石 川 博 司  著  
三増の獅子舞を訪ねる 
   目次
三増の獅子舞       相模原市民俗芸能大会  神奈川県立歴史博物館
三増獅子舞文献目録    
あとがき
◎ 三増の獅子舞
 平成10年7月20日(月曜日)は、神奈川県愛甲郡愛川町三増の獅子舞を見学する。三増と書いて「みませ」と読む。この獅子舞は、昭和36年に神奈川県の無形文化財に指定されている。
 厚木のバスセンターから三増経由の半原行きバスで約40分、午後0時52分に三増で下車、バス停から獅子舞の行われる諏訪神社は近い。この日は、諏訪神社の境内社の八坂神社の祭り(天王祭)である。獅子舞は午後3時から始まるというので、開始までの1時間ほど棟岩院や清徳寺、愛川霊園などを廻りながら三増の集落の中をぶらつく。

 この集落を廻った時に、清徳寺の境内で次の文面の記された標識が立っていた。
   清徳寺の鎌獅子
    甘露山清徳寺(真言宗)は応徳元年(1084)真海上人によって開かれた寺である。
    この獅子頭は御輿内にあり、厄除けの神で日照りの時は水を飲み干すというので、上顎と下
   顎とを別々にしてかついだという言い伝えが残っている。
   昭和55年2月1日町指定重要文化財           愛 川 町 教 育 委 員 会

この獅子は、鎌獅子宮の提灯が下げてある木祠に納められていてどのような形かわからない。3匹獅子舞とは直接的には関係がなさそうである。
 一旦、諏訪神社に戻り、道路に面している境内の隅に文字道祖神をみる。自然石の正面には「道祖神」とあり、右側に「明□三庚午歳」、左側に「當邑下講中」の銘がみられる。干支からみて明治3年の造立であろう。塔の法量は、高さ80cmで幅が39cmである。
 境内にある摂社の八坂神社は、祭りのために扉が開けれてご神体をみることができる。8坂神社だから牛頭天王の像かと思ったら、定印を結ぶ胎蔵界の大日如来の立像(木造)である。近くにいた氏子総代が獅子舞の始まる前に獅子舞保存会長のお宅に行って口上を述べるそうで、その文句を書いた紙をもっていた。午後2時15分を廻ったので、獅子舞の道行が出発する獅子舞保存会長の水越憲一さんのお宅を訪ねる。

 水越さん宅の床の間の前には、太鼓に乗せた獅子頭やその前にバンバ面や花笠などが飾られ、清酒などが供えられている。出発を待つ間に保存会の方から三増の獅子舞のパンフレットをいただく。B4判のわら半紙に神社で舞っている獅子舞の写真を入れ、次の説明が記されている。
   神奈川県指定無形民俗文化財 三増(みませ)の獅子舞(この行は横書き)
     「京からくだる唐絵の屏風一重にさらりとひき申さいな」
         この1節から始まる三増の獅子舞を紹介いたしましょう。
   <歴 史>
   三増は中世の頃から栄えたところで甲斐(山梨県)から小田原大山に通じる街道の宿場でし
   た。今でも地名に上宿・下宿・裏宿などその昔を偲ぶ名称が残っております。
   永禄十二年(1、569年)十月十八日甲斐の武田信玄が小田原の北条攻めの帰途三増の山野
   で両軍数万に及ぶ合戦があり、これが三増合戦(中原地区に記念碑があります)といわれ今に
   伝わっています。三千とも四千ともいわれる戦死者で三増の山野を血で染めました。
   これより先、文暦二年(1、569年)創建の諏訪神社があり、この別当寺に応徳元年(1、
   084年)開創の甘露山清徳寺があります。このお寺には鎌獅子(町重文)と呼ばれる獅子が
   あり近隣で疫病などが流行すると厄霊払いに出向いていました。
   獅子舞はこれと違って門外不出とされ、神社を中心に一町(110メートル)以内から出ない
   掟がありました。三増は前に述べたように上宿・下宿・裏宿・谷戸・馬込などの部落に分かれ
   ており、その中央の上宿・下宿に当屋をつくり獅子舞連中は支度をして神社に向かいました。
   上宿の倉(当屋)は三河屋、下宿の倉は河内屋で毎年交互に道行き渡り拍子で進み神社境内に
   二間四方の忌竹、しめ縄をめぐらし舞場を作って舞を奉納しました。
   明治の中頃に二度も大火が発生し、古文書が消失しその生い立ち歴史は明確ではありませんが
   舞に使われる木刻りのバンバ面(フクベ塗り)の裏に慶寛法印の銘があり、このお坊さんは諏
   訪神社の別当職で清徳寺の住職さんで享保十二年(1、727年)に没していますのでこの頃
   にはすでに行われていたことはわかっています。この舞も明治の大火などによって中断してい
   ましたが、昭和三年御大典を機に古老の指導で復活しましたが、太平洋戦争で中断昭和三十年
   に再度復活昭和二十六年に県無形文化財の指定を受け現在に至っております。
   <獅 子 舞>
   この獅子舞は、雨ごい、五穀豊穰など時に応じて舞った古式ゆかしいもので一人立ち三頭獅子
   と呼ばれ三頭の獅子がバンバの音頭により笛師の合図とともに歌師の繰り出す二十三連の歌に
   したがって太鼓を打ち鳴らして舞い続けます。行列(道行)の順序は日月の旗二名、花笠四名
   天狗一名、バンバ一名、獅子三名、笛師数名、歌師数名からなっています。
   舞曲には「くるい」二、「ねまり」三、「とうはつは」六、「七つ拍子」七、「くるい」五、
   から成り、歌詞に合せて舞が変化して行きます。
   獅子は巻獅子(父)玉獅子(母)剣獅子(子)の三頭朴材で作られた獅子頭は丹塗乾漆で仕上
   げれ、目・耳・口・口毛・髪など誇大表現してあります。これは邪を避け魔を除く意を表した
   もので、雨ごい、その他時に応じて舞います。三頭の獅子が着用するものは麻地牡丹に唐草模
   様のカルサンで胴体に太鼓をつけ、手甲脚絆草鞋となっています。
   この舞は諏訪神社の摂社八坂神社の天王祭である七月二十日(現在はその日に近い日曜日)に
   行われています。

 このパンフレットでは、この獅子舞が「七月二十日(現在はその日に近い日曜日)に行われています」とあるが、昨年から海の日(祝日)の7月20日に戻った。

 獅子舞の道行が出発する時間が近づくと、神社総代2人が水越宅を訪れる。獅子頭が飾られた床の間に入り、2時56分に保存会側の3人の前で口上を述べる。八坂神社に舞場が準備できましたので獅子舞の奉納をお願いしますというのが口上の内容はである。保存会長がこれを受けてお神酒をいただいてから、庭で待機している獅子舞連中や見物人にお神酒が振る舞われる。

 獅子舞の舞い手は、すでに衣装をつけて待機している。神社に出発するまでの間に、獅子の太鼓やバチ、ササラなどを計測する。太鼓は、直径35cmで幅が27cmと比較的大きい。バチは、直径2cmで長さが24cmある。花笠は円形が2つで、他の2つは上部に赤の紙花をつけた鳥追い笠を用いる。円形の笠は、直径が41cmで49cmの長さの赤無地の水引幕をさげる。笠の中央には、高さ32cmの榊に赤の紙花を飾って立てる。ササラは、共に直径3cmの竹製である。1方が長さ34cmで節までの10cmを握りの部分にし、その先を細かく割っている。他方は握りの部分11cmから先を半分残して波形にしている。
 道行は3時15分に水越宅の前を出発し、大通りに出て東に進み、交差点を右折して神社に至る。3本のノボリ旗(各1人)を先頭に、天狗1人・ササラ摺り4人・バンバ面1人・獅子3人・笛方1人・唄方5人が続く。ノボリ旗は、赤地に太陽を表す黄色の円の下に黒字の「御獅子舞」、黄緑地に白色の三日月の下に黒字の「御獅子舞」、白地に「神奈川県指定無形文化財 相州 三増獅子舞保存会」の3本である。

 獅子は、ネジレ角の巻獅子と先が細くなった棒角の剣獅子の2匹の男獅子、宝珠の玉獅子の女獅子1匹からなる。いずれもの赤塗り頭である。獅子頭には3匹共に麻のタテガミをつけ、赤無地の水引幕をさげる。決まった上衣がなく、Tシャツを着用して緑地に唐草模様を白く抜いたタッツケに共生地の手甲をつける。白足袋にワラジをはく。
 ササラ摺りは、ボーイスカウトに属する4人の小学生が勤める。学年は、6年生1人・3年生1人・1年生2人である。獅子のタッツケと同じ緑地に唐草模様を白く抜いた上衣とタッツケ、手甲をつけ、白足袋に紅緒の草履をはく。2人は円形の花笠を、他の2人は鳥追い笠をかぶる。両手にはササラを持つ。

