私の『野仏』 第3集   石川博司  平成8年の第27集から平成13年の第32集まで
祖父・石川九市
 平成8年5月16日(木曜日)に第2回・国立「石仏を巡る小さな旅」の市内散策が行われた。前回(3月27日 水曜日)と同様に、国立市教育委員会が生涯学習課が主催して、本会の関口渉さんが散策コースの案内に当たる。
 午前10時に国立市役所に集合し、谷保・西野家の弁天石祠から見学が始まり、城山から三田貞盛卿碑を経て南養寺に向かう。年配者が多い散策では、2時間で多くの石仏を見ようとするには無理がある。南養寺でたっぷり時間を使い、今日の予定に含まれていた矢川の五智如来を割愛して、12時過ぎに南養寺参道入口で解散する。
 解散後、関口さんと1緒に青柳・石田地区の内墓調査の下見を行おうと、市役所に戻って担当の浜中秀子さんから内墓の所在地を記した地図をもらう。下見の前に昼食と、矢川の蕎麦屋に行くと、生憎の休業である。
 近くのコンビニで弁当を買って、青柳稲荷の拝殿前で弁当を食べる。弁当を食べながらひょっと眼を上げると燈籠の台石に刻まれた文字が眼に入った。「立川石工 石川九市」とある。母方の祖父の名前である。
 祖父は、石工というよりも、石川石材店の経営者といったほうがよいだろう。農家の出身で、後に立川の町会議員に当選するような行動から考えても、自分で石を刻むことはなく、仕事は職人まかせのようである。叔父(石川俊雄)が後を継がなかったから、祖父一代限りの石屋だった。
 私は、『日本の石仏』の第8号(昭和53年刊)に「石工に想う」を発表している。その文中で祖父の九市にふれた部分がある。関係する箇所を引用すると
   母方の祖父
 他人からよく、なぜお前は石仏を調べ始めたのか、という類の質問を受ける。登山家が山がそこにあるからといったように、石仏があちこちにあり、たまたま庚申塔が眼に止まったからというしかない。
     (中  略)
 学生時代には、半月以上にも及ぶ西日本旅行をしているが、その時に尾道の石仏を撮っている。そうした写真が残っているところを見れば、無意識的にも、石仏に興味があったと思われる。母方の祖父が立川(東京都)で石川石材店をやっていたことが、多少とも関係があるのかもしれない。
 祖父は石屋をやっていたが、元来、政治好きで町会議員に立候補するような性質であった。おそらく、仕事に直接タッチしたとは思えないから、議員の立場を利用して、仕事を請負うようなことに力を発揮したのだろう。鎮守の諏訪神社の鳥居や石垣、あるいは、普済寺にある国宝の六角石幢の覆堂を造った仕事をしている。
普済寺の覆堂といえば、かなり前になるけれども、立川の叔父に、あんな狭い堂を建てたので写真が撮りにくい、といったことがある。そんなことをいったって、お前のお祖父さんがあれを建てたのだ、とたしなめられて驚いた。諏訪神社の仕事は、私の家に落成式の写真が残っていたから知っていたけれども、普済寺の話は知らなかった。
 祖父は、残念なことに小学生の頃に亡くなり、相続した叔父は、写真の道に進んでしまったので、職人まかせであったこともあり、当時の石屋の事情はよくわからない。祖父の家には、母につれられてよく泊まったりしたが、何分にも子供の頃でもあるし、仕事場がかなり離れた所にあったために、石工についての記憶はない。庭に布袋やガマ蛙の石像があったのを憶えている程度で、今はその庭も用地買収にあってない。

