石 川 博 司  著          
鳥屋の獅子舞を訪ねる 
     目次
鳥屋の獅子舞1      鳥屋の獅子舞2     鳥屋の獅子舞を訪ねる
鳥屋獅子舞文献目録   
あとがき
◎ 鳥屋の獅子舞1
 平成9年8月9日は8月第2土曜日、神奈川県津久井郡津久井町鳥屋・諏訪神社で獅子舞が奉納される。この獅子舞は、昭和29年12月3日に神奈川県の無形文化財に指定されている。ここの日取りは、江戸時代には旧暦8月15日、明治維新後に9月3日にかわり、昭和11年頃から8月22日、昭和57年から8月10日、平成6年から現在の第2土曜日と変更があった。1週間前の2日(土曜日)には、日取りを間違えて鳥屋にいき、暑い盛りを獅子舞巡りならぬ石佛巡りに当てた。

 郵便局前のバス停をおりると、反対側の角に「鳥屋宮之前スポット」があり、石造の獅子頭が3個みられる。横にここの獅子舞について
   鳥屋の獅子舞
    江戸時代(17世紀)、鳥屋清真寺10世住職圓海法印が鳥屋の祭礼にと八王子市高槻(高
   月)から伝えたものと言われてる1人立ち3頭獅子舞です。
    毎年8月の諏訪神社例祭で、境内において「獅子舞」が行われます。
    神奈川県無形民俗文化財に指定されています。
   獅 子 頭
    獅子頭は圓海法印の自作とされ、銘もあります。
    父獅子、母獅子、息子獅子の3頭からなり、いずれも頭頂に怪奇な目玉を持ち鼻穴が大きく
   偏平な竜頭型で、別名「重箱獅子」とも言われています。
    父獅子  ネジ形の巻角が2本で、「じいさん獅子」とも言われます。
    母獅子  角がなく、額に宝珠があり、「ばあさん獅子」とも言われます。
    息子獅子 棒状の角が2本あります。(原文は横書き)の説明がある。文章の横には、3匹の舞姿と横からみた獅子頭の絵が添えられている。

 2日は、JR橋本駅北口から神奈川中央のバスで終点の三ケ木に行き、そこで宮ケ瀬行きのバスに乗換えて鳥屋に出る。橋本から三ケ木までが意外に時間がかかり、やっと宮ケ瀬行きのバスに間に合った。宮ケ瀬行きのバスは本数が少なく、この日も5分も遅れれば、三ケ木で50分は待たなければならない。その時のバスの運転手さんは、相模湖駅前から三ケ木〜鳥屋のバスコースが間違いないとアドバイスしてくれた。そうしたわけで、9日は相模湖〜三ケ木〜鳥屋(郵便局前下車)のバスを利用する。

 鳥屋の諏訪神社についたのは午前11時少し前、露店商が店の準備を始めている。神社の受付で獅子舞の始まる時間を訪ねると、獅子舞連中が午後3時に鈴木家を出発して、神社で舞うのは4時からだという。ここで鳥屋獅子舞保存会が発行した『鳥屋の獅子舞』のA4版小冊子をもらう。これは、地元の獅子舞連中に加わっている荒井俊明さんが書き、津久井町教育委員会から昭和58年に刊行された『鳥屋の獅子舞』のコピーである。獅子舞の際にも希望者に配付された。同氏が平成5年に発行された『鳥屋の獅子舞──1人立3頭獅子舞』は、この小冊子に資料や写真を加え、さらに神奈川県下9か所の獅子舞を写真と短い解説で紹介した付録をつけている。
 獅子舞まで時間があるので、大通りに出て興進の屋台の行列につく。屋台はそれほど大きくなく、4輪の前輪が後輪に比べて半分ほどの直径である。屋台の引き手の先に4、50人の万灯がいるのが珍しい。時々、リーダーの号令に合わせて掛け声をかけて万灯を振り上げたり、廻ったする。やがて上鳥屋の屋台の行列とすれ違う。
 上鳥屋のバス停まで興進の屋台行列についていき、そこから戻る。神社についたのが12時頃、まだ時間があるので馬石の青面金剛をみようと裏道を通って馬石に出る。1週間前にみた2手の青面金剛の写真を撮る。再び諏訪神社に戻ってから2時近くに中開戸の鈴木家に向かう。

