石川博司著  石佛雑記ノート 12   発行 多摩野佛研究会
目次   ◎ 中山さんの庚申塔年表   ◎ 『石佛月報』7月号   ◎ 黒磯の石佛写真
      ◎ 『石仏散歩 悠真』2号   ◎ 「下野型」と「日光型」  ◎ 『路傍の石仏』
      ◎ 『図録 庚申塔』       ◎ 栃木文化財視察旅行  ◎ 縣敏夫さんの来信
      ◎ 芦田正次郎さんの来信         あとがき
中山さんの庚申塔年表

 平成19年7月11日(水曜日)に埼玉県春日部市の中山正義さんから、『栃木県寛文の庚申塔年表』と『栃木県寛文の庚申塔年表』を拝受した。この両年表に先行する年表は、先に2月2日(金曜日)を受け取っていた。
 寛文の両年表を比較すると、2月年表は実査した42基が記載、7月年表では同じ42基ながら、栃木市大塚宿・餓鬼塚にある寛文10年の板碑型6種子塔が「参考」として加わっている。
 1方の延宝の年表では、2月年表では実査していない2基を含めて182基と参考1基が記載、7月年表では同じ塔数ではあるが、2基の入替えがみられる。すなわち、2月年表に記載の日光市稲荷町・稲荷神社の延宝2年塔と茂木町前宿町の延宝8年塔が消え、その分の佐野市植下町路傍と日光市安川町・磐裂神社の共に延宝8年塔が加わっている。
 例えば、2月の佐野市下館野・共同墓地が7月に佐野市栃本・共同墓地と変わるように、地名の訂正がなされている。今回の2回の場合は、すでに平成の市町村大合併による市市町村名に変更された後であるから、大きな表記の違いがみられない。
 これまでは寛文と延宝共に「仮年表」として発行されてきたが、2月年表、正確には1月22日付けの改定から「仮」を外している。
 栃木県最古の庚申塔である日光市本町・八幡神社の寛永11年塔が確認された現在、寛永から延宝までの『栃木県の江戸初期庚申塔年表』が発行されることを期待したい。中山さんの江戸初期の庚申塔年表作業は、関東地方の各都県に及んでいるから、取り敢えずは栃木県、近い将来に『関東地方の江戸初期庚申塔年表』が刊行されることを願う。(平成19・8・9記)
『石佛月報』7月号

 平成19年7月12日(木曜日)に宇都宮の瀧澤龍雄さんから、『石佛月報』7月号が送られてきた。見出しが「休刊前の溜め原稿放出号」となっている。表紙には、上段に日光市虚空蔵堂境内の庚申塔群の写真を載せ、下段の冒頭に次のように書かれている。
    今月号をもって、多分少なくも3ケ月ほどこの石佛月報は休刊となるでしょう。その為に今
   月号は、それまでに書き溜めていた物を全て放出する事にしました。といっても、最新内容を
   いれてようやく十頁です。
 月報に添えられたお手紙には「月報表紙に記しましたように、漸くは月報休刊です」と記されている。今回の『石佛月報』の内容は、次の通りである。
   番 題名              年銘   所在地
   1 「麗しの大日尊」        年銘不明 栃木県南河内町 本吉田路傍
   2 「庚申祭の猿田彦大神塔」    文化9年 栃木県鹿沼市下大久保 大芦神社
   3 「県内最後の寛文庚申塔調査」  寛文10年 栃木県壬生町福和田 惣の宮神社東
   4 「自然石の十九夜塔」      弘化3年 栃木県鹿沼市下沢 古峰街道路傍
   5 「大日如来3種悉地真言庚申塔」 宝永2年 栃木県鹿沼市引田 古戸中
   6 「読めぬ塔」その1       文化1年 栃木県鹿沼市引田 路傍
   7 「読めぬ塔」その2       嘉永5年 栃木県鹿沼市引田 下原地区
   8 「筆子造立の単制石幢6地蔵」  寛政4年 栃木県鹿沼市下沢 宝光寺
   9 「日光の寛文庚申塔」      寛文11年 栃木県日光市所野 滝尾神社
   10 「栃木県最古の庚申塔」     寛永11年 栃木県日光市本町 八幡神社
 1の紀年銘については、文中に「江戸初期の風貌を持った像容である」と記し、「精査により判読可能性あり」としている。古風な佇まいである。
 2は自然石の中央頂部に線刻の円を刻み、下に大きく「猿田彦大神」、右に小さく「庚申祭」と日光などへの道標銘2行、左に小さく「文化9壬申年/8月廾日」、大きく「講中」と誌している。石塔に「庚申祭」と彫る例は、県内ではこの塔を含めて4基、この神社に2基(文化9年塔と文政7年塔)の他に佐野市の天明6年塔と馬頭町の大正9年塔があるという。。
 3は中山正義さん・瀧澤龍雄さん・多田治昭さんの3人がからむ塔、多田さんが発見して瀧澤さんが中山さんの立ち会いで県内最後の調査を行った寛文庚申塔である。頂部が欠失したもので、上部に向かい合わせの2猿、中央に「奉供養庚申2世安禾」、右に「寛文十年/天下和順日月清明」、左に「風雨以時災□不起/庚戌九月六日」の銘がある。
 4は自然石の上部を華頭形に彫りくぼめ、中に如意輪観音を浮彫りして主尊としている。下に大きな字で「十九夜」と刻む。弘化3年の造立。
 5は上部に日月・瑞雲の陽刻、中央に大日如来の法身・報身・応身の3種の真言、下部に向かい合わせの2猿の浮彫り、底部に蓮華を陰刻する。珍しい庚申塔である。写真を加工して真言を黒字で入れて読みやすくしている。
 6も7も主銘が隷書体で読みにくい。7は「拾□夜」と読め、上部の主尊が如意輪観音だから、「9」を表す漢字を使った「十九夜」と考えられる。
 8は曹洞宗の寺にある「當寺十4世代施主筆子中」の施主銘がある6地蔵石幢、これが瀧澤さんの6地蔵単制石幢百基目であるという。筆子塔としては珍しい。
 9は、小花波平6さんが規定していた日光型庚申塔に合致する庚申塔、常備に日月と向かい合わせの2猿、下部に蓮華の陰刻と申し分がない。中央に「カーン 奉精誠庚申待供養之攸 檀衆 導師恵會坊」、右に「寛文十一辛亥天 欽」と3段5行の施主銘、左に「三月吉日 白」と3段5行の施主銘を刻む。
 10は横田甲一さんも年銘の「永」の1字を読んだだけで、その後も年銘全体を判読できなかった。瀧澤さんの懸命な塔磨きの成果があり、ようやく「寛永十一甲戌年/六月五日」が判読できる。塔に刻まれた偈文の出典が判明したので、7月27日(金曜日)に差替分が送られてくる。今後、この塔が日光の庚申塔を語る際に欠かせなくなる。庚申塔に対する瀧澤さんの執念には恐れ入る。