である。
 文中にある諏訪神社鳥居について、平成2年8月25日(土曜日)に獅子舞を調査した際にチェックし、その時の見学記(『平成二年の獅子舞巡り』 ともしび会 平成6年刊)に
    早く出かけた一つの理由は、諏訪神社の鳥居を調べたかったからである。母の古いアルバム
   には、諏訪神社の鳥居竣工記念の写真が貼ってある。それが気になっていたのだが、お諏訪さ
   まを訪ねる機会がなかった。獅子舞の前に調べると、東参道の鳥居には「昭和三年十一月吉日
   建」の年銘と「参獻者 石川嘉六 石川九市 石川昌訓」の兄弟三人の名が刻まれていた。当
   時は、祖父が石材店をやっていたころだから、請負って鳥居を建てたものと予想していた。ま
   さか当人が施主であったとは考えてもみなかった。ともかく鳥居の件については、これで永年
   の懸案が一段落した。
と記した。九市は寺沢家からの養子で、祖母とは従兄弟の関係である。施主銘にある嘉六は義兄、昌訓は義弟に当たる。
 祖父の名前のみえる石造物に、以前もう1回出会っている。昭和59年12月16日(日曜日)に行われた本会12月例会で日野市内を廻った時に、日野市百草と多摩市の境にある多摩市分の神社(和田の十二天神社か)に、「立川 石工 石川九市」の銘が刻まれた狛犬があった。手元にあるのは写真2枚だけで、当時のメモがないから、それ以上のことはわからないが、これが祖父の名前を刻んだ石造物に出会った最初である。
 立川民俗の会が発行している『立川民俗』の第2号(昭和61年刊)には、高橋千鶴子さんが「馬頭観世音菩薩(昔の日野渡船場近くの)」を発表している。文中には、大正13年2月に立てられた柱状型文字塔にふれて「石工は藤堂さんか、石川九市さんのどちらかです」とある。この文字馬頭にはおそらく石工銘が刻まれていないのだろう。
 さらに高橋さんは、同誌第4号(昭和62年刊)に「加藤力蔵さんの馬頭観世音について」を書かれている。この文字馬頭の石工のことには全くふれていないから、旧・日野渡船場近くの馬頭観音と造立年月日が近い大正12年4月10日だから、あるいは祖父が係わっていた可能性があるかも知れない。
 祖父の仕事が立川を中心として、どの範囲に及ぶのか予想もできないが、これからも石造物に「石川九市」の名前を見つけることができるだろう。平成8年3月2七日(水曜日)に行われた前回の国立市内散策の後に、関口さんとこの青柳稲荷を訪ねているが、その時には全く気付かなかったのに今回は偶然とはいえ祖父の名前がぱっと眼に入ったのには驚いた。
                 〔初出〕『野仏』第2七集(多摩石仏の会 平成8年刊)所収
板倉の十四夜念佛塔
 平成8年3月24日(日曜日)、私は、毎日新聞旅行が主催した「地域色の濃い板倉の石仏」のバスツアーに参加した。この日、昼食時に立ち寄った東部公民館で、現地講師を務められた群馬県邑楽郡板倉町教育委員会文化課の荒井英世氏から『板倉町の石造物と鋳造物』をみせていただいた。後日荒井氏に在庫があるあるならば送ってほしいと電話して、その本を入手した。
 正確な書名は『民間信仰としての板倉町の石造物と鋳造物』といい、町史基礎資料第82号として昭和54年8月に板倉町史編さん委員会から発行されたB5判509頁の部厚いものである。編集者は、板倉町史編さん室の宮田茂氏が当たっている。
 先日の石仏バスツアーでも廻った庚申塔や勝軍地蔵などは、当然ながら記載されていて参考になるが、この本で特に注意をひいたのが表題の十四夜念佛塔である。十四夜念佛塔は、残念ながら当日のコースに入っていなかったので、1基も見学していない。
 文末の「参考及び引用文献」にあげられた庚申懇話会編の『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)では、小花波平六さんが日待・月待塔を担当されている。月待塔として十三夜塔・十五夜塔・十六夜塔・七夜待塔・十七夜塔・十八夜塔・十九夜塔・廾日夜塔・二十一夜塔・二十二夜塔・二十三夜塔・二十六夜塔をあげ、別に「二十四、五、七、八、九夜待」の1項を設けている。十四夜塔については、単独ではなく、十五夜塔の項の中で関連として、「付・十四夜塔」で次のように
   なお「毎月十四日念仏結衆云々」と刻む中世の石造物もある。例えば兵庫県加西郡北条町吸谷
   の層塔銘には諸行無常偈と「毎月十四日念仏結衆……造立之」とある。弘安六年(一二八三)
   三月十日の造立である。群馬県新田郡尾島町堀口・浄蔵寺にも「毎月十四日云々」とある。こ
   れは文永十一年(一二七三)八月時正第三番のもので、弥陀3尊種子を刻んでいる。これら十
   四日の結衆も、十五日と関係あるにちがいない。(166頁)述べている。いずれも中世の石造物に関するもので、近世以降の塔にはふれていない。
 また、同書では、念佛塔を担当された荒井広祐さんも「念仏塔総説」(105〜6頁)の中で
   室町期には民俗的な信仰と習合して、各種の念仏行事が形成された。庚申・月待等の民俗的信
   仰とみられるものでも、内容は身を慎しみ諸仏を念ずる勤行を伴うから、庚申・二十三夜とい
   う特定日の名称を冠した別時念仏とも言える。と書いているだけで十四夜念佛塔には及んでいない。ただ「念仏塔の造立は十五日が一般的である」とし、弘安9年(1286)の念仏塔に刻まれた「毎月十五日一結衆」の銘文の例をあげて、15日が「念仏塔に一貫して現代に及んでいる」としている。
 日本石仏協会編の『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)では、横田甲一さんが七夜待塔を除いて月待塔を担当執筆しているが、『日本石仏事典』を踏襲したのか、十四夜塔にはまったくふれていない。
 同書には、板倉町の石仏を写した写真が「岩長姫」「牛頭天王」「木花開耶姫」「金比羅大権現」「妙見菩薩」「録事尊」の項目にみられ、松村雄介さんが「録事尊」の中で『板倉町の石造物と鋳造物』を参考にしている。なお、同書に載った縣敏夫さんの「日本石仏関係主要文献目録」には、『板倉町の石造物と鋳造物』の記載はみられない。
 平成7年5月には、『日本石仏図典』の続編として『続日本石仏図典』(国書刊行会)が発行された。その中に中上敬一さんが「十四日念仏」の項目(123頁)に
   十四日念仏  じゅうよっかねんぶつ
    利根川中流域で行われていた念仏で、通称ダンゴ念仏といわれていた。毎月旧暦の十四日の
   夜に行われた。念仏講の宿は講員の持ち廻り制でで、その日講中の女性たちが宿に集まって団
   子を作り、夜お月様に供えて念仏を唱えたという。
   石仏は少なく、茨城県下妻市二本紀に「十四日念仏供養田村中」と刻む寛文九年(1669)
   の釈迦如来が初見である。埼玉県加須市には「十四日念仏 十九夜念仏 百万遍供養塔」と刻
   む文化四年(一八〇七)の角柱型の文字塔が建てられた。
    写真のものは「十四夜念仏供養」と刻む明和九年(一七七二)の文字塔であるが、十四夜は
   十五夜月待の前夜祭に当たるので、十五夜月待の一種という説もある。また兵庫県加西市の慈
   眼寺にある弘安六年(一二八三)の五重塔に「毎月十四日念仏結衆等造立之」と刻まれてある
   ので、十四日は昔から特別な日であったと思われる。(中上)と述べ、板倉町の明和9年塔の写真を掲げている。また、同氏編の「石造文化財関係の文献目録」に『板倉町の石造物と鋳造物』をあげている(358頁)。
 ところで『板倉町の石造物と鋳造物』の「念仏供養塔」では、町内の分布を十四夜念佛塔が2基、十九夜念佛塔が34基とし(111頁)、十四夜念佛に関する説明を
   月待念佛塔……十四夜念仏・十九夜念仏等の月待念仏(民俗信仰とみられる)は、特定の夜を
   決めて身を慎み諸仏を念ずる。十四夜念仏塔は県下にも類例が板倉町を除いてほとんどない。
   (112頁)
   十四夜念仏……通称「ダンゴ念仏」といい、旧暦で毎月十四日夜に行なわれていたが、現在で
   は、都市化の影響を受けて行われなくなってしまった。念仏の宿は持廻りで耕地中の女達が集
   まり団子作って、お月様へ供えて念仏を唱える。また夜食として赤飯・五目メシなども作って
   いる。(112頁)と記している。そして「十四夜念仏供養塔」として
   1 宝暦2 丸 彫 如意輪「奉供養十四夜念佛為」     板倉 長徳寺
   2 明和9 柱状型 「キリーク 十四夜念佛供養」     西岡 南光院裏の2基(119〜120頁)をあげ、「月待塔」の中では「十四夜供養塔は板倉町のみに分布している」(129頁)として
   1 宝暦2 丸 彫 如意輪「奉供養十四夜念佛為」     細谷 長徳寺
   2 明和9 柱状型 「キリーク サ サク 十四夜念佛供養」西岡台 南光院裏辻の2基(129頁)を記す。種子や所在地に違いがみられるが、同一の塔を重複記載している。
 月待供養塔の写真の中には、2の塔の写真が載っているのでみると、柱状型塔の正面上部に弥陀3尊種子(キリーク サ サク)、中央に主銘の「十四夜念佛供養塔」、その右に「明和9壬辰□ 西岡村」、左に「十一月吉日 北原中」とある。
 『板倉町の石造物と鋳造物』によると、「念仏供養」の銘を刻む最古の石造物は、バスツアーでもみた海老瀬・合の川橋下にある寛文11年の丸彫り定印弥陀座像で、次いで籾谷・最勝寺墓地の延宝3年の浮彫り弥陀立像である。地蔵で「念佛供養」の銘を伴うものは、内蔵新田・共同墓地にある元禄8年の浮彫り立像が初出となっており、岩田・風張墓地の享保18年の丸彫り立像まで15基が造立されている。
 「十九夜」の銘文は、籾谷・安勝寺にある延享元年の丸彫り如意輪観音が最古で、「十九夜念佛供養塔」銘では、大荷場・集会所の延享4年の丸彫り如意輪観音が初出で、同年のものが徐川志山・観音堂にみられる。
 こうした念佛塔造塔の流れをみると、「念佛供養」銘の阿弥陀や地蔵の石像が先行し、延享を境にして十九夜念佛の供養塔が造立されている。僅かに2基に過ぎないが、十四夜念佛塔もその十九夜の初期と併行して造塔がみられる。十九夜の場合には、念佛供養銘を含めて主尊も地蔵が1基含まれるものの、丸彫りや浮彫りの如意輪像に代わっている。その中で十九夜塔と十四夜塔共に、弥陀三尊種子を刻んだものが各1基みられる。
 参考までに二十三夜塔の場合をみると、正面に「庚申 三ケ月 廾三夜 供養」と刻む駒型塔が寛政2年に造塔されているが、単独のものでは、飯野岡村・天神様の文化十四年の「二十三夜塔」が初出となる。これからみて、二十三夜塔は、十九夜塔に比べて造立年代が下っている。
 三十日佛をみると、14日が普賢菩薩、15日が阿弥陀如来、19日が日光菩薩、23日が勢至菩薩で、如意輪観音は見当たらない。七夜待本尊としては、「文殊日礼」では21日、「七七夜待之大事」や七夜待本尊之事で22日に当てられている。七夜待の場合、19日はいずれも馬頭観音で1定している。
 十四夜にしろ十九夜にしろ、主尊に如意輪を選んだのが何によるものなのか不明である。強いて十四夜の如意輪の場合を理由付ければ、15日の阿弥陀如来の前夜に当たり、いずれも種子が「〓」という共通項がみられる。
 ともかく、板倉町に十四夜念佛塔が造立された事実が判明した。この種の念佛塔がどの範囲に分布するのか、あるいは板倉町だけで限定されて他に分布しないのか、知りたいところである。いずれにしても、板倉以外に分布がみられるにしても、塔数は少なく、局地的な分布と考えられる。今後の研究・調査に待ちたい。(平8・4・20記)
                 〔初出〕『野仏』第27集(多摩石仏の会 平成7年刊)所収
板倉の石仏バスツアー
 平成8年2月七日(水曜日)付けの毎日新聞旅行特集は、2頁にわたって同社主催の旅行案内の広告記事で埋まっている。2頁目には、「毎日史跡探訪の集い」のコーナーがみられ、その1つに「地域色の濃い板倉の石仏」の日帰りバスツアーが載っていた。
 この記事によると
   板倉は渡良瀬川と利根川の三角地帯で、農民は水害に苦しみ、庚申信仰のこの地で独特の青面
   金剛像に救いと安らぎを求めました。また愛馬への愛情にあふれた特有の馬頭観音からも農民
   の切々とした心がしのばれますとある。現地講師は、板倉町教育委員会文化課の荒井英世氏が担当する。発着は、東京駅前8時発同/18時着だ。見学個所は
   宝憧院跡の将軍地蔵、長良神社の将軍地蔵、安寿さまの青面金剛、集会所の青面金剛、山口・
   頼母子の青面金剛、松安寺の青面金剛と八羅漢、正明院の青面金剛、大荷場の馬頭観音、浄運
   寺の雷雲をもつ道祖神、浅間神社の開運霊符尊像〜猿田彦線刻像〜見妙見大菩薩立像〜牛頭天
   王座像と立像〜女神像、地蔵院の青面金剛と不動尊、清浄院の青面金剛〜みかえり地蔵〜十九
   夜塔、雲間のコースになっている。
 早速、申込みをして送金すると、3月18日(月曜日)に行程表が送られてきた。集合場所は東京駅丸ノ内側・新丸ビル横、集合時間は7時40分(時間厳守にご協力下さい)とある。行程は、先の新聞より詳しく
   東京駅前(08時00分)発==〔貸切バス〕==〈東北高速〉==館林IC==板倉/岩田本郷
   (宝憧院跡の将軍地蔵 ▲享保12年)==大高島丸谷(長良神社の将軍地蔵 ▲元禄12年)=
   =一峯(安寿さまの青面金剛 享保元禄期)==間田(集会所の青面金剛 ▲享保正徳期)=
   =頼母子(青面金剛 ▲延宝期)==本郷(松安寺の青面金剛 ▲享保期〜8羅漢像〜青面金
   剛 ▲宝永期)==北海老瀬(正明院の青面金剛 元文期)==大荷場(馬頭観音像 ▲寛政
   期)==大曲(浄運寺の雷雲をもつ道祖神・寛延2年)==石塚(浅間神社の開運霊符尊像
   ▲文久期〜猿田彦線刻像 ▲万延期〜見妙見大菩薩立像〜牛頭天王座像と立像 ▲文久期〜女
   神像)==大高島(地蔵院の青面金剛 ▲元文5年不動尊 ▲寛永7年、清浄院の青面金剛
   ▲元禄12年〜みかえり地蔵〜十九夜塔)==雲間(ペンダントを見つけた青面金剛 ▲延宝7
   年)==館林IC==〈東北高速〉==東京駅前(18時00分頃着)予定と記されている。
 毎日新聞旅行の石仏バス・ツァーに初めて参加したのは、平成元年3月26日(日曜日)である。この時の案内講師は、当時、千葉県にお住まいの日本石仏協会理事の大森義郎さんで、ご自身が『日本の石仏』16号に発表された「千葉県酒々井町付近の道祖神について」のコピーを配布され、町内の道祖神を廻った。この大森さんも今は亡い。月日のたつのは早いもので、大分、間があって今回が2度目の参加である。
 3月24日(日曜日)は「地域色の濃い板倉の石仏」のバスツアーの当日である。青梅駅を午前6時発のJR青梅線の電車に乗り、立川でJR中央線の特快に乗り換えて七時12分に東京駅に着く。新丸ビル角にいる係(添乗員の斉藤さん)に受付をしてバスに乗り込む。集合時間の7時40分を過ぎても参加者の1人があらわれない。8時4分まで待ったが、これ以上は遅らせられないので発車する。参加者は11名である。車中では、コースのB4版の案内プリントとA4版の地図の縮小コピーが手渡される。
 途中、羽生のサービス・エリアでトイレ休憩した後、板倉にむかう。町役場で本日の案内役・荒井英世さん(板倉町教育委員会文化課)と合流し、同町教育委員会が発行した『板倉町の文化財 コース別めぐり』のパンフレットをいただく。これの北コースには「双体道祖神」と「十王十仏板碑」、南コースには「勝軍地蔵」、西コースに「光明真言金亀宝篋印塔」の石造物(いずれも町指定重要文化財)の写真がみられ、各々が解説されている。西コースには、重要無形民俗文化財に指定されている「籾谷上坂東助作流獅子舞」が載っていたので、講師に尋ねると、この他にも町内には獅子舞が5カ所ほどあるという。 役場近くの板倉・雲間墓地にある青面金剛から見学を始める。ここには
   1 寛政5 柱状型 日月「庚申塔」             66×33×33
   2 寛政12 柱状型 「庚申塔」               58×26×16
   3 延宝7 光背型 日月・青面金剛・二鶏・三猿       84×40の3基がみられる。3はコース案内にある「ペンダント付き青面金剛」である。像もかなりユニークなもので、左上方手は瑞雲のついた日天を捧げ、中央手には瑞雲のついた月天という持物が珍しい。もっとも日月共に円だから、あるいは日天と月天が上下が逆であるかもしれない。右上方手には矛状のものを持ち、欠けた中央手は補修されていて持物不明である。下方の2手は、腹前で組んでいる。「奉造立仝志供養施主等二世安楽祈所」の銘を刻む。
 ここの雲間墓地には、最近、埋葬された墓所に「モガリヤ」がみられる。土葬なのか、土が盛られた上にモガリヤが置かれている。講師の話によると、こうしたものも最近では作られていないというが。ここには、リヤカーの霊柩車が置かれているのも珍しい。
 役場まで戻ってからバスに乗る。岩田区民会館前にある丸彫の将軍地蔵は、享保12年6月24日の造立で、地蔵が乗る馬がユーモラスである。台石の正面と左側面に子供、裏面に鳥、右側面に笹の葉が陽刻されている。反花のある台石正面には「奉造立勝軍大地 蔵菩薩今世後世 善能引導弾指之項不随悪趣 乃至法界平等利益」の長い銘文と造立年銘、施主銘が刻まれている。
 続いて大高島・飯野の地蔵院に向かう。境内入口にある
   4 元文5 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二猿・二童子・蓮華 120×53×28をみる。面金剛は、合掌6手像で輪後光がある。両側面の下部には、蓮華が浮彫りされている。台石に陽刻された猿は、御幣を持った向かい合わせの2猿で特色がある。ここには、明和5年(76×29×28)と文化11年(67×26×17)の十九夜塔が並んでいる。
 墓地には、寛永7年銘の不動明王がみられるが、法名を刻んだ墓碑なので、この年銘は造立時のものとは考えられず、命日を刻んだものと思われる。
 同じ大高島の大久保にある清浄院には、寺と道路をへだてて路傍に
   5 嘉永3 柱状型 「庚申塔」               110×48×42
   6 享保12 笠付型 「バン 奉造立庚申供養塔」三猿     110×39×37
   7 嘉永3 柱状型 「庚申塔」               99×44×35
   8 年不明 光背型 青面金剛・三猿             80×36
   9 元禄12 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    110×42
   10 正徳6 板駒型 日月・青面金剛・二鶏・三猿・二童子   108×56の庚申塔6基がみられる。9の上部にも「バン」の種子が刻まれている。青面金剛は、いずれも合掌6手立像である。8は、破損がひどく持物がわからない。5から7の前には、平成4年秋彼岸造立の丸彫り6地蔵が並んでいる。墓地には、十九夜塔がある。
 次いで大高島・丸谷の長良神社を訪ねるが、その手前にある墓地には、車窓から十九夜塔が5基ほど並んで建っているのがみえる。長良神社の境内では、元禄12年の将軍地蔵をみる。田代房春さんの撮られた写真が『日本石仏事典』の40頁にのっているので、以前から知っていた。現在は、像の上に覆い屋根があって、屋根の影が邪魔して事典のようには撮れない。この勝軍地蔵が町の文化財に指定されているので
   板倉町指定 重要文化財
   勝軍地蔵
   昭和六十一年十二月六日指定
   銘 元禄十二歳 十一月二十四日施主丸谷村
    この勝軍地蔵は、以前、現在の北側を流れる谷田川の河川敷内にあり、河川の増水時は流出
   の危機にさらされていました。
    これを心配した地元の人達が、現在の場所に移したものです。河川敷当時から祠に収めてあ
   ったことから保存状態がよく、彫りもみごとであり、石仏研究者間では著名な石仏です。
    地蔵信仰が一般化されてくるのは鎌倉時代以降で、大衆化され、信仰的にも細分化されてき
   ます。勝軍地蔵もその一つで、戦勝に利益があるとして武将等に信仰されました。
                                     板倉町教育委員会と記された標識が建っている。
 先刻みてきた岩田の勝軍地蔵の造立日が6月24日で、ここのが11月24日と、共に地蔵の縁日である24日に造立されている。ここには、その他にも
   11 元文5 柱状型 日月「バン 奉造立庚申供養二世安楽」  71×43×18
   12 天保10 柱状型 「庚申塔」               計測なしの2基の庚申塔がみられる。
 長良神社から次の合の川橋に向かう途中にある墓地の背後にお宮があり、その脇に青面金剛が遠目で車窓から確認できる。合の川橋の近くの堤防には、寛文11年(背面の年銘などは未確認)の丸彫りの定印弥陀座像がある。そこには
   13 万延1 駒 型 日月「庚申塔」             71×30×27があり、他に天保6年と万延元年の十九夜塔がみられる。共に柱状型で、上部に如意輪観音が浮彫りされ、その下に「十九夜」と刻まれている。
 峯の住民センターには、いずれも青面金剛の庚申塔3基と十九夜塔2基がある。
  14 元禄14 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    110×57
   15 正徳1 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    134×47×27
   16 元禄X 光背型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・2猿    89×41
 14と16の二鶏は浮彫りであるが、15のは鬼と三猿の間に陰刻されている。16の2猿は、地蔵院と同じで、向かい合わせで御幣を持っている。
 十九夜塔は、2基共に柱状型で、寛政3年塔(65×27×17)と文政3年塔( 120×45×43)の上部に如意輪観音を浮彫りする。前者は「十九夜念佛供養」、後者は「十九夜」の主銘である。
 センターの隣にある1峯神社の境内には仙元宮の石祠があって、室部前面に日月と富士が陰刻されている。室部の中には中尊が入っているが、像容など不明である。
 間田の集会所の前には、石仏が並んでいる。その一つに宮型の文字「道祖神」(40×24×19)がみられる。文化3年の造立で、両側面に道標銘が刻まれている。ここにも
   17 正徳4 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    104×48の1基があり、上部に如意輪観音像をおく十九夜塔2基がある。1基(73×29×24)は「十九夜念佛供養塔一尊」、他の1基は(89×41×40)「十九夜」とある。
 ここにみられる享保元年の合掌6手立像(像高71センチ)は、頂部が欠けているのではっきりしないが、馬頭観音ではあるまいか。、17と矛の形が違うものの持物は同じである。しかし日月や一鬼、二鶏、三猿のいずれもないし、17のような「奉造立庚申尊像諸願成就處」の庚申に関する銘もみられない。「奉造立念佛供養之塔」の銘や下部に連弁があるのも気にかかる。馬頭観音は、頂部の点から一歩譲っても、とても持物は似ていても青面金剛とは考えられない。
 山口・日向の共盛会集会所隣にある東源寺墓地には、万延元年の笠付型十九夜塔と
   18 正徳3 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    120×56がみられ、そこから歩いて5分ほどの日陰には
   19 宝永6 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    92×53
   20 万延1 柱状型 青面金剛・一鬼・三猿 69×35×30の2基が並んでいる。これまで1を除いて青面金剛は合掌6手であったが、20は初めての剣人6手像である。
 頼母子の昭和橋南詰めには、路傍に次のような
   21 延宝1 光背型 日月・青面金剛・一鬼・三猿       139×57が立っている。1もそうだが、この21もユニークである。左手には上から矛・弓・人身、右手には矛・蛇・矢を持っている。「奉起立供養青面金剛」銘がある。旅行特集の広告に「独特の青面金剛像」とあるのは、3とこの21の2基だけで、これまで見てきたものは、他所でも見られるような青面金剛で、特別な像容ではない。
 橋を渡って本郷の松安寺に向かう。この寺の門前には、嘉永4年の十九夜塔と
   22 享保16 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿・2童子   151×58×44がある。20と同様に剣人6手像である。境内には
   23 年不明 柱状型 「庚申塔」               67×26×17
   24 延享2 柱状型 日月「庚申供養塔」三猿         92×32×21の文字庚申塔2基がみられ、宝暦2年の「十九夜念佛供養塔」がある。
 如意輪観音堂の脇には宝永4年の不動明王があり、参道に沿って8羅漢が並んでいる。これらは、『佛像図彙』に載っている像容である。右から諾距羅尊者・蘇頻陀尊者・半〓迦尊者・羅怙羅尊者・弗多羅尊者(あるいは阿氏多尊者)・那伽犀那尊者・(不明)・跋陀羅尊者の順であるが、7番目の尊者は『佛像図彙』には見当たらない。
 北海老瀬の竹林の中には、延宝元年の笠付型4面塔がみられる。正面に薬壺を持つ薬師如来、左側面に蓮台を持つ観世音菩薩、背面に来迎印を結ぶ阿弥陀如来、右側面に施無畏印と与願印の釈迦如来が浮彫りされている。配付されたプリントには記載されていない、番外の見学である。近くの加茂神社には
   25 万延1 柱状型 「庚申塔」               69×36×34があり、台石には道標銘が刻まれている。隣の正明院の入口には
   26 元文2 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿・二童子 103×41×30がある。れも剣人6手像である。これまでの2童子付きの4・10・16には二鶏がみられなかった。道を挟んだ反対側に「奉造立二世安楽菩提□信心」の銘を刻む貞享元年の来迎弥陀立像がみられる。
 午後1時を過ぎたので、東部公民館で昼食をとる。温かいお茶の接待が嬉しい。午後の見学の最初は、大荷場の住民センターである。ここには、石仏が並んでいる。明治18年の十九夜塔(上部に如意輪観音の浮彫り像)や寛政4年の2手馬頭観音立像などと共に
   27 元禄6 板碑型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿・2童子  131×41
   28 万延1 駒 型 「庚申塔」               57×33×20がみられる。板碑型の青面金剛が珍しい。二童子付きで二鶏を伴うが、先の26と異なり、合掌6手像である。
 大曲の浄蓮寺墓地の塀に沿った路傍には、寛延2年と宝暦10年の十九夜塔がある。寛延塔は、上部に如意輪観音の浮彫り像、その下に「十九夜」の主銘を刻む。宝暦のは、「奉造立十九夜念佛塔」の銘文のある台石の上に丸彫りの如意輪観音を置く。
 この寺の境内にある目玉は、町指定の寛延2年銘双体道祖神で、町内唯一の刻像塔である。「大曲村施主子供中」の造立である。ここには、町指定の十仏板碑があり、傍らには
   板倉町指定 重要文化財
   十王十仏板碑
   昭和六十一年十二月六日指定
   銘 嘉暦元年(一、三二六)十月逆修
   この板碑は大曲村、旧堀口与右衛門屋敷跡にあったもので、最近になって現在地へ移されたも
   のです。
    蓮台の上に不動・観音・薬師・大日・地蔵・釈迦・阿弥陀・文殊・勢至・普賢の十仏の各種
   子(キリーク)が刻まれています。
    十王十仏板碑で鎌倉期の作例は県内でもめずらしく、特に銘文中「逆修」とあり鎌倉時代の
   板碑に生前供養を表わした、「逆修」銘がある例はほとんどありません。
    当時の庶民仏教思想を知る上でも貴重な史料です。          板倉町教育委員会の標識があり、並んで
   板倉町指定 重要文化財
   双体道祖神
   昭和六十一年十二月六日指定
   銘 寛延二年(一、七四九)十二月二十八日  大曲村 施主子供中
    平野部での双体道祖神は特に限られており邑楽・館林地区では他に二カ所確認されているだ
   けです。双体道祖神は、男性が猿田彦尊、女性は天鈿女尊をあらわしています。
    像は男女が銚子と盃を手にしているもので 男女飲酒像はなく貴重です。
    道祖神は「さえの神」とも言われ、外から襲来する疫病や悪霊を村境・峠・岐路・橋畔など
   でまもり防ぐと信じられ、また、旅行の神、生と死2界の境をつかさどる神とも考えられてい
   ました。
    銘に「施主 子供中」とあるため、子供達の健やかな成長を願って建立されたものと思われ
   ます。                              板倉町教育委員会の標識もある。ここには、次の
   29 万延1 自然石 「庚 申」               85×37
   30 寛政12 柱状型 「庚申塔」               65×27×20
 31 正徳4 光背型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    126×523基の庚申塔がみられる。
 町内最後の見学は、板倉・石塚の石川家の敷地内にある浅間神社である。ここには、富士講関係の石造物がみられる。塚の上には、正面には日月と木花開耶姫の浮彫り像、裏面に「大日如来」銘を刻む万延元年の笠付型塔が置かれ、塚下の周囲にはいろいろな石塔がみられる。
 日本石仏協会編の『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)116頁上段に、蛯原徳夫さんが書れた「木花開耶姫」の項目があり、この万延塔を撮った写真が載っている。この項目の中で、蛯原さんはこの塔にふれて
    写真の像容は、富士講の礼拝用の画幅や、御師の配付する神札などのものと同じであり、鳥
   居を立てた冕冠(べんかん)まがいの冠をかぶり、四手の垂れた榊を持つ。なおこの石塔は、
   唐破風付き富士山型の屋根をのせている。と記している。
 さらに蛯原さんは、「石長姫(磐長姫)」の項目(34頁中段)を担当し、ここにある万延元年塔の写真に添えて
    石長姫は木花開耶姫の姉神である。(中略)下部の大天狗・小天狗は石長姫に必ず付き添う
   守護神。なおこの塔も木花塔と同じ富士山型の屋根をのせている。と解説している。側面には長い銘文が刻まれている。
 岩科小一郎さん編「富士山の絵札」(『あしなか』第156輯所収 山村民俗の会 昭和52年刊)には、木花開耶姫の絵札が載っている。1頁は、船津胎内・無戸室神社の発行で、弓矢を持つ姿である。5頁は、宝冠をいただいて富士山の上にかかる雲に立つ姿で、両手で榊を持つ。8頁は、上部に日月と富士を描き、宝冠をかぶって左手に榊、右手に宝珠を持つ立像である。これとほぼ似た絵柄のものが9頁に載っている。16頁は、両手で宝珠を捧げた雲上の立像で、蓮台の上に「浅間大菩薩」下部に「別當浄蓮院」とある。ここの立像は、左右の持物が逆であるが、8、9頁のに近い。
 一方、石長姫を描いた絵札は、「富士山の絵札」にはみられないが、「磐長姫命」の神名の下に天狗と烏天狗の立像を描くものが11頁に載っている。
 木花開耶姫や石長姫の石像もきわめて稀であるが、ここで珍しいのが霊符神三尊像である。笠付型塔の正面に「開運 霊符尊」、その左右に「抱卦童子」「示卦童郎」とあり、それぞれの銘の下に3尊像が浮彫りされている。右側面には、上段に「正月七日 二月八日 (中略) 十一月七日 十二月廾七日」」など各月の日付、中段に「北極志尾妙□□ (中略) 御助御願上頼上奉」、下段に「(前略)5殻成就 家内安全 子孫長久願上奉」とある。左側面には「○木曜大歳神 ●火曜大将軍神 (中略) 地三十六神 七福即生」などの細かい銘文がぎっしり刻まれていて、よほど時間をかけないと読みきれない。以前、長野県上伊那郡辰野町で自然石に刻まれた明治7年の霊符神3尊像をみたのを思い出す。
 文久2年6月に造られた像がどうもよくわからない。右手に剣を立て持った立像で、左側面に「疫病悉徐 悪病退散悪魔徐伏 子孫長久」の銘文が刻まれている。配付されたプリントによると、年銘から推して「牛頭天王立像」となるが、私が『日本石仏事典』に写真をのせた東村山市久米川の文政2年座像とも異なるし、あるいは例示した町田市下小山田町の両手で笏を持つ石祠中尊像とも違う。ついでに『日本石仏図典』の「牛頭天王」の項目を見たら、平田キヨさんが写した写真を載せて、ここの立像を大護八郎さんが
   牛頭天王〈6〉 ごずてんのう
    石祠の額に「牛頭天王」とある。側面に「疫病悉徐 悪病退散悪魔徐伏 子孫長久」とある
   のは、背面の薬師如来の功徳と共通するもので、夏祭りとしてのいわゆる「天王様」の意味を
   よく示している。
    剣をとって腕まくりをし、カッと口を開いた姿は、いかにも牛頭天王らしいが、しかし単独
   でこれを出されると、さて何様かと迷う石像ではある。と記している。「牛頭天王」の額を見逃していたことにもよるが、牛頭天王としては初めの像容である。
   32 万延1 自然石 猿田彦「ウーン 青面金剛」       計測なしも塚下の周囲にあるいろいろな石塔の1つである。表面に猿田彦の立像を線彫りし、背面には「ウーン 青面金剛」の銘があって、その下に三猿を文字化した「不見申 不聞申 不言申」が刻まれている。
 町内に何基の庚申塔があるのか知らないが、今日見た庚申塔の範囲でいうと、青面金剛は、延宝の2基を除いて関東各地で見られ像容で、合掌6手にしろ剣人6手にしても独特というものではない。
 ここの特徴は、比較的二鶏や二童子付きの塔が多い点である。三猿は、延宝から元禄にかけての6基中5基は正面向きで、他の1基は御幣持ちの横向き2猿である。宝永以降元文までの8基中の7基は、中央の猿が正面を向き、両端の猿が内側を向く。他の1基も、中央の猿が正面を向き、両端の猿が外側を向くように変化している。時代の下った20の万延の三猿は、正面向きになっている。
 また二童子の登場は正徳6年以降で、剣人6手像では享保16年以降に初出する。清浄院の8は、こうした傾向から見ると、年銘が欠けているが元禄頃の造塔と思われる。
 庚申年の造塔は、大正9年と昭和55年銘がみられなったが、32基中10基あり、比率が31・3%で多い傾向である。
 以上で予定の板倉町内の見学を終えたので、町役場に引き返して荒井講師と別れる。配付プリントの末尾に「時間に余裕があれば館林の茂林寺の三宝荒神、地天像を廻ります」とあったので、お願いして茂林寺に寄ってもらう。この寺は、20数年前に下妻の商店視察のついでに寄って以来である。墓地の入口には、プリントにある元禄7年の三宝荒神像(像高63センチ)と同年の地天像(像高62センチ)の他にも
   33 延宝8 板駒型 日月・青面金剛・三猿          105×41
   34 寛政12 自然石 「庚 申」               72×39の2基の庚申塔と慶応2年の柱状型「二十三夜塔」(68×31×22)1基がある。今日の板倉では、十九夜塔のみであったが、館林で本日初の二十三夜塔に出会う。墓地と離れた境内には、虚空蔵菩薩の立像がみられる。
 途中、高速で渋滞に巻き込まれたが、5時20分に東京駅前に到着、解散する。
   〔付 記〕
    案内の荒井氏から東部公民館でみせていただいた『板倉の石造物と鋳造物』(板倉町教育委
   員会 昭和54年刊)を後日、お願いして送ったいただいた。これによると、庚申塔は
      舟型光背定形6臂青面金剛塔     42基
      舟型光背庚申文字塔        2基
      唐破風型笠付塔庚申塔       4基
      方錐角柱庚申文字塔       29基
      平頂角柱塔庚申文字塔       3基
      板碑型駒型庚申文字塔      28基
      櫛型庚申文字塔          6基
      石碑型庚申文字塔        10基
      自然石型庚申文字塔        6基
      猿田彦命碑            5基
   の総計135基である。最古は延宝元年の青面金剛刻像塔で、最新は昭和48年の猿田彦大神
   文字塔である。
    庚申年の造塔は、延宝8年が1基、元文5年が5基、寛政12年が10基、万延元年が29
   基、大正9年が2基で合計47基である。年不明塔の10基を差し引いて比率を出すと、37
   ・6%となり、かなり高率である。
                 〔初出〕『野仏』第27集(多摩石仏の会 平成8年刊)所収
長谷寺の懸衣翁
 懸衣翁の石佛については、これまで所在に関する適切な情報を得ていない。石佛の造像に影響を与えた『佛像図彙』をみても、「十王」の前には「五道冥官」「倶生神」「葬頭河婆」が図示されているが、「懸衣翁」の像容を一切扱っていない。
 昭和50年に刊行された庚申懇話会編『日本石仏事典』(雄山閣出版)には、平野榮次さんが「十王塔」の項目を担当し、私が「閻魔」と「奪衣婆」を書いた。その後、昭和55年に「補遺」を加えて発行された同書の第2版には、私が「司命・司録」「倶生神」「五道冥官」「人頭杖」「淨玻璃の鏡」「業の秤」の6項目を加えた。しかし懸衣翁については、当時、手持ちの調査資料がなく、石佛関係の各書にも見当たらなかった。
 昭和61年には、日本石仏協会が編集した『日本石仏図典』が国書刊行会から出版された。これには、当時の会長だった大護八郎さんが「懸衣翁」の項目(88頁参照)を担当されて
   懸衣翁 けんねおう
    原宏一氏はその著『野の石──山陰の石仏めぐり』の中で、数々の珍しい石仏を紹介されて
   いる。氏は疑問をはさみながらも、これを懸衣翁といっている。とすればきわめて稀なもので
   ある。氏は同書の中で「鰐渕寺には石造の十王像と奪衣婆、それに懸衣翁なのか鬼像なのか石
   像2体がある。……眉をよせた奪衣婆に配するのは懸衣翁となろうが、2体とも右手を顔にあ
   て頭に角がみられるので鬼像なのかもしれない」とされている。閻魔の庁にあって、そこを通
   る亡者の衣を奪衣婆が剥ぎ、夫である懸衣翁(懸衣爺)が傍らの木の枝にかけて、罪の軽重を
   枝のしなりぐあいではかるという。鬼くさいところがあるが、なんとも決めかねる。〔大護〕と記し、原宏一氏が撮られた島根県平田市別所・鰐渕寺の石像の写真を載せている。
 同書には、もう1か所に懸衣翁の項目(182頁参照)がある。こちらは、時枝務氏が担当されたもので
   十王<14>懸衣翁 けんねおう
    三途の川を渡ってくる亡者の着物は、奪衣婆によって奪われるが、それを奪衣婆から受け取
   って、三途の川のほとりにある衣領樹の枝にかけるのが懸衣翁である。懸衣翁は男の鬼で、鬼
   女である奪衣婆とともに、衣領樹の陰に住んでいる。衣領樹の枝は、着物の重さで上下し、罪
   の軽重がわかるという。初江王はその様子をみて、亡者が生前に犯した罪を知り、その罪の軽
   重を判断する。
    懸衣翁の像容は忿怒相を示し、簡単な衣服をまとっただけの、老いた鬼の姿に現されるとい
   われる。しかし単独の造像例に乏しく、写真のような十王や奪衣婆などをセットした群像の中
   の一体として、懸衣翁も含まれると思われるが、像容を特定できない。〔時枝〕とあり、群馬県利根郡白沢村・観音寺にある十王群像を撮られた金井竹徳さんの写真を添えている。説明文に「懸衣翁も含まれると思われるが、像容を特定できない」とあって、これでは必ずしも懸衣翁があるとはいえない。
 十王群像の中には、十王と奪衣婆以外にも地蔵や業の秤、淨玻璃の鏡、人頭杖が加わっている。それらは、十王とは異なる形像だから判別できるが、倶生神や5道冥官、司命、司録などは必ずしも識別できるとはいえないだろう。
 『佛像図彙』の「葬頭河婆」の図には、「身長十六文眼ハ車輪ノゴトシ 3途川ニアリ 名ヲ奪衣婆ト云 男アリ懸衣翁ト云 老婆亡人ノ衣ヲハキトレバ老翁ウケトリ 衣領樹ニカクル」の説明がある。懸衣翁こそ図示されていないが奪衣婆との関係がわかる。
 懸衣翁が十王群像の中の1体と考えられるのは、同書の178頁に載っている山梨県北都留郡上野原町四方津・袋香寺の写真の一石十王塔である。私がみた十王群像の中では、この十王石祠が1番可能性が高く、奪衣婆と並んでいる像が懸衣翁と思われる。
 平成8年12月15日(日曜日)に行われた庚申懇話会12月例会は、神奈川県鎌倉市内「長谷寺・大仏から極楽寺へ」のコースを歩いた。この時の記録は、『平成8年の石仏巡り』(ともしび会平成9年1月刊)に発表している。関係部分を抄出すると、「長谷寺(長谷3丁目)では、まず弁天像をみてから、弁天窟にはいる。(中略)石段をのぼった所にある池に石仏が置かれているが、その中に奪衣婆と懸衣翁の丸彫りがみられる。」である。
 鎌倉市長谷3丁目の長谷寺境内にある石像は、前の引用文でもわかるように共に丸彫り像で、奪衣婆と対になっている。ここの奪衣婆の石像は、ごく普通にみられる形像で、皺の深い顔で髪を肩まで垂らし、右足の膝を立てた座像である。着物の前をはだけて肋骨と垂れ下がる乳房をみせている。立てた右膝の上に右手を置き、左手の掌を左膝の上に重ねている。
 対になっている石像は、額に深い皺を刻む老人の顔で、胸をあけた状態で衣を着る。奪衣婆とは逆に左足を立てて座っている。左手は立てた膝の上に置き、右手は横座りした股の上方にあって両手で紐状、あるいは衣をまるめて持っている様子である。
 前にも記したように『佛像図彙』に載る「葬頭河婆」図の説明にある通り、懸衣翁は、奪衣婆が亡者から奪った衣を受け取り、衣領樹にかけて亡者の罪の軽重を計る役目である。従って奪衣婆と懸衣翁が一対に造られているのは当然である。
 通常、石佛の場合に奪衣婆と対となるのは、法冠をかぶり、道服をまとった閻魔大王である。これは、各地でみられる。しかし長谷寺の座像は、どうみても閻魔大王ではない。衣が奪衣婆と共通し、しかも手には紐か衣を丸めたもの持っている。奪衣婆と対でこうした形像からみて、懸衣翁と判断するのが妥当である。        〔初出〕『野仏』第28集(多摩石仏の会 平成9年刊)所収
道祖神写真展と文献目録
 平成8年9月30日(月曜日)付けの毎日新聞多摩版には、見出しに「道祖神ズラリ50点 来月2425日に写真展 八王子の川井さん」をつけて
    道端でほほ笑む道祖神に魅せられた八王子市高尾町、社交ダンスホール経営、川井正則さん
   (52)の「笑顔の道祖神 写真展」が10月24、25日、八王子市芸術文化会館・いちょうホール
   (本町24)で開かれる。展示されるのは川井さんが5年間撮りためた50点。
    川井さんが道路の悪霊を防ぐとされる道祖神と出会ったのは1991年の秋。長野県4賀村
   の山あいの小道で、男女の双体道祖神が木漏れ日を浴びていた。元々山登りが趣味だった川井
   さんはその優しい表情に心引かれ、長野、群馬県の村々を訪ね歩くようになった。
    地元の教育委員会などから資料を取り寄せて事前準備。休みの前日には天気予報を聞き、晴
   れと分かると深夜、愛車にカメラを積んで出かけた。石に彫られた道祖神の撮影には、光線が
   斜めから当たる早朝か夕方がベスト。しかし、山道に迷うことも多く、なかなか満足のいく写
   真を撮るには難しかったという。
    200年もの時の流れを刻んだ道祖神。しかし、その表情は今も、お年寄りが見ても「いい
   なあ」と素直に感じられる。川井さんは「路傍にたたずんで仲良くほほ笑んでいる表情を、写
   真の中から感じとってもらえれば」と話している。問い合わせは川井さん・0426・61・4
   486。の記事が載っていた。記事には「写真展に出品される長野県4賀村の双体道祖神」のキャプションがついた写真が添えられている。
 新聞が掲載された翌日の10月1日(火曜日)には、縣敏夫さんから川井さんの「笑顔の道祖神写真展」の案内状が届いた。案内のハガキには、表面にいちょうホールの地図と所在地や電話・ファックス・案内が印刷されている。裏面には、タイトルの「ほほえみとの出会い」の下に毎日新聞の多摩版に載ったものと同じ写真がカラー印刷され、「笑顔の道祖神 写真展 長野・群馬の山里に多くみられる男女像のやさしい表情50選を展示致します。──ご都合のついでにお立ち寄り下さい──とき:平成8年10月24日(木)・25日(金) ところ:八王子市いちょうホール2F展示室AM11:00〜PM8:00 笑顔の道祖神撮影 川井正則 ・0426−61−4486」(原文は横書き)とある。
 あまりにも案内状がつくのが早かったので写真展のことはすっかり忘れていた。10月22日(火曜日)に何気なく手帳を見たら、予定欄に「道祖写真展」と記されていたので、初日の24日に出掛けることにした。
 24日(木曜日)は、庚申懇話会の11月例会の案内を担当するので前日に鎌倉の下見にいき、その記録をワープロ入力していたから、写真展に出掛けるのが午後2時過ぎになってしまった。写真展の会場についたのは、3時を廻っていた。会場に展示された道祖神の作品をざっとみてから、1枚1枚写真の撮影場所をメモしながらじっくりと見た。撮影場所は次の市町村である。県・市郡別に示すと、次の3県にわたる4町3市12村である。明細は
  ┏━━━┯━━━━┯━━━━┯━━━━┓ ┏━━━┯━━━━┯━━━━┯━━━━┓
   ┃県 名│市郡名 │町村名 │撮影箇所┃ ┃県 名│市郡名 │町村名 │撮影箇所┃
   ┣━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┫ ┣━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┫
   ┃群馬県│勢多郡 │赤城村 │3か所 ┃ ┃長野県│東筑摩郡│四賀村 │6か所 ┃
   ┃   │    ├────┼────┨ ┃   │    ├────┼────┨
   ┃   │    │富士見村│2か所 ┃ ┃   │    │坂井村 │2か所 ┃
   ┃   ├────┼────┼────┨ ┃   │    ├────┼────┨
   ┃   │群馬郡 │倉淵村 │2か所 ┃ ┃   │    │生坂村 │2か所 ┃
   ┃   ├────┼────┼────┨ ┃   │    ├────┼────┨
   ┃   │吾妻郡 │中之条町│7か所 ┃ ┃   │    │山形村 │1か所 ┃
   ┃   ├────┼────┼────┨ ┃   │    ├────┼────┨
   ┃   │北群馬郡│吉岡村 │1か所 ┃ ┃   │    │朝日村 │3か所 ┃
   ┣━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┫ ┃   ├────┼────┼────┨
   ┃長野県│松本市 │    │1か所 ┃ ┃   │南安曇郡│穂高町 │2か所 ┃
   ┃   ├────┼────┼────┨ ┃   │    ├────┼────┨
   ┃   │大町市 │    │2カ所 ┃ ┃   │    │梓川村 │1か所 ┃
   ┃   ├────┼────┼────┨ ┃   │    ├────┼────┨
   ┃   │北佐久郡│望月町 │3か所 ┃ ┃   │    │三郷村 │2か所 ┃
   ┃   ├────┼────┼────┨ ┃   ├────┼────┼────┨
   ┃   │上伊那郡│辰野町 │3か所 ┃ ┃   │北安曇郡│八坂村 │1か所 ┃
   ┗━━━┷━━━━┷━━━━┷━━━━┛ ┣━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┫
                        ┃静岡県│富士宮市│    │3か所 ┃
                        ┗━━━┷━━━━┷━━━━┷━━━━┛

