を陽刻する。像の右に「野〓都賀郡西高□村」の地銘、左に「宝暦十三癸未十月吉日」の年銘を彫る。
13は典型的な剣人6手立像(計測なし)、両側面に地銘や年銘などの銘文がある、と推測するが、コンクリートの中に埋まっていて不明である。内向型3猿(像高12cm)の左端の塞目猿は左手で目を隠し、右手で秘所に手を抑えるポーズをとる。「資料1」の「邪鬼と3猿さん」は、この塔について書かれている。8 新町・繁桂寺
 「資料1」に「當來下生弥勒尊佛」(「佛」は人偏に上の西と下の圀を合わせた異体字)と「栃木県藤岡町藤岡 曹洞宗 繁桂寺の碑塔目録」が載り、目録の表紙写真に聖徳太子立像を使っている。山門前に寛保2年の丸彫り弥勒菩薩立像がある。通常、弥勒菩薩は両手で宝塔を奉捧持するが、この寺の像は五輪塔を執る。
 門前にある丸彫り六地蔵の内、柄香炉と幡幢を持つ地蔵は右手を逆にし、同じ方向に手を揃えて持物を執る。柄香炉や幡幢を持つ手の扱いがおかしくなったのは、海外に六地蔵の作成を発注すようになってからである。恐らく韓国か中国の製品と推測できる。
 山門を入って右手には、寛政7年の3面8手馬頭観音坐像と明治26年の「馬頭尊」塔が並んでいる。墓地には、前文字に「烏八臼」を刻む墓石が4基みつかる。探せば曹洞宗の寺だけにまだ烏八臼がつく墓石はまだあると思う。
 境内には、総高が172cmの笠付型六字名号塔(137×51×46cm)がみられる。両側面に花瓶に挿した蓮華を浮彫りする塔で、左側面に「同行鐘番」の銘を彫る。中山さんが熱心に追いかけている鐘番塔である。9 新町・歓喜院跡
 歓喜院跡の入口にある赤塗りのトタンの覆屋根の下に、次の庚申塔が安置されている。
   14 元禄10 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     88×34×23
14は標準的な合掌6手立像(像高50cm)、下部に正向型3猿(計測なし)を陽刻する。右側面には「善生山住宥専□ 新町/下野國都賀郡中泉庄 藤岡村/此石□地形從二尺下五尺底之内石經并十二天/真言敷返令石書寫納置至末世莫動此石佛/本願十四人」、左側面には「元禄十丁丑年九月大吉日/助力十人/惣衆敬白」の銘文が読み取れる。
 この庚申塔の背後には、石佛群がある。前の庚申塔を加え、歓喜院跡の石佛については「資料8」が詳しい。
 石佛群の後列には、次のような石佛が1列に並んでいる。右端の4基は100cmを越す光背型塔、いずれも立像を浮彫りする。右から順に阿弥陀如来・釈迦如来・宝生如来・阿〓如来、いずれも正徳6年の造立である。
 次いで金剛界の大日如来を浮彫りする宝永6年の笠付型塔があり、前記の4基と併せて5智如来を形成する。その隣に元文3年の普門品読誦塔、次に先の4如来と同じような塔形の2基があり、宝永4年の造立の地蔵菩薩と不動明王を陽刻した塔である。左端には、寛政10年造立の笠付型「〓 二十三夜塔」がある。それらの石佛の前には、宥専の墓石などがみられる。
 何分にもこれらの石佛に梵字で真言が記され、しかもその真言の種類が多い。例えば、宝永6年の大日如来坐像塔には、胎蔵界と金剛界の5佛真言が刻まれている。さらに元文3年の普門品読誦塔には、千手観音・聖観音・馬頭観音・十一面観音・准胝観音・如意輪観音の六観音それぞれの真言に加え、光明真言が彫られているという具合である。真言が多岐に及ぶから、解読だけでも大変である。いずれ瀧澤さんは、歓喜院跡にある1連の宥専関係の石佛について研究をまとめられ、公表される時期がくると思う。10 大底・共同墓地
 続く共同墓地には、次の庚申塔がある。「資料1」には「藤岡町もう1つの庚申塔」と「二十八宿に見る室宿」が載っている。
  15 元禄13 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    119×54
15は標準的な剣人6手の立像(像高43cm)、この種の青面金剛としては古い像である。像の右には「元禄十三庚午年/十一月吉日」、左には「下野國都賀郡底谷村」の銘文を刻む。下部にある正向型3猿(像高54cm)の下に30人程の施主銘がみられる。
 この墓地にある明和5年の回国供養塔は、右側面に「明和五室宿戊子十一月七日寂法名春寒」と刻む。『佛像図彙』をみると「室宿」は二十八宿の13番に当たり、馬に載る女神が描かれている。注釈に「通考室3星天子之官也爲主功事」と記されている。10 前本郷・大前神社
次の大前神社の前には、次の庚申塔2基が立っている。
   16 延宝8 光背型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    112×45
   17 天明8 光背型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        56×27×15
 16は標準的な合掌6手立像(像高66cm)、下部に内向型3猿(像高11cm)を浮彫りする。像の右に「奉造立石堂之心信安楽所 人数三拾人」、左に「延宝八庚申□月吉日 施主敬白」の銘がある。
 17は顔面などに破損がみられる6手立像(像高37cm)、下部の猿は埋まっていて地上高僅かに4cmである。「資料2」5頁に掲載された写真をみると、正向型3猿である。像の右に「天明八戊申十二月吉日」、左に「大崎村講中」の銘を刻む。11 新井本郷・浄光寺
 大前神社から次の浄光寺(真言宗)へ向かう。寺の境内に次の青面金剛が立つ。
   18 延宝3 光背型 日月・青面金剛・1鬼・3猿       130×56
