石川博司著     石佛雑記ノート 16     発行 多摩野佛研究会
   〔内 容〕  『石佛月報』10月号   ◎笹川義明さんの来信
         ◎
『伊東−石佛石神誌』  ◎『東伊豆町の石造塔』  ◎『河津町の石造文化財』 
         ◎
市原市内の庚申塔巡り
         ◎
『石仏散歩 悠真』35号 ◎『石仏散歩 悠真』36号
         
あとがき
『石佛月報』10月号

 平成19年11月2日(金曜日)には、瀧澤龍雄さんからの『石佛月報』10月号を受け取る。この号は、表題に「休刊明けの日光巡り報告」とあるように、3か月ほど『石佛月報』が休刊していた。それがヤット復刊したのでのある。
 冒頭に戸田の金子弘さんの逝去を記し、金子さんと『石佛月報』とのつながりを述べている。去る10月6日(土曜日)の石仏談話室で、坂口和子会長が挨拶の最初で金子さんの訃報を伝えた。金子さんが石佛に係わる人達と広く交流があった一端が、瀧澤さんの短文からも読み取れる。
 最初の「秋の野に立つ2猿塔」は、この塔の主銘にある「奉勤」にひかれ、日光市匠町撼満ケ淵にある元禄8年塔を紹介している。上部に瀧澤さんさんいう「拝侍型」、いわゆる日光型2猿が浮彫りされている。
 次の「手に持つものは・・・」は、前の元禄8年塔と同じ町内の別の場所にある享保15年塔を主題にしている。向き合う下部の2猿の持物を注意する。宝珠、徳利、花瓶を挙げて要るが、壺とも思える形状である。また主銘の「奉礼敬」を取り上げている。
 3番目の「拝侍二猿と言いつつも・・・」は、日光市小来川の宝暦2年塔に刻まれた2猿にふれいる。瀧澤さんが厳密に規定する拝侍型からは変形、招き猫的な姿態を問題にしている。拝侍型のバリエーションを楽しむのも1興かもしれない。
 「日光の像容庚申塔1)」は、同市本町・釈迦堂にある宝永3年丸彫り像、一見すると首なしの定印弥陀とも受け取れる。瀧澤さんは周囲にある像容から、「地蔵像容」を考えにおいている。
 「日光の青面金剛像1)」は、同市久次良町・久次良神社にある文化6年塔を扱う。剣人6手像と拝侍2猿の組み合わせで文化6年の造立というには、シックリしない。本塔にあれば問題はないが、記年銘が台石にあるところに違和感が生じる。
 「日光の青面金剛像2)」は、同市細尾町・浅沼不動尊の安永3年塔。この塔も前の塔と同じ剣人6手像、異なるのは拝侍2猿ではなく正向型3猿であることである。清水長明さんは、『石仏の旅 東日本編』(雄山閣出版 昭和51年刊)の「日光石仏行脚」で「青面金剛はきわて少ない」と指摘している。瀧澤さんは庚申塔総数360基中12基と記しているから、東京やその近辺との差がわかる。 「日光の青面金剛像3)」は、同市宮小来川の元文2年塔を取り上げている。の塔は、日月・青面金剛・2鶏・3猿が浮彫りされ、主尊は合掌6手像である。こうした合掌6手像は日光市街地になく、小来川とその周辺にあるという。こうした地域内の地域差は、物流関係や石工の違いなどから生じているのかもしれない。
 「ウウン種子について」は、同市上鉢石町・観音寺の文化13年塔の上部に大きく刻まれた種子について論じている。「ウーン」ならば1般にみかける種子であるが、観音寺の種子はこれまでみたことがない。この種子を刻む先発の3基の庚申塔から、この種子だけの塔を庚申塔と位置づけている。読みも「ウーン」と区別するために「ウウン」とされた。
 「延寶庚申再建塔」は、延宝2年塔を再建のために建てた同市久次良町の文政4年塔に焦点を合わせている。左側面に刻まれた銘文から、再建の由来をしることができる。
 「明治の再建塔」は、同市野口・庚申塚にある明治35年塔を扱う。前記のように再建塔といえば、ある程度の年月を経て破損や剥落などで再建塔を建ている。ところがこの塔の場合は、9月に建てた塔が洪水に遭って流失したため、同年12月に再建した珍しい再建塔の例である。
 「英文・馬頭観世音塔」は、同市久次良町の大正2年文字馬頭を記している。英文入りの塔というのが珍しい。日光へ避暑に行っていた武田久吉博士の眼にと止まらなかったのか。余り記憶がはっきりしなが、横須賀にあった英文入りの石塔を読んだ気があする。
 最後の「大木戸の山の神」は、同市細尾町大木戸の昭和31年「山神」塔に遭遇の1件である。しばしば、道を間違えたお陰で石佛を発見する例は多い。いつも通っている道の1つ裏側の通りに石佛があったこともある。道を変えることも必要である。
 『石佛月報』をいただいてから、手許におくだでけでいたら、次の『石佛月報』11月号が月末に届いている。やっと10月号を手にしている始末である。(平成19・11・5記)
笹川義明さんの来信

 平成19年11月13日(火曜日)、足立の笹川義明さんからお手紙をいただく。各地の獅子舞や民俗芸能の資料、千住や柴又、松戸の地口行灯のコピーなどと混じり、各地の芸能見学の際に撮られた石佛写真が入っている。
 いかにも那須地方で撮った石佛写真らしく、馬頭観音が中心である。まだ現地を訪れたことはないが、宇都宮の瀧澤龍雄さんの写真や報告でも知っている。5月12日には、瀧澤さんの案内で多摩石仏の会の犬飼康祐さん・加地勝さん・五島公太郎さんの3人が那須の馬頭観

音を廻っている。笹川さんの撮影順に示すと、次の通りである。○ 9月19日 栃木県那須郡那須町一ツ樅の獅子舞
     1 年不明 光背型 5馬首馬頭観音
     2 ────各 種 馬頭観音石佛群
     3 明治44 光背型 3馬首馬頭観音
     4 明治10 光背型 3馬首馬頭観音
     5 年不明 光背型 馬頭観音