である。群馬県では中之条町の7ヵ所、長野県では四賀村の6ヵ所が最も多い。
 会場で撮影者の川井正則さんにお会いし、いろいろな話をした。川井さんの好みは、タイトルにもあるように道祖神の「笑顔」がテーマである。神奈川県にみられる拱手像はお呼びないらしい。そうすると、どうしても長野や群馬ということになる。川井さんは、多摩版にも書かれいたように、各地の教育委員会などから資料を取り寄せて事前準備を行っているが、話の様子からみて双体道祖神の全国的な分布や傾向がよくわかっているようには思えなかった。
 後で知ったのだが、当日付けの読売新聞多摩版には
   □ 笑顔の道祖神 写真展(24、25日、八王子市芸術文化会館いちょうホール2階展示室)
   川井正則さん撮影の長野、群馬の山里に多くみられる男女像のやさしい表情50選を展示。・0
   426・21・3001。が載っていた。
 平成8年10月には、神野善治氏の『人形道祖神』が白水社から発刊された。各地でみられる人形道祖神をテーマにしたもので、道祖神を考える上で参考になる。その1部では、人形道祖神の関連として単体と双体道祖神の石像も扱われている。
 それより先の5月に、新潮社から道祖神を歩く会(文章)と野中昭夫氏(写真)の『道祖神散歩』が発行された。この本は、長野・群馬・神奈川・山梨の散歩コースが紹介されていて、川井さんの恰好の撮影ガイドになる。川井さんも個人的に資料を集められているようだが、各地に散在する双体道祖神の傾向を充分に把握しているようには思われない。 道祖神の雑誌文献については、『日本の石仏』第29号(昭和59年刊)に「道祖神関係雑誌文献目録補遺」として発表した。これは、同誌第26号(昭和58年刊)に載った佐藤真1氏の「道祖神関係雑誌文献目録」の補遺を目的として、佐藤氏と同じ形式で作成した。発表から年数も経ているので、その後の分についてもいずれまとめる必要があろう。

 これまでに発行された道祖神の本は多くみられるが、参考文献が載っていても、いずれも必要最小限で全国を視野に入れたものはない。そこで、『日本石仏事典』第2版(雄山閣出版 昭和55年刊)に載せた「石仏関係参考文献目録目録」と「補遺」にその後入手したものを加え、さらに
   縣 敏夫編「日本石仏関係主要文献」『日本石仏図典』 国書刊行会 昭和61年刊
   中上敬一編「石造文化財関係の文献目録」『続日本石仏図典』 国書刊行会 平成7年刊を参考にして、「道祖神文献目録」を作成した。

ここでは、道祖神を主体としたものに限定した。従ってここに掲載した以外にも、各地で発行されている石仏の文献の中には道祖神を扱ったものがみられる。特に長野や群馬の両県では、市町村単位で発行されている石仏調査報告書に、他の石仏と共に道祖神の記載されているから注意を払う必要がある。この文献目録で大まかな傾向をとらえたら、先に挙げた『日本石仏事典』や『日本石仏図典』『続日本石仏図典』の文献目録から、目的とする各地の報告書を探して、細部を参照されるとよいだろう。

 この文献目録では、利用の便を考えて、全般的な文献と県別とに分類し、発行年次順に載せた。何かのお役に立てば幸いである。

◆道祖神文献目録
〔 全 般 〕橋浦 泰雄『東筑摩郡道神図絵』 郷土研究社 昭和6年刊武田 久吉『道祖神』 アルス 昭和16年刊武田 久吉『路傍の石仏』 第1法規 昭和46年刊鈴木 繁『道祖神考』 上毛古文化協会 昭和37年刊芦田 英一『道祖神の神々』 池田書店 昭和38年刊伊藤 堅吉『石神の性典』 富士博物館 昭和38年刊伊藤 堅吉『富士の性典』 富士博物館 昭和39年刊伊藤 堅吉『性の石神──双体道祖神考』 山と渓谷社 昭和40年刊伊藤 堅吉『俗信芸術』 図譜新社 昭和42年刊大護 八郎『道祖神──路傍の石仏・』 真珠書院 昭和41年刊川口 謙二『路傍の神様──道祖のふるさとをたずねて』 東京美術 昭和43年刊伊藤堅吉・遠藤秀男『道祖神のふるさと』 大和書房 昭和47年刊山田宗睦・井上青龍『道の神』 淡交社 昭和47年刊降旗 勝次『道祖神』 鹿島出版会 昭和50年刊丸石神調査グループ『丸石神──庶民のなかに生きる神のかたち』 木耳社 昭和55年刊小坂 泰子『愛の神々──路傍の道祖神』 筑摩書房 昭和60年刊岩間 倶久『石仏道祖神のある風景写真』 金園社 昭和62年刊倉石 忠彦『道祖神信仰論』 名著出版 平成2年刊川崎市民ミュ−ジアム『道祖神の源流──企画展「道祖神の源流」解説図録』 同館 平成3年刊大島 建彦『道祖神と地蔵』 3弥井書店 平成4年刊山崎 省三『道祖神は招く』 新潮社 平成7年刊道祖神を歩く会・野中昭夫『道祖神散歩』 新潮社 平成8年刊神野 善治『人形道祖神──境界神の原像』 白水社 平成8年刊

〔 栃 木 〕尾崎源之助『下野の道祖神』 教育出版社 昭和42年刊平田 キヨ『栃木の道祖神見てある記』 私家版 平成1年刊

〔 群 馬 〕大塚 省悟『やぶにらみ道祖神』 私家版 昭和51年刊大塚 省悟『又々やぶにらみ道祖神』 私家版 昭和57年刊金井 竹徳『沼田路の道祖神』  私家版 昭和51年刊丸橋 裕男『吾妻郡の道祖神──双体道祖神』 吾妻町教育委員会 昭和51年刊若林 栄一『吾妻郡の双体道祖神』 私家版 昭和51年刊若林 栄一『吾妻郡と境を接する市町村の双体道祖神』 私家版 昭和57年刊若林 栄一『群馬・長野県境の双体道祖神』 私家版 昭和58年刊オギノ芳信『上州双体道祖神の旅』 煥乎堂 昭和52年刊六合村教育委員会『六合村の道祖神』 同会 昭和53年刊平山 利男『群馬の道祖神』 群馬県文化事業振興会 昭和54年刊金井  晃『倉淵村の道祖神』 金井道祖神研究所 昭和55年刊松井田町文化会『松井田町資料集別冊 道祖神写真集』 同会 昭和56年刊赤城村教育委員会『赤城村の双体道祖神』 同会 昭和59年刊日本石仏協会群馬支部『上州路道祖神百選』 あさを社 昭和59年刊水上町教育委員会『道の神・境の神(みなかみの野仏)』 同会 昭和61年刊

〔 東 京 〕町田市立博物館『町田の石仏 地神塔・庚申塔・道祖神』 同館 昭和57年刊

〔 神奈川 〕清水 長明『相模道神図誌』 波多野書店 昭和40年刊南足柄町教育委員会『南足柄町文化財調査報告書3 道祖神特集』 同会 昭和45年刊相模工業大学付属高校『茅ヶ崎市の道祖神』 同校 昭和45年刊今井 英雄『平塚の道祖神・庚申の実態』 私家版 昭和48年刊茅ヶ崎市文化資料館『資料館叢書1 茅ヶ崎の道祖神』 茅ヶ崎市 教育委員会 昭和50年刊海老名市教育委員会『海老名市文化財資料集3 海老名の道祖神』 同会 昭和50年刊小田原市教育委員会『小田原市文化財調査報告書8 小田原の道祖神』 同会 昭和51年刊小田原市教育委員会『小田原市文化財調査報告書18 小田原の道祖神』 同会 昭和60年刊樋口 豊宏『茅ヶ崎の道祖神』 私家版 昭和51年刊大井町教育委員会『大井町の道祖神』 同会 昭和54年刊京谷秀夫・宮崎利厚『神奈川の道祖神 上』 神奈川新聞社 昭和54年刊京谷秀夫・宮崎利厚『神奈川の道祖神 下』 神奈川新聞社 昭和55年刊伊勢原市教育委員会『伊勢原市文化財調査報告書第1集 道祖神調査報告書 上』 同会 昭和55年伊勢原市教育委員会『伊勢原市文化財調査報告書第2集 道祖神調査報告書 下』 同会 昭和55年松田町教育委員会『松田町の道祖神』 同会 昭和56年刊神奈川県教育委員会『神奈川県道祖神調査報告書』 同会 昭和56年刊金井  晃『神奈川県道祖神調査資料』 私家版  昭和57年刊愛川町文化財保護委員会『愛川町文化財調査報告書第十二集 あいかわの道祖神』 愛川町教育委員会 昭和58年刊篠崎 信『海老名市石造物シリーズ 海老名の道祖神』 海老名市教育委員会 昭和63年刊秦野市立南公民館道祖神調査会『秦野の道祖神・庚申塔・地神塔』 秦野市教育委員会 平成1年刊

〔 山 梨 〕甲府2高社会研究部『甲斐の道祖神』 地方書院 昭和34年刊中沢  厚『山梨県の道祖神──甲州の石仏』 有峰書店 昭和48年刊

〔 長 野 〕橋浦 泰雄『東筑摩郡道神図絵』 郷土研究社 昭和6年刊武田 久吉『形態的にみた道祖神』 日本民俗学会 昭和26年刊宮田 嵐村『信州の道祖面と戯謡』 日本民芸社 昭和38年刊酒井 幸男『安曇野の道祖神』 柳沢書苑 昭和43年刊酒井 幸男『南安曇野道祖神図絵』 私家版 昭和43年刊楯英雄 他『長野県道祖神造銘史料集成』 私家版 昭和42年刊飯沼 純夫『穂高道祖神の姿』 私家版 昭和45年刊北原  昭『諏訪の道祖神』 柳沢書苑 昭和46年刊楯英雄・塚平昭三『下伊那における道祖神の研究』 私家版 昭和46年刊小林 大二『小県郡依田窪の道祖神』 丸子山岳会 昭和47年刊田中 康弘『信濃の道祖神──愛のかたちと祭』 信濃路 昭和49年刊田中 康弘『続信濃の道祖神──塞の神と自然石神』 信濃路 昭和49年刊田中 康弘『続々信濃の道祖神──文字碑と絵姿碑』 信濃路 昭和49年刊牛越 嘉人『北安曇野の道祖神』 柳沢書苑 昭和48年刊今成 隆良『松本平の道祖神』 柳沢書苑 昭和50年刊今成 隆良『東筑摩・松本市・塩尻市道祖神調査資料集成』 私家版 昭和52年刊今成 隆良『筑摩野の道祖神』 柳沢書苑 昭和54年刊有賀 実『辰野の道祖神』 私家版  昭和51年刊塩尻市教育委員会『塩尻の道祖神』 同会 昭和52年刊矢嶋 齋『蓼科八ケ岳山麓 道祖神 茅野市編』 笠原書店出版部 昭和52年刊石田 益雄『道祖神をたずねて 安曇野・穂高』 出版・安曇野 昭和53年刊石田 益雄『道祖神をたずねて──豊科・堀金』 出版・安曇野 昭和56年刊石田 益雄『長野県南安曇郡道祖神調査資料』 私家版 昭和57年刊石田 益雄『長野県南安曇郡道祖神調査資料(改定)』 私家版 昭和59年刊石田 益雄『道祖神をたずねて 安曇野・穂高』改定増補版 私家版 昭和59年刊降旗勝次・清沢朝男『安曇野と道祖神』 文1総合出版 昭和54年刊信州石造物研究会『石仏と道祖神』 信濃毎日新聞社 昭和56年刊日本石仏写真家協会『安曇野道祖神』 創林社 昭和59年刊西川久寿男『安曇野道祖の神と石神様』 穂高神社社務所 昭和62年刊松本市教育委員会文化係『松本の道祖神』 同会 平成6年刊

〔 新 潟 〕横山旭三郎『新潟県道祖神』 野島出版 昭和52年刊横山旭3郎『新潟県の道祖神をたずねて』 野島出版 昭和55年刊12

〔 静 岡 〕御殿場市教育委員会『御殿場の道祖神』 同会 昭和35年刊林  久統『伊豆の道祖神と滅びゆく性神と秘仏を訪ねて』 長倉書店 昭和47年刊吉川 静雄『私の中の道祖神第1部』 文盛堂 昭和49年刊吉川 静雄『私の中の道祖神第2部 伊豆のサイの神 前編』 幸原書店 昭和51年刊吉川 静雄『私の中の道祖神第3部 伊豆のサイの神 後編』 幸原書店 昭和53年刊吉川 静雄『私の中の道祖神第4部 富士山麓の道祖神 駿東編』 幸原書店 昭和53年刊木村博・鈴木茂『せえの神(伊豆の道祖神)』 サガミヤ 昭和49年刊遠藤 秀男『富士宮の道祖神』 緑星社出版部 昭和56年刊

〔 愛 知 〕鈴木源1郎『百姓の神々』 豊橋地方史研究会 昭和45年刊鈴木富美夫『奥3河の塞の神』 設楽郷土研究会 昭和45年刊

〔 鳥 取 〕淀江中央公民館歴史クラブ『伯耆道祖神振興の原像をさぐる 淀江のサイノカミ』 同館 昭和52年森   納『補訂 塞神考・因伯のサイノカミと各地の道祖神』 私家版 平成3年刊
                 〔初出〕『野仏』第28集(多摩石仏の会 平成9年刊)所収

稲荷の本地仏
 滋賀県立琵琶湖文化館の学芸員・山下立さんから、平成8年6月27日(木曜日)に2部の抜刷をいただいた。伏見稲荷大社発行の『朱』第39号(平成8年刊)に載った「稲荷信仰の懸仏──千葉県高照院の遺品をめぐって──」と熊野歴史研究会紀要の『熊野歴史研究』第3号(平成8年刊)の「秋田県稲庭小沢熊野宮の懸仏」である。
 山下さんの「稲荷信仰の懸仏」によると、高照院は千葉県君津市鎌滝所在の真言宗の寺で、この寺には十一面観音座像の本尊の下に宝珠を挟んで2匹の狐を配した懸仏がある。『稲荷大明神縁起』には「夫当社者、千手・如意輪・十一面之垂迹也」、『稲荷大明神流記』には「一 ハ大明神、本地十一面」(129頁上段)と記されている。山下さんは、これらから「本面は稲荷の本地仏に、神使を配した作品であることが理解できる」と結論づけている。
 山下さんの論考でもう一つ注目すべきことは、「管見では僅か一例ながら、本面にほぼ近い構成をとる遺品が確認できた」(130頁下段)とし、写真を掲げて千葉県野田市香取神社にある寛保2年観音石仏をあげている。写真によると、光背型塔の上部に「キャ」の種子、その下に左手に蓮華を把る聖観音浮彫り立像、右に「奉造立稲荷大明神本地佛」、左に「寛保二戌天七月吉日」、下部に向かい合う2匹の狐をする。
 この石仏について、註(26)にあるように千葉県石造文化財調査団『千葉県石造文化財調査報告』(千葉県教育委員会 昭和55年刊)の106頁に
    野田市西三ケ尾香取神社には、光背型の塔に佛像を刻み、「奉造立稲荷大明神本地佛」と銘
   文にある。佛像は未敷蓮華を持つ立像で聖観音とみられるが、上部にある梵字はキャである。
   佛像の脇には二鶏、塔身下部には二匹の狐が刻まれており、異色の塔で他に類例がない。寛保
   二年七月吉日の造立である。と記され、写真を掲げている。この写真を見ると、「佛像の脇には二鶏」とあるようにみえるが、『朱』第39号の鮮明な写真(130頁下段)で確認すると観音の衣で、山下さんの註(26)にある「二鶏が刻まれているとある点は、実査では確認できない」の指摘の通りである。千葉の調査報告の二鶏は誤認である。
 さらに註(26)では、高野進芳氏の「染井稲荷の本地仏」(『仏教と民俗』第1号 昭和32年刊)と「稲荷神の習合と俗信」(『朱』第14号 昭和47年刊)に載った「稲荷大明神御本地」銘の延宝2年十一面観音石仏を紹介している。
 この註でもふれらているが、町田市上小山田町・神明社付近には、衣冠の神像の年不明塔がある。私は、「稲荷の像容の分類」(『日本の石仏』第23号 昭和57年刊)で双狐型と分類したが、塔の頂部に刻まれた「キャ」は、山下さんの論考から稲荷の本地仏を表したことが理解できる。
 稲荷石像の分類に、私は1天秤型、2狐座型、3両方型、4双狐型、5象徴型の5種をあげたけれども、今後は、これに6本地仏型を加える必要があろう。(平8・7・1記)
                〔初出〕『野仏』第28集(多摩石仏の会 平成9年刊)所収
十四夜念佛塔の報告
 平成8年6月27日(木曜日)夜、本会会員の水野英世(八王子)さんからお電話をいただいた。八王子市館町にある不動庚申の所在地についての質問であった。このところ、私もこの塔をみていないので現況はわからないが、町田街道を高尾から町田に向かう左手にある、と答えておいた。この質問のやりとりの後で、水野さんからみみよりな話を聞いた。
 本誌『野仏』第27集に、私は「板倉の十四夜念佛塔」(19頁〜21頁)を発表した。水野さんがこれを読まれていたので、ご自分で見た十四夜塔2基を教えていただけたわけである。
 ご教示の1基は下妻市高祖・常縁寺にある元禄6年の「十四夜念佛」銘地蔵で、他の1基は同県結城郡千代川町脇川にある享保14年の「十四日念佛」銘観音である。
 中上敬一さんは『続日本石仏図典』(国書刊行会 平成7年刊)に載る「十四日念仏」の項目(123頁)で
    石仏は少なく、茨城県下妻市二本紀に「十四日念仏供養 田村中」と刻む寛文九年(一六六
   九)の釈迦如来が初見である。埼玉県加須市には「十四日念仏 十九夜念仏 百万遍供養塔」
   と刻む文化四年(一八〇七)の角柱型の文字塔が建てられた。と書いている。
 この中上さんの記述と水野さんの報告からみても、下妻市内にはまだ十四日念佛塔、あるいは十四夜念佛塔が分布がみられかも知れない。
 これまで知られる中世の十四日念佛塔としては
   1 弘安6 「毎月十四日念仏」 兵庫県加西市 慈眼寺の1基で、十四夜念佛塔の報告を聞いていない。
 近世の十四夜念佛塔と十四日念佛塔を編年順にみると
   1 寛文9 釈迦「十四日念仏」      茨城県下妻市二本紀
   2 元禄6 地蔵「十四夜念佛」      茨城県下妻市高祖 常縁寺
   3 享保14 観音「十四日念佛」      茨城県結城郡千代川町脇川
   4 宝暦2 如意輪「十四夜念佛」     群馬県邑楽郡板倉町板倉 長楽寺
   5 明和9 「キリーク 十四夜念佛供養」 群馬県邑楽郡板倉町西岡 南光院裏辻
   6 文化4 「十四日念仏 十九夜念仏」  埼玉県加須市となる。
 これまでにわかった十四夜念佛塔と十四日念佛塔は、茨城・群馬・埼玉の3県に分布する。この県名だけをみると、この念佛塔がかなり広い地域に現存するようであるが、地図を拡げてみると、分布する3県の下妻市・板倉町・加須市を結ぶとかなり狭い範囲であるのに気付く。この点からみて、この3角形内とその周辺を含めた地域からまだ十四夜念佛塔、あるいは十四日念佛塔が発見される可能性があるだろう。お気付の念佛塔をご存知の方は、ご教示をお願いしたい。(平8・7・1記)
                〔初出〕『野仏』第28集(多摩石仏の会 平成9年刊)所収
庚申塔殺人事件
 平成8年10月20日(日曜日)は、初めての衆議院小選挙区並立制の選挙が行われた記念すべき日で、多摩石仏の会の10月例会でもあった。午前9時30分にJR中央線八王子駅改札口前に11人が集合、縣敏夫さんの案内で八王子市内をまわる。
 駅前からバスで宇津木町に出て、第1見学地の龍光寺から宇津木町会館をまわり、尾崎町に入る。埜村石材店(尾崎町50ー15)近くの旧日光街道路傍には
   享保16 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    89×35×25が建っている。30年前にみた時にはもっと高い位置にあったような記憶がある。青面金剛は、合掌6手の立像で一鬼の上に立つ。下部には二鶏と三猿が配され、その下に刻まれた施主銘をみると、尾崎村の定右門などの9人に宇津木村の1人(佐五右門)が加わっている。
 この尾崎の庚申塔を見て思い出すのは、昭和48年12月4日付けの読売新聞多摩版である。この日の記事の中には
 三日午後三時四十分ごろ、八王子市尾崎町五二農業石森伝衛門さん(七五)所有の畑に立っている庚申塚(こうしんづか)の高さ一・三六メートル、重さ百五十キロの石塔に、同町一七〇、いす張り替え業深沢善蔵さん(三五)の長男敬昌(ひろまさ)ちゃん(五つ)(甲の原保育園児)が抱きついて遊んでいたところ、突然、石塔が倒れ、敬昌ちゃんは下敷きになって即死した。
 八王子署の調べによると、敬昌ちゃんは保育園の送迎バスで現場近くのバス停で降り、迎えにきた母親の美知世さん(三一)と二男の克行ちゃん(三つ)の三人で自宅に帰る途中、道路端にある庚申塚の土台に上がって遊んでいた。石塔がコンクリートで固定されていなかったため重みで押し倒されたらしい。
 この庚申塚は、近所の人の話によると、享保十六年(一七三一)に「光明真言講」の信者が建てたものといわれており、「光明真言供養塔」という名目で供養されているという。保育園の担任の先生は「敬昌ちゃんは、明るい性格の子だった。先日の七五三の祝いでも新しいスーツを新調してもらい、大喜びだったのに・・」と涙ぐんでいた。
が載っていた。

