鎌倉の庚申塔を歩く                             石 川 博 司
              ・・ 目 次 ・・
       はじめに
       鎌倉の庚申塔を歩く  十二月例会 ・・・・・・・・・・・平成7 多摩石仏の会

       鎌倉の庚申塔を歩く1 二月例会 ・・・・・・・・・・・・・平成8 庚申懇話会
       鎌倉の庚申塔を歩く2 四月例会 ・・・・・・・・・・・・・
       鎌倉の庚申塔を歩く3 七月例会 ・・・・・・・・・・・・・
       鎌倉の庚申塔を歩く4 十月例会 ・・・・・・・・・・・・・
       鎌倉の庚申塔を歩く5 十一月例会 ・・・・・・・・・・・
       鎌倉の庚申塔を歩く6 十二月例会 ・・・・・・・・・・・

       鎌倉の庚申塔を歩く7 正月例会 ・・・・・・・・・・・・・平成9 庚申懇話会 
       大船コース下見    三月例会 ・・・・・・・・・・・・・・
       鎌倉の庚申塔を歩く8 二月例会 ・・・・・・・・・・・・・
       鎌倉の庚申塔を歩く9 三月例会 ・・・・・・・・・・・・・ 
       鎌倉の庚申塔を歩く10 四月例会 ・・・・・・・・・・・・
       鎌倉の庚申塔を歩く11 五月例会 ・・・・・・・・・・・・・
       鎌倉の庚申塔を歩く12 六月例会 ・・・・・・・・・・・・・
       鎌倉の庚申塔を歩く13 七月例会 ・・・・・・・・・・・・
 
       鎌倉見学会      十一月例会 ・・・・・・・・・・・・昭和59 庚申懇話会
 
        鎌倉市内庚申関係石造物年表  
          
 
       鎌倉の庚申塔を扱った文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 
       あ と が き ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 は じ め に
多摩石仏の会の平成七年十二月例会は、十二月十七日(日曜日)に神奈川県鎌倉市内の石佛を巡った。庚申懇話会では、翌年の平成八年二月例会から平成九年七月まで鎌倉市内で一四回の見学会を催した。その中で平成八年九月例会を欠席したので、平成八年に私が参加した二月(1)・四月(2)・七月(3)・十月(4)・十一月(5)・十二月(6)の六回分と多摩石仏の会の見学記をまとめたのが『鎌倉を歩く』(平成八年刊)である。

平成九年は、庚申懇話会例会の一月(7)・二月(8)・三月(9)・四月(10)・五月(11)・六月(12)・七月(13)の七回に参加し、案内を担当した「大船コース下見」を二月に行った。これら平成九年分を『続鎌倉を歩く』(平成九年刊)にまとめた。

『続鎌倉を歩く』の末尾には「鎌倉市庚申塔年表」を付したが、チェックが不備で誤りがみられたし、洩れた塔も多かった。これを正し、正・続二冊にわかれていたもの一冊にまとめたのが本書である。前の『鎌倉を歩く』と『続鎌倉を歩く』の二書と識別できるように書名を『鎌倉の庚申塔を歩く』と改題した。

改題を機に昭和五十九年の庚申懇話会十一月例会の記録「鎌倉見学会」(『庚申』第八八号所収)を加え、「鎌倉市庚申塔年表」を「鎌倉市内庚申関係石造物年表」と差し換えた。さらに「鎌倉市内庚申関係石造物一覧表」と「鎌倉の庚申塔を扱った文献」を掲げて研究者の便宜を計った。
本書を活用いただければ幸いである。
        平成九年十月五日                     石 川  博 司
鎌倉の庚申塔を歩く  多摩石仏の会十二月例会

 平成七年十二月十七日(日曜日)は、多摩石仏の会の十二月例会。午前九時三〇分にJR横須賀線鎌倉駅前集合、集合時間はいつもと同じだから、家を出る時刻が早い。六時三〇分の電車に乗る予定であったが、起きたのが二五分、急いで支度して朝食抜きで三七分の電車に滑り込む。拝島から八高線、八王子で横浜線、横浜で横須賀線と乗り換えて、鎌倉には予想より早く八時四三分に着いた。集合時間まで間があるので、小町通りから雪の下を歩く。これまでにも鎌倉にはきているが、小町通りを歩くのは初めてである。開店時間前の商店街は静かである。

雪の下では、志一稲荷(二丁目四番)の横にある
   1 年不明 柱状型 「青面金剛」               64×30×30
をみる。あまりゆっくりもできないので、鎌倉駅に戻る。
 駅前には、犬飼康祐さんと林国蔵さんが待っている。今日の案内の多田治昭さんは、二九分着の電車でくる。集まったのは、山村弥五郎・林国蔵・明石延男・関口渉・川端信一・犬飼康祐の諸氏である。近頃は、七〜八人位の参加で歩きやすい。

 先ずは、鶴岡八幡宮の二の鳥居近く、小町一丁目七番の日光カメラ店前の路傍にある
   2 年不明 自然石 「大国主神 猿田彦大神 少名比古那神」  138× 102
   3 天保11 自然石 「猿田彦大神」              151×62をみる。ここには、その二基と「道祖神」の文字塔(83×32×30)が並んでいる。

 八幡宮の境内を抜けて西御門一丁目一三番の八雲神社に向かう。境内には
   4 文化5 笠付型 日月・青面金剛・三猿           70×31×31
   5 延宝8 光背型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     112×47
   6 元禄5 光背型 日月・青面金剛・三猿           84×37の三基がみられる。4は剣人六手、5は四手、6は合掌六手と青面金剛像に変化がある。5の頂部には「ア」、6の頂部には「キリーク」の種子が刻まれている。

 天園へのハイキングコースの入口の二階堂の路傍には、次の三基が並んでいる。
   7 万延1 柱状型 「庚申塔」                59×24×17
   8 寛政7 駒 型 日月「青面金剛王」三猿          65×26×21
   9 延宝5 光背型 来迎弥陀・三猿              62×339には「奉造立庚申供養」の銘がある。
覚園寺に寄って層塔などをみてから、瑞泉寺に向かう。
途中荏柄天神の御旅所で
   10 天和3 笠付型 日月・合掌弥陀・三猿           94×36×37
をみる。右側面に「奉造立庚申供養」の銘、三面下部に猿を配す。
瑞泉寺では
   11 享保8 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿・二童子 64×29を調べる。主尊は、剣人六手で、左上手に宝鈴を持つところが変わっている。市の有形民俗資料に指定されている。木村彦三郎氏の『道ばたの信仰』(昭和48年刊)に「台石正面には『庚申之供養』『享保八年三月八日』『施主』その次に施主の名を刻んであったが、塔を移すとき台石が埋められたしまった」(三一頁)とあるように、年銘などはわからない。大護八郎さんの『庚申塔』(新世紀社昭和33年刊)に載った写真(一三八)をみると、台石の上部が写っていて「庚申 享保 三月」などが辛うじて読みとれる。

 二階堂の荏柄天神参道には、壊れた鳥居の近くに次の六基の塔が並んでいる。
   12 嘉永1 駒 型 日月「青面金剛童子」三猿         61×26×17
   13 文政7 駒 型 日月「青面金剛童子」三猿         70×27×20
   14 寛政8 駒 型 日月「庚申供養塔」三猿          59×25×15
   15 元文5 柱状型 「庚申供養塔」              59×24×18
   16 寛政12 駒 型 日月・青面金剛・三猿           69×28×19
   17 明治33 駒 型 「猿田彦大神」三猿(台石にも三猿)    58×27×1916の主尊は、合掌六手である。17は、猿田彦の文字塔であるが、三猿がついているのは珍しい。この本塔と台石それぞれに三猿がみられる。これは他の塔の台石との組違いであろう。『道ばたの信仰』では、「以前道路工事に際して台石と塔身がばらばらに解かれて積んであったが、昭和四十年頃現状になった。そのとき台石と塔身を不揃いのまま組んでしまったことが、あきらかに分るが、具体的に一つ一つの組みあわせを知ることは無理な状態である」(二九頁)と指摘している。

二階堂の関取場跡の石碑の後には
   18 慶応2 柱状型 「青面金剛」               71×25×26があり、右側面に「左 かくをんじ やくしくろ地蔵 大山□□□不動」、裏面に「右 杉本くわんおん 加なざハ 道」の道標銘が刻まれている。

 雪の下三丁目の交差点角には、側面に「左金沢道」と「道ゑがら天神宮 大とうの宮土ろう 瑞泉寺一うんてい 道」の道標銘を刻む
   19 延享2 柱状型 「庚申供養」               62×24×18
がみられる。頂部に仰向けの一猿が薄肉彫りされている。

 小町三丁目五番の宝戒寺(天台宗)の境内には、次の四基がみられる。
   20 文政11 柱状型 「庚申 地神 供養塔」          65×27×20
   21 文化8 駒 型 日月「庚申塔」一猿            58×26×17
   22 文化8 駒 型 日月「庚申塔」一猿            59×26×17
   23 文化8 駒 型 日月「庚申塔」一猿            57×26×1820のように、地神と庚申と併記してある塔は少ない。大護八郎さんの『庚申塔』(真珠書院 昭和42年刊)には、21〜23の三基を撮った写真(九一頁)を載せ、「三基とも文化八年で左から二基は九月良辰、右端は十月良辰となっているが、各基とも一猿で、左端が耳、中央が目、右端が口を掩うているので、三基合わせてなじめて三猿が完結する。おそらく始めから三基一体としての造立であろう。〓は塔の古字」の解説を付している。なお一六〇頁には、20の写真を掲げている。

 大町一丁目の妙本寺門前では、路傍にある
   24 文政7 自然石 「帝釋天王」               73×71
を調べる。近くの八雲神社境内には、次の三基がみられる。
   25 安政7 自然石 「猿田彦大神」              145×56
   26 文政6 自然石 「猿田毘古大神」             138×89
   27 寛文12 笠付型 来迎弥陀・三猿              112×41×3927の右側面に「奉造立山王二十一社」の銘が刻まれ、三猿は左・右・裏の三面に浮彫りされている。

 材木座の五所神社境内には、次に記すように数多くの庚申塔がみられる。
   28 寛文12 光背型 日月「奉造立帝釋天王」二鶏・三猿     96×45
   29 天和4 笠付型 来迎弥陀・三猿              111×52×44
   30 貞享4 光背型 日月・合掌弥陀・三猿           81×40
   31 年不明 板駒型 青面金剛・三猿              88×42
   32 文化9 柱状型 「庚申供養」               82×33×14
   33 寛政4 板駒型 日月・青面金剛・三猿           67×34
   34 寛政12 駒 型 日月「庚申供養塔」            57×24×17
   35 享和3 駒 型 日月「庚申供養塔」            60×24×15
   36 享保15 駒 型 日月・青面金剛・三猿           90×37×25
   37 文化2 駒 型 日月「庚申供養塔」一猿          62×26×18
   38 文政2 駒 型 日月「庚申供養塔」一猿          71×29×21
   39 文政2 駒 型 日月「庚申供養塔」一猿          72×28×19
   40 嘉永5 駒 型 日月「猿田彦大神」三猿          65×28×22
   41 嘉永4 駒 型 日月「庚申供養塔」三猿          65×28×20
   42 天保14 駒 型 日月「庚申塔」三猿            63×28×22
   43 文政3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿・二童子    79×28×2028は、市の指定文化財で、主銘の左右に「現世安穏」「後生善所」、下部には「庚申講中一結」と六名の施主銘、造立年銘が刻まれている。29の三猿は、前・左・右の三面に配している。30には、「奉造立庚申中間」の銘がみられる。31は、胸前の右手に剣、左手が徒手の六手像である。33・36・43の三基は、いずれも合掌六手像である。43には、二童子が浮彫りされている。

 五所神社で今日の見学を終え、鎌倉駅に向かう。駅前の商店で土産の奈良漬を買って帰路につく。
鎌倉の庚申塔を歩く1  庚申懇話会二月例会
 平成八年二月二十五日(日曜日)は、庚申懇話会二月例会である。午前一〇時にJR横須賀線鎌倉駅に集合、小花波平六さんの案内で鎌倉の庚申塔をまわる。久方ぶりに小花波さん、芦田正次郎さんや藤井慶治さんにあう。鎌倉駅では偶然であるが、別の会にでる中山正義さんにも出会う。

 駅前からバスで「岐れ道」までのり、交差点前の魚三魚店脇(雪の下三丁目)にある
  1 延享2 柱状型 一猿「庚申供養」(道標銘)         62×24×18から見学がはじまる。右側面に「右金沢道」、左側面に「左 ゑがら天神宮 大とう之宮土ろう 瑞泉寺一らんてい 道」の道標銘がみられる。頂部には、一猿が仰向け状に薄肉彫りされている。塔の頂部に猿があるのは、鎌倉の庚申塔の特徴の一つである。

 次いで大倉稲荷(雪の下四丁目四番)参道入口に並んでいる
   2 弘化2 自然石 「猿田彦大神」
   3 安政2 柱状型 「庚申塔」
   4 安政7 柱状型 「庚申塔」
   5 天保3 駒 型 日月「庚申塔」三猿
   6 慶応2 駒 型 日月「庚申塚」三猿
   7 年不明 柱状型 「庚申塔」をみる。2と3の間には、自然石に「妙見大菩薩」と刻まれた慶応二年塔(62×67)がみられる。

 続いて八雲神社(西御門一丁目一三番)むかい、境内に三基が並ぶ
   8 文化5 笠付型 日月・青面金剛・三猿            70×31×31
   9 延宝8 光背型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      112×47
   10 元禄5 光背型 日月・青面金剛・三猿            84×37を調べる。三基ともいずれも立像で、7は剣人六手、8は四手、9は合掌六手と青面金剛像に変化がある。8の上部には「ア」、9の上部には「キリーク」の種子が刻まれている。なお8は、鎌倉市有形民俗資料に指定されている。

 本殿裏には、天保三年の自然石「妙見大菩薩」塔がたっている。主銘の上に北斗七星がみられる。台石正面には、「菱屋米吉 大古久屋惣助 屋根屋四郎右衛門 山田屋源右衛門 紙屋利兵衛 大古久屋弥兵衛 大古久屋□□ 米屋庄兵衛 常陸屋伊□」と屋号のついた施主銘が刻まれている。

 鶴岡八幡宮境内の休憩所で昼食をすませてから、集合時間の一時一五分まで境内をまわる。拝殿脇の神輿倉に飾られている神輿に燕がついているのが珍しい。午後は、岩谷不動にむかい、ここの境内にある
   11 宝永4 柱状型 日月・青面金剛・三猿
   12 文政6 自然石 「猿田彦大神」
   13 文政8 駒 型 日月「青面金剛」三猿
   14 文化12 駒 型 日月「庚申塔」一猿
   15 寛政3 笠付型 日月・青面金剛・三猿から見学をはじめる。11と15は、合掌六手の立像である。なお11の塔には、宝永の年銘の他に「宝暦九己卯十一月日」が刻まれている。14と同じ「塔」を刻む塔が宝戒寺(小町三丁目五番)の境内にみられる。上部に日月、下部に一猿を陽刻するが、14が御幣をかついだ猿にたいして、宝戒寺のは三不型である。

 扇カ谷の寿福寺(臨済宗建長寺派)の門前には
   16 安政7 柱状型 「庚申塔」(道標銘)
   17 延宝8 板碑型 日月「バク 奉供養庚申」三猿
   18 天明6 板駒型 日月・青面金剛・三猿
   19 天保12 駒 型 日月「庚申□□」一猿
   20 寛文8 柱状型 「奉請庚申塔」が並んでいる。16は、右側面に「川上藤沢宿 川下八幡前」、左側面に「此方 長谷観世音菩薩 江嶋弁天」の道標銘がある。18は、合掌六手の立像である。19は、現在「庚申」の二字しか読めないが木村彦三郎氏の『道ばたの信仰』(昭和48年刊)によると「庚申供養」と判読している(41頁)。20は、頂部からみると笠部が失われいると思われる。この塔は鎌倉市有形民俗資料に指定されている。裏山の墓地にいき、高浜虚子や大仏次郎の墓、やぐらの中に安置されている実朝と政子の五輪塔を見学する。

