私の「野仏」 第1巻  石川博司   多摩石仏の会 会誌「野仏」寄稿  
昭和47年2月発行の第4集から昭和61年9月発行の第17集まで
庚申塔三題
 1 た た り
 秋多町(現・あきる野市)中菅生には、自然石に「庚申塚」と刻んだ塔がある。昔は、その前を秋留から万寿峠を越えて青梅方面に抜ける主要な道が通っていた。今は、新道が2百メートルほど東にできたために、畑の中の狭い道にしかみえず、夏草の茂るころともなれば、その塔も草に埋もれてわからなくなるという所だ。
 中菅生に住んでいる山上茂樹さんから、この「庚申塚」塔にまつわる因縁話を聞いた。その話というのは、こうである。
 「庚申塚」塔のあったあたりは、かって天明5年の青面金剛を刻んだ庚申塔と庚申講中が建てた天保15年の燈籠があった。いつのころか、畑の作業の邪魔になったのであろう、地主(ここではAさんとしておく)が強引に上菅生の蔵守院墓地に移してしまった。ところが、それからというものはAさんの家では、息子が肺病になったり、孫娘が夭折したなどの不幸が続いた。そこで、Aさんの家では、これは庚申さまのタタリだろうというので、はっきりしたことはわからないが、昭和13年前後に自然石に「庚申塚」と刻んだ塔を作り、以前に天明5年の庚申塔があった場所に置いた、のだという。

 2 ご り や く
 板橋区の下赤塚では、「庚申様は子煩悩で子供になにをされても怒らない」というし、徳丸では「庚申様は子供の守をしてくださる」、あるいは「庚申様の周りで怪我をしたものはない」などといっている、と荒井広祐さんは『板橋区の庚申塔』(昭和35年刊)の中で書いている。近い所では、福生市熊川で「南の庚申塔は子供好きで、ここで遊ぶ子供は決してけがをしない」と『福生町誌』(昭和35年刊)にみえる。
 昨年(昭和45年)8月には、小河内見学会があった。その帰り、皆と別れた私は、奥多摩町氷川・長畑の庚申塔を8年ぶりで再調査した。氷川693番地の杉山さん宅の前で写真を撮っていたら、近所の奥さんが来たので、この辺で庚申講をやっていますか、と尋ねた。そうしたら、庚申講というのではないが、この辺の10軒で5月26日にこの庚申さま(元禄10年の青面金剛刻像塔)をお祈りするという。もっとも、祈るといっても、近所の奥さんたちが集まって、金を出し合ってマンジュウを作り、庚申さまに線香をあげ、オサンゴ(洗米)や野菜などを供えるという程度のこと。なぜそうなったかというと、10年位前のこと、この庚申さまの前の道路で遊んでいた子供が、走ってきた自動車の下に入ってしまったけれども、怪我一つせずに助かったという出来事があった。庚申さまは子供の神様だから、子供がひかれずにすんだのだ、というので、それから庚申さまを祈るようになった、と話してくれた。

 3 ま つ り
 庚申塔を木の祠の中に安置して、その前に鳥居を立てて祈っている所は、東大和市清水や東村山市野口町にみられる。どちらも見学会の時に廻っているから、ご存知の方もあろう。清水のは、祠の中に享保13年の笠付型青面金剛刻像塔が2基並んでいる。ここでは、4月15日にこの祠の前でお祭りをやる。昔は、4月でなくて、10月にやっていたのだともいうが、戦時中や戦後の1時期に中断があったけれども、今も行われている。野口については、八代恒治さんが『3多まの庚申塔』(昭和36年刊)に詳しいからここでは省略して、今年(昭和46年)8月の見学会で行った五日市町伊奈の上平庚申堂で行われている祭りを紹介しよう。
 上平の庚申堂には、前記2ヶ所のような鳥居はみられないが、8月20日には、今もなおお祭りが続いている。堂内にある庚申塔は、上部に日月、中央に青面金剛、下部に三猿を刻む光背型塔で、高さが166センチもある立派なものだ。光背型の庚申塔としては、三多摩でこれに匹敵するものはなかろう。

 近くに住む中村清一さん(明治41年生まれ)の話では、先祖の清蔵じいさん(文政8年生まれ)が36、7歳の時というから、文久の頃に、池ノ入(悲願寺の東北)に捨てられていた、この庚申塔を近所の人達6人でモウソウ竹の上を転がして、14、5日かかって上平に運んできたのだ、と父親の兼太郎さんから聞かされたという。また、その清蔵じいさんが80歳の時に、リュウマチを患って苦しんだが、庚申さまに祈ったところ、6日目の夢枕に庚申さまが8か所の灸のツボを教えてくれた。その通りに灸をすえたら、1日でなおった、という話も伝えられている。
 庚申堂の祭りは8月20日の午後から、上平集落の人たちが集まって、庚申堂の掃除や飾り付けを行う。夜は、土地の青年の重松囃子で景気をつける。昔は、祭りの余興として川口(八王子市)から影絵を呼んだり、新派の芝居をやったこともあった。
 堂の前には、明治34年に奉納された「奉納 猿田彦大神」のノボリが立ち、堂の軒には「庚申堂祭禮」のチョウチンが下げられる。堂内の庚申塔には、塔が見えるように、切り込みの入った飾り幕が下げられ、その前に、賽銭箱や供え物がおかれる。
 お参りに来た人や、囃子連にハナ(寄付)をかけてくれた人には、上部中央に「庚申」と記し、その下に剣人6手の青面金剛と三猿の画像(庚申塔形式)、その右に「武州多摩郡伊奈邑」とあるお札を配る。堂内の塔に刻まれた青面金剛は、第1手が合掌し、第2手左手に宝輪(右手は不明)、第3手右手に蛇(左手は不明)を刻んだものだから、横沢との境にある弘化4年庚申塔がお札のモデルなのかもしれない。
 お札は、半分に切った半紙に刷られるが、その版木について因縁話が残っている。これも前記の中村清一さんから聞いた話だが、15年ほど前のこと、それまで祭りの時に使われる以外は、中村さんの土蔵に保管されていた版木が、年番に廻すことになり、その年の年番が預かった。そうしたら、その年番家では不幸があり、つぎの年の年番も版木を預ったところ不幸が生じた。そうしたことが3年ほど続いたので、お姿(版木)は、従来通り中村さんの土蔵に置いておくのがよいと、中村家さんの家に戻ってきたが、それまでの年番があったような不幸は起こらなかった、という。
お祭りの翌晩は、クラブでお日待がある。昔は、中村さんのお宅でやっていた。その頃のお日待では、お祭りに入った賽銭を5銭とか10銭とか借りて、それをタネセンとして使い、翌年その倍額を返す風習があった。庚申さんからタネセンを借りると縁起がよいと、商売繁盛を祈る商人などは、きそってタネセンを借りた、といわれる。           『野仏』第4集(昭和47年刊)所収
倶梨迦羅不動
 青梅市今井ある荒神さんのお祭りに行ったついでに、やはり今井にある7国山不動堂を訪ねた。お堂の前庭には、山角型の石塔の前面に倶梨迦羅不動を刻んだ石仏がみられる。青梅市内にある倶利迦羅不動は、ここを除いては丸彫りのようだ。南小曽木(現・小曽木)や成木各地のもそうである。
 不動堂を管理しているのは、近くにある薬王寺だ。住職さんを庫裡に訪ねて、不動堂の庭にある倶利迦羅不動にまつわる面白い話はありませんか、ときいてみた。住職さんは、面白いかどうかわからないが、と前置きして次のような話をしてくれた。
 薬王寺には、戦時中に品川から集団疎開してきた学童が住んでいた。戦後に彼らが引き上げた後、学校の先生が住む家がないからというので、本堂の1室を借りにきた。有力な紹介者もあって、当時の住宅事情の悪さから断りきれずに部屋を貸すことになった。

 昭和22年の夏休みのこと、間借りした先生の子供が寝小便をして蒲団を濡らしたので、先生は翌朝その蒲団をこともあろうに、当時、本堂の西側にあった倶梨迦羅不動に掛けて干した。夏のこととて、親子は本堂の部屋で昼寝をしていると、障子をたたく音がしてそれで目を覚ましました。その音のする方を見ると、梁から蛇がぶらさがって障子をたたいている。「蛇が出た」と思わずと叫んだ。たまたまお寺の庭に遊びに来ていた老婆がその声を聞きつけ、庫裡へ線香をもらいにとんで行った。蛇は線香の煙を嫌う、という言い伝えを信じていたのであろう。ともかく、そうしたさわぎにまぎれて蛇は消えてしまったが、薬王寺では、その時を除いて本堂に蛇が出たことない、という。

 倶梨迦羅不動が蛇に変身して、不浄な干し物を除くように出て来たと思うような出来事だ。夏だから蛇が出てもおかしくない時期だけれども、粗相の蒲団を干した時に蛇が出ただけに、単に偶然ばかりとはいえないような気がする。
 住職さんは、この話を今まで他人にはしなかったという。それは、先生のことをはばかってもあるだろうし、私のような物好きに聞きに行く人もなかったからであろう。誰がいつ頃建てたものかはわからないが、こうした因縁話を残している。        『野仏』第5集(昭和48年刊)所収
石の仁王さま
 仁王さまと聞いて、あなたなら1体、何を思い浮かべるだろうか。大きいとか、赤いのが印象的だとか、たくましくて男性的だとか、それぞれ人によって違うかもしれない。また、仁王さまは、お寺の山門の左右に立ってご本尊を守っているのだ、と考えている方もあろう。あるいは、具体的に塩船観音や下成木(現・成木)・軍荼利の仁王さまを思い出すかもしれない。しかし、いずれにしても木彫りの仁王さまのイメージである。仁王さまの語から石の仁王さまを連想する人は、よほど石仏に興味を持っている方か、石の仁王さまに特別な思いでのある人ではないだろうか。

 仁王さまといえば、一般の人たちが木彫りのものを思い浮かべるのは無理もない。なにしろ木彫りの仁王さまに比べたら、石の仁王さまを見る機会が少ないのだから。石の仁王さまは、東京23区内に8か所あるといわれている。多摩地方では、少なくとも八王子市元横山町の妙薬寺墓地と青梅市成木の高水山の2か所でみられる。

 高水山の石の仁王さまは、不動堂の背後の地蔵祠にある。祠の中に安置された数体の地蔵の後に、頭や顔を割られた痛々しい姿で片隅にあるのが見出される。かつては、不動堂を守って雄姿を見せていただろうに、また、仁王門があって、そこに安置されたいたのだろうに。
 現在の不動堂の山門脇には、仁王と摩利支天の木彫り像が安置されている。不動堂が焼失せずに、石の仁王さまも以前の雄々しいお姿だったなら、当然、山門の脇に立っていたことだろう。もし木彫であったなら、不動堂と共に焼け失せてしまったのに、石であったために頭や顔を破損したままで残り、あわれな姿を現在の地蔵祠にとどめている。

 天保末年に高水山不動堂にお参りした山田早苗翁は、この石の仁王さまのことを『玉川沂源日記』の中で、以前は仁王門があったが焼け失せて、中にあった石の仁王さまの御首(みぐし)のみがお堂の傍らにある、と述べている。また、明治11年に『上成木上分地誌草稿』を編んだ斎藤真指翁も、この仁王さまを調べて、阿吽の首の欠損した仁王の石像が本堂後の灰塚の上にあると記している。その当時から比べると、現在は雨露を防ぐ木の祠の中に置かれているだけ、まだましなのであろう。

 高水山にいった人は多いだろうが、この石の仁王さまに気づいた方はほとんどないのではなかろうか。永い年月にわたり雨風にさらされて不動堂を見守ってきた石の仁王さま、その痛んだお顔には、長い歴史が刻みこまれている。              『野仏』第5集(昭和48年刊)所収
青梅市内石仏調査日記抄
 ○ 5月9日(水)
 昨年(昭和47年)12月のこと、成木の浅井徳正先生から成木7丁目の極指(きわざす)の山の中に石仏があると聞いた。そのうちに調査しましょうといってはいたが、なかなかその機会が恵まれなかった。やっと連絡がとれて、今日出掛けることになった。同行は、浅井先生と滝沢博さん。
 案内役の加藤秀雄さんのお宅で、お茶をご馳走になってから山へ向かう。加藤さんも、大体の所在地を聞いていただけで、まだ目指す石仏を見たことがなかったから、多少捜す時間がかかった。普通ならば、とてもこのような所まで足を延ばさない。やっとお目当ての石仏ならぬ笠付型の「熊野三社大権現」と刻んだ石塔を見つける。寛政11年4月の造立。その近くに石祠がみられ、後ろに自然石が置いてある。それを引き出してみると、表面に「八万□白」と記されている。滝沢さんは、それを「八幡宮」と判読した。「幡」を「万」の字を当て、「宮」を2字に分解しているのが面白い。地蔵であるのかと予想していたが、ともかく実体がわかったことは収穫だ

 3人とは下山してから別れ、私1人は石仏調査を続ける。極指の次の集落の滝の上で庚申塔を調べる。これを管理しているのは、中島信1さんなので、お宅を尋ねたがあいにく信1さんは不在、奥さんのとめさん(大正5年生まれ)から庚申塔にまつわる話をうかがう。庚申塔(元禄10年銘)は、現在、大聖院の橋を渡って小沢峠に向かう道の傍らにあるけれども、以前は山の中腹にあった。私が初めてこの辺の庚申塔調査に来た昭和37年には、まだ山の中腹にあったために気がつかず、昭和46年3月に山の神講調査の時に現在地で見つけたのだった。山の中腹から現在の場所に移したのは数年前からだといっているから、移してからあまり月日が経たないうちに調べたことになる。また、山の中腹に置かれた以前に、中島家の東にあったともいっている。

 子供が風邪にかかった時や夜泣きが止まらない時に、竹で底のない柄杓を作り、奉納して風邪や夜泣きが治るように願をかけたが、今ではこうした風習はなくなってしまった。しかし、そこから近い高水山の鳥居場にある庚申塔(年不明)の脇に、今でも竹の底なし柄杓が奉納されている。そうした願かけのものかもしれない。

 滝の上集落の路傍にある石仏を調べていると、先刻の中島さんの奥さんが通りかかり、そこにある石仏に係わる言い伝えを教えてくれる。正面に「花香良雲信士 春山陽光禅定門 春月浄阿禅定門」とあり、右側面に「嘉永四亥二月廿八日」、左側面に「多摩郡上成木上分 施主大沢入村中」と刻まれた台石に立つ丸彫りの石仏である。左手に数珠を持ち、右手で拝む姿の僧形のものだ。言い伝えによると、集落総出で山焼きをした時に、どうした手違いがあったのかわからないけども、山に人が残っているうちに火をつけてしまった。そこでその人たちは火に追われて逃げたのだが、逃げ遅れた3人が不幸にも焼死してしまった。そこで3人の供養のために、大沢入の人たちがこの石像を建てたのだという。
 戦後になって、この石仏の供養を里仁会が中心となって行ったことがある。焼死した3人というのは、常磐の浜中さん、大指の阿部さん、それに中島さんの先祖だということである。そうした関係から、中島さんは、特にこの言い伝えを知っているのだろう。うっかりすると、写真を写して、銘文をメモするくらいで調査を終わった考えがちである。しかし、1歩深く調査するには、こうした言い伝えも記録する必要である。この石仏建立の背後には、山焼きのために出た死者の供養があることは無論のこと、こうした石像とその建立の事情が言い伝えられることによって、再び同じ誤りを繰り返さない無言の記念碑の役割を兼ねているのだろう。

 そこから常福院を経て、高水山に向かう。鳥居場には石仏群がある。まず迎えてくれるのが青面金剛(年不明)で、その先に十三仏がずらり並んでいる。実際は、余分な1体が加わっているから14基である。元禄10年の造立。この十三仏にはエピソードがあって、明治維新の頃に高水山上の不動堂の境内に移したところ、山上で悪いことが重なり、不動堂の本尊の浪切不動が十三仏を嫌うからだといって、再び現在の地に戻されたという。
 松の木峠の猿田彦を調べた頃には、辺りはうす暗くなっていた。ここには、馬頭が3基ある。その中の1基は、元禄11年銘のもので、市内現存最古のものだ。2回目だったか、3回目だったか、ここに来た時に道を間違えてうろうろした経験があるだけに、注意深く歩いたせいか、ともかく暗くなっていたけれども、写真だけはどうにか撮れた。少しでも迷っていたら、他日を期さなければならなかったに違いない。

 ○ 6月19日(火)
 今にも降り出しそうな梅雨空、曇り1時雨の予報も気が重い。仕事のために、出発が11時になってしまう。今日の予定は調布地区。駒木町の寿香寺から調査を始める。旧2つ塚道の見籠の塔を調べ終わったのが正午、その近くの谷川の辺で昼食を済ませて引き返すと、パラパラと雨が降ってきた。雨を避けるために、1丁目の馬頭観音堂へ急いだ。
 今年(昭和48年)正月20日に、この馬頭さんのお祭りに来たことを思い出す。昔、馬を使って運送の仕事をいていた老人の話によると、この周辺で馬を飼っていた時分には、この祭りには、馬のお参りで賑わったという。参詣の馬には豆を与え、後には豆が人参に変わったが、馬頭さんのお姿のお札を渡したそうだ。馬がお祭りに来なくなってから20年にもなるが、祭りだけは駒木町の3町会が交替で当番を務めて続いている。
 観音堂で雨が止むのを待つ間、本尊の馬頭観音の木像や奉納された小絵馬にカメラを向けた。それでも雨が降り続くのでお堂に座り、馬頭観音のことをとりとめもなく考えてみる。今までの石仏調査では、石仏は石仏と、石仏だけを考えていた。庚申塔の場合は、それでも庚申講などの庚申信仰にふれることはあった。馬頭観音の場合にも、滝沢博さんが「馬頭講と馬頭観音」(『多摩郷土研究』第36号 昭和42年刊)の中で、馬持ちの人たちが作った馬頭講と関連させて馬頭観音(石仏)をとらえている。これをさらに拡げて、こうした馬頭さまのお祭りなどを含め、馬頭観音を民間信仰の中でとらえたらどうなるだろうかと考えた。
 青梅市内の馬頭観音(石仏)を見ると、初期は馬持中などの講的集団によって造立されている。ところが、後期には個人が自分の持ち馬が死んだのを供養するために建てるように変わっている。こうした傾向も、初期には特定の牛馬というよりは、自分たちが日頃使っている牛馬の無病息災を願い、かつて飼っていた牛馬の供養も兼ね、さらに道の安全をも願ったものだろう。駒木町や塩船、あるいは師岡の観音堂にいつの頃から特定の日に馬の安全を願って参詣するようになったかは、はっきりしないけれども、江戸時代の末期にはすでに行われていたのではないだろうか。所によっては、上岡講などを作って埼玉県東松山市の上岡観音に代参をしていたようである。そうした形で、飼っている馬の無病息災を祈願し、その馬が死亡した場合に石仏(文字塔が多い)を造るようになったのではあるまいか。以前は特定の馬というのではなしに、また生馬と死馬の別なく講中で石仏(馬頭観音)を造立したものが、後には馬持の経済的な地位も上がり、個人でも自然石の文字塔位だったら造立できる態勢にもなったし、馬頭(石仏)に対する考え方にも変化が生じたのではないだろうか。
 馬頭のことを考え始めたら、いろいろなことが頭に浮かんできて、まとまりがつかなくなった。雨も止んだようなので、再び調査を続ける。長淵5丁目の小祠には石仏がある。それは、奉納の頭巾や前掛けで一見地蔵風だ。横に廻ってみると、前掛けの間から蓮華の陽刻が見えた。これは、地蔵ではないと直観して頭巾をはずし、何枚も重なった前掛けを取り除くと、中から柱状型塔が現れた。本来これは笠付型塔であったが、笠部が失われたために、宝珠を本塔の上にセメントで固めて頭巾をかぶせ、前掛けを着けると、前から見た限りでは、地蔵と思うのは無理もない。塔の正面中央には、「奉納大乗妙典六十六部日本回国願成就所」とある。年号も左下部に刻まれているが、風化のためにわからない。それにしても、頭巾や前掛けを奉納した人たちは、これが地蔵だと思って願をかけたものであろうか。

 長淵6丁目の下紺屋の自動車整備工場脇には、2基の石塔が並んでいる。向かって右のは、柱状型(隅丸)の正面に「馬頭観世音」とあり、右側面に「大正十三年五月廿七日 栗毛十才」、左側面に「大正十三年十月建 願主 久保時次郎」の銘が刻まれている。その右側には、正面に「故白河馬霊神位」、右側面に「大正七年生 昭和八年六月廿八日感電死」、左側面に「昭和八年七月廿八日建立
 施主 久保時次郎」の銘のある柱状型(皿角)塔が立っている。この2基共、施主は久保時次郎である。栗毛の10才馬が亡くなってから、「白河」という馬を買い入れて使ったのだろう。
 大正の塔には「馬頭観世音」とあるのに、昭和のものは「馬霊神位」になっているのはどうしたことだろう。上長淵は、神葬祭地域だけに「馬霊神位」を受け入れる素地があることはわかるが、同1の施主が約10年の違いで「馬頭観世音」と「馬霊神位」の2基を造立するのは、国家神道の浸透を考える必要もあろうが、やはり時代の流れなのかもしれない。駒木町の馬頭観音堂で雨宿りしたせいでもないが、今日は、特に馬頭のことが気にかかり、そのことで頭がいっぱいだった。

 ○ 7月3日(火)
 今日は、日向和田から2俣尾方面の調査を行う。まず裏宿の七兵衛公園から調べ始める。ここは、裏宿七兵衛の屋敷跡といわれる所で、公園の北側には昭和35年に建てた「アウンク 裏宿七兵衛供養塔」と同年の「裏宿七兵衛供養碑」がみられる。園内には市内唯一の文政4年の自然石「道祖神」があり、公園の南側には青梅街道に面して、かつて上裏宿の日向和田境にあった5基の石仏がここに移されて並んでいる。
 ここで調べていたら、飯島正雄さんが来て声をかけられた。飯島さんのお父さんの馬5郎さんは、戦後もしばらくは馬で運送をやっていた。そこで飯島さんに、馬5郎さんの遺されたものの中で馬に関係のある記録はないかと尋ねたところ、馬籍や馬小屋を建てた時の警察の許可証があるという。飯島さんの家に寄ってそれらを見せていただき、お父さんの思い出話などもうかがう。

 日向和田では、3丁目の榎戸茂美さんの家の前の道一本へだてた山の斜面に、昭和42年の丸彫り合掌地蔵を見つけた。ブロック囲いの小祠に安置されているが、横には「七面山弁財天」と刻んだ同年の文字塔がある。まだ新しいものなので、榎戸さんのお宅でこの地蔵の由来をうかがう。奥さんのきぬ子さんの話によると、榎戸さんの家では、東京の師岡妙尚尼(日連宗系)に何かことを行うときには相談している。榎戸さんのお父さんは、家の前の山が好きで、日頃、手入れなどしてきれいにしていたが、その山で倒れて数日後に亡くなった。たまたまその頃、家の近くの青梅街道で事故なども起こっていたので、妙尚尼に相談したところ、妙尚尼がいうには、この日向和田辺で3田氏の武士が合戦に敗れて、その死者が浮かばれないからである。その供養をするとよいというので、地蔵菩薩を建立したのである。

 二俣尾に入り、横吹の青梅街道沿いの小祠にある石仏群を調べていたら、面白い絵馬を見つけた。面白いというのは、絵馬の額縁の両側にある枠が非常に長く、高さがそのお陰で60センチ位になろうか。表面には、上部に垂れ幕、中央に馬を描いている。向かって右端に「南無妙法蓮華経」、左端に「馬頭観世音供養」、裏面には「昭和四十四年九月吉日 竹田家」とある。ここには、円柱に「庚申塔」とある文政6年文字塔がある。
 今日の調査の収穫は、二俣尾4丁目の長泉院境内で、海禅寺21世で長泉院を中興した実門秀明和尚の石像を見つけたことであろう。弘法大師や興教大師などの高僧の像を石に刻むものは、市内でも何ケ所かに見られる。この長泉院も多摩新四国八十八か所の霊場になっており、弘法大師の石像が本堂の前にある。しかし私の知る限りでは、秀明和尚のように市内の寺の住職を刻むものはこれだけのようである。和尚の石像は、払子を持った丸彫り座像で、台石側面に「寛政元己酉年十二月初朔日」とある。如意輪観音を刻んだ光背型塔(年不明)と並んで、木祠の中に安置されている。