 尾崎の庚申塚には、庚申塔の隣に文政元年の「光明真言供養塔」が並んでいる。そのために、新聞記事では庚申塔とこの塔とが混同されている。庚申塔には、右側面に「庚申待講中」、左側面に「享保十六辛亥年四月廾八日」の銘文が刻まれている。「光明真言講」も「光明真言供養塔」の銘文はどこを探してもない。青面金剛の刻像がわからずに、隣の文政元年塔と結びつけていることは明らかである。
 いずれにしても、庚申塔が殺人の犯人にされるようなことは御免被りたいもので、こうした事故があってはならい。         
〔初出〕『野仏』第28集(多摩石仏の会 平成9年刊)所収
庚申塔の背後を読むには
 平成9年5月16日(金曜日)付けの毎日新聞・多摩版には、ネットワークの「イベント」欄に
   ☆桑都民俗の会 17日13時半〜15時半、八王子市上野町33、郷土資料館。テーマは「多摩にお
   ける石工銘( いしくめい) と運搬─金石文の調査方法─」、無料。佐藤さん電話0426・65
   ・3097の記事がのっていた。
 この記事で「石工銘と運搬」も興味あるテーマであるが、どちらかといえば「金石文の調査方法」の方に注目した。5月16日は、当日の講師が誰だかも知らずに八王子市立郷土資料館にでかけた。
 この例会の講師が本会の縣敏夫さんであるのを知ったのは、会場についてからである。講演に先立ちレジュメが配られたが、その項目をあげると1が「多摩の石仏における石工銘」、2が「煤ケ谷の石工について」、3が「多摩における信州石工の足跡」、4が「石仏の製作費用について」である。このレジュメに「八王子市の庚申塔分布(石質の分類)」と「庚申塔の運搬に関する銘文」の拓本、「八王子市内の庚申塔にみる石質別造立推移」のグラフ、それに私が『日本石仏事典』に書いた「石仏調査法」(362〜365頁)のコピーが添付してある。
 今回の講演のベースは、縣さんが『野仏』第26集(本会 平成7年刊)に発表された「石工銘・値段・運搬について」で、この中から「五日市町の伊奈の石工について」「旅稼ぎの石工について」「石仏および石材の運搬について」「むすび」の4項目が抜けている。対象が八王子を中心とした桑都民俗の会の例会と時間の制約のためと思われる。
 縣さんのお話の中で特に興味があったのは、石仏の製作費用についてである。レジュメでは、八王子市散田町・高宰神社の宝暦9年銘燈籠1対、稲城市平尾の享保9年銘地蔵、福生市熊川の寛政7年銘庚申塔、稲城市坂浜の安政7年銘六地蔵石幢をあげて、結びには「いずれも合計金額としては低いきらいがある。以上のことから、石仏銘から造立費を知ることは、なかなか困難なことであると云えよう」と記している。
 多摩地方の庚申塔の中で製作費用を記したものは、縣さんがあげられた熊川の寛政7年塔しか知らないが、本会編の『新多摩石仏散歩』(たましん地域文化財団 平成5年刊)の242頁でふれた奥多摩町には、氷川の嘉永元年二十三夜塔や川野・浄光院の嘉永7年文字道祖神がみられる。いずれにしても、石佛に製作費用を刻む例は稀である。
 話は違うが各地で造られた山車や屋台の費用を聞くと、山車や屋台の本体にかかった費用以外に収納庫や落成祝いの費用を含めている。その他にも、役員が手弁当で奉仕した費用は算入されていない。石佛の場合も、どこまでが石佛本体の費用なのか、開眼供養などの費用がどの位なのか、労働奉仕はどうなのか、それぞれの費用がはっきりしない。
 青梅市長淵9丁目大荷田には、和紙に墨書きで記された「古記録ノ寫」が残っている。昭和50年9月13日に当時、青梅市文化財保護委員を務めていた長淵6丁目の中村保男さんの紹介でこの大荷田の記録を拝見した。文頭の「一 文政六年癸未三月中旬」の横に「百年前」の書き込みがあり、文中にも「九十三年前 天保元年ト改元アリ」と記されているから、以前の記録を大正十二年頃に写したものかも知れない。
 石佛に製作費用が刻まれている場合も、石という制約があってこと細かな内容まではわからない。その点では紙に書いたものには石ほどの制約もなく、細部にわたっている。この「古記録ノ寫」には長淵9丁目の大荷田峠にある天保2年の庚申塔造立に関する記録が記されている。さらにこの記録は石橋や手洗鉢にもふれられているので、長文にわたるが参考のために引用しよう。
   古記録 ノ寫
   一文政六年癸未三月中旬玉泉寺住職一 翆和尚様ヨリ金参両御寄附アリ其時
    切通道七尺余切下ゲ候扠古来七八十 年以来ヨリ切通道並ヨリ諸相始マリ申候也
    此度組一同相談之上吉藏所有山林へ道ヲ切下ゲ道供養致可ク相極リ當
    十一月道普請相始メ候也
    供養塔 ノ義ハ大久野村ニテ作リ候庚申御筆ハ芝村長徳寺(眞定)大和尚也
    芝村ハ北足立郡ニシテ川口町と蕨町 ノ中間ナリ 是ハ文政十三年寅 ノ霜月 ノ起工ナリ
             ┌─┐  九十三年前  天保元年ト改元アリ
      長二尺九寸┌─┤ │  文政十三寅年十一月十六日始メ 人足扣
     ┌─────┤ │一│   十六日   十七日  廾五日 七郎兵衛悴
     │文政十四卯│道│尺│   一拾弐人  一拾弐人  長兵衛 万次良
     ├─────┤供│七│     此両人ハ芝村長徳寺ヘ来リ三日目 ニカヘル
     │庚   申│養│寸│   一廾五日 十壱人
     └─────┤ │ │   一廾八日 惣二郎半人寺ヨリ 石屋ヘ行ク
      巾一尺一寸└─┤ │  十二月十一日 長兵衛石屋ヘ行ク
             └─┘    仝十二日 惣次郎石屋ヘ行ク
    十九日  庚申塔引取人足 〆十九人 伴藏 惣次郎 隠居へ来ル  人足約六十人
   天保二年正月廾六日始メ 人足扣
    一廾六日 拾弐人  一廾七日 六人  庚申地形石垣
   一二月十一日 六人  供養 ニ付 隠居様立腹ニテ拾月日モ伴造  惣次郎両人御詫ビ申候
   又卯 ノ正月二月 梅林 ノ久保奥右エ門殿御頼入候節御詫ビ申上候又畑中地蔵院隠居様ヲ御頼
           入レ御詫ビ申候節事済御詫人足数知レズ
   頼入議定一札之事
   一上長淵村大荷田ヨリ作場其外ヘ是迄 ノ 道 ニ テ ハ通路ハ甚ダ難儀 ニ付此度新
    道相浦理度候得共入会村地先 ニ候間  右村々ヘ御無心申上候処御承知御下左
    之御名前之右中御立會之上元悪    道相潰し新道相附度候地所之儀 ハ
    同所吉蔵所持之内 ニて候間元道 ト同人 所持無之処 ハ取替致村々役人□中御立
    合之上新道相附境から儀と相建候   上 ハ境 ハ木苗お相立候其決て彼此申間□□
    候堺外へ木苗お植出し申間□□候筈  前書一条頼 ニ付入會村々立會相定メ候
    上 ハ巳来例二日みても彼此故障無御申上候 為後日定會原形仕□仍□如件
     天保二年卯二月  武蔵国多摩郡 上長淵村大荷田
          頼人  組頭 長兵衛  仝 惣次郎  組合総代 伴 蔵
              地所取替人 吉 蔵  同村名主代兼組頭 又兵衛
            千ケ瀬村名主 平左衛門  河辺村組頭 伊太郎
            下長淵村名主半次郎代兼 定次郎
    右本書儀 ハ取替人吉蔵方相談之上 □□申候 以上
      此境引 村々役人立合 ニ付人足
   二月廾三日 拾弐人  名主役人へ御例集リ  長兵エ  惣次郎  伴蔵
    新道拵へ橋へ古道木植切通道北之方  道拵へ橋へ皆土□□□人足
   三月五日 拾弐人  供養之儀 ハ隠居御立腹 ニ付二月十九日夜組内相□  □上秋迄延期
   十月十三日十四日 惣次郎 長兵エ 供養 ノ準備  廾三日 人足拾弐人
   廾四日 餅搗 拾弐人  廾五日 拾弐人  廾六日 拾三人  廾七日 拾三人
   廾八日 組内 惣立合 勘定日待致候也
   金 銭 扣  (人足惣〆凡弐百人)
   一金弐朱  庚申書笛礼  一金壱両弐分 庚申塔石代
    梅林奥右エ門へ素麺壱俵 代金弐朱也
    地蔵印隠居へ酒弐升 代金四百拾文
    玉泉寺和尚様へ 二百文
    村々名主組頭 立會人へ素麺壱俵 代金弐朱也  右御礼也  外 雑費 ハ畧ス
   八十一年前  天保十三年寅二月切通道普請人足扣
   二月十六日 十二人  十八日拾壱人半  十九日拾壱人  廾日 拾人
    廾一日 拾壱人  〆 五拾五人半 休三
   三月十二日 拾壱人半  十三日 拾八人  三月廾八日 七人半
   七月廾七日 拾三人  廾八日 拾四人  廾九日 拾弐人  卅日 拾人
   三十日 下長淵木初きり 寄進 弐人 太七様
   八月朔 拾壱人  八月八日 六人  九日 拾弐人
   家別人足記 
   一拾参人半 太 七    一拾参人半 新兵エ    一拾弐人半 徳次郎
   一拾参人半 源 蔵    一拾参人半 平 吉    一拾壱人  重兵エ
   一弐拾人  長兵エ    一拾五人半 伴 蔵    一拾参人半 金次郎
   一拾五人半 半次郎    一拾七人  惣次郎    一拾参人半 梅次郎
   一 弐人  下長淵  木初  太七殿
   九月六日 惣次郎 政五郎 安二郎 三人 平次郎代 平蔵 梅次郎 ノ弟仁三郎
        伴蔵 ノ悴金蔵 長兵エ  平吉  〆 八人 此時人足〆百八十二人半
   寄進之扣
   一五十文  幸 助    一百文   与 七    一五十文  新左エ門
   一廾四文  三左エ門   一五十文  平 蔵    一五十文  幸 助
   一五十文  又兵衛    一廾四文  安兵エ    一五十文  金 蔵
   一廾四文  小三郎    一五十文  文次郎    一廾四文  茂右エ門
   一廾四文  治郎兵エ   一廾四文  權右エ門   一五十文  政右エ門
   一五十文  宇之助    一百文   藤右エ門   一百文   武兵エ
   一百文   六右エ門   一四十八文 久米五郎   一廾四文  伊左エ門
   一四十八文 長兵エ    一五十文  清兵エ    一四十八文 弥左エ門
   一なし   庄之助    一廾四文  藤 蔵    一なし   乙右エ門
   一五十文  要 蔵    一五十文  福次郎    一五十文  栄 吉
   一百文   喜平治    一五十文  巳之助    一百文   善太郎
   一廾四文  伊兵エ    一弐百文  喜 吉    一百文   宗 平
   一廾四文  三次郎    一百文   長 蔵    一廾四文  勘兵エ
   一四十八文 金左エ門   一五十文  利左エ門   〆五十四人
   一廾四文  直次郎    一四十八文 富五郎
   二月十九日 田畑 廾七日代渡し  一酒弐升 武兵エ  一酒弐升 伴 蔵
   二月廾日  一昼食 平次郎  一酒壱升  惣二郎  代渡し
   一ハ弐朱  組別割     三月十二日 四百文 十二軒  一酒弐升  梅次郎
    廾日   一酒弐升 伴 蔵  一 ハ三朱 平 吉
    廾一日  一昼食 伴 蔵  一酒三升 長兵エ  一夕食 長兵エ  廾一日 六百文
   七月廾八日  一夕半食 惣次郎  一酒弐升 惣次郎  一酒壱升  金次郎
    廾九日  弟吉蔵  一大すひか 平 吉 卅日
    廾九日  一昼食 惣次郎  一酒弐升 平次郎  一酒弐升 長兵エ
   此時惣次郎殿金五両  平吉殿 道具代  壱〆五百文  寄進 ニ相□申候 以上
   安政三丙辰年九月 庚申立替人足扣
    九月九日 六人半 内二人 金次郎半人 金蔵壱人
    石屋へ来リ 外人数 ハ玉之内へ来リ不□造致
    今日大雨降り 十日引取人足〆弐拾壱人 十一日 一金壱分 石代車代共
    安政四年丁巳  庚申塔台座川より万吉西道迄デ引取り人足
    三月廾八日 拾人 不来源蔵半次郎
    安政四年巳二月十三日京都南膳寺住職 大和尚山田カウイン寺 ニ御出 ニ付庚申書筆
    依頼 ノ為惣次郎玉泉寺 ニ至ル 書筆代 弐分(テイカ)様 ヘ渡 ス
    此度三月にて玉泉寺和尚様不見 ニ御出候□候 昼後万吉宅 ニ テ小休止致シ惣次郎梅二郎芳吉
    權蔵藤吉立合外人数 ハ林刈抜致 神明様 ヘ来ル金次郎半次郎二人
    五月十一日 書筆寺 ヘ出来致惣次郎来上仕 リ請取候
    仝月十七日 藤吉石工 ヘ来ル候
    七月廾二日 石工 ヘ来ル人数 藤吉 源蔵 万吉 梅次郎 徳二郎
    六月十三日 石工 ヘ来ル十五日来ル筈一同相談之上渡ス 石工 ヘ渡金壱両弐分
    七月廾五日 石工 ヘ来ル庚申書石へ張り付ケ青梅へ帰り候
      廾六日ヨリ来ル弐人 廾七日弐人 廾八日休ミ 廾九日 弐人
    八月朔 二人 四日壱人 五日壱人 六日壱人 〆十一人
    七月廾九日 源蔵寺へ来 リ臣海様 ヘ御目見 ヘ致候
    八月五日 塔座持上候庭拵致候人足拾五人半
      四日 藤取二人半 源蔵半二郎惣次郎半人
      六日 源蔵寺 ヘ来ル
      七日 万吉半人玉之内へ来ル金蔵半人尾崎 ヘ来ル
         徳二郎 半二郎 梅二郎青梅 ニ買物 ニ来ル
    八月九日 人足十九人 九日供養人足十九人
      十日 勘定寺へ礼来 リ
   家別人足
   一九人   太 七    一六人半  金次郎    一六人   仙 吉
   一拾余人  半 造    一拾人半  徳二郎    一拾弐人半 惣二郎
   一八人   半二郎    一拾弐人  梅二郎    一七人半  万 吉
   一七人   藤 吉    一拾人   金 蔵    此時人足惣〆百〇二人
   七月廾九日 臣海様玉泉寺へ御出被遊候 ニ付源可浦 惣次郎御目見致候金弐朱御駕籠料
         差出候  是 ハ惣次郎自弁ト致候   供養惣合  六両壱分壱朱四百八文
   巳十月二日 壱〆三百文  庚申様掛物造代
   有志之分扣
   辰九月十日 昼後餅 煮しめ 酒弐升 金蔵殿 藤兵エ山迄持来  尾崎 玉 ノ内 武兵エ
   一弐朱 半次郎  一弐百文 吉左エ門  一弐朱 權次郎 利三郎
   一弐朱   長兵エ    一三十九文 賽 外  一小麦粉弐升 梅二郎
   一三百文  石 工    一小豆壱升 惣二郎  一芋 平 蔵  以上
   壱本 ニ付三百壱文ヅゝ ノ負担
   石橋架設   安政三年丙辰五月吉日
   此度 長兵エ殿西道石橋手當注文致候長サ三尺五寸
      巾壱尺弐寸厚廾五寸合三本代金壱両弐朱也
      五月四日青梅甼石工藤左エ門殿 ニ渡 ス
   七月十九日 大久野玉之内へ来 リ石見致候梅二郎私分本宿
      坂下見セ休致候 私分 梅二郎 二人
   八月朔 上ノ七マガリヨリ藤兵エ山西迄道拵へ致候事あり
     三日 玉之内 ニ一同石見 ニ来 リ同所利三郎殿 ニ テ
        昼飯を下同人助合案内を下 但し庚申石見 ニ
        来 イ酒壱升差出□き候也 此日 人数十二人
   八月十日 当所ヨリ玉之内へ来ル道平井カウジヨリ南ソネ迄  道拵へ 十二人
   八月十二日 梅二郎殿ヨリ木蓮寺村八郎左エ門殿相頼 ミ石
         橋石三枚新河岸河内屋平吉殿 ニ有之候
         処河辺村迄車ニテ石来 リ候筈相頼入候左 ニ
         記宜キ申候 八郎左エ門殿ヨリ梅二郎殿仁三郎
         殿相頼 ミ木蓮寺村清左エ門外今井村人々
         河岸ヨリ持来新甼村迄来 リ車手間代壱〆
         五百文 是 ヨ リ梅次郎金蔵平造安五郎右
         四人ニテ場所迄引取申候
     十五日 玉之内石堀 リ来ル惣次郎梅二郎平蔵三人
   九月六日迄十五日ヨリ諸人足十五人
     七日  石引取人足廾人半 八日 廾一人 九日 廾一人
   九月十一日 平井カウジ南ソネヨリ持来て 廾人
   九月廾五日 玉之内へ人足代百廾四文 梅次郎持来ス 起工以来是迄百廾八人
   十月廾七日 梅二郎殿東北 ノ方壱橋出来致候 十二人
   十一月七日 源蔵殿西方造 人数十六人
      八日 桑木入り 十八人 九日 桑木入長兵エ西橋九人
      十日 長兵エ西橋 十八人 十月廾七日ヨリ十一月十日迄七十三人
   安政四年丁巳六月廾九日 ノ夜 此度源蔵殿東沢石垣
         致シ橋造手当源蔵仙吉両人地続キ両人へ相
         談仕 リ相定メ一日相談致候組内へ金子差し出シ
   六月廾九日 梅二郎打の金子弐両也相渡し両地先へ
         来ル午 ノ春迄預ケ仕 リ候仝七月八日銀壱両也
         梅次郎殿金次郎殿へ預ケ申候〆三両預候
   安政五年戊午年二月十三日石垣始メ十七日迄十九人
     十八日十五人 十九日十五人半 廾日六人半 廾一日六人半
     廾二日十四人 廾三日十六人 廾四日十七人 合百九人半
     此手間代三両三分壱朱弐百九十一文也
    廾四日  一壱朱也 源蔵殿 ヘ祝儀出 一壱朱  仙 吉殿    一壱朱也 重蔵殿 ヘ
         一壱朱  重蔵下男 小八殿  四口〆壱分也  〆四匁壱朱弐百九十壱文也
   文久弐年十一月十四日 石橋供養
     一弐百文 尾崎吉左エ門   一弐百文 友田 ノ佐吉  一弐百文 上長淵 伊之助
     一百文  組内 おちよ殿  一金弐朱也 組内 藤次郎、万吉、金五郎、又造、源造
          仙吉 長次郎、平造、徳二郎、半次郎  〆弐朱七百文   貰分
   安政参年丙辰五月ヨリ是迄惣人足三百拾弐余
   文政十三年寅十一月ヨリ是迄四回 ノ大工事惣人足  八百人余
   安政弐乙卯年九月十九日 大幡宮手水石据付
   八月卅日  大久野村玉之内へ石見立□人来ル惣次郎 梅次郎
   九月朔 石見 ニ来ル人足但シ昼後ヨリ 半次郎、万吉、金蔵、藤吉、平蔵、金次郎、梅次郎
    二日 青梅石工へ来ル徳二郎  手洗水石引取人足
       一壱朱   石代     一弐朱   世話人弥三郎殿善九郎殿 ヘ礼
   九月二日  廾人 但し 石据致候人足八人
     十一日 上屋根致候人足六人
     十二日 杉皮外品々買物惣次郎人馬来ル外人数上屋
     十三日 屋根葺三人 十五日万吉石工へ来ル
     十七日 神主へ来ル買物三人外人数 ハ餅搗
     十八日 石工来ル人足十二人
     十九日 遷宮惣氏子出向太七悴長次郎 仙吉 源蔵、徳二郎、父仁左エ門悴平三郎
         半次郎 万吉、金蔵父伴蔵、金次郎、長兵エ悴藤吉 平造父平次郎弟勇次郎
         惣次郎悴常五郎下男 安五郎 梅次郎父重蔵悴藤十郎
         夜 ニ入神主来ル長兵エ 金蔵 惣次郎代半造  三人
   惣掛〆金壱両壱分六メ五百卅六文壱軒 ニ付九百九十二文この記録から庚申塔や石橋、手洗鉢の費用のみならず、たとえば芝村(現・川口市)に庚申塔の主銘を書いてもらうために人足をだしていたり、石引きやら整地などに各家から多くの人々が参加している点など、石佛本体からはうかがい知れない事柄が記されている。これなどは1例に過ぎないから、石佛だけでなく古文書にも眼をむける必要がある。
 これは、日本石仏協会発行の『日本の石仏』第62号(平成4年刊)の「現代の石仏と時代背景」と第69号(平成6年刊)の「大多摩霊園の羅漢」でふれたが、西多摩郡瑞穂町殿ケ谷・福正寺と日の出町平井・宝光寺には十六羅漢石佛がみられる。前者は昭和58年、後者は59年の造立である。この両寺の羅漢像は、石屋の話によると1体が約80万円という。青梅市成木2−559にある大多摩霊園の照峰山紫雲院では、平成2年現在で五百羅漢1体の奉納料が1体について20万円であったが、平成5年現在で25万円に値上げされている。この数字も現在の石佛の造立にかかる費用を示している。
 10月31日(金曜日)付けの西多摩新聞に「黒みかげ石を使用し、字彫り、工事一式込みで、88万円(間口一八〇センチ×奥行一八〇センチ)から」とあきる野石材の紹介記事がのっている。注意してみれば、特にお盆や春秋のお彼岸前に新聞に折り込まれるチラシ広告にも墓石の値段がのっている。これなども石佛の値段を知る一つの手掛かりになる。
 庚申懇話会では、昭和45年11月24日の申の日に千葉県東葛飾郡鎌ヶ谷町(当時)粟野で庚申塔の造立があることを聞いて共同調査を行った。その折りに同町粟野333の石井治一さん(明治33年生 70歳)からうかがったいろいろのお話を中で、庚申塔の費用にふれている。その報告の中で「この塔(昭和45年塔)の造立の費用は、6万円だそうだ。月々1軒十円の集金では、とてもこの塔は建ちそうにもないが、前からの余剰金なども加えたらしい。こう庚申塔が高くなっては、月々の集金──もとも今は1年分をまとめて集める──を二十円に上げようとの声もある。前回の昭和4十年塔は、2万5千円だったという」と『庚申』第63号(庚申懇話会 昭和46年刊)と書いた。
 昭和35年・40年・45年造立の庚申塔がどのようなものか、『庚申』の「共同調査報告」から引用すると
   昭和35 柱状型 日月「庚申塔」       67×25×25
   昭和40 柱状型 日月「庚申塔」       74×30×27
   昭和45 柱状型 日月「庚申塔」       74×31×27である。塔の大きさやどのような形態かが、これでおおよその見当がつくだろう。
 昭和55年は庚申年だったので、全国では1000基の庚申塔が造塔されたと私は推定している。この年2月、瑞穂町箱根ヶ崎に「庚申塔」の文字塔が建立された。この塔の造立について、施主の村山美春さん(武蔵村山市文化財専門委員)が書かれた「昭和の庚申塔建設の記」(『多摩のあゆみ』第21号収録 多摩中央信用金庫 昭和55年刊)に詳しい。この粟野では、5年毎に庚申塔を建てているから、この庚申年の昭和55年にも造塔がみられる。共同調査以後に粟野に行ってないので昭和50年の造塔からの状況がわからなったが、多田治昭さんが『野仏』第28集(本会 平成9年刊)に発表された「平成の庚申塔」の中で
   6 千葉県鎌ヶ谷市粟野 八坂神社
    ここには、庚申塔が数多くあることで知られている。昭和だけでも、五年毎に十二基建てら
   れている。山角型で矛・宝輪・巻物・索の四手青面金剛を主尊とし、台座正面に三猿を、左側
   面に「平成二年十一月吉日」と人名五人「講中一同」の銘を刻む。ここには平成の塔がもう一
   基ある。山角型で上部に日月、正面に「庚申塔」、台座の正面に「講中」左側面に「平成七年
   十一月吉日」人名五人「講中一同」の銘を刻む。五年後の平成十二年にも庚申塔が建てられる
   のだろう。(18頁)と報告されている。なお、こ多田さんの文章には平成造立の13基が載っているから、調査すればこれらの塔の費用が聞けるかもしれない。
 石佛自体から読み取れることも多いけれども、本体からどうしてもうかがい知れない多くの事柄がその陰に隠されている。長淵や粟野の例からもその1端がわかるように、庚申塔の造立の背後には、塔面に現れない製作費用や人足、供養の費用などが隠されている。実際に粟野では、開眼供養の当日に行ってその状況をみている。その時に小花波平六さんが撮影した、庚申塔の開眼供養に使う「うれつき塔婆」を記している僧侶の写真が『日本石仏事典』205頁にみられる。こうした事柄は、粟野の八坂神社にある昭和45年造立の庚申塔からは全くわからない。
 庚申塔に限らず石佛の場合にも、単に石佛本体だけを調査していてもわからない事柄が多い。縣さんの論考や講演のレジュメをみても、古文書が引用されている。こうした古文書や聞き取り調査も含めて総合的に石佛を調査しないと、石佛の表面的な面しかわからないだろう。石佛の背後まで読み取るためには、古文書の調査も欠かせない。(平9・11・1記)
                 〔初出〕『野仏』第29集(多摩石仏の会 平成10年刊)所収
山王七社主尊の庚申塔
 庚申塔の主尊には、各地に分布する青面金剛を始めとして、神道系の猿田彦や佛教系の帝釈天の他にもいろいろな刻像がみられる。青面金剛に比べると数はぐっと少ないけれども、釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来・薬師如来などの如来、聖観音・如意輪観音・馬頭観音・地蔵菩薩・勢至菩薩などの菩薩、不動明王や倶利迦羅不動などの明王、弁天の天部、その他にも聖徳太子・閻魔大王・仁王や狛犬、道祖神や田の神などの民間信仰の神といろいろな刻像が庚申塔の主尊に登場する。これが庚申塔の魅力の1つになっている。
 今年5月に故・森本矗・帝塚山大学教授の遺作(庚申塔の写真)が俊子夫人から送られてきた。その中には、愛知県半田市亀崎・都筑紡績社有地にある寛文年間の鍾馗像を主尊とした柱状型庚申塔を写した写真があった。この森本教授の写真で鍾馗の存在を知ったのであるが、すでにこの塔については、庚申懇話会の故・広瀬鎮・名古屋学院教授が『びぞん』復刊第1巻(昭和57年刊)に「庚申塔とサルとトリの世界─庚申塔にみられるサルとトリ(半田庚申考)─」を発表されていた。
 現在、庚申塔の調査が全国各地に及んでいるようであるが、まだ今日でもこのように庚申塔の新しい主尊が発見されている。今回取り上げた山王七社主尊の庚申塔もそうした1例である。
 9月28日(日曜日)は本会の9月例会、中山正義さんの案内で浦和市内にある石佛を巡った。解散前に廻ったた沼影1丁目6番の旧・広田寺(現・沼影公民館)境内の木祠には「文殊菩薩」と記した木札がさげられ、中には7体像を浮彫りする庚申塔が安置されていた。塔高が66センチ、幅が33センチ、奥行きが15センチの初めてみる柱状型塔で、右側面に「庚申供養 沼影村廣田寺」、左側面に「元禄十四年巳三月廾八日」の銘がある。
 塔の正面上部に日天を中央におき、その周りを瑞雲がまき、中央には1段目に2体(像高13と12センチ)、2段目に3体(いずれも像高11センチ)、3段目に2体(像高10と11センチ)の座像が3段に浮彫りされている。下部には中央に桃らしいものをもつ猿(像高6センチ)、その斜め下の左右に虎2匹(像高6センチ)がみられる。
 石佛で7体の名数といえば、七観音・七夜待本尊・七福神が思い浮かぶが、7体の像でしかも庚申に関係するものといえば山王七社である。この塔の7体像は、山王七社とみて間違いなかろう。それにしてもこれまで一般に知られていなかったのが不思議なくらいである。一つには、木祠にさげられた「文殊菩薩」の木札のためであろうし、他には何の刻像か見当がつかなかったせいであろう。
 これまでにも、山王信仰と関係した庚申塔として山王二十一社本地佛種子を刻む庚申板碑が知られている。この種の庚申板碑は、埼玉県・千葉県・東京都にみられる。中山正義さんの資料(註1)によって、埼玉県の山王二十一社本地種子の庚申板碑年表を示すと、表1(前頁参照)の通りである。
   第1表 埼玉県山王二十一社本地佛種子庚申板碑年表
  ┏━━━┯━━━━━━━━━━━━━━━┯━━━━━━━━━━━━━━━┓
   ┃元 号│ 特           徴 │ 所     在     地 ┃
   ┣━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━┫
   ┃永正15│「奉庚申待供養」       │川口市西新井宿 宝蔵寺    ┃
   ┠───┼───────────────┼───────────────┨
   ┃大永5│「申待 逆修」三具足     │比企郡嵐山町将軍沢 明光寺  ┃
   ┠───┼───────────────┼───────────────┨
   ┃弘治4│日月「申待 供養」三具足   │春日部市下蛭田 東光寺跡薬師堂┃
   ┠───┼───────────────┼───────────────┨
   ┃永禄3│日月・天蓋「申待 供養」三具足│岩槻市浮谷 常福寺      ┃
   ┠───┼───────────────┼───────────────┨
   ┃永禄X│日月・天蓋「申待 供養」   │大宮市片柳 阿弥陀堂     ┃
   ┠───┼───────────────┼───────────────┨
   ┃元亀3│日月・天蓋「申待 供養」三具足│越谷市相模町 日枝神社    ┃
   ┠───┼───────────────┼───────────────┨
   ┃天正2│日月・天蓋「申待 供養」三具足│北葛飾郡松伏町上赤岩 地蔵堂 ┃
   ┠───┼───────────────┼───────────────┨
   ┃天正3│日月「申待 供養」三具足   │越谷市増森新田 薬師堂    ┃
   ┠───┼───────────────┼───────────────┨
   ┃天正3│日月「申待 供養」      │越谷市東越谷 東福寺     ┃
   ┠───┼───────────────┼───────────────┨
   ┃天正3│日月・天蓋「申待 供養」三具足│越谷市千疋東町 東養寺    ┃
   ┠───┼───────────────┼───────────────┨
   ┃天正6│日月・天蓋「申待 供養」   │越谷市増森上組 墓地     ┃
   ┠───┼───────────────┼───────────────┨
   ┃天正8│日月・天蓋「庚申待 供養」  │大宮市三橋 大日堂      ┃
   ┠───┼───────────────┼───────────────┨
   ┃天正14│「庚申待 供養」三具足    │大宮市植田谷本 小島家    ┃
   ┠───┼───────────────┼───────────────┨
   ┃年不明│日月「申待 供養」      │南埼玉郡菖蒲町三箇 小山家  ┃
   ┗━━━┷━━━━━━━━━━━━━━━┷━━━━━━━━━━━━━━━┛

