石川博司著  石佛雑記ノート 10   発行 多摩野佛研究会 
目次    ◎ 百地蔵と千地蔵の地蔵札  ◎ 成田の青面金剛   ◎ 岡村さんの拓本コピー 
        ◎ 小林さんの『歯の神』    ◎ 小林剛三さんの業績  ◎ 本庄台町の馬頭塔婆
        ◎ 望月の念三夜塔      ◎ 望月の庚申塔            あとがき
百地蔵と千地蔵の地蔵札

 たまたま、何時撮った年月を特定でない写真を探すために、平成5年以降のネガ・ポジアルバムを調べた。アルバムの頁を繰っていると、探している物とは関係がないが興味があるベタ焼き写真に出会う。その一つが「地蔵札」の写真である。
 平成14年3月17日(日曜日)は、万作の見学で桶川市川田谷・薬師堂集会所を訪ね、帰りに東光寺に寄る。この寺には元禄10年造立の青面金剛合掌6手像があり、右端に地蔵札が貼られている。この地蔵札を撮ったサービス判の写真が他のアルバムに貼ってあるので、文字の詳細がわかる。上部に横書きで「奉納」、中央に「百地蔵尊祥壽紀鑑清居士二世安楽之爲也」、その右に「平成十四年春彼岸」、左に「坂巻家」と記されている。
 翌15年3月9日(日曜日)は、餅搗踊りの見学で桶川市上日出谷・氷川神社を訪ねた。時間が早かったので、餅搗踊りが始まるまでの間を利用して、近くにある下日出谷・知足院(真言宗豊山派)へ行った。その時の記録「知足院の百地蔵」(『野仏』第34集収録 多摩石仏の会 平成15年刊)に、次のように書いた。
   (知足院)参道の左手に本堂をバックにしてたつ丸彫りの六地蔵は、弘法大師御入定千百五拾
   年を記念して昭和五十七年秋の彼岸に造立された。白御影の台石には地蔵札が貼られている。
   地蔵札には、印刷と手書きの2種がある。印刷のは「平成十四年/南無百地蔵尊為○○○○大
   姉二世安楽之為也/秋彼岸/○氏」とあり、手書きのは「奉納/平成十四年/百地蔵尊○○○
   ○信女二世安楽之為也/秋彼岸/○○氏」と記されている。
 昨18年8月20日(日曜日)の多摩石仏の会8月例会は、多田治昭さんの案内で川越市内を廻った。当日の記録「川越市内を廻る」には、次のように記した。
    先ず訪ねたのは、中院の手前にある旧閻魔堂墓地(小仙波町5)である。墓地の地蔵の台石
   には、半紙に墨書きした紙札が張ってある。上部に横書きで「奉納」、その下に縦書きで「平
   成十八年春彼岸/浄心院栄室妙佐大姉/南無百地蔵尊法名二世安樂之為也/松本家」とある。
 地蔵札といえば、かつて『日本の石仏』第71号(日本石仏協会 平成6年刊)の「地蔵特集号」に、私は「現代の地蔵信仰の1端」を発表した。その中で「青梅の平成六地蔵」や「逆手の地蔵」、「墓地の水子地蔵」などと共に、最初の項目として「地蔵札」を取り上げた。本項に関係する「地蔵札」の部分を引用すると、次の通りである。
   1 地  蔵  札
    平成六年四月十八日(日曜日)には、多摩石仏の会の見学会が埼玉県草加市でおこなわれ、
   中山正義さんの案内で市内をまわった。谷塚町の宝持院をはじめとして慈眼寺跡、谷塚仲町の
   常福寺、柳島町の大日堂などの墓地で地蔵(像高5cm)を印刷(木版刷り)した幅が六cm、長
   さが八cmほどの和紙(地蔵札)が地蔵や墓石にはられていた。
    この中で柳島町の大日堂では、六地蔵に幅八cm、長さ二六cmほどの紙に次のような印刷の地
   蔵札がみられる。上部に「奉納」と横書きし、その下の中央に縦に「百地蔵尊為二世安楽菩提
   也」の文字、下部に蓮台をえがいている。「百地蔵尊……」の向かって右に「平成 年 彼岸
   」の印刷があって、「五」や「秋」の手書きがくわわっている。左には施主の氏名が手書きさ
   れている。このような印刷の地蔵札は、今回まわった内ではこの大日堂だけであった。
    以前もどこか場所がわからないが、柳島町の大日堂のような印刷した地蔵札や「百地蔵尊…
   …」を手書きの地蔵札をみた記憶がある。多分、埼玉県内とおもうが、千葉県であったかもし
   れない。
    地蔵札についてスクラップを調べたら、平成五年九月七日付けの『千葉日報』に千葉県君津
   市の報告がのっていた。「“地蔵札”で新盆供養」の大見出しにつづけて
       君津市清和地区では、毎年、お盆になると、土地の「宝性寺」から新盆の家に、“地
      蔵札”と呼ばれる札が百枚ほど配られます。
       この札は、“二世安楽”(二世は、この世とあの世のこと)を祈願するもので、これ
      を持って近隣地区の地蔵菩薩を祭ってあるお寺(この地区周辺には五カ所ある)を、組
      の人と新盆の家族とで、地蔵様の体に張って回ります=写真。
       回って行く先々のお寺で、檀家の女性たちがごちそうを持ち寄って札張りの人たちを
      接待してくれます。施主方は、お礼として気持ちばかりのおひねりを置いていきます。
       五カ所の寺で百枚の地蔵札を張り終わると、施主側は、札張りに参加してくれた人た
      ちにごちそうをたくさん用意して接待してくれます。土地の人たちは、ごちそうをみん
      なが喜んで食べることが仏の供養になる─として、ごちそうになります。(君津市・奈
      良輪美智野)
   の記事がみられる。
    その記事には、写真がそえられているので丸彫りの地蔵にはられた札をよくみると、草加の
   小さな地蔵像を印刷(木版刷り)したものと違って、柳島町・大日堂のような短冊状の札に文
   字が書かれている。札の文字は、印刷であるかもしれない。草加の場合も、君津のように地蔵
   札をはってあるく習俗が今も残っているのであろう。
 こうした「百地蔵」の地蔵札は、青梅市内でみた記憶がなかった。小曽木の市重宝『市川家日記』を見ると、黒疱瘡にかからないように石橋7ケ所・馬捨場7ケ所・新墓7つを参るという記事(慶応4年)がみられるが、地蔵札の記載はない。最近になって、根ケ布の天寧寺の六地蔵に地蔵札が貼られているのをみて驚いた。これまで埼玉県下ではみていたので、他の地域の方が地蔵札の風習を持ち込んだものと思われる。ただ、六地蔵の調査で市内を廻ったが、天寧寺以外で地蔵札をみなかったので、例以外的な存在である。
 長々と「百地蔵」の地蔵札にふれたのは、6月24日(日曜日)に多摩石仏の会6月例会が行われ、五島公太郎さんの案内でさいたま市緑区内を廻った。その際にみた地蔵札は、これまでみた「百地蔵」ではなく、単位が1桁多い「千地蔵」であったからである。
 この日は川口市東川口からさいたま市緑区に入り、大門南方の椚谷墓苑の前、区画整理中の区域にある寛政7年の庚申塔と明和9年の地蔵をみる。墓苑を避けてバックの森を取り入れて広角の写真を撮る。いずれ区画整理が完成すれば、駅に近い場所なので住宅街に変貌するであろう。
