石 川 博 司  著  
相模原獅子舞を訪ねる 
    目次
下九沢の獅子舞1     下九沢の獅子舞2    下九沢獅子舞文献目録
上大島の獅子舞      大島の獅子舞を訪ねる  大島獅子舞文献目録
田名の獅子舞1      田名の獅子舞2     田名の獅子舞を訪ねる  田名獅子舞文献目録    
相模原市民俗芸能大会1 相模原市民俗芸能大会2   
あとがき
下九沢の獅子舞1
 平成7年8月26日(土曜日)は、神奈川県相模原市下九沢・御岳神社に行く。今年はたまたま土曜日に当たったが、例年8月26日の例大祭は、神奈川県無形文化財に指定されている下九沢の獅子舞が奉納される。この地には、奥多摩町氷川・小留浦の村木家に伝わる「日本獅子舞来由」(以下、伝書という)の写しがあるという。

 昭和63年8月第4日曜日の28日に行った時、小留浦獅子舞でいただいたパンフレット『山祇神社「獅子舞の歌」』の表紙裏には、次のような「歌集編集にあたって」が記されている。
    この獅子舞は、寛元三年(1245)後嵯峨天皇の御宇内裏にて始まり、文明年間の初め
   (1470)頃、当地に伝えられ、爾来幾多の変遷を経て子孫に受け継がれてきた。
    現在まで各所にこの獅子舞は伝え広められており、その数は、天文年間の原村(小河内)、
   桧原村を始め、文政年間の相模原まで、判明したものだけでも実に十数ヶ所に及んでいる。
    当所の獅子舞由来の巻物は、山崎角太夫師の直伝で、全国的にも稀に見る逸品であって、当
   地方獅子舞の元祖であると、自負するものである。
    この意味において、獅子舞の益々の発展を図るため、ここに各掛物別の、歌集を編集し、獅
   子舞歌の普及を図るものである。
        昭和五十五年八月                山祇神社獅子舞倶楽部

 この文中の「文政年間の相模原」というのが、この下九沢の獅子舞を指している。ここの伝書の巻末には
   天下泰平御獅子  祖家 本性伝書
   山崎角太夫
   干時元和二年卯(筆者注:丙辰年)六月
   右伝書之儀私 シ家より出申候義 にては無御座候此書ハ武州三田領村木氏之家 に伝 え有之候 を写
   取申候、此度立て御懇望 に付無拠写 し申候、若本書御望御方は本家山崎角太夫方より御伝法□
   □□以上                               榎 本 重 蔵
    文政四年巳八月

    〔出典〕永田衡吉『神奈川県民俗芸能誌』(神奈川県教育委員会 昭和62年刊)238頁と記されている。このように、伝書を譲った場合には、巻末にその旨が記録されている。奥多摩町原にも、小留浦・村木家からの伝書が残っている。原の巻末には
   天文拾壱年壬寅八月
   天下泰平祭御獅子
     祖家 本姓伝所   山崎角太夫
   右は一子相伝之義ニ而他見も難く相成候得共御所望ニ付譲渡渡申者也
        同州同郡氷川郷 小留浦村
        多摩郡小河内  原 村 江
    〔出典〕宮尾しげを・本田安次『東京都の郷土芸能』(一古堂書店 昭和39年刊)161頁とあり、檜原村沢又の伝書には
    天文元辰八月
    天下泰平獅子  祖家本姓伝所
        山 崎  角 太 夫
   武州多摩郡3田領小留浦村   村木氏江伝之
   此書先祖山崎氏より伝申候所御望ニ付写シ伝江申候    以上
   天明元年辛丑七月日  武州多摩郡3田領氷川在小留浦村  村木 (印)
      同国同郡小宮領沢又村 木原氏伝之
    〔出典〕檜原村史編纂委員会『檜原村史』(檜原村 昭和56年刊)913頁とある。この沢又の伝書は、さらに同村数馬に伝えられており、奥多摩町留浦・峰に伝書を与えている。峰の奥書には、沢又の奥書(多少文面に違いがある)に
    此書先祖村木氏ヨリ伝リ申候此度御望付写シ伝ヘ申候  以上
      寛政元年酉三月 日  武州多摩郡桧原村沢又村  木原氏
    此書先祖木原氏ヨリ伝ハリ申候此度自分儀貴村エ獅子伝授出張記念之為メ此度 謄写伝ヘ申
   候  以上
    昭和五年拾月日 東京府西多摩郡桧原村旧字名沢又藤原 峰岸乙次郎(印)
     東京府西多摩郡小河内村字峰  鎮座鎮座花入神社并ニ峰組御中
    〔出典〕小林 資史「獅子舞めぐり」『ともしび』第3号(ともしび会 昭和41年刊)7頁を加えている。

 同じ所(小留浦・村木家)から出ている伝書の年銘が、下九沢では「干時元和二年(1616)卯六月」で、原では「天文拾壱年(1542)壬寅八月」、沢又では「天文元(1532)辰八月」と異なっているのは、どのような理由によるものだろうか。1つには、現在、小留浦・村木家に残っている伝書には、巻末に「天明二年(1782)寅六月 相原山 明文法印写之」が記されている(昭和63年8月調査)だけで、この伝書の他に旧来の伝書の存在をうかがわせる。

 奥多摩町大丹波の獅子舞が、青梅市成木・高水山に伝えられ、さらに高水山から埼玉県入間郡名栗村下名栗へと伝授されている。こうした獅子舞の系統を追ってみたが、3地の獅子舞に共通の部分もあれば、異なったところも見られる。小留浦と下九沢の場合はどうなのか、その点が私の興味のあるところなので、下九沢に出掛けたわけである。

 下九沢の御岳神社に着いたのは、午後0時55分。社務所の前に神事に参加する人たちが集まっている。午後1時に氏子総代2人を先頭に、神官・神楽を奉納する亀山社中・氏子総代・来賓・祭典関係者などが列を整えて拝殿に向かう。途中、手洗舎で口・手を漱いでから拝殿に入り、修祓・祝詞奏上、幣・扇・剣の3種の神楽奉納・玉串奉奠などの神事を行う。神事は、1時55分に終わる。

 御岳神社の境内には、「獅子舞の碑」が見られる。自然石の表面に「御岳神社 獅子舞の碑 内山岩太郎書」とあり、背面には
   昭和三十三年十月二日 相模原市指定重要無形文化財
   昭和三十六年七月四日 神奈川県指定重要無形文化財
   「日本獅子舞来由」由来については 文化4年(1821) 榎本重蔵外数名武州多摩郡小留
   浦村の村木氏 家伝にもとずき伝習したとある 以来百四十年余 時に多少の盛衰はあったが
    確実に今日まで継承して来た 八月二十六日の祭禮に澄みたる笛の音と素朴な唄声に合わせ
   て三頭の獅子 岡崎を交えて勇壮に舞い踊る時誠に精気が天地に満つるの観がある ここに関
   係者が相計り建碑して県市指定を記念するとともに この貴重なる文化財を永くこの地に伝え
   べきものである。
            相模原市文化財保護委員長 座間美都治撰文
            昭和四十一年一月吉日建之
            獅子舞連名      内山源治(他14名 氏名省略)
            獅子舞保存会委員   今井代輔(他17名 氏名省略)が刻まれている。なお、社殿には
   相模原市指定重要無形文化財 昭和三十三年十月二十日指定
   神奈川県指定重要無形文化財 昭和三十六年七月四日指定
   下九沢御岳神社獅子舞
    文政(1818ー1830)年間の初め江戸で流行した角兵衛流の獅子舞が武州西多摩郡(
   ママ)散田村辺を経て当所へ伝えられたという。その由来については「日本獅子舞来由」一巻
   をいまに伝える。
    以来多少の盛衰はあったが現在では確実に伝承している。一人立ちの三頭の獅子が胴につけ
   た太鼓を打ちながら笛と唄に合わせて、きわめて勇壮に活発に舞い狂いこの間に「ひょっと
   こ」面と鬼面が滑稽な身振りで立ちまじり、平和で健康的な気分をもりあげる。獅子役には両
   親そろった長男の若者があたる定めになっている。
    毎年八月二十七日当社祭典の際神前で演じられる。         相模原市教育委員会
と、記された額がかかっている。額にある「西多摩郡」には、「散田村」が見当たらないから、もし西多摩郡が正しいとするならば、現在も獅子舞が伝承されている山田村(現・あきる野市)の誤りかもしれない。散田村(現・八王子市)ならば、「南多摩郡」でなくてはならない。隣の椚田(現・八王子市狭間町)には現在も獅子舞がみられるから、ここから伝えられたのだろうか。それにしては、山田にしろ狭間にしろ、下九沢の獅子舞唄と比べると、多大の違いがみられるが。