 寿福寺から鎌倉駅の間にある巽神社の境内にある
   21 弘化2 自然石 「猿田彦大神」
によってから、最後は鶴岡八幡宮の二の鳥居近く、小町一丁目七番の日光カメラ店前の路傍にある
   22 年不明 自然石 「大国主神 猿田彦大神 少名比古那神」   138× 102
   23 天保11 自然石 「猿田彦大神」               151×62をみる。ここには、その二基と安政二年 の「道祖神」の文字塔(83×32×30)が並んでいる。ここで解散し、鎌倉駅に向かい、帰途につく。

 今回の「岐れ道から寿福寺へ」は「鎌倉の庚申塔」の第一回で、以下「浄明寺から鎌倉宮へ」「北鎌倉の庚申塔を訪ねて」「長谷寺・鎌倉大仏から極楽寺へ」「材木座・光明寺から安国論寺へ」「宝戒寺・祇園山をへて安養院・妙本寺へ」の五のコースをまわり、鎌倉旧市内の庚申塔を訪れる計画である。このように一つのテーマを追って例会が計画されるのはよい企画である。今後もこうした一連の企画が行われることを期待したい。
鎌倉の庚申塔を歩く2  庚申懇話会四月例会

 平成八年四月二十八日(日曜日)は庚申懇話会四月例会で、二月二十五日に続く「鎌倉の庚申塔」の第二回目である。午前一〇時、JR横須賀線北鎌倉駅に集合、前回と同様に小花波平六さんが案内に当たる。

 北鎌倉の駅に着いたのが九時少し前で、集合までに時間があるから駅の近くを歩く。まず車窓からみえた墓地にいく。入口には丸彫りの地蔵や六地蔵があり、墓地には定印や来迎印の阿弥陀、あるいは聖観音や如意輪などの墓標石仏がみられる。

 雲頂庵前から東へ円覚寺の境内に入り、以前、卅三観音をみた松嶺院を訪ねる。ここに初めて来たのは『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和五十年刊)の取材だったから、すでに二〇年以上過ぎたことになる。巡礼コースに従って境内を一巡する。墓地には、オウム事件で知られる坂本弁護士一家の墓があり、今朝の参拝者があげた線香の煙がたちのぼっている。他には、女優・田中絹代の墓がみられる。境内は、墓域が拡げられ、以前の光景とは異なり、かつてあった卅三観音も円覚寺方丈の周辺に移された。八時三〇分を廻ったので、集合場所の北鎌倉駅に戻る。

 今回の参加者は多く、三五人を越えた。スムーズに廻るにはこの程度の人数が限度である。第一の見学は、駅から近い山ノ内・八雲神社だが、道を間違えて遠回りする。境内には、岩を背にして一二基の石塔が並んでいる。

   1 寛政12 柱状型 「庚申供養塔」一猿            63×26×26
   2 年不明 光背型 「奉造立庚申供養為二世安楽也」三猿    70×38
   3 寛政9 柱状型 「庚申供養塔」              66×30×17
   4 年不明 光背型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     76×39
   5 享保12(笠付型)青面金剛・三猿              66×38
   6 嘉永2 柱状型 「青面金剛童子」             65×27×25
   7 万延1 自然石 「青面金剛」               147×67
   8 寛文5 光背型 「サ 奉供養庚申所願成就也」三猿     139×62
   9 安永2 柱状型 一猿「庚申供養塔」            65×28×21
   10 天保15 駒 型 「青面金剛尊」              66×27×20

3の台石には「よしのや久兵衛」など六人の名が刻まれている。4は剣人六手、5は合掌六手像の青面金剛立像である。8は、市内最古で最大級のもので、昭和四十年に市の有形民俗資料に指定されている。上部の種子は、「サ」のように思われるが、木村彦三郎さんの『道ばたの信仰・・鎌倉の庚申塔』(鎌倉市教育委員会 昭和四十八年刊)には「上辺に種子キリーク(阿弥陀如来)を刻み」(七二頁) とある。右端に明治三十四年の「明嶽大先尊」自然石塔が、8と9の間に文政十一年の「堅牢地祇」柱状型塔(89×31×31)がみられる。

 次いで山ノ内・円覚寺を訪ねる。見学の目的は、方丈の西側にある卅三観音である。以前、松嶺院の境内にあったもので、五年ほど前に現地に移されたらしい。見覚えのものもみられるが、みたことのない像もある。ここには、魚籃をもつものと大魚の上に立つものと二種の魚籃観音があるから、松嶺院の境内にあったものの他に別の卅三観音があるように思われる。「百観音」の表示板から考えても、全てを松嶺院の境内から移したとは思われない。

 松嶺院の卅三観音を撮った写真は、庚申懇話会編の『日本石仏事典』では、「三十三観音」の項で藤井慶治さんが五体並ぶ観音を撮ったもの(二九頁)を載せている。また日本石仏協会編の『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和六十一年刊)では、「三十三体観音」のそれぞれの項目の中で、蓮臥観音(一三八頁)・一葉観音(一四〇頁)能静観音(一四二頁)・阿耨観音(一四二頁)・阿麼提観音(一四三頁)・瑠璃観音(一四三頁)・一如観音(一四六頁)・灑水観音(一四七頁)の八体を写した私の写真を載せた。
 続いて見学する予定であった西官領屋敷の塔は、場所が特定できないないために、元禄六年の「奉供養庚申塚」板碑型塔・元禄八年の聖観音光背型塔・年不明の聖観音光背型塔(庚申塔でない可能性もある)の三基を省略する。

 明月院には寄らずに、左手に折れて進むと、山ノ内・明月谷の崖の前には
   11 万延1 自然石 「青面金剛」               70×50
   12 宝永7 板駒型 日月・青面金剛・三猿           73×39
   13 文化7 柱状型 日月「青面金剛塔」三猿          61×27×17
が並んでいる。12は、合掌六手立像。ここには、文化十一年の「ウーン 堅牢地神天」塔(59×25)と文政十二年の文字馬頭がある。ここで昼食にする。

 山ノ内・第六天社の石段右横には、次の三基の庚申塔が並んでいる。
   14 文政7 駒 型 「青面金剛」三猿             計測せず
   15 享保3 板駒型 日月・青面金剛・三猿           計測せず
   16 寛政12 駒 型 「青面金剛塔」              計測せず15の主尊は、合掌六手立像である。石段の上には
   17 安政7 自然石 「猿田彦大神」              計測せずがあり、石段の途中の左手に天保三年の「堅牢地神」塔がみられる。

 建長寺の境内、河村瑞軒の墓地の入口には
   18 年不明 柱状型 日月・青面金剛・三猿           108×41×24があり、参道や墓塔の周囲には
   19 年不明 自然石 「庚申塔」                31×37
   20 年不明 自然石 上欠「塔」                測せず
   21 年不明 自然石 「庚申塔」                56×33
   22 年不明 自然石 「金剛童」                72×38
   23 年不明 自然石 「猿田彦大□」              64×37
   24 年不明 自然石 「猿田彦大神」              56×33
   25 年不明 自然石 「青面金剛」               46×30
   26 年不明 自然石 「金剛王」                69×30
   27 年不明 駒 型 「青面金剛」               62×27×17
   28 年不明 自然石 「庚申塔」                計測せず
   29 年不明 自然石 「庚申塔」                計測せず
   30 年不明 自然石 「帝釈天王」               計測せず
   31 年不明 自然石 「庚申塔」                計測せず
などがみられる。建長寺で一応解散して、希望者は見学を続ける。

 山ノ内・円応寺のスロープから石段を登った所には
   参考 元禄4 柱状型 一猿「あらひ 子そだて 閻魔王」    計測せず
が立っている。頂部に浮彫りされた一猿は、頭が欠けているのが惜しまれる。腹ばいになった猿は、手に桃を持っている。右側面には「庚申供養講中」、左側面には「元禄四辛未年九月吉日 新居山圓應寺」と刻まれている。

 最後の見学は、雪の下の旧小袋坂の路傍にある庚申塔である。
   32 年不明 自然石 「ウーン 庚申塔」            計測せず
   33 寛政11 駒 型 「ウーン 庚申供養塔」一猿        計測せず
   34 万延1 柱状型 「猿田彦大神」              計測せず
   35 宝暦6 板駒型 日月・青面金剛・三猿           計測せず
   36 弘化3 自然石 「猿田彦大神」              計測せず
   37 天保14 駒 型 「青面金剛」               計測せず
32の塔は、右から左に横書きで「庚申塔」と刻まれている。35は合掌六手立像、37は埋まっていたのを掘り出した。五基の庚申塔に混じって、嘉永四年の「道祖神」塔、明治十三年の「大国主大神」自然石塔、文政二年の聖観音「百番供養塔」、天明八年の合掌地蔵「道供養塔」、「サ 奉讃諸普門品一千万遍」塔がある。道供養塔の左側面には巨福呂坂を掘り下げた銘文がみられる。

 途中の雪の下・志一稲荷脇にある年不明の「青面金剛」塔を無視して、小袋坂から鎌倉駅へ出て、帰路につく。
鎌倉の庚申塔を歩く3  庚申懇話会七月例会

 平成八年七月二十八日(日曜日)は、庚申懇話会七月例会である。午前一〇時、京浜急行金沢八景駅改札口に集合、鎌倉コース第三回目で藤井慶治さんが案内に当たる。

 集合時間よりも一時間半前に金沢八景駅に着いたので、駅前の地図をみて州崎町にむかう。途中で寄った横浜市金沢区瀬戸・瀬戸神社の境内で神像(座像)をみる。何の像か不明である。次いで訪ねたのが州崎町・州崎神社、ここにはめざすものがない。
隣の竜華寺には
   1 享保15 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    103×37×38
   2 弘化2 笠付型 日月「青面金剛童子」三猿         68×30×30
   3 天明6 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        81×33×25
   4 寛保2 光背型 青面金剛・三猿              94×42
   5 天保15 柱状型 日月「庚申塔」三猿            56×24×24
   6 天保13 駒 型 日月「青面金剛」三猿           58×26×16の六基の庚申塔がみられる。1と3は剣人六手像、4は合掌六手像の青面金剛である。

 同区町屋町の安立寺は日蓮宗の寺で、境内には浄行菩薩を祀っている。集合時間まで三〇分ほどなったので金沢八景駅に戻る。
 金沢八景駅には、案内の藤井慶治さんや芦田正次郎さんの顔もみえ、参加者も集まっている。今回は、暑さのせいか参加者が二十数人といつもより少ない。

 当初予定していたバスを止めて、金沢八景駅から朝比奈切通しに向けて歩く。猿田彦塔のある瀬戸・泥牛庵は省略して、上行寺東遺跡の説明を受けた後、上行寺を訪ねて鎌倉期と推定される宝篋印塔を見学する。
次いで、六浦三丁目の光伝寺に寄る。無縁墓地の最後列の隅に
   7 享保5 光背型 日月・弥陀来迎・二鶏・三猿       計測不能
がみられる。弥陀来迎主尊の庚申塔としては、後期の作である。

 県道原宿六浦線沿いにある鼻欠け地蔵の磨崖佛をみる。風化が激しく、標識が立っていなければ気付かない。朝比奈で県道から朝比奈切通しの道に入る。人家の前の切通し入口(横浜市金沢区朝比奈五四五)には
   8 延宝6 笠付型 日月・青面金剛・三猿          125×27×37
   9 安政4 板石型 「猿田彦大神」(横書)         102×59
   10 寛政6 駒 型 「庚申供養塔」三猿            61×26×18
   11 年不明 光背型 地蔵・三猿                99×36の4基の庚申塔が、天保5年の駒型「ウーン 道禄神」や文政5年の柱状型「坂普請供養塔」などと並んでいる。この石塔群前の路傍で、時間が少し早かったが昼食にする。

 午後は、朝比奈切通しを進むと、横浜市金沢区から鎌倉市となる。左手にヤクラがあって薬師如来の磨崖佛がみられる。通しを過ぎて十二所の路傍、三メートルほど高い所に
   12 万延1 柱状型 「青面金剛」               82×36
   13 弘化5 柱状型 「青面金剛」              100×39
   14 延宝4 光背型 日月・弥陀来迎・三猿          100×55が、元治二年の柱状型「馬頭観世音」と並んでいる。

 十二所の光触寺(時宗)の入口には
   参考 宝暦10 柱状型 「庚申講中」              計測せずがある。正面に「まんさいほうし みかわり本尊 頬焼阿弥陀」にあり、その下に「庚申講中」と刻まれている。境内には、塩なめ地蔵がみられる。

 二ツ橋児童公園に接して延命寺跡の墓地がり
   15 正徳2 光背型 地蔵「奉造立庚申供養」下部に「大木戸左衛門」など七人の氏名と並んで最後に明王院住職の「竜山」の名が刻まれている。二ツ橋を渡って明王院の入口に
   16 寛保1 柱状型 一猿「庚申供養」             計測せずがみられる。

「浄明寺」のバス停の近くにある華の橋脇に
   17 寛政12 柱状型 「庚申供養塔」(道標)          計測せずがある。右側面に「左一ばんすぎもと道」、左側面に「二ばんいわとの江はしより入」の道標銘が刻まれている。
報国寺には庚申塔があるが、境内の竹林にあって近寄って調べられないので省略する。

巡礼古道の入口(浄明寺二丁目六番)で解散し、有志は巡礼古道の坂道をのぼる。やがて道にそって「庚申塔」と刻まれた板石型自然石塔がみられる。その中には「塔」の異体字を用いたものがある。この道筋一六カ所には、年不明の六九基の庚申塔があるそうだが、その中の一基に
   18 年不明 板石型 猿田彦(線刻)             計測せずがみられる。思いがけない発見である。ウドン粉を使って線彫り像と銘文を白く浮きたたせる。
巡礼古道が切れると、浄明寺六丁目の団地にでる。別の坂道をくだって巡礼古道の入口にもどり、「浄明寺」のバス停から鎌倉駅行きのバスで帰途につく。
鎌倉の庚申塔を歩く4  庚申懇話会十月例会

 平成八年十月二十七日(日曜日)は、庚申懇話会十月例会である。午前九時四〇分、JR横須賀線鎌倉駅に集合、若松さんが「材木座・光明寺から安国論寺へ」のコースの案内に当たる。

 事故で横須賀線が遅れたので、午前一〇時まで集合時刻をずらす。駅前からバスで第一見学場所の光明寺に向かう。浄土宗の大本山の格式を備えた壮大な山門をくぐると、境内では骨董市が開かれている。その一軒の主人は、「青梅町消防組」の名入りのハンテンを羽織っている。ハンテンの背には丸に「青梅」を白抜きにしている。
この寺には、弘長二年の天蓋付の弥陀一尊種子板碑、宝暦五年の大きな名号塔、年不明の六地蔵石幢や地蔵浮き彫り板碑型塔などがみられる。裏山を経由して内藤家墓地を外から見学する。墓地内には、大型の宝篋印塔が林立し、大名家の権力をうかがわせる。