庚申板碑は中世の造立であるが、江戸時代になると例えば千葉県松戸市幸谷・幸谷観音の寛永2年板碑型塔や東京都葛飾区葛飾区青戸町3丁目・延命寺の承応4年板碑型塔、あるいは神奈川県津久井郡津久井町馬石の寛文2年光背型塔など、千葉・東京・神奈川の各都県に山王の庚申塔が分布する。さらに中山さんの資料(註2)によって、埼玉県下で江戸時代に造立された山王二十一社本地種子と山王銘の庚申塔年表(寛文年間まで)を作成すると、表2(上段参照)の通りである。なお、表中の「特徴」欄に「種子」とあるのは、山王二十一社本地佛種子を示す。
   第2表 埼玉県山王関係庚申塔年表
   ┏━━━┯━━━━━━━━━━━━━━━┯━━━┯━━━━━━━━━━━┓
   ┃元 号│ 特           徴 │塔 形│ 所   在   地 ┃
   ┣━━━┿━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━┫
   ┃寛永13│種子「奉果庚申待二世成就攸」 │板碑型│草加市稲荷 慈尊院  ┃
   ┠───┼───────────────┼───┼───────────┨
   ┃寛永16│種子「奉果庚申待二世成就」  │板碑型│八潮市伊草 東漸院墓地┃
   ┠───┼───────────────┼───┼───────────┨
   ┃寛永20│種子「奉庚申待供養」花瓶・蝋燭│板碑型│川口市戸塚 西光院  ┃
   ┠───┼───────────────┼───┼───────────┨
   ┃正保3│種子「奉果庚申待二世成就所」 │板碑型│川口市神明町 東福寺 ┃
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   ┃慶安3│種子「…庚申七分善徳二世…」 │板碑型│八潮市西袋 蓮華寺  ┃
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  ┃寛文4│「奉造立山王惣旦那」三猿   │角柱型│幸手市戸島 八幡神社 ┃
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   ┃寛文5│聖観音・種子「奉待庚申供養…」│光背型│八潮市川崎 専称寺  ┃
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  ┃寛文6│「奉造立山王諸願成就所」三猿 │光背型│庄和町神間 薬師堂跡 ┃
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   ┃寛文9│「奉納山王」三猿       │板碑型│川口市差間 路傍   ┃
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   ┃寛文11│「奉造立庚申山王…」三猿・二鶏│笠付型│川越市宮元町 妙義神社┃
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   ┃寛文13│「奉勧請山王七社大権現」三猿 │板碑型│川越市石原 観音寺  ┃
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   ┃寛文13│日月「奉庚申待山王七社…」三猿│笠付型│上尾市領家・中井 墓地┃
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上記の2表にみられるように、埼玉県下では山王の種子や主銘を刻んだ庚申塔がみられるが、これまで山王の刻像塔が発見されていない。山王刻像庚申塔は、山下立さん(滋賀県立琵琶湖文化館学芸員)が神奈川県愛甲郡愛川町上の原・山王社にある大宮権現座像丸彫りの寛政9年塔を報告している(註3)。これは、唐冠をかぶって唐服をまとい、笏をたてて持つ座像である。台石正面には三猿を浮彫りし、右側面に造立年銘を刻んでいる。
 紀秀信の『佛像図彙』には、二宮小比叡(本地薬師如来)・三宮(本地普賢菩薩)・大宮権現(本地釈迦如来)・八王子(本地千手観音)・聖真子(本地阿弥陀如来)・客人権現(本地十一面観音)・十禅師(本地地蔵菩薩)の「山王七社権現」座像が描かれている。沼影の元禄十四年塔の主尊が山王七社として、これをこの図彙の像容と比較しながら当てはめると、第1段の向かって左が三宮、右が大宮権現、第2段左から十禅師・聖真子・二宮小比叡、第3段が左に客人権現、右に八王子と配列しているように思われる。ここに示した七社の配列には、まだ不明な点もあるから暫定的なものである。
 前記の表にもある通り、川越市石原・観音寺の寛文13年塔には「奉庚申待山王七社権現 庚申待供養 為二世安楽」とある。表には示さなかったが、川越市小中居・公民館墓地には「…庚申者三如来四菩薩垂迹山王七社…」の銘文を記す延宝4年塔がみられる。これらの塔では、庚申信仰と山王信仰とが結びついている上に「山王七社」と明記している。沼影の元禄14年塔が山王七社の座像を浮彫りしていてもおかしくはない。むしろこれまで山王七社像を主尊とする庚申塔が発見されていないのが不思議なのかもしれない。
   (註1)中山正義「中世の庚申銘石造遺品集」『石塔・石仏』第7号(史迹美術同攷会東京石
           塔・石仏部会 平成8年刊)
   (註2)中山正義「江戸期二十一佛種子及び二十一社銘文字塔・江戸期山王権現銘塔」(私家
           版 刊年不明)
   (註3)山下 立「神奈川県愛川町上の原山王社の石造山王神坐像」『日本の石仏』第72号
          (日本石仏協会 平成6年刊)
                 〔初出〕『野仏』第29集(多摩石仏の会 平成10年刊)所収

原さんと『新多摩石仏散歩』
 平成8年7月に原嘉文さんから、今度『立川の伝統芸能』を出すに当たって、『多摩のあゆみ』に載った「西多摩の獅子舞巡り」から書中で引用したいから許可をお願いしますと電話があった。その後、獅子舞などの日取りについてのお手紙をいただき、折り返しご返事をさしあげた。翌8月には、返信のお礼と病院から近々に退院するという電話があったので、再び国立の財団の部屋でお会いできると楽しみにしていた。当時、原さんの病名をまったく知らなかったし、病状がそれほど悪化していたとは考えてもいなかった。

 平成9年3月31日に立川市教育委員会から『立川の伝統芸能』が刊行された。書中には、原さんが書かれた「祭礼と芸能」や「多摩に伝わる舞台芸能」「近世多摩地域の相撲について」などが掲載されている。『多摩のあゆみ』で示された多摩地方重視の視点が感じられる。病床にあっても、この本の執筆が気掛かりで、原稿をまとめるのに気を使っていおられたのだろう。
 原嘉文さんに私が初めてお目にかかったのは、『多摩のあゆみ』の創刊号(昭和50年刊)か第2号(昭和51年刊)が発行されてからで、電話で打合せしてお会いすると、同誌に「多摩の石仏」を書いてほしいと要望された。さっそく原さんのご希望に添って、私は第4号(昭和51年刊)から第7号(昭和52年刊)まで連載した「お地蔵さまを考える」「石仏散歩に出よう」「馬と牛と馬頭さん」「庚申塔調査の失敗」の4回分の原稿を書いた。これが原さんとのお付き合いの始まりである。

 私の連載の後にも、縣敏夫さんの「多摩の石仏」板碑編が第8号(昭和52年刊)から第11号(昭和53年刊)まで連載された「板碑を知る人のために」「美術的な鑑賞を中心として」「史料としての板碑」「研究史と文献紹介」の4回が続いた。番外として特集「多摩の講」に第12号の(昭和53年刊)「結衆板碑に見る中世の講」が加えられた。
 さらに「多摩の石仏」が終わった後に「多摩石仏散歩」シリーズとして、福井善通さんの第24号(昭和56年刊)「三鷹から深大寺へ」、続いて私の第25号「青梅市街」、犬飼康祐さんの第26号「八王子市街の石仏」、徳家徳治さんの第30号「西多摩の寒念仏」、犬飼康祐さんの第33号「町田市東部の石仏──天狗道祖神をたずねる」、私の第36号「忘れられた石仏」、犬飼康祐さんの第38号(昭和60年刊)「五日市街道砂川から国分寺市西町へ」まで連載された。原さんは、この頃から多摩地方の石仏散歩の単行本を構想されていたふしがある。
 平成3年12月8日(日曜日)に行われた本会の五日市見学会では、五日市町(現・あきる野市)小和田・広徳寺で昼食となり、食後に原さんから本会編の新版『多摩石仏散歩』発行の素案が参加者に示された。この案は、参加者だけでこの場で決定できないので、正月の総会に提出して煮詰めることにした。

 本会では、昭和46年に武蔵書房から『多摩石仏散歩』を刊行した。その後、多摩地方の各地で宅地造成や道路の新設・拡幅が始まり、石仏の移転や破損、あるいは石仏の新造がみられ、新町名表示になったりで発行当時と現状に違いが生じ、特に多摩ニュータウンの出現で同書に不適当な記述が目立ってきた。会結成25周年を記念して新たに本を出そうという機運が起こり、数年前から石仏巡りのコースを設定して取材を始めていた時に原さんから申し出があったので、この好機に便乗したわけである。
 平成4年正月12日(日曜日)に三鷹市上連雀で行われた総会では、原さんから新版『多摩石仏散歩』を多摩郷土文庫シリーズとして発行したいと、企画案のプリントが配られた。その内容は、平成4年度に46判で280頁、定価が1200円、初版が5000部で発行する、という。当然、出席者全員がこの案に賛成し、さっそく席上でコースの分担が討議され、原稿の担当者が決定した。

 この総会では、原稿を1編当たり400字詰め原稿用紙で7〜15枚、地図と写真を添える。6月末日を原稿の締切とし、10月の出版をメドとすると大枠を定めた。本と関連して平成4年に行った例会は、石仏散歩に沿ってコースを設定し、各月の担当者を決めた。また、この本に合わせて9月末開催予定の写真展も例年の通り八王子そごうで開催、10月発行予定の『野仏』第23号も石仏散歩をテーマとすることを総会で決定した。
 会員からの原稿が集まってから、財団の石川政江さんと坂田宏之さんに本会から犬飼康祐さんと私が加わって編集を担当した。原さんから表紙に金子静枝さんの切り絵を使うアイデアが出され、カラフルな思いがけない表紙が誕生した。また書中のカットには、金子さんの切り絵が用いられて石仏の固い記述に柔かさが生まれた。これも原さんの交遊の広さから生まれたものである。

 本の制作面では、「年号索引」や「西暦・年号・干支早見表」を表紙裏に入れたり、あるいは「石仏小辞典」の上部に『佛像図彙』の図版を使用したり、原さんにはかなり無理な注文を聞いていただいた。これも本を利用する人、特に初心者に便宜を計るためで、原さんもその点を充分に理解されていたから快く了解された。

 本会編の『新多摩石仏散歩』は、予定していた頁数をオーバーして期日が多少遅れたけれども、たましん地域文化財団から平成5年3月31日に刊行された。原さんのお陰で、多摩石仏の会結成25周年の記念になる念願の新著が誕生したわけである。
 この『新多摩石仏散歩』の刊行を記念して、財団と本会の共催で3回の石仏散歩を行った。これは4月に五日市(現・あきる野市)、5月に日野、10月に青梅と3回、執筆者が参加者と共に実際のコースを歩き、石仏のある場所で解説をした。この時も、参加者を『多摩のあゆみ』で募集されたり財団の方々を動員されるなど、原さんには大変お世話になった。本の発行や実地の石仏散歩は、私たちが原さんという名プロデューサーを得た賜物である。

