私の『野仏』 第2集   石川博司
は じ め に
      多摩石仏の会は、昭和42年2月3日付けの毎日新聞に載った多摩版の記事がきっかけ
     で、同年7月30日に発足した。以来、例会を重ねて、各地の石仏見学を続けている。見
     学の成果は、見学会記録の『あしあと』や会誌『野仏』に発表し、石仏写真展も行うなど
     の活動してきた。現在も毎月例会を開催している。
      毎号欠かさず寄稿とまでとはいかないまでも、私がこれまで『野仏』に発表したものが
     たまってきた。本書は昭和63年9月発行の第19集以降をまとめて、先に発行した『私
     の「野仏」 第1集』の続編とした。
      本書に載せた「西多摩石仏散歩」は、多摩石仏の会創立20周年記念に発刊した『新多
     摩石仏散歩』(たましん地域文化財団 平成5年刊)の基になったものである。また「道
     祖神サイクリング」や「五百羅漢の世界」は、庚申懇話会編の『全国、石仏を歩く』(雄
     山閣出版 平成2年刊)の原稿である。『野仏』は、私の活動の場である。今後も、この
     会誌を通じて石仏情報を発信していきたい。
         平成8年5月13日 
道祖神サイクリング ―── 安曇野・穂高町を回る ──
 長野県南安曇郡穂高町は、北アルプスの東麓にひろがる安曇野のほぼ中央に位置する。現在の町は昭和29年に穂高町と北穂高村・西穂高村・有明村の4カ町村が合併してできた。町の観光のポイントは、穂高神社と 山美術館それにワサビ田である。最近では道祖神を訪ね歩く人も増えてきたし、松本から道祖神巡りの定期観光バスも運行されている。穂高へは松本からJR大糸線、あるいはバスを利用する。

 石田益雄氏の調査(『道祖神を訪ねて 穂高』)によると、この穂高町には双体道祖神が84基と文字道祖神が41基の合計125基の道祖神があるという。この町の双体道祖神は男女2神が仲よく肩を組んで1る。睦じく肩を抱きあって前で手を握りあう握手像と、盃と瓢あるいは酒器を持つ酒器像(祝言像)の大きく二つにわかれる。その割合は握手像が57基に対して酒器像が23基である。その他に笏と扇を持つものが2基、像が欠損して不明なものが2基ある。
 この町の道祖神の特徴として石田氏は
   (1) 双体像が多い。
   (2) 花崗岩の自然石を用いて造られたものが多い。
   (3) 屋根のついた柵の中に祀られているところが多い。
   (4) 彩色された道祖神が多い。
   (5) 「帯代」を刻まれた像碑、文字碑の多いこと。
   (6) 南安曇郡に特有のよく似た像容の道祖神が多くあり、「南安曇型」として
        〔1〕 飾り文字型
        〔2〕 細 萱 型
        〔3〕 山 崎 型
      のように分類できる。
   (7) 個人が施主となって造立し、所有されている道祖神が多いこと。の七つを挙げている。
 JR穂高駅前にある商店には、自転車を貸してくれる店が4軒ある。さっそくレンタサイクル(1時間300円、1日1500円)で町内の道祖神を回ってみよう。道祖神巡りのコースは、観光案内所でくれる道祖神のガイドマップを基にして作っくてもよい。案内所は、夏期や5月と10月の連休の間しか開いていないから、閉まっている時には町役場の商工観光観光課(電話 0263ー82ー3131)に問い合わせるとよい。大体のコースができたらマップを持ってサイクリングに出発する。
ここでは穂高駅を中心に比較的短時間に多くの道祖神を見学できる穂高・西穂高地区のコースを設定しておいたので、参考までに示しておくと
   番号 所在地   年  銘 (西  暦)  種 別   彩色
   1  神田町   天保12年 (1841)  握手像   彩色
   2  等々力   文政2年 (1819)  酒器像
   3  等々力   文政2年 (1819)  握手像
   4  等々力   明治19年 (1886)  「道祖神」
   5  等々力   明治18年 (1885)  握手像
   6  等々力   天保10年 (1839)  握手像
   7  矢 原   安政5年 (1858)  酒器像
   8  矢 原   年代不明         握手像
   9  矢 原   元治元年 (1864)  酒器像   彩色
   10  矢 原   明治25年 (1892)  酒器像   彩色
   11  矢 原   文政2年 (1819)  握手像
   12  矢 原   明治30年 (1897)  握手像
   13  矢 原   元治元年 (1864)  握手像   彩色
   14  柏矢町   元治元年 (1864)  握手像   彩色
            年代不明         「道祖神」
   15  柏原中下  天保13年 (1842)  握手像
   16  柏原長野  安政6年 (1859)  酒器像
   17  柏原長野  文政4年 (1821)  「道祖神」
   18  柏原中村  年代不明         握手像
   19  柏原倉底  寛政8年 (1796)  像損傷
   20  柏原神田  天保13年 (1842)  握手像
   21  柏原倉平  安政5年 (1858)  酒器像
            安政2年 (1855)  握手像
   22  3枚橋   文政14年 (1831)  握手像
            文政4年 (1821)  「道祖神」
   23  神田町   慶応2年 (1866)  酒器像   彩色がある。21から足を伸ばして
   24  田 中   文政7年 (1824)  握手像   彩色
   25  本 郷   安政5年 (1855)  握手像   彩色
   26  本 郷   天保4年 (1833)  握手像   彩色
   27  本 郷   安政5年 (1858)  握手像   彩色の彩色握手像を回るのも興味あるコースである。彫りを深くしても平板にみえる白い花崗岩の石質が彩色の習慣を生んだのではなかろうか。町内には今でも祭りのときに色がぬられたり、ぬられた色が残っているものが15基程あるそうで、24から27までを加えたこのコースで彩色道祖神の大半はみられる。

 ここでは道祖神だけを示したが、例えば1には二十三夜塔や馬頭観音がみられるし、24には同年の二十三夜塔がある。27には彩色された恵比須と大黒天が並んでいるから、道祖神を楽しむと同時に他の石仏にも目を向けてほしい。

 町内では、道祖神の祭りが行われている。正月には柏原の倉平で御柱がたつし、2月には矢原の東村や中村で、神田町では8月の初旬に道祖神の祭りがある。それぞれの木戸で月をちがえ、日をたがえて道祖神の祭りを行っているから、機会を逃さずに見学し、地元の人たちに祭りについていろいろと聞くとよいだろう。ただ道祖神を巡るのもよいけれども、どのような信仰が残っているのか、どのような祭りがあるのか、を知ると、一層、道祖神についての興味が深まってくる。
さらに同じ長野県内の佐久地方や諏訪地方の傾向の異なる道祖神、できるならば群馬や神奈川・山梨・静岡など他県の道祖神を見て比較すると、安曇野の道祖神の特徴がよくわかってくる。
                           『野仏』第19集(昭和63年刊)所収
五百羅漢の世界 ── 川越・喜多院と寄居・少林寺 ──

 子供のころ「羅漢さんが揃ったら廻わそじゃないか ヨイヤサノヨイヤサ ヨイヤサノヨイヤサ」などと歌った記憶がある。羅漢は、童謡に歌われるくらいだから身近かな存在だたのであろうが、その童謡を歌ったころは羅漢がどのようなものか、まったく知らなかった。
 羅漢は、梵語「ARHAT」を音写して「阿羅漢」、それを略した名称である。タイトルに用いた五百羅漢は、釈迦の弟子の500人の羅漢をいい、第1結集と第4結集の時に来会したという。朝倉・森・井門編の『日本名数辞典』(東京堂出版)には第1に「阿若橋陳如」、第2に「阿泥楼」、第3に「有賢無垢」から始まり、第499に「鉢利羅」、第500に「雄事衆」まで、各尊者の名前を記している。

 五百羅漢の石仏は、岩手・宮城・茨城・埼玉・千葉・東京・新潟・富山・静岡・愛知・3重・京都・奈良・兵庫・島根・広島・香川・福岡・佐賀・長崎・熊本・大分など全国各地にみられる。東京では目黒区下目黒・大円寺の石像が知られ、埼玉県ではここで取りあげた川越市小仙波町1丁目20番の喜多院と大里郡寄居町末野2072番地の少林寺のものが著名で、写真の題材とされている。

 川越の喜多院は、天台宗の寺で江戸城紅葉山の別殿を移築して客殿や書院などにあてているので知られている。西武新宿線本川越駅から徒歩20分、東武東上線川越市駅から25分、JR川越駅から30分の距離である。
 境内の一劃に羅漢場がある。庫裡で拝観料を支払ってからでないとみられない。拝観券は羅漢場だけなく客殿や書院なども含まれているから、誕生の間にある十六羅漢を描いた屏風、無量寿殿にある十二天掛軸や十六羅漢木像、拝観コース十三のガラスケースに陳列してある釈迦3尊十六善神や龍頭観音の掛軸などは、石仏の像容を知る上で参考になるので見逃さないほうがよい。

 羅漢場は、境内の土産物店の脇からはいる。中央の石壇の上に釈迦三尊の丸彫り坐像が安置されている。釈迦如来は結跏趺坐して禅定印をむすぶ。右に白象にのる普賢菩薩、左に獅子にのる文殊菩薩を配する。普賢菩薩の前には慶友尊者の丸彫り坐像、文殊菩薩の前には賓頭盧尊者の丸彫り坐像がおかれる。慶友の台石には文化2年(1805)、賓頭盧のそれには寛政11年(1799)の年銘が刻まれている。釈迦を中にして右手に錫杖と宝珠をとる地蔵菩薩、左手に定印の阿弥陀如来が配置されている。共に丸彫りの坐像である。

 釈迦三尊前の通路左右には、十大弟子と十六羅漢が十三体ずつおかれている。いずれも丸彫りの立像である。手前から釈迦三尊へ順にみると、右側は跋羅駄闍尊者、注荼半托迦尊者、阿氏多尊者、伐那婆斯尊者、因掲陀尊者、那伽犀那尊者、羅怙羅尊者、半諾迦尊者(以上は十六羅漢)、富楼那尊者舎利弗尊者、羅 羅尊者、須菩提尊者、阿難尊者(以上は十大弟子)の順で、左側は手前から奥に諾迦蹉駄尊者、蘇頻陀尊者、迦諾迦伐蹉尊者、諾矩羅尊者、跋陀羅尊者、迦哩迦尊者、戌博迦尊者、弗多羅尊者(以上は十六羅漢)、目 連尊者、優婆離尊者、阿那律尊者、迦旃延尊者、迦葉尊者(以上は十大弟子)の順で並んでいる。たとえば迦葉の台石には、尊名の他に「先祖代々聖霊為菩提 高麗郡□□村 嶋崎定治郎」の銘文が、迦諾迦伐蹉の台石には、年銘の「寛政元己酉年(1789)」が刻まれている。

 喜多院の五百羅漢は、川越在の田島村(現在は川越市内)の百姓で、後に出家した志誠が天明2年(1782)に発願してたてはじめたが、4十8体ばかり完成したころ病に倒れ、亡くなった。その遺志を継いだ喜多院塔中の慶願、澄音、祐賢などが文政8年(1825)まで前後50年の歳月をかけて完成した。ここには面白い伝説が残っている。夜中にお参りして羅漢の頭を一つ一つ撫でて歩くと、その中かに必ず暖かいものがある。その羅漢の顔は、亡くなった親や兄弟に似ているというのである。

 喜多院の五百羅漢は、いろいろの姿態をしているので永い時間眺めていてもあきない。太鼓を打つもの、猿を抱くもの、頭を掻くもの、頬杖をするものなどがあり、なかでも内緒話をするものや灯明皿に油を注ぐものは有名で、写真の題材となっている。入口の土産物店でもその絵葉書や色紙がうられている。

 時間が許せば寄居の少林寺を訪れるとよい。喜多院から東武東上線の川越市駅に向い、電車で寄居にでる。寄居駅で秩父鉄道に乗りかえて波久礼駅から歩くと近い。待ちあわせの時間があるようならば寄居駅で下車して歩くのがよいだろう。駅北の国道にでるか、南口にでて秩父電鉄の線路に沿って県道を経て国道にはいるか、どちらにしても少林寺まで約40分の道のりだ。国道には少林寺を示す標識があるから、右に折れて進めば寺にでる。

 少林寺の入口右手ある斜面には、庚申塔群がみられる。ほとんどが「庚申」とか「庚申塔」などの自然石の文字塔であるが、元禄6年(1693)と享保4年(1719)の青面金剛の合掌6手立像がある。
 少林寺の五百羅漢は、本堂左手の道を登ると山路の傍におかれている。途中で道が2つに分れる。頂上まで左の道を進めば五百羅漢が見られ、右の道をとれば千体荒神に出会う。荒神の中には胸前の第1手に独鈷と宝鈴、上方の第2手に刀と矛、下方の第3手に矢と弓を執る6手の荒神立像を浮彫する光背型や柱状型の塔がみられるが、ほとんどが自然石の文字塔で「荒神」「大荒神」「三宝荒神」「三宝大荒神」「千一躰」「千荒神」などの主銘を刻んでいる。

 分かれ道を右にとっても、左にとっても頂上の広場に出る。遠くに秩父連山が望まれ、円良田湖が木の間越しにみられる。頂上の中央に釈迦をおき、右に獅子にのる文殊菩薩、左に象にのる普賢菩薩を配している。台石の銘文によると天保2年(1831)の造立、石工の棟梁は吹上の新井宇之助である。それらの3尊の丸彫り坐像をかこんで十六羅漢の丸彫り立像がたっている。三尊像の背後には「八将神 奉請五大力菩薩 八大龍王」の文字塔が刻まれている。

 少林寺の羅漢は、荒川から人の背におぶさって担ぎあげられたもので、あまり大きなものはない。喜多院の五百羅漢が狭い1劃におかれているのに対して、少林寺のは山道に配置され、ゆったりした感じである。リボンの付いた前掛けをかけたのもあって、前掛けを取らないと像容がはっきりしなものがある。
 開山の大洞存□和尚は、裏山に五百羅漢を造りたいと思ったが果たさなかった。24世の大純万明和尚の代になり、文政9年(1826)の春から浄財を集め、天保3年(1832)3月まで6年に及ぶ歳月をかけて釈迦3尊、五百羅漢、千体荒神を完成し、開山の志を達した。

 五百羅漢の多くは江戸時代に造られている。喜多院のものも少林寺のものも江戸時代の作である。五百羅漢の造立の意趣は、喜多院の迦葉の台石の銘文に見られるように先祖代々の聖霊菩提のためであるが、と同時に子孫長久や商売繁盛を祈ったものである。羅漢といってもあまりに人間的なユーモア溢れる石像で、中国の羅漢とは違う日本的な作りである。そうでなければ、多くの人たちの支持をえて喜捨を受けられなかったろう。           『野仏』第19集(昭和63年刊)所収
平成元年新年会
昭和から「平成」に元号が改まり、多摩石仏の会の平成初の新年会は、1月15日(日曜日)の成人の日に行われる。JR山手線巣鴨駅に9時30分集合である。集ったのは、案内役の鈴木俊夫さんを始め、林国蔵・藤井正三・山村弥五郎・川端信一・中山正義・関口渉・犬飼康祐・縣敏夫・多田治昭の諸氏、それに新入会員の栗田直次郎さんが加わる。駅の構内で鈴木さんから、今日のコース案内の「豊島区庚申塔分布図」が配布される。それは、『豊島の庚申塔』(豊島区教育委員会 昭和55年刊)のコピーである。巣鴨駅を出発して間もなく、遠藤塩子さんが追いかけてくる。
 先ず最初は、巣鴨3丁目21番21号の真性寺から見学を始める。鈴木さんから境内で、山中共古翁が書かれた『共古随筆』(温古書屋 昭和3年刊)90頁のコピーが配られる。それには、かつて、この寺にあった慶安2年・寛文3年・寛文10年・延宝8年・元禄9年の5基の庚申塔がスケッチされている。現在は、墓地に
   1 寛政4 柱状型 日月・青面金剛・一鬼・三猿      79×31×19が見られるだけで、この寺の境内や墓地を探してもコピーの5基は見当らない。なお、この1の寛政4年塔は、『共古随筆』に記載されていない。
 次いで訪れたのが、巣鴨3丁目三5番2号にある「とげ抜き地蔵」の名で知られる高岩寺である。すでに境内には露店が張られ、大永8年(1528)の庚申板碑の前にも商品が置かれて写真を撮れる状態ではない。文明の庚申板碑が発見されまでは、最古の庚申塔として、また一時この寺を離れていたこともあったことも知られるところである。下谷車坂(台東区)から寺と共に移されたものである。本堂前の聖観音には、多くの人達が並んで「洗い仏」の順番を待っている。
 さらに旧中山道を進むと、巣鴨4丁目35番の庚申塚に出る。社殿の入口にある丸彫りの二猿が新しくなっている。三猿の浮彫された台石には「奉納 昭和六十二年二月吉日 台東区西浅草二ノ十四ノ十五 小野雅夫」と刻まれている。社殿が閉まっていて、中に安置されている明暦3年の庚申塔を見ることはできない。
 西巣鴨2丁目15番の大日坊の境内には、
   2 明暦2 板碑型 「奉修庚申待第三廻悉現当二世安楽所」蓮華がある。銘文の上には「□ ア バン ウーン」の4種子が刻まれている。光線の状態が非常によく、銘文がはっきりと読める。大日堂の中には、金剛界大日の石像が安置されている。頭部は、新造である。 西巣鴨の延命地蔵の境内には、徳本の名号塔などと並んで、
   3 年不明 光背型 地蔵・三猿            118×42がみられる。銘文は「願成就」が読めるだけである。先刻、鈴木さんが配布した『共古随筆』のコピーのスケッチに「大塚通り巣鴨 元禄十一年(1698)」の地蔵庚申が載っている。3は、どうもこのスケッチの塔らしい。
 西巣鴨4丁目8番40号の盛雲寺(浄土宗)の墓地には、
   4 貞享4 板碑型 日月「奉修庚申□諸願成就也」三猿   75×33がある。近くには、新門辰五郎の墓がある。
 西巣鴨4丁目8番25号の善養寺(天台宗)の本堂前には、
   5 延宝8 日月「キリーク奉待受庚申供養所願成就攸」三猿  102×39がたっている。三猿は、下部に彫りくぼめた枠の中に浮彫されている。
 最後は、巣鴨5丁目32番5号の白泉寺境内にある
   6 万治1 光背型 日月「奉祈庚申供養延命所」三猿    43×26を見学する。塔形といい、三猿の姿態といい、どうしても万治の塔とは思えない。万治の頃の庚申塔であれば、前向きの菱形三猿を陽刻するのが一般的である。この塔のような中央の猿が前向きで左右の2猿が横向きの三猿の出現は、もうすこし時代が遅れている。3浦半島では、すでに元禄の頃に見られるが、江戸やその近郊ではそれよりも遅れる。万治の元号に疑問を持つ点では、中山正義さんも同意見であるし、『豊島の庚申塔』でも
   (前略)明暦四年(1658)は七月二十三日に改元して万治元年となる。白泉寺の庚申塔に
   は「万治元年 四月七日」とある。四月七日ならばまだ明暦四年のはずである。従ってこの塔
   を万治とみるのは疑問である。三猿の形をみても、中央の正面向きの耳を塞ぐ猿の脚部が直立
   せず、菱形に刻まれている点も万治とするにはためらいをかんずる。たしかに万治のものなら
   ば、初期の三猿を刻む庚申塔として貴重なのだが、どうしても万治より新しい塔と見ざるを得
   ない。
    ただし、「奉祈庚申供養延命所」とある銘文は長生を求める庚申祈願の本質をあらわしてい
   る塔として珍しいものといえよう。
    万治元年は改刻したものか、また、何の必要があって改刻したのかなど問題が残るが、この
   点は後日の課題としたい。と記している。
 白泉寺をもって本日の見学を終了し、都営地下鉄の西巣鴨駅から新年会の会場に向う。会場は、会長の鈴木さんが経営する蓮根の邑である。総会を開き役員改選・会計報告・今年度の予定などを決め後は懇親会となる。見学会にはみえなかった徳家徳治さん、道を間違えて遅れた小林太郎さんも総会に参加する。栗田さんが撮られた馬頭観音の写真は、アルバム3冊に及び、関東の広範囲にわたていて興味深いものがある。中山さんの拓本を張って披露される。『野仏』第20集(平成1年刊)所収
厚木行 ── 多摩石仏の会4月見学会 ──
平成2年4月22日(日曜日)は、多摩石仏の会の4月見学会で、厚木市内を関口渉さんの案内で廻る。小田急線本厚木駅改札口前に午前9時30分集合する。集ったのは、鈴木俊夫さん・林国蔵さん・山村弥五郎さん・多田治昭さんと女性の高橋ソヨさん・大野純子さん・武蔵関の山村さん、私を含めて総勢9名である。

 駅から第1見学地の厚木町に向かう。関口さんから、青果市場にある双体道祖神の所在地を見付けるために、移転先まで行って調べてという苦心談を聞きながら厚木町1番にある木祠に着く。祠内には
   道1 年不明 柱状型 双体道祖神             51×31が安置されている。祠には「道祖神」の木札が立っている。文中に「合祀の石造物は室町時代のもので年代等不祥である」とあるのは、宝篋印塔の残欠であろう。年代が不祥で室町時代の作と書くのはおかしのではないか。「年代等不祥であるが、室町時代の作と推定される」というのであろう。次いで同町の厚木神社を訪ねる。境内には
   庚2 年不明(笠付型)「奉供養3王大権現」        97×39が倒れて埋まっている。寛文期の造立であろう。上部に猿の陽刻があったと思われる。高橋さんから柏餅の差入れがあり、皆で賞味する。
 厚木神社から東町を抜け、元町8番にある武田稲荷に向かう。稲荷は、青木氏宅の一隅にある。そこには石祠の他に
   地1 天保4 柱状型  地天               78×31×31がみられる。地天像は、右手に矛、左手に鉢を執る武装天部形である。
 松枝1丁目の日吉神社は、社殿には、赤い顔の猿の木像が安置してある。境内には
   庚2 年不明(笠付型)「庚申供養塔」三猿         69×32×28
   地2 天保15 自然石 「堅牢大地神」          141×55が並んでいる。近くの小鮎川の土手通り沿いには
   庚3 天明8 柱状型 「庚申塔」             72×27×28がある。「此方 いゝ山ミち」「此方 おきのミち」「此方 ほしのやミち」と本体の3面に道標銘を刻む。立札によると移動した塔である。
 小鮎川に架かる堺橋を渡り、左に折れて川沿いに歩くと、妻田南1の1に
   道2 文政6 光背型 双体道祖神             39×27がある。そこから妻田の妻田神社に向かう。神社の境内には
   道3 元治2 柱状型 「道祖神」             57×21×20
   庚4 享保1 灯 篭 「奉納柳大明神庚申供養」      66×22×22が見られる。庚4の竿石に刻まれた「柳大明神」とは妻田神社のことである。この頃から雨が降り出してくる。次いで妻田薬師を訪ね、裏手にある
   庚5 寛文8 流造型 一像・三猿             47×40×40を見る。右側面に線彫りされた立像が何か不明である。石祠の総高は103センチ。薬師の境内には
   庚6 寛政9 柱状型 「庚申塔」             63×27×23
   道4 昭和5 駒 型 「道祖神」             38×22がある。お堂の前で昼食をとる。雨が強くなったので1時間ほど足止めになる。工事で車両通行止めになった下小鮎橋の近く川沿いに
   道5 年不明 光背型 双体道祖神「道祖神」        49×30が立っている。台石に「道祖神」の文字が刻まれている。
 下小鮎橋を渡り、林に入って清川厚木線を歩く。交差点の近くの路傍に
   道6 年不明 柱状型 双体道祖神             60×26×22があり、林公民館前には拱手の単体像が見られる。道祖神かどうか。林交差点には
   庚7 享和2 柱状型 「庚申塔」             82×31×28が立つ。右側面に「南かすや 北おきの道」、左側面に「東あつき道」の道標銘を刻む。その先の路傍に
   道7 年不明 自然石 「道祖神」             58×26
   道8 寛政10 柱状型 双体道祖神             61×28×21が並んでいる。の背後の丘に
   庚8 年不明 流造型 三猿                40×40×36があり、石祠の中には懸仏が安置されている。懸仏は、直径が23センチほどで、上部に弥陀定印の坐像、下部に向かい合せの2猿がある。右上に「庚申供養 相州愛甲郡毛利荘林」、中央下部に「願主 伊右門(等4名)」、左上に「大工 荻野木〓 干時寛永九壬申正月吉日」の銘文が見られる。今日一番の目玉である。石祠の総高は94センチ。
 林から戸室へ出て、子之神社にを訪ねる。境内には
   道9 年不明 光背型 (上欠)双体道祖神         27×23
   道10 年不明 光背型 (上欠)双体道祖神         31×30
   道11 年不明 光背型 双体道祖神             48×26の3基が並んでいる。道11には、像の右に「奉納道祖神」とあり、下部に「上戸室」の地銘が刻まれている。
 子の神社から最後の見学地である恩名の興福寺を尋ね、
  道12 文久4 五輪塔 「道祖神」             総高78を見る。五輪塔の地輪の正面には「道祖神」とあり、右側面には「恩名村上 子供中」、左側面には「文久四甲子年 正月十□□ 願主 溝呂木右□□ 高橋七左エ門」と刻まれている。道祖神としては珍しい形態である。
 恩名から小田急の本厚木駅に向かう。駅前で解散し、皆と別れてから鈴木俊夫さんと中央図書館に行く。郷土資料を調べると『県央史談』の14号と15号に気になる論考が載っている。その論考というのは、北村精一氏の「山王信仰」(14号)と鈴村茂氏の「県央地区の石造物」(15号)である。さっそくコピーを依頼する。