 庚申塔と並んで地蔵が建っている。地蔵は光背型塔の頂部に「カ」の種子を刻み、宝珠と錫杖を執る浮彫り立像である。像の右に「千地蔵供養爲二世安楽也」、左に「明和九壬辰三月吉日」の年銘を記す。これまで地蔵の銘文に注意を払ったことは少ないが、この「千地蔵供養爲二世安楽也」の「千地蔵供養」銘には注目した。
 この後に廻った大門・大興寺では、先の「千地蔵」銘を上回る「万地蔵」銘を刻む光背型地蔵立像がある。地蔵には「(横書)奉納/(縦書)千地蔵尊二世安楽之爲也」とあり、地蔵札が千地蔵だから、万地蔵が生まれる要素がある。
 昼食をとった下野田・圓徳寺でも3種類の地蔵札をみている。1種は全て手書きの文字だけのもので、もう1種は1部の蓮台が印刷で他の文字は手書き、残り1種は版木を使って地蔵立像を刷ったもので文字はないようである。「百地蔵」の地蔵札は、桶川市・草加市・川越市の範囲でみられるに対して、こうした「千地蔵」の地蔵札は、どの程度の範囲まで広がってるのであろうか。
 庚申塔の場合は、塔面に「百庚申」や「千庚申」、実見していないが「万庚申」の例がある。このことから考えれば、地蔵だって「千地蔵供養」や「万地蔵供養」銘があって不都合ではない。前記の桶川・知足院では百地蔵を造立しているし、台東区上野桜木・称名院は八万四千体地蔵は有名であるし、百体や百八体の地蔵を一石に刻んでいる。(平成19・7・1記)
成田の青面金剛

 平成19年6月29日(金曜日)、市原の町田茂さんからお手紙をいただいた。その中に今年3月に発行された『立正大学大学院報』24号に掲載された、土井照美さんの「庚申信仰の石造物──特に成田市を中心として」の抜刷が同封されていた。
 土井さんは仏教学専攻博士課程1年である。この論考の中で「百庚申調査報告」は、竜台にある百庚申にふれている。この百庚申にある青面金剛塔を「報告」と「表3 竜台百庚申一覧表」から1表にまとめると、次の通りである。なお、単位はcmである。
   ┏━┯━━━┯━━━┯━━━┯━━━━━┯━━━┯━━━┯━━┯━━┯━━┯━┓
   ┃番│種 別│年 銘│塔 形│刻像・主銘│総高 │塔高 │塔幅│奥行│像高│注┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━┿━━━┿━━━┿━━┿━━┿━━┿━┫
   ┃1│刻像塔│安政6│駒 型│剣人6手像│ 80│ 66│26│14│45│1┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃2│文字塔│安政6│自然石│青面金剛尊│140│105│50│ 7│──│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃3│刻像塔│安政2│駒 型│合掌6手像│ 81│ 67│28│15│47│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃5│刻像塔│安政X│駒 型│合掌6手像│   │ 45│24│12│36│2┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃17│刻像塔│安政X│駒 型│合掌6手像│   │ 52│25│12│37│3┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃29│刻像塔│年不明│駒 型│中央破損像│   │ 45│25│14│37│4┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃32│刻像塔│年不明│駒 型│合掌6手像│   │ 43│25│12│36│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃45│刻像塔│年不明│駒 型│合掌6手像│   │ 44│23│12│37│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃50│刻像塔│天保9│駒 型│剣人6手像│113│ 94│31│16│51│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃51│文字塔│天保7│駒 型│青面金剛王│105│ 85│29│22│──│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃53│刻像塔│年不明│光背型│合掌6手像│108│ 84│41│13│61│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃54│文字塔│寛政12│駒 型│青面金剛尊│115│ 92│33│18│──│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃56│刻像塔│年不明│駒 型│合掌6手像│   │ 45│21│11│35│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃59│刻像塔│安政3│駒 型│合掌6手像│   │ 41│23│14│33│5┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃61│刻像塔│安政6│駒 型│合掌6手像│   │ 44│21│12│34│6┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃90│刻像塔│安政5│駒 型│合掌6手像│   │ 41│24│12│33│7┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃〓│刻像塔│安政2│駒 型│合掌6手像│   │ 44│24│12│38│8┃
   ┗━┷━━━┷━━━┷━━━┷━━━━━┷━━━┷━━━┷━━┷━━┷━━┷━┛
   注1 塔幅は25.5cmであるが、4捨5入してある。以下の塔もコンマ以下は4捨5入。
    2 奥行き11.5cmを12cmに4捨5入。
    3 塔幅24.5cmを25cmに4捨5入。
    4 奥行き13.5cmを14cmに4捨5入。
    5 塔幅23.2cmを23cmに4捨5入。
    6 塔幅20.5cmを21cmに4捨5入。
    7 像高32.5cmを33cmに4捨5入。
    8 塔高43.5cm44cm、像高37.5cmを38cmに4捨5入。
 前記の一覧表を年銘順に並び換えると、次の表になる。
   ┏━┯━━━┯━━━┯━━━┯━━━━━┯━━━┯━━━┯━━┯━━┯━━┯━┓
   ┃番│種 別│年 銘│塔 形│刻像・主銘│総高 │塔高 │塔幅│奥行│像高│注┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━┿━━━┿━━━┿━━┿━━┿━━┿━┫