 鈴木家には立川の獅子舞で顔を合わせたことのある荒井俊明さんがいて、獅子の腰挟みの5色幣をひろげて取りつけている。一段落したところでいろいろと便宜を計っていただき、床の間の横に飾られた新旧2組の獅子頭や父獅子の旧頭の裏に刻まれた「円海」の銘を撮る。また「鳥屋の獅子舞」の録音テープ1巻をいただく。
 獅子頭の「円海」は、天台宗・清真寺の10世住職といわれ、獅子頭を刻み、獅子舞を中開戸の青年に習わせ、盂蘭盆会に祭礼を行ったという。獅子舞は、江戸時代には清真寺に属していたが、明治維新後に諏訪神社の神事舞となった。円海は、八王子市高月町の円通寺の末・宝印寺(同市加住町)8世住職で、延宝6(1678)年11月14日示寂と宝印寺過去帳に記されているという。これからみると、加住町と隣接する同市梅坪町には市指定の獅子舞(現在は舞われてない)がみられるから鳥屋の獅子舞は梅坪の獅子舞と関連があるのかも知れない。

 午後2時頃には獅子舞連中が鈴木家の庭側の2間に集まり、23分に挨拶、25分にお神酒をいただく。獅子やササラ摺りが支度を始める。2時44分には庭に獅子が並び、笛に合わせて太鼓を打って46分に鈴木家から諏訪神社を目指して道行となる。道行では、御幣を先頭にして紫地に「神奈川県指定無形文化財」と「津久井町鳥屋獅子舞保存会」と白抜くにしたノボリを持った2人が続き、父獅子・母獅子・息子獅子、ササラ摺りの少年3人、笛方4人、唄方6人の順に並ぶ。

 獅子は、父獅子・母獅子・子獅子の3匹で、じいさん獅子・ばあさん獅子・むすこ獅子の別名でも呼ばれる。父獅子は2本のネジレ角、母獅子は宝珠、子獅子は2本の棒角である。獅子頭は、新旧の2組がある。故・永田衡吉氏は、旧頭の制作年代が不明であるが、円海の示寂が延宝6年であるところから、寛文年間(1662〜1673)と推定している。現在使われている新しい頭は、昭和61年に荒井さんが彫ったものである。紺地の中央に三つ巴紋を白抜きにし、白抜きの牡丹と唐草を散らした水引き幕をつける。獅子の衣装は、白の上衣に白の股引き、白の手甲をして白足袋をはく白一色である。道行では、黒緒の草履をはく。腰には、五色幣で飾った篠竹の腰挟みをつける。男獅子は太鼓(直径38cm、幅15cm)をつけ、バチ(長さ32cm、直径2cm)をもつ。女獅子はササラ(長さ81cm・直径4cmと長さ28cm・直径2cm)をもつ。女獅子が太鼓をつけずに、ササラというところがここの獅子舞の特色である。
 ササラ摺りは5才から10才の少年の役目で、久留米絣の着物に帯をしめ、素足にスポンジの草履をはく。頭には円形の花笠(直径40cm)をかぶり、手にはササラ(長さ65cm・直径3cmと長さ28cm・直径2cm)をもつ。
 笛方と唄方は白地の着物に三尺をしめ、黒の呂か沙の夏羽織をきる。白足袋に黒緒の下駄をはく。笛は、7つ穴の4本調子をもちいる。

 中開戸下橋で時間調節をした後、行列は3時に橋の南詰めを出発する。神社までの間に2〜3分位進んでは1分ほど笛を吹き、獅子がフリを入れて太鼓を打つ。これを繰返しながら神社までの約1kgの道行をおこなう。獅子舞連中の後を上鳥屋の屋台、興進の屋台、宮本の神輿が続く。

 獅子舞連中は、3時26分に諏訪神社に到着、29分に社前でお祓いを受けてから一休みする。その間に上鳥屋の万灯・屋台、興進の万灯・屋台、宮本の子供と大人の神輿が到着し、所定の場所にはいる。斉竹に注連縄をはり、幅6m、奥行き4mという変則な舞場を作る。舞場には3枚のムシロを川の字に、道側にもう1枚90度向きを変えてしく。唄方9人は舞場の東側に二列に並んで椅子に座り、その南側に笛方4人が立って吹く。ササラ摺りも東南の隅に3人が一列に並んで椅子に座る。

