石川博司著  石佛雑記ノート 9   発行 多摩野佛研究会 
目次     ◎ 庚申信仰と山王信仰    ◎ 山王庚申塔関係文献目録
        ◎ 小花波さんの思い出    ◎ 小花波平六さんの著作
        ◎ 『石仏散歩 悠真』27号  ◎ 庚申塔と獅子舞         あとがき
庚申信仰と山王信仰

 庚申信仰は、他のいろいろな信仰と掛かり合いがみられ、その一つに山王信仰がある。神使の猿や北斗信仰の関係から、山王信仰が庚申信仰に結び付いている。このことは、庚申塔の範囲をどこに置くかにも関係が生じる。当然、ここで取り上げた「山王信仰」に及んでいる。庚申信仰にしろ、山王信仰にしろ、それぞれが独立した信仰である。しかしながら、両者に重なり合う部分があり、それが庚申塔に反映している。ここでは、幾つかの事例を挙げて両者について論じたい。
 山王信仰に私が最初に興味を持ったのは、青梅市仲町の山腹にある寛文2年に造られた山王社石祠である。『青梅郷土誌』(青梅小学校 昭和16年刊)によると、石祠に「守護庚申不疑 実多残余共□」の銘文があった、と記録されている。現在は屋根部と台石が残っているものの、肝心の銘文が刻まれた室部は失われて今はない。
 その後、庚申信仰と山王信仰に関連する懸佛を知った。現在は僅かに『西多摩郡牛沼村地誌草稿』(明治13年筆)に残る拓本によってしかわからないが、あきる野市牛沼・秋川神社旧蔵の永禄2年銘懸佛である。上部に弥陀三尊種子、右側に「文殊 生面金剛 薬師 釈迦」が2行にあり、中央には「奉御躰鉢作鎮守」とあって、その次に「六観音 南無山王二十一社 阿弥陀 牛沼村」、左側端に「永禄二己未年捻月廾三日」の銘が刻まれている。小花波平六さんは、銘文の「文殊 薬師 生面金剛 釈迦 六観音 阿弥陀」を庚申縁起の礼拝本尊と対応している、と指摘している。(「棟札・懸仏・梵鐘にみる庚申信仰」『庚申 民間信仰の研究』所収)。
 また、近世に入って八王子市南浅川町大平・山王社所蔵の寛永5年銘の懸佛は、主尊に阿弥陀如来坐像、これに向かい合う2猿を配し、銘文「為庚申供養 奉待十二人者也」がみられる。
 後でもふれるが、東京都多摩地方の庚申塔を調べている過程で、庚申信仰と山王信仰と関連する石造物に出会っている。例えば、清瀬市中清戸の日枝神社境内には、3猿がついた寛文4年と宝永7年の燈籠2基がみられる。前者は竿石に「奉納山王御寳前為諸願成就也」、後者は「山王御宝前 奉造立石燈籠諸願成就」の銘文が刻まれ、下部に3猿の浮彫りがみられる。

即清寺石佛
 平成19年5月19日(日曜日)の多摩石仏の会5月例会は、私がコースの案内を担当し、総勢7人で青梅市の沢井地区と梅郷地区を廻った。この見学会で訪ねた即清寺(柚木町1−4−1 真言宗豊山派)には、参道の石段の横に慶応元年の新4国霊場碑が立っている。左側面には、並んで「青面金剛」と「山王権現」の銘、その下に線彫り像がみられる。銘と像が並刻されていることは、「青面金剛」と「山王権現」とが互いに独立していることを示している。そのことは、その背後にある「庚申信仰」と「山王信仰」の独立性にも関係してくる。
 即清寺の青面金剛の線彫り像は、鬼の上に立つ上方手に宝輪と矛、中央手に人身と宝剣、下方手に弓と矢を執る、標準的な剣人6手像である。他方の山王権現は、台上に座する山王七社権現の1員、客人権現と考えられる線彫り像である。
 このように「青面金剛」と「山王権現」の銘を並刻する例は、八王子市上恩方町・稲荷社にみられる。寛政4年の燈籠の竿石には、「献 青面金剛 山王大権現」と刻まれている。

山王廾一社庚申板碑
 先述の秋川神社旧蔵の永禄2年銘懸佛からもうかがえるように、庚申信仰と山王信仰の関連は中世に逆上る。三輪善之助翁は『庚申待と庚申塔』(不二書房 昭和10年刊)の中で、「室町時代の庚申塔」の1項を「山王権現の庚申塔」に当てて書かれている。室町末期の板碑には、21の種子を刻む板碑がみられ、その中に「申待」の銘を記すものがある。「申待」銘がある山王廾一社庚申(申待)板碑の事例を埼玉・東京・千葉に分布する次の7基を書中で挙げている。
   番 年号   記載された場所          現在地
   1 天文7年 埼玉県川柳村柿の木        埼玉県草加市柿の木(現亡)
   2 元亀4年 東京市小石川水道端日輪寺     東京都文京区水道端・日輪寺(現亡)
   3 天正2年 埼玉県松伏村上赤岩地蔵堂     埼玉県北葛飾郡松伏町上赤岩・地蔵堂
   4 天正3年 同  増林村増森薬師堂      埼玉県越谷市増森・薬師堂
   5 天正4年 同  大相模村千疋東養寺     埼玉県越谷市千疋東町・東養寺
   6 天正5年 千葉県東葛飾郡鰭ケ崎千佛堂    千葉県流山市鰭ケ崎・東福寺
   7 天正X年 埼玉県久喜町甘棠院        埼玉県久喜市・甘棠院
 これを受けて清水長輝さんは、その著『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)に「山王二十一社本地仏」の項目を設け、東京・埼玉・千葉に散在する「申待」か「庚申待供養」の銘を記す次の山王廾一社庚申板碑6基を掲示している。
   番 年号   記載された場所           現在地
   1 天文4年 東京都葛飾区本田立石町南蔵院   東京都葛飾区本田立石町南蔵院
   2 元亀4年 東京都文京区水道端町日輪寺    東京都文京区水道端・日輪寺(現亡)
   3 天正2年 埼玉県北葛飾郡松伏町上赤岩地蔵堂 埼玉県北葛飾郡松伏町上赤岩・地蔵堂
   4 天正3年 埼玉県越谷市増森本田薬師堂    埼玉県越谷市増・薬師堂
   5 天正4年 埼玉県越谷市千疋東養寺墓地    埼玉県越谷市千疋東町・東養寺
   6 天正5年 千葉県東葛飾郡流山町鰭ケ崎千仏堂 千葉県流山市鰭ケ崎・東福寺
 『庚申待と庚申塔』と『庚申塔の研究』から事例を挙げたが、当時より現在は調査が進んでいる。例えば、中山正義さんの「中世の庚申銘石造遺品集」(『石塔・石仏』7 史迹美術同攷会東京石塔・石仏部会 平成8年刊)によって、埼玉県の山王二十一社本地種子の庚申板碑年表を示すと、次に掲げる得る「表1」の通りである。
   表1 埼玉県山王二十一社庚申板碑年表
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   ┃番│年号 │庚申板碑の特徴        │塔形 │庚申板碑の所在地     ┃
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   ┃ │永正15│ 奉庚申待供養」       │板 碑│川口市西新井宿 宝蔵寺  ┃
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   ┃ │大永5│ 申待 逆修」三具足     │板 碑│比企郡嵐山町将軍沢 明光寺┃
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   ┃ │弘治4│ 月「申待 供養」三具足   │板 碑│春日部市下蛭田 寺跡薬師堂┃
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   ┃ │永禄3│ 月・天蓋「申待 供養」三具足│板 碑│岩槻市浮谷 常福寺    ┃
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   ┃ │永禄X│ 月・天蓋「申待 供養」   │板 碑│大宮市片柳 阿弥陀堂   ┃
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   ┃ │元亀3│ 月・天蓋「申待 供養」三具足│板 碑│越谷市相模町 日枝神社  ┃
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   ┃ │天正2│日月・天蓋「申待 供養」三具足│板 碑│北葛飾郡松伏町上赤岩地蔵堂┃
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   ┃ │天正3│日月「申待 供養」三具足   │板 碑│越谷市増森新田 薬師堂  ┃
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   ┃ │天正3│日月「申待 供養」      │板 碑│越谷市東越谷 東福寺   ┃
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   ┃ │天正3│日月・天蓋「申待 供養」三具足│板 碑│越谷市千疋東町 東養寺  ┃
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   ┃ │天正6│日月・天蓋「申待 供養」   │板 碑│越谷市増森上組 墓地   ┃
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   ┃ │天正8│日月・天蓋「庚申待 供養」  │板 碑│大宮市三橋 大日堂    ┃
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   ┃ │天正14│「庚申待 供養」3具足    │板 碑│大宮市植田谷本 小島家  ┃
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   ┃ │年不明│日月「申待 供養」      │板 碑│南埼玉郡菖蒲町三箇 小山家┃
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 参考までに、縣敏夫さんは『図録 庚申塔』(揺籃社 平成11年刊)の中で、次の山王廾一社庚申板碑6基を挙げ、次頁に拓本を掲げて解説している。また、335頁に「申待」銘を伴う「廿1仏種子」の板碑13基を列記し、360頁に「初期山王廿一社銘供養物年表」を掲げている。
   1 永正15年 「庚申待供養」  埼玉県川口市新井宿・宝蔵寺     10頁
   2 天文4年 「奉庚申待供養」 東京都葛飾区立石・南蔵院      22頁
   3 天文16年 「奉庚申待供養」 千葉県柏市高田・聖徳寺       28頁
   4 弘治4年 「申待供養」   埼玉県春日部市下蛭田・公民館    36頁
   5 天正3年 「申待供養」   埼玉県越谷市増森・薬師堂      46頁
   6 天正4年 「申待供養」   埼玉県越谷市千疋東町・東養寺    48頁
 上記の廾一社庚申板碑以外に、『図録 庚申塔』には次の「山王七社種子庚申板碑」2基を掲載しいている。
   1 天文24年 「庚申待供養」  茨城県岩井市上小山・庚申塚     30頁
   2 室町後期 「庚申待供養」  埼玉県比企郡川島町長楽・共同墓地  32頁
 七社種子庚申板碑2基に続けて庚申信仰と直接的には関係がないが、埼玉県比企郡ときがわ町西平・慈光寺の「山王七社像版木」を34頁に掲載している。

