神奈川の石佛巡り                             石 川 博 司

    目 次 ・・
    
         二宮行 昭和六十一年 ・・・・・・・
         海老名の石仏 平成二年 ・・・・・
         厚木の石仏 平成二年 ・・・・・・・
         相模原の石仏 平成二年 ・・・・・・
         川崎を歩く 平成八年 ・・・・・・・・
         幸区を歩く 平成九年 ・・・・・・・・
         中野島を歩く 平成九年 ・・・・・・
         
         あ と が き ・・・・・・・・・・・・        (横須賀、横浜、津久井など重複分は除きました。)
二宮行  多摩石仏の会二月例会

 昭和六十一年二月九日(日)は、多摩石仏の会二月例会である。東海道線二宮駅改札口前に九時三〇分集合。前日に雪が降ったのと、遠距離のために参加者が少ない。今日も平塚辺は小雪だった。案内役の中山さん、林さん、鈴木さん、犬飼さんと私の五人である。この位の人数がまとまりがあって、写真を撮るにしても動きやすい。

 最初に訪ねたのは龍沢寺(曹洞宗)、入口にある年不明の双体道祖神(39×27センチ)が出迎えてくれる。隣には馬頭観音がある。中里の塔を見てからこの寺に寄る予定であったが、道を間違えたのでここから調査を始める。境内の墓地に
  1 安永8 柱状型  青面金剛                 51×24×19があり、横に六体の観音が並ぶ。左端にある十一面観音に「奉造立七観音菩薩」の銘が刻まれているから、以前は七観音が揃っていたのだろう。その先の墓地入口に、
  2 延宝3 板碑型  「〇 病即消滅不老不死」三猿       85×37
  3 天和1 板碑型  日月「三世不可得心」三猿         95×37がある。それらの塔の一段高いところに、年不明の「地神祠」と刻まれた自然石塔(66×42センチ)と並んで、
  4 寛文7 板碑型  日月「過去現在未来」三猿         80×41がみられる。この寺にある三基の文字庚申はいずれも個性的で、これだけ観ただけでも大きな収穫である。なぜこのような塔が広く知られていなかったのだろう。
 新幹線のガード下を過ぎて東大農学部の二宮果樹園の北にある坂道を少し登ると、右手の一段高いところに
  5 寛文8 板碑型  「奉造建庚申供養」三猿          106×46が立っている。横には、八王子日吉町の人が建てた石祠がある。

 大応寺(曹洞宗)の門前には、昭和五十七年造立の六地蔵がみられ、知足寺(浄土宗)境内にある七観音と元文元年に造立された念仏供養の三面馬頭観音が注意をひく。妙安寺(日蓮宗)の境内には浄行菩薩がみられる。等覚院(真言宗)で昼食を済ませてから、
  6 年不明 光背型  青面金剛・三猿
  7 寛文11 笠付型  「(梵字)ア バン ウン」三猿
  8 享保6 柱状型  「庚申講供養」の三基を調べる。ここの青面金剛は、左第三手に大きなショケラを持つ舞勢で、これまでこの種のものを見たことがない。

 東海道の新旧の道が合流する山西の火の見櫓下には、享和二年造立の自然石「天社神」塔(76×66センチ)、寛政二年の双体道祖神(38×30センチ)、年不明の三基(文字道祖神と二基の双体道祖神)などがある。

 宝蔵寺の門前には、七観音が揃っている。馬頭観音の台石には「奉新造立 七観世音 二世安楽諸願成就」とあり、聖観音の台石には享保十七年の年銘が刻まれている。しかし准胝観音の台石は文政四年となって食い違いがある。境内には
  9 寛文8 笠付型  「奉納山王供養菩提也」三猿        86×31×31
  10 享保12 板駒型  日月・青面金剛・一鬼・三猿        74×35がある。薬師堂の境内には
  11 享保3 笠付型  「奉造立庚申供」三猿           61×21×22がみられる。

二宮の見学はここで止めるが、まだ時間があるので押切坂上のバス停から乗車し、大磯町に向かう。山王町でバスを降りて日枝神社に行く。境内には、多くの庚申塔が並んでいる。右端から順に見ると
  12 寛文12 石 祠  二猿(半壊)               51×42×53
  13 年不明 光背型  青面金剛                 35×28
  14 宝永4 光背型  「奉造立庚申供養」三猿          97×46
  15 延宝8 板碑型  「奉造立庚申供養」三猿          97×40
  16 元禄5 板碑型  日月「奉造立庚申供養祈所」        95×45
  17 元禄  柱状型  青面金剛・二鶏・三猿           91×30×27
  18 元禄16 駒 型  日月「奉造立庚申供養祈所」三猿      72×30×23
  19 享保11 光背型  「庚申供養」二鶏・三猿          60×30
  20 享保16 光背型  日月「奉請庚申供養」           45×26
  21 元文5 光背型  日月「庚申供養宝塔」三猿         55×29
  22 寛延1 駒 型  「庚申供養之構中」三猿          75×33×16
  23 延享1 板駒型  「奉建立庚申供養」三猿          55×25
12の二猿石祠は、右側面と背面が残るだけで、おそらく欠失した左側面にも猿が陽刻されていたものと思われる。現在、石祠の中に置かれている青面金剛は、中尊ではあるまい。元禄の青面金剛は、上二手に弓と矢を持ち、中央手を合掌、下二手にショケラと宝輪をとる異形の合掌六手像である。
今日の例会もこここまで、バスで平塚まで出て解散する。
             〔初出〕『私の石仏巡り 昭和編』(ともしび会 平成七年刊)所収
海老名の石仏

 平成二年四月十五日(日曜日)は、一人で海老名市内を歩いた。次週の二十二日(日曜日)に行われる多摩石仏の会厚木見学会の日取りを一週間誤ったためである。

 多摩石仏の会が行なう厚木見学会と私とは相性が悪い。先の昭和六十一年八月二十四日の会では、小田急線の本厚木駅と厚木駅と間違えたために、バスの出発の時間に間に合わず、市街地を一人で廻った。今回は、日取りを一週間誤って早く行って空振りである。悪いことは続くもので、石仏の資料を調べようと、寿図書館や中央図書館に行っても特別休館で目的が果たせない。場所を変えて海老名に行って市立図書館を訪ねたが、ここも特別休館である。