     6 明治21 光背型 2馬首馬頭観音
     7 大正8 光背型 1馬首「馬頭観世音」
     8 大正6 光背型 2馬首「馬頭観世音」
     9 大正3 光背型 3馬首「馬頭観世音」
     10 年不明 光背型 日月・青面金剛・1鬼(台石)2鶏・3猿・3猿
     11 年不明 光背型 日月・青面金剛・1鬼(台石)2鶏・3猿
     12 年不明 石 幢 6地蔵
 1は、頭上に5馬首を並列する2手馬口印の馬頭観音立像である。
 2は、1と3から9までを含む10基の馬首観音の刻像塔と文字塔の石佛群を写す。
 3は、頭上に3馬首を並列する2手馬口印の馬頭観音立像、像の右に「明治四十四年」、左に「3月十七日 大森□吉」の銘を刻む。
 4は、頭上に3馬首を並列する2手馬口印の馬頭観音立像、像の右に「明治十年(丁)丑」、左に「九月十七日」の銘である。
 5は、普通みられる馬口印2手の馬頭観音立像、像の右にある銘文は読めないが、左は「十一月二十三日」らしい。
 6は、頭上に2馬首をいただく2手馬口印の馬頭観音立像、像の右に「明治廿一年」、左に「旧十一月廾□日」の銘がある。
 7は、上部に1馬首を置く「馬頭観世音」の文字塔、右に「大正八年」、左に「旧九月十九日 大森久喜」と彫る。
 8は、上部に2馬首を置く「馬頭観世音」の文字塔、右に「大正六年旧十月五日」、左に「建主 大平浩□」と刻む。
 9は、上部に3馬首を置く「馬頭観世音」の文字塔、右に「大正三年旧二月十七日」、左に「大森冬吉建」とある。
 10は上方手に瑞雲を伴う4つ星(左手)と太陽(右手)を執る合掌6手像、上の台石に2鶏と正向型3猿、下の台石に変則的な3猿を浮彫りする。
 11は頭上に1字ある合掌6手像で鬼の上に立つ、2鶏と正向型3猿は台石に浮彫りされる。
 12は龕部に六地蔵浮彫りする重制石幢、竿石に「奉造立六」の銘文が読める。○ 9月23日 千葉県印西市いなざきの獅子舞
     1 延宝5 光背型 如意輪観音「十九夜念佛」
     2 寛文8 光背型 如意輪観音「拾九夜念佛」
     3 ─── 柱状型 観音3基
     4 安永2 光背型 六地蔵
     5 年不明 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿
     6 年不明 柱状型 日月・青面金剛・1鬼・3猿
     7 年不明 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿
     8 享保20 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿
 1は、6手如意輪観音、像上の右上に「供養十九夜念佛成就之所、左上に「(延宝)五丁巳年十一月十九日」の銘を刻む。
 2は、頭上に「サク」の種子がある6手の如意輪観音、像の右上に「奉唱声/拾九夜念佛/二世安楽所」、左上に「寛文八天/戊申 人数卅人/十月十九日」の文字を彫る。
 3は3基の観音坐像が並び、右端が左手で懐に入る幼児を支え、右手に未開蓮華を執る子安観音である。中央が2手如意輪観音、頭上に「サク」の種子、像の右に「十九夜塔 講中二十八人」、左に文政元戊寅十一月吉日」とある。左端は左手に蓮華を持ち、右手で幼児を抱く子安観音、台石正面に横書きで「女人講中」と刻む。
 以上の1から3までの3基は円光寺にみられ、次の4は路傍にある。
 4は、光背型塔に各々の地蔵立像を浮彫りする6基、右端にある合掌地蔵に「安永二癸未十一月吉日」と「講中三十九人」の銘がみられる。
 5は、本塔の中央が二折している。剣人6手像が鬼の上に立ち、下部に内向型3猿を陽刻する。
 6は、前向きの鬼の上に立つ標準的な合掌6手像、足の向きを内側にする正向型3猿を陽刻する。 7は、乳房がある鬼が前に向いて座り、両手で円盤を持つ合掌6手像を支える。下部に半内向型3猿を浮彫りする。
 8は、中央手に首と剣を執る剣人6手立像、下部に内向型3猿を浮彫りする。像の左に「享保廾卯天十月吉日/同行廾人」の銘を刻す。
 5から8までの青面金剛4基は、金刀比羅神社の境内にある。○ 10月9日 栃木県那須郡那須町大沢の獅子舞
     1 ─── ────路傍石佛・石塔群
     2 ─── ────路傍観音石佛3基
     3 年不明 光背型 馬頭観音
     4 年不明 丸彫他 石佛・石塔群
 1は、2と3の石佛を含む石佛・石塔群である。
 2は、3基の観音刻像塔の写真である。右端は左手に蓮華を持ち、右手で与願印を結ぶ聖観音の立像、像の左右に年銘を記すが、像の左にある「五月」だけが読める。中央は2手の如意輪観音、頭上に「十九夜供養」、右上に「寶暦十二壬午天十月十九日」、左上に「廾八人□□」と彫る。左端は2手の如意輪観音、頭上に「奉供養」、右上に「干時宝永八辛卯/念佛講中」、左上に「四月十九日/二十三人」の銘を刻む。
 3は、3面6手の馬頭観音坐像、頭上に8行ほどの銘文がみられるが、判読できない。
 1から3までの写真は、温泉神社の右下の路傍で撮影、4は神社外の右奥で写している。
 4は、中央に数珠と独鈷を持つ弘法大師丸彫り坐像があり、その周辺にある地蔵や念佛塔などの石塔を対象に撮っている。○ 10月14日 神奈川県足柄上郡山北町のお峯入り
 今年2月17日(土)には、山北町向原・能安寺で行われた世附百万遍念佛を見学した。その折りに能安寺境内で石佛群をみた程度である。
     1 天保5 光背型 馬頭観音
     2 年不明 駒 型 双体像