 平成9年8月28日(木曜日)から9月9日(火曜日)まで、多摩中央信用金庫本店9階にある「たましんギャラリー」で本会30周年記念の「多摩石仏写真展」を開催、多摩地方各地にみられる石仏の写真120点を展示した。この写真展を原さんに一目みていただきたかったが、それも今は叶わない。原さんに対する本会の供養の標としたい。
 ここでは『新多摩石仏散歩』を中心にして原さんと本会との関わりを書いた。原嘉文さんには、これまでにも『新多摩石仏散歩』以外に種々の面でご指導やご協力いただいた。今はそのご恩に感謝すると共に、ご冥福をお祈りするばかりである。
                 〔初出〕『野仏』第29集(多摩石仏の会 平成10年刊)所収
即清寺新四国霊場と古文書
 西国観音霊場を順拝することは鉄道が開通した明治末期になっても容易ではなかった。青梅市仲町・梅岸寺に、明治41年に造立された西国第1番写しの石塔側面に「諸人是が往詣の容易ならざる」と刻まれており、鉄道のなかった江戸時代にはそれ以上の困難が伴った。同市長淵・中村文書の中の一つに、天保3年に書かれた『村鏡』がある。その文中に「一、伊勢参宮の外、神社仏閣参詣のための遠国出行は相成ず候」とあって、当時は西国観音霊場や四国八十八か所の順拝を禁じている。 そうした状況のもとで全く西国観音霊場や四国八十八か所の順拝が行われなかったかといえば、抜け道を使って西国や四国まで足を伸ばしている。それは、先の引用からも推測できるように、伊勢参宮を口実にしてその足で観音霊場や八十八か所を廻っている。例えば、日向和田村の小林儀兵衛が享和3年に記した「道中日記」や同村の小林友吉が文政13年に書いた「道中日記」から、どのような順路で西国三十三番観音霊場の順拝がなされたかがうかがえる。西国の道中には、儀兵衛がおよそ70日友吉が85日ほどの日数を費やしている。
 主題とした即清寺の新四国霊場の中には、慶應2年3月に造立された柱状型塔がみられる。正面に「第二十三番 阿州藥王寺冩 バイ本尊藥師如来」と御詠歌「みな人の病みぬる年の薬王寺 るりの薬を与えまします」、左側面に「日向和田村 願主 小林儀兵衛」の銘が刻まれている。小林儀兵衛が西国観音霊場を順拝したのが享和3年だから、53年の歳月が経ったことになる。もし小林友吉が儀兵衛を襲名していたとするならば、文政13年から27年だから、この可能性の方が高いだろう。
 青梅市内に残る他の伊勢参宮の「道中日記」をみても、伊勢参宮だけではなくて京・大阪を廻ったり、四国に渡って金毘羅宮や善通寺(四国75番)などに参詣し、長野の善光寺に寄ってから帰宅している。それぞれのコースに違いがみられるが、伊勢参宮の他に各地にある名所旧跡を訪ねており、西国三十三番や八十八か所の場合も霊場(札所)の1部に参詣している。
 青梅から足を伸ばせば同じ武蔵国である秩父三十四番の観音霊場はともかく、武蔵国を含む板東三十三番の観音霊場までは何とか順拝を遂げられので、青梅市内に板東や秩父の観音霊場が造られていないものこうした背景があろう。ところが西国三十三番観音霊場や更に遠い四国八十八か所霊場となると、費用などの関係で志はあっても実現しない。そこで西国や四国の「写し」が造られて、この写しの霊場を順拝することで本場の霊場を廻ったと同じ功徳を得ようとする。
 主題とした即清寺は、山号を愛宕山、院号を明王院という青梅市柚木町1丁目にある真言宗の古刹である。元慶年間に元喩和尚が開創し、建久年間に源頼朝が畠山重忠に命じて造営して印融和尚が中興したといわれている。大永年間と明治31年に堂宇を火災によって焼失している。
 この即清寺の境内から裏山にかけて新四国霊場八十八か所の石塔が建っている。その第1番霊山寺写しの石塔の横には
   新四国八十八ヶ所 霊場建立の由来
    安政の頃當山先師融恵志願を起こし 四国遍路の砌り霊場八十八ヶ所の浄土を持ち帰り 守
   護の愛宕山の聖地に四国霊場を移して末世朽ちざる石碑を建立致すべく企画したのであります
   が 文久二年壬戌年七月上旬病床に籠り 不幸再起の日無く 惜しくも□□れたのであります
   よって第三十四世融雅先師の遺業を継承し 世話人として野村勘兵衛 岩田傳次郎の両氏を選
   任 慶應元年乙丑年八月より同三年丁卯年に至る間 地区内の檀徒をはじめ諸方の信者に勧進
   して 以て寄進を請い 総額金壱千四両貮分壱朱余に達し 遂に八十八ヶ所の石碑を安置し
   霊場の建立を達成したのであります
    茲に先人の偉業を偲び 絢爛たる信仰の開花を歓こぶ次第であります
       昭和五十五年十月吉日          宗教法人 愛宕山即清寺
                           宗教法人 愛宕神社と記した説明板がみられる。これは、風雨に晒された墨字はかなり読みにくく、一部(□の部分)は全く判読できない。
 この「霊場建立の由来」は、慶應元年8月に記された「新四国八十八ヶ所建立寄進帳」に準拠して書かれ、「総額金壱千四両貮分壱朱余」は「新四国八十八ヶ所施主惣懸扣」の数字に基ずいている。
 「新四国八十八ヶ所建立寄進帳」と「新四国八十八ヶ所施主惣懸扣」は、一部が省略されて野村直氏の『ふるさと柚木』に掲載されている。この本は、昭和56年に私家版として発行された。現在その2冊の原本は、「八十八ヶ所勘定帳」「八十八ヶ所勘定扣帳」「供養塔納金連名帳」「八十八ヶ所勘定ふ足割合帳」の3冊と共に青梅市郷土博物館が所蔵している。いずれは、資料集として公表されるだろう。
 前記の説明板の元となった「新四国八十八ヶ所建立寄進帳」には
   夫弘法大師御入定の后千餘年に至ると思へと茂今に霊験あらたにして不思議の利益を蒙り候も
   の阿げてかぞへ可し然にるに関東よ里ハ遙の山海を隔て々老若男女因縁なく候ハ志 シ阿りとい
   へと茂遍礼難成者多し當山先師融恵志願を起 シし安政の度四国遍路の時霊場八十八所の土砂を
   集メ持來 リ度に當山守護の愛宕山の霊地に四国霊場を移し奉 リ彼の頂き來る浄土を札所々々に
   納免末世朽ざる石碑を建立以多し度専心の掛の處去 ル文久弐戌年七月上旬病床に籠 リ願届ふ遂
    シ テ□に迂化し多まふ兼而遺命等閑居になりがたく候併新調の企一寺の微力に難叶此度村内世
   話人を以て諸方の信者に勧進し霊場壱 ケ所信施壱人□又ハ幾人 ニ而も建立 テ厚□入日ならずし
   て成就せんことは本四国遍禮難叶老若の為足無量の功徳善根なるへし尚融恵阿闍梨にハ蓮座を
   下して草樹の蔭より厚志の施主に念謝なるやまた大師ハ神通力を持て日々回向しませハ今安霊
   の新四国遍禮することハ本霊場を拝むに同し豈本折言を疑ひ多まふ事なかれ
      慶応元乙卯年八月   武州多摩郡 即清寺 現住 融雅
                          村内 世話人 (印)
      一 壱 躰      青木林右衛門
      本尊千手観世音
      一 壱 躰      青木半平 同□□
      光明真言百万遍供養
      一 壱 躰      持田猪之助 井上徳左衛門  須崎八右衛門
      一 壱 躰      伊藤嘉兵衛 金子傳次郎   尾澤直造と記され、寄進を募った石塔のモデルとして、本小松石(柱状型塔)と本根府川石(自然石)の例を図解している。
 江戸時代に霊場の写しを造る傾向は、昭和にも及んでいる。昭和9年5月に武田弥兵衛翁を中心に東京善心講によって新四国奥多摩霊場が青梅を含む東京・埼玉にかけて造られている。羽村市の小山家を第1番に福生市・八王子市・あきる野市・青梅市・奥多摩町(以上東京都)・飯能市・入間市・狭山市・所沢市(以上埼玉県)・東大和市に分布し、結願が瑞穂町(以上東京都)にある長岡開山所である。
 本題に入って即清寺の境内から裏山に散在する新四国八十八か所の石塔は、別表1「即清寺新四国霊場一覧表」の通りである。
   別表1 即清寺新四国霊場一覧表
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   ┃番数│国名│寺  名│本   尊│造立年月   │村  名│施主銘     ┃
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   ┃ 1│阿波│霊山寺 │釈迦如来 │慶應元年8月 │柚  木│野村勘兵衛   ┃
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   ┃ 2│阿波│極楽寺 │阿弥陀如来│慶應2年仲呂 │柚  木│野邨貞賢    ┃
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   ┃ 3│阿波│金泉寺 │阿弥陀如来│慶應2年3月 │柚  木│豊泉弥右衛門他3┃
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   ┃ 4│阿波│大日寺 │大日如来 │慶應元年11月│日影和田│和田佐右衛門  ┃
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   ┃ 5│阿波│地蔵寺 │地蔵菩薩 │慶應元年8月 │柚  木│岩田傳次郎   ┃
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   ┃ 6│阿波│安楽寺 │薬師如来 │慶應元年X月 │小和田 │大野庄次郎 他2┃
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   ┃ 7│阿波│十楽寺 │阿弥陀如来│慶應2年2月 │御  嶽│北嶋左司馬 他5┃
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   ┃ 8│阿波│熊谷寺 │千手観音 │慶應元年11月│5日市 │山口屋馬次郎娘福┃
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   ┃ 9│阿波│法輪寺 │釈迦如来 │慶應2年2月 │上大久野│岡部儀左衛門  ┃
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   ┃10│阿波│切幡寺 │千手観音 │慶應元年8月 │柚  木│岩田傳次郎   ┃
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   ┃11│阿波│藤井寺 │薬師如来 │慶應2年3月 │青梅仲町│根岸太輔    ┃
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   ┃12│阿波│焼山寺 │虚空蔵大士│慶應元年冬  │柚  木│原嶋吉右衛門他1┃
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   ┃13│阿波│大日寺 │十一面観音│慶應2年5月 │沢  井│東 光 寺   ┃
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  ┃14│阿波│常楽寺 │弥勒菩薩 │慶應2年如月 │小和田 │榎本傳次 他2 ┃
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   ┃15│阿波│国分寺 │薬師如来 │慶應2年5月 │柚  木│岩田傳次郎 他2┃
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   ┃16│阿波│観音寺 │千手観音 │慶應元年   │柚  木│野村勘左衛門  ┃
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   ┃17│阿波│井戸寺 │薬師如来 │慶應2年11月│柚  木│木下佐右衛門他7┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃18│阿波│恩山寺 │薬師如来 │慶應元年11月│柚  木│野村源兵衛   ┃
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   ┃19│阿波│立江寺 │薬師如来 │慶應2年5月 │日向和田│齋藤佐平次 他2┃
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   ┃20│阿波│鶴林寺 │地蔵菩薩 │慶應元年11月│柚  木│野村勘兵衛母とき┃
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   ┃21│阿波│太龍寺 │虚空蔵大士│年銘見当たらず│下恩方 │中島仙助    ┃
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   ┃22│阿波│平等寺 │薬師如来 │慶應3年3月 │江戸牛込│南 蔵 院   ┃
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   ┃23│阿波│薬王寺 │薬師如来 │慶應2年3月 │日向和田│小林儀兵衛   ┃
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   ┃24│土佐│最御崎寺│虚空蔵菩薩│慶應元年11月│御  嶽│清水治左衛門妻 ┃
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   ┃25│土佐│津照寺 │地蔵菩薩 │慶應元年11月│柚  木│高野勘兵衛 他7┃
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   ┃26│土佐│金剛頂寺│薬師如来 │慶應元年仲春 │青  梅│滝上長右衛門  ┃
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   ┃27│土佐│神峰寺 │十一面観音│慶應2年3月 │二俣尾 │海禅寺現住祖心 ┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃28│土佐│大日寺 │大日如来 │慶應元年11月│八丁堀 │種木屋啓次郎  ┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃29│土佐│国分寺 │千手観音 │慶應2年5月 │日向和田│新井善兵衛   ┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃30│土佐│安楽寺 │阿弥陀如来│慶應2年   │所  沢│三上志茂 他4 ┃
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   ┃31│土佐│竹林寺 │文殊菩薩 │慶應元年11月│御  嶽│清水治左衛門  ┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃32│土佐│禅師峰寺│十一面観音│慶應2年   │沢  井│福田勝右エ門他2┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃33│土佐│高福寺 │薬師如来 │慶應元年11月│木  下│山嵜喜四郎 他1┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃34│土佐│種間寺 │薬師如来 │慶應2年2月 │柚  木│市川利三郎   ┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃35│土佐│清滝寺 │薬師如来 │慶應元年11月│神田明神│榛原嘉助 他1 ┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃36│土佐│青龍寺 │不動明王 │慶應元年11月│千ケ瀬 │橋本惣左衛門  ┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃37│土佐│岩本寺 │阿弥陀如来│慶應2年5月 │八王子 │亀屋儀兵衛 他1┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃38│土佐│金剛福寺│千手観音 │慶應2年2月 │下村中郷│広福寺聯芳尼他1┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃39│土佐│延光寺 │薬師如来 │慶應元年11月│柚  木│木下清蔵 他2 ┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃40│伊予│観自在寺│薬師如来 │慶應2年11月│下村中郷│青木林右衛門妻 ┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃41│伊予│龍光寺 │地蔵菩薩 │慶應2年5月 │柚  木│野村七左衛門他1┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃42│伊予│佛木寺 │大日如来 │慶應元年11月│柚  木│木下三左衛門他19┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃43│伊予│明石寺 │千手観音 │慶應2年   │下村中郷│青木半平 他1 ┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃44│伊予│大宝寺 │11面観音│慶應元年11月│日影和田│久保仙助 他1 ┃
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   ┃45│伊予│岩屋寺 │不動明王 │慶應元年11月│沢井下分│山崎勘造    ┃
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   ┃46│伊予│浄瑠璃寺│薬師如来 │慶應2年5月 │木蓮寺 │長澤榮次郎   ┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃47│伊予│8坂寺 │阿弥陀如来│慶應2年2月 │柚  木│市川文左衛門他3┃
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   ┃48│伊予│西林寺 │十一面観音│慶應2年5月 │二俣尾 │谷合長左衛門他1┃
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   ┃49│伊予│浄土寺 │釈迦如来 │慶應2年   │下村上郷│川上安太郎 他2┃
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   ┃50│伊予│繁多寺 │薬師如来 │慶應元年11月│二俣尾 │武内権左衛門  ┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃51│伊予│石手寺 │薬師如来 │慶應2年   │高  尾│落合通太郎 他3┃
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   ┃52│伊予│太山寺 │11面観音│慶應2年2月 │日向和田│村   中   ┃
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   ┃53│伊予│円明寺 │阿弥陀如来│慶應元年11月│日向和田│金丸庄右衛門他1┃
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   ┃54│伊予│延命寺 │不動明王 │慶應2年   │宮  沢│田村金右衛門  ┃
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   ┃55│伊予│南光坊 │大通智勝佛│慶應2年5月 │柚  木│福田佐吉 他1 ┃
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   ┃56│伊予│泰山寺 │地蔵菩薩 │慶應元年11月│柚  木│小山源十郎 他4┃
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   ┃57│伊予│栄福寺 │阿弥陀如来│慶應2年   │黒  沢│中村甚兵衛   ┃
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   ┃58│伊予│仙遊寺 │千手観音 │慶應2年   │西  分│山崎喜右衛門  ┃
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   ┃59│伊予│国分寺 │薬師如来 │慶應2年   │5日市 │内山安兵衛   ┃
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   ┃60│伊予│横峰寺 │大日如来 │慶應2年3月 │柚  木│野村源左衛門  ┃
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   ┃61│伊予│香園寺 │大日如来 │慶應3年   │柚  木│野村五兵衛   ┃
   ┠──┼──┼────┼─────┼───────┼────┼────────┨
   ┃62│伊予│宝寿寺 │十一面観音│慶應2年   │下村上郷│渡辺小三郎   ┃
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   ┃63│伊予│吉祥寺 │毘沙門天 │慶應2年3月 │柚  木│野村勝右衛門  ┃
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   ┃64│伊予│前神寺 │阿弥陀如来│慶應2年如月 │柚  木│野村平兵衛美昭 ┃
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   ┃65│伊予│三角寺 │十一面観音│慶應X年X月 │柚  木│持田国太郎 他5┃
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   ┃66│阿波│雲辺寺 │千手観音 │慶應2年5月 │青梅上町│池田茂兵衛 他1┃
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   ┃67│讃岐│大興寺 │薬師如来 │慶應2年   │福  生│田村十兵衛店内中┃
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   ┃68│讃岐│神恵院 │阿弥陀如来│慶應2年5月 │柚  木│川嶋由兵衛 他3┃
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   ┃69│讃岐│観音寺 │聖 観 音│慶應X年X月 │沢  井│山崎勘平 他1 ┃
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   ┃70│讃岐│本山寺 │馬頭観音 │慶應2年2月 │丹三郎 │村   中   ┃
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   ┃71│讃岐│弥谷寺 │千手観音 │慶應2年如月 │野州結城│荒籾甚兵衛   ┃
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   ┃72│讃岐│曼荼羅寺│大日如来 │慶應元年11月│江戸深川│榛原榮吉    ┃
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   ┃73│讃岐│出釈迦寺│薬師如来 │慶應2年1月 │柚  木│市川源右衛門他1┃
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   ┃74│讃岐│甲山寺 │薬師如来 │慶應元年11月│下村中郷│持田勝之助 他2┃
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   ┃75│讃岐│善通寺 │薬師如来 │慶應X年X月 │下村中郷│伊藤嘉兵衛 他2┃
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   ┃76│讃岐│金倉寺 │薬師如来 │慶應2年2月 │柚  木│持田源右衛門他4┃
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   ┃77│讃岐│道隆寺 │薬師如来 │慶應2年如月 │日向和田│中嶋善右衛門  ┃
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   ┃78│讃岐│郷照寺 │阿弥陀如来│慶應2年   │五日市 │打倉徳兵衛   ┃
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   ┃79│讃岐│高照院 │11面観音│慶應2年2月 │二俣尾 │福田菊3郎 他1┃
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   ┃80│讃岐│国分寺 │千手観音 │慶應X年X月 │柚  木│□□太郎右衛門21┃
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   ┃81│讃岐│白峰寺 │11面観音│慶應2年2月 │御  嶽│市川源右衛門他2┃
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   ┃82│讃岐│根香寺 │千手観音 │慶應X年X月 │江  戸│伊勢屋茂兵衛  ┃
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   ┃83│讃岐│一ノ宮寺│正 観 音│慶應X年X月 │福  生│田村十兵衛   ┃
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   ┃84│讃岐│屋島寺 │千手観音 │慶應元年11月│下村下郷│鈴木九左衛門他4┃
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   ┃85│讃岐│八栗寺 │正 観 音│慶應2年2月 │大久野 │古山定五郎   ┃
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   ┃86│讃岐│志度寺 │十一面観音│慶應元年11月│下村下郷│鈴木竹次郎 他3┃
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   ┃87│讃岐│長尾寺 │聖 観 音│慶應2年2月 │八王子宿│清水屋武兵衛他1┃
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   ┃88│讃岐│大窪寺 │薬師如来 │慶應2年4月 │柚  木│岩田傳次郎妻他6┃
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別表1からもわかるように、写しの石塔は初出が第1番の慶應元年8月で、慶應3年3月の22番塔までに間に造立されている。やはり地元の柚木村からの寄進がが最も多く、その隣の下村や御嶽村・二俣尾村も多くの塔を寄進している。青梅市内では、沢井村・日影和田村・日向和田村・青梅村・黒沢村の名がみえる。
 青梅以外にはあきる野市(五日市・小和田)・日の出町(大久野)・福生市・奥多摩町(丹三郎)の西多摩地方、数は少なくなるが八王子市や昭島市(宮沢)・都内(深川や神田明神下など)、埼玉県では所沢市と入間市(木蓮寺)、遠くは栃木県結城市(71番塔「願主野州結城 荒籾甚兵衛」)の寄進がみられる。
 この状況を細かく記録しているのが「新四国八十八ヶ所施主惣懸扣」で、表紙に「丁慶應3夘年新四国八十八ヶ所施主惣懸扣 世ハ人 野村勘兵衛 岩田傳次郎」とある。これには、番数・施主・石質・石工などの他に掛かった費用がこと細かに記されている。その一例として、1番塔と2番塔を示すと次の通りである。
       第壱番施主 野村勘兵衛        第弐番施主 野村勘右衛門
   一金弐両弐分也  所山石代      一金九両三分也   根府川石 柳沢仕立 テ石
    金弐両弐分也  産  石                青梅ゑ
    金三両壱分也  石工手間代       卯四月五日
    金三分ト    水鉢代       一金十三分也    石工 五郎兵衛
    五百      祝儀匁し
    銀五匁     はしけ賃        壱人四分二トつゝ 青梅より山迄
      壱ト六ノ            一銀弐拾九匁    引匁七人分
    金四両弐分也  引石車力賃       四ト
   一銀四拾目    青梅より山迄       壱人六百文つゝ 石七人分
     壱人 ニ付五百ちゝ 引石人足 八人 一銭四貫四百文   飯料
   一銀三匁     栄蔵          壱人上四分二トつゝ 下三分七ト五ノつゝ
      七ト五ノ  四度飯料      一銀四拾六匁    山内地形方
   一〃六拾三匁   山内地形方       七ト五ノ    上人四人 下人壱人
     壱人四分五トつゝ 拾四人分    一銀拾五匁     五人分 飯料
   一〃四拾 ニ匁   〃 地形分       二ト
      五ト              一〃三匁      砂まき
     壱人三分七トつゝ 下人六人分     四ト三ノ    賃 銭
   一〃六拾目    石四拾人分     惣〆金拾両匁
      八ト                銀六拾九匁 七ト八ノ
     壱人三百四ノつゝ 飯料        銭四〆弐百文
   一〃三匁     砂まき       銭ハ〆ハ 〆金拾壱両四分弐朱匁
      四ト三ノ  賃銭                百三拾四文
   惣〆金拾三両四分ト
      銀四百三匁 六ト四ノ
   銭八八 金拾六両三分四朱 百四拾八文
 この記録から、石の産地やどこの石工の手になるものかがわかる。
 施主の数は、1名乃至2名が多く、3人から5、6人もみられる。施主の氏名を最も多く刻むものは、42番塔の「當村 木下三右兵門」など20人を2段に記した塔である。次いで17番塔には、「當村 木下庄助」など10人の氏名がみられる。施主数はわからないが、数が多いのは五2番塔の「日向和田 村中」や70番塔の「丹三郎 村中」であろう。
 表では先頭にある村名と氏名を示した関係で、幾つかの村の施主が加わっている例が明らかではない。例えば6番塔の場合は、「小和田村/天野庄次郎 留原村/山下源太郎 戸倉村/内倉5良右衛門」のように3村にわたるし、19番塔では「日影和田村/齋藤佐平次 當村(柚木村)/青木又二郎 埜村半右衛門」、33番塔は「木下村/山嵜喜四郎 二俣尾村/神田徳太郎」、55番塔は「當村(柚木村)/福田佐吉 日向和田村/嶋崎幸次郎」、68番塔は「當村(柚木村)/川嶋由兵衛市川梅三郎 木下惣十郎 平井村/徳嶋屋武兵衛」である。
 寄進者の中には、男性だけでなく女性の名前がみられる。8番塔の「五日市村 願主 山口屋馬次郎娘婦く」、12番塔の「當村願主 原嶋吉右衛門 市川久蔵祖母ふミ」、15番塔の「岩田8郎左衛門 岩田傳次郎 たか女」(同名が台石にも刻まれている)、20番塔の「願主 當村 野村勘兵衛母と喜女」、24番塔の「清水治左衛門妻久良女」がある。他にも30番塔(すみ等3人)や・40番塔(壽美女)などにもみられる。
 故人の法名を刻んだものには、20番塔と57番塔がある。前者には「文久三癸亥/十二月十4日
 普遍光融童子」と「信解妙法大師 嘉永六丑年八月七日 俗名満須女/湛水妙法大姉 安政6未年五月八日 俗名恵里女/寶玉妙観大姉 文久三亥年十月九日 俗名喜年女」と俗名と命日を伴っている。後者には「ア 寂室浄光大姉 慶應二寅六月廾日」と種子と命日が刻まれている。
 寺からの寄進がみられ、22番塔には「願主 東都牛込南蔵院」とある。また13番塔には「澤井東光寺十一世現住豊仙敬書竝建之」、27番塔の「願主 海禪寺現住祖心」と僧名が刻まれ、38番塔には「為月海慧眼尼首座」に「北越太田村之産 武陽下邑廣福寺 願主聰芳尼 北越鷲尾村之産願主慧明尼」の尼名が記されている。7番塔の「御嶽村 齋藤左司馬 北嶋喜太夫 岡部庄太夫 平原八郎右エ門 北嶌宮内 同仙太夫」は、御嶽の御師と考えられる。
 「新四国八十八ヶ所施主惣懸扣」には、先に示したように1番塔に「所山石」、2番塔に「根府川石」とあり、4番塔に「小松石」のように石の記載がみらる。自然石塔は根府川石、笠付型や駒型を含む柱状型塔は小松石を使っている。その他にも例えば20番塔の「四ッ谷」、22番塔の「柳澤」のように石塔の仕立地を記している。
 一方、文書だけでなく塔面からみると、4番塔や8番塔などには「江戸神田 石工與四郎」、12番塔や16番塔に「田無石工 谷合五雲」の石工銘が刻まれている。5番塔は、施主が「江戸神田明神下 榛原嘉助 榛原壽平」のためか、「江戸神田 石工與四郎」の石工銘がみられる。
 基本的には、柱状型塔の下部に弘法大師の坐像が浮き彫りされ、自然石塔の下部に弘法大師の陰刻坐像がみられる。中でも珍しいのは62番塔で、本塔に浮き彫りした弘法大師坐像(像高33センチ)を嵌め込む形式になっている。例外としては、60番塔が柱状型塔にもかかわらず陰刻坐像で、笠付型の35番塔が下部の円の中に「弘法」「大師」と2行に縦書きされている。
 また20番塔と41番塔には、弘法大師以外に写しの本寺に因む丸彫りの地蔵がみられる。前者は錫杖と宝珠を持つ立像で、後者は宝珠を執る坐像である。弘法大師を全く刻まないのは19番塔と61番塔の2基で、前者は宝珠と錫杖を執る地蔵坐像を浮き彫りし、後者は上部に香園寺の本尊・定印の大日如来坐像を線彫りする。
 多くの像を刻んだものに15番塔があり、正面に「弘法大師」と「興教大師」の立像と「發願者融恵」の坐像、右側面に「再願者融雅」の立像、左側面に融恵と思われる数珠を執る僧形坐像、裏面に不動明王坐像を浮き彫りする。結願の88番塔は、下部に弘法大師と興教大師の立像、右側面に多聞天立像と左側面に増長天立像の2天像、裏面に如意輪観音坐像を浮き彫りしている。
 「新四国八十八ヶ所施主惣懸扣」には、以上の八十八ヶ所石塔の他に「七九供養塔」や「役行者」「大門先四国八十八ヶ所礼場塔」「第5番に付鹿島大神」が記載されている。七九供養塔と礼場塔は寺の入口みられ、鹿島大神塔は裏山の順路にある。役行者は、愛宕神社の裏山にみられる。この中の大門先の塔は、この霊場中で最も高価な39両余を要した小松石製である。こうした費用の総計が先に示した「金壱千四両貮分壱朱余」である。
 この即清寺の八十八ヶ所には、二俣尾村からの出金で丁石が造られている。現在、わかっているのは、次の「即清寺新四国霊場丁石一覧表」の通りである。
   別表2 即清寺新四国霊場丁石一覧表
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   ┃丁  目│造 立 年 月│村  名│施     主     名│備    考┃
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   ┃ 1丁目│慶應2年6月 │二俣尾 │福富藤右エ門       │藤左ヱ門  ┃
   ┠────┼───────┼────┼─────────────┼──────┨
   ┃ 2丁目│慶應2年X月 │二俣尾 │伊東忠(以下土中)    │忠七    ┃
   ┠────┼───────┼────┼─────────────┼──────┨
   ┃ 3丁目│慶應2年6月 │二俣尾 │森沢清吉         │清吉    ┃
   ┠────┼───────┼────┼─────────────┼──────┨
   ┃ 4丁目│慶應2年6月 │二俣尾 │(丁石見当たらず)    │善兵衛   ┃
   ┠────┼───────┼────┼─────────────┼──────┨
   ┃ 5丁目│慶應2年6月 │二俣尾 │井田幸次郎        │幸次郎   ┃
   ┠────┼───────┼────┼─────────────┼──────┨
   ┃ 6丁目│慶應2年6月 │二俣尾 │井田彦右エ門       │右エ門   ┃
   ┠────┼───────┼────┼─────────────┼──────┨
   ┃ 7丁目│慶應2年6月 │二俣尾 │木下清兵衛        │清次郎   ┃
   ┠────┼───────┼────┼─────────────┼──────┨
   ┃ 8丁目│慶應2年6月 │二俣尾 │福富豊吉         │豊吉    ┃
   ┠────┼───────┼────┼─────────────┼──────┨
   ┃ 9丁目│慶應2年6月 │二俣尾 │福富伊兵衛        │伊兵衛   ┃
   ┠────┼───────┼────┼─────────────┼──────┨
   ┃ 十丁目│慶應2年6月 │二俣尾 │油屋吉蔵         │吉蔵    ┃
   ┠────┼───────┼────┼─────────────┼──────┨
   ┃十一丁目│慶應2年6月 │二俣尾 │關根茂右衛門       │茂右ヱ門  ┃
   ┠────┼───────┼────┼─────────────┼──────┨
   ┃十二丁目│慶應2年6月 │二俣尾 │(丁石見当たらず)    │谷五郎 他2┃
   ┠────┼───────┼────┼─────────────┼──────┨
   ┃十三丁目│慶應2年6月 │二俣尾 │関根惣吉/峯岸太兵衛   │惣吉/太兵衛┃
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別表2の一覧表にある備考欄の名前は、参考までに慶應3年の「新四国八十八ヶ所施主惣懸扣」に記されたもので、これには名前の羅列だけで丁石にみられる姓は省かれている。この辺にも、石塔と文書との違いがある。表では、土中に埋まっているので2丁目の丁石を「慶應二年X月」としたが、現在見当たらない丁石を含めて、他の丁石からみて「慶應二年六月」と考えられる。
この丁石については、「新四国八十八ヶ所施主惣懸扣」に「棒杭石十八本作 施主 二俣尾村」とあり、「藤左ヱ門」など21人の名前が記されれている。現状の丁石にあてはめると、記載順の通りである。山内には、「十三丁目」の外にまだ5本が建てられたはずである。
 この丁石の記載の前後に「入口棒杭 施主 二俣尾村 健蔵(他4人の名)」、「棒杭壱本 中野村 米屋作兵衛」が書かれている。これらの石造物については、現在のところ発見していない。
 ともかく「新四国八十八ヶ所施主惣懸扣」に記されたように、総額金壱千4両貮分壱朱余の費用を使い、3年の日数を要して即清寺の新四国八十八ヶ所霊場が造られている。特に世話人の1人である岩田傳次郎は、父や妻の名義を含めて5番・10番・15番・88番に加えて鹿島大神塔と79供養塔を造立している。これに要した費用は、莫大な金額である。これは突出しているが、こうした大事業が遂行された背景には、農民の力の増大がうかがわれる。
 即清寺の新四国霊場の石塔は、丁石を含めて「新四国八十八ヶ所施主惣懸扣」などの古文書の記録(紙の記録)と現存する石塔の銘文(石の記録)とを比較対照することによって、より深く広く明らかになっていく。これに伝承や石塔に対する民俗や慣習を調べて、相互の関係を研究することでさらに深く広く明らかになる。そうした意味でも、この即清寺裏山の新四国八十八か所の事例はいろいろと考えさせる問題を提起している。
 近年、定年後のサラリーマンが四国八十八か所の霊場を歩くケース(順打ちと逆打ちがある)が多くなっている。その場合、第1番の霊山寺から結願の大窪寺までのコースを歩くとしても、往復は交通機関を利用している。バス利用で廻る場合もあるし、空から一巡する簡便なものさえある。江戸時代には、自分の住んでいる場所から出発して四国の八十八か所の霊場を廻って戻っている。関所手形の末尾に「この者、旅中にて相果候はば所の仕来により葬りくださるべく候」と書き加えたものがあるように、万一の場合も想定しており、四国遍路は、2、3か月に及ぶ長い旅であった。
 現代を含め、これまで霊場(札所)巡礼の民俗が受け継がれてきている。こうした背景は、新四国八十八か所や西国観音霊場・坂東観音霊場・秩父観音霊場、更に百番観音の造立につながっている。青梅市仲町・梅岸寺の西国三十三番霊場にしても、ここで取り上げた即清寺八十八か所も、霊場を巡礼する民俗が背後にあり、「写し」という形で石塔が造立されている。
 石佛は、単に石佛だけが独立して存在したのではない。その背後には信仰があり、民俗があり、経済、つまり生活がある。これまでの石佛の調査では、ともすれば「石の記録」が優先して、全くといわないながら「紙の記録」が無視されてきた。無論「石の記録」も重要であることはいうまでもないが、これからの石佛研究では「紙の記録」にも眼を向けなけいと、石佛を深く広く知ることにはならない。あくまでも石佛を中心に据えながらも、文書や民俗・慣習にも目配りして、広範囲の視野から調査研究に取り組まなければならないだろう。本槁は、石佛と古文書の結びつきを示す恰好な例として即清寺の新四国霊場の事例を取り上げ、古文書と存在する石塔を対比して紹介した。
   〔参考文献〕
   青梅市史編さん会『村鏡 上』 青梅市教育委員会 昭和39年刊
   青梅市文化財保護委員会『谷合氏見聞録 付・伊勢道中日記』 青梅市教育委員会 昭和49年
  青梅市郷土博物館『田安領宝暦箱訴事件』 青梅市教育委員会 昭和53年刊
   野村 直『ふるさと柚木』 私家版 昭和56年刊
   青梅市史編さん会『青梅市史 上巻』 青梅市 平成7年刊
   〔付 記〕 本槁は、日本石仏協会の『日本の石仏』第88号(日本石仏協会 平成10年刊)
   に発表した「東京都青梅市即清寺新四国霊場」を中心に関係する古文書を引用し、削除・加筆
   して作成した。       〔初出〕『野仏』第30号(多摩石仏の会 平成11年刊)所収

