石川博司著  石佛雑記ノート 8   発行 多摩野佛研究会 
目次   ◎ 暗闇祭六地蔵巡り   ◎ 庚申供養銘の半鐘   ◎ 辻の獅子舞村廻り 
      ◎ 『石仏散歩 悠真』25号  ◎ 『石仏散歩 悠真』26号  ◎ 『石佛月報』5月号
      ◎ 海老名中央図書館   ◎ 海老名の地神塔  ◎ 笹川義明さんの写真      あとがき
暗闇祭六地蔵巡り

 平成19年5月4日(金曜日)は、府中の暗闇祭の万灯と山車の見物に行く。
 前回訪ねた暗闇祭は、平成13年5月4日(金曜日)であった。この時は片町2丁目4番の高安寺を訪ね、八体佛(一代守本尊)や六地蔵、現代作の双体道祖神などをみている。当時の記録「暗闇祭の間に」は、『野仏』第32集(多摩石仏の会 平成14年刊)に発表した。
 今回も万灯大会や今年初の万灯パレードが終わり、午後6時から始まる山車行列までの間に時間がある。この時間を利用して、前回みていなかった朱塗りの屋台とだんじり屋台をみるのが今回の目的である。寿町のだんじり屋台は、山車小屋に入ったままでシャッターが下りてみられない。午後4時30分に出発予定だから、それまでの時間を旧甲州街道へ出て西へ向かって歩く。
 旧甲州街道から奥をみると寺があるので訪ねると、宮西町5丁目の花蔵院である。六地蔵もなく、目ぼしい石佛にも出会わない。次いで片町2丁目の高安寺に寄る。この寺の六地蔵については、前記の『野仏』第32集7頁に次のように書いた。
    この寺を訪ねるのは、何年振りだろうか。街道から参道に入ると、右手に丸彫りの六地蔵坐
   像が並んでいる。通常の六地蔵と異なるところは、右端の一体が幼児を抱いていることである
   。普段、見かけない組合せの六地蔵である。
    確か一昨年二月に行われた多摩石仏の会見学会は、犬飼康裕さんが案内されて所沢市内を歩
   いた。その時に訪れた北野・全徳寺の入口で、六地蔵坐像のいずれも子供を抱いたであったの
   を記憶している。このような形態の六地蔵は珍しいと思ったが、この寺の1体の例も珍しい。
 当時は右端にある児抱きの地蔵坐像にだけに注意が集まり、六地蔵全体を調べるほどの興味がなかった。これまで私は六地蔵について特別な関心がなく、『増補改定 青梅市史 下巻』(青梅市 平成7年刊)の執筆の時に「六地蔵」の項目を設け、調査して事項を書いたに過ぎない。
 ところが今年2月4日(土曜日)に催された石仏談話室で、福井・宝林庵の鳥沢隆憲住職から「六地蔵について」の講演を聞いて以来、六地蔵に非常に興味が出てきた。同じ月の21日(水曜日)に、多摩石仏の会5月例会の下見に青梅市沢井地区と梅郷地区を廻り、六地蔵が気に掛かった。
 改めて翌3月13日(火曜日)に、2俣尾・長泉院、柚木町・即清寺、梅郷・大聖院の3か寺にある六地蔵尊名と持物をを調査してた。大聖院の六地蔵は、3体が天台系の尊名を用い、他の3体が禅宗系の名称である。
 これがキッカケとなり、青梅市内各地の六地蔵を巡った。その後も栃木県下都賀郡藤岡町を廻った時に、内町・宝光寺で平成7年3月造立の丸彫り六地蔵立像に出会った。地蔵の前に置かれた線香立には、それぞれの尊名が記されている。右から順に「堅固慧菩薩」「持地菩薩」「宝印手菩薩」「宝堂菩薩」「宝処菩薩」「地蔵菩薩」である。これまでの青梅市内でみなかった尊名である。
 こうした経過があったので、高安寺の六地蔵をみても単に児抱きの像容だけでなく、他の点にも目配りした。そうすると、台石の正面に種子がみられる。高安寺は曹洞宗の寺である。青梅市内の曹洞宗の寺にある六地蔵では、種子を記すものはなかった。真言宗の寺々の六地蔵には、多くの寺で種子がみられる。
 高安寺の場合は、反花下の台石正面に児抱きの「カ」、柄香炉の「イー」、合掌の「キャ」、数珠の「?」、宝珠と与願印の「カー」、宝珠と錫杖(右手を握るだけで錫杖はない)の「イ」である。6道をどのように配当するかは、台石に記入がなくて不明である。
 片町の山車小屋に入った山車をみて寿町へ戻る途中、街道から奥に寺があるのに気付き、宮西町丁目の長福寺(時宗)を訪ねる。参道の脇に一石六地蔵がみられる。右端に「平成六年八月吉日 施主
 渡邊藤太郎」、左端に「長福寺四十五世元忠代」の名を刻む。六地蔵は右から宝珠と錫杖の立像、合掌の立像、数珠の立像、幡幢の立像、宝珠と片手拝みの立像、柄香炉の立像の順に並ぶ。尊名や6道の配当は示していないが、傍らの立て札に地獄から順に天道までを記しているから、右端の宝珠と錫杖を執る立像が「地獄」、以下、順に左端の柄香炉を持つ立像が「天道」に当たるのであろう。
 僅かな時間をみて訪ねて高安寺と長福寺では、六地蔵の坐像と1石立像をみた。いずれも尊名も6道の配当も示していない。真言宗以外では、曹洞宗で六地蔵に種子を用いる寺があるのを知ったのは大きな収穫である。
 家に帰ってから、八代恒治さんが調査された『府中市の石造遺物』(府中市教育委員会 昭和55年刊)を調べると、尊名を記す六地蔵は次の2例である。
   ┏━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┓
   ┃観音院墓地   安永6┃光明院    昭和43┃
   ┠──┬────┬───╂──────┬───┨
   ┃種子│尊  名│持 物┃尊    名│持 物┃
   ┣━━┿━━━━┿━━━╋━━━━━━┿━━━┫
   ┃イー│伏勝地蔵│珠・杖┃大定智悲地蔵│珠・杖┃
   ┠──┼────┼───╂──────┼───┨
   ┃キ │護讃地蔵│柄香炉┃大徳清浄地蔵│天 蓋┃
   ┠──┼────┼───╂──────┼───┨
   ┃イー│諸竜地蔵│念 珠┃大光明地蔵 │幡 幢┃
   ┠──┼────┼───╂──────┼───┨
   ┃イ │禪林地蔵│合 掌┃清浄無垢地蔵│柄香炉┃
   ┠──┼────┼───╂──────┼───┨
   ┃キャ│無2地蔵│幡 幢┃ 大清浄地蔵│合 掌┃
   ┠──┼────┼───╂──────┼───┨
   ┃カ │伏息地蔵│天 蓋┃ 大堅固地蔵│珠・念┃
   ┗━━┷━━━━┷━━━┻━━━━━━┷━━━┛
 参考までに観音寺は真言系の尊名で白糸台3丁目10番にあり、光明院は青梅市黒沢・聞修院(曹洞宗)と同じ尊名で分梅町1丁目13番にある。府中市内も調査すれと高安寺や長福寺の事例からもわかるように、各寺で昭和55年年以降に六地蔵の造立がみられると思う。(平成19・5・6記)