 小田急線厚木駅で手に入れた小田急電鉄発行の「68駅気まま旅 海老名駅道草ウォーク」の小冊子があったので、二つある中から「ゆったりと続く、田園風景」のコースを選ぶ。パンフッレトに示された
「海老名駅 徒歩約二〇分〜浅間神社 徒歩約一三分〜お松の碑 約二〇分〜秋葉山古墳 徒歩約二〇分〜井戸坂(今泉氏居館跡) 徒歩約五分〜日月神社 徒歩約一〇分〜浅井の水 徒歩約一五分〜海老名駅」を逆に歩く。

 国分でパンフッレトのコースより一本、小田急線寄りの小道を行くと、右手に稲荷社があって、その入口の路傍に
  道1 明治28 柱状型 「道祖神」         36×17×13
  庚1 年不明 笠付型 「庚申供養」三猿      47×25×18が並んでいる。庚1は、側面の「元甲申天」と「吉日」が読める。その干支に該当するのは宝永元年である。小冊子の指示するコースの道に出て、坂を下って登る途中に
  道2 年不明  光背型 双体道祖神               49×20があり、傍らに宝篋印塔や五輪塔の残欠がみられる。その背後に
  庚2 明治22 柱状型 「庚申塔」       45×12×12
  庚3 明治19 柱状型 「庚申塔」       46×12×12
  庚4 明治17 柱状型 「庚申塔」       42×13×11
  庚5 明治16 柱状型 「庚申塔」       45×13×11
  庚6 明治15 柱状型 「庚申塔」       47×12×11
  庚7 明治14 柱状型 「庚申塔」       45×12×12の六基の庚申塔が並んでいる。いずれも、左側面の年銘が違っていても、右側面には「願主 金子定右エ門」と刻まれている。同じ願主が、どうして明治十四年から二十二年までの八年間に六基の庚申塔を立てたのか、知りたいものである。これらの塔に関する文書が残っていると面白いのだが。

 日月神社を訪ねた後で、上今泉の常泉院に向かう。寺の入口に
  道3 年不明 光背型 (上欠)双体道祖神     37×33が文政二年の不動と並んでいる。傍らには宝篋印塔の残欠がある。境内に入り、墓地で
  庚8 元禄12 笠付型 青面金剛・三猿        57×25×19を見る。主尊は、左上方手に蛇を持つ合掌六手像である。

 秋葉山古墳群へ通じる坂道の両側には、桜の古木が並ぶ。二週間早ければ、桜花の満開を見られたであろう。三基の古墳を廻って昼食にする。この頃から雨が降り出してくる。古墳群から小田急線の踏切を横切り、切通しを下ってお松の碑に出る。パンフレットに載った写真には、合掌の地蔵とおぼしき石仏が写っているけども、現在は見当たらない。

 上郷の浅間神社に近かずいた頃に雨が激しく降ってくる。小さな社で、小降りになるまで雨宿りする。雨が治まったことろで、浅間神社を訪ねる。神社の入口には
  庚9 明和8 笠付型 「庚申塔」      91×32×29
  道4 年不明 柱状型 「道祖神」        45×20×14が並んでいる。道4の左側面には「富士宮氏子」と刻まれている。
パンフレットのコースを一巡したので、JR相模線海老名駅に向かう。
             〔初出〕『私の石仏巡り 平成編』(ともしび会 平成七年刊)所収
厚木の石仏 多摩石仏の会四月例会

 平成二年四月二十二日(日曜日)は、多摩石仏の会の四月見学会で、厚木市内を関口渉さんの案内で廻る。小田急線本厚木駅改札口前に午前九時三〇分集合する。集ったのは、鈴木俊夫さん・林国蔵さん・山村弥五郎さん・多田治昭さんと女性の高橋ソヨさん・大野純子さん・武蔵関の山村さん、私を含めて総勢九名である。

 駅から第一見学地の厚木町に向かう。関口さんから、青果市場にある双体道祖神の所在地を見付けるために、移転先まで行って調べてという苦心談を聞きながら厚木町一番にある木祠に着く。祠内には
  道1 年不明 柱状型  双体道祖神               51×31が安置されている。祠には「道祖神」の木札が立っている。文中に「合祀の石造物は室町時代のもので年代等不祥である」とあるのは、宝篋印塔の残欠であろう。年代が不祥で室町時代の作と書くのはおかしのではないか。「年代等不祥であるが、室町時代の作と推定される」というのであろう。次いで同町の厚木神社を訪ねる。境内には
  庚1 年不明 (笠付)「奉供養三王大権現」           97×39が倒れて埋まっている。寛文期の造立であろう。上部に猿の陽刻があったと思われる。高橋さんから柏餅の差入れがあり、皆で賞味する。
 厚木神社から東町を抜け、元町八番にある武田稲荷に向かう。稲荷は、青木氏宅の一隅にある。そこには石祠の他に
  地1 天保4 柱状型  地天                  78×31×31がみられる。地天像は、右手に矛、左手に鉢を執る武装天部形である。

 松枝一丁目の日吉神社は、社殿には、赤い顔の猿の木像が安置してある。境内には
  庚2 年不明 (笠付)「庚申供養塔」三猿        69×32×28
  地2 天保15 自然石 「堅牢大地神」          141×55が並んでいる。近くの小鮎川の土手通り沿いには
  庚3 天明8 柱状型 「庚申塔」        72×27×28がある。「此方 いゝ山ミち」「此方 おきのミち」「此方 ほしのやミち」と本体の三面に道標銘を刻む。立札によると移動した塔である。

