石川博司 著   足利の庚申塔を廻る      発行 庚申資料刊行会      栃木の庚申塔_目次に戻る
   目次 

足利庚申塔巡り
   ○ 鹿島町の庚申塔      
   ○ 大前町の庚申塔
   ○ 松田町の庚申塔      
   ○ 栗谷町の庚申塔
   ○ 板倉町の庚申塔      
   ○ 葉鹿町の庚申塔
   ○ 小俣町の庚申塔      
   ○ 篠生神社の庚申塔

桐生行(抜粋)      
あとがき
足利庚申塔巡り

 平成18年4月22日(土曜日)は、多摩石仏の会有志7人と共に足利市西部の庚申塔を巡る。JR両毛線の山前駅改札口前に22日午前10時11分集合、宇都宮の瀧澤龍雄さんと佐野の高橋久敬さんのお2人の案内で足利市西部の庚申塔を廻る。

 前回は昨年11月12日(土)・13日(日)の両日、今回と同様に瀧澤さんと高橋さんのご案内で多摩石仏の会有志6人と佐野市と足利市の庚申塔を巡った。今回はその延長線上にある。

 参加者は前回の多摩石仏の会メンバーの犬飼康祐さん・加地勝さん・五島公太郎さん・多田治昭さん・中山正義さんの6人に今回は森永五郎さんが加わり、総勢9人が瀧澤さんと高橋さんの2台の車に分乗して足利の庚申塔を廻る。瀧澤さんの車には多田さん・中山さん・森永さんと私の5人、瀧澤さんが運転し、私が助手席に乗る。高橋さんの車には犬飼さん・加地さん・五島さんの4人である。

 すでに4月4日(火曜日)に瀧澤さんから「庚申塔巡り予定について」のFAX連絡があり、コースの概略が記されていた。当初は足利市南部の案内を予定されていたが、西部に変更になり、葉鹿町や小俣町がコースに入る。

 前回は第1日目(12日)が岩舟町新里・龍鏡寺の延宝8年青面金剛から始まり、佐野市(旧市地区)寺久保町老人ホームの延宝3年板碑型文字塔まで、16か所で庚申塔41基を採塔した。第2日目(13日)は 佐野市(旧市地区)出流原町・福寿荘の延宝8年万歳型青面金剛から始まり、同市(旧市地区)高橋町・旗川土手下の延宝4年地蔵庚申まで25か所で67基の庚申塔を採塔した。

 前回の1泊2日と異なり、今回は日帰りだから予定FAXには
   1 鹿島町共同墓地の寛文&延宝庚申塔
   2 大前町の庚申山(150余基の庚申塔群)
   3 大前町の観音坂を越えた先の延宝庚申塔
   4 栗谷不動堂の青面金剛像
   5 栗谷町の延宝庚申塔(昼食予定)

   6 栗谷町安中の一石百庚申文字塔
   7 板倉町・養源寺の寛文庚申塔と境内の庚申塔群
   8 葉鹿町日枝神社の延宝庚申塔
   9 小俣町宝珠坊の延宝庚申塔他
   10 小俣町半沢・鹿島神社裏の庚申塔他
     時間に余裕が生まれれば、通り沿いの昭和庚申塔等に立ち寄ります。と記されている。

 話は変わるが、昭和42年5月21日(日)は朝食を済ませてから、義弟の運転で桐生と足利の庚申塔を廻った。最初は足利市松田町、次いで奥の湯ノ沢まで入り込み、三叉路で文化12年の「庚申塔」自然石塔をみた。これを皮切りに松田町は道了神社入口、道路より1段高い山根に千庚申3基を含む5基の自然石庚申塔と道祖神1基、次が湯ノ沢の松田行バスの終点付近の庚申塚である。そこで延宝8年青面金剛刻像塔と文字庚申3基を調べ、通りがかりの方から戦前まで6、7軒でウドンの庚申待をやっていたと聞く。

 久保のバス停留所近くの路傍では、自然石文字庚申塔7基と自然石文字道祖1基、文字道祖が並んでいる。原向田を過ぎて庚申塔1基と道祖神1基、その先の路傍で延宝8年青面金剛と百庚申1基を含む文字庚申15基、仲手橋のバス停留所付近の路傍で2基の庚申塔を含むは庚申塔5基のが並立していた。松田町3丁目清水路傍で庚申塔4基(内、青面金剛像1基)・甲子塔1基・文字道祖1基、長泉寺入口で文字庚申2基、熊戸のバス停留所近くの神社入口で庚申塔5基(内、青面金剛像1基)をみた。

 松田町から葉鹿町に入り、葉鹿駅の近くにある篠生神社の百庚申を訪ねる。調査したのは92基、倒れていたり、埋まっていたりする塔を調べれば100基を越した、と思われた。葉鹿町から桐生へ帰る途中で国道を避けて小俣町に入り、上町280番地先の路傍で寛政12年と大正9年の庚申年文字庚申2基、反対側で文字庚申1基、これで足利市内の飛び廻り調査を終えた。

 午後は桐生市内が中心であったが、菱町を出ると足利市内である。下濁沼の天理教両野分会近くの路傍で1基、今回廻った恵性院境内で庚申年塔4基、下濁沼路傍で2基、いずれも自然石文字塔である。再び桐生市に入ると、そこは境野町であった。

 以上の詳細は「桐生行」『ともしび』第8号(ともしび会 昭和42年刊)か、それを所収した『桐生の庚申塔』(ともしび会 平成7年刊)を参照していただきたい。

 そうしら経緯があるので、葉鹿町を廻るならば篠生神社に寄りたいと考えていた。そこにある百庚申の親庚申塔裏面に「余喜斉所歩各高山□□□□□/庚申塔□□七星霜其数一萬五千/躰所願成就因建此塔之文久紀元/歳次年酉冬十月十有六日/服部仙五郎和暁」の銘文が刻まれている。時間の予測もたたないが、それとなく朝、瀧澤さんに篠生神社に寄りたい旨を伝えておく。

〔1〕 鹿島町共同墓地の寛文&延宝庚申塔

 メンバーが揃って山前駅前を出発し、第1見学場所の鹿島町共同墓地に向かう。思ったり駅から近い場所にある。駅で瀧澤さんからいただいた今日のレジメ「栃木県足利市西部地区の石仏巡り栞」には庚申塔3基のデータが記載されている。
   1 寛文X 板碑型 2鶏「庚申」2猿             77×34
  2 延宝8 自然石 種子「奉供養庚申石塔1(墓)」      93×41
  3 万延  自然石 (上欠)「庚 申」            53×43

 1は一見して塔形から寛文か延宝の古塔とわかる。板碑型塔の上部に2鶏、中央に「庚申」、下部に向かい合わせの合掌2猿(像高10cm)を浮彫りする。右端に年銘が刻まれているが、「寛文」と「五月」以上は判読できない。