 18は全ての手が外側にあり、上方手に人身と剣を持つが、左手を下げて中央手と間違えるような変則的な剣人6手立像(像高88cm)である。像の右に「奉造立庚申像壇越爲二世安楽」、左に「延寳三乙卯天 下野國願衆/八月吉日 新井村敬白」の銘がある。台石正面に正向型3猿(像高13cm)を浮彫りする。12 都賀・十王堂
 十王堂といっても、現在は中居公民館である。ブロック塀の前に次の庚申塔がある。
   19 寛文11 光背型 日月・青面金剛・1鶏・1猿       140×65
 19は上方手に矛と宝輪、下方手に剣と索を持つ4手立像(像高104cm )、足元の右に猿(像高22cm)、左に鶏を陽刻する。像の右に「下野國都賀郡中和泉庄中井村」、左に「寛文十一年亥十一月吉日 施主敬白」の銘がある。13 太田・太田公民館
 十王堂に続き、太田公民館を訪ねる。正面から写真が撮れず、斜め狙いである。
   20 元文5 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 116×53×32
 20は標準的な剣人6手立像(像高69cm)、両脇に童子(共に像高17cm)を配す。下部に向かい合わせの御幣を持つ猿(像高16cm)を陽刻する。右側面に「元文五庚申年八月吉日/下野國都賀郡太田村/村中」に銘がみられる。今回は廻らなかったが、「資料1」には「御幣持ち二猿塔」の題名で、仲町公民館にある享保20年塔が紹介されている。14 新井本郷・庚申塚
 「資料1」の「只木地区の庚申塔」は、ここにある2基の庚申塔が並ぶ風景の写真を載せている。
  21 万延1 自然石 「庚 申」               100×60
   22 元禄9 光背型 日月・青面金剛・1鬼・3猿       140×59
 21は、自然石塔に「庚申」の主銘を彫る文字塔である。裏面に「萬延元庚申十月吉日/只木村本郷村中」とある。
 22は標準的な合掌6手立像(像高75cm)、下部に正向型3猿(像高16cm)がある。像の頭上に「奉造立庚申」、像の右に「元禄九丙子年」、左に「二月吉日」の年銘を記す。
ここから帰路となり、出発点の藤岡駅に向かう。藤岡からは往路とコースを代え、復路は東武線で栗橋駅まで行き、JRの宇都宮線に乗換え、終点の上野駅で山手線、東京駅で青梅線直通の中央線と乗り継いで帰宅する。

 中山正義さんから指摘されたことであるが、栃木県で寛文の青面金剛は、いずれも4手である、という。中山さんが作成された第11稿(平成7年刊)の「栃木県寛文の庚申塔仮年表」をみると
   寛文5 青面金剛・2猿・2鶏           板碑型 藤岡町部屋 圓城寺
   寛文9 青面金剛・3猿              板碑型 佐野市植下町 大原公民館横
   寛文9 日月・青面金剛・2猿・2鶏        板碑型 大平町榎本 妙生院入口
   寛文10 青面金剛・1猿・1鶏           光背型 小山市中里 路傍
  ※寛文10 日月・青面金剛・2童子・1鬼・2鶏・3猿 光背型 藤岡町原 猿田彦堂
  ※寛文11 日月・青面金剛・1猿・1鶏        光背型 藤岡町中居 十王堂の青面金剛刻像塔が6基があり、いずれも4手像である。この傾向は年不明4手像の造立年代の推定に役立つ。なお「※」印は、今回の見学コースに入っている。
 中山さんの「栃木県延宝の庚申塔仮年表」(平成17年刊)による、次の延宝年間に入ると、6手像は佐野市仙波・堀向路傍の延宝元年塔を初出して以降は、圧倒的に6手像が多い。僅かに4手像は足利市8椚町の延宝2年塔以下、同市内の延宝8年塔3基を数えるのみである。
 今回廻った中で、2童子付き庚申塔は次のように5基ある。しかも、これは藤岡町の1部である。
   6 寛文10 光背型 日月・4手青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 猿田彦堂
   9 享保9 板駒型 日月・合6青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 延命院跡
  7 享保11 板駒型 日月・合6青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 日枝神社
   20 元文5 駒 型 日月・剣6青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 太田公民館
  12 宝暦13 板駒型 日月・合6青面金剛・1鬼・3猿・2童子    谷中慰霊碑
 「資料2」で調べてみると、今回の5基の他にも町内に次の3基が分布するから、藤岡町は2童子の宝庫ともいえる。特に享保年間に5基の造立がみられる。これほど2童子の造られた割りには、4薬叉が全くないのも面白い。
   ・ 享保1 駒 型 日月・合6青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 下宮 天王堂
   ・ 享保5 駒 型 日月・合6青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 藤岡 鹿島公民館
   ・ 享保6 駒 型 日月・剣6青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 赤麻 四社神社東
 多田治昭さんは、熱心に関東地方の童子や薬叉付きの庚申塔を追いかけている。これまでに
  『千葉県の童子・夜叉付青面金剛塔』 平成14年刊 92基(木更津市8基)
  『東京都の童子・夜叉付青面金剛塔』 平成15年刊 15基(江戸川区4基)