 今後、3か月間にわたって『石佛月報』が休刊になると寂しくなる。1日も早い復刊が待たれる。近々、日光で新たな発見があれば、早い機会に再刊されるかもしれない。(平成19・8・9記)
黒磯の石佛写真

 平成19年7月23日(月曜日)は、足立の笹川義明さんから石佛写真が届く。不動明王の縁日に当たる6月28日(木曜日)に、黒磯市沼野田和・金乗院那須波切不動尊火祭に行かれた際、周辺の寺々で撮った写真である。
 笹川さんは、火祭りが終わってから妙徳寺〜3本木地蔵尊〜法真寺〜法界寺の順に廻っている。最初の妙徳寺では、裏手にある馬頭観音群の中から選んで、2馬首付きの明治45年「馬頭観世音」塔、1馬首付きの「馬頭尊」塔、1馬首付きの昭和53年「馬頭観世音」塔を撮っている。
 次の三本木地蔵尊では、境内の石佛群を写し、その中にある六地蔵石幢を3方面から撮っている。それに加えてもう1枚、石佛群にある柱状型塔の正面を華頭型に彫り窪めた中に蓮台に乗る2手如意輪観音の写真がある。
 3番目の法真寺では、六地蔵重制石幢の全景写真と2体ずつのアップ写真3枚である。6体の持物はよくみられるものであるが、天蓋と幡幢の柄が肩のところで曲がっているのが面白い。
 最後の法真寺では、それぞれの光背型塔に1体ずつ浮彫りされた六地蔵立像の全景と台石正面の銘文を写している。台石の右から順に「天人道能化/預天賀地蔵」、「人間道能化/放光王地蔵」、「阿修羅道能化/金剛幢地蔵」、「畜生道能化/金剛悲地蔵」、「餓鬼道能化/金剛寳地蔵」、「地獄道能化/金剛願地蔵」と2段に銘文を刻む。
 この寺の六地蔵の台石に彫られた尊名や六道の配当からみて、「六地蔵和讃」や「佛説地蔵菩薩発心因縁十王経」によることがわかる。各立像は左手に持物を執り、右手で印相を結んでいる。この種の六地蔵の像容を『佛像図彙』では上段に坐像、下段に立像を描いている。法真寺の六地蔵はいずれも立像である。写真からは印相の詳細が明らかではないが、法真寺は地蔵の尊名からみると、天台系の寺と考えられる。(平成19・8・9記)
『石仏散歩 悠真』2号

 平成19年7月25日(水曜日)、多摩石仏の会の多田治昭さんから『石仏散歩 悠真』第28号と第29号の2号が送られてくる。先月27日(水曜日)には、第27号(青面金剛の持物 人身)の1号だけだったので、今後は月1号の割合で発行に転換したのかと思っていた。今回の2号をみると再度、月2号ペースに戻った。今回の第28号は「丸彫り青面金剛立像」、第29号は「青面金剛の持物」第4弾の「蛇」である。
 第28号の「丸彫り青面金剛立像」特集は、関東地方に分布する丸彫り立像である。先日みてきた流山市流山・光明院の寛文6年大日如来丸彫り立像は、すでに第1号の「関東地方の如来庚申塔(釈迦・大日・薬師)」で紹介されている。それ以外の流山・浅間神社の丸彫り青面金剛坐像や、丸彫り猿田彦大神立像は別の機会に取り上げられると思う。
 「まえがき」には、次のように記されている。
    青面金剛像では、光背型や板駒型などの塔型で多く建てられている。丸彫りの塔もいくつか
   見られるが青面金剛を丸彫りで彫るのが難しいのであろう、数はそう多くない。三猿・一鶏・
   一鬼・日月を一石に刻む、茨城県総和町の塔のようにはばらしい彫りの塔も見られる。
 青面金剛の丸彫り立像は、神奈川県を除く関東各都県に分布している。第28号記載の塔の中で基数が最も多いのは埼玉県の12基、次いで東京都の6基、以下、群馬県4基、栃木県3基、茨城県2基、千葉県1基である。
 東京都に分布する青面金剛立像6基は全てみているが、埼玉県12基中何基かみていない立像がある。栃木県は3基中2基をみているが、千葉県の1基・茨城県の2基・群馬県の4基はみていない。
 第29号は、「まえがき」に「各地で見た蛇を紹介したい」とあるように、「青面金剛の持物4蛇」の特集である。蛇はすでに第2号の「庚申塔の蛇」特集で取り上げられているが、今回は青面金剛の持物に限定した蛇である。第2号では当然、持物の蛇も多く載っているが、腹に巻く蛇、頭上の蛇、頭部を巻く蛇、首から下がる蛇、台座に刻まれた蛇と多岐にわたている。
 第2号に記載されたものが再録、例えば文京区関口の寛文9年塔や本庄市中央の寛政7年塔などがみられるが、掲載された蛇の持物は変化に富んでいる。表紙に採用された群馬県箕輪町下芝・庚申塚の正徳元年塔では、下方手の両手でそれぞれの蛇を持っている。このように、数多く並べて比較してみるといろいろな蛇が登場する。(平成19・8・9記)
「下野型」と「日光型」

 平成19年7月27日(金曜日)、宇都宮の瀧澤龍雄さんからお手紙が届く。お手紙の中に
   ところで、無理強いではないのですが、只今「日光型」或いは「下野型」庚申塔の命名者は懇
   話会の皆様であることはなちがいないのですが、その最初のいきさつを知りたいと願っていま
   す。今となっては、この間の事情を知る方も少なく、ぜひ石川様のその追跡をして「日光型庚
   申塔の命名について」を調査論文にして頂けると大いに助かるのですが、いかがでしょうか。と記されている。「この間の事情を知る方も少なく」と文中にもあるように、心当たりの方は、武田久吉博士・横田甲一さん・小花波平六さんはすでに亡くなった。事情を知るのは、あと清水長明さん1人位ではなかろうか。
 瀧澤さんは地元の調査を熱心に行っているから、日光型庚申塔が気になるのであろう。日光の庚申塔は、ほとんど調査したこともなく、これまで「日光型」と「下野型」と使っていても誰が命名したかなど考えてもみなった。そこで手許にある資料を整理し、命名の経緯を追ってみた。
 先ず日光の庚申塔が意識されるようになったのは、いつ頃のことになるかを庚申懇話会の会誌『庚申』を中心に調べる。大先達の次の資料には見当たらない。
   ○ 山中共古『共古随筆』(温古書屋 昭和3年刊)
