石川博司 著       栃木市の庚申塔巡り         発行 庚申資料刊行会  栃木の庚申塔_目次に戻る
   目次
 
「栃木市 野仏の風景」雑感
        1 栃木まつり      
        2 市内庚申塔概観
        3 庚申年造立の塔

とちぎ人形山車出御    
栃木まつり
栃木文化財視察旅行    
あとがき
「栃木市 野仏の風景」雑感 平成8年12月2日)

 これまで、私と栃木県栃木市は無縁であった。ところが後でふれるように、平成8年11月15日(金曜日)、5年に1度行われる「栃木まつり」に曳かれる山車を見学に栃木市に出かけた。これで栃木市との繋がりできた。まさかこの祭りの山車見物で石仏など調べようとなどと思ってもいなかったけれど、たまたま泉町・雲龍寺の境内で丸彫りの青面金剛2体をみたり、栃木市立図書館の行き来によった旭町の定願寺と延命寺で庚申塔をみつけたりすると、市内の庚申塔が気になるくる。

 祭りの合間に行った図書館では、中島昭氏の著作『栃木市 野仏の風景』(私家版 平成4年刊)が書棚にあるのに気付いた。書棚にはこの本と同氏の『小山市 野仏の風景』(私家版 平成7年刊)がみられ、両書を手にしたのがきっかけで、平成8年11月30日にその2冊を入手した。さっそく拝読して、先にみた塔以外の栃木市内にある庚申塔の状況がつかめてきた。

 中島氏の調査によると、栃木市内には298基の庚申塔が分布している。その内で私がみたものは、次の項で記すように僅かに8基、比率にして2.7%に過ぎない。従って私は、市内の庚申塔をほとんど知らないといっていい。

 本稿では先ず栃木まつりの当日にみた庚申塔から話を始めて、中島氏の『栃木市 野仏の風景』の書中に記された庚申塔に関して感じたことを綴ってみたい。

1 栃木まつり

 栃木県栃木市で行われる「栃木まつり」は、5年に1度の祭りである。今年は、特に市制60周年記念を兼ねて平成8年11月15日(金曜日)から17日(日曜日)までの3日間にわたって盛大に行われると、雑誌で知ったので、初日の15日に栃木に出かけた。

 この栃木まつりへ行く気になったのは、この祭りで曳かれる山車の中に江戸・山王祭りで曳かれた静御前の山車があって、これが栃木に現存し、今回の祭りにも挽き出される聞いたからである。静御前の人形を載せた山車は、青梅市仲町にもみられる。かつてこの仲町の山車について

    『水神祭』(昭和31年 魚がし会発行)にカラー印刷版が折り込みされており、これに高
   欄上に静御前の人形を飾った山車が描かれていた。またその図の二層目の四面水引幕が赤地に
   白鶴が飛び交うもので、現在、仲町にあるものと同一の図柄である。こうした点からみると、
   仲町の人形と水引幕は、天保年間に赤坂山王の祭礼で用いられていた日本橋の瀬戸物町・小田
   原町・伊勢町(現在の中央区室町・日本橋)の三町のものである。

書いたが、実はこの図の山車は栃木に渡ったものだ、と齋藤慎一さん(青梅市文化財保護審議委員)から聞いた。そこでその山車の実物を見るのが大きな目的であった。

 祭り見物といっても、お寺が見えると寄りたくなる。大通りを歩いていた時に、お寺が見えたので別に期待していったわけではなかったが、境内に泉町会館がある雲龍寺を訪ねた。ここには
   1 年不明 丸 彫 日月・青面金剛・1鬼・3猿      (計測出来ず)
   2 年不明 丸 彫 青面金剛・1鬼・3猿         (計測出来ず)が見られたの大きな収穫である。共に剣人6手像である。ただ丸彫りで細かに彫られているだけに、腕が欠けているのが惜しまれる。この2基の横に文化9年の「十九夜供養塔」がある。

 午後3時過ぎに祭り見物が1段落したところで、栃木市立図書館に行こうと思った。図書館への途中、旭町の定願寺(天台宗)があったので寄ると
   3 年不明 板駒型 日月・青面金剛・2猿         142×55
   4 貞享3 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿      131×55
   5 延宝3 板碑型 日月・3猿・蓮華           155×47の3基が並んでいる。

 3は合掌6手像(像高58cm)で、年銘を「□延□三亥年」と読んだが自信がない。2猿(像高12cm)が珍しい。4も合掌6手像(像高76cm)で、「奉造立青面金剛□年□庚申取□□」「一結等□」の銘文が刻まれている。こちらは、3と異なって3猿(像高20cm)である。この3猿は、5とちがって中央の猿が正面を向き、両脇の2猿が内側を向いている。5の塔面が荒れていて、僅かに「延寳三年」しか読めなかった。3と4は、猿が下部に浮彫りされているが、5の正面向きの3猿(像高20cm)は日月の下に浮彫りされている。

 図書館で見た『栃木市史(民俗編)』(栃木市 昭和54年刊)には、580頁に3基の庚申塔の写真が載っている。それぞれには「めずらしい2匹猿の庚申塔(塚町大日様)」「青面金剛(万町)」「猿田彦命(平柳町一丁目星宮神社)」の説明文がついている。579頁には、「栃木市内の各地に青面金剛や庚申塔が建てられているのを見ても、その信仰が如何に盛んであったかをうかがわせる」とあり、581頁には

    庚申は仏教上では青面金剛である。だから青面金剛の像にも庚申供養と刻んでいる。栃木市
   地方の傾向として、元文年間(1736−1741)のものは、碑面に「青面金剛尊」を刻ん
   だものだけが目立つようになるが、享保10年(1725)以前の青面金剛塔は、忿怒の神が
   天の邪鬼をふんまえ、その下に見ざる、言わざる、聞かざるの三猿を彫り刻みさらに鶏などを
   刻んだ芸術性豊かなものがほとんどである。

と、市内の傾向がうかがえる。時間が余り割けないので、中島昭氏の『栃木市 野仏の風景』(平成4年刊)をさっとだけ見たら、先刻見てきた定願寺の塔の写真が載っていた。時間があれば、同氏の『小山市 野仏の風景』(平成7年刊)と共にじっくりと読みたかった本である。

 図書館を出るとお寺が見えたので、旭町の延命寺(天台宗)に寄ると
  6 元禄4 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿       64×35
   7 元文5 自然石 「奉拜庚申供養塔」          130×55
   8 享保8 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿       85×32の3基がみられる。

 6と8は共に合掌6手像で、6の像高は36cm、8の像高は54cmである。6には「奉造立庚申供養」、8には「奉造立尊像講中安全所」の銘文が刻まれている。両塔共に、中央が正面向き、両横が向かい合う横向きの3猿である。

 かなり暗くなったいたが、再度、定願寺に訪れた。この寺の境内には、前記の3基以外にも、風化の激しい青面金剛らしい塔が2基あるの気がついた。この寺の門前には、仏像を浮彫りした珍しい板碑型塔がみられる。再び、山車見物に戻る。

(注1) 庚申塔の前には木の柵があったので入らなかったので、計測も銘文の調査も省略した。
   『栃木市 野仏の風景』によると 両塔は共に「大正九年三月十三日」の年銘が刻まれた大正
   庚申年の造立である。
    後日に出来上がった写真をみると、1と2では主尊の青面金剛が剣人6手像で1致するが、
   頭部や顔など細かにみると両塔で違いがある。青面金剛の脚下にある鬼は、1では鬼が横向き
   で手足が刻まれているのに対し、2では鬼の正面向きの顔だけが浮彫りされている。
    1の塔の台石には、2鶏と3猿が浮彫りされている。2鶏は3猿の上にみられ、向かって右
   に雄鶏、左に雌鶏が位置している。3猿は、3匹ともに狩衣をきて御幣をかついでいるが、向
   かって右の2匹は日の丸烏帽子をかぶる。左端の1猿は烏帽子なしで、右手に桃をもつ。
    2の台石には、左端に横向きの口を塞ぐ猿が浮彫りされ、右下に正面向きの猿らしい像がみ
   られるが、前記では3猿としたが、1猿のほうがよいだろう。祭りが気になっていたせいか、
   どうも庚申塔をみる目が甘かったようである。