庚申塔ファイル(1)追録
 本誌第30集には、多田治昭さんが「庚申塔ファイル(1)」を発表され、庚申文字塔の主銘を列記された。『日本の石仏』第38号(日本石仏協会 昭和61年刊)に私が載せた「庚申塔入門」を補う形で、多田さんがお手持ちの写真アルバムから主に関東地方に散在する文字庚申塔の主銘を紹介されている。
 庚申塔は、全国的に分布しているし、主尊や塔型が多種多様で変化に富んでいる。他にも挙げれば庚申塔の魅力がいろいろあるが、そこが庚申塔の魅力で、私も庚申塔に魅せられている。文字塔の主銘の変化も魅力の1つである。
 多田さんが数多く列記されているので、何も付け加えることは無さそうに思えるが、全国にある無数にある庚申塔のことだから、ここに洩れている塔もみられる。本誌大30集の2頁には、栃木県足利市西場町観音山下の寛文7年塔の「庚申墓」を挙げられている。この塔とに1字違いの「庚申基」塔が、広島県3原市中之町・東光寺にみられる。当時の模様を『庚申』第89号(庚申懇話会 昭和60年刊)に載った「尾道・三原・因島」に書いているので、参考までに引用すると
    東光寺では、門前や境内を探しても目指す庚申塔が見当たらない。やっと方丈さんの案内で
   墓地の上部にある無縁塔の端に置かれた庚申塔を見ることができた。崖崩れにあったので、下
   から現在の場所に移されたという。元文5年の角柱型「庚申基」塔と年不明の駒型「庚申供養
   之塔」の2基である。隣に庚申塔と思われる駒型塔があるが、銘文がまったく読めない。である。この元文5年の角柱塔を当初「庚申墓」ではなかろうかと思ったが、よく観察してもやはり「庚申基」であった。多田さんの洩れた1例である。○ 1 『石ー伝説と信仰』
 平成11年7月17日(土)、台東区浅草・浅草公会堂で開催されている第20回石仏・道祖神写真展(東京石仏写真連盟主催)をみての帰りに、八重洲ブックセンター(中央区八重洲2−5−1)に寄った。6階の地方出版のコーナーで、民俗選書4『石──伝説と信仰』(秋田文化出版 平成6年刊)と『水戸の石仏』(崙書房出版 平成4年刊)の2冊を入手した。
 まず『石──伝説と信仰』は長山幹丸氏の著作、秋田県の「歴史の石」「伝説の石」「信仰の石」「生活の石」の章立て、石にまつわる話題を取り上げている。当然、庚申塔についても「信仰の石」の中でふれている。
 主として「信仰の石」の章で庚申塔を取り扱っているが、「生活の石」の章では道標銘を刻む庚申塔を紹介している。仙北郡神岡町北楢岡・熊野神社には4手青面金剛があるとか、南秋田郡若美町角間崎・稲荷神社には二童子四薬叉付きの剣人6手青面金剛がみられるとか刻像塔にもふれているが、文字塔も挙げられている。多田さんの文章に洩れたものとしては、次の塔がある。
   ○ 「御大典記念庚申」   年不明 南秋田郡若美町角間崎.岡見沢  98頁
   ○ 「五こう志ん」     年不明 仙北郡神岡町蒲        100頁
   ○ 「日月星庚申猿田彦尊」 年不明 由利郡象潟町増越・竹島家    99頁
   ○ 「猿田彦大神宮」    年不明 仙北郡神岡町蒲        100頁この他には他の信仰と併記した塔がある。多田さんは鎌倉市小町・宝戒寺にある「庚申地神供養塔」など7例を挙げている。多摩地方では、日の出町大久野の「三寳荒神・毘沙門.庚申塔」の例を引いている。町田市野津田町綾部の「青面金剛」「堅牢地神」「地蔵薩〓」と3面に刻む嘉永6年塔、多摩市東寺方・杉田家の「庚申塔」と「地神塔」と2面に主銘がある慶應3年塔がみられる。このような塔が『石──伝説と信仰』の中にも報告されているので、平鹿町・沖掵神社にある塔を引用しよう(274頁)。
    この神社の右横に、珍し碑が建っていた。碑は櫛型のもので上部に日天、月天、その下中央
   に雷神その下四行に右から毘沙門、虚空蔵菩薩、文殊菩薩、祇園、その下も四行に弁財天、愛
   染明王、金毘羅、庚申、その下に見猿、聞猿、云猿と刻んだものである。一つの碑にかくも多
   くの神仏を刻んだものは、他で見られないものである。と記している。○ 2 『水戸の石仏』
 前記の『石──伝説と信仰』と八重洲ブックセンターで買った1冊は、海野庄一氏の著『水戸の石仏』である。本の中に青面金剛を含めて庚申塔が登場するが、多田さんが挙げた塩尻市洗馬・長興寺の「宿星庚申・二十三夜供養塔」に近い庚申塔が2基みられる。
 1基は、口絵に載って浜田2丁目・下市不動堂にある文化2年塔(31頁)である。「庚申塔」と「二十三夜」と陰刻する。他の1基は、吉沢町上組・三叉路付近にある安政6年塔(65頁)で、先の文化2年塔と同じく庚申塔と二十三夜を併刻する。
 猿田彦塔で変わった1基に、堀町新田の昭和55年塔がある。板石型の表面に「奉鎮蔡猿田彦大神御璽家内安全組内安全祈候(候は攸の誤りか)」の主銘が彫られている。この塔については、次のような聞き書きが載っている。
    管理している地元の須能諒さん談、「最近まで庚申講を回り番で行って猿田彦神をお参りし
   ていたが、新しく道路ができ、石塔も古くなってしまったので、庚申の年である昭和五十五年
   に新しく建て替えて現在の所にお祀りした」(123頁)これは、昭和庚申年造立の猿田彦塔である。
 昭和庚申年といえば、主銘の話題から外れるが、この年に水戸市内の飯島町畔下・八幡神社に板石型「庚申塔」が春の彼岸に同町の向原と畔下の講中で建立されている。(102頁)○ 3 『宮城県北部の庚申信仰』
 表題の『宮城県北部の庚申信仰』は、鈴木正夫さんの著作で昭和63年に発行された。この本の中では、宮城県北部にある庚申塔にふれている。
 当然、東北地方に多数ある五庚申や七庚申に言及して「七、五庚申塔」の項目がある。すでに「五庚申」「七庚申」は挙げられているが、両者を併記した「七庚申 五庚申」「五庚申塔 七庚申塔」「五庚申供養 七庚申供養」、他に「七庚申 五庚申 供養碑」が記されている(31頁)。さらに明治以降の造立であるが「六庚申」「六庚申供養」「六庚申塔」の3基が紹介されている。
 七庚申塔については、庚申懇話会の嶋二郎さんの研究が進んでおり、「花巻市の庚申塔 七庚申塔の分布」『花巻市文化財調査報告書』13所収(同市教育委員会 昭和62年刊)や「花巻市の庚申塔
 七庚申塔の源流をたずねて」同14所収(同市教育委員会 昭和63年刊)が参考になる。
多田さんが題目塔や名号塔などと共にさらっと書いた三尸塔では、53頁に16基を集録して「三尸塔一覧表」を載せている。「庚申自3屍蟲降伏碑」「三屍蟲降伏碑」「三屍蟲降伏之碑」「三屍蟲降伏」「除三虫碑」「三尸去」「庚申参屍去」などである。なお三尸塔については、中山正義さんの『全国の三尸塔』(私家版 平成6年刊)にこれらの宮城の塔を含めて全国各地の塔が詳しく記載されている。
 初期の塔は長い主銘の文字塔が多いので略して、桃生郡河南町和淵笈入・済北寺に寛延4年の「焦面金剛」がみらる(81頁)。猿田彦塔については、「猿田彦太神祭祝日」「猿田彦太神祝日」「奉勧請猿田彦太神」「猿田彦命向」など珍し主銘がある(86頁)。 庚申塔に他の供養塔を併せて刻んだ併刻塔については鈴木さんの調査によると、12種132基にのぼるとしている(121頁)。1番多いのは庚申と己巳の組み合わせで150基、次いで庚申・己巳・甲子の16基である。他の10種は各1基で、庚申・己巳・?、庚申・己巳・甲子・愛宕、庚申・申子、庚申・愛宕、庚申・秋葉山、庚申・青麻山、庚申・馬頭観世音、青面金剛・金毘羅大権現、庚申・3宝荒神、御咄・庚申・甲子・己巳・愛宕の併記である。
 150頁に「導師日法」の項で列記された7基の中には、遠田郡田尻町大貫山王・日枝神社に「庚申万霊塔」がみられる。大正14年に大森良三郎が造立している。多田さんが報告された相模原市の「萬霊等/庚申講中」や平塚市の「三界/庚申講中」に通ずる庚申塔である。
 ここでは『石──伝説と信仰』『水戸の石仏』『宮城県北部の庚申信仰』の3冊を例にしたが、多摩地方をみても例えば稲城市大丸の「帝釈天王擁護庚申塔」、小金井市貫井南町の「絶三尸罪」などが存在する。千葉県になるが帝釈天塔では、異名の「釈垣因天」「釈提桓因」の文字塔がみられる。
 庚申塔の中でも比較的地味な文字塔を主銘から取上げても、多田さんが「庚申塔ファイル(1)」で示されたように多種多様でそれでも全国的にみれば洩れた庚申塔が数多い。多田さんは関東を中心に歩かれているから、それ以外の土地では、例えば熊本県のように「咄多塔」のような庚申塔がみられる。マニアックになるが、全国各地に分布する文字庚申塔の主銘を列記するのも面白い。(平11・7・20記)          〔初出〕『野仏』第31集(多摩石仏の会 平成12年刊)所収
牛天神の庚申塔
 平成12年5月18日(木曜日)は、日本石仏協会主催の写真展「石仏の魅力」が開催されている文京シビックセンター(文京区春日)を訪ねる。会場についたのが午前11時30分、まだ展示に追われ、開場は午後1時からという。後で案内ハガキをみたら、「但し18日は12:00より」とあった。館内の書店や情報センターをのぞいてから、牛天神(春日1−5 北野神社)に向かう。
 神社境内にある笠付型塔の正面には「道祖神」の主銘、下部に三猿と三鶏の浮き彫りがみられる。うっかりすと二鶏と思うが、注意すれば雌雄の鶏の間に小さな雛が1匹いるのに気付く。この塔を最初みた時(昭和45年4月27日)は、今も記憶も残っているが、当時撮った写真が示すように社殿前の石段横に寝かされていて充分に調べられなかった。その後に何度かこの塔をみているが、単独ではなくて見学会だったから、詳細に調べたことがなかった。
 昭和39年6月の庚申懇話会の例会では、荒井広祐さんが熊谷市と行田市周辺に分布する塞神塔が改刻された経緯について発表があり、平田篤胤門下の木村御綱が忍藩の社寺掛を勤め、その指導によって庚申塔が塞神塔に改刻されたことを指摘した。
 その後になって秋山正香(故人)さんが「武州忍領界隈における塞神塔について」を『庚申』第39号(昭和44年刊)に発表されて塞神塔の改刻が関心をひくようになった。次号(同年9月刊)では横田甲一(故人)さんが「庚申塔の改刻及び追刻」を書いている。当時は、まだこの「道祖神」塔の改刻について関心がなかった。
 日本石仏協会の『日本の石仏』第86号(平成10年刊)に「多摩地方の塞神」を発表した中で、11頁で都内にある2基の塞神塔にふれ、その1基である新宿区高田馬場・諏訪神社の天和3年「塞神三柱」塔について「この光背型塔は、どうみても改刻塔である」と記した。これも塞神塔の改刻の事実がわかったから、塔を注意深くみるようになった賜物である。
 以前からこの塔や三郷市の寛文9年「申田彦大神」塔にも疑問を感じていたが、特別に調査すことはなかった。それ以前にも、青梅市御岳御岳2丁目の滝本路傍にある宝永6年「猿田彦大神」塔やあきる野市寺岡の路傍にある安永3年「猿田彦大神」塔が改刻塔である点を指摘していた。檜原村白光にある猿田彦刻像塔についても、『野仏』第23集(平成4年刊)の「西多摩石仏散歩」の中で青面金剛刻像塔に追刻されたことにふれた(20頁)。
 これまでにも牛天神のこの塔については、多くの庚申塔関係書に記されているが、塔面の改刻にふれいない。もっとも三輪善之助翁の『庚申待と庚申塔』(不二書房 昭和10年刊)、大護8郎・小林徳太郎両氏の『庚申塔』(新世紀社 昭和33年刊)、あるいは清水長輝さんの『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)などは、忍藩の改刻が知られてない時期の発行のためでもある。
 縣敏夫さんは、最近発行された自著の『図説庚申塔』224頁に「筆者は庚申塔・道祖神の両方を追求し続けてきた清水長明より、資料の鳥瞰的視点からみて、改刻の疑いあるものと示唆をうけて再三訪れて検討した」と記し、3点の要約を挙げ、その後で「明治維新の廃仏毀釈の風潮を背景に改刻された塔が見られるが、同じような事情から生じたものと考える」としている。
 私自身も何度もこの塔をみていながら、これまでジックリと調べたことはなかった。今回は、時間があるので塔面をよく観察し、以前から予想していた通り、改刻の跡をみつけた。先ず第1に気付いたのは、「神」の字と三猿の間に施主銘らしい銘が刻まれ、それをつぶして読めなくしている箇所である。続いて「道祖神」の主銘部分も彫りくぼめた上で彫られた形跡がある。さらに両端の枠は、銘文が刻まれていたのを削った跡がみられ、左枠の上方に「為」の字が読み取れるし、下部に「願主」や「衛門」の文字がかすかかにみえる。左右の両側面をみても、施主銘が何段にもわたって刻まれいたのを削った跡がみられ、現在ある2段の施主銘が後刻されたらしい。年銘がどこに刻まれていたかはわからないが、塔型や大きさからみて寛文から延宝の頃に建てられたと推定される。
 先述の『図説庚申塔』に載った拓本からは、残念ながら僅かに上部に日輪の跡を感じさせるが、銘文がはっきりしない。実際に肉眼で観察すれば、銘文を読み取れなくても字を削った跡が残っていることは確認できるはずである。
 前記の新宿区高田馬場・諏訪神社の天和3年「塞神三柱」塔とこの塔からも、都内には数が少ないにしても忍藩で行われたような改刻がみられる。多摩地方でも猿田彦塔には、改刻の形跡が残っている。以上に挙げた塔とは趣旨が違うが、渋谷区渋谷3−5・東福寺にある文明2年銘の地蔵庚申は、寛文2年銘を改刻した塔であるのが知られている。こうした改刻の事実があるのだから、調査には油断がならない。          〔初出〕『野仏』第31集(多摩石仏の会 平成12年刊)所収
犬も歩けば石佛に当たる
 この10年ほどは、本会や庚申懇話会の例会で1緒に歩くことはあっても、石佛だけを目的に1人で1日巡ることはなくなった。例外といえるのは、本会や庚申懇話会の例会を案内する場合にコースを下見に歩く場合である。
 このところ獅子舞や祭りを見学に時間を取られて、石佛巡りに充分に時間を割けないからである。だからといって、まったく石佛に興味を失ったわけではない。獅子舞や祭りに行っても演目や食事に空き時間が出るし、開始の時間がわからない場合には余裕を見て家を出る。あるいは、バスの都合で早く現地について始まるまでに間が生じる。そうした場合には、時間の許す範囲で石佛を探す。
 平成10年8月1日(土曜日)の山梨県北都留郡小菅村の獅子舞の時には、バスの都合で獅子舞が始まるまで4時間あった。その時間を利用して小菅の村内を歩くことにして、川久保から池の尻を経て田元に入った。田元のバス停の先に
   1 安政7 板駒型 日月・青面金剛・三猿・四薬叉
   2 寛政12 光背型 日月・青面金剛・四薬叉の2基の青面金剛が高台にあるのに気付いた。
 山梨県内では、これまで4薬叉の庚申塔があるという報告に接していなかった。過去に1度、小菅村内を歩いているが、予想もしていなかった四薬叉の塔を2基をみつける大きな収穫があった。これも獅子舞のお蔭と言うべきだろう。
 今年の場合も4月9日(日曜日)に川越市田島の獅子舞に行き、藤宮神社への道を間違えてお蔭で神社近くの大日堂墓地に入り、3面馬頭の坐像や墓標石佛をみた。この日はここの獅子舞が終わってから、場所を白岡町小久喜に移して獅子舞の見学を続けた。
 小久喜の獅子舞は、久伊豆神社の境内に設けられた土俵で演じられた。神社の鳥居の横に庚申塔があるのを気付いたが、獅子舞が気になって急いで舞場に向かった。中庭が終わって道行についていくと、拝殿の横にも庚申塔が3基並んでいる。
 獅子舞の最中は拝殿横の3基と鳥居両脇の2基の庚申塔を調べられなかったが、獅子舞が終わってから記録を取る。その中の1基は、中山正義さんが「岩槻型」と呼んでいる元禄2年造立の合掌6手青面金剛立像である。岩槻周辺に分布する地方色のある青面金剛、この像は上方左手に人身を持つ。
 この種の岩槻型では、名称の基になった岩槻市内ですでに確認している。3月5日(日曜日)には岩槻市加倉・民俗文化センターで民俗芸能公演が催され、その帰りに2基をみている。1基は上方左手に、他方は下方左手に人身を持っているように、岩槻型の中でも変化がみられる。
 獅子舞前日の4月8日(土曜日)は花祭り、23日(日曜日)に行われる庚申懇話会4月例会の案内を担当しているので、青梅市大門地区のコース下見に出掛けた。久振りに市内石仏散歩となった。JR東青梅駅をスタートし、根ヶ布・天寧寺から東青梅・光明寺〜師岡・妙光院〜吹上しょうぶ園を経て宗泉寺に向かう。
 途中の妙光院境内にある平成5年造立の子育地蔵も初めてであったが、宗泉寺の入口で思わぬ石佛に出会った。この石佛は、平成10年6月に造立された3面8手の馬頭観音坐像である。白御影の石に厚肉彫りされ、蓮華台に坐像がのっている。台石には「施主 野村清一 トモ」の施主銘が刻まれている。
 馬頭といえば文字塔であるが、この日に塩船の野崎宅の入口に昭和63年12月造立の「馬頭観世音」自然石塔をみている。裏面には、造立年代と「施主 野崎良助」の銘がある。すでに『日本の石仏』第82号に発表した「東京都青梅の昭和馬頭」では、この塔を洩らしている。
 宗泉寺から塩船観音〜塩船寺〜塩船・野崎宅〜大門・地蔵堂〜吹上・春日神社を経て最後に廻った大門墓地では、予想もしなかった平成12年3月造立の一石六地蔵をみつけた。青梅市内では最新の六地蔵であることは言うまでもまいが、全国的にみても現時点では少なくとも最新の一つであろう。なお地蔵の下には「護讃地蔵・伏息地蔵・無2地蔵・諸龍地蔵・伏勝地蔵・禅林地蔵」の銘があり、左側面には年銘と施主銘がみられる。
 この下見の機会に青梅市内を歩いて、最近造立された馬頭観音と六地蔵の2基の石佛に出会った。やはり歩いてみなければ、こうした発見がない。1度行った場所だからといっても、同じ場所であっても相応の期間をおいて廻るべきであろう。獅子舞や祭りの空き時間であっても、犬も歩けば石佛に当たる、ということか。(平成12・4・12記)
                 〔初出〕『野仏』第31集(多摩石仏の会 平成12年刊)所収
二手青面金剛を追う
 近頃、インターネットが面白い。どちらかというと石佛関係のホームページ(以下「HP」と略称する)よりは、祭りや山車関係などのHPの方が魅力的ではあるが。それでもリンクを使っていろいろなHPをサーフィンすると、思いがけないHPに出会う。
 書誌の面では、国会図書館のHPを呼び出して書名から「庚申塔」や「道祖神」などの検索を行えば所蔵する書名が表示される。庚申塔の場合には、単に「庚申塔」だけでは不充分で「石仏」や「石造物」などもチェックする必要がある。場合によれば、市町村史誌や資料集を調べないとならないだろう。
 ただ書名の「庚申」で検索すると、例えば『心中天の綱島・心中宵庚申』や『近松浄瑠璃集』、あるいは『日本古典文学大系』や『日本の古典』など、我々が必要とする書名以外の本が含まれるから注意すべきである。どうしても「庚申」を使って検索するのならば、「書名」ではなくて「件名」を選ぶべきである。いずれの場合でも、表示された書名をクリックすると本の詳細データがみられる。参考までに「庚申」の件名145件、「庚申塔」の書名は76件ある。
 東京都の場合は、都立図書館のHPで検索するとよい。書名検索で「庚申塔」を選べると、平成13年1月31日現在で68件(50件ずつ)の資料名が画面に現れる。こちらは国会図書館と異なり件名による検索はできない。
 いろいろなHPを調べるには、検索エンジンを使うと便利である。検索エンジンのMSNサーチで「庚申塔」から、愛知県半田市立博物館のHPを選ぶと、常設展示室1には庚申塔が17基あるのがわかる。これらの塔は、昭和55年5月に市内亀崎常磐町で宅地造成中に発見されたものという。その内容は、青面金剛主尊が12基・猿が2基・文字塔が2基・鍾馗主尊が1基である。特に、鍾馗主尊の塔が珍しい。
 どの検索エンジンを使ったか覚えていないが、埼玉県上尾市の「史跡を歩こう」では、庚申塔の写真や地図が添えられた「庚申塔見て歩き」の5回が載っている。この5回分の「庚申塔見て歩き」で廻った庚申塔の所在地は、「関係所在地録」に示され「史跡解説」では「庚申信仰と庚申塔」が説明されている。他にも東京都三鷹市の「三鷹の庚申塔」や埼玉県狭山市の「現当二世安楽の供養塔」でも、市内にある庚申塔がわかる。
 私が関心をもっている昭和庚申年塔についても、長野県岡谷市の「石造物巡り」にある「庚申塔」で9基がチェックできる。同県大町市の「大町の石神・石仏」には、庚申塔の項に「昭和55年(1980)の庚申年に、市内では、15か所で16の文字碑が再建されている」と記されている。
 HPの話になると際限がない。別の機会にふれることとして、だいぶ横道にそれて前書きが長くなったから、表題にある二手青面金剛の場合に話題を戻そう。先ず、ヤフーの検索を利用して「石仏」をみると、最初に日本石仏協会のHP(4月1日以降は「心さんの写真館」に変更されている)が載っているから、これを呼び出す。これには「風に吹かれて」「石仏世界へ」「MURAhどん」「石の仏」のリンク集があるので、「MURAhどん」を選ぶ。このHPには、沼南町高柳の元禄10年塔を始めとして8基が載る「千葉県の二手青面金剛像塔(その1)」がみられる。塔の写真と所在地と銘文、特徴が記されている。
 この「MURAhどん」にもリンク集があるので、利用して「道標おやじ」のHPを選ぶ。このHPの中には「二手青面金剛について」があり、横田甲一さんの『庚申』第66号の「二手青面金剛」『日本の石仏』第16号の「再び二手青面金剛について」の引用がある。さらに「二手青面金剛と関係石仏の一覧」「二手青面金剛塔・関連塔一覧(全体像)」「二手青面金剛関係石仏の画像分析」「二手青面金剛塔の属性表 その1」とあって盛り沢山である。
 このHPをみると、横田さんが論考を発表された後に、新たに2基が発見されている。「二手青面金剛塔の属性表 その1」では、その16基を早期2基・前期6基・中期4基・後期4基の4期にわけ、中期を除いてそれぞれ2分して7つの類型としている。なお表中には、関連する3面6手像を2基加えている。
 千葉県東葛飾地方の二手青面金剛については、私も『石仏研究ハンドブック』(雄山閣出版 昭和60年刊)の「石仏研究の事例」の冒頭に「一、二手青面の系譜」で取り上げた。横田さんの案内で、鎌ヶ谷市や沼南町などの塔を廻っている。当時は14基(後で述べるが、県内には他に系統の異なる1基がある)が明らかであったが、先のHPによると、その後2基発見されている。これを(※印)加えて一覧表を作成すると、次の表1のようになる。
   表1 千葉県東葛飾地方の二手青面金剛型式別年表
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   ┃型 式┃年 号│西  暦│塔 型│所    在 地│備  考┃
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   ┃合掌型┃元禄10│1697│光背型│沼南町高柳 藤庚申     │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃元禄13│1700│光背型│白井町折立 香取神社    │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃元禄15│1702│光背型│鎌ヶ谷市佐津間 大宮大神  │図録参照┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃元禄16│1703│光背型│松戸市横須賀 正福寺    │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃元禄16│1703│光背型│松戸市古ヶ崎 鵜ノ森稲荷  │    ┃
   ┃   ┣━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃   ┃宝永2│1705│光背型│松戸市中金杉4 医王寺   │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃宝永3│1706│光背型│松戸市松戸新田 路傍    │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃  ※┃宝永3│1706│光背型│柏市松ヶ崎 香取神社    │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃宝永4│1707│光背型│柏市柏3 柏神社      │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃宝永5│1708│光背型│松戸市新作 安房須神社   │    ┃
   ┃   ┣━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃   ┃正徳2│1712│光背型│沼南町箕輪 香取神社    │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃正徳5│1715│光背型│松戸市上矢切 宝蔵寺    │    ┃
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   ┃剣人型┃元禄10│1697│光背型│沼南町高柳・三叉路     │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃  ※┃元禄15│1702│光背型│松戸市中根 妙見神社    │    ┃
   ┃   ┣━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃   ┃正徳4│1714│光背型│沼南町塚崎 寿量院     │図録参照┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃正徳4│1714│光背型│松戸市上矢切 神明神社   │    ┃
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   備考欄に「図録参照」とあるのは、縣敏夫さんの『図録 庚申塔』を示す。
 千葉県内には東葛飾地方以外にも二手青面がみられる。表1に洩れたものを表2にまとめてみた。これらの塔は、実見していないので不充分であるがわかる範囲で作成した。
   表2 千葉県の二手青面金剛型式別年表
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   ┃型 式┃年 号│西  暦│塔 型│所    在 地│備  考┃
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   ┃剣人型┃寛文6│1666│光背型│小見川町南下宿 善光寺   │注1  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃寛文5│1715│光背型│松戸市上矢切 宝蔵寺    │注1  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃文化9│1812│駒 型│市川市須和田町 須和田神社 │注2  ┃
   ┣━━━╋━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃型不明┃延宝1│16  │光背型│関宿町台町 光岳寺     │注1  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃延宝4│16  │光背型│佐倉市下志津 庚申塚    │注1  ┃
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   注1 中山正義『関東地方寛文の青面金剛像』(私家版 平成9年刊)
   注2 清水長輝『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)
 二手青面は、千葉県に限らず私の知る範囲で東京都・神奈川県・山梨県にもみられる。この他にもほとんどみていないので傾向がつかめない埼玉県がある。先ず東京都の場合を表3に示すと、次の通りである。
   表3 東京都の二手青面金剛型式別年表
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   ┃型 式┃年 号│西  暦│塔 型│所    在 地│備  考┃
   ┣━━━╋━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃剣索型┃寛文6│1666│光背型│三鷹市中原4−16 庚申祠  │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃寛文8│1668│笠付型│杉並区方南2−5 東運寺  │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃寛文10│1670│光背型│目黒区下目黒3−20 瀧泉寺 │注1  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃延宝2│1674│笠付型│杉並区高井戸東3−34 松林寺│    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃延宝4│1674│光背型│調布市仙川2−4 川口家  │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃延宝6│1678│笠付型│杉並区永福1−7 永昌寺  │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃延宝6│1678│光背型│杉並区宮前1−17・小祠   │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃延宝8│1680│光背型│世田谷区船橋1−20・観音堂 │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃延宝9│1681│光背型│八王子市堀之内・保井寺   │    ┃
   ┃   ┣━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃   ┃天和1│1681│笠付型│世田谷区羽根木2・子育地蔵 │    ┃
   ┣━━━╋━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃輪矛型┃寛文10│1670│柱状型│町田市相原町・大戸観音   │図録参照┃
   ┣━━━╋━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃合掌型┃貞享4│1687│柱状型│新宿区富久町4−5 自証院 │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃寛保3│1743│笠付型│檜原村檜原・下元郷・都道路傍│    ┃
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   注1 中山正義『関東地方寛文の青面金剛像』(私家版 平成9年刊)
 次いで神奈川県の場合をみると、表3の通りである。表中には、関連があるので東京都町田市相原町・大戸観音の塔を参考までに加えておいた。
   表4 神奈川県の二手青面金剛型式別年表
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   ┃型 式┃年 号│西  暦│塔 型│所    在 地│備  考┃
   ┣━━━╋━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃剣棒型┃寛文2│1662│光背型│津久井町馬石・路傍     │図録参照┃
   ┃   ┣━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃   ┃貞享3│1686│光背型│津久井町関・光明寺墓地   │    ┃
   ┣━━━╋━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃輪矛型┃寛文8│1668│光背型│愛川町田代・上ノ原     │注3  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃寛文9│1669│光背型│愛川町横根・滝不動     │注4  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃寛文10│1670│柱状型│東京都町田市相原町・大戸観音│参  考┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃寛文11│1671│光背型│津久井町根小屋・並木    │    ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃寛文11│1671│光背型│津久井町長竹・稲生     │    ┃
   ┣━━━╋━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃合掌型┃宝永6│1709│笠付型│相模湖町寸沢嵐・日日神社  │    ┃
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   注3 武田久吉『路傍の石仏』(第1法規出版 昭和46年刊)
   注4 多田治昭「愛川町周辺の二手青面金剛塔」(『野仏』第14集 昭和57年刊)
 この表で今まで知られていないのが、馬石と同形の関・光明寺墓地の塔である。塔の中央には右手に剣、左手に先に円形がついた棒をもつ二手の青面金剛、下部に三猿を浮彫りする。この猿の姿態は馬石塔よりも行儀よく深く彫ってある。造立年代が下るためかもしれない。頭上に「奉造立庚申」と「キャ カ ラ バ ア」の2行、像の左右に「貞享三丙□年」「十一月吉日」の年銘が刻まれている。
 津久井郡には、もう1基の二手青面金剛像がある。先にふれた相模湖町寸沢嵐・日日神社の宝永6年塔である。津久井町の輪矛型塔とは異なった、合掌二手立像を浮彫りしている。近くにある「奉造立山王為庚申供養二世安穏之也」銘の合掌弥陀を主尊とした延宝5年塔の影響を受けたものであろうか。清水長輝氏は、この二手青面像を現場でみていないが、「山王の系統をひくと思われる神像系」とし、さらに「密教的な六手型の異様な荒々しさをことさら避けて、もっとおだやかに表現しようとし、二手合掌という形におちついたものであろう」と述べている(『庚申塔の研究』112頁)。
 ついでに隣接する山梨県の場合は、調べたのが1基だけでる。北都留郡上野原町上野原・慈眼寺にある文化10年塔で右側面に「旧塔ニ延宝九年ト有」の銘があるから、延宝9年塔の再建塔である。おそらく旧塔には、合掌弥陀像が刻まれていたと想像される。文化年間は、青面金剛が普及した時代から文字塔化の時代に入っている。こうした時期に再建されたために、現在みられるような合掌二手像が造られたのではないだろうか。ただこの塔の場合には、青面金剛が弓と矢を背負っており、4手像とも受け取れる。それとも合掌6手像の4手を省き、弓矢を背負う形で残したのかもかもしれない。 他に武田久吉博士の資料から1基引用して表5を作成した。
   表5 山梨県の二手青面金剛型式別年表
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   ┃型 式┃年 号│西  暦│塔 型│所    在 地│備  考┃
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   ┃合掌型┃文化10│1813│笠付型│上野原町上野原・慈眼寺   │背に弓矢┃
   ┃   ┣━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃   ┃年不明│────│光背型│韮崎市相垈         │注3  ┃
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   注3 武田久吉『路傍の石仏』(第1法規出版 昭和46年刊)
 埼玉県は隣の県にもかかわらず、大宮の1基をみただけで他は中山さんと多田さんの資料(後述)からの引用で作成した。
   表6 埼玉県の二手青面金剛型式別年表
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   ┃型 式┃年 号│西  暦│塔 型│所    在 地│備  考┃
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   ┃剣索型┃寛文3│1663│笠付型│大宮市西遊馬 高城寺   │3面  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃延宝4│1676│光背型│宮代町百間・川島 一庵坊  │注1  ┃
   ┣━━━╋━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃剣人型┃寛文11│1671│光背型│大利根町琴寄 庚申堂    │注1  ┃
   ┣━━━╋━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃矛索型┃寛文12│1672│光背型│杉戸町堤根 馬頭院     │注1  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃寛文12│1672│光背型│久喜市青毛 鷲宮神社    │注1  ┃
   ┣━━━╋━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃型不明┃延宝3│1675│光背型│白岡町野牛 路傍      │注1  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃延宝4│1676│光背型│浦和市井沼方 墓地     │注1  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃延宝4│1676│光背型│浦和市井沼方 墓地     │注1  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃延宝6│1668│光背型│大利根町外記新田 明神社  │注1  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃貞享2│1685│   │大里村小八ツ林 大福寺   │注5  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃享保1│1716│   │三郷市丹後 光福院     │注5  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃享保2│1717│   │久喜市原          │注5  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃宝暦12│1762│   │川越市八ツ島 御岳神社   │注5  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃文久3│1863│   │三郷市前間 前間公民館   │注5  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃嘉永1│1848│   │川島町中山 中廓集会所   │注5  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃慶応3│1867│   │吉川市富新田        │注5  ┃
   ┃   ┠───┼────┼───┼──────────────┼────┨
   ┃   ┃年不明│────│   │寄居町六里         │注5  ┃
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   注1 中山正義『関東地方寛文の青面金剛像』(私家版 平成9年刊)
   注5 多田治昭『埼玉県の庚申塔』(私家版 平成5年刊)
 縣敏夫さんの『図録 庚申塔』(揺籃社 平成11年刊)に、二手青面5基の拓本が載っている。すでにふれたのは次の神奈川・馬石の寛文2年塔(159頁)、東京・相原の寛文10年塔、千葉・佐津間の元禄15年塔(251頁)、千葉・塚崎の正徳4年塔(263頁)の4基である。もう1基は次の表に示した231頁の塔である。
   表7 宮崎県の二手青面金剛型式別年表
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   ┃型 式┃年 号│西  暦│塔 型│所在地           │備  考┃
   ┣━━━╋━━━┿━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━┫
   ┃矛矛型┃貞享2│1685│柱状型│宮崎市宮田町3 宮崎八幡宮 │図録参照┃
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 この塔は、今まで述べた関東地方では全くみられない、右左の両手それぞれに矛を持つ一風変わった青面金剛を主尊としている。所変われば二手青面金剛が変わるを、如実に示している。このような二手像は、まだまだ各地に分布しており、これまでにふれた府県以外にもみられるもと思う。
 このように各地にある二手青面金剛の刻像塔を比較してみると、持物の違いが明らかである。中では、剣人型と合掌型が主流とまいられるが、宮崎の両手で矛をもつ像は予想もしていなった。全国は広いから、数は少ないににてもこれからもここに示した持物以外をもつ二手青面がみられるだろう。(平成13・1・30記)
    2月1日(木曜日)に千葉の吉村光敏さんからいただいたお手紙によると、千葉県内には、
   安房郡富浦町と天津小湊町(文政11年塔)に各1基ずつあるそうである。
    5月十二日の房総石造文化財研究会では、中山正義さんから年表に洩れた次の塔を教えてい
   ただいた。
     寛文12 板碑型 日天・青面金剛・一鬼・三猿  千葉県富津市青木 浄信寺
     延宝4 光背型 日月・青面金剛・二鶏・2猿  群馬県太田市丸山 丸山薬師
    後日『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)をみていたら、静岡県駿東郡小山町奈良
   橋に寛文元年の二手青面金剛があるのがわっかった。念のために『青面金剛と庚申信仰』(町
   田市立博物館 平成7年刊)掲載の清水長明さんの「青面金剛像と石造遺物」に当たってたら
     静岡県駿東郡小山町藤曲奈良橋の戸は光背型。上部に日月の陰刻、相貌は柔和で右手に剣
     左手に棒のようなものを持つ。足もとの両側には片足を上げた合掌の猿が向かい合う。基
     部は∧の線刻を横に連続した簡略な蓮座である。左側面に「寛文元辛丑念十一月二日願主
     道□」とある。(91頁)
   と記されている。写真は『日本石仏図典』の95頁に載っている。
〔初出〕『野仏』第32集(多摩石仏の会 平成13年刊)所収   