 4時4分に獅子が入場し、草履をぬいでムシロの上に父・母・子の順に一列に並ぶ。5分に笛がふかれ、獅子舞が始まる。8分から次の獅子舞唄が歌われる。唄の上部の数字は、唄の開始時刻と順番を示す。
   4:08 1 この程を参る参ると申せども 橋は引橋飛ぶに及ばず
   省 略 2 この橋を渡りながらも面白や 黄金駒寄白銀の橋    (以上村ぼめ)
   省 略 3 参り来てこれのお庭を見申せば 黄金小草が足にからまる(庭ぼめ)
   省 略 4 参り来て御宮づくりを見申せば いかなる大工が建てたやら
          九間八つ棟檜皮葺き 楔一つで四方固めて     (宮ぼめ)
   省 略 5 参り来てこれの書院を見申せば 磨き揃えて槍が五万本
   省 略 6 五万本の槍を担がせ出るなれば 四方遙かに殿の御上洛 (以上家ぼめ)
   4:11 7 参り来てこれの御馬屋を見申せば 繋ぎ揃えて駒が七匹 (以上厩ぼめ)
   省 略 8 七匹の駒の毛色を見申せば 連銭葦毛に月額柑子栗毛に墨の黒
            蜜柑瓦毛鹿毛の駒 錆や月毛は神の召し駒
   4:13 9 白鷺が羽根をくわえて八つ連れて これのお庭に腰を休めて
   4:15 10 山雀の山に離れて八つ連れて これのお背戸のめくら木にとまる
   4:16 11 めくら木の枝をいくつと眺むれば 枝は九つ花十六
   4:17 12 十六の花をつくづく眺むれば 黄金白銀が咲き乱れ
       これのお背戸は名所なるもの          (以上屋敷ぼめ)
   4:19 13 思いもよらぬ朝霧が降りて そこで女獅子が隠されたよな
        いじゃしゃれ立ちて尋ねに行く
   4:20 14 嬉し山霧も霞も巻き上げて そこで女獅子が現れたよな
   4:21 15 天竺のあいそめ川原のはたにこそ 宿世結びが神たたれた
            宿世結びが神なれば 女獅子男獅子を結び合わせる (以上女獅子)
   4:22 16 向かいの山で笛と太鼓の音がする いじゃしゃれ我等も参廟しやれ
   4:23 17 鹿島から切るは切るはと責められて 習い申せば鹿島きりにまき
   4:25 18 奥山の松にからまる蔦さえも 縁が尽きればほろりほごれる(以上入端)
   4:26 19 我等が里で雨が降るげで雲が立つ お暇申していじゃとまもだち(雨乞)唄の傍線の部分は繰り返す。なお省略された唄は、「鳥屋の獅子舞」録音テープによる。

 獅子舞は4時28分に終了した。昔は40分位の演技であったというが、現在は獅子舞唄6番を省略して23分に短縮されている。獅子舞の終わってから社殿では、獅子がつけたと同じ五色幣を魔除の縁起物として希望者に手渡される。
             〔初出〕『平成九年の獅子舞巡り』(多摩獅子の会 平成9年刊)所収
◎ 鳥屋の獅子舞2
 8月第2土曜日は、神奈川県津久井郡津久井町鳥屋・諏訪神社で獅子舞が奉納される。日取りは、江戸時代が旧暦8月15日、明治維新後に9月3日にかわり、昭和11年頃から8月22日、昭和57年から8月10日、平成6年から現在の第2土曜日に変更された。この獅子舞は、昭和29年12月3日に神奈川県の無形文化財に指定された。

 父獅子旧頭の裏には「円海」と刻まれている。円海は、天台宗・清真寺の10世住職といわれ、獅子頭を刻み、獅子舞を中開戸の青年に習わせ、盂蘭盆会に祭礼を行ったという。この獅子舞は、江戸時代に清真寺に属していたが、明治維新後に諏訪神社の神事舞となった。
 円海は、東京都八王子市高月町の円通寺の末・宝印寺8世住職で、延宝6年11月14日示寂と宝印寺過去帳に記されているという。これからみると、高月町に近い同市梅坪町に獅子舞(現在は舞われてない)がみられるから、ここの獅子舞と関連があるのかも知れない。
 獅子舞連中は、当日の午後2時に中開戸の鈴木家に集まり、挨拶の後にお神酒をいただく。支度ができると獅子やササラ摺りが庭に並ぶ。笛に合わせて獅子が太鼓を打って鈴木家から諏訪神社を目指して道行となる。
 道行では御幣を先頭にしてノボリを持った2人が続き、父獅子・母獅子・息子獅子、ササラ摺りの少年3人、笛方4人、唄方6人の順に並ぶ。