 2は延宝8年塔としては珍しい川原石の文字塔である。不動明王・矜羯羅童子・制〓迦童子の不動三尊なら理解できるが、上部に「カーン マン マ」の種子三尊が何を意味するかのか、かわからないい種子である。中央に「奉供養庚申石塔一(墓か)」の主銘、右に「延宝八庚申天 山下村」、左に「十一月吉日 衆中敬白」の銘がある。

 3は上部が欠失した文字塔である。中央に「庚申」の2字があり、「万延元庚申年□吉日」の年銘がみられる。

〔番外〕 大前町2丁目 庚申様敷地

 途中で昼食を用意していない人のためにセブンイレブンに寄り、車中で食べ物や飲み物を買うのを待つ。次いで予定外の大前町2丁目にある庚申塚に行き、27基の石塔がコの字形に並んでいる。ここへ寄るために瀧澤さんは「栃木県足利市/大前二丁目 庚申様敷地/碑塔調査報告書」を事前に用意され、配付された。

 先ず問題がある板碑型塔の銘文を読む。上部に蓮台にのるイ−種子、右側に「干時寛文元辛丑天十二月十六日」の年銘があり、左側に「居士」号の法名がみられる。その辺りは読めるが、肝心の中央に記された主銘がはっきりしない。瀧澤さんが主銘に和紙を水貼りし、タンポで叩いて拓本をる。僅かに拓本の下へと続く箇所に「供養」と読める。その上の「石佛」か「石塔」の2字はあやふやで、意見がわかれる所である。

 庚申塔の範囲基準からみて、この塔は「資格基準」の「庚申信仰によって建てたことを銘文に記してあるもの」の「銘文基準」に当たらない。「塞目・塞耳・塞口の3猿か、その1部があって庚申以外の造塔目的を記していないもの」の「類似基準」の要件もない。当然「青面金剛基準」や「3猿基準」には該当しないから、従って庚申塔ではない、と判定する。

 ここには珍しい「蛭兒宮」と刻む万延元年自然石塔(56×43cm)の他に庚申塔が14基あるが、次の庚申塔2基だけを調べる。
  4 年不明 板石型 「猿田彦命」               98×58
   5 享保11 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     71×25

 4は青石系の板石の正面に「猿田彦命」の主銘をと草書体で記す。

 5は標準的な合掌6手像(像高41cm)、像の右に「奉供養青面金剛」、右に「享保十四年己酉十月廾八日 四組」、下部に内向型3猿(像高12cm)を陽刻する。

 2基を含めた石塔については、配付された別紙の「栃木県足利市 大前2丁目庚申様敷地 碑塔調査報告書」に5葉の写真付してデータを記載している。この調査報告書には、先の板碑型塔を解読した「若於曠野中 積土成佛廟 乃至童子戯 聚沙爲佛塔」を載せている。時間をかけて読めば部分的には読めそうな気がするが、他の塔も気になってジックリとはいかない。

〔2〕 大前町の庚申山(150余基の庚申塔群)

 第2の見学は大前町の庚申山、入口に次の「庚申山」の案内標識が立っている。

   庚 申 山 こうしんやま
   庚申(こうしん)とは庚申(かのえさる)と言(い)い年(とし)や日(ひ)を数(かぞ)え
   るのに使(つか)われます。江戸時代(えどじだい)農家(のうか)の慰安(いあん)の日
   (ひ)とされ六十日(にち)に1度(いちど)お祭(まつり)し庚申講(こうしんこう)と言
   (い)い民間信仰(みんかんしんこう)として栄’さか)えた。市内(しない)で最(もっと)
   も規模(きぼ)の大きなもので千庚申(せんこうしん)と言(い)われるが実際(じっさい)
   は150数基(すうき)である。(括弧内はルビ)

 山道に沿って多くの庚申塔が並んでいる。次の塔はその1部である。
   6 寛政4 自然石 「庚 申」               107×68
   7 寛政4 自然石 「庚 申」                87×64
  8 宝暦10 板駒型 日月・青面金剛・3猿          〔69×31〕
   9 享保10 光背型 青面金剛・3猿             〔65×34〕
   10 年不明 光背型 日月・青面金剛・2鶏・1猿       〔80×39〕
  11 寛政4 柱状型 「奉造立百庚申供養塔」        〔60×26×18〕
  12 寛政3 自然石 「千庚申供養」              68×42
  13 年不明 自然石 「千庚申供養」             〔78×46〕

 6はこの庚申山の他の庚申塔と比べて最も大きな親庚申、山腹の奥まった場所にあり、前に1対の燈籠が立つ。塔の正面に「庚申」の主銘、背面に「寛政四壬子十一月吉日」の年銘を刻む。他に多数の施主銘があるが時間の関係で記録を省略する。

 この親庚申までの山道には「百庚申」や「青面尊」、あるいは「帝釈天」や「ウーン」種子1字を刻む庚申塔がある。多くの塔と同じく自然石塔である。悉皆調査をするには1日掛かりになろう。気になった庚申塔だけつまみ食いする。

 7は親庚申の手前石段脇にある文字塔、正面に「庚申」の主銘、背面に「寛政四壬子十一月吉日」の年銘と施主銘の「願主中」を刻む。

 8は標準的な合掌6手像、像の右に「奉造立庚申供養塔」、左に「宝暦十庚辰天十月吉日」、下部に正向型3猿を浮彫りする。9と10と共に法量と像高を計測をしていないので瀧澤さんのデータを借用する。

 9は8と同様に標準的な合掌6手像、青面金剛の下部の右横に「享保十乙巳天」、左横に「九月十日」の年銘がみられる。足下の正向型3猿は足を立てている。

 10は合掌6手像であるが、標準的な持物と異なり、樹柄に弓と矢、下方手に蛇と羂索を持つ。下部の鶏と猿も中央に塞目猿を置き、両端に雌雄の鶏を配する一風変わった陽刻である。8と9と同様に主尊と猿の像高は計測していない。

 11は正面に「奉造立百庚申供養塔」、右側面に長文の銘、左側面に右側面の銘文の続き1行と「寛政四壬子歳十一月吉日」の造立年を記す。長文の銘は現場では読み切れないので、写真から次の通りに判読した。

   老曰老嘗相語曰此地昔年有庚申塔在矣今也其名存面
   其物空也□是郷人毎交會談及此事即遠曳貞砥刊尊號遐□
   男女抛浄財而一百餘躰己成就矣有客請書其事千石因爲作銘以遺之□
   神悳之盛山高冏 除災殃莫人不敬有石可鐫歳年

 12は正面に「千庚申供養塔」、裏面に「寛政三辛亥二月二十七日」とある。

 13は正面に「千庚申供養塔」、裏面に施主銘がある。

 墓地を抜けて東先薬師堂へ出る。薬師堂だけあって「めの字」の絵馬が掛かっている。普通みる「向かい目」の絵馬と異なり、上部に赤幕を描き、両の目を4段に重ねる。所変われば絵馬か変わる、である。