 (注2) 2基の内の1基を撮った写真をみると、『栃木市 野仏の風景』34頁に載った塔(図
   5 )で、合掌6手像の青面金剛の下には1猿1鶏が浮彫りされている。銘文はないようである
   (104頁)。他の1基は、写真を撮っていなかった。

 (注3) 写真をみると、塔の上部に天蓋が浮彫りされ、その下の両側に幢幡がさがっている。中
   央には光背の中に左手に蓮華をとる主尊の聖観音立像が浮彫りされている。観音の頭上には「
   サ」の種子、光背の両横には法名が刻まれている。
     〔注〕この項は注記を除いて『平成八年の石佛巡り』(ともしび会 平成9年刊)に所収

2 市内庚申塔概観

 まず『栃木市 野仏の風景』を開いてみたのが26頁から44頁に載っている「1 庚申塔」である。これには、項目の「庚申信仰」「青面金剛の庚申さま」「いろいろな庚申塔」「猿陽刻庚申塔」「庚申文字庚申塔」「青面金剛庚申塔」「猿田彦文字庚申塔」「梵字庚申塔」「百庚申塔」「古い庚申塔」「新しい庚申塔」がみられ、33葉の写真が添えられている。

 書中の写真の中には、先日の栃木まつりの時にみた旭町・定願寺の延宝3年塔(図56)と泉町・雲龍寺の丸彫り像2体(図58)が掲げてある。祭り当日治には、先の文中にあるように旭町・定願寺の1鶏1猿塔(図55)を詳しくみていない。

 96頁から20頁にかけては、番号・碑塔名・形態・寸法・建立年月日・所在地・特記事項が記された「栃木市の野仏1覧」が載っている。その後には208〜9頁に「分類別野仏集計表」があり、庚申塔が「日待塔」の下位分類で、「刻像塔」と「刻字塔」にわけられている。これは、さらに刻像塔が「青面金剛」「猿陽刻」「仏像」に、刻字塔(文字塔)が「庚申塔」「青面金剛」「その他(猿田彦・梵字)」に細分されている。210〜1頁にある「年代別集計表」には、庚申塔が1項目としてあげられ、それぞれの元号別の塔数が示されている。

 中島氏は、栃木市内の野仏1177基を調査されている。この中で庚申塔がどのような位置を占めるかをみると、庚申塔の塔数は十九夜塔の372基に次ぐ298基である。従って、野仏に占める割合が24・6%と、およそ4基に1基の割りである。

 市内の庚申塔の造立年代をみると、「古い庚申塔」(42〜3頁)と「新しい庚申塔」(44頁)に記されているように、片柳町1丁目墓地入口にある万治2年(1659)青面金剛像が最も古く、最新は藤田町の公民館にある昭和55年(1980)文字庚申塔である。庚申塔は、321年にわたって造塔がみられたことになる。

 造立年代が明らかな庚申塔をみると、刻像塔では、市内最古の片柳町・万治2年青面金剛像から大正9年(1920)の泉町・雲龍寺まで青面金剛の91基、猿陽刻の28基がみられる。文字塔では、大塚町中区・東場の寛文11年(1671)塔から最新の藤田町・昭和55年塔まで179基が造立されている。

 片柳町の万治2年造立の青面金剛像については、庚申懇話会の清水長明さんが「青面金剛像と石像遺物」(町田市立博物館『青面金剛と庚申信仰』所収 平成7年刊)で

    栃木市片柳町一丁目墓地にある万治二年(1659)の青面金剛像は、既述の相模の承応・
   明暦の七基に続くものである。四手は右手=宝輪(上)・索(下)、左手=矛(上)・棒(下)
   と儀軌と同じ持物を持つ。棒と手首には蛇が巻きついている。上方には雲を配した日月、その
   下に左旋と右旋の卍が横に並ぶ。足元左側には御幣を捧げた一匹の猿、右側には鶏一羽が猿と
   向かいあっている。「万治二己亥年二月二日」の紀年が裏面に見える。(90頁)

と記している。なお同書の81頁には、写真が掲げられている。

 最新の藤田町にある文字庚申塔は、昭和55年の庚申年に造立されている。私が『日本の石仏』第74号(日本石仏協会 平成7年刊)に発表した「続昭和庚申年の全国造塔数」に漏れたものである。この塔については、次の項でふれたい。

3 庚申年造立の塔

 前項でもふれたように、栃木市最新の庚申塔が昭和庚申年の造塔である。中島氏は、書中で庚申年の造塔にほとんど書かれていないので、ここで庚申年造立の塔を分析して記しておこう。

 210〜1頁の「年代別集計表」をみると、延宝が14基、元文が18基、寛政が32基、安政が11基、万延が40基、大正が20基、昭和が2基と、昭和を除くと庚申年を含む元号の造立が多いのがわかる。

 無論、年数の多い元禄が16基、享保29基もあるが、1年当たりの造塔数をみれば、昭和庚申年以外、庚申年の造塔数にはおよばない。試みに庚申年以外の1年当たりの造塔数が多いのは、享保元年が7基で最も多く、続いて同5年の5基、明和元年の4基の順である。

 安政7年は、年の途中で改元があって万延元年となるので、万延元年に含める。それぞれの庚申年の塔数を一覧表にまとめると、次のとおりである。

   ┏━━━━┯━━━━┯━━━┯━━━┳━━━┳━━━━━┓
   ┃元  号│西  暦│刻像塔│文字塔┃合 計┃比   率┃
   ┣━━━━┿━━━━┿━━━┿━━━╋━━━╋━━━━━┫
   ┃延宝8年│1690│  6│  2┃  8┃  6.5┃
   ┠────┼────┼───┼───╂───╂─────┨
   ┃元文5年│1740│  3│ 11┃ 14┃ 11.3┃
   ┠────┼────┼───┼───╂───╂─────┨
   ┃寛政12年│1800│   │ 31┃ 31┃ 25.0┃
   ┠────┼────┼───┼───╂───╂─────┨
   ┃万延1年│1860│   │ 50┃ 50┃ 40.3┃
   ┠────┼────┼───┼───╂───╂─────┨
   ┃大正9年│1920│  2│ 18┃ 20┃ 16.1┃
   ┠────┼────┼───┼───╂───╂─────┨
   ┃昭和55年│1980│   │  1┃  1┃  0.8┃
   ┣━━━━┷━━━━┿━━━┿━━━╋━━━╋━━━━━┫
   ┃ 合     計 │ 11│113┃124┃100.0┃
   ┗━━━━━━━━━┷━━━┷━━━┻━━━┻━━━━━┛

 栃木市内にある庚申塔は298基、この内の124基が庚申年の造立だから、庚申塔全体の41.6%である。298基の中には造立年代のわからない塔が55基は含まれているから、これを除外して比率を計算すると、6年間の造立数が51.0%と過半数を占めている。この数字からみても、栃木市の庚申塔の造立年代の傾向がうかがわれる。

 各庚申年の造塔傾向をみると、刻像塔では延宝8年の6基を最高に、次の元文5年では3基、大正9年が2基と減少傾向にある。刻像塔は、いずれも青面金剛を主尊としている。文字塔は、万延元年の50基(安政7年銘の11基を含む)を最高に、寛政12年の31基、大正9年の18基の順で、万延元年を頂点とするカーブである。辛うじて昭和55年に1基の造立がみられる。同じ栃木県でも、今市市の65基、日光市の13基に比べると、昭和庚申年の造塔が少ない。

 刻像塔が青面金剛一色であるに対し、文字塔は延宝8年の2基が「奉庚申供養二世安楽」と「庚申塔」で3猿を伴っている。次の元文5年の場合は文字塔のみ、青面金剛系は「青面金剛」(2基)・「青面金剛塔」(4基)・「青面金剛供養塔」の7基、庚申系は「奉拝庚申供養塚」「奉供養庚申」「奉造立庚申供養塔」「奉造立庚申供養」が各1基の計4基である。庚申系には3猿を伴う1基が含まれている。

