新宿区の庚申塔を歩く                            石川博司
           
     目次
  
       新宿区の庚申塔を歩く
         新宿行 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
         新宿を歩く ・・・・・・・・・・・・・・・・
         淀橋庚申堂 ・・・・・・・・・・・・・・・
         淀橋庚申堂再訪 ・・・・・・・・・・・
       新宿区内の庚申塔
         新宿区の庚申塔 ・・・・・・・・・・・
       新宿の改刻塔を歩く
         都内改刻塔巡り ・・・・・・・・・・・・
         都内改刻塔再訪 ・・・・・・・・・・・
         第九七回石仏談話室 ・・・・・・・
         神社石造物の改刻 ・・・・・・・・・
         あ と が き ・・・・・・・・・・・・・
                                                 総目次へ
新宿行

 (昭和六十三年)七月十日(日曜日)は、山村弥五郎さんの案内で多摩石仏の会新宿見学会が行われる。西武新宿線下落合駅改札口前に九時三〇分集合、集ったのは鈴木俊夫さん・林国蔵さん・明石延男さん・犬飼康祐さんに私と紅一点の遠藤塩子さん、それに久方振りの赤木穆堂さんの参加も見られる。小人数で歩きやすい。

 これまでも新宿区内を藤井正三さんの案内で何度か回っている。今日のコースの一部分も、藤井さんの案内で回ったことがある。五十七年八月八日だから六年振りのところもあるわけだ。この時は西武新宿線の中井駅を起点にしている。

 最初の見学は、上落合一丁目二六番の月見岡八幡神社である。境内の富士塚前に
  1 正保4 宝篋印塔 「奉造立庚申待大願成就」         32×30×32
が木造の覆屋の内に安置されている。総高は一メートル七七センチ。塚には猿の石像や丸彫りの天狗が見られる。
近くにある石仏を見て、次の見学場所である高田馬場三丁目三七番の観音寺に向う。

 観音寺は裏の墓地から入る。ここには
  2 正徳4 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      73×31×29
  3 寛文6 板碑型 「奉待庚申満願成就所」三猿         95×39
の二基の庚申塔がある。二は三面八手の青面金剛であるし、三には雌雄の区別が見られる三猿が陽刻されている。「毘首竭摩天」と刻んだ自然石文字塔もある。
予定にはなかったが一丁目一四番の玄国寺墓地に立寄り
  4 年不明 光背型 青面金剛                  67×30
を見る。
続いて一丁目一三番の玄国寺境内で
  5 延宝3 光背型 「奉待庚申諸願成就攸」三猿         63×27
  6 宝永7 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      75×33×23
  7 寛文5 笠付型 「奉待庚申諸願成就處」三猿         83×27×28
の三基の庚申塔を調べる。
近くの一丁目一二番の諏訪神社境内で
  8 貞享5 板駒型 日月「奉待庚申為二世安楽也」三猿      90×39
と天和三年の「塞神三柱」を見る。塞神塔は、上部に日月を刻むもので、主銘の右に「諏訪上下大明神」と「正八幡大明神」、左に「天照大神」と「稲荷大神」を二行に記している。この光背型塔は、どう見ても改刻塔である。

 西早稲田に入り、まず三丁目二四番の源兵衛墓地(旧・夾山寺墓地)の
  9 延宝3 笠付型 日月「奉供養庚申二世安楽處」        78×32×28
を尋ねる。この墓地には「為念仏結集菩提也」の銘が刻まれた慶安三年の五輪塔がある。

甘泉園の公園で昼食を済ませてから、三丁目一六番の亮朝院を訪れる。境内には
  10 享保10 柱状型 「奉勧請南無帝釈天王」           70×33×21
があり、宝永二年の石造の仁王がみられる。
三丁目五番の大日堂前の
  11 大正8 柱状型 日月・青面金剛・一鬼・三猿         85×32×32
を見て一丁目七番の観音寺を尋ねると、以前は境内にあった石仏が門前に移されて並べてあるお陰で駐車した車が邪魔でよいアングルで撮れなかった弁天(貞享四年)等が写しやすくなった。
弁天と
  12 寛文4 光背型 地蔵「奉待庚申三年一座……」       103×47
  13 寛文7 光背型 観音「奉待庚申供養現世……」        86×39
の写真を撮ってから、一丁目一番の宝泉寺に行き、境内の
  14 延宝8 板駒型 日月「奉待庚申現世安穏受福……」      80×36
を、続いて同番の竜泉院境内の
  15 元禄2 光背型 日月・青面金剛・二鶏            60×29
を見てから二丁目一番の穴八幡神社を訪ねる。境内には貞享四年の塔をはじめ庚申塔が見られるが、塔と前に建っている小屋との間が狭く、おまけに暗くて調べにくい。二八ミリの広角レンズに交換して、ストロボヲ使いかろうじて写真だけは斜めから撮る

 夏目坂を登り、喜久井町四五番の来迎寺に着く。境内にある
  16 延宝4 板碑型 日月「奉町庚申現当二世悉地成就處」三猿  138×61は、新宿区の指定文化財である。

 営団早稲田駅から神楽坂駅まで一駅を地下鉄に乗り、筑土八幡町の筑土八幡神社に向う。境内には
  17 寛文4 光背型 日月・二猿                158×68が見られる。
この塔は、形から見て寛文期のものと思われるが、桃を持つ二猿などは江戸中期以降に改刻されたもであろう。これを最後に見学を終え、JR飯田橋駅に向う。

 新宿区内の主な庚申塔は、今回のコースで見られる。欲をいって付け加えると、北新宿三丁目二三番・円照寺の寛文五年一猿塔、同じく北新宿三丁目一六番・鎧神社の享保六年庚申狛犬、西大久保・全竜寺の寛文十二年阿弥陀庚申塔を入れるべきであろう。もっとも円照寺の塔は、現状が無残でありかつての面影を清水長輝さんの『庚申塔の研究』の口絵写真で偲ぶほかはない。
            〔初出〕『私の石仏巡り(昭和編)』(ともしび会 平成7年刊)所収

新宿を歩く   多摩石仏の会五月例会

 平成十二年五月二十一日(日曜日)は、多摩石仏の会五月例会である。営団地下鉄丸の内線四谷三丁目駅一番出口に午前九時三〇分集合、関口渉さんの案内で新宿区内をまわる。参加者は、明石延男さん・縣敏夫さん・犬飼康裕さん・遠藤塩子さん・喜井哲夫さん・鈴木俊夫さん・多田治昭さん・萩原清高さんの総勢一〇人である。

 多少の時間の余裕をみて家を出たつもりだったが、集合地の四谷三丁目駅についたのが午前九時二七分、集合三分前である。新宿寄りの改札口を出たが誰もいない。そのうちに遠藤さんがきて二人で辺りを探したが、誰も見つからない。改札の駅員に聞いて、一番出口と反対側だとわかった。慌てていたせいか三番出口に出ると、交差点の先に皆の姿がみえてホッとする。
 関口さんから今日の案内リーフ「新宿の石仏〜四谷から早稲田へ」を、鈴木さんからは『東京都の庚申塔』の千代田区・港区編と新宿編の二冊をいただく。

 集合場所から第一見学地の法蔵寺(若葉一−一)に向かう。今回のコース全般にいえることであるが、関口さんが下見をして最短コースを辿ったために、思わぬ細い裏道や通りを廻り、以前きた時の逆コースもあって見学場所がなかなかつながらない。

 法蔵寺の墓地の入口には、寛文四年と宝暦五年の六字名号塔二基がみられる。寛文塔は大きく、宝暦塔の笠部に蕨手があって異様な組み合わせになっている。
次いで日宗寺(若葉二−三)を訪ね、明治十九年の丸彫りの浄行菩薩をみる。
 坂の名になっている東福院(若葉二−二)の境内には、次の庚申塔二基がある。
 1 享保2 光背型 日月・青面金剛・三猿            74×32
  2 年不明 柱状型 上欠(青面金剛)・三猿           46×30×28
 1は、合掌六手(像高37・)の青面金剛の下に三猿(像高10・)がみられ、像の右には「諸願成就 柳原氏」、左には「享保二丁酉歳二月吉日」の年銘が刻まれている。
 2は、上半部が欠失した破損の著しい塔である。前面と左右の両側面の三面に猿(像高15・)を配しているので、かろうじて庚申塔とわかる。前面中央の像(像高12・)は、下半部が残るのみで青面金剛と思われる。左側面に「吉日」とだけ判読できる。

 先に東福院に寄ってから、前を通りすぎた坂の途中にある愛染院(若葉二−八)を訪ねる。境内の
木陰に二基の庚申塔がみられる。うっかりすると見逃す恐れがある。
  3 元禄2 光背型 日月・青面金剛・三猿            85×52
  4 延宝8 光背型 日月・青面金剛・御弊猿           80×53
 3は合掌六手(像高38・)の刻像塔で、下部に三猿(像高14・)の浮き彫りがある。像の右に祈願銘と施主銘の「奉供養庚申待諸願成就所 右京」、左に年銘と施主銘の「元禄二己巳暦七月六日 玄順」の銘文を刻む。
 4は、3同様の合掌六手の青面金剛(像高37・)、下部の一猿(像高21・)は御弊持ちである。頂部に「バン」の種子、像の右左に「延宝八庚申天」と「十一月五日」の年銘が二行にある。

 愛染院から西念寺(若葉二−九)に寄り、天保四年の十一面千手観音・服部半蔵の宝篋印塔墓塔・家康の長男信康の供養五輪塔をみる。縣さんが体調が悪いので、この寺でリタイアする。

 若葉から須賀町に入り、宗福寺(須賀町一〇)では
  5 天和2 光背型 三猿                    51×29をみる。この塔の中央部には「天和二壬戌年」と「十一月十七日」の年銘を二行に刻み、下部に三猿(像高14・)、その下に「六人 願主 □□氏」の銘がある。

 次いで訪ねた戒行寺(須賀町九)では、火盗改の長谷川平蔵の供養塔をみる。平蔵は、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公として有名で、吉右衛門が扮してTVで放映された。
続いて勝興寺(須賀町七)では、境内にある奪衣婆・白衣観音・閻魔、墓地にある三面馬頭の写真を撮る。

 左門町に入って、於岩稲荷(左門町一六)と近くの於岩稲荷田宮神社を訪ねる。神社の玉垣の石柱には、村上元三や岩田専太郎の名前がみえる。
 四谷四丁目四番の長善寺(笹寺)には、四谷勧進角力創始之碑・法華経千部供養塔・蝦蟇塚などある。蝦蟇塚は、実験に使われたガマガエルの供養に慶応大学医学部が昭和十二年に造立した。