山王廾一社庚申塔
 中世にみられる山王廾一社庚申板碑造立の影響は、次の近世に受け継がれている。清水さんの『庚申塔の研究』には、次の山王廾一社庚申塔7基を掲げている。
   1 寛永16年 埼玉県南埼玉郡八潮村伊草円蔵院   埼玉県八潮市伊草・東漸寺墓地
   2 寛永20年 埼玉県北足立郡美園村戸塚西行院   埼玉県川口市戸塚2丁目・西行院
   3 正保3年 埼玉県草加市草加東福寺       埼玉県草加市神明町・東福寺
   4 慶安3年 埼玉県南埼玉郡八潮村柳ノ宮延命寺  埼玉県八潮市柳ノ宮・狩野家墓地
   5 承応4年 東京都葛飾区青戸町3丁目延命寺   東京都葛飾区青戸8丁目・延命寺
   6 寛文3年 東京都足立区本木町3丁目(堤防下) 東京都足立区元木南町・胡禄神社
   7 寛文8年 神奈川県中郡伊勢原町西富岡八幡神社 神奈川県伊勢原市西富岡・八幡神社
中山正義さんの「江戸期二十一佛種子及び二十一社銘文字塔・江戸期山王権現銘塔」(私家版 刊年不明)によって、埼玉県下で江戸時代に造立された寛文年間まで山王二十一社本地種子を記す庚申塔年表を作成すると、表2の通りである。なお、表中の「特徴」欄に「種子」とあるのは、山王二十一社本地佛種子を示す。
   表2 埼玉県廾一社庚申塔年表
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   ┃番│年号 │庚申塔の特徴         │塔形 │庚申塔の現在地      ┃
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   ┃1│寛永13│種子「奉果庚申待二世成就攸」 │板碑型│草加市稲荷 慈尊院    ┃
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   ┃2│寛永16│種子「奉果庚申待二世成就」  │板碑型│八潮市伊草 東漸院墓地  ┃
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   ┃3│寛永20│種子「奉庚申待供養」花瓶・蝋燭│板碑型│川口市戸塚 西光院    ┃
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   ┃4│正保3│種子「奉果庚申待二世成就所」 │板碑型│川口市神明町 東福寺   ┃
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   ┃5│慶安3│種子「…庚申七分善徳二世…」 │板碑型│八潮市西袋 蓮華寺    ┃
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   ┃6│寛文5│聖観音・種子「奉待庚申供養…」│光背型│八潮市川崎 専称寺    ┃
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   ┃7│寛文11│「奉造立庚申山王…」3猿・2鶏│笠付型│川越市宮元町 妙義神社  ┃
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 1から6までの塔は、いずれも山王廾一社の本地佛種子を刻んでいるが、7は正面に「バク 奉造立庚申山王二/十一社大權現諸檀/二世安樂處」、下部に正向型3猿(像高13cm)と2鶏を陽刻する。右側面に「武州入間郡山田庄河越里五加村/大河内傳兵衛(等3人の施主銘)」、左側面に「寛文十一辛亥三月吉日/大室市右門(等3人の施主銘)」の銘を刻んでいる。
 『図録 庚申塔』には、次の山王廾一社本地佛種子庚申塔3基が記載されている。
   1 寛永13年 「奉果庚申待」    埼玉県草加市稲荷町・慈尊院      94頁
   2 寛永20年 「奉庚申待供養」   埼玉県川口市戸塚2丁目・西光院   106頁
   3 承応4年 「庚申待成就」    東京都葛飾区青戸8丁目・延命寺   140頁
 参考までに『図録 庚申塔』には、「江戸期の廿一仏種子庚申塔」が238頁と次頁の2頁にわたり、26基が列記されている。内訳は埼玉県が11基で最も多く、次いで神奈川県の10基、東京都と千葉県が各2基、茨城県が1基となっている。
 庚申板碑には、二十一社板碑と七社板碑があったように、江戸時代の庚申塔にも「山王七社」銘を記す庚申塔がある。前記、中山さんの「江戸期二十一佛種子及び二十一社銘文字塔・江戸期山王権現銘塔」によって、埼玉県下で江戸時代に造立された寛文年間まで山王七社銘を記す庚申塔年表を作成すると、表2の通りである。なお、表中の「特徴」欄に「種子」とあるのは、山王二十一社本地佛種子を示す。
   表3 埼玉県山王七社銘庚申塔年表
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   ┃番│年号 │庚申塔の特徴         │塔形 │庚申塔の現在地      ┃
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   ┃1│寛文13│「奉勧請山王七社大権現」3猿 │板碑型│川越市石原 観音寺    ┃
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   ┃2│寛文13│日月「奉庚申待山王七社…」3猿│笠付型│上尾市領家・中井 墓地  ┃
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 1は上部に弥陀三尊種子を刻み、中央に「奉勧請山王七社大權現」、右に「庚申待供養 寛文十三癸丑天」、左に「爲二世安樂 三月吉日」、右縁に「武州入間郡川越高澤 結衆」、左縁に「本願桐谷五兵衛 敬白」、正向型3猿(像高16cm)の下に「杉田四良兵衛(等12人の施主銘)」が彫られている。上記の他に川越市小中居・公民館墓地には「…庚申者三如来四菩薩垂迹山王七社…」の銘文を記す延宝4年塔がみられる。