 この境内には注目すべき石佛がみられる。先ず板駒型塔に2天を1体ずつ浮彫りする石佛である。1体は左手に鉾を執り、右手を腰に当てて鬼の上に立つ増長天、他の1体は右手に刀を振り上げ、左手腰に当てて鬼の上に立つ持国天である。

 次にみたのが二十二夜塔である。光背型が塔に4手の如意輪観音を浮彫りし、台石正面に「廾二夜供養」、當所の女人講が寛政3年に造立した。基礎台石の正面に「右 まつだ/左 きりう」の道標銘を刻む。

 3番目が2基並ぶが胎蔵界大日如来坐像と金剛界大日如来坐像の金胎両界の大日如来である。共に僧侶の墓石で、前者は天和2年銘、後者は正徳4年銘を刻む。もう1基気になる石佛は明治31年の六地蔵石佛、例えば最初の行の「カ 預天賀地蔵」のように、それぞれの種子と尊名を6行に並べて彫った文字六地蔵である。

〔3〕 大前町の観音坂を越えた先の延宝庚申塔

 続いて訪ねたのが同町にある延宝庚申塔、地蔵菩薩に混じる石佛群の中にある。
  14 延宝8 板碑型 日月「奉納甲申二世爲安樂」3猿      97×36

 14は中央に「奉納甲申二世爲安樂」の主銘、右に「延宝八天 安内村」、左に「霜月五日」、下部に正向型3猿(像高13cm)を浮彫りする。主銘の「庚申」に当て字と思われる「甲申」を用いるのは、庚申年の干支を使わない点からも関連があるのかもしれない。

〔番外〕 松田町・虚空蔵堂の庚申塔

 次にコースの予定に入っていなかった松田町の虚空蔵堂を訪ねる。瀧澤さんが造立年代を気にしていた塔がある。例え年銘が刻まれていても、1見して寛文か下っても延宝と思われる塔形である。残念ながら年銘を見出せない。
   15 年不明 板碑型 (上欠)2鶏・2猿            50×32
   16 元文5 自然石 日月「庚申供養」            102×63

 15は上欠の塔面が荒れていて「庚申」の2字以外の銘文が読めない。下部に線刻された2鶏と2猿(像高7cm)もハッキリしないが、瀧澤さんが事前に塔面を洗っておいたお蔭で注意してみればわかる。雌雄の2鶏は1方向を向いており、両端の2猿が向き合っているのと対照的である。

 16は日月の下に主銘が「庚申供養」の文字塔、主銘の右に「元文五年」、左に「十月二十四日」の年銘を彫る。

 レジメには、この15の塔の次に松田町松山にある元文5年の梵字庚申真言塔と信州石工が作った天明8年の文字庚申を記載しているが、省略して栗谷不動堂へ向かう。

〔4〕 栗谷不動堂の青面金剛像

 虚空蔵堂に続き栗谷町の不動堂、ここでH型の青面金剛に出会う。他に「ユ」種子を持つ寛保元年「巳待塔」自然石塔(88×55cm)がみられる。参道にある百庚申塔も非常に興味をそそる塔である。
   17 享保15 光背型 日月・青面金剛・3猿           82×38

 17の主尊は合掌6手像(像高65cm)であるが、標準的な持物と位置と異なって上方手に弓と矢、下方手に羂索と蛇を執る。H型6手像なので弓矢の上に日月がある。戦勝して弓と矢で万歳している形にみえるから、変形的な万歳型ともいえるかもしてない。帽子状の頭部の形も面白い。頂部に「ウーン」種子、像の右に「奉造立青面金剛二世禾樂也」、左に年銘の「享保十五戌八月吉辰日」、下部に正向型3猿(像高6cm)を陽刻する。

 17の塔を調べてから、参道沿いに立つ次の塔をみる。
  18 年不明 自然石 「奉拜百庚申」              66×31

18は「奉拜百庚申」を主銘とする文字塔、右下に「濱丑榮□」、左下に「多部田勇□」とある。この種の百庚申は前回、佐野市の田沼地区にある佐野三十三所27番・宝蔵院の「奉尊拝百庚申」天明8年塔や飛駒・磯の沢共同墓地の「奉勧請百庚申塔」天明2年塔をみている。百と千の違いがあるが、桐生市広沢町4丁目・佐和神社には、主銘「庚申塔」の他に「千庚申詣大願成就」と刻む寛政元年の自然石塔がみられる。

〔番外〕 粟谷町橋入の路傍

 レジメの表紙を飾ったカラー写真は粟谷町橋入の石佛群である。道路を挟んだ反対側で昼食、高橋さん持参の薄縁と瀧澤さんのクッションを敷いての食事である。食事が終わると庚申塔が気になって調べ始める。表紙では中央に如意輪観音が光背型塔にあるが、実際は上半分が欠けていて、写真用に上下を合わせる。この如意輪観音を二十二夜塔と思い、関心を払わなかったら、後でレジメに「十六日念佛供養塔」の銘がある寛政5年塔であったの気付く。ウッカリしたミスである。ここには次の庚申塔がみられる。
   19 天明8 光背型 日月・青面金剛・3猿           75×40

 19は剣索6手像(像高52cm)、下部に内向型3猿(像高10cm)を浮彫りする。台石は本体と石質が異なるが、台石の向きを反対に置くとホゾ穴が一致する。現在は台石裏面(本来は正面に当たる)に「天明八/橋上/第」の銘が読める。

〔5〕 栗谷町の延宝庚申塔
 午後は同町橋入にある延宝塔に向かう。首無地蔵や上半分欠失の如意輪観音の中に次の庚申塔2基がある。
  20 享保19 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     75×38
  21 延宝8 板碑型 「ウーン 奉供養青面金剛 結衆中」蓮華    73×33

 20は標準的な合掌6手像(像高43cm)、頂部に「ウーン 奉供養」、像の右に「享保十九甲寅天」、左に「栗谷入講中」と「十一月吉日」の2行、下部の枠内に正向型3猿(像高10cm)を浮彫りする。通常の鬼の向きとは逆である。

 21は中央に彫り下げた枠の中に主銘を含む「ウーン 奉供養青面金剛 結衆中」、右には「延宝八庚申天」、左に「霜月吉辰 爲二世安禾」、下部に蓮華を陰刻する。銘文がある中央部分を何故彫り下げたのか、疑問が残る塔である。

〔6〕 栗谷町谷中の一石「千庚申」百文字塔

 これまで一石に「庚申」の2字を百刻む一石百庚申は隣の桐生市境野町・庚申塚の百庚申を始め、群馬県群馬町など各地でみてきた。縣敏夫さんは『図説 庚申塔』(揺藍社 平成11年刊)の中で伊那市野底の安政7年塔拓本を載せ、解説を加えている(300〜1頁)。さらに「付録4 一石百文字庚申塔年表」を掲載している(368〜9頁)。