 自証院(富久町四−五)の境内には、現代の佛足石があり、後に挙げる三基の庚申塔が隙間なく並べられている。塔がセメントで固定されていて、側面の銘文の有無がわからない。例え銘が刻まれていたとしても、判読できない。
  6 貞享3 柱状型 日月・青面金剛・三猿            68×27×22
  7 年不明(笠付型)日月・青面金剛・一鬼            58×25×20
  8 延宝8(笠付型)ウーン 庚申講供養寳塔現世安穏後生善處   60×26×19
 6は、合掌二手の青面金剛(像高26・)で、像の左右に年銘の「貞享三丙寅暦」と「三月六日」を刻み、下部に三猿(像高14・)がある。
 7は、笠部が失われた正面に剣人八手の青面金剛(像高29・)が一鬼の上にたつ。上方二手には日月、二番目の左手に持つのが丸輪がついた棒とみた。鈴木さんの『東京の庚申塔 新宿区』二四頁に
よると、左側面に「當院現住法主賢栄」の銘が記録されている。この銘からみると、隣の塔が延宝八年だから、それ以前に造立さていた可能性がある。また丸輪の棒とみたみたのは誤りで、鈴木さんの写真をよくみると、矛か錫杖である。
 8は前面頂部に「ウーン」の種子、「庚申供養供養寳塔」と「現世安穏後生善處」の二行の銘、下部に三猿(像高12・)がある。この塔も7と同様に側面が読めない。先の『東京の庚申塔 新宿区』九頁によると、左側面に「延宝八庚申年十一月廾九日 當院開基法主賢栄」の銘が記録されている。

 住吉町一〇−一〇にある安養寺には、板碑型上部の欠けた次の庚申塔がある。
  9 延宝5 板碑型 上欠・三猿                 81×43
 9は、中央に「奉造立庚申供養」とあり、その下左右に「所願」と「成就」の二行、右端の枠に「延宝五丁巳年 敬」、左枠に「六月十五日 白」、三猿(像高16・)の下に山村長兵衛など六人の施主銘がある。この寺の参道で昼食にする。

 月桂寺(河田町二−五)には茶室の庭に文字庚申塔があるが、立入禁止で門の外から境内をみるだけである。続いて訪ねた来迎寺(喜久井町四六)の境内には
  10 延宝4 板碑型 日月・二鶏・三猿             137×61
がみられる。上部に日月、中央に「奉待庚申現當二世悉地成就處」、下部左右に「同行」と「二十四人」、三猿(像高19・)の下に一一人と一二人の二段の施主銘、その下に「願主」と「敬白」があり、その間に一人の施主銘を刻む。右端の枠には「武州湯原郡牛込馬場下町」、左枠には「延宝四年丙辰九月十六日」とある。地銘の「湯原郡」から新宿区の指定文化財になっている。山門前には
   新宿区指定有形民俗文化財
   来迎寺の庚申塔
                    所 在 地 新宿区喜久井町四十六番地
                    指定年月日 昭和五十九年七月六日
延宝四年(一六七六)に造立された板碑型の庚申塔である。
石質は極めて固い玄武岩で、高さ一二〇センチ、上部左右に日月を配し、中央岩座に三猿、下部に対面した雌雄の鶏が浮彫され、江戸時代前半の庚申塔の特色を示している。
また向かって右側に「武州湯原郡牛込馬場下町」の陰刻があり、江戸時代になってから中世当時の古地名を記した史料として極めて価値が高い。
           平成三年十一月               東京都新宿区教育委員会

と記す説明板がたっている。

 ここまでのコースは、どこをどのようにと通ってきたのかよくわからなかったが、夏目坂を下って早稲田通りに出るとわかる。庚申懇話会編の『石仏の旅 東日本編』(雄山閣出版 昭和五十一年刊)では、これから廻る観音寺(一五八〜九頁)や亮朝院(一五七〜八頁)について書いている。

 西早稲田に入って、先ず放生寺(西早稲田二−一)を訪ねる。この寺にある昭和六十二年の三面馬頭に興味がある。もう一つ興味があったのは、トイレに「ウーン 烏枢瑟摩明王」と記す位牌が祀ってあることである。このような位牌の例は初めてである。四月二十三日(日)の庚申懇話会四月例会で私が青梅市内を案内した時には、根ケ布一丁目にある天寧寺(曹洞宗)の東司(便所)に祀る烏枢沙摩明王坐像をみたのを思い出す。

 放生寺と地続きにある穴八幡(西早稲田二−一−一)には、四基の庚申塔があるが、以前、庚申塔のあった場所には社殿が建って移動されている。何故か庚申塔をみることはできない。ここでは、布袋の水鉢をみるだけである。

 この神社に近い大安楽寺墓地(西早稲田二−一)には、二基の庚申塔がみられる。予定のコースには入っていなかったが寄る。通りから墓地に通じる細い道に
 11 享保9 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿         76×31×20
  12 年不明 柱状型 三猿「ウーン」               52×23×15 の二基がたっている。
 11は、頂部に「ウーン」の種子、中央に剣人六手の青面金剛(像高36・)を主尊とし、下部に三猿(像高9・)がみられる。右側面には「享保九甲辰年庚申日」、左側面には「諸願成就所 施主 稲垣氏」とある。
 12は、上部に三猿(像高14・)がある塔で、「ウーン」の種子の下に六人の施主銘を刻む。左側面に「庚戌十月廾四日 □□ 施主」とある。この塔に該当する「庚戌」は、寛文十年・享保十五年・寛政二年・嘉永三年であろう。塔型が柱状型で、しかも上部に三猿を浮き彫りにする特徴からみると、享保十五年の造立と推定される。

 次いで龍泉寺(西早稲田一−一−一二)にある
  13 元禄2 光背型 日月・青面金剛・二鶏・三猿         78×28
をみる。上部に日月、中央に剣索六手の青面金剛(像高36・)、その下に二鶏と三猿(像高15・)が浮き彫りされる。青面金剛の上方左手は、人身ではなくて首を持っている。像の右には「諸願」、左に年銘と施主銘の「元禄二己巳四月十八日 柄本源五右衛門」を刻む。この塔をみていると、近所の蕎麦屋の奥さんがきていろいろと話をする中で、先々代が夏目家に天麩羅蕎麦を配達したという。

 次に訪ねたのが宝泉寺(西早稲田一−一−二)には
  14 延宝8 板駒型 「カンマン 奉待庚申現世安穏…」      81×37
がみられる。頂部の「カンマン」の種子に続けて「奉待庚申」、その左右に「現世安穏受福楽」と「来将無為速成佛」の銘、下部に三猿(像高17・)の浮き彫りがみられる。猿の下に年銘の「延宝八」と「申正月」の二行がある。
 続いて観音寺(西早稲田一−七−一)を訪ねる。参道に石佛が並び、その中には、次の庚申塔二基が建っている。

  15 寛文4 光背型 地蔵「奉侍庚申三年一座為逆修佛果菩提」  102×47
  16 寛文7 光背型 聖観音「奉侍庚申供養現世伍諸為佛果菩提也」 86×40
 15は、地蔵(像高73・)を主尊とした庚申塔、像の右の「奉侍庚申三年一座為逆修佛果菩提 敬」が庚申塔であることを示している。頂部に「バン」種子、像の左には、年銘の「寛文四年甲辰三月吉日 武州豊嶋郡戸塚村 白」とある。下部には八人の施主銘を刻む。像の足元には「為父母」が左右に各四行ずつ彫られている。これは、施主八人のそれぞれの父母を指しているのだろう。

 16は、聖観音(像高74・)主尊の庚申塔、像の右にある「奉侍庚申供養現世伍諸為佛果菩提也」の銘文で明らかである。像の左に「寛文七丁未年十二月五日 武州豊嶋郡牛込戸塚村」、像の足元には右に「為道西」など、左に「為浄□」などの銘を刻む。15も16も「奉待」ではなくて「奉侍」となっている。

 先述の『石仏の旅 東日本編』には、この庚申塔にふれて早稲田大学の正門から近い所に真言宗の観音寺(新宿区西早稲田一丁目七番)がある。境内に入ると、右手に聖観音と如意輪観音石仏墓標を主体とした無縁塔がある。左手にはいつも自動車が駐車していて真正面からゆっくり見られないのが残念であるが、手前(入口)からから寛文七年(一六六七)の聖観音主尊庚申塔、次いで年不明の聖観音立像、後で述べる弁才天、寛文四年(一六六四)の地蔵主尊の庚申塔、元禄十二年(一六九九)の聖観音墓標が並んでいる。(一五八頁)と書いた。執筆当時と比べ、寺の本堂が建て替わり、奥にあった恵比須・大黒が入口に出てきて、辺
りの光景も以前とは変わっている。今回は、石佛の前に車が駐車してないから正面から写せる。

 亮朝院(西早稲田三−六−二四)には、境内に宝永二年の仁王があることで知られる。墓地には、帝釈天主銘の次の塔がある。
  17 享保10 柱状型 「奉勧請南無帝釋天王」           68×33×21
 この塔は、正面に「奉勧請菜夢帝釋天王」と下部に横書きの「敬白」、右側面に「干時享保乙巳天」、左側面に「三月二十二庚申日」とある。裏面には、上部に横書きで「眞心」、中央に縦書きで施主銘が多数みられ、下部に「講中現當」と「二世安楽」の二行の祈願銘が刻まれている。
先の『石仏の旅 東日本編』にはこの塔を仁王の背後にある堂の前には、享保十年(一七二五)三月二十二日の庚申日造立の「奉勧請南無帝釋天王」と刻んだ角柱塔がある。日蓮宗では帝釈天に対する信仰が厚く、葛飾区柴又の題経寺(日蓮宗)が柴又帝釈天として古くから知られているのも、日蓮宗と帝釈天との関係を物語る一例である。柴又帝釈天の御影を基に浮彫り像を刻んだのが、練馬区関町本法寺の明治四十四年党や文京区向丘長元寺の年不明塔である。(一五八頁)
と記した。当時、堂前にあった塔が墓地に移されたことがうかがえる。

 豊島区にある山吹の里の碑は省略して、源兵衛共同墓地(西早稲田三−二四)を訪ね、次の笠付の珍しい円柱型をみる。
  18 延宝3 笠付型 日月「奉供養庚申二世安楽處」三猿      84×33×29
 この塔は上部に日月、中央に「奉供養庚申二世安楽處」の主銘、下部に四角く枠を作って三猿(像高14・)を浮き彫りする。右側に「願主 牛込長三郎」など四人、左側に「醍醐清兵衛」など四人の施主銘がある。

 早稲田通りに出て、通り沿いの西早稲田二−一八にある子育地蔵堂には、木祠の中に
19 寛文12 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     108×43×32 がある。上部には日月、中央に剣人六手の青面金剛(像高12・)、足下に一鬼、下部に三猿(像高13・)と二鶏を浮き彫りする。像の左右に「寛文十二年」「壬子九月十二日」の造立年銘、下部に一一人の施主銘がある。