     3 年不明 駒 型 双体像
     4 ─── ─── 馬頭観音2基
 1は、両手で馬口印を結ぶ馬頭観音立像、像の右に「天保五午年」、左に「四月吉日」、下部には「関入/九保和/谷村/三村」の銘文を彫る。
 2は右が「大日」、左が「文殊大士」らしい文字を刻む帽子状のものをかぶる双体像である。
 3は、合掌する僧形の双体像である。
 4は、馬口印を結ぶ馬頭観音立像2基である。右は像の右に「明和三丙戌七月」の年銘、左に「施主 藤右衛門」の施主銘を記す。左は像の右に「寶暦四甲戌年」、左に「五月日 滝庄」とある。○ 10月15日 千葉県船橋市高根神明の神楽
     1 年不明 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿
 1は、典型的な剣人6手立像、下部に正向型3猿を浮彫りする。○ 11月9日 栃木県真岡市大前神社秋祭り
     1 年不明 柱状型 馬頭観音「馬頭尊」
     2 年不明 柱状型 馬頭観音
 1は、真岡鉄道北真岡駅近くにある大日堂で撮ったもの、上部に3面8手の馬頭観音坐像を浮彫りし、下に「馬頭尊」と彫る。右側面や台石正面に銘文が刻まれているが、判読できない。
 2は、1の馬頭観音坐像だけをアップして撮ったものである。
 以上に記したのは、笹川さんが撮られた31枚の石佛写真の明細である。(平成19・11・20記)
『伊東−石佛石神誌』

 平成19年11月14日(水曜日)、多摩石仏の会の森永五郎さんから『伊東−石佛石神誌』を含む石佛資料5点を送っていただいた。森永さんは、近頃、静岡・伊豆半島の庚申塔を調査するために資料を集められている。その1冊が『伊東−石佛石神誌』である。
 表題の『伊東−石佛石神誌』は、鈴木茂・佐藤真1の両氏が執筆され、写真は木村博さんなどの提供があるが主に佐藤真1氏の撮影である。平成12年3月31日に市立伊東図書館から発行された177頁の本である。
 伊東の石佛石神では、何といっても「道祖神」、それも丸彫りの単体道祖神である。カラーの口絵から始まり、冒頭から「八幡神社(朝日町)の道祖神」「八幡神社(寺山)の道祖神」、他に「5線譜−さいのかみのうた」や「失われたもの」の4編がみられる。書中にも「どんど焼き物語」や「道祖神三景」、道祖神の写真が36枚(内1枚は双体道祖神)が載っている。
 それに比べると、庚申塔は頁数が少ない。45頁から49頁にかけて「8幡野の庚申塔」、これには庚申塔2基の写真が載る。129頁から138頁には、20基の写真が掲げられている。46頁に「伊東市内には、二十六基の庚申塔が散在している」とあり、129頁の説明で寛文9年塔が市内最古の庚申塔であるのがわかる。174頁には「庚申関係諸帳」と「庚申塔 3猿」(3猿拡大)の写真が追加されている。
 48頁から次頁にかけて『豆州誌稿』に記録されている庚申堂として、市内の4か所が挙げられている。その中の1つ、現存する宇佐美・塩木道の庚申堂に青面金剛木像、富戸・永昌寺入口の庚申堂に帝釈天像と3猿像が祀られている。
 伊東の庚申塔に関する文献を『庚申関係文献目録』(庚申資料刊行会 平成18年刊)から抽出すると、次のものがある。
   伊東郷土研究会『庚申塔覚之書──伊東地区の調査』 同会 昭和46年刊
   木村  博「庚申堂の庵主さん/伊東の庚申について」『伊東郷土研究ノ−ト』2 伊東郷土研究会 昭和46年刊
   鈴木  茂「庚申塔覚書」『伊東郷土研究ノ−ト』2 伊東郷土研究会 昭和46年刊
   佐々木武夫「宇佐見の庚申堂」『伊東郷土研究ノ−ト』2 伊東郷土研究会 昭和46年刊
 いずれにしても『伊東−石佛石神誌』をみる限り、市内の庚申塔は寛文9年を最古とした文字塔ばかりで、数は少ないが正向型3猿を浮彫り像がみられる。3猿付きの笠付型塔が古いようで、柱状型塔や自然石塔は新しい塔と写真から読み取れる。(平成19・11・7記)
『東伊豆町の石造塔』

 平成19年11月14日(水曜日)に、森永五郎さんから送っていただいた石佛資料の1冊が『東伊豆町の石造塔』である。昭和58年3月31日に東伊豆町教育委員会から発行された。
 町内の庚申塔に関しては、2頁から7頁にわたり解説と写真が載っている。東伊豆町には18基の庚申塔があり、131頁から次頁に庚申塔データの1覧表を掲げている。これらを利用して年表を作ると、次の通りである。
   1 寛文12 笠付型 日月「善男子待庚申」3猿    湯ケ岡 天満宮
   2 正徳5 笠付型 日月「庚申塔」3猿       稲取・下赤坂
   3 享保5 板碑型 「庚申塔」           奈良本・太田
   4 天明2 笠付型 「庚申塔」           白田浜
   5 天明6 笠付型 「庚申塔」           奈良本 自性院
   6 享和2 自然石 日月「庚申塔」         北川
   7 文化7 自然石 日月「庚申塔」         稲取・田町 善応院
   8 文化9 笠付型 「庚申塔」           湯ケ岡 天満宮
   9 文政4 自然石 日月「庚申塔」         稲取・清水 吉祥寺
   10 文政4 笠付型 日月「奉建立□庚申塔」3猿   稲取・田町 清光院
   11 文政11 自然石 日月「庚申塔」         稲取・大畑 済広寺
   12 天保14 自然石 日月「庚申塔」         稲取・角力塚
   13 天保15 自然石 日月「庚申塔」         稲取・木割場
   14 安政3 笠付型 「庚申塔」           北川・上の浜