   ┃54│文字塔│寛政12│駒 型│青面金剛尊│115│ 92│33│18│──│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃51│文字塔│天保7│駒 型│青面金剛王│105│ 85│29│22│──│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃50│刻像塔│天保9│駒 型│剣人6手像│113│ 94│31│16│51│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃3│刻像塔│安政2│駒 型│合掌6手像│ 81│ 67│28│15│47│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃〓│刻像塔│安政2│駒 型│合掌6手像│   │ 44│24│12│38│8┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃59│刻像塔│安政3│駒 型│合掌6手像│   │ 41│23│14│33│5┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃90│刻像塔│安政5│駒 型│合掌6手像│   │ 41│24│12│33│7┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃1│刻像塔│安政6│駒 型│剣人6手像│ 80│ 66│26│14│45│1┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃2│文字塔│安政6│自然石│青面金剛尊│140│105│50│ 7│──│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃61│刻像塔│安政6│駒 型│合掌6手像│   │ 44│21│12│34│6┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃5│刻像塔│安政X│駒 型│合掌6手像│   │ 45│24│12│36│2┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃17│刻像塔│安政X│駒 型│合掌6手像│   │ 52│25│12│37│3┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃53│刻像塔│年不明│光背型│合掌6手像│108│ 84│41│13│61│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃29│刻像塔│年不明│駒 型│中央手破損│   │ 45│25│14│37│4┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃32│刻像塔│年不明│駒 型│合掌6手像│   │ 43│25│12│36│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃45│刻像塔│年不明│駒 型│合掌6手像│   │ 44│23│12│37│ ┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃56│刻像塔│年不明│駒 型│合掌6手像│   │ 45│21│11│35│ ┃
   ┗━┷━━━┷━━━┷━━━┷━━━━━┷━━━┷━━━┷━━┷━━┷━━┷━┛
 年代順の表から、幾つかの推測が可能である。ただ、竜台の百庚申の範囲からの推定で、この周辺のデータが明になれば、推測の確度が高くなる。誤りを恐れずに推論を示すと、次の通りである。
   ・ 年銘の明らかな塔からいうと、文字塔が寛政12年と天保7年に建ち、青面金剛の刻像塔
     に先行している。
   ・ 示された総高からみると、100cmを越す塔は寛政1基・天保2基・安政1基・年不明1
     基である。このことは寛政から安政の間に建った可能性が高い。
   ・ 剣人6手像は、天保9年塔と安政6年塔の各1基である。前者の塔高が94cmで像高が5
     51cm、後者は塔高が66cmで像高が45cmである。この傾向から、駒型塔で塔高が50
     cm台から40cm台、像高が30cm台の刻像塔は、安政2年以降の安政年間の造立の可能性
     が高い。恐らく中央手が破損のために不明の6番塔も安政年間の造塔と考えられる。
   ・ 11番塔は、総高からは・となるが、塔形が光背型で明和6年の月待塔から推測し、その前
     後の造塔と思われる。周辺の刻像塔の傾向がわかると、誤差の範囲は縮まる。
 参考までに「庚申塔調査報告」から竜台以外の特異な青面金剛塔を拾い出し、一覧表にすると、次次の通りである。この報告には、他に2基の文字塔が示されている。
   ┏━┯━━━┯━━━┯━━━┯━━━━━┯━━━┯━━━┯━━┯━━┯━━┯━┓
   ┃番│種 別│年 銘│塔 形│刻像・主銘│総高 │塔高 │塔幅│奥行│像高│注┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━┿━━━┿━━━┿━━┿━━┿━━┿━┫
   ┃1│刻像塔│天保15│駒 型│人鈴6手像│151│124│38│21│63│1┃
   ┠─┼───┼───┼───┼─────┼───┼───┼──┼──┼──┼─┨
   ┃2│寛延2│安政6│駒 型│剣人6手像│106│ 75│31│22│55│2┃
   ┗━┷━━━┷━━━┷━━━┷━━━━━┷━━━┷━━━┷━━┷━━┷━━┷━┛
   注1 北須賀・水神宮境内にある。
    2 北須賀・松崎集水路脇3叉路所在。塔幅は30・5cmであるが、4捨5入して31cmと
      とする。
 この2基のデータからも、竜台の年代推定の補強になる。なお、1の人鈴型の6手像は、さいたま市旧浦和市を中心に周辺地域の分布している。
 36頁から38頁にかけて「表1 庚申塔建立年代地域別分布表」が載っている。38頁の刻像塔と文字塔を合わせて年不明塔の総計が137基、市内の総塔数が307基だから庚申塔全体の44.6%が造塔年代が不明である。年不明塔の内訳をみると最も多いのが宝田が93基、次いで竜台の34基が目立つ。この2か所で127基、市内全体の41.3%に相当する。この2か所の造塔年代の推定が可能ならば、全体の傾向が正される。
 そのためには、宝田と竜台の詳細な塔データ(塔高・塔幅・奥行の計測データ 刻像塔なら剣人6手か合掌6手かの種別と像高、文字塔なら主銘など)が明らかになれば、大雑把ながら造塔年代推測は可能になる。(平成19・7・2記)
岡村さんの拓本コピー