 小鮎川に架かる堺橋を渡り、左に折れて川沿いに歩くと、妻田南一の一に
  道2 文政6 光背型 双体道祖神        39×27がある。そこから妻田の妻田神社に向かう。神社の境内には
  道3 元治2 柱状型 「道祖神」      57×21×20
  庚4 享保1 灯 篭 「奉納柳大明神庚申供養」      66×22×22が見られる。庚4の竿石に刻まれた「柳大明神」とは妻田神社のことである。この頃から雨が降り出してくる。

次いで妻田薬師を訪ね、裏手にある
  庚5 寛文8 流造型 一像・三猿        47×40×40を見る。右側面に線彫りされた立像が何か不明である。石祠の総高は 103センチ。薬師の境内には
  庚6 寛政9 柱状型 「庚申塔」      63×27×23
  道4 昭和5 駒 型 「道祖神」      38×22がある。お堂の前で昼食をとる。雨が強くなったので一時間ほど足止めになる。

工事で車両通行止めになった下小鮎橋の近く川沿いに
  道5 年不明 光背型 双体道祖神「道祖神」      49×30が立っている。台石に「道祖神」の文字が刻まれている。

 下小鮎橋を渡り、林に入って清川厚木線を歩く。交差点の近くの路傍に
  道6 年不明 柱状型 双体道祖神         60×26×22があり、林公民館前には拱手の単体像が見られる。道祖神かどうか。林交差点には
  庚7 享和2 柱状型 「庚申塔」        82×31×28が立つ。右側面に「南かすや 北おきの道」、左側面に「東あつき道」の道標銘を刻む。
その先の路傍に
  道7 年不明 自然石 「道祖神」       58×26
  道8 寛政10 柱状型 双体道祖神        61×28×21が並んでいる。の背後の丘に
  庚8 年不明 流造型 三猿        40×40×36があり、石祠の中には懸仏が安置されている。懸仏は、直径が23センチほどで、上部に弥陀定印の坐像、下部に向かい合せの二猿がある。右上に「庚申供養 相州愛甲郡毛利荘林」、中央下部に「願主
 伊右門(等四名)」、左上に「大工 荻野木□ 干時寛永九壬申正月吉日」の銘文が見られる。今日一番の目玉である。石祠の総高は94センチ。

 林から戸室へ出て、子之神社にを訪ねる。境内には
  道9 年不明 光背型 (上欠)双体道祖神         27×23
  道10 年不明 光背型 (上欠)双体道祖神          31×30
道11 年不明 光背型 双体道祖神       48×26の三基が並んでいる。道11には、像の右に「奉納道祖神」とあり、下部に「上戸室」の地銘が刻まれている。

 子の神社から最後の見学地である恩名の興福寺を尋ね、
道12 文久4 五輪塔 「道祖神」     総高78を見る。五輪塔の地輪の正面には「道祖神」とあり、右側面には「恩名村上 子供中」、左側面には「文久四甲子年 正月十□□ 願主 溝呂木右□□ 高橋七左エ門」と刻まれている。道祖神としては珍しい形態である。

 恩名から小田急の本厚木駅に向かう。駅前で解散し、皆と別れてから鈴木俊夫さんと中央図書館に行く。郷土資料を調べると『県央史談』の第一四号と第一五号に気になる論考が載っている。その論考というのは、北村精一氏の「山王信仰」(第一四号)と鈴村茂氏の「県央地区の石造物」(第一五号)である。さっそくコピーを依頼する。

 本厚木駅から帰りの車中で北村氏のコピーを読むと、妻田薬師の梵鐘に「庚申供養」銘がある。雨宿りで約一時間いたのだから、梵鐘の銘文を確かめればよかった。といっても後の祭である。

[付 記] 
厚木市内の石仏については、厚木市教育委員会が昭和四十七年二月一日に発行した『野だちの石造物』に詳しい。庚申塔は一四一基の調査資料が記載されており、林や妻田の庚申石祠にも触れている。同書によると、厚木神社の塔(庚1)は寛文九年七月の造立である。つまた薬師裏の石祠に「庚申供養 山王権現」の銘文が刻まれていつと報告されているが、私は見落としている。なお、道祖神は奉納物を加えて二〇八基、地神塔は一五基の調査資料が載っている。

また、横田甲一さんが『庚申』第六八号(昭和四十九年七月刊)に「厚木市内の庚申懸仏と庚申石祠」を、同誌第七四号(昭和五十二年五月刊)に「厚木市中戸田八幡社の山王塔」を書かれている。第六八号では横田さんは、林の庚申懸仏に触れて「現在は、山王神社として、寛文九年造立の庚申石祠の祀られている」と述べている。ここの石祠の造立年代を見逃している。
             〔初出〕『私の石仏巡り 平成編』(ともしび会 平成七年刊)所収
相模原の石仏 多摩石仏の会七月例会

 平成二年七月八日(日曜日)は、多摩石仏の会七月例会である。林国蔵さんの案内で神奈川県相模原市の田名地区を廻る。JR相模線橋本駅改札口に午前九時二〇分集合。集まったのは、鈴木俊夫・山村弥五郎・明石延男・犬飼康祐・福島茂・遠藤塩子の各氏、林さんから「神奈川県相模原市田名の石仏探訪」のパンフレットが配られる。九時三五分発の茅ヶ崎行きのディゼル・カーに乗り、上溝駅で下車する。

上溝下からバスで終点の望地キャンプ入口に向かう。望地のバス停裏には、
  1 文化2 柱状型 「庚申塔」三猿               81×34×31
  2 安永2 柱状型 「庚申供養」三猿              65×26×18があり、文久二年の自然石「二十六夜塔」もみられる。2には、「北ほしのや道」「南たしま道の道標銘が刻まれている。
田名八五九九番地の路傍には、
  3 宝永6 笠付型 青面金剛・三猿               99×34×33がたっている。猿は三面に配されている。
田名五七八八番地の路傍には、
  4 文政5 柱状型 日月「庚申供養塔」三猿           65×28×25が地蔵の念仏塔と並んでいる。