   15 万延1 柱状型 「庚申塔」           湯ケ岡 天満宮
   16 明治10 自然石 日月「庚申塔」         北川        
   17 年不明 笠付型 「卍」3猿           稲取・田町 善応院 
   18 年不明 笠付型 (不明)            片瀬 竜淵院    
 年表をみると、東伊豆町の庚申塔の傾向がうかがわれる。最古の塔が寛文12年で、伊東市より多少遅れるもの、文字塔のみで『伊東−石佛石神誌』にみる伊東の傾向とほぼ同じである。
 なお、「石造塔一覧表」をみると、馬頭観音3基・地蔵2基・不動明王2基の所在地が「奈良本庚申堂」になっている。現在でも、この庚申堂に青面金剛木像が祀られているか気にかかる。
 庚申堂といえば、3頁に「昭和五十五年は縁年にあたり、下田市相玉の庚申、宇佐美塩木道、河津町笹原などの各地の庚申堂でにぎやかに催された」とあり、伊東市宇佐美の庚申堂でも催しがあったことが知られる。
 『伊東−石佛石神誌』には「地神塔」がみられなかったが、東伊豆町には2基の地神塔が分布している。72頁には、地神塔について次のように記されている。
 東伊豆町には稲取地区と奈良本地区にそれぞれ1基ずつと他の石造物に比べ大へ少ない。稲取地区に於ける地神塔は天神原にあり、一基の石柱に火神、水神、地神を合祀した文字塔である。造塔年月日の刻字はない。奈良本地区は小橋栄松堂の前の高台にあり、型状は笠付角桂で「地神宮」と彫られ、台石には講中らしき五名の氏名が見られるが完全には判読できない。造立日は文政四年巳五月吉日と刻字されている。
 同じ頁に地神塔2基の写真が掲げられている。高さは稲取の塔が67cm、奈良本のが97.5cmである。
 道祖神については、28頁から37頁と137頁から138頁と、比較的に頁数を割いている。大半が単体丸彫り像か石祠であるのが特徴である。写真は双体道祖神1基を除けば、単体丸彫り像を主体にしている。単体丸彫り像がの南限が東伊豆町で、伊豆南部にみられない(28頁)。また、河津町以南では、松崎町の文字塔などの他、その殆どが石祠であるという指摘(29頁)も参考になる。
 まだ他にも『東伊豆町の石造塔』からいろいろと読み取れる事項が多い。(平成19・12・7記)
『河津町の石造文化財』

 平成19年11月14日(水曜日)、森永五郎さんから『河津町の石造文化財』の『1』と『2』の2冊を受け取っている。共に河津町教育委員会から平成2年12月20日に発行されている。
 『I』では、梨本・観音山石佛群にある石佛の筆頭に挙げられているのが「瑞雪大権現」の雑型文字塔である(12頁)。これまで「瑞雪大権現」の名を聞いたことがない。
 26頁以降に記載されている、大日如来と馬頭観音が併記された文字塔が関心がある。恐らく牛の守護神として大日如来、馬の守護神として馬頭観音を併せて祀ったものと考えられる。大鍋にある宝暦13年の両尊併刻塔の側面には、「宝永7□満水流死為牛馬」とあり、牛の大日如来と馬の馬頭観音の供養のための造立である。この種の両尊併刻塔が町内に9基あり、単に「観世音菩薩」か「観音」と「大日如来」の併刻塔が4基みられる。この「観音」は「馬頭観音」を指すと思われる。非常に珍しい現象と考えられる。『II』には、牛馬供養塔が載っている。
 馬頭観音の中では、浜・稔念寺前にある大正4年造立の「馬力神」自然石塔が珍しい。通常、馬頭観音の文字塔では「馬頭世観音」か「馬頭観音」と刻むのが普通である。
 その他の石佛の中に、粟島明神が4基、河童明神が3基あるのが興味ある。逆川・芝原には、龍天善神坐像が記録されている。「龍天善神」は、解説によると『千手千眼観世音菩薩広大満無礙大悲陀羅尼経』にある神で、曹洞宗の護法善神される、とある。
 『II』の最初は庚申塔で、河津は庚申講が盛んで見高入谷・浜・笹原・田中・筏場・上佐ケ野の6か所に庚申堂があったが、見高入谷と浜がなくなり、4か所が現存する。堂には青面金剛木像が祀られ、講では青面金剛画像の掛軸が用いられている。
 最古の庚申塔は笹原庚申堂の寛文10年塔、最新は縄地・宇代の大正9年(庚申年)塔である。町内には、55基の庚申塔が散在する。伊東市や東伊豆町と異なり、河津には、縄地の合掌6手や下佐ケ野の剣人6手の青面金剛など10基が造立されている。
 月待塔としては、昭和3年の駒型「2十三夜塔」、如意輪観音主尊の年不明光背型十九夜塔がみられる。日待塔には、甲子塔3基と子待・巳待併記塔1基がある。
 庚申塔に青面金剛が登場するように、道祖神も43基の大半が石祠である。伊東市や東伊豆町との違いが際立っている。
 同じ伊豆半島でも、伊東市・東伊豆町・河津町の3市町を比較すると、石佛それぞれの特徴がみられ、風土の違いが生じている。(平成19・12・7記)
市原市内の庚申塔巡り

 平成19年11月27日(火曜日)は、地元の町田茂さんのご安内で市原市内の庚申塔を巡る。町田さんには、今年3月11日(日曜日)に日本石仏協会主催の「成田不動尊と宗吾霊堂の石仏」見学会に参加し、町田さんのコース案内で成田市内を廻った。
 この協会の見学会を機に、7月28日(土曜日)には町田さんの車で運転と案内を兼ねて成田市内の庚申塔を巡った。この時は多摩石仏の会の多田治昭さんと加地勝さんの2人を加えての庚申塔調査行である。
 今回は、町田さんに地元の市原市内を多田治昭さんと私の2人が加わって廻る。すでに11月7日(水曜日)に案内コース案を受け取っている。それより先の10月13日(土曜日)に、町田さんは房総石造文化財研究会の石佛入門講座で多田さんと会い、見学希望の庚申塔を申入れを受けてている。送ったいただいたコース案は、多田さんの要望を受け入れているし、偏見を持たずに廻りたいと考えて希望を特にしなかった。