 バンバ面は多摩地方でいう蠅追の役で、唐草模様の上衣とタッツケの上に白地に紺の小柄の腰切りの着物を重ねて赤紐で結ぶ。白足袋にワラジをはく。顔には黄土色のバンバ面をつけ、右手にオレン地に日と瑞雲、左手に緑地に月と瑞雲を描く団扇を持つ。ピンクのタスキをしめて白幣を背負う。
 唄方(歌師5人)と笛方(笛師1人)は女性で、揃いの白地に小柄模様の着物の上に3つ巴紋の入った黒の羽織りを重ね、白足袋に紅緒の草履をはく。着物の襟は、黒地に白字で「三増獅子舞」と「県文化財」の名入りである。頭には、赤の紙花のついた鳥追い笠をかぶる。唄方は、獅子舞唄を歌う時に白の扇子を広げるが、扇子の裏側には獅子舞唄が記されている。笛は、既製(獅子田製)で7つ孔の5本調子を用いる。
 天狗は、鼻の高い赤の天狗面をかぶり、唐草模様の上衣に共生地のタッツケと手甲をつけ、白足袋に紅白緒がついた一本歯の高足駄をはく。道中では、高足駄ではなくて紅緒の草履である。左手にヤツデの葉を描く大きな団扇、右手にシデが付いた榊の枝を持つ。
 露払いの大黒は女性で、道行の先頭に立つ。天狗と同じ唐草模様の上衣に共生地のタッツケをつける。頭には梔子色の頭巾をかぶり、顔には大黒面をつける。頭巾と同じ色のチャンチャンコを羽織り白足袋に紅緒の草履をはく。手には、上半部が紅白縞で下半部が先割れした竹杖を持つ。今年から復活し、道行に加わった。

 獅子舞連中が神社の舞場につくと、保存会長の挨拶と獅子舞の簡単な説明があって、3時31分から獅子舞が始まる。獅子舞唄は次の通りである。
   3:33 1 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりとひき申さいな(クルイ)
   3:34 2 このお庭の枝垂れ柳を 一枝とめて腰を休ましょ
   3:35 3 鳴りを静めてお聞きやれ 唄も拍子も更に聞こえぬ(ネマリ)
   (省略)4 この宮は何たる番匠が建てたやら 四方なげしに楔一つよ
   3:36 5 舞に来てこの大門を見申せば 縦が十五里横が七里よ
           入りはよく見よ 出はに迷うぞ
   3:37 6 山雀が山を離れて里へ出て 里で刺されて深山恋しや(トーハツハ)
   3:38 7 白鷺が羽をくわえて八つ連れて このお背戸のめくらきに住む
           めくらきの枝葉幾つと眺むれば 枝は九つ花は十重咲く
   (省略)8 立つ鷺が羽根をはじけば見ず澄まぬ 後を濁さで立てやともだち
   (省略)9 十七が二十四五まで親に掛りて それがういとて走り出をする
           走り出をして花の都で日が暮れて 霞を寝ゴザに袖を枕に
   3:39 10 沖のとなかの浜千鳥 波にゆられてしやわと立たれた
   3:40 11 七つ拍子八つ拍子 九つ小拍子にきりを細かに
   3:41 12 あら沢山の見物衆が お笑いあるな三ツ拍子(七つ拍子)
   (省略)13 お庭の拍子お庭の拍子 1と踏み踏んで見せ申さいな
   (省略)14 鹿の子が生まれ落ちると踊り出る あれをみやまに一夜踊りやいな
   (省略)15 奥の深山の鳴る神たちが お出やる時はこの如ときよ
   (省略)16 鹿島の国のむらむら雀が 尾先揃えて切り返さいな
   (省略)17 鹿島から習え習えと文が来て 習い浮かべて鹿島切り節
   (省略)18 よそのササラはせんだいすれど 我等がササラはきよく申さいな
   3:42 19 思いもよらぬ朝霧が降りて そこで女獅子が隠された(クルイ)
   3:43 20 なんぼ女獅子が隠れても これのお庭で巡り合うよ
   3:44 21 嬉しやな風が巽を吹き分けて 女獅子男獅子が肩を並べ
   3:45 22 奥の山の松にからまる蔦の葉も 縁が尽きればほろりほごれる
   3:46 23 我等が里は雨が降るやら風が立つやら お暇申していちやともだち

 獅子舞唄は、全て笛を止めずに歌っている。唄の上部の数字は、唄が始まった時刻を示し、傍線を引いた部分は繰り返して歌う。現在では、23の獅子舞唄の内で9番が省略されている。
 19から21の部分が女獅子隠しで、多摩地方では花笠の4人が女獅子を取り囲む例が多いが、ここでは天狗が前面に出てきて女獅子は後方に下がって腰をおろす。また巻獅子と剣獅子とが女獅子を激しく争う場面がみられない。獅子舞は、3時47分に終わる。15分と短い演技である。

 この獅子舞に関する文献をチェックしてみると、それぞれの調査年代による違いが読み取れる。例えば、永田衡吉氏の『神奈川県民俗芸能誌 増補改訂版』(昭和62年刊)では、316頁に「中央部の上宿と下宿に当屋をつくり、そこで獅子連中は支度して諏訪社に向かう。上宿の倉(当屋)は3河屋酒店、下宿の倉は河内屋酒店で、毎年そのどちらから、道行の渡り拍子で行道を始める」とあり、道行の順を天狗1人・花笠2人・日月の旗2人・バンバ面1人・獅子3人・笛師数人・唄師数人としている。

 津久井町鳥屋の荒井俊明さんが書かれた『鳥屋の獅子舞』(平成5年刊)の56頁をみると、「現在、棟岩院で準備をして神社に向かう」や「花笠(ササラ)二」とある。今回、獅子の出発の場所を訪ねたら、下宿の方から棟岩院を教えていただいたのも、こうした背景があったからだろう。現状の花笠が2つで、他の2人が唄方などと同じ鳥追い笠を2人が使うところをみると、元来はササラ摺りが2人であった可能性がある。前日みた清瀬市清戸の獅子舞でも花笠が2つであったし、東久留米市南沢も花笠が2つである。

 横浜市緑区の吉村俊介さんの『獅子の里を訪ねて』(平成4年刊)の20頁では、「上の倉(3河屋)・下の倉(河内屋)がきめられていて、清徳寺を出発した獅子の一行はどちらかで小休止する。そこでは酒まんじゅうを、酒などでもてなしを受け、1笛舞った後神社に向かう。神社での舞が終わると他方の倉へ行き、獅子を清めて納める。これを毎年交互に繰り返している」と述べ、「獅子の1行は途中、倉(くら)に立ち寄り接待を受ける」の説明がついた写真を載せている(25頁)。

 八王子市の峰岸三喜蔵さんが今年出版した『獅子の詩 日本の三匹獅子舞』には、115頁に三増の獅子舞を取り上げて簡単な解説と4葉の写真がみられる。その中の1葉が「巻獅子を舞う平本澄江さん」を撮った写真である。今年の場合は獅子3人が男性で、バンバ面が女性の平本さんである。獅子舞の舞場の場所や笛方・唄方の位置も違いがみられるようで、吉村さんの写真(21頁)から判断すると、舞場は鳥居から神社に向かって参道の右側と思われる。一方、峰岸さんの写真(115頁)では、参道左側の今年と同じ神楽殿前になっている。この写真では、神楽殿前の神社寄りに笛方や唄方が位置しているが、今年の場合は八坂神社に背にして笛方と唄方が並んでいる。

 毎年同じように行われている獅子舞でも、1部の文献から追ってみても細かな点で微妙な違いがみられる。江戸期や明治あるいは昭和初期の獅子舞がどのようであったのか具体的にはわからないが、現状は獅子舞唄が9番省略され、舞も15分と短い演技に短縮されている。これからもいろいろな面で変化が生じるだろうが、今後、三増の獅子舞がどのように変わるのか、その時々の状況を記録しておく必要がある。

 同時に各地の獅子舞では、後継者問題で悩んでいる。三増といえども例外ではないだろう。獅子舞のメンバーの中に箕輪の方が入っているのも、三増以外の応援を必要としていると思われる。現在、近くにある愛川高校では部活としてこの三増の獅子舞を練習しているという。これが獅子舞の後継者問題の解決につながればよいのだが。
              〔初出〕『神奈川の獅子舞巡り』(多摩獅子の会 平成10年刊)所収
 相模原市民俗芸能大会
 平成12年10月22日(日曜日)は、相模原市富士見・市立あじさい会館ホールで催される第21回相模原市民俗芸能大会を訪ねる。これは、サブタイトルに「みのりの秋に獅子が舞う」をつけ、「第2回かながわ民俗芸能のつどい」を兼ねている。相模原市教育委員会が主催し、神奈川県民俗芸能保存協会が共催である。