 ここにはこでまでみたことがない文化8年の「爲朝大明神」駒型塔(63×28×28cm)がある。右側面に「施主中組中」、左側面に「文化八辛未十一月」とある。問題の「千庚申」は次の22である。
   22 文政10 柱状型 「千庚申」                45×26×15

 22は正面中央の上部に「千庚申」と大きく刻み、右に3行6段、下に2行4段、左に3行6段に「千庚申」を小さな字で彫ってある。右側面に「□□(2字欠失)十丁亥年九月吉日」と4行6段の「千庚申」、左側面に5行6段の「千庚申」がみられる。3面合わせて「千庚申」が99ある。年銘の2字の上が欠けているから、そこに「千庚申」とあって百「千庚申」塔と考えられる。従って前代未聞の十万庚申塔となる。

〔7〕 板倉町・養源寺の寛文庚申塔と境内の庚申塔群

 栗谷町から板倉町へ入り、養源寺の墓地にある次の庚申塔をみる。
   23 寛文9 板碑型 「卍」2猿・蓮華             68×34

 23は上部の中央に「卍」があり、その下に向かい合う2猿(像高11cm)を浮彫りする。猿の下に「寛文九年」と「己戸十一月一日」と年銘を2行に刻む。下段に「當縁」続けて「おせん」など5人の女性名、最後に「敬白」、下部に蓮華を陰刻する。

 近くにある「おもかる堂」の中はコの字型、正面に石地蔵坐像と閻魔木像、両側に5体ずつ十王が置かれている。名称は「おもかる堂」であるが、十王堂であり、罪の軽重を計ることとも関連している。「おもかる様」はJR日野駅前の宝泉寺にある。

 養源寺の入口には現代作の双体道祖神(91×40cm)が置かれており、男神(像高49cm)と女神(像高47cm)が微笑んで迎えてくれる。瀧澤さんがお寺に挨拶している間に境内にある青面金剛と寛延2年の「巳待供養」自然石塔(64×30cm)を調べてから、庚申塔群の頂点にある木祠を訪ね、次いで周辺にある庚申塔をみる。
   24 享保13 板駒型 日月・青面金剛・2鶏・(台石)3猿    62×37
   25 寛政5 柱状型 日月・青面金剛・1鬼・(台石)3猿    73×30×19

 24は標準的な合掌6手像(像高46cm)、像の右に「享保十三戌申天」、左に「二月吉日」、台石正面に枠内に正向型3猿(像高11cm)を浮彫りする。

 25は木祠の中に安置された親庚申である標準的な剣人6手像(像高39cm)、右側面に年銘、左側面と裏面に長文の銘を刻む。正向型3猿(像高10cm)は台石の枠内に陽刻されている。両面にわたる長い銘文を読む時間がないが、幸い瀧澤さんが拓本から判読した文章がレジメに載っている。その中で注目すべきは左側面に「信男等産業暇歴遠近而拝彼寶塔書名字於1片紙押之塔上而以為百塔或千塔拝礼之符云々」とあり、百庚申や千庚申を巡拝した習俗が記されて点である。また裏面に「恭信之情請建百塔干當山」とあり、右側面に「庚申一百躰」と百庚申に触れている。

 ここの百庚申の中に「一百躰拜書」と刻む庚申塔がみられ、いろいろと「庚申」を篆書体で字体を変えた塔がみられ、瀧澤さんによると「千庚申供養」塔が7基あるという。前記の伊那市野底の安政7年塔は1基に百書体で「庚申」を書き分けている。

 寺の本堂前には不動三尊の光背型塔(93×37cm)と倶梨迦羅剣の柱状型塔(65×23×16cm)が並んでいる。光背型塔は上段に不動明王坐像(像高31cm)、下段に矜羯羅童子立像(像高32cm)と制〓迦童子坐像(像高28cm)の三尊を浮彫りする。柱状型塔は不動明王を象徴する倶梨迦羅剣(剣高61cm)を陽刻する。

〔8〕 葉鹿町日枝神社の延宝庚申塔

 養源寺から葉鹿町の日枝神社に向かう。参道で文化7年「サク 二十三夜塔」自然石塔(85×50cm)をみる。「サク」種子の下が下弦の月に陰刻されている。両毛線の車中で3日月の話から上弦と下弦の月に及び、中々下弦の月を刻む三夜塔がないと話していた。

 境内には次の青面金剛の他に「大黒天」や「千庚申」などの石塔がみられる。
   26 延宝8 光背型 日月・青面金剛・1鬼・(台石)2鶏・3猿 100×58

 26は標準的な合掌6手像(像高70cm)、頂部に「イー」種子、像の右に「奉造立庚申供養」と下に横書きで「敬白」の銘を彫る。台石(24×32×32cm)の正面には上段に2鶏、下段に正向型3猿立像(像高12cm)を浮彫りする。台石右側面に「干時延宝八」、右側面に「十一月吉日」の年銘を記す。

〔9〕 小俣町宝珠坊の延宝庚申塔他

 葉鹿町から小俣町に入り、宝珠坊跡にある次の庚申塔2基を調べる。
   27 延宝1 板碑型 日月・2猿「奉造立庚申供養二世安樂攸」 〔81×36〕
   28 寛文4 板碑型 日月「青面金剛・・」2鶏・2猿    〔135×32〕

 27は上部で主銘を挟んで向かい合う2猿、中央に主銘「奉造立庚申供養二世安樂攸」、右下に「延寶元癸丑天十月廾四日」、左下に「結衆等敬白」の銘がある。2猿の下に瑞雲があるのが非常に珍しい。

 28は陰刻の日の下の額部に「寛文四甲辰」、月の下の額部に「六月/念七日」の年銘を刻む稀な例、通常ならば額部ではなく両端の枠である。中央上部に「ウーン 庚申」とあり、下に「青面金剛尊容」など6行、さらに下の中央に「因茲」と〔等上念誠志〕など5行の銘文を刻む。[]内は瀧澤さんのレジメ掲載の銘文データである。下部に向かい合わせの2鶏と2猿を浮彫りし、下の額部に施主銘を列記する。28の年銘に気を取られて27と2基の計測を忘れる。

 参道には次の庚申塔がみられる。
   29 寛政12 自然石 「千詣庚申塔」              89×48

 29は正面に主銘の「千詣庚申塔」、裏面に年銘の「寛政十二年庚申秋」を刻む。養源寺の親庚申にあった「百塔或千塔拝礼」の銘文が思い出される。

〔10〕 小俣町半沢・鹿島神社裏の庚申塔他

 次いで同町の鹿島神社を訪ね、裏手にある崖上で倒れた次の2基の青面金剛をみる。
   31 延宝8 光背型 日月・青面金剛・3猿           97×54
   30 享保14 光背型 日月・青面金剛・3猿           91×40

 31は上方手に宝輪と矛を執る合掌4手像(像高73cm)、標準的な合掌6手像から下方手の弓と矢の持物を省いた尊容である。像の右に「爲國家久長安穏念建立之者也」、左に2行「延寶八庚申菊月中旬」と「下野足利小俣七惣旦那 敬白」、足下に正向型3猿(像高9cm)の陽刻がみられる。