山王権現銘庚申塔
 庚申信仰は、猿や北斗信仰の関係から山王信仰との結びつきがみられる。すでに中世に山王二十一社種子を刻む庚申板碑がみられるし、埼玉県八潮市井草・円蔵院にある寛永16(1639)年塔には山王二十一社種子がみられる。多摩地方の庚申塔の中で山王銘があるものを次に示す。
 多摩地方を廻ると、庚申塔に「山王権現」銘を刻む庚申塔がみられる。例えば、八王子市山田町・会館には、定印弥陀と3猿の陽刻像に「山王大権現」の銘を刻む貞享元年笠付型がある。町田市小山町・中村路傍にある正徳2年塔は、日月と3猿を伴う合掌6手の青面金剛浮彫り像で、頭の両脇には「奉建立」「山王権現」とあり、山王権現と考えて青面金剛を造立した形跡がある。
無論、多摩地方には、庚申信仰と関係ない山王信仰による石造物がみられる。例えば、檜原村の場合は小岩・山王社にある宝暦9年造立の「奉納山王大権現」銘灯籠、上元郷・山王社にある明和8年の「奉納山王大権現」銘の笠付型塔、出畑・山王社にある安永6年の「山王権現御宝前」銘灯籠があり、福生市では熊川・森田家にある寛政6年の「山王大権現」銘柱状塔がみられる。
 『庚申塔の研究』には、山王権現銘の庚申塔として次の6基を示している。
   1 寛文6年 「奉請山王権現 庚申供養」3猿 神奈川県秦野市菩提
   2 寛文9年 「南無山王大権現」3猿     神奈川県伊勢原市下糟谷・高部屋神社
   3 寛文10年 「山王大権現 庚申供養」3猿  神奈川県足柄上郡松田町・延命寺
   4 延宝5年 「奉造立山王供養之所」3猿   神奈川県三浦郡葉山町前田
   5 天和3年 「山王大権現 庚申供養」3猿  神奈川県秦野市渋沢・喜艘寺
   6 元禄8年 「奉祈念山王大権現」3猿    神奈川県足柄上郡山北町清水・峰
 この種の庚申塔は、前記の中山さんの資料によると、次の3基が挙げられている。
   表4 埼玉県山王銘庚申塔年表
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   ┃番│元号 │庚申塔の特徴         │塔 形│所在地        ┃
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   ┃1│寛文4│「奉造立山王惣旦那」3猿   │角柱型│幸手市戸島 八幡神社 ┃
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   ┃2│寛文6│「奉造立山王諸願成就所」3猿 │光背型│庄和町神間 薬師堂跡 ┃
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   ┃3│寛文9│「奉納山王」3猿       │板碑型│川口市差間 路傍   ┃
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 『図録 庚申塔』には、次の山王銘3基の拓本を載せている。
   1 寛永12年 「歸命山王庚申大権現」 神奈川県横須賀市公郷町・路傍    93頁
   2 寛文2年 「庚申供養」3猿    神奈川県相模原市馬石・路傍    159頁
   3 延宝5年 「庚申供養」3猿    神奈川県相模原市寸嵐沢・墓地   213頁
 1は「歸命山王庚申大権現」を主銘とした文字塔。2は3猿を伴う2手青面金剛の刻像塔、「奉建立山王廿一社/爲後生善生/庚申供養」の銘を記す。3は合掌弥陀を主尊とし、下部に正向型3猿を浮彫りする。左側面に「ウーン 奉造立山王爲庚申供養二世安穏之也」の銘がある。

神奈川県の山王像
神奈川県には『庚申塔の研究』にみられるように、山王権現銘庚申塔が分布しているが、これまで山王の刻像塔が発見されていない。山王刻像庚申塔は、山下立さん(滋賀県立琵琶湖文化館学芸員)が神奈川県愛甲郡愛川町上の原・山王社で、寛政9年の大宮権現座像丸彫り像を発見している。
 これは、『日本の石仏』第72号(日本石仏協会 平成6年刊)の「庚申・」特集で、「神奈川県相川町上の原山王社の石造山王紙坐像」の題名で発表された。神像は唐冠をかぶって唐服をまとい、胸前に笏を縦に持つ座像である。口髭や頬髭を蓄え、瞳や髪に墨、唇に朱で彩色されている。像高が26・5cm、台石を含む総高は33cmである。
 台石は高さが6.5cm、幅が21.5cm、奥行きが17cmの四角形である。正面には正向型3猿を浮彫りする。右側面に「寛政/丁巳/九年/九月/九日」、左側面に「田代村/神主/萩田/重郎/右衛門」の銘文が刻まれている。
 なお、神奈川では故・伊東重信さんの「神奈川県にみられる山王系の庚申塔」(『日本の石仏』3日本石仏協会 昭和52年刊)が研究を進める上で有益な文献である。

千葉県の山王像
 千葉県君津市賀恵淵・神明神社には、山王の神像を浮彫りした庚申塔がある。沖本博さんが房総石造文化財研究会編『房総の石仏百選』(たけしま出版 平成11年刊)に紹介したことで、広く知られるようになった。
 光背型塔の中央に主尊像、下部の枠内に正向型3猿を浮彫りする。主尊の山王神像は、両手を袂に入れた拱手の衣冠束帯立像である。像の右に「奉造立山王権現」、左に「寛文十一年辛亥十一月十五日」の銘を刻んでいる。
 山王系の庚申塔は、君津地方に造立されている。また、君津市や富津市を中心に丸彫りの3猿が造られ、山王権現として祀られている。富津市下飯野・飯野神社にある寛文2年の3猿の1体に「奉造立山王大権現」銘がみられる。