 またここには、明治23年の六地蔵石幢があるのに気付いた。今まで、市内では単制の六地蔵石幢は、霞地区だけに分布していると思っていただけに有益な発見である。江戸初期の重制六地蔵石幢は多摩川沿いの、特に南岸にみられる。長淵から柚木にかけてだが、北岸では御岳本町に1基だけである。単制のものは、大門・藤橋・今井などの霞地区に見られるが、これらは江戸中期以降である。そうした中で、長泉院の明治の石幢が加わったわけである。

 ○ 8月3日(金)
 成木の調査に出掛ける。久道の慈福寺から調査を始める。境内西側にある享和2年の自然石庚申塔は、すでに調べてあるけれども、東側の六地蔵は、以前に見てはいたものの銘文などを記録するのは初めてだ。その南側には、小さな木の祠があって、中には宝珠と錫杖を持つ地蔵を刻んだ光背型塔が置かれている。上部に「同会」、像の左右に「香□道□□居士 延宝四辰年七月七日」、「潤谷妙泉大姉 明暦三酉年四月五日」の銘があるところを見ると、元来は墓石であったのだろう。それが後年になって墓地から離れて、いつのまにか路傍にあるお地蔵さんのように信仰されたらしい。よほどご利益があったからなのだろうか、現在では余り大きいとはいえなくても、独立の木の祠の中に納められている。
 祠の中には、穴あき石や豆の俵が奉納されてあるから、今でも信仰されているようだ。地蔵信仰と一口にいってしまえばそれまであるけれども、その地蔵が墓石として建立された状態は、長い年月の間には忘れられてしまい、いつか路傍のお地蔵さん並みの扱いを受けて現在に至ったものだろう。建立の時の目的とは──などと問われることもなく、ただ地蔵が刻んであるからの理由と思われるが──、祈願して奉納するというように、建立の時とその後では地蔵に接し方が異なるのだろう。

 久道の新福寺境内に見られる「奉請道了大権現鎮座」と刻んだ自然石塔は珍しい。まだこの種のものを市内で見ていない。
 所久保の慈眼院境内にある文政2年の馬頭観音の台石には、三猿が刻まれている。馬頭観音の庚申塔と早合点は禁物、隣にある文政9年の青面金剛の台石と間違って置かれたものだ。この三猿は、扇子で塞口、塞耳、塞目をしている。烏帽子をつけ狩衣をまとった三猿が、扇子で塞口、塞耳、塞目のポーズをとるのは、千ケ瀬の宗建寺と黒沢の野上指とに見られる。しかし、所久保のは、烏帽子もなく、狩衣もつけず、中央の塞耳だけは普通みられるようなポーズなのである。
 梅ケ平の阿弥陀堂といっても、現在の新建材を使った外観からは、その趣が失われ、集落の集会所という方がぴったりする。昭和40年の山の神講調査にここを訪れた時分は、まだお堂の形を保っていた。当時のことを思い出しながら、お堂の南側にある2基の馬頭を、汗をタオルで拭きながら調べる。ここから折り返して、今来た道を7中まで戻る。

 八子谷の高岩寺境内で地蔵や庚申などを調べてから、天ケ指の共同墓地に出る。都道に面して市重宝指定の康安2年銘の釈迦三尊種子板碑が建っている。それに並んで馬頭や地蔵などの石仏が並んでいる。墓地の入口を入るとすぐ左手に木の祠があって、中には彫りのよい菩薩形座像の石仏が安置されている。地元で「産夜さま」と呼ばれているものだ。台石の両側面に「武州多摩郡上成木村」「天ケ指念仏講中」とあるだけで、造立年銘は記されていない。現在でも信仰があり、前掛けや環状の布紐が肩に掛かっている。

 たまたま調べている時に、地元の人が通りかかったから声をかけて、産夜講に詳しい人を尋ねたら師岡モトさんを教えてくれた。以前、この産夜さまを調べていた時に、産夜講の話を聞いていたからである。
 近くに住む師岡モトさん(明治31年生まれ)を訪ねて、産夜さまと産夜講についてうかがった。モトさんの話によると、産夜さまは安産のカミさまだという。天ケ指の女の人は無論のこと、ここから他の土地に嫁に行った人たちも安産の祈願をする。今でも年1回、10月23日に天ケ指の女(1戸で1人)が公会堂に集まって産夜講をやっている。モトさんが結婚して久道からここに移って来たのが昭和初年で、その時には講をやっていたというから、どう少なく見積もっても40年の歴史が産夜講にはある。昔は各家々から米5合を当番が集めて、アンの入ったダンゴを作ったが、昨今では、順番に2軒が当番になり、仕出し料理を注文するなどの準備を行い、ダンゴなどは作っていない。米5合でダンゴを30個作るとか、小豆などの費用はかかり勘定とか、あるいは、米は二本竹で粉にしたとかの昔話も聞いた。
 地元で安産のカミさまと言われる産夜さまとは、1体何だろうかという疑問が生ずる。これを聖観音だと見る人もあるようだが、私は勢至ではないかと思う。合掌した菩薩形から聖観音と受け取れないことはないけれども、それでは「産夜」の説明が不足だ。恐らく二十三夜の主尊として勢至を造立したのだろう。先刻の慈福寺の地蔵ではないが、墓石がいつしか墓石とは思われずに信仰されていったように、二十三夜さま──略して三夜さまが、いつの間にか「産夜さま」と同じ発音でも内容的には変わり、月待信仰よりも子安信仰に変わっていったのではないだろうか。そう考えるのが1番妥当のようである。多摩地方で勢至を刻んだ石塔が何基かみられるけれども、八王子市宇津貫町下平の1基が浄土変相図の蓮華を持つ以外は、来迎相の合掌形式である。この点から見ても、合掌だから聖観音というのは当たらない。

 大蔵野の長全寺には、境内に地蔵堂があって、中には180センチの大地蔵と56センチの小地蔵の丸彫りが並んでいる。大地蔵は、俗にイボ取り地蔵と呼ばれており、この辺りでは有名である。丸彫りの地蔵では、市内最大ではないかと思う。空模様が悪くなったので、多少時間が早いが調査を切り上げる。                      『野仏』第6集(昭和49年刊)所収
羽生のキリシタン石仏
 隠れキリシタンを追い求める人たちは、意外に多いようである。そうした人たちの多くは、石仏や石燈籠に十字が刻んであると、隠れキリシタンとすぐ結びつけたがる。茶人好みの石燈籠に織部燈籠がある。これが各地で「キリシタン燈籠」と呼ばれて、隠れキリシタンに結びつけれた伝説が聞かれる。しかし、その裏付けとなる資料もないものがほとんどである。

 先年、徳島に住む友人から地方紙の切り抜きが送られてきた。それによると、徳島県板野郡吉野町姥御前にある延宝3年(1675)造立の庚申塔には、笠部に唐破風上部に十字が刻まれており、これを隠れキリシタンと結びつけて、裏付けの資料集めを始めた郷土史家が紹介されていた。切り抜きには、友人の談話として「塔を見たときどうもキリシタンのにおいがした。しかしそれを裏付ける資料がなく断定しかねている。またこうした“カサ付き型庚申塔”にはいろいろの模様が刻まれている例も多いのでじっくり調べてみたい」が載っている。また同封の手紙にも「小生も、実は夜の庚申講のことなど思いあわせ、所謂“隠れキリシタン”ということも考えましたが、然しどうも、ただ十字形があることのみをもって、即断できないと思いました」と記している。その後、友人がこの件について何もいってこないところをみると、郷土史家は裏付けを取ることはできなかったのであろう。

 日下部朝一郎氏は『石仏入門』で「美しい観音像をマリヤ像に見たて、或いは地蔵尊を信仰した隠れキリシタンの話は各地にあり、織部燈籠を見ればキリシタンの墓とする人々が多い」(162頁)と述べ、『秩父路の石仏』でも、「隠れ切支丹の墓と伝えるものは県下各地にあるが無理にこじつけた様なものが多く確かではない」(176頁)と記している。私の標題をみて、ここまで読み進められた方なら、これから私が何をいおうとしているのか推測がつくだろう。

 さて昭和49年7月26日付けのY紙多摩版には、「隠れ通したキリシタン石仏」のタイトルで、日の出町大久野・羽生の羽生市蔵さんの墓地にある紹介された。その記事の中で、発見者の1人は「西多摩地区は石仏の多いところだが、キリシタン石仏はこれが初めてであり、地域のキリシタン信仰の歴史を知るカギともなると思うので、なんとか建立の裏付けを調べたい」と述べている。ところでその石仏がキリシタン石仏とされた理由は、サブタイトルの「柔和な顔で胸に十字架」からわかるように、胸前の持物が十字架であると見ているためである。

 Y紙に載った写真を私がよく見ても、どうも胸前の持物は十字架には見えない。ひいき目にも、宝塔としかうつらない。拙稿「石仏の話」(『青梅市の石仏』所収)で述べたことであるが、石仏の特徴は、木像に比べた場合に、第1に簡略化がなされている、第2に風化する、第3に石工が必ずしも儀軌に明るくない、第4に地方差や年代差が大きい、の4点を指摘した。羽生の場合、彫りのよくない宝塔が、風化を伴って一見十字架風に見えることだってあり得る。こうした点、発見者が充分に注意して観察したかどうか疑わしい。どうも十字架風が隠れキリシタンに直結してしまい、珍しさで頭が一杯になって、自らその発見に酔ってしまったのではないだろうか。
 私は、まだ羽生にあるというキリシタン石仏を直接見てはいない。単に写真を見ただけで宝塔だと断言するのはおかしいのではないか、といわれそうである。それでもなお、私が宝塔だというのは、紙上の写真が宝塔を示しているからにほかならない。
 この羽生の石仏は、9月17日のM紙夕刊にも登場する。今度は多摩版ではなく全国版に、「オヤ? 十字架はっきり」のタイトルでだ。その上に多摩地方の歴史に詳しいというTK大のI教授が、「これほど大胆に十字架を表している像は天草、仙台、岩手にはあるが、関東では見たことがない。山間部だから、これほどはっきり彫れたのだろう」と、キリシタン石仏の太鼓判を押して、「五日市町から大久野にかけての地域は、伊達藩と人的な交流があったところ。伊達藩はキリシタンと関係が深いので、こうしたものが伝わっても不思議ではない」と、もっともらしい裏付けをしている。 この夕刊に載った写真は、Y紙の真正面から撮ったものに比べ、上から幾分見下げるように写しているから、十字架に見えないことはない。しかし下部の太さに比べて上部が細いのだから、欲目にもスッキリした十字架とは見えない。

 青梅市内には、彫りのよい弥勒菩薩の石仏がみられる。沢井・雲慶院墓地のは、丸彫り像であり、塩船・塩船寺墓地の光背型の半肉彫りの、いずれも立像である。両像共に両手で胸前で宝塔を持つ姿である。この2つの石仏と、羽生のキリシタン石仏といわれているものと比較してもらえば、十字架にしては不自然な形である持物が、実は宝塔であることがわかってもらえるであろうし、弥勒菩薩を刻んだ石仏が墓地にあることだって納得されるだろう。
 石工がはっきりと宝塔とわかるように刻んでいてくれたら、こうした混乱は生じなかったにちがいない。その上、弥勒菩薩を刻んだ石仏が、地蔵や馬頭、庚申塔などのように、多く目に触れるものであれば間違いもおこらなかったろうに、そう数ある石仏でないだけにキリシタン石仏にされてしまった。
 蛇足になるが、M紙が伝えるところによると、「いま羽生家には日曜ごとに牧師、キリスト教信者アマチュアカメラマンたちが多数石仏を見に訪れている」そうである。キリスト教関係者が、どの程度に石仏を理解しているだろうか。新聞の伝える通りに、十字架を持つキリシタン石仏として、弥勒菩薩とも知らずに手を合わせて拝んでいるとしたら、漫画的な光景としか思えない。ことが信仰にかかわるだけに、興味本位に「キリシタン関係についての記録、言い伝えがこの家に全くないことで、ナゾを呼んでいる」などと書かれては困る。頭からキリシタン石仏と決めてかかるからで、弥勒菩薩の石仏であれば、そんな記録も言い伝えもありはしないし、従って、少しも謎などはないのだ。

 M紙で大学教授が、「二百年も野外に立てられていたら風化して顔の表情などなくなってしまうので、屋内にかくしていたのを後になって墓地に移したか、草や土の中に埋もれていたものだろう」と述べて、石仏に対する無知が明らかにされては、羽生の石仏を「島原の乱(一六三七〜三八)以後、徳川幕府のキリシタン禁制下で造られたキリシタン石仏だ」といっても迫力がない。三百年も経てもなお、銘文がはっきりして多少の風化があるにしても、表情が崩れていない石仏が数多くあげられる。このような方は、弥勒菩薩の石仏がどのような姿をしているのか、まったく知らないのだろう。M紙のサブタイトルではないが「よくぞ大胆に」キリシタン石仏と断言してくれた。あまり騒ぎが大きくならないうちに、羽生のキリシタン石仏に対する私の見解を記した。
                            『野仏』第7集(昭和50年刊)所収

七兵衛地蔵
 ふとしたきっかけから、私は裏宿七兵衛の伝説を調べ始めた。旧・青梅村には、七兵衛の屋敷跡とか持畑とか、あるいは、晒首にされた所とか、裏宿七兵衛にまつわる場所が何カ所かある。裏宿の屋敷跡は、近年、整地されて公園となり、「七兵衛公園」の園名と北側にある供養塔にその名を止めている。仲町の持畑は、大正年間に郡役所が建ち、後に地方事務所や公民館などに利用され、現在は都立青梅図書館(現・青梅市中央図書館)の鉄筋の建物に変わったが、東北隅に七兵衛地蔵尊(木像)が祀ってある。旧・青梅村以外でも、千ケ瀬の宗建寺の墓地には七兵衛の供養塚がみられる。

 青梅で生まれ育った人ならば、若い人でも七兵衛伝説を多少は知っているだろう。しかし、青梅周辺を除いては、多摩地方でも七兵衛伝説を知らないのが普通である。ところが、青梅での七兵衛伝説を直接知らなくても、全国には、裏宿七兵衛の伝説を知っている人が実に多い。それは不思議なことでもなく、ただ知っていても、それに気付いていないだけの話だ。何故かというと、中里介山が七兵衛伝説をモデルにして裏宿七兵衛を創作し、その著『大菩薩峠』に登場させているからである。介山居士が明治末年の頃に記したと思われる創作ノート『人情風俗』には、七兵衛の項に「里人が地蔵をこしらへる、今でもある」とあり、おそらく青梅での聞き取りのメモであろう。これが、これから話を進めようとする七兵衛地蔵尊のメモだ。
 創作ノートに書かれた地蔵のメモは、後に『大菩薩峠』で活用されて「壬生と島原の巻」に出てくる。介山居士は、そのメモから作中では、次に引用するように筆を進めている。すなわち

 青梅の町の坂下というところに、近い頃まで「七兵衛地蔵」というのがあった。それは七兵衛が盗んで来た金を、夜な夜なそこへ埋めておいた。七兵衛が斬られた後、掘り出された。そのあとへ石の地蔵様を立てて「七兵衛地蔵」と名づけられる。 この地蔵は、最初は、足腰の病によく信心が利くと伝えられた、それから勝負事をするものにも信仰された。
 夜、人知れず、この地蔵様のお膝元を掘って、相当の金を埋めておく、その金を3日たってもとのままであった時は、その月のうちに願い通りの大金が儲かる、なんぞと言い触らす者があった。けれども埋めた人で、3日たって元の金を見た者がない。それは近所の博徒がそんな流言をしておいて、埋めた金をそっと掘り出してしまうのだとわかって、金を埋めるものはなくなった。近ごろは町並を改正したために「七兵衛地蔵」もほかへ移されたということです。


である。介山居士は、作中で地蔵の所在地を「坂下」としているが、坂下は旧・西分村であって、そこには地蔵などなかった。地蔵があったとすれば、「笹の角」(「笹の門」とも「笹の川戸」とも書かれる)で、ここは坂下とは谷川を一つへだてた旧・青梅村の東はずれである。かつて、ここには欅の大木があり、その近くに地蔵があったといわれる。現在の住江町の萩原洋品店(紳士部門)がある辺りで、現状からは、往時の面影が全く感じられない。

 笹の角は村はずれであるし、この辺りに番太小屋と牢屋があったと伝えられている所だ。また、笹の角で晒首が行われたことは、後で述べるように、青梅市の市重宝指定の『谷合氏見聞録』にも記されており、地蔵があっても不思議とは思えない場所である。西分・坂上の宇津木啓太郎氏(当時・都議)が「石橋の傍に石地蔵があり、竹やぶが茂っていて、夜は淋しかったそうだが、この辺を有名な『笹の門』と云い、現在でもこの『ささのかど』という地名は残っている」(註1)というように、笹の角に地蔵があったことは間違いない。ところが問題なのは、村中元治氏が古老から聞いた話として、「欅の大木は橋の近く北山寄りにあったものらしく、その近くに六地蔵尊が並立され、月の23日は縁日なので、にぎやかであったと言われる。現在60代の人は其の日をよく知っているが、現在は延命寺境内に遷されている」(註2)と述べていることである。

 昨46年度の青梅市内の石仏調査で延命寺に立ち寄った時に、私は住職の大久保有邦師(昭和2年生まれ)から、かつて笹の角にあった地蔵は、破損したために六地蔵の下に埋めてしまった、という話を聞いたことがある。また境内の呑竜堂前には、丸彫りの「笹の角地蔵尊」が立っており、その台石には、次のような建立由来が刻まれている。

 笹の角地蔵尊は、子供の夜泣及び腰より下の病に霊験聖なり、元新宿笹の角に安置せられたりしが、先年近火の為め破壊せらる故に、此所に同士相謀り、中村夫妻の菩提の為め再製するものなり。(中略) 昭和十八年九月造之これから考えると、どうも六地蔵ではなくて、単独の地蔵と受け取れる。その方が七兵衛地蔵の伝説とも結びつくように思われる。ともあれ、いろいろな資料からみても、六地蔵であったかどうかを別にすれば、笹の角に地蔵があった点では1致する。

 『谷合氏見聞録』によると、裏宿七兵衛は、元文4年10月4日に三ツ木村(武蔵村山市)で子分たちと捕らわれ、「十一月廿五日 青梅七兵衛(裏宿七兵衛のこと)籠屋ニテ首ヲ被刎、青梅ヘ首被遺 笹ノカイド(笹の角)獄門ニ被懸」となる。ここまでは実録であるが、この獄門にかけられた七兵衛の首が大水で流されて、千ケ瀬の宗建寺の傍らに漂着するというのは、架空の話であろう。実際でも伝説でも七兵衛は、笹の角で晒首になっているから、そこにあった地蔵が「七兵衛地蔵」と呼ばれても不思議ではない。

 まして、青梅では七兵衛は祟るという伝説が残っており、裏宿の屋敷跡の土地に手を出す者もいなかった位である。その辺の事情は、「壬生と島原の巻」で七兵衛地蔵の後で、屋敷跡について記されているところから知ることができる。
 ところで延命寺にある笹の角地蔵の銘文の通りであれば、七兵衛地蔵は「近火の為め破壊」ということになるから、いつ頃建ったものか、どうした建立目的を持っていたのか、全く見当がつかない。しかし、村中氏のいう六地蔵であれば、文政3年4月吉日、女念仏講中の造立である。少なくとも銘文からは、七兵衛とは結びつかない。

 次に足腰の病に利くという点は、七兵衛地蔵だったらうなずける。というのは、七兵衛は、菅笠を胸に当てて歩いても、それが下に落ちなかったとか、1反の晒布をほどいて1端を背につけても、他の端が地に全くつかない位に早く歩く、という伝承が青梅には残っている。猿田彦が足腰の病によいというように、健脚の七兵衛が足腰の病に利くといわれるのは無理ないところだ。現に、青梅図書館角の七兵衛地蔵尊(木像)には、足腰の病の願掛けに、ワラジを奉納してある点からもうかがえる。また、笹の角地蔵の銘文に「腰から下の病に霊験聖なり」にも符合する。
 ところが金を埋めておくとよいという博徒の流言は、介山居士の創作の匂いが強い。また、七兵衛が笹の角に盗んだ金を埋めておいたという点も、博徒の流言を書く上での伏線としたもので、これまた介山居士の創作であろう。ただ、両国・回向院にある鼠小僧次郎吉の墓石を割って持っていると、勝負事に強いという伝承からすれば、同じ盗賊であった七兵衛にゆかりある地蔵ならば、密かに勝負事をする者にも信仰されていたのかもしれない。

 たまたま七兵衛伝説を調べているうちに、『大菩薩峠』の中に「七兵衛地蔵」が書かれているのを知り、それを追求してみたら、いろいろなことがわかってきた。わかってきたと同時に、まだまだ謎の部分も多い。実録・伝説・小説がからみあって、どこまでが事実であり、どこからが伝説で、さらには小説の創作部分なのか、七兵衛地蔵についてはまだまだ調べなければならない。従って、これは中間報告といったところで、今後どのような資料や聞き取りが得られるか、それによっては、意外な方向に発展するかもしれない。
 なお現在の青梅で「七兵衛地蔵尊」といえば、図書館の木像に案内されるから、その点申し添えておく。また、延命寺の笹の角地蔵については、三吉朋十氏の『武蔵野の地蔵尊』の254四頁に載っている。(昭和49年7月15日記)
   (註1)宇津木啓太郎「坂上と云う地名」(『西多摩郷土夜話』第1集所収)12頁
   (註2)村中元治「笹のかと付近」(『西多摩郷土研究』創刊号)43頁
                            『野仏』第7集(昭和50年刊)所収
庚申塔再考
 庚申信仰は、時代や場所によって異なった信仰形態を持っている。多摩地方の現状を見ても、西多摩郡檜原村北谷では猿田彦の木像を庚申講の主尊としているし、隣の五日市町乙津では青面金剛の画像掛軸を使用する。同じ五日市でも伊奈においては、青面金剛を刻んだ庚申塔のお祭りを8月にやっているが、ノボリには「奉納猿田彦大神」と記されている。府中市是政の庚申講では、富士の御師が発行した升形牛王の掛軸を用いている状態で、主尊一つとっても実にさまざまである。

 窪徳忠博士は、永年の庚申信仰研究の結果「日本の庚申信仰は、三尸説と日本の伝統的信仰や習俗との習合である」とし、「いま全国的に見られる庚申塔は、その供養を三年目におこなったときのしるしである」と述べている(註1)。確かに庚申塔は、三年一八度の庚申待を行って庚申供養のために造立されており、そうした事情を記した塔も見受けられる。その意味では、庚申信仰の産物であるのが一般の庚申塔といえるが、全ての庚申塔が庚申供養を主目的として建立されたかとなると、疑問を感ずる所がある。西多摩地方には、庚申塔の造立に念仏講が関係したものが比較的多い。庚申講が主体となって念仏講が助力した形であれば納得もするけれども、中には念仏講が建立し、その上に石橋供養の銘文が刻んであるのを見ると、一体、庚申信仰とどこでどう結ばれているのか考えさせられる。

 最近、1冊の古文書を見る機会があった。それは、青梅市長淵9丁目の並木忠一氏所蔵のもので、同6丁目の中村保男氏が発見された貴重な資料である。中には長淵9丁目の大荷田の切通しにある庚申塔2基の建立前後の事情が記されている。この切通しは、今は舗装された新道が迂回し、台風で崩されて道も悪いから通る人も稀で、忘れたように2基の庚申塔が建っている。1基は柱状型の文政14年(天保2年)塔、他の1基は自然石の安政4年塔である。共に文字塔で「庚申」と刻んでいる。天保2年とすべき年号を「文政十四龍舎」と何故刻んだか、庚申塔の代金がいくらで、主銘の文字を書いた僧侶やそれに対するお礼の金額など、並木家文書からうかがえる。そうした点については別の機会に書くこととして、庚申塔造立を考える問題に絞って述べたいと思う。

