石川博司著  石佛雑記ノート 13   発行 多摩野佛研究会
目次     ◎ 中山さんの埼玉年表   ◎ 望月の念三夜塔再考   ◎ 成田山霊宝館の三尊像
        ◎ 松川村と穂高駅前     ◎ 穂高の道祖神巡り     ◎ 『石仏散歩 悠真』30・31
        ◎ 瀧澤さんの「日光型」             あとがき
中山さんの埼玉年表

 平成19年8月17日(金曜日)には、埼玉県春日部市の中山正義さんから『埼玉県寛文庚申塔年表』と『埼玉県寛文の庚申塔年表』を受け取った。先月11日(水曜日)の『栃木県寛文の庚申塔年表』と『栃木県寛文の庚申塔年表』に続くものである。
 今回の『埼玉県寛文庚申塔年表』は、さいたま市見沼区片柳路傍に寛文元年3猿塔から始まり、上尾市領家元原組中井墓地の寛文13年文字塔までと、それに寛文の年銘が確定できないさいたま市南区太田窪氷川社脇の4手青面金剛塔の1基を含めて189基を記録している。
 庚申塔初期の主尊混乱は、青面金剛以外の主尊として次に挙げる佛・菩薩・明王を宛てていることからもうかがえる。年表の寛文塔189基中からそうした主尊を抽出すと、次の通りである。
   釈迦如来 寛文11 光背型 「奉造立庚申供養」3猿   東松山市宮鼻 路傍
   阿弥陀如来寛文3 光背型 「奉待庚申講人数」     越谷市宮本町1 地蔵院跡
        寛文3 光背型 「為庚申待供養也」     越谷市西荒井 西教院
        寛文3 板碑型 「奉弥陀一基庚人数」    春日部市中野 阿弥陀堂
        寛文4 光背型 「庚申講為奉供養」     越谷市越谷5−4 阿弥陀堂
        寛文5 光背型 「奉待庚申講人数」     越谷市明神町2 薬師堂跡
        寛文5 光背型 3猿・2鶏         鳩ヶ谷市南3−15 実正寺
        寛文9 丸 彫 庚申供養二世安楽所」3猿  八潮市南川崎 専称寺
        寛文12 笠付型 3猿・2鶏         川口市桶の口 地蔵堂
        寛文12 光背型 「庚申供養所」       志木市柏町3−6 氷川神社
        寛文13 光背型 「奉造立庚申塔」      東松山市下唐子 下田家墓地
        寛文13 板碑型 「かのえ供養」2鶏・3猿  さいたま市中央区大戸 不動堂
        寛文13 光背型 「奉待庚申現當」      三郷市高州1 大山家
   薬師如来 寛文9 光背型 「庚申供養」        さいたま市岩槻区馬込 満蔵寺
        寛文10 光背型 天蓋「庚申為逆修菩提」   蕨市錦町6−5 堂山墓地
        寛文11 光背型 「諸願三彭伏」       志木市柏町3 氷川神社
   聖観音  寛文5 光背型 廾一佛種子「庚申供養」   八潮市南川崎 専称寺
   地蔵菩薩 寛文2 丸 彫 「申供養」         草加市弁天町 観正院
        寛文3 光背型 「庚申結衆」        三郷市天神町 地蔵堂
        寛文4 光背型 「奉造立庚申供養」     鳩ヶ谷市南2−8 阿弥陀堂
        寛文5 光背型 「奉待庚申三ケ年」     川口市青木2−21 長堤寺跡
        寛文5 光背型 「庚申念佛廾三夜百堂」   さいたま市岩槻区南下新井福巖寺
        寛文7 光背型 「庚申供養」        三郷市早稲田8−15 光福院
        寛文7 光背型 「奉供養庚申為二世結集」  越谷市大成町6 浄音寺
        寛文8 光背型 「奉庚申供養二世安楽」   川口市榛松 不動院
        寛文9 光背型 「待供養」         さいたま市南区円正寺 墓地
        寛文9 光背型 「奉造立庚申講結衆」    さいたま市桜区道場3 金剛寺跡
        寛文9 光背型 「念佛并庚之供養」     越谷市大泊 千手観音堂
        寛文9 丸 彫 「庚申供養地蔵菩薩」    杉戸町堤根 九品寺跡墓地
        寛文10 光背型 「奉待正面金剛二世安楽」  三郷市仁蔵 岩間家墓地
        寛文10 光背型 「庚申之供養二世成就所」  越谷市六左町2 稲荷神社
        寛文11 光背型 (合掌)「庚講供養」    越谷市北川崎 聖徳寺墓地
        寛文12 光背型 「為庚申供養逆修善根」   川口市安行 持宝院
        寛文12 光背型 「奉庚申供養」       杉戸町堤根 墓地
        寛文12 光背型 「地蔵庚申衆二世」     川口市舟戸町1 善光寺
        寛文13 光背型 日月(地元で庚申さんと呼ぶ)川島町出丸中郷岡田路傍
   六地蔵  寛文5 石 幢 「奉造立庚申講」      羽生市常木 長光院跡
        寛文5 石 幢 「庚申待今時結願」     鶴ヶ島市上新田前山
   勢至菩薩 寛文2 光背型 「勢至造一躯庚申待」    八潮市八条 清勝院
   不動明王 寛文9 光背型 「庚申供養」        さいたま市岩槻区馬込 満蔵寺
 一方の『埼玉県延宝の仮庚申塔年表』は、越谷市向畑・墓地の延宝元年文字塔から川口市江戸2の4路傍の延宝9年地蔵庚申、それに年数を確定できない2基を加えて293基を列記している。
 延宝年間になると、主尊の混乱も多少は収まってくる。阿弥陀如来主尊は2基、地蔵は8基、聖観音・如意輪観音・勢至菩薩が各1基となる。青面金剛をみても、寛文年間には2手と4手の青面金剛が次の通りである。
   2手青面 寛文12 光背型 3猿            久喜市青毛 鷲宮神社
   4手青面 寛文1 光背型 2鶏・2猿         熊谷市西城93 長慶寺
        寛文3 笠付型 3面・2童子・御幣2猿   さいたま市西区西遊馬 高城寺
        寛文4 光背型 2童子・4薬叉・2鬼・2猿 さいたま市南区広ケ谷戸 路傍
        寛文8 光背型 1鶏・1猿         鳩山町大豆戸 3島神社
        寛文9 光背型 1鬼・3猿・2鶏      川島町白井沼富田 路傍
        寛文10 光背型 1鬼・3猿・2鶏      川島町新堀 路傍
        寛文11 光背型 3猿・2鶏         桶川市川田谷桶詰 観音堂
        寛文13 光背型 1鬼・3猿・2鶏      川越市大中居 高松寺跡
 これが延宝年間には2手像が5基と増えているのに対し、4手像は逆に3基に減っている。しかも延宝年間になると6手像が圧倒的に多くなり、2手や4手の比率は寛文年間に比べて低下する。
 また、寛文年間には通常みられる1般的な塔形の他に次の宝篋印塔や灯籠がみられる。
   宝篋印塔 寛文2 宝篋印塔 2猿           本庄市小島2−4 長松寺
        寛文3 宝篋印塔 「庚申待供養」      熊谷市玉井 前岡墓地
   灯  籠 寛文3 灯 籠 「庚申待1結二世安楽所」  川口市舟戸町1−29 善光寺
        寛文10 灯 籠 「庚申供養二世安楽處」   さいたま市岩槻区尾ケ崎正福寺跡
 これが延宝年間には、次のように宝篋印塔がなくなり、灯籠が半減する。一方では寛文年間にみられない手洗石が登場している。