 それにしてもこの地に伝えられている獅子の巻物には、「武州三田領村木氏之家」と明記されているのに、なぜ「武州西多摩郡散田村辺を経て」と額に記されているのは疑問である。後に建てられた石碑にも「武州多摩郡小留浦村の村木氏」と刻まれているのと併せると、訂正されるべきであろう。

 午後3時に花火があがる。獅子舞の始まる合図であろう。獅子舞連中は、塚場自治会館で支度をしそこから御岳神社まで道中する。道中はノボリ2流を先頭に、万灯・笛方・ササラ摺り・獅子の順である。獅子は道中では水引き幕を開けて顔を出している。ノボリは、「御嶽神社御祭禮 氏子中」と「神奈川県 無形文化財御嶽神社獅子舞 昭和三十七年七月吉日」の2流である。万灯は、それぞれの面に「御祭禮」「五殻豊熟」「氏子安全」「天下泰平」と記されている。

 獅子は剣角をもつ剣獅子(男獅子)、宝珠の玉獅子(女獅子)、巻き角をもつ巻獅子(男獅子)の3匹で、いずれも赤頭である。毛は麻緒。水引き幕は、中央に中輪に立ち葵の紋、左右にボタンの花下部に波を描く。剣獅子と玉獅子のボタンは、赤であるが、巻獅子のは、ピンクの花だから、角と同時に水引き幕でも区別できる。
 獅子は頭に獅子頭、腹に三つ巴紋を描く太鼓をつけ、手にはバチを持つ。衣装は、白地の格子柄状の上衣に、緑地に唐草紋を白抜きした袴をはく。白足袋はだしである。
 岡崎は1人、烏帽子をかぶり、赤の面をつけ、麻の毛をつける。衣装は、獅子と同じである。ここで「岡崎」と呼んでいる役は、西多摩地方でいう「蠅追」役である。
 ササラ摺りは2人の中学生(男性)、頭に花笠をかぶり、手にササラを持つ。上衣に袴を付ける。白足袋で、黒緒の下駄をはく。獅子の演技中は、笛方や唄方などと並んで椅子に座っているだけ、ササラを摺ることはない。

 獅子舞は午後3時から始まるように聞いていたが、獅子舞連中が神社に着いたのが3時18分で、鳥居のところで小休止する。3時28分、氏子総代2人が先導して、ノボリ2流・万灯・笛方・花笠・獅子と続いて社前の庭場に向かう。庭場は、3間四方の四隅に竹を立て、注連縄をめぐらす。中央に盛り砂をして白幣を立て、白線で土俵を描く。

 3時29分に庭場に着いた岡崎が、縄を切って庭場に入る。白幣を抜き、盛り砂を均してから獅子舞が始まる。まず剣獅子が出て水引き幕を下ろして一舞い(1分ほど)、続いて巻獅子、玉獅子の順に水引き幕をおろして一舞いする。
その後は
   番 開始時間 獅子舞唄
   1  3:32 鳴りを鎮めてお聞きやれ われらが簓の唄の品聞け
   2  3:34 この宮は何たる大工が建てたやら 四方四面に楔一つで
   3  3:37 皆々申せば限り無し 太鼓を早めて遊べ友だち
   4  3:40 廻れや車続いて廻れ水車 おそく廻れば関を止める
   5  3:41 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと立て申さいな
   6  3:42 筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりぬる
   7  3:44 この頃は参ろ参ろと思えども 橋は石橋飛ぶにゃ飛ばれぬ
   8  3:46 月も日も西へ西へとお急ぎやる いざや我等もあれをみまぬけ
   9  3:50 太鼓の拍子にお庭の拍子 拍子を揃えて見申さいな
   10  3:52 一つをすごいそ のうかいせん
   11  3:53 国からは急げ戻れと文がくる お暇申していざ申さいな
   12  3:54 太鼓の胴をきりとと締めて お庭で簓を摺りとを止めた
の連続した唄に合わせて、獅子は円になり3角形なって舞う。唄の開始時間を見ても、続いて歌われているのがよくわかる。最後は、獅子3匹が一列に並んで3時55分に獅子舞が終わる。26分の演技時間である。

 下九沢の獅子舞を見て感じたことは、小留浦の獅子舞とは違う舞い方である。腰をかがめることはなく、立った状態で舞い、舞の構成も単純である。強いて小留浦の舞いにあてはめれば、「三拍子」であろうか。
小留浦の三拍子の唄をあげると
   1 いれは 此のお庭の姫小松 たんだひとえにひきまわサイナ
   2 小ぎり かぎ鳥が宮の出口で昼寝して 鍵を枕によねを踏いて
   3     此の森に鷹がすむげて鈴の音 鷹じゃないもの御神楽の音
   4     此の宮は飛騨の工匠の建えて 四方長押にはすのゑしもの
   5     五千本の槍を持たせて行くならば せじう七日のこれのごじもん
   6     みとばが宮の長押に巣をかけて 法華経やま経を空で読候
   7     山が八つ谷が九つこれは又 いせんおいでのおれいなるもの
   8     此の男の今が盛りと見えて候 二階座敷で壷を眺むる
   9     鳥居垣に苔生えて 参る氏子も末繁盛息災なり
   10 大ぎり 此の宮は飛騨の工匠の建えて 四方長押にはすのゑしもの
   11 三拍子 此のお庭の姫小松 一枝たおめて腰を休ませろ
   12     海の途中の浜千鳥 波にゆられてぽいとたはち候
   13     三拍子のきりならば 今の拍子をきりかえサイナ
   14 ひきは 太鼓の胴をきりりとしめて ささらをさらりとすりかえサイナで、小留浦の「此の宮は飛騨の工匠の建えて 四方長押にはすのゑしもの」と「太鼓の胴をきりりとしめて ささらをさらりとすりかえサイナ」の2番が、下九沢の「この宮は何たる大工が建てたやら
 四方四面に楔一つ」と「太鼓の胴をきりとと締めて お庭で簓を摺りとを止めた」に類似する程度である。

 この下九沢の獅子舞が明治37、8年戦役以来中絶し、昭和3年に復活したという。江戸期の舞をどの程度、現在、伝承しているのかわからないので、軽々にはいえないが、現状の舞から判断する限りでは、小留浦の舞を下九沢に伝授したことはかなり疑問である。むしろ、獅子舞の小留浦からの伝授というよりは、下九沢側では伝書だけが目的のように考えられる。
              〔初出〕『相模原 獅子と庚申』(ともしび会 平成7年刊)所収
◎ 下九沢の獅子舞2
 平成9年8月26日(火曜日)は、神奈川県相模原市下九沢・御岳神社で県指定無形民俗文化財の獅子舞が奉納される。この獅子舞には、東京都西多摩郡奥多摩氷川・小留浦の村木家に伝わる「日本獅子舞来由」(以下、伝書という)の写しがあるという。