  『埼玉県の童子・夜叉付青面金剛塔』 平成15年刊 37基(北川辺町7基)
  『神奈川県の童子・夜叉付青面金剛塔』平成15年刊 24基(横浜市9基)
  『群馬県・栃木県・茨城県童子・夜叉付青面金剛塔』平成16年刊 群馬県14基(板倉町7基)
    同  右                        栃木県14基(藤岡町8基)
    同  右                        茨城県 9基(桜川村3基)
  『関東地方の童子・夜叉付青面金剛塔』平成16年刊の6冊を発行され、未調査分を含めて総計231基の童子・夜叉の青面金剛塔を提示している。内訳は千葉県13基、埼玉県38基、神奈川県27基、東京都18基、群馬県16基、茨城県15基、栃木県14基である。
 今回の石佛巡りで思いがけない収穫だったのは、宝光寺(真言宗)で普段みられない六地蔵の尊名に出会ったことである。すなわち天上能化の「堅固慧菩薩」、人間能化の「持地菩薩」、修羅能化の「宝印手菩薩」、畜生能化の「宝堂菩薩」、餓鬼能化の「宝処菩薩」、地獄能化の「地蔵菩薩」の尊名である。
 また繁桂寺(曹洞宗)では、幡幢や柄香炉を逆手に持つ地蔵をみつけた。この種の地蔵を「逆手地蔵」と呼んでいる。多田さんが発行している『石仏散歩 悠真』第21号(平成19年刊)は、「地蔵菩薩」の特集4回目である。書中には「逆手地蔵」として柄香炉を10例、幡幢を2例を掲載して紹介している。
 配付資料とは別に、瀧澤さんから『石佛月報』4月号をいただいた。掲載されている「六地蔵と血盆経」の中で、気になる記事がみられる。普通なら六地蔵の6道配当を「天道」「人道」「修羅」などと記すが、足利市西宮町の長林寺(曹洞宗)の六地蔵には、台座の正面に「天道師」や「人道師」「修羅師」などと「師」がついている。また同市の心通院の六地蔵には、「天道命」や「人道命」などのようにそれぞれに「命」があるという。
 最近までの石佛巡りでは、逆手地蔵には多少の関心があったが、全くといっていいほど六地蔵に興味を持たなかった。六地蔵も注意して観察すると、思いがけない事に気付く。今回は宝光寺の尊名、繁桂寺の逆手地蔵、『石佛月報』の「師」や「命」が6道名の下につくことなど、予想外の副産物に恵まれた。

 いろいろな方と実地で眼の前にある石佛をみながら対話すると、思いがけないアイデアが浮かび、ヒントに結びついてくる。特に栃木県の石佛をよく知る地元のお2人の話は、多摩地方の石佛との違いがわかり、今後の調査・研究の上で有益である。末尾になるが、事前に資料を準備され、運転手を兼ねて藤岡町内をご案内いただいた瀧澤龍雄さんと高橋久敬さんのお2人に厚くお礼申し上げる。
                                  (平成19・4・23記)
『石仏散歩 悠真』第23号

 平成19年4月19日に多田治昭さんから『石仏散歩 悠真』第23号と第24号の2冊が送られてきた。ここで取り上げた第23号は、特集「平成の庚申塔」である。「まえがき」にあるように、多田さんは埼玉県児玉郡美里町(大里郡寄居町用土か比企郡小川町の間違いか)で平成2年造立の庚申塔に出会ったのがきっかけで、以後、平成塔を記録されている。
 昭和55年は庚申年、この年は主として長野・新潟・栃木の3県に集中するが、全国で約1000基の庚申塔が造立されている。その前年の54年8月に私は、長野県北安曇郡白馬村で「昭和五十五年初庚申」の年銘を刻んだ文字庚申塔を見つけたの契機で、昭和庚申年塔に興味を持った。その写真は、『日本の石仏』12号所収(日本石仏協会 昭和54年刊)の「来年は庚申年」に掲げた。
 その後には「昭和庚申年市町村別造塔数」(『庚申』第89号所収 庚申懇話会 昭和61年刊)、「昭和庚申年の全国造塔数」(『日本の石仏』第39号所収 昭和61年刊)、「続昭和庚申年の全国造塔数」(『日本の石仏』第39号所収 平成6年刊)、栃木県については、瀧澤龍雄、田村右品両氏の調査資料に私が手持ちする資料を加え『栃木の昭和庚申年塔』(庚申資料刊行会 平成8年刊)をまとめた。
 瀧澤さんの報告によると昭和庚申年の翌年にも、栃木県足利市では庚申年に関連する庚申塔の造立が続いていた。昭和庚申年の1年間に全国各地に約1000基の庚申塔が造立されたのに対して、平成の造塔は極めて少ない。それでも各地に平成の造塔がみられるのは、庚申信仰が衰弱したというもの、現在も残っていることを示している。
 多田さんは「平成の庚申塔」を『野仏』第28集(多摩石仏の会 平成9年刊)に発表され、文末の年表に13基を掲げている。その中の埼玉県3基・東京都1基・群馬県1基・千葉県2基の計7基について書かれている。
 平成14年7月11日に受け取った、多田さんの私家版『平成の庚申塔』には、平成元年塔から同14年塔までの40基の明細を記し、内34基の写真を掲載している。
 多田さんが調査された平成庚申塔の数は年を追って増加、翌15年1月には46基になり、今回の『石仏散歩 悠真』第23号の特集では60基に上る。この号には「都県別・市町村別平成庚申塔1覧表」を掲げている。最も多い都県は千葉県の17基、次いで茨城県の10基、埼玉県と栃木県の各7基と続き、以下、群馬県と東京都の各4基、神奈川県が3基、長野・石川・徳島・青森の各県が1基となっている。
 市町村別となると、千葉県の8千代市と鎌ヶ谷市の両市が各4基が最高である。同県船橋市・同県白井市・栃木県小山市の各3基が続いている。鎌ヶ谷市といえば、粟野では5年毎に造塔している所である。平成になってからも、2年・7年・12年・17年の11月に造塔が続いている。