庚申供養銘の半鐘

 平成19年5月7日(月曜日)、佐野の高橋久敬さんからおハガキをいただく。裏面は半鐘の全体と銘文部分の拡大写真が並び、表面の下部には、次の文面が記されている。
   裏の写真は 深谷市高畑 円能寺半鐘ですが凡の銘は
    奉寄進半鐘庚申待供養
        同行十六人/并惣村中
        西女中念佛講中
    宝暦九己卯天十月十五日
    武州世田谷領岩戸村慶岸寺
   半鐘に庚申が刻されていて 非常に珍しい例です。
   慶岸寺は 現・狛江市岩戸にあります。
 全く思いがけない庚申情報である。庚申塔だけ追っていては、得られるものではない。天明鋳物を研究されている高橋さんだから、庚申銘に気付かれた。
 慶岸寺旧鐘の銘がみらるからには、かつてこの半鐘が狛江の地にあったのであろう。恐らく、戦時中の金属供出に遭い、鋳潰されずに終戦を迎えて深谷の寺に引き取られたもの、と思われる。このような半鐘があったとは、かつて狛江にお住まいだった清水長明さんからもお聞きしたことがない。まことに貴重な情報である。
 狛江の慶岸寺(岩戸北4−15)というと、寛文2年の地蔵庚申塔を思い出す。宝珠と錫杖を執る地蔵立像を浮彫りし、「カ 奉造立庚申之歳奉供養為2世安楽也」の銘文を刻む光背型塔である。同寺には、青面金剛と3猿を陽刻する年不明の板駒型塔がある。
 庚申関係の銘文が梵鐘にみられる例は、板橋の荒井広祐さんが調査・発表された『東京都板橋区の庚申塔』(庚申懇話会 昭和36年刊)に載っている。同書の「庚申関係の金石銘」には、区内にある梵鐘2例が掲げられている。1つは赤塚8丁目・松月院の延宝5年梵鐘、他は徳丸8丁目・安楽寺の享保3年梵鐘である。前者の鐘には「結会1處聚守庚申」や「多年結会守庚申」の銘があり、後者には「庚申講中」の銘が読める。
 多摩地方の庚申銘梵鐘については、「三多摩庚申塔前史」(『ともしび』第10号28頁所収 ともしび会 昭和43年刊)で2例ふれた。1つは瑞穂町殿ケ谷・正福寺の万治2年梵鐘、他は八王子市散田町・真覚寺の万治3年梵鐘である。
 正福寺の梵鐘は現存しない。故・桜沢孝平さん記されたプリントによると、銘文の中に「庚申待衆9人」がみられる。正福寺の梵鐘は昭和19年1月に供出されたが、それは当時の記録から享保5年梵鐘、その頃には、万治3年の梵鐘がすでに失われていた、と推測される。(『ともしび』第13号14頁 昭和43年刊)
 真覚寺の梵鐘については、銘文を『三多摩庚申塔資料』(私家版 昭和40年刊)を載せてた。その後、小花波平六さんが『庚申』第48号(庚申懇話会 昭和42年刊)に「棟札・懸仏・梵鐘にみる西多摩地方の庚申信仰」を発表され、棟札や懸仏と共に詳しくふれている。なお、鐘銘の中で庚申信仰に関るものは「施主 中村野左衛門家中庚申人数十八人/志村又左衛門家中庚申人数廿二人/久保田半三郎家中庚申人数二十人/散田村庚申待数輩百有余人」の個所である。なお、中村・志村・久保田の3家は、八王子千人隊の組頭である。
 今回の高橋さんのご報告によって、多摩地方の庚申信仰に関わる梵鐘が増えたことになる。正福寺や真覚寺の梵鐘は、多摩地方初発の慶岸寺寛文2年塔より早い時期に造られているが、旧慶岸梵鐘は、青面金剛時代のものである。多摩の庚申信仰史を明らかにする上で新たな発見によって有益なデータが出現したことになる。(平成19・5・7記)
辻の獅子舞村廻り

 平成19年5月13日(日曜日)は、さいたま市南部領辻の獅子舞を訪ねる。午前中は鷲神社境内の舞場で奉納舞がある。まさか午後の村廻りの時に庚申塔に出会い、しかもその前で獅子舞が奉納される、とは事前に全く予想もしていなかった。
 大護八郎さんの著作『庚申塔』(新世紀社 昭和33年刊)145図には、庚申塔の前で洋服の男性が弓を立てて持ち、この弓に獅子が掛かっている写真が載っている。「弓掛り」の場面と思われる。庚申塔の前には、天狗(猿田彦)が腰を下ろしている。
 この写真については、撮影場所のコメントが単に「埼玉県児玉町」のみで、詳しい説明は一切ない。埼玉県教育委員会編の『埼玉の獅子舞』(同会 昭和45年刊)によると、当時の児玉町内には小平と吉田林の2か所で獅子舞が行われている。小平の獅子舞には演目に「弓掛り」がみられるが、石神神社と日本神社の境内で舞われる。吉田林の獅子舞は曲目に「弓掛り」がないが、場所が「村全域を悪魔祓いに廻る」とあり、何方とも即断できない。いずれにしても、小平か吉田林かの2か所の中の1か所であろう。
 児玉とは違いがあるが、今回の辻の獅子舞は庚申塔と獅子舞が結びついた場面をみる。午後行われた辻の村廻りでは、組中が集まった総代宅12軒でそれぞれの総代の各家でお祓いの獅子舞が演じられる。総代宅の他には、獅子舞連中が交替して休息する公会堂と2か所の庚申塔の前で獅子舞が演じられる。1か所はブロックを積んだ囲いの中にある安永6年の刻像塔の前、他はY字路にある年不明の文字塔の前である。
 いずれの場所でも獅子舞に注意が向き、塔の銘文など細部を調べている時間的な余裕がなかった。2基の庚申塔は、次の通りである。
   1 安永6 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     80×29×25
   2 年不明 柱状型 日月「庚申塔」(台石)3猿        84×39×31
 1は通常見られる合掌6手立像(像高32cm)が主尊、頭の後ろに円光背を付けるところが異なる。下部には、内向型3猿(像高7cm)を陽刻する。右側面に「辻村・・・」の地銘、左側面に「安永六丁酉年八月吉日」の年銘を刻む。「吉日」の「日」は異体字を用いている。
 2は正面に「庚申塔」の主銘、右側面にも銘文がみられるが読めない。左側面に「此方・・・」とあるから道標銘、最後の「辻村」は読める。上の台石正面には、枠内に正向型3猿(像高20cm)を浮彫りする。下の台石正面には「講中」の右横書き、他の3面には施主銘が列記されている。
 以上の庚申塔2基の前では、2分足らずであるが総代の家で演じられたと同じ獅子舞が奉納され、太夫(大獅子)が白幣を振りながら塔前でお祓いをする。
 南部領辻にある庚申塔は、獅子舞を奉納した前記の安永と年不明の2基だけでは少ないと思っていたら、帰り道のバス通りの路傍で次の2基、安永9年の「庚申供養塔」文字塔と元禄15年の青面金剛刻像塔のが並んでいるのを見付ける。