南光寺の参道には、いろいろな石仏がみられる。安永九年・文政九年・安政二年の二十三夜塔があり、七夜待供養の石仏と思われる聖観音・千手観音・如意輪観音・馬頭観音・十一面観音・勢至菩薩の六体の立像が揃っている。十一面観音には「七月吉祥」とあり、他の観音の台石に「辛丑七月吉祥日」の年銘が刻まれている。

寺の近く、田名五六八〇番地の保育園前のバス停には、
  5 正徳1 笠付型 日月・青面金剛・三猿            89×35×31があり、横に慶応三年の自然石「地神塔」がある。

田名五五四六番地のT字路路傍には、年不明の自然石「道祖神」がたっている。

 田名五〇五五番地の半在家山王神社の境内には、珍しい石仏がみられる。左手にに宝珠、右手に剣を執る坐像で、林さんの持参された『仏像図彙』弁天十六童子のコピーにある生命童子と同じ持物である。嘉永四年の造立。ここには、
  6 元禄8 笠付型 定印弥陀・三猿               63×27×22がある。神社の裏にも石仏がみられ、
  7 大正7 柱状型 「庚申塔」                 41×19
  8 元禄8 笠付型 定印弥陀・三猿               70×30×27
  9 享保17 笠付型 「奉造立庚申供養」三猿           67×28×26が並んでいる。ここには陽物の石棒や陰石などもみられる。

田名五一二一番地の路傍の高台には、正面に「二十三夜塔」、左側面に「二十六夜塔」の主銘を刻む文化十年の柱状型塔がある。
同五〇八三番地のでえの坂の路傍には、昭和九年の「道祖神」と並んで
  10 宝永3 笠付型 青面金剛・三猿               96×39×36がみられる。猿は、三面に配している。

同五〇七二番地の宮崎藤次さんの墓地で弥陀一尊種子の板碑を拝見した後で、堀の内自治会館(田名四九九〇番地)を訪ねる。会館の近くに相模三大陽物の一つといわれる石棒をみる。檻の中に置かれている。長文の銘が刻まれている。陽石の前に
  11 享保1 笠付型 日月・青面金剛・三猿            56×22×22がある。この辺りの特色である三猿が三面に配されている。左手にある堂内には、蚕影山の金色姫の木像が祀られている。こうした像は珍しい。

旧大山街道の路傍(田名三二八番地)には、石仏が並んでいる。その中に
  12 宝暦3 柱状型 三猿                    73×25×20
  13 年不明 柱状型 三猿                    77×31×24の二基がある。共に三面の下部に猿を配置する。

水郷田名自治会館(田名九六四番地)の前には、
  14 文化2 柱状型 「庚申塔」三猿               65×29×25などの石仏が並んでいる。この庚申塔の台石に浮彫りされた三猿の姿態が珍しい。横には文政五年の柱状型「一帆勢至菩薩」塔がみられる。

滝集会所(田名一一八四番地)には
  15 元文5 笠付型 日月・青面金剛・三猿            75×28×29
  16 年不明 断 碑 三猿                    28×22×19の二基がある。16は、猿が三面に陽刻されている。

田名一二五六番地には、
  17 明和5 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿         53×25×22があり、
同一二六三番地には、
  18 安永2 柱状型 「庚申供養塔」               68×29×24がみられる。

四ツ家石神社(田名四三二一番地)の境内には、文久三年の自然石「地神塔」や寛政六年の柱状型「二十三夜供養」塔があり、
  19 宝永6 笠付型 青面金剛                  82×31×26
  20 正徳4 柱状型 「(奉造立)庚申供養」三猿         55×27×18の二基もある。
バスで上溝駅に向かう。

 解散後、林さんの案内で鈴木さんと犬飼さんと共に上溝の石仏を廻る。
まず上溝七丁目一六番にある山王神社を訪ね、境内にある
  21 寛保2 笠付型 「奉請青面金剛童子」           71×27×20をみる。次いで二六番にある
  22 天保3 柱状型 日月「庚申塔」               62×28×22を写す。左側面に刻まれた年銘の「雁来月吉旦」が変わっている。横には、文化十四年の柱状型「堅牢地神塔」がある。
同丁三一番の路傍にある
  23 安永5 柱状型 「ウーン 庚申塔」             86×36×30をみてから、
上溝二五七八番地にある
  24 元文2 笠付型 日月・青面金剛・三猿            86×31×29を訪ねる。

これを最後に上溝駅へ向かう。
             〔初出〕『私の石仏巡り 平成編』(ともしび会 平成七年刊)所収
川崎を歩く 多摩石仏の会五月例会

 平成八年五月十九日(日曜日)は、多摩石仏の会五月例会である。午前九時三〇分に小田急線読売ランド前駅に集合、多田治昭さんの案内で川崎市多摩区南部をまわる。集まったのは、鈴木俊夫さん・林国蔵さん・明石延男さん・関口渉さん・犬飼康祐さん・萩原清高さん・遠藤塩子さんの総勢八人である。

 最初の見学は、通りから少し入った大作自治会館(西生田二−一二)に立つ
 1 正徳2 光背型 日月「奉造立庚申供養二世安楽處」三猿    70×31である。日月は線刻、三猿は正面を向いている。ここには、聖徳太子千三百年記念の石祠がみられ、石工銘の「登戸石工 吉沢耕石」が台石に刻まれている。これも台石に彫られているが、施主の生田村太子講員の氏名が「姓名イロハ順」というのは、序列のいざこざを考えてのことだろうか。

 栗谷三丁目九番にある山王権現社には、境内に二基の燈籠が建っている。
  参1 元文5 燈 籠 「奉納山王権現御寳前」          59×21×19
  参2 延享1 燈 籠 「奉納山王権現御神前」一猿        57×22×27がそれで、参1は庚申年の造立、参2の猿は子猿を抱くようにも思われるが、欠けていてはっきりしない。なお参2には「願主 岸場勾當勢都」の銘がある。