 午後0時5分と少し早めに会場のあじさい会館につく。ホールに入ってみると、下九沢の獅子舞がリハーサルの最中である。獅子舞が終わってフィナーレの打合せ段階では、演出者側と出演者側との意見があわない。このままみていても仕様がないので、館外にでて近くのレストランで昼食を済ませる。会館に戻ると1時15分、5分後10分早まった開場に舞台下手の4列5番の席につく。後ろをみると、この催しを教えていただいた豊島の斉藤醇さんが座っている。席まで行って雑談して開演まで過ごす。

 大島の獅子舞
 定刻の2時に開演、斉藤みどりさんの司会・進行で雨宮博之・相模原市教育長と木下宣隆・相模原市民俗芸能保存協会会長の挨拶の後、地元・相模原市大島の獅子舞が2時9分に客席後方からの入場して始まる。後に演じられた他の4か所の獅子舞も同じように客席の後方から入場し、下手の階段から舞台にあがる。ノボリ2本を先頭にして、天狗・赤鬼・剣獅子・玉獅子・巻獅子・笛方3人などが続く。舞台には、上部に縄を廻して四手をつけた篠竹を3間四方に立てた舞場が設けられている。

 獅子は、剣角2本をもつ剣獅子とネジレ角2本の巻獅子の男獅子2匹、それに宝珠をいただく玉獅子の女獅子が加わる。3匹のいずれも赤頭で、毛に紅く染めた麻緒を用いている。紫の無地の水引き幕をさげる。衣装は、獅子毛紋を散らした青地の上衣に、金茶色の袴をはく。赤の手甲をつけ、白足袋はだしである。頭に獅子頭、腹に三つ巴紋を描く黒塗りの太鼓をつけ、両手にバチを持つ。
 天狗は、鳥甲をかぶり、「諏訪神社」の名入りの上衣に柄のタッツケをはく。赤の手甲をつけ、白足袋はだしである。腰に綿入りの赤紐を巻き、肩に赤のタスキをかける。左手に8つ手の天狗団扇、右手に青竹の杖を持ち、腰に太刀を佩く。
 岡崎はひょっとこ面をつけ、市松模様の剣先烏帽子をかぶる。獅子と同じ青の上衣に錦の裃と袴をつける。赤の手甲をつけ、白足袋はだしである。両手にササラを持つ。
 赤鬼は一本角のある赤の鬼面をかぶり、赤麻の毛をつける。揃いのハンテンに濃い柄のプリント地のタッツケをはく。紅白のタスキをかける。赤の手甲をつけ、白足袋を履く。両手に束ねた榊の枝を持つ。
 笛方と唄方は、洋服の上に揃いのハンテンを羽織る。

 この獅子舞については、プログラムに次のように記されている。
   大島の獅子舞
    この獅子舞は、文化文政年間に奥多摩から伝えれたといわれる一人立ち三匹獅子舞で、剣獅
   子・玉獅子・巻獅子・赤鬼の4人で構成され、ほかに先導役の天狗、道化役の岡崎がつきま
   す。舞いは、笛と唄の伴奏に合わせて行われますが、この獅子舞は大きく腰を落とし、見得を
   切るような動作をするなど舞踊的な要素が取り込まれているのが特徴といえます。また、岡崎
   は滑稽な姿でササラをすり、皆を笑わせます。県指定無形民俗文化財。

 舞台にあがった獅子は、先ず剣獅子が水引をおろしてから舞い始める。次いで巻獅子、女獅子の順に舞う。
 獅子舞唄は、次の通りの順序で歌われる。なお、唄の上部の数字は、唄が始まる時刻を示す。(以下、他の獅子舞唄も同様である)
   2:16 1 皆々申せば限り無し 申し残して国の土産に
   2:20 2 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと引きまわせ
   2:22 3 国からは急げ戻れと文がくる お暇申していざやと申せ
   2:23 4 太鼓の胴をきりとと締めて お庭で簓を摺り止め

神社での獅子舞唄と異なり、今回は省略された上記の4番を歌う。参考までに諏訪神社では、平成7年の場合に次の獅子舞唄が歌われている。上部の数字は、今回歌われた順序を示す。1〜2と5〜10の7番の唄が省かれていることがわかる。
   1 鳴りを鎮めてお聞きやれ われらが簓の唄の品聞け
   2 山雀が山に離れて八つ連れて これのお庭で羽根を休める
  A3 皆々申せば限り無し 申し残して国の土産に
  B4 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと引きまわせ
   5 筑波嶺の峰から落ちる滝の水 それが積もりて淵となりぬる
   6 この程は参る参ると思えども 橋は引き橋飛ぶに飛ばれぬ
   7 月も日も西へ西へとおよりやる いざや我等もあれを見まねに
   9 太鼓の拍子にお庭の拍子 拍子を揃えて見せ申せ
   10 一つをすごいて のうかいせん
  C11 国からは急げ戻れと文がくる お暇申していざやと申せ
  D12 太鼓の胴をきりとと締めて お庭で簓を摺り止め

 2時24分に獅子舞が終わって保存会の方の話があり、その中に獅子頭を2年前に頭が古くなったので新調したという。道理で巻獅子の角が金色に輝き、しかも鹿角のように枝分かれしている。確か平成7年8月27日(日曜日)に見学した時の獅子頭と異なった感じがしたわけである。入場は下手の階段から舞台へあがったが、退場は上手の階段から客席に向かって道行がある。

○ 獅子舞の解説
 次いで神奈川県民俗芸能保存協会の石井一躬副会長が獅子舞の解説を行い、三匹獅子舞と異なる一人立ち一匹が舞う半在家囃子保存会の囃子獅子が演じられる。2時33分から2分間ほどの短い演技である。獅子が終わると、愛川高校の前校長でもあった石井氏は三増の獅子舞にふれ、平成10年度から地元の方々を講師として授業に伝統文化を取り入れた講座を設け、初年度が4人、次年度が10人今年度が32人と生徒が増したという。

○ 田名の獅子舞
 2番目の三匹獅子舞は、やはり地元の相模原市田名の獅子舞である。9月1日の田名八幡宮の祭礼に奉納される。2時42分に大島と同様に客席後方から入場する。ノボリを先頭にして、氏子総代3人・万灯2人・旗持2人・笛方2人(内1人は女性)・天狗・バンバ面・ササラ摺り2人・男獅子・女獅子・子獅子の順で続く。

 獅子頭はいずれも赤塗りの頭で、ネジレ角2本をもつ男獅子(父獅子)と剣角2本をもつ子獅子の男獅子2匹と、宝珠をつけた女獅子(母獅子)である。頭には黒・赤・紫・緑・薄茶の5色の麻をタテガミとし、水引き幕は赤無地である。緑地に白く抜いた獅子毛紋を散らした上衣に、共生地のタッツケをはき、水色の帯をしめる。白足袋をはく。腹に三つ巴紋を描いた太鼓を赤の紐で固定し、両手にバチを持つ。
 ササラ摺りは長着に黒の三尺をしめ、素足に黒緒の草履をはく。頭には円形の花笠をのせ、両手にササラをもつ。花笠は赤無地の水引き幕をつける。上部の中央には、6本の飾り花をたてる。ササラは、割り竹と切り込みのある木製の棒をもつ。
 バンバ面は、能衣装のような生地の上衣に獅子と獅子と同じタッツケをつけ、白足袋をはく。頭は白のシャグマの上に宝珠をのせ、角のある茶色の面を顔につける。腰には大きな白幣をさし、両手には笹の葉の束をもつ。
 天狗は、黒無地の上衣に能衣装のような生地のタッツケをつけ、素足で紅白緒の高下駄をはく。頭には鳥甲をかぶり、顔に天狗面をつける。腰に金色の大きなヤツデの団扇をさし、手には身長を越える上部の半分が割れた太い竹をもつ。
 笛方は青年と女生徒(中学2年生)が1人ずつ、青年は白の上衣に袴をつけ、女生徒は揃いのハンテンを羽織る。唄方は、洋服姿の2人である。

 田名の獅子舞については、次のようにプログラムに載っている。
   田名の獅子舞
    この獅子舞は、男獅子・女獅子・子獅子の3匹の獅子と、バンバ・天狗・花笠(ササラ)2
   名、それに笛と唄手によって構成されています。
   舞の特徴は、獅子たちが土俵いっぱいに円を描きながら舞うことと、獅子とバンバが向かい合
   わせになってバンバのリードで獅子が舞うところです。舞の後半には女獅子が藪畳と花笠とバ
   ンバによって隠される「女獅子隠し」があります。慶安年間に始まったと伝えられていました
   が戦争によって中断、大変な苦労の末、昭和49年におよそ40年ぶりに復活しました。