 寛政12年の場合は、庚申系の「庚申塔」(26基)・「庚申供養塔」(2基)・「庚申」(1基)の29基、「青面金剛」1基のである。その他に「梵字のみ」と記された吹上町細堀・西山麓の自然石塔(144頁)が1基ある。前回の庚申年と比べて、庚申系と青面金剛系の造塔数が逆転している。

 万延元年(安政7年を含む)は、延宝8年から元文5年、寛政12年と庚申年毎に塔数が増えて、頂点の50基となった。刻像塔はみられず、文字塔は庚申系の「庚申塔」(39基)・「庚申」(9基)の47基、青面金剛系がなくなった代わりに猿田彦系の「猿田彦太神」の1基である。その他に「文字塔」とだけ記された泉川町・稲荷神社の自然石(164頁)が1基ある。

 大正9年の場合は、塔数が前回の万延元年の40%に減った。元文5年、寛政12年、万延元年の庚申年3回連続でみられなっか刻像塔が丸彫り塔が2基造られ、青面金剛系が復活したのが注目される。文字塔は、庚申系の「庚申塔」(16基)・「庚申」(2基)の計18基である。

 昭和55年は、庚申年最小の塔数で、大正9年より激減の1基である。この塔については、「新しい塔」(44頁)で

    大宮地区の藤田公民館には9基の野仏が存在するが、その2番目に板状の石碑が建っている
   。表面中央に「庚申塔」、その左側に「藤田老人クラブ建之」の文字を刻んだこの碑は、昭和
   五十五年の造塔である。昭和五十五年という栃木市でも最新の庚申塔であるとともに、老人会
   がこうした信仰碑を建立することも珍しく、この地区の人々の結びつきと信仰心の強さを物語
   っているといえよう。(図74)

とあり、写真がみられる。

 各庚申年の塔形を一覧表にまとめると、次の通りになる。なお先にあげた「続昭和庚申年の全国造塔数」に載せた栃木県今市市・茨城県潮来町・長野県朝日村と比較できるように、『栃木市 野仏の風景』の塔形分類を変更する。具体的には、山角柱状型や平角柱状型、皿角柱状型、丸角柱状型などの各種の柱状型を「柱状型」とし、板状碑を「自然石」に含める。

   ┏━━━┯━━━┯━━━┯━━━┯━━━┯━━━┯━━━┯━━━┳━━━┓
   ┃種 別│塔 形│延宝8│元文5│寛政12│万延1│大正9│昭和55┃合 計┃
   ┣━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━╋━━━┫
   ┃刻像塔│笠付型│  3│   │   │   │   │   ┃  3┃
   ┃   ├───┼───┼───┼───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃   │光背型│  2│   │   │   │   │   ┃  2┃
   ┃   ├───┼───┼───┼───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃   │板駒型│   │  1│   │   │   │   ┃  1┃
   ┃   ├───┼───┼───┼───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃   │駒 型│  1│  2│   │   │   │   ┃  3┃
   ┃   ├───┼───┼───┼───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃   │丸 彫│   │   │   │   │  2│   ┃  2┃
   ┃   ┝━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━╋━━━┫
   ┃   │小 計│  6│  3│  0│  0│  2│  0┃ 11┃
   ┣━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━╋━━━┫
   ┃文字塔│光背型│   │   │  1│   │   │   ┃  1┃
   ┃   ├───┼───┼───┼───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃   │板駒型│  1│   │   │   │   │   ┃  1┃
   ┃   ├───┼───┼───┼───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃   │駒 型│  1│  1│  4│   │  1│   ┃  7┃
   ┃   ├───┼───┼───┼───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃   │柱状型│   │  2│  3│ 14│  4│   ┃ 23┃
   ┃   ├───┼───┼───┼───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃   │自然石│   │  8│ 22│ 36│ 13│  1┃ 80┃
   ┃   ├───┼───┼───┼───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃   │不 明│   │   │  1│   │   │   ┃  1┃
   ┃   ┝━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━╋━━━┫
   ┃   │小 計│  2│ 11│ 31│ 50│ 18│  1┃113┃
   ┣━━━┷━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━╋━━━┫
   ┃合     計│  8│ 14│ 31│ 50│ 20│  1┃124┃
   ┗━━━━━━━┷━━━┷━━━┷━━━┷━━━┷━━━┷━━━┻━━━┛

文字塔では、自然石と柱状型が占める比率が高く、自然石が文字塔の70.8%、全体でも64.5%である。自然石と柱状型の両者で全体の83.0%を占める。

 ここでは、中島氏の『栃木市 野仏の風景』を拝読して、感じたままを書き連ねた。庚申塔だけでなく、数多くの石仏を対象に市内を調査し、一本にまとめあげられた著者のご労苦に感謝したい。このご労作を多くの研究者の共有財産として活用することが、著者・中島昭氏に対する恩返しになるのではなかろうか。

 文中には失礼な箇所が多々あろうかと思われるが、庚申塔研究発展のステップとしてお許しいただきたい。末筆ながら、中島氏のさらなるご調査とご研究の進展をお祈りしてペンをおく。(平成8・12・2記)         〔初出〕『栃木を歩く』(ともしび会 平成12年刊)所収



 
とちぎ人形山車出御  (平成12年10月28日)

 平成12年10月28日(土曜日)は、栃木市のとちぎ人形山車出御のイベントを訪ねる。栃木市には以前、平成8年11月15日(金曜日)に「栃木まつり」で山車を見物しているし、ごく最近では今年10月18日(水曜日)には青梅市文化財審議委員会の視察旅行で栃木市に寄っている。

 今回も山車見物であるが、前回の栃木まつりと同様に寺が見えると寄りたくなる。蔵の街大通りを歩いていた時に、寺が見えたので特別に期待したわけではなかったが、万町の近龍寺をのぞいてみると、境内には
1 寛政12 自然石 「庚申塔」                71×46がみられる。隷書体の文字で「庚申塔」とあり、「塔」の半分位は埋まっている。うっかりして裏面などを調べなかったから、メモでは「年不明」としたものの年銘が刻まれている可能性がある。家に帰ってきてから中島昭氏の『栃木市 野仏の風景』(私家版 平成4年刊)をみると、40頁に「左側面に寛政12庚申冬(1800)と建立年を明記している」とあり、同じ頁にこの塔の写真を載せている。

 山車会館周辺で午後2時から行われた7台の山車の勢揃いをみてから、万町や室町の山車についていくと、またも通りから寺が見える。旭町の定願寺である。この寺には
   2 年不明 駒 型 青面金剛・1鶏・1猿           84×35×24
   3 年不明 駒 型 日月・青面金剛・3猿           72×37×20の2基がある。

 2は墓地の入口にある塔で、中央に合掌6手立像(像高50cm)、下部に1鶏と目を塞ぐ1猿(像高17cm)が向かい合わせに浮き彫りされている。主尊像の左右に銘文が刻まれているが、右の「六」の字を除いて判読できない。

 3は山門を入って左手の奥に本堂に向かってたっている。これも合掌6手立像(像高50cm)で、上部に日月、下部に3猿の内の中央にある猿(像高不明)の顔が辛うじてわかる程度に風化と破損がひどい。勿論、銘文がわからない。

 前回の記録をみると、栃木市立図書館に行く途中で旭町の定願寺を訪ねて、年不明の板駒型塔・貞享3年の板駒型塔・延宝3年の板碑型塔の3基をみたとある。しかし、どうも前回にみた寺とは違うような気がする。そうすると前回訪ねたのは、同じ旭町でも今回寄らなかった満福寺であったのかもしれないと思った。しかし、先刻の『栃木市 野仏の風景』をみると、今回の2(34頁の図55)も前回みた3基の内の1基(35頁の図56)も共に写真説明には「旭町定願寺の庚申塔」と記され、108頁の1覧表には4基の庚申塔が記載されている。前回と今回は同じ寺で違った塔をみているのだから不充分で、2回合わせてやっと調べたことになる。