 栗谷町会会館(栗谷二丁目一番)の横には覆屋があって、中には右端に嘉永七年の「堅牢地神」塔(71×29×25センチ)、左端に文化元年の「南無妙法蓮華経 道祖神」塔(70×25×19センチ)がみらる。道祖神の正面には主銘の他に「一天四海 皆帰妙法」の偈文、右側面には「溝口村 宗隆寺日保(花押)」とあり、左側面には「五反田村庚申待搆中」、頂部には「大栗谷□(村か)」の銘文がある。両塔の間にはさまって
  2 元禄3 板駒型 日月・青面金剛・三猿            67×35
  3 宝暦11 板駒型 日月・青面金剛・三猿            73×32の二基の庚申塔がある。2は、主尊が合掌六手であるが、通常、下方手に持つ弓と矢が上にあり、下方手に索と蛇をとる。3は、2同様に合掌六手立像であるが、これは通常にみられる上方手に宝輪と矛、下方手に弓と矢を持つ。頭上に「南無妙法蓮華経」があり、像の右に「奉造立帝釈天王庚申講中」と、日蓮宗の影響を受けたものである。

 南生田二丁目二八番の坂の中途には、石祠の前に二基の庚申塔が並んでいる。
  4 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿            89×36
  5 享保16 板駒型 日月・青面金剛・三猿            61×33共に合掌六手の青面金剛であるが、4は上方の左手に索を持つのが変わっている。

 長沢の諏訪神社で昼食をとる。食後、参道に並んで立っている
  6 元禄5 光背型 日月・青面金剛・三猿            73×32
  7 延享2 笠付型 「庚申供養塚」               62×23×15をみる。6の年銘は、「干時元禄五壬申天無神月廾一日」と「神無月」を逆にしている。祈念銘も「奉造立庚申庚申尊像伸供養儀者也現安穏後生善処」と長い。

通りに出て右の路傍に小祠(長沢四丁目一一番)があって、中に
  8 元禄16 板駒型 日月・青面金剛・三猿            73×34が安置されている。合掌六手であるが、上方手に索と矛(蛇かも)を持つ。

 長沢一丁目二九番の盛源寺の入口には、川崎市の郷土重要資料の標識が立ち
  9 寛文10 光背型 「奉彫刻山王大権現為供養也」三猿      80×39がみられる。地銘は「武州橘郡菅生郷長沢村」とある。標識に記された「長尾村」というのは何を指すのだろう。境内には、佛足石がみられる。

 多摩区から宮前区に入り、菅生二丁目二九番の秋月院の入口には
  10 元禄10 光背型 日月・不聞猿「奉修庚申供養」        51×24がある。先の栗谷・山王権現社の一猿燈籠とは異なり、この時期にはすでに庚申塔に三猿が普及しているせいか、一猿でも不聞の形である。

 枡形五丁目一八番の路傍には六地蔵の祠があり、道標銘の刻まれた弘化四年「奉修道六神」駒型塔(45×18×8センチ)や交通安全地蔵、三面馬頭など共に
  11 元禄5 板駒型 日月・青面金剛・三猿            71×33がみられる。上部に刻まれた種子は「カーン」か。合掌六手立像で、「奉造立青面金剛像庚申供養所」とある。同じ青面金剛を主尊としても、11が「青面金剛」としているのに大して、これまで見てきた3が「帝釈天王」、4が「庚申像」、6と8が「庚申尊像」と、表記がさまざまである。

 枡形六丁目の広福寺の入口には
  12 年不明 板駒型 日月・青面金剛・三猿            67×31がある。その先には
 13 年不明(板駒型)日月・青面金剛・二鶏・三猿         57×29がみられる。今日これまで廻ってきた青面金剛には、鬼も鶏もみられなかったが、ようやく二鶏が13に陽刻されている。ここにある文政五年の柱状型「サク 廾三夜塔」(56×29×28センチ)は、両側面と裏面に「西 大山道」「東 向□道」「南 えのしま かまくら 道」の道標銘が刻まれている。墓地にある弥陀三尊のマンジュウには「五智如来」の銘が刻まれている。近くにある光背型塔に浮彫りされた六地蔵も見るべきものだろう。

 枡形山の山頂にある展望台で四方を見渡してから、日本民家園(枡形七丁目一番)を訪れる。パンフレットに「園路には道祖神・庚申塔・馬頭観音・道標などの石造物を展示」と記されているように、園内の三ヵ所には
  14 万延1 自然石 「庚申塔」                 計測なし
  15 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿            計測なし
  16 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿            計測なし
 17 享和2 柱状型 「庚申塔」                 計測なしの四基の庚申塔が見学通路の傍らに立っている。14・15・16の三基には立札がみられ、旧所在地がわかる。14は、長野県南佐久郡八千穂村、15と16の二基は、市内多摩区登戸にあったものである。17には、旧所在地を示す立札がないが、塔面に刻まれた「南神奈川道」や「東江戸道」などの道標銘から判断して川崎市内の塔である。

安立寺(東生田一丁目二七番)の帝釈堂の前には
  18 文化X 駒型  日月・青面金剛・三猿            67×27×18があり、主尊は上方手に日月を持つ合掌六手。右側面には「南無妙法蓮華経」、左側面には「石橋供養」銘がある。青面金剛の下にも三猿があったようで、台石の三猿は後刻と思われる。

 最後の見学は、宿河原二丁目四四番の龍安寺、入口には寛文九年の念佛供養地蔵を中において、両脇には
  19 寛文9 光背型 「奉立庚申供養之事同行拾人」三猿      94×40
  20 年不明(板駒型)日月・青面金剛・二鶏・三猿         85×39の二基がみられる。頂部の欠けて20は、今日二基目の二鶏付青面金剛である。墓地には、角柱の三面に二体ずつ配した六地蔵の上に子供を抱く地蔵座像(文化九年)がみられる。無縁塔の中には、宝永三年銘の馬頭観音と十一面観音があり、共に理鏡妙融信女の菩提に建てられたものである。境内には、恵比須・大黒天の丸彫り像がある。