   3 安永8 柱状型 「ウーン 庚申供養塔」         102×45×21
   4 元禄15 柱状型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿    127×51×28
 3は正面の中央に「ウーン 庚申供養塔」の主銘、その右に小さく「安永九庚子 南部領」、左に「正月吉祥日 辻村講中」の銘を刻む。
 4は合掌6手立像(像高57cm)、先の1の青面金剛は典型的な合掌6手像であるが、4は左上方手に人身を執る岩槻型の合掌6手像である。辻は岩槻に近い場所だけに岩槻型があっても当然である。下部には正向型3猿(像高12cm)を浮彫りし、施主銘を18行記す。右側面に「奉造立青面金剛庚申供養二世安楽所」、左側面に「干時元禄十五壬午天十月吉日 施主/武州足立郡南部領辻村 敬白」と刻む。台石の正面には、宝輪と卍を並べて彫る。
 岩槻型青面金剛を追いかけている春日部の中山正義さんは、『野仏』第19集(多摩石仏の会 昭和63年刊)に「岩槻型青面金剛像について」を発表され、調査された57基を列記している。この4はこの第19集には載っていないが、平成13年3月11日(日)に行われた「春日部・岩槻の市境を歩く」の多摩石仏の会例会で配付された「岩槻型青面金剛一覧表」(平成9年作成)には、71基中25番目に掲載されている。
 中山さんの分類によると、4は持物からA型に当たる。A型は岩槻型初発のさいたま市岩槻区加倉・浄国寺にある元禄元年塔にみられ、上方手に人身と宝剣を執り、中央手は当然合掌手、下方手に弓と矢を持つ6手像である。しかし、この像の上方手の持物をよくみると、人身と宝剣ではなくて人身と斧にみえるから、E型に分類されると思う。塔形は「偽」に分類、この種の塔を「一石で上部に笠を彫りつけた笠付型を模したもの」としている。
 今回の辻の獅子舞の村廻りで2基の庚申塔に出会い、その庚申塔の前で思いがけず獅子舞奉納の見物につながる。また、その上に帰路では岩槻型の青面金剛を見付け、予想もしなった獅子舞巡りの副産物であり、収穫となる。
『石仏散歩 悠真』25号

 平成19年5月25日(金曜日)には、多田治昭さんから送られて『石仏散歩 悠真』第25号と第26号の2冊を受け取る。ここで取り上げた第25号は、特集「埼玉県本庄市周辺の石仏」である。「まえがき」からみると、中山正義さんから貰った資料によって本庄市の庚申塔を5月9日(水曜日)と14日(月曜日)の2回調べている。その報告がこの号である。
 中山資料によると、本庄市内に寛文2基と延宝4基があるという。今回の9日の多田さんの調査では、その中の小島町長松寺の宝篋印塔寛文2年塔・宮戸の寛文4年板碑型塔・北堀路傍の延宝4年板碑型塔の3基に当たっている。14日には深谷市横瀬・華蔵寺の承応4年板碑型塔と寄居町用土・墓地の延宝8年板碑型塔の2基に接している。
 多田さんが「残念だが銘文は読めない」とした鵜森・利益寺の1猿1鶏の板碑型塔は、塔形や猿と鶏の数からみて寛文から延宝にかけて造立された庚申塔と推測される。枠内の左下に「念佛供養」らしい銘がみられ、左右の枠や猿の横に銘文が刻まれているらしい。心なしか、猿の横の文字が「延宝8」と思われる。
 北堀・東福寺にある庚申塔1基は、7手にみえる青面金剛立像である。上方手は共に徒手、中央手が合掌、下方手に弓矢であるが、もう1本上方手と下方手の間に腕があるようにみえる。ただ先端が蛇の首がもたげてようにも受け取れるので、背後に蛇があるのかもしれない。
 滝瀬路傍にある享保元年の青面金剛立像の上には、瑞雲が3つ浮彫りされている。中央の瑞雲は、巻雲状で両端にある日月の瑞雲と形が異なる。雲だけで星形はないが、日・月・星の三光を表現したものだろうか。
 小和瀬・薬師堂にある享保3年の青面金剛立像は、腹に蛇を巻いている。神奈川県には腹に龍をまくものがみられ、『野仏』第35集(多摩石仏の会 平成16年刊)に「龍を腹に巻く青面金剛」を発表し、この種の青面金剛を「龍腹巻型」と名付けた。その後、蛇を巻く像があり、「龍腹巻型」に対して「蛇腹巻型」と区別した。小和瀬の像は「蛇腹巻型」に属する。
 3猿の文字化に注意を払っている多田さんは、中央・市立歴史民俗資料館で「申 申 申」のある寛政7年塔を発見する。この種の各地の実例を3例挙げている。
 次号で青面金剛の持物の宝輪を扱っているから、多田さんは青面金剛の持物を注目している。その実例が小島町・長松寺の年不明像である。通常、青面金剛は弓と矢の両方を持っているが、片方だけというのはこれまでみたことがない。上方手に持つ宝棒とみられる持物が、実は矢であるのかもしれない。蛇と羂索が斜めに配列されているから、逆の斜めが弓と矢を持っていてもおかしくはない。
 ひょんなことから青梅市内の六地蔵を廻ったが、片手拝みと宝珠(あるいは鉄鉢)の1体が含まれている。この片手拝みが施無畏印に替わった地蔵もみられ、北堀・東福寺の写真の1体もこの系統である。地蔵関連でいえば、仁手・墓地の笠地蔵を紹介している。
 この号で興味を持ったのは、児玉地方に分布する五神名地神塔である。この号に本庄市内の4基の写真を掲げている。注目すべきなのは、田中・医王寺の天保6年塔と宮戸・八幡神社の明治5年塔の4角柱である。正面に「天照大神」を記し、両側面に2尊ずつ配している。五神名地神塔の多くは五角柱なので、余計、目につく現象である。
 平成9年11月3日(月曜日)に本庄市の「本庄まつり」を訪ねたが、この時に山車見物の待ち時間に銀座2丁目6番にある木祠境内で五神名地神塔でみた。この日以外に本庄の石佛を調べていないので、庚申塔も地神塔の傾向はわからなかった。この号で地神塔の一端が知ることができる。
 小和瀬・長光寺には、楽器を奏でる天女丸彫り立像が2体みられる。1人は笛を長い横吹き、他は腹前の小太鼓を叩く。弥陀来迎の二十5菩薩の中では、宝蔵菩薩が笛を吹き、虚空蔵菩薩が太鼓を叩く。今後、この種の楽器を持つ立像が増えるようなならば、来迎二十五菩薩の可能性がある。
 14日は寄居町の三宝荒神の撮影が目的で、深谷市や本庄市を廻っている。深谷市横瀬・華蔵寺では、前記の承応塔の他に元禄8年の4手青面金剛の立像をみている。この塔の説明で4手像が「埼玉県では十七基造立されている」と報告している。