 いずれにしても、前回の平成8年は次の8基を調べている。すなわち
1 年不明 丸 彫 日月・青面金剛・1鬼・3猿        計測出来ず
2 年不明 丸 彫 青面金剛・1鬼・3猿           計測出来ず
3 年不明 板駒型 日月・青面金剛・2猿          142×55
4 貞享3 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿       131×55
5 延宝3 板碑型 日月・3猿・蓮華            155×47
6 元禄4 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        64×55
7 元文5 自然石 「奉拜庚申供養塔」           130×55
8 享保8 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        85×32の8基である。1と2の2基が泉町の雲龍寺、3から5の3基が旭町の定願寺、6から8の3基が旭町の延命寺の所在である。今回の3基を加えて栃木市内では、11基の塔に接したことになる。

 これらを造立の年代順に並べると
   ┏━┯━━━┯━━━┯━━━━━━━━━━━━━━━━━┯━━━━━━┓
   ┃順│元 号│塔 型│特               徴│在    地┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━┫
   ┃@│延宝3│板碑型│日月・3猿・蓮華         │旭町・定願寺┃
   ┠─┼───┼───┼─────────────────┼──────┨
   ┃A│貞享3│板駒型│日月・青面金剛・1鬼・3猿    │旭町・定願寺┃
   ┠─┼───┼───┼─────────────────┼──────┨
  ┃B│元禄4│板駒型│日月・青面金剛・1鬼・3猿    │旭町・延命寺┃
   ┠─┼───┼───┼─────────────────┼──────┨
   ┃C│元文5│自然石│「奉拜庚申供養塔」        │旭町・延命寺┃
   ┠─┼───┼───┼─────────────────┼──────┨
   ┃D│享保8│板駒型│日月・青面金剛・1鬼・3猿    │旭町・延命寺┃
   ┠─┼───┼───┼─────────────────┼──────┨
   ┃E│寛政12│自然石│「庚申塔」            │万町・近龍寺┃
   ┠─┼───┼───┼─────────────────┼──────┨
   ┃F│年不明│板駒型│日月・青面金剛・2猿       │旭町・定願寺┃
   ┠─┼───┼───┼─────────────────┼──────┨
   ┃G│年不明│駒 型│青面金剛・1鶏・1猿       │旭町・定願寺┃
   ┠─┼───┼───┼─────────────────┼──────┨
   ┃H│年不明│駒 型│日月・青面金剛・3猿       │旭町・定願寺┃
   ┠─┼───┼───┼─────────────────┼──────┨
  ┃I│年不明│丸 彫│日月・青面金剛・1鬼・3猿    │泉町・雲龍寺┃
   ┠─┼───┼───┼─────────────────┼──────┨
   ┃J│年不明│丸 彫│青面金剛・1鬼・3猿       │泉町・雲龍寺┃
   ┗━┷━━━┷━━━┷━━━━━━━━━━━━━━━━━┷━━━━━━┛の通りである。

 参考までに中島氏の『栃木市 野仏の風景』から市内にある庚申塔の中から寛文年間と延宝年間を抜き出して年表を作成すると
   ┏━┯━━━┯━━━┯━━━━━━━━━━━━━━┯━━━━━━━━━┓
   ┃順│元 号│塔 型│特            徴│所   在   地┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━┫
   ┃1│万治2│光背型│青面金剛・日月・1鶏・1猿 │片柳町1丁目・墓地┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃2│寛文1│板駒型│日月・2猿(梵字)     │大塚町宿坪・大日堂┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃3│寛文11│駒 型│3猿            │大塚町宿坪・大日堂┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃4│寛文11│駒 型│「奉造立庚申」日月・3猿  │大塚町中区・東場 ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃5│延宝2│板状碑│「奉造立庚申供養」3猿   │平柳町2古宿公民館┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃6│延宝3│駒 型│青面金剛・日月・2猿    │旭町・定願寺   ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃7│延宝4│光背型│青面金剛・1鬼・2鶏    │沼和田町 愛宕神社┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃8│延宝5│板駒型│青面金剛・1鬼・3猿    │大塚町中区・東場 ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃9│延宝5│板駒型│「奉敬之庚申供養」2猿  │大塚町上区・薬師堂┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃10│延宝6│光背型│青面金剛・日月・1鬼    │河合町・公民館  ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃11│延宝8│駒 型│青面金剛・日月・1鬼・3猿 │沼和田町・愛宕神社┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃12│延宝8│笠付型│青面金剛          │梅沢町梅南 華蔵寺┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃13│延宝8│笠付型│青面金剛          │梅沢町梅南 華蔵寺┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃14│延宝8│光背型│青面金剛・1鬼・3猿    │志鳥町 観音堂  ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃15│延宝8│光背型│青面金剛・1鬼・2鶏・3猿 │志鳥町・公民館前 ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃16│延宝8│笠付型│青面金剛・日月・1鬼・3猿 │泉川町・高久氏宅前┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃17│延宝8│駒 型│「奉庚申供養二世安楽」3猿 │大宮町塚田    ┃
   ┠─┼───┼───┼──────────────┼─────────┨
   ┃18│延宝8│板駒型│「庚申塔」3猿       │惣社町田中 西光寺┃
   ┗━┷━━━┷━━━┷━━━━━━━━━━━━━━┷━━━━━━━━━┛の18基である。

 万治2年造立の市内最古の庚申塔は、中島氏の著作の図39(25頁)と図71(42頁)に写真が載っており、これを受けて縣敏夫さんの『図録 庚申塔』(揺籃社 平成11年刊)の148〜9頁に紹介されている。片柳町1丁目16番の共同墓地にある。青面金剛の上方手に矛と宝輪、下方手に宝棒と検索を執る4手の青面金剛を主尊とし、上部に日月・瑞雲、足元に1鶏と御弊を捧げる1猿を浮き彫りする。瑞雲の下に2つの卍を刻む光背型塔である。栃木木から西北に約1kmというから、寄って寄れない場所ではない。これは是非とも調べたい塔である。

 また年表の中では7の沼和田・愛宕神社の延宝4年塔と11の同8年塔、及び10の河合町・公民館の延宝6年塔の3基は栃木駅から近いようなので、来年の栃木まつりに機会があればみたい塔である。
中島氏の著作から私が作成した年表と中山正義さんが作成した「栃木県寛文の庚申塔仮年表」(平成9年刊)と比較すると
   1 寛文2 光背型 3猿                上大久保
   2 寛文9 板碑型 3猿                大塚・宿・餓鬼塚の寛文期の2基がみられず、「栃木県延宝の庚申塔仮年表」(平成9年刊)と比較すると
   3 延宝2 板碑型 日月・3猿             旭町・定願寺
   4 延宝8     「庚申塔」             坂田・十九夜様の延宝期の2基の計4基が欠けている。

 1方、新し塔として『栃木市 野仏の風景』には、藤田町公民館にある「庚申塔」の主銘を刻む昭和55年造立の板石型文字塔が挙げられている。全国で約1000基と推定される昭和庚申年塔の1基である。これも見たい塔の1基である。

 今回も山車見物が主体で庚申塔は片手間の調べで充分とはいえないけれも、普通ではわざわざ栃木まで庚申塔の調査に出掛ける機会はない。こうしたきっかけがあれば、市内の庚申塔に興味が湧いてくるし、調査にもつながってくる。   〔初出〕『栃木を歩く』(ともしび会 平成12年刊)所収
栃木まつり  (平成13年11月18日)

 平成13年11月18日(日曜日)は、昨年に続いて栃木まつりの見物に行く。そうそう度々栃木まで調査に行けない。今回は、山車見物が1つの目的であったが、もう1つ庚申塔を調べるのも兼ねている。当初、祭りの始まる前の2〜3時間を庚申塔調査に当て、その後を山車を見物する予定であった。

 JR武蔵野線の車中では、中島昭さんの著作『栃木市 野仏の風景』(私家版 平成4年刊)を参照して、今回廻るコースを計画する。先ず同書の96頁から113頁にかけて掲載されている「栃木市の石仏1覧」の「旧市地区」から、青面金剛だけを抜き出して場所を確認する。それから、今回の目的とした万治塔〜5猿塔〜昭和庚申年塔を結ぶコースを考える。