   ○ 三輪善之助『庚申待と庚申塔』(不二書房 昭和10年刊)
   ○ 大護八郎・小林徳太郎『庚申塔』(新世紀社 昭和33年刊)
 日光の庚申塔が記録されるのは、『庚申』創刊号(昭和34年6月刊)に載った庚申編集部編の「庚申塔年表(其の1)」が最も早いようで、次の3基が記載されている。
   年号  塔形  特徴                 所在地
   慶安3 板碑型 日月「奉待庚申供養所         山内・四本竜寺   清水長輝
   承応2 板碑型 日月・2猿「ウーン奉信待庚申」    山内・四本竜寺   武田久吉
   万治2 板碑型 日月・2猿「キリーク奉信待庚申供養攸」山内・四本竜寺   清水長輝
 なお、武田博士の「備考」に「武田久吉氏『写真文化』昭和十七年二月号」とある。
 次いで同年12月に発行された清水長輝『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)には、『庚申』創刊号と同様に、次の3基を挙げている。
   年号  塔形  特徴                 所在地       報告者
   慶安3 板碑型 日月「奉待庚申供養所」        山内・四本竜寺   清水長輝
   承応2 板碑型 日月・2猿「ウーン奉信待庚申」    山内・四本竜寺   武田久吉
   万治2 板碑型 日月・2猿「キリーク奉信待庚申供養攸」山内・四本竜寺   清水長輝
 『庚申塔の研究』には、承応2年塔と万治2年塔の写真を135頁に掲げ、同じ頁に「合掌2猿が向かいあって」とあるだけで「日光型」と「下野型」とも呼んでいない。この3基については「庚申と日月」でもふれている。3基共に「庚申塔年表(寛文5年まで)」では、特徴として慶安3年塔は「日月陽刻」、承応2年塔と万治2年塔は「合掌2猿」と記している。
 次いで日光の庚申塔が登場するのは、『庚申』第17号(昭和35年刊)の表紙「寛永十八年の庚申成就塔」である。神橋際の塔で小花波さんの原図だから、小花波さんがこの頃から日光の庚申塔に関心を持って調査されたと思われる。
 『庚申』の3番手は、第25号(昭和36年刊)に載った横田甲一・清水長明両氏編「庚申塔年表(寛文5年まで)補遺第1」で,小花波さんが報告した次の2基を記載する。
   寛永18 板碑型 2猿               神橋際       小花波平六
   慶安X 板碑型 「ア・バン・ウーン」種子     (注 所在地なし) 小花波平六
 続いて第30号(昭和38年刊)には、小花波平六さんが発表された「三猿と庚申」があり、「2猿を刻む初期の庚申塔」に神橋際の寛永18年塔を挙げている。この塔につて「板碑型の中央下部に2匹の猿がむかいあい、(中略)これらの2猿は目も耳も口もおさえていない」と書いている。
 少し間をおいて『庚申』第40号(昭和40年刊)は、表紙に板挽町・浄光寺「寛永十四年の庚申燈籠」を使い、続いて小花波さんの「日光の庚申塔」が掲載されている。10頁に「日光庚申塔年表」がみられ、寛永14年2猿灯籠から延宝8年2猿塔まで18基を所在地なしで列記している。12頁の「猿について」の項では
    二猿塔は、いわゆる下野型の二猿を刻んだものである。よこむきの姿態をした二匹の猿が左
   右から中央にむき合って合掌している。その手の形もいろいろで、両手をかぎ型に屈曲して顔
   の前に出して上部で合掌している形のものもあるし、肩からまっすぐにのばして斜前上方で合
   掌し合っているものもあり、二匹の手が握手したようにくっついているものもあれば、二猿の
   間隔がかなり広くあいて、中央に種子や銘文の入っているものもある。
    二猿の足も、かぎ型に曲げているものもあれば、だらりと下にさげたようになっているもの
   もある。ともかく細部は一定していないが、いずれもよこむきの2匹の猿がむかい合って合掌
   しているのがこの下野型の特徴である。なお下野型と一応よんでいるが、この呼称が果して最
   も妥当かどうかは栃木県下を更に広域に見て歩いた後に決定すべきであろう。しかし、懇話会
   でもすでに耳なれた呼称になっているので、このようなよび方を使用したわけである。と述べている。この頃には、すでに庚申懇話会の中では「下野型」と呼ばれたいたことがわかるが、私が知る限りでは『庚申』に「下野型」が登場するのはこれが初めてある。
 次の41号(昭和40年刊)では、続いて小花波さんが「日光浄光寺の庚申塔」を発表、「浄光寺庚申塔一覧表」を加えている。個々の塔の説明では、「下野型」や「日光型」を使っていない。
 日光の庚申塔が特集されたのは第49号(昭和42年刊)で、表紙に志度渕川筋違橋の延宝8年塔を掲げ、次の目次である
   一、日光昔むかし               武田 久吉        1
   一、日光の庚申塔(改訂)           小花波平六        6
   一、日光の庚申塔年表(市街地分・所在地別)・ 小花波平六・横田甲一   6
   一、日光初期庚申塔年表(造立年月順)   ・ 小花波平六       27
   一、小来川・山久保地区の庚申信仰と塔   ・ 横田 甲一       40
   一、所野付近の塔             ・ 清水 長明      50
  一、日光の庚申以外の塔            横田 甲一      53
 小花波さんの「日光の庚申塔(改訂)」の中で、平野榮次さんと大護八郎さんの『庚申塔』(パール・フォト 真珠書院 昭和42年刊)にふれ、次のように書いている。
    日光へ出かけのは両氏(注 横田甲一・清水長明)ばかりでなく平野榮次氏は庚申塔以外の
   墓石の型なども調べられて、いわゆる「日光型」あるいは「下野型」といわれる塔型の出現し
   た理由を解明されている。
    また最近、会員大護八郎氏の出版された『庚申塔』と題する著作にも『庚申第40号』にか
   いた寛永十四年の庚申塔灯籠の写真など日光のものがかかげれている。