 次いで補陀洛寺(古義真言宗)、九品寺(浄土宗)、実相寺(日連宗)を訪ねた後、五所神社に向かう。ここの境内には、庚申塔が多い。まず木祠内に安置されている不動一尊種子を見学する。ここで昼食をとり、食後に境内に並ぶ
   1 嘉永5 駒 型 日月「猿田彦大神」三猿          65×27×20
   2 嘉永4 駒 型 日月「庚申供養塔」三猿          65×28×20
   3 天保14 駒 型 日月「庚申塔」三猿            62×28×20
   4 文政3 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿・二童子    79×28×20
   5 寛文12 光背型 日月「奉造立帝釋天王」二鶏・三猿     96×44
   6 天和4 笠付型 弥陀来迎・三猿(三面)        110×47×42
   7 貞享4 光背型 日月・弥陀来迎・三猿「奉造立庚申中間」  81×40
   8 年不明 板駒型 青面金剛・三猿              89×43
   9 文化9 柱状型 「庚申供養塔」              82×32×28
   10 寛政4 板駒型 日月・青面金剛・三猿           67×38
   11 寛政12 駒 型 日月「庚申供養塔」            59×24×15
   12 享和3 駒 型 日月「庚申供養塔」            59×24×15
   13 享保15 駒 型 青面金剛・一猿              91×37×23
   14 文化2 駒 型 日月「庚申供養塔」一猿          62×26×17
   15 明治15 自然石 「庚申塔」                54×29
   16 文政2 駒 型 日月「庚申供養塔」一猿          71×29×21
   17 文政2 駒 型 日月「庚申供養塔」一猿          71×28×19の庚申塔をみる。これまでにもここにきているが、15の塔には気付かなかった。光線の具合がよいので摩利支天丸彫り像(大正二年)にカメラを向ける。

 来迎寺(時宗)に寄ってから、次に訪れる長勝寺手前の路傍には
   18 元禄16 笠付型 日月「奉造立庚申供養」二猿・蓮華     89×29×25がある。両側面に刻まれた蓮華の形が珍しい。鎌倉に拝みの向かい合わせの二猿が気になったが、藤井慶治さんの話では他所からここに移してきたものという。

 四天王に囲まれた日連上人の辻説法像が本堂前にある長勝寺には、「日連上人」を始めとして「土公神」や「六龍金神」「石井稲荷大明神」などの木製の板塔婆がみられる。この寺の次に訪れた名越大黒堂の境内には
   19 年不明 笠付型 青面金剛・三猿(風化)          87×34×19
   20 文化5 自然石 「猿田彦大神 北斗尊星 天鈿女尊」    117×64
   21 弘化5 自然石 「青面金剛」               66×48
   22 年不明 光背型 青面金剛・一猿              65×30がある。木祠には、大黒天丸彫り像が安置されている。

次の安国論寺(日連宗)では、釈迦説法像や佛足石をみてから松葉ケ谷の法難を逃れた白猿丸彫り像を安置する南面窟をまわる。最後は・妙法寺(日連宗)で、境内から裏山にある大塔宮御墓などを巡る。
 妙法寺から鎌倉駅まで歩き、帰途につく。
鎌倉の庚申塔を歩く5  庚申懇話会十一月例会

 平成八年十一月二十四日(日曜日)は、庚申懇話会十一月例会である。午前一〇時JR横須賀線鎌倉駅に集合、今回は私が「宝戒寺・祇園山をへて安養院・妙本寺へ」のコースの案内に当たる。

 予定の午前一〇時を過ぎて一電車待ってから、鎌倉駅前を出発して第一見学場所の大巧寺(日連宗
 小町一−九)を訪ねる。駅前では通行の邪魔になるので、ここで小花波平六さんが挨拶され、私が今日の案内することを紹介される。この寺の本尊は産女霊神、別名の「おんめさま」で知られる。本堂の挌天井を拝見する。境内には、取り立てて見るべき石佛はない。
 大巧寺の境内を通り抜けて小町大路を雪ノ下方向に向かう。蛭子神社(小町二−二三)境内を利用して、日連上人辻説法跡や鎌倉彫資料館(小町二−二一)、妙隆寺(日蓮宗 小町二−一八)の説明をする。日連上人辻説法跡に寄ってから、第二見学場所の宝戒寺(天台宗 小町三ー五)に向かう。

 宝戒寺では、先ず境内にある次の庚申塔四基を見学する。
   1 文政11 柱状型 「庚申 地神 供養塔」          63×27×21
   2 文化8 駒 型 日月「庚申塔」一猿(不言猿)       58×26×17
   3 文化8 駒 型 日月「庚申塔」一猿(不見猿)       59×26×17
   4 文化8 駒 型 日月「庚申塔」一猿(不聞猿)       56×27×17
庚申と地神が同一の塔に刻まれている例は少なく、多摩地方では町田や多摩の両市にみられる。多摩市東寺方五六一番地の杉田宅にある慶応三年塔の写真を示して、庚申と地神を併記する塔の説明をする。2から4は、造立の年月も同じで、三基一組で三猿を構成している。この寺の大聖歓喜天堂に祀られている歓喜天は秘佛で、この堂には聖徳太子の二歳像(稚児太子)が安置されている。通常みられる聖徳太子は、柄香炉をとる十六歳像(孝養像)である。真宗地帯には、稚児太子の石像がみられる。

 宝戒寺の横を入って、予定コースにはない紅葉山やぐら(小町三ー九)による。次いで川に落とした一〇文を探すのに五〇文の松明を買ったという青砥藤綱の逸話の旧跡だという東勝寺橋(小町三−四)に出る。この橋のたもとには、その故事を記す鎌倉青年団の石碑が建っている。

 東勝寺跡を横目に、北条高時腹切りやぐらにいく。やぐらは、高時以下の北条一門の墓と伝えられ中央には石塔が安置されている。ここから坂道をのぼり、祇園山ハイキングコースを八雲神社にむかう。展望台からは、鎌倉の街やその先に広がる由比ケ浜の海岸が一望できる。ここで昼食をとる。

 午後は道を下って八雲神社(大町一−一一)に出る。参道には
   5 安政7 自然石 「猿田彦大神」              134×57
   6 文政6 自然石 「猿田毘古大神」             135×83
   7 寛文10 笠付型 弥陀来迎・三猿「奉造立山王二十一社」   113×40×39の三基がみられる。6の「毘」は、「毘」の異体字である。7は、鎌倉市の有形文化財に指定されている。

 次に訪れた別願寺(時宗 大町三−一一)には、足利利持の供養塔といわれる永享十一年の石造の宝塔がみらる。三メートルを越す大型で、市指定の文化財である。
 その先の安養院(大町三−一)には、本堂の裏手に国の重要文化財に指定されている宝篋印塔(徳治三年)がある。形式的には、関東形式である。基礎・塔身・笠部・相輪の各部で関西形式と違いがみられる。塔の笠部や塔身、基礎などに破損がみられるのは、関東大震災の時に受けた被害といわれる。その近くには、政子の墓と伝えられる宝篋印塔がみられる。また
   8 元禄10 駒 型 青面金剛・三猿              104×42×26が建っている。本日唯一の青面金剛で、合掌六手の立像である。境内には、佛足石や日限地蔵とか子安地蔵と呼ばれる地蔵がみられる。

 道を戻り、大町四つ角を左折して本興寺(日蓮宗 大町二−五)を訪ねる。墓地の入口には、次の庚申塔がある。
   9 年不明 自然石 「庚申塔」                52×52これは板石型の塔で、主銘の「庚申塔」以外の銘文はない。七月例会で藤井慶治さんの案内でみた、浄明寺の巡礼古道にある庚申塔に石質や形態が似ている。
 本興寺前にあるのが辻の薬師堂(大町二−四)、裏をJR横須賀線が通っている。十月に下見した時に、偶然にも世話人がお堂にきていて、堂内にある薬師三尊と十二神将の二躰の仏像を拝見した。その時に写した写真を使って説明する。

 大町四つ角まで戻り、教恩寺(大町一−四 時宗)に行く。ここでは、墓地にある定印と来迎印の阿弥陀如来の浮彫り像をみる。次に「ぼたもち寺」として知られる常栄寺(日蓮宗 大町一−一二)訪ねる。桟敷の尼が龍ノ口にいく日連上人にぼたもちを差しだした故事によって「ぼたもち寺」の名がある。

 常栄寺から妙本寺(日蓮宗 大町一−一五)に向かう。まず門前にある
   10 文政7 自然石 「帝釋天王」               72×69をみてから、境内にはいる。今は幼稚園になっている八角堂を右手にみて、さらに奥にすすみ、祖師堂や比企一族の墓、大型の五輪塔などをめぐる。

 最後に本覚寺(小町一−一二 日蓮宗)を訪ねる。相模の刀匠・五郎入道正宗供養の宝篋印塔や正宗と二代目貞宗の墓をまわる。
 本覚寺で解散、鎌倉駅に直行して帰途につく。
鎌倉の庚申塔を歩く6  庚申懇話会十二月例会

 平成八年十二月十五日(日曜日)は、今年最後の庚申懇話会十二月例会である。JR横須賀線鎌倉駅西口(江の電口)に午前九時四〇分集合、小花波平六さんが案内に当たり、「長谷寺・大仏から極楽寺へ」のコースをあるく。今回は参加者が多く、四〇名を越す。 受付の藤井慶治さんから堀孝彦教授の「鎌倉の庚申塔(1991〜95年調査記録・・広瀬鎮・木村彦三郎両氏を偲んで・・」(『名古屋学院大学論集(人文・自然科学篇)』第三二巻第一号抜刷 平成七年刊 原文は横書き)をいただく。この抜刷にのった塔資料は、これまでに配られたレジメに引用されている。

 小花波さんが鎌倉西口駅前公園にあるラングドン・ウォーナー博士(一八八一〜一九五八)の顕彰碑について説明した後、鎌倉駅から江の電で由比ケ浜駅にいく。
最初の見学場所は、長谷一丁目の主馬盛久頚座(盛久の首塚)である。ここにある石塔群の中に、次の三基の庚申塔がある。
   1 文化14 自然石 「庚申塚」                95×49
   2 安永8 駒 型 日月・青面金剛・三猿           67×32×28
   3 文化6 駒 型 日月「庚申供養塔」            58×24×152の主尊は合掌六手(像高三七センチ 猿一二センチ)で、年銘は「安永亥」である。安永八年が己亥年だから、「安永亥」は八年を示す。

 次に訪れたのが甘縄神明社(長谷一丁目)、鳥居の手前には
   参1 宝永6 柱状型 「甘縄神明宮」「庚申講中」       147×32×21がある。面の下部に「新宿町 庚申講中」が刻まれ、庚申講で建てた塔である。境内に
   4 宝暦10(笠付型)日月・青面金剛・三猿           69×29×17がみられる。主尊は合掌六手立像(像高三九センチ)、猿の像高が一四センチである。

 先に長谷寺にいく予定であったが、昼食時間の関係もあって長谷四丁目の鎌倉大仏で知られる高徳院にむかう。山門前には石仏が並んでおり、その中に
   5 寛政12 駒 型 日月「庚申供養塔」            66×23×16
   6 元禄13 板駒型 日月・青面金剛・三猿           85×39
   7 寛政12 駒 型 「庚申供養塔」              61×23×16の三基がある。6の主尊は、合掌六手立像(像高三七センチ 猿一二センチ)である。藤井さんの指摘で7の「塔」の字をよくみると、旁の草冠が「竹」になっている。なお、ここにある四方仏笠付型塔の写真は、富岡畦草氏が撮った『石のかまくら』(東京中日新聞出版局 昭和四十年刊)一二五頁に載っている。
 鎌倉大仏の背後にあるトイレの近くには、角柱の上に置かれた丸彫りの大黒天がみられる。この辺りにはリスがおり、手の上の餌を上手に食べる。三匹が確認できた。

 次いで光則寺の入口にある題目塔の前(長谷三丁目二九番)で、光則寺や石塔のなどの説明がある。
続く長谷寺(長谷三丁目)では、まず弁天像をみてから、弁天窟にはいる。大きな窟内には、窟壁に浮彫りされた弁天と十六童子がみられる。小さな窟内には、弁天や如意輪などの石仏があり、双体道祖神もあった。石段をのぼった所にある池に石仏が置かれているが、その中に奪衣婆と懸衣翁の丸彫りがみられる。鐘楼の近くには
   8 弘化5 自然石 「青面金剛神」              136×76がある。上部が欠けている。
 宝物館には、懸仏や鰐口・板碑・文書などの文化財が多数あるけれども、一番興味があったのは三猿の絵馬である。向かって右から塞目・塞耳・塞口の順で、塞目と塞耳の猿は両手、塞口の猿は片手で塞いでいる。表示をみると正保三年とある。おそらく絵馬の裏面に記されていると思うが、正保三年の三猿には疑問が生じる。もう少し年代がくだると思う。なお、弘長二年の弥陀一尊種子板碑と徳治三年の宝篋印塔を浮彫りする板碑(共に市指定文化財)の写真は、先にあげた『石のかまくら』一二四頁にのっている。
 長谷寺の見晴台で昼食をとる。食後、藤井さんから京急堀ノ内駅裏のトンネン上にある山王塔に奉納された小塔婆(幅四センチ、長さ三三センチ)のコピー二種四枚をいただいた。一つは「南無妙法蓮華経 山王権現御法来 志主安伝奈津子」、他は「南無妙法蓮華経 三春山勧請 山王権現為祈法東荘岩志 団地壌成成就 志主安伝奈津子」である。
 境内にある現代作の佛足石や釈迦如来丸彫り座像(台石には佛伝図を浮彫りする)などの写真を撮る。

午後一時に集合して坂の下にある御霊神社にむかう。この神社は、祭神が鎌倉権五郎景政であるところから「権五郎さん」と親しまれている。境内には、次の一二基の庚申塔が並んでいる。右から
   9 天保11 自然石 「青面金剛」               76×26
   10 年不明 自然石 「庚申塔」                77×46
   11 安永4 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        62×29×18
   12 安永4 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        53×26×16
   13 文政13 自然石 「青面金剛」               80×44
   14 文政8 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     65×28×22
   15 天保9 自然石 「庚申供養塔」              87×37
   16 年不明 自然石 「ア 庚申」               72×52
   17 享保8 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     96×45
   18 年不明 自然石 「庚申塔」                109×65
   19 正徳4 光背型 日月・青面金剛・三猿           81×39
   20 延宝1 笠付型 日月・青面金剛・三猿           104×36×34の順である。
 10の「塔」は、土偏が旁の下にある異体字「塔」が彫られている。11の主尊は合掌六手像(像高四三センチ 猿一〇センチ)で、12は合掌六手像(像高三六センチ 猿八センチ)が主尊であるが、風化がはげしく、像がとろけた状態である。
 14は市指定文化財で、合掌六手(像高三八センチ)像が主尊、台石に浮彫りされた三猿(像高一六センチ)が御幣や扇子、拍子木をもつ末期のものである。拍子木をもつ猿は、鉢巻きをしている。これに似た三猿の写真が、松村雄介さんの『相模の石仏』二〇七頁にのっている。藤沢市本町一丁目常光院裏の文政六年塔で、年代的にも地理的にも近いので同じ石工の作かもしれない。先日、栃木市泉町・雲龍寺でみた台石の三猿(三匹が御幣をもち、その二匹が日の丸烏帽子をかぶる)を思い出す。
 17の主尊は、合掌六手像(像高四九センチ 猿九センチ)である。20も14と同じく市指定文化財で、合掌六手立像(像高四四センチ 猿一八センチ)が主尊、三猿は本塔の左右の両側面と裏面の三面に配されて雌雄が判別できる。