 30は上方手に弓と矢を持つ合掌6手像(像高68cm)、栗谷不動堂でみた享保十五年像の前年に当たる。像の左に「享保十四己酉年九月吉日」の年銘、下部の枠内に正向型3猿(像高6cm)の陽刻。

〔番外〕 小俣町春日神社付近の昭和庚申年塔

 予定のコースを廻り、まだ明るいので昭和庚申年塔を訪ねる。最初は春日神社の反対側の路傍にある石佛群、右端の次の塔をみる。
  32 昭和55 自然石 「ウーン 庚申」               80×51

 32は正面に「ウーン 庚申」の主銘を刻み、背面に「昭和五十五年庚申年四月」の年銘と施主銘の「叶花中建立 東盛書」の2行がある。

〔番外〕 大高撚糸前路傍の昭和庚申年塔

 次いで近くの路傍にある次の塔をみる。
   33 昭和55 自然石 「ウーン 庚申」               89×51

 33は32と同じ正面の「ウーン 庚申」の主銘、背面に「昭和五十五年庚申十二月吉日」の年銘と「町屋庚申塔建設委員会」の施主銘の2行を彫る。

〔番外〕 小俣町・恵性院の昭和庚申年塔

 続いて同町にある恵性院前の路傍に立つ庚申塔をみると、中に次に挙げる昭和庚申年塔が混じる。他に元文5年「ウーン 庚申供養」、寛政12年「庚申塔」2基、大正9年「ウーン 庚申塔」の4基がある。何れも自然石の文字塔である。ここに万延元年塔が加われば、元文5年・寛政12年・万延元年・大正9年・昭和55年と連続して5基揃うのに惜しまれる。
   34 昭和55 自然石 「ウーン 庚申」               76×38

 32と33に続き正面が「ウーン 庚申」の主銘、背面は「昭和五十五年十一月吉祥日/檀信徒 福寿俊明代/贈石工 廣神貞造」の3行である。同じ「ウーン 庚申」の主銘からみて、32・33・34の3基は広神石材の手になるものかも知れない。

 家に帰ってから『ともしび』第8号(ともしび会 昭和42年刊)に発表した「桐生行」をみると、足利市濁沼の項で恵性院の庚申塔4基について次のように記した。当時の記憶は全くなく、昭和42年に廻っていたとは思わなかった。

   恵性院境内には
    223 寛政12 自然石 「庚申塔」
      224 元文5 自然石 「ウーン 庚申塔」
      225 寛政12 自然石 「庚申塔」
      226 大正9 自然石 「ウーン 庚 申」
   の4基が並んでいる。

〔番外〕 小俣町・田町山神社の昭和庚申年塔

 小俣町の最後は田町の山神社である。ここにも次の昭和庚申年塔がある。
   35 昭和55 自然石 「庚 申」               104×67

 35は正面に「庚申」と種子がなく、背面に「昭和五十五年十一月/吉田田町建之世話人/青木禎策(等8人の氏名)」の銘文を彫る。

 この塔(35)から離れて次の4手青面金剛がみられる。覆屋根の下、中央に立つ。その前に「千庚申」や「青面金剛」「申」、多くは「庚申」の文字庚申が並ぶ。
   36 延宝8 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿       100×48

 36は上方手に宝輪と矛を持つ合掌4手像(像高72cm)、先に同町・鹿島神社裏でみた延宝8年4手像と同じスタイルあるが、両側面に鶏を陽刻するところが異なる。像の左に年銘の「延宝八庚申天四月一日」と記す。下部に正向型3猿(像高11cm)の浮彫り。

 屋根の下は大部分が「庚申」の文字塔であるが、中には「千庚申」や「青面金剛」、1字の「申」が混じる自然石塔が20数基か5列に並んでいる。他に「水神宮」塔や2手馬頭刻像塔が混じる。奥に「庚申建立寄付者芳名/昭和五十五年十一月日」と記された2舞の板がある。庚申塔の造立の寄付か、鉄骨製の覆屋根まで含めた寄附金か。

〔番外〕 葉鹿町・篠生神社の庚申年塔群

 見学の最後は葉鹿町・篠生神社、40年近く経ての再訪である。当時に比べて暗く、狭くなったように感じる。確か塔の下は土で現状のようにセメントで固められていなかったと思う。次の懐かし親庚申と青面金剛をみる。
   37 文久1 板駒型 「庚 申」               161×124
   38 宝永5 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     70×32

 37は正面に「庚申」、背面に「余嘗有所歩願登高山渉深澤禮拜/庚申塔既歴7星霜其數一萬五千/軆所願己就因建此塔云文久祀元/歳次辛酉冬十月十有六日/阿部仙五郎和暁」の銘文が刻まれている。当時この塔に刻まれた「七星霜其数一萬五千躰」の銘文が印象的で記憶に残っていた。

 38は合掌6手像(像高34cm)、像の右に「奉造立庚申爲萬民豊樂」、右に「宝永五戊子八月吉日」、下部に正向型3猿(像高13cm)を浮彫りする。

 前回廻った時には気付かなかった「街神」と刻む自然石塔をみる。境内には昭和57年9月に神社で立てた「庚申塔について」の説明板の末尾に「篠生神社」とあり、「ささご」のルビが振られている。長い間「しのお」と誤読していたことになる。

 前記の「桐生行」には、篠生神社についても次のように書いた。恵性院と異なり、親庚申の「一萬五千」が記憶に残っていた。

   5  篠生神社      (足利市)
    葉鹿駅の近くにある篠生神社には、百庚申がある。初めは1基1基、倒れている塔は建て直
   して調べていたが、50基を過ぎる頃からは、正面向きでわかるものだけをメモした。それで
   も全部で92基あるから、倒れていたり、埋まっていたりする塔を調べると、100基を越す
   と思われる。(1部省略)
     101 宝永5 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿
     107 年不明 自然石 日月「ウーン」
     111 寛政12 自然石 「千庚申供養」
     129 年不明 自然石 「千庚申供養」
     131 年不明 自然石 「ウーン」
     150 寛政X 自然石 「千庚申供養」
     158 年不明 自然石 「青面金剛」
     159 万延1 自然石 「猿田彦大神」
     160 年不明 自然石 「申」
     163 年不明 自然石 「申」
     164 年不明 自然石 「ウーン」
     167 年不明 自然石 「庚 申」(横書き)
     179 年不明 自然石 「大庚申」
     181 年不明 自然石 「青面尊」
     187 年不明 自然石 「ウーン」
     参考 万延1 石 祠 「萬延紀元庚申年九月大吉日」

    この百庚申で刻像塔は101の1基のみで、合掌6手像を刻んでいる。他は、いずれも自然石
   の文字塔で、多くが「庚申」か「庚申塔」である。「千庚申供養」が3基、種子のみを刻んだ
   もの3基、「申」を刻むもの2基で、「猿田彦大神」「青面尊」「青面金剛」「大庚申」が各
   1基ある。普通は「庚申」と縦書きだけれども、167の「庚申」は右横書きである。なお、1
   57の3猿は線彫りである。