   灯  籠 延宝2 灯 籠 「庚待」          戸田市美女鵜木2−27 妙厳寺
   手洗石  延宝8 手洗石 「奉待庚申供養」      川口市赤山 山王神社
 以上のように寛文と延宝の年表を分析すると、埼玉県庚申塔の変遷が浮かんでくる。また、地域的な特色がうかがえる。
 両年表の末尾には、市町村合併による資料の所在地を変更する不満が次のように記されている。
   政令指定都市となった、さいたま市(あたしはごたごた市がふさわし名と思うが)4月より区
   制となる為、記入しました。今後、国の押しつけで進められている市町村合併があり後どれ程
   いじることやら。
   その合併した市町村名を入れて訂正しました。
 最近の資料ばかりならば、それほど合併の影響が少ないが、長年調査した多数のデータを訂正する作業は困難を究める。ワープロやパソコンを利用している場合は、一括変換という手があるが、手書き資料ではお手上げである。再調査などの都度、書換えをする必要がある。
 古い資料を使う時には、所在地に注意する必要がある。自分の住んでいる近辺ならば、市町村合併の情報が入手しやすが、遠隔地の場合はよほど気をつけなければならない。引用の場合は、一々注釈をつけるように考慮すべきかもしれない。(平成19・8・22記)
望月の念三夜塔再考

 平成19年8月18日(土曜日)に、小諸市にお住まいの岡村知彦さんからお手紙を受取る。「望月の念三夜塔」と「望月の庚申塔」が載った『石佛雑記ノート10』(多摩野佛研究会 平成19年刊)をお送りしたところ、「念三夜塔」と「六道四生塔」についていろいろとご教示いただく。
 『石佛雑記ノート10』の「あとがき」で、私は次のように書いた。
    「望月の念三夜塔」と「望月の庚申塔」は、去る7月の石仏談話室で野口進さんが話された
   「長野県も望月町の石仏」がきっかけで、小林巳知さんのご教示や岡村知彦さんの著作を利用
   してまとめたものである。
 限られたスペースなので誤解が生ずるから「あとがき」を補足しておくと、「望月の念三夜塔」は小林巳知さんのご教示、「望月の庚申塔」は岡村知彦さんの著作『佐久地方の庚申塔』(私家版 平成19年刊)を利用してまとめたものである。
 今年7月7日(土曜日)に豊島区の東京芸術劇場でで石仏談話室が開催され、野口進さんが「長野県望月町の石仏」を話されたのたが発端である。通常、「念三夜塔」といえば、「二十三夜塔」を指す。『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)の「二十三夜塔」の文字塔では「念三夜塔」にふれず、『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)の「月待塔〈11〉二十三夜塔」の中にも、「念三夜塔」の記述がない。
 ところが野口さんが指摘するように、『続日本石仏図典』(国書刊行会 平成7年刊)には、184頁に角田八重子さんが「念三夜塔」を担当執筆されている。その中で「少なくとも佐久地方の念三夜塔は、3日3晩絶え間なく、念佛3眛に浸って踊り念仏の供養塔である」と述べている。
 この念三夜塔の記述に疑念を持っていたので、前記の「望月の念三夜塔」の文末には
    二十三夜塔には「講中」と刻まれいる例が多いが、天神の塔には「當邑婦女社中敬立」の施
   主銘である。普通みられない「社中」銘が気に掛かる。いずれにしても一体、「念三夜」塔は
   月待塔としての二十三夜塔か、それとも念佛塔なのか明確にする史料が出てこないものだろう
   か。(平成19・7・19記)と記した。少なくとも望月町(現・佐久市)の範囲、できれば近隣の市町村を含めて念三夜塔と二十三夜塔を調査しておれば、念三夜塔の正体が明らかにできるが、まったく足を踏み入れていない未知の土地である。
 岡村知彦さんへ『石佛雑記ノート10』をお送りしたのも、佐久地方の念三夜塔の実態をを知っているから、その反応を期待してのことである。18日にいただいたお手紙には、念三夜塔と六道四生塔について書かれていて非常に参考になる。
 先ず六道四生塔についていえば、角田さんの記述には、「六道四生河沙含霊塔」が一遍上人や踊り念仏にちなむ石塔とみされていている。ところが、岡村さんの調査の結論では
    六道四生恒河沙含霊塔は、禅宗の土俗的な万霊塔であり、踊念仏とは全く関わりにない別の
   存在である。である。岡村さんは、小諸市と望月町が各3基、佐久市・臼田町・佐久町が各2基、軽井沢町・八千穂町・小海町の各1基と広範囲に六道四生塔の分布(旧市町村名)を調査をされている。その上で、佐久地方の歴史的背景や塔の分布、曹洞宗のかかわりや地域の伝承を踏まえている。
 肝心の「念三夜塔」についても、岡村さんは、旧市町村分布を小諸市と佐久町の36基を最高に、北相気村の分布0基まで、2市7町6村の佐久地方全体で312基を調査されている。その中で「念三夜塔」は12基あり、内訳は「念三夜」が最も多く7基、次に「念三夜塔」が2基、「念三」「念三待供養」「念参夜待塔」「念三夜供養塔」が各1基である。
 念三夜塔を踊り念佛塔化する根拠の1つに「三日三晩絶え間なく、念佛三眛に浸って踊り念仏」を挙げているが、岡村さんの調査では「三日三晩」ではなく「二夜三日踊り明かす」である。これも「念三夜」を踊り念佛に結びつける根拠を失っている。
 さらに『佐久地方の庚申塔』(私家版 平成19年刊)の441頁には、佐久町大日向本郷・龍興寺に宝永7年8月造立の庚申塔がみられる。銘文に「木師釈迦牟尼佛/庚申待/念三夜/供養塔」とあり、1側面に「南無勢至菩薩」、他の側面に「青面金剛王」と刻んでいる。つまり、「念三夜」の主尊が「勢至菩薩」であることを示している。この1例をみても「念三夜塔」が踊り念佛とは関係がないことがわかる。
 岡村さんは、以上の諸点から、次ぎのように結論つけている。
    以上のことから、佐久に残る念三夜文字の塔は、二十・廿の異文字使用碑であり、踊念仏塔
   とは全く関わりのない存在だ・・というのが私の結論(佐久に住まいするものにとっては、常
   識なのですが)です。『続・図典』中野論は、確たる根拠のないあやふやな推論をもとにした
   推論で、地元民としては戸惑いを禁じ得ません。
 地元の佐久地方を調査研究する方から「念三夜塔」について、「念」は単に「二十」を示す文字であって、踊り根佛と関係がないことを聞くと、やはりという感じがあする・
 この文の題名に「再考」を使ったのは、誤った念三夜塔と踊り念佛との関連を正す意味がある。執筆者として加わった『続日本石仏図典』が強い影響を与えいることは心強いが、反面で誤った記述は地元に悪影響を与える。その意味でも、地元の岡村知彦さんさんに「念三夜塔」や「六道四生塔」、さらに「踊念仏供養塔」や「常行三眛念仏塔」を含めて『続日本石仏図典』の誤りを正していただきたい。近い将来に『日本の石仏』に論考が発表されることを期待したい。(平成19・8・22記)
成田山霊宝館の三尊像

 平成19年8月21日(火曜日)に、市原の町田茂さんからお手紙をいただく。お手紙には、房総石造文化財研究会の会報へ投稿する原稿「東日本初出の蔵王権現?」とその蔵王権現?の写真コピーが同封されている。