 御霊神社から通りにでたところにある力餅家の角には
   参2 寛政3 柱状型 「五霊社鎌倉権五郎景政」「庚申講中」   153×30×27が建ってがある。右側面の下部に「庚申講中」と刻まれているから、参1の宝永六年と同様に庚申講中の造立である。
 次に訪ねた星月夜ノ井の近く、虚空蔵堂(坂の下)の石段入口には
   参3 元禄10 柱状型 一猿「本尊虚空蔵菩薩像 井」「庚講中」  153×34×18がみられる。参1や参2と同じく庚申講中の造立である。前の二基の「庚申講中」と異なり、この塔には「當村庚講中」とある。

 成就院(極楽寺二丁目)を通り過ぎ、極楽寺坂切通の途中右手に石段(極楽寺一丁目)があって、階段の途中に次の三基が並んでいる。
   21 文化11 柱状型 「庚申供養塔」              60×26×17
   22 年不明 自然石 「庚申供養塔」              66×35
   23 文化9 笠付型 日月・青面金剛・三猿(道標銘)      72×28×1923の主尊は、これまで廻った青面金剛と同じ合掌六手立像(像高三六センチ 猿一二センチ)である。右側面には、道標銘の「左江のしま道」が刻まれている。

 最後に極楽寺(極楽寺三丁目)を訪れる。境内には
   24 寛文11 光背型 弥陀来迎・三猿              122×52がみられる。この塔も市指定文化財で、主尊の来迎印を結ぶ阿弥陀立像(像高四三センチ)に比べて正面向きの三猿(像高二一センチ)が大きい。阿弥陀像の右には「奉供養 敬白 三十一人」、左には「維寛文十一□□□月□□」の銘がある。三猿は、右から牡・牝・牡と雌雄がはっきりしている。
 この寺の奥の院には、忍性塔と呼ばれる五輪塔(重要文化財指定)や北条重時の墓と伝える宝篋印塔がある。小花波さんと藤井さんの二人がお寺と忍性塔の拝観を交渉したが、例外は認められませんので、四月八日の公開の日にお出でください、と断られた。富岡氏の『石のかまくら』七八〜九頁にのっている写真などで我慢するしかない。

 ここで解散し、芦田正次郎さんと藤井さんと共に近くにある上杉憲方の墓(極楽寺一丁目 『石のかまくら』七二頁の写真参照)により、江の電の極楽寺駅から鎌倉駅に戻って帰途につく。
鎌倉の庚申塔を歩く7  庚申懇話会正月例会

 庚申懇話会一月例会は、平成九年一月五日(日曜日)に行われる。午前九時三〇分、JR横須賀線の北鎌倉駅に集合、芦田正次郎さんが案内に当たる。正月例会は、芦田さんの担当で七福神巡りが行われるのが恒例である。今年は、昨年から連続して鎌倉市内を廻っている関係もあって、鎌倉江の島七福神のコースを歩く。来年は、平成に作られた文京区内の七福神コースを予定しているという。
 例会案内をみていなくても九時三〇分の集合時間が頭にあったが、集合場所を鎌倉駅と勘違いしていた。東戸塚駅を過ぎたところで、そういえば芦田さんが前回の会で集合時間がいつもより早いことと、北鎌倉駅の臨時改札(円覚寺)口だと強調していたことを思い出した。うっかりして危うく鎌倉駅までいってしまうところであった。

 北鎌倉駅についたのが九時一五分、すでに二〇人を越す人たちが集まっていた。芦田さんから今日の案内プリントをいただく。今回は、奥さん同伴である。例会で藤井慶治さんに会うと、毎回いろいろな資料をプレゼントされる。今度の資料の中には、静岡県富士市吉原・称念寺や藤沢市・龍口寺のお札のコピーと横須賀市三春町の庚申塔に奉納された木製の山王銘小塔婆があって参考になる。遠藤陽之助さんからも五所神社・不動種子板碑のパノラマ写真を始め、いろいろな資料をいただく。

 小花波平六さんは、今日が板橋区の名刺交換会で欠席である。あらかじめ若松慶治さんが作った鎌倉の新しい六コースを基にして、出発前の僅かな時間を利用して芦田さん・藤井さん・若松さんと私の四人で今年の予定を相談する。各コースの担当は、小花波さんの意向を汲み、二月芦田(北鎌倉駅集合)・三月石川(大船駅集合)・四月小花波(大船駅集合)・五月藤井(大船駅集合)・六月若松(大船駅集合)・七月芦田(藤沢駅集合)とアイウエお順で決める。原則として、各月の第四日曜日を宛てる。

 今回はいつもと違って集合時間が三〇分早かったので、遅刻する人を考えて九時四五分まで待って出発する。
最初は、布袋尊を祀る浄智寺(山ノ内 臨済宗円覚寺派)を訪ねる。この寺は鎌倉五山の一つで、昭和四十三年三月に寺域が国の史跡に指定されている。境内のヤグラに宇賀神の石像を祀った石祠がみられ、墓地には小さな双体道祖神がある。洞窟に安置された布袋尊の石像は、等身大の丸彫りである。
 この寺で七福神の絵が印刷された色紙(一〇〇〇円)を買い求め、第一の朱印(三〇〇円)をいただく。昨日廻った多摩青梅七福神の色紙が墨一色に比べて、鎌倉江の島七福神のものはカラフルである。鎌倉江の島七福神の色紙はもう一種類、宝舟を中央に描く別のもの(五〇〇円)がみられる。

 藤井さんからいただいた資料の一つに「JR小さな旅」のパンフレットがある。これには、瑞泉寺(黄梅)〜鶴岡八幡宮(寒牡丹)〜浄智寺(梅・椿)〜東慶寺(ロウ梅)〜円覚寺(ハクモクレン)を訪ねる「花の名刹を訪ねる散歩道」のコースが記されている。

 次の弁財天を祀る鶴岡八幡宮境内にある旗上弁財天(雪ノ下二丁目)にむかう途中、山の内・第六天社の庚申塔を下から横目にみて過ぎる。八幡宮の境内では、午前一〇時から除魔神事が行われている。前記の「JR小さな旅」には、「『鬼』と書かれた大きな的に向かって、70〜80mの距離から矢を放ち魔を払います」と記されている。年に一度のチャンスを逃すのは惜しいが、団体行動では止もうえない。八幡宮の境内や参道の賑わいに比べて、旗上弁財天は人影も少なく静かである。

 三番目は、寿老人の妙隆寺(小町二丁目 日蓮宗)である。十一月例会では、寄らずに説明だけで済ませた。本堂の前には、鹿を伴う寿老人の石像がある。境内の木祠には「鍋かぶり日親」で知られる日親上人の石像が安置されている。墓地には、モリエールの「守銭奴」を演じた時のレリーフが嵌め込まれた新劇の丸山定夫の記念碑がある。

 十一月例会でも廻った四番目の本覚寺(小町一丁目 日蓮宗)は、夷神を祀る。山門を入った右手に昭和五十六年に再建された夷堂がある。堂内の夷神は、通常みる釣り竿を片手に鯛を抱くものと異なり、合掌した座像を安置する。境内に設けられたテントで、升酒と竹筒に入った甘酒があるが、升酒をいただく。升の木の香りが嬉しい。
 安養院への途中、これも十一月例会でも寄った八雲神社を訪ね、五行身抜を刻む冨士講碑をみる。板石状の自然石碑は、上部が欠けているのが惜しまれる。五行身抜については、朝配られたプリントの中に平野榮次さんの詳し解説が載っている。この碑にも冨士講独特の文字が刻まれている。

 次の安養院(大町三丁目 浄土宗)も十一月例会で案内したところで、毘沙門天を祀っている。芦田さんに誘われて、「江戸 久右衛門町講中」の施主銘のある本堂裏の庚申塔(元禄七年)をみる。塔正面の下部には、大木屋、仙台屋、三河屋などの屋号のついた名が列記されている。

 昼食は、大黒天を安置する長谷観音(長谷三丁目 浄土宗)でとる。坂東第四番の札所で、九メートルを越す楠木の一木造りの十一面観音を本尊とする海光院慈照院長谷寺である。午後一時を過ぎていたし、人も少なかったので、前回は混んでいて座れなっかた海を見下ろす展望台の座席に腰をおろす。
 五〇分の休憩の間に昼食を済ませてから先ず朱印、その後で十二月例会の時の写真が失敗していたので、弁天窟にある弁天十五童子の石像を写す。弁天十六童子は、十五童子に善財童子が加わるが、芦田さんの話によると、この洞窟では善財童子に当てて大黒天を入れているという。洞窟の入口には大黒天の石像がある。前回はコンパクト・カメラだったので、今回はカメラを一眼レフに変えて使う。これで集合まで一〇分ほどしか時間がないので、慌てて境内を廻って水子塚の碑や布袋石像などを撮る。

 午後は、鎌倉にある七福神としては最後の御霊神社(坂の下三丁目)にいく。先ず朱印を受けてから、庚申塔群では文政八年塔台石の三猿を写す。この三猿は狩衣をきたもので、それぞれが御幣や扇子、拍子木をもつ姿態が面白い。昨日廻った青梅・宗建寺にある文化九年塔台石に浮彫りされた烏帽子・狩衣の三猿を思い出す。庚申塔群の脇には、小さな布袋と寿老人に石像がある。
 御霊神社から長谷駅に出、江の電を利用して江ノ島にいく。江ノ島で最初に訪れた児玉神社では、昭和五年に台湾の人たちが寄進した狛犬が珍しい。狛犬の口の中の玉が自由に動くし、二匹それぞれに性器を刻んでいる。台石の彫刻も精緻である。この狛犬は、落語家・三遊亭円丈師匠の著書『THE狛犬コレクション』(立風書房 平成七年刊)をみると、二八頁に「渡来系紐獅子の大傑作」として紹介されている。江の島弁天橋を渡った頃に雨がポツと降ってすぐ止んだが、時間の関係もあってこの神社で流れ解散する。

 解散後、有志だけで島内の庚申塔を廻る。まず江ノ島市民の家にある
  1 安政3 柱状型 日月「青面金剛」三猿          計測なしをみる。塔正面の上部にある日月は陰刻、三猿は台石の正面に浮彫りされている。次いで奥津宮手前の道端にある有名な群猿塔を訪ねる。
   2 年不明 柱状型 日月・三六猿              計測なし山角型塔の四面には、三不型の猿を含めていろいろな姿態をした三六匹の猿が浮彫りされている。ここから折り返して、辺津宮の入口にある
   3 天保3 板石型 「猿田彦大神」             計測なしを調べる。年銘は塔になく、台石の右側面に刻まれている。塔と台石と隙間をセメントで埋められているが、埋め跡の大きさからみると違う台石を利用したものかもしれない。辺津宮では、七福神の色紙の余白に旗上弁財天に次いで、二つ目の弁財天の朱印を受ける。杉山検校が石につまづいて拾った松葉入りの竹筒がヒントで管鍼術を考案したゆかりの福石の場所には
   4 寛政4 柱状型 「福石」「庚申供養塔」         計測なしが建っている。塔の正面に「福石」、左側面に「庚申供養塔」、右側面に北村屋忠左衛門など八名の施主銘、背面に年銘が刻まれている。最後は、岩本楼の脇を入って右手に登った稲荷社の境内にある
   5 年不明 柱状型 日月・青面金剛・三猿          計測なしをみる。青面金剛は、合掌六手の立像である。これで調査を終わる。

 小田急の江ノ島駅にむかう途中、弁天橋の中ほどから雨が降り出した。ともかく見学中は雨もなく、僅かな距離で雨にあっただけで済んだのは幸運だった。いつも鎌倉の帰りはJR横須賀線〜JR横浜線〜JR中央線(またはJR八高線)〜JR青梅線を利用するのと違って、今回は小田急〜JR南武線〜JR青梅線経由で帰途につく。
大船コース下見

 平成九年二月十二日(水曜日)は、庚申懇話会の三月例会を案内しなければならいのでコースの下見に出掛ける。若松慶治さんが見学コースを企画されて、レジメもすでに地図入りのコピー原稿をいただいている。

 若松さんが作られたコースというのは、モノレール富士見町駅を起点にして、1山崎打越〜2神明神社〜3西ノ台稲荷神社〜4光照寺〜5山中稲荷神社〜6東慶寺〜7浄智寺〜8烏森稲荷神社を廻ってJR北鎌倉駅に出る。これを元にして下見をする。
 拝島駅でJR八高線が出た後で待たされたのたたって、八王子でもJR横浜線が擦れ違いに発車した。思ったよりは早くJR根岸線経由の大船直通の電車がきたのでので、多少時間がかかったが大船についた。湘南モノレールに乗るのは始めてで、次が富士見町駅なので数分である。
 車中で堀孝彦教授の「鎌倉の庚申塔」をみると、八反田・山崎天神北側(4基)が富士見町駅から近そうなので、場合によっては、例会当日にコースに加えてもよいと考えた。駅を降りて先ずこれを探すことにする。

 モノレールに沿って進むが石仏は見当たらない。左折して進むと文化八年の江ノ島の道標がみられる。ここで引き返してからモノレールの北側にある道を進むと、左手に天神山がある。その山頂に北野神社があるので、長い石段を登って社殿の前にでる。境内には、文元十二年の宝篋印塔がみられる。鎌倉市の有形文化財に指定されている。普段見ている宝篋印塔は、塔身の四面に金剛界四佛の種子が刻まれている。ここのは、種子ではなく、如来座像が浮き彫りされている。

 神社から駅に戻る途中で、堀教授の抜刷にあった八反田の庚申塔に出会った。
  1 宝暦6 断 碑 青面金剛・一鬼・二鶏・三猿        48×33
   2 年不明 板駒型 日月・青面金剛・三猿           65×30
   3 文政5 駒 型 日月「庚申塚」三猿            67×30×23
   4 大正9 柱状型 「庚申塔」                69×30×28の四基が路傍の柵に中に並んでいる。この場所は、道幅が狭くて車の往来が激しい。
 1の上部か欠失しており、何故か五輪塔の火輪が置かれている。下方手にもつ弓と矢がわかるが、胸前の二手と上方二手の持物はわからない。主尊の像高は欠けた頭部などを含まずに22センチ、猿は高さ14センチである。
 2は像の右に年銘があるが、「十月吉□」としか読めない。堀教授の調査では「享保〇〇十月吉日」とある。像の左には「奉納庚申供養講中」とあり、下部には八人の施主銘が刻まれている。青面金剛は合掌六手で像高が34センチ、猿の高さ9センチである。
 3の日月・瑞雲は線彫りで、下部の三猿(像高11センチ)は浮彫りである。右側面に「文政五壬午十一月十五日」、左側面に「山崎/講中」、台石正面に「西山米エ右門」など一二人の名前がみられる。 4は、山角型塔で右側面の年銘に「大正九庚申年十月」とあるように庚申年の造立である。左側面には「深澤村山崎」、台石正面に横書きで「講中」と刻まれている。

 大船病院の先で道を間違えて高台にある団地に入る。お陰で台四丁目一七番の場所から正面に大船観音がよく見えた。思いがけない光景である。神明神社についたのが正午少し前なので、ここで昼食にする。改めて若松さんの案内図をみると、山崎打越の塔を見逃しているのに気付いた。
 神明社では、横から境内に入ったので、石段をおりて
  5 万延1 柱状型 日月「庚申塔」三猿            78×30×20を調べる。左側面に「左 江之嶋道」の道標銘、右側面に「万延元庚申十一月吉日」の庚申年の年銘が刻まれている。猿の像高は13センチ。