 前記のように並木家文書は我々に種々なことを教えてくれるが、それにも増して重要なことは、庚申塔を道供養のために造立している点である。天保3年に記された上長淵村『村鏡』(中村家文書)によると、当時は「甲子庚申巳待右何連も家々限り相祭り申候」とある。そうした状態で「此度(大荷田)組一同相談之上、吉蔵所有山林ヘ道ヲ廻シ、古道ヘ木ヲ植ヘ、地所交換致シ、切通道ヲ切下ゲ道供養致可ク相極リ、当十一月道普請相始メ候也。供養塔ノ義ハ大久野村(現・日の出町大久野)ニテ作リ候。庚申御筆ハ芝村(現・埼玉県川口市芝)長徳寺真定大和尚なり」(カッコ内は筆者註)と並木家文書に記された文面からは、庚申供養とか庚申待や庚申講を連想させない。天保2年に大荷田では、確かに「庚申」と刻んだ塔を建てたが、並木家文書を見る限り台石正面にある「道供養」の方がむしろ主目的である。

 それにつけても思い出されるのが、五日市町伊奈にある岩走神社の神官であった宮沢豊前頭安通が書き遺した『安通万歳記』の寛政10年の項にある「春正月廿九日、飛石之石橋かけ替る。元来、板橋之所此度石橋になる。橋供養、神主豊前。此時、道祖神を祭り奉る」の記事である。五日市街道旧道の山王下には、自然石に「道祖神」と彫った寛政10年塔が現在もみられ、「石橋造立二ヶ所」の銘が刻まれている。大荷田の塔と考え合わせる時に、供養の背後に神官がおったから道祖神、それに対して大荷田の場合は菩提寺の下長淵・玉泉寺の隠居が供養の背後にあったから庚申塔を建てたのではないかと思われる。

 そして大荷田で道供養を主目的とした庚申塔が建立された事情が明らかになると、青梅市藤橋・宝泉寺境内にある念仏講中が願主となり、女念仏講中が助力した寛政5年「大青面金剛」塔は、側面の「石橋七ヶ所建立供養」が主目的の造塔と思われる。さらに同市勝沼・乗願寺門前にある文化5年「庚申塔」の場合も、「石橋供養」のために、念仏講中が助力して寒念仏講中が建てたのであろう。
 青梅市の場合、畑中2丁目の元禄10年青面金剛刻像塔の「庚申待之供養」や木野下・木野下神社の同年青面金剛刻像塔の「奉造立庚申石像一基」の銘文は問題ないとしても、富岡1丁目・愛宕神社境内にある明和2年青面金剛刻像塔の「寒念仏供養村内為安全」の銘文は1考を要する。青梅・天ケ瀬・金剛寺境内にある元文3年青面金剛刻像塔の「寒念仏供養」というのも気にかかる。

 いずれにしても、庚申塔造立の主目的が庚申信仰以外であるならば、何故わざわざ庚申塔を建てたのか、大荷田の場合でいうならば、「道供養」塔を建立すれば済むのに、庚申塔を造立したことが問題となる。また、造塔の初期の目的は庚申供養にあったが、後期にはその意味が風化して道神的な意味で造立されるようになったのか、並木家文書は庚申塔を再考させる問題を含んでいる。
  (註1) 大塚民俗学会編『日本民俗事典』(弘文堂 昭和47年刊)246頁(昭和50年10月12日記)              
                                      『野仏』第8集(昭和50年刊)所収
 
新聞記事から拾った多摩の庚申塔
 大掃除の時に畳をあげて下に敷いてあった古新聞を手にし、読み始めて面白さに時間を忘れてしまうことがある。発行された時点ではさほど興味がなかったことでも、歳月を経て再び読み返してみると、以前とは違った読み方ができるせいなのかもしれない。そうした楽しみが、昭島市民図書館(青梅線東中神駅下車徒歩3分)で得られる。そこには、毎日新聞多摩版のマイクロフィルムが、前身の東京日日新聞新聞府下版の頃からあり、それをリーダーにかければ手軽に読める。時間をかけて丹念に読んだら、ずい分面白い記事に接することができるだろう。

 たまたま今年(昭和50年)5月と6月に3回ほど昭島市民図書館に行き、毎日新聞新聞の、マイクロフィルムを読む機会があった。その時の副産物が、これから紹介しようとする多摩の庚申塔の記事である。本会(多摩石仏の会)発足のきっかけとなった昭和42年2月4日から5月24日まで連載された「野ぼとけ」にも、庚申塔の記事がみられるし、近くでは49年8月21日の立川市野仏写真展の記事に「庚申塔十三」が記されている。読売新聞になるけれども、48年12月4日の多摩版に、八王子で庚申塔が倒れて子供が即死した記事が載っていた。ここでは、そうした戦後のものは省いて、偶然見つけた昭和初期の2例を紹介したいと思う。

 最初は昭和2年4月21日付けの東京日日新聞府下版から、府中市中河原(現・住吉町1−44)の西向き庚申の記事をみよう。「触れゝば祟る 西向庚申さま 雨風に破れ果てたので 氏子達恐る恐る改修」の見出しに続いて

 京王電車の中河原駅近くの「西向き庚申様」とよぶ小さなほこらがある。庚申様に西向きのほこらはないといふに、こればっかりが西向きなのもチョットつむじが曲がっているが、この庚申様非常に腹立ちぽくって、事あるごとにたゝりがあるので氏子中おじけをふるっている。俗に「たゝり神」とさへいふ。
 明治卅八年にほこらのそばにある神木大欅の根を掘ったために高野昭造、高野福太郎両家が丸焼けに遭ふやら、その後も欅の枝を切ったゝめ石井孫太郎家三名がチフスにかかり、一昨年は京王の電灯工夫が工事の都合で枝おろしをやって四人一度に発病、関戸の荷馬車の馬が根をかじったために口がまがってしまったなど、たたりのほど数えあげればきりがないが、この頃このほこらが風雨に破れ果て見るかげもなくなったが、余りなげやりにして却ってたたりでもあってはと相談ぶったあげく、屋根はあかがえ張り、檜づくりと滅法金をかけてせいぜい御機嫌をとりむすぶのだといふ。数日前、まづ小野神社の神官をたのんで庚申様に改築の余儀なき次第を申し上げ、氏子一同肝をヒヤヒヤさせながらこの程取こはしにかゝった。この庚申様、イボ神様ともいって、参詣人のあげた線香の灰をつまんでイボにつけると、必ずイボがとれること。切支丹バテレンよりも妙だと聞く。祟りおそろしさに一筆功徳を宣伝して、筆者も御機嫌をとりむすんでおく。(句読点は筆者)

の記事で庚申祠の写真が載っている。八代恒治氏は『三多まの庚申塔』(昭和36年刊)の中で「府中市中河原では、西向庚申は数少なく霊験があると伝えている」とし、ここでは「そばに建っている木を切ったり折ったりするとたたる」、また「いぼ・できもの・足のいたみによい。養蚕のよくできるようにも願った」の聞き取り調査をしている。さらに「府中市中河原では、信仰のあつい庚申塔近くの雑貨屋で2年ほど前まで(絵馬を)売っていたが、今はあげる人も少なくなったので置かなくなったという」報告もしている。昭和初期にいわれていたことが、30年後の8代氏の調査にもうかがえて面白い。
 ところで、中河原の祠の中にある庚申塔は、正徳6年の青面金剛刻像塔と文化元年文字「庚申供養塔」の2基である。青面金剛の胸前の合掌手の下に手とも思えるし、衣服の一部とも思えるようなものがあり、6手であるか8手とみるか問題が残る。また文化の文字塔の台石には、北多摩では珍しい「三疋猿」の銘があり、三猿を文字化している。ここには、庚申塔の他に竿石に「奉納 青面金剛」と刻んだ慶応3年の燈籠がみられる。

 他のもう一つの記事は、日の出町大久野・萱窪の庚申塔に関するもので、昭和6年4月24日の東京日日新聞府下版に載っている。「掘りだした庚申塔 今後毎月縁日を開く」のリードで

 西多摩郡大久野村萱窪・大工・来住野久太郎(五七)が五男利助(一〇)と廿二日夕、自宅庭先へ池を掘らんとして地下四尺まで掘り下げると、高さ三尺、幅一尺の庚申塔を発見した。二百廿七年前の遺物で、「宝永三年霜月日 本尊猿田彦大神成」及「萱窪村同行十六人で建立」と刻まれてある。近所では、掘り出した日を記念して毎月縁日を開くことになった。(句読点は筆者)

と報じ、庚申塔の写真を載せている。この写真と記事の銘文から判断して、昭和49年11月17日のキリシタン石仏などを見学した大久野例会で見た萱窪の庚申塔2基のうちの1基と思われる。他の1基は、寛政5年の笠付型青面金剛刻像塔で、主尊は、剣人6手像である。記事のものと思われるのは、角柱の正面に上方の2手が日月を捧げる合掌6手青面金剛と、下部に正面向きの三猿を刻み、右側面に「庚申供養圓成塔為諸信士現当安楽」、左側面に「宝永三丙戌霜月日 武州多摩郡萱窪村 同行拾六人」の銘がある。角柱上部の状態からみて、元来は笠付型であったと考えられる。記事では、「本尊猿田彦大神成」の銘が刻まれていたというけれど、日の出町では平井に1基、万延元年の「猿田大神」と刻む自然石がみられるに過ぎないことからも、そうした銘文が刻まれていた事実はないと推測される。

 庚申塔に限らず他の石仏の記事が、まだ昭島市民図書館のマイクロフィルムの中に埋もれていると思う。戦後の朝日新聞多摩版(都下版を含めて)のマイクロ化も進んでいる。毎日新聞のものと併せて、石仏関係を拾ったら、思いがけない発見もあろう。誰か時間に余裕のある方が丹念に読まれて、面白いものを発表していただけるとありがたい。末筆ながら昭島市民図書館のマイクロ化の努力に対して敬意を表すると共に、貴重な資料の公開を感謝したい。(昭和40年7月15日記)
                            『野仏』第8集(昭和51年刊)所収
勢至主尊の庚申塔
 昨年(昭和50年)暮れに庚申懇話会編『日本石仏事典』が雄山閣から発刊された。本会(多摩石仏の会)からも八代恒治会長を始め、縣敏夫さんと私の3人が執筆者として事典刊行に参画した。ところが、全国に何万、いや何十万とある石仏を広い視野から把えて執筆するということは、非力な私にとって土台無理な話であった。とはいうものの、こうした仕事を誰かがやらなければならないし、初めは不充分であっても、それを土台にさらに研究の進歩発展を促して積み重ねができる。石仏に関する事典があったら、どんなに助かるだろうと思っていた本人が、まさか自分が書く側に廻ろうとは全く思いがけなかったというのが実感である。ともかく、石仏を通して結ばれた友人たちの協力に支えられて、私の担当する項目の責めを果たすことができた。幸いにも好評で迎えられ、日ならずして再販の話が起こり、これも残部が僅かになったと聞いている。これも1重に本会の皆様の協力の賜物で、この機会を借りて厚くお礼を述べたい。

 執筆中は書くのに夢中で、早く担当の項目を書き終えることが念願だった。いざ事典が刊行されると、その後に各地で発表された資料を見るにつけ、あそこは書き足りなかった、こうした例を加えておけばよかった、ここは間違っていたなど、表現や例示の不足、あるいは誤りを感じないわけにはいかなかった。例えば、魚籃観音の項目(27頁)一つとってみても、形容について「水上の大魚の背に乗る形像も見られる」とは書いたけれども、石像としては「魚籃を持った丸彫り立像が一般的で、光背型浮彫り立像も見られる」とした。佐島俊一氏の『群馬の石仏』(木耳社 昭和50年刊)を見ると、沼田市上登地・弥勒寺境内にある大魚上の魚籃観音の写真が載っており、これなども当然ふれるべき例である。また分布について「東京に十基見られる」と記したけれども、最近、港区内で3体発見したことから考えても、この数字は訂正されなくてはならない。

 佐島氏の著作が出た関連からいえば、群馬郡倉淵村岩永にある寛政6年の百体の青面金剛像を刻む庚申塔が載っている。これなどは、事典でふれるべき例であろう。沼田市の弥勒寺の風神像など、佐島氏の1冊をもってしても、書き足らない項目が3つも4つも出てくるのである。これから記そうと思う勢至菩薩が庚申塔の主尊として登場することも、事典では全くふれられていない。この機会に、私の担当項目(勢至菩薩)とも関係が深いので、追補の意味でふれておきたい。

 今年(昭和51年)1月、東村山の小林太郎さんから埼玉県三郷市文化財調査委員会編の『3郷市内庚申塔調査報告』を送っていただいた。三郷の庚申塔については、例えば五家新田・富足神社の寛文9年「申田彦大神」塔、上口閻魔堂の来迎弥陀像・長享3年庚申板碑など、清水長輝氏の『庚申塔の研究』に載っていたところから、その1部の塔についてはすでに知っていた。しかし、市内くまなく調査した報告書に接すると、52頁の元文5年の庚申年に建立された地蔵菩薩を庚申塔を誤認する例などの欠点はあるにしても、この地方の傾向を知る上で興味深いものがある。特に私にとって見逃せなかったのは、216頁記載の勢至を主尊とした庚申塔である。

 今まで勢至については、来迎弥陀の脇士として、独尊の場合は主に二十三夜待の主尊として理解されていた。庚申塔と勢至が結びつく場合は、弥陀三尊という形で、勢至の単独主尊の例を聞いたことがなかった。今回の『三郷市内庚申塔調査報告』は、そうした意味で重要な問題を提起してくれた。掲載の写真を見ると、合掌の立像を浮彫りし、上部に種子「サク」、下部には三猿を陽刻し、勢至像の左右に「奉庚申供養勢至菩薩像二世安楽」と「元禄十丁丑十一月吉日」の銘文がある。所在地は、高須・宝蓮寺墓地。
 この勢至主尊塔は、私にショックを与えた。これまで菩薩形の2手合掌像を主尊とする庚申塔は、大抵の場合に観音として取り扱われ、そう位置づけられてきた。事実、そうした影響は、3郷の場合にもみられ、彦倉の虚空蔵境内にある延宝8年「庚申供養」銘の合掌2手立像を「観音」として分類している(131頁)。私自身も、先年の青梅市内で発見した元禄11年の合掌2手立像を観音と断定した。すでに聖観音・如意輪観音・馬頭観音などは、庚申塔の主尊に見られるところである。一方勢至はというと、弥陀三尊や十三仏など、他の如来や菩薩と組合せで登場する以外は、二十三夜待の主尊として造像された例が知られるだけで、それも数が極めて少なかった。そうしたわけで、菩薩形の合掌2手像が観音と受け取られたのは無理なかろう。しかし、三郷市内で種子「サク」や「勢至菩薩像」と明記した庚申塔が発見されたとなると、今まで観音として分類した2手合掌像がはたして妥当であるかどうか、となると問題が生ずるであろう。

 確かに合掌の姿勢をとる観音が、三十三観音の中に「合掌観音」として見られる。けれども、現在わかっている範囲では、三十三観音が石像として造られたのは、そう早い時期ではないし、単独に合掌観音だけを建立したとは考えられない。それよりもむしろ、主尊の混乱時代に勢至菩薩が登場したと考える方が適切であり、3郷の元禄10年塔は、それをはっきり明示してくれたわけである。
 以上あげた諸点からみて、今まで観音として分類された菩薩形2手合掌像を今1度再検討すべきであると思う。そして納得が得られるならば、勢至に分類を変更をすべきではなかろうか。青梅市吹上の元禄11年塔は、以前に私が分類した観音は誤りで、勢至を主尊とした庚申塔と見るべきである。ここに訂正しておきたい。(昭51・7・14記)     『野仏』第9集(昭和51年刊)所収
チョンマゲ道祖を訪ねて ── 山梨県北都留の石仏 ──
 山梨県内の石仏では古くから道祖神に興味が集中した感じで、武田久吉博士の『道祖神』(アルス昭16)以来、戦後もその傾向が続き、甲府二高社会研究部の『甲斐の道祖神』(地方書院 昭34)が発行された。続いて伊藤堅吉氏が県の内外にある双体道祖神の調査を進め、他県の調査と併せて『甲斐路』2〜7号(山梨郷土研究会 昭36〜38)や『あしなか』83輯(山村民俗の会 昭38)を発表、それを基に『性の石神──双体道祖神考』(山と渓谷社 昭40)にまとめ上げられた。それ以後に出版された道祖神関係の本には、県内の道祖神が取り上げられている。地元の中沢厚氏は、丸石道祖神などを含めて、永年の県内道祖神研究の集大成というべき『山梨県の道祖神』(有峰書店 昭48)を発表され、この方面の研究は進展している。

 道祖神に比べるとほかの石仏についての調査研究は遅れが目立ち、庚申塔については地元の船窪久氏が『甲斐路』23号(昭48)に発表し、それをさらに発展させた『甲州の庚申塔』(私家版 昭50)が眼につく位である。例えば、富士吉田市では『路傍の石仏』(市教委 昭50)がまとめられているし、上野原町誌編纂委員会の『上野原町誌(下)』(昭50)では石仏が取り上げられている。今後さらに各市町村単位で調査が進められ、資料集や写真集が発刊されるだろうし、市町村史誌にも掲載されるだろう。こうした県内の現状だから、各地にはまだ未知の石仏が多いであろうし、その発見の可能性を秘めている。

 都留地方(郡内ともいう)の石仏は、いろいろな点で甲府を中心とする国中地方とは異なるようである。特に大月市や上野原町などの北都留地方は、相州(神奈川)や武州(東京・埼玉)と境を接しており、甲州(山梨)といっても、石仏に相・武との交流の跡が見られる。ここでは大月市梁川町にある2基のチョンマゲ道祖神を中心に、その周辺にある石仏を紹介することにしよう。

七夜待塔
国鉄(現・JR)中央線梁川駅のプラットフームに立つと、駅の北側の小高い所に小さなお堂と灯籠が見える。大月市梁川町彦田にある福寿庵である。庵に通ずる石段の登り口には寛政4年(1792)の「庚申塔」と嘉永2年(1849)の「念三夜」塔が並んでいる。共に自然石の文字塔。「念3夜」とは「二十三夜」のことである。
 石段を登って行くと、途中左手に数基の馬頭観音と笠付文字塔とがある。笠付塔の正面には「○七夜待供養」、右側面には「連人中衆内般栄祈處」、左側面に「宝暦七歳(1757)霜月吉旦 願主蘭□叟建之」と刻まれている。都留地方を私が歩いた範囲では、二十三夜塔はかなりの数を見たけれども、七夜待塔はこれ1基だけであった。植松森1氏の調査(『増富村誌』昭46)によると、北巨摩郡須玉町比志2は享保8年(1723)、宝暦(1764)の七夜待塔があるというから、県内にはまだ未発見のものがあろう。
 二十三夜待を略して「三夜待」、同様にして二十六夜待を「六夜待」といい。七夜待は十七夜待を意味するけれども、『多聞院日記』に17日から23日までの「七夜待」を行った記事が見られるから、三夜待や六夜待とは同列にはできない。この福寿庵の場合には、願主が僧侶であるところを見れば、六観音と勢至菩薩をそれぞれ各夜の本尊に当て行なった七夜待であったろう。
 石段を数段下りた左手に、丸石道祖神が杉の葉で作った屋根の下に祀られている。この辺りのドンド焼きは、正月14日の朝に行われるが、そのドンドの火で焼かれた丸石は黒くなっている。屋根には「祭歳徳大神」のお札が差してある。

双体道祖神
 彦田側から桂川にかかる立野橋(梁川駅の南下)を渡ると梁川町立野である。つまり立野は彦田の対岸にある。集落中央の辻には「青面金剛塔」があり、寺の境内では地蔵が見られる。寺の東側の坂道を登ると天王さまの前に出る。鳥居の近くには、髷姿の若い男女が肩を寄せ合って手を握った双体の道祖神がある。このコース第1の見どころだ。正面上方の頭部に模様を刻み、下部に横書きで「道祖神」、左右の側面に「宝暦二年(1752)」「申六月吉日」の銘文が刻まれている。北都留地方には、意外と双体道祖神は少ない。現在、明らかなものは、これを含めて3、4基ではなかろうか。
 近くで遊んでいた子供たちに聞いたところによると、昨年(昭和50年)までは鳥居前の道路にお仮屋を造り、その周りをドウロクジン(双体道祖神)を3回廻してから焼いたそうだが、今年(51年)から下の公園でやるようになったという。
 双体道祖の近くの道路に面した崖に、馬頭観音が十数基まとめられている。丸石に「馬頭観世音」と刻んだものも見られるし、2手合掌の立像もある。その北側に金剛界の大日如来の丸彫り像があり傍らに中尊が祀られた石祠が安置されている。  ○ 奪 衣 婆
立野橋を渡って甲州街道(国道20号線)に出、四方津方面へ進むと、やがて左手に中央線下のトンネルがある。そこをくぐって左の舗装の坂を上ると、道の両側に石仏が見られる。ここでは、何といっても奪衣婆がよい。「ソウヅカの婆さん」ともいい、三途の河原で罪人の衣服を奪い、懸衣翁にそれを手渡す老鬼女である。しかし、ここにある石像は、幾分ユーモアを感じさせる。傍には十王像があるのだけれども、いずれも首を欠き、最近、セメントで地蔵風の顔を造って付けたために台なしである。

青面金剛
綱の上の共同墓地の近くには、寛政5年(1793)の青面金剛がある。これは胸前の第1手が合掌し、上方の第2手に矛と蛇、下方の第3手に矢と弓を持つ。台石には三猿が刻まれている。この像の近くに「江戸道」と刻まれた自然石の道標が倒れていたから、この道が旧甲州街道なのであろう。
 綱の上のバス停手前5、60メートルの左に、家と家の間に細い道がある。中央線上に架かる跨線橋の1部が突き当たりに見えるから、それを目印に奥へ入るとよい。家の背後に年銘ははっきりしない、しかしこの辺りでは古いと思われる6手青面金剛像がある。持物も先刻のものとは違っている。隣には享和3年(1803)の自然石「念三夜」塔がある。

丸石道祖神
甲州街道を横切って南へ、左手の神社近くで出羽三山碑を見てから坂を下り、塩瀬橋を渡って再び桂川の南岸へ出る。そこは塩瀬、大月市梁川町の内である。坂を登った集落中央の広報坂の近くに丸石の道祖神がある。台石の正面に「道祖神」、左右の側面に「寛政五癸丑年(1793)」「九月吉日」と刻まれている。その上の丸石は、台石以前からあったものか、その辺の判定はつかない。かって私は、東八代郡石和町で多くの丸石道祖神を見たことがある。それに比べると、北都留地方は、かなり少ないようである。丸石道祖の隣には三つに折れた、多分、文化年間の造立と思われる二十三夜塔がある。上部には、勢至の種子「サク」が刻まれている。瑞淵寺入口にも文化元年(1804)の自然石「サク 廿三夜」塔が見られる。

庚申石祠
段下まで下って畑の中の小道を東へ川に沿って進み、谷川に架かる小橋を渡って、再び坂道を登って進めば、やがて左手の小高い所に石祠を発見するだろう。流造りの石祠室部の正面には二猿と三猿を刻み、中央に4角な窓がある。中には主尊の仏像が納められているけれども、この窓からでははっきりわからない。異形地蔵と思われるが、地元では「山王さま」と呼んでいる。寛文12年(1672)の造立。北都留地方には、このような庚申石祠が12基あり、その多くが庚申塔造立の初期に当たる。つまり、青面金剛が庚申塔の主尊として造られる以前に、石祠の形式が採られている。
 庚申石祠の東方百メートルほどの所には、文政12年(1829)の「庚申塔」と並んで、安永5年(1776)の秋葉山大権現の灯籠がある。側面には「日本大小神祇」「羽黒山大権現」の銘が刻まれている。

丸彫り十王
 新倉橋を渡って桂川北岸の新倉に出る。甲州街道にある新倉のバス停を西へ進むと、右手に中央線下のトンネルがある。そこを抜けて右方向に坂を登ると消防小屋、その隣りにブッロク造りの小堂がある。中には、上部に十二神将の木像、その下に丸彫りの十王石像が見られる。閻魔王のみ1回り大きく造られている。奪衣婆も見られるし、獄卒も2体ある。先刻のセメント首のものとは違い、彫りもよく保存もよい。供物やお水があがっているところを見れば、現在も信仰されているのだろうし、それだからこそ、こうしたお堂に祀られているのであろう。