 今年3月11日(日曜日)の日本石仏協会「成田不動尊と宗吾霊堂の石仏」見学会では、町田茂さんの案内で成田市内を廻った時に「蔵王権現?」をみている。その時の記録(今年発行の『成田の庚申塔を歩く』収録)には、次のように記した。
    七番目は「平和大塔」の前を通り、「霊宝館」へ行く。館の横に石佛が並んでいる。石佛群
   の右端は、次の庚申文字塔である。
      7 寛政2 柱状型 日月「青面金剛明王」(台石)3猿     70×28×17
    7は正面に「青面金剛明王」、右側面に「寛政二庚戌七月吉祥日」の年銘を彫る。台石正面
   に内向型3猿を浮彫りする。(中略)
    この石佛群の中には舞勢立像を主尊とし、下部に舞勢立像二体を従えた三尊像がみられる。
   蔵王権現かとおもわれるが、主尊の頭部に中国風の兜をかぶっており、足下に蓮華は見当たら
   ないので断定できない。気にかかる三尊石像である
 町田さんが「蔵王権現?」と指摘した石像は、文中の「舞勢立像を主尊とし、下部に舞勢立像2体を従えた三尊像」を指している。
 庚申懇話会編『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)では、私が「蔵王権現」を担当した。当時は刻像塔が大分県5基、奈良県3基、長野県と香川県が各1基が知られていたが、現在はその数が増えているものと思う。
 『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)では、望月友善さんが担当され、文中で奈良県生駒郡3郷町山上の像にふれ、金井竹徳さんが撮られた長野県上田市岩門の像を載せている。いずれも奈良や長野に含まれている尊像である。
 関東地方では、まだ蔵王権現の石像が発見されたとは聞いていないが、青梅市御嶽山の武州御嶽神社の宝物館には、蔵王権現の懸佛が展示されている。それ以外にも、8王子市や青梅市にその種の懸佛が存在する。八王子にしろ青梅にしろ、懸佛はあっても石像はみられない。
 前記の霊宝館の三尊像が、何であるかはわからない。かつて『日本の石仏』第46号は「異形の石仏」を特集した。それに私は「異形の石仏」を投稿している。その中で広島県尾道市日比山町・龍王山の石仏を「異形の石仏」に挙げし、尊名を不明とした(19頁)。これは、右手を高く上げて剣を持ち、左手で羂索を執る舞勢像である(写真は同誌20頁掲載)。
 同県因島市重井町・白滝山には天狗三尊像があるが、これも出自がわからない。龍王山の舞勢像と共に山岳信仰による造像ではないか、と推測している。霊宝館の三尊像も恐らく山岳信仰と関係があり、役の行者が前鬼と後鬼を従えた3尊に造られる影響を受けたのではなかろうか。いずれにしても推測の域を出ない。
 『佛像図彙』には「吉野蔵王權現」を描き、他の舞勢像には「五大力菩薩」や「金剛童子」がみられる。「五大力菩薩」は変化像がみられるようで、上醍醐寺の「五大力」のお札に描かれている。なお、お札の写真は『日本の石仏』第46号17頁に載せた。
 今は霊宝館の三尊像に関する手掛かりが出てこないか、と思っている。(平成19・8・22記)
松川村と穂高駅前

 平成19年8月28日(火曜日)は、妻と2人で長野県北安曇郡松川村を訪ねる。目的は、村内にある安曇野ちひろ美術館である。美術館は絵本作家として活躍したいわさきちひろ(1918〜1974)の絵本原画や油絵など、ちひろの画業を紹介する。
 JR大糸線信濃松川駅で下車。駅員に美術館まで徒歩でどの位の時間がかかるかと聞くと、25分位と答えが返ってくる。この位の時間なら歩くのが適当と思い、美術館へ向かう。途中で早めに左折したために多少は大回りになるが、それが却って幸いする。
 大門橋を渡り、旧道から松川神社の境内に入る。境内と安曇野ちひろ公園の第1駐車場の間に、次の2基が並んでいる。
  道1 平成5 自然石 双体道祖神                77×60
  廾1 平成5 自然石 「二十三夜塔」              93×43
 道1は、表面に童風の男神(像高41cm)と女神(像高39cm)が握手する像を浮彫りする双体道祖神である。裏面に「平成五年十一月吉日建之」の年銘を刻む。
 廾1は、表面に「二十三夜塔」の主銘、裏面に隣の双体道祖神と同じ「平成五年十一月吉日建之」の年銘を彫る。双体道祖神と共に平成の造立である。
 安曇野ちひろ美術館でちひろの画業や世界の絵本、巻物や浮世絵などのコレクションを拝観した後で駅に戻る。帰り道は往路と違ったコースを進む。これも往路と同様に、多少大回りして矢地橋を渡り、国道を越えて駅に出る道を選ぶ。結果的には多少時間がかかったが、下屋敷公会堂の敷地に並ぶ次の3基をみる。
  道2 年不明 光背型 双体道祖神                43×31
  道3 年不明 自然石 双体道祖神                67×60
  廾2 文政4 自然石 「二十三夜」              106×47
 道2は、頂部が欠けた正面に男神(像高34cm)と女神(像高33cm)の袖入り(握手)像を円内に浮彫りする双体道祖神である。牛越嘉人さんの『北安曇の道祖神』(柳沢書苑 昭和48年刊)によると、8頁の「松川村の道祖神分布図」の所在位置、写真説明の「新屋敷11」(12頁)と「同19」(15頁)が寸法の誤差が同じか1cmであるから、道2と道3の所在地が「新屋敷」と記載されている塔に符合する。次の道3と同じく年銘は見当たらないが、牛越さんは道2を「明治2」(12・147頁)と読んでいる。
 道3は、正面に男神(像高40cm)と女神(像高39cm)の祝言像(酒器持ち像)を浮彫りする双体道祖神である。年銘は『北安曇の道祖神』と同様に不明である。
 廾2は正面に主銘の「二十三夜」、裏面に年銘の「文政四巳年十一月」がみられる。
 松川村の道祖神に関しては、私の知るかぎりでは前記の『北安曇の道祖神』が参考になる。松川村の道祖神は一般書や研究書に少ないようである。『安曇野と道祖神』(文一総合出版 昭和54年刊)25頁に椚原の道祖神2基を撮った写真が載っているが、説明に「北安曇郡松川村椚原 (左)天保2(1831)(右)正保元(1644)」(原文は横書き)とある。
 写真をみても正保元年の双体道祖神とは思えない。牛越さんは書中で次のように記している。
   ・正保元年のものはずっと後の作
    緑町から少し北西に入った椚原に、正保元年(1644)と造立年を刻んだ道祖神がある。(写真
   1)銘より見ると、池田町会染中島の弘治(1556)についで北安曇で二番めに古いことになる。
   然し次のような点から、この道祖神はずっと後の、慶応〜明治頃の作と思われる。その一つは
   、銘に「正保元甲申年安置夫より3代之尊神」とあること、次に、像の彫りが穂高町宮城の慶
   応元年(1865)のものや松川村新屋敷の明治2年(1869)のものと極めてよく似ており、同じ頃同
   一石工によって彫られたものと考えられること、もう1つは「帯代三十五両」とあることであ
   る。帯代は普通あまり古いものには無く、文政7年(1824)池田町陸郷天地のものが初めてで、
   天保末(1840)から盛んに見られるようになっているからである。(147頁)
 この文章からみると、年銘に「正保元甲申年」とあり、実体はこの年銘に適合する造像でないと指摘している。椚原の正保元年像はみていないが、写真を一見しておかしね年銘と感じる。