 平成19年6月23日(土曜日)、高知市の岡村庄造さんからお手紙が届いた。その中に各地で岡村さんが手拓された拓本の縮尺コピーが10枚入っている。順不同で挙げると、次の通りである。
   番 種別・年銘      所在地             注記
   1 延應2年板碑     福島県会津高田 大光寺     東北地方板碑最古銘
   2 佛足石        山形県鶴岡市羽黒山 黄金堂
   3 佛足石 天保6    長野県伊那市高遠町 建福寺   薬師寺系
   4 佛足石        三重県桑名市矢田 勧学寺    西阿系
   5 優婆夷尊 昭和29   福島県磐梯熱海中山宿      『日本の石仏』54号
   6 自然石笠塔婆 正徳2 山形県山形市 極楽寺
   7 双体石佛 天明4   山形県山形市 青田観音堂
   8 踊る道祖神      新潟県柏崎市谷根
   9 養蚕神        新潟県魚沼市小出町小出島橋の上
   10 牛頭天王 安政5   新潟県柏崎市谷根
 1は二条線の下に大きく一尊種子「キリーク」、下部に「延應二年/二月/十九日」の年銘を刻む。
 2・3・4の3枚はいずれも佛足石、それぞれに模様が異なる。
 5は正面中央に「聖優婆夷尊」、その下に坐像を浮彫りする。右に「安産清浄 生まれ出る 子の幸と諸人と」、左に「児童福祉 あいの恵を 垂れるうば神」と記す。他の面に「復旧狩野栄治建之/昭和二十九年十一月十五日/工事 中山 狩野忠一/石工 安故島 斉藤政重刻」と年銘や施主銘などがみられる。なお、この塔については、郡山の小林剛三さんが「郡山地方の奪衣婆像」を『日本の石仏』第54号(日本石仏協会 平成2年刊)に発表されている。
 6は正面の上部中央に天蓋を陰刻し、下に「南無阿弥陀佛」の六字名号と蓮台に乗る来迎相の観音菩薩・勢至菩薩の立像を陰刻する。その両脇には、蓮台に乗る錫杖と宝珠を執る地蔵菩薩立像が線彫りされている。下部中央に「奉造立一蓮同生佛果物」とあり、両脇に多くの法名を刻む。他に線彫り宝篋印塔や「釋迦牟尼佛」や「キリーク 三界萬靈」などを彫る正徳3年造立の笠塔婆である。
 7は奇妙な像容を含む2体の立像を浮彫りする。右は円光をいただく鉄鉢を持つ地蔵立像で問題はないが、左の立像は異様である。まさに天狗面をかぶったような鼻高の顔、右手は8握の剣、左手に丸に十字の輪を持つ。岡村さんは「地蔵猿田彦双体石仏」と称している。造塔年代は「天明四年甲辰天三月十七日」である。
 8は「踊る道祖神」、下部に「中和田中」の横書き銘がある。
 9は右手に桑を持つ馬上の蚕神の浮彫りする。下部に「萬世に種も飼蠶の尽やらぬ宝のたねと疎畧□□な」の歌がきざまれ、両端に眉玉が2個ずつ線彫りされている。
 10は自然石の正面上部に横書きで「奉納」、中央に縦に「牛頭天王」、下に蓮台に乗る牛のうずくまり像を浮彫りする。尊名の右に「安政五戊午年」、左に「九月日/小林甚五兵エ」とある。他の場所に「石工源之助」の銘を記す。
 いながらにして拓本を通し、各地の石佛に接する機会が持てる。岡村さんは、この拓本を利用して資料用の拓影カードを作っている。手許に岡村さん作成のカードがあるが、例えば、松本市今井・西耕地の双体道祖神のカードには、詳細なデータが記されている。正面と背面の拓本に正面図と側面図を付け、背面の読み下し文を添えている。
 誰もがこのような拓本や計測データをまとめて拓影カードを作れるわけではないが、資料の整理の1方法である。できることを工夫して調査資料を残したいものである。(平成19・7・2記)
小林さんの『歯の神』

 平成19年7月4日(水曜日)、福島県郡山市にお住まいの小林剛三さんからの『歯の神──福島県の歯の俗信』(私家版 平成19年刊)を受け取る。平成14年は図書館などで文献資料を収集し、翌15年から実地調査を始めたもの体調不良に悩まされ、今日まで発行が遅延した。
 本文は5章に分かれ、第1章の「歯の神」は石佛との関わりを述べている。以下は、第2章が「入歯師」、第3章が「お歯黒(付楊枝)」、第4章が「歯に関するその他の俗習」、第5章が「民間療法」、最後に参考資料・図書にふれている。
 刊行が遅れたたまに平成の大合併があり、本文の前に「平成の大合併にによる市町村名の変更について」を設け、合併の年月日・新市町名」構成市町村の表にまとめ、色分けした地図で合併の状況を示している。この『歯の神』でも参考にした資料の関係から旧市町村名を使っている。手許にある調査データが多いほど、所在地などを訂正しなくてはならいので、この手間が馬鹿にならない。
 歯の神としては、宮城県白石市3沢・和尚堂にある「阿保原地蔵」の影響が福島県下に及んでいる。先ずこの「阿保原地蔵」に関して記し、実地調査を加えて記述している。小林富次郎編の『よはひ草』(全6冊)から、宮城県唯1の歯の神で山形・福島・岩手からも歯の患者の参拝があり、煙草の葉を線香代わりにしたことを述べている。
 福島県では福島市渡利・西長作にある浮彫り地蔵を始め、国見町・保原町などの県内各地の「阿保原地蔵」にふれている。「阿保原地蔵」の影響を受けて、祈願や平癒のお礼に煙草が関係した習俗が変わっている。
 地蔵に次いで白山信仰を書いている。白山と歯痛については、私も思いである。平成8年度から10年度にかけて国立市内の石造物の調査を行い、その報告として『くにたちの石造物を歩く』(くにたち文化・スポーツ振興財団平成11年刊)をまとめた。
 谷保816番地の路傍に白山石祠があり、これについて次のように書いた。
   白山大権現(中略)
    この白山石祠については、萩の枝で作った箸を供えるという話が伝わっている。白山様と歯
   痛の結びつきは、隣の立川市でもみられ、同市柴崎町・白山稲荷大権現と富士見町4丁目・白
   山大神神社の歯痛に関する聞き書きが報告されている(註1)。また語呂合わせでハクサン(
   歯臭い)ということから生じた流行神だという説があるが、まだ白山信仰がそうした機能を持
   っていたことについての理由はわかっていない(註2)。
      (註1)中島玲子「歯痛の時の神様」『立川民俗』7 立川民俗の会 1993年刊
      (註2)宮田登『近世の流行神』 評論社 1972年刊
 国立や立川と同じように萩を供える習俗が福島以外ででみられる事例を、小林さんが前記『よはひ草』や明玄書房の民間療法シリーズから岩手・宮城など14都県を拾いだしている。
 羽黒山(羽黒神社)信仰が、岡山県では「羽黒」を「歯黒」として「歯黒神社」の御札を出している。小林さんは、歯の祈願に萩の箸を羽黒神社へ供える事例を3例挙げている。次いではの神として「雷神」にふれている。
 頬杖をついたポーズの如意輪観音は、歯痛を連想するのか、歯の神とされるという新聞記事を読んだ記憶がある。東京の同性の小林巳知さんは、『日本の石仏』59号(平成3年刊)に「歯痛の石ぼとけ」を投稿し、群馬県榛名町追分の如意輪観音浮彫り像を紹介している。