 舞台上には、土俵を象徴する太い縄が円形に置かれ、中央に砂盛りして白幣をつける榊をたてる。榊がとられ、2時45分から獅子舞が始まる。ササラ摺りは、対角線上の二隅に置かれた椅子に座ってササラをする。「思いもよらず」の唄(後述の6)が終わると、プログラムにも書かれているように「女獅子隠し」で、舞台の中央に置かれた藪畳(笹で作られた垣根)の後に女獅子を隠し、両横にササラ摺りが配される。「風が霞を」の唄(後述の8)で垣根が除かれ、ササラ摺りは椅子に戻る。2時57分に上手から退場する。
 獅子舞唄は、次の通りである。唄の後半の傍線部分は繰り返して歌う。
   2:46 1 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと引き申さいな
   2:47 2 参り来てこれの土俵を見申せば 四本柱が白銀で上のまわしが綾錦
   2:48 3 山雀が山を離れて里へ出て 里でさされて深山恋しや
   2:49 4 立つ鷺が跡を濁さば水澄ませ 跡を濁さず立てよ友達
   2:50 5 あら沢山の見物衆 お笑いやるな3つ拍子やる
   2:52 6 思いもよらず朝日にほれて そこで女獅子が隠されたよな
   2:53 7 なんぼ女獅子を隠しても これのお庭で巡り合い申す
   2:54 8 風が霞を吹きあけて 女獅子男獅子が肩を並べる
   2:55 9 奥山の松にからまる蔦の根も 年が尽きればほろりほごれる
   2:56 10 山里に雨が降るげで雲が立つ お暇申していざやおとられ
の10番の唄(1〜10)で、いずれも笛を止めずに歌う。今回の唄は、平成9年9月1日の田名八幡宮例大祭の時と同じ唄数である。

○ 三増の獅子舞
 田名に続いては、招待出演の三増の獅子舞である。今回は、三増の方々ではなくて愛川高校の伝統文化受講生33人による獅子舞が演じられる。この獅子舞には、平成10年7月20日(月曜日)の諏訪神社祭礼当日に訪れて見学した。
 道行は客席後方から舞台にむかう。2流のノボリを先頭に、天狗・ササラ摺り4人・バンバ面・獅子3人・笛方3人が続く。唄方は、すでに10人ほど舞台に待っている。

 獅子は、ネジレ角2本の巻獅子と先細の棒角2本をつける剣獅子の2匹の男獅子、宝珠の玉獅子の女獅子1匹からなる。いずれもの赤塗りの頭である。獅子頭には3匹共に麻のタテガミをつけ、赤無地の水引幕をさげる。緑地に唐草模様を白抜きにした上衣と共生地のタッツケで、白足袋にワラジをはく。
 ササラ摺りは、獅子と同じ緑地に唐草模様を白抜きにした上衣とタッツケで、共生地の手甲をつけ白足袋に紅緒の草履をはく。円形の花笠をかぶり、両手にササラを持つ。笠の上部に飾り花をおき、赤無地の水引幕をさげる。

 バンバ面は、唐草模様の上衣とタッツケの上に小柄の尻切りの着物を重ね、幅広の赤い布で結ぶ。白足袋にワラジをはく。顔には黄土色のバンバ面をつけ、手に団扇を持つ。ピンクのタスキをしめて白幣を背負う。
 唄方は、地元では「歌師」と呼んでいる。今回は、学生服の男女10人位の生徒に地元の指導者が1人加わっている。笛方(地元では「笛師」という)は、いずれも女生徒である。揃いの白地に纏をちらした小柄模様のユカタの上に揃いのハンテンを羽織り、白足袋に紅緒の草履をはく。ハンテンの襟は、黒地に白字で「伝統文化」と「県立愛川高校」の校名が入っている。頭には、赤の紙飾り花のついた鳥追い笠をかぶる。
 天狗は、鼻の高い赤の天狗面をかぶり、唐草模様の上衣に共生地のタッツケと手甲をつけ、白足袋に紅白緒の高足駄(一本歯)をはく。左手にヤツデの葉を描く大きな団扇、右手にシデが付いた榊の枝をもつ。
 ノボリは赤地と緑地の2流で、赤地のは上部に日天をおいて黒字で「御獅子舞」、緑地のは上部に月天をおいて黒字で「御獅子舞」と記されている。これを持つ女生徒は、赤の帽子をはぶり、揃いのハンテンに白足袋・紅緒の草履ばきである。

 この獅子舞については、プログラムに次のように記載されている。
   三増の獅子舞
    この獅子舞は、雨乞い、五穀豊穣など時に応じて舞った古式ゆかしいもので、亨保12年(
   1727)にはすでに行われていたことが判っています。巻獅子・玉獅子・剣獅子・バンバ・
   花笠から構成され、唄師の二十三連の唄にしたがって太鼓を打ち鳴らして舞い続けます。この
   三増の獅子舞を、平成十年度から神奈川県立愛川高等学校が授業の中に取り入れ、地元の保存
   会との交流のなか、高校生の立派な舞い手が育っています。
   県指定無形民俗文化財。

 女獅子隠しといえば、花笠の4人が女獅子を取り囲む例が多いが、ここでは天狗が前面に出てきて女獅子は後方に下がって腰をおろす。また、巻獅子と剣獅子とが女獅子を争う場面では、多摩地方でみられるような激しさがみられない。獅子舞は、3時19分に終わる。15分と短い演技である。

 獅子舞唄は、全て笛を止めずに傍線を引いた部分を繰り返して歌う。先年の8坂神社(諏訪神社の境内社)の時と同じく、次のように23ある獅子舞唄の内で9番が省略されて歌われている。
   3:05 1 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりとひき申さいな
   3:06 2 このお庭の枝垂れ柳を 一枝とめて腰を休ましょ
   3:07 3 鳴りを静めてお聞きやれ 唄も拍子も更に聞こえぬ(ネマリ)
   3:08 4 舞に来てこの大門を見申せば 縦が十五里横が七里よ
            入りはよく見よ 出はに迷うぞ
   3:09 5 山雀が山を離れて里へ出て 里で刺されて深山恋しや(トーハツハ)
   3:10 6 白鷺が羽をくわえて八つ連れて このお背戸のめくらきに住む
           めくらきの枝葉幾つと眺むれば 枝は九つ花は十重咲く
   3:11 7 沖のとなかの浜千鳥 波にゆられてしやわと立たれた
   3:12 8 七つ拍子八つ拍子 九つ小拍子にきりを細かに
   3:13 9 あら沢山の見物衆が お笑いあるな三ツ拍子
   3:14 10 思いもよらぬ朝霧が降りて そこで女獅子が隠された
   3:15 11 なんぼ女獅子が隠れても これのお庭で巡り合うよ
   3:16 12 嬉しやな風が巽を吹き分けて 女獅子男獅子が肩を並べ
   3:17 13 奥の山の松にからまる蔦の葉も 縁が尽きればほろりほごれる
   3:18 14 我等が里は雨が降るやら風が立つやら お暇申していちやともだち

 上記で省略された9番の唄は、次の通りである。
   1 お庭の拍子お庭の拍子 一と踏み踏んで見せ申さいな
   2 鹿の子が生まれ落ちると踊り出る あれをみやまに一夜踊りやいな
   3 奥の深山の鳴る神たちが お出やる時はこの如ときよ
   4 鹿島の国のむらむら雀が 尾先揃えて切り返さいな
   5 鹿島から習え習えと文が来て 習い浮かべて鹿島切り節
   6 よそのササラはせんだいすれど 我等がササラはきよく申さいな
   7 この宮は何たる番匠が建てたやら 四方なげしに楔一つよ
   8 立つ鷺が羽根をはじけば見ず澄まぬ 後を濁さで立てやともだち
   9 十七が二十四五まで親に掛りて それがういとて走り出をする
       走り出をして花の都で日が暮れて 霞を寝ゴザに袖を枕に

 獅子舞が終わってから石井副会長の補足説明があり、3時23分に一行が上手の通路を退場する。

○ 矢部の獅子舞
 三増に次いで招待出演の矢部の獅子舞である。この獅子舞には思い出がある。初めてみたのは、平成9年3月8日(土曜日)に豊島区池袋の東京芸術劇場中ホールで行われた第28回東京都民俗芸能大会である。同年9月15日(月曜日)に箭幹8幡宮を訪れた時には、大祭の稚児行列がでた関係で前日に獅子舞が済んでしまい見学できなかった。翌年は親戚の法事、やっと11年9月15日(水曜日)に念願がかない、箭幹八幡宮を訪れて見学できた経緯がある。

 3時27分に他の獅子舞と同様、客席後方ら舞台にむかう。幣追を先頭にして、その後を縦1列に並んだ獅子3匹(巻獅子・女獅子・剣獅子の順)・笛方7人・唄方1人の順で続く。29分から舞台で獅子舞が始まる。
 獅子は剣角2本の剣獅子、ネジレ角2本の巻獅子、宝珠をいただく女獅子の3匹である。獅子頭はいずれも黒塗りで、環状の5色の色紙を中央に、その両端に茶と緑の2色の毛を垂らす。水引幕は、紺地に唐草模様を白抜きしたもので、下部の中央と左右の3か所に白の三つ巴紋がある。花柄のタッツケをはき、タッツケと共生地の手甲をつけ、白足袋ハダシである。頭に獅子頭、腹に黒の三つ巴紋を描く太鼓をつけ、両手にバチをもつ。