 お手紙にあった東京駅からの電車の時刻表に従い、青梅を午前6時34分の東京直通の通勤快速に乗車する。実は43分発の電車でも間に合うが、早い分によいと1電車前の通勤快速を選ぶ。何分にも東京駅から総武線快速に乗るのは初めてなので、できるだけ時間の余裕があるほうがよい。
 途中で多田さんとも会うことがなく、定時に目的の内房線8幡宿駅に着く。改札を出ると、町田さんと多田さんが待っている。多田さんは5日市線の始発できたので、すでに駅近くの庚申塔を廻ってきたという。
 早速、駅前の町田さんの車に同乗、コース案1の山木・交差点付近路傍の万治4年塔に向かう。赤い鳥居の奥に、次の庚申塔が立っている。
   1 万治4 光背型 日月・3猿「奉拜庚申待成就供養所・・」 135×58
 1は上部に形が通常とは異なる瑞雲を伴う日月があり、その間に種子「カーン」、下に三種子を並べ、下に正向型3猿(像高23cm)の陽刻像がある。中央に「奉拜庚申待/成就供養所/一結衆安全/殊郷内繁茂」、下部に「山越7右衛門」など8人の施主銘を列記し、続けて「萬治四年/辛丑二月日/敬白」の銘を刻む。3猿には性器がついており、雌雄の別がわかる。惜しいことには、顔と塞ぐ手の損傷が酷い。
 次いで訪ねたのが柏原にある柏原神社、境内にある次の塔をみる。
   2 天和2(笠付型)日月・2猿                60×28×18
 2は上部に日月・瑞雲、下部に不聞猿と不言猿の正面向2猿(像高13cm)浮彫りを配す。日月の間に「ウーン」種子、中央の右端に「天和二年」、左端に「壬戌十月廾三日」の年銘、底部に「須田清左衛門」など11人の施主銘がみられる。現在は、笠部が脇に置かれている。
 続いて駐車した柏原・持宝寺に戻り、境内にある笠付型四面塔をみる。正面に左手で幼児を抱き、右手に錫杖を執る地蔵立像(像高54cm)を浮彫りし、他の3面に2体ずつ地蔵立像(像高46cm)の陽刻像配した六地蔵である。
 六地蔵の2基おいた馬頭観音は、上部に天衣を翻し、馬口印を結ぶ3面8手立像(像高60cm)を陽刻する安永6年笠付型塔(現在笠部がない)である。六地蔵塔の隣に、次の庚申塔がある。
  3 宝永7 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        87×37×27
 3は標準的な合掌6手立像(像高42cm)、下部の正向型3猿(像高11cm)の下に施主銘が彫られている。右側面に「奉造立庚申二世大願成就之所」、左側面に「干時(異体字)宝年庚寅十一月吉」の銘がある。年銘の「干時宝年」は、干支からみて「宝永7年」と推定される。
 持宝寺から椎津・新田青年館へ向かい、近くの路傍にある次ぐの塔をみる。
   4 宝永13 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        73×27×23
 4は標準的な合掌6手像(像高47cm)が前向きの鬼の上に立ち、変形的な3猿(像高7cm)がみられる。鬼の両横の猿は幾分内側を向き、下の猿は横になって正面を向く。
 庚申塔から離れた路傍には、馬乗馬頭観音がある。町田さんご推薦の安永7年の駒型塔(93×37×37cm)刻像である。馬の彫り出しが著しい、3面8手騎乗像(像高68cm)を陽刻する。両側面に道標銘を刻む。側に文化14年の「馬頭尊」柱状型塔がある。
 市原市から袖ケ浦市へ入って代宿・三山供養塚には、馬乗馬頭を陽刻する文化5年駒型塔(90×41×22cm)がある。上部に翻るが天衣みられる3面6手騎乗像(像高51cm)を浮彫りする。この馬頭観音よりも後ろに、次の塔がある。
   5 享保11 駒 型 日月・青面金剛・1鬼・3猿・2童子    97×24×20
 5は標準的な合掌6手立像(像高42cm)、その両横下に童子(共に像高22cm)、下部に正向型3猿(像高17cm)を陽刻する。両側面に刻まれた銘文は読んでいないが、町田さんの「コース案」によると、年銘は「享保十一庚申歳十一月吉日」である。
 市原市内へ戻り、コース予定にある不入斗・永藤の正徳4年庚申塔と享和3年馬乗馬頭を省略し、不入斗の行屋後にある次の塔に寄る。
   6 享保3 笠付型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿・2童子 90×49×33
 6は上方手に宝珠と宝輪を執る剣人6手立像(像高57cm)、人身が下向きで横になっているのが珍しい。下部には内向型3猿(像高18cm)を浮彫りする。両側面の童子は、塔幅があるせいか、先にみた5の童子に比べて縦横が大型でふっくらしている。右側面に「タラーク 時享保三稔/奉造立青面金剛一躯現當二世安楽也/願主/鈴木太郎大□(等2人)」、左側面に「(種子) 関東西上総國市原郡不入斗村/戊戌閏十月吉日」の銘文がある。台石正面には施主銘刻まれているが、土がこびりついて判読していない。
 風戸・日光寺の寛政5年馬乗馬頭を省略し、上高根の永野家裏山に入る。先ず弓道沿いに立つ、3面6手騎乗像(像高40cm)を浮彫りする年不明の笠付型(61×30×18cm)をみる。笠部に九曜紋がみられ、両側面に道標銘を彫る。馬続いて少し離れた場所といっても藪の中を登り、次の庚申塔を調べる。先の馬乗馬頭にしても、庚申塔にしても通常では存在することさえわからない。
   7 寛文9 笠付型 日月・青面金剛・2猿           90×40×28