 「その他の歯の神」「あごなし(腮無)地蔵」「戸隠明神」で事例を示してから、最後の「県内歯の神のまとけ」で結んでいる。分類Aでは・救済指向型、・語呂合わせより、・形態より、・救済万能方の地蔵、・その他と5種に分類している。神佛に祈願する際には、何らかの奉納物を供える。分類Bは、「奉納物」による6分類している。すなわち・煙草、・萩の箸・小枝、・おがら(麻幹)、・炒り豆、・梨、・お札(掛け札)である。
 ともかく、現状では江戸時代にみられた歯痛、あるいは歯の神に対する信仰が失われている。どうしても過去の信仰は文献に頼らざるをえない。それでも、過去と現状を対比して記録しておくことは重要である。こうした地味な仕事をこつこつと積み上げられた小林さん行為には敬意を表したい。(平成19・7・6記)
小林剛三さんの業績

 福島県郡山市にお住まいの小林剛三さんは、最新作『歯の神──福島県の歯の俗信』(私家版 平成19年刊)の「あとがき」に
    六十才の定年を過ぎてからふと見かけた路傍の石仏に、何となく心惹かれるものがあり、郡
   山市を中心とする地域に限り、ミニバイクで見て歩きました。しかしそれも体調の関係で四、
   五年で終わり、以後殆どなす事なく今日に至りました。と記された通り、石佛に関心を持って調査されたのは60歳からである。調査の結果は、冊子にまとめられ、各種の雑誌に論考を発表されている。
 郡山市立図書館の蔵書を調べてみると、23冊がみられる。その内で同じ書名の本が含まれているので、重複分(※印)3冊を差し引くと次の20冊となる。
   番 書名・題名             刊行年  頁数    大きさ
   ・ 郡山周辺の近世石仏          91年  122頁   30cm
   ・ 郡山の近世石仏(・・・合本)     90年  302頁   30cm
   ・ 野の仏 郡山の近世石仏             40頁   26cm
   ・ 郡山市旧市の近世石仏         95    64頁   26cm
   ・ 郡山市庚申塔編年表 郡山の石仏を見て 84    1 冊   22×30cm
 ※ ・ 郡山市石仏編年表1 日待・月待系   86    64頁   26cm
 ※ ・ 郡山市石仏編年表2 仏教系その他   86    62頁   26cm
   ・ 郡山市田村町の近世石仏        95    62頁   26cm
   ・ 郡山市中田町の近世石仏        95    48頁   26cm
   ・ 郡山市西田町の近世石仏        95    36頁   26cm
 ※ ・ 郡山の石仏1 日待系         87    91頁   30cm
   ・ 野の仏を訪ね             01    66頁   26cm
   ・ 歯の神 福島県の歯の俗信       07    99頁   26cm
   ・ 富久山の石仏                  34頁   26cm
   ・ 郡山地方史研究 郡山地方史研究会 87〜91 (17〜21合本)  26cm
   ・ 入野55    富久山郷土史研究会   94    39頁   26cm
   ・ 入野56    富久山郷土史研究会   98    1 冊   26cm
   ・ 日本の石仏61 日本石仏協会      92   103頁   21cm
   ・ 日本の石仏79 日本石仏協会      96    95頁   21cm
   ・ 日本の石仏80 日本石仏協会      96    95頁   21cm
 上記の中で・が富久山図書館の所蔵である以外は、いずれも中央図書館で所蔵されている。この中で・から・は雑誌、小林さんの論考が掲載されている。これらの雑誌には、次の論考が載っている。
   番 論題              掲載誌     号数 発行所
   ・ 「8天狗と火伏せ信仰」     郡山地方史研究 不明 郡山地方史研究会
   ・ 「富久山石工について」     郡山地方史研究 不明 郡山地方史研究会
   ・ 「八天狗と火伏せ信仰」     入  野    55 富久山郷土史研究会
   ・ 「富久山石工について」     入  野    56 富久山郷土史研究会
   ・ 「金刀比羅神社の多様な石仏」  日本の石仏   61 日本石仏協会
   ・ 「火伏と八天狗」        日本の石仏   79 日本石仏協会
   ・ 「郡山地方の妙見信仰」     日本の石仏   80 日本石仏協会
 以上は郡山市立図書館の蔵書であるが、これ以外にも小林さんの業績がみられる。例えば『歯の神──福島県の歯の俗信』の21頁の上段の注記(43)、『日本の石仏』第66号に掲載された「郡山地方の子安信仰」がある。小林さんの中央における活動の舞台は、日本石仏協会の『日本の石仏』である。前記の3冊に洩れた論考や投稿を示すと、次の通りである。
   番 論題              刊行年 掲載号数 掲載頁数
   1 「新たな廃仏毀釈?」       87年  42号 92〜93頁
   2 「郡山地方の奪衣婆」       90年  54号 56〜57頁
   3 「奪衣婆追記」          90年  56号 87頁
   4 「郡山地方の子安信仰」      93年  66号 31〜38頁
   5 「昆虫などの供養塔」       95年  76号 81頁
   6 「九州から東北に」        98年  88号 78頁
   7 「甲庚供養塔がありました」    98年  98号 83頁
   8 「佐藤俊一氏を偲ぶ」       04年 111号 75〜76頁
 日本石仏協会の活動で忘れてはならないのは、会誌100号刊行に『日本の石仏 創刊−百号 項目別分類索引』(日本石仏協会 平成13年刊)を作成したことである。裏表紙には「編集・発行」は「日本石仏協会」と記載されているが、実際は小林さんが原本を作成している。平成15年2月23日に池袋の東京芸術劇場で行われた日本石仏協会第27回総会で、創立25年と会誌100号刊行を記念して小林さんに感謝状が贈呈されたのも索引作成の功績である。
 図書館の蔵書や『日本の石仏』以外にも、例えば次の調査報告を発行している。
   番 書名                   刊行年   頁数
   1 『3春町 近世の石仏 取材ノート』    平成9年  48頁
   2 『本宮町 近世の石仏 取材ノート』    平成9年  28頁
   3 『船引町 近世の石仏 取材ノート』    平成9年  52頁
 1を例に内容をみると、9基ずつの写真を並べた頁が4頁、次いで本文に入り、目次・凡例に各1頁宛、3頁から46頁まで石佛1基毎に「造塔年・銘文(刻像)塔形・大字・所在地・付記」を記して石佛の内容を現している。各種別毎に文末に「補記」をつけ、字数の関係で説明できない各頁の石佛を説明を追加している。47頁に「3春町全図」の地図、48頁に「あとがき」をつけ、文末に参考文献3冊を掲げている。