 神明神社の後は山崎打越の塔を探す。レジメに「JR山崎アパートと山崎小学校との間に取り残されたような小さい丘がある」とあるから、山崎小学校の周りを探した。小学校の隣の住宅がJRのアパートと思っていたのが誤りで、アパートはさらに先にある。ようやくJR東日本の社員住宅の裏手の右側に
  6 元禄13 板駒型 青面金剛・三猿              96×37
   7 元禄8 光背型 「キリーク」日月・二鶏・三猿       86×38
   8 延宝8 光背型 日月「奉納庚申塔」三猿          92×39
   9 大正9 駒 型 日月「庚申供養塔」            92×30×18を見つけた。切通しに際に残った部分に四基が並んでいる。木村さんが調査された当時はもう一基、青面金剛と三猿の破損塔がみられたようであるが、現在はない。
 6は、頂部に「キリーク」の種子を刻み、合掌六手の青面金剛(像高45センチ 猿18センチ)を主尊とする。塔正面の左右には「元禄十三庚辰」「十二月二日」の造立年銘、下部には「小磯八左衛門」など五人の施主銘がある。
 7も6と同様に頂部には「キリーク」の種子がみられ、中央は空白で銘文がない。右端に「奉納庚申」、左端に「元禄八乙亥年霜月吉日」、下部に「小磯与三衛門」など八人の施主銘が刻まれている。三猿(像高14センチ)は、6と同形の中央が正面を向き、左右の猿が横向きで内側の手を中央に差し延べている。
 8はこの四基の中で最も古いもので、日月の下に「キリーク サ サク」の弥陀三尊種子、続いて「奉納庚申塔」の主銘、その左右に庚申年造立を示す「延宝八年 小磯□□□」と「庚申正月廾九日
 小磯文左衛門」、三猿(像高13センチ)の下部には「□□久左衛門」など一四人の施主銘がみられる。
 9は、正面に枠をとって上部に陰刻の日月・瑞雲、中央に主銘の「庚申供養塔」、右側面の「大正九年吉辰 大谷」、左側面に「関根茂七」などの二〇人の施主銘が五人ずつ四段に刻まれている。

 神明神社まで戻り、次の西ノ台にある稲荷神社を目指す。境内には
 10 享保20 板駒型 日月・青面金剛・三猿            90×45がみられる。合掌六手の青面金剛(像高47センチ)の下にある浮彫りの三猿(高さ13センチ)が山形に配列されている。

 光照寺は、稲荷神社から近い。山門の右脇には子育て地蔵がの祠があり、背後に三面馬頭座像がみられる。この馬頭観音は、惜しいことに磨滅が激しく、注意しないとわからない。左脇にはシワブキ様の石祠があって、祠内に宝篋印塔の相輪が祀られている。現在の新しく作られた山門に、旧来の門にあった十字を隠した赤塗りの紋をつけている。このために「クルス門」と呼ばれている。
 寺の境内には、市指定の正中二年に造立された安山岩製板碑がみられる。その他に墓地にある十一面観音の墓標石佛は彫りが美しい。墓地やその周辺には、境内から出土した五輪塔や宝篋印塔が数多くみられる。

 寺から下って裏道に出て山中稲荷神社を探すが、どうしてもわからない。諦めて東慶寺を訪ねる。テレビなどでも出てくるが、臨済宗円覚寺派の寺で「駆込み寺」として有名である。本尊は木造釈迦如来座像で、ライトアップされて本堂に安置されている。
 この寺は、西田幾多郎・鈴木大拙・和辻哲郎・安部能成・岩波茂雄・前田青邨など、有名人の墓地があることでも知られている。境内や墓地には、石佛がみられる。大振りな地蔵、五輪塔をかたどった地蔵塔、どっしりとした如来座像など楽しめる。

 再度、山中稲荷神社に挑戦しようと、北鎌倉の駅前に交番があるので尋ねたら、以外にその所在地が判明した。ここには
 11 安政4 駒 型 「青面金剛」               66×30×19
   12 宝永7(笠付型)青面金剛・三猿              67×28×24の二基がみられる。11は、右側面に「安政四年丁巳正月吉日」がある。12は、合掌六手の青面金剛(像高32センチ)で、下部にある三猿(像高5センチ)が意外に小さい。笠部がない。

 午後三時を廻って疲れたので、浄智寺は正月例会に訪れているので省略する。コースの最後にある烏森稲荷神社は、堀教授が大六天社参道から「さらに北鎌倉駅の方へ歩いて、横須賀線踏切手前の民家の間を左折して細い道を行くと、烏森いなりの祠があり、その手前左側に2基」として
   13 天保2 笠付型 「青面金剛」               65×25
   14 文化9 笠付型 「青面金剛童子」三猿           58×27をあげている。
 北鎌倉駅で午後三時二二分発の千葉行き電車に乗り、帰途につく。
鎌倉の庚申塔を歩く8  庚申懇話会二月例会

 平成九年二月二十三日(日曜日)は、庚申懇話会二月例会である。午前九時四〇分、JR横須賀線北鎌倉駅に集合、芦田正次郎さんが案内に当たる。

 二月十二日の下見の時に烏森稲荷社の庚申塔二基をみていなかったので、それを探す時間を考慮して早めに家を出た。北鎌倉の駅についたのが九時十二分だから、三十分ほどの時間がある。これを利用して烏森稲荷社を探したのだが、気がつかずに通り過ぎて上町のバス停の先まで行き、亀ケ谷坂の途中で引き返してきた。行く時にはわからなかったが、横須賀線踏切の手前で左手に道から入った所に稲荷社があるのをみつけた。集合時間が迫っていたので
  1 天保2 笠付型 「青面金剛」               計測なし
   2 文化9 笠付型 「青面金剛童子」三猿           計測なしの二基が木祠の前にあるのを確認し、逆光だったので二基の遠景だけを写して急いで北鎌倉駅に戻った。

 前日の強風のせいか、集まったのは十八人ほどで思ったよりも参加者がすくない。最初の見学は、台の八幡神社である。昭文社のエリアマップ「鎌倉市」には「小八神社」の名で載っている。石段脇には
   3 文政13 駒 型 日月「庚申塔」三猿(像高9センチ)    78×34×23
   4 安政7 柱状型 日月「庚申塔」三猿(像高11センチ)    79×30×22
   5 元禄3 光背型 日月・青面金剛・一鬼・三猿(像高13センチ)92×40の三基が並んでいる。3の左側面に「梅花老人拜書(印)」、台石正面に横書きで「講中」とある。4の左側面に「法印権大僧都法道(花押)」、3と同じく台石正面に横書きで「講中」と刻まれている。5は上方手に弓と矢を持ち、下方手に蛇と索をとる剣人六手の立像(像高47センチ)である。下部に「講中」とあって施主銘九人が記されている。

 成福寺(小袋谷2−13)は、天台宗の寺院であったが、北条泰次が親鸞の弟子となって「成仏」の法号をもらった時に現在の浄土真宗に改めたという。萱葺きの四脚門の山門は趣があってよい。

 次いで厳島神社(小袋谷2−19)を訪ねる。鳥居脇には「庚申塔付近 たき火禁止」の掲示が立っている。石段を登った上には
   6 安政7 駒 型 「青面金剛童子」             51×21×16
   7 寛政12 柱状型 日月「庚申供養塔」三猿(像高6センチ)  51×23×18
   8 寛文10 光背型 「キリークササク」三猿(像高21センチ)  25×50の三基がみられる。7の右側面に四人、左側面に三人の施主銘がある。8には、弥陀三尊種子の下に五行の銘文が刻まれているが、「庚申講」「也」など部分的にしか読めない。小花波さんの見解では、多分、庚申塔婆集から引用したものだろうから、読める文字から推測できるのではないかという。この塔が鎌倉市の有形民俗資料に指定されているから、その線から手掛かりがあるかも知れない。

 常楽寺(大船5−8−29)は、阿弥陀如来を本尊とする。境内にある文殊堂の萱葺き工事が足場を組んで行われている。この境内には
   9 享保3 柱状型 一猿「庚申供養塔」            78×25×17がある。頂部には頭の欠けた一猿(体長13センチ)がみられ、正面には「粟船もんじゅぼさつ道 粟船山 常楽寺」、右側面には「かまくら雪下道」、左側面には「庚申供養塔 同行 九人」、裏面には「享保三年十一月吉日」とある。昭和三十八年頃までは富士見地蔵の所にあったという。ここまで一緒だった小花波さんは、四月の案内の下見で別れる。

 多聞院(大船2035)の入口には、貞享四年の地蔵尊や文政五年の念佛塔と並んで
   10 元文5 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・三猿(像高15センチ)92×39×25
   11 延宝8 光背型 日月・青面金剛・二鶏・三猿(像高14センチ)100×47
   12 享保13 板駒型 日月・青面金剛・三猿(像高12センチ)   79×33の三基があるが、残念ながら前に駐車した車があって、写真も正面からは撮れない。10は合掌六手立像(像高45センチ)で、像の右に「奉供養庚申塔」の銘文がある。11は、上方手に棒と独鈷を持って下方手に蛇と索を執る四手立像(像高37センチ)である。像の右には「奉納庚申供養為二世安楽」の銘文が刻まれている。12は、10と同じ合掌六手立像(像高36センチ)で、像の右に「庚申塔 講衆」とある。

 寺の隣にある熊野神社の境内には、明治十九年三月造立の「地神塔」(80×32×18)がみられる。左側面に「大船村」、台石正面に横書きで「講中」の銘がある。

 本村のバス停から今泉不動まで江の電バスに乗る。称名寺(今泉4−5)の境内で昼食をとる。食後、本堂で本尊の阿弥陀如来と来迎二十五菩薩を拝観する。その後で今泉不動の石段に置かれた丸彫りの三猿とオカメ面をみる。オカメの頭部が亀頭状で、鼻が陽物、口が陰部を想起させる作りになっている。堂の背後にあるれている不動三十六童子は、庚申懇話会編の『日本石仏事典』第二版に紹介した。童子の上にある金剛界の大日如来座像には、明治十二年の年銘がある。童子の造立も同じであろう。陰陽の滝には、火焔光背にカルラ鳥がはっきりと彫られた不動の座像がみられる。

 白山神社(今泉3−13−20)の参道には、文政六年の「地神塔」(60×25×16)や聖観音などと並んで
  13 寛文12 光背型 「キリークササク 奉造立庚申像為二世安楽」三猿110×48
   14 寛政4 柱状型 日月「庚申供養塔」三猿(像高6センチ)  60×26×22
   15 元治1 柱状型 「猿田彦大神」              63×25×17
   16 年不明 自然石 「猿田彦大神」              37×31の四基の庚申塔がある。13は、市指定の有形民俗資料で、通常「キリーク」は右に二つの点が打たれるが、ここのは左右に一点ずつある。下部の三猿(像高22センチ)も14に比べて大きい。16の主銘の下には酒瓶らしいものが陰刻されている。

 ここからバスに乗る予定であったが、変更して西念寺(岩瀬)まで歩く。寺の入口に
   17 年不明 不 明 (上欠)一猿(像高13センチ)       30×30がみられる。猿は不言猿だけで、下部には「梅沢源兵衛」など施主一一人の氏名がみられる。寺の境内には
   18 宝暦8 板駒型 日月・青面金剛・三猿(像高11センチ)   76×29×27
   19 寛政12 柱状型 「庚申供養塔」              76×29×27の二基がある。18は、合掌六手の立像(像高37センチ)で、下部の三猿が三角形に配置されている。19の右側面には「右道いしろ坂 阿つぎ」、左側面に「左藤沢」の道標銘がある。

 次いで岩瀬の大長寺を訪ね、下部に豚と牛を描く昭和四十年の「家畜供養碑」、文政十一年の徳本名号塔、寛文六年の念佛塔などをみる。

 最後は岩瀬・平島にある五所稲荷神社に行き、境内に並ぶ
   20 文政6 柱状型 日月「青面金剛童子」三猿(像高16センチ) 76×29×27
   21 延宝7 光背型 「キリーク 奉造立庚申」三猿(像高16センチ)87×44
   22 寛政12 笠付型 日月・青面金剛・三猿(像高11センチ)   62×28×22
   23 万延1 自然石 「大青面金剛」              83×56
   24 天明7 駒 型 「キリーク」三猿(像高12センチ)「庚申供養塔」53×23×20の五基をみる。21の下部には「勝田清兵衛」など八人の施主銘を刻む。21の主尊は合掌六手(像高35センチ)で、三角形に猿を配す。22の台石には「岩瀬邑講中」の六人の施主銘、23の台石には「清水□□□」など七人の施主銘がある。24の正面の猿は三角形配置で、右側面に「庚申供養塔」とあり、台石には「鈴木権右衛門」など六人の施主銘がみられる。境内の奥には、次の一基が離れてある。
   25 年不明 自然石 「大青面金剛童子」            94×49

これで見学を終わる。通夜に行く予定のある芦田正次郎さんは、コートの下に礼服をきていて急いで帰る。解散後、多田治昭さんと境内を廻り、大船駅まで歩いて帰途につく。
鎌倉の庚申塔を歩く9  庚申懇話会三月例会

 平成九年三月二十三日(日曜日)は、庚申懇話会三月例会である。午前九時四〇分、湘南モノレール大船駅改札口前に集合、私がコースの案内に当たる。
 今回のコースは、モノレール富士見町駅を起点にして、(1)山崎打越〜(2)神明神社〜(3)西ノ台稲荷神社〜(4)光照寺〜(5)山中稲荷神社〜(6)東慶寺〜(7)浄智寺〜(8)烏森稲荷神社を廻ってJR北鎌倉駅に出るものである。昼食の場所は神明神社が適当なので、直接、山崎打越に行く前に天神山の北野神社と八反田の庚申塔を訪ねるようにコースに加えた。

 富士見町駅を降りると、藤井慶治さんが待っていた。さっそく天神山の北野神社に向かう。神社の入口ので挨拶し、私が石仏巡りのファイルを示して、写真などの資料をファイルにまとめるように薦める。また、何か一つでもテーマ・・例えば三猿・・を持って歩くと、今までとは違った収穫があると話す。

 北野神社は山頂にあるので、長い石段を登って社殿の前にでる。境内には、鎌倉市の有形文化財に指定されている応永十二年の宝篋印塔がある。普段見ている宝篋印塔は、塔身の四面に金剛界四佛の種子が刻まれている。ここのは、四面が種子ではなく、如来座像が浮き彫りされている。

 神社から道を戻る途中で、八反田の庚申塔に出る。北野神社と次の塔は、五月の藤井さんの時にまわるので、反対側で眺めただけである。ここにある庚申塔は
   1 宝暦6 断 碑 青面金剛・一鬼・二鶏・三猿        48×33
   2 年不明 板駒型 日月・青面金剛・三猿           65×30
   3 文政5 駒 型 日月「庚申塚」三猿            67×30×23
   4 大正9 柱状型 「庚申塔」                69×30×28の四基が路傍の柵に中に並んでいる。この場所は、道幅が狭くて車の往来が激しい。
 二月十二日(水曜日)には今回のコースを下見しているので、その時の状況を述べておく。以下、計測の数字はこの時のものである。
 1の上部は欠失しており、何故か五輪塔の火輪が置かれている。下方手にもつ弓と矢がわかるが、胸前の二手と上方二手の持物はわからない。主尊の像高は欠けた頭部などを含まずに22センチ、猿は高さ14センチである。
 2は像の右に年銘があるが、「十月吉□」としか読めない。堀教授の調査では「享保〇〇十月吉日」とある。像の左には「奉納庚申供養講中」とあり、下部には八人の施主銘が刻まれている。青面金剛は合掌六手で像高が34センチ、猿の高さ9センチである。
 3の日月・瑞雲は線彫りで、下部の三猿(像高11センチ)は浮彫りである。右側面に「文政五壬午十一月十五日」、左側面に「山崎/講中」、台石正面に「西山米エ右門」など十二人の名前がみられる。 4は、山角型塔で右側面の年銘に「大正九庚申年十月」とあるように庚申年の造立である。左側面には「深澤村山崎」、台石正面に横書きで「講中」と刻まれている。