 平野さんについては、別の頁(26〜7頁)で次のようにふれている。
    ところで、この(日光の庚申塔の)特徴が生まれた源流については、会員平野榮次氏は「墓
   石や他の供養塔との関連」という立場から調査研究を進められている。いずれ貴重な発表が本
   誌を飾るものと期待している。
 小花波さんが書かれたようには進まず、実際には、平野さんが『庚申』に論考を発表されることはなかった。
 小花波さんは「日光の庚申塔の特徴」の中で、次のように記している。
    日光の庚申塔の特徴は、と聞かれたら、まず「下野型」とか「日光型」とよばれている塔型
   を答えるであろう。二メートルを越える板碑型や舟型の雄大な塔があること、そして日と月の
   彫刻があること。むかいあいの2猿であること、そして下部に陰刻の蓮華あってそれらがたく
   みに調和して、安定した美しさを保っていること。一言でいえばこれが「下野型」の特徴とい
   えよう。
 さらに「二猿について」の中では、次のように「下野型」を指摘している。
    下野型といわれるものは、陽刻の二猿が、中心にむかいあい、合掌している。猿はよこむき
   で、初期にはすべて上部で中心の梵字仏を拝礼しているような姿態をとっている。状況・元禄
   の頃から二猿が下部におりているものも見あたるが、上部二猿の数の方がずっと多い。
 前後の「日月について」や「蓮華について」で日光の庚申塔の特徴としているが、ことさら「下野型」や「日光型」と強調はしていない。
 小花波さんが「下野型」乃至は「日光型」と呼ぶのは、単に向かい合わせの2猿のみを指して「下野型」とか「日光型」といっているわけではない。次の4点を具備している塔を指している。
   ・ 板碑型や舟型(光背型)の雄大な塔があること。
   ・ 日と月の彫刻があること。
   ・ 向かい合いの2猿であること。
   ・ 下部に陰刻の蓮華があること。
 ただし、日光特集号に掲載されている横田甲一さんの「小来川・山久保地区の庚申信仰と塔」や清水長明さんの「所野付近の塔」には、板碑型で上部に2猿がある庚申塔が含まれているが、理由はわからないが「下野型」や「日光型」の用語が使われていない。
 1号おいた第51号(昭和43年刊)では、横田甲一さんが「日光落穂集」を載せ、4軒町・八幡社の塔を図示してる。年銘は「永」と「三月十五日」を読んでいる。後ろに「日光庚申塔年表 補充」を加え、末尾に補充と訂正がある。
 参考までに、その後に発行された書籍から日光の庚申塔を取り上げたものを示すと、次の通りである。これらには、特に「下野型」や「日光型」にふれていない。
   ○ 平野實『庚申信仰』(角川選書 角川書店 昭和43年刊) 記載なし
   ○ 庚申懇話会『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)
     寛永13 板碑型 日月・合掌2猿「バク 奉庚申供養攸」四軒町 跳石八幡社
     寛永18 板碑型 日月・合掌2猿「奉成就庚申供養所」 神橋北際
   ○ 庚申懇話会『庚申──民間信仰の研究』(同朋舎 昭和53年刊) 記載なし
   ○ 武田久吉『路傍の石仏』(第1法規 昭和53年刊)
     承応2 板碑型 日月・2猿「奉信待庚申各願成就攸」 山内 四本竜寺
     延宝8 柱状型 日月・2猿「奉待庚申供養塔」    清滝 観音堂
     享保5 駒 型 日月・2猿「奉待庚青面金剛供養塔」 清滝 観音堂
   ○ 日本石仏協会『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)
     承応2 板碑型 「奉念青面金剛供養妙塔攸」2猿   匠町 浄光寺
     寛文12 板駒型 日月・2猿 「青面金剛供養」    稲荷町 虚空蔵堂
   ○ 大護8郎『石神信仰』(国書刊行会 昭和 年刊)
     寛永14 燈 籠 「奉納庚申供養攸」         板挽町 浄光寺
     年不明 板碑型 日月・2猿「奉敬禮庚申」蓮華    田面沢 八幡神社
     寛永18 板碑型 合掌2猿              神橋北側
 なお、平成大合併によって今市市は日光市となった。旧・今市市分の庚申塔は
   ○ 今市市歴史民俗資料館『今市の庚申塔』(同館 平成5年刊)に記載されている。
 平成になってからは、田村右品・森田茂の両氏が執筆された「日光山麓の庚申塔──日光・今市・鹿沼市の庚申塔資料」(『日本の石仏』第72号所収 日本石仏協会 平成6年刊)に「日光型」にふれた部分がみられる。「はじめに」に次のように記されている(26頁上段)。
    いわゆる「日光型庚申塔」は、2猿を刻む庚申塔として庚申塔に関心のある全国の方々には
   既に馴染みのものです。その上庚申塔研究の貴重な一分野になっています。
    この庚申塔は、栃木県内においても庚申塔研究にかかせない意味のある一群です。この庚申
   塔は栃木県内においては、造立の最も初期の一群ですし、造立地域は比較的限られた上に造塔
   密度が高く、しかも、二猿像という特徴をもつためです。
    そこで今回は、この「日光型」の発祥地日光と隣接する・交通路によってつながる今市市、
   鹿沼市の「日光型庚申塔」を含む庚申塔をあつかい、庚申塔に関する一資料を提供します。
 他に「日光型」にふれているのは、27頁下段の次の1行である。
   1、一期の寛永十八年に初めて庚申塔(日光型)の造塔をみます。
 「日光型」に関連する2猿を記述した箇所は、28頁下段から次頁上段にかけ次のようにある。
    二猿像庚申塔は日光市山内神橋近く深沙宮脇の塔寛永十八年(1641)にはじまり 日光
   市山内浄光寺の天明二(1782)年まで一四一年間に一二四基の造立をみて、ここで途絶え
   ます。(28頁下段)
    この間に、二猿の位置や形も年の推移にともない変化がみられます。まず、二猿の位置の移
   動です。初期の位置の移動です。初期の塔の二猿は、塔の上部にあって、互いに向き合いなが