 三宝荒神といえば、平成5年6月24日と同年7月11日に寄居町末野・少林寺(曹洞宗)を訪ね、裏山にある五百羅漢と三宝荒神をみて廻った。ここには、他に釈迦三尊や十六羅漢がみられ、珍しい「八将神 奉請五力大王菩薩 八大龍王」と刻まれた文字塔がある。この時の記録は、『石仏を歩く』(日本交通公社 平成6年刊)に発表している。ついでながら、近くの末野神社には、五角柱に「天照皇大神」など五神名を刻む明治33年造立の地神塔がある。
 ともかく、誌面を通して写真や記述に関連したいろいろな思いが生じてくる。中々楽しい1時が過ごせる。それは同送された第26号にもいえることである。(平成19・5・25記)
『石仏散歩 悠真』26号

 平成19年5月25日(金曜日)には、前項で取り上げた『石仏散歩 悠真』第25号と一緒に多田治昭さんから送られた2冊を受け取る。この項で取り上げた第26号は、特集「青面金剛の持物2(宝輪)」である。持物を取り上げるのは、第24号の矛に続く2回目となる。
 確かに青面金剛の持物を「宝輪」と一言と片付けると、同じような形と思われてしまう。「まえがき」に「青面金剛の持物は撮りつづけて十数年になる。宝輪もよく見ると面白いものである」と記されている通り、1冊に宝輪の写真が並べられ、比較しながらみると円形もあれば、六角形や多角形あるように多種多様である。
 単に円形のものは、果して「宝輪」かと疑問が生じるが、反対手に日天なり月天がなければ、通常は宝輪として処理されている。円形に近くても上端が多少でも盛り上がっていれば、分類を「宝珠」としている。また、円形の内外に突起あれば分類に迷いがないが、この種の円形を誌中に8例挙げているので、「宝輪」かどうか再考の余地がある。
 普段は気にも留めないが、内外に突起がない円形だけの場合は、「円盤」とか「日天」として「宝輪」と区別すのも1つの分類法かもしれない。この号はそうした宝輪の分類を考えさせる素材を提供している。(平成19・5・25記)
『石佛月報』5月号

 平成19年5月26日(土曜日)に、宇都宮の瀧澤龍雄さんからメール便が届く。中には『石佛月報』5月号が入っている。昨日、多田治昭さんから『石仏散歩 悠真』第25号・26号が送られたきたばかりである。
 最近、六地蔵に関心があるので、つい六地蔵があるとみてしまう。それを承知の瀧澤さんは、月報に昨年3月号に掲載された「『6体六地蔵尊像』塔」が追加されている。
 足利市鹿島町・地福寺(真言宗)にある天明3年8月造立の六地蔵が、カラー写真と共にその六地蔵に関する思いが記されている。台石正面には、種子と尊名が刻まれ、中の1体にみなれない「キャー」の種子がある。これも問題ではあるが、何しろこれまでにきたことのない珍しい尊名が台石にみられるので紹介したい。
 右から施無畏印・宝珠の「金部地蔵尊」、幡幢の「教夜地蔵尊」、合掌の「修教地蔵尊」、錫杖・宝珠の「禅作地蔵尊」、柄香炉の「禅合地蔵尊」、数珠の「和合地蔵尊」の6体である。瀧澤さんも文中で「この六地蔵尊名は初見です」とある通り、石工が利用している『佛像図彙』には載っていなし、これまでこの種の尊名を聞いたことがない。これからは、各地にある六地蔵を注意してみれば、こうした珍しい尊名がみららえかもしれない。
 今号は「4〜5月の趣向を変えた石仏巡り」の特集である。表紙は4月21日(土曜日)の藤岡見学会の時、渡良瀬遊水池で撮った記念写真が載っている。庚申関係は「一猿の青面金剛」「『可能恵申』表記庚申塔」「五仏と大日真言庚申塔」「バンザイ型庚申塔」の4点である。
 先ず「1猿の青面金剛」、足利市樺崎町・薬師堂にある天明7年の青面金剛刻像塔を扱っている。題名に「一猿」が問題である。瀧澤さんは「片手で目を塞ぎ、もう片方の左手で耳を塞いでいる」と文中にコメントし、1猿の拡大写真を載せている。
 改めて拡大写真をみると、「左手で耳を塞いでいる」は間違いないが、右手は目を塞ぐ共に口の1部にも掛かっている。つまり1匹の猿が両手を使って3か所を押さえ、塞目・塞耳・塞口の3不型を示している。
 3不型の1猿の記事を何かで読んだ気がするので調べてみると、犬飼康祐さんが『野仏』第36集(多摩石仏の会 平成17年刊)に「一猿の三不猿」を発表している。多田さんの案内で廻った横須賀市秋谷で、合掌6手の青面金剛の下にある横向きの猿に出会っている。「右手で目、左手は口と耳を押さ(え)る、1猿の3不猿ではなかろうか」と文中で知るしている。一方で1か所、他方で2か所を塞ぐ形である。
 つい気にななって田さんの『石仏散歩 悠真』第25号に載った1猿をみると、本庄市北堀・東福寺の便文元年塔は両手で耳を塞ぎ、同市鵜森・利益寺の年不明塔は両手で口を塞いでいる。深谷市横瀬・華蔵寺の元禄8年塔は斜め横の姿態、塞ぐ手はないようである。
 次の「『可能恵申』表記庚申塔」は、足利市通3丁目・福巌寺子育地蔵堂の年不明自然石塔を取り上げている。変体仮名の「かのゑ」に下に「申」が続く。瀧澤さんによると、足利市内にこの種の文字を表記した塔が10基ほどあるという。
 縣敏夫さんの『図説 庚申塔』(揺籃社 平成11年刊)には、仮名書きの庚申塔として群馬県藤岡市上粟須・赤城神社の文政2年塔を挙げている。この塔は先の「可能恵申」と多少異なり「可能えさ留」と刻む。平仮名の「かるえさる」塔は、同県大胡町河原浜・庚申堂と千代田町赤岩の2例を紹介している。
 「五仏と大日真言庚申塔」は、足利市利保町3丁目の遊歩道にある正徳5年笠付型塔(現在は笠部が失われている。塔の正面に金剛界五佛種子と青面金剛の「ウーン」の6種子を彫る。両側面には、梵字の大日報身真言と大日法身真言がみられる。
 今月19日(日曜日)に行われた多摩石仏の会5月例会は、私が青梅市内の沢井地区と梅郷地区の石佛を案内した。その時にみた柚木町3丁目・鎌倉旧道路傍にある宝永6年庚申塔には、6種子が刻まれている。上から2字目が不明であったが、これを除けば利保町の正徳5年塔と配列からみて同じである。これによって不明は「ウーン」の種子に当たるのがわかる。ただし、正徳5年塔と違って柚木の塔には、大日報身真言と大日法身真言のいずれもない。
 「バンザイ型庚申塔」は、足利市新山町の山麓にある享保18年塔の青面金剛を挙げている。多摩地方の標準形は下方手に弓と矢を執るが、新山町のは下方手に蛇と羂索と違いがみられる。この種の蛇・索の持物は、多摩地方の古い庚申塔の刻像である。