 西早稲田から高田馬場に入り、諏訪神社(高田馬場一−一二)を訪ねる。境内には、天和二年の塞神塔がみられるが、中央部を彫り窪めて「塞神三柱」とした改刻塔である。前面下部の蓮台もわからぬように落とし、わずかに側面に蓮華が残る。『日本の石仏』第八六号の「多摩地方の塞神」で改刻塔であると記した(一一頁)。その塔の前に
  20 貞享5 光背型 日月「奉待庚申供為二世安楽也」三猿     〓×39
がある。上部に日月、下部に三猿(像高20・)を配し、中央に主銘の「奉待庚申供為二世安楽也」、その左右に「干時貞享五年(異体字)」「戊辰九月廾七日」、三猿の下に九人の施主銘がある。

 玄国寺(高田馬場一−一二−一〇)の本堂の前には、次の庚申塔三基がある。
 21 延宝3 光背型 「奉待庚申諸願成就攸」三猿         52×29
  22 宝永7 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      74×35×25
  23 寛文5 笠付型 「奉待庚申諸願成就處」三猿         83×28×28
 21は、上部に「ア タラーク ウーン」の三種子、中央に「奉待庚申諸願成就攸」の主銘、その左右に「延宝三乙夘年 敬」「八月四日 白」の年銘、右は死に「久保田藤右衛門」の施主銘、下部に三猿(像高13・)がある。
 22は、合掌六手の青面金剛(像高37・)を主尊とし、下部に三猿(像高9・)がみられる。右側面に「奉修庚申御寳前」と施主銘、左側面に「宝永七庚寅天二月二十三日」と施主銘が刻まれている。
 23は、塔型が異なるが21と類似した銘文である。頂部に日月、上部に「ア アク ウーン」の三種子、中央に「奉待庚申諸願成就處」の主銘、その左右に「寛文五年乙巳 敬」「十二月八日 白」の年銘、下部に三猿(像高17・)がある。21は、23を模して造立されたものであろう。

 今回の最後は、現在、地下鉄にポスターが掲示されているという田植地蔵堂である。境内にある無縁塔に混じって次の塔がある。
  24 年不明 光背型 日月・青面金剛               60×28
 24は、合掌六手の青面金剛(像高31・)を主尊とする。八王子などではみられる上方二手に日月を捧げる、万歳型青面金剛である。銘文はみられず、台石もない。
 ここを最後にJR高田馬場駅に向かい、帰途につく。
          〔初出〕『平成十二年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成十二年刊)所収
淀橋庚申堂

 平成十三年二月三日(土曜日)は節分、新宿区百人町で日本石仏協会の第九八回石仏談話室が催される。それに先立って、かねてから懸案だった淀橋庚申堂を訪ねる。
 平成十一年十二月二十五日(日曜日)の午前九時三〇分から放映された日本テレビの三〇分番組「ぶらり途中下車」では、都営地下鉄大江戸線を取り上げた。その番組では、リポーターの阿藤海さんが地下鉄に乗って最初に下車したのが「西新宿五丁目」駅。ここでは、「いなり寿し 味の仲野」を訪ねている。この場面で背景に庚申堂が写しだされた。それが印象に残っていて、庚申堂があるなら庚申塔があるのではないか、と考えた。
 ところが放映当時は、新宿五丁目と勘違いしていた。たまたまインターネットで、リンクして日本テレビのホームページをみる機会があり、「ぶらり途中下車」の画面で西新宿五丁目であり、「味の仲野」が一〇番二三号であるることがわかった。今回の石仏談話室への出席を機会に、家を早めにて淀橋庚申堂を訪ねたわけである。

 ヨドバシカメラでFDラベルなどを買い、熊野神社に行って境内の太田南畆の水鉢などをみる。その後で熊野神社前交差点を渡って左折、方南町方向に進んで牛丼の松屋横の路地をはいる。道なりに真っ直ぐに行くと、やがて左手に淀橋庚申堂がみえてくる。その所在地は、西新宿五丁目二三番五号である。
 庚申堂は木造で、正面上部に「庚申堂」の額(縦が48・で横が102・)があり、その下に紫地に白で「奉納」と染め抜いた幕がさがっている。平成十二年八月吉日(実際の奉納は九月 後述)に「庚申講」の名で、近くに済む谷本さんが寄贈している。両端には赤地に白枠つきの墨で「庚申堂」と書かれた提灯(直径が三六・で長さ七五・)がさげられ、堂内には庚申塔がみられる。中央にあるのが
 1 昭和29 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿・蓮華      96×46×25
である。主尊は、合掌六手像(像高56・)で鬼の上に立つ。下部に三猿(像高14・)が浮き彫りされ、中央の不言猿が正面を向き、左の不聞猿と右の不見猿が向かい合う。三猿の上の両端には、蓮華が浮き彫りされるのが珍しい。通常、板碑型塔では蓮華が下部にみられ、笠付型塔では両側面に刻まれる。右側面には「淀橋庚申講世話人一同・昭和二十九年九月建之」の銘文が刻まれている。その左横にある二折した石塔(52×34・)は庚申塔かも知れないが確認できない。右端には
  2 年不明 光背型 一猿                    59×45
がある。といっても、はっきり猿(像高33・)とわかる訳ではない。これは、今はみる影もなくなった円照寺(北新宿三丁目一六番)の無縁墓地にある寛文五年塔の合掌一猿系統の猿である。
武田久吉博士が『路傍の石仏』(第一法規 昭和四十六年刊)で紹介した成子坂・子育地蔵の背後にあった延宝五年塔や延宝八年塔の着衣載冠の御幣を持つ一猿立像とは異なる。
 山中恭古翁の『恭古随筆』(温古書屋 昭和三年刊)には、円照寺の塔の所在を「柏木村鎧大明神入口の近くにある」(二二一頁)とし、「淀橋天神社向ふ地蔵堂」に延宝八年の御弊持ち一猿塔と青面金剛の天和二年塔の二基(二二三頁)を加えて三基の図を載せている。
武田博士は、延宝八年の御弊持ち一猿塔について
    単立の猿を彫る庚申塔で意匠の変わったのは、東京淀橋成子坂の、子育地蔵の背後あった(写真三二二)。
   ここは区画整理の際に、この付近にあった庚申塔や類似のものを、十余基ほど
   集めて、狭い空地に押し込んであったので、窮屈な場所ながら、面白いものがたくさんあった
   のに、戦災で壊滅してしまった。(二三五頁)
    そこにあった一つに、着衣載冠の一疋の猿が、両手で、一つの幣束をかついで立つ姿を彫っ
   てあった。上部左右に日と月とが陰刻され、その下に「庚申」、さらにその下に「延宝八天
   庚申九月四日」と、そして足下に施主と刻んで、「中村小右□門 秋山与右□門 中川源右□
   門 田中徳兵衛 石川長右□門 根本九兵衛 植村多五郎 山田又兵衛 鶴川源三郎 十友(
   ?)」と一〇人の姓名が彫ってあり、高さ六一センチ、幅三二センチ。(二三六頁)

と報告され、延宝八年塔の写真を二三七頁に載せている。
更にもう一基つけ加えて
 同所には、なおこれと同工異曲で、中央に「奉供養庚申」と書き、その下に、幣束を手にし
   た、着衣載冠の猿が立ち、上部左右には、雲上の日月を彫り、左と右に「延宝五丁巳年十一月
   十一日」、下に施主の姓名を彫んだものがあった。高さ九一センチ、幅四〇センチ。(二三六
   頁)

の記載がみられる。

この両塔については、清水長輝さんの『庚申塔の研究』(大日洞 昭和三十四年刊/名著出版 昭和六十三年復刻版発行)の一四九〜五〇頁に載っている。
 このように成子坂の一猿塔二基が古くから知られていたのに対して、何故か淀橋庚申堂の庚申塔が知られていなかった。というよりは、無視されていたといったほうがよいだろう。その証拠にこれまで私の知る限りでは、この淀橋庚申堂の庚申塔について書かれたものをみていない。
 この堂に掲げられている「庚申待の由来」の木札には、「当所の庚申塔は昭和六年の調査では三基の塔には寛文四年(一六六四年)などの文字が刻まれてありました」と記されている。誰が調査したものか、またその内容も不明であるので、現在みられる一猿塔が寛文四年であったかどうかは一切わからない。円照寺の塔が寛文五年であるから、寛文四年塔の可能性も捨てきれない。

 現在もこの堂に信仰する方があるとみえて、中央の庚申塔の前には、台の上に水をいれた三個のコップが供えられ、その両脇に榊がおかれている。堂の右手には、総高一一八・の燈籠があって、竿石に「昭和五十二年/志主 海老原雪再」とある。その脇には、正面に「奉納」、裏面に「庚申講世話人一同 昭和三十五年一月十五日」名の手洗鉢がおかれいる。また、赤地に「猿田彦大神 庚申講」と白抜きのノボリ(幅が三三・で長さが八八・)がみられる。堂の右側の道路に面して、地蔵石佛が四体おかれている。
 この堂内の塔を調べていると、お参りにきた方がある。紫地の幕を奉納された谷本さん(一〇番二三号)のおばあちゃん(大正六年生まれ)である。お参りが終わってから、いろいろとお話をきく。
昔は堂の隣にある家を貸して、その家賃で堂の維持費としていた。谷本家では四年毎に庚申堂に幕を奉納しているが、今回は一年早く九月に奉納した。幕に九月というのは「苦」に通じて嫌なので、末広がりの「八月」にしたという。お堂の管理は、前のパン屋さんのエビハラベーカリー(電話 三三七三−五二三一)である。この辺りは商店街で、昔は谷本さんでは洋服を売っていたそうである。
 今回はカメラを持たずにきたので、再訪の節に庚申堂や庚申塔を写したい。
                  〔初出〕『庚申』一一二号(庚申懇話会 平成13年刊)所収

淀橋庚申堂再訪

 平成十三年四月七日(土曜日)は、新宿・百人町の水族館で石仏談話室の開かれる。前回の二月三日(節分 土曜日)と同様に、午後二時からの談話室が始まる前に淀橋庚申堂(新宿区西新宿五丁目二三番五号)を再訪する。二月の時には、カメラを持たずにきたので、今回は写真が目的である。