   ら塔中央上部の種子をを合掌の姿で敬礼しています。種子(バン・ア等)に象徴されました主
   尊(一定していない)を二猿が拝む姿です。しかし次第に種子はなくなり2猿に位置は下部に
   うつります。そして塔の中央分に書き降ろされた主文「庚申供養塔・青面金剛供養塔」らを拝
   む姿になっています。
    従者の猿が主尊を拝むと思われる意味は失われたのでしょう。
 日光以外にも向かい合わせの2猿が各地で発見されている現在では、栃木県以外で「下野型」とか「日光型」と呼ぶには違和感がある。また、向かい合わせの2猿が「日光型」かどうかも、曖昧な所
   がみられ、文献上に現れにくいのではなかろうか。
 それにつけても、庚申塔研究史で原点的な『庚申塔の研究』にみられず、日光を担当した実弟の清水長明さんが庚申懇話会編の『石仏の旅 東日本編』(雄山閣出版 昭和51年刊)と『石仏を歩く』(JTB日本交通公社出版事業局 平成6年刊)でも「下野型」や「日光型」の名称に1言もふれていない。これは何を意味するのか、ここに問題点が隠されている。
 しかも、長明さんが『石仏の旅 東日本編』の115頁では、「日光の庚申塔」の特徴を5点上げている。それは次の5項目である。
   ・ ほとんどの塔に浮彫の日月がついている。初期の日月には瑞雲がない。
   ・ 猿が向かい合った合掌の二猿であり、上部に彫られている(時代が下ると下部のものもあ
     る)。三猿はまれである。
   ・ 鶏はほとんど見られない。
   ・ 青面金剛像がきわめて少ない。
   ・ 基部に蓮華を大きく刻むものが多い。
 先に小花波さんが指摘した4点、あるいは清水さんの・・・・・の3点から、これが「日光型」と規定するならばともかく、漠然と各地でみられる向かい合っている2猿を「日光型」(あるいは「下野型」)と呼ぶにはかなり抵抗がある。
 会話の中で「日光型」といえば、ある程度イメージが湧くが、日光周辺の地域区分と上部2猿の時代区分をミックし、新たな「日光型」庚申塔を定義する必要があろう。そうした定義が妥当ならば、1般にも「日光型」(あるいは「下野型」)が通用すると考えられる。
 武田久吉博士が『庚申』第49号に「日光山昔むかし」を書かれたように、博士は小学高等科の生徒で明治29年に避暑に日光へ行かれ、日光との交流がみられる。また、『庚申』創刊号の年表に「武田久吉氏『写真文化』昭和十七年二月号」と記され、植物学者の分類思考を考慮して当初、武田博士が「下野型」の名付け親かと思った。
 しかし「下野型」は後に「日光型」になるが、小花波平六さん以外に使われていない。何分に武田博士にしろ、小花波さんにしろ亡くなっているので聞くわけにはいかない。さらに名前が出てくる清水長輝さん・横田甲一さん・平野榮次さんも鬼籍に入られた。その頃の事情を知るのは、清水長明さんか芦田正次郎さん位に限られてくる。
 庚申懇話会に私が入会したのが昭和38年、42年に発行された日光特集号のガリ版を切ったのは私で、当時は青梅市内の獅子舞を調査を始めた時期で、日光の庚申塔には関心がなかった頃である。「下野型」や「日光型」を聞いたことはあるものの、興味はなかったといってもよい。
 小花波さんが『庚申』に発表された文面からは、小花波さんが命名者のようには受け取れないが、「下野型」はとかく、現時点では小花波さんが「日光型」と命名したと考えられる。また、庚申懇話会の中で話には出ても、『庚申』に掲載された論考の中に、小花波さん以外「下野型」や「日光型」の用語が使われていないのも不自然である。
 恐らく生存されていないと思うけれども、栃木県内の古い石佛調査者にも聞かなければならない。何でもないようなことでも、いざ調べてみても中々難しものである。(平成19・8・6記)
『路傍の石仏』

 当初、私は「下野型」の名付け親が武田久吉博士ではないか、と思った。庚申懇話会の例会で博士が日光と密接な関係があったことを聞いていたからである。また、『庚申』第49号(庚申懇話会昭和42年刊)の「日光特集」号の巻頭には「日光昔むかし」を載せ、明治29年の小学生の頃に日光へ避暑に行った縁の地である。
 『庚申』創刊号(昭和34年刊)の庚申編集部編の「庚申塔年表(其の1)」には、山内・四本竜寺の承応2年板碑型塔が載り、備考に「武田久吉氏『写真文化』昭和十七年二月号」と記されている。さらに清水長輝さんの『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)の「庚申塔年表(寛文5年まで)」に中には、前記の承応2年塔の報告者欄に「武田久吉氏」と記載されている(244頁)。
 博士の著作『路傍の石仏』は、昭和46年3月に第一法規から出版された。これには、次の日光の庚申塔が3基みられる。
   1 承応2 板碑型 日月・2猿「奉信待庚申各願成就攸」 山内 四本竜寺
   2 延宝8 柱状型 日月・2猿「奉待庚申供養塔」    清滝 観音堂
   3 享保5 駒 型 日月・2猿「奉待庚青面金剛供養塔」 清滝 観音堂
 1は194頁に写真が掲げられ、194頁に次のように記している。
   上部に月日を浮彫りにし、その下に2猿が向かい合って、これも浮彫りとなっている。
 2は238頁に写真があり、236頁に
   上部左右に弍地偈津を、中央に迦の梵字、その下に2猿が相対、左のは手に何か持っている。とあり、3は2の右下に写真を載せて237頁には
   上部左右に日月、その下に2猿が相対して手をつなぎ、その上に壺のような小体を捧げている。と書かれている。
 これら3基の庚申塔は、小花波平六さんがいう「下野型」や「日光型」に合致していない。小花波さんの条件は、次の4点を具備している塔を指している。
   ・ 板碑型や舟型の雄大な塔があること。 ・ 日と月の彫刻があること。
   ・ 向かい合いの2猿であること。    ・ 下部に陰刻の蓮華があること。