 定年後に石佛調査を始められても、前記のような大きな業績を残されている。対象は石佛に限らないが、定年後の一つの行き方を示唆している。(平成19・7・6記)
本庄台町の馬頭塔婆

 平成19年7月14日(土曜日)は、本庄市本庄の台町の獅子舞を見学する。この獅子舞は、埼玉県無形民俗文化財に指定されている。
 本庄市役所の駐車場に車を止め、獅子頭が演じられる本庄3丁目の八坂神社へ向かう途中、駐車場を出て直ぐの右手に石塔が並んでいる。この中には、柱状型の文字庚申塔があったが、この時は気付かずかなった。帰りにこの前を通った折り、庚申塔の存在がわかる。雨の中なので計測などせず、確認の一瞥だけで通り過ぎる。
 神社に着いて午後2時から獅子舞が始まるのを確かめ、夜の獅子舞が行われる大正院に向かう。横から参道に入ると、突き当たり手前にあるブロック塀の前に板石型の「馬頭觀世音」塔が大小2基並んでいる。ここに新しい塔婆が立っているのに気がつき、近寄って読む。
 塔婆の正面には、上部に発心門の「キャカラバア」、その下に梵字真言があり、下部に「奉馬頭觀世音菩薩為施主現当二世安楽也」と記されている。裏面は、上部に梵字があり、続いて「南無遍照金剛 施主 町田幸久」と書かれいる。塔婆横には古い塔婆が3本あるのでみると、2本は新し塔婆と同じ高さで同1の文面である。他の1本は丈長のもので、表面に「願以此功徳普及於一切我等衆生皆成佛道」とあり、この銘文が異なる以外は梵字や施主銘は同じである。
 馬頭観音の塔婆は、以前、青梅市畑中の路傍にある馬頭観音石塔の後に立っていたのを記憶する。最近では、昨年11月12日(日)に行われた日本石仏協会の「寒川・茅ヶ崎西部の石仏」見学会に参加した時に、茅ヶ崎市の長善寺でみている。当時の記録(『石仏談話室雑記・』収録 多摩野佛研究会 平成18年刊)に次のように記している。
    ここの会館で昼食をとる。食後、近くの長善寺を訪ね、境内にある昭和17年の馬頭観音を
   みる。正面上部に馬首(像高10cm)を浮彫りし、その下に「馬頭観世音」の主銘を彫る柱状型
   塔(54×24×17cm)である。後ろに長善寺が施主の塔婆が立っている。
 この種の塔婆を探してもそうみかける訳ではないが、各地を歩いていると偶然目にする。大正院の塔婆からも、現在でも馬頭観音に対する信仰が残っているのがわかる。
 一度、大正院から八坂神社に戻る。大正院を出発する獅子舞連中の行列をみようと、再び大正院に向かう。正門から寺の境内に入ると、参道の右手に如意輪観音があり、台石正面に銘文が刻まれている。時間を気にしながら読むと、寛政造立の二十二夜塔である。
 獅子舞の道行は、雨の中を寺から街中を通って八坂神社に向かう。途中の路傍には、皿状角柱の「庚申塔」がある。僅かな時間に側面の銘文を読むと、右側面に万延元年の造塔年銘、左側面に施主銘が刻まれている。銘文の詳細は、道行の行列に付いて進むので一見しただけである。
 本庄といえば、平成9年11月3日(文化の日)に「本庄まつり」を見学した。この日は、金鑚神社に向かう途中にある銀座2丁目6番にある木祠の境内では、7基の庚申塔(内2基が青面金剛刻像塔)と天保13年の5神名地神塔を発見したのを記憶している。それ以外に愛宕神社(中央1ー5)前で文字庚申塔3基、神社近の北島材木店(中央1ー3)角で文字庚申塔1基の計11基の庚申塔、前記の5神名地神塔と嘉永3年の文字道祖をみつけた。
 本庄では山車や獅子舞の見物が、思わぬ石佛や塔婆に結びついている。(平成19・7・19記)
望月の念三夜塔

 平成19年7月19日(木曜日)、品川区の小林巳知さんからお手紙に添え、写真3葉と地図とパンフレットが届く。台東区の浅草公会堂で開催されていた「石仏・道祖神写真展」を初日の今月13日(金曜日)に訪ね、小林さんにお会いした。
 写真展の会場で、小林さんに長野県佐久市望月町の「念三夜塔」について尋ねた。
 今月7月7日(土曜日)に豊島区の東京芸術劇場でで石仏談話室が開催され、野口進さんが「長野県望月町の石仏」を話されたのたが発端である。
 講演では、道祖神・観音・庚申塔・地蔵にふれ、最後にその他の石佛が取り上げられ、望月・天神林の「念三夜」塔がモニター画面に映し出された。「念三夜塔」だから、単純に私は「二十三夜塔」と思ったら、レジュメの最後に次の記述がみられる。
   (3)念三夜塔(望月天神林 廃寺跡)
   佐久市伴野は一遍上人が踊り念仏を始められた地といわれているが、これもその造塔である。
   裏に「當邑婦女社中敬立」とある。
    (2)、(3)に関しては「続日本石仏図典」および「日本の石仏」六十三号に小林巳知氏
     の報告がある。
 この念三夜塔の前に望月・信永院の「六道四生河沙含霊塔」を説明し、レジュメに「(生霊を)供養するための念仏の造塔」と記している。
 通常、「念三夜塔」といえば、「二十三夜塔」を指す。『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)の「二十三夜塔」の文字塔で無視され、『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)の「月待塔〈11〉二十三夜塔」の中にも、「念三夜塔」の記述はない。野口さんが指摘するように、『続日本石仏図典』(国書刊行会 平成7年刊)には、184頁に角田八重子さんが「念三夜塔」を担当執筆されている。
 角田さんは「長野と岐阜の両県域に、遺存しているようである。類似する文字表現として『三夜念仏』と記した石碑もある」とした上で、次のように書いている。
   写真の遺品が所在する長野県の佐久郡は、中世前期に各地を遊行していた時宗の開祖一遍が、
   はじめて踊り念仏を修したゆかりの地である。一遍の念仏信仰が地域社会に受容され、再生産
   され続けてきたとみられ、「一遍上人云々塔」とか「踊念仏供養塔」「常行三眛念仏塔」「六
   道四生河沙含霊塔」など、一遍上人や踊り念仏にちなむ石塔も多いし、現在も踊り念仏が営ま
   れている・「念三夜」とか「三夜念仏」の文字からは、三日月待ちや三夜待ち(二十三夜待ち
   )のような、月待ちの行事との関連も想定されようが、少なくとも佐久地方の念三夜塔は、三
   日三晩絶え間なく、念佛三眛に浸って踊り念仏の供養塔である。現在の踊り念仏の行事は、三
   日三晩ではないが、年に一日、早朝から夜まで続けられている。
 レジュメにある『日本の石仏』第63号(日本石仏協会 平成4年刊)には、小林さんが「六道四生と踊り念仏」を発表され、文中に次のような記述がある。
    この伴野の寺でも今も「踊り念仏」が伝承されており、小諸市でも「夜明かし念仏」がある
   。望月町岩下でも毎年春の彼岸の中日に、一日のみ「踊り念仏」が連綿と続いている。この3
   点の線上の近くの路傍や寺前に「六道四生河沙含霊塔」や「念三夜塔」の碑が立っている。