 昭和45年11月24日には、粟野で文字庚申塔の開眼が行われた。庚申懇話会では、この日の庚申塔の開眼の状況を見学し、私もこれに参加した。この時に小花波平6さんが撮った写真が『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)205頁に「庚申のうれつき塔婆」の説明付きで載っている。庚申塔開眼に立ち会った思いであるが、この時以後も依然5年毎の造塔が続いている。
 横須賀市根岸の平成8年塔が年表にみられる。平成10年5月24日(日)の庚申懇話会5月例会では、地元の遠藤陽之助さんの案内で横須賀市内を廻った。この時に
  49 昭和55 駒 型 日月「青面金剛」3猿            65×25×25をみているが、『平成十年の石仏巡り』(多摩野仏研究会 平成10年刊)には「49には、昭和五十五年(庚申年)・昭和63年・平成8年の年銘がみられる。この塔の写真は、庚申懇話会編の『日本石仏事典』91頁に載っている」と記した。つまり、単独の庚申塔ではなく、年銘を追記した庚申文字塔である。多田さんも「平成八年」の年銘はともかく、昭和55年にみていると思う。
 平成庚申塔の年表によると、粟野の十7年塔の前に同年7月に再建された八王子市台町の塔が載っている。調査エリアの多摩地方でも思わぬ所に平成塔が建っている。同市には小比企町に宝暦2年塔が平成10年に再建されている。共に未だお目に掛かっていない。
 今回、多田さんの「平成の庚申塔」を読んで、未だに私の昭和庚申年塔のまとめが進んでいないことを痛感する。(平成19・4・27記)
『石仏散歩 悠真』第24号

 平成19年4月19日には、多田治昭さんから『石仏散歩 悠真』第23号と第24号の2冊が送られてきた。ここで取り上げた第24号は、「青面金剛の持物1」の特集である。青面金剛の持物にはいろいろあるが、その1回目として「矛」を選んでいる。
 『野仏』第33集(多摩石仏の会 平成14年刊)に発表された多田さんの「庚申塔ファイル(3)青面金剛」では、2手、4手、6手、8手の青面金剛にふれてから、いろいろなな持物の写真を掲載している。
 持物の例としては、51頁の宝剣から始まり、次いで今回の「矛・戟」である。以下、宝輪・弓矢・人身・錫杖・鉤・鍵・宝珠・斧・卍・宝棒・鈴・索・袋・数珠・蛇・経巻・どくろ・首・印・合掌・独鈷・日月・不明と68頁まで様々な持物を示している。
 「まえがき」に「紙面の都合で1部しか出せませんでした」というように、今回取り上げた「矛・戟」の写真を53頁に4葉掲げている。第24号には、矛の持物の写真を100葉並べているから、『野仏』の4葉とは比べ物にならない。
 武具としての矛・戟・鉾は、いずれも「ホコ」と読むが、文字が異なるように形態もちがうのであろう。私の場合は、一括して「矛」で統1している。しかし、多田さんが第24号に掲げた「矛」の形をみると、はたして「矛」で統一していいのであろうか、と考えてしまう。実にいろいろな形がみられる。
 実際に青面金剛が執る矛といっても、単純にみて1本のものと三叉戟とがある。『日本語大辞典』(講談社 平成1年刊)で「戟」を引くと、598頁に
   ゲキ【戟】・ほこ。両側に枝のでている武器。「剣戟」・さす。つきいれる。「刺戟」とある。また、「矛」は1813頁に
   ホコ【矛・戈・鉾】両刃の剣に長い柄をつけた武器。中国には殷代から存在。日本にも弥生時
   代に渡来し、のちに薙刀に変化。と記されている。横に「矛 銅矛。弥生時代。佐賀県宇木汲田出土」の説明がついた写真が載っている。この解釈からみると、「3叉戟」のように枝分かれした「戟」と両刃の槍状の「矛」と違いがわかる。持物を分析する上で、実務的に両者を区別する何らかの理由がある以外は、「矛」で統一してもよいと考える。
 笠間良彦氏の編著『資料 日本歴史図録』(柏書房 平成4年刊)の218頁の「矛・薙刀」をみると、矛身に「平三角」「鉤付」「菱形」があり、正倉院御物の「手矛」が図示されている。また次頁の「槍・矛・薙刀」では、槍身の種類、例えば「雁形十文字」とか「毘沙門形」、あるいは「千鳥形十文字」や「月形十文字」など、十文字形の槍身をいろいろ挙げている。
 とかく、隠れキリシタンの研究者は、十字形をした矛をみると、矛を「十字架」とみなして隠れキリシタンと関係付けている。丸に十の島津の家紋は十字架か、といいたくなる。話が少々脱線したので、元に戻して進めよう。
 同書の223頁には「平安時代以降の鏃の種類が」が図解されている。95の北区堀船・福性寺の享保3年塔の矛は、先が「飛燕形」鏃に似ている。
 第24号のように多様な矛の写真を示されると、矛と1括して分類すべきか、それとも個々の形に応じた名称を付けて分析すべきか、という問題を考えさせられる。(平成19・4・28記)
笹川と梅田の石佛

 平成19年4月19日(木曜日)、足立の笹川義明さんからお手紙をいただいた。中には千葉・笹川と地元の梅田の石佛写真が同封されている。
 笹川は、千葉県香取郡東庄町笹川である。笹川さんは、同名にひかれて県指定の「笹川の神楽」を4月7日(土曜日)に訪ね、午後0時から始まった神楽のビデオ撮りを行った。午前中の時間を利用して、笹川の波切不動尊〜妙幢院〜延命寺〜諏訪神社を廻り、送られてきた写真を撮っている。
 波切不動尊では安永9年の馬乗り馬頭、次の妙幢院では同年の馬乗り馬頭と合掌6手の青面金剛、延命寺では寛文6年の地蔵庚申と合掌6手の青面金剛2基、諏訪神社では合掌6手の青面金剛2基と子抱き観音、正徳元年の地蔵立像を撮っている。