 1は・・・・・の3点はパスするが、・に欠ける。2と3は・と・に合致するが、・と・は適合しない。つまり「下野型」や「日光型」とはいえない。もし武田博士が「下野型」の命名者であったならば、適合した日光の庚申塔を挙げ、書中で「下野型」にふれているはずである。とすると、博士は「下野型」とも「日光型」とも無縁ではなかろうか。(平成19・8・7記)
『図録 庚申塔』

 「『下野型』と『日光型』」をまとめた後、傍らに置かれた『図録 庚申塔』(揺籃社 平成11年刊)を何気なく取り上げた。384頁の「地域索引」をみると、日光の庚申塔が山内・滝尾神社にある寛永14年塔など9基が記載されている。
 102頁には「50 神橋北側・二猿庚申塔(寛永十八年・1641)」がみられ、次頁に拓本が掲げられている。説明の最後に「日光型」にふれ、次のように記している。
    「日光型」または「下野型」と呼ばれている塔は、細身の駒形塔で、上部に日月を表し、向
   かい合った合掌した2猿を陽刻しているのが特徴とされる。その比率は『庚申−日光特集』に
   よると261基を対象にして約40%の107基を数える。
 また、218頁には「107 清滝・2猿1座庚申塔(延宝8年・1680)を解説し、次頁に拓本を載せている。218頁の上段の終わりから4行目には、この塔は「上部に2猿を置く典型的な日光型の庚申塔」の文章がある。
 庚申懇話会の小花波平六さんが会誌『庚申』第49号(昭和42年刊)の中で挙げた「日光型」要件4点セット(塔形と大きさ・日月の陽刻・向かい合わせ2猿・蓮華陰刻)からすると、神橋の塔は、日月が揃わない点で多少の問題点がないわけではない。また、清滝の塔の下部に陰刻の蓮華がなく、果して「典型的な日光型」といえるか、の疑問点が生じる。(平成19・8・7記)
栃木文化財視察旅行

 平成12年10月18日(水曜日)と19日(木曜日)の両日は、青梅市文化財保護審議委員会の視察旅行に参加する。視察の目的は栃木県下の文化財が対象である。具体的にいうと栃木市の山車会館と蔵造りの街、日光市の東照宮など2社1寺、今市市(当時)の日光杉並街道の視察見学である。
 一般的には「日光型」あるいは「下野型」といえば、向かい合わせの2猿に力点が置かる。庚申懇話会の小花波平六さんがいう「日光型」は、向かい合わせの2猿の他に3要素(塔形と大型・上部の陽刻の日月・下部の陰刻の蓮華)を挙げている。ところが、2猿以外の条件は無視されているきらいがある。私自身も2猿の姿態を「日光型」と理解し、塔形や陽刻の日月、あるいは下部に陰刻された蓮華にまで考えが及んでいないかった。
 その証拠に『平成十二年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成12年刊)に集録した「栃木文化財視察旅行」をみると、向かい合わせの2猿=「日光型」として報告を記している。「日光型」や「下野型」のとらえ方が浅かったことを示している。
 第1日目の18日は、社寺見学の前に神橋前の寛永18年塔1基をみたに過ぎない。翌19日は、朝風呂後に神橋前を訪ね、前日みただけだった次の塔を間近で調べた。
     1 寛永18 板碑型 「バンキリーク○ 奉成就庚申供養所」2猿・蓮華  117×53
    1は、日光型(下野型ともいう)の向かい合わせの2猿(像高10cm)が塔の中央に陽刻され
   ているのが特徴である。上部の「バン」が小さく、その下に並ぶ「キリーク」と「○」が大き
   い。中央には「奉成就」とあり、「就」の左右に「庚申」、2猿像があって「供養所」の主銘
   、下に「敬白」と刻まれている。下部には、主銘の右に7名、左に6名の施主銘があり、底部
   に蓮華の陰刻がみられる。主銘の左右には、年銘「寛永十八年」と「辛巳卯月廾三日」がある
   。
    この塔だけでは7時30分の朝食までにまだ時間があるので、近くの上鉢石町の星の宮を訪
   ね、境内にある次の5基の庚申塔()を調べる。社殿に向かって右側には
     2 慶安3 駒 型 日月・2猿「ア バン ウーン」蓮華    157×59×31
   
     3 宝暦8 笠付型 日月・2猿「アーンク 青面金剛供養塔」   77×25×25
   の2基があり、左側には次の3基が並ぶ。
     4 昭和55 柱状型 「庚 申」                 75×30×27
     5 元禄11 柱状型 日月「ウーン 青面金剛供養」2猿     125×39×23
     6 貞享4 笠付型 日月「キリーク 青面金剛供養攸」2猿   143×35×38
    2は、上部に日月と2猿(像高13cm)があり、主銘が「ア バン ウーン」の種子、その横
   の左右に「汝等所行/是菩薩道」「漸々修覺/悉當成佛」の偈文、その外側に年銘「慶安三庚
   寅暦」と「小春如意日」、下部には2段にわたって17人の施主銘、下段中央に「敬白」、底
   部に蓮華が陰刻されている。2を含めて、ここの2猿は日光型である。
     (3の宝暦塔と4の昭和塔の明細は省略する)
    5は、上部に日月を浮き彫りし、中央に「ウーン 青面金剛供養」の主銘、その下に向かい
   合わせの2猿(日光型 像高12cm)を陽刻する。主銘の左右に「元禄十一戊寅歳」と「2月吉
   祥日日」、下部に「安行院□□」の他に9人の施主銘を刻む。
    6は、上部に日月の陽刻、中央に「キリーク 青面金剛供養攸 敬白」の主銘、下部に日光
   型2猿(像高12cm)がある。主銘の横には、年銘の「貞享四丁卯年」「十月吉日」があり、右
   側面に5人、左側面に1人の施主銘がみられる。
 朝食時間が近づいたので一旦ホテルに戻って食事を済ませ、食後、出発まで約1時間を利用し、神橋前の塔を再度撮影する。その後は大工町の岩裂神社へ向かい、社殿の裏手にある庚申塔12基と文字道祖神1基を調べる。銘文のメモを簡略にしたが、思ったより計測と撮影に時間を取られ、6基はただ写真を撮るだけでタイム・アップ、途中から駈けてやっとバス出発5分前にホテルに戻る。ここの塔については、塔のデータを並べただで詳細をしるしていない。