    この百庚申は、塚の上にあるけれども、その中央に
     193 文久1 自然石 「庚 申」

   の大きな塔がある。裏面に「余喜斉所歩各高山□□□□□ 庚申塔□□七星霜其数一萬五千
   躰所願成就因建此塔之文久紀元 歳次年酉冬十月十有六日 服部仙五郎和暁」の銘文が刻まれ
   ている。この塔の左手奥に参考としてあげておいた万延元年の石祠がある。主尊は入っていな
   いけれども、塚にあった一猿像がそうなのかもしれない。

 田村允彦さんと星野光行さんの共著『足利の庚申塔』(随想舎 平成14年刊)には、庚申塔の調査総数が2345基(411頁参照)と記している。西部地域に限っても数多くの庚申塔がある中で、今回は瀧澤さんがセレクトしてコースが組まれている。

 前回のようなアッと驚く佐野市奈良渕町の赤面金剛木像や同市赤見町・西光院の舞勢青面金剛の掛軸こそ今回はなかったが、足利西部の桐生市内と共通する庚申塔を実見できたのは収穫である。とても1日間では今回廻った地域にある寛文・延宝期の庚申塔をみられるものではない。

 刻像塔でいえば、粟谷町不動尊や小俣町鹿島神社でみた上方手に弓矢を持つH型合掌6手像が万歳型を考える上で面白い。また、小俣町鹿島神社や同町田町山神社の標準的な合掌6手像から下方手に持つ弓矢の持物を省いた4手像を分析するのに参考になる。

 いずれにしても、足利市内に自然石文字塔が多いには恐れ入る。多摩地方には一石「百庚申」塔が3基みられるものの、全く「千庚申」塔は存在しない。塔の多さが「千庚申」塔を生んでいるのであろう。また、養源寺境内にある木祠に安置された寛政5年塔の「百塔或千塔拝礼」の銘文は、当時の習俗が塔面に記録されていて貴重である。

 実際に廻っていて「百庚申」や「千庚申」が多いのはわかるが、中でも極めつけは栗谷町谷中にある一石に「千庚申」を百回刻んだ文政10年塔である。前記の傾向と併せて考えさせられる。養源寺境内にある百庚申に単独でいろいろな隷書体の塔があるのも面白かった。一石百書体庚申塔とは異なる趣である。

 まさか今回のコースで、昭和42年に廻った場所が2か所あろうとは思わなかった。篠生神社は「一萬五千躰」が記憶にあったのでともかくとして、小俣町・恵性院の庚申塔4基を記録していたとは予想していなかった。これも『ともしび』に載せておいたためで、正に記憶より記録である。

 現在からみると調査経験が5年位の時期で、これまで1日で廻ったよりも数多くの塔に追われ、銘文の誤読がみられるのは当然である。篠生神社にしろ恵性院しろ、40年近く経ってから再訪しようと予想もしていなかった。最初の予定コースが「足利市南部」から「足利市西部」に変更になったお蔭である。

 アッという間に過ぎた1日間、余りにも時間が短すぎた。それにしも朝からガイドとドライブを担当された瀧澤龍雄さんと高橋久敬さんには感謝申し上げたい。お疲れさまでした。来年の写真展を考えると、次回は馬頭観音の変化がみられる那須地方が適当かもしれない。あるいはもう1度、当初予定の足利市南部を廻り、前回と今回の穴を埋めて足利全域という手もある。今回に懲りずに、また秋に是非とも次回のご案内をお願いしたい。
桐生行(抜粋)

 桐生に住んでいる妹夫婦から遊びがてら庚申塔調査にこないかと、前々から誘われていた。義弟も幾つか庚申塔を見つけて、日曜日ならば車で案内しましょう、ともいってくれた。石和行きの刺激のためばかりでなく、去年、今年とこのところ塔調査をしていなかったので、思い切って昭和42年5月20日(土曜日)の午後から家を飛び出した。(中略)

2 広 沢 町 (上)

 桐生駅に着いたのは、4時半頃であったろうか。駅前で車を拾い、先ず広沢町間ノ島にある妹の家へ直行する。お茶を1服すると、5時を少し廻っていた。まだ暗くなるまでには1時間半はあろう。そう思うと落ち着いてはいられない。用意しておいてもらった地図を片手に、カメラと調査用紙を持ち、さっそく調査を開始する。時間もあまりないことだし、地理不案内の土地だから、地図でお寺とお宮を捜し出し、そこを目標にした。

 第1番に行ったのは、4丁目にある比呂佐和神社であった。本殿の左側には、ずらりと庚申塔が並んでいる。数えてみたら31基、桐生市内には庚申塔が多いだろうとは予想してきたものの、最初からこれでは先が思いやられる。(中略)

 比呂佐和神社境内にある塔は
   2 元禄16 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿
   9 寛政1 自然石 「庚申塔」「千庚申詣大願成就」
   19 貞享4 光背型 日月・青面金剛の31基である。その中で刻像塔は2と19の2基で、2は第1手が合掌し、第2手に日と月、第3手に弓と矢を持つ6手青面金剛像を、19は第1手が定印を結び、第2手に輪と珠、第3手に索と蛇を持つ6手青面金剛像を刻む。9には「千庚申詣大願成就」の銘文が刻む。「百」といわずに「千」と刻むあたり、この地方に庚申塔が多いことを思わせる。

神社から大雄寺に向かう途中に、2か所5基の庚申塔がある。(中略)

 大雄寺の本堂の前を探しても庚申塔はない。本堂の東側には池があり、その先に小堂の前には、草の間に3基の庚申塔が並んでいる。
   38 年不明 板碑型 卍・日月「為申庚供養」2猿
   39 元禄13 光背型 日月・青面金剛・2鶏・3猿
 38の塔は上部に卍字を刻み、中央に「為庚申供養」、その両側に年銘がある。逆光と辺りが暗くなってきたので、年銘(寛文らしい)はよくわからない。39は第1手が合掌、第2手に矛と輪、第3手に蛇と索を持つ6手青面金剛である。上部が少々破損している。

3 広 沢 町 (下)

 翌21日(日曜日)は、朝7時起床、そっと抜け出して、4丁目・5丁目・6丁目を廻った。これも時間にすれば2時間位である。(中略)2時間ばかりの調査で19基、これが本当の朝飯前の仕事であるといえよう。

4 松 田 町 (足利市)

 朝食を済ませてから、義弟の運転で廻る。最初は、足利市松田町に行く。桐生は群馬、足利は栃木と県こそ違うが、隣合って広沢町から県境までは車で10分位。

 足利市に入って途中、路傍の庚申塔を各所で横目に見ながら、ともかく松田町の奥まで入り込む。湯ノ沢から順々に下りながら調べていく。湯ノ沢の奥の三叉路に
59 文化12 自然石 「庚申塔」が1基ある。