 信濃松山駅から大糸線上り電車に乗車、午後4時頃に穂高駅に着く。駅前にホテルの送迎バスがくるで40分ほど時間があるので、駅前周辺の道祖神巡りを行う。先ず、駅前にある次の道祖神からである。初めて穂高を訪ねた昭和54年8月12日、すでに駅舎近くに双体道祖神があった。次は平成7年4月18日、この時は短時間で駅周辺を周辺を廻り、穂高神社の道祖神を訪ねた。今回は3回目である。
  道4 年不明 自然石 双体道祖神               113×101
 4は男神(像高52cm)と女神(像高46cm)の握手像である。背面をみたが銘文はない。
 駅前の看板に2体とあるが、後の1体がわからない。穂高駅前案内所に寄って聞くと、パソコンスクールの前にあるという答えがある。道祖神巡りの無料マップをもらい、ついでに「道祖神めぐり」のマップを購入(200円)する。駅前の1基は後回しにして穂高神社へ向かう。
 40分程の時間で廻れるのは、この神社にある道祖神である。前回みているから簡単にわかると思ったのが間違いで新しい大鳥居から境内へ入り、ザット境内をみても見当たらない。神社の入口までいくと、次の2基が並んでいる。この時は近くの穂高支所にある双体道祖神には気付かなかった。
   1 寛政7 自然石「庚申」                  99×65
  道5 年不明 自然石 「道祖神」                97×73
 1は正面に「庚申」の主銘、裏面に「寛政七乙卯八月吉日」の年銘を記す。
 道5は正面に「道祖神」の主銘だけで、裏面にも年銘はみられない。
 もっとも、この日3回目の間違いが幸いを呼び、前2回にみなかった庚申塔の発見につながる。
 神社の駅前通りの別の入口から入ると、道祖神群がみられる。
   6 年不明 自然石 双体道祖神                55×46
 6は正面を丸く彫り下げ、中に男神(像高38cm)と女神(像高37cm)の酒器像を浮彫りする。
   7 年不明 柱状型 双体道祖神                78×43×27
 7は正面を花頭形に彫り下げ、中に男神(像高34cm)と女神(像高32cm)酒器像を浮彫りする。
  廾3 文政7 自然石 「二十三夜塔」              59×47
 廾3は正面の中央に大きく「二十三夜塔」の主銘を彫り、その右に「文久七酉□」、左に「九月吉日」の年銘を記す。年銘「□」の部分に「山」と「二」の2字にしているが、「年」を示すものか。
   8 光背型 自然石 双体道祖神                71×37×
 8は女神(像高46cm)と男神(像高47cm)の酒器像を陽刻する。
 以上の4基は、八坂村(現・大町市)から移されたものである。「千国街道(塩の道)と道祖神」の立て札には、「過疎の村里に取り残された道祖神、二十三夜塔を関係者の願いにより由緒の深いこの場所にお祀りいたしました」と記されている。いずれも四手を下げる。
   9 年不明 笠付型 双体道祖神                46×27×18
 9は女神(像高36cm)と男神(像高36cm)の双立像を浮彫りする。四方に角柱を立て、萱の屋根を付け、前柱に縄を張って四手を下げる。この塔の脇に、次の文章を記す説明板が立つ。
   この道祖神は、元は北安曇郡美麻村高出品生にあり、昔から縁結びの道祖神として信仰され、
   一年に一月十五日の道祖神祭を行われていた道祖神です。
 説明文の中にある「美麻村」は、現在は大町市に編入している。
   10 年不明 自然石 双体道祖神                76×37
 10は上部に三角形、続く長方形の枠の中に男神(像高39cm)と女神(像高29cm)の酒器像を浮彫りする。4方に丸柱を立て、萱の屋根を付け、前柱に縄を張って四手を下げる。
   11 年不明 自然石 双体道祖神                73×38
 11は女神(像高36cm)と男神(像高43cm)の2神がが餅を搗く双体道祖神である。杵を持つ男神の横に「道祖神」とある。次の文章を記す説明板が脇に立っている。
   餅搗き道祖神の由来
   群馬県安中市東上秋間二軒茶屋に餅を搗いている男女の双体石像寛政八年(1796)と銘が
   あり、部落では昔から道祖神として崇められてきた。
   杵を男性、臼を女性に見立て、男女の睦事を「餅搗き」とし、夫婦円満の神として祀った。道
   祖神に餅搗き像を思いついた江戸時代の庶民感覚に感心する。
   餅は祭りの供物として最も多く用いられ、又人生の吉凶禍福に餅を搗いて供えられることは極
   めて多い事である。                  寄贈 穂高町有明 田川 博氏
 松本信金穂高支店前に石佛群があるのは、先の鳥居を入る時に気付く。穂高神社の斜め駅寄りあるので反対側の穂高支店前に行く。これらは今回初めてみるものである。
   2 明治28 自然石 「庚申塔」               (計測なし)
   3 年不明 自然石 日月「青面金剛」             95×43
  大1 年不明 自然石 「大黒天」               (計測なし)
  廾4 年不明 自然石 「二十三夜塔」              67×29
  廾5 年不明 自然石 「二十三夜塔」             (計測なし)
  道12 明治19 自然石 双体道祖神                62×42し)
  道13 昭和8 自然石 「道祖神」               (計測なし)
  道14 文政14 自然石 「道祖神」               (計測なし)
 2は中央には「庚申塔」の主銘、下に「講中/六人」の施主銘、右には「明治廾八乙未」、左には「六月廾九日」の年銘を刻む。
 3は中央に「青面金剛」の主銘を彫る。
 大1は主銘が「大黒天」の文字塔である。
 廾4と廾5は中央に「二十三夜塔」の主銘である。
 道12は男神(像高28cm)と女神(像高27cm)の握手像、年銘は読んでいないので「道祖神めぐり」の「穂高町の道祖神1覧」による。次の2基も同じ。
 道13と道14は、外からみただけで中央に「道祖神」の文字塔である。
 駅近くの田舎家の前面には、次の双体道祖神がある。計測は翌日行った。
  道15 年不明 自然石 双体道祖神                64×66
 道15は男神(像高33cm)と女神(像高31cm)の双体道祖神を浮彫りする。この双体像は、すでに昭和54年にみている。
 駅前に戻ると、送迎バスが待っている。広場にある松の木の下には、案内所で聞いた次の道祖神ある。これを慌ただしくみてバスに乗車する。
  道16 昭和60 自然石 双体道祖神               112×90
 道16は男神(像高59cm)と女神(像高56cm)の握手像である。裏面の「昭和六十年」の年銘だけを確かめたが、平成7年の時は裏面の銘文には気付かなかった。計測は翌日に行う。(平成19・8・30記)
穂高の道祖神巡り

 平成19年8月29日(水曜日)は、ホテル午前9時30分発の送迎バスで穂高駅前にでる。途中、烏川に架かる烏川橋の親柱4本に双体道祖神が使われている。この親柱の道祖神は、平成7年に穂高を再訪した時にみた。