 第2日目の日程は今市市(当時)の日光杉並木街道の視察、最初に市立歴史民俗資料館を訪ね、並木の成り立ちや歴史についてレクチャーを受ける。資料館を辞して向かったのが杉並木公園、県の担当職員から園内の民家で杉並木の現状や保護施策について聞く。その後で杉並木街道を散策し、保護施策の現状を実見する。
 視察が終わってから自由行動となり、並木と公園を散歩する。園内には石佛がみられ、如意輪観音が主尊の十九夜塔2基(寛保3年丸彫り塔と年不明光背型塔)と次の庚申塔をみた。
     20 年不明 柱状型 日月・2猿                 45×34 20は上部
   に日月、下部に日光型の2猿(像高14cm)を陽刻する。塔面に銘文が彫られた形跡がみられる
   が、何分にも彫りが浅く、その上に逆光で読めない。
 以上、「日光型」の関係部分を抄出してみた通り、向かい合わせの2猿を「日光型」としている。たまたま庚申塔の所在地が日光市内であったらよいようなもので、他の場所で「日光型」と使った問題になる。「日光型」の規定に対する認識が甘かったと反省している。これも瀧澤龍雄さんの問題提起がなかったら、そのまま見過ごしていたことになる。(平成19・8・7記)
縣敏夫さんの来信

 平成19年8月10日(金曜日)は、新宿のワープロ修理から戻ると、多摩石仏の会の縣敏夫さんからお手紙が届いていた。原稿を書いたばかりの「下野型と日光型」をお送りしたところ、早速、ご返事をいただいた。
 お手紙の中で私が気がつかった点を、縣さんが興味ある指摘をされている。その部分をお手紙(原文は横書き)から引用してみると、次の通りである。
   庚申懇話会の人々が調査に集中した頃は、下野全般の庚申塔が明らかでなく、小花波さんが初
   めに「下野型」と呼称したので、尊稿もそれを請て『「下野型」と「日光型」』となった思い
   ますが、初めに呼称した「下野型」は今となって、下野全般が見えてきた現在は「日光型」に
   落ち着くと思もい、失礼ながら「下野型」を印象づけ、適切でない表題であると思いました。
 確かに縣さんが指摘されるように、当時は栃木県の庚申塔調査は日光周辺に限られ、呼称として「下野型」は、大風呂敷を拡げた感がある。現在からみれば、呼称が「日光型」であるのが適切かもしれないが、研究史的には先行した「下野型」を無視できないと思う。
 別の箇所では、縣さんが命名者に関して次の興味深い指摘がある。
    ご指摘の通り、庚申40号に小花波さんが「下野型」と述べているのですから、小花波さん
   が言い出したことになります。しかし、懇話会で話題になっていたものを小花波さんが活字に
   したとも思います。私は横田さんが一纏めに名称を当てるのが得意なので、横田さんが言い出
   し、小花波さんさんが受け入れたとも思っていました。
 『庚申』第40号(昭和36年刊)には、小花波さんの「日光の庚申塔」掲載され、その中で、小花波さんは次のように書いている。
    なお下野型と一応よんでいるが、この呼称が果して最も妥当かどうかは栃木県下を更に広域
   に見て歩いた後に決定すべきであろう。しかし、懇話会でもすでに耳なれた呼称になっている
   ので、このようなよび方を使用したわけである。
 この一文から、縣さんは「横田さんが言い出し、小花波さんさんが受け入れた」と感じ取っていたと考えられる。
 また、縣さんは次のようにも述べている。
    追悼号にも述べましたが、小花波さんの日光型庚申塔の調査の先鞭を付けたのは評価される
   べき事柄と思います。
 因みに文中の「追悼号」は、庚申懇話会が7月15日に発行した『庚申』131号「小花波平六会長追悼特別号を指す。縣さんが書かれた「小花波平六さんの業績」の中で
    小花波さんは仏典及び民俗学に精通し、文献紹介での功績は大きいものがあった。また「日
   光の庚申塔」をいち早く調査紹介をした功績も大きい。と記している。
 日光の庚申塔については、戦前に武田久吉博士、戦後に清水長輝さんが四本龍寺の古い庚申塔を紹介してるが、小花波さんの原図で神橋際の塔が『庚申』第17号(昭和35年刊)の表紙に使われている。この後も、同誌第30号(昭和38年刊)に小花波さんの「三猿と庚申」が発表され、第40号(昭和36年刊)に板挽町・浄光寺「寛永十四年の庚申燈籠」の表紙、続いて小花波さんの「日光の庚申塔」が掲載されている。41号(昭和40年刊)では、小花波さんの「日光浄光寺の庚申塔」が載り、第49号(昭和42年刊)の発行につながる。
 縣さんは、小花波さんのこうした一連から「日光型庚申塔の調査の先鞭」と評価している。
 いずれにしても、今回の縣さんのお手紙により、今まで私が気付かなかった点が明らかになった。(平成19・8・12記)
芦田正次郎さんの来信

 平成19年8月11日(土曜日)は、前日の縣敏夫さんの来信に続き、庚申懇話会の芦田正次郎さんからお手紙を受け取る。縣さんと同様に「下野型と日光型」をお送りしたところ、早速、ご返信をいただいたのである。
 先ず、芦田さんにお手紙の冒頭で私のウッカリミスが指摘される。「下野型と日光型」では、清水長明さんが庚申懇話会編の『石仏の旅 東日本編』(雄山閣出版 昭和51年刊)と『石仏を歩く』(JTB日本交通公社出版事業局 平成6年刊)で日光を担当され、そこで「下野型」や「日光型」の名称に1言もふれていない、と記した。ところが、庚申懇話会編の『石仏の旅 東日本編』と『石仏を歩く』の間に『全国、石仏を歩く』(雄山閣出版 平成2年刊)が発行され、私はこの本を見逃していた。
 『全国、石仏を歩く』では、私も「秩父観音霊場と石仏」など6編と「石仏豆辞典」を執筆している。それなのに、この本を落としていたとは大きなミスである。しかも「日光の庚申塔」を清水長明さんが担当され、後で引用するように文中で「下野型と「日光型」の用語が使われている。
 清水さんの「日光の庚申塔」では、初めに「日光の庚申塔の特徴」が掲げられ、50頁の文中に次のように記されている。
    ところで日光の庚申塔(概ね二百六十基)には、庚申塔の主役ともいえる3猿と青面金剛像