 初めてこの獅子舞をみたには、平成7年8月26日(土曜日)であった。2年振りに平成9年8月26日に訪れた。水郷田名行きの神奈川中央バスで「下九沢」で下車、車窓からみえた塚場自治会館に向かう。会館前にはTVのクルーがいただけで、扉も閉まっている。御岳神社にいき、受付で獅子舞に詳しい人はいませんかと尋ねたところ、塚場自治会館にいっているはずだという答えがかえってきた。神社の拝殿で行われている神楽奉納を写真に撮る。

 再び塚場自治会館にいくと、今度は獅子舞連中が集まって、2階で支度をしている。午後2時35分に獅子舞連中がでてきてので、獅子の太鼓とバチ、ササラと花笠の計測を行う。
   ┏━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━━┓
   ┃   ┃太鼓     ┃バチ      ┃
   ┃獅 子┠───┬───╂────┬───┨
   ┃   ┃直 径│幅  ┃直  径│長 さ┃
   ┣━━━╋━━━┿━━━╋━━━━┿━━━┫
   ┃剣獅子┃31cm│19cm┃1・5cm│21cm┃
   ┠───╂───┼───╂────┼───┨
   ┃玉獅子┃31cm│16cm┃2・0cm│21cm┃
   ┠───╂───┼───╂────┼───┨
   ┃巻獅子┃31cm│20cm┃2・0cm│21cm┃
   ┗━━━┻━━━┷━━━┻━━━━┷━━━┛
獅子の太鼓とバチは、前の表の通りである。ササラは、竹製のナイフに似たもので長さが36cm、幅が25cmである。花笠は直径47cmの丸笠で、上部に花の飾りがある。水引き幕は、小さな京人形のプリント地をもちい、長さが41cmある。

 2時43分に獅子舞連中が揃って記念撮影を済ませ、自治会館前で万灯を先頭にノボリ3流・笛方8人・花笠2人・岡崎・獅子3人の順に整列して、55分に御岳神社に向けて道行となる。万灯は、それぞれの面に「御祭禮」「五殻豊熟」「氏子安全」「天下泰平」と記されている。ノボリは、「神奈川県 無形文化財御嶽神社獅子舞 昭和三十七年七月吉日」の1流と「御嶽神社御祭禮 氏子中」の2流である。獅子は、道中では水引き幕を開けて顔を出している。
 獅子は、剱状の2本角の剣獅子、ネジレ角2本の巻獅子の男獅子2匹に、宝珠の玉獅子(女獅子)の3匹である。いずれも鶏羽根をつけた赤塗りの頭で、麻緒を毛とする。水引き幕は男獅子が茶地、女獅子が灰色地で中央に丸に立ち葵の紋、その下にボタンの花を描き、下部が水面になっている。
 獅子は頭に獅子頭、腹に三つ巴紋3つを描く太鼓をつけ、手にはバチを持つ。衣装は、今年新調した紺地に茶の籠目模様の上衣に、緑地に唐草紋を白抜きした袴をはく。上衣の襟は黒地で、赤の三つ巴紋「獅子舞保存会」「御嶽神社」の名入りである。道行では白足袋に黒緒の下駄をはくが、神社の鳥居前からは足袋ハダシになる。

 岡崎は1人、赤地(片面に金紙の日天、他面に銀紙の三日月を貼る)に黒縁の烏帽子をかぶり、赤い面をかぶって麻の毛をつける。衣装は、獅子と同じである。ここで「岡崎」と呼んでいる役は、西多摩地方でいう「蠅追」役である。
 ササラ摺りは、2人の小学生4年の男生徒で、頭に花笠をかぶり、手にササラをもつ。上衣に袴をつける。白足袋で、黒緒の下駄をはく。獅子の演技中は、笛方や唄方などと並んで椅子に座っているだけ、最後に少しだけ指示されてササラをすった。
 笛方(8人)や唄方(4人)は、白地に小さな柄の入った着物に角帯をしめ、紺足袋に白緒の草履をはく。肩から青地に赤の三つ巴紋「獅子舞保存会」「御嶽神社」の名入りの布をかける。笛は、5本調子の7つ孔をつかう。昔は4本調子であったという。
 万灯やノボリをもつ人は、黒襟に「塚場」の名入りのハンテンを平服の上にきる。ハンテンは、背面に明るい緑地にヒョットコとオカメの面を描く。

道行の途中、午後3時に花火があがる。神社近くで氏子総代2人がまちうけ、先導して獅子舞連中が神社についたのが3時12分、鳥居のところで小休止する。この間に岡崎と獅子は下駄をぬぐ。3時17分、万灯・ノボリ3流・笛方・花笠・岡崎・獅子と続いて社前の舞場に向かう。

 舞場は、3間四方の四隅に竹を立て、注連縄をめぐらす。中央に盛り砂をして白幣を立て、白線で土俵を描く。3時19分に庭場に着いた岡崎が、白幣を抜き、盛り砂を均してから獅子舞が3時19分に始まる。まず剣獅子が出て水引き幕を下ろして一舞い(1分ほど)、続いて巻獅子、玉獅子の順に水引き幕をおろして一舞いする。
その後は
   3:24 1 鳴りを鎮めてお聞きやれ われらが簓の唄の品聞け
   3:26 2 この宮は何たる大工が建てたやら 四方四面に楔一つで
   3:28 3 皆々申せば限り無し 太鼓を早めて遊べ友だち
   3:31 4 廻れや車続いて廻れ水車 おそく廻れば関を止める
   3:33 5 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと立て申さいな
   3:34 6 筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりぬる
   3:37 7 この頃は参ろ参ろと思えども 橋は石橋飛ぶにゃ飛ばれぬ
   歌わず 8 月も日も西へ西へとお急ぎやる いざや我等もあれをみまぬけ
   3:41 9 太鼓の拍子にお庭の拍子 拍子を揃えて見申さいな
   3:43 10 一つをすごいそ のうかいせん
   3:44 11 国からは急げ戻れと文がくる お暇申していざ申さいな
   3:46 12 太鼓の胴をきりとと締めて お庭で簓を摺りとを止めた
の連続して歌う唄(上部の数字は唄の開始時間)に合わせて獅子が円形になって舞う。最後は、獅子3匹が一列に並んで3時47分に獅子舞が終わる。演技時間が28分のうちに11の唄を歌うのを見ても、次々に歌われているのがよくわかる。