 中開戸下橋から神社までの間に2〜3分位進んでは1分ほど笛を吹き、獅子がフリを入れて太鼓を打つ。これを繰返しながら神社までの約1キロの道行をおこなう。獅子舞連中の後を上鳥屋と興進の屋台、宮本の神輿が続く。
 諏訪神社到着後に社前でお祓いを受けてから一休みする。境内には幅6m、奥行き4mという変則的な舞場が作られる。四隅に斉竹をたてて注連縄をはる。舞場には3枚のムシロを川の字に、道側にもう1枚向きを90度変えてしく。唄方9人は舞場の東側に2列の椅子に座り南側に笛方4人が座って吹く。ササラ摺りも東南の隅に3人が一列に並んで椅子に座る。
 獅子が舞場に入場し、草履をぬいでムシロの上に父・母・子の順で一列に並ぶ。獅子舞が始まり、最初の「この程を参る参ると申せども 橋は引橋飛ぶに及ばず」の唄から「我等が里で雨が降るげで雲が立つ お暇申していじゃともだち」(傍線部分は繰り返す)の唄まで19の獅子舞唄があるが、現在は6番が省略されて歌われる。

 昔は40分位の演技であったというが、現在は獅子舞唄の省略され、それに対応する舞が省かれるから23分に短縮されている。獅子舞の終わってから社殿では、獅子がつけたと同じ五色幣を魔除の縁起物として希望者に手渡される。
 獅子は、父獅子・母獅子・子獅子の3匹で、じいさん獅子・ばあさん獅子・むすこ獅子の別名でも呼ばれる。父獅子は2本のネジレ角、母獅子は宝珠、子獅子は2本の棒角である。獅子頭は、新旧の2組がある。旧頭の制作年代が不明であるが、故・永田衡吉氏は、寛文年間と推定している。現在使われている新しい頭は、昭和61年に地元の荒井俊明さんが彫ったものである。

 獅子頭は、紺地の中央に三つ巴紋、牡丹と唐草を散らした水引き幕をつける。白の上衣に白の股引き、白の手甲をして白足袋をはく白一色の衣装である。腰に五色幣で飾った篠竹の腰挟みをつける。男獅子は太鼓をつけ、バチをもつ。女獅子はササラをもつ。女獅子が太鼓をつけずに、ササラというところがここの獅子舞の特色である。
 ササラ摺りは5才から10才の少年の役目で、久留米絣の着物に帯をしめ、素足にスポンジの草履をはく。頭には円形の花笠をかぶり、ササラをもつ。
 笛方と唄方は、白地の着物に3尺をしめ、夏黒羽織をきる。白足袋に黒緒の下駄をはく。笛は、7つ孔の4本調子をもちいる。〔初出〕『まつり通信』第450号(まつり同好会 平成10年刊)所収
◎ 鳥屋の獅子舞を訪ねる
 平成16年8月14日(土曜日)は、津久井町の鳥屋の獅子舞を訪ねる。獅子舞の奉納は8月第2土曜日、今年は8月14日である。前回は9年8月9日に獅子舞を見学しているので、そのデータを基にして前回と同じルート、JR中央線相模湖駅から三ケ木乗り換えで鳥屋に向かう。

 神奈中のバスを関で下車、途中の光明寺や馬石の庚申塔を調べてから、獅子宿の鈴木家を訪ねる。午後2時46分に中開戸・鈴木家を出発した前回のデータが役立ち、鈴木家のついたのが午後1時52分、座敷にいた荒井俊明さんに挨拶する。
 早速、荒井さんから最新版『鳥屋の獅子舞』(鳥屋獅子舞保存会 平成16年刊)と『郷土の光』のコピーをいただく。『郷土の光』は表紙に中央の表題の他に右上の「昭和五年九月」と左下の「獅子舞関係者」が墨書きされ、文中に「干時昭和五年九月二日」と記された年月日がみられる。

 『鳥屋の獅子舞』はA4版8頁の小冊子、荒井俊明さんが文章を書き、昭和58年に津久井町教育委員会から刊行された『鳥屋の獅子舞』のコピーである。今回の最新版には獅子舞の舞手が平成の17代目の3人が記録されている。
 『郷土の光』には同年同月の「獅子舞の歌」(享保3年本の写し)や同8年の「諏訪神社」、同33年の「御獅子庫のこと」、同45年の「昭和卅三年以後のこと」が追加収録されている。鳥屋の獅子舞の歴史を知るのに貴重な資料である。
 鈴木家に八王子の峰岸三喜蔵さんや愛川の山口研一さん、それに先日の小向で会ったプロカメラマンの横浜の岩下敦郎さんの顔が揃っている。やはり多摩地方とは違ったカメラマンが集まっている。