チョンマゲ道祖
 新倉大明神の鳥居右手に延享4年(1747)の双体道祖神がある。先に見た立野の双体像と同じように、髷姿の若い男女が肩を寄せ合っている。立野のものは、額部に模様があったのに対して、ここのは模様が刻まれてない。その他、両者を比較すると髷の形、顔の触れ具合、手の握り方など細かな点に違いが見られる。
 ここからから西へ百メートルばかり進み、右に折れて山へ登ると、中腹に石祠が並んでいる。その中の1基は、室部正面中央に異形の座像を刻み、上部に二猿、下部に二鶏を配した流造りの庚申石祠である。塩瀬のものと同じく寛文12年(1672)の造立。塩瀬との違いは、室部を中空にせずに正面中央に主尊を刻んだ点にある。

川合集落
 新倉から甲州街道を東に四方津駅、あるいは西へ梁川駅へ戻る。余裕があれば、再び新倉橋を渡って桂川南岸の石仏を見て歩くのがよいだろう。北都留郡上野原町川合に入って、牛倉神社の二十三夜灯籠、三叉路の「廿三夜尊」、塚の寛文3年(1663)の庚申石祠が主なものである。
久保集落
 さらに時間的、体力的に余裕があれば、四方津駅の東方の久保を訪れたい。集落の西のはずれには延享5年(1748)の青面金剛と寛延元年(1748)の北都留地方では珍しい勢至菩薩立像が見られる。集落中央の道路より1段低い所には、延宝8年(1680)の3尊仏を刻む珍しい石祠がある。左側面に「奉造営富士浅間大菩薩 願主小俣治左衞門」と刻まれている。

杖突集落
 桂川を渡り、坂を登ると右手の墓地に阿弥陀が見られる。集落を東へ進むと、袋香寺の入口に大きな万霊塔が眼につく。その左手に十王塔がある。新倉と違って笠付きの4面塔の中央に地蔵の立像、その右と左に奪衣婆と懸衣翁、下部に浄玻璃の鏡や天秤などを刻み、両側面と裏面に十王を配している。享保11年(1726)の造立。(昭51・5・7記) 『野仏』第9集(昭和52年刊)所収
多摩地方の道祖神
 東京都には道祖神がない、と某石仏研究誌に書いた高名な研究家がいた。10年も前のことならともかく、最近の話である。この方は、恐らく双体道祖神の意味でいわれたのかもしれないが、とんでもないことだ。これには、伊藤堅吉氏の『性の石神 双体道祖神考』(山と渓谷社 昭和40年刊)に記された「分布圏は関東と中部に限定されていた。この二地域でも山梨(甲州)長野(信州)群馬(上州)静岡(駿州)神奈川(相州)の五県に局限され、その亜流的な一群が、わずかに鳥取県にみられるだけである」(16頁)の影響が残っているのかもしれない。
 庚申塔を研究している者ならば、文京区春日の北野神社(牛天神)にある三猿付の「道祖神」ぐらいは、当然に知っているはずである。また荒川区や江戸川区などには、「道祖神」と彫った角柱や自然石がある。まして多摩地方には、これから述べるように、単体・双体・文字の道祖神がみられる。多摩地方の塔数から推測すれば、東京都には、おおよそ百基くらの道祖神が存在するのではなかろうか。

 伊藤氏といえば、山村民俗の会の『あしなか』83輯(昭和38年刊)に載った「道祖神」の「双体像分布図」を思い出す。これには、多摩地方が空白になっていた。当時私は、道祖神を捜して青梅市内を廻ったが、たまたま1基も見付けられず、いつしか庚申塔にひかれ、多摩地方を歩くようになった。それでも道祖神を忘れたわけではなく、庚申塔調査のかたわら、見掛けた道祖神をメモしておいた。それが50基ほどになったのでまとめたのが『3多摩の道祖神』(私家版)である。昭和40年5月のこと。これで、僅か7基の双体道祖神であるが、多摩地方の空白は多少でも埋めることができたと思った。

 多摩地方には、約1300基の庚申塔が散在する。私なりによく調べたつもりでも、約200基の調査洩れが生じている。庚申塔に比べれば調査洩れの塔数は少ないだろうが、見逃したものもある。最近では、多摩地方の各市町村で石仏調査が進められている。その結果、各地にある道祖神がかなり明らかになってきた。ここでは、そうした調査に基づいた報告書などの資料を参考に、私の調査と併せて多摩地方の道祖神を1覧してみよう。
 まず、これまで私が見た多摩地方の道祖神に関する文献を記しておく。
   溝口喜久治  「道祖神について」『多摩文化』第2号  昭和34年 多摩文化研究会
   石川 博司  『三多摩の道祖神』           昭和40年 同  人
   八王子市教育委員会 『八王子市石造遺物総合調査報告』 昭和44年 同  会
   多摩町誌編さん委員会 『多摩町誌』          昭和45年 多摩町役場
   多摩石仏の会 『多摩石仏散歩』            昭和46年 武蔵書房
   川端 信一  「シルクロードと石仏」『野仏』第4集  昭和47年 多摩石仏の会
   清瀬市史編纂委員会 『清瀬市史』           昭和48年 清瀬市
   宮田登・真野俊和 「東京都」『関東の民間信仰』    昭和48年 明玄書房
   川端 信一  「越野の道祖神」『野仏』第6集     昭和49年 多摩石仏の会
   島田  實  『八王子市石造文化財年表稿1』     昭和50年 同  人
   八代 恒治  「府中の供養塔」『府中市立郷土館紀要』第2号 昭和51年 同館
   町田市史編纂委員会『町田市史 下巻』         昭和51年 町田市
   多摩市教育委員会『多摩市文化財資料 石仏編』     昭和51年 同  会

 以上の資料を用いて、多摩地方の道祖神について述べるわけであるが、資料を相互に比較すると差異があったり、明らかに記述に誤りのある箇所がある。すでに調査の済んだものについては、私の資料を用い、未調査のものは、正しいと思われる資料を用いた。

 次に、前記の資料に基づいて、編年順に道祖神を整理してみよう。
   1 正徳4年 地  蔵      光背型  町田市つくし野2−23
   2 正徳5年 単  体      光背型  町田市つくし野3−3 福寿院
   3 享保4年 地  蔵      光背型  町田市上小山田町山中谷戸
   4 享保9年 双  体      光背型  八王子市片倉町
   5 享保14年 天  狗      板駒型  町田市成瀬・新坂下
   6 元文2年 天  狗      板駒型  町田市成瀬・堰引堀土手
   7 宝暦10年 「道陸神」     柱状型  八王子市四谷町
   8 明和7年 単  体      光背型  町田市高ケ坂 地蔵堂
   9 安永2年 「ウーン 道祖神」 柱状型  町田市成瀬・西窪
   10 安永9年 「ウーン 道祖神」 柱状型  町田市小山町中村
   11 天明1年 双  体      光背型  日野市程久保・池ケ谷戸(昭和43年盗難)
   12 天明6年 「道祖神」     柱状型  町田市本町田 養雲寺
   13 天明7年 「道祖神」     自然石  日の出町大久野・坊平
   14 天明8年 双  体      柱状型  八王子市館町田中
   15 寛政6年 双  体      柱状型  八王子市越野
   16 寛政8年 「道祖神」     自然石  八王子市川口町滝の沢
   17 寛政9年 双  体      柱状型  町田市相原町川島
   18 寛政9年 双  体      柱状型  八王子市堀之内・寺沢
   19 寛政10年 「道祖神」     自然石  五日市町伊奈・山王宮下
   20 寛政12年 双  体      光背型  町田市山崎町八幡平際
   21 文化7年 「道祖神」     柱状型  町田市金森 杉山神社
   22 文化8年 「道祖神」     自然石  五日市町戸倉・本郷
   23 文化9年 「道祖神」     自然石  奥多摩町留浦 普門寺
   24 文化10年 「道祖神」     自然石  奥多摩町原
   25 文化12年 「道祖神」     自然石  秋川市菅生・四軒在家
   26 文化13年 「南無道祖神」   駒 型  保谷市北町6−7
   27 文化年間 不  明      不 明  町田市木曽町境川際
   28 文政3年 「道祖神」     駒 型  町田市成瀬・吹上
   29 文政9年 「妻野神」     柱状型  町田市高ケ坂 地蔵堂
   30 天保2年 「道祖神」     自然石  青梅市梅園町 七兵衛公園
   31 天保8年 単  体      光背型  町田市金森・西田町谷境
   32 天保9年 「道祖神」     柱状型  八王子市松木
   33 天保10年 「道祖神」     柱状型  町田市金森・西田 杉山神社
   34 天保11年 「道祖神」     柱状型  町田市下小山田町善次谷戸
   35 天保12年 「道祖神」     自然石  奥多摩町原
   36 天保14年 「道祖神」     自然石  奥多摩町原・熱海
   37 天保14年 「道祖神」     自然石  奥多摩町原
   38 弘化3年 「道祖神」     柱状型  八王子市柚木・殿ケ谷
   39 弘化4年 4地蔵       柱状型  八王子市柚木 神明社
   40 嘉永2年 「道祖神」     柱状型  八王子市鑓水 大芦会館
   41 嘉永4年 「道祖神」     柱状型  調布市飛田給
   42 嘉永5年 「道祖神」     柱状型  八王子市堀之内・日影
   43 嘉永5年 「道祖神」     柱状型  八王子市中山
   44 嘉永5年 「道祖神」     自然石  五日市町盆堀 小宮神社
   45 嘉永6年 双  体      柱状型  町田市野津田 神明社
   46 嘉永7年 「道祖神」     自然石  奥多摩町川野 浄光院
   47 安政2年 「道祖神」     柱状型  多摩市落合・山王下
   48 安政3年 「道祖神」     柱状型  町田市つくし野2−6
   49 安政3年 「道祖神」     柱状型  多摩市落合・神之根
   50 安政4年 「道祖神」     自然石  奥多摩町川野 愛宕神社
   51 安政4年 「道祖神」     柱状型  町田市高ケ坂 地蔵堂
   52 安政4年 「道祖神」     自然石  五日市町深沢 穴沢天神社
   53 万延2年 「道祖神」     柱状型  日野市百草
   54 文久2年 「道祖神」     駒 型  町田市成瀬・中郷
   55 文久3年 双  体      駒 型  八王子市宇津貫
   56 文久3年 「道祖神」     自然石  奥多摩町大丹波
   57 慶応1年 「道祖神」     自然石  檜原村神戸 春日神社
   58 慶応2年 「道祖神」     柱状型  町田市小山町荒ケ谷戸
   59 明治4年           (台石) 八王子市元八王子2丁目
   60 明治15年 「道祖神」     自然石  清瀬市下宿2−521 円通寺
   61 明治17年 「道祖神」     自然石  八王子市北野町 北野天神
   62 明治25年 双  体      柱状型  八王子市下柚木
   63 明治20年代 「道祖神」    自然石  奥多摩町梅久保
   64 明治30年 「道祖神」     自然石  八王子市松木
   65 明治36年 「道祖神」     自然石  日の出町大久野・細尾
   66 明治43年 「道祖神」     柱状型  日野市平山
   67 大正7年 「道祖神」     柱状型  町田市森野2丁目
   68 大正9年 「道祖神大〓〓命」 柱状型  五日市町留原
   69 昭和2年 「道祖神」     自然石  八王子市中山
   70 昭和4年 「道祖神」     柱状型  八王子市上恩方町上案下
   71 昭和32年 「道祖神」     柱状型  町田市小川町 町田街道
   72 昭和38年 「道祖神」     自然石  八王子市下柚木
   73 昭和39年 「道祖神」     自然石  町田市相原町丸山
   74 年不明  天  狗      光背型  町田市成瀬・東光寺
   75 年不明  双  体      (上欠) 八王子市四谷町
   76 年不明  双  体      (上欠) 町田市鶴間・町谷
   77 年不明  双  体      光背型  町田市成瀬・三又
   78 年不明  双  体      柱状型  町田市小山町沼
   79 年不明  双  体      光背型  町田市小山町三ツ目
   80 年不明  双  体      光背型  多摩市落合・唐木田
   81 年不明  双  体      駒 型  多摩市小野路・萩久保
   82 年不明  「道祖神」地蔵・青面金剛 柱状型 八王子市四谷町 見段塚
   83 年不明  「道祖神」     柱状型  府中市白糸台4丁目
   84 年不明  「道祖神」     柱状型  町田市下小山田町竜沢
   85 年不明  「道祖神」     自然石  日の出町大久野・新井

 前記の多摩地方の道祖神を造立年代順に見ると、大まかに単体像から双体像へ、さらに文字化されている傾向がうかがえる。これは、多摩地方の特徴ともいえるけれども、むしろ、道祖神が多数分布している町田市の特徴といったほうがより適切であろう。南多摩の八王子・多摩・日野の各市の場合は、双体像から文字化への変遷であり、西多摩や北多摩の各市町村の場合は、文字道祖神だけであるからだ。

 山田宗睦氏は、その著『道の神』(淡交社 昭和47年刊)の中で「石川博司『三多摩の道祖神』を未見だが、相州津久井郡、武州三多摩、秩父郡のは、甲州道祖神の影響をうけているとおもう」(160ページ)と推測されている。たしかに、奥多摩町小河内地区の小正月行事「お松焼き」は、隣の山梨県北都留郡丹波山村の「お松焼き」と呼び名も共通しており、甲州の影響や関連を無視できないだろう。しかし、多摩地方の道祖神ということになると、そのような点も多少は考えなければならないとしても、甲州よりはむしろ相州の影響下にあるといえる。この点は『三多摩の道祖神』で指摘したように、相州寄りに多くの分布がみられることや双体像の類似性に求められよう。試みに清水長明氏の『相模道神図誌』(波多野書店 昭和40年刊)103ページ掲載の秦野市大根の元文5年双体像と多摩市落合・唐木田の年不明双体像、107ページ野厚木市上大沢の文政3年双体像と八王子市館町田中の寛政12年双体像との類似を見ていただけば、相州の影響の1端がうかがわれる。
 過日『やぶにらみ道祖神考 上州の道祖神』(昭和51年刊)の著者・大塚省悟氏に前橋市や群馬町などの双体道祖神を案内していただいた。その折に、多摩地方には80基ほどの道祖神があると話したら、安中の1市の双体像よりも少ないといわれた。たしかに量的にみればその通りであり、異論はない。これまでとかく「あることの追求」がなされてきた。この辺で発想を転換して「ないことの追求」も行うべきではないだろうか。
 群馬県の一市内にある双体道祖神よりも、多摩地方にある全ての道祖神の方が少ないのは何故なのだろう、とこの点を考えることが必要なのである。それは、道祖神に対する職能にも関連があるであろうし、民間信仰の指導者に関連してくかもしれない。あるいは、群馬で考えられる道祖神の職能を多摩地方では他のものが代替したのかもしれない。現在も1部に残っている小正月行事の「サイノカミ」とも結びつけて、多摩地方の道祖神の分布の偏りや少ないことの意味を問うべきである。
 ともあれ、多摩地方には文字道祖だけでなく、単体像や双体像が存在すること、単体像から双体像へ、さらに文字化という変遷がみられること、1部を除いては相州の影響下にあったことが指摘される。これを機会に多摩地方の道祖神が見直され、さらに1層の研究が進展することを期待するものである。                        『野仏』第10集(昭和53年刊)所収
東京の観音庚申
 庚申塔に刻まれた主尊を調べてみると、「庚申さま」として一般に知られている青面金剛以外に、いろいろな仏・菩薩・明王・天などが登場する。これが、庚申塔を追いかける魅力の一つとなっている。おそらく、庚申塔の主尊が青面金剛だけに限られていたならば、庚申塔に対する興味も半減するであろう。
 清水長輝氏は江戸周辺の庚申塔を分析し、造立年代を4期に区分している(『庚申塔の研究』)。特に「初期時代」、あるいは「混乱時代」ともいえる第2期の元和から延宝年間には、さまざまな主尊が塔面に現れている。いわば「諸尊乱立時代」といえる。そうした中で、これから話を進める観世音菩薩が見出される。
 観音世菩薩は、現世では卅三のお姿に変身して衆生を救ってくれるというので、地蔵菩薩と並んで庶民の間で広く信仰されてきた。卅三現身の考えは、いろいろな変化観音に発展し、さらに卅3所観音や卅三観音を生んだ。中でも西国・番頭・秩父の卅三所の観音霊場は有名で、秩父霊場に1所加えて百番観音とした。このような観音信仰の現れが、諸尊乱立する時期に庚申塔に見出されても不思議ではないだろう。
 さて、都内にはどのような観音庚申塔が見られるだろうか。手元にある資料によってみることにしよう。まず、造立年代順にあげると
   1  承応2年  聖観音  石 幢  杉並区梅里1−4 西方寺
   2  寛文3年  聖観音  光背型  大田区田園調布1−37 密蔵院
   3  寛文4年  聖観音  丸 彫  杉並区成田東4−17 天桂寺
   4  寛文4年  聖観音  光背型  足立区綾瀬4−9 観音寺
   5  寛文5年  聖観音  光背型  文京区小石川3−2 福寿院
   6  寛文7年  聖観音  光背型  新宿区西早稲田1−7 観音寺
   7  寛文8年  聖観音  光背型  台東区根岸3−9 根岸小学校
   8  寛文8年  如意輪  光背型  練馬区旭町1−20 仲台寺
   9  寛文8年  聖観音  光背型  江戸川区長島町199 自性院
   10  寛文8年  聖観音  光背型  文京区小日向2−17 大日堂
   11  寛文9年  聖観音  光背型  杉並区高円寺南2−39 鳳林寺
   12  寛文12年  聖観音  光背型  板橋区赤塚5−26 観音堂
   13  寛文12年  聖観音  光背型  台東区浅草7−4 待乳山聖天院
   14  寛文13年  聖観音  光背型  荒川区南千住6−60 素戔雄神社
   15  延宝6年  聖観音  光背型  文京区大塚4−49 大塚公園
   16  延宝6年  如意輪  板碑型  荒川区南千住6−60 素戔雄神社
   17  延宝8年  如意輪  光背型  北区神谷3−45 自性院
   18  貞享3年  聖観音  光背型  墨田区東向島3−2 子育地蔵
   19  元禄1年  聖観音  光背型  北区堀船町3 福性寺
   20  元禄3年  如意輪  光背型  北区神谷3−45 自性院
   21  元禄4年  聖観音  光背型  板橋区成増4−3
   22  元禄4年  如意輪  光背型  北区神谷3−45 自性院
   23  元禄5年  聖観音  光背型  板橋区成増4−22 墓地
   24  元禄12年  聖観音  丸 彫  大田区山王1−6 円能寺
   25  元禄13年  聖観音  光背型  足立区綾瀬1−14 薬師寺
   26  宝永6年  如意輪  光背型  北区豊島町4 下道地蔵堂
   27  宝永7年  馬 頭  光背型  板橋区大原町40 長徳寺
   28  享保5年  卅4所  板駒型  江戸川区東瑞江2−27 下鎌田地蔵堂
   29  安永8年  馬 頭  駒 型  東村山市久米川・野行
   30  年不明   聖観音  光背型  文京区根津1−28 根津神社の30基である。これを観音別に造立年代に従って作表したのが表1である。全体をみても、観音庚申塔が造立されたのは、寛文から元禄までの時期が主体であることがわかろう。特に寛文期と元禄期にピークがみられるが、延宝以降、青面金剛が普及し、造立されると、再び寛文期のような造塔はなくなる。
   表1 造立年代別塔数
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   ┃元 号┃聖観音│如意輪│馬 頭│卅4所┃ 計 ┃
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   ┃承 応┃  1│   │   │   ┃  1┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃寛 文┃ 12│  1│   │   ┃ 13┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃延 宝┃  1│  2│   │   ┃  3┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃貞 享┃  1│   │   │   ┃  1┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃元 禄┃  5│  2│   │   ┃  7┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃宝 永┃   │  1│  1│   ┃  2┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃享 保┃   │   │   │  1┃  1┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃安 永┃   │   │  1│   ┃  1┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃年不明┃  1│   │   │   ┃  1┃
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   ┃合 計┃ 21│  6│  2│  1┃ 30┃
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 聖観音主尊のものは主として寛文期にみられるから、根津神社の年不明塔もその頃に造立された、と考えられる。現在、私の知る限りでは、聖観音を主尊とした最古の庚申塔は、千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)堀江・大蓮寺の正保3年塔である。東京では、それより7年遅れて承応2年に造立されたわけである。なお、この承応2年の石幢は、6面に六観音を配するものであるが、聖観音の面に「此一躰者庚申為供養」とあるので、六観音のうち聖観音だけを主尊とみた。
 如意輪観音主尊のものは、聖観音のものより造立年代が遅く、塔数も少ない。この傾向は、東京ばかりではないであろうし、他県ではあまりこの種の主尊はみられない。神奈川県川崎市北加瀬・寿福寺の寛文9年塔が知られている。
 馬頭観音は2例、秩父卅四所観音は1例と、きわめて少なく、造立年代も宝永以降と聖観音や如意輪観音に比較して新しい。特に下鎌田地蔵堂の卅四所観音を主尊としたものは珍しく、この種の庚申塔の報告は見当たらない。
 次に都内30基の観音庚申塔を所在地別に作表したのが表2である。現在、板橋区にある仲台寺の塔は、北区より移転したもので、表2では北区に加えてある。
   表2 所在地別塔数
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   ┃区 市┃聖観音│如意輪│馬 頭│卅四所┃ 計 ┃
   ┣━━━╋━━━┿━━━┿━━━┿━━━╋━━━┫
   ┃北  ┃  1│  5│   │   ┃  6┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃板 橋┃  3│   │  1│   ┃  4┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃杉 並┃  3│   │   │   ┃  3┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃文 京┃  3│   │   │   ┃  3┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃台 東┃  3│   │   │   ┃  3┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃大 田┃  2│   │   │   ┃  2┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃足 立┃  2│   │   │   ┃  2┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃荒 川┃  1│  1│   │   ┃  2┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃江戸川┃  1│   │   │  1┃  2┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃新 宿┃  1│   │   │   ┃  1┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃墨 田┃  1│   │   │   ┃  1┃
   ┠───╂───┼───┼───┼───╂───┨
   ┃東村山┃   │   │  1│   ┃  1┃
   ┣━━━╋━━━┿━━━┿━━━┿━━━╋━━━┫
   ┃合 計┃ 21│  6│  2│  1┃ 30┃
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 表2を見て気のつく点は、如意輪観音を主尊としたものは、北区に集中し、隣接する荒川区に1基みられるように、極めて狭い範囲の造立である。これに対して聖観音の場合は、板橋・杉並・文京・台東を中心に、隣接した区にも分布がみられる。
 もう1点、観音庚申塔の分布が東村山市の1市を除いて多摩地方にみられない点は注意する必要があろう。原因は、いくつか考えられるが、区部に比べて庚申塔の造立年代が遅く、青面金剛の普及後の造塔が多いことがあげられよう。
 沖本博氏の「房総の初期庚申塔について」(『千葉県の歴史』第16号)によると、千葉県の寛文期の庚申塔に十一面観音を主尊としたものが報告されている。また、吉田富雄氏は、十一面観音の木像に「(キャ)庚申」と刻まれた例を報告(『庚申』第53号)しているから、都内でも十一面観音主尊の庚申塔が発見される可能性がないとはいえない。しかしながら、現在まで明らかなものは、聖観音・如意輪観音・馬頭観音・秩父卅四所観音の4種30基である。
   〔参 考 文 献〕
   清水 長輝 『庚申塔の研究』                昭和34年
   平野 栄次 『大田区の民間信仰 庚申信仰編』        昭和44年
   杉並区教育委員会編 『杉並の石造物──民間信仰』      昭和48年
   板橋区教育委員会事務局社会教育課編 『庚申塔──いたばしの石造文化財』昭和52年
                           『野仏』第11集(昭和54年刊)所収
多摩地方の地蔵日待塔
 地蔵は、石仏の代名詞的な存在である。童謡や歌謡曲に歌われ石仏といえば、村のはずれの地蔵である。けっして弥陀や観音などが登場することはない。それほど、地蔵が身近に感じられるからであろう。石仏調査に行っても、下手に石仏の所在を聞くよりも、「この辺にお地蔵さんがありますか」と尋ねたほうが、はるかに効果的である。
 地蔵は、釈尊入滅の後、弥勒が現れるまでの56億7千万年の無仏時代に、この世で衆生を救済する菩薩である、と説かれている。そうした仏説よりも、地蔵和賛にみられるように、賽の河原で石積みする子供たちを邪魔する鬼から守る地蔵が身近に感じられ、こうした子供たちとのかかわりあいのある地蔵が広く一般に信仰されている。その延長が子安地蔵や子育地蔵を生み、現在も地蔵盆が受け継がれていることにもつながっているのであろう。
 地蔵は仏説で説かれて信仰されているだけではなく、民間信仰の中に入っても、いろいろな信仰の本尊として借用されている。江戸時代の初期、まだ青面金剛が庚申待の本尊として普及せず、定着しない頃には、庚申塔の本尊として地蔵が造像されている。多摩地方の場合でも、庚申塔の初期に見られる現象である。稲城市を例にとれば、寛文4年に造立された地蔵浮彫りの光背型塔が念仏供養と庚申供養のためであり、延宝8年銘の立像浮彫りに光背型塔に「奉供養庚申」の銘文が刻まれている。両塔共に東長沼の常楽寺境内に現存する。さらに百村には、台石に「奉造立庚申待供養」銘の正徳2年造立の丸彫り立像もみられる。このような例は稲城市内だけではなく、町田市野津田に元禄15年の六地蔵石幢をはじめ、小金井・調布・町田・府中・日野・三鷹などの各市に分布する。
 庚申塔以外にも、地蔵を主尊とした石塔が造立されている。月待信仰においては、廿三夜塔の主尊として六地蔵石幢を建てた例は、青梅市柚木町3丁目にあるし、宝珠と錫杖を持つ延命地蔵の例は、同市二俣尾2丁目や沢井2丁目にみられる。さらに、廿三夜塔出現以前に建立された月待板碑の中にも、六地蔵を刻んだものがある。五日市町高尾から出土して、現在は台東区の東京国立博物館に所蔵される康正3年板碑がそれである。
 日待信仰においても、地蔵が日待塔に見出されるのである。先にあげた庚申塔も広義には日待塔であるけれども、本槁でいう日待塔は、狭義の日待塔である。ここでは、多摩地方に散在する地蔵主尊の日待塔について述べよう。
 多摩地方に分布する日待塔は、奥多摩町小丹波にある虚空蔵主尊で「虚空蔵日待供養」銘の享保9年塔を含めて15基と少ない。その他に、八王子市に「日待講中」銘のある手洗鉢が1基みられる。もっとも、今まで日待塔に注目して特に調査研究が進められたわけでもないから、調査洩れは当然あるだろう。しかし、各市町村で行われた石仏調査の結果からみると、洩れがあるにしてもそう多い基数とは思われない。
 現在、明らかな日待塔は15基で、刻像塔が11基、文字塔が4基である。刻像塔の内訳は、地蔵が6基と最も多く、次いで大日の3基、聖観音と虚空蔵が各1基である。造立年代をみると、東大和市芋窪・豊鹿島神社にある「御日待供養」銘の燈籠が最も古く、青梅市柚木3丁目の明和2年地蔵丸彫り像が最も新しい。もっとも、日待塔以外の資料によれば、日待信仰の歴史は長く、現在でも「お日待」の言葉は生きている。私の見たところでは、青梅市野上・春日神社に現存する寛永15年銘の棟札に「奉修為御日待開眼供養之當社云々」とあるのが最も古いようで、先にあげた八王子の手洗鉢は、享和3年9月銘である。
 さて本題に入って、多摩地方に分布する地蔵主尊の日待塔を造立年代順にみていこう。地蔵主尊のものが6基あることは、すでに述べたが、その中で最も古いのが、稲城市坂浜にある、延宝6年正月21日銘の立像浮彫りの光背型塔である。「奉造立地蔵菩薩日待講念佛講諸願成就所 武州玉之郡坂濱村 願主日待十三人 念佛廿一人 敬白」の銘文からわかるように、日待講単独の造立ではなく、念仏講との協力によっている。この事例は、同市東長沼・常楽寺野「念佛供養想衆十人 庚申供養想衆七人」と刻まれた寛文4年地蔵主尊庚申塔を連想させられる。
 2番目は、東大和市狭山・円乗寺にある、元禄7年11月吉日銘の立像浮彫り光背型塔である。「奉納日待供養二世安楽菩提也 武州多摩郡山口領後ケ谷村 施主」の銘文が刻まれている。
 3番目は、多摩市落合・唐木田にある、元禄13年霜月16日銘の立像浮彫り光背型塔で、「奉待日待 武蔵国多磨郡柚木領落合村」の銘文が読みとれる。
 4番目は、東村山市廻田の墓地にある、元禄16年2月吉日銘のものである。やはり、光背型塔に立像を浮彫りしている。「奉造立日待供養」とあり、下部に「施主」の氏名14名を刻む。
 5番目は、前の4基とは違い、丸彫り像である。宝暦8年10月日の造立で、台石に「御日待供養
 施主寸庭中 願主井口儀右衛門」の銘がみられる。奥多摩町小丹波・寸庭にある。
 最後のものは青梅市柚木3丁目にある丸彫り立像で、台石に「武州多摩郡柚木村日待講中二十人」とある。明和2年4月吉日の造立である。
 以上6基を簡単に述べてきたが、浮彫りと丸彫りの違いはあるにしても、6基はいずれも左手に宝珠、右手に錫杖を持つ、一般にみられる地蔵の立像である。したがって、像容的には、あまり変化がみとめられない。
 太陽や月に対する信仰は、原始時代からみられ、日待信仰も古くからのものと思われる。しかし、日待板碑は、文献上では存在しても、現存のものは見当たらない。これに反して月待板碑は、多摩地方に散在しているし、江戸末期以降は、主として廿三夜塔として造立がみられる。「お日待」という言葉が現在も生きて使われている割りには、日待塔の造立は、あまりにも少ないと言わなければならない。それが何に原因するのかわからないけれども、少なくとも日待信仰と造塔との結びつきが弱かったといえる。多摩地方の場合、基数も少ない日待塔ではあるが、その中では地蔵が主尊として占める位置は大きい。                   『野仏』第12集(昭和55年刊)所収
大日主尊の庚申塔
 庚申塔には、じつにさまざまな主尊が登場する。東京都の場合を見ても、釈迦如来・薬師如来・阿弥陀如来・大日如来・聖観音・馬頭観音・如意輪観音・卅4所観音・勢至菩薩・地蔵菩薩・不動明王・倶利迦羅不動・閻魔・仁王・帝釈天・狛犬・猿田彦・青面金剛・猿とさまざまである。神奈川県では、聖徳太子や双体道祖神が主尊となるものがあり、鹿児島県では、水天や田の神がみられる。こうした多種の主尊の中では、青面金剛の6手立像が圧倒的に多いのは、いうまでもない。ここでは、大日如来を主尊とした庚申塔を紹介しよう。