埼玉県の山王七社像
 すでにふれたように、埼玉県には山王廾一社本地佛種子や山王七社本地佛種子の庚申板碑がある。江戸時代に入っても山王廾一社本地佛種子の庚申塔がみられ、「山王七社」銘や「山王」銘を記す庚申塔が分布する。前にみた通り、神奈川県に1基、千葉県に1基の山王神像の庚申塔が存在する。
 埼玉県の場合は、さいたま市南区沼影1丁目6番にある旧・広田寺(現・沼影公民館)境内の木祠には、山王七社の神像を浮彫りする庚申塔が安置されていた。この塔は塔高が66cm、塔幅が33cm、奥行きが15cmの柱状型塔で、右側面に「庚申供養 沼影村廣田寺」、左側面に「元禄十4年巳3月廾8日」の銘がある。
 塔の正面上部には日天を中央に置き、その周りを瑞雲が巻く。中央には1段目に2体(像高13と12cm)、2段目に3体(いずれも像高11cm)、3段目に2体(像高10と11cm)の座像が3段に浮彫りされている。下部には中央に桃らしいものをもつ猿(像高6cm)、その斜め下の左右に虎2匹(像高6cm)がみられる。
 前記の表にもある通り、川越市石原・観音寺の寛文十三年塔には「奉庚申待山王七社権現 庚申待供養 為二世安楽」とある。表には示さなかったが、川越市小中居・公民館墓地の延宝4年塔には、「…庚申者3如来4菩薩垂迹山王七社…」の銘文を記している。これらの塔は、庚申信仰と山王信仰とが結びついている上に「山王七社」と明記している。沼影の元禄14年塔が山王七社の座像を浮彫りしていてもおかしくはない。むしろ、これまで山王七社像を主尊とする庚申塔が発見されていないのが不思議なのかもしれない。
 なお、『図録 庚申塔』247頁に山王七社像庚申塔の拓本がみられ、先にもふれた埼玉県比企郡ときがわ町西平・慈光寺の「山王七社像版木」が34頁に掲載されている。(平成 19 6・22記)
山王庚申塔関係文献目録

鈴木 重光「山王様と庚申の混習」『ファ−ルス・クルス』13・14 大正15年刊三輪善之助『庚申待と庚申塔』 不二書房 昭和10年刊大護八郎・小林徳太郎『庚申塔』 新世紀社 昭和33年刊清水 長輝『庚申塔の研究』 大日洞 昭和34年刊三輪善之助「山王廾一佛庚申塔について」『庚申』14 庚申懇話会 昭和35年刊召田 大定「庚申信仰と山王信仰」『庚申』28 庚申懇話会 昭和37年刊清水 長明『相模道神図誌』 波多野書店 昭和40年刊小花波平六「庚申と山王の関係について──鈴木重光翁をしのんで」『庚申』47 庚申懇話会
  昭和42年刊小花波平六「棟札・懸仏・梵鐘にみる西多摩地方の庚申信仰」『庚申』48 庚申懇話会 昭和42年刊小花波平六「山王と北斗と庚申信仰」『庚申』58 庚申懇話会 昭和45年刊庚申編集部「山王庚申塔年表」『庚申』59 庚申懇話会 昭和45年刊小花波平六「庚申山王と法華」『庚申』62 庚申懇話会 昭和46年刊藤井 慶治「三浦半島の山王庚申塔(追加)」『庚申』62 庚申懇話会 昭和46年刊荒井 広祐「一塔一話2──甲州東漸寺山王庚申塔」『庚申』62 庚申懇話会 昭和46年刊庚申懇話会『日本石仏事典』 雄山閣出版 昭和50年刊中山 正義「市原市の山王庚申塔」『庚申』71 庚申懇話会 昭和50年刊大護 八郎『石神信仰』 木耳社 昭和52年刊伊東 重信「神奈川県にみられる山王系の庚申塔」『日本の石仏』3 日本石仏協会 昭和52年刊横田 甲一「厚木市中戸田八幡社の山王塔」『庚申』74 庚申懇話会 昭和52年刊庚申懇話会『庚申──民間信仰の研究』 同朋舎 昭和53年刊織戸 市郎「山王系庚申塔の疑問──上・下畑の山王系庚申塔」『日本の石仏』5 日本石仏協会
昭和53年刊星野 昌治「山王二十一社板碑について」『日本の石仏』12 日本石仏協会 昭和54年刊沖本  博「房総半島の山王系庚申塔」『房総の石仏』1 房総石造文化財研究会 昭和57年刊横田 甲一「相模原市上鶴間の日蓮宗系山王権現塔私見」『日本の石仏』36日本石仏協会昭和60年刊日本石仏協会『日本石仏図典』 国書刊行会 昭和61年刊山下  立「神奈川県相川町上の原山王社の石造山王紙坐像」『日本の石仏』72 日本石仏協会 平
   成6年刊縣 敏夫「永禄三年銘の山王二十一社板碑」『庚申』100 庚申懇話会 平成7年刊中山 正義「中世の庚申銘石造遺品集」『石塔・石仏』7 史迹美術同攷会東京石塔・石仏部会 平
     成8年刊石川 博司「山王七社主尊の庚申塔」『野仏』29 多摩石仏の会 平成10年刊縣 敏夫『図録 庚申塔』100 揺籃社 平成11年刊房総石造文化財研究会『房総の石仏百選』 たけしま出版 平成11年刊中山 正義「茨城県麻生町の山王二十一社庚申塔を見に行く」『野仏』31 多摩石仏の会平成12年刊石川 博司「山王七社主尊の庚申塔」『庚申』110 多摩石仏の会 平成12年刊沖本  博「房総の丸彫り3猿──庚申と山王権現」『あしなか』225 山村民俗の会 平成12年刊中山 正義「千葉県の山王権現塔」『野仏』32 多摩石仏の会 平成13年刊加藤 政久「庚申と北斗七星および山王社のつながり」『日本の石仏』102日本石仏協会平成14年刊石川 博司「庚申塔アラカルト 山王七社像の庚申塔」『庚申』115 庚申懇話会 平成14年刊中山 正義「神奈川県の山王権現塔」『野仏』33 多摩石仏の会 平成14年刊中山 正義「埼玉県の山王権現塔」『野仏』34 多摩石仏の会 平成15年刊森永 五郎「城山町の山王様(神奈川県)」『日本の石仏』105 日本石仏協会 平成15年刊中山 正義「山王権現塔 東京都・茨城県・栃木県・群馬県」『野仏』35 多摩石仏の会平成16年刊中山 正義「江戸期二十一佛種子及び二十一社銘文字塔・江戸期山王権現銘塔」 私家版 刊年不明
   〔追 記〕
    この原稿を昨21日から書きはじめ、今日の執筆途中で庚申懇話会・芦田正次郎さんからお
   ハガキを頂いた。全くの偶然かもしれないが、庚申信仰と山王信仰の研究に力を注がれた庚申
   懇話会の小花波平六さんの訃報が記されていた。
    小花波さんは、大正8年の庚申年生まれの大先輩である。庚申懇話会の創立会員で、発足以
   来、会の中心的な存在として活動された。昭和34年6月発行の会誌『庚申』創刊号に「房州
   の庚申信仰(1)」を発表、その後昭和35年12月の第17号の「庚申関係論文目録補遺(
   その5)」まで毎号にわたって執筆された。実名を隠して「庚申編集部」名の発表を加えると
   、昭和37年3月の第27号に及ぶ。以後も実に数多くの論考を発表されている。初期には、
   練馬郷土史会から『練馬の庚申待』(昭和34年刊)を出している。
    執筆活動の中心は『庚申』であったが、それ以外にも、伊勢崎史談会の『伊勢崎史話』、境
   町地方史研究会の『境町歴史資料』、日本民俗学会の『日本民俗学会報』、埼玉県大和町の『
   大和町史研究』、『考古学ジャーナル』、山村民俗の会の『あしなか』、群馬歴史散歩の会の
   『群馬歴史散歩』、柴又・題経寺の『柴又』、日本民族学会の『民族学研究』、名著出版の『
   歴史手帖』、茨城民俗学会の『茨城の民俗』、日本石仏協会の『日本の石仏』など広範囲に多
   くの雑誌に寄稿されている。
    庚申懇話会編の『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)に始まる出版活動の先頭に立
   ち、企画や執筆に携わった。以後、企画を立て『石仏の旅 東日本編』(雄山閣出版 昭和59
   年刊)、『石仏研究ハンドブック』(雄山閣出版 昭和60年刊)、『全国 石仏を歩く』(雄
   山閣出版 平成2年刊)、『石仏を歩く』(日本交通公社 平成7年刊)に執筆陣の1員とし
   て参加された。また、編者としての活躍は、『庚申──民間信仰の研究』(同朋舎 昭和53年
   刊)や『庚申信仰』(雄山閣出版 昭和63年刊)』に現れている。
    個人的には庚申塔を中心とした石佛関係のお付き合いが主体であるが、それ以外にも板橋区
   の徳丸や赤塚の獅子舞と田遊びの調査にご協力をいただいた。また、ご自分が持っているより
   活用してほしいと、「どううか獅子舞の大著を出して下さい」のお手紙を添えて『下間久里の
   獅子舞』(埼玉県立民俗文化センター 昭和57年刊)と『原馬室の獅子舞と棒術』(同所 昭
   和60年刊)の2冊をご送付された。この点も忘れられない思い出である。
    平成16年は1月(川口市)・5月(富士見市)・6月(品川区)の例会3回に出席し、小
   花波さんのお元気な姿に接したが、17年7月(大田区)、昨18年の7月(平塚・茅ヶ崎)
   と11月(目黒区)に出席した3回はついにお顔を合わせじまいだった。今はただご冥福を祈
   るばかりである。(平成19・6・22記)
小花波さんの思い出