 本厚木駅から帰りの車中で北村氏のコピーを読むと、妻田薬師の梵鐘に「庚申供養」銘がある。雨宿りで約1時間いたのだから、梵鐘の銘文を確かめればよかった。といっても後の祭である。

[付記] 厚木市内の石仏については厚木市教育委員会が昭和47年2月1日に発行した『野だちの石造物』に詳しい。庚申塔は141基の調査資料が記載されており、林や妻田の庚申石祠にも触れている。同書によると、厚木神社の塔(庚1)は寛文9年7月の造立である。つまた薬師裏の石祠に「庚申供養 山王権現」の銘文が刻まれていつと報告されているが、私は見落としている。なお、道祖神は奉納物を加えて208基、地神塔は15基の調査資料が載っている。
 また、横田甲一さんが『庚申』68号(昭和49年7月刊)に「厚木市内の庚申懸仏と庚申石祠」を、同誌74号(昭和52年5月刊)に「厚木市中戸田八幡社の山王塔」を書かれている。68号では横田さんは、林の庚申懸仏に触れて「現在は、山王神社として、寛文9年造立の庚申石祠の祀られている」と述べている。ここの石祠の造立年代を見逃している。

                            『野仏』第21集(平成2年刊)所収
平成3年例会記録
 昭和62年以降、私の興味は、石仏から獅子舞に移った。石仏巡りは、年間8日ほど、本会や庚申懇話会の見学会に参加する位である。単独で石仏調査を行うことは、ほとんどない。
 石仏見学会に出席した時には、従来から日誌を書いていた。ここに示したものも今年3回の見学会で歩いた時の記録である。こうして報告も発表しておくと、何かの参考になるだろう。

 ○正月例会 練馬の石仏
 平成3年1月20日(日曜日)は、新年会である。午前9時30分、西武新宿線上石神井駅西口に集合する。新年の例会は、恒例によって午前中は見学会、午後は総会と新年会を行う。見学会は、山村弥5郎さんの案内で練馬区内の庚申塔を主体にして廻る。参加したのは、林国蔵・藤井正三・明石延男・川端信一・関口渉・犬飼康祐・県敏夫・多田治昭の諸氏である。
 見学の最初は、山村さんから戴いた「練馬区の石仏と新年宴会」のリストには載っていない、上石神井1丁目3番角の路傍にある木祠に安置された
   1 宝永2 板駒型 日月・青面金剛・三猿        102×計測不可である。祠の扉が閉ざされているので、狭い格子の間から手を入れて塔高を計る。青面金剛の刻像に「奉造立南無帝釈天王」の銘文が刻まれているのが目を引く。次いで近くの立野橋交差点角(上石神井1丁目11番)にある
   2 宝永1 板駒型 日月・青面金剛・三猿        108×44×32を見る。これには「奉造立庚申供養尊像1基願望成就所」の銘文で、1の塔とは造立が1年の違いで「庚申供養尊像」と「帝釈天王」の差がある。願主や講中、あるいは指導者の信仰が異なるのかもしれない。この塔も、1の塔と同様に木祠の中に安置されている。
 庚申通りを北上して石神井台に入り、4丁目9番にある智福寺を尋ねる。ここには
   3 年代不明 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿  63×36が墓地の入口にある無縁塔の中に建っている。彫りはリアルでよいが、主尊の顔が欠けているのが惜しまれる。年銘が見当たらないけれども、下部の三猿の姿態が変わっているから、造立の年代は下るだろう。
 同じ石神井台4丁目4番にある墓地は、中央が土を盛った塚になっている。その塚の上には
   4 元禄5 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿・蓮華   93×38×27が立っている。二鶏は両側面に、蓮華は台石に浮彫りされる。今日は光線の具合がよいので、写真には適している。ただバックの建物が気にかかる。
 石神井1丁目15番の三宝寺を訪れ、境内にある
   5 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・二鶏・三猿     103×50を見てから、勝海舟ゆかりの長屋門の前に立つ
   6 元禄13 板駒型 日月・青面金剛・三猿        118×47を調べる。5と6の塔共に合掌6手の立像であるが、上方手の左手の持物に違いがある。5の主尊は蛇、6のは宝輪を持つ。
 道場寺の三重塔を左手に見ながら進み、練馬区立上石神井図書館(石神井台1丁目16番31号)に向かう。図書館の庭には
   7 明和2 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿   79×40×21
   8 天保12 駒 型 日月「庚申塔」            65×27×17
   9 元禄16 板駒型 日月・青面金剛・三猿        109×47
   10 文政1 駒 型 駒 型 「ウーン 奉造立青面金剛心願成就所」61×31×19の4示されている。これまで見てきた6基の青面金剛は、合掌6手像であったが、7の塔は剣人6手像、9の塔は合掌8手像である。9には「武州徳丸村」の地銘が刻まれいるから、現在の板橋区徳丸からここに移動されたものであろう。図書館の地階には、練馬区郷土資料室が設けられている。そこの入口に
   11 享保16 笠付型 日月・青面金剛・2鬼・二鶏・三猿  66×30×20が展示され、次の
    この庚申塔は、もと清瀬道と新井薬師道との交差点、豊玉北五の七望月宅にあった。望月氏
   の移転と共に石神井町八の四二に移り、昭和五十九年四月区外への再移転に際し、資料室へ寄
   託された。の文が記された解説板がみられる。館内には
   12 長享2 板 碑 天蓋「マン 庚申待供養結衆」    (計測不可)が展示されている。かつて「最古の庚申板碑」であった説明も、文明年間の2基が発見された現在では「3番目」に書き改められている。
 下石神井5丁目7番の路傍の木祠には、珍しい丸彫りの青面金剛が安置されている。
   13 享保13 丸 彫 青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     100×47×29がそれである。次いで天祖神社(下石神井6丁目1番)を尋ね、境内にある
   14 延宝2 笠付型 日月「(六種子)」二鶏・三猿    113×45×33を見る。隣には上部に勢至菩薩座像を置く、文化十三年の「廿3夜供養」塔(80×35×22)がある。最後は、下石神井1丁目9番の路傍にある
   15 元禄13 光背型 日月・青面金剛・一鬼・三猿     102×45である。剣人6手像であるが、ショケラというよりは髪の長い首というべきだろう。ここの見学を最後に総会と新年会を行う四宮区民集会所に向かう。
 午後は、四宮区民集会所に直行した徳家徳治・中山正義・福島茂の3氏を加えて総会を開く。総会では、会計報告・役員改選・毎月の例会の責任者などの議事を決める。
 総会の後は、山村さんの奈良の石仏、犬飼さんの十王・奪衣婆などのスライドを映写する。これまでに十王や奪衣婆などを見てきたが、このように各地ある石仏を一覧して見ると、それぞれに地方差があって、変化に富んで楽しめる。スライドの後は、石仏を話題に自由に懇談して時を過ごす。見学会の歩きながらの話し合いも貴重であるが、新年会以外にこのような自由な懇談の時間を持てないのが残念である。

 ○3月例会 青梅石仏散歩
 平成3年3月10日(日)は3月例会である。午前9時30分にJR青梅線青梅駅改札口に集合、私が案内をする。集まったのは林国蔵、山村弥五郎、明石延男、林一夫、関口渉、大野純子、福島茂多田治昭の諸氏である。
 新年総会で決めたように昭和4六年に発行された『多摩石仏散歩』を現状に合うように改定するために、今年の見学会は、この本のコ−スに沿って行われている。しかし、青梅のコ−スは、秩父鎌倉道に沿うものであり、上成木を出発して松の木峠や榎峠を越え、軍畑に出て二俣尾、柚木、梅郷を経て日向和田に至る。上成木行きの都バスは運転の本数が少なく、適当な時間のものがない。それに、そのコ−スでは、石仏に面白味がない。そうしたわけで、私は青梅の別のコ−スを企画した。
 先ず青梅駅から仲町の英稲荷に向かう。境内にある2基の水神塔を見るためである。いずれも自然石の塔で、表に「水神」の主銘が刻まれている。手前の塔は、昭和9年11月の造立で、台石の正面に「井戸仲間連名」とあり、「大津吉太郎」ら17人の名が連記されている。かつて織物組合の裏の井戸の傍らにあった。青梅の水道は、昭和3年に敷設されているが、昭和8年末の水道普及率は48パ−セントであった、という。そうした時代に水神塔が建てられている。水神塔のあった場所には、現在では家が建っており、昔を偲ぶよすがもない。
 奥の塔は、明治38年2月に建っている。台石には、「旧井戸仲間」とあり、「広瀬吾三郎」など20人の名前が見られる。この塔の所在地は、記憶にない。2基の塔とも、上下水道が完備した現在では、忘れられたように神社の境内に残されている。
 昭和8年の水神塔の旧在地を見てから、青梅線の踏切を渡って梅岩寺に向かう。境内の桜の前にある七観音塔を見る。「普門品十五萬巻」と刻む台石の上にのる文化14年の塔である。台石を重ねて高い位置に浮き彫り像があるから、写真が撮りにくい。4月の第2日曜の頃なら、バックにある枝垂れ桜が満開で石仏の風景も違う。
 近くの8幡神社に寄って、軍服姿を描く絵馬を見る。泥絵具の色が褪せて、時代の変化を感じさせる。梅岩寺の境内にある第1番から始まる西国三十三観音霊場の写しは、裏山を廻り、再び境内に戻るように石塔が配置されている。神社の右手の高台には、その33番目の結願の石塔が建っている。順路の一部が通れなくなっているのが惜しまれる。
 第一小学校の脇から永山公園に登り、忠魂碑の裏手にある疱瘡神の前に出る。板状の自然石の正面中央に「疱瘡神」の主銘、裏面に「願主 當町 山崎利八」の施主銘が刻まれている。現在では、疱瘡が厄病神と恐れられることもなく、したがって疱瘡神塔の所在も忘れられている。
 金毘羅神社の境内には、十二角柱の道標がある。上部には子から亥までの十二支の方角が示され、側面にはそれぞれの方向にある山や川の名などと青梅からの里程が漢文で記されている。近くには妙見の自然石文字塔を置く亀趺がある。
 林間道路(ハイキング道路)を西に向かい、村雨伝説が伝わる村雨橋にいたる。寂蓮法師がこの辺りで百人一首にある「村雨の露もまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕暮れ」を詠んだ、という伝承が残っている。なおも西に向かい、第3休憩所の入口に出る。倒れた木の根本に石が転がっている。表面に「大山祇神」、裏面に「天保三壬辰年正月吉日 裏宿世ハ人」の銘文が刻まれている。山の神の石塔である。気をつけないと、見逃してしまう。
 これまで見てきた水神、疱瘡神、山の神の石塔については、『多摩のあゆみ』の36号(昭和59年刊)に「忘れられた石塔」の題で発表している。詳しいことは、同誌を参照していただきたい。当日の参加者には、このコピーを参考資料として手渡した。
 裏宿の山の神から矢倉台の休憩所までハイキングを楽しむ。車の心配はないし、土の道を歩く楽しさがある。アレルギ−症の山村さんや多田さんにとっては、杉花粉に悩まされたのが難点であった。このコ−スは、若葉の頃が一層快適である。見晴らしの良い矢倉台の休憩所で昼食をとる。のんびりしたペ−スで歩いた。
 昼食後、山を下って宮の平駅に出て、臨川庭園に向かう。津雲国利元代議士の別邸のあった場所である。あまり人に知られていないので、日曜日にもかかわらず庭園には人影がなく、静かなたたずまいである。庭内にある、万治の年銘を刻む聖観音の石仏の彫りが良い。紅白の梅の花が満開で香りが満ちている。川寄りから多摩川を眺めると、魚釣り楽しむ人が見える。
 半日、庚申塔を見ない見学会も珍しい。日向和田は裏道を通り、青梅街道に出て裏宿の七兵衛公園に向かう。公園は、7兵衛の屋敷跡という。街道に面して、
   1 宝永1 笠付型 日月・青面金剛・三猿がある。横に3面の馬頭観音立像や台石に「二十三夜供養」の銘がある勢至菩薩座像が並んでいる。勢至の首は欠けて失われたらしく、現在は地蔵の頭が置かれて一見すると地蔵と思ってしまう。おそらく台石の銘文がなかったら、地蔵と判断するだろう。庚申塔を見て、やっと石仏見学会の気分になってきた。それらの石仏の東には、1基の自然石塔が建っている。青梅唯1の文字道祖神である。造立年代は不明。
 公園から街道を避けて裏道を通り、天ケ瀬の金剛寺に行く。裏門の近くにある
   2 元文3 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿を見る。「寒念仏供養」の銘が入っている。青梅には、寒念仏と関係のある庚申塔が元禄4年から嘉永2年まで、この塔を含めて4基ある。墓地には寛文の寒念仏供養塔が見られる。この種の江戸時代の塔では、最も古いものの一つである。住職の墓地には、金剛界と胎蔵界の大日如来丸彫り座像がある。高台にある前住の墓地には、2人の童子を膝に置く丸彫りの地蔵座像が安置されている。
 金剛寺の近くの天ケ瀬の路傍には、2基の庚申塔が見られる。道より1段高い所に
   3 明和3 笠付型 日月・青面金剛・三猿
   4 文政2 自然石 「庚申塔」が並んでいる。文字塔の年銘に「文政二屠維単閼九月日」とある。「屠維(とい)」は十干の「己」の異称、「単閼(たんあつ)」は十二支の「卯」の異名であるから「屠維単閼」は「己卯」を現す。
 前の週に時間があったら家を尋ねると、徳家徳治さんと約束していた。少し大廻りになるが、庚申塔が邸内にある藤田別荘の前を通る。門の扉が閉まっていたので、見学できない。大柳の徳家さんの家に寄り、本を見せていただいた上にコ−ヒ−をご馳走になる。
 「大柳不動」の別名を持つ清宝院を訪ねる。後で廻る宗建寺や延命寺と共に、青梅七福神の一つである。境内にある聖徳太子の孝養像、吉祥天と善膩師童子を脇侍とする毘沙門天三尊、役行者と理源大師(聖宝)を配した線彫りの不動明王座像、大黒天などを見る。矜羯羅と制托迦を脇侍とする不動三尊種子を刻んだ石塔は、場所を移動している。
 天ケ瀬の東光寺は省略して、滝の上の常保寺に行く。後で廻る宗建寺や延命寺と共に、臨済宗建長寺派の寺である。山門前にある丸彫りの如意輪観音が目印である。境内には
   5 宝永6 笠付型 日月・青面金剛・三猿・蓮華が見られる。上部に馬を浮き彫りにした馬頭観音や背面に「南無妙法蓮華経」の題目を刻む丸彫りの石猫がある。山門右手の祠には、倶利迦羅不動の石像が安置されている。
 裏道を抜けて千ケ瀬の宗建寺に向かう。今日の目玉は
   6 文化9 雑 型 日月・青面金剛・2鬼・二鶏・三猿である。これまで見てきた青面金剛は、胸の前の第1手が合掌した合掌6手の立像である。ここの像は、それとは異なって第1手に宝剣とショケラ(人身)を持つ剣人6手の立像である。塔形は月輪塔で、庚申塔の分類では雑型に属す。台石に浮き彫りされた三猿の姿態も変わっている。烏帽子をかぶり、狩衣を着て手に持った扇子で口や耳や目を塞いでいる。私は、この種の三猿を「扇子型」と呼んでいる。多摩地方では青梅に3基、五日市と小平に各1基分布している。
 住江町の延命寺に寄り、笹の門地蔵などを見る。庫裡にある乾闥婆は省略する。遠廻りして、青梅と西分の境にある笹の門を経て住吉神社に行く。石段下には
  5 年不明 自然石 「猿田彦大神」がある。ここから裏道を通って青梅駅に出て解散する。
 午前中をのんびりと3基の忘れら去られた石塔を廻り、山道をハイキング気分で過ごした。午後は、いくらか通常の見学会に戻ったものの、いつもとは違った例会で、こうした石仏の楽しみかたもある、という見本となった。
 青梅市街地の石仏見学コ−スは、『青梅市の石仏』では、東青梅駅を起点に、勝沼、西分、青梅、千ケ瀬を経て青梅駅に至るものを挙げている。庚申懇話会編の『石仏の旅 東日本編』では、「青梅の石仏」の題名で英稲荷、梅岸寺、金剛寺、清宝院、常保寺、宗建寺、延命寺、住吉神社を廻るコ−スを書いている。また、『多摩のあゆみ』の25号に「多摩石仏散歩 青梅市街」でもほぼ同様な順路を紹介している。いずれかを参照していただければ、一層詳しく分かると思う。

 ○5月例会 多摩市の石仏
 多摩石仏の会5月例会は、5月12日(日曜日)に犬飼康祐さんの案内で多摩市内の石仏を廻る。京王線聖蹟桜ケ丘駅の改札口前に午前9時30分集合である。
 分倍河原駅で京王線に乗換える時にうっかりし、いつも利用している上りホームで急行電車に乗ってしまった。間違いに気付いたのが調布駅を過ぎてからで、千歳烏山駅で折り返して聖蹟桜ケ丘駅に向かう。集合場所に着いたのは9時45分、すでに出発した後である。
 今日のコースを想定して関戸に向かい、霞ケ関の地蔵堂で一行に追いつく。参加したのは、案内の犬飼康祐さんを始め、鈴木俊夫・林国蔵・明石延男・福島茂・多田治昭・大野純子・遠藤塩子さんである。犬飼さんからは今日の見学コース地図と石仏一覧表、鈴木さんからは『東京都の庚申塔 第1集 江東区』をいただく。
 大栗橋から旧・鎌倉街道に入ったが、辺りの景観が変わっていて初めて歩くような感じがする。地蔵堂で寛政元年の永代融通念仏塔を見てから、次は塚の上に祀られた小祠にいく。分倍河原の合戦で戦死した横溝八郎の墓と伝えらる。次で見学したのは、街道沿いの石垣の上にある文字庚申である。
   1 寛文13 笠付型 日月「奉待庚申之人族7人」二鶏・三猿 109×37
 二鶏と三猿を浮彫りしながら、「申三疋鶏二羽」の銘文を刻んでいるところが面白い。多摩市最古の庚申塔である。塔そのものは、昭和39年に調べた時から見ると風化したのか、いくぶん銘文が読みにくい。この辺りは、まだ昔の面影を残している。
 駐車場の木祠の中にある板碑、観音寺前の六観音、寺の境内にある持経観音などを廻ってから、熊野神社にある
   2 寛政8 柱状型 「庚申塔」
   3 寛保3 光背型 日月・青面金剛・三猿を見る。2の主銘と台石正面の「3匹猿」は、篆書体で刻まれている。三猿を浮彫りする代わりに、日野市を中心としてこの塔のように三猿の文字化が見られる。範囲は、あまり広くはないが、多摩の庚申塔の特徴の一つにあげられる。
 貝取に入って鎌倉街道をはずれて進むと、市役所の手前の高みに
   4 年不明 板駒型 日月・青面金剛・二鶏・三猿      80×36がある。下部の施主銘の始めに「西念寺」がみえる。
 市役所を過ぎ、鎌倉街道を横切って永田橋のたもとに出る。橋の手前の地蔵堂の中に
   5 享保12 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿   58×32×24がある。主尊は剣人6手の立像である。両側面には蓮華が浮彫りされている。
 乞田川に沿って進み、新大橋を渡って貝取の麦花塚に出る。ここには、阿弥陀や地蔵などの石仏に混じって
   6 宝永2 光背型 日月・青面金剛・三猿         54×32がみられる。先刻見た乞田の享保12年塔と違って合掌6手の立像である。永田橋の地蔵堂の辺りから降り出した雨がいくぶん強くなってきたので先を急ぐ。
 乞田の釜沼橋から北に向かい、ニュータウン通りの北にある道に出る。高みには、石仏が集められていて、その中に
   7 享保7 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿   97×48がある。ここには、弘化4年の「土公神」自然石塔(80×44)がみられる。
 釜沼橋のバス停から多摩センター駅行きのバスに乗り、北落合小学校前で下車、落合・白山神社に向かう。ここには、先ほど見た乞田と同じ「土公神」自然石塔(86×39)がある。安政5年に造立された。多摩地方で「土公神」の塔が見られるのは、多摩市の2基(乞田と落合)だけである。拝殿の軒下で雨を避けての昼食をとる。
 午後は、雨のために予定のコースを短縮して落合・唐木田に向かう。途中の落合・2反田の秋葉神社に寄り
   8 寛政11 柱状型 「庚申塔」三猿            56×25×16を見る。関戸の寛保3年塔、乞田の享保7年塔などと共に三猿の姿態が変わっている。
 小田急多摩線唐木田駅を過ぎて榎戸の共同墓地に行く。ここには、関戸で見た永代融通念仏塔より2年後の寛政3年に建てられた塔がある。ここから唐木田の稲荷神社に出る。稲荷神社の境内には
   9 寛政12 柱状型 日月・青面金剛・三猿が建っている。この青面金剛は、日月を捧げる万歳型の合掌6手立像で、上方2手は、前に拡げた掌に何も持っていない。
 境内にある木祠の中には、年不明の双体道祖神や陽物の「魂勢宮」が安置されている。初めてここを訪れた昭和39年5月25日には、盗難にあった初代の魂勢宮(陽物)が木の根元にあり、道祖神も庚申塔も青空のもと草の茂みの中に並んでいたのである。昭和53年11月12日には木祠の中の双体道祖神を持ち出して、丘陵をバックに写真を撮ったのを覚えている。現状の景観とは異なっているものの、当時の道祖神や青面金剛の記憶は残っている。木祠の中に置かれた
   10 宝永5 光背型 「奉待庚申供養」三猿         50×26は、昭和53年のころには10と共に前の木祠に入っていた。
 唐木田駅前で解散、犬飼さんと大野さんと共にさらに石仏を巡る。落合の稲荷前では、安政2年の柱状型「道祖神」(46×19×14)と
   11 元禄2 光背型 日月「奉供養庚申為2世安楽」三猿   49×28をみる。塔を見ていると熟年の男性が話かけてきた。ここの塞の神(せいのかみ)は、正月14日の夕方に行われる。現在は「ドンド焼き」とも呼ばれている、という。この方の話では、今でも落合の5カ所で塞の神が行われるが、その中でも稲荷下が一番昔に近い形を続けているそうである。
 落合・山王下集会所の地蔵を見てから、落合・椚田にある8坂神社に行く。参道には六地蔵が3組(推定)の他に観音や馬頭がある。それらに混じって安政3年の柱状型「道祖神」(48×22×15)や
   12 享保5 光背型 日月・青面金剛・二鶏・三猿      59×31がみられる。主尊は、合掌6手の立像である。多摩センター駅に出て、京王相模原線・橋本経由で帰途につく。                       『野仏』第22集(平成3年刊)所収
 