 庚申関係以外では「逆修の双式5輪塔」と「地蔵大士塔にみる地蔵講式」、「麗しの大日尊」、「鐃鉞持物の地蔵尊」の4項を扱う。
 「逆修の双式五輪塔」は粟野町北半田の共同墓地にある寛文元年板碑型塔である。塔の正面中央を彫り窪め、五輪塔2基を並べて浮彫りする。五輪塔には、各輪に「キャカラバア」を配する。彫りの見事な塔である。
 「地蔵大士塔にみる地蔵講式」は、足利市葉鹿町・東光寺入口にある文化11年塔の台石の両側面に刻まれた銘文を捉えている。塔正面の主銘の上にある模様は、一体何を表現しているのかわからない。「菩薩」の代わりに「大士」を使う例は、これでに「馬頭大士」をみた記憶がある。
 「麗しの大日尊」は、小山市田川・大日堂跡の寛文10年大日坐像が対象である。定印を結ぶ胎蔵界の坐像を厚肉彫りする。湯殿山の本尊・大日如来が影響する例が多い。
 「鐃鉞持物の地蔵尊」は、宇都宮市荒針町の墓地の入口にある年不明の六地蔵単制石幢の社写真をを掲げている。瀧澤さんの関心は、六地蔵の1体が持つ持物の鐃鉞である。多田さんは『石仏散歩悠真』第17号でこの種の鐃鉞を執る地蔵を3例紹介している。宇都宮の立像に近いのは、千葉県流山市流山・長流寺の立像である。
 いつもの『石佛月報』の頁に「栃木県北東部の馬頭観音巡り」と「面門微笑の大勝金剛について(改定)」の2編が追加されている。
 「栃木県北東部の馬頭観音巡り」は、瀧澤さんのホームページ「栃木県の石仏とたおやかにのんのさま」に掲載されている。ブログの「ブログ・日々日記」に「5月12日の那須方面石仏巡り」と異なる題名で載っている。また「栃木県の石仏巡り記」には、当日撮った写真が6枚みられる。
 「面門微笑の大勝金剛について(改定)」は、『日本の石仏』第54号(日本石仏協会 平成2年刊)掲載の「大勝金剛面門微笑す」について満たさされぬ思いを周辺の調査を含めて書き上げた瀧澤さんなりの論考である。
 「大勝金剛面門微笑す」は、共同調査として平田キヨ・伊藤介二・加藤政久の3氏の連名で、文末に「(文責)加藤政久」とあるから、この文章は加藤さんの執筆である。発端は平田さんの「智拳印十臂の如来像」(『日本の石仏』第46号 昭和63年刊)、これに答えたのが伊藤さんの「十臂智拳印像と如意輪馬頭」(『日本の石仏』第46号 昭和63年刊)、共に「会員の広場」に掲載されている。これらを基に加藤さんが「大勝金剛面門微笑す」を書いている。
 余り聞き慣れない「大勝金剛」の尊名だから、只々読み進めるだけである。最後の所で瀧澤さんが「ウーン」種子にふれている。これは青面金剛の種子とも関係があるので、見逃せない。今までも「ウーン」種子=青面金剛と考えていなかったので、庚申塔の資格基準でも「ウーン」即庚申塔とはみていない。多石の百庚申や千庚申などの庚申塔群の中にある「ウーン」塔は、庚申塔とみても先ず間違いあるまい。ただ単独の「ウーン」塔は、要注意である。「ウーン」は何も「青面金剛」だけを表す種子ではないから、当たり前のことといえる。(平成19・5・26記)
海老名中央図書館

 平成19年5月27日(日曜日)は日本石仏協会の海老名見学会が開催され、永瀬隆夫さんが案内を担当され、市内の国分南と国分北に限定したコースを廻る。午後3時解散の予定が1時間早まったので、解散後に海老名中央図書館へ向かう。
 この図書館には苦い思いである。平成2年4月15日(日曜日)に、次週の22日(日曜日)に行われた多摩石仏の会厚木見学会を1週間誤って厚木に行った。間違いに気付いて石仏の資料を調べようと、厚木市の寿図書館や中央図書館にを訪ねた。ことろが両館共に特別休館だから、場所を変えてと訪ねた海老名市立図書館も運悪く特別休館に当たっていた。
 そうした思い出があるので、永瀬さんに今日は開館しているかどうかを尋ねた上で、図書館の所在地を永瀬さんに聞く。永瀬さんは帰り道の途中だからと、大津和弘さんと共に図書館まで一緒に同行していただける。
 郷土資料は図書館の2階にある。2階の受付で書棚の位置を聞くと、その場所まで案内していただける。先ず『えびなの歴史─海老名市史研究』3冊と共に『海老名市史』と『座間市史』を選び、個人席で読む。
 『えびなの歴史─海老名市史研究』の3冊は、大谷忠雄さんの「海老名の石造物について」、池田正一郎さんの「国分水堂観音に在る円通碑と普門碑について」、中野佳枝さんの「海老名の稲荷講」の3編に目を通す。
 次いで、浜田弘明さんの「松村雄介氏の著作と石仏研究」を読む。松村さんが昭和9年生まれとは知っていたが、8月20日が誕生日であること、亡くなったのが平成10年3月27日、享年が65歳、と詳しいデータに接した。また、浜田さんが院生の頃に松村さんに出会ったことも明らかにされている。
 浜田さんの名前から『石仏研究ハンドブック』(雄山閣出版 昭和60年刊)の「石仏研究の事例」で、「各地の事例に学ぶ」の中で「電算機利用」(175〜177頁)で浜田さんを取り上げた。その当時の浜田さんは、地理学専攻の大学院生であった。
 続く『座間市史6 民俗』(同市 平成10年再刊)では、434〜435頁の「北向庚申神社」、470〜471の「庚申講」、472〜473頁の「地神講」をチェックする。次いで『海老名市史9 別編民俗』(同市 平成5年刊)の420〜423頁の「地神講」、430〜422頁の「庚申講」を調べる。
 『海老名市史』の「地神講」の項には、中新田・山王原で早川(綾瀬市早川)・等覚寺の武神像を描く掛軸、国分では紅翆斎北尾繁昌の版画「社日祭悪神除万民守護之尊像」の掛軸、この2軸の写真が載っている。他に国分の5神名地神塔の写真がみられる。
 「庚申講」の項には、中新田の路傍にある並列の石塔3基(内庚申塔2基)とそれぞれの写真が掲載されている。注目すべきは、この中の1基が海老名の庚申塔を代表する富士信仰と関連する万延元年塔である。この塔は日月・富士山・富士講の講紋を刻み、主銘を「庚申塔」とする。今回の見学会のコースに入っていなくて残念であった。
 今回、図書館を訪ねた大きな目的は、篠崎さんが執筆された『海老名の道祖神』(昭和63年刊)、『海老名の庚申塔』(平成8年刊)、『海老名の地蔵塔』(平成9年刊)、『海老名の馬頭観音・不動塔・地神塔・水神塔』(平成10年刊)の4冊である。中でも『海老名の道祖神』と『海老名の庚申塔』が目的であったが、『海老名の道祖神』は見当たらなかった。無論、他の2冊にも目を通し、地神塔については精査する。