 獅子舞が終ると神楽殿では、亀山社中の「三番叟」が演じられている。獅子頭や花笠は3時50分に拝殿に飾られる。許可をえて頭を撮影してから帰途につく。
             〔初出〕『平成九年の獅子舞巡り』(多摩獅子の会 平成9年刊)所収
◎ 下九沢獅子舞文献目録
永田 衡吉「神奈川県の無形文化財総覧」『神奈川県文化財調査報告書 第21集』308頁 神奈川県教育庁 社会教育課 昭和29年刊永田 衡吉「無形文化財集録(2)」『神奈川県文化財調査報告書 第23集』253・275・2
     77〜281頁 神奈川県教育庁社会教育課 昭和32年刊相模原市教育委員会「相模原市文化財条例による指定重要文化財」『郷土相模原』第6集1〜2頁
     同会 昭和34年刊篠崎  敬「八月の文化財巡り──解説」『郷土さがみ原』第1号 相模原郷土懇話会 昭和36年刊永田 衡吉『神奈川県民俗芸能誌』189〜197・263〜267頁 神奈川県教育委員会 昭和
     41年刊相模原市教育委員会社会教育課『さがみはらの文化財 第4集 獅子舞』1〜14頁 同会 昭和44
     年刊神奈川県教育庁社会教育課『神奈川県の文化財』第10集口絵・23〜24頁 同課 昭和45年刊平井 紅峯『里のききがき=相模原の巻』33〜35頁 文芸出版社 昭和45年刊神奈川県民俗芸能保存協会事務局『かながわの民俗芸能』第2号10頁 同会 昭和45年刊神奈川県教育庁文化財保護課『かながわの民俗芸能案内』10・88〜89・104頁 神奈川県教
     育委員会 昭和46年刊川口 謙二「民俗芸能豆辞典 獅子舞の二系統」『かながわの民俗芸能』第5号7頁 神奈川県民俗
     芸能保存協会 昭和46年刊相原  純『写真集 神奈川のまつり』137頁 萬葉堂書店 昭和47年刊神奈川県教育庁文化財保護課『神奈川県文化財図鑑 無形文化財・民俗資料篇』図版16・図版86
     〜88・76・77〜80・92〜94・236頁 神奈川県教育委員会 昭和48年刊相模原市教育委員会『さがみはらの文化財』第4集5・14頁 同会 昭和50年刊神奈川県教育庁文化財保護課『神奈川県の民俗芸能案内』10・88〜89・104頁 神奈川県教
     育委員会 昭和51年刊神奈川県民俗芸能保存協会事務局『かながわの民俗芸能』第20号22頁 同会 昭和52年刊神奈川県県史編集室『神奈川県史 各論編5 民俗』871・873頁 神奈川県 昭和52年刊吉田 智一『獅子の平野 民俗写真集 フォークロアの眼5』122〜123頁 国書刊行会 昭和
     52年刊小島 美子「三匹獅子舞のしくみと成り立ち」『獅子の平野』116頁 国書刊行会 昭和52年刊神奈川県教育庁文化財保護課『かながわの民俗芸能50選』13〜14頁 神奈川県教育委員会 昭和
     52年刊永田 衡吉『かながわの祭と芸能』112〜113頁 神奈川合同出版 昭和52年刊小川 順作「御嶽神社獅子舞」『さがみはらの民俗芸能』創刊号4頁 相模原民俗芸能保存協会 昭
     和55年刊町田市立博物館『武相の民俗芸能展』5・7・20・22頁 同館 昭和56年刊笹野 邦1「下九沢御嶽神社の獅子舞」『さがみはらの民俗芸能』第2号2〜7頁 相模原民俗芸能
     保存協会 昭和56年刊相模原民俗芸能保存協会『さがみはらの民俗芸能』第2号8〜9頁 同会 昭和56年刊笹野 邦一『おおさわ風土記第2集』31〜34・92〜95頁 おおさわ風土記協力会 昭和57年
     刊神奈川県教育庁文化財保護課『ふるさとの文化財(民俗文化財編)』104〜105頁 神奈川県教
     育委員会 昭和58年刊神奈川県百科事典刊行会『神奈川県百科事典』817頁 大和書房 昭和58年刊相模原市文化財現況調査会『相模原市文化財現況調査報告書』144〜145・153頁 同会 昭
      和59年刊神奈川県文化財協会「資料・神奈川県指定文化財一覧2」『かながわ文化財』第81号46頁 同会
     昭和60年刊笹野 邦一「獅子舞の由来」『つかば』103〜108頁 塚場自治会館建設委員会 昭和60年刊永田 衡吉『増補改訂版 神奈川県民俗芸能誌』197・230〜231・233〜239・305
     〜309・319・321頁 錦正社 昭和62年刊加藤 隆志「相模原市下九沢の獅子舞について」『かながわの文化財』第85号29〜32頁 神奈
     川県文化財協会 平成1年刊笹原 亮二「祭と人々」『相模原の祭礼行事』19〜20頁 相模原市教育委員会 平成1年刊相模原市民俗芸能保存会『さがみはらの民俗芸能』第10号6〜7・22〜26・28〜32頁 同
     会 平成1年刊高橋秀雄・須藤功『祭礼行事 神奈川県』135・142頁 桜楓社 平成3年刊神奈川県祭礼研究会『祭礼事典 神奈川県』概説・74・197・225頁 桜楓社 平成4年刊吉村 俊介『獅子の里を訪ねて──神奈川県の一人立ち三頭獅子舞』49〜57・113・115・
     121頁 宮の橋社 平成4年刊笹野 邦一「ふるさとのこぼれ話し(1) 大沢の最長老小川篤吉翁(9十7歳)」『おおさわ』7
     8号 大沢PTA 平成4年刊相模原市教育委員会博物館建設事務所編『獅子舞調査報告書第3集 田名の獅子舞』1〜98・1〜
     8頁 同会 平成5年刊荒井 俊明『鳥屋の獅子舞──1人立3頭獅子舞』1〜59・65頁 同人 平成5年刊相模原市教育委員会博物館建設事務所『獅子舞調査報告書第4集 下九沢の獅子舞』1〜105・1
     〜9頁 同会 平成6年刊相模原市民俗芸能保存会事務局「奥多摩小留浦の獅子舞との交流」『さがみはらの民俗芸能』第15
     号16〜17頁 同会 平成6年刊相模原市博物館建設事務所編『獅子舞調査報告書第5集 大島の獅子舞』7・8頁 相模原市教育委
      員会 平成7年刊石川 博司『相模原 獅子と庚申』1〜8頁 多摩獅子の会 平成7年刊石川 博司『平成七年の獅子舞巡り』1〜9頁 ともしび会 平成7年刊相模原市立博物館『獅子舞調査報告書第6集 3匹獅子舞の諸相』52・55・72〜76・78〜
     81頁 同館 平成8年刊石川 博司『平成九年の獅子舞巡り』102〜120頁 多摩獅子の会 平成9年刊
              〔初出〕『神奈川の獅子舞巡り』(多摩獅子の会 平成10年刊)所収〔追 録〕石川 博司『神奈川の獅子舞巡り』1〜9・45〜8・98〜101頁 多摩獅子の会 平成10年刊石川 博司『神奈川の獅子舞巡り2』17〜20・21・23頁 多摩獅子の会 平成12年刊笹原 亮二『三匹獅子舞の研究』53〜6・160〜70・218〜221頁 思文閣出版 平成15
     年刊
◎ 上大島の獅子舞       
 平成7年8月27日(日曜日)は、立川市柴崎町・諏訪神社を始め、奥多摩町の氷川(小留浦)山祇神社、氷川(栃久保)根元神社、大丹波・青木神社など各地で獅子舞が見られる。昨日、神奈川県相模原市下九沢の御岳神社の獅子舞を見たのに続き、同市上大島の諏訪神社の獅子舞を訪ねる。

 諏訪神社の拝殿の中には、正面左手に昭和51年10月19日付けの神奈川県無形文化財の指定書が掲げてあり、左側面には、獅子舞連中を写した昭和3年11月10日の御大典記念、年代不明(昭和50年頃か)、昭和60年祭禮の3葉の写真が見られる。
拝殿外の南側には
   相模原市指定重要無形文化財 昭和三十三年十月二十日指定
   神奈川県指定重要無形文化財 昭和三十六年七月四日指定
   大島諏訪神社獅子舞
  文政(1818ー1830)年間の初め江戸で流行した角兵衛流の獅子舞が武州西多摩郡(ママ)散田村辺を経て当所へ伝えられ  たという。その由来については「日本獅子舞来由」1巻
   をいまに伝える。
    以来多少の盛衰はあったが現在では確実に伝承している。1人立ちの3頭の獅子が胴につけ
   た太鼓を打ちながら笛と唄に合わせて、きわめて勇壮に活発に舞い狂いこの間に「ひょっと
   こ」面と鬼面が滑稽な身振りで立ちまじり、平和で健康的な気分をもりあげる。
    獅子役には、両親そろった長男の若者があたる定めになっている。
    毎年八月二十七日当社祭典の際神前で演じられる。        相模原市教育委員会
と、記された額がかかっている。「下九沢御岳神社獅子舞」の指定箇所が「大島諏訪神社獅子舞」と替わったでけで、下九沢と全く同じ文面である。下九沢には、奥多摩町氷川・小留浦の村木家の名を記す獅子の巻物が残っているから、この「武州西多摩郡散田村辺を経て」の文句が特に気にかかるが、ここでは、獅子舞の奥書に何も記されていないそうだから、散田村辺を経てきたという言い伝えが残っていても不思議ではなかろう。