 大日如来は梵名をマハーヴァイロチャナといい、摩訶毘盧遮那と音写される。摩訶は大・多・勝、毘は普遍・広博・高顕、盧遮那は光明・美麗・与楽の意味を持つところから最高顕広明眼蔵如来、無量無辺竟如来、広博身如来、あるいは1切法自在牟尼などの異名を持つ。太陽の威力をさらに上回る大光明を備えるところから大日如来と称する。密教では、最高至上の仏であり、すべての諸仏諸菩薩はこの如来より生じ、すべての働きもこの如来の徳とされる。その形像は、如来としては例外の菩薩形に作る。胎蔵界大日如来は法界定印、金剛界大日如来は智拳印を結ぶ。

 大日如来を主尊とした庚申塔で、最も知られているのは、東京都台東区浅草・銭塚地蔵境内にある承応3年塔である。髪髻冠をいただいき、法界定印を結ぶ胎蔵界大日座像を光背型塔の中央に浮彫りし、その下に横向きの合掌一猿と一鶏を陽刻する。頂部に「アーンク」の種子を彫り、冠の左右に浮彫りの日月をおく。像の左右には「奉造立大日如来尊形一宇所 大日一念三千金剛三密百界一如 皆是大日矣爰以酬庚申供養」「悉立此尊者也因茲信心施主 等現者待無病自在徳當者 三五智明朗之覺位而 承応三甲午暦四月□□」の銘文があり、基部には「鬼澤弥左衛門」など16名の施主銘と「石仏師 斉藤七左衛門」を記す。
 胎蔵界大日を主尊とする塔は、神奈川県横浜市保土ヶ谷区今井町・金剛寺境内にもみられる。光背型塔の頂部に「ア」字、その下方左右に陰刻の日月、中央に大日浮彫り座像、その下に三猿を陽刻する。座像の左右に「元禄十丁丑年」「十月十三日」、三猿の右に「左江かまくら道」、下部に施主銘9名の氏名を記している。

 まだ調べていないけれども、武田久吉博士の『路傍の石仏』(第一法規 昭和46年刊)によると山梨県富士吉田市の吉田口登山道2合目に笠付型塔があり、正面に胎蔵界大日座像、両側面に聖観音と青面金剛を浮彫りする。台石に三猿がある。大日の首の左右に「諸願成就」、下に7人の氏名、その外側に「宝永四丁亥年六月十七日 武州御茶水 暮沢善兵衛講中」と記すという。

 胎蔵界大日の種子は、「ア」あるいは「アーンク」で、「ア」字を主尊の座に置く庚申塔が、東京都東大和市奈良橋・雲性寺にある。隅丸型塔の上部に、蓮華座に乗る月輪に「ア」を刻み、下に塞目・塞耳・塞口の三猿を陽刻する。裏面に「正徳六丙申三月 法印傳栄」の銘がみられる。
 法界定印の胎蔵界大日ばかりでなく、智拳印を結ぶ金剛界大日も庚申塔の主尊として登場する。千葉県流山市流山8丁目の江戸川堤下には、寛文6年の丸彫り金剛界大日立像がある。「奉造立庚申供養衆2世成就処」の銘を刻む。
 神奈川県津久井郡藤野町上河原・東照権現跡には、笠付型正面中央に智拳印を結ぶ座像を半肉彫りし、下部に三猿を陽刻する延宝8年塔が見られる。両側面と裏面に「相州津久井郡佐野川之内道常村」「奉造立南無山王権現当村善男子善女人念佛之供養為現世安穏後生善所也」「干時延宝八庚申十月吉祥日」の銘文を記す。
 東京都町田市図師町日向の路傍には、正面中央に金剛界大日を浮彫りした笠付型塔が建っている。正面と両側の3面下部に猿を配置する。両側面に「奉造立青面金剛尊」「元禄貮己巳天十月吉祥日」の銘文が刻まれているところから、元禄の頃にこの一帯に普及してきた青面金剛の影響を受けて、青面金剛として大日を造像したものと思われる。
 同じ町田市内には、三輪町下三輪に寛文9年の庚申石祠があり、中尊が智拳印の大日座像である。石祠室部前面には「ア」字と二鶏二猿、「奉造立庚申供養2世安楽」「寛文九己年十二月□日」、右側面に「供養同行七人敬白」と「斉藤平兵衛」など8人の氏名、左側面に一猿と「武州多摩郡 田之庄下三輪邑」の地銘を刻む。下部には「下三輪村」の銘が見られる。
 千葉県教育委員会発行の『千葉県石造文化財調査報告』(昭和55年刊)によると、同県葛飾郡沼南町手賀柏作に大日如来と三猿の刻像がある寛文8年塔の報告が載っている。印相が明らかでないので、金・胎いずれか不明である。
 加藤和徳氏の『入間郡東部 路傍の庚申塔集録』(私家版 昭和45年刊)には、埼玉県富士見市水子山崎の年不明塔が報告されている。板駒型塔の上部に瑞雲を伴う日月を浮彫りし、中央に「大日如来」の主銘、下部前面に三猿を厚肉彫りする。
 以上に見てきたように大日如来の刻像塔や種子塔、あるいは文字塔の中に庚申供養の造塔がある。庚申塔の中ではきわめて稀な数ではあるけれども、まだ発見される可能性がある。庚申懇話会の芦田正次郎さんから聞いたところでは、千葉県流山市内にもう1基あるらしい。

 庚申縁起の中には「庚申の日は青面金剛を上首とし、大日如来阿しゆくほうしやう弥陀釈迦云々」とか、「文殊菩薩・薬師如来・大日如来を本尊として、過去七仏をねんじ給ふべし」、あるいは「庚申ノ表ヲ拝シ奉レバ三方荒神、御信躰ハ十一面観世音、内証ヲ尋奉ルニ金胎両部ノ大日ノ尊影也」(窪徳忠博士『庚申信仰の研究』 学術振興会 昭和36年刊)のように、大日如来にふれた部分がある。こうした庚申縁起がどの程度、大日如来主尊の庚申塔建立に係わりがあっのか明らかではないけれども、造塔の背後には、密教系の僧侶などの指導があったと思われる。しかし、町田市図師町の元禄2年塔の場合には、大日如来を青面金剛と誤解している節がみられるから、かならずしも指導者だけの問題でもなさそうである。(昭56・3・22記)  『野仏』第13集(昭和56年刊)所収
薬師主尊の庚申塔
 薬師如来は、梵名バイサジャグルヴィツールヤタターガタ、「薬師瑠璃光如来」と訳される。略して「薬師」、「医王尊」の別称がある。来世の世界である西方浄土の教主・阿弥陀如来に対して、東方浄土の浄瑠璃世界の教主として衆生の現世利益を司る。十二の大願をたて、衆生の物心両面の苦悩を除く仏として信仰されてきた。その形像は、右手を施無畏印、左手に薬壺を執るのが1般的であるが、石仏では両手で薬壺を捧持するものが多く見られる。
 庚申縁起の中には、いろいろな仏・菩薩が礼拝本尊として登場する。薬師如来もその1つで、大分・宇佐八幡宮の「庚申因縁記」や天理図書館蔵の「庚申之本地」などに、「戌亥ノ時ニハ文殊薬師各々過去ノ7仏ヲ可念」とか、「戌亥の時には文殊菩薩・薬師如来・過去7仏お念じ奉るべし」と記されている。あるいは、青森・柳沢氏蔵の「庚申縁起」などには、「辰巳の時には薬師如来」とあり、奈良・金輪院の「庚申待祭祀縁起」には、「戌亥ノ時ニ至テ、本尊ノ呪、不動・薬師・文殊ノ呪い、7仏ノ宝号ヲ唱フベシ」とある。縁起の中には、例えば叡山文庫蔵の「庚申雑々」のように、「戌亥ノ時ハ文殊ヲ念ジ」と、薬師が省かれる場合がある。しかし、同様な記述であっても、清水長明氏蔵の「庚申待之縁起」には、虎卯の時に「薬師真言 チンコロコロセンダリマトウギソワカ」を百回唱えるように「庚申之夜勤之目次」に示されている(窪徳忠博士『庚申信仰の研究』)。
 以上見たように庚申縁起の礼拝本尊として登場する薬師如来が、庚申塔の本尊となるのは、けして無縁ではない。薬師を主尊とした庚申塔で最も広く知られているのは、東京都板橋区志村1丁目の延命寺境内にある正保4年塔である。頭上に輪後光を持ち、両手で薬壺を捧げる座像を光背型の中央に浮彫りする。像の右には、「正保四丁亥暦 庚申待」左には「二月大吉日 結衆敬白」と銘文が刻まれている。清水長輝氏は「この石塔には全面的に彫りなおした形跡がみられ、銘文も新しくきんだもので、資料的価値がほとんどなくなってしまったのは、いかにも残念に思う」(『庚申塔の研究』)と指摘している。
 板橋区にはもう1基、同書にふれられている塔がある。赤塚5丁目の上赤塚観音堂境内に見られる光背型塔だ。志村のとは異なり、立像で右手を下げて薬壺状のものを持ち、左手に棒状のものを執る。像の右に「奉造立薬師如来像供養庚申為二世安楽也」とあるから、この像は、薬師として造られたものであろう。『佛像図彙』に示された「七仏薬師」の中には、右手に蓮華、左手に薬壺を持つ「金色宝光妙行成就王」と、右手に宝剣、左手に薬壺を執る「法海雷音如来」が描かれ、持物を執る手が逆であるが、この立像に近い尊容である。棒状のものが明らかならば判断できるが、定かではないのでいずれかであろう。なお、像の左には「干時延宝四丙辰天二月七日」とあり、像の下部左右に12名の施主銘を記す。
 東京都には、薬師主尊の塔がさらに1基見られる。東大和市清水の清水神社境内にある木祠には、薬壺を膝上に捧持する丸彫りの座像が安置されている。像と1石造りの台石正面には、「庚申供養宅部江 同行十七人」とあり、側面に「宝永七庚寅年」、「二月吉日」と刻まれている。
 埼玉県蕨市錦町6丁目の堂山墓地には上部にバイ種子入りの天蓋を薄肉彫りし、中央に薬壺を捧持する立像を半肉彫りした光背型塔がある。像の右に「奉起立庚申為逆修菩提 信心」、左に「寛文十戌年十月廿日 施主」、下部中央に「敬白」、その左右に施主銘を2段4行ずつ、「東光寺」と「惣右衛門」など15人の名前を刻む。
 志木市から昨56年に刊行された『志木市史 石造遺物』によると、上宗岡4丁目の浅間神社境内には、薬壺を両手で捧持する立像を浮彫りした光背型塔がある。銘文は、像の右上方に「圓成諸願三彭伏」と「即減七難七福生」の2行、その下に「寛文十一年」、左上方に「現世當來本安穏」と「六塵不悪古今清」の2行、その下に「辛亥十一月十五日 施主十人」とある。なお、銘文中の「即減」は「即滅」のように思うが、未見で同書の写真では確認できない。
 埼玉県にはいま1基、岩槻市馬込の満蔵寺に薬師を主尊とした庚申塔がある、と中山正義さんから聞いている。後日同氏から詳細な報告がなされると思う。
 一昨年に千葉県教育委員会から発行された『千葉県石造文化財調査報告書』には、薬師主尊の庚申塔として、船橋市西船5丁目の辻にある笠付型途を記載している。寛文10年9月吉日の造立で、「奉造立薬師如来庚申待結衆念願成就2世安楽攸」の銘文が刻まれているという。立像であるのか、座像なのか、また持物や印相についてふれられておらず、不明である。
 以上見た薬師如来主尊の庚申塔の造立年代は、不明の1基を除いて、正保1基、寛文3基、延宝1基、宝永1基である。清水長輝氏のいわれる第2期の混乱時代(前掲書)に、その大半が造像されている。赤塚の立像を除いて、像容の明らかな4基は、いずれも両手で薬壺を捧持している。立像3基、座像2基であり、浮彫り像4基に対して丸彫り像1基という内容である。これまで三猿伴う塔が発見されていないのも、注目すべきことだろう(註1)。それだけに、薬師主尊の庚申塔は見落とされる可能性が強いが、石仏の場合には、薬師の造像自体が少ないから、今後、発見されたとしても、そう多い基数にはならないだろう。(昭57・2・17記)
   (註1) その後、船橋の寛文10年塔を調査した結果、この塔に三猿が陽刻されいる。従って、三猿なしが4基、三猿付が1基となる。             『野仏』第14集(昭和57年刊)所収
 
異型の深夜』からの発想  ── 地蔵庚申をめぐって ──
 昭和58年4月下旬、森村誠一氏著の長編小説『異型の深夜』がカドカワノベルズの1冊に加わった。早くから単行本化されないか、と私が待っていた本だった。というのは昨年(昭和57年)ごろであったろうか、春日部の中山正義さんから『週刊サンケイ』に連載されている小説に庚申塔が出てくる、と教えていただいた。その連載小説というのが、前記の『異型の深夜』だ。気にかかるものだから、しばらくして書店に頼んで、中山さんから報せを受けた3月11日号を取り寄せてもらった。
 森村氏は流行作家だから、近いうちに単行本にまとまるだろうと考えて、おそらく庚申塔にふれた箇所があるだろう前後の号を手に入れようとは思わなかったのである。予想した通り、単行本を見ると前後の号にも庚申塔にふれた所があった。その後も連載が続いていたので、書店で気がつくと『週刊サンケイ』には注意を払っていたのである。
 今回、角川書店から発刊された『異型の深夜』は、週刊誌連載のすべてではなく、第5章までを収録している。『週刊サンケイ』には、第6章以降も掲載されており、後の章では秩父の庚申塔にふれた箇所がみられる。すなわち、9月9日号の「八本様」と呼ばれる8手青面金剛の登場である。この8手像が延宝6年に造立された点が、少々気になるところであるが、ここでは、角川本の第4章に書かれている地蔵庚申に的を絞ることにする。

 小説の進展については直接、本で読んでいただくとして、まず地蔵庚申の範囲の点から述べてみよう。第四章の「棄神犯」の最初に、「舟型の石板に素朴な地蔵菩薩を刻んだものである。銘文らしきものは彫られていない」(165頁上段)とある。銘文のない点は、162頁の「舟型の石板に彫られた素朴な石像、どちらにも銘文はない」や174頁の「名前や碑文が彫られているわけでもない」と、重ねて記されている。
 この銘文のまったくない地蔵庚申が「舟型の石に地蔵菩薩像を彫っている形態から判断すると、初期の庚申供養塔の様式を示している」(165頁下段)と、突然に庚申塔とされてしまう。この点については、中山さんも指摘されており、庚申塔の範囲を考えるポイントの一つでもある。もっとも、161頁の上段には

 「昔この地域は沼部村と呼ばれて、農民は庚申を信仰したそうです。すぐ近くの密蔵院という庚申堂が『沼部の庚申様』と称ばれて、有名なんだそうです。このように舟型の石に地蔵菩薩を浮き彫りにしたのは、初期の庚申供養塔の様式を示していると聞きました。そんな土地柄から、前の持ち主が庭に自前の庚申様を祀ったのではありませんか」(傍線筆者)

と、すでに伏線を張ってはいるが。

 地蔵を主尊とする庚申塔というからには、庚申供養を示す銘文か、三猿が刻まれていなければならない。銘文もなく、単に地蔵を浮彫りした石仏では、庚申塔としての条件を欠くことになる。小説の進展の上で、沼部(東京都大田区田園調布南)がからむので、単なる地蔵石仏と扱わず、庚申塔として話をふくらませている。
 他方では銘文や三猿像などの目立つ特徴があっては困るので、没個性の無銘の地蔵庚申としたのは理解できないわけではない。しかし、条件に欠けた銘文のない地蔵石仏を庚申塔に仕上げるのは、どだい無理がある。作者の石仏に対するというより、庚申塔に関する知識のなさを物語るもので、身勝手なご都合主義だといえる。
 作中では、庚申塔とされた地蔵石仏が捨てられ、それを見付けるのが竹下和彦である。彼については
竹下和彦は、東京のある私大で国文学の講義をしている。日本文学の古典と信仰の関係を調べているうちに地域の素朴な信仰の対象となっている辻の地蔵尊や庚申塔などに関心を抱くようになった。こうして講義のない日を利用して主に関東一円の野仏を訪ね歩き、その調査研究を集録するようになったのである。

と、166頁に記されている。竹下はすでに第三章にも登場し、杉並の閑静な所に豪邸をかまえた、土地代々の素封家で33歳である(90頁下段から次頁上段)と紹介されている。専門外とはいえ、関東一円の石仏調査を進めている割りには、庚申塔に不案内なお粗末な大学講師を作中の人物としている。もっとも、一般の読者が地蔵庚申にそれほど興味を示すとは思えないし、庚申塔についても深く追求しないだろう。