西多摩石仏散歩
 石仏を追って歩くのは楽しい。と同時にいろいろな事柄にも眼を向けて、石仏を幅広く観るとなお楽しくなる。石仏を単に表面からだけでなくて、その背後にある信仰がどのようなものであったのか、また造立当時の時代はどのような時代であったのか、などを考えながら観ると今までとは違った面の石仏を知るだろう。
 そうした点もふまえて西多摩のうち瑞穂町、青梅市、奥多摩町、檜原村に石仏散歩のコースを設定した。ここでは単に石仏を見て歩くだけではなく、各々のコースでは信仰の講や郷土芸能に触れ、さらには博物館や郷土資料館、美術館、記念館なども含めておいた。

 ○ 1 百庚申巡礼記を追って
 『狭山の栞』の著者である杉本林志翁は、56歳の明治2年3月に同行2人と共に、狭山嶺を中心として散在する百余基の庚申塔を巡礼し、その折りの記録を残した。後年、曽孫の杉本寛1氏は、翁の遺稿として「百庚申巡礼記」を『多麻史談』の創刊号と2巻1号に発表された。ここでは、林志翁が記された「百庚申巡礼記」(以下、略して「巡礼記」という)を対照しながら瑞穂町の庚申塔をみていく。
 このコースは殿ケ谷を起点として瑞穂町内にある庚申塔を中心に石仏を巡る。JR立川駅前にある2番バス乗り場から立川バスの箱根ケ崎駅行きに乗ると、30分ほどで「殿ケ谷」のバス停に着く。ここから石仏散歩にでかける。バスを降たら進行方向に進むと十字路があるから、左(南)へ折れて新青梅街道に向かう。〔ダルマ屋〕
 残堀川手前の右手には、ダルマ屋の山崎平8さんのお宅がある。11、12の両月はダルマ造りの最盛期、3月ころも暇をみてはダルマを造っている。瑞穂町には、ダルマを作る家が5軒みられる。箱根ケ崎の根岸利夫さんと会田光雄さん、石畑の内野雅夫さん、殿ケ谷のこのお宅と親戚筋の山崎武一さんである。多摩地方の他の市町村をみると、立川市砂川町の村野昭次さん、秋川市小川の椚八郎さん、青梅市梅郷の藤野和治さんがいる。八王子市高月町の沢井さんは近年に止めたという。
 明治生まれの山崎てるさんのお話によると、元日の原山(武蔵村山市)の神明神社の市から2日の拝島大師、3日の川越大師、10日の五日市、12日の青梅、14日の野田(入間市)の弁天、28日の高幡不動、3月1日と4月1日の田無、3月3日の深大寺、3月21日の北野天神(所沢市)、終いの5月1日の今井(青梅市)の荒神さんなどの市に出て1家で造ったダルマを売っている、という。〔一本榎の塔〕
 山崎さんのお宅からさらに南に進み、新青梅街道の瑞穂殿ケ谷の交差点を横切って行くと、大きな榎の下に庚申塔が建っている。巡礼記の「第二十四番 殿ケ谷村原榎下四面塔 文化十酉九月」である。正面の上部に日月と瑞雲を浮彫りし、中央に「庚申塔」の主銘、右側面に「文化十(1813)癸酉歳九月吉日」、左側面に「武州多摩郡邑山郷殿ケ谷村」と刻まれている。瑞穂町役場から昭和47年に発行された瑞穂町文化財調査報告書『石造文化財』に、町内の石仏が記録されて参考になる。この塔は、報告書の(2)である。報告書と対照できるように、以下、庚申塔の番号を巡礼記の末尾に示しておく。〔二本榎跡の塔〕
 庚申塔の右手の裏道を進み、新青梅街道の瑞穂石畑の交差点を北に渡り、斜めの道を日光街道に向かって行く。少し進んだ右手に「二本榎跡」と記された白い標識があり、近くに自然石の石塔が建っている。それが巡礼記の「第二十五番 同所上榎下岩石下三組 寛政二寅二月 (8)」である。巡礼記に記された年銘は誤りで「庚申塔」の主銘の左右には「寛政六(1794)甲寅年」と「二月吉祥日」の年銘、下に「武州多摩郡邑山」「石畑村下三組中」の地銘と施主銘とが刻まれている。〔箱根ケ崎・円福寺〕
 瑞穂第一小学校の裏手を通り、旧日光街道まで出る。道を右に折れて進めば青梅街道にぶつかる。左(西)に青梅方向へ向かうと、右手に円福寺の入口がある。寺の山門前には平成3年3月にできた丸彫りの六地蔵が並び、出迎えてくれる。
 その奥、山門の右手には庚申塔が建っている。巡礼記の「第三十番 箱根ケ崎角屋の前 寛政2戌春箱根ケ崎講中 (12)」がそれである。明治初年には「角屋の前」とあるから、青梅街道か日光街道沿いにあったものをいつのころか円福寺に移されたものであろう。塔の右側面には「維時寛政第二(1790)龍集庚戌季春穀旦」、正面には「庚申塔」、その左右には小さな字で「天下泰平」と「国土安全」、左側面には「武州多磨郡箱根ケ崎村講中」とあり、台石の正面に「左 ちゝ婦道」の道標銘が刻まれている。
 庚申塔の向かいには、寛政8年(1796)の万霊塔があり、左右の側面に「寳印地蔵大士 鶏兜地蔵大士 地持地蔵大士」「法性地蔵大士 陀羅尼地蔵大士 寳陵地蔵大士」と文字で六地蔵を示している。境内には、元治2年(1865)の百万遍供養塔がある。 本堂前に建っている8角柱の幢身の正面に「報恩謝徳」と刻む石幢は、昭和62年に開山四百年を記念して建てられたもので、龕部の4面に四天王が浮彫りされている。幢身には、寄付した金額と氏名が刻まれている。〔Y字路の塔〕
 青梅街道を旧日光街道の交差点まで戻って左に折れて北の方向に進む。Y字路にある火の見櫓の下には、丸彫りの地蔵と邪鬼を踏まえて立っている青面金剛の石仏が並んでいる。地蔵は正徳5年(1715)の建立であるが、庚申塔は造立の年代がわからない。巡礼記には三十番の後に「是より福田屋の前迄下り直路入」あり、林志翁はこの庚申塔には気付かずに石畑の大日山入口にある三十一番塔に向かっている。〔石畑・愛宕地蔵〕
 Y字路を少し戻って左に折れ、突き当たりを右に進めば左手に「六道山に至るお伊勢山遊歩道」の標識が立っている。坂道を登ってお伊勢山運動公園の北側を通り、配水所の前に出る。東側に光背型の石塔がみられ、中央には地蔵の立像が浮彫りされている。像の右には「愛宕山石為供養地蔵建立施主」、左には「元禄十一(1698)戊寅十一月吉日 石畑ケ村五十軒」の銘文が彫られている。愛宕山は、火防せの神で、本地仏は勝軍地蔵である。〔六道の大辻〕
 アップダウンしながら大多摩ウォキングトレイルの山道を進むと、高根の一等三角点の前に出る。坂を下ると石畑と高根を結ぶ道路になるから右(南の石畑方向)に進み、ヘンスの切れた辺りで道を横切って坂道を登ると六道山の大辻に出る。
 石畑配水所の前には、大木を背に庚申塔が建っている。「第三十四番 同所大辻石畑村下組講中文化十年酉四月 (10)」と巡礼記に記されたものである。塔の正面上部に日月瑞雲を浮彫りし、中央には「庚申塔」の主銘、右側面に「文化十年(1813)歳在癸酉四月」、左側面に「武州多摩郡石畑村下組講中」とある。六道山の大辻にあるだけに台石の4面には、「東 登り岸 八王子道」「南 登り村内 五ケ市道」「西 高根 二本木道」「北 宮寺 川越道」と東西南北の4方向の道標銘が刻まれている。〔殿ケ谷・福正寺〕
 六道の大辻から公園東側の坂道を下ると途中に共同墓地があり、道に面して六地蔵が立っている。さらに坂道を下ると、左手の高台に大きな屋根が見える。殿ケ谷の福正寺(臨済宗)である。この屋根を目標に寺に向かうと、入口に六十六部の廻国供養塔と並んで青面金剛がみられる。巡礼記の「第二十7番 殿ケ谷戸寺の大門前人家後 (11)」の塔である。日月、二鶏、三猿が浮彫りされ、正面の左右に「庚申供養塔」と「享保三(1718)戊戌年八月如意珠日」の銘文が刻まれている。昭和40年ころは殿ケ谷1127番地にあったが、その後に寺の入口に移された。
 境内に入ると、本堂の西側の斜面に十六羅漢が安置されている。第1尊者の石像の手前に「十六大阿羅漢尊者」の石碑があり、羅漢の簡単な説明と造立の由来が記されている。十六羅漢の像は、禅月大師の描く『羅漢図讃集』を底本にして愛知県岡崎市の石工・石田栄1氏が彫刻した。これと同じ十六羅漢が日の出町平井・宝光寺にみられる。〔石畑の石仏〕
 福正寺から石畑に入り、山根沿いに進むと道路に面して石塔が立っている。「第二十六番 石畑村高札場四面塔 天保三辰年四月下三組中 (11)」である。塔の右側面に「天保三年(1832)歳舎壬辰四月穀旦」、正面に主銘の「庚申塔」、台石正面に「石畠村」「下三組」と2段に右横書き台石左側面に「世話人 清水傳兵衛」とある。この塔は、もと青梅街道沿いにあった。
 天保の塔の後ろにある祠には、造立年代が不明な馬頭観音像が安置されている。造りからみて現代の作であろう。小さいながら3面8手の立像で細部まで彫り込んでいる。
 その後方に「第二十八番 石畑村床場角 延享元年(1744)十月 (5)」と思われる青面金剛がある。磨滅がなはだしく、下部に一鬼と三猿が刻まれているのがわかる。もとは青梅街道の石畑のバス停前にあったものが移された。〔大日山遊歩道入口〕
 大日山墓地への登り口には、巡礼記に「第三十一番 石畑村山根六道へ登る坂下 文化元(1804)子4月石畑村中 (9)」と記された庚申塔がある。柱状型の塔で、正面の中央には合掌6手の青面金剛を浮彫りしている。この像には、輪後光がみられ、頭部にドクロがついている。上部には日月、下部には一鬼があり、台石に三猿が刻まれている。隣には嘉永5年(1852)の西国・坂東・秩父の百番供養塔が立っている。
 巡礼記では、この庚申塔の記述に続け「是より六道へ登るなり」とあって、ここから六道山に登っている。先に見た六道大辻の三十四番塔のと間に「第三十二番 六道墓所の先道左り仙元宮下三猿年号不分辰三月石畑村 (3)」と「第三十三番 同所の先道の左森の中玉川石丸庚申塚と言年号不分
 (7)」があるから、時間に余裕があれば、巡礼記に書かれた2基を探すのもよいだろう。三十二番塔の年号がわからないけれども、33番の塔は安永5年(1776)の造立である。〔石畑・吉野岳地蔵堂〕
 南に青梅街道の方向に向かい、御岳神社の前を通って街道に出ると、左手に石畑の吉野岳地蔵堂がみえる。堂内には、享保4年(1719)の丸彫り地蔵菩薩が安置されている。堂の東側には、街道に面して「第二十九番 同村上地蔵堂西道南 享保十三年申年二月上組中」の塔が建っている。駒型の塔の正面には、中央に合掌6手の青面金剛を浮彫りし、上部に日月、下部に一鬼と三猿を刻む。右側面に「享保十三(1728)戊申□月朔日」の年銘、台石には施主銘が刻まれている。
 地蔵堂の前は「瑞穂一小」のバス停になっているから、立川や昭島、田無方面行きに便利である。青梅方面には、道の反対側に都バスの停留所があるから利用できる。JR八高線箱根ケ崎駅に出るには、反対側にある立川バスのバス停から箱根ケ崎駅行きに乗るか、駅まで歩く。
 瑞穂町には、以上に挙げた外にも長岡、二本木、駒形富士山、高根、富士山栗原新田などに庚申塔がある。林志翁の記した巡礼記にも、町内の
   第四十九番 同所中通西の出口、天保十三(1842)寅九月村野喜太郎外四面塔石垣六尺四
         方上駒寄あり (24)
   第五十番  高根村福泉寺門前、安政二(1855)卯年三月宮寺郷高根村中 (27)
   第五十一番 二本木村上宿青梅街道十文字角、青面金剛神嘉永六(1853)未九月寄進上留
         村大野長5郎 (21)
   第五十二番 二本木村青梅街道上道角、享保七(1722)寅九月 (16)の4基が記載されている。これらの庚申塔は、瑞穂町役場発行の『石造文化財』に記録されているから、この本を参考に石仏散歩を楽しむのも面白い。
 ここでは、林志翁の「百庚申巡礼記」のうちで瑞穂町の塔を廻ったが、この記録には、東京都の東村山、東大和、武蔵村山、瑞穂の3市1町と埼玉県の所沢、入間両市にまたがる地域に点在する庚申塔が記載されているから、各市の庚申塔を廻りながら他の石仏を散歩することを考えてコースを設定すると興味がでる。

 ○ 2 青梅市街の石仏散歩
 多摩地方では、各地に石仏がみられるから点在する石仏を結んで石仏散歩のコースが無数に作れる。しかし短時間に石仏の変化に富む初心者向きのものといえば数が限られる。このコースは、JR青梅線青梅駅を起点に青梅の市街地にある英稲荷、梅岸寺、常保寺、大柳不動、金剛寺、宗建寺、延命寺、住吉神社などの社寺にある石仏を巡って青梅駅に戻る。3時間ほどで多くの種類の石仏が見られるのでお薦めしたいコースである。〔仲町・英稲荷〕
 駅前のパチンコ店の角を右に折れ、青梅線に沿って西に奥多摩方向に進む。やがて右手にある小さな神社の前に出る。仲町の英稲荷だ。境内には、自然石に「水神」と刻まれた石塔が2基みられる。社殿に近い奥の塔は明治38年(1905)2月の造立で、手前のは昭和9年11月の塔である。共に台石に建立の年月を刻み、奥のには「旧井戸仲間」とあり、手前のは「井戸仲間連名」とある。これらの水神塔は、かつて井戸の周辺にあって井戸神として祀られたのである。
 青梅町に上水道が敷設されたのは昭和3年、多摩地方では八王子市に次ぐ。昭和7年には、おりからの不況で水道は引いたけれども閉栓した家庭が91戸にものぼった。そこで青梅町では、給水料金の引き下げを断行し、工事費の割引きや料金の1カ月免除などの特典を与えて新規給水を計った。昭和8年末の水道普及率は48パーセントというから、この当時の半数以上の家では井戸水に頼っていたことになる。昭和9年には、従来の特典に加えて白米や布団綿などの景品付きで新規申込みの勧誘をしている。こうした時代背景のもとで手前にある神塔が建てられている。〔仲町・八幡神社〕
 青梅市立中央図書館の東側を北に入ると、角に七兵衛地蔵がある。中里介山の『大菩薩峠』に出てくる裏宿七兵衛ゆかりの地蔵である。地蔵裏の道を左に折れて進むと、右手に八幡神社入口がある。神社の拝殿には絵馬が奉納されているが、その内の1枚には軍服姿の男性が描かれていの眼をひく。社殿の右手上方には、西国第33番(滋賀・華厳寺)の写しの石碑がみられる。右手の細い山道を登ると、尾根には北向きの明治43年(1910)の弘法大師座像がある。〔仲町・梅岸寺〕
 梅岸寺は、八幡神社と地続きである。4月第2日曜日ころは境内にある青梅市の天然記念物に指定されている枝垂れ桜が見頃で、後で廻る金剛寺の枝垂れ桜と共に桜の名所として知られる。このころを見計らってお花見を兼ねた石仏散歩を計画するのも面白い。
 境内にはいろいろな石仏がみられる。天明5年(1785)の北向地蔵は現在も信仰されている。枝垂れ桜の近くにある木祠には昭和4年造立の六地蔵が安置され、閻魔堂横には奥多摩新四国八十八カ所第70番本山寺写しの馬頭観音と弘法大師が並んでいる。文化9年(1812)の千部供養塔や延享4年(1747)の寒念仏供養塔もみられる。
 この寺で見逃せないのが七観音である。千手、聖、馬頭、十一面、准提、不空羂索、如意輪の7種の観音を総称して「七観音」という。境内の西端に建つ「普門品十五萬巻」と彫られた角柱の上部に七観音の座像が置かれている。「普門品」は妙法蓮華経第二五品の「観世音菩薩普門品」の略称で、一般には「観音経」として知られている。この石仏の造立は、文化14年(1817)である。〔西国三十三番〕
 梅岸寺の境内を起点にして、裏山を一周して東隣の八幡神社までのコースに西国三十三番の観音霊場の写しの石碑が配置されている。山門の近くにある丸彫りの如意輪は、西国1番の和歌山・青岸渡寺本尊の写しである。この台石には、憲誉老師が西国観音霊場の参詣が容易でないのを憂え、自ら順拝して霊砂を持ちかえって西国の写しを造った由来が刻まれている。
 七観音脇の山道を登ると、所々に石碑が立っている。単に番数、国名、寺名、本尊や御詠歌を彫った文字だけのものもあるが、例えば5番(大阪・藤井寺)本尊写しの十一面千手観音陰刻像のように刻像を伴うのもある。中でも9番(奈良・南円堂)の不空羂索観音と十一番(京都・上醍醐寺)本尊の准提観音の陰刻像は、あまり眼に触れない観音だけに注意して観るとよい。
 ここの三十三所観音は、丸彫り像あり、浮彫り像あり、陰刻像や線彫り像ありで石刻の技法を知るのに都合がよい。線彫りを含めて陰刻像は、写真よりも拓本のほうがはっきりする。〔滝の上・常保寺〕
 青梅市民会館前の坂道を下って信号を左折すると常保寺である。青梅街道沿いにあるこの寺は、臨済宗建長寺派に属する。山門前にある如意輪観音の丸彫り像が目印となる。6手の輪王座像で彫りがよく、下から仰ぐ写角で撮ると1段と写真映りがよい。文化13年(1816)の建立である。
 境内には、青面金剛、地蔵、千部供養の層塔、六地蔵、馬頭観音などがみられる。背面に「南無妙法蓮華経」の題目を刻む丸彫りの石猫がある。墓地には寛政2年(1790)に建てられた市史跡の中原章の墓がある。
 山門右手の祠は、倶利迦羅不動が祀られている。地元では、この祠を「白滝さま」と呼んでいる。この倶利迦羅は、昔崖崩れにあって多摩川に沈んだ。今でもその辺りを不動淵と称しているが、寛政のころ(1789〜1800)に川から引き上げられて白滝の傍らに安置されたところから「白滝さま」の名が出たという。〔青梅市立美術館〕
 青梅街道を挟んで常保寺の斜向かいに青梅市立美術館がある。昭和59年に多摩地方最初の市立美術館として開館した。常設の展示のほかに企画展も行われる。館内には小島善太郎美術館が併設されている。館の裏にある喫茶室でコーヒーを飲みながら多摩川の風景を眺めて一息いれるのもよい。〔大柳・大柳不動〕
 真言宗醍醐派に属する本山修験の寺で、正式には「清宝院」と呼ぶが、一般には「大柳不動」の名で知られている。8月15日の火祭りには、境内で柴灯護摩が修せられる。
 この寺で見逃せないのが毘沙門天の石仏だ。尼藍婆と毘藍婆の2邪鬼の上に立つ毘沙門天に、脇侍として吉祥天と善膩師童子を配した3尊形式の石像である。童子の顔が欠けているのが惜しまれる。安政2年(1855)の作。
 境内には、不動明王、役行者、理源大師を線彫りした明治41年(1908)の石碑、大正14年(1925)の聖徳太子の孝養像、不動3尊種子を刻んだ石碑があり、不動明王や大黒天を祀った木祠がみられる。池の崖には、不動明王、制咤伽童子、矜羯羅童子が配置されている。〔森下・旧稲葉家住宅〕
 大柳不動の裏手に廻り、北に青梅街道に向かえば、上町に出る。この辺りから森下にかけての青梅街道沿いには、古い家並が残っている。森下の街道北側には土蔵造りの滝島家があり、その先にも昭和56年に都の有形民俗文化財に指定された土蔵造りの旧稲葉家住宅がある。稲葉家は、公開されているので時間が許せば見ておきたい町屋である。〔天ケ瀬・金剛寺〕
 梅岸寺と同じ真言宗豊山派の寺で、重要文化財の絹本着色如意輪観音画像や都天然記念物の梅を始めとし、都重宝7点、市重宝2点など指定文化財の宝庫である。境内の枝垂れ桜は、梅岸寺に劣らない見事なもので、桜の時期に訪れることをお薦めする。
 本堂の南側の木祠に奥多摩新四国54番の不動明王と弘法大師があり、奥に六地蔵の木祠がある。左手の石仏群には地蔵、青面金剛、聖観音などがみられ、本堂裏の墓地には阿弥陀如来、聖観音、如意輪観音、地蔵などの墓標石仏が散在する。
 本堂裏手の歴代住職の墓地には、金剛界と胎蔵界の丸彫り大日如来座像がある。忍者のように胸の前で指を握るのが智拳印の金剛界大日で、元禄3年(1690)の造立。腹の前で法界定印を組むのが胎蔵界大日で、元文元年(1736)の建立である。
 北側の高台にある墓地には、豊山派の管長を務めた57世杉本亮誉師の地蔵墓標石仏がある。地蔵の両手には、金剛寺と梅岸寺の先住の2人の息子兄弟(共に故人)といわれる子供2人がまつわりついている。昭和22年の造立で、台石には元豊山派管長の加藤精神師の造像由来の撰文が刻まれている。先の金剛界大日如来と共に写真映りのよい石仏だ。〔天ケ瀬の路傍〕
 金剛寺の門から南に進むと、十字路の角に石塔が並んでいる。青面金剛は日月と三猿を伴うもので明和3年(1766)造立、自然石の文字庚申塔は文政2年(1819)に寒念仏講中が建てた。この塔の年銘は「文政二屠維単閼九月日」と彫られている。「屠維」は「とい」で「己」を示し、「単閼」は「たんあつ」で「卯」の異名だから、「屠維単閼」で「己卯」年を表している。因みに「庚申」の異名は「上章□灘」で「じょうしょうとんたん」と読む。〔青梅市立郷土博物館〕
 多摩川に架かる柳淵橋を渡って郷土博物館に向かう。館の手前に昭和53年に国の重要文化財に指定された旧宮崎家住宅がある。広間型の間取りがよく残されていて、江戸時代の山間部の農家を知るのに貴重な建物といえる。先に見た旧稲葉家住宅の商家と比較すると、町屋と農家の違いがよくわかる。
 市立郷土博物館は昭和49年に開館した。常設展示を行っており、年に数回の特別展を開催する。入館は無料で、月曜日が休館である。館の前庭には石仏や力石、道標などが置かれている。館内では『青梅市の石仏』(昭和49年初版 昭和63年復刻)が2000円で販売されている。〔千ケ瀬・宗建寺〕
 常保寺と同じ臨済宗建長寺派に属する。墓地には、都旧跡に指定されている青梅の生んだ文人・根岸典則の墓がある。その近くに中里介山の大作『大菩薩峠』に登場する裏宿七兵衛の墓もみられる。
 西端の池と墓地の塀との間、土蔵造りの弁天祠の入口に一風変わった形の石塔が建っている。月輪塔で正面に二邪鬼の上に立つ6手の青面金剛を浮彫りする。塔の形ばかりでなく、彫刻も非常に凝っている。台石に刻まれた三猿も、烏帽子をかぶって狩衣を着て扇子で口、耳、眼を塞いでいる。こうした三猿は、多摩地方では珍しく、青梅と五日市で4基見られるに過ぎない。「扇子型の三猿」と呼んでいる。
 墓地の入口には、六地蔵、千部供養塔、地蔵、観音、六十六部供養塔、万霊塔が参道の左右に並んでいる。木祠に安置された寛政10年(1798)の六地蔵の中に、あまり見掛けない龍杖を持った地蔵がある。墓地には、薬師如来、阿弥陀如来、如意輪観音、地蔵などの墓標石仏がみられる。〔住江町・延命寺〕
 宗建寺の上方に同じ宗派の延命寺がある。東の入口には小さな木造の五重塔がある。
 このコースのハイライトである乾闥婆の石像がこの寺にある。住職の大久保有邦師の所蔵品で、古美術商から入手したものでる。乾闥婆は、八部衆の一員で、音楽の神として帝釈天に奉侍し、緊那羅と共に伎楽を奏する。密教では、胎児や小児を守護する天部とされる。乾闥婆の石仏は、丸彫りの立像で、右手に三叉戟を持つ。左手の持物は欠損していて不明であるが、おそらく如意珠であろう。脚部の損傷と共に惜しまれる。乾闥婆は、儀軌には獅子冠と説かれているけれども、この像は象冠をつけている。造像の年代は明らかではない。本堂に安置されているので、許可を得て拝観していただきたい。
 境内の呑龍堂の前には、丸彫りの笹の角地蔵が立ち、台石にその由来が記されている。介山の『大菩薩峠』の「壬生と島原の巻」に出てくる「七兵衛地蔵」が、笹の角地蔵のモデルのようで、それが破損したために昭和18年に再建したのが現在の笹の角地蔵ということらしい。
 山門の前には、文政3年(1820)の六地蔵や天保10年(1839)の文字馬頭、万霊塔が並んでいる。墓地には、右手で子供を抱いて左手に念珠を持つ子育て地蔵などの墓標石仏もみられる。〔住江町・住吉神社〕
 青梅の鎮守である住吉神社は、応安2年(1369)に延命寺の開基季龍が同寺創建に当たって、寺門守護のために摂津の住吉神社を祀ったのが始まりであると伝える。5月2日、3日の祭礼には12台の山車が青梅街道に引き出され、山車と山車がすれちがう時に祭囃子のセリアイが見所である。
 石段の脇には、自然石に「猿田彦大神」と刻まれた石塔がある。造立の年代はないが、江戸末期以降の造立であろう。境内には、天保3年(1832)の小林天淵筆の鳳質先生の碑、同4年(1833)の天淵筆の和歌の碑、弘化4年(1847)の天淵筆塚の碑がみられる。
 以上の青梅市街地コースの社寺を一巡すれば、通常見られる石仏には出会えるし、あまりよそでは見られない石像も見られる。石仏を知る上でぜひお薦めしたいコースである。