 出発まで時間があるので床の間に飾られた新・旧2組の獅子頭を写し、特に荒井さんのご協力で獅子頭裏に刻まれた「円海」の作者銘を撮る。
 さらに道具類の計測を行う。男獅子が使う太鼓は直径が38cmで幅が16cm、普段みる太鼓に比べて薄手といえよう。バチは直径が2cmで長さが32cm、手元の端に長さ5cmで縦に切り込みが入った5色の紙飾りが下げられている。
 ササラは波形の直径が4cmで長さが65cmと長い。手元が18cmあり、波形部分が46cmである。手元の端には長さ10cmの5色の紙飾りをつけ、先端と中間の2か所に長さ5cmの5色の紙飾りを下げる。先割れは直径が3cmで長さが25cm、手元の端には長さ5cmの5色の紙飾りを吊るす。ササラ摺りがかぶる花笠は直径が38cm、頂部に直径が16cmの花飾りをおく。笠に5色の切り下げを15を垂らす。
 獅子舞連中の先頭に立つ御幣は、長さ113cmの竹に87cmの白幣をつける。獅子が2本をX状にした腰にさす「クサ」と呼ばれる腰挟みの五色幣は計測できなった。この御幣は獅子舞が終了後に社殿で魔除けの縁起物として希望者に配られる。
 午後2時頃には獅子舞連中が鈴木家の庭側にある2間ぶち抜きの座敷に集まっている。2時15分に役員の挨拶があり、17分にお神酒で乾杯を行う。獅子舞連中は庭に出て42分に整列し、47分に鈴木家をで出発して舞場のある諏訪神社へ向かう。

 獅子舞連中は御幣持ちを道中の先頭にし、次いでノボリが横並びで2流・父獅子・母獅子・子獅子・ササラ摺り3人が並び、その後を鳥屋で「歌役」と呼ぶ唄方などの獅子舞関係者が続く。ここでは「笛役」と呼ぶ笛方が獅子3匹の両横について道中笛を吹く。
 獅子は父獅子・母獅子・子獅子の3匹、別名は「じいさん獅子」「ばあさん獅子」「むすこ獅子」である。男獅子の父獅子はネジレ角2本、子獅子は棒角2本、女獅子の母獅子は宝珠をいただく。獅子頭は新旧の2組があり、頭の裏に「円海」の銘が入ったのが旧の頭、制作年代は不明である。現在使われている新頭は、昭和61年に荒井さんが彫ったものである。獅子頭には紺地に白抜きの牡丹と唐草を散らし、中央に大きく三つ巴紋を白抜きにする水引き幕を下げる。

 獅子の衣装は白の上衣に白の股引、白の手甲をつけて白足袋をはく、文字通りの白一色の衣装である。道行では柄緒の草履をはくが、舞場のゴザの上は脱いで舞う。男獅子は胸に太鼓をつけて両手にバチ、女獅子は太鼓の代わりに両手でササラを持つ。3匹共腰に五色幣で飾った篠竹の腰挟みをつける。女獅子のササラが鳥屋の獅子舞の特色である。
 ササラ摺りは5才が2人、7歳が1人の計3人の男児である。久留米絣の着物に赤の帯をしめ、素足に紺緒の草履をはく。頭に5色の切り下げを垂らした円形の花笠をかぶり、手にササラをもつ。
 笛方と唄方は白地の着物に3尺をしめ、上に黒の呂か沙の黒羽織を白の羽織紐で結ぶ。白足袋に黒緒の下駄をはく。笛は6つ穴の獅子笛ではなく、囃子と兼用できる7つ穴の4本調子を使う。
 御幣持ちもノボリ持ちも笛方や唄方と同様の衣装である。御幣持ちは先刻計測した白幣を持ち、道中では清めの祓いを行う。ノボリ持ちは2人、それぞれが紫地に「神奈川県指定無形文化財」や「津久井町鳥屋獅子舞保存会」と白抜くにしたノボリを持つ。

 中開戸下橋で時間調節をした後、行列は3時に橋の南詰めを出発する。神社までの間に1〜2分ほど笛を吹き、獅子がフリを入れて太鼓を打って進み、1分〜2分ほどの間をおいて再び笛と太鼓となる。これを繰返しながら神社までの約1kmの道中となる。獅子舞連中の後を興進の屋台、上鳥屋の屋台、宮本の神輿などが続く。屋台の前に数多くの纏や万灯が並び、途中で何度も纏や万灯を高く差し上げたり、廻ったして気勢を上げる。

 道中の獅子舞連中は諏訪神社に3時35分に到着、社前でお祓を受けて一休みする。その間に興進の万灯・屋台、上鳥屋の万灯・屋台、宮本の小型屋台と大人の神輿が到着し、所定の場所にはいる。興進や上鳥屋や宮本などがそれぞれが円形になり、指導者の合図で纏や万灯を高く差し上げたり、廻ったして気勢を上げ、その存在感を示す。る。