 馬乗り馬頭については、旭市の服部重蔵さんが「東総の馬乗馬頭観音」を『日本の石仏』第14号(日本石仏協会 昭和55年刊)を発表され、「馬乗馬頭観音1覧」に東庄町の8基を紹介している。その後、木更津市の立原啓3さんと市原市の町田茂さんが連名で「上総地方の馬乗り馬頭観音」を同誌76号(平成7年刊)に載せ、50頁の「千葉県の馬乗り馬頭観音分布図」に下総の東庄町の塔数を20基とし、分布が最多である上総の市原市の21基に次ぐ。
 町田さんは馬乗り馬頭の研究では第一人者で、房総石造文化財研究会のホームページに馬乗り馬頭の写真を掲載している。平成14年5月に行われた日本石仏協会の木更津見学会では、町田さんのご案内で馬乗り馬頭を2基みている。
 前記の寛文6年の地蔵庚申は、写真をみた時に1瞬、横浜市戸塚区上倉田町の蔵田寺の地蔵庚申を思い出した。それは、光背型塔に浮彫りされた地蔵の両肩の上に合掌猿の坐像があったからである。
 この塔については、すでに多摩石仏の会の中山正義さんが平成3年に作成された「千葉県寛文の庚申塔仮年表」(第3稿)に、「47 寛文七天丁未二月十五日 合掌猿2 地蔵菩薩像 (光背型)東圧町笹川 延命寺」と収録されている。
 直観的に蔵田寺の庚申塔を思い出したが、清水長明さんの『相模道神図誌』(波多野書店 昭和40年刊)71頁に載る写真をみると、延命寺の塔と違いがみられる。蔵田寺の塔は明暦2年の造立、上部に「キリーク サ サク」の弥陀3尊種子、蓮台に乗る合掌2猿の下に合掌の地蔵菩薩を浮彫りする。
 主尊の地蔵菩薩が蔵田寺は合掌立像、延命寺は宝珠と錫杖を執る立像である。2猿の位置も蔵田寺が頭上に並んでいるのに対し、延命寺のは2匹が離れて肩の上に浮彫りされている。塔の寸法も蔵田寺塔が幅に対して高さある。
 前記の青面金剛は、いずれも上方手に宝輪と矛、下に弓と矢を持ち、中央手が合掌する合掌6手立像である。写真からは年銘が読み取れないのが残念である。
 別の紙包みには、笹川さんがお住まいになっている梅田の石佛写真が入っている。真福寺の1面6手の馬頭観音立像と青面金剛立像2基、明王院の地蔵菩薩坐像と不動明王立像、それに勢至菩薩立像(元禄7年銘)・地蔵菩薩立像(宝永7年銘と享保4年銘)・如意輪観音坐像(宝暦5年銘)を陽刻する墓石3基である。
 足立区内では花畑や鹿浜の獅子舞を訪ねている他にも、庚申懇話会や多摩石仏の会で区内の石佛巡りを行っている。特に小台や北千住などの庚申塔を何度も調査しているが、梅田は調査の空白地帯になっている。
 足立区の庚申塔データベースをみると、梅田には次の庚申塔6基がある。
   1 寛文9 地蔵「奉造立庚申供養二世安楽処」     光背型 梅田1−1 真福寺
   2 正徳3 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     板駒型 梅田1−1 真福寺
   3 享保4 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     板駒型 梅田1−1 真福寺
   4 寛延3 日月・青面金剛「奉造立庚申」1鬼・3猿  光背型 梅田4−32 路傍
   5 年不明 日月・青面金剛・1鬼・2鶏        駒 型 梅田5−9 稲荷神社
   6 寛文5 地蔵「奉造立庚□□□」3猿        光背型 梅田6−9 路傍
   7 寛文8 「バク 奉造立庚申供養□□二世安楽所」3猿 光背型 梅田6−9 路傍
 手許にある『足立区文化財調査報告書 庚申塔編』(同区社会教育課 昭和61年刊)をみると、真福寺にある2の正徳3年塔は合掌6手立像、3の享保4年塔は中央手に独鈷と宝鈴を執る6手像を浮彫りする。前者には「奉供養庚申尊躯名願成就祈所」、後者には「奉供養庚申尊像壱体」の銘文が刻まれている。
 以上にみたように笹川さんのお写真から、いろいろな事柄がうかがえる。それにしても東圧町の庚申塔はともかく、調査に洩れている梅田の塔を1度廻ってみたいものである。(平成19・4・29記)
『石佛月報』春号

 平成19年4月9日(月曜日)、宇都宮の瀧澤龍雄さんから『石佛月報』春号を受け取る。仕事が忙しくて整理する暇が取れないので3月号は休刊にし、これまでに書き溜めた原稿の処理が春号だという。この号は「偈頌などの石文碑塔を中心にして」特集なので、中々手が出しにくい。早くにいただきながら、手許に止めていた。
 表紙には、小山市下生井・薬師堂と前にある石佛を撮った写真を載せている。
 最初は「県内初出の十九夜塔」、表紙に小さく載っている聖観音を主尊とする刻像塔である。寛文8年の造立で県内初出というのは、茨城県に比べて造塔年代が下るという。銘文には、願主22人が十九夜念佛を企て供養のために正(聖)観音の石像を建てた旨が記されている。普通、十九夜塔では如意輪観音を主尊とする塔が多い中で、聖観音を主尊とる刻像塔は少ない。
 次は同じ下生井の桜源寺観音堂の「如意輪観音石像」である。延宝2年の造立で「奉安置如意里石像1躰 爲逆修菩提也」の銘を刻む。この塔には、梵字真言が記されいるが、その真言は「如意輪観音心中中呪」で少し文字違いがみられるようである。
 続く「暫くぶりの偈頌塔」は、同市出井・薬師堂にある享保3年の地蔵菩薩坐像である。台石側面に「佛説延命地蔵菩薩経」、裏面に「大日経3力偈」と「法華経回向文」を記している。とても長文なので、みてもそこまで銘文を読まない。
 次の「十九夜念佛千日修行供養尊」は、旧南河内町(現・下野市)仁良川の薬師堂の敷地にある如意輪観音の刻像塔である。元禄7年の造立で、1基に「十九夜念佛」と「千日修行」とを結びつけているのは、十九夜念佛を続けて千日修行したという意味なのであろう。とても毎月1回の十九夜念佛を千回重ねたとは考えられない。