 朝早めに家をでて、新宿駅からヨドバシカメラに寄ったところまで同じだが、前回と同じ道を歩くのも面白くないので、コースを変えて淀橋庚申堂に向かう。今度の道の方が近いような気がする。
 堂内はきれいに清掃され、水を入れたコップ三個が庚申塔の前に供えられている。中央には、昭和二十九年造立の青面金剛の刻像塔が安置されている。駒型塔の上部には日月、中央には合掌六手の青面金剛、その足下には一鬼、その鬼の両横には蓮華、下部の枠の中には三猿が浮き彫りされている。
三猿の中央が不言猿で正面を向き、左の不聞猿と右の不見猿が向かい合う三猿形式である。右側面には「淀橋庚申講世話人一同/昭和二十九年九月建之」の銘文が刻まれている。
 庚申塔の右横にある刻像塔は、はっきり猿(像高33・)とわかる訳ではないが、円照寺(北新宿三丁目一六番)の無縁墓地にある寛文五年塔の合掌一猿系統の猿と思われる。左横にある二折した石塔も庚申塔かも知れないが、現状では庚申塔と確認できない。
 堂にある「庚申待の由来」には、次のように
    庚申堂は庚申の日、人々集まりて三猿を祭り/一切の邪念を払う処で、庚申塚は三猿を刻み
   /或るは文字を鐫りて、萬人の交通安全を祈り/また里道の目標としたものです。
   俗間では道祖神(猿田彦命)と混同されています/当所の庚申塚は昭和六年の調べでは三基の
   石碑/は寛文四年(西記一六六二年)等の文字が刻ま/れてありましたが当今ではその文字も
   磨滅して/判読しかねる程で、まことに遺憾に存じます。
    猿田彦のしぐさは人の泪のつみ重ねであり/とぼけた猿の面ざしにはほっとする救いがあっ
   た/通りすがりの旅人がふと立ちどまり手をあわせて/旅のつかれをほっと吐き出すところで
   あった。
           昭和五十二年一月吉日記                 淀橋庚申塚

と、木札に記されている。
 前回ここを訪ねた時にお参りにきた谷本さんのおばあちゃんから、いろいろとお話を聞いたが、今回たまたま撮影中に話を交わしたご老人が、谷本さんの旦那さんであったのは不思議なご縁である。
 この谷本家では、オリンピックの年に紫地の幕を奉納されるという。堂内の花は、近くの花屋さんが奉納しているし、エビハラベーカリーさんも掃除などしているそうである。昔は、この庚申堂を神田の親戚の人も知っている位に有名であった。と、瞬時の立ち話となった。
 谷本さんのお話からも現在は庚申講こそないが、いまでも近所の方々の信仰に守られている様子がうかがえる。これまで、どうしてこの庚申堂やここにある庚申塔が一般に知られていなかったのか、不思議な気がする。
     (注) 「淀橋庚申堂」は『庚申』第一一二号(庚申懇話会 平成13年刊)に所収
           〔初出〕『平成十三年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成13年刊)所収
新宿区の庚申塔

 平成十三年七月十九日(木曜日)は、台東区の浅草公会堂で開催されている「第二二回石仏・道祖神写真展」の帰り道に、鈴木俊夫さんから『新宿区の文化財 石造品編』(同館 平成12年刊)の発行を聞いていたから、入手するために新宿歴史博物館(新宿区三栄町二二)を訪ねる。浅草駅から営団地下鉄銀座線に乗車、赤坂見附駅で丸の内線に乗り換えて四谷三丁目駅で下車する。徒歩八分で博物館に着く。

 受付で『ガイドブック 新宿区の文化財 石造品編』(以下『ガイドブック』と略称する)を購入してから、階下の常設展示場(地下一階)に行き、展示物を見学する。小型の板碑が四基(暦応三年・永享十三年・文明十三年・同五年)が展示され、江戸時代の屏風絵に特に興味を持った。というのは、絵の中に「庚申塚」が描かれていたから。その他にも「咳止め地蔵」や「かんかん地蔵」「金塚
地蔵」「成子地蔵」などの丸彫りの地蔵石佛がみられる。

 庚申塚や地蔵などを数字で指定すると、その部分の拡大図が前に置かれた画面に表示される。庚申塚は二五番で、位置的に現在の淀橋庚申堂の辺りである。中央に丸彫りの地蔵らしい石佛があり、その両脇に石塔が描かれている。この塔が庚申塔と思われる。それ以上の詳しいことはわからないが淀橋庚申堂の辺りが庚申塚であったことがわかる。

 家に帰ってから、入手した『新宿区の文化財 石造品編』を分析してみる。先ず『ガイドブック』に記載された庚申塔を一覧表にまとめ、それを編年順に並び換えた。その上で鈴木さんの『東京都の庚申塔 新宿区』(私家版 平成12年刊)と比較し、さらに私の庚申塔データ・ーベースと照合した上で、再度、『ガイドブック』の順に所在地別に並び換えて次のように作表した。

   新宿区の庚申塔
   ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   元 号 特徴               塔 形 所在地          頁数
   ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   寛文4 日月・二猿(注1)        光背型 筑土八幡町2-1筑土八幡  18
   延宝4 日月「奉待庚申現當…」三猿    板碑型 喜久井町46 来迎寺    36
   延宝5 (上欠)「庚申供養所願成就」三猿 板碑型 住吉町10−10 安養寺   39
   貞享3 日月・青面金剛・三猿       柱状型 富久町4−5 自証院   40
   年不明 日月・青面金剛・一鬼      (笠付型)富久町4−5 自証院   40
   年不明 「庚申講供養寶塔」三猿     (笠付型)富久町4−5 自証院   41
   年不明 日月「ウーン奉待庚申」三猿(注2)  板駒型 西早稲田1−1 宝泉院  45
   年不明 日月・青面金剛・二鶏・三猿(注3)光背型 西早稲田1−1 竜泉院  46
   大正8 日月・青面金剛・一鬼・三猿    柱状型 西早稲田1−5 大日堂前 △
   寛文4 地蔵「奉待庚申三年一座…」    光背型 西早稲田1−7 観音寺  47
   寛文7 聖観音「奉待庚申供養…」     光背型 西早稲田1−7 観音寺  48
   貞享4 青面金剛坐像(注4)       光背型 西早稲田1−7 観音寺  48
   貞享4 「奉待庚申天子」三猿(注5)   板駒型 西早稲田2−1 穴八幡  △
   元禄6 「ヒリ 奉待庚申天子」三猿  笠付型 西早稲田2−1 穴八幡  △
   昭和33 青面金剛・一鬼          丸 彫 西早稲田2−1 穴八幡  △
   年不明 日月・青面金剛・一鬼・三猿    駒 型 西早稲田2−1 穴八幡  △
   享保9 日月・青面金剛・一鬼・三猿    駒 型 西早稲田2−1 大安楽寺墓△
   享保15 三猿「ウーン」        柱状型 西早稲田2−1 大安楽寺墓△
   寛文13 日月・青面金剛・三猿(注6)   笠付型 西早稲田2−18 子育地蔵 51
   (参考)享保10 「奉勧請南無帝釈天王」  柱状型 西早稲田3−16 亮朝院墓地△
   延宝3 日月「奉供養庚申二世安楽處」三猿 笠付型 西早稲田3−24旧夾山寺墓地△
   貞享3 日月「奉待庚申…」三猿(注7)  板駒型 高田馬場1−12 諏訪神社 57
   寛文5 日月「(種子)奉待庚申…」三猿  笠付型 高田馬場1−13 玄国寺  59
  延宝3 「奉待庚申諸願成就攸」三猿    光背型 高田馬場1−12 玄国寺  59
   宝永7 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿 笠付型 高田馬場1−13 玄国寺  60
   年不明 日月・青面金剛・三猿(万歳型)  光背型 高田馬場1−13 玄国寺  60
   寛文6 「奉待庚申諸願成就所」三猿    板碑型 高田馬場3−36 観音寺  62
   正徳4 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿 笠付型 高田馬場3−36 観音寺  62
   享保2 日月・青面金剛・三猿       光背型 若葉2−2 東福院    70
   年不明 (上欠)(青面金剛)       不 明 若葉2−2 東福院    △
   延宝8 日月・青面金剛・御幣一猿     光背型 若葉2−8 愛染院    73
   元禄2 日月・青面金剛・三猿       光背型 若葉2−8 愛染院    74
   天和2 三猿               光背型 須賀町10 宗福寺     78
   年不明 「南無阿弥陀佛」三猿       光背型 四谷4−34 東長寺    88
   年不明 日月・青面金剛・三猿       板駒型 新宿4−3 天龍寺   106
   年不明 日月・青面金剛・三猿       柱状型 新宿4−3 天龍寺   106
   寛文8 三面三猿             柱状型 新宿6−20 専念寺   110
   元禄11 日月「奉寄□庚申」三猿      駒 型 新宿7−11 永福寺   116
   昭和29 日月・青面金剛・一鬼・三猿・蓮華 駒 型 西新宿5−23 淀橋庚申堂 ◎
   寛文12 来迎弥陀「奉供養庚申講…」三猿  光背型 大久保1−16 全龍寺  119
   年不明 (青面金剛)           柱状型 大久保1−16 全龍寺  120
   年不明 三猿               笠付型 北新宿3−1 金塚地蔵 125
   享保6 狛犬一対「奉造立庚申供養」    丸 彫 北新宿3−16 鎧神社  126
   寛文5 合掌一猿「(種々)奉信敬庚申石塔…」光背型 北新宿3−23円照寺(注8)△
   正保4 「奉造立庚申待 大願成就」   宝篋印塔 上落合1−26 月見岡八幡139
   寛文8 地蔵「奉納庚申供養」       光背型 上落合3−4 最勝寺   △
   寛政9 日月「庚申神」二鶏・三猿     駒 型 上落合3−4 最勝寺   △
   慶応3 日月・青面金剛・一鬼・二鶏    駒 型 上落合3−4 最勝寺  142
   文化13 日月・青面金剛・一鬼・三猿    駒 型 下落合2−8      143
   宝永2 日月・青面金剛一鬼二鶏三猿二童子 光背型 下落合4−8 薬王院  146
   宝暦8 日月「(種々)庚申青面金剛塔」三猿 板駒型 中井2−29 御霊神社 148
   宝暦11 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿 柱状型 西落合1−11 自性院  150
   ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 表中の無印は、新宿歴史博物館の『ガイドブック』(同館 平成12年刊)を表し、△印が鈴木さん
の『東京都の庚申塔 新宿区』(私家版 平成12年刊)、◎印が私の「淀橋庚申堂」『庚申』第一一
二号(庚申懇話会 平成13年刊)を示している。前記の『ガイドブック』では、江戸期を対象として
明治以後は特別の場合を除いて掲載していない。
    (注1)この塔については、庚申塔であるかが問題になっている。三輪善之助翁の『庚申待
        と庚申塔』(葦牙書房 昭和10年刊)や武田久吉博士の『路傍の石仏』(第一法規
         昭和46年刊)は庚申塔とみなしているが、清水長輝さんは庚申塔とみてはいない
        (『庚申塔の研究』大日洞 昭和34年刊)。私も清水説をとるが、『ガイドブック
        』の記載によって、ここでは表に掲載した。なお、この塔は改刻と思われるので、
        『日本の石仏』第九六号(日本石仏協会 平成12年刊)に「神社石造物の改刻−都
        内三社の場合−」を発表している。
    (注2)『ガイドブック』では、この塔が年不明になっているが、私の調査では延宝八年で
        ある。
    (注3)注1と同様に、私の調査では元禄二年である。
    (注4)この像は青面金剛坐像ではなく、私の調査では弁才天である。詳しくは『石仏の旅
         東日本編』(雄山閣出版 昭和51年刊)一五八〜九頁参照していただきたい。
    (注5)かつては存在していたことは間違いないが穴八幡の四基は、平成12年に神社の許可
        がおりなかったために、現存を確認していない。
    (注6)私の調査では、寛文十二年である。
    (注7)私の調査では、貞享五年である。
    (注8)現在の塔をみても戦災で焼損しているので、無縁墓地に並んだ状態では庚申塔と気
        がつかないだろう。『恭古随筆』(温古書屋 昭和3年刊)にはスケッチがみられ
        る。
 参考までに、〔文献や調査報告書にあって現存しない庚申塔〕は次の通りである。
   ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   元 号 特徴               塔 形 所在地          出典
   ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   万治2 日月「願以此功徳普及…」三猿   板碑型 西早稲田2−1 穴八幡  1
   寛文12 不聞猿「奉待庚申現当二世安楽祈所」燈 籠 旧角筈3 長楽寺(注1) 2
   延宝5 日月「奉供養庚申」御幣猿     光背型 旧・柏木1丁目 子育地蔵 3
   延宝8 日月・御幣猿           光背型 旧・柏木1丁目 子育地蔵 3
   天和2 日月・青面金剛「庚申供養…」   光背型 旧・柏木1丁目 子育地蔵 3
   元禄11 青面金剛             不 明 旧・柏木1丁目 子育地蔵 4
   元禄2 「奉造立庚申供養石塔一…」    駒 型 旧・柏木 鎧神社付近   3
   元禄5 「奉造立燈籠庚申供養成就所」   燈 籠 旧・柏木 鎧神社     3
   年不明 青面金剛・二鶏・三猿       不 明 旧・東大久保342    3
   延宝4 「奉修庚待二世安楽」三猿     板碑型 旧・東大久保 大久山   3
   元禄12 日月「奉供養庚申一座塔」三猿   板駒型 旧・東大久保 西向天神  3
   宝永5 日月・青面金剛・三猿「奉納庚申供養」板駒型 旧・東大久保 西向天神 3
   享保7 (不明)             不 明 旧・西大久保188    3
   享保5 「奉造立庚申供養」一鶏・一猿   燈 籠 旧・西大久保 植木屋   3
   ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 表中の「出典」欄の1は新宿区教育委員会『石仏と石造品』(同会 昭和56年刊)を指し、2が清水長輝『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)、3が山中共古『共古随筆』(温古書屋 昭和3年刊)、4が武田久吉『路傍の石仏』(第一法規 昭和46年刊)を示している。
 (注1)この長楽寺は、日野市程久保に移転している。この寺の門前には、元禄二年と三年の日月
    ・青面金剛・三猿を浮彫りする板駒型がみられが、境内や墓地を探しても寛文十二年の燈籠
    は見つからず、行方不明である。
 現在、手元にある参考文献と調査資料によって前記の表を作成した。これが私のわかる範囲の新宿区内の庚申塔一覧表である。なお区内の失われた庚申塔については、『共古随筆』に図解が載っているし、『庚申塔の研究』や『路傍の石仏』に写真が掲げられているので、往時の庚申塔の状況がうかがえる。
           〔初出〕『平成十三年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成13年刊)所収