 送られてきた3枚の写真は、いずれも自然石の正面に大きく「念三夜」と彫られている。塔3基の所在地は、・天神・満勝寺廃寺跡入口、・大谷地集落の路傍、・入新町三叉路の路傍の3か所である。・と・は一本道でつながり、・はその中間の西に入った場所である。
 お手紙には「踊り念仏は『三日三晩鉦切らず』で踊ったところ出た言葉から碑文になったと解釈しています」とあり、現在も岩下の「男念仏」と跡部の「女念仏」が残っていると書かれいる。
 先の石仏談話室の記録(未発表)には、次のように記した。
    「念三夜」塔が「當邑婦女社中敬立」の銘から、踊り念佛の造立というのはどうだろうか。
   「念」は「廾」を表すが、それを無視して「踊り念佛」というのも考えものである。周辺の二
   十三夜信仰はどうなっているのか、みないと判断できない。一度、岡村知彦さんに聞いてみた
   い。
 二十三夜塔には「講中」と刻まれいる例が多いが、天神の塔には「當邑婦女社中敬立」の施主銘である。普通みられない「社中」銘が気に掛かる。いずれにしても一体、「念三夜」塔は月待塔としての二十三夜塔か、それとも念佛塔なのか明確にする史料が出てこないものだろうか。(平成19・7・19記)
望月の庚申塔

 平成19年7月7日(土曜日)、豊島区の東京芸術劇場で石仏談話室が開催され、野口進さんが「長野県望月町の石仏」を話された。講演では、モニター画面にいろいろな石佛が映写されたが、中でも庚申塔に興味があった。
 当日配付されたレジュメには、庚申塔について次のように書かれている。
   (ア)城光院の庚申塔(望月 城光院) 青面金剛像 延宝8年(1680)銘のあるものと
       しては佐久地方最古と思われる。4臂2猿
   (イ)牧布施の庚申塔(牧布施 駒形神社近く) 城光院の像と相似である。年不詳
   (ウ)福王寺の庚申塔(協和小平 福王寺) 青面金剛像 6臂2猿
   (エ)常福寺の庚申塔(布施 常福寺) 青面金剛像 6臂3猿
   (オ)三井の庚申塔(協和三井) 青面金剛像 6臂3猿
 5基の庚申塔がモニター画面に表示されたが、中に万歳型の青面金剛があったので、特に関心が出てきた。そこで、小諸市の岡村知彦さんからいただいた『佐久の庚申塔』(限定版 平成19年刊)を調べ、旧・望月町の庚申塔を抜き出して造塔年代順に列記すると、次の通りである。なお、年表の最初の「番」は『佐久の庚申塔』の記載番号を示す。
   番 年号  塔形  特徴                   所在地
   9 延宝8 光背型 日月・青面金剛・2猿           望月 大伴神社
   15 延宝8 石 祠 日月・2鶏・2猿「奉造立庚申堂二世安楽」 三井 神明社
   8 延宝8 光背型 日月・青面金剛・2鶏・2猿        望月 城光寺
   1 元禄3 光背型 日月・青面金剛・2鶏・2猿        牧布施 駒形神社参道
   29 元禄12 光背型 日月・青面金剛・1鶏・1猿        岩下 旧道脇
   19 宝永3 光背型 日月・青面金剛・1鶏・1猿        下の宮 依田家墓地
   14 宝永5 光背型 日月・青面金剛・2鶏           上谷田 公民館
   24 享保7 雑 型 日月・青面金剛・3猿           向反 六本桧下
   4 元文2 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿        雁村 春日道脇
   26 寛延2 光背型 日月・青面金剛・(台石)3猿       新田
   31 宝暦7 光背型 日月・青面金剛・3猿           観音寺 池畔秋葉社
   13 宝暦13 光背型 日月・青面金剛・3猿           下谷田 大日堂
   27 明和1 自然石 日天「庚申塔」              茂沢 上の辻
   3 寛政12 自然石 「青面金剛」               抜井 長者原入口
   30 寛政X 自然石 日天「庚申塔」              岩下 分去れ
   25 享和2 自然石 「庚申塔」                竹の城 北入口
  12 文化7 自然石 「奉請青面金剛」             片倉 火の見西
   7 文化8 板駒型 「庚申塚」                印内 月輪寺跡
   10 文政1 自然石 「庚 申」                望月 大伴神社
   23 文政7 自然石 日月「庚申塔」              春日本郷 南外れ
   18 文政13 自然石 「庚 申」                吹上 道祖神
   20 弘化3 自然石 「守庚申」                別府 蓮華寺入口
   11 明治3 自然石 日月「庚 申」              片倉 谷田入口
   6 年不明 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿        印内 月輪寺跡
   2 年不明 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿        入布施 常福寺
   16 年不明 雑 型 青面金剛・2猿              小平 福翁寺
   5 年不明 光背型 日月・青面金剛              藤牧 四ツ辻
   17 年不明 柱状型 (上欠)「申塔」             小平 柳峠
   21 年不明 自然石 「庚申塔」                高橋 消火栓横
   22 年不明 自然石 「庚申塔」                春日本郷 康国寺
   28 年不明 自然石 「庚申塔」                入新町 北入口
 先ず、青面金剛の手数をみると、4手像は次の6基である。
   9 延宝8 光背型 日月・青面金剛・2猿           望月 大伴神社
   15 延宝8 石 祠 日月・2鶏・2猿「奉造立庚申堂二世安楽」 三井 神明社
   8 延宝8 光背型 日月・青面金剛・2鶏・2猿        望月 城光寺
   29 元禄12 光背型 日月・青面金剛・1鶏・1猿        岩下 旧道脇
   6 年不明 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿        印内 月輪寺跡
   2 年不明 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿        入布施 常福寺
 この中の城光寺大伴神社と常福寺の2基は万歳型4手像、共に下方手に蛇・索を執る。岩下の元禄12年塔は6手像の初出の牧布施・元禄3年塔より遅れるが、万歳型6手像の初出が雁村の元文2年塔だから、6手像や万歳型4手像が先行する。三井の延宝8年石祠には、中尊として光背型塔に4手青面金剛が内蔵さているそうである。年銘が明らかな2基は延宝8年だから、年不明塔も延宝8年前後の造塔と推測される。大伴神社塔は上方手に矛と宝珠、下方手に夜2本と弓を持つ。月輪寺跡塔は中央手の両手で剣、下方手に索と蛇を持つ。