 平成19年6月22日、庚申懇話会の芦田正次郎さんから、小花波平六さんの訃報が記されたハガキを受け取ったいた。平成16年は1月(川口市)・5月(富士見市)・6月(品川区)の庚申懇話会の例会3回に出席し、その機会に小花波さんのお元気な姿に接した。翌17年7月(大田区)、昨18年の7月(平塚・茅ヶ崎)と11月(目黒区)の例会に3回出席したが、ついに小花波さんとお顔を合わせじまいだった。
 神奈川県津久井郡相模湖町(現相模原市)の故・鈴木重光翁にお会いし、『庚申』のバックナンバーをお借りしたのが縁となり、庚申懇話会へ入会した。31号(昭和38年刊)の「新入会員紹介」に載ったのが始まりで、小花波さんと40年を越すお付き合いが始まった。
 小花波さんに初めてお会いしたのは、昭和38年のことである。当時、新宿区上落合の窪徳忠博士のお宅で6月1日(土)催された庚申懇話会でなかったか、と思う。小花波さんを含めたメンバーとは、通常では話す機会がない方々ばかりである。たまたま庚申塔を調べた縁である。
 創刊号(昭和34年刊)から第27号(昭和37年刊)までは、小花波さんが『庚申』の毎号をガリ版の原紙を切り、印刷されていた。以後も編集を行い、毎号ではないが表紙や裏表紙のガリ版原紙切りを続けている。私も第42号(昭和41年刊)から第52号(昭和43年刊)を除いて第53号(昭和43年刊)まで、本文のガリ版切りを担当した。第42号(昭和41年刊)と第43号(同年刊)の2号は横田甲1さんが表紙を担当したが、第44号(同年刊)から第52号まで小花波さんの表紙・裏表紙が復活した。現在のパソコン利用の『庚申』とは異なり、初期の『庚申』をみれば、紙面に小花波さんの筆跡が残っている。これまで頂いたお手紙と共通する筆跡である。
 他の方にガリ版切りを譲ったが、再び第57号(昭和45年刊)を私が担当、次の第57号(昭和45年刊)を小花波さん、以後第59号(昭和45年刊)を私、第60号(昭和45年刊)を小花波さん、第61号(昭和46年刊)を私、第62号(昭和46年刊)小花波さん、第63号(昭和46年刊)私と交互にガリ版の原紙を切った。この仕事をするまでは、編集や原紙作成の影の苦労を感じなかった。
 小花波さんのご教示で印象的だったのは、『庚申』第48号(昭和42年刊)の「棟札・懸仏・梵鐘にみる西多摩の庚申信仰」である。たまたま、この号の原紙を切っていたので、余計に印象に残っている。この中で最初に取り上げられたのが青梅市今寺・常磐樹神社旧蔵の文禄銘棟札、これによって多摩地方の第1期が「無塔時代」の発想が生じた。
 第2の視点は、あきる野市牛沼・秋川神社旧蔵の永禄銘懸佛である。私はこの懸佛の「生面金剛」銘に注意を向けていたが、小花波さんは懸佛の種々の佛尊が庚申縁起の礼拝本尊と対応することを明らかにされた。また山王社と懸佛に関係にもふれている。
 第3の視点は、八王子市散田町・真覚寺の万治3年銘梵鐘である。狛江市岩戸・慶岩寺の寛文2年塔の「庚申之歳」銘との関係にふれ、庚申塔以前に庚申待が行われていた点を指摘している。庚申待と庚申塔との関係から、庚申塔以前に庚申信仰が先行している事実は、先の棟札とも関連して「無塔時代」を受け止められる。
 共同調査もいろいろな思いである。昭和45年3月21日は藤井慶治さん案内で神奈川県横須賀市、庚申講調査が主体であった。この時の講調査は窪博士が聞き取り調査をリードし、小花波さんが質問して講調査の実際を知る機会となった。
 同年11月24日はは横田甲1さんの案内で千葉県鎌ヶ谷町(当時)、この日に新造の庚申塔の開眼が行われた。この日の行事の一端を小花波さんが撮った写真が『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)の205頁に載っている。当時の記憶を呼び覚ます。
 46年3月は14日は、庚申懇話会と多摩石仏の会が山梨県都留市で共同調査を行った。この日は、市内3か所でみた庚申石祠の内、特に横町・東漸寺(日蓮宗)境内の寛文4年石祠の調査結果は『庚申』第62号に載った(昭和46年刊)「庚申と山王と法華」に大きく反映している。
 庚申懇話会に入会以来、小花波さんにはいろいろとお世話になり、例会や見学会で多くのご教示をいただいた。『日本石仏事典』以来、庚申懇話会が関係する本には執筆陣の一員に加えていただき、種々のノーハウを得られた。その後の執筆活動に大きな影響があり、有益であった。
 個人的には庚申塔を中心とした石佛関係のお付き合いが主体であるが、それ以外にも板橋区の徳丸や赤塚の獅子舞と田遊びの調査にご協力をいただいた。特に平成13年2月11日(日曜日)に行われた庚申懇話会2月例会では、日中の石佛や史跡見学、夜の徳丸・北野神社で演ずる田遊び見学に連動した。お陰で昭和51年に国の重要無形民俗文化財に指定された「徳丸の田遊び」を見学でき、『平成十三年の祭事記』(ともしび会 平成13年刊)に「徳丸の田遊び」を書けた。
また、ご自分が持っているより活用してほしいと、「どううか獅子舞の大著を出して下さい」のお手紙を添えて『下間久里の獅子舞』(埼玉県立民俗文化センター 昭和57年刊)と『原馬室の獅子舞と棒術』(同所 昭和60年刊)の2冊をご送付された。この点も忘れられない思い出である。
 6月25日(月曜日)に豊島区上池袋にある小花波さんのお宅を訪ね、これまでお世話やご教示をいただいたことを感謝し、お線香を上げてご冥福を祈った。白木の位牌には「廣教平静居士」の戒名が記されてあった。小花波さんが長期間にわたり、教員生活を送っていたから「廣教」は当然としても、庚申懇話会以外にも多くの会で講演し、見学会の案内を担当された。難解な事柄を平明な言葉で語り掛けるので、聞いていて理解し易いで説明である。その点でも、小花波さんは適任で、戒名の「廣教」はぴったりである。
 たまたま弔問前日の24日(日曜日)は、さいたま市緑区で多摩石仏の会の見学会があり、中野田の路傍で平成8年造立の「廣申塔」に出会った。偶然にしても戒名の「廣」と主銘の「廣」が一致している。「廣」は「庚」とも同音である。この点を加え、小花波さんに相応しい法名といえる。
 庚申懇話会の創立会員は、三輪善之助翁を始め、武田久吉博士や平野實さんなど多くの方が亡くなられた。天国で顔を合わせて来世の庚申懇話会を開いて欲しい。今はただ小花波さんのご冥福を祈るばかりである。(平成19・6・27記)
小花波平六さんの著作