達磨寺の百庚申
 平成13年1月20日(土曜日)は、日帰りバス旅行「芸術を体感!ロマンの宝庫 上州路」に妻と参加する。今回それほど期待して参加したわけではないが、達磨寺には1度行ってみたいと考えていたから、丁度よい機会である。これは私が達磨に興味があったからで、全く石佛(特に庚申塔)については意識していなかった。
 達磨寺(高崎市鼻高町296)に着いて、境内を40分間の自由見学である。寺務所や本堂の左手にある各地のダルマを集めたお堂に気を取られて時間が過ぎたので、境内にある庚申塔を見つけても集合時刻まで余り時間がない。
 庚申塔は、本堂の右手の道を下った所にある。一々数を数えてたわけではないが、百庚申の造立である。宝珠形塔に「ウーン」を籠字彫りし、その下の台石に「庚申塔」と横書きした塔や「猿田日子神」と刻む自然石塔、板石型の「ウーン供養塔」、自然石の「帝釈塔」塔、「青面塔」自然石塔、珍しい円形の「庚申塔」などが混じる百庚申である。もっと詳しくみたいところだが、集合時間が近づいたので断念してバスに戻る。
 時間があれば、詳細に記録したいところである。ともかくも、達磨寺に百庚申があるのを確認したことは、期待していなかっただけに、今回のバス旅行の収穫である。それにしても、群馬には、各地に百庚申が分布しているのを実感する。(平13・1・21記)
〔初出〕『野仏』第32集(多摩石仏の会 平成13年刊)所収
暗闇祭の間に
 平成13年5月4日(金曜日)は、暗闇祭の山車巡行を見学に府中を訪ねる。大国魂神社境内で行われた万灯大会が終わり、午後6時からの山車巡行まで時間があるので、旧甲州街道沿いを八幡町から西に向かった。途中で八幡町・新宿町・馬場の山車をみて、片町2丁目の高安寺に寄る。
 この寺を訪ねるのは、何年振りだろうか。街道から参道に入ると右手に丸彫りの六地蔵坐像が並んでいる。通常の六地蔵と異なるところは、右端の1体が幼児を抱いていることである。普段、見かけない組合せの六地蔵である。
 確か1昨年2月に行われた多摩石仏の会見学会は、犬飼康祐さんが案内されて所沢市内を歩いた。その時に訪れた北野・全徳寺の入口で、いずれも子供を抱いた六地蔵坐像に出会ったのを記憶している。このような形態の六地蔵は珍しいと思ったが、この寺の1体の例も珍しい。
 六地蔵先の参道を突き当たった所には、現代作の双体道祖神がみられる。そこを右に折れて進むとすぐ右手に佛像を浮き彫りする光背型塔8基が並んでいる。一代守本尊の八体佛である。この像の手前にある黒御影の石塔には
   干支本尊建立のいわれ
   当八体のご尊像は当山龍門講参拝団が秩父三十四所西国三十三所、板東三十三所、四国八十八
   所の観音霊場順拝満願を記念して有志の方々の発願により建立されたものです。
      千手観音菩薩(子生まれの方)  虚空蔵菩薩(丑寅生まれの方)
      文殊菩薩  (卯生まれの方)  普賢菩薩 (辰巳生まれの方)
      勢至菩薩  (午生まれの方)  大日如来 (未申生まれの方)
      不動明王  (酉生まれの方)  阿弥陀如来(戌亥生まれの方)
   夫々ゆかりの守り本尊をご信仰下さい。
           平成三年盆吉辰              当山主 合掌の銘文が刻まれている。一代守本尊については、日本石仏協会編の『日本石仏図典』(国書刊行会昭和61年刊)26頁に
   一代守本尊〔概説〕 いちだいまもりほんぞん
    一代守本尊とされる2如来五菩薩一明王の八尊をいい「八体仏」とも称する。生まれ年の十
   二支によって、それぞれの守本尊が定められているが、経軌で説かれるものではない。千手観
   音を子歳、虚空蔵菩薩を丑・寅歳、文殊菩薩を卯歳、普賢菩薩を辰・巳歳、勢至菩薩を午歳、
   大日如来を未・申歳、不動明王を酉歳、阿弥陀如来を戌・亥歳生まれの本尊にそれぞれ配当す
   る。
    石仏ではあまり見当たらない。長野県東筑摩郡山形村清水寺境内にある享保十五年(173
   0)銘層塔には、一層と二層の四面に一代守本尊と鼠・牛・虎など十二支に因む動物の浮彫り
   像が配されている。同県更埴市八幡霊諍山や愛知県豊川市麻生田町養学院にも浮彫り像が見ら
   れるが、これには十二支の動物は刻まれていない。〔石川〕と記し、八体佛のそれぞれについては次頁から解説している。例えば、千手観音について
   一代守本尊〈千手観音〉 せんじゅかんのん
    梵名サハスラブジャ、種子は「キリーク」。変化観音で、六観音や七観音、あるいは七夜待
   本尊の一員である。一代守本尊では、子歳生まれの本尊とされる。
    像容は千の掌があり、それぞれに1眼がある。千手を42本であらわす場合もあり、これは
   一本の手で二五の世界の衆生を救うからであるという。
    その四二手に、いろいろな器機を持つ。天明三年(1783)刊の『仏像図彙』には、蓮華
   座に趺坐する四手像と鼠が描かれている。
    一代守本尊としては、長野県東筑摩郡山形村清水高原清水寺境内にある享保十五年(173
   0)銘層塔の鼠を伴う浮彫りの立像が知られている。佐藤俊一氏の報告によれば、福島県双葉
   郡浪江町井戸山神祠参道には、半肉彫りの光背型塔がみられる。愛知県豊川市麻生田町養学院
   のものは、光背型塔に『仏像図彙』に図示された四手の坐像を浮彫りする。〔石川〕と述べた。以下、千手観音と同じように虚空蔵菩薩と文殊菩薩を27頁、普賢菩薩・勢至菩薩・大日如来を28頁、不動明王と阿弥陀如来を28頁で紹介している。
 八体佛といえば、今年3月に庚申懇話会で訪れた川越市鴨田・一乗院境内には、参道沿いに青銅製の八体佛が並んでいる。変則的な石佛では、小平市小川町の小川寺境内にある。ここには十三佛があり、八体佛に入っていない千手観音を別に造り、両者で8体佛を構成している。
 仁王門の裏側には、賽の河原の地蔵菩薩と奪衣婆の木像がみられる。その左手をみると大きな水子地蔵がたち、前には「南無水子地蔵尊」の小さな塔婆が供えられている。その背後には、L字形に小さな水子地蔵が何段にもズラッと並んでいる。その1体1体には、「南無水子地蔵尊」と施主銘と奉納年銘を記したプレートがついている。
 境内には、青銅製の「ぼけ封じ地蔵菩薩」がある。先の水子地蔵といい、このぼけ封じ地蔵といい地蔵の守備範囲が広くなるのは時代の流れなのかもしれい。
 寺近くにある観音堂の境内には、丸彫り地蔵立像3体が祠の中に安置されている。中央の大きな1体は、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ。前の小さな2体の立像は合掌しており、3尊形式のような態がみてとれる。
 以前は庚申塔を中心に廻っていたから、他の石佛は特別に変わったものは別として、余り注意を払っていなかった。多分、昭和30年後半にこの寺を訪れた時も、庚申塔がないのを確認して次の庚申塔を探したと思う。それに昭和50年代後半から新しい石佛の造立がみられるから、すでに調査を済ませた寺も改めて廻らないとならないだろう。山車見物が思わぬ六地蔵や八体佛に出会うきっかけとなった。(平13・5・6記)    〔初出〕『野仏』第32号(多摩石仏の会 平成13年刊)所収
赤木さんの思い出
 突然の赤木穆さんの訃報は、犬飼康祐さんから電話で知った。平成12年6月24日(土曜日)のことである。25日(日曜日)午後6時から通夜、26日(月曜日)正午から1時までが葬儀共に多磨霊園に近い府中市多磨町2丁目の永福寺で行われた。寺は、西武是政線の多磨墓地前駅から徒歩3分ほど。
 通夜と葬儀の会場となった永福寺は赤木さんのお兄さんが住職を勤める真宗高田派の寺院である。以前、赤木さんのご案内で訪ねた記憶がある。現在は当時とは異なり、本堂も客殿も立派に再建されている。境内には、赤木ご夫妻の俳句を並べて自然石に刻んだ比翼句碑がみられる。
 赤木さんに初めてお目にかかったのは、昭和42年7月30日に八王子郷土資料館で開かれた石仏愛好者のつどいである。この会合には、当時、三鷹市立図書館に勤務されていた赤木穆さんが参加された。これが赤木さんと私の初対面であり、「多摩石仏の会」の創立の会合となった。翌月20日(日曜日)午後1時から八王子郷土資料館会議室で第2回が開かれ、以後、平成の今日まで例会が続いている。途中から会員になられた方の中には、創立メンバーの一員である赤木さんを全く知らない人もあろう。
 会誌『野仏』第30集の総目録でもわかるように、赤木さんは第2集に「武蔵野・田無・保谷コース」を発表されて以来、第4集・第5集・第7集・第9集(題名は後記)と初期の号に発表された。また第25集に掲げられた故・山村弥五郎さんの「多摩石仏の会 会のあゆみ」からも昭和44年5月11日の三鷹見学会を始め、50年7月20日の新座・東久留米見学会まで初期の見学会を案内され、活躍されていることがうかがえる。
 赤木さんは、市立図書館の時期を含めて三鷹市役所に勤務されていたから、赤木さんというと先ず三鷹が思い浮かぶ。お住まいが保谷市ひばりが丘だったから、地元の保谷にも詳しかったし、三鷹周辺の郷土史家との交流があったので、北多摩各市の事情に通じていた。そうした訳で、これまで三鷹を始めとして武蔵野や保谷などの庚申塔について、いろいろとご教示を受けた。
 平成9年に庚申資料刊行会から刊行した私の『多摩庚申塔夜話』の中では、赤木さんにふれて
    赤木穆堂さんは、多摩石仏の会の創立メンバーの一人である。三鷹市立図書館に勤務してい
   た関係から、市内の郷土史や文化財に精通していた。武蔵野石仏研究会を主宰して、三鷹を中
   心に多くの方々に石仏についての知識を教えられていた。
    赤木さんは、『野仏』第2集(昭和45年刊)に「武蔵野・田無・保谷コース」、第4集(昭
   和47年刊)に「馬頭観音に名を刻まれた盗賊ども」、第5集(昭和48年刊)に「ヨソの石仏」
   「多摩八十八ヶ所霊場について」、第7集(昭和50年刊)に「韓国を旅して」、第9集(昭和
   51年刊)に「石仏随想」を発表されている。また、昭和50年には『みたかの庚申塔』、53年に
   は『みたかの石造遺物』をまとめ三鷹市教育委員会から刊行している。
    平成5年に発行された『新多摩石仏散歩』では、武蔵野・三鷹を担当されて「井の頭周辺の
   石仏」を書かれた。と、記した。
 25日の通夜の席では、旧会員の杉並の藤井正三さんと保谷の新井利平さんにお会いした。藤井さんは、退会後も俳句を通じて赤木さんとお付き合いがあった。新井さんは、赤木さんから古文書の手ほどきを受けた。通夜の隣の席には、保谷の古文書の会や武蔵野石佛研究会、俳句の会の方がおられた。
 外見から受ける赤木さんは、一見、取っつき難い感じである。その上に頑固である。もっとも頑固といっても筋が通っているが。しかし、話してみると実に気さくで話題が豊富である。多方面にわたる知識を身に付けられておられたからである。
 赤木さんは、先の夜話からもわかるように武蔵野石仏研究会を主宰された。これはほんの赤木さんの1面であって、郷土史などの歴史、文学や美術に造詣が深かった。冬草句会の同人として腕をふるい、多数の門下を育てた。私とは、もっぱら庚申塔や石佛を通してのごく狭い範囲のお付き合いであったが、武蔵野文化協会の理事として、あるいは文化財保護審議委員会の委員として、冬草の同人として多方面に活躍された。大正生まれの享年88歳で、平均余命を越えてはいるが、まだまだご指導いただきたい点が多々ある。
 今はただご冥福を祈るばかりである。合掌。(平成12・6・29記)
              〔初出〕『野仏』第32号(多摩石仏の会 平成13年刊)所収
あとがき
    第1集の『私の「野仏」』に記したように、多摩石仏の会は、昭和42年2月3日付けの毎
   日新聞多摩版の記事が契機となり、多摩地方で石仏を調査・研究している方々が集まって同年
   7月30日に発足した。以来、平成14年の現在も毎年、月例会を重ねて地元の多摩地方は無
   論のこと、東京区部・埼玉・千葉・神奈川・山梨など各地に足を延ばし、石佛見学を続けてい
   る。そうした見学を通じて得られた調査や研究の成果は、会で発行した『あしあと』や年刊の
   会誌『野仏』に発表されている。
    第4集以後、第18集を除いて私は『野仏』の毎号に欠かさず寄稿している。平成7年まで
   に発表したものは、前記の『私の「野仏」』とそれに続く第2集の『続・私の「野仏」』にま
   とめ、ともしび会から同8年6年に2冊同時に刊行した。
    現在、その後に発表した分が大分たまってきた。本書は、各々の文末に号数を記したように
   平成8年の第27集から昨13年の第32集までを第3集として1冊にまとめた。会誌の各号
   をバラバラに参照するよりも、このように一本にしたほうが利用する上で都合がよい。一方で
   これは、自分の執筆の参考にするためでもある。
    私にとって『野仏』は、『庚申』や『日本の石仏』と同様に、調査や研究の成果を発表する
   場の一つである。第3集に6年間を要しているから、次集は順当にいって平成19年か20年
   の発行になる。
    今後もこの会誌を通じて庚申塔を中心とした石佛情報を発信していくつもりである。どこま
   で長く続くのかわからないけれども、これからも発信する努力を継続したいものである。と同
   時に第4集の刊行を目指したい。
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                               私の『野仏』 第3集
                               発行日 平成14年4月15日
                               著 者 石 川 博 司
                               発行者 多摩野佛研究会
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