 石佛関係以外にも民俗芸能、特に獅子舞に関する文献も調べる。5時を過ぎたので、JR相模線海老名駅から帰途に向かう。(平成19・5・28記)
海老名の地神塔

 平成19年5月27日(日曜日)は日本石仏協会の海老名見学会があり、午後2時前に解散、解散後に永瀬隆夫さんに案内されてされ、海老名中央図書館へ向かう。
 今回の日本石仏協会の見学会では、地神塔は1基もみていない。国分南2−23にある伊勢山大神宮の前を通ったが、急な階段があって登り降りが難儀なので見学を省略した。この境内に5神名地神塔がある、と案内の永瀬さんが話された。
 海老名中央図書館を訪ねた大きな目的は、故・篠崎信さんが執筆された『海老名の道祖神』(昭和63年刊)、『海老名の庚申塔』(平成8年刊)、『海老名の地蔵塔』(平成9年刊)、『海老名の馬頭観音・不動塔・地神塔・水神塔』(平成10年刊)の4冊である。中でも『海老名の道祖神』と『海老名の庚申塔』が目的であったが、生憎『海老名の道祖神』は見当たらなかった。無論、他の2冊にも目を通し、庚申塔よりも地神塔については精査する。
 地神塔に関しては『海老名の馬頭観音・不動塔・地神塔・水神塔』(以下『地神塔』と略称する)の中にみられ、簡単な説明と個別の塔データが載っている。『海老名市史9 別編民俗』(同市 平成5年刊 以下『市史』と略称する)の420〜423頁には「地神講」が掲載され、両書を合わせてみると海老名市内の地神塔と地神講、つまり地神信仰がうかがえる。
 『市史』には、下今泉・杉久保東谷・上郷・中野・上今泉・本郷の地神講ふれているが、特に興味があったのは、「地神講」の項に中新田・山王原の地神講で早川(綾瀬市早川)・等覚寺の武神像を描く掛軸、国分の講では紅翆斎北尾繁昌の「社日祭悪神除万民守護之尊像」の掛軸を用い、この2軸の写真が載っている。他に国分、つまり今回の見学会で省略された5神名地神塔の写真がみられる。
 山村民俗の会の『あしなか』第179輯(昭和58年刊)には、故・伊東重信さんが「掛軸から見た地神法印」を発表された。伊東さんによると、地神講で使用されている掛軸を次のように6種の系統にわけている。
 第1の系統は、西俣野村(現・藤沢市西俣野)・神礼寺(御嶽神社)から発行されたものである。上部に金光明最勝王経堅牢地神品(地神経)の1部を記し、中央には左手に盛花器、右手に戟を執る武装天部形の地天像を描く。下部には、「相州高座郡西俣野村神禮寺堅牢地神」とある。この系統には上部に「大地主神」と記し、地天像の下に「相州西俣埜」とある掛軸も存在する。
 第2の系統は、早川村(現・綾瀬市早川)の等覚院から発行されたもので、神礼寺に似ている。上部に地神経の1部を引用し、中央には左手で盛花器、右手で戟を持つ地天像を描き、下部に「相州高座郡早川邑峯光山等覺寺院施」と記す。
 第3系統は、芹沢村(現・茅ヶ崎市芹沢)の腰掛神社(宝沢寺)から発行された掛軸。上部に「埴山毘賣命」とあり、中央に盛花器と戟を持つ地天像、下部に「相州高座郡芹澤村石腰神主」とある。
 第4の系統は、田村(現・伊勢原市石田)の鏡智院の発行、前3系統の神礼寺・等覚院・腰掛神社が武装天部形であるのに対し、左手に盛花器を捧げる女神像を描いている。下部に「地神尊御像」、「相州大住郡石田村鏡智院」の2行を記す。
 第5の系統は紅翆斎北尾繁昌が描くもので、上部に「社日祭悪神除万民守護之尊像」、二十八神像を描き、下部に「紅翠斉北尾繁昌行年七十一歳謹写」とある。多くの神名が列記してあるが、地神とみられるのは、埴安姫命と土徳大明神の2神に過ぎない。
 第6の系統は、前の5系統には属さないその他のものをいい、具体的に和田正州氏が『関東の民間信仰』でふれた綾瀬市早川の早川武朝版元を指している。伊東さんは、第2系統を発行したと思われる綾瀬市早川の5社明神社を推測している。
 上記の6系統の他に伊東さんがふれていないものに、第6の「その他」の系統に分類するか、新たに第7の系統として加えるものがある。文政12年銘がある横浜市都筑区大棚上講中や昭和23年銘の同区勝田狭間根講中などで用いていた、鍬と小槌を執る立像を描く掛軸である。
 『市史』に写真が載った掛軸は、前記の分類からみると中新田・山王原の講が第2系統、国分や辻・谷戸・日久保の最寄り講が第5系統である。この第5系統を補足して記すと、鎌倉市城廻打腰でみられるこの種の掛軸は次の通りである。
 上部に横書きで「社日祭悪神除万民守護之尊像」と記し、その下を5段に分け、最上段に7神、2段目に5神、3段目に5神、4段目に5神、5段目に6神の像を描く。神像の上に神名が記されているが、神像の数とは1致していない。
 最上段右から、国常立尊・国挟槌尊・豊斟主尊・□土煮尊・沙土煮尊・大戸之道尊・大笘辺尊・面足尊・惶根尊・伊弉諾尊・伊弉冊尊、2段目に月読尊・保食姫命・天炭大神・天津彦火瓊々杲尊・加茂大明神・木花開耶姫命、3段目に天軻遇突智命・埴安姫命・土徳大明神・誉田別尊・八幡大明神・大山咋命・松尾大明神・素戔鳴尊・祇園牛頭天皇を列記している。その下の4段目が武甕槌命・軽津主命・天穂日命・大巳貴命・事氏主命、5段目が思兼命・天津児屋命・天鈿女命・猿田彦命・少名彦命・日本武尊である。
 『地神塔』に載った篠崎さんの解説は、地神塔・国学の影響・仏教の影響・地天、またの名を堅牢地神・他の地神の項目があり、各項共に短い文章である。驚いたのは、『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)に私が書いた「地天」の1部が引用されていることである。
 『地神塔』には11基の地神塔が掲載されているので、造塔年代順にみると次の通りである。
   ┏━┯━━━┯━━━┯━━━━━━━━━━━━━━┯━━━━━━━━━━━━┓
   ┃番│年号 │塔形 │主銘            │所在地         ┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━━┫
   ┃1│寛政9│柱状型│〔五神名〕(注)      │国分南2−23 伊勢山大神┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼────────────┨