 ○ 3 吉野街道を往く
 このコースは、JR青梅線御岳駅を起点として、吉野街道沿いに点在する柚木町と梅郷の石仏を訪ねて日向和田駅に向かう。コースには、玉堂美術館や吉川英治記念館が含まれているから、日本画や大衆文学と触れ合う機会がある。また新緑や紅葉の御岳渓谷の遊歩道を歩いたり、春先には天満公園や梅の公園を始め梅郷1帯の梅など多摩秩父国立公園の風光が楽しめる。〔御岳本町・慈恩寺
 御岳駅前の青梅街道を左に青梅方面へ戻り、数軒先の左手にある石段を登れば上分踏切に出る。遠目にも自然石に踊るような字体を刻んだ庚申塔に気付く。真言宗豊山派の慈恩寺の入口である。
 文化11年(1814)の文字庚申塔の隣には享保20年(1735)の千部供養塔がある。石段を挟んで丸彫りの布袋和尚の石像が置かれ、隣には智拳印を結ぶ元禄2年(1689)の金剛界大日如来の立像がみられる。
 石段の横には六地蔵を龕部に浮彫りする石幢があり、奥には安政2年(1855)の丸彫りの地蔵が立っている。本堂の左手には、小さな丸彫りの恵比須・大黒がみられ、奥に多摩新四国八十八か所の19番本尊である地蔵菩薩と弘法大師の石像がある。多摩新四国八十八ケ所は、昭和9年に造られたもので、東京都と埼玉県の10市2町に分布している。〔玉堂美術館〕
 青梅街道に戻り、御岳橋を渡って左に下っていくと玉堂美術館に出る。青梅の名誉市民であった川合玉堂画伯は、昭和20年12月から84歳で没するまで御岳本町に住み、奥多摩の風景を愛でて多くの作品を残した。昭和36年4月に画伯の画業を記念して美術館が建てられた。文化勲章を受賞した吉田五十八が飛騨の民家と寺院の回廊の特徴を生かして設計した建物である。変化する季節に伴って館内の展示も変わり、周囲の風光ともマッチする。〔御岳渓谷〕
 沢井の楓橋から上流の御岳・神路橋までの多摩川に沿った渓谷を「御岳渓谷」と呼んでいる。渓流の水は、環境庁の「日本名水百選」に選ばれている。両岸の遊歩道は、4季を問わず風光明美な山水を楽しめる。多摩川ではカヌーの練習風景もみられ、毎年5月中旬には、関東渓流カヌー大会が開かる。
 楓橋に近い岩上に朝倉文夫の作になる「青年の像」が立っている。この像が朝倉の遺族から昭和39年11月に寄贈されたのは、彼が昭和20年3月から翌年まで、青梅市内の平溝(二俣尾5丁目)にある高源寺に疎開していたことによる。
 楓橋の辺りには地酒・沢乃井の蔵元の小沢酒造直営のままごと屋、プロムナードさわのい、沢乃井園があり、青梅街道の北に酒蔵がある。時間が許せば、工場見学をして酒のできるまでを知るのも一興である。〔沢井・寒山寺〕
 楓橋の南詰に寒山寺の堂宇がある。明治18年(1885)に書家の田口米舫が中国遊学中に胡蘇城外の寒山寺を訪れた折り、主僧の祖信師から日本寒山寺の建立を願って釈迦如来木像を託された。米舫は、帰国後、寒山寺の適地として沢井のこの地を選び、蔵元の小沢太平の尽力によって昭和5年に落慶した。境内には、寒山拾得の画碑がある。〔柚木・梵字庚申塔〕
 養魚場の北、多摩川へ下る柚木町3丁目の旧鎌倉街道には、多摩地方でも珍しい6仏種子を刻む庚申塔がある。上から「バン」、その次は塔が欠けているために不明だが「ウーン」かもしれない。以下「タラーク」「キリーク」「アク」「ウーン」で、大日如来・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来・阿□如来の金剛界五仏に青面金剛の「ウーン」を加えたものではなかろうか。下部には三猿が浮彫りされている。宝永6年(1709)の造立である。〔柚木・八幡神社〕
 社殿の東側には小さな木祠があって、「廿三夜」と彫られた鰐口がかかり、中には甲冑で身を固めた将軍地蔵が安置されている。背面には「文政(1820)辰三月吉日 柚木邑 十八人」と刻まれている。〔柚木・月待板碑〕
 八幡神社の裏手に木の祠があって中に文化9年(1812)の回国供養塔と文明2年(1470)の月待板碑などがみられる。この月待板碑は上部に日月と天蓋を彫り、十三仏の種子を刻んでいる。『新編武蔵風土記稿』の柚木村の項に「小名木ノ下にあり、長さ二尺余、幅七寸許の青石にて、文明十一年の文字かすかに見ゆ、其余文字も彫たれども漫□して読べからず、又何日との碑と言うことも伝へず」と記されている。
 青梅市内には、柚木町の他に富岡・稲荷神社の文明15年(1483)と長淵・玉泉寺の欠年銘の月待板碑がある。富岡と長淵のものは、柚木の十三仏と異なり3尊種子を主尊としている。〔柚木・二十三夜石幢〕
 柚木町3丁目534番地の青木さんの庭には、慶安3年(1650)の六地蔵石幢と明和2年(1765)のお地蔵さんが並んでいる。石幢の中尊は、定印の阿弥陀如来の座像らしいがはっきりしない。幢身には「同意為廿三夜待供養奉造立」とあるから、廿三夜供養のための建立である。知るかぎりでは、多摩地方で現存最古の廿三夜塔である。隣の地蔵は、柚木村日待講21人の造立である。〔吉川英治記念館〕
 愛宕神社の近くに、吉川英治(1892〜1962)の旧居・草思堂と記念館がある。昭和52年3月に開館された記念館入口の長屋門を入ると小さな石人が迎えてくれる。庭内には、大きな石人や層塔、五輪塔などの石造物がみられるから、記念館や書斎などの見学と併せて見るとよい。記念館には、『江の島物語』に始まり、絶筆の『新・水滸伝』までの草稿やメモ、単行本、シナリオなど、文筆活動の資料が時代を追って展示されている。その他にも昭和35年11月に授与された文化勲章、友人や家族に宛てた手紙、愛用の文具や印章、色紙や扇面などの書画が展覧されている。
 平成4年は、吉川英治が明治25年(1892)8月11日に横浜で生を受けてから生誕百年に当たる。吉川英治国民文化振興会では、生誕百年を記念して東京を始めとして名古屋、大阪、松山、横浜など各地で「吉川英治の世界」展を開催する。〔柚木・即清寺〕
 この寺には、いろいろの石仏があるから裏山を含めて充分に時間をかけて見ていただきたい。入口にある慶応元年(1865)の新4国霊場碑の両側面には、弘法大師・興教大師・青面金剛・山王権現の線彫り像が見られるし、その奥にある79供養塔には、左手の掌に幼児を乗せる薬師如来、矜羯羅童子と制〓迦童子を伴う不動三尊、龍に乗る妙見菩薩が浮彫りされている。
 奥多摩新四国八十八か所の第49番(弘法大師と釈迦如来)の小祠の付近には、正徳2年(1712)の青面金剛、万延元年(1860)の「百庚申」塔、同年の馬頭観音などがみられる。
 この寺の境内には、いろいろな石仏がある。大正8年(1919)の子育地蔵、文化10年(1813)の念仏供養塔、嘉永5年(1852)の神社仏閣拝礼塔などがみられる他に、昭和59年の丸彫り六地蔵や昭和63年の丸彫り慈母観音などの新しい石仏もある。慈母観音は、秩父三十四観音札所の4番・金昌寺にある観音石仏を思い出させる。
 墓地には、阿弥陀如来、聖観音、如意輪観音、地蔵菩薩などの墓石がみられる。一風変わったものとしては、正面に「十一面観音菩薩」と彫り、「十二面観音菩薩」とした自然石の石塔がある。
 境内から裏山にかけては、四国八十八か所に因む石塔が立っている。特に結願の八十八番塔には、多聞天(毘沙門天)、増長天、如意輪観音が3面に浮彫りされた塔が見逃せない。そこからさらに山道を登って愛宕神社に達すれば、境内に慶応元年(1865)の役行者と烏天狗がみられる。役行者といえば、像容が異なるが即清寺の庭にも年代不明の浮彫り像がある。〔梅郷・大聖院〕
 梅郷5丁目のこの寺には、享和3年(1803)と文化13年(1816)の寒念仏供養塔、明治14年の地蔵座像、年不明の青面金剛、寛文10年(1670)の六地蔵石幢がある。地蔵堂の中には、明治22年の六地蔵が安置されている。中央にある願王(地蔵座像)の台石に畑中・梅郷(下)・柚木の合併による吉野村の由来が記されていて、思いがけない歴史を知ることができる。〔梅郷・天沢院〕
 天沢院の入口には、お地蔵さんが3体並んで安置された木祠がある。中央のは座像で、明治16年の子供を抱く子育て地蔵である。両隣は、比丘形の立像である。石段の脇には法華千部塔が2基、文字馬頭が1基みられる。〔市立梅の公園〕
 天沢院の南は都立天満公園で、その東に市立梅の公園がある。この一帯には、およそ200品種の2万5千本の梅があり、3月の梅まつりの期間は各地から梅を愛でる人たちが訪れる。関東で名高い吉野梅郷の中心地である。
 特に梅の公園は梅の品種が多くて梅の展示会場ともいる。山の傾斜にある梅林を散策しながら花を楽しむのに最適である。〔梅郷・中郷庚申堂〕
 吉野街道沿いの堂の中には、明治32年(1899)の青面金剛が安置されている。『御岳菅笠』には、焼失以前のこの庚申堂が描かれているが、現在の塔の側面に彫られた銘文のように、寛永年間(1624〜1643)に庚申の本尊をこの地に安置したかどうか、その確たる証はない。「寛永」ではなく「宝永」ならば、青梅市内にある庚申塔の状況からみても問題はないだが。この塔の再建に多くの人たちが協力したことは、台石に刻まれた氏名をみれば明らかである。
 ここから神代橋を渡り、日向和田の駅に向かう。

 ○ 4 奥多摩湖畔を巡る
 JR青梅線奥多摩駅で下車して駅前から丹波山、あるいは鴨沢、留浦、小菅行きの西東京バスに乗る。「大津久」のバス停で降り、最初は川野の浄光院を訪ねる。次いで麦山の愛宕神社に向かい、坂本の普門寺や熱海の温泉神社を廻り、最後に奥多摩郷土資料館を見学する。〔川野・浄光院〕
 大津久のバス停で下車して、進行方向の左手にある坂を登ると浄光院の前に出る。寺の前に石仏が並んでいる。石段の右手には丸彫りの不動立像、寒念仏塔、念仏塔、文字道祖神、太子供養塔が建ち左手には青面金剛、文字庚申、甲子塔がみられる。石段を登って左には昭和53年に造られた丸彫りの六地蔵が安置されている。本堂の右手には川野生活館がある。その裏手には、昭和57年の水子地蔵の立像が立ち、背後には2手馬頭観音4体の立像や5基の地蔵、双体立像が並んでいる
 この寺にある文字の道祖神は、自然石の前面を凹ませて「道祖神」と刻んでいる。背面には「嘉永七(1854)甲寅歳 十一月造立 青木組 世話人 一金百疋 杉田治右エ門」、以下杉田姓が2名記され、次いで「同百五拾疋 岡部所左エ門」などとある。下の段には「金五拾疋」と氏名が刻まれているがはっきりしない。当時の石塔を建てる費用を知る貴重な手掛かりである。このように石仏に金額を記す例は非常に少なく、町内では氷川にある嘉永元年(1848)の二十三夜塔に金額が記されている。
 石段の右端の不動明王は、右手に剣、左手に索をもつ。顔に似わわないアンバランスな体のボリュームは、ユーモラスである。背に火炎もないし、お顔も平板で忿怒相というよりは仏頂面で、なにかしら親しみを感じさせる。
 「太子供養」と刻まれた自然石は、文化7年(1810)の建立である。主銘の「太子」は聖徳太子を指す。側面に「これより 左ハ 丹波山 み乃ぶ」の道標銘が彫られている。
 石段の左にある青面金剛の塔形も変わっていて、青梅市畑中にある元禄10年(1697)塔に類似する。庚申塔より離れた所にある甲子塔は、次に廻る麦山の愛宕神社にみられるが、多摩地方では珍しい石仏である。浄光院の塔は、自然石に「甲子供養」と刻むもので、文化7年(1800)に造立された。〔小河内の郷土芸能〕
 川野の郷土芸能には、車人形と3匹獅子舞がある。車人形は、3月5日の箭弓神社の祭礼に川野生活館で披露される。説教浄瑠璃の語りにあわせて、ロクロ車に乗った遣い手は1人で人形を操る。文楽の人形遣いが3人であるのに対して、川野ではロクロ車を使うので1人遣いである。
 獅子舞は、9月15日(敬老の日)の小河内神社の祭礼で奉納される。朝、箭弓神社で舞ってから小河内神社で演じ、愛宕神社、馬頭館、大津久の広場で狂われる。
 小河内神社の祭礼には、川野の他にも原と坂本の獅子舞、小留浦の花神楽、国の重要無形文化財に指定されている鹿島踊りと小河内に伝わる郷土芸能が1覧できる。小河内神社の祭礼には参加しないが、同じ9月15日に峰の獅子舞が花入神社や宝福寺で狂われる。〔麦山・愛宕神社〕
 麦山のバス停の左の坂を登り、舗装道路に突き当たったら左に曲がって進むと愛宕神社前に出る。この神社の周りには、麦山や本田の集落にあった石仏が集められている。
 石段の右手の高みにある甲子塔は、天保6年(1835)の造立で自然石に「大黒天」の主銘を刻んでいる。先の浄光院の塔と共に多摩地方で数少ない甲子塔である。
 石段の左手には道路に面して石仏が並んでいる。明治32年(1899)の「猿田彦大神」塔、安政4年(1775)の「道祖神」塔などに混じって、馬頭観音の2手立像がみられる。その中の1基は、両手で蓮華を持っており、一見すると聖観音のようでもあるが、頭上には馬頭が浮彫りされている。
 馬頭観音といえば、社殿前の左手にある石垣の上に「馬頭観世音菩薩」と彫られたた板状の自然石があり、裏面には「昭和五十三年二月七7日 献納者 馬頭館 部落有志一同」と刻まれている。
 神社近くの馬頭館の奥さんに造立の由来を尋ねたら、つぎのように話してくれた。昔、麦山の尾根には馬頭観音堂があって、1月17日にはお祭をしていた。お堂があったのは、現在の馬頭館の辺りである。麦山の人達が湖底から尾根に移り住んだ時に、お堂を壊して家を建てた。それからは馬頭観音のお祭もなくなった。そのせいか麦山の女衆の間に病気の人がでたり、悪いことが続いた。これも馬頭観音を祀らなくためではないかと、馬頭観音の石碑を建てたわけである。
 昭和63年発行の『写真集 湖底の故郷』に、昭和14年9月に撮影した馬頭観音堂の写真が載っている。この写真集には、その他にも小河内の各地の写真が掲載されていて過去と現在を対照でき、歴史の流れがよくわかる。〔坂本・普門寺〕
 峯谷橋から左手の道を進むと、雲風呂のバス停前に普門寺がある。臨済宗建長寺派の寺で、山号を「金鳳山」と呼ぶ。開基は足利尊氏、開山は鎌倉・建長寺第37世の物外和尚と伝えられる。
 石段の左手には、自然石に「道祖神」と刻まれた石塔がある。塔の下部の左右にお神酒徳利が線刻されている。これでお祭りの時のお神酒を省略したわけでもないだろうが、こうした例は多摩地方ではみられない。文化9年(1812)8月の造立。
 山門の横に青面金剛などの石仏が並んでいる。その中には、地蔵の立像を浮彫りした光背型塔がある。寛保2年(1742)の年銘を刻むもので、像の左に「愛宕精進供養佛」とある。愛宕権現は火防せの神で、本地仏は勝軍地蔵とされる。そのために地蔵の石仏に愛宕の銘文を刻んだものだろう。〔鶴の湯〕
 鶴の湯トンネンル西口の近くでは、湖底にある鶴の湯の源泉からポンプ・アップした湯が自由に使えるようになっている。湯は飲めるが、温かく硫黄の香りがするので口当たりがよいとはいえぬ。糖尿病に効果があるという。湯が無料ということもあって、小河内だけでなく埼玉や山梨からもポリ缶を持って車で取りにきている。〔熱海・温泉神社〕
 熱海のバス停から高戸山の登山道に沿って登れば、神社の前に出る。石段の右手には、1風変わった明治16年(1883)の地蔵の浮彫り立像がある。普通にある地蔵は、左手に宝珠、右手に錫杖を持っているが、ここの像は左手に蓮華、右手には体に不釣り合いな太い錫杖を執る。
 神社から熱海口のバス停に降りる途中の3叉路には、万延元年(1860)の二十三夜塔が立っている。〔奥多摩郷土資料館〕
 小河内ダムサイトに奥多摩郷土資料館がある。館の庭には、主として原の集落から集められた石仏が点々と配置されている。1基1基丹念にみるといろいろな石仏があるのに気がつく。道祖神は天保12年(1841)、天保14年(1843)、無年銘の3基、いずれも自然石に「道祖神」と刻んだ文字塔である。
 ここで珍しい石仏といえば、胸の前で合掌し、上方の手には鏡?と斧、下方の手には弓と矢を持つ6手の弁天座像があげられる。弁天というと琵琶を奏でる2手の座像を連想されるけれども、こうした6手の像もみられる。この持物では観音と間違えられるが、頭上を注意深くみると、鳥居が浮彫りされているのに気付くであろう。鳥居とか蛇が頭上にみられるのは、観音ではなく弁天である。
 自然石の正面上部に日輪を描き、その下に「日食供養塔」の主銘を刻んだ塔も珍しい。おそらく多摩地方ではこの塔だけではないだろうか。寛政11年(1799)の造立。
 絵馬形の石塔に地蔵を浮彫りした一石六地蔵が2基みられる。1基は、宝永5年(1708)の造立で、上部に装飾をほどこす。他の1基は、文化7年(1810)のもので、中央に観音を置き、左右に3体の地蔵を配する。こうした一石六地蔵は、檜原村の人里や笛吹、白倉に分布している。白倉のものは、中央に金剛界の大日如来座像を置く。
 かつては熱海の路傍にあったが、資料館の開館に伴って移されたものの1基が「牛馬橋供養塔」である。明治17年(1884)の建立。橋の供養と併せて牛馬の供養を行ったのであろう。小河内の隣の山梨県北都留郡丹波山村には「牛馬供養塔」があり、嘉永3年(1850)の馬頭観音を牛持中で建てている。同郡の小菅村には大正3年(1914)の「牛馬観世音」がみられる。こうした点からみると、馬頭観音は必ずしも馬のためばかりとはいえず、牛の供養も含んでいたのに違いない。現在は「牛頭観音」や「豚頭観音」が建てられ、それぞれの供養塔がみられる。
 石橋供養塔は、多摩地方の各地でみられる。青梅市藤橋では、一塔に「石橋七ケ所建立供養」と非常に欲張ったものがある。しかし、ここのように橋と牛馬を併せたものは見当たらない。この塔からも、当時の橋架け工事や道路事情の悪さがうかがえる。
 以上の他にもいろいろな石仏がある。庚申塔は、宝暦4年(1754)の青面金剛で、下部に三猿を浮彫りしている。自然石上部に日月を陰刻する、明治22年(1889)の「廿3夜」塔、2手の馬頭観音、万延2年(1861)の「聖太子」塔、天保7年(1836)の百万遍供養塔などがみられる。新しいところでは、昭和50年の「へら鮒供養塔」がある。
 そうした石仏に混じって、徳富蘇峰の詩碑がある。「登々極水源 隔谷幾村々 崖峻泉鳴筧 岳高雲入軒 昭和六年六月廿二日 武州小河内 宿舎即興 蘇峰老人」と、鶴の湯に遊んだ時の詩が刻まれている。もう1基、芭蕉の句碑もみられる。「山中や菊は手折らぬ温泉の匂ひ 芭蕉」で、熱海の旅館の庭から移したものである。 石仏だけを見るのもよいが、石仏の建った背景を知ることも重要である。奥多摩郷土資料館(有料)の1階には小河内の郷土芸能、2階には山村の生活用具を中心に出土品や動物の剥製などが展示されている。生活用具を通してうかがえる日常生活と石仏と結び付けて、当時の石仏造立の背景を知る手掛かりとするとよいだろう。
 資料館前からバスで奥多摩駅前に戻る。8月の第2日曜日には、駅の近くにある奥氷川神社で獅子舞が奉納され、多摩川の南岸の南氷川では山車がひかれ、祭囃子で賑あう。