 獅子舞が始まる前に雨が降ってきたので、大木の下で雨を避けて始まりを待つ。ここで八王子の松本良一さんに会う。獅子舞の4時開始が遅れ、28分から始まる頃には雨が止んだ。何とか雨の心配はなさそうである。
 舞場は幅が6m、奥行きが4mという変則な四隅に斉竹を立てて注連縄を張る。舞場には3枚のムシロを川の字に、道側にもう1枚横に向きを変えて敷く。唄方は舞場の東側に2列に並び、笛方も1人を除いて椅子に座って吹く。ササラ摺りも東南の隅に3人が一列に並んで椅子に座る。

 4時26分に獅子3匹が入場し、草履をぬいでムシロの上に父・母・子の順に一列に並ぶ。28分に笛が吹かれ獅子舞が始まる。31分から次に示すように獅子舞唄が歌われる。前回は気付かなかったが、女獅子隠しの場面では13の唄で女獅子が右足を立てて腰を下ろし、男獅子2匹が立って舞う。14の唄を合図に女獅子も立って舞う。なお唄の上部の数字は唄の開始時刻、数字は唄の順番を示す。
   4:31 1 この程を参る参ると申せども 橋は引橋飛ぶに及ばず
   省 略 2 この橋を渡りながらも面白や 黄金駒寄白銀の橋
   省 略 3 参り来てこれのお庭を見申せば 黄金小草が足にからまる
   省 略 4 参り来て御宮づくりを見申せば いかなる大工が建てたやら
           九間八つ棟檜皮葺き 楔一つで四方固めて
   省 略 5 参り来てこれの書院を見申せば 磨き揃えて槍が五万本
   省 略 6 五万本の槍を担がせ出るなれば 4方遙かに殿の御上洛
   4:32 7 参り来てこれの御馬屋を見申せば 繋ぎ揃えて駒が7匹
   4:33 8 七匹の駒の毛色を見申せば 連銭葦毛に月額柑子栗毛に墨の黒
            蜜柑瓦毛鹿毛の駒 錆や月毛は神の召し駒
   4:37 9 白鷺が羽根をくわえて八つ連れて これのお庭に腰を休めて
   4:39 10 山雀の山に離れて八つ連れて これのお背戸のめくら木にとまる
   4:41 11 めくら木の枝をいくつと眺むれば 枝は九つ花十六
   4:42 12 十六の花をつくづく眺むれば 黄金白銀が咲き乱れ
       これのお背戸は名所なるもの
   4:43 13 思いもよらぬ朝霧が降りて そこで女獅子が隠されたよな
     いじゃしゃれ立ちて尋ねに行く
   4:44 14 嬉し山霧も霞も巻き上げて そこで女獅子が現れたよな
   4:45 15 天竺のあいそめ川原のはたにこそ 宿世結びが神たたれた
            宿世結びが神なれば 女獅子男獅子を結び合わせる
   4:46 16 向かいの山で笛と太鼓の音がする いじゃしゃれ我等も参廟しやれ
   4:47 17 鹿島から切るは切るはと責められて 習い申せば鹿島きりにまき
   4:48 18 奥山の松にからまる蔦さえも 縁が尽きればほろりほごれる
   4:50 19 我等が里で雨が降るげで雲が立つ お暇申していじゃとまもだち

 何れの唄でも笛の伴奏がつく。唄の傍線の部分は繰り返す。なお省略された唄は、前記の『鳥屋の獅子舞』と前回の記録による。
 途中でササラ摺りの1人が居眠りをするハプニングがみられ、獅子舞は4時51分に終了する。前回と同じ23分間の獅子の演技である。前回と比較すると、省略された8の唄が今回は歌われているのが異なる点である。社前では獅子の腰鋏の御幣「クサ」を魔除けの希望者に配られる。