   ┃2│嘉永2│柱状型│「地神塔」(「塔」は異体字)│柏ヶ谷976−3前   ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼────────────┨
   ┃3│安政4│柱状型│「堅牢地神塔」       │柏ヶ谷220北     ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼────────────┨
   ┃4│文久1│柱状型│「地神塔」         │望地 山王稲荷社前   ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼────────────┨
   ┃5│慶応2│柱状型│「堅牢地神」(道標銘)   │中野1985先     ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼────────────┨
   ┃6│慶応3│柱状型│「堅牢地神」        │大谷 山王社前     ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼────────────┨
   ┃7│明治4│柱状型│「堅牢大地神」       │上河内 自治会館前   ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼────────────┨
   ┃8│明治5│柱状型│「地神塔」(道標銘)    │本郷3184      ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼────────────┨
   ┃9│明治14│柱状型│「地神塔」         │大谷 八幡宮      ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼────────────┨
   ┃10│明治37│石 祠│              │上今泉6−10−3隣   ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼────────────┨
   ┃11│昭和9│柱状型│「地 神」         │本郷2852      ┃
   ┗━┷━━━┷━━━┷━━━━━━━━━━━━━━┷━━━━━━━━━━━━┛
      注  〔五神名〕は天照大神・大己貴命・小名彦命・埴安媛命・倉稲魂命の
   5柱の神名を指す。
 市内には前述のように、地神講で像を描く掛軸が用いられていた。にも係わらず地神塔には、刻像塔は分布していない。石祠1基を除くと、いずれも文字塔である。市内の地神塔10基の主銘をみると、半数近くは「地神塔」の5基ともっとも多く、次いで「堅牢地神」が2基、他は「堅牢地神塔」・「地神」・「堅牢大地神」の各1基となる。
 造塔年代は 明治年間が石祠を含めて4基で最も多く、次いで慶応年間が2基、寛政年間・嘉永年間・安政年間・文久年間・昭和年間が各1基となっている。故・松村雄介さんは『相模の石仏─近世庶民信仰の幻想』(木耳社 昭和56年刊)の中で、地神塔の造立は近世後期に突如と始まり、急速に普及してピークが明治初年、以後、急激に衰退に向かう、と述べている(30頁)。市内の造立も、その期間内に行われている。
 前記の1覧表からわかるように、市内の地神塔が初めて造立されたのは、国分南にある寛政9年造立の5神名地神塔である。この種の5神名地神塔は、神奈川県に分布がみられるのは当然であるが、徳島県を中心に瀬戸内に面した岡山県・広島県・香川県・兵庫県淡路島で濃密に分布している。他には、北海道・千葉県・埼玉県・群馬県・長野県・島根県などに点在する。
 その後に建てられた「地神」や「地神塔」は、地神塔として一般的で広く各地でみられる主銘であるし、「堅牢地神」や「堅牢大地神」も各地で造立されている。神奈川県の場合は、秦野市周辺地帯で「天社神」や「天社神」の石塔が分布するが、この種の地神塔は海老名市内には全くない。
 『市史』によって記載順に地神講が行われたいた場所を示すと、下今泉・杉久保東谷・上郷・中野・上今泉・中河内下・本郷(3か所)である。他に使用していた掛軸から、中新田や辻・谷戸・日久保の最寄り講で地神講の存在が知られる。地神塔の分布をみると、大谷・柏ヶ谷・本郷が各2基、国分・上今泉・望地・中野・上河内が各1基である。地神講と地神塔の関係をみると、地神講があっても必ずしも地神塔の造塔に結びついていないことがわかる。
 海老名市内の地神塔を1基も実見していないが、公開されている『地神塔』や『市史』のデータから市内の地神塔について以上のことがいえる。(平成19・5・29記)
笹川義明さんの写真

 平成19年6月4日(月曜日)、足立区にお住まいの笹川義明さんから石佛のお写真多数をお送りいただいた。これらは大きく2種に分けられる。1方はお住まいの周辺の梅田と関原のもの、他方は5月の祭事で廻った群馬・山梨・栃木の5か所で撮ったものである。
 笹川さんからは、すでに4月19日(木曜日)に千葉県香取郡東庄町笹川とお住まいの近辺の梅田の石佛写真をう受け取っている。梅田は前回の続編である。今回は次の3か所である。
   1 梅田3−18 石不動尊  ・堂全景と堂内の・不動明王坐像
   2 梅田4−32 路  傍  ・〜・4基の全景と各石佛
   3 梅田5−9 梅田稲荷  ・青面金剛立像と・不動明王坐像の2基と各石佛
 1の・の堂前にある道標には、正面に「子育/八彦尊道」とある。「八彦尊」とは一体何なのか気にかかる。・は、像の上にあるカルラ鳥がハッキリしている。
 2は右から・の大日如来坐像、・の青面金剛立像、・の馬頭観音立像、・の地蔵菩薩丸彫立像の4体で、地蔵の蓮台上に小さな恵比寿らしい丸彫り像がある。・は雲座に座る金剛界坐像、周りに梵字光明真言を刻む。・は3面6手像、上部に日月・瑞雲が浮彫りされる。・の首は後付けである。
 ・は標準的な剣人6手像、上部に日月・瑞雲、脚の下に1鬼、下部に内向型3猿を浮彫りする。像の右に「奉造立/寛延三庚午十一月吉日梅田村」、左に「庚申/女講中三拾四人」の銘を記す。
 3の・は・と異なり標準的な合掌6手像である。上部に日月・瑞雲、脚の下に1鬼・主尊像の左右下に2鶏を浮彫りする。3猿は見当たらないが、台石の正面に刻まれていたのかもしれない。・は大山の角柱道標の形式である。