 作中の地蔵石仏の所在地の関係から、小説では、大田区の庚申塔にふれた箇所がある。169頁上段に載っている「大田区は江戸時代庚申信仰が盛んで区内に庚申待の人々が建てた90基の庚申塔がある」だ。90基の数は、平野栄次さんが書かれた『大田区の民間信仰(庚申信仰編)』(昭和48年刊)に記載された基数と一致する。すなわち、同書に集録された庚申塔は98基で、その中で明治以降の塔2基と造立年代の不明な塔6基を差引くと90基となる。なお平野さんは、前書に記載洩れの塔を含めた101基(明治以降の塔3基、年不明塔6基)を「大田区の石塔と石仏(4)」(『史記』12号 昭和54年刊)に発表されている。基数や密蔵院の青面金剛木像の高さの記述から考えて、森村氏は『大田区の民間信仰』を参考にしたと思われる。
 169頁下段では、沼部の庚申堂木像にふれた後で、「ここの庚申供養塔は大田区内最古のもので当時の沼部村民有志8名の建立によるものである。これらの形態が捨てられた石仏と同様の舟型石に地蔵菩薩を浮き彫りにしたものである」と述べ、密蔵院の地蔵庚申を引き合いにして、無銘の地蔵石仏を庚申塔であることを正当化している。しかし、密蔵院にある寛文元年の地蔵庚申には、「新奉造立供養意趣者庚申待壹塔八人現當2世安楽攸」と刻まれ、けっして無銘ではない。この点を忘れてはならない。蛇足になるが、寺には前記の地蔵庚申の他にも、寛文3年聖観音・延宝2年一猿文字塔・昭和庚申年青面金剛像の庚申塔が見られるけれども、それらについては小説ではふれていない。

 『異型の深夜』で特に発想のヒントになるのは、地蔵庚申の分布である。167頁下段の
 庚申の象徴は、青面金剛像であるが、このように地蔵菩薩を彫るのは初期の形態である。これまでの野仏の調査によってこのような庚申の初期形像がよく残っているのは、多摩川縁の大田区、世田谷区、調布市、また川崎市の高津区、多摩区の一隅である。
の箇所である。調布市内の地蔵庚申で思い浮かぶのは、深大寺町・池上院(現・深大寺元町2丁目12番)の光背型塔である。それと同町野ヶ谷・諏訪神社(現・深大寺東町8丁目1番)にある地蔵か阿弥陀か判断に苦しむ塔だ。
 三鷹の福井前通さんは、野ケ谷の塔を阿弥陀主尊と断定している。その塔の隣には、来迎弥陀を主尊とした庚申塔がある。調布市役所発行の『調布百年史』(昭和43年刊)では、前記の諏訪神社の寛文6年塔と池上院の延宝8年塔、加えて入間(現・東つつじが丘3丁目16番)の元禄13年塔の3基を地蔵庚申としている。おそらくこの本を参考にしていると思われるが、元禄の地蔵は庚申塔ではない。

 ともかく多摩地方の地蔵庚申がどのような分布を示しているのか、私の『三多摩庚申塔資料』(昭和40年刊)をベースにして、福井さんの「小金井市の石仏」(『いしぶみ』5号 昭和53年刊)島田実さん他の『八王子市石造遺物総合調査報告書』(昭和44年刊)、犬飼康祐さんの『日野市庚申塔一覧表』(稿本 昭和57年刊)で補って年表を作ってみると
   寛文2  光背型  狛江市岩戸北 慶岸寺     多摩初出
     4  光背型  稲城市東長沼 常楽寺
     6  光背型  小金井市貫井南4 滄浪泉園
     6  光背型  小金井市中町 金蔵院
   延宝1  光背型  町田市木曽町上宿
     8  光背型  調布市深大寺元町 池上院   庚申年
     8  光背型  稲城市東長沼 常楽寺
     8  光背型  府中市若松町 常久共同墓地
   元禄2  光背型  町田市真光寺 路傍
     10  光背型  町田市相原町丸山 墓地
     10  光背型  八王子市川町
     11  光背型  日野市本町
     15  光背型  町田市高ヵ坂 地蔵堂
   宝永3  光背型  町田市成瀬 三又
   正徳2  丸 彫  稲城市百村 赤坂
     6  丸 彫  日野市日野 地蔵堂
   享保8  丸 彫  町田市成瀬 東光寺      一 猿
   延享2  丸 彫  日野市程久保 路傍
   宝暦6  光背型  三鷹市中原 路傍
   年不明  丸 彫  日野市石田 石田寺の20基があり、この他に区部(目黒区か)から移されてきた
   寛文2  光背型  昭島市拝島町普明寺      移入と、六地蔵を主尊とした
   元禄15 石 幢  町田市野津田 丸山路傍    六地蔵がある。
 年表を基にして、移入と六地蔵石幢を除いて市町村別に塔数を見ると、町田市が6基で最も多く、次いで日野市の4基、以下、稲城市の3基、小金井市の2基、狛江市・調布市・府中市・八王子市・三鷹市の各1基の順である。
 こうして見ると、舟型(光背型)で多摩川沿いの条件を満たすのは、調布市にも分布があるから間違いではないけども、稲城市にある舟型の2基がより適切といえる。調布市並みを考えれば、狛江市や府中市、さらに日野市にも資格がある。

 次に神奈川県川崎市の場合を分析しよう。八代恒治さんの『川崎市の庚申塔』(昭和40年頃刊)で地蔵庚申の年表を作ると
   寛文3  光背型  高津区久地 養周院
     3  丸 彫  中原区新城 又玄寺
     4  丸 彫  幸区北加瀬 寿福寺
     9  光背型  中原区井田 善教寺   合 掌
     11  板駒型  高津区野川 西蔵寺   合 掌(現・宮前区)
   延宝5  丸 彫  中原区木月 大楽寺
     7  丸 彫  幸区都町 延命寺
     8  光背型  幸区小倉 無量院    庚申年
     8  光背型  川崎区大島町 真観寺
     9  光背型  高津区久末 蓮華寺
   天和1  光背型  中原区下小田中 金竜寺
   元禄7  光背型  多摩区生田 観音寺
     7  丸 彫  多摩区生田 不動堂
   正徳2  板駒型  多摩区上麻生 浄慶寺  合 掌(現・麻生区)
     6  光背型  多摩区生田 明王不動
   享保1  丸 彫  高津区末長 浄慶寺   合 掌(現・麻生区)
    7  光背型  多摩区宿河原 橋本
     7  光背型  中原区市ノ坪 東福寺
     X  丸 彫  高津区久地 街道筋
   年不明  光背型  中原区今井南町 大乗院
        光背型  高津区千年 弁天社の21基で、他に六地蔵を主尊とした塔が
   寛文1  灯 篭  幸区小倉 無量院    六地蔵にある。
 区別の塔数は、高津区6基、中原区と多摩区が各5基、幸区3基(他に六地蔵灯篭が1基ある)、川崎区1基の順になる。仮に初期を天和までとし、板駒型を含めて舟型とすれば、高津区が3基、中原区が2基、川崎区と幸区が各1基となる。川崎の塔については、川崎郷土研究会発行の『川崎市石造物調査報告書』(昭和56年刊)を森村氏が参照したのではあるまいか。これには、17基が収録されている。
 さらに東京区部と各種の資料を基にまとめて作表したのが、表1の「東京区部の地蔵庚申塔」である。記載洩れもあるけれども、区部の大体の傾向はつかめる。北区の21基を筆頭に、2位が足立区の14基、3位が葛飾区の7基、次いで大田区と渋谷区の5基、以下、墨田区・世田谷区・板橋区の各4基、荒川区・練馬区・江戸川区の各3基、文京区・台東区の各2基、新宿区・品川区・目黒区・杉並区の各1基という具合である。
   表1 区部の地蔵庚申塔
   ┏━┳━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┓
   ┃名┃新│文│台│墨│品│目│大│世│渋│杉│北│板│練│荒│足│葛│江┃
   ┃ ┃ │ │ │ │ │ │ │田│ │ │ │ │ │ │ │ │戸┃
   ┃区┃宿│京│東│田│川│黒│田│谷│谷│並│ │橋│馬│川│立│飾│川┃
   ┠─╂─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┨
   ┃塔┃ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │2│ │ │ │1│ │ ┃
   ┃数┃1│2│2│4│1│1│5│4│5│1│1│4│3│3│4│7│3┃
   ┗━┻━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┛

 『異型の深夜』で示された多摩川縁りと初期の光背型地蔵庚申という条件から見れば、前記の年表や表1の傾向から推して、調べて書かれていることがうかがわれる。先に小説から引用した地蔵庚申の分布には、大きな誤りはないにしても、調布市より稲城市のほうがふさわしいなど、かなずしも適切だとはいえないだろう。
 多摩川縁りという限定を除けば、足立・北の両区を中心とする地域が塔数も多く、初期の地蔵庚申の状態を保っているといえる。こうした作表を通じて、都内の地蔵庚申の分布状態が明らかになってきた。さらに横浜市や埼玉県を加えた武蔵国の範囲でとらえたら、面白い結果がえられるのではないだろうか。

 小説はあくまでも小説であって、『異型の深夜』は石仏の研究や調査を主体としたものではない。作者が自分なりに調べて書いているのも、これまでの分析と比較すればわかる。専門的にみれば、おかしな点や誤っている箇所があるにしても、小説として成功であればよいだろう。ただ私たちは、小説の石仏に関して書かれた事柄に疑問のある所から発想を得ればよい。それをバネに調べて、疑問や誤りを明らかにするわけだ。
 かねてから地蔵庚申について興味を持っていながら、特に手をつけなかった。『野仏』の地蔵特集でも、日待地蔵でお茶を濁しただけだった。『異型の深夜』に触発され、資料を集めて分析してみると、地蔵庚申の方向性が見えてきた。まだまだ、調査洩れもあろうし、誤って地蔵庚申にされた塔もあろう。それらをチェックし、広範囲に地蔵庚申を追っていけば、庚申塔の中での位置づけも明らかになるし、特徴もはっきりする。小説の読み方としては、まことに異型だろうが、発想の素材を見付ける一法としての読書も、また楽しい。         
                 『野仏』第15集(昭和58年刊)所収
八本様を推理する
 庚申塔が小説の中で添景として扱われていても、筋立で大きな役割りを果たす例は、きわめて少ないのではなかろうか。かつて『週刊サンケイ』に連載された森村誠一氏の「異形の深夜」は、地蔵と8手青面金剛を主尊とした庚申塔が推理の重要な手掛かりになっており、庚申塔について記述があるので、たいへん興味深かった。
 週刊誌に連載中は庚申塔にふれた一部の箇所を読んだに過ぎなかったから、連載終了後の単行本化を待っていた。連載の前半部は同題の『異形の深夜』で昭和58年4月に、後半部は『異形の街角』と題名を変えて同年8月にカドカワノベルズに加わったのである。前半の『異形の深夜』では、第4章で地蔵を主尊とした庚申塔が登場する。これについては、すでに本誌の『野仏』第15集に「『異形の深夜』からの発想──地蔵庚申をめぐって」を発表したから、ここでは、『異形の街角』に記された8手の青面金剛にふれてみたい。

 森村誠一氏の『異形の街角』の第三章に登場する庚申塔は、埼玉県秩父郡皆野町野巻の8手青面金剛立像である。塔には、「延宝七年七月吉日建之庚申供養百塔共為二世安楽」(131頁)の銘文が刻まれている。文中では、竹下和彦という私大で国文学を講じている助教授が、庚申塔についていろいろと蘊畜を語っている。彼は、趣味として関東一円に散在する野仏の写真を撮り、記録を作っている人物だ。前作の『異形の深夜』の第三章に登場し、
    竹下和彦は、ある私大で国文学の講師をしており、学校へ行っていないときはいつも書斎で
   難しい書物を読んでいる。唯一の趣味が野仏漁りで、野や辻に立っている野仏を探して旅へ出
   る。現在三十三歳だそうであるが、四十歳を越えているように見える。諸事じじくさくて、活
   気がない。(90頁下段〜91頁上段)と書かれている。同書の第4章では、地蔵庚申について推理をめぐらすが、銘文も三猿のもない単なる地蔵を庚申塔に仕上げるお粗末さである。これについては、すでに『野仏』第15集でふれた。
 前作では講師であった竹下は、『異形の街角』では、「竹下は私大の国文学の助教授」(124頁下段)と昇格している。竹下助教授は、「舟形の石板に立像を浮彫りしたものである。忿怒の形相に8本の手を持ち、さまざまな武器を握っている。足許に3匹の猿が従う」、つまり三猿付の8手青面金剛の写真をみて
    これは一般に庚申様と呼ばれる青面金剛ですね。陀羅尼集の正説によれば、『一身四手左辺
   の上手は三股叉を把り、下手は棒を把る。右辺の上手は掌に1輪を拈し、下手は羂索を把る。
   其身は青色、面は大いに口を張り、狗牙は上出し、眼は赤きこと血の如く、面に三眼あり、頂
   に髑髏を戴き、頭髪は竪に聳え、火焔の色の如し──形像並びに皆甚だ畏怖すべし』と記述さ
   れてあるように、腕は四本とされていますが、六本が最も普遍的です。従者は大蛇・鬼・童子
   ・鶏など、持ち物も剣・香炉・鋤(すき)・叉(やす)多様ですが、これは腕が八本で従者の
   三匹の猿がいます。また猿と関係なしに青面金剛が庚申様として観念されるのが普通ですが、
   古い庚申信仰では、猿田彦と関連して道祖神と習合し、庚申を道祖神、つまり道端の守として
   祀られている例もあります。(125頁上段)と解説し、さらに8手青面金剛にふれて
    この形像のものは、私の知るかぎり、いくつもありません。大体、埼玉県の北部から群馬県
   の南部にこの形像を見かけます。(125頁下段)と分布範囲を限定している。秩父地方に分布がみられかとの問に答えて
    数年前、秩父市域上山田という所で、八本の青面金剛を見つけました。しかし、それには猿
   を従えていませんでした。(125頁下段)といい、書斎からアルバムを持ってきて
    これが上山田の八臂青面金剛です。持ち物は剣だけが残っており、従者は鶏二羽です。(1
   25頁下段〜126頁上段)と語っている。その後に次の説明文が続く。
   竹下が開いた頁には、件の写真に登場する青面金剛と似た形像の石仏の写真が貼られている。
   付記に場所埼玉県秩父郡秩父市大字上山田論面堂東向、此の堂は三叉路の角にあり、造立年延
   宝六庚申天六月朔日、造型日月八臂二鶏、塔銘奉建立庚申供養石塔基為二世安楽也──と書か
   れてある。(126頁上段)この中で述べられている造立年が延宝6年にもかかわらず「庚申天」であるのは不注意である。おそらく塔銘の「石塔基為」は、「石塔1基為」でないと意味が通じない。131頁下段に示された塔銘の「百塔」も「石塔」か「壱塔」ではなかろうか。少なくとも、延宝6年の干支の誤りに気付かないのは、大学の助教授らしからぬ不注意である。
 第三章の主人公は、桧笠駿介である。彼はテレビのご対面番組の相手を探すチームの主任だ。桧笠は、皆野町役場に問い合わせて、地元で「八本様」と呼ばれて信仰のある8手青面金剛が存在するのを確かめる。その上で、日本画家の深志龍之介と共に野巻へ出掛ける。小説では、塔の状況について
    「これが写真に撮っている八本様です」
    住民課長が言って車を停めさせた。道路の傍ら、桑畑の端にそれは安置されていた。確かに
   写真に撮っている青面金剛である。
    街道の埃をかむり、路傍の草むらの中に立っているが、信者がいるとみえて、供え台の上に
   は枯れた花と線香の束が供えられてある。(131頁下段)と記し、この3行後に年銘と供養銘にふれている。

 秩父地方での私の石仏調査は、記憶に残っているのは3回である。最初は、小鹿野を歩き、2回目は、本会(多摩石仏の会)の横瀬村と秩父市の見学会、3回目は、小鹿野・皆野・野上などを車で廻った。皆野町では、日野沢の水潜寺にある昭和55年(庚申年)造立の庚申塔が印象的で、その他にも何基かの庚申塔を見ているけれども、野巻には行っていない。
 秩父地方のごく限られた一部だけしか見ていないから、日下部朝一郎氏の『秩父路の石仏』(国書刊行会 昭和47年刊)によると
    寛文初期に入ると、庚申塔造立は活発となり、帝釈天の使者という青面金剛像が仏家の指導
   によって現れ中央に主尊、二鶏三猿を配する形式が徐々に定形化されて来たようだが、他地方
   への普及はやゝ遅かったと思われる。
    事実、郡下では両神村大平不動堂、小鹿野町栗尾、日野沢水潜寺などの庚申塔は、この初期
   庚申の形に属すると思われるが、惜しくも年号が削落して不明である。
    その他各村々には、庚申塔がみられるが、その殆んどは定形化した江戸末期の像や、この地
   方特有の片岩に彫った文字塔が多く、武蔵野に展開する庚申塔の数に比すればその数は僅かな
   ものである。と104頁に青面金剛について書かれている。この解説からもうかがえるように、延宝期、しかも8手青面金剛が存在する可能性は少ないのである。
 『異形の深夜』第4章の「棄神犯」に、「熊谷市に在住する野仏の研究家、中村光次氏は」云々(166頁上段)と記されてあったのを憶い出した。そこで中村氏の『熊谷の青面金剛 庚申待と庚申塔』(私家版 昭和53年刊)を取り出してみると、竹下助教授のアルバムに記されている「場所、造立年、像型、塔銘」の配列順で記されている。14頁の「熊谷市大字小島 論面堂前東向 此の堂は以前南多摩地方の下の方の角にあり」の場所、「延宝八庚申天七月朔日」の造立年、次頁の「奉建立庚申供養基為2世安楽也」の塔銘、23頁の「日月六臂二鶏」の像型と、1部を変えて創作しているのがわかる。ただし野巻の塔銘の出所はわからない。

 埼玉県の8手青面金剛は、皆目わからないから、『庚申塔の研究』『東京市内百庚申塔』『三多摩の百庚申塔』などを参考にして、東京都の8手青面金剛の年表を作ると
   延宝8  笠付型  渋谷区幡ヶ谷 清岸寺
   元禄11  板駒型  杉並区永福 永昌寺
   元禄16  板駒型  練馬区北町 東武踏切
   宝永5  光背型  渋谷区代々木 墓地
   宝永5  笠付型  杉並区清水 庚申堂
   正徳2  板駒型  北区岸町 金輪寺
   正徳3  板駒型  大田区久ヶ原 路傍
   正徳3  駒 型  荒川区西日暮里 浄光寺
   正徳6  光背型  府中市住吉町 西向庚申堂
   享保3  笠付型  板橋区東山町 長命寺
   元文4  板駒型  世田谷区世田谷 八幡神社
   宝暦12  笠付型  稲城市百村 妙見寺
   明和7  笠付型  葛飾区新小岩 照明寺
   文化12  駒 型  府中市天神町3−12 路傍があげられる。平岩毅氏の『千葉市の庚申塔年表』(私家版 昭和59年刊)には、同市生実町・生実神社にある延宝5年の8手青面金剛が記載されている。従って、延宝期の8手像の存在の可能性は否定しないけれども、前記の中村氏の著作に載った熊谷市の延宝期青面金剛の中には、8手像ない。

 青面金剛は、竹下助教授がいうように「六本が普遍的」だから、小説の筋からいって、石像の写真によって土地を特定するためには、刻像になにかの特徴がなければならない。そのためには、「この形像のものは、私の知るかぎり、いくつもありません」という8手像を登場させる必要がある。しかし、これまでのところでは、竹下助教授が設定した埼玉県北部から群馬県南部の8手青面金剛分布地帯での8手青面の調査報告に接していない。私が秩父地方を廻った感触や、今までに発表された調査報告をみる限りでは、野巻の延宝7年の8手青面金剛(小説での「8本様」)は、森村誠1氏の創作であって、存在する可能性は薄いと推理する。(昭59・6・3)
                           『野仏』第16集(昭和61年刊)所収

津久井町見学記
 昭和59年5月13日(日)横浜線橋本駅9時30分集合、案内は明石延男さんだ。昨年2回も雨で流されたコースで、今回も小雨の中を9時45分の半原行きのバスに乗車する。参加者は、明石さんを含めて7名である。
 神奈川中央のバスを下稲生で降り、薬師堂に向かう。境内には、昭和28年の「猿田彦大神」塔と大正5年の「山神社」碑が並ぶ。自治会館前の地蔵などを横目に通り、近くにある第1の目玉の2手青面を調べる。寛文11年の造立、右手に矛、左手で火焔光背を持つ立像である。町田市相原の寛文10年塔と同系統。
 春日神社境内にある享保3年の主尊不明庚申塔を見てから、東側の道路に面して並ぶ文政11年「廿六夜塔」、寛政12年「庚申塔」、文久3年「廿三夜塔」などを調べる。その中にある天保3年「霊符塔」が珍しい。
 根古屋の富士塚を見てから、谷戸の塔を調べる。寛延3年の青面金剛は、塔本体が幾つかに割れている。パズルを解くように組み立てるが、上部が失われている。年号不明の青面金剛は、4手立像である。胸前の2手が合掌し、上方の2手は弓と矢を持つ。ここの目玉は、稲生と同系統の2手青面金剛で、寛文11年3月8日の造立。他に牛頭大士や馬頭などがある。さらに先には、大正4年の線刻不動があるが省略する。
 土沢の山王社脇には享保3年の日待塔がある。主尊は大日らしい。右側面に「奉供養日待□□」、左側面には「奉供養念仏講塔」の銘が刻まれている。他に地蔵や文字馬頭が見られる。
 石垣の高みに、寛文11年の来迎弥陀を主尊とする庚申塔を見る。下部に浮彫りされた三猿の形は稲生や根古屋で見たのと同じである。2手青面との主尊の違いがどうして生じたのか、興味あるところである。
 道路より一段高い所に、合掌仏を主尊とした庚申塔がある。文字道祖神と並ぶが、かって車でこの前を通った時には見逃していた。
 長竹の交差点付近にある墓地入口には大きな丸彫りの観音があり、その脇に天保4年の自然石「廿二夜」塔が見られる。その近くの白山神社の背後に昭和15年の青面金剛?と天明6年の「庚申塔」が並んでいる。
 青山神社で昼食をとる。拝殿横の石祠には、上半分が欠失し、下部に三猿が刻まれた中尊が安置されている。右手の持物が錫杖らしいから、地蔵ではないだろうか。屋根の前面に「ウーン 奉造立庚申供養成就」の銘がある。うっかりすると見逃しやすい。貞享2年の造立。神社脇の道路に面した所には、聖徳太子2基や寛文地蔵などが並んでいる。
 六間で四方仏や2石六地蔵などを見てから、最後の目玉である馬石の2手青面と対面する。もっとも2手青面というよりも、銘文に「奉建立山王廿一社為後生善生」とあるから、山王の本尊とした方が適切なのかもしれない。道路工事で場所が変わり、以前この塔を見た時にはなかった台石の上に安置されている。ここには、文政7年の「廿三夜」塔、宝永3年の青面金剛などがあり、道路の拡幅工事後に整然と並べられた。
 渡戸で、宝永3年の青面金剛を見てから、諏訪神社にある文政6年「廿三夜」塔、年号不明の青面金剛、天保2年「道祖神」塔を調べる。バス停で皆と別れ、鳥屋のバス停まで歩く。その手前百メートル位の所にある、上部の欠けた丸彫りの庚申塔を確認するためである。バスの発車時間が迫っていたので、その塔の写真だけで我慢する。ほどなくバスがきて、途中で皆と合流して、三カ木経由で帰途につく。                       『野仏』第16集(昭和61年)所収
マイ辞典・マイ事典
 庚申塔を中心として日待塔・月待塔・道祖神・地神塔のごく狭い範囲でしか石仏を調べていなかった私が、『青梅市の石仏』(青梅市教育委員会 昭和49年3月刊)の調査・執筆を機会に、広く石仏全般に注意を払うようになった。といっても、庚申塔を調べるには、変化に富む主尊や塔形に接するので、幅広い石仏の知識を必要としていたから、石仏の範囲が拡がったといっても、それほど抵抗があったわけではない。それまでにも、珍しい石仏に出会えば、写真くらいは撮っておき、時にはメモをとっていた。しかし、実際にいろいろな石仏に眼を向けると、これまで見逃していた石仏が多いのに気付いたのである。
 青梅の石仏調査報告を書いていた時に、手軽に利用できる石仏辞典があったら、どんなに助かるだろうと思った。ちょっとした事柄でも、1々いろいろな資料に当たるのは、実に面倒なものである。1冊で、おおよそでも見当がつけば、執筆は、たいへん楽になる。そうした石仏辞典が身近に欲しいと感じた。
 石仏辞典の必要性を感じてはいたものの、まさか執筆者の側に私が加わるとは、まったく予想もしていなかった。ところが庚申懇話会で、『日本石仏事典』を編集することに決まり、私が像容の部の明王・天部を担当する羽目になった。青梅市内の全般的な石仏調査をやっていたお陰で、多少の資料を揃えてはいたものの、全国をカバーするには、その量も少なく、質も決して高いものではなかった。従って、執筆する上で、全国各地におられる庚申懇話会会員のバックアップが非常に力強かった。加えて、日頃親しくしている石仏の仲間、特に多摩石仏の会の友人たちの協力がものをいった。実に多くの方々の協力と援助によって、昭和50年12月に雄山閣から出版された。お蔭様で、好評で迎えられ、その後、補遺を加えて、第2版を昭和55年12月に発行できた。
 思い掛けず事典作りに参加する機会を持てて、貴重な体験が得られた。ここでは、私の事例から石仏を取り上げたが、なにも石仏には限らない。自分の興味あるものであればよい。内容の優劣を問わなければ、辞典(事典)作りは、楽しく、興味ある作業である。世界にただ1冊のマイ辞典(事典)があったら、どんなに楽しいだろう。しかも、自分自身の手作りであったならば、自由に書き加えられるし、思うままに編集できる。
 初めから高度のものはできなくても、自分の調査や研究によって、1項目ずつ組み上げていけばよいものができる。それが、また調査や研究に跳ね返ってきて、励みになるのである。実際にマイ辞典やマイ事典を作ってみれば、辞典(事典)作成の苦しさや怖さ、あるいは、困難さがわかり、他方では、手作りの楽しさや面白さが理解できるだろう。
 初めは、大きなカードに写真を貼り、手元にある国語辞典を参考にして、作るのがよいだろう。そうした土台を作っておいてから、いろいろな参考書に当たり、書き込みを加えれば、段々に出来上がっていく。しかし、この辞典(事典)作りの仕事は、これでよいということがなく、際限がない。どこまで高められるかは、努力を重ねる以外に道はない。ともかく、自分だけのマイ辞典・マイ事典を作ってみようではないか。(59・12・9記)     『野仏』第16集(昭和61年刊)所収
創立前後の状況
 月日のたつのは早いもので、本会も来年4月には会創立満20年を迎える。現在では、創設メンバー7人全員が顔を合せる機会もなく、当時の事情を知る会員も少なくなった。そこで、創立前後の事情を記録しておくのが創立会員の1員としての私の義務かもしれない。こうしたことは、記憶にたよると不正確になるし、とかく主観的になりやすいから、できるだけ当時の資料を引用して述べることにしたい。
 本会の発足のきっかけは、昭和42年2月3日付けの毎日新聞多摩版の記事にある。それは、「野ぼとけを守ろう 三多摩の保存グループ」と「先祖の貴重な遺産 山野を歩き資料集め」の見出しに続けて、次のような文章が続く。
    古い街道端の草むらの中に見えがくれして立っている地蔵さん、村の入口の道祖神、コケむ
   して立つ庚申供養塔──これらの仏、塔はむかしの人たちがが素朴な宗教心を形にして残した
   “遺産”だが、道が広げられ、村が発展するにつれていずこへともなく押しやられ、形もくず
   れ、やがて消えて行く。失われつつある“先祖の野の遺産”をいまのうちになんとか残してお
   こうと、ここ数年各地の郷土史家たちは野や山や古寺を足をマメに歩き回り、野ぼとけの記録
   をとっている。この人たちの足取りを紹介すると同時に、四日付けの本版から三多摩を中心と
   したおもだった野ぼとけを巡り歩いてみよう。