   (青面金剛の文字は承応2年初出)が数えるほぢか見られない、いわば特異な地帯なのである
   。と、日光の「特異な地帯」を指摘した上で、2猿や「日光型」などにふれている。すなわち
    それでは日光の庚申塔の特色はなにか。まずあげれるのは、2匹の猿である。塔の上部(江
   戸中期以降は下部のものもある)に合掌したり、両手をさしのべたり、宝珠や壺のようなもの
   を持ったりして向かい合う猿の浮彫りなのである。この2猿の形態はいつか「下野型」とか「
   日光型」とか呼ばれるようになっが、今日その呼称はおおむね「日光型」に定着したようであ
   る。(以下、日月や瑞雲、蓮華の特徴が述べられているが省略する)の通りである。これを踏まえて、芦田さんは次のように結論付けてお手紙に記している。
    命名者はというと、庚申懇話会初期の会合で、時期といえば先生の御調べになった『庚申』
   第40号、昭和36年以前ということ(「下野型」)、および大護八郎先生の『庚申塔』昭和42
   年以前(「日光型」)というのが正確な回答といえます。
 この後で芦田さんは、命名者を「庚申懇話会の会合」とした理由を次のように述べている。
    庚申懇話会の初期に、会合から会合までの間に自分達が見た庚申塔の発表雑談会でした。(
   窪先生の庚申信仰の研究というより説明会)で勿論いわゆる下野型の塔については、小花波先
   生が発表されたと思いますが、当時の雰囲気を思い起こすと、「栃木の方にはこんな塔が多い
   のです」とか、「二猿のこういう形が下野地域には多くあましてね」的な発言だったと思いま
   す。(中間省略)
    これが庚申懇話会の会合(初期は庚申を中心にした雑談会)だったのです。(中間省略)
    私にいわして頂くなら、これが民俗の1典型と考えます。つまり、下野型・日光型に人々を
   注目さたのは小花波先生でも、命名者はその発表を聞いた人々で、それの妥当性が強ければ定
   着してしまうので、考え方では著しい違いのある板碑−板碑型の関係もそうだと思います。
    同じよううな型態でも、多種多様な石仏のすでに定着しるている用語に定義を改めて作って
   も、それ以前の多くの発表物に混乱を生じさせるのではないでしょうか。
 つまり、命名者は当時の庚申懇話会の会合(例会)に出席した人たちで、誰々と特定できない。その会合に出ていた人たちが妥当性を感じ、名称として「下野型」を受け入れたというわけである。これが後に日光の調査が進み、「下野型」よりも「日光型」に変化して今日に至っているといえそうである。
 庚申懇話会が創立されてから数年遅れて私が参加したので、初期の会合の状況は全くわからない。縣さんのお手紙にあった「私は横田さんが1纏めに名称を当てるのが得意なので、横田さんが言い出し、小花波さんさんが受け入れたとも思っていました」の推測と併せ、会の創立から参加されている芦田さんの証言は的を射ている、と思う。これにより、小花波さんの発言「懇話会でもすでに耳なれた呼称になっている」(昭和36年刊の『庚申』第40号「日光の庚申塔」)というのもうなずけてくる。芦田さんの貴重な意見である。
 いずれにしても、当事者の多くが鬼籍に入られた現状では、今のところこれ以上の追求は難しい。単に文献上の字面から判断するだけでなく、当事者の証言を得て表に現れない流れをみつけないと、とんでもない方向に進みかねない。用語一つとっても、一筋縄ではいかない。(平成19・8・12記)
 
あとがき
     
      「中山さんの庚申塔年表」は、多摩石仏の会の中山正義さんが調査、作成された栃木県
     の寛文年間と延宝年間の庚申塔年表である。戸向朝夫さんや瀧澤龍雄さんの協力で、現在
     まで知られている庚申塔を網羅している。
      「『石佛月報』7月号」は、宇都宮の瀧澤龍雄さんが編集発行されている『石佛月報』
     の7月号を取り上げた。
      「黒磯の石佛写真」は、足立区の笹川義明さんが黒磯市内で撮影された石佛写真を扱っ
     ている。今回は須波切不動尊火祭の終了後に撮られた。
      「『石仏散歩 悠真』2号」は、多摩石仏の会の多田治昭さんが発行する個人誌『石仏
     散歩 悠真』の第28号と第29号の2号にふれた。
      「『下野型』と『日光型』」は、前記の瀧澤さんからの質問を追って「下野型」と「日
     光型」を調べてみた。何気なく使ったいた「日光型」であるが、実際に調べてみると、わ
     からないことが多い。その理由の一つは、関係者の多くがすでにが鬼籍に入られ、直接聞
     き取りできないことである。
      「下野型」と「日光型」と関連して、以下の「『路傍の石仏』」「『図録 庚申塔』」
     「栃木文化財視察旅行」「縣敏夫さんの来信」「芦田正次郎さんの来信」の5編が生まれ
     た。これらを通して、いろいろな発見がある。
      「『下野型』と『日光型』」とその関連を含め、短期間に集中してまとめたので、まだ
     見落としや洩れがあると思う。今後とも追求したい問題である。縣敏夫さんと芦田正次郎
     さんのご協力に感謝したい。
                            ─────────────────
                             石佛雑記ノート12
                               発行日 平成19年8月30日
                               TXT 平成19年9月21日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 多摩野佛研究会
                            ─────────────────
 
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