 なお、「梅田6−9庚申塔は所在不明」とお手紙に記されているので調べてみると、鈴木俊夫さんの『東京都の庚申塔 足立区』(私家版 平成15年刊)に寛文5年地蔵と寛文8年文字塔の2基共に「現亡し」と記さされている。
 地元の梅田と共に、隣接する関原の石佛写真がある。
   4 関原2−22 大聖寺   ・を含む門前の風景と・の不動明王坐像
   5 関原2−42 常唱庵   ・馬頭観音坐像と・十界曼陀羅
 4の・は「不動尊道」の角柱の上に乗る浮彫り像である。カルラ鳥がわかる火炎を背負う。
 5の・は3眼3面8手の浮彫り像。・は『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)の「十界曼陀羅」(168頁)と多宝如来(249頁)でふれてた。共に故・高橋肇さんの写真を使っている。この塔については、「十界曼陀羅」で次のように書いた。
    東京都足立区関原常唱庵の径山車人形見られる寛文元年(1661)の光背型塔は、題目を
   中心に二如来四菩薩一僧を浮彫りしている稀な作例である。塔の上部には天蓋を置き、中央に
   「南無妙法蓮華経」の題目を刻み、左右には合掌する多宝如来と釈迦如来が坐す。つまり、1
   塔両尊を置いている。下には合掌する上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩の法華経
   従地湧出品に説かれる地湧4上菩薩、下部には経机を前に置く日蓮上人を配している。
 地元の写真と共に送られてきたのは、笹川さんが5月に廻られた先でうるしたものである。
   6 群馬県新治村羽場・日枝神社 5月2日 獅子舞  ・・庚申石祠2基
   7 山梨県身延町西嶋・光岳寺  5月5日 神 楽  ・青面金剛立像と・地蔵坐像
   8 山梨県甲州市勝沼・大善寺  5月8日 藤切会  ・石佛3体と・地蔵立像
   9 群馬県松井田町・青松寺   5月13日 関所祭  ・勝軍地蔵(全体像と近接像)
   10 群馬県松井田町・坂本八幡  5月13日 関所祭  ・狛犬と・双体道祖神
   11 栃木県日光市清滝・清滝神社 5月15日 湯 立  ・地蔵首・・笠地蔵・・化け地蔵
 6の・は入母屋型祠、台石正面に向かい合わせ2猿を浮彫りする。・は・同様に入母屋型祠であるが、台石正面には2猿でなくて正向型3猿を猿を浮彫りする。
 7の・は上方手に弓と矢、下方手に索と蛇を執る合掌6手像、上部に日月、足元両脇に雌雄の鶏、下部に正向型3猿を陽刻する。・は合掌像、船形の台石の上に座る。
 8の・は、鉄鉢を持つ丸彫り地蔵2体と青面金剛が並ぶ。左端の青面金剛は上方手に宝輪と矛を持ち、下方手を合掌する4手立像を浮彫りする。上部に日月、下部に正向型3猿がある。・は中央の丸彫り像、蔓で鉢巻きし、耳に2本の角を立てる。腰に蔓を巻いて大小の刀の積もりか、2本の棒をさす。右端の丸彫り像も中央の像と同じ姿である。蔓を巻かれた姿が山伏を連想する。
 9の・は中央に将軍地蔵を浮彫りする騎馬像、像の右側に「勝軍地蔵」、左側に「愛宕大權現」と彫る。左手で剣を執り、右手で幼児を抱く像である。
 10の・は狛犬1対、それぞれを写している。・はそれぞれを別に撮った双体道祖神2基を並べている。右の双体道祖神の像右に「道祖神 坂本上町」、右に「宝暦四歳甲戌正月吉日」の銘が読める。共に握手像である。
 11の・の地蔵首に「憾満親地蔵御首」、・の笠地蔵に「菅笠日限地蔵尊」、・化け地蔵に「並ぶ地蔵(化け地蔵)」のコメントが写真下に記されている。3体の説明板のコピーが同封されていり、由来がわかる。
 各地の石佛の写真をみると、地方差がみられる。それが石佛を巡る楽しみの1つでもある。こもかく石佛写真を眺めていると、いろいろな思いや発想が生まれる。(平成19・6・18記)
 
あとがき
     
      年5月4日(金)に行った府中暗闇祭では、万灯大会が終わってから山車行列が始まる
     までの空き時間を利用したのが「暗闇祭六地蔵巡り」、13日(日)の「辻の獅子舞村廻
     り」も同列である。
      さいたま市南部領辻の獅子舞では、庚申塔の前で獅子舞が演じられる。こうした例は文
     献からは知っていたものの、実際にみるのは初めてである。しかも、この日は庚申塔前の
     2か所で行われた。
      「海老名中央図書館」は、27日(日)に催された日本石仏協会の海老名見学会が終わ
     ってから訪ねた図書館、そこでみた『海老名の馬頭観音・不動塔・地神塔・水神塔』が「
     海老名の地神塔」つながっている。
      「庚申供養銘の半鐘」は、 7日(月)に受け取った佐野の高橋久敬さんの来信による
     もの、「笹川義明さんの写真」も同様である。
      多田治昭さんの「『石仏散歩 悠真』25号」は「埼玉県本庄市周辺の石仏」、「『石仏
     散歩 悠真』26号」は「青面金剛の持物2(宝輪)」の特集である。
      瀧澤龍雄さんの「『石佛月報』5月号」は面白いが、特に足利市鹿島町・地福寺(真言
     宗)にある天明3年8月造立の六地蔵には、「金部地蔵尊」や「教夜地蔵尊」などの尊名
     がついていて珍しい。
      50頁を目標にしたが、多少、頁数が少ないまま『石佛雑記ノート8』を発行する。昨
     年暮れのワープロの故障で、その影響を受けてデータの修復に大幅な時間が取られたため
     である。手持ちの原稿がないけれども、ノンビリと次号に取りかかる。
                            ─────────────────
                             石佛雑記ノート8
                               発行日 平成19年6月30日
                               TXT 平成19年9月21日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 多摩野佛研究会
                            ─────────────────
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