 

都内改刻塔巡り

 平成十二年七月六日(木曜日)は、文京・新宿・渋谷の都内三区にある改刻塔を巡る。
 六月末に受け取った日本石仏協会の会誌『日本の石仏』第九四号には、第九六号「神社の石造物」特集の原稿募集が九四頁に載っていた。そこで「神社石造物の改刻──牛天神と諏訪神社の場合──」を書こうと考えて、先に発表した『野仏』第三一集(多摩石仏の会 平成十二年刊)の「牛天神の庚申塔」に、他の改刻塔を加えて構想を練った。七月一日(土曜日)には、一日かけて原稿を書き上げた。しかし原稿は九月末日が締切りなので、時間的な余裕がまだ充分ある。第一稿には心もとない点がみられたから、もう一度これらの塔をじっくりみてから決定稿をまとめようと、改めて改刻塔を巡りを企てた。
   (文京区・牛天神の部分は省略する)

牛天神から新宿区筑土八幡町二番一号の筑土八幡社に向かう。この神社も裏手から境内に入る。ここにある二猿塔も、各書に紹介されて著名である。ただこの塔が庚申塔であるかどうかの判定については、研究者の間で意見がわかれている。
  2 寛文4 光背型 日月・二猿                160×67がそれで、立って右手で桃の枝を持っている牡猿(像高86・)とうずくまって桃を持って座る猿(像高56・)に桃の木を配している。牡猿は性器をさらしてはっきりしているが、他の猿は足を揃えた横向きで雌雄が不明である。
 上部には日月・瑞雲がみられるが、これと塔上部の二七・は旧来の部分を残したようにみえる。その下の猿や桃のバックは梨地で、日月のバックとは彫り方が異なる。この点が作為的で、いかにも改刻を思わせる。
 この塔の塔型や法量からみて、寛文期の造立はうなずける。従って闇雲に両側面に「干時(異体字)寛文四甲辰年」「閏五月廾九天」と刻んだのではなく、旧来の塔の造立年銘を刻んだ可能性が高い。しかし・桃と猿の関係は元禄以後、・地肌を梨地にする手法は江戸末期、・光背型塔の荒削りの側面に年銘を刻まない、などと清水長輝さんが挙げるような理由から、江戸末期の推定は妥当である。恐らく上部の日月と基部の施主銘を残して、塔の中央部分を現在の二猿と桃の木の図に改刻し、旧来の年銘を残したものと想像される。
 帰りは石段をおりたが、途中の右手にこの塔の解説板がみられ、これには区登録の文化財(建築物)の石造鳥居の解説の後に
   新宿区指定有形民俗文化財
    庚  申  塔      ※ この石段を上って右側にあります。
                 指定日 平成九年三月七日
    寛文四年(一六六四)に奉納された舟型(光背型)の庚申塔である。高さ一八六センチ。最
   上部に日月、中央部には一対の雌雄の猿と桃の木を配する。左側の牡猿は立ち上がり実の付い
   た桃の枝を手折っているのに対し、左側の牝猿はうづくまり桃の実を持っている。
    二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。
            平成九年五月                  新宿区教育委員会と記され、この塔を写した写真を掲げている。

 JR飯田橋駅に戻って中央線・山手線を乗り継いでJR高田馬場駅で下車、新宿区高田馬場一丁目一二番六号の諏訪神社を訪ねる。境内には
  3 貞享5 光背型 日月「奉待庚申供為二世安楽也」三猿     91×39がある。上部には日月、下部には像高20・の三猿を配す。中央には「奉待庚申供為二世安楽也」の主銘、その左右には「干時貞享五年(異体字)」「戊辰九月廾七日」の年銘を記し、三猿の下には九人の施主銘が刻まれている。

 今回はこの塔が目的ではなくて、3の庚申塔に前方にある
  4 天和2 光背型 日月「塞神三柱」             (計測忘れ)が調査の対象である。
 庚申塔は写真だけで済ませて、塞神塔を五〇分ほど時間を掛けて観察する。ここでもルーペが役立つ。頂部中央に刻まれた「奉造立地蔵菩薩」と「為二世安楽□□」の銘文を苦労して読む。□□の二字は「祈所」なのかもしれない。後で廻った渋谷・東福寺の地蔵庚申をみて、この塔が地蔵の立像──恐らくは宝珠と錫杖をとる延命地蔵と考えられる──を陽刻する塔ではなかったか、と推測した。そうならば、蓮台の上が端から塔身との幅が一〇・あってもおかしくない。
 この塔は、塔型や法量からみて天和二年の年銘が妥当である。現在の塔では、左端の半分より下に「天和二壬戌年三月吉祥日」の年銘が刻まれているが、先の筑土八幡社の寛文四年塔と同様に本来の年銘が消され、旧来の塔のものが後刻されたと考えられる。
 年銘の下にある「御手洗從□」の銘は、「塞神三柱」の主銘を書いた方ではないだろうか。現在のところこの人物について調べていないが、この神社の宮司など神道関係者と推測され、これが改刻の年代を明らかにする手掛かりになる、と考えられる。
 いずれにしても天和三年銘の「塞神三柱」塔は、基部の蓮葉模様を両側面に残しながら正面を削り取り、想像の域を出ないが、地蔵菩薩立像を削り落として「塞神三柱」の主銘とその両横に「諏訪上下大明神」「正八幡大明神」「天(以下欠失)」「稲荷大明神」の銘文を刻んだ改刻塔である。
   (渋谷区・東福寺と豊栄稲荷の部分は省略する)
ここの豊栄稲荷をを最後に、JR渋谷駅から帰途につく。
          〔初出〕『平成十二年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成十二年刊)所収
都内改刻塔再訪

 平成十二年七月十一日(火曜日)は、六日(木曜日)に巡った改刻塔を再訪する。現場では注意が銘文に集中していて、それ以外のことには眼がむかなかったから、先日の記録をまとめてみると、わからなかった疑問が浮かんでくる。今回は、前回とは逆に渋谷・東福寺〜高田馬場・諏訪神社〜筑土八幡町・筑土八幡神社〜春日・牛天神のコースで廻る。こうすれば光線状態も異なるから、前回とは違った面で発見があるかるかもしれないと考えたからでる。

  (渋谷区・東福寺の部部は省略する)
 次いでJR渋谷駅に戻って山手線外回りでJR高田馬場駅に出て、新宿区高田馬場一丁目一二番六号の諏訪神社を訪ねる。問題の改刻塔は、次の塔である。
  3 天和2 光背型 日月「塞神三柱」             154×66
今回も時間を掛けてこの塔を観察する。特に、頂部中央に刻まれた銘文に注意する。前回は「奉造立地蔵菩薩」と「為二世安楽□□」と読んだが、今回みたところ「カ奉造立地蔵菩薩」と「為二世安楽也」とほぼ同じ結果である。その横に「四□戌霜月」らしく読めるがはっきりしない。
 左端にある「天和二壬戌年三月吉祥日 奉崇御手洗從當社勧請」の中で、特に問題となるのは「御手洗從」の解釈である。これが人名ならば、その関係や年代が手掛かりになって、例えば宮司とか氏子総代などの神社関係者であるのか、江戸末期から明治初年の人物であれば、改刻の証明ともなる。
 この点が知りたいと思い、社務所を尋ねて村岡賢一宮司にお会いする。宮司は明治四十二年にこの地で生まれ、育った方である。記憶の限りでは御手洗姓に心当たりがないという。御手洗といえば、隣の玄国寺本堂裏にかつて御手洗と呼ばれる水たまりがあり、大正初年に埋められたそうである。