 平成19年6月4日、庚申懇話会の小花波平六さんが亡くなられた。各方面に偉大な足跡を残されたが、中でも「庚申信仰」に関しては権威ある1人である。ここでは小花波さんを偲び、昨年6月に発行した私の『庚申関連文献目録』(庚申資料刊行会)を中心に、これに洩れた民俗関係の文献を加えて小花波さんの偉大な業績を偲びたい。
 何分にも各地で多方面に活躍された小花波さんなので、力の及ぶ限り文献を追いかけたが、個人の追求では充分という訳にはいかない。記載洩れの文献をご存じの方はご教示をお願いしたい。

『練馬の庚申待』(郷土史研究ノ−ト4) 練馬郷土史会 昭和34年刊「房州の庚申信仰(1)(2)」『庚申』創刊号・2 庚申懇話会 昭和34年刊「江戸初期の庚申塔」『庚申』2 庚申懇話会 昭和34年刊「押上の庚申板碑」『庚申』2 庚申懇話会 昭和34年刊「東京都足立区小台の庚申様」『庚申』3 庚申懇話会 昭和34年刊「天王寺庚申堂と庚申習俗」『庚申』4 庚申懇話会 昭和34年刊「二十二夜待と二十三夜待」『庚申』5 庚申懇話会 昭和34年刊「伊勢崎地方の庚申信仰 1〜5」『伊勢崎史話』13〜17 伊勢崎史談会 昭和34年刊「境町地方の庚申待と庚申塔」『境町歴史資料』31 境町地方史研究会 昭和34年刊「庚申研究論文目録補遺」『庚申』6 庚申懇話会 昭和35年刊「編集後記に代えて庚申研究史雑考」『庚申』6 庚申懇話会 昭和35年刊「庚申の呪言(1)〜(4)」『庚申』7〜11 庚申懇話会 昭和35年刊「鐘銘に見る庚申信仰」『庚申』8 庚申懇話会 昭和35年刊「調査研究要項」『庚申』10 庚申懇話会 昭和35年刊「長享二年板碑の思い出」『庚申』11 庚申懇話会 昭和35年刊「庚申研究論文目録補遺 4」『庚申』12 庚申懇話会 昭和35年刊「提案 離島の庚申信仰」『庚申』12 庚申懇話会 昭和35年刊「庚申信仰と星宿信仰」」『庚申』13 庚申懇話会 昭和35年刊「古医学上より見たる庚申信仰」『庚申』14 庚申懇話会 昭和35年刊「うちの近くにある庚申塔」『庚申』15 庚申懇話会 昭和35年刊「庚申講と勤行──埼玉県比企郡小川町青山の庚申講」『庚申』15 庚申懇話会 昭和35年刊「神道庚申待考(その1)」『庚申』16 庚申懇話会 昭和35年刊「庚申のつかについて報告」『庚申』16 庚申懇話会 昭和35年刊「庚申関係論文目録補遺 5」『庚申』17 庚申懇話会 昭和35年刊「資料紹介について」『庚申』19 庚申懇話会 昭和36年刊「美濃地方の庚申信仰」『庚申』20 庚申懇話会「報告と紹介と今後の課題」『庚申』22 庚申懇話会 昭和36年刊「庚申縁起「青面金剛王垂化記」解説」『庚申』23 庚申懇話会「庚申植物考」『庚申』23 庚申懇話会「古い碑の話」『庚申』24 庚申懇話会「庚申信仰研究の今後の課題──『庚申信仰の研究』公刊によせて」『日本民俗学会報』21 日本民
   俗学会 昭和36年刊「柴町八幡神社の庚申塔群──庚申塔研究の方法」『伊勢崎史話』4−9 伊勢崎史談会「各地の庚申待事例(1)(2)」『庚申』26・27 庚申懇話会 昭和37年刊「庚申塔の除幕式」『庚申』28 庚申懇話会 昭和37年刊「愛知県小牧市の庚申堂」『庚申』27 庚申懇話会 昭和37年刊「三猿と庚申」『庚申』30 庚申懇話会 昭和38年刊「各地の庚申待事例(3)〜(4)」31〜32 庚申懇話会 昭和38年刊「各地の庚申待事例」『大和町史研究』 昭和38年刊「二十三夜資料」『庚申』35 庚申懇話会 昭和39年刊「日光の庚申塔」『庚申』40 庚申懇話会 昭和40年刊「日光浄光寺の庚申塔」『庚申』41 庚申懇話会 昭和40年刊「平野實先生をしのんで」『庚申』47 庚申懇話会 昭和42年刊「庚申と山王の関係について──鈴木重光翁をしのんで」『庚申』47 庚申懇話会 昭和42年刊「棟札・懸仏・梵鐘にみる西多摩地方の庚申信仰」『庚申』48 庚申懇話会 昭和42年刊「日光の庚申塔(改訂)」『庚申』49 庚申懇話会 昭和42年刊「庚申信仰研究の課題の若干──5十号記念に寄せて」『庚申』50 庚申懇話会 昭和42年刊「岳南の庚申塔銘文の解説『庚申』52 庚申懇話会 昭和43年刊「『庚申信仰』の刊行によせて」『庚申』54 庚申懇話会 昭和44年刊「庚申経と辟鬼珠法の撰述に関する異説について」『庚申』55 庚申懇話会 昭和44年刊「日蓮宗と庚申信仰」『庚申』56 庚申懇話会 昭和44年刊「山梨県南巨摩郡 増穂町の庚申堂」『庚申』56 庚申懇話会 昭和44年刊「山王と北斗と庚申信仰」『庚申』58 庚申懇話会 昭和45年刊「天文廾四年 庚申待板碑について」『庚申』58 庚申懇話会 昭和45年刊「東京都保谷市 保谷の庚申塔」『庚申』60 庚申懇話会 昭和45年刊「庚申と山王と法華」『庚申』62 庚申懇話会 昭和46年刊「武田久吉先生の業績」『庚申』65 庚申懇話会 昭和47年刊「庚申信仰と3猿」『庚申』66 庚申懇話会 昭和48年刊「月待板碑四基『庚申』67 庚申懇話会 昭和49年刊『日本石仏事典』(共著) 雄山閣出版 昭和50年刊「欧州の墓石」『庚申』72 庚申懇話会 昭和51年刊「庚申講式について」『庚申』72 庚申懇話会 昭和51年刊「道祖神の研究」『庚申』74 庚申懇話会 昭和52年刊「庚申待板碑」『考古学ジャーナル』132 ニュー・サイエンス社 昭和52年刊『庚申 民間信仰の研究』(編著) 同朋社 昭和53年刊「東京都板橋区 板碑の偈と真言」『庚申』76 庚申懇話会 昭和53年刊「制底と神樹信仰──板碑の偈文の解説」『庚申』77 庚申懇話会 昭和53年刊「二十六夜待(1)──都市と民俗」『庚申』77 庚申懇話会 昭和53年刊「庚申信仰」『あしなか』160 山村民俗の会 昭和53年刊「富士御縁年の庚申掛軸と庚申塔」『あしなか』160 山村民俗の会 昭和53年刊「二十六夜待(2)(3)──都市と民俗」『庚申』78〜79 庚申懇話会 昭和54年刊「三輪善之助と民俗学」『庚申』82 庚申懇話会「群馬の庚申信仰史」『群馬歴史散歩』43 群馬歴史散歩の会  昭和55年刊「帝釈天と庚申塔」『柴又』54 柴又・題経寺 昭和55年刊「帝釈天と庚申待──埼玉県和光市の事例」『庚申』83 庚申懇話会 昭和56年刊「江戸・東京の庚申塔──石工との関連」『日本の石仏 南関東篇』 国書刊行会 昭和58年刊「参猿の源流を求めて」『あしなか』180 山村民俗の会 昭和58年刊『石仏の旅 東日本編』(共著) 雄山閣出版 昭和59年刊『石仏研究ハンドブック』(共著) 雄山閣出版 昭和60年刊「六浦の石仏と庚申塔」『歴史手帖』14−3 名著出版 昭和61年刊『庚申信仰 民衆宗教史叢書第17巻』(編著) 雄山閣出版 昭和63年刊『全国、石仏を歩く』(共著) 雄山閣出版 平成2年刊「庚申供養の観音菩薩像」『庚申』95 庚申懇話会 平成2年刊「我孫子市の石仏めぐり」『庚申』97 庚申懇話会 平成4年刊「横田甲一さんの業績」『庚申』98 庚申懇話会 平成5年刊「旧利根川流域の庚申信仰」『八潮市史研究』13 八潮市立資料館 平成5年刊『石仏を歩く』(共著) 日本交通公社 平成6年刊「庚申信仰」『茨城の民俗』33 茨城民俗学会 平成6年刊「旧利根川流域の庚申信仰─庶民の庚申信仰の起りについて」『庚申』100 庚申懇話会 平成7年「五代目薩摩若太夫・諏訪仙之助」『多摩のあゆみ』80 たましん地域文化財団 平成7年刊「中山道──石造遺物を通して」『武蔵野』74−1 武蔵野文化協会 平成8年刊『板橋区史資料編 民俗』(分担執筆) 板橋区 平成9年刊「庚申信仰・道祖神信仰における猿田彦と鈿女」『謎のサルタヒコ』 創元社 平成9年刊「富士山御縁年と猿田彦大神」『武蔵野』75−1 武蔵野文化協会 平成9年刊「猿田彦大神のなぞ──神話の神と民俗神」『庚申』101 庚申懇話会 平成10年「庚申さんは神か仏か」『庚申』102 庚申懇話会 平成10年「庚申の神 猿田彦大神の謎」『庚申』103 庚申懇話会 平成10年「庚申・猿田彦大神の面影」『庚申』104 庚申懇話会 平成11年「石造の仏と申と猿田彦──庚申信仰の起源と変容1〜3」『庚申』105〜107庚申懇話会平成11年「山口県の庚申塔1・2」『庚申』108・109 庚申懇話会 平成12年刊「歴史民俗学と中世考古学」『庚申』101 庚申懇話会 平成13年「猿田彦大神の庚申塔」『庚申』112 庚申懇話会 平成13年刊「庚申塔」『日本の石仏』100 日本石仏協会 平成13年刊「庚申信仰──その起源と文化」『庚申』114 庚申懇話会 平成14年刊「富士山と六月一日の雪(上)(下)」『庚申』117・118 庚申懇話会 平成14年刊「昭和30年代の東京都板橋区における 庚申講の実例(上)(下)」『庚申』115・116 庚申懇
話会 平成14年刊「猿田彦・鈿女1・2」『庚申』120・121 庚申懇話会 平成16年刊 (平成19・6・27記)
『石仏散歩 悠真』27号