 日本石仏協会の『日本の石仏』第103号(平成14年刊)は「道祖神再考」の特集である。その号に「双体道祖神今昔」を投稿、その中の47頁に次のように記した。
   穂高駅からホテルまでの送迎バスの車窓から、烏川橋の4か所に標柱代わりに自然石の双体道
   祖神が置かれているのがみえた。車窓からみただけなので、造立の年月は不明である。
 文中の「穂高駅からホテルまで」は記憶間違い、今回と同様に逆の「ホテルから穂高駅まで」が正しい。この日、大王わさび農場から「水色の時」の道祖神へ向かう途中、等々力大橋の4か所に親柱代わりに双体道祖神が4基使われている。
 穂高駅で帰りの切符を手配し、観光案内所で大王わさび農場までの時間などの情報を得る。その中で農場に中に双体道祖神6基があると聞き、大きな収穫となる。10時に近くの久田自転車店で自転車を借り、大王わさび農場へ向けて出発する。
 東光寺の手前の等々力路傍には、次の2基が並んでいる。
  道1 文政2 自然石 双体道祖神               104×68
  廾1 文政2 自然石 「二十三夜塔」             123×94
 道1は三角屋根の下に縦長の長方形の枠を作り、その中に男神(像高44cm)と女神(像高43cm)の酒器像、右脇に「若者中」、左脇に「文政二卯年/二月吉日」の年銘を刻む。
 廾1は正面に主銘の「二十三夜塔」、背面に「維時文政二己卯年/二月廾四日」の年銘を彫る。
 次に訪ねたのは等々力・東光寺、入口にある石垣の基壇の上に次の石佛4基が並んでいる。
  道2 文政2 自然石 双体道祖神                86×53
  廾2 安政6 自然石 「弐十三夜塔」              83×47
  大1 元治1 自然石 「大黒天」                76×61
   1 年不明 光背型 (頂部決)青面金剛            90×44
 道2は道1同様に縦長の長方形の枠内に男神(像高36cm)と女神(像高36cm)が握手する立像を陽刻し、横に「文政二己卯年/二月吉日/内堀若者中」の銘がみられる。
 廾2は正面に「弐十三夜塔」の主銘、裏面に「安政六未十月吉日」の年銘を記す。
 大1は正面に「大黒天」、背面に「元治元甲子/十一月吉日/下村中」の年銘と施主銘を彫る。
 1は頂部が欠けて首がセメントで補修された剣人6手立像(像高71cm)を浮彫りし、日月や3猿は見当たらず、銘文もない。
 大王わさび農場までは妻と一緒に自転車で行動したが、駐輪場からは別行動をとる。場内にある案内図に石佛の場所が示されている。魏石鬼八面大王立像と脇侍の鬼坐像の丸彫り3体をみてから、先ず1基の所へ行く。
  道3 現代作 自然石 双体道祖神                68×101
 道3は、男神(像高41cm)と女神(像高41cm)が握手した坐像である。
 次いで、駅前の観光案内所で聞いた双体道祖神6基が並ぶ場所を訪ねる。
  道4 現代作 自然石 双体道祖神                74×97
 道4は、半円の中に男神(像高36cm)と女神(像高31cm)の酒器像を浮彫りし、道3と異なり以下の6基共に立像である。
  道5 現代作 自然石 双体道祖神                90×71
 道5は、上部が丸みを帯びた枠の内に男神(像高47cm)と女神(像高41cm)の握手像を陽刻する。
  道6 現代作 自然石 双体道祖神                98×82
 道6は円を彫り込み、中に男神(像高48cm)と女神(像高45cm)が合掌立像を浮彫りする。
  道7 現代作 自然石 双体道祖神               182
 道7は、道5のように上部が丸みを帯びた枠の内に男神(像高95cm)と女神(像高72cm)の酒器像を浮彫りする。
  道8 現代作 自然石 双体道祖神               108×111
 道8は、円の枠の中に男神(像高47cm)と女神(像高41cm)の握手像を陽刻する。
  道9 現代作 自然石 双体道祖神                76×92
 道9はこれまでの枠と違い、下部が広い五角形の枠内に男神(像高38cm)と女神(像高36cm)の握手像を浮彫りする。
 続いて場内を廻ると、レストランの近くに次の道祖神がある。
  道10 現代作 自然石 双体道祖神               106×50
 道10は上部が縦に3つ、横に4つのの12の格子窓があり、下の花頭状の彫り込みの中に男神(像高37cm)と女神(像高36cm)の袖入れ握手立像を陽刻する。
 場内にはもう1基、ワサビ田をバックに次の双体道祖神がみられる。
  道11 現代作 自然石 双体道祖神               (計測なし)
 道11は、花頭状の彫り込みの枠内に男神と女神の握手像を浮彫りする。
 大王わさび農場を出て交差点を右折、MHKの朝ドラ「水色の時」の画面に登場した道祖神へ向かう。途中の等々力大橋の親柱には、朝のバスでみたように双体道祖神が用いられている。
  道参 現代作 自然石 双体道祖神               142×179
 道参は橋を渡った左側の1体で、男神(像高97cm)と女神(像高100cm)の握手像、現代の作に間違いないが、橋の竣工が平成6年だから、他の3体共にその頃に作られたと像と推測される。
 等々力・道祖神公園には、「水色の時」の画面に出た道祖神が大小2基ある。
  道12 昭和53 自然石 双体道祖神                63×30
  道13 昭和53 自然石 双体道祖神                43×20
 道11は男神(像高47cm)と女神(像高43cm)の握手像、年銘は刻まれていないが、道祖神めぐりの「穂高町の道祖神一覧」によると、昭和53年と記されている。
 道12は男神(像高29cm)と女神(像高26cm)の握手像、年銘は前の像と同じく一覧による。道11と頭部や顔面に違いがみられ、像の周りの彫りが荒い。
 道祖神公園から気の向くままに進んだのが災いし、方角がわからくなる。地元の方に教えていただき、やっと国道へ出て矢原を目指す。またも道を間違えて白金に出て、泉柳庵近くにあるトタン屋根の下、石垣の基壇の上に並ぶ次の石佛3基をみる。
   2 年不明 光背型 日月・青面金剛・2鶏・2猿        77×36
  道13 文化3 自然石 双体道祖神                64×37
  廾3 天保6 自然石 「二十三夜塔」             127×61
 2は上方手に剣と宝珠、下方手に索と人身を執る変則的な剣人四手立像(像高55cm)、下部に向かい合わせの2鶏と2猿(像高14cm)を浮彫りする。
 道13は屋根部と軒や柱が線刻され、縦長の枠の中に男神(像高34cm)と女神(像高33cm)の握手像があり、右脇に「文化3丙寅正月」の銘がある。
 廾3は正面に「二十三夜塔」の主銘、背面に「天保六乙未年/二月吉日/村中」と記す。
 道を返して矢原に入り、先ず覆屋根の下にある次の彩色された道祖神をみる。
  道14 明治25 自然石 双体道祖神                89×85
 道14は空色の着物の男神(像高52cm)と青の着物の女神(像高52cm)の彩色酒器像、両神とも神は黒で顔や首は白で彩られている。頂部に丸に一つ矢の紋、右縁に「明治廾五年」、左縁に「辰二月吉日」、下部に横書きで「中木戸」と彫る。紋は白、銘文は黒で彩色されている。