 ただ額にある「西多摩郡」には、どうしても「散田村」が見当たらない。考えられるのは、「三田(みた)領」の小留浦を「さんだ」と読み違えて「散田村」が伝承されたものではなかろうか。しかし、西多摩郡が正しいとするならば、現在も獅子舞が伝承されている山田村(現・あきる野市)の誤りかもしれない。
 武州散田村(現・八王子市)であるならば、「南多摩郡」でなくてはならない。隣の椚田(現・八王子市狭間町)には現在も獅子舞がみられるから、ここから伝えられたのだろうか。それにしては、山田にしろ狭間にしろ、上大島の獅子舞唄と比べると、多大の違いがみられるが。

 予定では午後1時からの神事が15分遅れて拝殿で行われる。氏子総代・県会議員・近隣も含めた自治会役員・近隣の神社氏子総代長・観光協会会長・祭典委員など来賓と祭禮関係者が集まり、修祓・祝詞奏上・玉串奉奠などの神事が行われる。1時39分に終了、社務所に席を移して直会となる。

 獅子舞連中は、長徳寺前の上大島自治会館で支度をし、午後1時54分からノボリ2流を先頭にして、万灯2個・天狗・ひょっとこ・鬼・獅子(3匹が横一列に並ぶ)・笛方3人・唄方2人・子供の天狗・ひょっとこ(岡崎)・鬼・獅子(頭をつけず、横一列に並ぶ)の順に並んで道行となる。1の鳥居に2時5分に到着、ここで小休止する。10分に出発し、神社境内に2時18分に到着する。
 獅子は、剣角をもつ剣獅子(男獅子)、宝珠の玉獅子(女獅子)、巻き角の巻獅子(男獅子)の3匹で、いずれも赤頭である。毛は紅麻緒。水引き幕は、花柄のプリント地である。獅子は、頭に獅子頭、腹に三つ巴紋を描く黒塗りの太鼓をつけ、手にバチを持つ。太鼓の直径は35cm、幅は27cmである。子供が使う太鼓は、少し小さく直径は34cm、幅は26cmである。衣装は、波と千鳥を白抜きにしたブルーグレー地の上衣に、茶色の袴をはく。赤の手甲をつけ、白足袋はだしである。
 天狗は鳥甲をかぶり、「諏訪神社」の名入りの上衣に柄のタッツケをはく。赤の手甲をつけ、白足袋にワラジ履き。腰には綿入りの赤紐を巻き、赤の襷をかける。左手に八つ手の天狗団扇、右手に青竹の杖を持ち、腰に太刀を佩く。
 岡崎はひょっとこ面をつけ、三番叟の剣先烏帽子をかぶる。単衣の着物に小紋の裃、紫の3つ鱗の袴をはく。赤の手甲をつけ、白足袋はだしである。手にはササラを持つ。
 鬼は1本角のある赤の鬼面をかぶり、赤麻の毛をつける。Tシャツの上に揃いのハンテンで、濃い柄のプリント地のタッツケをはく。紅白の襷をかける。赤の手甲をつけ、白足袋にワラジ履き。両手には、榊の枝を束ねて持つ。この役は、西多摩地方でいう「蠅追」役である。

 笛方と唄方は、揃いのユカタを着用し、花笠をかぶる。笛は、5本の七つ穴を用いる。 社殿の前には2間半四方の庭場が設けられ、4隅に竹を立て、注連縄を張りめぐらす。下から1メートル程のところにも縄を張っている。鳥居側の2本の竹には、万灯がつけられる。中央には白幣を立てた盛り砂がある。下九沢と違って、土俵を示す白線はない。
 午後2時29分に道笛が吹かれ、獅子舞が始まる。鳥居の舞が終わって、獅子が庭場に入る前に、天狗は、正面下の縄を切って入り、盛り砂を平らにする。道行からこれまでは獅子が水引き幕を口で加えて顔を出しているが、まず剣獅子が舞い始めて幕を下ろして一舞(2分位)する。続いて巻獅子が代わって中央に出て水引きを下ろして舞う。この時に、玉獅子も立ったままで水引きを下ろす。この部分は、下九沢とは異なる。巻獅子に続いて玉獅子が一舞する。
以後は、下九沢と同様に次のような唄が続く。
   番 開始時間 獅子舞唄
   1  2:39 鳴りを鎮めてお聞きやれ われらが簓の唄の品聞け
   2  2:41 山雀が山に離れて八つ連れて これのお庭で羽根を休める
          (これのお庭を見申せば 黄金小草が足にからまる)
   3  2:43 皆々申せば限り無し 申し残して国の土産に
   4  2:46 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと引きまわせ
   5  2:47 筑波嶺の峰から落ちる滝の水 それが積もりて淵となりぬる
   6  2:50 この程は参る参ると思えども 橋は引き橋飛ぶに飛ばれぬ
   7  2:54 月も日も西へ西へとおよりやる いざや我等もあれを見まねに
   9  2:59 太鼓の拍子にお庭の拍子 拍子を揃えて見せ申せ
   10  3:01 一つをすごいて のうかいせん
   11  3:02 国からは急げ戻れと文がくる お暇申していざやと申せ
          太鼓の胴をきりとと締めて お庭で簓を摺り止め
なお、唄方の持つ扇子の両面には
    1 なりをしづめて おきゝやれ われらがさゝらの うたのしなきけ
    2 これのおにわを みまふせば こがねこぐさが あしにからなる
   神前 やまがらがやまに はなれてやつゝれて これのおにわで はねをやすめろ
    3 みな  まふせば かぎりなし まふしのこして くにのみやげに
    4 けふからくだる からゑのびやうぶ ひとえにさらりと ひきませ
    5 つくばねのみねから おつるたきのみず それがつもりて ふちとなりぬる
    6 このほどはまいる  と おもへども はしはひきはし とぶにとばてぬ
    7 つきもひもにしへ にしへとおいりやる いざやわれらも あれをみまめに
    8 たいこのひやうし おのわのひやうし ひやうしをそろえて みせまふせ
    9 ひとつをすごいて のふかいせん
   10 くにからはいそぎ もどれとふみがくる おいとまもふぃして いざやとまふせたい
      このだうを キリリトシメテ おにわでささらを すりとゞめ
         昭和62年8月
が記されている。扇子の表面には1から6、裏面には7から10の唄と年銘がある。
 舞の途中で獅子がバチを打つ箇所があり、西多摩地方でみられる「三拍子」の舞でみられる。獅子が舞っている間に、鬼は獅子と同じように外側で舞う。西多摩地方でいう「蠅追」役である。岡崎は先が陽物に模したササラを股間に当てて摺りながら獅子の周りを廻る。獅子舞唄が終わると、獅子は横一列となって終わる。終了は3時4分、35分の演技である。