 平成19年6月27日(水曜日)、あきる野市の多田治昭さんから17日発行の個人誌『石仏散歩
 悠真』第27号を受け取った。24日(日曜日)に行われた多摩石仏の会さいたま市緑区の見学会で、本はできているのだが持ってくるのを忘れた、といっていた。
 今回の特集は「青面金剛の持物」3弾の「人身」を扱っている。「人身」は俗に「ショケラ」と呼ばれ、「人身」より「ショケラ」が通用している。「まえがき」には、次のように記されている。
    青面金剛の持物はいろいろあるが、なかでも、6手青面金剛で、剣人方と呼ばれる青面金剛
   の持物である人身は、いろいろな姿をしている。茨城県谷和原村の塔は助けを求めているのか
   、踊っているのか、この形はほかではみたことがない。柏市の塔は可憐な女性である。ほかに
   は、ふんどしを締めた男性や、服を着ているもの、裸のものなど、人身にはいろいろあって面
   白い。
 表紙は千葉県野田市木野崎・新町の文化3年塔の人身、台座に座って外側を向く横姿である。表紙裏に「まえがき」にある谷和原村古川新田・鹿島神社の正徳2年塔、千葉県柏市花野井・長楽寺の宝永5年塔の人身の写真が載っている。
 先日の緑区の石佛巡りでも人身を持つ6手青面金剛に出会っている。それは岩槻型であり、人鈴型の青面金剛である。他にも両者に属さない人身を持つ6手像がみられる。人身を持ち塔に3種が存在するわけで、岩槻型でも人鈴型でもない3番目の塔として、例えば、大門・大興寺(真言宗)にある享保14年塔である。
 この塔は頂部に種子「ウーン」と線刻の日月・瑞雲、中央に上方手に弓と矢、下方手に人身と斧を執る合掌6手像(像高57cm)、下部に正向型3猿(像高15cm)を浮彫りする。右側面に「奉造立庚申像現當安全祈所/佐右衛門(等2段に9人の名前)」、左側面に「干時享保十四己酉仲冬吉日/大興寺 □□□□」の銘文を刻む。この塔が岩槻型といわないのは、前向きの鬼を欠く点にある。
 この寺の石佛群の中には、宝永7年の岩槻型塔があるので比較するとよくわかる。これは上方手に人身と剣、下方手に弓と矢を持つ岩槻型合掌6手像(像高66cm)、前向きの鬼の頭上に立つ。正向型3猿(像高18cm)の下に施主銘があり、仲に「ヲフリ」の女性名がみえる。右側面に「ウーン 奉造立庚申供養二世安楽/導師大興寺/法印□□敬白」、「時宝永七庚寅孟夏吉祥日./武州足立郡/大門村敬白」の銘がある。
 話が横道に逸れたが、27号の頁を進めると、実にいろいろな姿態を人身があるのがわかる。大きく2種に分類できる。陽刻(浮彫り)と陰刻(線彫り)である。圧倒的に陽刻像が多く、陰刻像は非常に少ない。27号には巻末に4例の線彫り人身を掲げている。
 庚申講で使われている青面金剛の掛軸をみると、赤の腰巻きをした半裸の女性の長い黒髪を掴んでいる。庚申塔では大きさが限られてくるので、簡略された彫像となっている。庚申堂などで発行されるお札の影響で、石塔の人身が合掌するうる例が圧倒的に多い。とろが、前記の享保14年像は両手を下げ、岩槻型の宝永7年像は左手を顔に当てている。
 人身はダントツに合掌像が多いので、分類すれば正面を向いて合掌する・正向型人身、半身に構えて合掌する・斜向型人身、横を向いて合掌する・横向型人身の3タイプに大別される。
 人身は縦(・)か斜め(・)に下げられる例が多いが、そうした中で、江戸川区船堀・法然寺の寛文6年像や神奈川県三浦市諸磯・心光寺の明治24年像は、横長に正面を向いて合掌する。・は縦型を考えての分類だから、変形の横型といえる。千葉県市原市不入斗・行屋跡の享保3年像は、横向きで顔面の前で合掌し、足を曲げている。
 通常は髪を持って吊り下げるが、群馬県東吾妻町3島・根古屋・庚申山にある年不明像は、逆に足を持つ合掌像である。この写真の隣には、私が「大佐倉型」の名付けた佐倉市大佐倉の安永4年像が載っており、合掌する青面金剛の腕に髪を巻きつけている。
 先の東吾妻町3島・根古屋・庚申山にある青面金剛は、ウサギを抱いている(『野仏』第32集63頁参照)ので印象的である。他にもこの地の人身が27号に2枚の写真が載っている。正面向き合掌像と座る形で足を曲げて両手を足に置く像である。前記の逆さ吊りも珍しいが、後者の足に手を置く坐像も少ない姿態である。
 圧倒的に合掌像が多い中で、両手を着物の中に入れている、拱手と思われる像もみられる。埼玉県上尾市日の出3丁目の寛延4年像である。埼玉県久喜市栗原・多聞院の正徳3年像は、奴の折り紙か凧に近い姿態である。
 窪徳忠博士の『庚申信仰』(山川出版 昭和31年刊)53頁には、三重県上野市佐那具町の講では青面金剛の掛軸を掛ける。この青面金剛は拡大写真に「妊女の形のショケラ」と説明が付いた人身を持っている。石像にこうした妊婦姿であっても不思議ではないので、写真を探すと栃木県福富町・普門寺の元文5年像の腹部がプックリと膨らんでいる。横須賀市秋谷の文政2年像は、腹部が横長に微妙な膨らみがみられる。
 詳細に『石仏散歩 悠真』の写真や手持ちのデータを分類するのも楽しい。しかし、微にいり細にいり余り細かく分類すのも考えものであるが、人身を簡単に説明するのに適切な分類と名称があるとよい、と思う。今後は人身の像容にも気をつけてみるように心掛けたい。(平成19・6・28記)
庚申塔と獅子舞