 おおよその腹案ができていたが、本をみながら再考する。その結果、栃木駅から1.片柳町墓地〜2.河合町公民館〜3.沼和田町愛宕神社〜4.同町東泉寺〜5.藤田町公民館(大宮地区〕〜6.神田町宝樹寺〜7.本町長清寺〜8.旭町延命寺〜9.同町定願寺〜10.泉町不動尊を廻るコース、時間が不足するようだったら前に廻った8〜10を省略することを決定した。

 東武線栃木駅についたのが午前10時26分、先ず駅前まで栃木まつりの資料を得てから、最初の目的地・片柳町1丁目の墓地に向かう。思ったよりもわかり易い場所で農業会館通りを西へ進み、3叉路の手前を右折(北進)すれば、やがて奥に墓地がみえ、万治塔などが出迎えてくれる。ここには
1 大正9 柱状型 「庚申塔」                 65×26×17
  2 万延1 柱状型 「庚申塔」                 64×24×17
  3 享保1 板駒型 日月・青面金剛・3猿            51×26
  4 元禄6 光背型 日月・青面金剛・1鬼・3猿         84×37
  5 万治4 光背型 日月・青面金剛・1鶏・1猿        104×47の5基の庚申塔と十九夜塔2基(嘉永3・明治44)がみられる。

 1は、正面に主銘の「庚申塔」、右側面に年銘の「大正九庚申十二月建之」が刻まれている。2は、正面に主銘の「庚申塔」と左右に「萬延元申年」「八月吉日」、右側面に地銘の東片柳村」、左側面に施主銘の「橋本講中」とある。

 3は、合掌6手像(像高36cm)を主尊とした塔で、下部に正面が正面向きで左右の猿が内側を向く3猿(像高7cm)が浮彫りされている。主尊は、中央手が合掌し、上方手に矛と蛇、下方手に矢2本と弓を持つ。これが旧市地区の特徴であるようで、下部の3猿の向きと共に恩字傾向を示している。像の右に「奉造立庚申供養」、左に「享保元甲申年十一月吉日」の銘がある。

 4は、3と異なる左上方手に宝輪を持つ合掌6手像(像高50cm)で、3猿(像高11cm)は同じ向きをしている。「奉造立庚申供養」と「元禄六癸酉十二月吉日」の銘。

 5は今回のお目当ての塔で、日月・瑞雲の下に「卍」が2つあり、4手青面金剛(像高56cm)と足元に1鶏1猿(像高14cm)がみられる。主尊の持物は、上方手が宝輪と矛、下方手が索と蛇が巻きつく宝棒を執る。年銘が背面に「万治2己亥年2月日」とあるので、うっかりすると見逃す恐れがある。縣敏夫さんの著作『図説 庚申塔』(揺籃社 平成11年刊)の148頁には、次頁に拓本を載せて詳しく解説しているので、これを一読する価値がある。

 続いて向かったのが河合町公民館、持っていた地図が平成7年発行と古いせいか、地図の所在地と違った場所にあって面食らう。ここには
  6 延宝8 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿         181×75
  7 年不明 青面金剛                      43×22×11の2基の青面金剛がみられる。

 6は、塔も大きいが像も大きい合掌6手(像高112cm)像で、下部の3猿(像高・cm)は埋まっているのでもっと大きいだろう。今回廻った青面金剛で2鶏がみられる塔は少ない。これもこの辺りの特徴であろう。像の右に「奉造立庚申供養」、左に「延宝八庚申三月廾日」の銘がある。

 7は、剣人6手像(像高30cm)で破損が甚だしい。像容は中央手が剣と人身、上方手が矛と宝輪、下方手が矢と弓である。

 その次が沼和田町の愛宕神社、5猿塔のある東泉寺の途中にある。ここには
  8 享保21 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿         58×27
  9 延宝4 光背型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿     102×51
  10 寛政12 自然石 「庚申塔」                 75×80
  11 延宝8 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・2鶏・3猿      94×44
  12 元文5 柱状型 「青面金剛」3猿              97×36
  13 万延1 柱状型 「庚 申」                 70×31×30の6基の庚申塔が道路に背を向けて並んでいる。土台のセメントに「平成十年三月吉日」とあるから、その時に並べ直したのだろう。『栃木市 野仏の風景』の26頁には、「図40 沼和田町愛宕神社の庚申塔群」の写真が載っている。これと現状を比較されると、当時との違いがわかる。

 8は、合掌6手像(像高39cm)で、下部の3猿(像高7cm)と共に、前の3で指摘した特徴を具えている。像の右にある「奉造立庚申供養」銘は、他の青面金剛像にもみられる銘文である。左に「享保廾一丁卯□□吉日」と年銘を読んだが、これでは干支が違う。21年なら「丙辰」だし、22年なら「丁巳」で元文2年に当たる。「享保十二年丁未」が正解かもしれない。

 9は、これまでみてきた特徴を具えた合掌6手像(像高72cm)で、下部中央に1猿(像高11cm)がある。像の右には、年銘の「延宝四丙辰年十二月□□」を刻む。

 10は、自然石中央にに主銘の「庚申塔」、右に年銘の「寛政十二庚申年三月吉日」、左に施主銘の「沼和田講中」を刻んでいる。

 11は、これまでの像とは1味違う上方手に矛と弓(蛇かもしれない)、下方手に矢2本と索を持つ合掌6手像(像高42cm)で、下部に3匹共に正面を向く3猿(像高14cm)がみられる。像の右に「奉造立講二世安楽所 沼和田村」、左に「延宝八庚申十月□□ 同業十人」の銘文がある。

 12は、「青面金剛」の文字塔で、右に「元文5庚申年 沼和田」、左に「十二月吉日 講中」、下部に正面向きの3猿(像高8cm)がある。

 13は左端にある文字塔で、正面に「庚申」、その右に「萬延元庚申十二月」、左下に「沼和田本郷」とある。台石正面には、横書きで「講中」と入っている。

 こうして6基をみると、延宝8年・元文5年・寛政12年・万延元年の庚申年4基が揃っている。その後の大正9年と昭和55年には、「庚申塔」の造立がみられない。

 神社のベンチで昼食を済ませて、目的の5猿塔がある東泉寺に向かう。ここには
14 寛政12 柱状型 日月「ウーン 庚申塔」             85×37×20
15 享保7 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿         71×32
16 元禄X 光背型 日月・青面金剛・1鬼            64×32
17 享保3 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        103×52
18 貞享1 光背型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        101×44
19 正徳3 板駒型 日月「奉造立庚申供養塔」2猿・5猿     97×42
20 年不明 自然石 「庚 申」                 93×36
21 年不明 自然石 「庚申塔」                195×62の8基があり、寺の東南角に当たる路傍に立っている。

 14は文字塔で、正面上部に「ウーン」が陰刻の日月に挟まれ、中央に「庚申塔」、右に「寛政十二庚申年 沼和田」、左に「十二月吉日 講中」の銘がある。

 15は、火炎光背のある合掌6手像(像高49cm)で、下部に3猿(像高8cm)がある。像の右に「奉造立庚申庚申供養 沼和田村」、左に「享保七壬寅天十一月吉日」の銘。

 16は、これまでと同じ特徴のある合掌6手像(像高49cm)で、像の右に「奉造立庚申供養」、左に「元禄(七)□□□月吉日」の銘文を刻む。

 17は同様な合掌6手像(像高69cm)で、頭部の上を削ったような跡がみられる。3猿(像高11cm)もこれまでにみてきた向きである。像の右に「奉造立庚申供養 沼和田村」、左に「享保三戊戌年十二月吉日 同行七人」の銘がある。

 18は合掌6手像(像高57cm)を主尊とし、下部に3猿(像高12cm)の浮彫りがある。像の右に「奉造立庚申為現當二世安楽所 沼和田村」、左に「貞享元甲子年十一月廾六日 敬白」とある。

 19は、今回の目的の1つの5猿塔である。上部に日月、下部に向かい合わせの2猿(像高15cm)と三不型の3猿(像高11cm)を刻む。正面中央に「奉造立庚申供養塔」の主銘を刻み、右に「正徳三癸巳天 沼和田村」、左に「十月吉日 同行九人」の銘。栃木市内には、もう1基の5猿塔が惣社町内匠屋坪にあり、板碑型塔の上部に向かい合わせの2猿、下部に正面向きの3猿を浮彫りする。無銘だそうだが塔形からみて、東泉寺塔より先行すると考えられる。『栃木市 野仏の風景』39頁に写真が載っている。