 同じ仁良川の薬師堂裏にある元禄9年の来迎弥陀立像には、「奉建立旨趣爲上求菩提也」の銘を彫る。この銘文から「上求菩提の誓願塔」の題名が生まれている。通常は単独に「上求菩提」を使わずに、「上求菩提 下化衆生」が用いられている。佐野市閑馬の延宝8年塔2基に「上求菩提 下化衆生」がみられる、という。
 「多種多様な偈頌塔」は、下野市(南河内地区)本吉田のバス停脇にある笠付型文政6年塔を題材にしている。正面に胎蔵界大日如来坐像を浮彫りし、周囲を梵字光明真言を記し、下部に不動明王と降3世明王の種子を配す。正面上部と両側面に多種多様な偈頌が刻まれた、気短な私には付き合いきれない石塔である。
 「地誌資料としての六部塔」は、前述の「暫くぶりの偈頌塔」がある小山市出井・薬師堂にある宝暦3年塔である。瀧澤さんは、この塔に記された「薬師寺村」を含む17村の名前に興味を持って調査している。
 「南河内町の単制石幢六地蔵」は、前記の「多種多様な偈頌塔」と同じバス停脇にある。文化3年の造立で、六地蔵のそれぞれに「カ」などの種子と「不休息」や「讃龍」など尊名を記している。尊名から判断すると、真言系の名称である。
 「南河内町の板碑」は、同市仁良川の愛宕神社西側にある石佛群の中にある。「キリーク」一尊種子の延文3年板碑で、上部に天蓋、下部に花瓶を配し、花瓶の両側に「光明遍照十方世界」と「念佛衆生摂取不捨」の偈頌がみられる。
 最後は「地蔵菩薩と涅槃偈塔」、同市磯部・薬師堂にある享保5年地蔵坐像の台石3面にみられる偈頌を取り上げている。とてもこれ1基に関わっていては、と私なら逃げる。とても瀧澤さんのように記録する気分にはなれない。
 この春号が偈頌を中心としているので、苦手意識が強くて中々手が出せなかった。ようやく取り上げたものの、六地蔵の尊名が気になるなど、偈頌以外のところに注意が行く。(平成19・4・29記)
『石佛月報』四月号

 平成19年4月9日(月曜日)、宇都宮の瀧澤龍雄さんから『石佛月報』春号を受け取る。仕事が忙しくて整理する暇が取れないので3月号は休刊にし、これまでに書き溜めた原稿の処理が春号だという。この号は「偈頌などの石文碑塔を中心にして」特集なので、中々手が出しにくい。早くにいただきながら、手許に止めていた。
 表紙には、小山市下生井・薬師堂と前にある石佛を撮った写真を載せている。
 最初は「県内初出の十九夜塔」、表紙に小さく載っている聖観音を主尊とする刻像塔である。寛文8年の造立で県内初出というのは、茨城県に比べて造塔年代が下るという。銘文には、願主22人が十九夜念佛を企て供養のために正(聖)観音の石像を建てた旨が記されている。普通、十九夜塔では如意輪観音を主尊とする塔が多い中で、聖観音を主尊とる刻像塔は少ない。
 次は同じ下生井の桜源寺観音堂の「如意輪観音石像」である。延宝2年の造立で「奉安置如意里石像1躰 爲逆修菩提也」の銘を刻む。この塔には、梵字真言が記されいるが、その真言は「如意輪観音心中中呪」で少し文字違いがみられるようである。
 続く「暫くぶりの偈頌塔」は、同市出井・薬師堂にある享保3年の地蔵菩薩坐像である。台石側面に「佛説延命地蔵菩薩経」、裏面に「大日経3力偈」と「法華経回向文」を記している。とても長文なので、みてもそこまで銘文を読まない。
 次の「十九夜念佛千日修行供養尊」は、旧南河内町(現・下野市)仁良川の薬師堂の敷地にある如意輪観音の刻像塔である。元禄7年の造立で、1基に「十九夜念佛」と「千日修行」とを結びつけているのは、十九夜念佛を続けて千日修行したという意味なのであろう。とても毎月1回の十九夜念佛を千回重ねたとは考えられない。
 同じ仁良川の薬師堂裏にある元禄9年の来迎弥陀立像には、「奉建立旨趣爲上求菩提也」の銘を彫る。この銘文から「上求菩提の誓願塔」の題名が生まれている。通常は単独に「上求菩提」を使わずに、「上求菩提 下化衆生」が用いられている。佐野市閑馬の延宝8年塔2基に「上求菩提 下化衆生」がみられる、という。
 「多種多様な偈頌塔」は、下野市(南河内地区)本吉田のバス停脇にある笠付型文政6年塔を題材にしている。正面に胎蔵界大日如来坐像を浮彫りし、周囲を梵字光明真言を記し、下部に不動明王と降3世明王の種子を配す。正面上部と両側面に多種多様な偈頌が刻まれた、気短な私には付き合いきれない石塔である。
 「地誌資料としての六部塔」は、前述の「暫くぶりの偈頌塔」がある小山市出井・薬師堂にある宝暦3年塔である。瀧澤さんは、この塔に記された「薬師寺村」を含む17村の名前に興味を持って調査している。
 「南河内町の単制石幢六地蔵」は、前記の「多種多様な偈頌塔」と同じバス停脇にある。文化3年の造立で、六地蔵のそれぞれに「カ」などの種子と「不休息」や「讃龍」など尊名を記している。尊名から判断すると、真言系の名称である。
 「南河内町の板碑」は、同市仁良川の愛宕神社西側にある石佛群の中にある。「キリーク」一尊種子の延文3年板碑で、上部に天蓋、下部に花瓶を配し、花瓶の両側に「光明遍照十方世界」と「念佛衆生摂取不捨」の偈頌がみられる。
 最後は「地蔵菩薩と涅槃偈塔」、同市磯部・薬師堂にある享保5年地蔵坐像の台石3面にみられる偈頌を取り上げている。とてもこれ1基に関わっていては、と私なら逃げる。とても瀧澤さんのように記録する気分にはなれない。
 この春号が偈頌を中心としているので、苦手意識が強くて中々手が出せなかった。ようやく取り上げたものの、六地蔵の尊名が気になるなど、偈頌以外のところに注意が行く。(平成19・4・29記)
『長坂の石造物』