 ○ 5 猿田彦の山里
 JR五日市線武蔵五日市駅下車、駅前から小岩あるいは藤倉行きの西東京バスに乗る。御前山の登山口のバス停で降り、最初は小沢の宝蔵寺を訪ねる。次いで宮ケ谷戸に行き、神戸、大沢、郷土資料館、白倉、八割、暮沼を経て中里にでるコースを廻る。時間に余裕があれば千足や本宿に足を延ばすとよいだろう。〔小沢・宝蔵寺〕
 御前山登山口のバス停で下車して、少し戻ると右手には安政4年(1857)の「廿三夜」塔がある。宝蔵寺の入口である。その後ろの高みには、貞享3年(1686)の庚申塔や六字名号塔、観音などの石仏がみられる。庚申塔は、今は笠部が失われているが、笠付型で、正面に「奉供養庚申二世安楽処」の主銘が刻まれ、塔の3面に猿を配している。その上に木の祠があって、中に地蔵の座像が安置されている。昭和27年の造立で、教え子が先生を供養した、いわば江戸時代以降に造られた筆塚を思わせる石仏である。
 本堂の前には、左手に丸彫りの六地蔵や無年銘の板碑などの木祠があり、右手にも木祠があって奪衣婆や如意輪観音などの石仏を安置する。奪衣婆は、三途の河原で罪人の衣服を奪い取り、それを衣領樹に掛ける懸衣翁に手渡す老鬼女で、俗に「ソウズカの婆さん」と呼ばれている。地元では、奪衣婆を古来より「サードの婆さん」と言い伝えている、とは宝蔵寺の小泉章徳住職のお話である。宝暦3年(1753)の造立だ。〔宮ケ谷戸の石仏群〕
 宮ケ谷戸のバス停近くには、石仏群がみられる。主な塔は、安政4年(1857)の「二十三夜」塔、文化4年(1807)の青面金剛、嘉永4年(1851)の念仏塔、文化10年(1813)の寒念仏塔、文久2年(1862)の聖徳太子塔である。〔小沢の式三番〕
 小沢には、郷土芸能の式三番が伝承されており、鎮守の伊勢清峯神社の例祭に奉納上演される。昨年から新築された小沢コミュニティセンターの舞台で演じられているが、それまでは峯岸神官宅でやっていた。昭和27年に東京都の無形民俗文化財に指定され、同51年に文化庁によって記録作成などの措置を講ずべき無形民俗文化財として選択された。檜原にはもう1か所、笹野に式三番が残っている。〔山王さまの石仏〕
 石仏群の前にある橋を渡って右手に進み、百番供養塔を右手にみながらなおも進む。左手の山の斜面が畑になっている、その先にある家の背後には杉林があって、林の中に山王さまが祀られている。山王さまに通じる道がないので登りにくいが、そこには1見に値する石仏がみられる。
 山王さまの祠の右手には、『新編武蔵風土記稿』に載っている無年銘の地神塔がみられる。この塔には地天の梵字真言が刻まれており、全国にも類例のない極めて珍しい塔といえる。多摩地方の現存最古の地神塔は、町田市木曽町の文化4年(1807)であるから、無年銘といえどもそれより古いことは明らかである。私は、塔形などから考えて元禄年間(1688〜1703)までには造立されたものではないかと、推測している。
 祠の左手には、貞享3年(1686)8月造立の庚申塔ある。先刻みてきた宝蔵寺の庚申塔と同じく笠付型で、正面に「奉供養庚申二世安楽之攸」の主銘を刻み、塔の3面に猿を浮彫りしている。この塔は、同年の宝蔵寺の塔が11月の建立だから、3月の差で檜原村の現存最古の庚申塔である。
 ここでみるべきもは、円柱の竿石に「庚申供養 宮谷戸村」と刻まれた灯籠である。対のものには「享保三年(1718)戊戌天壬十月吉日 敬白」とある。檜原村には、ここのほかに、後で廻る大沢の貴船神社に宝暦11年(1761)、コースには入っていないが東谷の下元郷・和田向路傍に明和4年(1767)の3基の庚申灯籠がある。〔神戸・春日神社〕
 山王さまからは、地元で「神戸道」と呼ばれている南秋川の北岸の道を行く。神戸市が有名だから「コウベ」と読む人がいるかも知れないし、「ゴウド」という地名もあるが、「神戸」と書いて「カノト」と読む。檜原には笛吹(ウズシキ)や人里(ヘンボリ)のように意外な読み方の地名がある。神戸道は、南岸の都道と違って車に悩まされることもなく、両側の林の中で森林浴をしながら神戸に向かう。
 春日神社の手前に、岩の上に弘化3年(1846)の「二十三夜塔」がある。自然石の文字塔で、十数年前の水道工事の際に掘り出されたものである、という。
 春日神社の境内には、文久元年(1861)の「廿3夜」塔があり、道路に面して慶応元年(1865)の「道祖神」が立っている。5月3日の春日神社の祭礼には、中里から伝承したという神田囃子が囃される。〔神戸・大橋と墓地〕
 春日神社からさらに奥に進むと大橋に出る。橋の手前にある蛇岩の上に「庚甲塚」と刻まれた自然石の庚申塔が立っている。文化14年(1817)の造立である。おそらく「申」を「甲」と間違えて彫ったものだろう。清水長輝氏の『庚申塔の研究』(昭和34年刊)にも紹介されている。大橋の手前を右手に進むと墓地に突き当たる。半鐘の下には、宝暦4年(1754)の青面金剛がある。〔神戸の庚申講〕
 神戸では大橋より上の3組(清水組)、4組(寺組)、5組(御屋敷組)の24軒で今でも年に一度、庚申講を開いている。平成4年は、5月23日(土曜日)の夜に神戸自治会館で行われている。庚申講がヤドとして会館を使うようになったのは平成になってからのことで、それまでは講中の家でヤドを持ち回っていた。
 講で使う掛軸は、上部中央に「猿田彦大神」とあり、その下に墨一色の猿田彦大神の像を描いていている。軸の裏には「昭和貮拾9年参月貮日 伊勢神宮参拝記念トシテ奉納ス 小林傳吉 坂本千代松」と入手の由来が記されている。〔神戸の石仏〕
 大橋から引き返して大沢に向かう。途中の路傍に自然石の「馬頭観世音」、寛政5年(1793)の「四国百番供養」塔、「猿田彦大神」塔などの石仏が並んでいる。さらに神大橋付近の「神戸岩入口」のバス停の近くには昭和10年の「馬頭観世音」塔、明治33年(1900)の「猿田彦大神」塔、同年の「萬人供養塔」が建っている。〔大沢の石仏〕
 大沢橋を渡らずに左に進み、左手にある坂を登ると石仏群がみられる。寛政年間(1789〜1800)の2手馬頭観音、万延元年(1860)の「庚申」塔、年不明の青面金剛、安政6年(1859)の「廿三夜」塔などである。
 それらの石仏群の上の方にある貴船神社に行くと、石段の左手には宝暦11年(1761)の「百番供養」の銘を刻む灯籠がみられ、右手には4角の竿石に「庚申供養」と刻んだ対のものがある。庚申灯籠は、先の山王さまで見た円柱のものと共にこのコースの目玉といえよう。〔檜原村郷土資料館〕
 檜原村を知るには、村立の郷土資料館が絶好の場所である。単に石仏にとどまらず、石仏を造立した背景の歴史や民俗などをうかがうのに都合がよい。入口が2階にあるので階段を登るが、階段の左手には寛延3年(1750)の2手合掌の馬頭観音、享保19年(1734)の青面金剛、室町期の五輪塔が展示されている。青面金剛は、銘文の「夏地小沢村中」からもうかがえるように、元は小沢の宝蔵寺の入口にあったものを移した。
 館内には、歴史、民俗、自然、観光の展示があり、研修室では自然と暮らし、民話と伝説の2編のマルチスライドが用意されていて、いつでも映写してもらえる。収蔵庫には民俗資料が分類・整理されて保存されている。〔廿三夜塔と六地蔵〕
 白倉の路傍には、高さが1メートル90センチを越す慶応2年(1866)の「庚申」塔ある。そこから大岳神社に向かうと自然石の石塔に出会う。嘉永6年(1853)の「廿三夜」塔である。この塔の年銘をみると「嘉永六昭陽赤奮若六月吉良辰」と刻まれている。「昭陽」は「ショウヨウ」と読み、十干の「癸」の別名である。「赤奮若」は「セキフンジャク」と読み、十二支の「丑」の別名だから「昭陽赤奮若」で「癸丑」を意味する。
 二十三夜塔の西側の奥は、墓地になっている。昔は威徳寺という臨済宗の寺があったそうだが、今は寺の跡もなく、白倉の家々にあった墓地が集められている。
 墓地の入口には、絵馬型の石塔の中央に金剛界大日如来を置き、その左右に3体ずつの地蔵を浮彫りする石仏がある。寛政2年(1790)の造立。1石に六地蔵を刻むのは甲州に多くみられるところで、檜原と甲州との関係がうかがわれる。南谷には、笛吹と人里に横長の駒型石に六地蔵を浮彫り石仏がみられる。
 墓地には、合掌地蔵の像を刻むもの、如意輪観音を主尊とする墓石がある。そうした中で眼をひくのが、弘化4年(1847)銘の四地蔵を一石に刻んだ墓石で、前の大日・六地蔵とともに、一石四地蔵というのも多摩地方ではみかけない。〔八割の猿田彦木像〕
大岳神社の境内には元禄12年(1699)と文化10年(1813)の青面金剛、嘉永5年(1852)の「廿三夜」塔がみられる。『新編武蔵風土記稿』の白倉組の項にある「元禄十二年造立の石の庚申」は、ここの青面金剛を指してしるのであろう。ちなみに檜原村で最も古い青面金剛は、東谷の下元郷にある元禄11年塔で、ここのはその塔に次いでいる。二十三夜塔では、南谷の上川乗にある文化13年(1816)塔が最も古い。
 八割では、かつて6軒で庚申講をやっていた。戦時中に酒が配給制になり、食料事情も悪化してきたので講を止めてしまった。大岳神社を管理する吉野家には、かつて八割の庚申講の本尊として祀られた猿田彦大神の木像が保管されている。像高は22・で大きなものではないけれども、木箱に収められている。鼻が高く、顎髭をはやし、左手に宝珠を持ち、右手は印を結んでいるらしい。〔暮沼の庚申講〕
 八割や白倉ではすでに庚申講を止めてしまったが、暮沼では今も年に2回、4月と10月に17軒でヤドを持ち回りして講を続けている。年に2回になったのは、昭和48年からのことで、それまでは年間6回の講が開かれていた。
 昭和45年に主婦の大谷さんから「暮沼では戦前10軒で庚申講をやっていましたが、戦時中に止めてしまいました。たまたま最後のヤドがうちだったので、庚申さま(猿田彦の木像)を二十数年預かっておりましたが、数年前から4軒が新たに加わり、庚申講を再開しました。ヤドは、クジ引きで1回りの順をきめます。現在は年に6回の講を偶数月にやります。講の日取りは、ヤドの都合で決まり、必ずしも庚申の日とは限りません。講の当日は、仕事を終わってからヤドに集まり、庚申さまにお灯明をあげ、あとは特別なことはしないで、飲んだり食ったりです」の話を聞いた。
 暮沼の庚申講の本尊は、猿田彦の木像で大黒天の木像と相殿の木のお宮に収めてある。木像は、全体に黒ずんだ立像で、所々に赤の彩色を残している。八割の像とは異なり、鼻が高く、口髭をはやし杖の上に両手を置き、雲の上に立っている。この像は、持ち回りでヤドが保管している。
 檜原村には、八割、白倉、暮沼と3か所に庚申講の本尊である猿田彦の木像がある。白倉の像は、鼻が高く、顎髭を長く伸ばしている。鳥兜をかぶり、右手に鉾を持ち、立てた太刀も上部を左手で握る立像である。像容は、3者それぞれに違いがみられる。〔白光の猿田彦〕
 白倉の東のはずれを白光(ハッコウ)という。その白光でも東の端の都道の道上に「富士嶽神社」の自然石碑と並んで、猿田彦大神の石像がある。多摩地方でも猿田彦の像を刻んだ塔は少なく、ここと青梅市成木・松木峠の天保2年(1831)塔のわずかに2基だけである。
 ここの猿田彦は、坊主頭で右手に杖を持っている。その下に三猿が浮彫りされ、右側面に「猿田彦大神」、左側面には「庚申塚 文化十一年戌星十二月吉日」と記されている。背面には青面金剛の立像と日月・三猿が浮彫りされている。檜原村にある62基の庚申塔の主尊と造立年を分析してみるとおそらく文化11年の造立当時は、現在、後ろになっている青面金剛が彫られていて、後年に猿田彦大神の像を刻み、向きを変えたものと思われる。
 檜原では、猿田彦の文字塔が多い。しかも北谷と東谷にあって南谷にない。北谷の庚申講の本尊が猿田彦であることから考えて、大岳神社の神官であった吉野氏によって、江戸後期に猿田彦が庚申信仰に取り込まれた、と考えられる。その一つの現れが、この白光の猿田彦ではないだろうか。〔中里の掛軸と塔〕
 中里橋を渡ってバス停先の階段を登ると、左手に享保2年(1717)の青面金剛と慶応3年(1867)の「庚申」塔がある。慶応の文字庚申は、2メートルを越す自然石塔で檜原村で最大の庚申塔である。
 中里でも、かつてはヤドを持ち回って庚申講が行われていたが、現在では1月15日の新年会、4月8日に近い日曜日の大岳神社祭礼、9月1日の八朔祭の年3回、中里自治会館に庚申の掛軸を掛けるようになった。
 中里の掛軸は、上部に日月と山、中央から下部にかけて杖をついた猿田彦が描かれている。神戸の墨1色のものと違い、彩色が施されている。左下には「昭和三拾五年一月 鯉刀筆」とあり、落款が押されている。
 庚申講の名残は、自治会長が庚申の当日に前記の庚申塔に灯明をあげることにみられる。〔千足の石仏〕
 時間が許せば千足まで足を延ばすとよいだろう。檜原街道の北側にある御霊神社の境内には、宝暦10年(1760)と無年銘の青面金剛、文化12年(1815)の自然石の「庚申塔」がある。宝暦の青面金剛は日月を捧げる6手像で、無年銘のものは4手像である。共に2猿の浮彫りがあるが、宝暦のは三不型であるのに対して、無年銘のは合掌している。おそらく無年銘の像の方が古いと推測される。檜原街道の路傍には、嘉永6年(1853)の「庚申塔」と「廿三夜」塔がみられる。
 千足のバス停から五日市駅前に戻る。脚に自信があれば、中本宿で下車して、春日神社〜吉祥寺〜山王社〜和田向と廻るのもよいだろう。本宿から先は、北谷と南谷を通るバスがあるから待ち時間が少なくなる。                      
          『野仏』第23集(平成5年刊)所収
玉川上水沿いの石仏 ── 羽村から福生まで ──
 JR青梅線羽村駅南口を起点に、中里介山ゆかりの禅林寺、玉川上水の羽村取水堰、旧島田家住宅のある羽村市郷土博物館、玉川上水沿いにある石仏を訪ねて、福生駅南口にいたるコースを歩く。〔羽村・禅林寺の青面金剛〕
 羽村駅から南にすすみ、新奥多摩街道を横切って坂をくだると、左手に文禄2年(1593)に創建された臨済宗建長寺派の禅林寺がある。寺の入口には、平成3年にたてられた交通安全地蔵が出迎えてくれる。
 境内にはいると、左手に昭和60年造立の丸彫り十一面観音、奥には昭和55年春彼岸建立の大きな水子地蔵がみられる。地蔵の右方には、自然石に「亡き子等も 出て来て遊べ 著莪の花」と刻む句碑がたっている。作者の浮氷子が父の50回忌にちなんで昭和63年春彼岸にたてたものだ。 池の手前を左にのぼると、天明義挙碑(市史跡指定)、文化13年(1816)と年不明の文字馬頭観音2基、馬頭移転由来碑、年不明の青面金剛、地蔵2体、貞享4年(1687)銘の如意輪観音がならんでいる。
 文化の文字馬頭観音は、東本町の共同墓地に傍らにあり、大菩薩峠記念館にうつされ、さらにこの寺に移転した。共同墓地から大菩薩峠記念館に移転した由来をしるした石碑がたっている。年不明の文字馬頭観音も、もと東ケ谷戸共同墓地にあったが、大菩薩峠記念館におかれ、さらにこの寺に移動された。
 年不明の青面金剛庚申塔は、昭和38年4月に撮った写真をみると、4手の立像がはっきりしているが、現在は顔が剥落し、塔の破損がめだつ。元禄年代(1688〜1703)の造立で、持物や三猿の姿態が古風である。後でまわる庚申塔の下部や台石にある菱形の三猿と比較すると、この三猿の姿が変わっているのに気づく。
 池の奥にある洞窟には、「水晶宮」としるされた額がかかった木の祠がある。扉をあけると、中には丸彫りの小さな弁天の石像が安置されている。琵琶を奏でる座像で、印鑰童子、官帯童子、筆硯童子などの弁天十五童子の名をかいた木の台の上におかれている。
 本堂の横にある坂道をのぼると、左手に現代作の浮彫り地蔵が2体、さらにその先にも浮彫りの地蔵がある。離れて左手に3体の石仏がみられる。向かって左に丸彫りの地蔵、中央に丸彫りの聖観音右に「金龍王」と刻んだ自然石塔である。〔中里介山の墓〕
 坂道をのぼると道路にでる。右にすすむと、左手が禅林寺の墓地だ。左には三界万霊塔4基と天保8年(1837)の地蔵主尊の念仏供養塔、右には六地蔵がならぶ入口をはいると、介山の墓の前にでる。
 代表作の長編小説『大菩薩峠』で著名である中里介山は、本名を弥之助といい、明治18年(1885)羽村に生まれ、昭和19年に59歳で亡くなるまで、多くの著作を残している。後でまわる羽村市郷土博物館には、介山のコーナーがもうけられ、『大菩薩峠』の関係資料が多くあつめられて展示されている。
 九州型板碑を模した石碑の正面には、額部に地蔵の種子「カ」を刻み、下に地蔵の座像を浮彫り、像の左右に「上求菩提」と「下化衆生」の偈、下に「中里介山居士之墓」とある。
 その石碑の背後には、溶岩をつみあげて五輪塔をおく。塔の各面には、4方門の種子を刻み、地輪の裏面に「右志者為 修成院介山文宗居士 荘厳報地成弥正覚位」や昭和24年の造立年銘、願主銘などをしるす。
 隣接する中里家の墓地には、墓誌がたっている。その中に「修成院介山文宗居士 昭和十九年四月二十日 弥之助 五十九才」と、介山の法名や没年が一行きざまれている。〔羽村取水堰〕
 禅林寺から南へ多摩川にむかう。奥多摩街道をわたると玉川上水の羽村取水堰にでる。43キロメートルにもおよぶ玉川上水は、この取水堰からはじまる。近くには、玉川上水をつくった玉川兄弟の銅像がある。
 幕府の命をうけた庄右衛門と清右衛門は、承応2年(1653)4月4日に玉川上水の工事をはじめ、その年の11月15日に四谷大木戸(新宿区)までの堀をつくった。その間、およそ8カ月(閏6月をふくむ)の短期間でフル・マラソンのコースに匹敵する約43キロメートルの玉川上水ができたことになる。翌年6月には、虎の門までの樋の工事をおえて完成した。さらに玉川上水について詳しく知りたい方は、比留間博氏の『玉川上水』(平成3年 たましん地域文化財団刊)を参考にするとよいだろう。〔羽村市郷土博物館〕
 多摩川沿いにすすみ、羽村堰下橋をわたって右におれる。川の南の土手を上流方向に600メートルほどいくと、左手に羽村市郷土博物館(羽村市羽741番地)がある。
 館内は「羽村の自然」「羽村の歴史と文化」「玉川上水とまいまいず井戸」「大菩薩峠の世界」などの常設コーナーがある。天文2年(1533)の弥陀3尊来迎画像板碑は、「羽村の歴史と文化」のコーナーに常設展示されている。「羽村町の文化財散歩」などのビデオがあり、羽村についての知識が吸収できる。
 本館の裏には、国の重要有形民俗文化財に指定された旧島田家(四ツ間型を広間型に復元)が移築され、かつて大菩薩記念館にあった赤門も移されている。旧田中家長屋門もある。庭には五輪塔が2基、丸彫りの地蔵が1体みられる。
 館内では『羽村町史』をはじめ、『はむら民俗誌』など教育委員会から発行された史料集が販売されている。惜しいことには史料集第1集の『羽村町の板碑・石仏』(昭和51年刊)の残部がない。どうしても必要であれば、図書室にある本からコピーをたのむとよいだろう。〔福生・永昌院の狸魂地蔵〕
 玉川上水に沿って東へ、桜並木をすすむと福生市にはいる。上水にかかる堂橋をわたって奥多摩街道にで、東にいくとY字路にぶつかる。左の道をとると永昌院の前にでる。入口に小さいが、1石に彫った七福神がある。
 境内には、昭和9年につくられた多摩新四国八十八番札所の第86番志度寺(香川県大川郡志度町)の本尊写しの聖観音と弘法大師の石像、立姿の狸魂地蔵、半跏像の水子地蔵、座像の子育地蔵などがみられる。嘉元2年(1304)銘の板碑は、福生市指定文化財である。〔福生・旧宝蔵院墓地の庚申塔〕
 永昌院から奥多摩街道を東へ、新掘橋をわたる。新掘橋の南、石段の上の木祠に「金毘羅大権現」の石塔をみて、再び上水の南側の道をあるく。新堀橋と加美上水橋の間には、道の南側に玉川上水旧堀跡(福生市史跡)がのこっている。
 長徳寺の屋根がみえる手前に墓地がある。上水沿い道を右に坂をおりたところ、福生霊園の右に、宝蔵院住職の墓がならんでいる。そのまわりにいろいろんな石仏がある。
 1番前の目立つ大きな石塔が文字庚申塔である。山状角柱の正面に「ウーン 庚申塔」、右側面に「寛政二庚戌年(1790)十月吉祥日」、左側面に「多摩郡福生邑 施主百三拾八□」とある。□は、はっきりと「人」の文字があった。施主138人は、人数では東京一ではあるまいか。
 清水長輝氏の『庚申塔の研究』に庚申塔の「施主の人数は十人−三十人の間が一番おおいが、個人で建てたものから五十人ぐらいまでが普通である」(18頁)として、最も多い例として埼玉県浦和市三室の正徳4年(1714)塔の「善男、善女人、童男、童女百八拾二人村中」をあげている。
 庚申塔の後ろには、天保14年(1843)の「キリーク 南無阿弥陀仏」の六字名号塔、天保12年(1841)の寒念仏供養塔、寛政6年(1794)の秋葉山大権現塔、寛延元年(1748)の地蔵、年不明の2手合掌の馬頭観音がみられる。
 六字名号塔の裏面には、「うまるゝもしするもおなじ阿字なれハ そのまゝ本の不生なるらし」の和歌をきざんでいる。寒念仏塔は、上部に、円形の中央にア・ビ・ラ・ウン・ケンの大日如来の真言を、周囲に梵字の光明真言を配している。〔福生・長徳寺の水子地蔵〕
 宮本橋を左手にみて右におれてすすむと、玉雲山長徳寺の前にでる。境内には台石に「6道能化」と刻む大正12年(1923)の丸彫りの地蔵、その先に、大きな丸彫りの地蔵がたっている。昭和60年造立の「水子地蔵」である。こうした水子地蔵は、昭和50年代から各地でたてられるようになった。先の羽村・禅林寺や福生・永昌院のものも、そうした一例である。墓地には、文政8年(1825)の六地蔵がみられる。
 長徳寺の先の左手には、伝統的な地場産業の田村酒造があり、地酒・嘉泉をつくっている。時代が感じられる酒蔵や塀などとともに、煉瓦づくりの煙突が印象的である。福生市内には、もう1軒「多摩自慢」の石川酒造が熊川で地酒をつくっている。〔福生・長沢の長徳寺墓地〕
 田村酒造から折り返して宮本橋をわたり、奥多摩街道を横切って北にすすむと、神明社西の交差点にでる。そこを右におれてすすむと、長沢の長徳寺墓地である。手前にある薬師堂の前には、弘化3年(1846)の「心経 石階 石橋 供養塔」がある。
 墓地の入口には右手に祠があって、中に年不明の六地蔵石幢、明治28年(1895)の合掌地蔵座像、昭和56年の水子地蔵が安置されている。明治の地蔵は、福徳延命地蔵尊で、別名を「オソノ地蔵」という。左手には、昭和56年の丸彫りの六地蔵、宝永4年(1707)の青面金剛や文政8年(1825)の「庚申塔」などがならんでいる。墓地の中には、六地蔵や明治33年(1900)の宝珠をもつ地蔵座像を主尊とする三界万霊塔がみられる。
 〔福生・清巖院の六地蔵石幢〕
 長徳寺墓地から神明通りを東にむかい、突き当たりを右にまがって新橋をわたる。左におれて中福生通りを東にすすむと清巖院の前にでる。
 山門前の参道右側には、元禄12年(1699)と享保12年(1727)の青面金剛庚申塔、寛政8年(1796)と文化7年(1810)の文字庚申塔がならんでいる。左側には、元治2年(1865)の一字一石経王塔、文化10年(1813)の法華塔、文化13年(1816)の文字馬頭観音などがある。
 元禄の青面金剛の塔形がユニークである。光背型の上部を平らにして笠部を配した変形の笠付型塔である。享保の青面金剛庚申塔は角柱に笠部をおく一般にみられる形である。 境内には、明治37年(1904)の六地蔵がならび、その北に六地蔵石幢がある。石幢は4面で、1面に願王尊の地蔵をおき、他の3面に2体づつ、6体の地蔵の立像を浮彫りする。幢身の4角柱は、石でたたかれてくぼんで銘文の跡がのっこっていない。全体から受ける感じは古風である。
 ここから中福生通りを戻り、玉川上水の新橋をわたって北に一直線でJR青梅線の福生駅にでる。時間が許せば、清巖院からさらに東へ、熊川の福生院の文字庚申塔、鯖大師などをみてからJR五日市線の熊川駅へ出てもよいし、さらに脚をのばして熊川の真福寺や千手院の六地蔵や文字庚申塔、五輪地蔵などをまわってからJR青梅線の拝島駅にむかうコースでもよい。
                            『野仏』第24集(平成5年刊)所収
多摩の名数石仏を歩く
 多摩地方には数多くの石仏があります。これらの石仏が、たとえばお地蔵さんであるとか、観音さんであるとか、馬頭さんであるとか、その呼び名(尊名)が何であるのか、わかると、石仏に1層の興味がわいてきます。石仏の名前がわかるようになるのには、数多くの石仏に接する必要がありますし、どのような名前の石仏があるのかもしらなくてはなりません。