 7は上方手に宝棒と矛、中央手に円盤と剣、下方手に羂索と人身を持つ、余りみられない持物の6手立像(像高53cm)である。像の右下に「奉造立宝篋塔一基庚申供養成就所」、左下に「奉納□青面金剛現當□□所」、側面に「寛文九己酉年三月吉日」の造立年銘を彫る。足下に不見猿と不聞猿の2猿(像高11cm)を浮彫りする。朝、柏原神社でみた天和2年の不聞猿と不言猿とは、不聞猿が共通するもの、並ぶ順や不見猿と不言猿の違いがある。
 西国吉は庚申山にある次の塔を藪をかきわけてみる。7に続き町田さんの案内なしでは、とても所在がわからない。上高根と同様に多田さんも随分探したらしい。
   8 延宝5 光背型 日月・青面金剛・1鶏・1猿・2童子    71×36
 8は上方手に矛と円盤、下方手に宝棒と羂索を執る4手立像(像高37cm)を主尊とし、両脇に童子(共に像高19cm)、下部に鶏と猿(像高7cm)が対面する。像の右には「同行十一人」、左には「延宝五丁巳十二月三日」の銘文を記す。右方・左方の両童子は、共に青面金剛の足下に向けて長い柄香炉を持つ。
 コース案 9の西国吉・吉野台児童公園にある2童子付きの享保7年塔を省略して、宿の山の中にある次の庚申石祠を訪ねる。
   9 寛文4 石 祠 3猿(祠内にも3猿がある)        67×34×29
 9は石祠、屋根部が下に落ちている。祠の右端に「寛文4年甲辰」、右端に「二月吉日」の年銘を刻む。祠の下部に正向型3猿(像高11cm)がある他に、祠内にも山形状の石に三不型の3猿(像高12cm)がみられる。屋根部は幅が41cmで奥行きが32cmである。
 次いで訪ねたのが石川・横宿にある次の石祠であるが、屋根の造りが面白い。寄せ棟造の屋根に前柱を2本付けている。元はゴルフ場にあったもの現在地に移したという。
   10 年不明 石 祠 (台石)3猿               37×43×40
 10は右側面に施主銘を8人ずつ2段にに記し、左側面も同様に上段に8人と下段に6人の氏名を記す。台石正面に正向型3猿(像高19cm)を浮彫りするが、右から雄・雌・雄と性別が明らかである。 ここには板碑型塔(98×42cm)があって、上部に日月があり、中央に「□□廾三夜□□所」、右に「延宝7年 願想村」、左に「己未二月吉日 敬白」と銘文を刻む。
 安久谷に入り、安久谷橋近くの竹藪の中に次の石祠がみられる。
  11 寛文7 石 祠 3猿                   53×32×27
 11は石祠正面の上部に正向型3猿(像高12cm)が並び、下に4角の入口がある。入口の右側に「奉造立庚申/宮一宇現當祈所」、左側に「寛文□丁未天/八月吉日/上総國市原郡内田郷/悪谷村 願主/敬白」の銘を記す。
 次いで池和田・岩井戸の竹藪にある次の塔をみる。
   12 延宝6 光背型 3猿                   64×31
 12は上部中央から「延宝6天午ノ極月吉日」の年銘を彫り、下に正向型3猿(像高18cm)の陽刻があり、右脇に「吉野勘右衛門」(等2人)、左脇に2人の施主銘を刻む。
 続いて池和田・大宮神社に行き、境内にある切妻の屋根(16×59×50cm)を持つ石祠を調べる。
  13 万治2 石 祠 3猿                   50×46×45
 13は上部中央にに縦12cmで幅が15cmの窓があり、下部に正向型3猿(像高19cm)を浮彫りする。3猿の右端に「万治貮年」、左端「亥霜月吉日」の銘があり、両側面にも銘文がみられる。
 高滝に入り、宮原公民館に近い竹藪の中には、文化12年の勢至菩薩立像(像高44cm)を浮彫りする柱状型塔(53×23×15cm)がある。像の右下に「二十三夜」と刻む。隣に次の庚申塔がある。
  14 延宝3 板碑型 「サク 奉造立庚申御本地二世安穏祈所」3猿 54×32
 14は中央に上部から「サク 奉造立庚申御本地二世安/穏祈所」の主銘、左に「延宝三乙卯手九月吉日」の年銘、下部に正向型3猿(像高15cm)を陽刻する。
 徳氏では、次の庚申塔を調べる。
  15 延宝8 笠付型 日月・青面金剛・1猿・蓮華        74×28×18
 15は上方手に円盤と矛を執る剣人6手立像(像高30cm)、上部の日月の間に「ア」種子を記す。右側面に「高瀧作徳氏村二世安楽祈所/奉造立石塔1宇庚申一結□□衆」、左側面に「延宝八庚申天十月吉日/□□」の銘があり、両側面に蓮華を浮彫りする。
 山田の地蔵堂に寄り、日本1高いという木彫の地蔵菩薩坐像(像高275cm)をみてから、岩の千葉よみうりカントリーの境界線に近い山の中にある、次の庚申石祠を訪ねる。
   16 正徳3 石 祠 日月・3猿                38×24×18
 16は上部に日月、下部に正向型3猿(像高9cm)を浮彫りし、中央に窓がある。窓の右端に「正徳三癸巳天」、左端に「九月吉日」の年銘を彫る。
 川在に行く途中では、聖観音(像高91cm)を主尊とする日記念佛塔(122×44cm)に出会う。頂部に「サ」の種子、像の右側に「日記念佛講結衆爲二世安楽」、左側に「干時延宝六戊午十一月□□」の銘を刻む。
 コース案に含まれていかった川在を訪ね、畑の端にある次の庚申塔をみる。
  17 延宝7 板碑型 「奉造立庚申結願成就攸」3猿       54×30
 17は中央に「奉造立庚申/諸願/成就/攸」の主銘、右には「延宝七己未天」、左には「七月廾七日 想人数」を彫る。年銘の「日」は異体字を使う。7月27日は庚申の当たり日である。下部に正向型3猿(像高15cm)を陽刻する。