 モノレールの交差点まで戻って、本来のコースを(1)の山崎打越に向かう。JR山崎アパートの裏の切通しの頂部には
   5 元禄13 板駒型 青面金剛・三猿              96×37
   6 元禄8 光背型 「キリーク」日月・二鶏・三猿       86×38
   7 延宝8 光背型 日月「奉納庚申塔」三猿          92×39
   8 大正9 駒 型 日月「庚申供養塔」            92×30×18の四基が並んでいる。
 5は、頂部に「キリーク」の種子を刻み、合掌六手の青面金剛立像(像高45センチ 猿18センチ)を主尊とする。塔正面の左右には「元禄十三庚辰」「十二月二日」の造立年銘、下部には「小磯八左衛門」など五人の施主銘がある。
 6も5と同様に頂部に「キリーク」の種子がみられる。中央部は削り取られたようで、現在は空白で銘文がない。右端に「奉納庚申」、左端に「元禄八乙亥年霜月吉日」、下部に「小磯与三衛門」など八人の施主銘が刻まれている。三猿(像高14センチ)は、5と同形の中央が正面を向き、左右の猿が横向きで内側の手を中央に差し延べている。同様な三猿はここだけでなく、他にも鎌倉市内にみられる。
 7はこの四基の中で最も古いもので、日月の下に「キリーク サ サク」の弥陀三尊種子、続いて「奉納庚申塔」の主銘、その左右に庚申年造立を示す「延宝八年 小磯□□□」と「庚申正月廾九日
 小磯文左衛門」、三猿(像高13センチ)の下部には「□□久左衛門」など一四人の施主銘がみられる。元禄の5と6と違い、この塔の三猿は正面向きである。
 8は、正面に枠をとって上部に陰刻の日月・瑞雲、中央に主銘の「庚申供養塔」、右側面の「大正九年吉辰 大谷」、左側面に「関根茂七」などの二〇人の施主銘が五人ずつ四段に刻まれている。

 山崎小学校近くにある茅葺きの門と家をみてから2の神明神社に出る。石段の右手には
 9 万延1 柱状型 日月「庚申塔」三猿             78×30×20がある。左側面に「左 江之嶋道」の道標銘、右側面に「万延元庚申十一月吉日」の庚申年の年銘が刻まれている。猿の像高は13センチ、中央が正面を、両端の猿は横を向く。

 少々時間が早かったが、神明神社で昼食にする。生憎、食べ終わったころから雨が降ってくる。神社前のY字路を右に行くべきだったのに、間違って左に進んでしまい、途中で気がついて神社前まで戻っての3の西ノ台稲荷神社に行く。ここでも道を間違えたが、ともかく境内に入る。ここには、正面に「根本萬蔵之碑」と刻まれ、裏面に「明治十年四月八日 於肥後國山本郡植木村戰死」とあり、西南の役の戦死者を記念した板石型の石碑である。歴史の本を通して「西南の役」を知っているが、こうした石碑を眼にすることで西南の役が身近に感じられる。社殿の横には
   10 享保20 板駒型 日月・青面金剛・三猿           90×45がみられる。合掌六手の青面金剛(像高47センチ)の下にある浮彫りの三猿(高さ13センチ)が山形に配列されている。この種の三猿も鎌倉市内にみられる。

 (4)の光照寺は、稲荷神社から近い。山門の右脇には子育地蔵の祠があり、左端に三面馬頭座像がみられる。この馬頭観音は、惜しいことに磨滅が激しく、注意しないとわからない。左脇にはシワブキ様の石祠があって、祠内に宝篋印塔の相輪が祀られている。現在の山門は新しく作られたもので、旧来の門にあった十字を隠した赤塗りの紋をつけている。このために「クルス門」と呼ばれている。
 寺の境内には、市指定の正中二年に造立された安山岩製板碑がみられる。その他には、墓地にある十一面観音や六手如意輪観音の墓標石佛があり、江戸の石工が刻んだものと思われる。共に彫りが美しい。如意輪の隣にある弥陀座像の両肩には「サ」と「サク」の種子が刻まれていて、弥陀三尊を構成するのが面白い。墓地やその周辺には、境内から出土した五輪塔や宝篋印塔が数多くみられる。

 山中稲荷神社には、次の二基の庚申塔がある。
  11 安政4 駒 型 「青面金剛」               66×30×19
   12 宝永7(笠付型)青面金剛・三猿              67×28×2411は、右側面に「安政四年丁巳正月吉日」の年銘がある。12は、合掌六手の青面金剛(像高32センチ)で、下部にある三猿(像高5センチ)が意外に小さい。笠部がない。

 雨が降り続いているので、北鎌倉駅の近くで一応解散する。
希望者は見学を続けることとして、最後に予定していた・の烏森稲荷神社に直行する。ここには
   13 天保2 笠付型 「青面金剛」               計測せず
   14 文化9 笠付型 「青面金剛童子」三猿           計測せずの二基が並んでいる。13は、右側面に「天保二辛卯三月吉日」の年銘がある。14は、右側面に「文化九壬申年七月(施主銘三名)」、左側面に「講中(施主銘三名)」、三猿は台石正面に浮彫りされている。

 雨も降っていることだし、・の浄智寺は正月例会に訪れているので省略し、烏森稲荷神社から・の東慶寺を訪ねる。下見の時には気付かなかったが東慶寺の境内には、宝暦四年の二十三夜塔がある。笠付型塔の正面に合掌の勢至菩薩を浮彫りし、右側面に「二十三夜供養」、左側面に「宝暦四甲戌天
 四月吉日 當村施主 四十五人」とある。

 東慶寺は、映画やテレビなどでも出てくるが、臨済宗円覚寺派の寺で「駆込み寺」として有名である。本尊は木造釈迦如来座像で、ライトアップされて本堂に安置されている。墓地にはいり、いろいろな石佛・・如来座像や地蔵立像などが楽しめる。また田村俊子・和辻哲郎・前田青邨・岩波茂雄・安部能成・西田幾多郎・鈴木大拙など多くの有名人の墓を巡る。この寺で解散し、北鎌倉駅から帰途につく。
鎌倉の庚申塔を歩く10  庚申懇話会四月例会

 平成九年四月二十七日(日曜日)は、庚申懇話会四月例会である。午前九時四〇分、JR東海道線大船駅に集合、小花波平六さんが案内に当たる。天候が良いので総勢三三名、これ位の人数が廻るのには最大限の人数である。
 大船駅から第一見学場所の大船観音に向かう。電車の中からはみている大船観音であるが、実際に現場でみるのは初めてある。大船観音は、昭和の初めに建立が計画されたが、完成したのは昭和三十五年である。昭和五十六年に大船観音寺(曹洞宗)となり、現在に至っている。

 次の見学は、岡本・神明神社にあるのは、次の二基である。
   1 安政7 自然石 「庚申塔」                110×65
   2 文政13 駒 型 日月「青面金剛童子」三猿         55×29×181は、裏面に年銘と「戸部講中」の施主銘が刻まれている。2は、下部に三角形に三猿(像高9センチ)を配する。1と2の間に文久元年の「堅牢地神」(66×30×20)がある。

 玉縄二丁目の子育地蔵堂の前には、次の二基の庚申塔がみられる。
   3 安永5 板駒型 「庚申供養塔」一猿            51×27
   4 文政7 駒 型 「庚申塔」                64×26×17がそれで、3には下部に桃を持った一猿(像高13センチ)が浮彫りされている。3の右には駒型の「道祖神」(58×25×18)、4の左には思いがけない天保十年二月社日造立の地天像(像高48センチ58×26×17)がみられる。藤沢・地神坊が発行したお札の像を参考にして造像したものだろう。

 次いで郵政レジデンス(玉縄三丁目五番一号)の手前には、石佛が並んでいる。その中には、次の一基の庚申塔がみられる。
 5 文政12 駒 型 日月「青面金剛童子」三猿          73×29×17猿の像高は8センチで、三猿が三角形に配置されている。ここには、上欠の「祖神」や嘉永四年の「三所大権現」塔、天保六年の「堅牢地神」塔(68×27×18)がある。

 龍宝寺の参道には、次の三基の庚申塔がある。
   6 明治9 角柱型 「庚申塔」                69×30×29
   7 寛文8 光背型 「奉信心上章□灘成就圓満二世安楽攸」三猿 115×46
   8 貞享  光背型 (剥落)三猿               78×4110は市の指定文化財で「上章□灘」は「庚申」の異称で、主銘の上には「キャ カ ラ バ ア」の梵字が刻まれている。10の猿の像高は13センチ、11のは14センチである。11の左には、明治十二年の「道祖神」自然石塔が並ぶ。

 七曲がりの道を登ると玉縄城跡近くに出る。現在は清泉女学院の所有地なので、残念ながら立ち入ることはできない。ここで昼食の予定であったが、足を延ばして久成寺で昼食をとる。途中で
   9 寛政12 柱状型 「庚申供養」三猿             53×24×15
   10 延宝2 光背型 「夫奉信心上章□灘圓満二世安楽攸」三猿  85×40
   11 貞享X 不 明 (上欠)三猿 37×37の三基をみる。10の主銘の上には、龍宝寺の「キャ カ ラ バ ア」とは異なり、「バン ウーン
 タラーク キリーク アク バク □ □」の種子が刻まれている。9の猿の像高は8センチ、10のは17センチ、11のは17センチである。これら三基の右には昭和五十七年造立の「道祖神」が建っている。黒御影のもので、右側面には造立年銘に添えて「下の辻より合祀 坊宿講中」とある。

 さらに久成寺の手前の路傍には、次の二基がみられる。
   12 万延1 駒 型 「帝釈天王」三猿             66×30×18
   13 年不明 柱状型 「左従是鎌倉道」一猿           92×35×3312の右側面には「右かまくら道」、左側面には「左ふじ沢道」、裏面には年銘が刻まれている。三猿は台石に浮彫りされている。13の裏面には一猿が浮彫りされている。頂部に猿があったように思われるが、子供の悪戯で塔が凹凸があってはっきりしない。これらの二基の後ろには、上部に題目が書かれた交通安全の板塔婆が立っている。いつのまにか帝釈天が交通安全の神にされている。

 久成寺で昼食を済ませ、午後は近くの貞宗寺墓地にある次の二基をみる。
   14 年不明 光背型 日月・青面金剛              57×28
   15 年不明 自然石 「庚申塔」                83×5514は剣人六手の立像(像高36センチ)でトタン屋根の下に安置されていてすぐに分かったが、15はそこから離れた墓地の一画にあるのがわかるのに時間がかかった。

 最後は、円光寺境内にある
   16 年不明 駒 型 「奉納庚申供養」             71×21×14の塔で、横にこれと同形の一対と考えられる駒型塔がある。こちらの塔には、庚申関係の銘文はなく「干時元禄十丁丑暦五月吉日」の年銘と施主銘が刻まれている。
 ここで解散し、植木のバス停から大船駅に出て帰途につく。

 朝、藤井慶治さんから頂いた資料によると、横須賀市根岸・岩瀬では平成八年十二月一日造立の写真が載っている。黒御影の柱状型塔の正面には「奉納 青面金剛塔納 天明八年(一七八八)年より継続した先祖代々の生 活文化を永く顕彰すると共に 新時代に向かって人 々の『心』と繋がりを大切に伝える事を願い 納 めます 平成八年十二月一日 根岸庚申講中 斉藤正辰 竹永茂夫 小磯石太郎 竹永孝一 小磯仁一 竹永実 小磯勇 小磯増夫」の銘文が刻まれている。今まで私が聞いている範囲では、日本最新の庚申塔である。
 藤井さんからはもう一枚、小花波平六さんの依頼で作成された「横須賀市内にある猿田彦大神塔」の一覧表を頂いた。これには、市内にみられる刻像塔一基を含む猿田彦大神塔三八基が載っている。刻像塔は、久里浜・天満宮にある万延元年塔で、現在は猿田彦の顔が崩れているという。
鎌倉の庚申塔を歩く11  庚申懇話会五月例会

 平成九年五月二十五日(日曜日)は、庚申懇話会五月例会である。午前九時四〇分、湘南モノレール大船駅改札口前に集合、藤井慶治さんがコースの案内に当たる。前日が大雨だったせいか、参加者が総勢一二人と少ない。

 今回のコースは、モノレール富士見町駅を起点にして、(1)山崎路傍〜(2)妙法寺〜(3)北野神社〜(4)江ノ島道標〜(5)昌清院〜(6)お塔様〜(7)最新の板碑〜(8)冨士塚〜(9)上町屋・池ノ下〜(10)上町屋天満宮〜(11)泣き塔〜(12)大慶寺〜(13)駒形神社〜(14)東光寺〜(15)御霊神社〜(16)梶原景時墓〜(17)深沢支所裏を廻って湘南モノレール湘南深沢駅に出るものである。
 湘南モノレールの富士見町駅を降りて、最初に訪ねたのが三月例会でもきた四基の庚申塔が並ぶ山崎路傍である。
  1 宝暦6 断 碑 青面金剛・一鬼・二鶏・三猿        48×33
   2 年不明 板駒型 日月・青面金剛・三猿           65×30
   3 文政5 駒 型 日月「庚申塚」三猿            67×30×23
   4 大正9 柱状型 「庚申塔」                69×30×28ここには、庚申塔が柵に中に並んでいる。この場所は、道幅が狭くて車の往来が激しい。
 1の上部は欠失しており、何故か五輪塔の火輪が置かれている。下方手にもつ弓と矢がわかるが、胸前の二手と上方二手の持物はわからない。主尊の像高は欠けた頭部などを含まずに22センチ、猿は高さ14センチである。2は像の右に年銘があるが、「十月吉□」としか読めない。名古屋学院大学の堀孝彦教授の調査では「享保〇〇十月吉日」とある。像の左には「奉納庚申供養講中」とあり、下部には八人の施主銘が刻まれている。青面金剛は合掌六手で像高が34センチ、猿の高さ9センチである。3の日月・瑞雲は線彫りで、下部の三猿(像高11センチ)は浮彫りである。右側面に「文政五壬午十一月十五日」、左側面に「山崎/講中」、台石正面に「西山米エ右門」など十二人の名前がみられる。4は、山角型塔で右側面の年銘に「大正九庚申年十月」とあるように庚申年の造立である。左側面には「深澤村山崎」、台石正面に横書きで「講中」と刻まれている。

 次いで山崎・妙法寺にいき、ここで藤井慶治さんから挨拶と今日のコース説明がある。先ず「妙法庚申神社」と記された舟型状の石塔といっても高さ15センチ、幅10センチの小さなものであるが、これからみる。台石(17×32×22)の正面には、昭和九年にこの塔が発見された由来が刻まれている。

 続いて、これも三月例会によった山崎・北野神社に向かう。神社の入口には、寛政十一年の「庚申塔中」と刻まれた石橋の親柱があるという。山頂には、鎌倉市の有形文化財に指定されている応永十二年の宝篋印塔がある。これは、四面に如来座像が浮き彫りされている点で珍しい。

 山崎・梅沢宅角にある文化八年の江ノ島道標、山崎・十王堂をみてから、山崎・昌清院を訪ねる。十王堂は外観のみたに過ぎないが、かってここにあった木造十王が一体を除いて昌清院に移された。予定にはなかったが、特に頼んで拝観する。閻魔を中心に二段に配列され、上段の右端に奪衣婆、二段の十王の前左右に司命・司録が置かれている。思いの外の上作である。