 境内には、天和二年塔の他にも次に二基がみられる。
4 貞享5 光背型 日月「奉待庚申供為二世安楽也」三猿     91×39
5 承応  板碑型 「キャカラバ 逆修菩提也」蓮華      139×524が神社にあるのは普通であるが、5は仏教的色彩の強い塔である。
この塔があるのだから、3が文字塔であるならば改刻されずにここに置かれた可能性が高い。しかし地蔵を浮き彫りした塔となると、寺に置くか、改刻してこの塔のように「塞神三柱」として現地に置くかだろう。頂部の「カ奉造立地蔵菩薩」の銘文から考えると、地蔵の立像──恐らくは宝珠と錫杖をとる延命地蔵と考えられる──を陽刻する塔ではなかったか、と推測するのが妥当かもしれない。そうならば、蓮台の上が端から塔身との幅が一〇・あってもおかしくない。
 左端の年銘は後刻と考えられるが、塔型や法量からみて天和二年の年銘が妥当である。後で廻る筑土八幡社の寛文四年塔と同様に本来の年銘が消され、旧来の塔のものが後刻された可能性が高い。
 いずれにしても天和三年銘の「塞神三柱」塔は、基部の蓮葉模様を両側面に残しながら正面を削り取り、想像の域を出ないが、地蔵菩薩立像を削り落として「塞神三柱」の主銘とその両横に「諏訪上下大明神」「正八幡大明神」「天(以下欠失)」「稲荷大明神」の銘文を刻んだ改刻塔と考える。

 諏訪神社からJR高田馬場駅に戻り、山手線と中央線緩行を乗り継いでJR飯田橋駅で下車、新宿区筑土八幡町二番一号の筑土八幡社に向かう。前回と逆コースで石段を上り、境内に入る。ここには次の塔がみられる。
  6 寛文4 光背型 日月・二猿                160×67
 猿や桃のバックは梨地で、日月のバックとは彫り方が異なる。それから考えると上部の日月・瑞雲を含む上方二七・の部分は、旧来の部分を残したようにみえる。しかし桃の実や立っている牡猿の出っ張りから想像すると、旧来の部分が残るには不自然とも思える。その点に疑問が残る。
 基部に刻まれた施主銘の「福田新左衛門」と「岩本嘉右衛門」の間には、凹みがみられる。この部分に「干時寛文四□□閏」とよめそうな字が刻まれている。この塔の塔型や法量からみて、寛文期の造立はうなずける。従って、闇雲に両側面に「〓寛文四甲辰年」「閏五月廾九天」と刻んだのではなく、旧来の塔の造立年銘を刻んだ可能性が高い。
   (文京区・牛天神の部部は省略する)

 六日と今回の二回で改刻塔の調査は終わった。現在では、これ以上の調査結果がでないだろう。これまで、これほど改刻に注意して銘文を読んだことはなかった。予測や推測も必要ではあるが、何といっても現物に当たることが重要である。疑問があれば、どこまでも追求する必要がある。今回の改刻塔巡りを通じて、その点を痛切に感じた。
          〔初出〕『平成十二年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成十二年刊)所収
第九七回石仏談話室

 平成十二年十二月二日(土曜部)は、二〇〇〇年最後となる石仏談話室に出席する。会場は、例によって新宿区百人町一丁目の水族館三階である。会場についたのが午後一時三〇分、すでに佐藤不二也さんなど数人が話し合っている。
 今回は、思いがけず春日部の中山正義さんがみえる。最近、作成された「千葉県延宝の庚申塔仮年表」とその中から青面金剛を抜き出した年表をいただき、千葉県沼南町片山の昭和庚申年塔の教示を受ける。

   (以下、栗田直次郎さんの発表部分を省略する)
 予定より短めに休憩を終えて、私の出番となる。四時から坂口さんから紹介の後で、今回の演題「神社石造物の改刻」について話す。最初に「改刻」と「追刻」の違いにふれてから、今回は双方向性と文献の現物紹介を中心にして話をすすめる旨を話す。個々の事例についての詳細は、今月末に発行される『日本の石仏』第九六号に発表する論考に譲り、そこでふれなかった事柄や裏話、投稿後の話を付け加えることにする。
 ここで「双方向性」でといったのは、話し手が一方的に話すのではではなく、話し手と聞き手がやりとしながら、たがいに質問や感想を述べあうのが談話室的であると考えたからである。なかなかこうした機会が少ないのではなかろうか。文献の現物紹介は、例えば『庚申』のように会に属した一部の人たちの間でしか知られていない雑誌などを現物でみていただきたかったのが理由である。
 双方向性については、参加された庚申懇話会メンバーの中山さんや佐藤さんが質問や補足で座を盛り上げていただいたので、和やかに話がすすめられた。二人以外では、おそらく庚申懇話会の会誌『庚申』を手にしたことはないどうろう。その意味でも、双方向性と文献の現物紹介が効果があったのではなかろうか。

 今回「神社石造物の改刻」を話すに当たって、次のようなレジメを用意した。
    日本石仏協会主催の写真展「石仏の魅力」が文京区春日・文京シビックセンター開催され、
   平成12年5月18日(木曜日)の写真展初日へ行ったのが発端
    石川博司 「牛天神の庚申塔」『野仏』第31集(多摩石仏の会 平成12年刊)
    『日本の石仏』第94号で第96号特集「神社の石造物」の原稿募集
    平成12年7月6日(木曜日)と11日(火曜日)に都内3区にある改刻塔を巡る
   改刻塔発見の歴史
   〔前 史〕
   三輪善之助『庚申待と庚申塔』(不二書房 昭和10年刊)の「庚申塔の僞物」指摘
      東京市澁谷の金王八幡神社の隣の東福寺に文明二年庚寅年に造立したる銘記ある庚申塔
     が二基あるが、此二基共に全くの僞造物であって精々江戸時代の寛文頃より上らないもの
     であることは既に一般識者の認むる處である。(七二頁)
   〔本 史〕
   荒井広祐さんの昭和39年6月の庚申懇話会例会での発表
      熊谷市と行田市周辺に分布する庚申塔が塞神塔に改刻された経緯についての
     発表があり、平田篤胤門下の木村御綱が忍藩領の社寺掛を勤め、その指導によ
     って庚申塔が塞神塔に改刻された事実を指摘する。
   秋山正香「武州忍領界隈における塞神塔について」『庚申』第39号 昭和40年刊
   横田甲一「庚申塔の改刻及び追刻」『庚申』第40号 昭和40年刊
   横田甲一「東京都渋谷東福寺文明紀年銘塔に就いて」『庚申』第50号昭和42年刊
   荒井広裕「塞神塔」(『日本石仏事典』 雄山閣出版 昭和50年刊)一三二頁
      在来の庚申塔の表面を削除して「塞神」の文字を刻んだ塞神塔が埼玉県行田市周辺に多
     い。(中略)これは明治初年に忍藩領の行った神仏分離政策の落とし子である(後略)
   石川博司「西多摩石仏散歩」『野仏』第23集 多摩石仏の会 平成4年刊 一六頁
     追刻の例 西多摩郡檜原村白光の文化11年青面金剛・猿田彦刻像塔
   石川博司『多摩庚申塔夜話』 ともしび会 平成9年刊 六八・六九頁
     改刻の例 青梅市御岳2丁目滝本路傍の宝永6年「猿田彦大神」塔
          あきる野市寺岡路傍の安永3年「猿田彦大神」塔
   山口義晴「改ざんの塞神塔」『日本の石仏』第86号 日本石仏協会 平成10年刊
   縣 敏夫『図録 庚申塔』 揺籃社 平成11年刊
   牛天神の笠付塔
   文京区春日1−5・牛天神(北野神社)の年不明「道祖神」塔
   清水長輝『庚申塔の研究』 大日洞 昭和34年刊 写真・三鶏の例・塔の説明
   武田久吉『路傍の石仏』 第一法規 昭和46年刊 二二六頁
   縣 敏夫『図録 庚申塔』 揺籃社 平成11年刊 二二四頁
      1 塔型が延宝もしくは元禄を下らない様式であるのに江戸後期より現れる
        道祖神文字塔として不自然である。
      2 「道祖神」の文字は旧刻字を削って彫った痕跡が認められる。
      3 「道祖神」の文字そのものに新しさを感じる。
   諏訪神社の光背塔
   新宿区高田馬場1丁目12番・諏訪神社の天和3年「塞神三柱」塔
   石川博司「多摩地方の塞神」『日本の石仏』第86号 日本石仏協会 平成10年刊
      この光背型塔は、どうみても改刻塔である
   山口義晴「改ざんの塞神塔」『日本の石仏』第86号 日本石仏協会 平成10年刊
   筑土八幡神社の光背塔
   新宿区筑土八幡町2番1号・筑土八幡神社の寛文4年二猿塔
   清水長輝『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)一五九頁参照
      寛文四年という年紀はにせもので、おそらく江戸末期の作であろう
        1 桃と猿の関係は元禄以後
        2 地肌を梨地にする手法は江戸末期
        3 光背型塔の荒削りの側面に年銘を刻まない
      これは江戸末期の好事家がつくった戯作で、庚申塔ではあるまい
   縣 敏夫『図録 庚申塔』(揺籃社 平成11年刊)一七二頁参照
   岡村庄造 平成12年10月16日付け来信
      1 図説にある「抹消した痕跡」があるのは認められない
      2 二猿の構図は江戸中後期の感がある
      3 改刻の意図・改刻の方法・原形・台座・画像などに疑問がある
   む  す  び
    石佛調査では、単純に石塔に刻まれた銘文だけを表面上でとらえていては、誤りを犯す結果
   となる。また石造物を漠然とみていてはいろいろな兆候を見逃すから、時間をかけてじっくり
   と観察すると思わぬ事実が明らかになる。机上の予測や推測が必要ではあるが、何といっても
   現物に当たることが最も重要である。不審な点があれば、どこまでも追求する必要があり、こ
   れが改刻などの発見にもつながる。

 以上のようにレジメとしては書き過ぎであるが、文献名などをメモせずに話に集中できると考えたからである。
 今回は、『庚申塔の研究』(大日洞 昭和三十四年刊)の原本ではなくて復刻版(名著出版 昭和六十三年刊)をもってきた。私はその著書を書かれた清水長輝さんとは文通はしていたが、生前お会いする機会がなかった。中山さんは、清水さんのお宅を訪ねてこの本を入手している。この時に話のやり取りで、著者が改刻(三郷市の猿田彦寛文塔)に関連して再版をためらった裏事情を中山さんから明かしていただいた。

 栗田さんが先刻の説明に使われた筑土八幡の二猿塔の写真を再度映写し、私の説明を補足させていただいたり、中山さんの裏話など予想以上に双方向性で効果を上げられたと思う。今回の一つの目的が「改刻談義」を通じて、身近な石造物のなかにも改刻、あるいは追刻があるのを知っていただき、三基の事例の現物を自分の眼で確かめるきっかけとなればよいと考えた。