 独立した石仏の場合はまず仏像的な像であるのか、それとも神像的な像であるのか、見分けます。仏像的な像であれば、如来なのか、それとも菩薩、あるいは明王や天部なのか、それぞれの特徴をつかんで区別します。螺髪であれば如来、宝冠や装身具をつけていれば菩薩、怒った顔をしていたら明王、雑多な天部という簡単な区分でも、おおよその見当がついてきます。そうはいっても例外があります。如来でも菩薩形の大日如来がありますし、忿怒相であっても馬頭観音のような菩薩、忿怒相ではない孔雀明王のような特例を心得ておけば、そう大きな誤りはないでしょう。
 このように大まかに区別できたら、如来であれば印相、菩薩や明王ならば手の数や持ち物によって尊名を調べればよいでしょう。天部の場合には、天女形か武装天部形でわけ、持ち物や特徴によって尊名をしるという具合です。

 数多くの石仏に接していますと、特別に意識しなくても地蔵菩薩とか、馬頭観音、あるいは聖観音、如意輪観音、青面金剛のように、みる機会の多い石仏については自然にわかってきます。それらが識別できるようになりますと、稀にみるような石仏の尊名がわからないといって、神経質にならなくてもよいでしょう。日頃、仏像の図像集やガイドブックなどをみていれば、珍しい石仏に出会った時に役にたちます。
 石仏自体に直接「馬頭観音」と「青面金剛」とか刻まれている例があります。そのような簡単な銘文でなくて、長い銘文、たとえば「奉造立石地蔵一尊庚申悉地成就」とか「奉新造正面金剛1体現当二世安楽所」、あるいは「奉造立庚申供養観世音菩薩尊像為現当二世安楽者也」や「奉造石薬師如来像供養庚申為二世安楽者也」などと彫られている場合もあります。これらの銘文は、東京都板橋区内にある初期の庚申塔のもので、これによって地蔵菩薩、青面金剛、観世音菩薩、薬師如来の石像であることがわかります。こうした例からもうかがえるように、銘文から尊名をしる手掛かりがある場合もあるのです。

 神像的な像は、あまり数が多くありませんから、そう気にすることもないでしょう。衣冠束帯で胸の前に両手で笏をもつ座像ならば天神、両手に弓矢をもつならば八幡大明神と考えれば、通常の場合はまず間違いありません。もっとも衣冠束帯で胸の前に笏をもつ立像には木曾御岳座王大権現がありますが、八海山大頭羅神王と三笠山刀利天宮を伴う三尊形式もみらますし、これには御岳講碑や霊神碑などを伴うことが多いですから天神とは区別できます。稲荷大明神は、稲束をかつぐ翁像と狐の上に乗る像とが多く、その外の異像もみられます。
 神像の場合にも、像自体に、あるいは台石や祠などに神名を記す例がありますから、銘文にも注意をする必要があります。たとえば埼玉県三郷市彦成の虚空蔵堂境内の丸彫り像には、背面に「奉建営松尾大明神」の銘が刻まれ、その像が松尾大明神であることがわかります。
 お地蔵さんは、1体の場合もありますが、違った持ち物をとる六地蔵があります。このお地蔵さんの例でもわかりますように、単独の石仏として造られることもあれば、幾つかの石仏が組合わされて一つの意味をもつ場合があります。このような複数の石仏を、ここでは「名数石仏」と呼びます。

独尊に比べて多尊の場合は、その名数によって見当がつけられます。つまり、石仏の名数を知っていると、その数によって限られた中から選べば区別がつけやすくなります。たとえば関連のある6体の石仏があるとしますと、六観音か六地蔵と推測できます。7体の石仏であれば、七観音か7夜待本尊、あるいは七福神という具合に調べる範囲が定まりますし、その中から選ぶとなりますと確率も高くなります。16体の石仏であれば、弁天十六童子か十六羅漢ではないかと、ある程度の目安がたてられます。ただ気をつけなければならないのは、1塔に刻まれている場合にはよいのですが、独立した石仏が何体かまとまってある場合には、寄せ集められて関係のない石仏が混じっていたり、逆に1体か2体欠けていたりしますので、そうした点を配慮する必要があります。

 名数によって石仏を識別するといっても、あくまでも大まかな見当をつけて尊名を知る1つの手段です。民間信仰によって造像される石仏の中には、まったく予想もつかないものもみられます。その上に儀軌を心得ない石工もいますし、指導する法印や修験者などの独創的な像がくわわりますから、仏説や儀軌がそのまま当てはまりません。
 石仏の名数をしっていれば、大きな誤りを犯さずにすみます。各地で報告されている七観音を調べてみますと、実は七観音ではなくて七夜待の本尊である場合があります。たしかに7体のうちの6体は観音ですが、あとの1体が勢至菩薩なのです。七夜待の本尊の存在をしらないことから、七観音と誤認してしまうのです。七夜待本尊と七観音を区別するポイントは、来迎相の合掌した勢至菩薩が含まれているか、いないかを識別する点にあります。
 石仏の名数をしることによって、大まかではあるにしても見当がつけられ、該当する尊名が絞られてきます。そして個々の像容をチェックしますと、ただ漫然と尊名を捜すよりも効果的でしょう。以下に石仏の名数を示し、どのような尊名の組合せになっているかを表示しました。名数石仏は、多摩地方にみられるものを優先し、ない場合には東京区部や他県の石仏を例示して補いました。
 最後に名数を利用される上で注意してほしいことは、ここに示した名数が最小単位になっていることです。たとえば薬師三尊と十二神将が組合わさった石仏があったとしましょう。名数では、薬師三尊と十二神将にわけて記載されていますから、15体像の表示には含まれていないわけです。こうした例は釈迦如来と十六羅漢の17体像、あるいは釈迦三尊と十六羅漢の19体像の場合に生じます。十王の場合はしばしば地蔵菩薩や奪衣婆、あるいは司命・司録、倶生神、五道冥官、さらに人頭杖、淨玻璃の鏡、業の秤などを伴っています。ですから単純な名数だけでは応用がきかないわけで、名数相互の関係や関連する尊名にも気を配ってほしいものです。

 多摩地方には、先にあげました六地蔵以外にも、多くの名数石仏があります。二天や仁王から5百羅漢まで、いろいろな石仏の組合せがみられますので各地にある名数石仏を訪ねてみましょう。順序は、数の少ないものから多いものへとすすんでいきます。

 ◆2 尊
 二尊の石仏には、多宝如来と釈迦如来の「両尊」、多聞天と持国天の「二天」、金剛力士と密迹金剛の「仁王」、青面金剛にともなう右方童子と左方童子の「二童子」、男女の二神が並ぶ「双体道祖神」がみられます。

 ○ 両尊(りょうそん)
 両尊は、多宝如来と釈迦如来をさします。題目塔と両尊を併せて「一塔両尊」と呼び、日蓮宗では本尊とされます。さらにその前に祖師(日連上人)をおく「日蓮宗三宝尊」や地湧四菩薩などを加えた十界曼荼羅の場合もあります。多摩地方ではこうした十界曼荼羅塔はみかけませんが、足立区関原の常唱庵には寛文元年の光背型塔があります。

 ○ 二天(にてん)
 二天は、四天王のうちの多聞天と持国天をさします。その他に日天子と月天子、あるいは帝釈天と梵天を指す場合もあります。青梅市柚木町1丁目の即清寺の裏山にある新四国八十八か所霊場の結願の88番塔には、二天の浮彫り像がみられます。宝塔を捧げて岩座に立つ多聞天(毘沙門天)と右手に戟を持って岩座に立つ増長天の二天が側面に刻まれています。

 ○ 仁王(におう)
 仁王は、伽藍の守護神として安置されます。口を開いた阿形(密迹金剛)と閉じた吽形(那羅延金剛)とがあります。本来は1体の像(金剛力士)の分身といわれています。町田市木曾町の福昌寺の昭和55年の丸彫り像や「平和仁王」と呼ばれる秋川市(現・あきる野市)二宮の玉泉寺の昭和60年丸彫り像がしられています。狛江市和泉の荒井家には、年代不明の線彫り仁王があります。

 ○ 二童子(にどうじ)
 二童子は、青面金剛の眷属である右方童子と左方童子をさします。地蔵三尊の掌善童子と掌悪童子をいう場合もあります。調布市東つつじケ丘1−16の路傍にある寛政12年の庚申塔には、主尊の青面金剛の従者として二童子と四夜叉が浮彫りされています。

 ○ 双体道祖神(そうたいどうそじん)
 男神と女神の2体の神像を刻んだ道祖神をいいます。多摩地方では、相州と境を接する町田市内に多くみられ、たとえば成瀬の成瀬高校近くの路傍には寛保年代の浮彫り双体像があります。その他に八王子や日野に分布し、八王子市片倉町只沼の路傍には享保9年の浮彫り像があります。
 ◆3 尊
 三尊の石仏には、釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩や釈迦如来・薬王菩薩・薬上菩薩、あるいは釈迦如来・迦葉尊者・阿難尊者の「釈迦三尊」、阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩の「阿弥陀三尊(略して「弥陀三尊」という)、薬師如来・日光菩薩・月光菩薩の「薬師三尊」、地蔵菩薩・掌善童子・掌悪童子の「地蔵三尊」、不動明王・矜羯羅童子・制〓迦童子の「不動三尊」、毘沙門天・吉祥天・善膩師童子の「毘沙門三尊」、弁天・毘沙門天・大黒天の「弁天三尊」、御岳山座王大権現、8海山大頭羅神王・三笠山刀利天宮、あるいは御岳山国常立大神・八海山国狭槌大神・三笠山豊斟〓大神の「御岳三座神」があります。
 ○ 釈迦三尊(しゃかさんぞん)
釈迦三尊は、釈迦如来を主尊として普賢菩薩と文殊菩薩か薬王菩薩と薬上菩薩、あるいは迦葉尊者と阿難尊者を脇侍とする三尊をいいます。埼玉県大里郡寄居町末野の少林寺は五百羅漢で有名ですが裏山の山頂には釈迦如来を中央に、向かって右に獅子にのる文殊菩薩、左に象にのる普賢菩薩を配しています。天保3年の造立です。迦葉尊者と阿難尊者を脇侍とする三尊の例は、広島県3原市小泉町の白滝山の磨崖仏がしられています。

 ○ 薬師三尊(やくしさんぞん)
 薬師三尊は、薬師如来を主尊として日光菩薩と月光菩薩を脇侍とする三尊をいいます。羽村市川崎の宗禅寺の境内には、双体道祖神の間にはさまって自然石に浮彫りされた薬師三尊像があります。主尊の薬師如来の頭上には、天蓋が刻まれています。

 ○ 弥陀三尊(みださんぞん)
 弥陀三尊は、阿弥陀如来を主尊として観世音菩薩と勢至菩薩を脇侍とする三尊をいいます。多摩地方にのこっている板碑には、阿弥陀如来、あるいは弥陀三尊の種子を刻んだものが多くみられます。

 ○ 地蔵三尊(じぞうさんぞん)
 地蔵三尊は、地蔵菩薩を主尊として掌善童子と掌悪童子を脇侍とする三尊をいいます。埼玉県坂戸市小山の共同墓地には、安永6年の笠付型塔の正面に地蔵を、両側面に掌善童子と掌悪童子の二童子を浮彫りしています。

 ○ 三世仏(さんぜぶつ)
 三世仏は、前世の釈迦如来、現世の地蔵菩薩、来世の弥勒菩薩の3仏をいいます。小平市小川町・小川寺の境内には、過去・現在・未来の三世仏を柱状型の3面に浮彫りした石塔があります。

 ○ 不動三尊(ふどうさんぞん)
 不動三尊は、不動明王を主尊として矜羯羅童子と制〓迦子を脇侍とする三尊をいい、多摩各地でみられます。青梅市二俣尾5丁目平溝の路傍には元治元年の丸彫り像が、同市柚木町の即清寺には年代不明の浮彫り像があります。

 ○ 毘沙門三尊(びしゃもんさんぞん)
 毘沙門三尊は、毘沙門天を主尊として妻の吉祥天と子の善膩師童子を脇侍とする三尊をいいます。青梅市青梅の清宝院(大柳不動)には、安政2年の毘沙門三尊浮彫り像がみられます。中央は主尊の毘沙門天で右手に3叉棒、左手に宝塔を捧げた武装形で、尼藍婆と毘藍婆の二邪鬼の上にたっています。右に吉祥天、左に顔の欠けた善膩師童子の立像をそえます。

 ○ 弁天三尊(べんてんさんぞん)
 弁天三尊は、弁天を主尊として毘沙門天と大黒天を脇侍とする三尊をいいます。八王子市狭間町の高楽寺にある観音洞窟には、丸彫りの三尊像がみられます。天明の頃に作られたものと思われます。

 ○ 木曽御岳三神(きそおんたけさんじん)
 木曽御岳三神は、御岳山大権現・八海山大頭羅神王・三笠山刀利天宮の3神をいいます。埼玉県比企郡吉見町流川の羽黒神社には、天保8年の浮彫り立像があります。

 ◆4 尊
 四尊の石仏には、持国天・増長天・広目天・多聞天の「四天王」、青面金剛がともなう「4夜叉」があります。
 ○ 四天王(してんのう)
 四天王は帝釈天につかる東方の持国天・南方の増長天・西方の広目天・北方の多聞天(毘沙門天)の総称で、四方を守護する護法神です。瑞穂町箱根ケ崎の円福寺には、8角柱の幢身の正面に「報恩謝恩」と刻む昭和62年の石幢があります。寺の開山四百年を記念してたてられたもので、龕部の4面には四天王が浮彫りされています。

 ○ 四夜叉(よんやしゃ)
 四夜叉は、青面金剛の従者です。調布市東つつじケ丘1−16の路傍にある寛政12年の庚申塔には、青面金剛の下に二童子と四夜叉の浮彫り像がみられます。

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 五尊の石仏には、大日如来・阿〓如来・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来の「五智如来」、不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の「五大明王」、埴安媛命・倉稲魂命・大己貴命・天照大神・少名彦命の「五神名地神」があります。

 ○五智如来(ごちにょらい)
 五智如来は、大日如来を中心にして東方の阿〓如来・南方の宝生如来・西方の阿弥陀如来・北方の不空成就如来の金剛界五仏をいいます。八王子市緑町の直入院には、丸彫りの五智如来があります。大日如来と阿弥陀如来、釈迦如来の3体は延宝8年の造立で、阿〓如来と宝生如来の2体は元禄4年にたてられています。町田市相原町権現谷には、宝暦3年の石幢に五智如来が浮彫りされています。国立市矢川の甲州街道の路傍には、木祠の中に4角柱の正面に2体、他の3面に各1体の五智如来を浮彫りした石塔があります。

 ○ 五大明王(ごだいみょうおう)
 五大明王は、「五大尊」とか「五大尊明王」ともいいます。中央の不動明王・東方の降3世明王・南方の軍荼利明王・西方の大威徳明王・北方の金剛夜叉明王の五明王をさします。天台系では、金剛夜叉明王にかえて烏枢渋摩明王をくわえます。田無市向台町の持宝院には、大正12年の5大明王の浮彫り像がみられ、その他に不動八大童子や三十六童子もあります。

 ○ 五神名地神(ごしんめいじしん)
 五神名地神は、天照大神、倉稲魂命、大己貴命、少彦名命、埴安姫命の5柱の神です。埼玉県大里郡寄居町末野の末野神社境内には、五神名地神の尊名を刻む明治33年の塔があります。

 ◆6 尊
 六尊の石仏には、都内6か所の阿弥陀霊場の「六阿弥陀」、千手観音・聖観音・馬頭観音・十1面観音・准提観音(または不空羂索観音)・如意輪観音の「六観音」、壇陀地蔵・宝珠地蔵・宝印地蔵・持地地蔵・除蓋障地蔵・日光地蔵(これは一例で他にも諸説がある)の「六地蔵」があります。
 ○ 六阿弥陀(ろくあみだ)
 六阿弥陀は春秋の彼岸に参詣するとご利益が多いという東京都内6か所(台東・江東・北・足立)にある阿弥陀如来の霊場をいいます。この六阿弥陀を写した石塔が狛江市和泉・玉泉寺にあります。自然石に阿弥陀像を陰刻した塔で、明治19年頃のものです。

 ○ 六観音(ろくかんのん)
 六観音は、六道の衆生を救う聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、如意輪観音、不空羂索観音の6種の観音をいいます。東密では不空羂索観音の代わりに准提観音をくわえます。多摩市関戸の観音寺近くの路傍には、6体の石仏があります。六観音で右から聖観音・馬頭観音・千手観音・十一面観音・准提観音・如意輪観音の順に浮彫り立像が並んでいます。

 ○ 六地蔵(ろくじぞう)
 六地蔵は、六道で衆生の苦しみを救う6種の地蔵菩薩をさします。6種の像については出典によって諸説がみられ、持物や印相による形像の違いがあります。丸彫りの六地蔵は、多摩の各市町村に分布していますから、ここでは特徴のある一石六地蔵をあげておきましょう。青梅市勝沼の乗願寺にある嘉永2年のものは、上下2段に3体ずつ浮彫りされています。檜原村白倉の旧威徳寺の寛政2年塔は、中央に大日如来の座像をおき、左右に3体ずつ地蔵の立像を配しています。奥多摩町原の奥多摩郷土資料館の庭にある六地蔵は、文化7年の造立で、中央には観音菩薩の立像、その左右に地蔵の立像が3体ずつ並んでいます。

 ◆ 7 尊
 七尊の石仏には、毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏・狗留孫仏・狗那含牟尼仏・迦葉仏・釈迦牟尼仏の「過去七仏」、千手観音・馬頭観音・十一面観音・聖観音・如意輪観音・准提観音・不空羂索観音の「七観音」、千手観音・聖観音・馬頭観音・十一面観音・准提観音・如意輪観音・勢至菩薩の「七夜待本尊」、それに大黒天・恵比須・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人(または吉祥天)・布袋和尚の「七福神」があります。