 中木戸に続き、次いで矢原西村の彩色像をみる。
  道15 元治1 自然石 双体道祖神                98×87
 道15は男神(像高48cm)と女神(像高47cm)の彩色酒器像、冠や髪は黒、顔は白で眉や目は黒である。男神は水色、女神はピンクの着物で杯と瓠は金色で彩色されている。右縁に「甲元治元年」、左縁に「子四月吉日」、下部に横書きで「西村中」と記す。頂部の丸に一つ矢紋と銘文が黒である。
 次は東村の双体道祖神である。
  道16 明治30 自然石 双体道祖神                87×82
 道16は男神(像高42cm)と女神(像高41cm)の握手像、中木戸のように頂部に丸に一本矢の紋、右縁に「明治三十年」、左縁に「酉三月吉日」、下部に横書きで「東村中」と刻む。
 続いて覆屋根の下に安置されたこじんまりした次の道祖神。
  道17 年不明 自然石 双体道祖神                42×30
 道17は男神(像高21cm)と女神(像高19cm)の握手像、銘文はみられない。
 次に、覆屋根に下で木柵に囲まれている北村の道祖神をみる。
  道18 安政5 自然石 双体道祖神                96×82
 道18は男神(像高54cm)と女神(像高54cm)の握手像、頂部に紋がなく、右縁には「安政五午年」、左縁には「正月吉日」、下部に横書きで「北村中」とある。
 次は今回最もみたかった彩色像で、トタン屋根の下で木の柵に囲まれて安置されている。隣には二十三夜塔がある。
  廾4 年不明 自然石 「二十三夜塔」              67×48
  道19 元治1 自然石 双体道祖神                89×79
 廾4は正面に「二十三夜塔」の主銘を刻む塔である。
 道19は男神(像高54cm)と女神(像高52cm)の彩色握手像、下部に横書きで「仲間中」とあり、背面に「元治元甲子四月吉日/矢原村」と彫る。カラー写真向きの双体道祖神で、今回初めてカラーで撮る。男神は空色の着物に白の袴、女神は白襟がつく赤の着物である。両神共に冠や髪を黒、眉と目も黒、唇に紅をさして黒の履物である。
 モノクロ写真ではすでに昭和54年に撮り、庚申懇話会編『全国、石仏を歩く』(雄山閣出版 平成2年刊)137頁に掲載した。
 この道祖神については、地元の石田益雄さんは『道祖神をたずねて──穂高』(出版・安曇野 昭和53年刊)の「穂高の神々」の最初に掲げ、11頁から次頁にかけて、次のように述べている。
   この神を見る人は、きっとカラー写真をで撮影したくなる。男神は青や水色、女神は赤やピン
   クや黄色と、エナメルのように光沢のある塗料で彩色され、肌の色までついて、目はパッチリ
   と口紅もきかせてあり、あたかも三月の雛人形を思わせる装いであるからだ。冠や髪、履物や
   足下の「仲間中」の文字の黒がよく全体をひきしめている感じである。四頭身ほどのプロポー
   ションが、あどけなさを感じさせるようだ。
 矢原から等々力へ入り、路傍の基壇の上で横1列に並ぶ次の3基をみる。
  道20 天保10 自然石 双体道祖神                79×61
  廾5 嘉永5 自然石 「二十三夜塔」             126×64
  大2 元治1 自然石 「大黒天」                54×47
 道20は屋根と柱を陰刻し、屋根の下に菊花紋を浮彫りする。屋根下の枠内に衣冠束帯の男神(像高40cm)と長い髪を垂らす女神(像高38cm)の握手像を浮彫りし、銘文は年銘の「天保十己亥年/正月吉日」がみられる。
 廾5は正面が「二十三夜塔」の主銘、裏面が「嘉永五壬子/二月吉祥日/仲間中」の銘がある。
 大2は正面に「大黒天」、背面に「元治甲子年/正月吉日」の年銘。
 次も等々力の路傍にある基壇の上に次の3基が並び、基壇の右下に二十三夜塔1基と馬頭観音が2列18基ある。前列は刻像塔、後列は文字塔である。
 廾6 年不明 自然石 (上欠)「十三夜」            57×52
 道21 明治18 自然石 双体道祖神                86×62
 大3 年不明 自然石 「大黒天」                62×43
 廾7 明治2 自然石 「二十三夜塔」             106×51
 廾6は基壇下にある文字塔、上が欠けた正面に「十三夜」とある。
 道21は線彫りの屋根の下に半菊紋があり、下に衣冠束帯の男神(像高48cm)と長い髪を垂らす女神(像高47cm)が握手する立像である。武田久吉博士の『路傍の石仏』(第一法規 昭和46年刊)には、撮影年代は明らかではないが、過去に彩色された跡がモノクロ写真ながら155頁に載っている。現在は彩色の跡がみられない。背面には「明治十八年乙寅八月建之/帯代金五拾円/等々力耕地仲間中」の銘文を刻む。後でみた駅前の昭和60年双体像には、帯代が「金壱百万円」とある。明治の50円と比較するとどうなのであろうか。
 また、その道祖神については、154頁に次のように記している。
    同県南安曇郡穂高町等々力の南方には、「明治十八年乙酉八月」「帯代金五拾円」「等々力
   耕地仲間中」と背面に刻まれたものがある(写真218)。高さ八八センチばかりの自然石にや
   んを陰刻し、その下に半菊形と菊葉で装飾を施し、下に握手する両神を立たせてあるが、男神
   は衣冠束帯、女神は盛装して、束ねた髪を長く背後に垂らしている。
 この道祖神のように「帯代」を刻む背景には、「道祖神盗み」がある。その事例を本郷の道祖神について同書120頁に次のように紹介している。
    長野県南南安曇郡穂高町の本郷にある一基は(写真176)、高さ一三七センチもある大きな
   尖った自然石に稲荷鳥居を浮彫りにし、その中に両神を立たせたもので、向かって右の男神は
   衣冠束帯、左の女神は束ねた髪を長く垂らし、握手形式であるが、なぜか鳥居や髪などに墨を
   塗ってある。碑石の裏側には、「天保四巳年 貝梅中」と彫ってあるのは、木谷数丁離れた、
   同じ村の貝梅から運んで来たものであることの証明である。
    この道祖神盗みの風習については、昭和十三年十二月に岡書院から発行された民俗学的雑誌
   『ドルメン』第四巻第一〇号に略記したが、さらに詳しい実情は、昭和四十四年十月の『民間
   伝承』二八六に数枚の写真をはさんで記述しておいたから、それを見られれば幸いである。
 大3は正面に「大黒天」と刻む文字塔である。
 廾7は正面に「二十三夜塔」、背面に「明治二己巳年/十月吉日/等々力耕地中」の銘を記す。
朝に山門前の石佛類をみた東光寺であるが、後で境内に「子育て道祖神」があるのを思い出し、再度、東光寺を訪ねる。
  道22 現代作 自然石 3体道祖神                83×51
 道22は、男神(像高36cm)と女神(像高27cm)の間に子供(像高8cm)がいる3体像である。上部に黒字の「子育て/道祖神」と縦2行に彫る。昭和54年には無彩色であったが、今回みると彩色が施されている。男神の冠や眉、目は黒、首下に白の蝶結び、空色の狩衣をきる立像である。間の子供は立像で金色の冠に金色の着物、女神は長い黒髪に眉や目を描き、ピンクの着物の坐像である。