 幣負いは白の丸首シャツに花柄のタッツケをつけ、紫のタスキをする。共生地の手甲で白足袋ハダシである。頭にタッツケと共生地の頭巾をかぶり、顔に黒の面をつけて両手に竹製のササラを持つ。
 笛方と唄方は洋服の上に揃いのハンテンをはおる。ハンテンは青の地色、下部は吉原ツナギの連続模様を白抜きし、その周りに獅子毛紋や三つ巴紋、車紋を散らす。黒の襟に左が三つ巴紋を白抜きした下に白字で「矢部八幡宮」、右が「矢部町獅子舞保存会」の名入り、背に「祭」の赤字が入る。

 矢部の獅子舞については、次のようにプログラムに記されている。
   矢部の獅子舞
   この獅子舞は、一説には元亀・天正の頃(1570年代)から始められたといわれています。
   舞いは、剣獅子・巻獅子・雌獅子の三匹の獅子と緑色の道化面した幣追い(ヘイオイ)で行わ
   れます。この獅子舞の特徴は、獅子宿から社前に向かう時の「道行」と木曽町を神輿巡幸のと
   き、獅子が先導する役目をすることにあります。また、獅子の腰にさした5色の幣束をもらっ
   た人は、その年は無病息災で家内安全であるといわれています。この獅子舞が神奈川県で舞わ
   れるのは、今回が初めてです。
   町田市指定文化財

 獅子舞連中は、3時29分に舞台につくと同時に「御庭舞」を始める。ここの獅子舞の構成は「道行」と「御庭舞」の2種と少ない。
 獅子舞唄は、次の9番の唄が歌われる。上部の数字は唄の開始時刻を示す。
   3:30 1 なりを静めておききやれナ 我等がササラのうたの品きけ
   3:32 2 この遊びは8幡様への御法楽ナ 氏子繁盛に守りたまえ
   3:33 3 みなみな申せば限りなしナ 太鼓はやめて遊べ友だち
   3:34 4 太鼓の拍子お庭の拍子 拍子をそろえて見せ申さいナ
   3:35 5 山雀がナ山にはなれてやつづれてナ こなたのお庭で羽を休める
   3:37 6 奥山のナ 松にからまる蔦の葉もナ 縁がつきればほろりほごれる
   3:40 7 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと立て申さいナ
   3:42 8 国からは急げ戻れと文がくる お暇申していざ帰ろうナ
   3:43 9 太鼓の胴をきりゝとしめて お庭でササラをすりこうどうナこの中の1・2・3・5・6の5番は途中で唄をとめ、獅子が太鼓の外側をバチ打ちする6〜9秒の間をおいて切って歌う。これらの唄では、笛を止めて歌う。これに対して4・8・9の3番は、笛を止めずに獅子舞唄を歌う。

 参考までに平成11年の見学の時に比べて、次の2番の唄が省略されている。
   A 早稲田のひつじがほにいでてナ ふたゞの秋にぞあをぞめでたき
   B ひとつを過ごしてのうかいせいナ いぜのとうりにのうかいせいナ
 省略されたAは今回の5と6の間、Bは7と8の間で歌われる。

○ 下九沢の獅子舞
 最後を飾るのは地元・下九沢の獅子舞である。前記のように、客席の後方から登場する。初めてこの獅子舞をみたには平成7年8月26日(土曜日)で、2年後の9年8月26日に再訪した。 3時48分から客席後方をでた獅子舞連中は、ノボリ3流を先頭にして、笛方5人・岡崎・獅子3人の順に並び、舞台に向けて道行となる。ノボリは、「神奈川県 無形文化財 御嶽神社獅子舞 昭和三十七年七月吉日」が1流と「御嶽神社御祭禮 氏子中」が2流である。各面に「御祭禮」「五殻豊熟」「氏子安全」「天下泰平」と記された万灯は、舞台下手にに飾ってある。

 開場前に行われたリハーサルでは、獅子が獅子頭や衣装もつけず太鼓だけの姿で、笛方や唄方も普段着のままで演じられた。本番で衣装を整えて登場すると、同じ舞でも雰囲気がまるで違う。
 獅子は、剣角2本の剣獅子、ネジレ角2本の巻獅子の男獅子2匹に、宝珠の玉獅子(女獅子)の3匹である。いずれも鶏羽根をつけた赤塗りの頭で、麻緒を毛とする。水引き幕は、男獅子が茶地、女獅子が灰色地で、中央には丸に立ち葵の紋、その下にボタンの花を描き、下部が水面になっている。

 獅子は頭に獅子頭、腹に三つ巴紋3つを描く太鼓をつけ、両手にバチを持つ。衣装は、紺地に茶の籠目模様の上衣に、緑地に唐草の模様を白抜きした袴をはく。上衣の襟は黒地で、赤の三つ巴紋「獅子舞保存会」「御嶽神社」の名入りである。今回は、舞台なので白足袋ハダシである。獅子は、道中では水引き幕を開けて顔を出している。
 岡崎は、衣装が獅子と同じである。頭に烏帽子をかぶり、顔に赤い面をつける。烏帽子は、赤地に周りを黒で縁取りし、片面に金紙の日天、他面に銀紙の3日月を貼る。手には笹を束ねてを持つ。
 ササラ摺りは今回の舞台では省かれ、その名残が舞台の上手と下手の2か所におかれた台上の花笠である。花笠は円形で、頂部にローズ色の飾り花をつけ、花柄をプリントをした水引幕をさげる。
 笛方や唄方は、白地に小さな柄が入った着物に角帯をしめ、白足袋をはく。肩から青地に赤の三つ巴紋がついた白字で「獅子舞保存会」「御嶽神社」の名入りの布をかける。

 プログラムには、この獅子舞について次のように記している。
   下九沢の獅子舞
    この獅子舞も、大島と同様に文化文政時代に奥多摩から伝えられたといわれています。舞い
   は、「大囃子」(土俵の外)「岡崎」「ブッソロイ」「カッキリ」「踏み込み」「3拍子」
   「コシヤギリ」「オオシャギリ」などから成り、これに伴奏の笛と唄が付きます。
    舞いの特色は、あまり腰を落とさないことと独特の足さばきにあります。特に「オオシャギ
   リ」になると三匹の獅子と岡崎が輪を作り、胸に付けた太鼓を叩きながらめまぐるしく回るよ
   うに舞う姿は圧巻です。
    県指定無形民俗文化財。

 舞台では、下九沢の獅子舞が3時51分に始まる。まず剣獅子が出て水引幕を下ろして一舞い(1分ほど)、次に巻獅子、玉獅子の順に水引幕をおろして一舞いする。獅子舞唄が次々に歌われて、最後に獅子3匹が1列に並んで4時7分に獅子舞が終わる。演技時間が15分と通常の神社で行われる舞の28分より短縮されている。
 獅子舞唄は、次の6番が歌われる。
   3:52 1 この宮は何たる大工が建てたやら 4方4面に楔1つで
   3:55 2 皆々申せば限り無し 太鼓を早めて遊べ友だち
   3:58 3 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと立て申さいな
   3:59 4 1つをすごいそ のうかいせん
   4:00 5 国からは急げ戻れと文がくる お暇申していざ申さいな
   4:92 6 太鼓の胴をきりとと締めて お庭で簓を摺りとを止めた

 1と2の唄では、笛を止めて「この宮は」のように唄を短く切って歌い、間に笛が入って次の「何たる大工が」の唄に移るようにする。3から6の唄では、笛を止めずに歌う。

 参考までに御岳神社で歌われて、今回の舞台で省略された獅子舞唄に
   1 鳴りを鎮めてお聞きやれ われらが簓の唄の品聞け
   2 廻れや車続いて廻れ水車 おそく廻れば関を止める
   3 筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりぬる
   4 この頃は参ろ参ろと思えども 橋は石橋飛ぶにゃ飛ばれぬ
   5 太鼓の拍子にお庭の拍子 拍子を揃えて見申さいなの5番があり、その他に現在うたわれていない
   6 月も日も西へ西へとお急ぎやる いざや我等もあれをみまぬけの1番がある。

○ フィナーレ
 フィナーレは、演技が終わった下九沢の獅子舞連中が舞台に残り、今回出演した大島・半在家・田名・三増・矢部の各獅子が客席横の両側の扉から太鼓を鳴らしながら舞台にあがる。出演者が揃って幕がおりて終演となる。