 ○ 過去七仏(かこしちぶつ)
 過去七仏は、毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏・狗留孫仏・狗那含牟尼仏・迦葉仏・釈迦牟尼仏を総称していいます。広島県因島市重井町の白滝山には、年代不明の過去七仏丸彫り立像があります。
 ○ 七観音(しちかんのん)
 七観音は、千手観音、聖観音、馬頭観音、十一面観音、准提観音、如意輪観音、不空羂索観音の7種の観音を総称していいます。青梅市青梅の梅岩寺には、文化14年の「普門品十五萬巻」供養塔があって、その上部に蓮華座を置いて、その上に七観音の浮彫り座像がみられます。
 ○ 七夜待本尊(しちやまちほんぞん)
 七夜待本尊は、千手観音・聖観音・馬頭観音・十一面観音・准提観音・如意輪観音・勢至菩薩の7菩薩をさし、十七夜から二十三夜までの七夜のそれぞれの本尊とします。青梅市谷野の真浄寺には、文化11年の丸彫りの七夜待本尊立像がみられます。
 ○ 七福神(しちふくじん)
 七福神は、恵比須・大黒天・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋の総称です。福禄寿と寿老人は、異名同体として吉祥天をくわえる場合があります。町田市3輪町の高蔵寺には、弘法大師の千五十年遠忌を期して翌年の昭和60年造立の丸彫り像があります。調布市柴崎の光照寺には、天皇の御大典を記念して平成2年に造られた「ほほえみ七福神」の丸彫り像がみられます。多摩青梅七福神の寿老人を祀る青梅市黒沢の聞修院には、平成3年の暮れに檀家から寄進された小さな丸彫り像が本堂の前に安置されています。武蔵村山市3ツ木の滝ノ入不動には、吉祥天をくわえた七福神がみられます。昭和40年代の岡崎の石工の作です。

 ◆ 8 尊
 八尊の石仏には、一代の守り本尊とされます千手観音・虚空蔵菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩・勢至菩薩・大日如来・不動明王・阿弥陀如来の2如来5菩薩1明王の「八体仏(一代の守り本尊)」と、不動明王の眷属である矜羯羅童子・制〓迦童子・慧光童子・慧喜童子・烏倶婆伽童子・清浄比丘・阿耨達童子・指徳童子の「八大童子」とがあります。
 ○ 八体仏(はったいぶつ)
 八体仏は、一代の守り本尊とされる子歳の千手観音・丑寅歳の虚空蔵菩薩・卯歳の文殊菩薩・辰巳歳の普賢菩薩・午歳の勢至菩薩・未申歳の大日如来・酉歳の不動明王・戌亥歳の阿弥陀如来の8体をいいます。長野県東筑摩郡山形村清水高原の清水寺境内には、享保15年の層塔の1層と2層の各4面に八体仏とそれぞれに因む十二支の動物が浮彫りされています。厳密な意味では八体仏ではありませんが、小平市小川町・小川寺には独立した千手観音(平成4年)と十三仏(平成5年)の虚空蔵菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩・勢至菩薩・大日如来・不動明王・阿弥陀如来を組み合わせて八体仏としています。
 ○ 八大童子(はちだいどうじ)
 八大童子は、不動明王である眷属の慧光童子・慧喜童子・阿耨達童子・指徳童子・烏倶婆伽童子・清浄比丘・矜羯羅童子・制〓迦童子の8童子の総称です。田無市向台町の持宝院には、大正12年造立の丸彫りの立像があります。

 ◆ 10 尊
 十尊の石仏には、冥府で亡者の罪状を決める秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻羅王・変成王・太山王・平等王・都市王・五道転輪王の「十王」と大迦葉・阿難・舎利弗・目〓連・阿那律・須菩提・富楼那・迦旃延・優波離・羅〓羅の「十大弟子」があります。
 ○ 十王(じゅうおう)
 十王は、地獄で死者をさばく十人の王をいいます。初七日の秦広王・二七日の初江王・三七日の宋帝王・四七日の五官王・五七日の閻羅王(閻魔大王)・六七日の変成王・七七日の太山王(泰山府君王)・百日の平等王・一年の都市王・三年の五道転輪王の順に審判をします。狛江市和泉の玉泉寺には、十王と地蔵、奪衣婆、倶生神、淨玻璃の鏡が1組となった石仏がみられます。
 ○ 十大弟子(じゅうだいでし)
 十大弟子は、釈迦の弟子である舎利弗尊者・目〓連尊者・摩訶迦葉尊者・阿那律尊者・須菩提尊者・富楼那尊者・迦旃延尊者・優波離尊者・羅〓羅尊者・阿難陀尊者の10人をいいます。町田市木曾町の福昌寺には、昭和54年の丸彫り座像がみられます。

 ◆ 12尊
 十二尊の石仏には、帝釈天・水天・焔魔天・羅刹天・水天・風天・毘沙門天・伊舎那天・梵天・地天・日天・月天の「十二天」と、宮毘羅大将・伐折羅大将・迷企羅大将・安底羅大将・末〓羅大将・珊底羅大将・因陀羅大将・波夷羅大将・摩虎羅大将・真達羅大将・招杜羅大将・毘羯羅大将の「十二神将」とがあります。
 ○ 十二天(じゅうにてん)
 十二天は、帝釈天・火天・焔魔天・羅刹天・水天・風天・毘沙門天・伊舎那天・梵天・地天・日天・月天の尊天を総称していいます。石仏としては、兵庫県姫路市山野井の不動院墓地にある寛政7年の浮彫り像がしられています。
 ○ 十二神将(じゅうにじんしょう)
 十二神将は、薬師如来の眷属である宮毘羅大将・伐折羅大将・迷企羅大将・安底羅大将・末〓羅大将・珊底羅大将・因陀羅大将・波夷羅大将・摩虎羅大将・真達羅大将・招杜羅大将・毘羯羅大将の総称です。埼玉県熊谷市三ケ尻の徳蔵寺には、延宝5年の十二神将浮彫り立像がみられます。
 ◆ 13 尊
 十三尊の石仏には、不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観世音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿〓如来・大日如来・虚空蔵菩薩の「十三仏」があります。
 ○ 十三仏(じゅうさんぶつ)
 十三仏は、死者を追善供養する初七日から三十三年忌までの忌日に本尊とされる初七日の不動明王・二七日の釈迦如来・三七日の文殊菩薩・四七日の普賢菩薩・五七日の地蔵菩薩・六七日の弥勒菩薩・七七日の薬師如来・百日の観世音菩薩・一年の勢至菩薩・三年の阿弥陀如来・七年の阿〓如来・十三年の大日如来・三十三年の虚空蔵菩薩の十三の仏・菩薩・明王をいいます。青梅市成木7丁目の高水山鳥居場には、元禄10年の十三仏浮彫り像がみられます。小平市小川町・小川寺の境内には、平成5年8月3日に開眼供養された十三仏があります。

 ◆ 15 尊
 十五尊の石仏には、弁天の眷属である印鑰(別名・麝香)童子・官帯(赤音)童子・筆硯(香精)童子・金財(召請)童子・稲籾(大神)童子・計升(悪女)童子・飯櫃(質月)童子・衣裳(除〓)童子・蚕養(悲満)童子・酒泉(密跡)童子・生命(臍虚空)童子・従者(施無畏)童子・牛馬(随令)童子・船車(光明)童子の「十五童子」があります。
 ○ 十五童子(べんてんじゅうごどうじ)
 十五童子は、弁天の眷属である前記の印鑰童子などの十五人の童子の総称です。善財童子を加えて「十六童子」という場合もあります。石仏としては、稲城市矢野口の威光寺弁天窟にある宝暦8年の浮彫り立像がしられています。

 ◆ 16 尊
 十六尊の石仏には、大般若経を守護する提頭頼宅善神・毘盧勒叉善神・摧伏毒害善神・増益善神・獅子威猛善神・勇猛心地善神・摂伏諸魔善神・能救諸有善神・離一切怖畏善神・救護一切善神・吠室羅摩拏善神・毘盧博叉善神・抜除罪苦善神・能忍善神・歓喜善神・除一切障難善神の「十六善神」と、前の弁天十五童子に善財童子をくわえた「十六童子」、賓度羅跋羅墮闍尊者・迦諾迦伐蹉尊者・迦諾迦跋釐闍尊者・蘇頻陀尊者・諾矩羅尊者・跋陀羅尊者・迦哩迦尊者・伐闍羅弗多羅尊者・戌博迦尊者・半托迦尊者・羅怙羅尊者・那迦犀那尊者・因掲陀尊者・伐那婆斯尊者・阿氏多尊者・注荼半菩托迦尊者の「十六羅漢」があります。
 ○ 十六善神(じゅうろくぜんじん)
 十六善神は、大般若経の護持を誓った前記の毘盧勒叉者善神や能忍善神などの16の夜叉神をいいます。この石仏は稀で、広島県3原市小泉町の白滝山の磨崖仏がしられるだけです。
 ○ 十六童子(じゅうろくどうじ)
 十六童子は、弁天の眷属である十五童子に善財童子をくわえています。十六童子の石仏は、埼玉県飯能市上直竹の弁天橋東詰路傍にある安永3年の弁天像の台石に浮彫りされています。
 ○ 十六羅漢(じゅうろくらかん)
 十六羅漢は、正法を護持して衆生を救う前記の賓度羅跋羅堕闍尊者などの16尊者をいいます。瑞穂町殿ケ谷の福正寺には昭和58年の、日の出町平井の宝光寺には昭和59年の、青梅市成木の紫雲院には平成3年の丸彫り像があります。

 ◆ 18 尊
十八尊の石仏には、前の十六羅漢に慶友尊者と賓頭盧尊者をくわえた「十八羅漢」があります。慶友と賓頭盧の代わりに、迦葉と軍徒鉢歎の両尊者とする場合がみられます。
 ○ 十八羅漢(じゅうはちらかん)
 十八羅漢の石仏は、神奈川県横浜市戸塚区田谷町の定泉寺洞窟に刻まれた浮彫り像(年代不明)がしられています。

 ◆ 21 尊
 二十一尊の石仏には、「山王二十一社」があります。山王二十一社は、大宮・二ノ宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三ノ宮(以上が上七社)・下八王子・王子宮・早尾・大行事・聖女・新行事・牛御子(以上が中七社)・二宮竈殿・山未・小十禅師・気比・岩滝・悪王子・大宮竈殿(以上が下七社)を合わせていいます。
 ○ 山王二十一社(さんのうにじゅういっしゃ)
 山王二十一社の刻像の石仏は見当たりませんが、埼玉県草加市稲荷町の慈尊院には山王二十一社の本地仏の種子を刻む寛永13年塔があります。

 ◆ 25 尊
 二十五尊の石仏には、弥陀来迎の「二十五菩薩」があります。観世音菩薩・大勢至菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩・普賢菩薩・法自在菩薩・獅子吼菩薩・陀羅尼菩薩・虚空蔵菩薩・徳蔵菩薩・宝蔵菩薩・金蔵菩薩・金剛蔵菩薩・光明王菩薩・山海彗菩薩・華厳王菩薩・衆宝王菩薩・月光王菩薩・日照王菩薩・三昧菩薩・定自在王菩薩・大自在王菩薩・白象王菩薩・大威徳王菩薩・無辺身菩薩の二十五菩薩をいいます。
 ○ 二十五菩薩(にじゅうごぼさつ)
 「弥陀来迎二十五菩薩」を略していいます。十往生経に説かれている弥陀来迎の時に、阿弥陀如来に従ってくる前記の観世音菩薩や勢至菩薩などの二十五の菩薩をさします。武蔵村山市3ツ木の滝ノ入不動には、それぞれの光背型塔に二十五菩薩が浮彫りされた立像がみられます。昭和40年代の岡崎の石工の作で、『佛像図彙』を底本にしています。

 ◆ 30 尊
 三十尊の石仏には、三十番神があります。三十番神は、本地垂迹思想に基づいて、日本の諸々の神々が1日から30日まで1か月を交代で守護する30の神々をいいます。天地擁護など7種がありますが、中でも如法(法華経)守護のものが天台宗や日蓮宗で信仰されて有名です。それを1日から順に30日までを示しますと、尾張熱田大明神・信濃諏訪大明神・摂津広田大明神・越前気比大明神・能登気多大明神・常陸鹿島大明神・山城北野天神・近江江文大明神・山城貴船大明神・伊勢天照皇大神・山城八幡大明神・山城加茂大明神・山城松尾大明神・山城大原大明神・大和春日大明神・山城平野大明神・近江大比叡権現・近江小比叡権現・近江聖真子権現・近江客人権現・近江八王子権現・山城稲荷大明神・摂津住吉大明神・山城祇園大明神・近江赤山大明神・近江健部大明神・近江3上大明神・近江兵主大明神・近江苗鹿大明神・備中吉備大明神の30の神々を当てています。
 ○ 三十番神(さんじゅうばんじん)
 三十番神は、前記のように1日の尾張の熱田大明神から30日の備中の吉備大明神まで30の神々をいいます。三十番神の神像を刻んだ石仏は、まだしられておりませんが,千葉県流山市長崎の路傍には三十番神の神名を彫った天保6年塔がみられます。

 ◆ 33 尊
 三十三尊の石仏には、観音の三十三化身に基づいた「三十三体観音」と「三十三所観音」とがあります。どちらも「三十三観音」とよばれています。三十三体観音は、揚柳観音・龍頭観音・持経観音・円光観音・遊戯観音・白衣観音・蓮臥観音・滝見観音・施薬観音・魚籃観音・徳王観音・水月観音・一葉観音・青頸観音・威徳観音・延命観音・衆宝観音・岩戸観音・能静観音・阿耨観音・阿麼提観音・葉衣観音・瑠璃観音・多羅尊観音・蛤蜊観音・六時観音・普悲観音・馬郎婦観音・合掌観音・一如観音・不二観音・持蓮観音・灑水観音の三十三の観音をいいます。三十三所観音は、西国三十三所と坂東三十三所の本尊の観音が主で、その他にローカルな観音霊場の本尊がみられます。
 ○ 三十三体観音(さんじゅうさんたいかんのん)
 三十三体観音は、観音が三十三の姿に変化して衆生を救うとされるところから、揚柳観音や龍頭観音などの三十三の姿に作られています。埼玉県北埼玉郡川里村屈巣の円通寺には、1基に11体ずつ3基に揚柳観音を始めとして33体が浮彫りされています。
 ○ 三十三所観音(さんじゅうさんしょかんのん)
 三十三所観音は、西国や坂東の観音霊場三十三所の本尊を写したものがほとんどです。八王子市狭間町の高楽寺の観音洞窟には、天明5年の観音丸彫り像が33体安置されています。狛江市和泉の玉泉寺には、明治19年頃に造られた西国三十三観音があり、小平市小川町・小川寺の境内には、浮彫りの「逃げ水の里三十三観音」がみられます。

 ◆ 34 尊
 三十四尊の石仏には、秩父市栃谷の四万部寺から始まり、皆野町日野沢の水潜寺までの秩父「3十四カ所観音」の本尊を刻んだものがあります。
 ○ 三十四所観音(さんじゅうよんしょかんのん)
 三十四所観音は、秩父三十四か所の観音霊場の本尊です。江戸川区東瑞江の下鎌田地蔵堂には、秩父三十四か所の本尊の浮彫り像を刻んだ享保5年の庚申塔が堂の中に安置されています。

 ◆ 36 尊
 三十六尊石仏には、不動明王の眷属の「三十六童子」があります。矜羯羅童子・制〓迦童子・不動慧童子・光網勝童子・無垢光童子・計子〓童子・智慧幢童子・質多羅童子・召請光童子・不思議童子・羅多羅童子・波羅波羅童子・伊醯羅童子・師子光童子・師子慧童子・阿婆羅底童子・利車〓童子・法挟護童子・因陀羅童子・大光明童子・中光明童子・持堅婆童子・仏守護童子・法守護童子・僧守護童子・金剛護童子・虚空護童子・虚空蔵童子・宝蔵童子・吉祥妙童子・戒光慧童子・妙空蔵童子・普光主童子・善 師童子・波利迦童子・烏婆計童子の三十六童子をいいます。
 ○ 三十六童子(さんじゅうろくどうじ)
 三十六童子は、不動明王の眷属の矜羯羅童子や制〓迦童子などの36人の童子の総称です。大正12年に作られた丸彫り像が田無市向台町の持宝院にあり、昭和40年代のものが武蔵村山市3ツ木の滝ノ入不動にみられます。

 ◆ 88 尊
 八十八尊の石仏には、四国八十八か所の霊場に関係するものがあります。88か寺の本尊の像を刻むもの、本尊像と弘法大師座像を並べるもの、88体の弘法大師像で各寺を表すもの、番数や寺名、本尊名、御詠歌などを文字で刻むものなどがみられます。
 ○ 四国八十八か所(しこくはちじゅうはっかしょ)
 四国八十八か所の霊場の寺の本尊を写した石仏には、東村山市久米川の梅岩寺にある文政7年のものや国分寺市西元町の国分寺薬師堂裏にある浮彫り像がしられています。昭和9年に作られた多摩新四国八十八か所霊場は、本尊と弘法大師を並べたもので、東京都と埼玉県の10市2町に分布しています。
 ○ 八十八大師(はちじゅうはちだいし)
 四国八十八か所の霊場に因んで88体の弘法大師像を作る場合があります。日野市高幡の金剛寺(高幡不動)には、88体の丸彫りの弘法大師座像が安置されています。

 ◆ 100 尊
 百尊の石仏には、西国三十三番・坂東三十三番・秩父三十四番の「百観音」と百番観音を順拝してたてられた「百番塔」、百基あるいはそれ以上の庚申塔、あるいは1塔に青面金剛を百体や「庚申」を百刻んだ「百庚申」がみられます。
 ○ 百観音(ひゃくかんのん)
 百観音は、西国・坂東・秩父の百所の観音をいいます。山梨県韮崎市神山町の武田八幡境内には、1石に百番観音を浮彫りした宝永6年の塔があります。
 ○ 百番塔(ひゃくばんとう)
 百番塔は、西国、坂東、秩父の百番札所を順拝して造立した石塔をいいます。檜原村には百番塔が各地に分布しています。
 ○ 百庚申(ひゃくこうしん)
 百庚申には、埼玉県和光市下新倉の吹上観音境内にあるように、嘉永年間の庚申塔が百基以上あるような場合もありますし、群馬県群馬郡倉淵村岩永の塔には百体の青面金剛の浮彫り像がみられ、群馬県群馬郡群馬町棟高の路傍にある万延元年塔のように「庚申」の文字を百刻んでいる場合もあります。武蔵村山市中村には、自然石に「百庚申」と刻まれた万延2年塔があります。

 ◆ 500 尊
 五百尊の石仏には、阿若橋陣如から雄事衆までの釈迦の弟子500人の「五百羅漢」のものがあります。
 ○ 五百羅漢(ごひゃくらかん)
 五百羅漢は釈尊滅後の第1結集に、また第4結集に集まった釈迦の弟子500の羅漢をいいます。立川市砂川町2丁目の流泉寺や青梅市成木の紫雲院では、現在も五百羅漢の石仏が作られ続けてています。

 多摩地方には、以上にみてきたように名数石仏が分布しています。主な名数石仏の所在地を次に1覧表にまとめてみました。石仏散歩の参考にしてください。
   多摩地方名数石仏所在地一覧表
   ┏━━━━━┯━━━━━━━━┯━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
   ┃寺   名│所  在   地│   名数石仏                  ┃
   ┣━━━━━┿━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫
   ┃高 楽 寺│八王子市狭間町 │弁天三尊・六地蔵・十王・三十三所観音       ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃流 泉 寺│立川市砂川町  │五百羅漢                     ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃梅 岩 寺│青梅市青梅・仲町│六地蔵・七観音・西国三十三か所          ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃清 宝 院│青梅市青梅・大柳│不動三尊・毘沙門三尊               ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃真 浄 寺│青梅市谷野   │一石六地蔵・七夜待本尊              ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃即 清 寺│青梅市柚木町  │二天・不動三尊・六地蔵・十三仏板碑・四国八十八カ所┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃紫 雲 院│青梅市成木   │六地蔵・十六羅漢・五百羅漢            ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃高 蔵 寺│町田市三輪町  │六地蔵・七福神                  ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃福 昌 寺│町田市木曽町  │仁王・六地蔵・十大弟子              ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃小 川 寺│小平市小川町  │三世仏・六地蔵・十三仏・三十三観音        ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃金 剛 寺│日野市高幡   │六地蔵・八十八大師                ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃梅 岩 寺│東村山市久米川 │六地蔵・四国八十八か所              ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃持 宝 院│田無市向台町  │五大明王・八大童子・三十六童子          ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃玉 泉 寺│狛江市和泉   │六地蔵・六阿弥陀・十王・西国三十三観音      ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃滝ノ入不動│武蔵村山市三ツ木│七福神・二十五菩薩・三十六童子          ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃威 光 寺│稲城市矢野口  │十五童子                     ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃玉 泉 寺│秋川市二宮   │仁王・六地蔵                   ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃宗 禅 寺│羽村市川崎   │双体道祖神・薬師三尊・六地蔵           ┃
   ┠─────┼────────┼─────────────────────────┨
   ┃円 福 寺│瑞穂町箱根ケ崎 │四天王・六地蔵                  ┃
   ┗━━━━━┷━━━━━━━━┷━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