 山崎にある古い石祠に五輪塔と宝篋印塔の残欠が祀られた「お塔様」をみてから、同じ山崎の小磯一家の外墓を訪ねる。小磯本家の墓地には、御影石で板碑をかたどった供養塔が建っている。二条線・天蓋・瓔珞・蓮台付の釈迦三尊種子・二個の花瓶を刻み、先祖二人の法名・命日と造立日「平成六年三月六日」を記す。墓地までの坂の途中で、三月例会でみた、次の四基の庚申塔が遠望できた。
 参考 元禄13 板駒型 青面金剛・三猿              96×37
  参考 元禄8 光背型 「キリーク」日月・二鶏・三猿          86×38
  参考 延宝8 光背型 日月「奉納庚申塔」三猿          92×39
  参考 大正9 駒 型 日月「庚申供養塔」            92×30×18

 はるかに大船観音が眺められる寺分の公園で昼食をすませ、午後の最初の見学地である山崎の冨士塚にいく。恵穂し岩や小御嶽の石碑がみられる。
 冨士塚から坂道を下って湘南町屋駅の近くに出て、池ノ下の茂みの下に
   5 万延1 駒 型 日月「庚申供養塔」三猿          65×30×18
   6 文化9 柱状型 日月「庚申供養塔」三猿          66×28×18の二基がみられる。6の猿の像高は九センチである。

 予定にはなかった上町屋・泉光院によると、境内には右手に錫杖、左手に蓮華をもつ文政四年の十一面観音と彫りのよい享和三年の二手合掌の馬頭観音がある。写真の被写体に絶好である。
そこから近い上町屋・天満宮には
   7 寛文10 光背型「バク 奉新造立庚申供養取願成就所」三猿  95×42がみられる。市の有形民俗資料に指定されている塔で、猿の像高は18センチである。この塔の隣に、正徳二年の笏をもつ菅公像を浮彫り石塔がみられる。

 次いでJRの大船工場の敷地にある泣き塔をみる。これは、文和五年の宝篋印塔で、昭和八年に国の重要美術品に指定されている。姿のよい塔である。背後にあるヤグラの中には、五輪塔数基がみられる

 寺分一丁目の大慶寺にある市の指定の有形文化財の宝塔二基と天然記念物のビャクシン二本をみてから、同じ一丁目にある駒形神社を訪ねて、境内にある文政五年の八手弁天座像を浮彫りする笠付型塔をみる。やはり一丁目の東光寺の墓地では、伊奈石板碑に似た赤味がかった「バン」を刻む板碑(55×23)に接する。他の銘文はみられない。先週、多摩石仏の会の例会で伊奈石板碑をみたばかりなので、余計に興味がわく。

 梶原一丁目にはいって、梶原小学校内にある梶原景時一族の五輪塔四基をみてから、近くの御霊神社を訪ねる。参道には
  8 寛政12 柱状型 日月「庚申供養塔」三猿          57×25×17
   9 文化8 駒 型 日月「庚申供養」三猿           65×38×20の二基がみられる。8の猿は8センチ、9も同じ8センチの像高である。拝殿横には
   10 天和2 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     74×33×22がある。主尊は上方手に宝輪と三股杵、中央手に剣と人身、下方手に蛇と数珠をもつ六手像(像高43センチ)である。像容から一目で青面金剛とわかるが、正面の右縁には「奉納帝釈天」とあるから、青面金剛が帝釈天のつもりで造像されたものだろう。猿(像高12センチ)は、三面に配されている。拝殿から社殿に登る石段の右側には
   11 万延1 柱状型 日月「青面金剛童子」           55×27×21がみられる。台石正面に「梶原村 講中」「石井八良エ門」など七名の施主銘を記す。

 小学校の校庭を抜けて最後の深沢支所裏(寺分一丁目)にある
   12 文政13 柱状型 日月「青面金剛塔」三猿          64×24×19をみる。三猿(像高10センチ)が山形に配置されている。

 ここで解散する。希望者が丘上にある共同墓地をみてから、湘南モノレールの湘南深沢駅にでて、大船経由で帰途につく。
鎌倉の庚申塔を歩く12  庚申懇話会六月例会

 平成九年六月二十八日(日曜日)は、庚申懇話会六月例会である。午前九時四〇分、湘南モノレール大船駅に集合、若松慶治さんが案内に当たる。昨日の台風が心配されたが、台風一過の青空で日中は暑くなりそうである。

 大船駅九時五二分発のモノレールに乗り、三つ目の湘南深沢駅で下車する。駅から先月とは逆コースで深沢小学校の脇を通って、第一見学場所である梶原一丁目一七番一二号の石川家に向かい、そこの庭の一画にある
   1 天明8 柱状型 「庚申供養塔」三猿(道標銘)       53×22×20
   2 享保3 光背型 日月・青面金剛・三猿           91×38の二基を見学する。1の左側面には、「右はせみち 左かまくら道」の道標銘、台石正面には「講中」とあり、続けて「石井八郎右エ門」など施主五名の氏名が刻まれている。2は合掌六手(像高35センチ)の立像で、下部に三猿(像高15センチ)がある。こちらも台石正面に「山野井増右衛門」など七名の施主銘がみられる。

 次いで訪ねたのが笛田公園の野球場の近くにある庚申塚で、ここには
   3 明治35 自然石 「猿田彦大神」              75×48
   4 天明2 駒 型 日月・青面金剛・三猿           62×29×20
   5 文政3 柱状型 「庚申供養塔」三猿            計測忘れ
   6 嘉永4 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        63×28×22
   7 宝永4 板駒型 日月・青面金剛・三猿           86×36
   8 享保8 板駒型 青面金剛・三猿              76×32
   9 延宝8 笠付型 日月「奉造立庚申供養」三猿(三面)    77×33×29
  10 慶応2 笠付型 日月・青面金剛・三猿           67×27×20の八基が、丘の斜面に二基ずつ階段状に並んでいる。3の裏にある4は、上方手に日月を持つバンザイ型の青面金剛(像高47センチ)で、下部に三猿(像高8センチ)がある。5は、両側面に各四人の施主銘がある。6は合掌六手像(像高38センチ)で、脚下に正面向きの鬼、下部に三猿(像高65センチ)がある。7も合掌六手像(像高42センチ)で、下部に三猿(像高14センチ)がみられる。8も同様の青面金剛(像高31センチ)で、三猿(像高9センチ)が三角状に配されている。9は、ここにある庚申塔群の中で最も古い塔で、三猿(像高15センチ)も大きい。この塔の背後には、明治二十六年の台石だけが残っており、本塔は失われない。その横には、大正五年造立の駒型の「堅牢地神」塔(54×24×15センチ)がある。10は最上段にあり、他の青面金剛が合掌六手であるに対して剣人六手像(像高37センチ)で、下部に三猿(像高10センチ)が浮彫りされている。ここで小花波平六さんからアタリ日と関連して各塔の造立日についての説明がある。

 一一時三〇分過ぎに近くにある野球場の観覧席で早めの昼食をとる。この場所からは、モノレールの車中からもみえた残雪の少ない富士山が望める。一二時に午後の部の見学に向けて出発する。佛行寺では、まず門前にある
   参考 享保18 柱状型 「南無妙法蓮華経」「庚申講中」     計測忘れをみる。塔の裏面に「庚申講中」とあり、「種井源右衛門」など一三人の施主銘が三段に記されている。台石正面に横書きで「庚申講中」とあって、その下に縦書きで一一人の施主銘が刻まれている。この塔をみてから、境内のヤグラや本堂の背後にある庭園を見学する。池の黄色の睡蓮が珍しい。

 佛行寺から鎌倉山交差点に出る。ここには「鎌倉山」と刻む円柱がみられ、前に黒御影の碑文がある。この銘文に「世界最初の賃取り自動車道路」とあるのがが面白い。そこから次の峰の笛田道にいき、五基の庚申塔群をみる。
   11 昭和15 駒 型 「庚申供養塔」三猿            62×34×24
   12 安永4 柱状型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        63×30×17
   13 宝永4 板駒型 青面金剛・三猿              88×40
   14 安政4 駒 型 日月「庚申塔」三猿            66×27×20
   15 明治25 駒 型 日月「庚申塔」三猿            54×23×1911の右側面に刻まれた「皇紀二千六百年紀年」の銘文が眼をひく。下部には三猿(像高10センチ)がみられる。12は合掌六手(像高37センチ)で、頭上に「奉納」の銘、本日唯一の二鶏をを浮彫りする。三猿の像高は11センチである。13も合掌六手(像高42センチ)で、頭上に「ウーン」の種子、下部に三猿(像高11センチ)の浮彫りがある。その横には、正面に「文化六己巳年 十一月吉日」の年銘と八人の施主銘を刻む台石のみがみられる。14の下部にある三猿は像高9センチである。台石正面には十人の施主銘を刻む。15の三猿のうち左端の塞口猿の姿態が変わっている。

 近くの切通しの入口にある安政四年の柱状型「堅牢地神塔」(55×23×16センチ)をみてから手広の片岡公園の下にある
   16 嘉永2 駒 型 日月「庚申塔」三猿            59×33×27
   17 天保13 駒 型 日月「庚申塔」三猿            63×28×19
   18 昭和15 駒 型 「庚申供養塔」三猿            62×34×24の三基をみる。18の正面右側には、先刻と同様な「皇紀二千六百年紀年」とある。16の台石正面には「内海□左エ門」など、17には「高橋又□□」など、18には横書きで「講中」とあって下に「斉藤政吉」など、いずれも八人の施主銘が刻まれている。三猿の像高は、16が10センチ、17が10センチ、18が9センチである。ここには弘化四年の二手馬頭観音立像と二基の石祠がみられる。

 最後は、国の重要文化財「鎖大師」で知られる青蓮寺である。残念ながら前立ての油絵だけで本尊の鎖大師を拝観できなかったが、本堂で小花波さんの話があり、この機会に両界曼荼羅があったので、その解説もしていただく。この寺の境内には、丸彫りの不動三尊や弘法大師石像の他にも稚児大師座像やセメント造りの愛染明王座像がみられる。
 青蓮寺で解散、モノレールの西鎌倉駅まで歩き、帰途につく。
鎌倉の庚申塔を歩く13  庚申懇話会七月例会

 平成九年七月二十七日(日曜日)は、庚申懇話会七月例会である。江の電改札口の前に午前九時四〇分集合とのことであったが、間違いのないようにJR東海道線・小田急藤沢駅と江の電のビルを連結した歩道に集合、芦田正次郎さんが案内に当たる。今回で昨年から続いた鎌倉シリーズを終わる。

 江の電の藤沢駅から二駅目の柳小路駅まで電車に乗る。新型車両なので江の電の懐かしい江の電の雰囲気がない。下車して第一見学場所の岩屋不動を訪ねる。境内では、小花波平六さんの挨拶、続いて案内の芦田さんから本日のコース説明がある。

近くの洞窟内にある不動三尊と石造鏡から見学が始まる。奥のヤグラを利用した洞窟には、金剛界の大日如来座像と地蔵立像の石佛がみられる。

 片瀬小学校グランドの西側(藤沢市片瀬二丁目一四番)には、双体道祖神(45×31 像高は34センチ)と並んで
   1 元禄6 光背型 日月・青面金剛・三猿           79×35
   2 文化2 笠付型 日月・青面金剛・三猿           64×27×20の二基の庚申塔がある。1も2も合掌六手立像で、1の像高は40センチ(猿像高12センチ)、2の像高は36センチ(猿像高7センチ)である。
 すぐ近くの泉蔵寺の入口には、庚申塔六基がズラリと並んでいる。
   3 文政9 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        68×29×18
   4 延享4 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        83×34×12
   5 年不明 板駒型 日月・三猿・蓮華            111×48
   6 明治44 自然石 「庚申塔」                58×36
   7 享和4 柱状型 日月・富士・升・三猿           64×29×26
   8 文化12 駒 型 日月「庚申供養塔」三猿          60×28×223は合掌六手(像高43センチ 猿像高8センチ)で、鬼が正面向きである。4は上方手に日月を持つバンザイ型(H型)の合掌六手(像高55センチ 猿像高11センチ)で、鬼が横を向いている。5は、上部の日月、下部の三猿(像高18センチ)が残っているもの、中央の枠内の文字が不明である。恐らく中央に主銘があり、その両横に造立年銘が刻まれていたと思われる。下部に「小池九右衛門」など六人の施主銘がみられる。6の裏面には「明治四十四年十月立之」と「鈴木杢兵衛」等四人の氏名が刻まれている。
 7は本日のコースの目玉で、富士の御師が発行している寛政十二年(庚申年)の升形牛王の掛軸を塔面に写している。日本石仏協会編の『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和六十一年刊)の一〇〇頁下段には、私が書いた「富士山升形牛王庚申塔」の項に
    富士山は、孝安天皇の庚申年に出現したというので、江戸中期以降には、庚申年に富士御師
   が富士山升形牛王の掛軸を発行した。上部に日月と雲上野富士山、中央に三宝に載せた米入り
   の升と三猿を描き、下部に富士山の縁起を記す。山の絵の上に「庚申」の文字が入る。
    富士御師が寛政十二年(一八〇〇)に発行した富士山升形牛王の掛図を写した庚申塔が神奈
   川県藤沢市泉蔵寺入口にある。享和四年(一八〇四)の造立で、山角型塔に薄肉彫りされてい
   る。庚申塔に富士の山形を刻む例は、数少ないが各地にみられる。たとえば、山梨県北都留郡
   上野原町西原の万延元年(一八六〇)塔があげられる。しかし、升形牛王の図は、現在のとこ
   ろ、この一基だけである。
〔石川〕の解説と真正面から撮った写真を載せた。現在は、この構図の写真は、前にある庚申塔が邪魔して写せない。この塔の右側面に「施主 池田金右衛門 同 中村六□」とあり、台石にも七人の施主銘がみられるが、石質などみて本塔と違う台石が組合せられたと思う。猿の像高10センチである。8は文字塔で、三猿の像高10センチである。

 片瀬二丁目一九番の路傍には、道路より一段高い所に次の刻像塔がみられる。
   9 享保4 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     114×47この塔の主尊は、珍しい矛と人身をとる六手立像(像高54センチ)で、右上方手に鍵を持つのも稀少である。三猿(像高14センチ)の下には、「片瀬村」に続けて「天春五兵衛」など一〇人の施主銘を刻む。

 片瀬三丁目三番にある密蔵院の山門の前には、次の四基の庚申塔が見られる。
   10 文政3 駒 型 日月「庚申供養塔」三猿          70×31×20
   11 慶応1 柱状型 「庚申塔」三猿(台石)          52×24×16
   12 文政6 駒 型 日月・青面金剛・三猿           48×26×18
   13 延享3 板駒型 日月「ウーン 庚申供養」三猿       92×4012は合掌六手立像(像高36センチ)で、下部の三猿が像高3センチと非常に小さい。境内には「愛染明王」柱状型塔(57×21×19)がみられ、右側面の造立年銘「明治卅五年参月廾六日」が愛染明王の縁日に因んでいる。帰りがけに気がついたが、山門前(庚申塔の反対側)にもう一基、明治三十六年の「愛染明王」自然石塔(108×98)がみられる。二基の愛染塔共に主銘の上に宝珠を薄肉彫りしている。
 密蔵院のクーラーのよくきいた一間をお借りして早めの昼食をとる。一時間ほど居心地のよい部屋にいたので、暑い外に出るのが億劫である。

食後の見学は、片瀬三丁目六番の路傍に立つ
   14 安永9 柱状型 日月「庚申供養塔」三猿          78×30×27からである。三猿の像高は18センチ、右側面に「左ゑのし満道」の道標銘がある。
次いで本蓮寺の境内を巡ってから、片瀬三丁目一六番の路傍に立つ
   15 年不明 板碑型 日月「南無妙法蓮華経 帝釋天王」     140×54をみる。下部に「寛文願主」とあり、中央に「天保十三寅歳八月造立」の年銘が刻まれている。どうみても天保年代の塔とは思えない。寛文年間の旧塔を天保になって多少手を加えたか、見捨てられていたものを建て直したものか。常立寺の側には「祭禮道陸神」駒型塔(60×26×16)がみられる。右側面に「文政四巳年正月十四日」の造立年銘、左側面に「町内安全 子供中」と祈願銘と施主銘がみられる。
常立寺は本堂工事中なので、境内には入らなかった。