 20は「庚申」、21は「庚申塔」の主銘の文字塔で、共に自然石である。21は2m近い大きさで、刻像塔では6の延宝8年塔、文字塔ではこの塔が大きい。

 ここまでは順調であったが、藤田町公民館へ向かう道で間違える。後で地図をみると、思っていたよりも大廻りではなかった。といっても、そのお蔭で思わぬ二十三夜と二十六夜を併記した塔に出会えたから、道を間違えたのも収穫がある。ただその分、山車の写真を撮るチャンスに遅れたのが残念である。

 樋ノ口町で反対側の歩道からお堂と墓地がみえたので、そこにいくと
  22 明和4 光背型 日月・青面金剛・1鬼・3猿         86×41

があり、その並びに「二十三夜」と「二十六夜」と2行に記した角柱型(62×25×9cm)がみられる。ここには、享保12年と天保3年の十九夜塔がある。

 22は、合掌6手像(像高38cm)で、下部に3猿(像高13cm)がある。像の右に「奉造立庚申供養」、左に「明和元甲申年十一月吉日」、3猿の下に「小田村/同行/九人」の銘文を刻んでいる。

 途中、同町の小堂入口にある十九夜塔をみて、藤田町公民館につく。ここには
23 昭和55 自然石 「庚申塔」                 90×60
24 万延1 柱状型 「庚申塔」                 50×27×17
25 宝永3 光背型 日月・青面金剛・1鬼・3猿         90×46
26 大正9 自然石 「庚申塔」                101×17の5基の庚申塔や明和4年・万延元年・明治27年の3基の十九夜塔が並んでいる。

 23は、今回どうしてもみたかった塔の1つで、板石の自然石正面中央に「庚申塔」、右に「昭和五十五年十月十四日」、左下に「藤田老人クラブ建之」とある。

 24は、正面に「庚申塔」、右側面に「萬延元庚申年九月」とある角柱型塔である。

 25は、合掌6手像(像高68cm)で下部に3猿(像高・cm)のこれまでみてきた特徴を具えた刻像塔である。3猿が半ば埋まっているので、実際の像高ではない。像の右に「奉造立庚申供養塔」、右に「宝永三丁□十一月 敬白」の銘。宝永3年は「丙戌」で、翌4年が「丁亥」である。時間を気にしていたので、焦って読み違いかもしれない。

 26は自然石に「庚申塔」の主銘で、右に「大正9年十二月」、左に「藤田一同」とある。ここの庚申塔をみると、万延元年・大正9年・昭和55年と3回の庚申年に庚申塔が立ていることになる。沼和田では万延元年までで、藤田では万延元年からである。

 目的とした万治塔・5猿塔・昭和庚申年塔を廻って、祭りを行っている中心街への途中にある神田町の宝樹寺に寄る。この寺の境内には、山門を入った右手に
  27 寛保3 自然石 「ウーン 庚申供養塔」            107×53
  28 正徳1 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        125×55の2基がある。他にも文政7年と弘化2年の十九夜塔もみられる。

 27は、正面に「ウーン 庚申供養塔」の主銘、右に「寛保3癸亥年 城内村」、左に「十一月吉辰
 構中」と銘文がみられる。

 28は主尊が合掌6手像(像高85cm)で、下部の3猿(像高15cm)が大振りである。像の右に「奉造立庚申供養」、左に「正徳元年癸夘天十一月吉日」の銘。

 続いて本町の長清寺に廻る途中で、正面に「馬力神」とある角柱型塔(52×24×19cm)に出会う。主銘の右に「二代」、左に「栃勇」とあるから2匹目の栃勇を悼んで建てたと思われる。右側面に「昭和四年三月」、左側面に「大川竹二郎建」とある。この塔の後ろの門柱に「大川」の表札があるので、この家と関わりの塔であろう。

 長清寺では、境内に並ぶ石塔の中に次の庚申塔がある。
29 貞享3 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿         95×41がそれで、合掌6手像(像高54cm)と3猿(像高41cm)を刻む。銘文は、像の右に「奉造立庚申供養
 同行」、左に「貞享三寅天十月九日」である。

 午後3時も近くなっていたので、予定していた旭町の延命寺と定願寺を省いて、蔵の街通りの「まつり会場」へ急ぐ。ともかく、山車を追って1時間は写真に集中し、4時近くに再び調べ残した旭町の定願寺に向かう。

 定願寺では、初めて訪ねた平成8年11月15日(金)の「栃木まつり」の時に3基の庚申塔を調べている。その時の記録は

    午後3時過ぎに祭り見物が1段落したところで、栃木市立図書館に行こうと思った。図書館
   への途中、旭町の定願寺(天台宗)があったので寄ると
     3 年不明 板駒型 日月・青面金剛・2猿         142×55
     4 貞享3 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿      131×55
     5 延宝3 板碑型 日月・3猿・蓮華           155×47
   の3基が並んでいる。3は合掌6手像(像高58cm)で、年銘を「□延□三亥年」と読んだが
   自信がない。2猿(像高12cm)が珍しい。4も合掌6手像(像高76cm)で、「奉造立青面金剛
   □年□庚申取□□」「一結等□」の銘文が刻まれている。こちらは、3と異なって3猿(像高
   20cm)である。この3猿は、5とちがって中央の猿が正面を向き、両脇の2猿が内側を向いて
   いる。5の塔面が荒れていて、僅かに「延寳3年」しか読めなかった。3と4は、猿が下部に
   浮彫りされているが、5の正面向きの3猿(像高20cm)は日月の下に浮彫りされている。

 次にこの寺を訪ねた昨12年10月28日(土)には、次の引用にある2基を調べている。この時の記録は

    午後2時から行われた7台の山車の勢揃いをみてから、万町や室町の山車についていくと、
   またも通りから寺が見える。旭町の定願寺である。この寺には
     2 年不明 駒 型 青面金剛・1鶏・1猿         84×35×24
     3 年不明 駒 型 日月・青面金剛・3猿         72×37×20
   の2基がある。
    2は、墓地の入口にある塔で、中央に合掌6手立像(像高50cm)、下部に1鶏と目を塞ぐ1
   猿(像高17cm)が向かい合わせに浮き彫りされている。主尊像の左右に銘文が刻まれているが、
   右の「六」の字を除いて判読できない。
    3は山門を入って左手の奥に本堂に向かってたっている。これも合掌6手立像(像高50cm)
   で、上部に日月、下部に3猿の内の中央にある猿(像高不明)の顔が辛うじてわかる程度に風
   化と破損がひどい。勿論、銘文がわからない。

 今回は次の5基を調べたから、1度に2回分を見たわけである。
30(延宝3)板碑型 日月・3猿「ウーン 奉造立……」蓮華   156×49
31 貞享3 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        133×54
32 延宝3 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿        142×54
33 年不明 板駒型 日月・青面金剛・1鶏・1猿        137×39
34 年不明 板駒型 青面金剛                  71×37

 30は8年の5の塔で、前と違って暗くて3猿(像高21cm)の下に僅かに「ウーン 奉造立」と読んだけで、年銘は読めなかった。塔形からも、3猿が上部にあることなどからも、古塔であることは間違いない。

 31は8年にみた4の塔で、合掌6手像(像高76cm)で下部に3猿(像高20cm)がある。像の右に「奉造立青面金剛當年三庚申□□」、左に「貞享三丙寅天十月吉日 一結衆 敬白」と読む。30と共に3猿が大きい。

 32は8年の時の3の塔で、31と同様に合掌6手像(像高57cm)で、像の右に「延宝三乙卯年」、左に「十一月五日」と読んだが「吉日」かもしれない。下部にある3猿(像高12cm)の下に「安兵衛」などの7人の施主銘が記されている。

 33は昨年の2、これもまた合掌6手像(像高51cm)で下部に1鶏と1猿(像高14cm)が浮彫りされている。『栃木市 野仏の風景』34頁には、「図55 旭町定願寺の庚申塔」との題で写真が載っている。