 龍安寺からJRの登戸駅に向かい、帰途につく。

 今回廻った石仏の年表を作ると、次の通りである。
 〔庚申塔年表〕
  1669 寛文9 光背型 「奉立庚申供養之事同行拾人」三猿   宿河原2 龍安寺
  1670 寛文10 光背型 「奉彫刻山王大権現為供養也」三猿   長沢1  盛源寺
  1690 元禄3 板駒型 日月・青面金剛・三猿         栗谷2 栗谷町会会館
  1692 元禄5 光背型 日月・青面金剛・三猿         長沢4 諏訪神社
  1692 元禄5 板駒型 日月・青面金剛・三猿         枡形5 地蔵堂
  1697 元禄10 光背型 日月・不聞猿「奉修庚申供養」     菅生2 秋月院
  1702 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿         南生田2
  1702 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿         枡形7 日本民家園
  1702 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿         枡形7 日本民家園
  1703 元禄16 板駒型 日月・青面金剛・三猿         長沢4 路傍
  1712 正徳2 光背型 日月「奉造立庚申供養二世安楽處」三猿 西生田2大作自治会館
  1731 享保16 板駒型 日月・青面金剛・三猿         南生田2
  参考 元文5 燈 籠 「奉納山王権現御寳前」        栗谷3 山王権現社
  参考 延享1 燈 籠 「奉納山王権現御神前」一猿      栗谷3 山王権現社
  1748 延享2 笠付型 「庚申供養塚」            長沢4 諏訪神社
  1761 宝暦11 板駒型 日月・青面金剛・三猿         栗谷2 栗谷町会会館
  1802 享和2 柱状型 「庚申塔」              枡形7 日本民家園
  180X 文化X 駒型  日月・青面金剛・三猿         東生田1安立寺
  1860 万延1 自然石 「庚申塔」(旧・長野県)       枡形7 日本民家園
  ・・ 年不明 板駒型 日月・青面金剛・三猿         枡形6 広福寺
  ・・ 年不明(板駒型)日月・青面金剛・二鶏・三猿      枡形6 広福寺
  ・・ 年不明(板駒型)日月・青面金剛・二鶏・三猿      宿河原2 龍安寺
  〔石仏年表〕10
  1804 文化1 柱状型 「南無妙法蓮華経 道祖神」      栗谷2 栗谷町会会館
  1847 弘化4 駒 型 「奉修道六神」(道標)        枡形5 地蔵堂
  1822 文政5 柱状型 「サク 廾三夜塔」(道標)      枡形6 広福寺
  1854 嘉永7 柱状型 「堅牢地神」             栗谷2 栗谷町会会館

             〔初出〕『私の石仏巡り 平成編』(ともしび会 平成七年刊)所収
幸区を歩く

 平成九年八月十日(日曜日)は、川崎市幸区小向西町の八幡神社にいく。この日に小向の獅子舞が神社に奉納されるからだが、残念ながら奉納舞は午前九時からで着いた時には終わっていた。それでも夜九時から小向会館で獅子舞がみられるというから、待つことにして幸区内の庚申塔を廻って時間をつぶす。

 先ずは小向会館から北加瀬の寿福寺を訪ねる。
途中の路傍(北加瀬一−七−二七)では
 1 年不明 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      86×36×20が木祠の中に安置されている。剣人六手の青面金剛(像高55センチ)で、下部に三猿(像高7センチ)がある。右側面に年号が刻まれているが、よく読めない。左側面には「武州橘樹郡□□之領加瀬村講中」とある。

 次は、目的とした寿福寺(北加瀬の一−三七)で、境内にある木祠には、次の二基の庚申塔が並んでいる。
 2 寛文9 丸 彫 如意輪(二手)               127×59
  3 寛文4 丸 彫 地蔵・三猿                168×60
 2(像高108センチ)の背面には、「奉造立観世音庚申供養為二世安楽也 干時寛文九己酉天霜月吉祥日 武州橘樹郡稲毛領 北加瀬村同行九人 施主敬白」とあり、下部に「飯田□□□」などの九名の施主銘が刻まれている。清水長輝氏の『庚申塔の研究』の七七頁に記述がみられる。
 3(像高151センチ)の背面には、「カ 奉造立地蔵菩提庚申供養為二世安楽也 武州…………寛文四甲辰年 □月廾四日」とあり、十人ほどの施主銘がみられる。下部には正面向きの三猿(像高14センチ)が浮彫りされている。

 寿福寺から小倉の無量院に向かう途中、北加瀬一−三八の路傍にある木祠の中の
  4 元文2 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      73×39をみる。合掌六手像(像高45センチ)で、下部に三猿(像高11センチ)がある。像の左右に「庚申講中」「元文二丁巳年十一月」の銘文が刻まれている。

 無量院に向かう途中で南加瀬で方向を間違えて同じ道を廻ってしまい、時間の浪費となる。ともかく小倉の杉山神社にでて、入口の木祠に安置された
  5 享保20 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    101×43をみる。横には

       夢見ヶ崎 庚申様とその由来
   一、奉 斎 地
       多摩丘陵の一部、元「加瀬山」と呼ばる
       伝承によると
       鎌倉北条第四代高時代参の祈願所社殿の鎮座地 太田道灌築城の意図ゆかりの夢見ヶ
       崎の地元この山麓南端、今の日吉交番所在地内にあり
       戦後急速に都市化し、交通の要地となったので ここに旧東前庚申講の諸人によって
       此の地を遷座地と定め 昭和五十三年初夏に遷座祭竝びに庚申祭を執行 現代は利益
       をもたらす福神として信仰される
   二、奉斎時期
      1、近世江戸時代
      2、現御神体像は江戸末期のものと推定される 「石像及び有志氏名の風地状態より」
   三、起源と由来
       起源は古く中国に起り 「人間の腹中に三尸という、三匹の虫がひそんでいて、わず
       かな罪過も許さないが、庚申の夜人が眠っているすきに、天上に上り、その罪過を天
       帝に告げ、人間の命を奪う」とされている。
       日本で中世(平安朝)貴族社会に受け入れられ、近世武家時代には民間に広く受け入
       れられる。
       神道では「申」から猿田彦神を奉斎する。そして道祖信仰と習合し、庚申の夜には人
       々が集まり慎みの中に談合し一夜を明かす習俗として、各地に広まった。
       庚申の日は六十日目に、年は六十年目に、この六十年目には庚申塔を建てることが多
       く、その組織は農耕を主とする村落生活と密接に結びついている。
         以上畧記 夢見ヶ崎庚申講