 6手像は次の通り、望月には10基ある。
   1 元禄3 光背型 日月・青面金剛・2鶏・2猿        牧布施 駒形神社参道
   19 宝永3 光背型 日月・青面金剛・1鶏・1猿        下の宮 依田家墓地
   14 宝永5 光背型 日月・青面金剛・2鶏           上谷田 公民館
   24 享保7 雑 型 日月・青面金剛・3猿           向反 六本桧下
   4 元文2 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿        雁村 春日道脇
   26 寛延2 光背型 日月・青面金剛・(台石)3猿       新田
   31 宝暦7 光背型 日月・青面金剛・3猿           観音寺 池畔秋葉社
   13 宝暦13 光背型 日月・青面金剛・3猿           下谷田 大日堂
   16 年不明 雑 型 青面金剛・2猿              小平 福翁寺
   5 年不明 光背型 日月・青面金剛              藤牧 四ツ辻
 この青面金剛6手像の傾向をみると、先ず牧布施に合掌6手像が元禄3年に出現し、次いで宝永3年に下の宮に中央手が定印を結ぶ6手像(以下「定印型」という)が造られる。宝永5年に上谷田、享保7年に向反に合掌6手像が現れる。雁村の元文2年塔から下谷田の宝暦13年塔まで4基の万歳型6手像がみられる。このことから、小平の年不明塔は宝永年間前後、藤牧の年不明塔は元文年間から宝暦年間の間に造像されと考えられる。
 文字塔を編年順に並べると、次のようになる。
   27 明和1 自然石 日天「庚申塔」              茂沢 上の辻
   3 寛政12 自然石 「青面金剛」               抜井 長者原入口
   30 寛政X 自然石 日天「庚申塔」              岩下 分去れ
   25 享和2 自然石 「庚申塔」                竹の城 北入口
  12 文化7 自然石 「奉請青面金剛」             片倉 火の見西
   7 文化8 板駒型 「庚申塚」                印内 月輪寺跡
   10 文政1 自然石 「庚 申」                望月 大伴神社
   23 文政7 自然石 日月「庚申塔」              春日本郷 南外れ
   18 文政13 自然石 「庚 申」                吹上 道祖神
   20 弘化3 自然石 「守庚申」                別府 蓮華寺入口
   11 明治3 自然石 日月「庚 申」              片倉 谷田入口
   17 年不明 柱状型 (上欠)「申塔」             小平 柳峠
   21 年不明 自然石 「庚申塔」                高橋 消火栓横
   22 年不明 自然石 「庚申塔」                春日本郷 康国寺
   28 年不明 自然石 「庚申塔」                入新町 北入口
 文字塔の初出は、茂沢の明和元年塔である。延宝8年から下谷田の宝暦13年塔まで青面金剛の刻像塔が造立されている。茂沢の明和元年塔以後の文字塔は、片倉の「奉請青面金剛」文化7年塔が長い主銘で、他は「青面金剛」「庚申塔」「庚申塚」「守庚申」と4字か3字、あるいは「庚申」の2字と2字の短い主銘となっている。この点からみると、年不明の文字塔は主銘が「庚申塔」だから、明和年間を遡ることは考えにくい。
 旧・望月町内の庚申塔を造塔年代順に並べたけでも、いろいろな事柄が読めてくる。実地で観察すれば、更に違った面がみえてくるかもしれない。青面金剛の刻像塔では、万歳型4手像から合掌6手像へ、更に定印型6手像を経えて万歳型6手像へ移行する変遷がわかる。文字塔では、概ね明和以降の造立という傾向がうかがわれる。この傾向は、年不明塔の造塔年代の推定に役立つ。ともかく、岡村さんが佐久地方の悉皆調査をされ、調査データを公開されたお陰で、庚申塔のデータから読み取れる点が多い。(平成19・7・19記)
あとがき
     
      『石佛雑記ノート』の号数を重ねてくると、何時、行き詰まるのか、と考える。しかし
     ながら、題材は思っているよりは身近に転がっているように思う。
      たまたま、多摩石仏の会の6月例会でみた緑区の地蔵札がヒントで「百地蔵と千地蔵の
     地蔵札」がまとまった。過去の写真を調べると、まだ忘れていた地蔵札が出てくる。
      「成田の青面金剛」は、市原の町田茂さんから送られてきた『立正大学大学院報』24
     号抜刷、土井照美さんの「庚申信仰の石造物──特に成田市を中心として」を基にして、
     分析したものである。
      「岡村さんの拓本コピー」は、高知の岡村庄造さんから送っていただいた各地の拓本縮
     尺コピーから、思いつくままに記した。
      「小林さんの『歯の神』」と「小林剛三さんの業績」は、郡山にお住まいの小林剛三さ
     んの最新作『歯の神』とこれまでの業績にふれたものである。
      「本庄台町の馬頭塔婆」は、たまたま獅子舞見学でみた馬頭観音の塔婆、当日みた2基
     の庚申塔を中心に記した。平成9年の「本庄まつり」見物の続編である。
      「望月の念三夜塔」と「望月の庚申塔」は、去る7月の石仏談話室で野口進さんが話さ
     れた「長野県望月町の石仏」がきっかけで、小林巳知さんのご教示や岡村知彦さんの著作
     を利用してまとめたものである。
      『石佛雑記ノート』が行き詰まるか、の不安を抱えながらも、どうにか号数を重ねてい
     けそうである。号によっては頁数に多少の増減があるが、40頁前後で今後も発行を継続
     していきたいと考えている。ご声援やご支援を期待したい。
                            ─────────────────
                             石佛雑記ノート10       
                               発行日 平成19年8月 5日
                               TXT 平成19年9月21日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 多摩野佛研究会
                            ─────────────────
 
inserted by FC2 system