 34は昨年の3、33同様に合掌6手像(像高50cm)である。

 次の延命寺では、平成8年の時に今回みた3基を調べている。この時の記録は

    図書館を出るとお寺が見えたので、旭町の延命寺(天台宗)に寄ると
        6 元禄4 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿       64×35
        7 元文5 自然石 「奉拜庚申供養塔」          130×55
        8 享保8 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿       85×32
   の3基がみられる。6と8は共に合掌6手像で、6の像高は36cm、8の像高は54cmである
   。6には「奉造立庚申供養」、8には「奉造立尊像講中安全所」の銘文が刻まれている。両塔
   共に、中央が正面向き、両横が向かい合う横向きの3猿である。

である。暗くなった頃だったの記憶がある。今回は、一層暗かった。塔は前回みた
35 元禄3 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿           70×36
36 元文5 自然石 「奉待庚申供養塔」              131×55
37 享保8 板駒型 日月・青面金剛・1鬼・3猿           87×34の3基である。

 35は8年の時の6、これまでみてきた多くの青面金剛と同じ姿態の合掌6手像(像高37cm)と3猿(像高14cm)である。像の右に「奉造立庚申供養 施主敬白」、左に「元禄三丁□四月吉日 同行六人」と読んだが,元禄三は「庚午」なのでおかしい。

 36は8年の時の7、主銘の右に「元文五庚申歳 西横丁」、左に「十一月廾四日 講中」とある。

37は8年の時の8、頂部に「バン」の種子、その下に合掌6手像(像高55cm)、脚下の鬼が前向きでこれまでみた横向きの鬼とは変わっている。像の右には「奉造立尊像講中安全祈所」、左に「享保八癸卯年三月吉日 敬白」の銘がある。下部に3猿(像高12cm)。

 今回、残念ながら泉町の丸彫り青面金剛をみられなかったが、これは平成8年にみている。ともかく旧市地区では、薗部町3丁目6道にある享保5年と年不明の2基を除いて青面金剛像を廻っているから、おおよその傾向がつかめる。

 今回の庚申塔調査の目的は、少なくとも万治の青面金剛・正徳の5猿塔・昭和庚申年塔の3基で、出来れば旧市地区の青面金剛を廻ることである。実際には、4時間半に祭りを挟んで1時間の計5時間半だったが、一応の成果がみられる。

 目的とした3基もみられたし、少々時間が遅かったが山車も50年振りに登場した仁徳天皇の人形山車も見物できたので、結果はよしとすべきだろう。それにしても、強行軍で脚の衰えを確認された1日でもある。 〔初出〕『平成十三年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成13年刊)所収
栃木文化財視察旅行  (平成12年10月18・19日)

 平成12年10月18日、19日の両日は、青梅市文化財保護審議委員会の視察旅行に参加する。今回の目的は栃木県下の文化財が対象で、具体的には栃木市の山車会館と蔵造りの街、日光市の東照宮などの2社1寺、今市市の日光杉並街道の視察見学である。

 当初の予定では、今市市のホテル福田屋に宿泊することになっていたが、手違いがあって日光市神橋前の同名のホテルに変更になった。これは私にとって幸いである。というには、神橋前には庚申塔がみられるし、日光泊となれば市内の庚申塔をみる時間が増える。大歓迎の変更で、他の委員はどのように思ったかは知らないが内心喜んだ。

 第1日目の18日(水曜日)は、栃木市の蔵の街の視察がメインで、これまでの視察旅行で行ってきた町並み保存視察の1環である。栃木市役所の方々から蔵造りの観光館2階で、街造りの整備経過と事業内容などの概要、市サイドの取組みを説明していただく。とちぎ山車会館で江戸型の山車3台を見学した後で、街にある市指定の登録有形文化財の蔵造り家屋を中心に巡る。昼食後に日光に向かい、今回特別公開された大猷院廟を中心に東照宮などの2社1寺を見学する。この日は、社寺見学の前に神橋前の寛永18年塔1基をみるに止まる。

 第2日目の19日(木曜日)は、午前6時に朝風呂に入ってから神橋前を訪ね、前日にみるだけだった次の塔を間近で調べる。
1 寛永18 板碑型 「バンキリーク○ 奉成就庚申供養所」2猿・蓮華  117×53

 1は、日光型(下野型ともいう)の向かい合わせの2猿(像高10cm)が塔の中央に陽刻されているのが特徴である。上部の「バン」が小さく、その下に並ぶ「キリーク」と「○」が大きい。中央には「奉成就」とあり、「就」の左右に「庚申」、2猿像があって「供養所」の主銘、下に「敬白」と刻まれている。下部には、主銘の右に7名、左に6名の施主銘があり、底部に蓮華の陰刻がみられる。主銘の左右には、年銘「寛永十八年」と「辛巳卯月廾三日」がある。

 この塔は、日光市内で山内・滝尾神社の寛永14年板碑型塔や匠町・浄光寺の同年灯籠に次ぐ初期の庚申塔である。この塔の解説と拓影は、縣敏夫さんの『図録 庚申塔』(揺籃社 平成11年刊)の102〜3頁に載っている。また、日光の庚申塔については、庚申懇話会が昭和42年に発行した『庚申』第49号の日光特集号が参考になる。

 この塔だけでは7時30分の朝食までまだ時間があるので、近くの上鉢石町の星の宮を訪ね、境内にある次の5基の庚申塔を調べる。社殿に向かって右側には
2 慶安3 駒 型 日月・2猿「ア バン ウーン」蓮華       157×59×31
3 宝暦8 笠付型 日月・2猿「アーンク青面金剛供養塔」    77×25×25の2基があり、左側には次の3基が並ぶ。
4 昭和55 柱状型 「庚 申」                 75×30×27
5 元禄11 柱状型 日月「ウーン 青面金剛供養」2猿       125×39×23
6 貞享4 笠付型 日月「キリーク 青面金剛供養攸」2猿      143×35×38

 2は、上部に日月と2猿(像高13cm)があり、主銘が「ア バン ウーン」の種子、その横の左右に「汝等所行/是菩薩道」「漸々修覺/悉當成佛」の偈文、その外側に年銘の「慶安三庚寅暦」と「小春如意日」、下部には2段にわたって17人の施主銘、下段中央に「敬白」、底部に蓮華が陰刻されている。2を含めて、ここの2猿は日光型である。

 この塔についても、先刻の『図録 庚申塔』120〜1頁に解説と拓本が載っている。その中では、『法華経薬草喩品』を出典とする「汝等所行……」の偈文が市内に5基分布することを指摘する。この本には、1と2以外に稲荷町・虚空蔵堂の正保2年塔(112頁)・清滝路傍の延宝8年塔(218頁)の2基を紹介している。

 3は日月と2猿(像高12cm)の下に「キリーク 青面金剛供養塔」の主銘、その横に「汝等所行是菩薩道」と「漸々修覺悉當成佛」の偈文と「寶暦八年戊寅」「九月吉日」の年銘が刻まれている。
 4は、正面に「庚申」の主銘、右側面に「昭和五十五庚申年/十二月吉日建立」、左側面に「星野仁十郎」などの8人の施主銘がみられる。この塔は、昭和庚申年に造立された文字塔の1基で、市内には正月造立の上野・生岡神社の「庚申」自然石から十二月のこの塔まで造立月の不明な塔を含めて22基が分布している。

 5は、上部に日月を浮き彫りし、中央に「ウーン 青面金剛供養」の主銘、その下に向かい合わせの2猿(日光型 像高12cm)を陽刻する。主銘の左右に「元禄十一戊寅歳」と「二月吉祥日」、下部に「安行院□□」の他に9人の施主銘を刻む。

 6は、上部に日月の陽刻、中央に「キリーク 青面金剛供養攸 敬白」の主銘、下部に日光型2猿(像高12cm)がある。主銘の横には、年銘の「貞享四丁卯年」「十月吉日」があり、右側面に5人、左側面に1人の施主銘がみられる。