昭和五十三年六月二十七日の説明板がみられる。主尊は剣人六手の立像(像高55センチ)で、下部に三猿(像高10センチ)の陽刻がある。両側面の銘文は読めないが、三猿の下に刻まれた「小倉村 講中 八人」の銘はわかる。

 最後に小倉の無量院を訪ねる。境内には、次の二基の庚申塔がみられる。
 6 寛文1 燈籠 六地蔵・三猿                82×30
  7 延宝8 地蔵・三猿                  101×50
 6の火袋には六地蔵(像高19センチ)が浮彫りされ、竿石には三猿(像高17センチ)、その上に「奉造立」、節の下には「□庚申供養為現當二世悉地……」、その左右に「武州橘樹郡……」、「寛文元辛丑年九月吉日 施主敬白」の銘文が刻まれている。
 7は中央に延命地蔵の立像(像高81センチ)、下部に三猿(像高12センチ)がある。地蔵の右に「奉造立地蔵菩薩庚申供養為現當二世也」、左に「延宝八庚申天四月吉日 武州…」の銘がみられる。

 この無量院を最後に獅子舞の会場である小向会館に向かう。
              〔初出〕『平成九年の石佛巡り』(ともしび会 平成九年刊)所収
中野島を歩く

 平成九年十一月三十日(日曜日)は、獅子舞の文献を探しに川崎市多摩区登戸にある多摩図書館を訪ねた。
郷土資料の棚を廻って市内で発行されている郷土研究会の機関誌をみていくと、中に庚申塔に関する文献がみられた。以下、みた順に列記すると
 1 小林美年子「お庚申 150年の歩み」『川崎研究』第30号32〜33頁 川崎郷土研究会 平成4年刊
 2 白井 禄郎「宮前区馬絹の三つの庚申講と足尾町の庚申総本社猿田彦神社」『川崎研究』第30号4〜6頁 平成8年刊
 3 高田 幸雄「市内の道標を尋ねて」『季刊文化かわさき』第4号35〜43頁 川崎市総合文化団体連絡会 昭和52年刊
 4 藤嶋とみ子「小杉・油屋の庚申塚」『文化かわさき』第15号50〜51頁 川崎市総合文化団体連絡会 平成5年刊
 5 多摩文化財愛護ボランティア『庚申塔のまとめ……多摩区』 同会 昭和56年刊
 6 三堀 晴男『川崎の庚申塔散歩 そのささやかなる記録』 同人 平成9年刊である。この他にも石佛に関するものでは
 7 中村 亮雄「川崎市内の道祖神について」『川崎市文化財調査集録』第1集35〜47頁 同市教育委員会
 8 木村 清人「聞書き石材店二百年」『文化かわさき』第11号13〜21頁 川崎市総合文化団体連絡会 平成1年刊
 9 藤岡 信夫「井田耕地最寄の地神講」第15号33〜35頁 川崎市総合文化団体連絡会 平成5年刊が眼についた。

 収穫だったのは、三堀晴男氏の『川崎の庚申塔散歩 そのささやかなる記録』をみつけたことである。これには、庚申塔の写真がカラーコピーが口絵としてのっており、川崎市内二八二基の資料と分析が記載されている。川崎では、古くは八代恒治さんの『川崎市の庚申塔』(同人 昭和40年刊)や角田益信さんの「川崎市の庚申塔」(『たちばな』第32号 昭和40年刊)が発表されているし、昭和五十五年には市教育委員会から『川崎市石造物調査報告書』、昭和六十一年には川崎市博物館資料調査団の『川崎の庚申塔』が刊行されている。これに三堀氏の著作が加わったわけである。

 川崎に行ったのは文献調査もあるが、もう一つ多摩区中野島にある融通念佛塔を確認するためであった。これも獅子舞に関する手掛かりがないかと、以前、中村吾郎氏の『南武線歴史散歩』(鷹書房 昭和63年刊)をみていたら、中野島に融通念佛塔があるこがわかった。さきに挙げた『川崎市石造物調査報告書』に当たったところ、川崎市内では中野島にある塔が唯一の融通念佛塔であった。現在おこなっている国立市石造物調査の調査報告書を書く上で必要と考えて、ようやく時間を作ってでかけたわけである。

 融通念佛塔は、多摩区中野島三丁目一七番一〇号の路傍にみられる。合掌六手の青面金剛を浮彫りする享保十五年塔と年不明の馬頭観音刻像塔が安置された木祠の手前にみられる。隅丸の柱状型塔で、正面に「永代融通念佛盟約塔」、右側面に「武〓中野嶋村 融通念佛當村男女講中」、左側面に「維時天明三癸卯歳二月吉祥日 武〓府中 安養寺廾七世 □□全道□」の銘が刻まれている。正面の主銘の左右には銘文があるが、左の「朝暮十遍己上」は読めるが、右はわかない。これまでの多摩地方にみられる塔から判断すると、「爲父母報恩」と考えられる。下部にはよく読めないが、「例會毎月一集 別會正月廾三日 三月二十三日 十月二十三日」とある。

参考までに同年に造立された国立市谷保・滝の院住職墓地にある塔をみると、塔の正面に「永代融通念佛盟約塔 爲父母報恩 朝暮十遍己上 例會毎月一集 別會正月廾三日 三月二十三日 十月二十三日」とある。右側面に「武州多摩〓(郡の異体字) 谷保村上下 念佛講中」、左側面に「經曰末〓(法の異体字)滅之時特留此經百年在世接引 衆生文不敏勧誘衆約月會其日朝暮如右冀 永興衆勵此行興經不滅茲銘石以傳不朽者也 維持天明三癸卯年正月府中安養寺廿七世 竪者法印全道誌」の銘文を刻む。