 今回、招待を含めた相模原市内外の5か所の獅子舞には、異なる部分があるし、共通する部分がみられる。共通点といえば獅子舞唄をみると、例えば大島で歌われた
   1 皆々申せば限り無し 申し残して国の土産に
   2 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと引きまわせ
   3 国からは急げ戻れと文がくる お暇申していざやと申せ
   4 太鼓の胴をきりとと締めて お庭で簓を摺り止めの中で、大島の1〜4に対し下九沢の唄では
   2 皆々申せば限り無し 太鼓を早めて遊べ友だち
   3 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと立て申さいな
   5 国からは急げ戻れと文がくる お暇申していざ申さいな
   6 太鼓の胴をきりとと締めて お庭で簓を摺りとを止めたの2・3・5・6の4番が対応し、大島の3と4には矢部の
   8 国からは急げ戻れと文がくる お暇申していざ帰ろうナ
   9 太鼓の胴をきりゝとしめて お庭でササラをすりこうどうナ8と9が同様である。大島の
   2 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと引きまわせの唄は、次のように
   田名 1 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりと引き申さいな
   三増 1 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりとひき申さいな
と田名にも三増にもみられる。田名と三増では、以上の他にも田名で歌われる獅子舞唄の中で次の6つの唄
   3 山雀が山を離れて里へ出て 里でさされて深山恋しや
   5 あら沢山の見物衆 お笑いやるな3つ拍子やる
   6 思いもよらず朝日にほれて そこで女獅子が隠されたよな
   7 なんぼ女獅子を隠しても これのお庭で巡り合い申す
   8 風が霞を吹きあけて 女獅子男獅子が肩を並べる
   9 奥山の松にからまる蔦の根も 年が尽きればほろりほごれる
は一部に違いがみられるが、三増の次の6番の唄と対応する歌詞である。
   5 山雀が山を離れて里へ出て 里で刺されて深山恋しや
   9 あら沢山の見物衆が お笑いあるな三ツ拍子
   10 思いもよらぬ朝霧が降りて そこで女獅子が隠された
   11 なんぼ女獅子が隠れても これのお庭で巡り合うよ
   12 嬉しやな風が巽を吹き分けて 女獅子男獅子が肩を並べ
   13 奥の山の松にからまる蔦の葉も 縁が尽きればほろりほごれる
   14 我等が里は雨が降るやら風が立つやら お暇申していちやともだち

これらは、元来が同じ唄だったものが、長年月にわたる口伝えによって両地でそれぞれが変化したものと思われる。

 3匹の獅子の呼び名は、場所によって異なっている。例として西多摩地の場合を取り上げると、奥多摩町では「大太夫(オダイ)」「小太夫(コダイ)」「女獅子」が多い。女獅子の場合には「女獅子」が一般的であるが、あきる野市では男獅子の場合には「大頭」と「小頭」が一般的で、入野では「太夫」「男獅子」と呼ぶ。
 変わった所では、瑞穂町箱根ケ崎の「太郎」「次郎」「花子」がある。青梅市友田では、一般的な「先獅子」「後獅子」「中獅子」の他に「せきもり」「せきすけ」「せきなり」の異名がみられる。

 今回出演した町田(参考のために矢部の他に相原と金井を加えた3か所)・相模原(3か所)・愛川(1か所)の7か所を比較できるように1覧表にまとめてみると、次のようになる。
   ┏━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━━┓
   ┃市町名┃ 町   田   市 ┃ 相  模  原 市 ┃愛川町┃
   ┣━━━╋━━━┳━━━┳━━━╋━━━┳━━━┳━━━╋━━━┫
   ┃役 名┃矢 部┃相 原┃金 井┃下九沢┃大 島┃田 名┃三 増┃
   ┣━━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━━┫
   ┃男獅子┃剣獅子┃剣獅子┃平 角┃剣獅子┃剣獅子┃子獅子┃剣獅子┃
   ┠───╂───╂───╂───╂───╂───╂───╂───┨
   ┃男獅子┃巻獅子┃巻獅子┃丸 角┃巻獅子┃巻獅子┃男獅子┃巻獅子┃
   ┠───╂───╂───╂───╂───╂───╂───╂───┨
   ┃女獅子┃女獅子┃女獅子┃宝 冠┃玉獅子┃玉獅子┃女獅子┃玉獅子┃
   ┠───╂───╂───╂───╂───╂───╂───╂───┨
   ┃先 導┃幤 追┃ヒョットコ ┃幣 追┃岡 崎┃岡 崎┃バンバ┃バンバ┃
   ┠───╂───╂───╂───╂───╂───╂───╂───┨
   ┃注 記┃注 1┃注 2┃注 3┃   ┃注 4┃注 5┃注 5┃
   ┗━━━┻━━━┻━━━┻━━━┻━━━┻━━━┻━━━┻━━━┛

      注1 ネジレ角2本の獅子を「ネジリンボウ」と呼ぶ。
      注2 「ヒョットコ」と呼ぶ。
      注3 「幣追」と呼ぶが、河童面をつる。
      注4 「ヒョットコ」あるいは「岡崎」と呼ぶ。
      注5 「バンバ面」とも呼ぶ。

 この表からみると、先導を除いて獅子については矢部・相原・下九沢・大島・三増の5か所が共通するが、金井と田名の呼び名にはそれぞれ特徴がある。

 今回のように、相模原市内と隣接する獅子舞が一堂に会して共演すると、それぞれの地元ではみえなかった共通する部分と異なる部分との比較ができて有益である。これはそれぞれの現地だけでは得られない効果である。

 今回が「みのりの秋に獅子が舞う」の第一弾で、第二弾が11月3日(金曜日)に川崎の日本民家園で行われる。これには、川崎市内の小向・初山・菅の3か所の獅子舞が舞われる。今回と同様に見逃せない催しである。

 今回と次回の2回を併せれば、神奈川県下の川崎市3か所・相模原市3か所・愛川町1か所の計7か所の獅子舞が出演する。これに残るのは、横浜市の牛込と鉄の2か所と津久井町鳥屋の1か所の計3か所である。第2弾の3日に民家園に行けば、今年は今回と牛込の獅子舞を見学したから、県内では鉄と鳥屋の2か所だけが残ることになる。

             〔初出〕『神奈川の獅子舞巡り・』(多摩獅子の会 平成12年刊)所収
◎ 神奈川県立歴史博物館
 平成17年2月11日(金曜日)は神奈川県立歴史博物館(横浜市中区南仲通5−60)を訪ねる。1月29日(土曜日)から3月13日(日曜日)の間、特別展「かながわの三匹獅子舞 獅子頭の世界」が催されている。

 昨年、愛川の山口研一さんから来年2月11日に博物館で三増の獅子舞が公演される、と聞いていた。昨年は神奈川の獅子舞を目標にしていたが、小向・鳥屋・大島・田名・菅の5か所に止まり、三増・下九沢・初山・牛込・鉄の5か所が残ってしまった。辛うじて現地で見学できなかった下九沢の獅子舞を「相模原市民俗芸能大会」でみられた。
 今年は残った三増・下九沢・初山・牛込・鉄の獅子舞を現地でみたいと思っているが、見学スケジュールが取れるか不明であるので、機会をみて獅子舞に接したい。そこで博物館で行われる三増の公演から神奈川の獅子舞を追うことにする。

 博物館はJR線桜木町駅から歩いて5、6分と、予想していたよりも近い。
館についたのが午前10時30分頃、早速、特別展をみる。
1 獅子頭の変遷・2 さまざまな獅子・3 絵画に描かれた獅子舞・4 三匹獅子舞の道具と衣装・5 かながわの三匹獅子舞の構成で展示されている。

「1 獅子頭の変遷」は伎楽系獅子頭が主体、三匹獅子舞の頭は川崎と八王子の現物2組と相模原の写真パネル1点である。
「2 さまざまな獅子」は狛犬・墨壺・香合・舞獅子・藁獅子・獅子頭・板獅子・土人形などそれぞれの点数が少ないが変化に富む。「3 絵画に描かれた獅子舞」は屏風・縁起・絵巻に写真パネルを展示している。

「4 三匹獅子舞の道具と衣装」は現在は中絶した多摩市落合・白山神社の獅子舞関係の道具と衣装に写真と資料が加わる。寛政5年の墨書銘がある3匹1組の獅子頭の展示があるが、女獅子の頭が間違っているように思われる。
 というのは女獅子として中央に置かれた頭は頂に宝珠があるが、角2本が左右にある。右端の「剣獅子」とされる頭は前に短い剣形を立て後ろに長い先細の角がある。宝珠と剣角から判断して女獅子を決定したものと考えられる。
 しかし左端と中央の獅子頭には2本角が左右にあり、額の上の飾りの模様が共通している。多くの女獅子が宝珠をいただく例は多いが、男獅子でも宝珠をつける例がある。しかも男獅子2匹が左右の2本角、女獅子が1本角は各地でみられるところである。そうした観点からみると女獅子とされる頭が男獅子で、剣獅子が女獅子なのではなかろうか。

 「5 かながわの三匹獅子舞」のコーナーはすでに廻ったことがある三増・鳥屋・初山・菅・小向・牛込・鉄・大島・下九沢・田名の獅子舞で使われた獅子頭・面・ササラ・持ち物の現物に写真パネルで構成されている。県内にある三匹獅子舞以外の獅子の写真パネル、例えば仙石原の湯立神楽がみられる。