   バイクで塔さがし
    府中市栄町一の二六の四、同市立四中教諭、八代恒治さん(六〇)が三多摩の庚申塔や野ぼ
   とけの研究をはじめたのは三十三年から。国学院大在学中に歴史を専攻していたので、年々遺
   跡がこわされていくのにがまんができず、庚申塔を中心に、野ぼとけの研究をしてみようと、
   考えた。
    休みを利用してはバイクや自転車で府中市をはじめ、三多摩の野ぼとけ、庚申塔を捜しまわ
   り、庚申塔六百、地蔵さんや馬頭観音の石像9百体をみつけた。三十六年にはガリ版を切って
   三十六ページの“三多摩の庚申塔”と題する本を発行、地蔵などの写真もとってある。

   得意のカメラで
    八王子消防署救急隊員の瀬沼和重さん(四〇)=八王子市高尾町一八〇三=も、街の歴史家
   の一人。消防用水利調査のため走り回るうちに、道ばたの地蔵尊を得意のカメラでとりまくっ
   た。いまではアルバム五冊にぎっしり。気にいらなくて非番の日にとりなおしに行ったことも
   ある。
    碑文を写しとって、同市役所市史編さん室へ持ち込んで考証してもらった。地蔵尊を系統的
   に調べるほか、八王子城跡、由木永林寺などの史跡との関連も知りたいと意欲的だ。

   青梅市内で五百体
    青梅市社会教育課の滝沢博主事(三〇)もこの道五年の研究家。青梅、西多摩地方を中心に
   ほとんど全域を回った。青梅市内だけでも約五百体。四十一年に建立したのもあれば古いもの
   では文明十二年(一四八〇年)の月待塔もある。
    石に刻まれた文字には「天下泰平」「五穀豊饒」「子孫繁栄」「家内安全」そして「両親の
   ために供養」したものなどが多い。また旅の途中、異国で命を終った人の供養塔などもある。
    青梅市青梅一二〇、洋品店主、石川博司さん(三二)は庚申塔の専門家。三多摩地区の約九
   百七十体を調査している。七年前太りすぎるのを警戒して近郊を歩いているうち、道祖神にと
   りつかれたが、この地方では目につくのは庚申塔ばかりなので方針を変更した。三多摩の庚申
   塔は千余というから大部分を見たことになる。石川さんはプリント刷りで研究の結果を発行し
   たが、最近はよその県との比較研究にも取り組んでいる。

   高齢にもくじけず
    町田市教委も近く文化財特集「石仏集」を編集するが、その先頭に立っているのが、町田市
   森野三の五の二〇、市文化財保護委員長、関口七郎さん(八四)。戦前は宮内省のお役人だっ
   たが、隠居の身。市内を歩き回っているうちに、ひっそり野にたたずむ野ぼとけの姿にひかれ
   十数年前から本格的に調査を始めた。写し集めた写真が道祖神を中心に約五十枚。
    八十四才で、野ぼとけめぐりは大変だが「もの好きだから……」と苦にしない。捜し当てた
   石像がひっくり返っていても、立て直す力がないので、通りがかりの人や近所の人の力を借り
   て立て直す。なんどたずねてもころばされたり、いたずらされているようなものは市教委に依
   頼して市立図書館わきに移しかえている。

   すでに千体を調査
    八王子市立恩方中島田実、同六中、植松森一、同由井中、川端信一の三先生が中心になって
   つくっている社会科研究グループは、昨年4月から八王子市内の野ぼとけ、石碑などの記録を
   集めている。もう千体を調べたが、人づてに場所を聞いて調べに行っても、そのものずばりの
   場所にある野ぼとけは少なく、あちこちに移されたり、こわされてているという 八王子市内
   にもまだ未発見のもがあるはずだが、所在のわかった千体については、信仰の対象別に分類し
   たり形、古さなどから製作年月日を調べ、貴重なものは近く完成する市の郷土館に保存しても
   らうことにしている。
 この記事が載った翌日から毎日新聞で「野ぼとけ」の連載が始まる。4日付けの多摩版は、八王子市散田町・真覚寺の奪衣婆を取り上げて
    三途(さんず)の川にたどりつくと、死者を待ち受けているのがこの奪衣婆(だつえば)。
   死者の衣類をはがす役目のばあさんだ。はれぼったくたれさがったマユのあたり、たるんだホ
   オ、横に大きく開いた薄気味悪い笑いを漂わせる口元、はだけた胸にあるかなしかの乳房。
   「ウフフフンよう来たのう」。むき出した歯の間から冥土(めいど)への旅人を、思わず「ギ
   ョッ」とさせる地獄の声が聞えてくるようだ。
    高さ四十センチほどの石像。地獄をつかさどる閻魔大王ら十王のことを述べた勧善懲悪を説
   く「十王経」からこの像を彫ったと思われ、他にも像があったはずだが、この像だけが残った
   いう。江戸時代のもらしというが、いつごろからこの寺に置かれたかはわからない。野ぼとけ
   を持ち帰って飾りものにするのがはやっているが、よほど物好きでないと、この像だけは持ち
   帰る気になれそうもない。八王子市散田町、真覚寺にある。同寺には春になると無数のヒキガ
   エルが集り“カエル合戦”を展開、また万葉植物園もある。と記し、奪衣婆の写真を添えている。これを第1回として5月24日付の「子育て地蔵」まで、「野ぼとけ」の連載は57回にわたって続けられた。
 先の3日付けの紹介記事に記された人たちの中で、8代恒治さんと関口7郎さんは、すでに庚申懇話会を通じて存じあげていたし、滝沢博さんとは、同じ青梅の生れで育ちであるから、小学生の頃から知っている。しかし八王子の島田実・植松森1・川端信1・瀬沼和重の4氏とは、まったく面識がなかった。新聞記事に載ったのもなにかの縁であるし、同じ石仏を調べる仲間ならば、1度会って話をしたいと考えた。8代恒治さんとも相談して、紙上に紹介された仲間が1堂に集って懇談をしたらと、島田実さんに提案した。
 さっそく島田実さんは、八王子の各氏と話をまとめ、八王子郷土資料館の協力を取り付けて、第1回の会合を持てるように手配された。7月になって資料館の館長名で次のような会合の開催通知をいただいた。これは、湿式のコピーで、現在では変色が進んで読みにくい。文面は次の通りである。
                               八教郷発第16号
                               昭和42年7月6日
   各  位
                               八王子市郷土資料館長
                                 後  藤  聡  1
   (仮称) 多摩地域石仏等研究調査会発足準備会の開催について
    盛夏の候、貴殿におかれましてはますます、ご健勝のことと存じ上げます。
    日頃、文化財の保護育成に関しましてはひとかたならぬご協力を賜り感謝にたえません。近
   時急速な都市化に伴って工場、住宅群の林立が目立つ多摩地域の文化財は、ややもすると散逸
   にながれ、心ない住民や建設関係業者の犠牲となり、損傷をし又破壊をもしてゆきつゝありま
   す。こういうなかで一部関係同好者の手によって、かろうじて、その保存と管理がおこなわて
   おりますが、これは充分な措置とは申せません。たまたま、文化財の保存、管理に関する機運
   が高まり、各市町村に於も、博物館の建設や文化財リストの作成あるいは収集、保存といった
   事業が行われるようになり、大方の関心事ともなってまいりました。本市に於もこの例にもれ
   ず、ご案内のとおり関係委員各位のご努力によって、八王子郷土資料館の建設が行われ、4月
   1日オープンいたしました。本館の独想的展観の方法として本館屋外展示場に、都市化に伴っ
   て忘れ去られつつある路傍の野仏の収集展示を行い、この地方の庶民の信仰や催し物等生活様
   式を廻想することに着目し、これを展観いたしましたところ以外の反響を呼び、このみちの専
   門的調査研究の必要性を痛感いたしました。そこで当市内に関係する小中学校教諭を以って組
   織する野仏研究グループの先生方のお力添えをいただき、市内に於る野仏等分布調査第1次を
   行い、破壊されるこれ等の資料を保存することに努めておりますが、各市町村に於も共通の悩
   みがあろうかと存じます。そこでこれを解決する手だてとして研究調査会の結成を行い、より
   高率的な調査研究と、相互協力体制の確立を計りたいと思い誠に勝手ではございますが別紙に
   より準備会をを行いたいと存じますので、ご来駕のうえご指導を賜りたくご案内申し上げます

      別 紙
    1 日  時 昭和42年7月30日 午後1時より
    2 場  所 八王子市立郷土資料館
           八王子市上野町70番地
           TEL (0426)22−8939
    3 協議事項 多摩地域石仏等研究調査会の発会について
           関係者名簿
        1) 石川博司 青梅市本町2−120
        2) 八代恒治 府中市幸町1−26−4
        3) 瀬沼和重 八王子市高尾町1803
        4) 小泉栄一 八王子市遺水2171
        5) 川端信一 八王子市千人町225
        6) 島田 実 八王子市千人町4−58
        7) 植松森一 八王子市中野町東2−2048
 この通知によって、7月30日には八王子の郷土資料館で記念すべき多摩石仏の会の第1回の会合が開かれたわけである。この創立の集りについては、島田実さんが発行された『あしあと』第1号(孔版横書き)に記されているので引用しよう。
        △ あ し あ と 1号 △
   ○ 第1回石仏愛好者のつどい
    42年盛夏の7月30日の午後1時から八王子郷土資料館で石仏愛好者のつどいが開かれた
    この集会は石川博司氏の発想と資料館の好意によって生れたもので、同館から田中事務長と
   高橋館員とが出席し、一般から次の人々が参加した。
     氏名(五十音順)住  所 [電 話]  勤 務 先
     赤木穆堂 三鷹図書館 [0422−43−9151]
     石川博司 青梅市本町2−120[0428−2−2353
     川端信一 八王子市千人町3−4−20
          八王子市由井中学校[0426−42−2149]
     島田 実 八王子市千人町4−7−5[呼0426−61−1068]
          八王子市恩方中学校[0426−51−3652]
     瀬沼和重 八王子市高尾町1803
          八王子消防署[0426−22−7278 7279]
     八代恒治 府中市幸町1−26−4[0423−61−9549]
          府中市第4中学校[0423−61−2094]
    なお参加予定の植松森一氏(八王子市中野町東2−2048[0426−23−5041]
   八王子市第6中学校[0426−22−3330・3331]からは都合がつかなくなった旨
   の連絡があった。

    会は「八王子に重点がおかれるけれどもできる限の援助をしたい」という事務長の挨拶に始
   まり、石仏保存への動きや調査上の障害などを中心に懇談にうつっていった。
    はじめの情報や意見の交換では、市で指定するという保存方法も紹介されたが、石仏が多数
   だと、指定の基準をどこに求めるかという問題が派生するこという意見ものべられた。続いて
   そのような基準を導くためにもより充分な調査が必要であるが、その方法などについて共通す
   るところが少なくないと考えられるので、その部分だけでも統1したらどうかという指摘がさ
   れた。この頃から、すでに交換し合った「ともしび」「川崎市の庚申塔」 「八王子西部の庚
   申塔・馬頭観音塔」などのページがめくられ、石仏の種類や形態の分類へと話しは進んだ。
    そして、調査にあたって資格があると、好都合なことや、調査カード・整理記録・梵字を筆
   写したノートなどが公開されたり、鏡を利用して銘文を読むという技術の発表など話題がつき
   なかったが、次のようなことを申し合せて懇談をしめくくった。
    1 会の名前をしばらくの間「多摩石仏の会」と名付けておく
    2 会合の場所として八王子郷土資料館を借りる
    3 毎月第2日曜日午後1時からを定期会合日としておき、その都度次回を検討していく
    4 会合は、石仏一般についての調査方法の研究、資料交換、共同調査、研究発表、講師を
      まねいての研修などを内容として開く
    こうして別れの挨拶をかわした後でも、館周辺の石仏に1人立ち2人立ちしていつまでも語
   り合っていたのは、石仏を愛する人々の自然の情のにじみでた風景であった。

   ○ 第2回 多摩石仏の会
    日時・場所 42年8月20日(日曜日)午後1時 八王子郷土資料館会議室  主な内容
     1 碑(塔)形の分類について
          2 調査カードについて
          3 資料交換
          4 その他
   ○ 入会について
     入会の御希望者は前記のもよりのものに御連絡くださるか、直接会場へ御集 り下さい。
   発足したばかりですから、すぐ仲間として御発言できると思います。 お気軽に御参加くださ
   い。                        (8、1  文責 島 田)こうして創立の会合は、島田実さんの記録からうかがえるように無事に終り、8月20日の第2回目の会合を迎えたのである。続いて第2回例会についても、島田実さんが記録された『あしあと』第2号(「石仏調査票と碑型の分類について」 タイプ印刷横書き)から引用すると
    八王子市の郷土資料館で第2回目の「多摩石仏の会」が開かれようとしている8月20日の
   正午すぎ、かたわらの市民会館では第3回市民慈善納涼公演の昼の部の入場を待つ人々が長い
   列をつくっていた。後でそれが満員の盛況であったと聞いて市民文化の向上をよろこんだので
   あったが、たまたまその番組のなかにインド舞踊を見出し、その日が旧盆にあたっていたこと
   を思い出すにつれて、文化活動の奇しきつながりを感じないではいられなかった。
   「多摩石仏の会」も第1回にくらべてほぼ3倍に飛躍した参加者をむかえ、「調査票と碑形に
   ついて」「スライド映写」「種子の解説」と内容のうえでも1段と充実してきた。

   △ 調査票と碑形について
    「それぞれの目的によって設計され創造されているようである。」と前置きして、担当の石
   川さんは、庚申塔に使われた調査票の形式を紹介し、それがポケットに入る程度の大きさに規
   制されているとつけ加えられた。
    次に石川さんの提示したものを説明のときとは順序が多少ちがうかもしれないが、整理番号
   をつけてかかげてみよう。
    この日、石川さんは庚申懇話会へ出席するため担当の説明が終り次第帰えられる予定だった
   ので、調査票については時間的に意をつくしがたいところもあったようである。たとえば「標
   準六手」の標準は「三多摩庚申塔資料」の合掌6手や剣人6手などとともにふれておきたかっ
   た項目であろうし、「飛雲」については「川崎市の庚申塔」で八代さんが使っておられた「瑞
   雲」を、「台石」については蓮台、基壇などの用語をそれぞれ思い出して説明を期待していた
   むきもあったかに見受けられた。
     1 庚申塔用調査票(1〜5の図は省略する)
    調査票のなかに調査しようとする項目を数多く用意することは、一方で観察の精度を高める
   けれども他方ではその面積を拡大しかねない。なんらかの理由で調査票の寸法が一定している
   場合には、それらの項目の取捨選択によってその形式がつくられていくことになるのだが、
   (2)(3)(4)はそのことを示した好資料といえよう。もちろん、これだけがが調査票の
   形式ではない。前回8代さんが示されたように白紙のノートを使って必要なメモやスケッチを
   するという方法も考えられるだろう。けれども、調査目的にもとずいて調査項目を選定し、そ
   れにしたがって観察していくほうが初歩的な場合は無理が少ないようである。
    ところで、石川さんの説明をまつまでもなく、調査票にはポケッタブルな要素が加わり、そ
   れがほとんどその面積を規制すると考えられるのであるが、その制限のなかで、石仏一般を対
   象とする調査票を考えた場合、それはどのような形式になるだろうか。次にその資料として八
   王子西部地域の調査に使用したものをかかげてみよう。この前には手帳に記録する方法をふく
   めて3つの形式がとられていたが、調査結果の整理という観点からは、じめに次の式で必要な
   寸法を算出して改めたものである。
      たて=スクラップブック(コクヨ20)のたて
        −町名見出し−写真(名刺版たて)
      よこ=スクラップブックのよこの・
    こうして導かれた面積のなかに、以前のものにくらべ調査項目を10ほどふやして設計した
   ものの銘文筆写らんがせまくなってしまった。現在とくに必要なときは裏面を利用し、スクラ
   ップブックに整理するとき上部だけをのりづけするようにして間に合せているが、それはとき
   に書き加えたりしている龕、幢身、竿などとともに改めなければならないとこかもしれない。
    続いて石仏一般用の調査票として石川さんが「武蔵野」誌から引用した形式をかかげよう。
   この寸法ならば、調査項目選定もゆとりをもってすることができるだろう。
     2 石仏一般用調査票 (1の図は省略する)
    碑型の分類に移って、石川さんは庚申塔を中心に次ページのような8つの基本てきな類型を
   示された。そこに板碑型の細分があげられているように、それらはさらに分類することもでき
   るようである。そして、碑型のそのような相異が地域差、造立年代、造立階層を表わす場合も
   ないことはないようである。そこで、地域の比較研究や造立背景の探究のための資料交換では
   、碑型についての統1された用語や共通の表記方法が必要となるわけであるが、山上さんが櫛
   型について意見をのべられたように基本的なものについてすらも形態を文字で表現し統1性や
   共通性を与えることはそう簡単なことではないようだ。
    このことは、続いて表示したA、三多摩庚申塔資料、B、川崎の庚申塔、C、八王子西部の
   庚申塔などの表記例をみてもうなづけるだろう。これは石川さんのいう基本形から特殊と丸彫
   とを除いたものであるが、そこに統1や共通への手がかりが認められなくはないだろう。統1
   用語が生れることを期待してDらんを設けたのもそのためである。また、庚申塔以外のたとえ
   ば光明真言供養塔などにみかける角柱、扁平球状頭部などの碑型のために空らんを用意してお
   いた。
    新しい用語を選定するときは、広く石仏愛好者を育成するためにも、現代的な感覚を忘れな
   いようにしたい。兜巾や櫛型は碑型がそれに似ているところから名付けられたのであろうが、
   前者は現代の一般生活のなかでみられないし、後者の櫛についてはかまぼこ形のデザイン以外
   のものが多く供給されるようになっているのではなかろうか。また、中学校で等高線による山
   を読図してきていると山状角型からピラミット状の形を想い起すことに抵抗はないだろうか。
     注) 掲載の碑型分類の図は省略する
   △ スライドの映写
    なくなってしまった庚申塔、庚申塔とされていた馬頭観音塔、馬頭観音像の一つの系統、六
   地蔵と野仏の範囲などについてが映写された。
   △ 種子について
    都文化財調査員の山上茂樹さんに種子の書き方と併せて解説をわずらわした。
    会議室をアコーデオンドアで仕切って会場にしたため、壁に新聞紙を重ねて止めて黒板がわ
   りにしなければならなかったが、山上さんは気軽にマジックインキを持ってそれに種子を書き
   読みかつ説明していかれた。
    「イー」の種子が地蔵を表わすこともあると聞いたとき、私は宝珠錫杖を持った立像がかた
   わら銘文に地蔵の文字を刻み光背のむくりの部分にその種子をかかげていた碑を思い出した。
   そしてなぜ帝釈天の種子がといだいていた疑問が氷解し、溜飲の下がる思いがした。
    また「キリーク」の書体についての質問に答えてからその字の縦横比が年代を表現している
   という研究の一端をもらされたが、それがうかがえたのはこの企画の収穫であったし後に「四
   国西国秩父坂東百八十八個所」と刻まれた石塔の側面の種子が「アビラウインケン」(大日如
   来報身真言)と読めたのもその効果だと思う。
   最後に当日の参加者のご芳名を記し、会のより発展を願って筆をおく。(会員名簿に二十六名
   の記載があるが省略する)                42.8.29. 島田記
 このようにして多摩石仏の会は始まり、第3回の例会を9月10日に開き、会則を決めて役員を選び、会としての形も整ってきた。それまでは暫定的だった「多摩石仏の会」の名称も正式に決められ会の規約も53年の事務所の変更と56年の入会金新設・会計年度の変更以外は、年会費を何回か値上げしただけ、根本的には変わっていない。変色した孔版刷りの規約案に4個所ペンで書き込みがしてあり、それが制定されたのである。
 10月8日に開かれた第4回の例会までは八王子の郷土資料館で行われ、11月19日の第5回の例会は、初めて館外に出て日野地区の見学会とした。この時は、立川愛雄さんが本会最初の案内地図を作っている。この年最後の12月例会は、再び八王子の郷土資料館で開かれている。この間の記録は「あしあと」第3・4合併号(11月発行)と第5・6合併号(翌年1月発行 共に孔版横書き)に記載されている。