 そこから下って、道了神社の入口、道路より1段高い山根に5基の自然石と道祖神1基が並んでいる。
   60 寛政5 自然石 「千庚申供養塔」
   61 文政13 自然石 「千庚申塔」
   62 文化13 自然石 「庚申塔」
   63 天明2 自然石 日月「庚申塔」
   64 寛政5 自然石 「千庚申供養」ここでも「千庚申」が顔を出す。

 湯ノ沢の松田行のバスの終点付近の庚申塚がある。昔は土で盛りあげてあったが、今は壊して畑になっている。ここには
   65 延宝8 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿
   66 万延1 自然石 「庚 申」
   67 文化10 自然石 日月「庚申供養塔」
   68 年不明 自然石 「庚 申」の4基がある。通りがかりの人の話ではここでも戦前まで6、7軒でウドンの庚申待をやっており、掛軸も探せば、講員だった家にあるかもしれない、とのことだった。65は上部に弥陀三尊種子を刻むもので、第1手が人身と剣、第2手が輪と矛、第3手が矢と弓を持つ剣人6手の青面金剛像である。

 足利に向かって行くと、久保のバス停留所近くの路傍に7基の自然石文字庚申塔と、1基の自然石文字道祖神が並んでいる。
   69 年不明 自然石 「庚 申」
   70 年不明 自然石 「庚 申」
   71 大正9 自然石 日月「庚申塔」
   72 年不明 自然石 「庚 申」
   73 年不明 自然石 「庚申塔」
   74 明治23 自然石 「庚 申」
   75 明治24 自然石 「庚 申」

 原向田を過ぎて、道路より1段高くなっている丘陵地に、如意輪観音の石塔を祀った小祠がある。その傍らに庚申塔が1基、道祖神が1基ある。
   76 年不明 自然石 「庚 申」
   77 年不明 自然石 「百庚申供養」
   78 寛政1 自然石 「庚申塔」
   79 延宝8 板駒型 青面金剛・2鶏・3猿
   80 寛政5 自然石 「庚申塔」
   81 大正9 自然石 日月「庚申塔」
   82 天明7 自然石 日月「百庚申供養」
   83 年不明 自然石 「庚申塔」
   84 寛政9 自然石 「庚 申」ここでは77と82のように、「千庚申」はなくて「百庚申」である。79は、剣人6手の青面金剛像。

 仲手橋のバス停留所の近くの路傍には、5基の庚申塔が並立している。
   85 寛政12 自然石 「庚申塔」
   86 年不明 板碑型 日月・2猿
   87 元禄14 板碑型 日月・青面金剛・2鶏・3猿
   88 天明8 角柱型 日月・青面金剛・1鬼・3猿
   89 寛政1 自然石 日輪「庚 申」の5基がそれである。86は、形からみて古い塔らしいが、銘文は全く読めない。87は、第1手が合掌し、第2手に独鈷と輪、第3手に蛇と索を持つ6手像で、88は、剣人6手像である。89には、日輪の陰刻がある。

 松田町3丁目の清水路傍には4基の庚申塔、1基の甲子塔(文化元年)、1基の道祖神(文化12年)が並んでいる。これらの塔を調べていると、近くの家の老婆が出てきたので、庚申講について尋ねた。清水辺には40戸があって、この40戸が4つに分かれて、それぞれで庚申講を行っている。旧暦10月16日の庚申様の日にはダンゴを作ったり、これらの塔にお詣りする。

 庚申講の路傍にある塔は
   90 元文5 板駒型 日月・青面金剛・3猿
   91 大正9 自然石 「庚 申」
   92 万延1 自然石 「庚 申」
   93 寛政12 自然石 「庚 申」の4基で、90は上部に「ウーン」種子を刻み、青面金剛の第1手は合掌し、第2手には弓と矢、第3手には索と蛇を持つ。

 長泉寺の入口には
   94 寛政1 自然石 日月「庚申塔」
   95 寛政4 自然石 「庚申塔」の2基がある。

 さらに下って、熊戸のバス停留所近くの神社入口には
   96 寛政12 自然石 「庚申塔」
   97 寛政12 自然石 「ウーン 庚 申」
   98 大正9 自然石 「庚 申」
   99 明和5 自然石 日月「庚申塔」
  100 年不明 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿の4基の庚申塔と、如意輪観音主尊の廾2夜塔(安永8年)が1基ある。 100は、第1手が合掌し、第2手は剣と矛、第3手に弓と矢を持つ。

5 篠 生 神 社 (足利市)

 葉鹿駅の近くにある篠生神社には、百庚申がある。初めは1基1基、倒れている塔は建て直して調べていたが、50基を過ぎる頃からは、正面向きでわかるものだけをメモした。それでも全部で92基あるから、倒れていたり、埋まっていたりする塔を調べると、100基を越すと思われる。
  101 宝永5 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿
  102 寛政9 自然石 「庚 申」
  103 万延1 自然石 「庚 申」
  104 寛政5 自然石 「庚 申」
  105 年不明 自然石 「庚 申」
  106 文政11 自然石 「庚 申」
  107 年不明 自然石 日月「ウーン」
  108 年不明 自然石 「庚 申」
  109 寛政12 自然石 「庚 申」
  110 寛政8 自然石 「庚 申」

  111 寛政12 自然石 「千庚申供養」
  112 寛政12 自然石 「庚 申」
  113 天保6 自然石 「庚 申」
  114 年不明 自然石 「庚申塔」
  115 文政9 自然石 「庚 申」
  116 年不明 自然石 「庚申塔」
  117 寛政10 自然石 日月「庚 申」
  118 文化6 自然石 「庚 申」
  119 天保6 自然石 「庚申塔」
  120 寛政6 自然石 「庚申塔」

  121 年不明 自然石 「庚 申」
  122 年不明 自然石 「庚 申」
  123 慶応1 自然石 「庚 申」
  124 寛政3 自然石 「庚申塔」
  125 年不明 自然石 「庚 申」
  126 年不明 自然石 「庚 申」
  127 寛政12 自然石 「庚 申」
  128 年不明 自然石 「庚 申」
  129 年不明 自然石 「千庚申供養」
  130 年不明 自然石 「庚 申」

  131 年不明 自然石 「ウーン」
  132 享和2 自然石 「庚 申」
  133 万延1 自然石 「庚 申」
  134 年不明 自然石 「庚 申」
  135 年不明 自然石 「庚 申」
  136 明治23 自然石 「庚 申」
  137 年不明 自然石 「庚 申」
  138 寛政11 自然石 「庚 申」
  139 年不明 自然石 「庚 申」
  140 文化11 自然石 「庚申塔」