 五時一五分過ぎに私の話がおわってから、初めて参加された方々が自己紹介がある。中でも野村さんは親や息子も代々の石工で、次回の来年二月に「江戸石工よもやま話」を話される予定になっている。二月十二日(振替休日)に日本石仏協会の総会が開催されるなどの各種の連絡事項が話され、散会する。
 帰りのの電書の中で、ふと『石仏調査ハンドブック』(雄山閣出版 昭和五十九年刊)で改刻について書いたことを思い出した。家に帰って調べると、七二頁に渋谷・東福寺の地蔵庚申の年銘部分を拡大した写真を載せ、次頁で三輪善之助と横田甲一両氏の業績にふれている。何故、もっと早く気付かなかったのだろう。
   (付 記)
    六日に別の調べで『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和六十一年刊)をみていたら、たまた
   ま清水長明さんが担当された「塞神塔」の項目に出会った。塞神塔の説明(一二八頁)の中で
   「改刻塔ではなく、安永・天明ごろから明治初期にかけて、新しく造立された塞神塔も少ない
   」としながらも、高田馬場・諏訪神社の塞神塔の写真を同頁に掲げて「近代改刻」と指摘して
   いる。早くからこの塔の改刻に気付いていたことがわかる。
    『日本石仏図典』で庚申塔については清水さんと私、道祖神については松村雄介さんが担当
   されたから、牛天神の塔にはふれずに塞神塔のところで改刻について書いたのであろう。これ
   からみてれも、清水さんが改刻塔を早くから追いかけていたことがうかがわれる。これに気が
   つかなかったのも迂闊であった。
    清水さんが改刻に関心があったのも、庚申懇話会の例会で荒井広祐さんの発表を聞いておら
   れたからだし、横田甲一さんと交流が深かったことも作用している。永年にわたって各地を調
   査されている割には、『相模道神図誌』や『下総板碑』を出されてはいるが、雑誌などに書か
   れたものが少ない。編集者としての長い経歴があるだけに、常に裏方にまわっていたいたこと
   が影響しているのかもしれない。それにしても、これまでの調査研究を是非とも発表してほし
   ものである。
           〔初出〕『平成十二年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成12年刊)所収
神社石造物の改刻    ── 都内三社の場合 ──

 平成十二年七月六日(木曜日)と十一日(火曜日)は、文京・新宿・渋谷の都内三区にある改刻塔を巡った。この発端となったのは、後でふれるように本会主催の写真展「石仏の魅力」の初日開場が午後一時からというので、待ち時間を利用して久方ぶりに春日・牛天神(北野神社)に向かったことである。牛天神の境内にある「道祖神」塔を改めて観察すると、改刻の跡がみられる。そこで、この時の顛末をまとめて『野仏』第三一集(多摩石仏の会 平成十二年刊)に「牛天神の庚申塔」を発表した。

 六月末に受け取った本誌第九四号には、第九六号特集「神社の石造物」の原稿募集が載っていた。そこで「神社石造物の改刻」を書いてみようと考えて、先に発表した「牛天神の庚申塔」に他の改刻塔を加えて構想を練り、七月一日(土曜日)に一日かけて原稿を執筆した。第一稿ができてみると、心もとない点が数カ所みられた。原稿の締切りは九月末日なので、まだ時間的な余裕が充分にある。もう一度これらの塔をじっくりみてから決定稿をまとめようと考え、六日と十一日の両日に改めて改刻塔を巡りを実行し、その結果をまとめたのが本稿である。

改刻塔発見の歴史
現在では、埼玉県行田市を中心に忍藩領にみられる塞神塔が庚申塔の改刻であることは、庚申塔研究者のみならず一般に広く知られている。一つには、荒井広裕さんが『日本石仏事典』(雄山閣出版昭和五十年刊)の「塞神塔」の項目を担当され、その文中で「在来の庚申塔の表面を削除して『塞神』の文字を刻んだ塞神塔が埼玉県行田市周辺に多い。(中略)これは明治初年に忍藩領の行った神仏分離政策の落とし子である(後略)」(二三二頁)と述べたことから、改刻の事実が一般化した。

 昭和三十九年六月に開かれた庚申懇話会の例会では、荒井広祐さんが熊谷市と行田市周辺に分布する庚申塔が塞神塔に改刻された経緯について発表があった。この時に荒井さんは平田篤胤門下の木村御綱が忍藩領の社寺掛を勤め、その指導によって庚申塔が塞神塔に改刻された事実を指摘された。

 その後、秋山正香さんが「武州忍領界隈における塞神塔について」を『庚申』第三九号(庚申懇話会 昭和四十年四月刊)に発表されて、塞神塔の改刻がさらに関心をひくようになった。同年九月刊の次号では、横田甲一さんが「庚申塔の改刻及び追刻」を書かれている。当時は、極く限られた庚申塔研究者の間でしか塞神塔の改刻について関心がなかった、というより一般的には改刻の事実を知らなかったという方が適切かもしれない。

 東京都多摩地方では、一部の猿田彦塔に改刻の形跡が残っている。私は、青梅市御岳御岳二丁目の滝本路傍にある宝永六年「猿(異体字)田彦大神」塔やあきる野市寺岡の路傍にある安永三年「猿田彦大神」塔が改刻塔である点を指摘した。

 改刻ではないが、西多摩郡檜原村白光にある猿田彦刻像塔は、追刻の事例である。この塔は文化十一年の庚申塔で、現在は裏面に青面金剛刻像が浮き彫りされ、正面に猿田彦大神像がみられる。しかし造立当時は青面金剛刻像が正面で、後になって裏面に猿田彦大神像が追刻され、裏面を正面に向きを逆にされて現在に至っている。追刻の一事例として、『野仏』第二三集(平成四年刊)の「西多摩石仏散歩」の中でふれた(二〇頁)。

 前記の埼玉の塞神塔や多摩の猿田彦塔とは趣旨が違うが、渋谷区渋谷三丁目五番の東福寺にある文明二(一四七〇)年銘の地蔵庚申と山角型文字庚申塔は、寛文二(一六六二)年銘を改刻した塔であるのが知られている。この二基については、すでに三輪善之助翁が『庚申待と庚申塔』(不二書房昭和十年刊)の「庚申塔の僞物」の項で、「東京市澁谷の金王八幡神社の隣の東福寺に文明二年庚寅年に造立したる銘記ある庚申塔が二基あるが、此二基共に全くの僞造物であって精々江戸時代の寛文頃より上らないものであることは既に一般識者の認むる處である」と指摘している(七二頁)。

 その後この年銘について、横田甲一さんが昭和四十一年の庚申懇話会例会で平野榮次さんから山角型塔の年銘の「文」の上に「宀」が残っているから、寛文ではないかと教示を受けた。横田さんは、それがきっかけとなって調査した結果、年銘の改刻を明らかにされ、昭和四十二年十二月に刊行された『庚申』第五〇号に「東京都渋谷東福寺文明紀年銘塔に就いて」を発表された(一四〜五頁)。現在どちらの塔の年銘をみても、横田さんが指摘するように、年銘の「文明」の部分が明らかに凹んでおり、不自然である。干支の「庚」の字も「壬」を利用しているのがわかる。

 こうした改刻や追刻の事実があるから、石造物の調査には油断がならない。これから記す文京区春日・牛天神の笠付型庚申塔と新宿区高田馬場・諏訪神社の光背型塞神塔、同区筑土八幡町・筑土八幡神社の光背型二猿塔は、神社境内にみられる石造物が改刻された事例である。
以下、順にそれらの塔について記す。

牛天神の笠付塔
 五月十八日に訪れた春日・牛天神の境内には笠付型塔の正面に「道祖神」の主銘、下部に三猿と三鶏の浮き彫りがみられる。うっかりすと二鶏と思うが、注意すれば雌雄の鶏の下に小さな雛鶏が一匹いるのに気付く。この庚申塔については清水長輝さんの『庚申塔の研究』(大日洞 昭和三十四年刊)第五二図の写真、一六六頁の三鶏の例、二〇一頁で塔について説明されている。以来、多くの本(例えば武田久吉博士の『路傍の石仏』二二六頁)で取り上げられているので、実際に塔を見ないまでもご存じの方が多いだろう。
 昭和四十五年四月二十七日に私がこの塔を最初みた時は、今も記憶も残っているが、当時撮った写真が示すように社殿前の石段横に寝かされていて充分に調べられなかった。その後に何度かこの塔をみているけれども、単独ではなくて見学会だったから、詳細に調べたことがなかった。

 以前からこの塔や三郷市の寛文九年「申田彦大神」塔について疑問を感じていたが、特別に調査することがなかった。これまでにも牛天神のこの塔については、多くの庚申塔関係の本に記されているが、塔面の改刻にふれていない。
 もっとも三輪翁の『庚申待と庚申塔』、大護八郎・小林徳太郎両氏の『庚申塔』(新世紀社 昭和三十三年刊)あるいは清水さんの『庚申塔の研究』などは、忍藩領の改刻が知られてない時期の発行のためでもある。

 縣敏夫さんは、最近発行された自著の『図説庚申塔』(揺籃社 平成十二年刊)に「筆者は庚申塔・道祖神の両方を追求し続けてきた清水長明より、資料の鳥瞰的視点からみて、改刻の疑いあるものと示唆をうけて再三訪れて検討した」と記し(二二四頁)
   1 塔型が延宝もしくは元禄を下らない様式であるのに江戸後期より現れる道祖神文字塔とし
     て不自然である。
   2 「道祖神」の文字は旧刻字を削って彫った痕跡が認められる。
   3 「道祖神」の文字そのものに新しさを感じる。の要約三点を挙げ、その後で「明治維新の廃仏毀釈の風潮を背景に改刻された塔が見られるが、同じような事情から生じたものと考える」としている。

 私自身も何度もこの塔をみていながら、これまでジックリと調べたことはなかった。五月十八日に時間をかけて塔面をよく観察して以前から予想していた通り、改刻の跡をみつけた。先ず第一に気付いたのは、「神」の字と三猿の間に施主銘らしい銘が刻まれ、それをつぶして読めなくしている箇所がある。続いて清水長明さんが指摘するように、主銘の「道祖神」も塔面を彫りくぼめた上で彫られた形跡がある。
 さらに両端の枠には、銘文が刻まれていたのを削った跡がみられ、左枠の上方には「為」の字が読み取れるし、下部に「願主」や「衛門」の文字がかすかかにみえる。さらに左右の両側面をみても、施主銘が何段にもわたって刻まれいたのを削った跡がみられ、現在ある二段の施主銘が後刻された可能性がある。年銘がどこに刻まれていたかわからないが、塔型や大きさからみて寛文から延宝の頃に建てられたと推定される。