 一時期、私はパソコンに熱中し、プログラム作りに励んだ。調査データを入力し、いろいろと分析したりもした。しかし16ビット機が広く使われるようになると、旧式の8ビット機ではものたりず使用する機会もなくり、今では子供のゲーム機になってしまった。現在では、私はパソコンに替えてワープロを使っており、この原稿もキーボードから入力している。折込みチラシによると、特価金1万8千円也のハンディ・ワープロも売出されている時世だ。遠からず『あしあと』などもワープロが利用されるだろう。本会の創立のころには、こうした事態はまったく予想にもしなかった。
 手元には、孔版の昭和42年10月現在の会員住所録が残っている。この一覧表によると、会員の名前が30人(内、入会申込み提出者は22名である)記されているが、このなかで現在も例会に出席されている人は数人にすぎない。変色した名簿を前にして、つくづくと20年近くの時の流れを感じる。自分ではいつまでも若いつもりでも、どんどん歳月は過ぎ去っていく。これから先何年の間、例会に出られるのであろうか。いつまでも長く出席したいものである。このような文章を書くようになったこと自体、年をとった証拠かもしれない。ともあれ、これまで例会でお会していた人たちの中には、すでに亡くなられた方も多い。末筆ながら、ご冥福を祈ってペンを置くとしよう。(61.6.2.記)                      
    『野仏』第17集(昭和61年刊)所収

例会日誌(昭和61年度)
 今までにも見学会日誌や調査日誌を書いてきたけれども、カードやレポート用紙に走り書きしたもので、後で活用する場合には不充分であった。無論、一部は『野仏』や『あしあと』、あるいは『庚申』や『日本の石仏』などに発表していたから、その部分は利用するのに便利で、これまでも原稿を執筆するのに参照していた。そこで、今年から日誌をワープロに入力し、プリントをクリア・ファイルに整理するこに決めて実行した。まだ始めてから5年に過ないけけれども、『日本の石仏』の原稿「庚申塔入門」を書く上で今年になって調査した分は、あちらこちらの調査カードを一々引出さなくてもクリア・ファイルを見て用がたりたので非常に役立った。
 また調査日誌はワープロに入力してあるので、書式を換えて編集することもできる。この原稿の元は、フロッピーには40字詰め40行で入力されているが、今回『野仏』用に29字詰め25行に再編集して、文頭の「、」や「。」など、あるいは文末にくる「『」や「¥」などを避ける禁則処理をするために多少の加筆や訂正を行っている。今年の日誌は、これから調査のつど入力することにし、さらにこれまで書いた分も徐々にさかのぼって入力して、データの整理に役立てたいと考えている。これまで入力した日誌の文中からデータだけを残して、他を消して1覧表にもできるし、さらに、その表をソートして並び換えることもできる。また、その結果をグラフに描けるから、いろいろと活用の可能性がある。入力した日誌を具体的にどう利用していこうか、まだ確たる方針はたてていないが、とりあえずデータの蓄積を心がけ、研究に奥行と幅を持ちたいと考えている。前書きがワープロの利用や可能性などのあらぬ方向にそれたので、さっそく本題の例会報告の日誌に移ろう。
 ○ 1 横 山 行
 1月12日(日)は、本会の新年例会だ。午前9時30分、国電高尾駅の改札口前に集合である。総会に先立って、恒例の石仏見学を始める。長房町廾里の松本広場では、思いがけず塞の神を作っているのに出会う。中央に建てられた竹の頂点に置かれたダルマは、その年のエトの方角、今年でいえば虎の方向に向けるという。15日の朝6時に焼かれるそうで、町会に掲示板にもその旨のポスターが貼られている。
 見学の最初は、長房町中郷にある今日の目玉ともいうべき合掌弥陀主尊と台石に駒引きの三猿を配した庚申塔2基である。すなわち
   1 宝永2 笠付型 合掌弥陀               52×27×21
   2 安永7 笠付型 青面金剛・二鶏・三猿         71×31×26である。両塔を初めて見たのは、20年ほど前になる。今日とは逆コースから来たせいか、以前の記憶では反対の方向を向いていたように感じられた。駒引きの三猿は、他に恩方町辺名にもみられる。多摩御陵の参道を横切ると、20年前に回った頃とちがって、人家が多くなって、あたりの風景も変った。慈眼寺では
   3 年不明 台 石 三猿                 21×38×32を見る。本塔は見当らないが、おそらく笠付型の青面金剛であろう。中郷の少し小道を北にはいった路傍には
   4 安政7 自然石 「庚申塔」三猿            88×36が立っている。台石に薄く浮彫された三猿は、むっくりとしており、3面に配される。
 浅川を渡って東浅川町に入り、新地にある庚申塔を訪ねる。
   5 元禄6 笠付型 青面金剛・三猿            71×25×18この塔の主尊は、上手に矛と刀、下手が徒手の4手青面金剛で、八王子市内でも珍しい。下部に刻まれた三猿は、神奈川県津久井地方で寛文年間に見られるような形式である。 原宿の山王社に行くと偶然とはいいながら、氏子の方が本殿の傷みを調べるために、ご神体の石猿を出すところであった。多摩石仏の会の初期の例会で県さんに案内されて来た時(もう18年前になろうか)に一度対面している。御幣を持つ丸彫りの坐像で、背面に「願主 町田甚右衛門」の銘が刻まれている。この社の境内には、
   6 天明8 灯 篭 「青面金剛庚申」           57×24×24竿石の他の面には「秋葉大権現」「地蔵大菩薩」「天明8年 村中安全」の銘があり、火袋は失われている。近くの集会所では、塞ノ神の準備が進められている。ここの前庭に
   7 宝暦11 笠付型 日月・青面金剛・三猿         65×28×21がみられる。青面金剛は、上2手が日天と月天を捧げ持つ合掌6手像で、次に回った原宿自治会館にも同じような像がある。
   8 明和3 笠付型 日月・青面金剛・三猿         78×31×32がそれで、左側面の「具金剛體現4臂姿 妙應信念施與」の銘が珍しい。ここには、
   9 寛延3 柱状型 「奉供養庚申塔」           55×25×24があり、銘文の中に「彭侯子 彭常子 命児子」の三尸銘を刻んでいる。この塔に接して小屋が作られているから、体をおりまげて調査しなければならない。
 中央線のトンネルを抜けて散田町に出る。総会の時間の関係で寺は前を通り過ぎ、神社の庚申塔や三猿石祠も省略する。もう1基の庚申塔も遠くから所在を確認しただけで真覚寺に向かう。境内には
   10 宝永2(笠付型)日月・青面金剛・三猿         58×26×18がみられる。本堂の裏手脇にある奪衣婆・業秤・浄玻璃の鏡の3点を撮る。後は総会の会場である旭ケ丘会館に向かう。
 ○ 2 二 宮 行        
 2月9日(日)は、本会の2月例会である。東海道線2宮駅改札口前に9時30分集合。前日に雪が降ったのと、遠距離のために参加者が少ない。今日も平塚辺は小雪だった。案内役の中山さん、林さん、鈴木さん、犬飼さんと私の5人である。この位の人数がまとまりがあって、写真を撮るにしても動きやすい。
 最初に訪ねたのは龍沢寺(曹洞宗)、入口にある年不明の双体道祖神(39×27)が出迎えてくれる。隣に馬頭観音がある。中里の塔を見てからこの寺に寄る予定であったが、道を間違えたのでここで調査を始める。境内の墓地に、
   1 安永8 柱状型 青面金剛               51×24×19があり、横に6体の観音が並ぶ。左端にある十一面観音に「奉造立七観音菩薩」の銘が刻まれているから、以前は七観音が揃っていたのだろう。その先の墓地入口に
   2 延宝3 板碑型 「0 病即消滅不老不死」三猿     85×37
   3 天和1 板碑型 日月「3世不可得心」三猿       95×37がある。それらの塔の一段高いところに、年不明の「地神祠」と刻まれた自然石塔(66×42)と並んで
   4 寛文7 板碑型 日月「過去現在未来」三猿       80×41がみられる。この寺にある3基の文字庚申はいずれも個性的で、これだけ観ただけでも大きな収穫である。なぜこのような塔が広く知られていなかったのだろう。
 新幹線のガード下を過ぎて東大農学部の2宮果樹園の北にある坂道を少し登ると、右手の一段高いところに
   5 寛文8 板碑型 「奉造建庚申供養」三猿       106×46が立っている。横には、八王子日吉町の人が建てた石祠がある。
 大応寺(曹洞宗)の門前には、昭和57年造立の六地蔵がみられ、知足寺(浄土宗)境内にある7観音と元文元年に造立された念仏供養の三面馬頭観音が注意をひく。妙安寺(日蓮宗)の境内には浄行菩薩がみられる。等覚院(真言宗)で昼食を済ませてから
   6 年不明 光背型 青面金剛・三猿
   7 寛文11 笠付型 「(梵字)ア・バン・ウン」三猿
   8 享保6 柱状型 「庚申講供養」の3基を調べる。ここの青面金剛は、左第3手に大きなショケラを持つ舞勢で、これまでこの種のものを見たことがない。
 東海道の新旧の道が合流する山西の火の見櫓下には、享和2年造立の自然石「天社神」塔(76×66)、寛政2年の双体道祖神(38×30)、年不明の3基(文字道祖神と2基の双体道祖神)などがある。
 宝蔵寺の門前には、七観音が揃っている。馬頭観音の台石には「奉新造立 七観世音 二世安楽諸願成就」とあり、聖観音の台石には享保17年の年銘が刻まれている。しかし准胝観音の台石は文政4年となって食い違いがある。境内には、
   9 寛文8 笠付型 「奉納山王供養菩提也」三猿      86×31×31
   10 享保12 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・三猿      74×35がある。薬師堂の境内には
   11 享保3 笠付型  「奉造立庚申供」三猿        61×21×22がみられる。二宮の見学はここで止めるが、まだ時間があるので押切坂上のバス停から乗車し、大磯町に向かう。山王町でバスを降りて日枝神社に行く。境内には、多くの庚申塔が並んでいる。右端から順に見ると、
   12 寛文12 石 祠 二猿(半壊)             51×42×53
   13 年不明 光背型 青面金剛               35×28
  14 宝永4 光背型 「奉造立庚申供養」三猿        97×46
   15 延宝8 板碑型 「奉造立庚申供養」三猿        97×40
  16 元禄5 板碑型 日月「奉造立庚申供養祈所」      95×45
  17 元禄  柱状型 青面金剛・二鶏・三猿         91×30×27
   18 元禄16 駒 型 日月「奉造立庚申供養祈所」三猿    72×30×23
   19 享保11 光背型 「庚申供養」二鶏・三猿        60×30
   20 享保16 光背型 日月「奉請庚申供養」         45×26
   21 元文5 光背型 日月「庚申供養宝塔」三猿       55×29
   22 寛延1 駒 型 「庚申供養之構中」三猿        75×33×16
   23 延享1 板駒型 「奉建立庚申供養」三猿        55×25
 二猿石祠は、右側面と背面が残るだけで、おそらく欠失した左側面にも猿が陽刻されていたものと思われる。現在、石祠の中に置かれている青面金剛は、中尊ではあるまい。元禄の青面金剛は、上2手に弓と矢を持ち、中央手を合掌、下2手にショケラと宝輪をとる異形の合掌6手像である。今日の例会もこここまで、バスで平塚まで出て解散する。
 ○ 3 町 田 行
 3月16日(日)は、多摩石仏の会3月例会である。小田急線鶴川駅改札口前に9時30分集合。前日に雨や雪が降ったのが嘘のように晴て、参加者は前月に比べて9人に増えている。案内役の林さんは、急の親戚の葬式で出られらなかったけれども、今日のコースの案内図は届いていた。
 最初に訪ねたのは川崎市麻生区岡上、市村青果店の手前にある坂を登り、道路から入った所にある
   1 文化1 駒 型 青面金剛               30×20×16隣には寛政6年の百番供養塔がある。細い道を西に進むと左手に地蔵菩薩や馬頭観音・百八十八所供養塔があり、右手に小さな覆屋根の下に5輪塔や宝筐印塔の残欠の道祖神がみられる。道を戻り、岡上神社に向う。境内には
   2 安政2 柱状型 青面金剛               74×29×29があり、横に同年の「堅牢地神」塔が並ぶ。その先にある木の祠の中には嘉永4年の「金勢大明神」の碑があり、下部には陽物が刻まれている。東光院では天神や稲荷・九頭龍を見た後、本堂の横の茂みにある
   3 宝暦8 光背型 日月・青面金剛・三猿         55×30を調べる。
 町田市三輪町に入り、高蔵寺を訪ね、本堂に安置された木彫りの七福神を拝した後で、まだ新しい丸彫の七福神を写す。熊野神社では、文久3年の「地神塔」や弘化4年の「サク 廾三夜待供養塔」さらに
   4 寛政9 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿      69×29×18
   5 寛政5 柱状型 日月「庚申塔」三猿          65×24×18をみる。七面山に登ってみると、1基の石塔がみられるが、表面が剥落していて銘文がまったく読めない。
 今日の目玉である庚申石祠は、椙山神社の境内にある。すでに林さんから報告を受け、写真も戴いている。見逃していたものである。
   6 延宝4 石 祠 「奉造立庚申供養祈所」        30×23×19その近くに「奉献二十夜御神灯」と刻まれた灯篭がある。これも見落としていた。神社入口には「サク 廾三夜塔」と天保5年の「地神塔」がみられる。近くの地蔵堂境内には
   7 元禄12 笠付型 日月・青面金剛・三猿・蓮華      64×30×19がある。妙福寺では、墓地にある慶安5年の聖観音が目をひく。上部に「南無多宝如来 南無釈迦牟尼仏」、像の左右に「鬼子母 四天 日法」「四菩薩 十女神 日□」と彫られており、石仏曼荼羅である。谷戸に入り、左手の高みにある
   8 寛文9 石 祠 大日如来・二鶏・三猿         48×40×33を調べる。鶴川団地に行く交差点で2人に別れ、広袴町に向う。最後に山王社の
   9 延宝7 光背型 日月・青面金剛・二鶏・5猿     108×44を見て今日の日程を終る。
 ○ 4 関 宿 行
 4月13日(日)は、本会の4月例会である。東武線春日部駅の東口改札口前に9時30分集合。晴れて絶好の石仏散歩日和である。目的地は千葉県東葛飾郡関宿町で、鈴木俊夫さんが案内役だ。久し振りで小林さんの顔もみえる。参加者は、林、山村、藤井、明石、中山、犬飼、福井、多田の諸氏である。駅前から東宝珠花行きの東武バスに乗り、宝珠花町のバス停で下車する。最初に訪ねたのは次木の公会堂で、火見櫓の下には
   1 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿 119×53
   2 享保1  板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿 120×48
   3 元文3  板駒型 日月「奉造立庚申己巳供養塔」三猿  67×29があり、文政13年の自然石「二十三夜塔」(128×77)や元禄3年の板碑型百堂供養塔がみられる。江戸川ぞいに進み、東親野井の八坂神社に向う。境内には、丸宝講の富士塚があり、その横に
   4 延宝1 板駒型 青面金剛・一鬼           128×56があり、富士塚にある
   5 年不明 自然石 「庚申」               61×47を見る。近くに貞享3年の笠付型日記念仏塔がある。正面の銘文を読むのに苦労するが、中山さんが拓本を取り、不明だった数文字もはっきりする。右側面の中央には「奉造立阿弥陀如来一躰人数一万人二世安楽処」、右に「乃至法水平等利益 敬白」、左に「貞享三年刀十一月吉日」とあり、正面には長い銘文が刻まれている。すなわち「極悪人無陀方便唯称佛得生極楽 光明遍照十方世界念衆生摂取不捨 我出入息従己来皆是阿字無量寿 念佛弥陀佛即念諸佛故念佛人即身成就」である。左側面の中央には「奉唱念日記念佛三年成就人数六十人證大菩提」、右に「乃至法雨平等利益」、左には「貞享三年寅十月吉日 敬白」と記されている。横には嘉永6年の柱状型「十九夜塔」(74×28×28)がみられ、木祠には、寛文9年の光背型塔に彫りの良い薬師如来坐像が刻まれている。気になるのは、上部に「南無阿弥陀」の六字名号があることだ。日記念仏塔の拓本をとるのに時間をとられ、2カ所をみただけで12時を回ってしまったので、江戸川の堤で太陽を浴びながらののんびりと昼食をとる。近くの河原にグライダーの発着所があるので、上空にはグライダーが旋回している。
 午後は、東宝珠花の日枝神社境内にある塔から調べ始める。ここにも丸宝講の富士塚がみられ、塚には、
   6 寛延3 駒 型 「庚申供養塔」           103×39×26
   7 年不明 自然石 「庚申塔」             115×45がみられる。神社前の道路の向こう側に墓地があり、入口に
   8 正徳4 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・三猿     121×55
   9 寛政6 柱状型 「庚申塔」              70×28×22
   10 寛政7 柱状型 「庚申塔」              58×20×16があり、文政10年の柱状型「廾3夜塔」などと並んでいる。少し離れた所に
   11 天和2 光背型 日月・青面金剛・三猿        103×51がみられる。上部に3字の種子が刻まれている。横の木祠には延宝6年の地蔵が安置されている。神社裏の近くで嘉永4年「天満大威徳大神」の柱状型文字塔がある。左側面には「門弟中」と彫られているから、筆子塚であろう。平井に入り、香取神社境内で
   12 天明2 柱状型 「ウーン 青面金剛」         92×35×29
   13 文化3 柱状型 「ウーン 庚申塔」          81×33×21
   14 文化11 柱状型 日月「青面金剛」三猿         81×33×19
   15 天保3 柱状型 日月「庚申塔」三猿          98×38×29
   16 万延1 自然石 「庚申塔」             140×108
   17 明治17 柱状型 「猿田彦大神」三猿          74×32×30
   18 明治27 柱状型 「猿田彦大神」三猿         115×44×44
   19 明治41 自然石 「猿田彦大神」           137×63
   20 大正9 自然石 「猿田彦大神」            94×59
   21 昭和7 柱状型 「猿田彦大神」一猿          62×25×22
   22 昭和19 自然石 「猿田彦大神」            85×45
   23 昭和31 自然石 「猿田彦大神」            92×46を見る。反対側の離れた所に昭和5年の柱状型「月読大神」(62×25×24)がある。神社近くの路傍には
   24 寛文8 光背型 日月・青面金剛・1鶏・1猿     131×64
   25 元文5 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・三猿     105×39が並んで建っている。寛文塔の主尊は、4手像で索・矛・矢・弓を持つ。左下に刻まれた猿の姿態が妙になまめかしい。
 グライダーの発着所の近くにあるY字路には
   26 天保13 柱状型 日月「庚申塔」三猿          74×30×27
   27 嘉永4 柱状型 日月「庚申塔」三猿          72×34×31の2基が並び、共に「塔」の字が異体字を用いている。その前にある屋敷の一角に万延2年の柱状型「仙元大菩薩」塔が塚の上に建っており、下部には二猿が陽刻されている。この家の老人の話では、平井の約20軒と岡田の約40軒で今でも富士講をやっており、毎年10人ほどの代参を送っているという。
 平井のT字路の路傍には
   28 明治5 柱状型 「猿田彦大神」            73×27×26
   29 文政3 柱状型 日月「庚申塔」三猿          68×33×35の2基があり、道をはさんで
   30 寛政1 駒 型 「ウーン 青面金剛」        127×36×23の1基が立っている。離れた路傍にブロック祠があり、中に
   31 昭和60 駒 型 「庚申塔」              76×30×15が安置されている。右側面に「昭和六十二2月吉日建之 再建者松本隆男」の銘文が刻まれているから、塔の後にある石塔らしいものが旧塔であろうが、庚申塔の特長は全くみられない。「塔」は異体字を用いている。千葉県内には、昭和61年3月造立の庚申塔があるらしいが、私が見たものではこの塔が最も新しい。 岡田の8幡神社には、入口に
   32 明治33 柱状型「猿田彦大神」             86×36×33がある。その先にある香取神社に向う途中の丸井路傍には
   33 享保7 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿  113×55
   34 天明2 駒 型 「ウーン 青面金剛」         71×28×18の2基があり、さらに先の路傍にも
  35 文化8 柱状型 日月「青面金剛」三猿         88×34×20
  36 年不明 板碑型 (上欠)三猿             69×37の2基が並んでいる。年不明塔は「6年」だけが読める。次に見た香取神社の寛文6年塔の三猿などと同形なので、同年の造立と思われる。香取神社の境内には
   37 享和3 駒 型 日月「ウーン 青面金剛」三猿     91×36×21
   38 天保6 柱状型 「庚申塔」              77×35×20
   39 延享3 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・三猿      86×39
   40 寛文6 板碑型 三猿                 91×39
   41 昭和27 駒 型 「猿田彦大神」            53×21×11
   42 明治10 自然石 「猿田彦大神」            73×28と文化6年の柱状型「サク 二十三夜供養塔」(52×26×14)が並んでいる。近くの墓地には明治8年の駒型十九夜塔と大正弐・等名自然石「二十三夜塔」があり、3面の馬頭観音もみられる。新宿の須賀神社の境内にある
   43 明治26 自然石 「庚申塔」              80×52
   44 文化5 柱状型 日月「庚申供養塔」三猿        78×30×19
   45 弘化4 柱状型 日月「庚申供養塔」          92×30×19
   46 寛文11 板碑型 「ウーン 具足神通力妙到佛果処」三猿  124×49
   47 元禄4 板碑型 日月「庚申供養佛」三猿       124×51
   48 享保7 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿  123×52×30
   49 延宝6 板碑型 日月「南無青面金剛」        117×46
   50 宝永6 光背型 日月「奉供養庚申会」三猿      117×50×30の7基はそれぞれ主尊や主銘、あるいは字体が異っていて、ここ1カ所で変化のある塔を楽しめる。一部の人たちは、バスの時間の関係から早々に引き上げる。残った者は次のバスの時間があるので、一停留所先まで歩くことにして、途中の共同墓地に立ち寄る。墓地の入口の右側には、中央に「聖観世音」の主銘を刻む一石六地蔵がある。これまでに回った所に、中央に聖観音の立像を置き、両方に3体ずつの地蔵を配した六地蔵は見たが、ここのように文字の中尊で一石六地蔵はめずらしい。
   51 寛政12 駒 型 「庚申供養塔」            68×27×19があり、反対側には
   52 年不明 駒 型 「庚申塔」              61×24×15が文政9年の柱状型十九夜塔や文化12年の柱状型子待塔と並んでいる。少し離れた所に
   53 明治28 駒 型 「猿田彦大神」            67×27×17がみられる。バスで東武野田線の清水公園駅に向い帰途につく。
                           『野仏』第17集(昭和61年刊)所収
あとがき
  多摩石仏の会は、本書の「創立前後の状況」にも記したように、昭和42年2月3日付けの毎日新聞多摩版の記事がきっかけとなって、多摩地方で石仏を調査・研究している方々が集まって同年7月30日に発足した。以来、平成8年の現在も毎年、月例会を重ねて多摩地方を始め東京・埼玉・千葉・神奈川・山梨など各地の石仏見学を続けている。見学の成果は、見学会記録の『あしあと』や会誌『野仏』にみられる。
 これまでの多摩石仏の会の成果としては『多摩石仏散歩』(武蔵書房 昭和46年刊)や『新多摩石仏散歩』(たましん地域文化財団 平成5年刊)の2冊を刊行した。また、八王子や青梅、昭島などで石仏写真展を行うなどの啓蒙活動をしている。

  私は、『野仏』に第4集以後、第18集を除いて毎号欠かさず寄稿しているので、これまでに発表したものが大分たまってきた。本書は、各々の文末にも号数を記したように、その内の昭和47年2月発行の第4集から昭和61年9月発行の第17集までの21編をまとめた。参照する場合でも、各号の会誌をばらばらで見るよりも、このように1本にしたほうが利用する上で便利ではなかろうか。これは、自分のためでもある。

  本書には、会に関して書いた「創立前後の状況」のように、直接、石仏には関わりのないものもあるが、例会報告を含めて、庚申塔を中心とした石仏に関して書いたものを集録している。
 私にとって『野仏』は、調査や研究の成果を発表する一つの場である。この会誌を通じて庚申塔を中心とした石仏情報を発信していくつもりである。どこまで続くのかわからないけれども、今後もそうした努力を継続したい。
          平成8年4月30日                  石 川  博 司
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                             私 の 『野 仏』
                             発行日 平成8年6月15日
                             著 者 石  川  博  司
                             発行者 と も し び 会
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