 国道を渡って直ぐの左手に神田町の次の3基(中央の馬頭観音は省略)が並んでいる。
  道23 天保12 自然石 双体道祖神                90×78
  廾8 嘉永2 自然石 「廾三夜塔」               87×74
 道23は彩色の跡が残る屋根と柱を浮彫りし、枠内に男神(像高40cm)と女神(像高39cm)の握手立像を陽刻する。背面に「天保十二辛丑年/閏正月吉日/等々力邑新町中」の銘を刻む。男子の冠や女神の長く垂れる髪の上部に黒が残る。
 この道祖神については、前記の『路傍の石仏』128頁に次のように書かれている。
   同県南安曇郡等々力小字新町にあるものは(写真182)、自然石に屋根と柱を陰刻し、細萱の
   に多少似た形式の両神を立たせてある。(写真は132頁掲載)
 廾8は正面に「廾三夜塔」の主銘、背面に「嘉永二己酉年/六月吉日/等々力新町中」とある。
 サイクリング調査の最後は、旧穂高町役場、現在の安曇野市穂高支所前の路傍に面した敷地内に立つ次の双体道祖神である。
  道24 現代作 自然石 双体道祖神               138×46
 道24は男神(像高78cm)と女神(像高78cm)の握手像、正面の上部に横書きで黒字で「道祖神」、台石の下部に横書きで「穂高町役場」の銘を刻む黒御影石をはめ込む。背面に「寄贈/黒岩石材」の銘だけで、他の銘文はみられない。従って造立年は不明であるが、現代の作である。
 午後2時前に自転車を返し、遅い昼食をご主人が薦める一休庵で蕎麦を食べる。まだ時間があるので、神田町簡易郵便局筋向かいの路傍にある覆屋根下の次の2基をみる。
  道25 慶応2 自然石 双体道祖神                75×64
  道参 年不明 自然石 双体道祖神                18×8
  大4 明治41 自然石 大黒天                  81×70
 道25は男神(像高53cm)と女神(像高53cm)の酒器像、背面に「丙慶應二寅三月吉日/穂高八軒上町/仲間中」と刻む。昭和54年にみた時は彩色されていたが、今回みると彩色の跡が僅かに残って淡い色に仕上がっている。彩色の写真は、モノクロ写真ながら前記『全国、石仏を歩く』140頁に載せている。
 道参は秋葉祠に置かれた黒石製の両神共に像高2cmの双体道祖神ミニチュアーである。
 大4は今回初めての刻像塔、大黒天が俵の上に立つ像(像高56cm)を陽刻し、背面に「明治四十一年戊申十月吉日/穂高八軒町中」の銘を彫る。
 今回の「穂高道祖神巡り」は、ここを最後に穂高駅へ向かう。
 帰りは穂高駅午後3時35分発のスーパーあずさ28号に乗車、八王子で中央線電車に乗換、立川経由で帰宅する。(平成19・8・31記)
『石仏散歩 悠真』30・31

 平成19年8月29日(水曜日)、穂高から帰ると多田治昭さんから『石仏散歩 悠真』第30号と第31号が届いている。第30号は「千葉県成田市周辺の石仏」、第31号は「青面金剛の持物5(宝剣・羂索)」の特集である。
 第30号は、同行した7月28日(土曜日)の成田見学と多田さん単独の8月5日(日曜日)と翌6日(月曜日)の石佛巡りを扱っている。成田の見学は市原の町田茂さんの車で市内を案内していただいた。8月の2日間は成田市・下総町・神崎町・佐原市・大栄町を廻っている。
 7月の成田市内は一緒に廻ったが、多田さんが私の気付かない点を指摘している。例えば、西和泉の百庚申にある年不明青面金剛が執る人身である。「青面金剛の人身は髪の長いのが特徴である」とし、後ろ向きの人身を持つ写真を載せている。普段から青面金剛の持物を写している成果である。
 また「成田市内を廻る」(『石佛雑記ノート11』に収録)では、名古屋・八幡神社の寛文12年塔を「像の右に『施主修□乗法印』、左に『寛文十二□□吉日□□□欽□』の銘」と記した。多田さんは、この銘文を「施主修覚法師・寛文十二年壬子林鐘吉日欽白」と判読している。
 同じ名古屋の路傍にある寛文9年塔は、先の記録では「像の右に『奉待庚申』、左に『奉造立』、下に『寛文九己酉/今月吉日』の銘を刻む」と書いた。多田さんは、この銘文を「奉待庚申数歳所願成就衆□・寛文第九己酉暦・夷則吉日・奉造立青面金剛尊一躰□□□□」と丹念に記録している。なお、上総町と大栄町は昨年3月27日に成田市に編入され、現在は成田市である。
 前記の寛文塔2基を挙げたが、細かくチェックすれば銘文の間違いが出てくる。一方で龍台・百庚申の手前に胎蔵界大日如来坐像があるが、多田さんの記録では無視されている。多田さんも見逃しがあり、目配りが完璧でないの知って一安心する。
 8月の石佛巡りでは、成田市磯部・地蔵堂の寛文元年地蔵庚申、神崎町小松・浄専寺の寛文9年地蔵庚申、佐原市佐原・法界寺の寛文4年弥陀庚申が眼につく。特に浄専寺地蔵庚申は、銘文に「庚申待日記廿日夜廿三夜待」と記す複数の民間信仰がみられる。
 青面金剛では、2手の佐原市大崎・本命寺の寛文2年像と成田市野馬込・水神社の延宝3年像が興味がある。庚申塔では、佐原市佐原・勝徳寺の昭和庚申年塔に注目する。神崎町大貫・興福寺の安政5年淡島大神、成田市吉岡・大慈恩寺の2飛天・獅子付き正徳5年墓碑が珍しい石佛である。
 第31号は「青面金剛の持物」の第5弾、宝剣と羂索が対象である。表紙には今回の特集に相応しい、鎌倉市坂下・御霊神社の宝剣と羂索を執る延宝元年像の写真を掲げている。「まえがき」で「長い刀を持つ塔や剣と刀の両方を持つ塔があり、青面金剛の持物では、剣と刀の区別が必要でしょう」の指摘は、宝輪の時と同様の問題提起である。
 この号には表紙写真が1葉、宝剣の写真が44葉、羂索の写真が16葉の計61葉の写真が掲載され、長短の宝剣と羂索の種々相が伝わってくる。宝剣の写真の中では、さいたま市大崎・太子堂の宝暦7年像が持つのは、反りがあって刃先の形から刀とみられる。刀と剣の区別は、反りや刃先から判断するのであろうか。
 羂索の写真の中では、千葉市中央区生実町・生実神社の延宝5年像が持つ羂索が変わっている。羂索は2重か3重に巻かれいるのが普通であるが、この像の羂索は一重の輪が2つつながっている。また、宮城県南郷町二郷・塩釜神社の元治元年像は二重の輪が重ならずにズレているのも面白い。
 宝剣にしろ羂索にしろ、多くの写真を写真を集めて比較すると、思いがけない造形に出会う。先述の成田市西和泉の百庚申にある青面金剛が後ろ向きの人身を執るのに気付くのも、こうした同種の持物の収集と比較の賜物である。「まえがき」に「青面金剛の持物はまだまだあり、あと何回か続けます」とあるから、次回は何が出てくか、楽しみである。(平成19・9・1記)
瀧澤さんの「日光型」

 平成19年8月30日(木曜日)、宇都宮の瀧澤龍雄さんからメール便が届く。お手紙に添えて瀧澤試案の「日光型の分類名称」、「栃木県旧日光市の江戸前期迄庚申塔」の一覧表、「石造物調査原簿」8枚が封筒に入っている。
 「日光型」問題は7月27日(金曜日)に瀧澤さんから届いたお手紙が発端で、「日光型」の呼称に関心を持った。地元の庚申塔調査を熱心に行っている瀧澤さんにとって「日光型」の呼び名が気になるのであろう。私自身は日光の庚申塔をほとんど調査したことがなく、これまで「日光型」と「下野型」と使っていても誰が命名したかなど考えてもみなった。そこで手許にある資料を整理し、命名の経緯を追ってみた。