 平成19年4月21日(土曜日)、藤岡見学会から帰ると庚申懇話会の斎藤直樹さんから『風土のぬくもりを伝える 長坂の石造物』(長坂町役場 平成3年刊)が届いている。長坂町は、須玉町・高根町・白州町などと平成の大合併で平成4年11月1日に北杜市となった。昭和54年7月29日に、韮崎・長坂・高根などの石佛を廻った記憶がある。
 6頁の「長坂町の石造物集計表」には、庚申供養塔が53基の他に日待月待供養塔が15基、道祖神が84基、六観音が1基、七観音が4基などが載る。種目毎に地区の塔数が示され、総計1257基である。この内の24基が重複記載されている。
 庚申塔の地区別分布をみると、塚川が10基で最も多く、次いで渋沢の5基、下条の4基である。以下、大井ケ森・中丸・柿平・盛岡・が各3基、小荒間・菅沼・中島・大和田・町添・南新居・原町が各2基、東村・中村・横針・栗林・下村4区・夏秋・上条・長坂が各1基分布する。上ノ原・鳥久保・下村3区・日野・富岡には分布がない。
  各地区の「石造物1覧表」「石造物位置図」「写真」を総合して、造塔年代がわかる庚申塔の年表を作成すると、次の通りである。
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   番 年号  刻像・特徴         塔形  所在地        頁数  写真
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   1 延宝4 「山王大権現」2猿     笠付型 原町 両宿公民館東  186 写真
   2 天和3 日月・青面金剛・2鶏・2猿 板碑型 中丸 下共同墓地県道  94 写真
   3 元禄4 日月・青面金剛・2猿    笠付型 渋沢 一本松     192
   4 元禄4 日月「奉勧請庚申供養」3猿 笠付型 渋沢 西屋敷墓地西畑 192 写真
   5 元禄5 日月・2猿         板碑型 小荒間 六所神社    27 写真
   6 元禄9 日月・青面金剛・2鶏・2猿 板駒型 塚川 神田中組西路傍 182
   7 元禄12 日月・青面金剛(2猿?)  光背型 塚川 円浄寺     182 写真
   8 元禄14 日月・青面金剛・2鶏・2猿 笠付型 中村 泉堂地内     47 写真
   9 宝永2                   長坂下条 若宮八幡神社208
   10 享保3 日月・青面金剛・3猿・蓮華 笠付型 東村 竜沢寺      43 写真
   11 享保3 日月・青面金剛・3猿?   光背型 東村 竜沢寺      45 写真
   12 元文5 「庚申供養」            渋沢 一本松     192
   13 元文5 「庚申供養」            長坂下条 若宮八幡神社208
   14 元文5 「庚申等」             塚川 松山宅西山林  182
   15 元文5 日月・青面金剛・3猿    光背型 長坂上条 竜岸寺大門 161 写真
   16 元文5 日月・青面金剛・2鶏・3猿 光背型 中丸 下共同墓地    94 写真
   17 元文5 日月「庚申供養塔」     板碑型 町添 長徳寺跡    112 写真
   18 元文5 日月「庚申塔」       板碑型 栗林 清光寺墓地   120 写真
   19 寛保3 「庚申供養塔」       駒 型 菅沼 公民館      54 写真
   20 明和6 日月・青面金剛・2鶏・3猿 光背型 中島 墓地南      86
   21 安永5 「庚申神坐」            町添 建岡神社    112
   22 天明2 日月・青面金剛・2鶏・2猿 柱状型 長坂 入沢高松道路脇 169 写真
   23 寛政3 日月「庚申供養」      板駒型 小荒間 六所神社    27 写真
   24 寛政7 「庚 申」             塚川 神田中組西路傍 182
   25 寛政12 「庚 申」             大久保 千手観音堂  110
   26 寛政12 「庚 申」             塚川 神田中組西路傍 182
   27 寛政12 「庚 申」             塚川 諏訪神社    182
   28 寛政12 「青面王」         自然石 中島 墓地南      86 写真
   29 万延1 「庚 申」             中丸 藤武神社     94
   30 万延1 「庚 申」             間の原 田圃の中    97
   31 万延1 「庚 申」         自然石 大久保 火の見南方  110 写真
   32 万延1 「庚 申」             盛岡 北道祖神場   119
   33 万延1 「庚 申」         自然石 夏秋 下堂跡地    143 写真
   34 万延1 「庚 申」             塚川 諏訪神社    182
   35 昭和13 「庚 申」             下村4区 インター入口139
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 この年表からわかることは、庚申塔の初発が延宝4年で、最終が昭和13年塔である。次に大きな特徴として、延宝8年塔は見当たらないもの、元文5年塔が7基、寛政12年塔が4基、万延元年塔が6基と庚申年造立の塔が多いことが挙げられる。
 青面金剛は2手像・4手像・6手像の3種がみられ、いずれも立像の浮彫りである。
 写真によって青面金剛の像容が明らかな刻像塔をみると、初発の中丸・下共同墓地県道の南ある天和3年塔は、坊主頭で羂索と矛を執る2手像である。像の右には「奉供養庚申講 天和3年」、左には「爲一切衆生成佛也 癸亥四月八日」の銘を刻む。下部に向かい合わせて2鶏とうずくまって拝む2猿を浮彫りする。