 奉納獅子舞が終わってから、子供の獅子舞となる。剣獅子と玉獅子は小学校5年生、巻獅子は中学1年生である。子供の獅子舞は、3時16分から始まる。大人の仕舞い同じように、天狗が縄を切って入り、盛り砂を平らにしてから舞となる。剣獅子、巻獅子、玉獅子の順に1舞し、水引き幕を下ろす。獅子が横一列になってから唄が始まる。
唄は
   番 開始時間 獅子舞唄
   1  3:25 皆々申せば限り無し 申し残して国の土産に
   2  3:27 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと引きまわせ
   3  3:30 太鼓の拍子にお庭の拍子 拍子を揃えて見申せ
   4  3:32 一つをすごいて のうかいせん
   5  3:34 国からは急げ戻れと文がくる お暇申していざやと申せ
          太鼓の胴をきりとと締めて お庭で簓を摺り止めの順で歌われる。最後は、獅子が横一列になって3時35分に終わる。奉納舞に比べると。獅子舞唄を6番省略しているから、演技時間は19分である。

 獅子舞唄は、下九沢の唄とほぼ同じであるが、「この宮は何たる大工が建てたやら 四方四面に楔一つ」と「廻れや車続いて廻れ水車 おそく廻れば関を止める」の唄が抜けている。一方、下九沢には神前で歌う「山雀が山に離れて八つ連れて これのお庭で羽根を休める」、あるいはその他で歌う「これのお庭を見申せば 黄金小草が足にからまる」がみられない。他の唄でも、「京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと引きまわせ」を下九沢では「京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと立て申さいな」、「国からはい急げ戻れと文がくる お暇申していざやと申せ」を「国からはい急げ戻れと文がくる お暇申していざ申さいな」と歌うように、歌詞に多少の違いが見られる。

 獅子の舞い方は、単純な下九沢に比べると、バチ打ちがみられるなどがあって変化に富む。舞う姿勢も、腰を引いており、下九沢の舞よりは獅子舞らしい。ここの獅子舞も、腰高である。腰が今より低く舞えれば、さらに見栄えがする。ここだけでなく、一般に唄・笛・舞ともテンポが速い。獅子舞唄は、古風な歌い方を残しているが、崩れがみられるようである。
               〔初出〕『相模原 獅子と庚申』(ともしび会 平成7年刊)所収
◎ 大島の獅子舞を訪ねる
 平成16年8月22日(日曜日)は、相模原市の大島の獅子舞を諏訪神社に訪ねる。前回この獅子舞を見学したのが平成7年8月27日(日曜日)、この年はたまたま日曜日に当たっていたが、当時は曜日に関係なく8月27日、つまり同市下九沢の獅子舞の翌日に諏訪神社へ奉納していた。9年振りに訪ねた今回は一般的な傾向といえる日曜日に日取りを変えている。

 JR橋本駅南口から神奈川中央バスで終点の「上大島」まで行き、道を間違えて逆方向へ歩き、交差点を渡って地図をみていると声が掛かる。みるとバイクに乗った岩下敦郎さんである。早速、諏訪神社の方角を聞き、教えられた通りに大島団地南側の交差点を左折して諏訪神社へ行く。
 途中にある石材店の展示物の中に双体道祖神の載せて石柱が3基あり、反対側にも1基みられる。参道に立つ行灯を記録し、寄り道して諏訪神社へ向かう。境内へ入って右手に文政3年の庚申塔があるのに気付くが、前回はその存在を知らなかった。
 社殿の前には舞場が設けられ、中央に砂が盛られて中心に大きな白幣を立てる。ここでは舞場を「土俵」と呼んでいるから、以前は現在のように平らではなき、土俵が設けられていたのであろう。土俵が獅子舞の舞場という所はJR南武線の沿線にみられ、立川・谷保・東長沼・菅などにみられる。今月8日の川崎市幸区小向の獅子舞でも舞場の四隅に柱を立て、土俵時代の名残をみせている。
 神社についたのは午後0時43分、この時間は岩下さんに聞く。先についていた岩下さんと話をした際に時計が電池切れで困ったというと、百均の時計でよければ、と貸していただける。時計が止まったと気付いたのは、拝島駅で八高線に乗り換えの時である。携帯を持ってきていれば利用できるのだが、生憎、今回は持ってこなかった。岩下さんから時計を借用して大いに助かる。

 獅子舞に来ていた相模原市教育委員会の木村弘樹さんを岩下さんから紹介される。神社にいてもしょうがないので、長徳寺に行って境内にある石佛をみる。寺の前に上大島自治会館があって、前回はここから神社へ道行があった。
 長徳寺から1時過ぎに自治会館の前にいると、遅れて会館へ木村さんが来る。その時に聞いたところでは、現在は上大島の境にある井上醤油から出発するという。獅子舞連中は軽トラックの乗ってくるので、一足先に木村さんと井上醤油へ急ぐ。途中で庭にある現代作の双体道祖神をみる。

 1時30分に井上醤油の前について木村さんと話をしているうちに、38分に自治会館で支度を済ませた獅子舞連中が軽トラック2台に分乗してやってくる。遅れてついた軽トラックに藤沢の松岡敬介さんが乗っている。
 早速、道具類の計測を行う。獅子の太鼓は胴を黒塗りし、皮面に黒の三つ巴紋を描く。直径が35cmで幅が22cm、バチは長径が2cmで長さが23cmである。岡崎が使うササラは先割れが竹製、直径が3cmで長さ35cm、他方の波形は先端が陽物を模した木製、直径が2・5cmで長さが35cm。天狗が左手に持つ竹は直径が5.5cmで長さが161cm、右手に持つ天狗団扇は柄を含めて総長が70cmで幅が55cmである。
 獅子は、剣角2本をもつ剣角(男獅子で剣獅子ともいう)、宝珠の女獅子(玉獅子とも呼ぶ)、巻き角2本の巻角(男獅子で巻獅子とも呼ばれる)の3匹で、いずれも赤頭である。毛は紅色に染めた麻緒を使う。水引き幕は、紫地に松竹梅の柄を浮きだしている。
 獅子の衣装は揃いのハンテンに茶色の袴をはき、赤無地の手甲をつけ、白足袋はだしである。道中では白緒の草履をはく。揃いのハンテンは青地に白の獅子毛紋を散らし、黒襟に「諏訪明神」と「獅子舞」の名入り、背に赤の三つ巴紋が描かれている。獅子は頭に獅子頭、腹に三つ巴紋を描く黒塗りの太鼓をつけ、手にバチを持つ。
 天狗は赤く染めた麻緒のシャグマの上に鳥甲をかぶり、揃いのハンテンに茶系の柄のタッツケをはく。赤の手甲をつけ、白足袋にワラジ履き。腰に綿入りの赤紐を巻き、綿入りの赤襷をかける。左手に八つ手の天狗団扇、右手に青竹の杖を持ち、腰に太刀をつける
 岡崎は、古風なひょっとこ面をつけ、黄色の布で頬かぶりして剣先烏帽子をかぶる。揃いのハンテンにに小紋の裃、紫の三つ鱗の袴をはく。赤の手甲をつけ、白足袋はだしである。道中では白緒の草履をはく。手にはササラを持つ。
 鬼は赤の麻緒のシャグマをつけて一本角の赤の鬼面をかぶり、白Tシャツの上に揃いのハンテンを羽織り、プリント地のタッツケをはく。紅白の太い襷をかける。赤の手甲をつけ、白足袋にワラジ履き。舞場では白足袋はだしになる。両手に榊の枝を束ねて持つ。この役目は西多摩地方でいう「蠅追(幣負)」の役である。
 笛方と唄方は花笠をかぶり、揃いのユカタに着用し、白足袋に白緒の草履をはく。ユカタは白地に濃紺の熨斗柄を染め出す。笛は、5本調子の7つ穴を用いる。