 朝食の時間が近づいたのでホテルに戻り、食事を済ませる。食後、出発まで約1時間の余裕がある。これを利用しない手はない。時間内でみられる所といえば、大工町の岩裂神社が思い浮かぶ。早速、行動にうつす。朝早くて暗かったので神橋前の塔を再度撮ってから、神社に向けて急ぐ。境内には、社殿の裏手から左手にかけて庚申塔がみられ
7 文化4 自然石 「庚申塔」                 99×47
道 寛政10 自然石 「道祖神」                100×48
8 文化6 自然石 「庚申塔」                 92×47
  9 享保13 柱状型 「キリーク 青面金剛供養所」           64×28×26
10 文久3 駒 型 日月・青面金剛(剣人6手 像高32cm)    46×25×16
11 天保2 自然石 「キリーク 庚申」                75×52
12 安永5 自然石 「庚申供養塔」              106×50
13 安永8 自然石 「庚申塔」                132×78
14 文政4 自然石 「キリーク 庚申」             (計測なし)
15 延宝8 柱状型 日月・2猿「キリーク 青面金剛供養攸」   (計測なし)
16 元禄4 柱状型 日月・2猿「青面金剛供養所」        (計測なし)
17 正徳2 柱状型 日月「ウーン 青面金剛供養所」       (計測なし)
18 明和1 自然石 「庚申塔」                 (計測なし)
19 年不明 自然石 「青面金剛                 (計測なし)の14基である。銘文のメモを簡略にしたが、思ったより計測と撮影に時間を取られ、6基はただ写真を撮るだけでタイム・アップになり、途中で駈けてやっとバス出発5分前にホテルに戻る。

 第2日目の日程は今市市(現・日光市)の日光杉並木街道の視察で、先ず市立歴史民俗資料館を訪ねて並木の成り立ちや歴史について半田慶恭さんからレクチャーを受ける。説明後に半田さんに昭和庚申年塔について質問した。

 この館からは、平成5年に『今市の庚申塔』が発行され、市内に分布する昭和庚申年塔が65基収録されている。幸いなことに、半田さんがその調査を担当され、調査報告書の発行後にさらに2基の調査洩れを発見された、お聞きした。
  A 昭和55 自然石 「庚申塔」                 法量不明
  B 昭和55 自然石 日月「庚申」               108×60の2基ががそれで、Aは長畑東沢にある文字塔で、主銘以外に「昭和五十五年六月十六日/地谷新次沢講中/高橋正勝(等5人の氏名)」の銘文を刻む。Bには、主銘の他に年銘の「昭和五十五年二月十七日造立之」がある。

 今市市の昭和庚申年塔については、平成6年に日本石仏協会から発行された『日本の石仏』第74号に「続昭和庚申年の全国造塔数」を発表し、その中で取り上げている。1部を引用すると

    『今市の庚申塔』で今市市の庚申年の造塔数をみると、延宝八年が2基、元文5年が23基、
   寛政十二年が37基、万延元年が54基、大正九年が61基、昭和五十五年が65基、と合計
   242基である。庚申年毎に造立数が増えている、という特徴が認められる。現在までに市内
   で調査された庚申塔の総数が311基だから、77.8パーセントが庚申年の造塔で占める。
   年代不明の塔11基を除くと、80.7パーセントにおよぶ高率である。
    今市にある昭和五十五年造塔の塔形は、65基のいずれも自然石塔である。すべてが文字塔
   で、刻像塔は認められない。文字塔の主銘は「庚申」が53基(81.5%)、「庚申塔」が
   10基(15.4%)、「猿田彦大神」が2基(3.1%)である。「庚申」塔の2基は「下
   野国庚申山鎮座猿田彦神社宮司安達長江」、1基には「下野国庚申山鎮座猿田彦神社」の銘文
   が刻まれ、「猿田彦大神」塔2基と共に足尾の猿田彦神社の影響がうかがわれる。

である。参考までにこれまでの庚申年における今市市の塔形の変化傾向を一表にまとめると、次のように種類が減って自然石型に統1されているのがよくわかるだろう。

   ┏━━━┳━━━┳━━━━┯━━━━┯━━━━┯━━━━┳━━━━┓
   ┃種 別┃塔 形┃寛政12年│万延1年│大正9年│昭和55年┃合  計┃
   ┣━━━╋━━━╋━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━╋━━━━┫
   ┃刻像塔┃光背型┃   3│   0│   0│   0┃   3┃
   ┣━━━╋━━━╋━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━╋━━━━┫
   ┃文字塔┃柱状型┃   3│   1│   0│   0┃   4┃
   ┃   ┠───╂────┼────┼────┼────╂────┨
   ┃   ┃自然石┃  31│  53│  61│  65┃ 210┃
   ┣━━━╋━━━╋━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━╋━━━━┫
   ┃合 計┃   ┃  37│  54│  61│  65┃ 217┃
   ┣━━━╋━━━╋━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━╋━━━━┫
   ┃比 率┃   ┃17.1│24.9│28.1│39.9┃100%┃
   ┗━━━┻━━━┻━━━━┷━━━━┷━━━━┷━━━━┻━━━━┛
 詳しいことは、前記の『日本の石仏』に譲る。

 資料館を辞して向かったのが杉並木公園、県の担当職員から園内の民家で杉並木の現状や保護施策についてお話を聞く。その後で実際に杉並木街道を散策し、保護施策の現状を実見する。一応の視察が終わってから自由行動の時間となったので、並木と公園を散歩する。園内には、石佛がみられる。
  月 寛保3 丸 彫 如意輪「十九夜念佛供養」          (計測なし)
  月 年不明 光背型 如意輪「十九夜念佛供養」          (計測なし)
  20 年不明 柱状型 日月・2猿                  45×34がそれで、十九夜塔2基のいずれもが台石に銘文を刻む。

 20は上部に日月、下部に日光型の2猿(像高14cm)を陽刻する。塔面に銘文が彫られた形跡がみられるが、何分にも彫りが浅く、その上に逆光で読めない。

 杉並木公園を最後に帰途につく。今回の旅行では、日光で思いがけず多数の庚申塔に出会えたし、今市の資料館では昭和庚申年塔2基を教えていただいた。いずれも、まったく予想していなかった収穫である。    〔初出〕『平成十二年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成12年刊)所収
あとがき
     
      昨年11月の2日間にわたる佐野市と足利市の庚申塔巡りに続き、先月は足利市西部の
     庚申塔を1日間巡った。何れも地元の瀧澤龍雄さんと高橋久敬さんのご案内である。それ
     に刺激され、栃木県内の古い記録をみたら、栃木市3編と日光市1編が見つかった。それ
     ぞれの文末が示すように、各編がバラバラに発表されている。

      本書の3編のそれぞれで書いたように、これまでに平成8年・12年・13年の3度、
     栃木市の山車見物に出掛けた。だから栃木市というと先ず山車、それも江戸型の山車が浮
     かんでくる。しかしその都度、市内の庚申塔を訪ねている。この他に1度、文化財視察で
     山車会館に展示されている山車をみているが、栃木市内で庚申塔を廻る時間的な余裕がな
     く、翌日は日光市内の庚申塔を訪ねた。付録として掲載した。

      「『栃木市 野仏の風景』雑感」の1部である「1 栃木まつり」は注記を除き、『平
     成八年の石仏巡り』に発表した。「『栃木市 野仏の風景』雑感」と「とちぎ人形山車出
     御」は『栃木を歩く』、「栃木まつり」は『平成十三年の石佛巡り』、「栃木文化財視察
     旅行」は『平成十二年の石佛巡り』と、いずれも文末に記したようにすでに発表済のもの
     ばかりである。ただ、こうのように「栃木市」に絞ってまとめておうと、何かの参考にな
     ろう。ご活用いただければ幸いである。

      山車見物に行っても時間があれば、石佛というよりも庚申塔を訪ねてしまう。栃木市の
     場合は全く山車見物の余祿である。本来ならば、中島昭さんの『栃木市 野仏の風景』を
     利用し、現地の庚申塔を廻ればよいのであろう。というものの栃木市は遠い。

                             ────────────────
                              栃木市の庚申塔巡り FD版
                               発行日 平成18年5月15日
                               TXT 平成18年5月12日
                               著 者 石  川  博  司
                               発行者 庚申資料刊行会
                             ────────────────

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