 次に同じ川在の大宮神社を訪ねる。境内には次に2基が並ぶ。
   18 延宝8 光背型 日月・青面金剛・1鶏・1猿        71×29
 18は上方手に円盤と矛、下方手に弓と矢を執る4手立像(像高31cm)、頭上に「ウーン 奉造立庚申悉地/成就」、像の右に「川在村願主想人数敬白」、左に「延宝八庚申天正月吉日」の銘がみられる。像の足元両横に鶏と猿(像高12cm)を浮彫りする。
   19 延宝8 光背型 日月・青面金剛・1鶏・1猿        67×37
 19は下方手に羂索と人身を執る合掌6手立像(像高42cm)、像の右に「奉造立庚申供養成就之攸願主/川在村」、左に「延宝八庚申年十一月吉日」の銘を刻む。像の左足元に烏帽子をかぶって御幣を猿(像高15cm)を陽刻する。
 最後に向かった菊間・猿山では、残念ながら3面に猿を配した延宝5年笠付型塔が無くなっている。何処かに移動されて健在ならばよいのだが。
 猿山を最後にコース案最後の菊間・田中前にある延宝8年雑型塔を省略し、朝出発した八幡宿駅に向かい、内房線〜総武線快速〜中央線〜青梅線で帰宅する。(平成19・11・28記)
『石仏散歩 悠真』35号

 平成19年11月27日(火曜日)は、市原市の町田茂さんのご案内で地元にある庚申塔を巡った。家に帰ると、多田治昭さんから『石仏散歩 悠真』第35号と第36号の2冊が届いている。第35号は「千葉県の石仏 2」、第36号は「青面金剛の持物 8」の特集号である。
 多田さんは、千葉県立博物館で開催された房総石造物研究会の石佛入門講座を機会に、受講後に市原泊まりで2日目の翌日は市原・東金・松尾・横芝・芝山・八日市場などを廻って旭泊まり、3日目は旭・飯岡・銚子・東庄を調査した。この時の記録が第35号の「千葉県の石仏 2」である。
 表紙に載った写真は、八日市場市大浦「宮和田」バス停付近にある年不明の笠付型塔である。「まえがき」の下には、横芝町中台・大宮神社にある享保11年の笠付型の写真を載せている。
 2日目は、市原市を出発して茂原市・大網白里町・東金市を経て成東町姫島・庚申神社で1の延宝8年塔をみる。以下成東町では、成東・八幡神社にある延宝2年の「奉納八幡宮庚申」と記す灯籠型塔、成東・辺田墓地にある合掌6手立像の延宝8年笠付型塔、成東・波切不動の青面金剛延宝8年塔、寺崎・駒形神社の延宝8年笠付型3猿塔、寺崎・岡公民館にある合掌6手青面金剛・2童子付きの享保17年笠付型を廻る。
 次の松尾町では、田尾・浅間神社の合掌6手青面金剛享保元年笠付型塔、大堤・宝積寺の3面合掌6手青面金剛・2童子付き元文5年笠付型塔、下大蔵・不動堂の青面金剛・延宝8年塔をみている。宝積寺の塔には、「重光〓灘神像」の銘がある。
 横芝町では、「まえがき」下の中台・大宮神社のる享保11年笠付型塔、中山・高月墓地の4手青面金剛延宝8年柱状型塔がある。高月墓地には宝暦6年「キリーク 偈念佛成就之所」柱状型塔、大里・普賢寺には享保2年の6観音笠付型塔がみられ、十一面観音の下に「奉待庚申成就」の銘を刻む。この塔の聖観音下には「奉造立六観音十九夜念佛成就処」の銘がある。
 8日市場市に入って、表紙を飾った大浦の笠付型年不明塔がある。笠部の正面に2人の像があり、多田さんは「2武人」とみている。塔正面の下部に2童子と1薬叉、1馬が浮彫りされている。イ・庚申塚には3段に35基があり、高・庚申塚には、寛政12年の自然石「庚申神」塔、天保14年の青面金剛、寛政12年の青面金剛、延宝8年の青面金剛がみられる。延宝8年塔の青面金剛は、合掌手の下に剣と首の剣人手、他の両脇の2手が徒手、いわば合掌6手像であり、剣人6手像である。
 旭市内では野中・長禅寺の四国八十八か所石佛、縁の金比羅大権現・稲荷大明神・八幡大明神や種蒔大師・寝大師・鯖大師の弘法大師がみられる。東足洗・光明寺にある合掌6手立像の安永9年駒型塔、日月と足下の鬼のような猿である。元禄11年の阿弥陀如来には、「奉参詣百堂三ケ年」の銘を彫る。旭泊まり。
 3日目は、先ず飯岡町を訪ね、上永井・妙長寺の「奉造立庚申□養」の銘を刻む延宝8年の聖観音光背型塔を調べている。
 飯岡から銚子市内に入り、親田町の墓地にある享保2年の金剛界大日如来光背型塔をみる。主尊が大日如来にも係わらず「地蔵講」の銘がみられ、「申待講拾六人」と刻む。市内には、童子付きの青面金剛が多いようで、今回の目的は童子付き塔である。栄町・威徳寺の天明2年の2童子付き塔をみてから、目的の陣屋町へ向かう。
 陣屋町の東性寺観音堂には、安永2年の2童子・4薬叉付きの青面金剛が蟻、台石にも4薬叉が浮彫りされている。ここにある庚申塔の写真は、足立の笹川義明さんから送られて、『石佛雑記ノート14』(多摩野佛研究会 平成19年刊)の「笹川さん撮影の写真」で紹介したことがある。近くの中央町・庚申神社には2童子・4薬叉付きの塔が2基みられる。1基は明和9年塔であり、他は年不明塔である。「庚申前」のバス停の前、長塚町にも明和2年の2童子付き塔が存在する。
 東庄町に入り、青馬・向台の延宝6年板碑型塔は、上部に正向型3猿を浮彫りし、下に「奉待庚申二世安楽所也」の主銘を彫る。最後は小貝野・共同墓地にある延宝3年光背型塔である。「奉納庚申三十三年成就処」の主銘が気になる。字義通りであれば、寛永10年から庚申講が続いていたことになる。前の延宝6年塔では3猿が上部、先に建てられた延宝3年塔の3猿が下部なのも、3猿に対する信仰のせいのなか、3猿の位置も問題である。
 最後の写真は、文中でふれていない銚子市八木町の庚申塚の写真である。路傍に近い10基ほどの庚申塔が倒れている。