 次に訪れたのが片瀬三丁目にある龍口寺、龍口の法難で知られる日蓮宗の寺である。寺の前の境内地には
   16 貞享3 光背型 青面金剛・一鬼・三猿           79×40がみられる。剣人六手像(像高50センチ)で、上方手に宝輪と宝剣、下方手に蛇と独股杵(あるいは宝棒)を持つ。鬼の像のために中央の不聞猿が小さい(両側の猿の像高は12センチ)。その近くに慶応二男の「道祖神」柱状型塔(62×30×30)と文化二年の単体道祖神駒型塔(60×25×16)がみられる。この単体道祖神(像高44センチ)には、右側面に「門前氏子長久攸」の銘がある。山門を入ると、境内には本堂左手にある稲荷神社横には
   17 享保15 駒 型 日月「南無妙法蓮華経奉納 庚申講中」三猿 70×30×20
   18 享保8 駒 型 日月「南無妙法蓮華経奉納 帝釋講中」三猿 92×44×23が並んでいる。共に題目を刻んでおり、日蓮宗系の庚申塔を現している。

 カメラにフィルムを入れるのが失敗して、龍口寺境内の塔を改めて撮り直している間に先行されて鎌倉市腰越五丁目一番の法源寺(ぼたもち寺)の昭和十一年「庚申塚」自然石塔・寛文七年題目板碑型塔・昭和十二年「庚申塚」自然石塔・昭和十五年「庚申塚」自然石塔の四基を見損なって、腰越観音堂跡(腰越五丁目一一番)で合流する。ここには
   19 弘化3 自然石 「庚 申」                121× 112
   20 寛政  板駒型 日月・青面金剛・三猿           82×37の二基がみられ、並びに昭和六年の「道祖神」板石型塔(122×71)と天保七年の「堅牢大地神」自然石塔(105×60)がある。20の主尊は合掌六手立像(像高43センチ)で、下部の三猿(像高13センチ)が山形に配列されている。道を隔てた反対側には、題目のある馬頭観音など、珍しい向かい合わせの馬を陰刻する塔などがみられる。

 津西二丁目四番の路傍より一段高い所にある鹿野山下庚申塚には
   21 寛政12 駒 型 日月「庚申供養塔」三猿          56×25×18
   22 寛政12 柱状型 日月「庚申供養」三猿           60×24×16の二基が嘉永二年の「堅牢地神」山角型塔(63×28×16)や昭和十七年の「馬頭観音」駒型塔や「道祖神」駒型塔(33×18×14)と並んでいる。22の右側面には「是よりたつのくち 江のし満」の道標銘がみられる。三猿の像高は、21がセンチで、22は計測を忘れた。

 再び腰越に入って二丁目二四番の路傍の祠で
   23 文政3 駒 型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        65×32×22を見る。主尊は剣人六手立像(像高45センチ 猿の像高8センチ)で、右に天神像二基と左に双体道祖神二基がある。前面の天神像は文政二年の造立の駒型塔(55×24×18 像高40センチ)で、後ろの天神像は年不明の駒型塔(50×22×17)、前の双体道祖神は年不明の駒型塔(44×24×12 像高32センチ)で、後ろの双体道祖神は年不明の駒型塔(58×24×23 像高43センチ)である。これらの塔は、元は近くの諏訪神社(腰越二丁目二四番)の境内にあった。

 最後は、腰越の小動神社にある石佛を訪ねる。ここには第六天の石像があるが、七月半ばの祭礼の時でないと公開されないから、残念ながらみることができない。境内の大六天堂横には
   24 年不明 板駒型 日月・青面金剛・三猿           55×27
   25 大正7 自然石 「庚申塔」                55×38
   26 嘉永4 自然石 「猿田彦大神 堅牢大地神」        98×60の三基の庚申塔がみられる。24は、剣人六手の立像で、上方の左手に三つ巴の円形を持つのと正面下部の三猿がハッピを着ているのが変わっている。右側面に「松本氏」と刻まれている。25の裏面には年銘と「飛田新造」の施主銘、26の台石正面には右端に「當所」左端に「講中」とあって、その間に「亀田与五右エ門」など九人の氏名が刻まれている。

 ここで解散して、希望者は義経の腰越状縁の満福寺に向かう。途中の小動の交差点角には、新旧三基の双体道祖神が並び、石碑が建つっている。二基の古い道祖神は磨滅が激しく、新しものは近年の作である。時間がないので三基の双体道祖神と横にある石碑も調べなかったが、調査すれば造立年代もわかると思う。

 解散後に訪ねた満福寺の板戸には、鎌倉彫りの技法を使って彩色薄浮彫りした義経や弁慶、静御前などの姿がある。また格天井には仏像や草花、龍を彫っている。弘法大師の絵伝の画像もみられる。
 満福寺から江の電の腰越駅に出て、電車で藤沢駅に行き、東海道線で帰途につく。
鎌倉見学会       庚申懇話会十一月例会

 昭和五十九年十一月十八日(日)の庚申懇話会十一月例会は、鎌倉の見学会である。国鉄横須賀線鎌倉駅前に午前一〇時集合だが、待ち合わせ場所が江ノ電口だったので、間違えて正面口で待っていた会員もみられた。今日の案内は、藤井慶治さんだ。
 扇ガ谷一丁目の巽神社境内で、藤井さんから開会の挨拶の後、今日のコースとこの神社の説明がある。ここには
   1 弘化2年 自然石 「猿田彦大神」             133×72がある。
次の寿福寺(扇ガ谷)の門前には
   2 文政7年 角柱型 「庚申塔」
   3 延宝8年 板碑型 日月「奉供養庚申」三猿
   4 天明6年 角柱型 日月・青面金剛・三猿
   5 天保12年 駒 型 「庚申供養」一猿
   6 寛文8年 笠付型 「奉請庚申塔」の五基がみられる。この頃から雨が降りだす。
裏山の墓地には、松井翆声・大仏次郎・高浜虚子・北条政子・源実朝などの墓がある。次の見学場所に移る頃には、雨が止む。
雪ノ下の岩谷不動では
   7 宝永4年 光背型 青面金剛
   8 年銘不詳 自然石 「猿田彦大神」
   9 文政8年 駒 型 「青面金剛」
   10 文政12年 駒 型 日月「庚申塔」
   11 享和3年 笠付型 日月・青面金剛・三猿を見る。続く雪ノ下の小袋坂では
   12 万延1年 駒 型 「猿田彦大神」
   13 文政12年 自然石 「ウーン 庚申塔」
   14 寛政11年 駒 型 「庚申供養塔」
   15 宝暦6年 光背型 日月・青面金剛・三猿
   16 弘化3年 自然石 「猿田彦大神」
   17 天保4年 駒 型 「ウーン 青面金剛」があり、嘉永四年銘の「道祖神」や明治十三年銘の「大国主大神」などもみられる。
 源氏池近くの茶屋で昼食をとる。食後、藤井さんと一の鳥居の近くにある「猿田彦大神 大国主大神 摩利支天」の自然石を見る。意外と時間がかかり、午後の集合時間に五分ばかり遅れる。
予定していた小町の宝戒寺は省き、大町一丁目一七番で
   18 文政7年 自然石 「帝釈天王」              72×70を見てから
八雲神社を訪れる。境内入口には
   19 年銘不詳 自然石 「猿田彦大神」
   20 年銘不詳 自然石 「猿田彦大神」
   21 寛文10年 笠付型 弥陀来迎・三猿             114×36×38の三基がある。21は、市の指定文化財で、右側面に「山王二十一社」の銘が刻まれている。別願寺では、足利持氏の墓と伝えられる宝塔を見る。
続く安養院では、徳治三年の宝篋印塔や
   22 元禄7年 駒 型 青面金剛・三猿             106×41×24の他にも、昭和五十八年銘の佛足石がある。
材木座の長勝寺裏の路傍には
   23 元禄16年 笠付型 日月「奉造立庚申供養」二猿・蓮華    70×30×24を調べてから、
大町・松葉谷の大黒堂に向かう。境内には
   24 年銘不詳 光背型 日月・青面金剛・三猿
   25 年銘不詳 笠付型 青面金剛・三猿
   26 弘化5年 自然石 「青面金剛」
   27 文化5年 自然石 「猿田彦 北斗尊星 鈿女命」がみられる。
先に見た元禄の二猿塔に戻り、材木座三丁目にある五所神社を訪ねる。境内には、多くの庚申塔がみられる。
   28 文政2年 駒 型 日月・桃持ち一猿
   29 文政2年 駒 型 一猿
   30 文化2年 駒 型 一猿
   31 文化2年 板駒型 日月・青面金剛
   32 享和3年 駒 型 日月「庚申供養塔」
   33 寛政12年 駒 型 日月「庚申供養塔」一猿
   34 寛政4年 駒 型 日月・青面金剛・三猿
   35 文化9年 角柱型 「庚申供養塔」
   36 年銘不詳 板駒型 日月・青面金剛・三猿
   37 貞享4年 光背型 合掌弥陀・三猿
   38 天和4年 笠付型 来迎弥陀・三猿
   39 寛文12年 光背型 日月「奉造立帝釈天王」二鶏・三猿
   40 文政3年 笠付型 日月・青面金剛・三猿・二童子
   41 天保14年 駒 型 日月「庚申塔」三猿
   42 嘉永4年 駒 型 日月「庚申供養塔」
   43 嘉永5年 駒 型 「猿田彦大神」などが並び、その間に文化四年銘の「馬頭観世音」や大正二年銘の摩利支天がある。39は、市の指定文化財である。また、特別に弘長二年銘の倶利迦羅の板碑を拝見できる。ここで散会する。

 皆と別れてから藤井さんの案内で、鈴木さんや遠藤さん達と逗子に向かう。
途中、材木座の光明寺に寄り、中世の地蔵や江戸期の大名墓などを見る。
逗子市内に入り、小坪で
   44 寛文6年 光背型 「山王二十一社」三猿          99×59を調べる。ここには、この塔以外にも青面金剛や文字の庚申塔がある。
海前寺では
   45 元禄5年 光背型 来迎弥陀                115×48を見てから、近くの山道にある庚申塔群に行く。
小坪寺にある
   46 宝暦10年 光背型 聖観音                 94×41を廻り、
近くの神社にある双体道祖神を最後に京浜逗子駅に向かう。辺りは、暗くなってきた。
                              庚申懇話会『庚申』第八八号所収
鎌倉の庚申塔を扱った文献
   大護八郎・小林徳太郎 『庚申塔』 新世紀社 昭和33年刊
   清水 長輝 『庚申塔の研究』 大日洞 昭和34年刊
   木村彦三郎 「鎌倉市内の庚申塔と『庚申祭謂記』」『鎌倉』第一一号 昭和38年刊
   木村彦三郎 「鎌倉の庚申さん」『鎌倉』第一三号 昭和39年刊
清水 長明 『相模道神図誌』 波多野書店 昭和40年刊
   大護 八郎 『庚申塔・・路傍の石仏・』 真珠書院 昭和42年刊
  平野  實 『庚申信仰』 角川書店 昭和44年刊
  八代 恒治 「鎌倉の庚申塔中間報告」『たかね』第二号 昭和44年刊
   木村彦三郎 『道ばたの信仰 鎌倉の庚申塔』 鎌倉市教育委員会 昭和48年刊
  庚申懇話会 『日本石仏事典』 雄山閣出版 昭和50年刊
   竹村 節子 「鎌倉庚申塔の猿」『あしなか』第一四五輯 山村民俗の会 昭和50年刊
   縣  敏夫 「鎌倉の中世石造物と庚申塔」『石仏の旅 東日本編』 雄山閣 昭和51年刊
   大護 八郎 『石神信仰』 木耳社 昭和52年刊
   伊東 重信 「神奈川県にみられる山王系の庚申塔」第五号 日本石仏協会 昭和52年刊
  藤橋幹之介 「鎌倉郡の庚申塔」『日本の石仏』第五号 日本石仏協会 昭和53年刊
   森山 隆平 『鎌倉の石仏』 大陸書房 昭和54年刊
   水澤清之・大貫昭彦 『鎌倉の石仏』 真珠書院 昭和56年刊
  松村 雄介 『相模の石仏』 木耳社 昭和56年刊
  石川 博司 「鎌倉見学会」『庚申』第八八号 庚申懇話会 昭和60年刊
   中山 正義 『寛文の庚申塔 神奈川県』 私家版 昭和61年刊
  松野美弥子 「鎌倉の庚申塔と庚申講」『コロス』第三五号 常民文化研究会 昭和62年刊
  尾関  勇 『庚申塔の里 深沢の散歩道』 平成1年刊
   堀  孝彦 「鎌倉の庚申塔・・広瀬鎭・木村彦三郎を偲んで」『名古屋学院大学論集』
         第三二巻一号 同大産業科学研究所 平成7年刊
   石川 博司 『鎌倉を歩く』 庚申資料刊行会 平成八年刊
  大畠 洋一 「神奈川南部の石工の系譜」『日本の石仏』第八一号 日本石仏協会 平成九年
   石川 博司 『森本矗撮影庚申塔一覧表』 庚申資料刊行会 平成九年刊
   石川 博司 『続森本矗撮影庚申塔一覧表』 庚申資料刊行会 平成九年刊
   中山 正義 『関東地方寛文の青面金剛 付延宝期青面金剛像』 私家版 平成九年刊
   石川 博司 『続鎌倉を歩く』 庚申資料刊行会 平成九年刊
   若松 慶治 『鎌倉の石佛と庚申塔』 庚申懇話会 平成九年刊
あ と が き
        平成八年と平成九年と二年にわたって行われた庚申懇話会の例会では、鎌倉市内の
       庚申塔を巡った。本書は、先に発行した平成八年分の『鎌倉を歩く』(平成八年刊)
       と平成九年分の『続鎌倉を歩く』(平成九年刊)を合冊したもので、それらの例会の
       記録(欠席した一回分を除く)に平成七年十二月に催された多摩石仏の会の例会と平
       成九年の案内コース下見の記録を加えている。
        平成七年から九年まで三年間(実質的には二年間)にわたって鎌倉市内を歩いたけ
       れども、庚申塔の全てをまわった訳ではない。まだ全市的な視点では語れないが、こ
       のように例会と下見の見聞記を通してみると、それなりの意味があると思う
        市内にまだ調査すべき庚申塔が二〇基ほど残っているが、本書の末尾に掲げた「鎌
       倉市内庚申関係石造物一覧表」と「鎌倉市内庚申関係石造物年表」からみると、鎌倉
       の庚申塔の傾向がうかがわれる。多少とも鎌倉の庚申塔に関心のある方の参考になる
       と思う。ご活用いただければ幸いである。
        末筆ながら昨年と今年の庚申懇話会例会を案内された小花波平六・芦田正次郎・藤
       井慶治・若松慶治の各氏、並びに若松氏が作成されたレジメに塔資料を提供された堀
       孝彦・名古屋学院大学教授にお礼を申しあげたい。本書は、各氏に対するささやかな
       返礼の標である。
                                 ・・・・・・・・・・・・
                                 鎌倉の庚申塔を歩く
                                 発行日 平成九年十月十日
                                 著 者 石 川  博 司
                                 発行者 庚申資料刊行会
                                 〒一九八青梅市青梅一二〇
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