 2手青面金剛に続いて坊主頭の4手像が登場する。渋沢・一本松の元禄4年塔は、東部はハッキリしないが、上方手に宝輪と矛、下方手に羂索と宝剣を持つ4手像である。塚川・神田中組の元禄9年塔は、坊主頭で上方手に羂索と宝棒、下方手に蛇と宝剣を執る4手像を浮彫りする。塚川・円浄寺の元禄12年塔は、坊主頭で上方手に宝珠と矛、下方手に持物不明と人身を持つ4手像を陽刻する。
 4手像から遅れて合掌6手が像像され、中村・泉堂の元禄14年塔が初発で長坂・路傍の天明2年塔まで続く。恐らく次の年不明5基は、元禄から天明年間までの造立されたと推測される。
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   番 年号  刻像・特徴         塔形  所在地        頁数  写真
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   ・ 年不明 日月・青面金剛・3猿    柱状型 柿平 諏訪神社     98 写真
   ・ 年不明 日月・青面金剛・2猿    板駒型 大井ケ森 聖観音堂   75 写真
   ・ 年不明 日月・青面金剛・2鶏・2猿 板駒型 長坂下条 日野春小南 208 写真
   ・ 年不明 日月・青面金剛・2鶏・2猿 板駒型 長坂下条 日野春小南 208 写真
   ・ 年不明 日月・青面金剛(3猿?)  光背型 塚川 円浄寺     183 写真
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 合掌6手像の後には、中島の明和6年塔の剣人6手像が出現する。通常ならば宝輪を執るが、この塔の上方手は羂索(あるいは蛇か)であるのが変わっている。中央手の人身は、合掌して前を向いている。
文字塔は、延宝4年塔が2猿付きの「山王大権現」、元禄4年塔が3猿付きの「奉勧請庚申供養」と長い銘文がみられる。時代が下るに従って元文5年の「庚申供養」と「庚申供養塔」、寛保3年塔の「庚申供養塔」と、短い銘文に変化していく。さらに「庚申塔」は栗林の元文5年塔に始まるが、塚川の「庚申」寛政7年塔以降は、中島の「青面王」寛政12年塔を除けば「庚申」と短い主銘となる。文字塔の塔形も主銘のように、笠付型は元禄4年塔、元文5年の板碑型塔、寛保3年塔の駒型塔、寛政以降は自然石塔へ変化している。
 庚申塔以外にも、月待塔では二十一夜塔・二十二夜塔・二十三夜塔・二十六夜塔と変化に富む。しかも、渋沢には題目を伴う宝永5年の二十三夜塔があり、長坂下条には「二十二夜」と「観音講」を併記した供養塔がみられる。
 長坂には双体道祖神を含む道祖神も84基、六地蔵石幢もみられるし、六観音1基と七観音4基などがある。庚申塔以外の石佛も楽しめる。現地で調べるのが理想的であるが、手許にある『長坂の石造物』からも写真やデータで石佛をしることができる。(平成19・5・1記)
あとがき
     
      「石田の石佛巡り」は、川越市石田の獅子舞を訪ねた時に、待ち時間があったので藤宮
     神社の周辺にある石佛を廻った記録である。獅子舞のついでの石佛巡りは、時間があれば
     いつでも行っている。4月19日に行われた久喜市除野の獅子舞でも、不動寺で六地蔵、
     久伊豆神社で庚申塔、隣の寺で五点具足荘厳体「アウーク」一尊の板碑をみた。
      次の「栃木・藤岡見学会」は、昨年に続いて瀧澤龍雄さんと高橋久敬さんのご案内で、
     栃木県藤岡町の石佛巡りを綴った。これまでだったら気付かなかった珍しい六地蔵の尊名
     を、青梅の六地蔵巡りに熱中していたお陰でみつけられた。注意してみていれば、いろい
     ろな発見がある。
      続く6編は多田治昭さんから送られた『石仏散歩 悠真』第23号と24号、足立の笹
     川義明さんからのお写真、瀧澤龍雄さんからの『石佛月報』春号と4月号、庚申懇話会の
     斎藤直樹さんから届いた『長坂の石造物』が執筆の対象となった。
      多田さんはこのところ月に2冊のペースで『石仏散歩 悠真』を発行されているが、私
     は1冊50頁前後の目安を置くと、月1回の発行も大変である。書く材料があるようで、
     中々みつからない。もっとも石佛だけに集中していればよいが、根があちこちが気になる
     質だから困る。獅子舞や山車、地口行灯も眼が放せない。しばしば、それらが重なること
     が多いから困るのである。
      5月は石仏談話室の出席、多摩石仏の会の案内、日本石仏協会の海老名見学会と忙しそ
     うである。いずれも別枠の冊子に収録する予定しているので、それ以外の題材を考えなく
     てはならない。のんびりと行くしかない。
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                             石佛雑記ノート7
                               発行日 平成19年5月10日
                               TXT 平成19年9月21日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 多摩野佛研究会
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