 獅子舞連中が井上醤油を出発する前に、役員の方から「大島し諏訪明神の獅子舞」のプリントをいただく。これはA4版1枚表面ににワープロで左横書きに印字されたコピーである。これには次のように記されている。
   大島諏訪明神の獅子舞      種別    市登録無形民族(ママ)文化財
                         県指定無形民族(ママ)文化財
                   登録年月日 市 平成13年 4月 1日
                         県 昭和51年10月19日
                   保持団体  大島諏訪明神獅子舞保存会
                   記号番号  登 7
    大島の獅子舞は毎年8月27日(現在は異なる)、大島諏訪神社の例大祭の時に奉納され
   る。
    この獅子舞はいわゆる一人多摩地方の三頭獅子で、剣獅子、巻獅子、雌獅子の3頭の獅子と
   鬼、天狗、岡崎それに笛と唄によって構成される。
    祭礼当日は午後1時自治会館にて、神社からのお迎えを受けて2時頃より自治会館を出発し
   ≪道笛≫に合わせて先頭に幟旗、花飾万灯を伴い神社に向かって行進する。
    神社の境内には四方に篠竹を立て、しめ縄を張った土俵が設けられ、その中央には幣束を立
   てた盛り砂がある。これを先導役の天狗が足でならすと獅子舞が始まる。
    舞いは3頭の獅子と鬼によって行われ道化役の岡崎は股間のササラ棒を擦りながら4方の〔
   シメ〕のまわりを歩き回る。天狗は時折歩きながら舞を見守る。
    舞は鳥居(土俵の外)土俵と「頭の舞」(これは水を飲むしぐさ)オカザキ(唄が主役)キ
   ッタカ(3頭獅子に鬼と4人そろっての舞)シャギリ(最高潮の舞)などから成り、これに板
   東の笛と唄(10の歌詞がある)が付く。
    この舞の特色はごっと腰を落として上体を大きく振りまわす事にある。また、足さばきには
   舞踊的要素が見られる。舞の所要時間は45分〜50分である。この獅子舞がいつ伝わったか
   は定かではないが剣獅子頭に文政12年(1829)の修理時の墨書銘がありこれよりおおそ
   150年前と記されている。
    また秘巻の〔日本獅子舞由来書〕にも残されている。
    現在この獅子舞は神奈川県指定無形文化財として〔大島諏訪明神獅子舞保存会〕により保存
   されている。
    尚、現在使われている 獅子頭 面 は400年も過ぎ傷みもあり平成7年に襞高山の彫刻
   師に依頼し木曽で漆をかけ平成9年5月に完成した。
    現在は保存会として後継者(子供)の育成に力を注いでいる

 獅子舞連中は井上醤油の前で列を整え、1時45分に神社へ向けて出発する。ノボリ2流を先頭に万灯2基・天狗・岡崎・鬼・獅子(3匹が横一列に並ぶ)・笛方4人・唄方3人の順に並んで道行となる。途中の自治会館前で11分の小休止、2時13分に出発して諏訪神社2の鳥居に2時28分に到着する。
社殿の前には2間半4方の庭場が設け、4隅に竹を立て上部に注連縄を張りめぐらし、下部に1メートル程のところに縄を張る。社殿側の2本の竹にノボリ、鳥居側の2本に万灯がつけられる

 鳥居の所で小休止してから42分に出発し、天狗が舞場の下に張られた縄を43分に刀で切ってから盛られた砂を平らにする。これで獅子舞が2時45分から始まる。笛方4人と唄方5人は拝殿を背にして舞場へ向かって椅子に座る。
 道行からこれまでは獅子が水引き幕を口で加えて顔を出しているが、まず47分に剣角が幕を下ろして舞い始めて一舞し、続いて剣角と交替して巻角が48分舞場中央に出て水引幕を下ろして舞う。この時に女獅子も立ったままで水引幕を下ろす。巻角に続いて49分から女獅子が一舞する。
 獅子舞唄は次の通りに歌われる。上部の数字は唄の開始時刻を示す。
   2:39 1※鳴りを鎮めて お聞きやれ われらが 簓の 唄の品聞け
   2:41 2※山雀が 山に離れて 八つ連れて これのお庭で 羽根を休める
   2:43 3※皆々申せば 限り無し 申し残して 国の土産に
   2:46 4 京から下る唐絵の屏風 1重にさらりと引きまわせ
   2:47 5※筑波嶺の 峰から落ちる 滝の水 それが積もりて 淵となりぬる
   2:50 6※この程は 参る参ると 思えども 橋は引き橋 飛ぶに飛ばれぬ
   2:54 7※月も日も 西へ西へと およりやる いざや我等も あれを見まねに
   2:59 8 太鼓の拍子にお庭の拍子 拍子を揃えて見せ申せ
   3:01 9 一つをすごいて のうかいせん
   3:02 10 国からは急げ戻れと文がくる お暇申していざやと申せ
           太鼓の胴をきりとと締めて お庭で簓を摺り止め
 ※印の市の1・2・3・5・6・7の6番は笛を一節吹いて止め、唄が終わると笛を一節吹いて止めるのを繰り返し、最後の文句の前に拍子木を入れる。拍子木は舞の変わり目の合図である。4・8・9・10の4番は笛を止めずに歌う。

 舞の途中では西多摩地方の「三拍子」でみられる、獅子がバチ打ちする箇所がある。鬼は獅子が舞っている間に獅子と同じように舞う。岡崎は、先が陽物に模した木製のササラを股間に当て、竹製のササラで摺りながら獅子の周りを廻る。舞の後半に剣先烏帽子を脱ぐと、黄色の頬かぶりの上に小さな猿がついている。昔は腰を下げていたようであるが、現在は立ったままで腰を落とさない。獅子も腰高である。
 10の獅子舞唄が終わると、鬼と岡崎が縦一列になって横一列の獅子の前に並び、獅子舞が3時18分に終わる。33分の演技である。

 前回はこの後に中学生による獅子舞(獅子舞唄は省略されて5番が歌われた)が行われたが、学校の部活動の試合があって昨年同様に今年も行われない。
 獅子舞が終わってから社殿に飾られた新・旧2組の獅子頭を撮る。新しい頭は平成9年に完成し、その完成を記した額が社殿の内側に掲げてある。その場にいた獅子舞連中の1人に松岡さんと1緒にお話を聞く。
 昔は上大島でも上地区に住む、両親が揃った長男に限って獅子舞の練習に参加できた。それが昭和44年頃から大島に住む方なら長男に限らず獅子舞に参加できるようになり、地付きの人だけでなくて他所から大島へ移ってきた人の参加を認めている。以前は女性が笛方に出ていたが、今はいなくなったという。

 自治会館で獅子が腰にX状につける白幣を受け取る儀式が現在も残っている。練習は昔、自治会館でやっていたが、社務所ができた現在では奉納の舞場の場所で行い、雨の場合は社務所を使っているなど、お話を通していろいろな事がわかる。

 今回7年振りに見学して、日曜日への日取りの変更、道行の出発場所が変わるなど前回と比較して変化がみられる。時代の変化が激しいからできれば5年おき位に見学して相互を比較し、変遷を記録しておくとよいだろう。
 面白かったというか、変わっているといおうか、寄付を記す花札にのしの字に「奉納 精米 中里武夫様」というのがある。通常、金額を「1金5千円也」のように書くのが多く、他にも「清酒」がみられる位である。「精米」というのも土地柄なのであろう。
 神社で岩下さんと別れ、松岡さんと共に上大島のバス停から帰路につく。