                            『野仏』第25集(平成6年刊)所収

現代双体道祖神
 最近では、「青梅市内には、双体道祖神が分布していない」とは書けなくなった。というのも、市内に現代作の双体道祖神像がみられるからである。平成7年11月発行予定の『青梅市史』の原稿には、「双体道祖神は、長淵・玉泉寺や成木・紫雲院にみられるが、住職の好みで佐渡や飯能で買ったものである。個人の家の庭にも、現代作の双体道祖神がみられる」と書いておいた。
 今年(平成7年)3月の某日、青梅市内散策をしていた時に、JR青梅線沿いにある西分町の高石家の前庭に、現代作の双体道祖神があるのに気がついた。ご主人に聞いたところ、市内新町にあるJマートで買ったものだという。
 まだ新町のJマートには行っていないが、JR中央線吉祥寺の駅ビル・ロンロン2階にある民芸店では、自然石に彫られた双体道祖神を2万円から3万円で売っていた。過日、阿佐ヶ谷のパール商店街にある民芸店でも、双体道祖神が売られているのを見た。5日市町の檜原街道沿いにある石屋の店頭にも飾られている。昨年、青梅市内の石屋でもみている。いずれも現代作のものである。このように、双体道祖神が店頭に置かれていること自体、現代作の道祖神の需要があることを示している。
 青梅市内で初めて双体道祖神をみたのは、平成2年正月だと思う。毎年正月2日か3日には、妻と一緒に青梅市内にある多摩七福神を廻って、疲れ具合でその年の体調を占うのが通例になっている。その七福神めぐりで、長淵の玉泉寺で出会ったのである。次いで、成木の紫雲院では、十六羅漢と五百羅漢を調べた時にみた。それらと、青梅市文化財審議会福会長の金嶽義男さんから、うちの庭にも双体道祖神があるよ、と聞いていたので、前記のような『青梅市史』の原稿となったわけである。
 4月の中旬に妻と信州を旅行した。穂高のホテルに行く前に、松本で下車して松本城を見学した。お城はダシで、城内にある日本民俗資料館に展示されてある神酒の口が目的だったのである。館内の売店には、松本市教育委員会文化係編の『松本の道祖神』(平成6年刊)があったので求めた。
 駅からお城までの途中で、大名町の駐車場の角に双体道祖神があるのに気付いた。横長の自然石の表面を丸く彫り窪め、中央に双体像を肉彫りしている。裏面には、施主銘の「(贈)大成建設・北建共同企業体 大同設備工業 中川電気・松本電業建設共同企業体」が刻まれている。平成4年の造立である。
 先述の『松本の道祖神』によって、戦後に造立されたものを造立年代順に1表にまとめて示すと、
   松本市内戦後造立道祖神1覧表
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   ┃NO│造立年 │刻像・主銘│塔 形│所    在   地┃
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   ┃1│昭和28年│「道祖神」│自然石│平田新茶屋     ┃
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   ┃2│昭和39年│「道祖神」│自然石│高松島高松梓川端  ┃
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   ┃3│昭和46年│双体道祖神│自然石│百瀬        ┃
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   ┃4│昭和51年│双体道祖神│自然石│松本民芸館     ┃
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   ┃5│昭和53年│双体道祖神│柱状型│松本駅前      ┃
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   ┃6│昭和53年│双体道祖神│自然石│小池        ┃
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   ┃7│昭和53年│双体道祖神│自然石│温泉道祖神第8番  ┃
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   ┃8│昭和53年│双体道祖神│自然石│温泉道祖神第5番  ┃
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   ┃9│昭和54年│双体道祖神│自然石│温泉道祖神第4番  ┃
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   ┃10│昭和53年│双体道祖神│自然石│温泉道祖神第2番  ┃
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   ┃11│昭和53年│双体道祖神│自然石│温泉道祖神第1番  ┃
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   ┃12│昭和53年│双体道祖神│自然石│温泉道祖神第3番  ┃
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   ┃13│昭和54年│双体道祖神│自然石│温泉道祖神第6番  ┃
   ┠─┼────┼─────┼───┼──────────┨
   ┃14│昭和54年│双体道祖神│自然石│温泉道祖神第10番  ┃
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   ┃15│昭和54年│双体道祖神│自然石│温泉道祖神第7番  ┃
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   ┃16│無紀年銘│双体道祖神│自然石│温泉道祖神第9番  ┃
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  ┃17│昭和57年│双体道祖神│自然石│本町        ┃
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   ┃18│昭和58年│双体道祖神│自然石│宮淵本村      ┃
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  ┃19│昭和58年│双体道祖神│自然石│大名町       ┃
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   ┃20│昭和58年│双体道祖神│自然石│桃仙園       ┃
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   ┃21│昭和62年│双体道祖神│自然石│東区次郎丸     ┃
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   ┃22│昭和63年│双体道祖神│自然石│味の信州村     ┃
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   ┃23│昭和63年│双体道祖神│自然石│JA松本ハイランド ┃
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   ┃24│平成2年│双体道祖神│自然石│南浅間       ┃
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   ┃25│平成4年│双体道祖神│自然石│平瀬川東寺下    ┃
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   ┃26│平成4年│双体道祖神│自然石│大名町       ┃
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   ┃27│平成4年│双体道祖神│自然石│西小松       ┃
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   ┃28│平成5年│双体道祖神│自然石│両島        ┃
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    註) 16は、紀年銘が無いが、一連の温泉道祖神からみて、昭和53〜4年に造立されたと
    推測されるいるので、本表に加えた。
 この一覧表の他にも、中町通り(71頁)にある双体道祖神は、紀年銘がみられないが、石工銘の「田近進刻」から戦後の作と思われる。また、浅間温泉にある地本屋(100頁)のものも、裏面の施主銘と思われる「地本屋」から戦後の作だろう。
 同書に載る平成5年3月現在の「松本市域の道祖神」(168頁)によると、道祖神数は、刻像が179基、文字碑が190基の計3699基である。戦後の50年間に造立された28基は、市内にある道祖神全体の7・6パーセントに当たる。また刻像のものは、紀年銘のある111基に対して、昭和46年以降の26基は、23・4パーセントにのぼり、無紀年銘を含めた刻像全体の14・5パーセントである。意外と多い造立数である。しかも、昭和50年代以降に双体道祖神が建てられているが、その内の10基が浅間温泉(本郷)に集中している。
 JA松本ハイランドにある双体道祖神は、裏面に「松本平農業共同組合建之 結婚相談所 昭和6拾参年拾月吉日 宮淵3丁目 田近進刻」とある。前記の大名町の駐車場やこのハイランドの双体道祖神は、はたして今までの道祖神という範疇に入れていいものなのだろうか。
 遡れば浅間温泉にみられる10基の「温泉道祖神」も、観光用が目的が主ではなかろうか。大名町にある「女鳥羽 名匠宮下近太郎 昭和五十八年癸亥年」「贈 七月吉日 松本拓本研究会」(裏面の説明文は省略されている 71頁)と刻まれた双体道祖神も、施主銘の「松本拓本研究会」からみて、通常考えられる双体道祖神とは異なる趣旨の造塔であろう。
 JR中央線松本駅のフォームにある洗面台の台石には、両側面の2か所に双体道祖神像のレリーフがみられる。これは、JRの観光用の顧客サービスなのであろう。勿論、『松本の道祖神』には載っていない。

 長野県南安曇郡穂高町では、駅前に双体道祖神が1基みられるし、駅近くの田舎家前にも双体道祖神が2基立っている。「安曇野 穂高 道祖神めぐり」には、田舎家前(2基)や東光寺(1基 「子育て道祖神」銘)の現代作の双体道祖神は記載されていないが、駅前や道祖神公園にあるNHKの連続TV小説「水色の時」に登場した現代作の双体道祖神は載っている。
 穂高駅からホテルまでの送迎バスの車窓から、烏川橋の4か所に標柱代わりに自然石の双体道祖神が置かれているのが見えた。車窓から見ただけなので、造立の年月は不明である。ただこれまで、この橋の双体道祖神については聞いていない。
 『松本の道祖神』の79頁にも、薄川に架けられた歩行者専用の見晴橋4か所に双体道祖神(自然石)があり、それぞれに、「見晴橋」「薄川」「みはらしはし」「竣工平成三年十二月」の1行が刻まれている写真が載っている。穂高と同じ発想であろう。同頁の注記には、「この橋に限らず道祖神をモチーフのひとつとするものがこのごろ多いようだ」とある。この4基の双体道祖神は、先述の「松本市域の道祖神」には含まれていない。

 双体道祖神の話が青梅から今年旅行した信州にまで飛び、いろいろな事例をみてきたわけである。先に『日本の石仏』第62号(平成4年刊)に発表した「現代の石仏と時代背景」でも、双体道祖神の項で前述の穂高町や四日市町の石屋の例の他にも、群馬県の水上温泉・松ノ井ホテルの場合をあげておいた。
 観光用や商売上、あるいは鑑賞用にのために造られた双体道祖神は、従来のものとなんらかの区分が必要であろう。この意味からいっても、現代に造立された双体道祖神は、造立の目的から再考される必要がある。(平成7年5月23日記)         『野仏』第26集(平成7年刊)所収

立川の発心地蔵菩薩
 平成7年6月20日(火曜日)、立川に用事があったので、ついでに羽衣町1丁目にある発心地蔵尊を訪ねた。地蔵尊の入口には、次のような掲示がみられる。
    この地蔵尊は、昭和九年二月、踏切事故犠牲者の供養と交通安全を願う地元有志の人達によ
   って建立されました。
    当時、この付近にあった野沢踏切は、人身事故が多く、線路北側松林からの飛び込み自殺も
   度々あった為、魔の踏切と恐れられていました。
    その頃、栄町(現高松町)房宗工務店の店員がこの踏切事故で亡くなり、その嘆きのなかか
   ら店主の房宗弥造氏は、立川駅区内の轢死者の供養と今後の無事故を祈って地蔵尊を祭ること
   を発心、鉄道その他有志の浄財を募り、踏切際に「発心地蔵菩薩」を建立、房宗氏家族をはじ
   め人々は花を捧げ、清掃をするなど、お守りを続け、それから踏切事故も無くなり、付近の人
   達にも喜ばれたと伝えられています。
    ところがその地蔵尊は、昭和二十年四月三日の立川空襲で、隣接の立川工作所と共に被爆、
   損傷し、荒れ果てたままとなり、この地区で再び轢死事故の惨事をみたところから、昭和30
   年、房宗弥造氏は、有志の人と千人供養祈願の募金を行い、地蔵尊を現在地に移転再建のうえ
   供養を営みました。
    爾来、この地蔵尊は、近隣、通行人の方々から尊崇されてきました。再建されてからも既に
   三十三年を経て、尊域の荒れも甚だしいので、昭和六十三年五月、日本自動車学校の改築を機
   に縁りの方々の御了承を得て補修を行い、全国交通安全運動に因んで、同年九月二十五日、正
   楽院光明権大僧正導師の下、有志の方々と共に諸霊供養と交通安全祈願の法要を勤修をした次
   第であります。   昭和六十三年九月                 日本自動車学校
 木祠の中に安置された地蔵は、丸彫りであるが、赤の前掛けが何枚も掛けてあって、持物が何かわからない。1枚1枚はずすと、やっと像容が現れた。赤い頭巾を2つかぶり、赤の羽織を4枚、赤の前掛けを9枚重ねている。地蔵の像容は、右手に錫杖、左手に数珠を持つ立像である。台石の正面には「発心地蔵菩薩」、裏面には「昭和十年一月廿四日 建立 房宗弥造」と刻まれている。
 祠には、塔婆がみられる。表面には「キュ カ ラ バ ア」の下に梵字の地蔵真言と「為彼岸会無縁有縁1切之精霊供養菩提也」とあり、裏面には梵字の下に「南無金剛遍照 昭和六十三年九月二十五日 施主 トヨタ自動車教育センター建立」と記されている。
 私がこの地蔵尊を知ったのは、もう20年以上前になる。JR中央線の上り電車が立川駅を出てしばらくすると、車窓から線路の南側に地蔵の祠が見える。日本自動車学校の東北角の辺りである。いつも気になりながら、車窓から眺めるだけだった。気付いてから20数年後に、やっと実物に対面したわけである。
 発心地蔵菩薩が造立された当時の手掛かりが何かないかと、翌21日に昭島市民図書館に行った。ここには、朝日・読売・毎日などの多摩版のマイクロフィルムがある。先ず、事故のあった昭和9年の東京日日新聞と読売新聞のフィルムを調べたが、何の手掛かりもない。地蔵尊の建った翌十年を調べると、1月25日(金曜日)付けの東京日日新聞府下版に「魔の踏切に」の見出しに続けて
    立川驛東部信號所付近は魔の場所。夜、赤いシグナルに憑かれたやうに電車に飛び込むもの
   多く、しかも一人として助かったものはなく、完全に目的を達する理想的?の自殺の場所とし
   て有名。立川驛の調査によると、すでに廿五人の命が線路に奪はれてゐるので、今回、同町三
   八二の近くの踏切際に地蔵尊を建立、廿四日正午、正樂院住職佐藤師の手で盛んな入佛式を行
   つた。房宗さんが建立の動機は、昨年九月廿二日、弟子の中野彌五郎少年がここで自殺してか
   ら、弟子を思ふ親方の情とも、一つ過去の罪業の償いに發心したもので、房宗さんが地蔵尊を
   信じ、建立準備を初めてから、すでに二人の自殺志願者が未遂で救はれたといふ。空には新鋭
   機が亂舞する先端、空の都に異風景が一つ生まれたわけ。(注 句読点は筆者)がみられ、さらに2月26日(火曜日)付けの同紙に「魔除け地蔵も 霊験ないか 目前で轢殺される」の見出で
    昨本紙既報 立川驛東部信號所傍の魔の踏み切で轢殺された砂川村瀧島光造さんは、もと下
   駄商を營み、相當の財産を持ってゐたが、昭和8年、妻のふじさんが死産して精神に異常を呈
   してから不幸が續き、その療養に財産を費ひ果し、最近、やうやく快方に向かったので、自分
   は國立の工事場へ佐官の下働きに出て、長男國秋君(一四)は子守奉公をして、一家の生活を
   たてゝゐたもので、同日は仕事の歸途、前記の踏み切りを横斷せんとして遭難したものであっ
   た。それにしても不思議なのは、横斷する時、貨物電車の進行して來るのを知って二、三人が
   退避してゐたのに、瀧島さんだけ横斷して轢かれたことで、1月末建立した魔よけの發心地蔵
   の目の前の事故だけに大きな皮肉である。地蔵の建立者、立川町、房宗さんの話
   昨日は、同じ場所近くで、死んだ弟子の命日で供養した所でしたのに、轢かれるなんて、よく
   よく死神に憑かれた人なんでせう。(冩真はその魔の踏切り、左手が地蔵、自転車のあるとこ
   が轢かれたもの)(注 句読点は筆者)と報じられている。発心地蔵菩薩は、写真からみると野沢踏切の南東角に、踏切に通じる道路に面して西向きの祠の中にあるらしい。この二つの記事で、地蔵尊造立当時の事情が明になってきた。残念ながら、昭和10年の読売新聞には記事がみられなかった。
 発心地蔵菩薩を調べようと考えたのは、6月3日に青梅中央図書館でたまたま昭和63年9月24日(土曜日)付けの毎日新聞多摩版を見たからである。見出しの「『無事故』祈り補修 建立54年立川の『発心地蔵』 あす法要」に続けて
    昭和九年、鉄道自殺の防止と無事故を願って建立された立川市羽衣町一丁目の「発心地蔵」
   が補修され、二十五日午前十時半から、秋の全国交通安全運動期間にちなんで法要が営まれる
   ことになった。
    発心地蔵があるのは、JR中央線の通称野沢踏切りそばの市道沿い。現在は日本自動車学校
   (大西修社長)の敷地になっている。昭和初期、自殺者が相次ぎ「魔の踏切」と恐れられた。
   当時、立川市高松町で工務店を営んでいた故・房宗弥造さんの弟子が野沢踏切で自殺したこと
   から、房宗さんは町の有志に呼びかけ九年二月、地蔵を建立した。
    地蔵が出来て事故がなくなり近所の人に喜ばれたというが、二十年四月の立川空襲で地蔵の
   首が落ちたため、房宗さんは三十年、再度地蔵を復興させた。
    地蔵には今も献花が絶えないが、風雨にさらされてほこらなどの傷みが激しく、今年五月、
   日本自動車学校が補修した。法要当日は房宗さんの長男儀幸さん(六八)=同市高松町三の八
   の一四=ら建立縁者六人も参列する。の記事がみられ、「昭和9年2月の建立供養の日の記念写真」の説明のついた建立供養の写真が載っている。
 21日の昭島市民図書館では、毎日新聞以外にもこの法要の記事がないかと探したら同日の産経新聞多摩版に「お地蔵さまがよみがえった 交通安全の“守り神” 立川 33年ぶりに“日の目”」の見出しに続けて
   昭和の初め、踏切事故死した人たちの供養と交通安全を願って建立されたお地蔵様があった。
   霊験あらたかで、事故もなくなり、地域の安全を見守り続けてくれた。しかし、長い年月の間
   に忘れ去られ、荒れ果ててしまっていた、そのかわいそうなお地蔵様が発見された。化粧直し
   され、新しいお堂もできた。これも御仏のお導き──。
    この地蔵尊は「発心地蔵菩薩」。昭和九年二月、中央線国立─立川の間にある野沢踏切のそ
   ばに建立された。当時、この付近は雑木林とアカマツ林に囲まれ、昼なお、うっそうとした場
   所。不慮の事故や飛び込み自殺などが相次ぎ“魔の踏切”と恐れられていた。
    お地蔵様の建立を思いついたのは、同市栄町(現高松町)に住んでいた工務店経営者の房宗
   彌造さん(故人)。この踏切事故で、働いていた店員さんを亡くした悲しみをきっかけに、鉄
   道関係者や有志に寄付を呼びかけた。安全を願う数多くの人たちの浄財で建立された。
    それからは踏切では事故も自殺も、なくなったという。
    ところが、二十年四月三日の立川空襲で被爆、そのまま放置されていた。すると、また事故
   が相次いだ。房宗さんは再び募金活動を始め、地蔵尊は三十年、立川市羽衣町一ノ三ノ四の現
   在地に再建された。
    以来、三十三年。ひっそりとこの地で人々の安全を見守り続けてきた。ところで、このお地
   蔵様のまします場所は、よくよく交通にご縁がおありのようで、偶然にも二十八年に開設され
   た日本自動車学校(大西修社長)の敷地内だった。
    たまたまこの自動車学校は今年、社史編さん事業を始めた。そこで、敷地の片すみにあるお
   地蔵様の存在にスポットライトがあてられ、由来が明らかになった。 自動車学校では補修。
   二十一日から始まる秋の交通安全運動にちなんで、二十五日御前十時半から同校内の「発心地
   蔵尊」前で諸霊供養と交通安全祈願法要を行う。交通安全のお地蔵様として、きっと親しまれ
   ることでしょう。の記事がみられ、毎日新聞と同じ写真を掲げ、「昭和九年二月、野沢踏切のそばに建立された『発心地蔵菩薩』」の説明がついている。
 手元にある立川市教育委員会発行の『立川の野仏をたずねて』(昭和52年刊)を見ると、発心地蔵菩薩の写真が62頁に、調査説明が63頁に載っている。その中にある、造立の目的・信仰の過去と現在・古老の聞き書きなど引用すると
   昭和十年頃の野沢踏切は無人の踏切りで、時々事故が起こり、魔の踏切と言われていました。
   建立した弥造さんは大工職でその弟子に十五歳位の見習職がいましたが、昭和9年に高松町か
   ら南口の映画館にゆき、その帰りに踏切事故にあい死亡してしまいました。駅の人や仕事関係
   者から寄附があったりしてそれでお地蔵様を建立しました。戦災で損傷しましたが昭和二十九
   年に再建。昭和十年に建ててからは事故は減少しました」「二年位前まで八十歳に近いお年寄
   りが月に一度、お線香を上げにみえていました。定期的なお詣りは他にはありませんでした。
   時にはお掃除、お花お供え、よだれかえの洗濯をして取りかえてゆく人がいます」「大正時代
   の末に、野川の橋のたもとにお地蔵様がありましたが昭和に入り、房宗さんのお弟子さんの事
   故を機会に野沢の踏切りの前に移して供養しました。供養と同時に交通安全も願いました。そ
   の後昭和二十九年頃に団地が出来る為、現在の自動車学校の用地に移されました。その時に再
   建されたのが現在のお地蔵様です。浜中石材店鈴木さん作」
   お供えもの、九月二十五日は紅白の頭巾二個、よだれかけ三枚、バナナ、梨、菓子、おもちゃ
   の自動車二台、草むしりの跡がありました。昭和五十一年一月三日は新しいよだれ掛け1枚、
   切りもち二枚づつ二箇所、みかんが三個。である。写真からは、前掛けで上部が隠されているが、右手に錫杖、左手に数珠を持つのがうかがわれる。
 やはり手元にあるスクラップを探したら、平成3年6月9日(土曜日)付けのアサヒタウンズの切り抜きが出てきた。これには、立川市羽衣町にお住まいの森沢富蔵さん(67)が「発心地蔵菩薩」の題名で投書された
    立川駅を発車して東京方面に向かうと、やがて野沢踏切(立川市羽衣町)です。私の少年時
   代、立川─国立間は樹木が線路の両側に覆いかぶさるように茂っておりました。踏切の両側に
   は裸電球の外灯があるだけで、夜などは女、子供の1人歩きは出来ませんでした。暗い時代だ
   ったこともありますが、踏切での自殺者が非常に多かったのです。
    踏切とはいえ電車の見通しがきかない場所でしたので、町の人たちは誰いうともなく“魔の
   踏切”と呼ぶようになりました。もちろん無人踏切です。あまりに自殺者が多いのでは、奇特
   な人が線路わきに供養のため発心地蔵菩薩を建て、花を手向けるようになりました。やがて太
   平洋戦争が始まり、当地も空襲を受け、お地蔵さんは道路の片隅に追いやられたそうです。
    戦争が終わり、国鉄がその場所に信号所を設置して貨物の入れ替え作業が行われるようにな
   り、さらに信号所も取り払われ、踏切も自動化されました。
    今では、昔、自殺者が多かったことを忘れたかのように、3分間隔で上下線の電車が通過し
   ています。お地蔵さんは今では、日本自動車学校の敷地の片隅で祠の中に納められ、毎日行き
   交う人々の安全を静かに祈っておられます。
   係から 発心地蔵菩薩は昭和9年、立川市栄町で工務店を経営していた房宗弥造さんが、従業
   員の踏切事故死を契機に、供養と無事故を祈って地蔵建立を計画、国鉄や有志に呼び掛けて建
   てたものです。昭和20年4月野立川空襲で損傷しましたが、30年、修復して現在地に移転しま
   した。今でも花が絶えません。
の一文が載っている。
 今回は、偶然に見つけた毎日新聞の記事から発展して、20数年間も気になっていた地蔵尊に対面することができた。発心地蔵菩薩の造立が昭和10年だから、今年は還暦を迎えたことになる。これも、何かの縁なのかもしれない。
 このように、手元にあったものを加えて、一連の資料を並べてみると、造立当時から現在にいたるまでの流れ(歴史)がみえてくる。こうした追跡ができるのも、現代の石仏なればこそである。多摩地方には、立川市富士見町5丁目にある山中坂の戦災供養地蔵や八王子市泉町・相即寺のランドセルなど新聞紙上に紹介された地蔵がみられる。地蔵に限らずに他にも造立の事情を知らせたり、その後の経緯を記録した石仏の記事があるから、新聞の利用を考えるとよいだろう。
                            『野仏』第26集(平成7年刊)所収
 
 
あとがき
  塵も積もれば山となる、とはよく言ったものである。第4集の「庚申塔三題」から第26集の「現代双体道祖神考」と「立川の発心地蔵菩薩」まで、私が『野仏』に発表したものは、400字詰めの原稿用紙で400枚を越している。初めからこんな分量になろうとは考えてもいなかった。1年では僅かな枚数でも、毎年欠かさずに長い間続けると、大きな成果につながっていく。

それぞれの文末にも記したが、余白があるので『野仏』に私が19集から26集までに発表した10編を掲載順に掲げておく。
        道祖神サイクリング   19集  昭和63年刊
        5百羅漢の世界     19集  昭和63年刊
        平成元年新年会     20集  平成1年刊
        厚木行 4月見学会   21集  平成2年刊
        平成3年例会記録    22集  平成3年刊
        西多摩石仏散歩     23集  平成4年刊
        玉川上水沿いの石仏   24集  平成5年刊
        名数石仏を歩く     25集  平成6年刊
        現代双体道祖神考    26集  平成7年刊
        立川の発心地蔵菩薩   26集  平成7年刊
  前回の「私の『野仏』」に比べると、その続編である本書は、庚申塔にふれてはいるものがあるにしても、主題としたものはない。そこが前書と大きく異なっている。それだけ他の石仏にも眼を向けていることになる。
         平成8年5月15日                    石 川 博 司

                             ・・・・・・・・・・・・・・・
                             私の『野仏』 第2集
                             発行日 平成8年6月30日
                             著 者 石 川  博 司
                             発行者 と も し び 会
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