 獅子舞が終わって峰岸さんや松本さんの2人と別れ、山口さんの車で岩下さんと一緒に清川村で行われる「青龍祭」を訪ね、運動公園で祭りを楽しむ。といってもメインの青龍を暗闇の中で焼くまでの時間が長かった。ゲームや踊り、青龍太鼓と2時間以上も待たされ、やっと青龍一対に点火されてアッいう間に終わってしまう。
 花火を楽しんだ後で山口さんに自宅まで送っていただき、家に着いたのは11時近かった。庚申塔や山車をみて獅子舞と青龍祭を楽しんだ1日である。
◎ 鳥屋獅子舞文献目録
N・ネフスキー「相模の獅子舞ひの歌」『土俗と伝説』第1巻第3号 文武堂書店 大正7年刊小寺 融吉『近代舞踊史論』 日本評論社出版部 大正12年刊青池 竹次「相模高座郡大島の獅子舞」『民俗芸術』第3巻第1号95頁 民俗芸能の会 昭和5年永田 衡吉「神奈川県の無形文化財総覧」『神奈川県文化財調査報告書 第21集』306・307
     頁 神奈川県教育庁社会教育課 昭和29年刊永田 衡吉「無形文化財集録(2)」『神奈川県文化財調査報告書 第23集』253・256・2
     68〜275・284頁 神奈川県教育庁社会教育課 昭和32年刊戸倉英太郎『権現堂山』181〜187・189・194〜196・202〜204・210頁 さ
     つき 昭和36年刊神奈川県教育庁社会教育課『神奈川県の文化財』第5集口絵・31頁 同課 昭和40年刊永田 衡吉『神奈川県民俗芸能誌』256〜263頁 神奈川県教育委員会 昭和41年刊小林 梅次「諸職の伝承」『神奈川県民俗調査報告2 串川・中津川流域の民俗』67〜68頁 神
     奈川県立博物館 昭和44年刊神奈川県民俗芸能保存協会事務局『かながわの民俗芸能』第2号10頁 同会 昭和45年刊榎本由喜雄「第7回神奈川民俗芸能大会を見て」『かながわの民俗芸能』民俗芸能大会特集号5頁
     神奈川県民俗芸能保存協会 昭和45年刊N・ネフスキー「相模の獅子舞ひの歌」『月と不死』(東洋文庫185) 平凡社 昭和46年刊神奈川県教育庁文化財保護課『かながわの民俗芸能案内』10・99〜100・103頁 神奈川県
     教育委員会 昭和46年刊川口 謙2「民俗芸能豆辞典 獅子舞の二系統」『かながわの民俗芸能』第5号7頁 神奈川県民俗
     芸能保存協会 昭和46年刊神奈川県民俗芸能保存協会事務局『かながわの民俗芸能』第6号15頁 同会 昭和47年刊相原  純『写真集 神奈川のまつり』88〜89・137頁 萬葉堂書店 昭和47年刊神奈川県教育庁文化財保護課『神奈川県文化財図鑑 無形文化財・民俗資料篇』図版15・図版80
     〜82・76〜77・88〜91・236〜237頁 神奈川県教育委員会 昭和48年刊小寺 融吉『近代舞踊史論(復刊)』 国書刊行会 昭和49年刊和田 正州『日本の民俗 神奈川』176〜177頁 第1法規 昭和49年刊神奈川県教育庁文化財保護課『神奈川県の民俗芸能案内』10・99〜100・103頁神奈川県教
     育委員会 昭和51年刊神奈川県民俗芸能保存協会事務局『かながわの民俗芸能』第20号22頁 同会 昭和52年刊神奈川県県史編集室『神奈川県史 各論編5 民俗』870〜874頁 神奈川県 昭和52年刊神奈川県教育庁文化財保護課『かながわの民俗芸能50選』13〜14頁 神奈川県教育委員会 昭和
     52年刊吉田 智1『獅子の平野 民俗写真集 フォークロアの眼5』122〜123頁 国書刊行会昭和52
     年刊永田 衡吉『かながわの祭と芸能』110〜111頁 神奈川合同出版 昭和52年刊神奈川県民俗芸能保存協会事務局『かながわの民俗芸能』第26号6頁 同会 昭和54年刊神田より子「関東の獅子舞」『まつり』第42号49頁 まつり同好会 昭和55年刊町田市立博物館『武相の民俗芸能展』7・20・22頁 同館 昭和56年刊神奈川県教育庁文化財保護課『ふるさとの文化財(民俗文化財編)』口絵・113頁 神奈川県教育
     委員会 昭和58年刊荒井 俊明『鳥屋の獅子舞──1人立3頭獅子舞』1〜8頁 津久井町教育委員会 昭和58年刊神奈川県文化財協会「資料・神奈川県指定文化財1覧・」『かながわ文化財』第81号47頁 同会
     昭和60年刊津久井町郷土誌編集委員会『津久井町郷土誌』321〜324頁 同町教育委員会 昭和62年刊永田 衡吉『増補改訂版 神奈川県民俗芸能誌』197・227〜228・230・298〜305
     頁 錦正社 昭和62年刊加藤 隆志「相模原市下九沢の獅子舞について」『かながわの文化財』第85号31頁 神奈川県文