 このコーナーで最も興味があるのは、何といっても相模原市大島の「日本獅子舞来由」の巻物である。伝承によると奥多摩町小留浦の獅子舞から伝授を受けた、という。展示では巻物の最初の部分が拡げてあり、私の最もみたい真言などを記した「神法秘文之口伝」の部分がみられない。

 同じような「日本獅子舞来由」の巻物が同市下九沢にも残っている。永田衡吉著『神奈川県民俗芸能誌 増補改定版』(錦正社 昭和62年刊)には、下九沢の巻物全文が233〜239頁に載っているので参考になる。

 小留浦の獅子舞が地元の奥多摩町原を始めとし、都外の相模原市など各地に広まっており、伝授された伝書(巻物)に伝来の年銘が記されている。
例えば同町原に小留浦からの伝書が残っている。原の巻末に「天文拾壱年壬寅八月」の年銘がみられる(注2)。奥多摩町の隣にある桧原村では小留浦から沢又、そこから数馬へ、別の経路で千足や茅倉を経て泉沢へ伝授されている。

 沢又の伝書に「武州多摩郡三田領小留浦村 村木氏江伝之」とあって「天文元辰八月」の年銘が記されている。この伝書を「天明元年辛丑七月日」に「御望ニ付写シ伝江申候」として小留浦村村木氏から沢又村木原氏へ伝えている(注2)。沢又から昭和5年に伝書をうけた同町峰の場合も沢又同様に「天文元辰八月日」とある。

 相模原市下九沢の巻物は「干時元和二年卯六月」の年銘あると、前記の『神奈川県民俗芸能誌』に載っている。ところが現在残っている小留浦の巻物の末尾に「天明二年寅六月 相原山 明文法印写之」が記されているだけで、前記の「天文拾壱年壬寅八月」や「天文元辰八月」、あるいは「干時元和二年卯六月」の年銘はみられない。こうした年銘からも現在の小留浦の巻物の他に古い巻物(原本)の存在をうかがわせている。

 もっとも下九沢の巻物に「元和二年」の年銘があっても、伝授されたのは「文政四年巳九月」だから天明2年の写しであろうが、元和2年の出所は不明である。ただ「第4 諸尊真言」をみると、小留浦のは例えば「日天・ヲンアニチヤソワカ」と書かれているのに対して、下九沢のは「ヲンアニチヤソワカ」と尊名が省略せている。他の真言でも全て尊名が略されている。
   (注1)宮尾しげを・本田安次『東京都の郷土芸能』(一古堂書店 昭和29年)161頁
   (注2)檜原村史編纂委員会『檜原村史』(檜原村 昭和56年刊)913頁

 特別展と常設展示をみてロビーに戻ると愛川の山口研一さんに出会う。実演前に馬車道を獅子舞連中が道行を行うというので、館外に出て馬車道に出ると八王子の松本良一さんがいる。裏玄関では三増のハンテンを羽織った岩下敦郎さんに会う。

 博物館の正面玄関前の脇にある広場で午後2時から三増の獅子舞の実演がある。三増の獅子舞を初めてみたのは平成10年7月20日(月)であった。次が同12年10月22日(日)の第21回相模原市民俗芸能大会、今回が3回目である。
 実演に先立って馬車道の道行ある。裏玄関をバックに獅子舞連中の記念撮影があってから、道行が1時41分に裏玄関前を出発する。馬車道の南側の歩道を西に進み、十字路を右折して博物館側の歩道を戻って舞場に入る。
 道行は保存会のノボリを先頭に、次に大黒の露払い・日月のノボリ2人・天狗1人・バンバ面1人・巻・玉・剣の順に獅子3人・笛方5人・ササラ摺り4人・唄方8人が続く。平成10年の道行と並ぶ順序が異なる。

 保存会のノボリは白地に「神奈川県指定無形文化財 相州 三増獅子舞保存会」と墨書し、ノボリを持つ方は普段着の上に揃いのハンテンを羽織る。揃いのハンテンは黒地の左襟に「三増獅子舞」、右襟に「県文化財」の白の名入り、青地の背中に赤の三つ巴紋、下部が白と黄色の市松模様である。
露払いの大黒は日月のノボリを持つ人と同じ唐草模様の上衣とタッツケをつけ、梔子色の頭巾とチャンチャンコを羽織り、白足袋にワラジばきである。頭にチャンチャンコと同色の頭巾をかぶり、顔に大黒面をかぶる。上半部が紅白縞で下半部が先割れした竹杖(ササラ)を両手に持つ。道行に大黒が参加するのは平成10年に復活した。
 日天は赤地の上部に太陽を表す黄色の円、その下に黒字の「御獅子舞」、月天は黄緑地に白色の3日月の下に黒字の「御獅子舞」である。頭に紙花をつけた鳥追笠をかぶり、緑地に唐草模様を白抜きにした上衣とタッツケをつけ、白足袋にワラジをはく。
 天狗は晒の麻のシャグマと髭をつけ、鼻が高い赤の天狗面をかぶる。唐草模様の上衣に共生地のタッツケと手甲をつけ、赤の布を腹にまき、白足袋に紅緒の草履をはく。舞場では紅白緒がついた1本歯の高足駄である。左手にヤツデの葉を描く大きな団扇、右手にシデが付いた榊の枝を持つ。

 先導役のバンバ面は緑地に唐草模様を白く抜いた上衣とタッツケに、白地に紺の木の葉柄の腰切りの着物を重ね、2重の赤紐で結ぶ。白足袋にワラジをはく。顔にバンバ面をつけ、左手にエビ茶地に黄色の日天と白の瑞雲、右手にエビ茶地に黄色の日月と白の瑞雲を描く団扇を持つ。薄いピンクのタスキをしめて大きな白幣をつけた白木の棒を背負う。
 獅子はネジレ角の「巻獅子」と先が細くなった棒角の「剣獅子」の2匹の男獅子、宝珠の「玉獅子」の女獅子1匹からなる。ここでは巻獅子を父、玉獅子を母、剣獅子を子に見立てている。いずれもの赤塗り頭で3匹共に麻のタテガミをつけ、赤無地の水引幕をさげる。白シャツに唐草を白抜きにした緑地のタッツケをつけ、タッツケと共生地の手甲をはめ、白足袋にワラジをはく。
 笛方(笛師)は5人全員が女性、頭に赤の紙花がついた鳥追い笠をかぶり、揃いの白地に小柄模様の着物の上に三つ巴紋が入る黒の羽織りを重ね、白足袋に紅緒の草履をはく。着物の黒地の襟に白字で「三増獅子舞」と「県文化財」の名入りである。笛は囃子と兼用できる獅子田の既製品で5本調子の7穴を用いる。

 ササラ摺りは4人、獅子のタッツケと同じ緑地に唐草模様を白く抜いた上衣とタッツケで、共生地の手甲をつける。2人は白足袋を紅緒の草履、他の2人は白足袋にワラジをはく。追い笠をかぶる。頭に花笠をかぶり、両手にササラを持つ。丸形の花笠の上に榊を立てて紙花で飾り、赤無地の水引幕を下げる。
 唄方(歌師)の8人は全員が女性、5人が笛方と同じ服装である。3人は紙花付きの鳥追笠をかぶり、普段着に揃いのハンテンを羽織る。揃いのハンテン黒地の左襟に「三増獅子舞」、右襟に「県文化財」の白の名入り、青地の背中に篆書体で「伝統文化」と記す。獅子舞唄を歌う時に白の扇子を広げるが、扇子に獅子舞唄が記されている。

 博物館の3間四方に竹を立て、上部に四手をつけた縄を張った舞場に獅子舞連中がつくと、保存会長から挨拶と獅子舞の由来などの説明がある。2時5分から獅子舞が始まる。獅子舞唄は次の通りである。
   2:07 1 京から下る唐絵の屏風 一重にさらりとひき申さいな(クルイ)
   2:07 2 このお庭の枝垂れ柳を 一枝とめて腰を休ましょ
   2:08 3 鳴りを静めてお聞きやれ 唄も拍子も更に聞こえぬ(ネマリ)
   (省略)4 この宮は何たる番匠が建てたやら 四方なげしに楔一つよ
   2:10 5 舞に来てこの大門を見申せば 縦が十五里横が七里よ
           入りはよく見よ 出はに迷うぞ
   2:11 6 山雀が山を離れて里へ出て 里で刺されて深山恋しや(トーハツハ)
   2:12 7 白鷺が羽をくわえて八つ連れて このお背戸のめくらきに住む
           めくらきの枝葉幾つと眺むれば 枝は九つ花は十重咲く
   (省略)8 立つ鷺が羽根をはじけば見ず澄まぬ 後を濁さで立てやともだち
   (省略)9 十七が二十四五まで親に掛りて それがういとて走り出をする
           走り出をして花の都で日が暮れて 霞を寝ゴザに袖を枕に
  2:13 10 沖のとなかの浜千鳥 波にゆられてしやわと立たれた
   2:14 11 七つ拍子八つ拍子 九つ小拍子にきりを細かに
   2:15 12 あら沢山の見物衆が お笑いあるな三ツ拍子(キリビョウシ)
   (省略)12 お庭の拍子お庭の拍子 一と踏み踏んで見せ申さいな
   (省略)14 鹿の子が生まれ落ちると踊り出る あれをみやまに一夜踊りやいな
   (省略)15 奥の深山の鳴る神たちが お出やる時はこの如ときよ
   (省略)16 鹿島の国のむらむら雀が 尾先揃えて切り返さいな
   (省略)17 鹿島から習え習えと文が来て 習い浮かべて鹿島切り節
   (省略)18 よそのササラはせんだいすれど 我等がササラはきよく申さいな
   2:17 19 思いもよらぬ朝霧が降りて そこで女獅子が隠された(クルイ)
   2:18 20 なんぼ女獅子が隠れても これのお庭で巡り合うよ
   2:19 21 嬉しやな風が巽を吹き分けて 女獅子男獅子が肩を並べ
   2:20 22 奥の山の松にからまる蔦の葉も 縁が尽きればほろりほごれる
   2:21 23 我等が里は雨が降るやら風が立つやら お暇申していちやともだち