 塔にみられる「全道」は、府中市本町一丁目にある安養寺の第二七世の僧で、第二六世の義全の教えを受けてその跡を継いでいる。寺の墓地には、寂年の「寛政七己卯年正月初三日」を刻む無縫塔がみられる(註1)。全道が府中を中心に融通念佛を広めたことは、各地で造立された石塔の銘文からうかがえる。後で示す一覧表でわかるように、寛政7年の示寂後に建てられた塔に「全道」とその名が刻まれているのは、全道の布教のたまものであろう。

 都内では、全道とは直接関係がないが萩寺の名で知られる江東区亀戸・龍眼寺にある正徳五年造立の融通念佛塔が知られている。多摩地方の融通念佛盟約塔については、府中の八代恒治さんが先鞭をつけられた。同氏の報告によると、その分布が府中・多摩・八王子の3市では各2基、稲城・調布・日野・国立・小平・小金井の6市では各1基と12ヵ所である(註2)。
 これまで明になっている府中安養寺・全道が関係した融通念佛塔は、造立年順に一覧表にすると次の通りである。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・西暦・元 号・施   主   銘・塔 形・所    在    地 ・備  考・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・1781・安永10・(梵)石橋供養塔 ・角柱型・稲城市東長沼・上新田  ・(註3)・
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   ・1782・天明2・永代融通念佛盟約塔・角柱型・小金井市貫井南町4 墓地・全道銘 ・
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   ・1782・天明2・永代融通念佛盟約塔・角柱型・小平市鈴木町1 三叉路 ・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・1783・天明3・永代融通念佛盟約塔・角柱型・国立市谷保 滝の院   ・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・1783・天明3・永代融通念佛盟約塔・角柱型・八王子市堀之内 龍生寺跡・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・1783・天明3・永代融通念佛盟約塔・角柱型・川崎市多摩区中野島3ー17・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・1785・天明5・永代融通念佛盟約塔・角柱型・府中市白糸台1 共同墓地・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・1786・天明6・永代融通念佛盟約塔・角柱型・調布市国領町1 常性寺 ・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・1789・寛政1・永代融通念佛盟約塔・角柱型・多摩市関戸 地蔵堂   ・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・1793・寛政5・永代融通念佛盟約 ・角柱型・多摩市落合・唐木田 墓地・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・1797・寛政9・永代融通念佛普門品・自然石・八王子市小宮町 東福寺 ・(註4)・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・1801・享和1・永代融通念佛盟約塔・角柱型・日野市日野 西明寺跡  ・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・1804・文化1・永代融通念佛供養塔・角柱型・府中市四谷4 旧玉川寺 ・所在不明・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この一覧表からみて、中野島の塔は早い時期に建てられたことがわかる。またこの表から全道が影響を与えた範囲がうかがえる。

 話が融通念佛塔に偏ったが、木祠に中に安置された庚申塔は、板駒型塔の正面上部に日月・瑞雲、中央に合掌六手の青面金剛立像、下部に正面向きの三不型三猿を浮彫りする。像の右に「奉待庚申供養」、左に享保十五戌年十月廾五日」の年銘を刻んでいる。

 川崎市博物館資料調査団の『川崎の庚申塔』(同団 昭和61年刊)によると、中野島にある庚申塔は、年代順に示すと次のようになる。
 1 享保15 光背型 日月・青面金剛・三猿          中野島八一二
 2 明治X 駒 型 「庚申塔」               中野島一二七八
 3 年不明 駒 型 青面金剛・三猿(道標銘)        中野島一四三七の三基である。この1をみたことになる。なお「中野島八一二」は、現在は新町名表示では「中野島三丁目一七番一〇号」になっている。

 青面金剛の隣にある馬頭観音は、よく頭部をみれば馬首がるのに気付くが、下部が欠失しているので一見すると合掌六手の青面金剛かと思う。左側面に「當村馬□□」の銘がみられる。
   (註1)八代恒治「融通念仏盟約塔について」『野仏』第11号 多摩石仏の会 昭和54年
       八代恒治「供養塔」『府中市の石造遺物』 府中市教育委員会 昭和55年刊
   (註1)(註1)に同じ。
   (註3)塔の正面が「キリーク 石橋供養塔」であるが、側面に「融通念仏盟約」銘がみられ
       る。
   (註4)表の主銘では、文字数のために「供養塔」が省略されている。

            〔初出〕『平成九年の石佛巡り』(ともしび会 平成九』(年刊)所収
  あ と が き
   
昭和六十一年以来、主に多摩を中心として関東各地の石佛巡りを書き綴ってきた。個人的には獅子舞巡りに重心がかかり、単独で歩くというよりは、むしろ多摩石仏の会や庚申懇話会の例会の比重が高い。
この一三年間に書いた神奈川の石佛巡りを集録しようと考えて、記録の中ら神奈川に関するものを集めて、このような一冊の小冊子にまとめた。本書には集録しなかったが、この他に鎌倉の分がある。

庚申懇話会では、平成八年から十年にかけて鎌倉市内を集中的に廻った。これについては、平成八年分を『鎌倉を歩く 鎌倉の庚申塔』、九年分を『続鎌倉を歩く』、両書を併せて『鎌倉の庚申塔を歩く』にまとめ、十年分は『鎌倉山と佐助を歩く』の題名で庚申資料刊行会から小冊子を発行した。

本書は特に新し発見もないが、このように記録して発表すれば、何かの手掛かりになろう。ご利用いただければ幸いである。

                       ・・・・・・・・・・・・・・・・
                       神 奈 川 の 石 佛 巡 り
                         発行日 平成十一年五月三十日
                         著 者 石  川  博  司
                         発行者 多摩野佛研究会
                        〒1980083 青梅市本町一二〇
 
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