  141 年不明 自然石 「庚 申」
  142 年不明 自然石 「庚申塔」
  143 年不明 自然石 「庚 申」
  144 年不明 自然石 「庚 申」
  145 寛政12 自然石 「庚 申」
  146 万延1 自然石 「庚 申」
  147 文化9 自然石 「庚 申」
  148 享和2 自然石 「庚 申」
  149 万延1 自然石 「庚 申」
  150 寛政X 自然石 「千庚申供養」

  151 年不明 自然石 「庚申塔」
  152 年不明 自然石 「庚 申」
  153 年不明 自然石 「庚 申」
  154 年不明 自然石 「庚 申」
  155 年不明 自然石 「庚 申」
  156 年不明 自然石 「庚申塔」
  157 万延1 自然石 「庚 申」3猿
  158 年不明 自然石 「青面金剛」
  159 万延1 自然石 「猿田彦大神」
  160 年不明 自然石 「申」

  161 年不明 自然石 「庚 申」
  162 年不明 自然石 「庚 申」
  163 年不明 自然石 「申」
  164 年不明 自然石 「ウーン」
  165 年不明 自然石 「庚 申」
  166 寛政12 自然石 「庚 申」
  167 年不明 自然石 「庚 申」(横書き)
  168 年不明 自然石 「庚申塔」
  169 年不明 自然石 「庚 申」
  170 年不明 自然石 「庚 申」

  171 年不明 自然石 「庚 申」
  172 年不明 自然石 「庚 申」
  173 年不明 自然石 「庚 申」
  174 年不明 自然石 「庚申塔」
  175 寛政3 自然石 「ウーン 庚 申」
  176 年不明 自然石 「庚 申」
  177 年不明 自然石 「庚 申」
  178 年不明 自然石 「庚 申」
  179 年不明 自然石 「大庚申」
  180 年不明 自然石 「庚申塔」

  181 年不明 自然石 「青面尊」
  182 年不明 自然石 「庚 申」
  183 年不明 自然石 「庚 申」
  184 年不明 自然石 「庚申塔」
  185 年不明 自然石 「庚 申」
  186 年不明 自然石 「庚 申」
  187 年不明 自然石 「ウーン」
  188 年不明 自然石 「庚申塔」
  189 年不明 自然石 「庚 申」
  190 年不明 自然石 「庚 申」

  参考 万延1 石 祠 「萬延紀元庚申年九月大吉日」
  191 年不明 自然石 「庚 申」
  192 年不明 自然石 「庚 申」

 この百庚申で刻像塔は101の1基のみで、合掌6手像を刻んでいる。他はいずれも自然石の文字塔で、多くが「庚申」か「庚申塔」である。「千庚申供養」が3基、種子のみを刻んだもの3基、「申」を刻むもの2基で、「猿田彦大神」「青面尊」「青面金剛」「大庚申」が各1基ある。普通は「庚申」と縦書きだけれども、167の「庚申」は右横書きである。なお、 157の3猿は線彫りである。

 この百庚申は、塚の上にあるけれども、その中央に
  193 文久1 自然石 「庚 申」の大きな塔がある。裏面に「余喜斉所歩各高山□□□□□ 庚申塔□□七星霜其数一萬五千 躰所願成就因建此塔之文久紀元 歳次年酉冬十月十有六日 服部仙五郎和暁」の銘文が刻まれている。この塔の左手奥に参考としてあげておいた万延元年の石祠がある。主尊は入っていないけれども、塚にあった1猿像がそうなのかもしれない。

6 小 俣 町 (足利市)

 葉鹿町から桐生へ帰る途中、国道を避けて小俣町に入り、家並に沿って進む。家並が切れた辺り、上町280番地田中敏雄氏宅先の道の両側に庚申塔が並んでいる。桐生に向かって左側には
  194 大正9 自然石 「ウーン 庚 申」
  195 寛政12 自然石 日月「青面金剛」の2基が並び、

 その向かい側、つまり右側に
   196 天明8 自然石 「庚申塔」が「弁財天」の文字塔と並んでいる。ここの調査を終えたのが2時、遅い昼食を桐生に戻ってから済ませて、1度家に立ち寄った。(中略)

 光明寺を出た車は、市街地を抜けて菱町に向かった。(中略)

9 濁   沼 (足利市)

 菱町を出ると、足利市内である。下濁沼の天理教両野分会近くの路傍に
  222 天保2 自然石 「庚申塔」があり、
 恵性院境内には
223 寛政12 自然石 「庚申塔」
  224 元文5 自然石 「ウーン 庚申塔」
  225 寛政12 自然石 「庚申塔」
  226 大正9 自然石 「ウーン 庚 申」の4基が並んでいる。

 下濁沼の路傍には
  227 明和1 自然石 日月「ウーン 庚 申」
  228 文政9 自然石 「庚申塔」の2基が並んでいる。(以下省略)
           〔初出〕「桐生行」『ともしび』第8号(ともしび会 昭和42年刊)所収
           〔再録〕「桐生行」『桐生の庚申塔』(ともしび会 平成7年刊)所収
あとがき
     
      昨年11月12日(土)・13日(日)の2日間、多摩石仏の会有志6人が地元の瀧澤
     龍雄さんと高橋久敬さんのご案内で栃木県佐野市(旧市・葛生・田沼の3地区)と足利市
     の1部の庚申塔を巡った。今回はその続編ともいうべき庚申塔巡りである。瀧澤さんと高
     橋さんの2台の車に分乗して足利西部の庚申塔を廻る。

      当初予定した南部コースを変更し、鹿島町・大前町・松田町・栗谷町・板倉町・葉鹿町
     ・小俣町の西部コースの庚申塔巡りとなる。この地域にある寛文・延宝の塔を効率よく廻
     るには、事前の調査が行われ、コースの選定が考えられたからである。

      文中でもふれたように、小俣町・恵性院と葉鹿町・篠生神社は約40年振りの再訪であ
     る。このようなことは夢にも考えていなかった。

      群馬県桐生市の庚申塔調査を行ったのは、昭和42年のことである。この年の5月・8
     月・10月の3回、8日間にわたって桐生市内と隣接す足利市・田沼町(現・佐野市)・
     群馬県大間々町を廻った。

      足利市内ヲ廻ったのは第1回の5月21日(日)で、その調査報告を『ともしび』第8
     号(ともしび会 昭和42年刊)に載せた。本書の「桐生行(抜粋)」は足利の関係部分を
     抜き出したものである。その1部は「足利庚申塔巡り」に引用している。

      前著『栃木庚申塔巡り』(庚申資料刊行会 平成17年刊)には、佐野市を中心に足利市
     では、稲岡町・西場町・名草中町・月谷町・田島町・江川町を廻った記録が載っている。
     併せてご利用いただければ、幸いである。

      本書ができたのもお2人のお蔭である。末筆ながら運転されて1日間ご案内いただいた
     瀧澤龍雄さんと高橋久敬さんに感謝の意を表したい。

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                              足利の庚申塔を廻る FD版
                               発行日 平成18年5月15日
                               TXT 平成18年5月12日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 庚申資料刊行会
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