 多田さんは第35号で29基の庚申塔を記しているが、実際は主な庚申塔を紹介したに過ぎず、文中に記載のない多くの庚申塔をみているはずである。延宝塔と童子塔、それに特に注目する庚申塔を選んで載せている。(平成19・12・5記)
『石仏散歩 悠真』36号

 平成19年11月27日(火曜日)に、多田治昭さんから届いた『石仏散歩 悠真』2冊の内、第36号は「青面金剛の持物」を特集している。これまでの『石仏散歩 悠真』では、青面金剛の持物の特集を重ねており、今回が8回目、独鈷・鈴・鉤・鍵・髑髏の5種が対象である。表紙は、先の多摩石仏の会創立40周年記念写真展に私が出品した青梅市千ケ瀬町・宗建寺の文化9年塔の写真を掲げている。
 表紙裏には、練馬区貫井・元禄15年塔の「鈴」と藤沢市片瀬・享保4年塔の「鍵」である。最初は「独鈷」、千葉市宮本・東光院の寛延2年塔を始め15基の写真を掲げている。内訳は千葉県が6基で最も多く、次いで埼玉県が4基、東京都と栃木県が各2基、神奈川県が1基である。東京都の場合、独鈷を持つ青面金剛が咄嗟に思い浮かばないが、2基は八王子市である。
 次の「鈴」は、表紙の宗建寺からもわかるし、旧浦和市内にみられる人鈴型の分布も知っている。「まえがき」で埼玉県浦和市周辺に多いと指摘している。掲載写真の枚数は、最も多いのが千葉県の9基、次いで埼玉県が6基、東京都が5基、栃木県が3基と続き、神奈川県・茨城県・群馬県が各1基である。
 「鉤」は、古い青面金剛の持物のような気がする。多摩地方でもみられ、掲載写真も7基全てが東京都である。調布市2基の他は、渋谷区・杉並区・小金井市・田無市・稲城市が各1基である。
 「鍵」は、余りみかけない持物であるといえる。これも「鉤」同様古い青面金剛の持物のような気がする。掲げられた3基が全て東京区部、杉並区・中野区・世田谷区の各1基である。東京の鍵とは形が異なるが、他に表紙裏に神奈川県がある。
 最後の「髑髏」は、青面金剛のネックレスでみるが、「まえがき」に「髑髏は千葉県我孫子市周辺で多く見られた」にあるせいか、持物の髑髏は記憶にない。記載12基の内訳は、千葉県が8基で最多、次いで茨城県が3基、群馬県が1基である。ローカルな持物であるのかもすれない。
 「髑髏」で注目す点は、3個の髑髏を紐に通し、輪にして持つスタイルが8基みられる。7基が千葉県、それも我孫子市が6基を占め、茨城県の1基が隣接する取手市である。掌の上に髑髏を乗せるのが3基、内訳は茨城県・群馬県・千葉県に各1基となっている。他の1基は、茨城県取手市の宝永6年塔で先に髑髏をつけた棒を持つ。
 標準的な合掌6手には、矛・宝輪・弓・矢を持物にしている。また標準的な剣人6手では、中央手の剣と人身を加えて矛・宝輪・弓・矢が持物である。この辺りが標準的な持物で、今回取り上げた独鈷・鈴・鉤・鍵・髑髏の5種は少ない部類である。「人鈴型」を気にしているせいか、この中では「鈴」に興味がある。関心があれば注目するから眼につくけれども、関心を払わないとみえてこない面がある。
 ともかく、多田治昭さんの持物の分析がいつまで続くのか、今までみたことのない持物が『石仏散歩 悠真』に登場するのか、楽しみである。(平成19・12・10記)
あとがき

 本書は、今年最後の『石佛雑記ノート』である。創刊号が1月15日だから、月1回を越す発行になっている。来年は、季刊か隔月刊程度にペースダウンしようと考えている。 「『石佛月報』10月号」は、瀧澤さんの個人誌で2号休刊後に発行された。この号に掲載されているのは、庚申塔を中心とした日光巡りの報告である。普段見慣れた石佛も、所変われば品変わるで、地域差を感じる。

 「笹川義明さんの来信」は、各地の祭りや民俗芸能を廻りながら、余裕の時間があれば石佛をみている笹川さんからの来信と写真を扱っている。地域差は、那須の馬頭観音にもみられるところである。
 「『伊東−石佛石神誌』」「『東伊豆町の石造塔』」「『河津町の石造文化財』」の3編は、森永五郎さんから送られた石佛文献について記したものである。伊東市・東伊豆町・河津町の3市町を比較しながら読むと、それぞれに地域差があり、特色がみられる。デスク上で比較するだけでなく、現地を調査するとまた違った面がわかると思う。

 「市原市内の庚申塔巡り」は、地元の町田茂さんの車で市内の庚申塔を中心に廻った記録である。今回は主に「市原型」を目指したわけではないから、この種の庚申塔をみたのは僅かである。23日には、「大串棒ささら」見学を10時間かけて水戸を往復したので、その疲れが残っていた。歳はとりたくないものである。
 「『石仏散歩 悠真』35号」と「『石仏散歩 悠真』36号」は、多田治昭さんの個人誌の2冊を取り上げた。私の『石佛雑記ノート』以上にハイペースで刊行されている。ここにも歳の差がみられる。
                            ─────────────────
                             石佛雑記ノート16 
                              発行日 平成19年12月20日
                              TXT 平成20年 2月 6日
                              著 者 石  川  博  司
                              発行者 多摩野佛研究会
                            ─────────────────
inserted by FC2 system