 平成19年6月2る5月13日(日曜日)に訪ねた同区南部領辻の獅子舞村廻りでは、庚申塔2か所の前で獅子舞が舞われた。
 これまで各地の獅子舞を訪ね、空き時間を利用して庚申塔巡りを行ったことはあるが、庚申塔の前で獅子舞が演じられるのをみたことはなかった。大護8郎さんの著作『庚申塔』(新世紀社 昭和33年刊)145図には、庚申塔の前で洋服の男性が弓を立てて持ち、この弓に獅子が掛かっている写真が載っていたは知っていたが、実際に現場でみるのはこの辻の獅子舞か初めてである。
 辻の獅子舞は、午前中に鷲神社で獅子舞を奉納し、午後から獅子舞連中の村廻りである。村廻りでは、総代宅は12軒でその各家でお祓いの獅子舞が演じられたが、それ以外に安永6年の青面金剛刻像庚申塔と年不明の「庚申塔」文字塔の2か所で獅子舞が奉納された。
 獅子舞といっても、安永6年塔の前は午後3時35分から36分までの1分間、年不明塔の前は3時48分から50分の2分間と極めて短い時間である。安永塔は獅子舞が終わってから塔をチェックしたので、塔前で演じる獅子舞を撮れた。しかし、年不明塔は先回りして塔を調べていたので、獅子舞を撮る良いアングルを探している内に獅子舞が終わってしまった。なお、獅子舞の詳細については『辻の獅子舞を訪ねる』(多摩獅子の会 平成19年刊)を参照していただきたい。
 ともかく、13日の獅子舞当日は、時間に追われてろくろく調査ができなかったが、24日の6月例会では調べられた。2兎を追う者は1兎を得ず、で獅子舞と庚申塔の両者をを充分に調べることは困難である。
 庚申塔前で演じられた獅子舞は、今年の辻の獅子舞が最初、これまでここ以外では見ていない。ただ石佛に範囲を広げると、昨18年11月2日(木曜日)の鶴ヶ島市高倉の獅子舞でみている。村廻りで稲荷社の「女獅子隠し」が終わり、次の高福寺へ道行して境内の参道沿いにある6地蔵のブロック祠の前で3時24分から僅かであるが1分間一舞した。獅子舞と石佛の関わりは、昨年の高倉、今年の辻である。(平成19・7・1記)
あとがき
     
      まさか庚申懇話会の中心的な存在の長老・小花波平六さんが亡くなろうとは、まったく
     考えていなかった。もっとも、訃報は思いがけない時に受けるが。庚申懇話会に初めて出
     席した当時のメンバーで、現在残られているのは大正生まれの清水長明さんや芦田正次郎
     さん位ではなかろうか。考えてみれば、庚申懇話会では万年若手であった私自身も73歳
     になっているのだから、先輩の方々が亡くなられても不思議ではない。
      冒頭の「庚申信仰と山王信仰」は、何気なく書きはじめたものであるが、原稿執筆の途
     中で小花波さんの訃報に接するとは予想外のことである。以前に山王に関してまとめてみ
     たい考えがあった。庚申信仰と関連して山王信仰に関心を持って研究された小花波さんの
     思いが、私に山王研究の継続を呼び掛けたのかもしれない。
      「小花波さんの思い出」は追悼の意から、これまでの足跡を記録する意味から「小花波
     平六さんの著作」を列記した。
      「『石仏散歩 悠真』27号」は、これまで月2回の発行が1回になり、今回は青面金剛
     の持物の人身を扱っている。多摩石仏の会の緑区見学会でも、持物を含めて数多くの写真
     を撮っていた。『石仏散歩 悠真』の新たな材料となる。
      「庚申塔と獅子舞」は、6月24日(日)の多摩石仏の会6月例会に五島公太郎さんの
     案内でさいたま市緑区内を廻った。この時に5月13日(日)の「辻の獅子舞村廻り」(
     前号所収)でふれた庚申塔を2基を中心の題材とした。ついでなので、鶴ヶ島市高倉の6
     地蔵の事例を加えておいた。
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                             石佛雑記ノート9
                               発行日 平成19年7月10日
                               TXT 平成19年9月21日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 多摩野佛研究会
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