 この一応の結果は、多摩野佛研究会発行の『石佛雑記ノート12』(平成12年刊)に発表した。「日光型」についてこの号の「『下野型』と『日光型』」「『路傍の石仏』」「『図録 庚申塔』」「栃木文化財視察旅行」「縣敏夫さんの来信」「芦田正次郎さんの来信」の各項目で取り上げた。
 「下野型」の名称が初めて『庚申』に現れるのは、第40号(昭和40年刊)の小花波さんの「日光の庚申塔」に「2猿塔は、いわゆる下野型の2猿を刻んだもの」である。その後の文章に「細部は一定していないが、いずれもよこむきの2匹の猿がむかい合って合掌しているのがこの下野型の特徴である」としている。
 「下野型」や後の「日光型」は、この第40号の横を向いて向かい合った合掌2猿を引きずっている。従って、「下野型」や「日光型」は、日光の庚申塔の特徴というよりも2猿の形態を表現する用語として使用されてきた。
 ところが、41号(昭和40年刊)の小花波さんの「日光の庚申塔(改訂)」では、次のように「日光型」を「2猿」から「庚申塔」に拡大解釈されて表現している。
    日光の庚申塔の特徴は、と聞かれたら、まず「下野型」とか「日光型」とよばれている塔型
   を答えるであろう。2メートルを越える板碑型や舟型の雄大な塔があること、そして日と月の
   彫刻があること。むかいあいの2猿であること、そして下部に陰刻の蓮華あってそれらがたく
   みに調和して、安定した美しさを保っていること。1言でいえばこれが「下野型」の特徴とい
   えよう。(25頁)
 つまり小花波さんが挙げた「日光型庚申塔」の条件は、次の4点を具備している塔を指している。
   1 板碑型や舟型の雄大な塔があること。 2 日と月の彫刻があること。
   3 向かい合いの2猿であること。    4 下部に陰刻の蓮華があること。
 これを受けて清水長明さんは、庚申懇話会編の『石仏の旅 東日本編』で「日光の庚申塔」を担当し、特徴として115頁で次の5項目を挙げている。
   1 ほとんどの塔に浮彫の日月がついている。初期の日月には瑞雲がない。
   2 猿が向かい合った合掌の2猿であり、上部に彫られている(時代が下ると下部のものもあ
     る)。3猿はまれである。
   3 鶏はほとんど見られない。
   4 青面金剛像がきわめて少ない。
   5 基部に蓮華を大きく刻むものが多い。
 清水さんが示した前記5項目は、日光の庚申塔の特徴でり、「日光型」を規定したものではない。
 これまで「日光型」が「日光型2猿」と「日光型庚申塔」の区別が進まずに、単に「日光型」といえば、一般には2猿の形態としての「日光型」が通用した。後に庚申塔としての「日光型」にまでを拡大してはいなかったのが実情である。
 今回、瀧澤さんから送られてきた「『日光型』あるいは『下野型』という庚申塔像容の分類名称について」は、B5判の用紙5枚、約7000字を越す大作である。これまでの各人の「日光型」の捉え方を踏まえ、庚申塔としての「日光型」の定義を試みている。
 瀧澤さんの「日光型」庚申塔の試案は、次の範囲に該当する条件である。
   1 碑塔上部で、2匹の猿お互いに向かい合う、拝侍(合掌)姿(時には宝珠を捧げ持ってい
    ても良い)があること。そして拝侍(合掌)2猿姿でも、当該庚申塔塔の中間や下部ではな
    く必ず上部にいること。当然ながら青面金剛像などの主尊とする像容がそこにはないこと。
   2 瑞雲のない日月輪が、必ずあること。
   3 種子が、必ずあること。(主銘文と2字以上の種子とが併用でも可)
   4 主銘文あるいは梵字真言などが、碑面中央に必ずあること。
   5 これが意外と重要で、碑面下部に必ず「蓮華」があること。
   6 些細なことだが、これも要件としては重要で、結衆の人数や交名があること。
 つまり「日光型」の庚申塔は、1拝侍型2猿が上部に位置し、2瑞雲を伴わない日月、3種子を刻む、4主銘か梵字真言が中央にあること、5下部に蓮華を刻む、6施主の人数か名があること、の6点を具備要件としている。以上の要件を備えた庚申塔を狭義の「日光型」とし、拝侍型2猿が上部に位置するが、他の狭義要件を欠くものを「拝侍2猿型」と区別している。
 「岩槻型」の場合は、さいたま市岩槻区(型名を決めた頃は岩槻市)を初発として周辺に分布する前向きの鬼の上に立つ要件を備えた青面金剛の名称である。「日光型」もこれと同じで、旧日光市を初発として分布が集中しているので、「日光型」の1種に統一するのがよいと考える。「下野型」を併用するのは煩雑になるし、「下野」という旧国名よりも広く知られている「日光」を用いる方が適している。(平成19・9・1記)
     
あとがき
     
      「中山さんの埼玉年表」は、各都県に散在する庚申塔の中から、寛文と延宝の塔に絞っ
     て長年にわたって調査され、各都県毎の年表を作成している。今回は埼玉県である。
      「望月の念三夜塔再考」は、本誌10号の「望月の念三夜塔」の再考である。長年にわ
     たり地元・佐久地方の石佛調査をされている岡村知彦さんからご教示をいただき、それを
     中心にしてまとめた。
      「成田山霊宝館の三尊像」は、日本石仏協会の成田見学会で実見した石佛である。尊名
     が気になっていた。未だに決定的な結論はでていない。
      「松川村と穂高駅前」と「穂高の道祖神巡り」は、8月末に行った長野県の松川と穂高
     の道祖神巡りである。これまで、大王わさび農場に双体道祖神があるのを知らなかったか
     ら、単なる観光スポットと考えて訪ねたことがなかった。たまたま、駅前の観光案内所で
     双体道祖神が6基あると聞いて行ったわけである。ついでに「水色の時」の道祖神にも出
     会い、途中の親柱につかわれている双体道祖神もみた。
      「『石仏散歩 悠真』30・31」は、多摩石仏の会の多田治昭さんの個人誌である。あく
     なく関東地方の庚申塔に焦点を合わせ、各都県を熱しに訪ねている。その結果は、『石仏
     散歩 悠真』を通して発表されている。今回の2号では、「千葉県成田市周辺の石仏」と
     「青面金剛の持物 5(宝剣・羂索)」を特集している。
      「瀧澤さんの『日光型』」は、地元・栃木県内にある石佛を熱心に調査されている。以
     前、他県の石佛を廻ったらと薦めたことがあったが、栃木県内を一筋である。「日光型」
     庚申塔を追求するのも、地元の庚申塔に関心があるからで、思いがけない質問に答えて勉
     強になった。
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                             石佛雑記ノート13
                               発行日 平成19年9月15日
                               TXT 平成19年9月15日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 多摩野佛研究会
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