◎ 大島獅子舞文献目録
青池 竹次「相模高座郡大島の獅子舞」『民俗芸術』第3巻第1号95頁 民俗芸能の会 昭和5年永田 衡吉「神奈川県の無形文化財総覧」『神奈川県文化財調査報告書 第21集』308頁 神奈
     川県教育庁社会教育課 昭和29年刊安西  勝「獅子舞三景」『北相文化』第3号 北相文化研究会 昭和30年刊永田 衡吉「無形文化財集録(2)」『神奈川県文化財調査報告書 第23集』253・275〜7
     ・280〜1頁 神奈川県教育庁社会教育課 昭和32年刊永田 衡吉「無形文化財総覧」『神奈川県文化財調査報告書』第23集308頁 神奈川県教育庁
     昭和32年刊相模原市教育委員会「相模原市文化財条例による指定重要文化財」『郷土相模原』第6集1〜2頁
     同会 昭和34年刊戸倉英太郎『権現堂山』181・189〜90・194・208〜10頁 さつき 昭和36年刊篠崎  敬「八月の史跡巡り──解説」『郷土さがみ原』第1号 相模原郷土懇話会 昭和36年刊永田 衡吉『神奈川県民俗芸能誌』267〜71頁 神奈川県教育委員会 昭和41年刊相模原市教育委員会社会教育課『さがみはらの文化財 第4集 獅子舞』1〜12・15頁 同会
     昭和44年刊川口 謙二「民俗芸能豆辞典(1)」『かながわの民俗芸能』創刊号 神奈川県民俗芸能保存協会
     昭和44年刊神奈川県教育庁社会教育課『神奈川県の文化財』第10集口絵・23〜4頁 同課 昭和34年刊神奈川県民俗芸能保存協会事務局『かながわの民俗芸能』第2号10頁 同会 昭和45年刊神奈川県教育庁文化財保護課『かながわの民俗芸能案内』10・89〜90・103頁 神奈川県教
     育委員会 昭和46年刊川口 謙二「民俗芸能豆辞典 獅子舞の二系統」『かながわの民俗芸能』第5号7頁 神奈川県民俗
     芸能保存協会 昭和46年刊相原  純『写真集 神奈川のまつり』94〜5・137頁 萬葉堂書店 昭和47年刊神奈川県教育庁文化財保護課『神奈川県文化財図鑑 無形文化財・民俗資料篇』図版18・図版83
     〜5・76・77・91〜2・236頁 神奈川県教育委員会 昭和48年刊相模原市教育委員会『さがみはらの文化財』第4集6・14頁 同会 昭和50年刊神奈川県教育庁文化財保護課『神奈川県の民俗芸能案内』10・89〜90・104頁 神奈川県教
     育委員会 昭和51年刊神奈川県民俗芸能保存協会事務局『かながわの民俗芸能』第20号22頁 同会 昭和52年刊神奈川県県史編集室『神奈川県史 各論編5 民俗』871頁 神奈川県 昭和52年刊吉田 智一『獅子の平野 民俗写真集 フォークロアの眼5』122〜3頁 国書刊行会 昭和52年神奈川県教育庁文化財保護課『かながわの民俗芸能50選』13〜4頁 神奈川県教育委員会昭和52年永田 衡吉『かながわの祭と芸能』112〜3頁 神奈川合同出版 昭和52年刊神奈川県民俗芸能保存協会事務局「神奈川県民俗芸能大会演目1覧」『かながわの民俗芸能』第28
     号 同会 昭和54年刊神奈川県民俗芸能保存協会事務局「大会アルバム」『かながわの民俗芸能』第29号 同会 昭和55
     年刊梅沢 義雄「諏訪神社の獅子舞について」『さがみはらの民俗芸能』創刊号3頁 相模原民俗芸能保
     存協会 昭和55年刊笹野 邦一『おおさわ風土記第2集』35〜6頁 おおさわ風土記協力会 昭和57年刊神奈川県教育庁文化財保護課『ふるさとの文化財(民俗文化財編)』口絵・105頁 神奈川県教育
     委員会 昭和58年刊神奈川県百科事典刊行会『神奈川県百科事典』817頁 大和書房 昭和58年刊相模原市文化財現況調査会『相模原市文化財現況調査報告書』143〜4・153頁 同会昭和56年荒井 俊明「大島の獅子舞に参加して」『かながわの民俗芸能』第38号 神奈川県民俗芸能保存協
     会 昭和59年刊神奈川県文化財協会「資料・神奈川県指定文化財一覧2」『かながわ文化財』第81号口絵・46頁
     同会 昭和60年刊中里 通夫「獅子舞の移り変わり」『さがみはらの民俗芸能』第6号1〜2頁 相模原民俗芸能保存
     協会 昭和60年刊井上福太郎「大島の獅子舞の思い出」『さがみはらの民俗芸能』第6号3〜5頁 相模原民俗芸能保
     存協会 昭和60年刊梅沢 花男「10才の思い出」『さがみはらの民俗芸能』第6号5〜6頁 相模原民俗芸能保存協会
     昭和60年刊吉村 輝夫「大島の獅子舞」『さがみはらの民俗芸能』第6号7〜11頁 相模原民俗芸能保存協会
     昭和60年刊小川 直之「田の神節句──民俗文化の地域性(上)」『自然と文化』第9号15頁 平塚市博物館
     昭和61年刊永田 衡吉『増補改訂版 神奈川県民俗芸能誌』197・230〜1・309〜13・319・32
     1頁 錦正社 昭和62年刊相模原民俗芸能保存協会事務局「相模原市大島の獅子舞由来書」『さがみはらの民俗芸能』第9号1
     〜7頁 昭和63年刊相模原市民俗芸能保存会『さがみはらの民俗芸能』第10号8〜9・22〜29・31〜32頁 同
     会 平成1年刊笹原 亮二「祭と人々」『相模原の祭礼行事』18〜9頁 相模原市教育委員会 平成1年刊加藤 隆志「相模原市下九沢の獅子舞について」『かながわの文化財』第85号29・31頁 神奈
     川県文化財協会 平成元年刊高橋秀雄・須藤功『祭礼行事 神奈川県』135・142頁 桜楓社 平成3年刊神奈川県祭礼研究会『祭礼事典 神奈川県』概説・197・225頁 桜楓社 平成4年刊吉村 公介『獅子の里を訪ねて──神奈川県の一人立ち三頭獅子舞』39〜47・113・115・
     120頁 宮の橋社 平成4年刊相模原市教育委員会博物館建設事務所編『獅子舞調査報告書第3集 田名の獅子舞』10・13頁
     同会 平成5年刊荒井 俊明『鳥屋の獅子舞〜一人立三頭獅子舞』58・65頁 同人 平成5年刊相模原市民俗芸能保存会事務局「第13回相模原市民俗芸能大会 グリーンウェーブ特別公演」『さ
     がみはらの民俗芸能』第14号 同会 平成5年刊相模原市教育委員会博物館建設事務所『獅子舞調査報告書第4集 下九沢の獅子舞』10頁 同会
     平成6年刊相模原市民俗芸能保存会事務局「奥多摩小留浦の獅子舞との交流」『さがみはらの民俗芸能』第15
     号16〜7頁 同会 平成6年刊相模原市博物館建設事務所編『獅子舞調査報告書第5集 大島の獅子舞』1〜88頁 相模原市教育
     委員会 平成7年刊石川 博司『相模原 獅子と庚申』9〜14頁 ともしび会 平成7年刊石川 博司『平成7年の獅子舞巡り』10〜16頁 ともしび会 平成7年刊相模原市立博物館『獅子舞調査報告書第6集 三匹獅子舞の諸相』5〜27・35・37・52・5
     5・70〜6・78〜4・92〜109・・〜・頁 同館 平成8年刊
              〔初出〕『神奈川の獅子舞巡り』(多摩獅子の会 平成10年刊)所収〔追 録〕石川 博司『神奈川の獅子舞巡り』10〜5・102〜6頁 多摩獅子の会 平成10年刊石川 博司『神奈川の獅子舞巡り・』6〜9・20〜1・23頁 多摩獅子の会 平成12年刊笹原 亮二『三匹獅子舞の研究』56〜9・92〜112・177・183〜6・207・221〜
     4頁 思文閣出版 平成15年刊

つづく

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