     化財協会 平成1年刊相模原市教育委員会社会教育課『獅子舞調査報告書第1集 鳥屋の獅子舞』1〜84・・〜・頁 同
     会 平成3年刊高橋秀雄・須藤功『祭礼行事 神奈川県』46〜47・72・126〜127・138・151頁・
     マップ 桜楓社 平成3年刊津久井町立鳥屋中学校ふれあい教室『ふるさと鳥屋村4方山話』9〜12頁 同教室 平成3年刊相模原市教育委員会博物館建設事務所編『獅子舞調査報告書第2集 3増の獅子舞』94頁 同会
     平成4年刊神奈川県祭礼研究会『祭礼事典 神奈川県』概説・106〜107・195・227頁 桜楓社 平
     成4年刊吉村 俊介『獅子の里を訪ねて──神奈川県の一人立ち三頭獅子舞』9〜17・113・115・1
     20頁 宮の橋社 平成4年刊相模原市教育委員会博物館建設事務所編『獅子舞調査報告書第3集 田名の獅子舞』1〜98・・〜
     ・頁 同会 平成5年刊津久井郡文化財調査研究会『津久井郡文化財 民俗編』79〜82頁 津久井郡広域行政組合 平成
     5年刊荒井 俊明『鳥屋の獅子舞 一人立三頭獅子舞』1〜54・65・67〜68頁 同人 平成5年刊相模原市博物館建設事務所編『獅子舞調査報告書第5集 大島の獅子舞』7頁 相模原市教育委員会
     平成7年刊相模原市立博物館『獅子舞調査報告書第6集 3匹獅子舞の諸相』6〜8・20・25・28・52
     ・55・72・74〜75頁 同館 平成8年刊石川 博司『平成九年の獅子舞巡り』40〜45頁 多摩獅子の会 平成9年刊峰岸三喜蔵『獅子の詩 日本の三匹獅子舞』116〜7・170頁 けやき出版 平成10年刊石川 博司「鳥屋の獅子舞」『まつり通信』第450号2・6頁 まつり同好会 平成10年刊石川 博司『神奈川の獅子舞巡り』33〜36・113〜116頁 多摩獅子の会 平成10年刊石川 博司『神奈川の獅子舞巡り・』38〜40頁 多摩獅子の会 平成12年刊笹原 亮二『三匹獅子舞の研究』頁 思文閣 平成15年刊石川 博司『平成十六年獅子舞巡り』57〜64頁 多摩獅子の会 平成16年刊神奈川県立歴史博物館『かながわの獅子舞−獅子頭の世界』8〜9・13・14・48〜9・69頁
     同館 平成17年刊    『神奈川の獅子舞巡り』(多摩獅子の会 平成10年刊)を追録
◎ あとがき
      初めて石佛調査で津久井町内を訪ねたのは昭和43年5月21日、それ以後、50年代
     に3回、平成に入っても調査を行っている。平成9年8月2日に初めて鳥屋の獅子舞を調
     べようと出掛けたが、1週間早過ぎて町内の石佛調査を行った思い出がある。同16年8
     月14には早目に家を出て、関のバス停から石佛をみて歩いた。
      石佛調査に比べて獅子舞が遅いのは神奈川県内の他の獅子舞と同じで、鳥屋の獅子舞を
     初めて訪ねたのが平成9年8月7日の獅子舞、次いで同16年8月14日の2回、現地を
     訪ねて獅子舞を見学した。
      ここの獅子舞を演じ、かつ調べている荒井俊明さんは平成5年に『鳥屋の獅子舞』を発
     行され、現地の強みを発揮している。荒井さんは余技に獅子頭を彫っている。立川の練習
     用の頭を彫った縁で、鳥屋を訪ねた年の8月24日に立川獅子舞の道行の出発点・柴1八
     幡会館でお会いしている。
      「鳥屋の獅子舞」の初出誌は文末の記載したが、「鳥屋の獅子舞を訪ねる」は未発表、
     「鳥屋獅子舞文献目録」は『神奈川の獅子舞巡り』の収録分にその後に発表された文献を
     追録して現状に合わせた。
      ともかく荒井俊明さんを始め、多くの方々にいろいろとお世話になった。末筆ながらお
     礼申し上げたい。本書が少しでもお役にたてば幸いである。
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                              鳥屋の獅子舞を訪ねる
                              発行日 平成17年8月10日
                              TXT 平成17年10月12日
                              著 者 石  川  博  司
                              発行者 多 摩 獅 子 の 会
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