 全ての獅子舞唄は笛を止めずに歌う。上部の数字は唄が始まった時刻を示し、傍線を引いた部分は繰り返して歌う。現在は23番の獅子舞唄の内で9番が省略されている。

 19の唄から21の唄の間が「女獅子隠し」、天狗は舞場の前面に立ち、女獅子が後方に下がって腰をおろす。また巻獅子と剣獅子の2匹は前方で舞うだけで、女獅子を激しく争う場面がみられない。「女獅子隠し」が終わると天狗は舞場の後ろに戻る。
 獅子舞は2時22分に終わる。17分と短い演技であるが、10年7月20日の現地で見学した時より2分長い。本来は45分の舞という。
◎ 三増獅子舞文献目録
永田 衡吉「無形文化財集録(2)」『神奈川県文化財調査報告』第23集254〜257頁 神奈
     川県教育庁 昭和32年刊永田 衡吉『神奈川県民俗芸能誌』273〜276頁 神奈川県教育委員会 昭和41年刊小川 良英「三増の獅子舞」『あいかわの炉辺史話』107〜111頁 愛川町教育委員会 昭和42
     年刊神奈川県教育庁社会教育課『神奈川県の文化財』第9集口絵・27〜28頁 同課 昭和44年刊小林 梅次「諸職の伝承」『神奈川県民俗調査報告2 串川・中津川流域の民俗』56〜68頁 神
     奈川県立博物館 昭和44年刊神奈川県民俗芸能保存協会事務局『かながわの民俗芸能』第2号9頁 同会 昭和45年刊神奈川県教育庁文化財保護課『かながわの民俗芸能案内』10・98・104頁 神奈川県教育委員
     会 昭和46年刊本田 安次「神奈川県民俗芸能大会を見て」『かながわの民俗芸能』第6号3頁 神奈川県民俗芸能
     保存協会 昭和47年刊相原  純『写真集 神奈川のまつり』135頁 萬葉堂書店 昭和47年刊神奈川県教育庁文化財保護課『神奈川県文化財図鑑 無形文化財・民俗資料篇』図版17・図版89
     〜90・76・95〜96・236頁 神奈川県教育委員会 昭和48年刊神奈川県教育庁文化財保護課『神奈川県の民俗芸能案内』10・98・104・106頁 神奈川県
     教育委員会 昭和51年刊
     「獅子舞の継承──三増と田名」『神奈川の民俗芸能』第18集 神奈川県民俗芸能保存
     協会 昭和51年刊神奈川県民俗芸能保存協会事務局『かながわの民俗芸能』第20号22頁 同会 昭和52年刊神奈川県県史編集室『神奈川県史 各論編5 民俗』871頁 神奈川県 昭和52年刊吉田 智一『獅子の平野 民俗写真集 フォークロアの眼5』122〜123頁 国書刊行会 昭和
     52年刊神奈川県教育庁文化財保護課『かながわの民俗芸能50選』13〜14頁 神奈川県教育委員会 昭和
     52年刊永田 衡吉『かながわの祭と芸能』116〜118頁 神奈川合同出版 昭和52年刊篠崎 和輔「獅子舞復活──田名八幡宮獅子舞復活事情」『さがみはらの民俗芸能』第3号 相模原
     民俗芸能保存協会 昭和57年刊神奈川県教育庁文化財保護課『ふるさとの文化財(民俗文化財編)』114頁 神奈川県教育委員会
     昭和58年刊神奈川県文化財協会「資料・神奈川県指定文化財1覧・」『かながわ文化財』第81号47頁 同会
     昭和60年刊永田 衡吉『増補改訂版 神奈川県民俗芸能誌』198・315〜319頁 錦正社 昭和62年刊加藤 隆志「相模原市下九沢の獅子舞について」『かながわの文化財』第85号31頁 神奈川県文
     化財協会 平成1年刊高橋秀雄・須藤功『祭礼行事 神奈川県』138頁 桜楓社 平成3年刊神奈川県祭礼研究会『祭礼事典 神奈川県』227頁 桜楓社 平成4年刊相模原市教育委員会博物館建設事務所編『獅子舞調査報告書第2集 三増の獅子舞』1〜94・1〜
     9頁 同会 平成4年刊吉村 俊介『獅子の里を訪ねて──神奈川県の一人立ち三頭獅子舞』19〜27・113・115・
     120頁 宮の橋社 平成4年刊相模原市教育委員会博物館建設事務所編『獅子舞調査報告書第3集 田名の獅子舞』12〜13・2
     8〜28・53〜54・69頁 同会 平成5年刊荒井 俊明『鳥屋の獅子舞 一人立三頭獅子舞』56・65頁 同人 平成5年刊相模原市立博物館『獅子舞調査報告書第6集 三匹獅子舞の諸相』16・20・52・55・72・
     74〜76頁 同館 平成8年刊愛川町教育委員会他『三増の獅子舞』1〜78頁 同会 平成9年刊峰岸三喜蔵『獅子の詩−日本の三匹獅子舞』115・170頁 けやき出版 平成10年刊石川 博司『神奈川の獅子舞巡り』72〜80・110〜112頁 多摩獅子の会 平成10年刊石川 博司『平成十年の獅子舞巡り』71〜9頁 多摩獅子の会 平成10年刊石川 博司『神奈川の獅子舞巡り・』72〜80・110〜2頁 多摩獅子の会 平成14年刊神奈川県立歴史博物館『かながわの獅子舞−獅子頭の世界』8・46〜7・62〜3 同館 平成17
     年刊宇田川 信「高校生民俗芸能クラブ交流座談会」『かながわの民俗芸能』第69号6・7・9頁 神
     奈川県民俗芸能保存協会 平成17年刊小林 利彦「特別展『かながわの三匹獅子舞』実演に参加して」『かながわの民俗芸能』第69号1
     7〜18頁 神奈川県民俗芸能保存協会 平成17年刊
                 『神奈川の獅子舞巡り』(多摩獅子の会 平成10年刊)を追録
◎ あとがき
      横浜市・川崎市・相模原市・津久井町では、獅子舞の見学よりも石佛調査が先行してい
     るが、愛川町だけは唯一の例外である。以前から町内にある二手青面金剛を調べてみたい
     と思いながら、津久井地方までは調査が及んだが、愛川町までは手が届かなかった。初め
     て三増の獅子舞を訪ねた日が石佛調査を含めて愛川町へ行った最初である。
      現地で三増の獅子舞を見学したの平成10年7月20日の1度だけ、今年は是非、三増
     へ行こうと考えていたが、生憎、清瀬市清戸の獅子舞と重なって三増は断念した。いずれ
     機会をみて訪ねてたいと思う。
      別に三増ばかりのことでないが、奥多摩町の朝から晩まで10庭や12庭の獅子舞に接
     している眼には、神奈川の獅子舞は1庭でしかも短時間である。往復の時間に比べて獅子
     舞の演技時間が短すぎるから、それでつい行きそびれる。
      愛川町教育委員会に勤務する山口研一さんに初めて出会ったのは、平成14年4月14
     日の青梅市成木・高水山の獅子舞である。その後も沢井など何度かお会いしている。書中
     にもあるように、県立博物館の三増獅子舞の実演を教えていただいた他にも、山口さんか
     らいろいろな獅子舞情報を受け取っている。
      ともかく山口研一さんを始め、多くの方々にいろいろとお世話になった。末筆ながらお
     礼申し上げたい。本書が少しでもお役にたてば幸いである。
                             ・・・・・・・・・・・・・・・
                              三増の獅子舞を訪ねる
                              発行日 平成17年8月15日
                              TXT 平成17年10月12日
                              著 者 石  川  博  司
                              発行者 多 摩 獅 子 の 会
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