 先述の『図説庚申塔』に載った拓本からは、残念ながら僅かに上部に日輪の跡を感じさせるが、銘文や改刻の跡がはっきりしない。実際に肉眼で観察すれば、銘文を読み取れなくても、字を削った跡が残っていることは確認できるる。
 さらに七月六日と十一日の両日にこの塔を再訪し、充分に時間をかけて塔の銘文をルーペを使って解読した。その結果塔の正面上部の左右には、日月・瑞雲の陰刻を潰した跡がみられる。どうやら右が月天で、左が日天とみえる。
 さらに正面の右端(月天の横の部分)をルーペを使って読むと、梵字らしい文字が続いている(光明真言か)。月天の下の部分を推測を交えながらの解読すると、「延寳八庚申四月吉祥日 武州豊嶋郡□□村 福田權左衛門」と読んだ。次いで、右端と同様に左端の銘文をみれば、「奉供養庚申講中悉地□□二世安楽成就所 願主 □崎治衛門」と読める。銘文の「□□」の部分は「現當」かもしれない。
 推測が加わった銘文からは、この塔が今まで造立年銘が不明とされていたが、延宝八年造立の庚申塔であることがわかる。彫り窪めて現在の主銘が「道祖神」と改刻され、両端の銘文が潰され、旧来の塔の浮き彫りされた三猿と三鶏がそのまま残されたことがわかる。残念ながら、改刻以前の塔正面の状態は不明のままである。

諏訪神社の光背塔
 石造物の改刻は、先に挙げた渋谷・東福寺の地蔵庚申のように造立年銘を古く刻む例がみられるが忍藩領で強行されたように、明治初年の廃佛棄釈の影響が無視できない。特にこれまで神社境内にあった仏教や民間信仰の石造物の中に、神仏分離令が出されてから境内に置くに相応しくない石佛・石塔がある。その場合にもそのままに置かれたものもあろうが、改刻が行われた事例がある。
 五月二十一日(日曜日)には多摩石仏の会五月例会が催され、関口渉さんの案内で新宿区内をまわった。午後の見学の終わり近くに、西早稲田から高田馬場一丁目一二番にある諏訪神社を訪ねた。都内では数が少ないにしても、先の牛天神の笠付塔と同様に、この神社の天和三年「塞神三柱」塔も忍藩領で行われたような改刻がみられる。
 本誌の第八六号に掲載された私の「多摩地方の塞神」の中で、都内にある二基の塞神塔にふれ、その一基であるこの天和三年塔について「この光背型塔は、どうみても改刻塔である」と記した。これも先に記した忍藩領内でみられる塞神塔の改刻の事実がわかったから、塔を注意深くみるようになった賜物である。
 神社の境内には、天和二年銘の光背型の塞神塔がある。この塔を解説して
   新宿区指定有形民俗文化財
   塞 神 三 柱 の 塔
      所 在 地 新宿区高田馬場一丁目一二番六号
      指定年月日 平成五年三月五日
    天和二年(一六八二)に造立された船形の石塔で、中央に「塞神三柱」、その右側に「諏訪
   上下大明神」および「正八幡大菩薩」、また左側に「天(以下欠損のため不明)」および「稲
   荷大明神」と刻まれている。また、その上方には右に月形、左に日形が彫られている。
    塞神は、村の境や峠に祀られる、境界を守護する神とされ、石塔としては江戸時代に南関東
   地方を中心に盛んに造立された。
    諏訪神社の塞神塔は区内で唯一のもので、また、「塞神三柱」の文字が刻まれた例は少なく
   、大変貴重である。
          平成六年六月                 東京都新宿区教育委員会と記された解説板がたっている。銘文は、解説板に書かれている通りである。つけ加えるならば、「稲荷大明神」の下に「天和二壬戌二月吉祥日 奉崇御手洗從當社勧請」の銘文が刻まれている。
 この塔は、中央部を彫り窪めて「塞神三柱」の主銘にした改刻塔である。主銘の下には「武州」らしい文字などを削り取った跡がみられる。下部の蓮台も前面の蓮華文を削り落とし、わずかに側面に蓮華の文様が残る。塔自体をみても、塔面から前にでる基部の蓮台までの幅が不自然に広い。恐らく年銘も削り取られたものであろうが、塔型から考えて旧来の塔が造立された年銘を使ったと推定される。
例会に続いて七月六日と十一日にこの塔を再訪し、充分に時間をかけて塔の銘文をルーペを使って解読した。特に、頂部中央に刻まれた銘文に注意する。それは「カ奉造立地蔵菩薩」と「為二世安楽也」の二行である。その横に「寛文四□戌四月日」らしく読めるがはっきりしない。
 左端にある「天和二壬戌年三月吉祥日 奉崇御手洗從當社勧請」の中で、特に問題となるのは「御手洗從」の解釈である。これが人名ならば、その関係や年代が手掛かりになって例えば宮司とか氏子総代などの神社関係者であるのか、江戸末期から明治初年の人物であれば、改刻の証明ともなる。
 この点が知りたいと思い、十一日に社務所を尋ねて村岡賢一宮司にお会いする。宮司は、明治四十二年にこの地で生まれて育った方で、記憶の限りでは御手洗姓に心当たりがないという。御手洗といえば、かつて神社隣の玄国寺本堂裏に御手洗と呼ばれる水たまりがあり、大正初年に埋められたそうである。今のところ「御手洗」については不明である。
 六日にこの神社の後に廻った渋谷・東福寺の地蔵庚申(文明二年銘)をみて、蓮台の上が端から塔身との幅が一〇・あるのは、この塞神塔が地蔵の立像を陽刻する塔ではなかったか、と推測した。
 神社境内には、天和二年塔の他にも、貞享五年の庚申塔と承応三年の「キャカラバ 為逆修菩提也」塔の二基がみられる。庚申塔が神社にあるのは普通であるが、梵字や「逆修菩提也」塔は仏教的色彩の強い塔である。この塔があるのだから、先の塞神塔が当初から文字塔であるならば改刻されずにここに置かれた可能性が高い。しかし地蔵を浮き彫りした塔となると、境外や寺院に移すのか、改刻してこの塔のように「塞神三柱」と刻して現地に置くかだろう。
 頂部の「カ奉造立地蔵菩薩」の銘文から考えると、地蔵の立像─恐らくは宝珠と錫杖をとる延命地蔵と考えられる─を陽刻する塔ではなかったか、と推測するのが妥当かもしれない。そうならば、蓮台の上が塔身からの幅が一〇・あるのも不自然ではなく、充分に理解できる。
 「寛文四□戌四月日」らしく読める銘があるのが疑問点の一つであるが、いずれにしても左端の年銘は後刻と考えられる。塔型や法量からみて、寛文四年から天和二年までの年銘でも許容できる範囲である。行田周辺にみらるように、正面を「塞神」と改刻しても、年銘をそのまま残す傾向から考えると、後でふれる筑土八幡社の寛文四年塔と同様に本来の年銘が消され、旧来の塔のものが後刻された可能性が高い。
 いずれにしても天和三年銘の「塞神三柱」塔は、基部に刻まれた蓮葉の模様を両側面に残しながら正面部分を削り取り想像の域を出ないが、地蔵立像を削り落として「塞神三柱」の主銘とその両横に「諏訪上下大明神」や「正八幡大明神」「天(以下欠失)」「稲荷大明神」の銘文を刻んだ改刻塔と考えられる。現在の「天和二壬戌二月吉祥日 奉崇御手洗從當社勧請」の銘文は、後刻である。

筑土八幡神社の光背塔
 牛天神から余り離れていない新宿区筑土八幡町二番一号の筑土八幡神社には、境内に寛文四年銘の桃持ちの二猿を浮き彫りにする光背型塔がみられる。各書に紹介されて著名である。この塔も、多くの庚申塔研究家から造立の年代が疑問視されている。ただこの塔が庚申塔であるかどうかの判定については、研究者の間で意見がわかれている。
 石段の途中にはこの塔の解説板がみられ、これには区登録文化財(建築物)の石造鳥居を解説した後で
   新宿区指定有形民俗文化財
   庚  申  塔
       ※ この石段を上って右側にあります。
            指定日 平成九年三月七日
    寛文四年(一六六四)に奉納された舟型(光背型)の庚申塔である。高さ一八六センチ。最
   上部に日月、中央部には一対の雌雄の猿と桃の木を配する。左側の牡猿は立ち上がり実の付い
   た桃の枝を手折っているのに対し、左側の牝猿はうづくまり桃の実を持っている。
    二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。
           平成九年五月                   新宿区教育委員会と記され、この塔を写した写真が挿入されている。
 この塔は、立って右手で桃の枝を持っている牡猿(像高86・)とうずくまって桃を持って座る猿(像高56・)に桃の木を配している。牡猿は性器をさらしてはっきりしているが、他の猿は足を揃えた横向きで雌雄が不明である。
 猿や桃のバックは梨地で、日月のバックとは彫り方が異なる。それから考えると上部の日月・瑞雲を含む上方二七・の部分は、旧来の部分を残したようにみえる。しかし桃の実や立っている牡猿の出っ張りから想像すると、旧来の部分を残したとみるのは不自然と思える。その点には疑問が残るが、上下にアンバランスな所を残す点が作為的で、いかにも改刻を思わせる感じがする。
 清水長輝さんは、『庚申塔の研究』の一五九頁でこの塔にふれ、「寛文四年という年紀はにせもので、おそらく江戸末期の作であろう」としている。その根拠として
   1 桃と猿の関係は元禄以後
   2 地肌を梨地にする手法は江戸末期
   3 光背型塔の荒削りの側面に年銘を刻まないなどの理由を挙げ「これは江戸末期の好事家がつくった戯作で、庚申塔ではあるまい」と結論付けている。
 基部に刻まれた施主銘「金村仁兵衛」と「福田新左衛門」の間には、小さく「干時寛文四□□閏」と読めそうな字が刻まれている。この塔の塔型や法量からみて、寛文期の造立はうなずける。従って闇雲に両側面に「干時(異体字)寛文四甲辰年」「閏五月廾九天」と刻んだのではなく旧来の塔の造立年銘を刻んだ可能性が高い。
 しかし清水さんが挙げた理由から、現在の塔面の二猿などの刻像は江戸末期の推定が妥当である。疑問点があるが、上部の日月と基部の施主銘を残して、塔の中央部分を現在の二猿と桃の木の図に改刻し、後刻にしても旧来の年銘を側面に残したものと想像される。
 この塔の場合は、清水さんのいわれたように二猿の刻像に限れば江戸末期が妥当である。元の塔は不明であるにしてもまだ推測の域をでないが、おそらく旧来の寛文四年塔の年銘を側面に刻み、正面を改刻して現在の二猿塔に仕上げたのではないか、と私は推測している。この塔については疑問が残るが、現在のところ牛天神や諏訪神社の石塔に比べると、改刻の跡が明白ではない。

む す び
 本稿では、都内の神社にある石造物の中で改刻された状況について記した。漠然とみては見逃してしまううが、時間をかけて観察すれば思わぬ事実が明らかになる。
 これまで、今回ほど改刻に注意して銘文を読んだことはなかった。机上での予測や推測も必要ではあるが、何といっても現物に当たることが重要である。疑問があれば、どこまでも追求する必要がある。二回にわたる改刻塔巡りを通じて、その点を痛切に感じた。
 ともあれ、神社の境内にある石造物の中には、牛天神や諏訪神社の実例があるように、改刻された事例がみられるから単純に塔に刻まれた表面上の銘文だけにとらわれては誤りを犯す結果となる。充分な注意が必要である。(平成12・7・14記)
            〔初出〕『日本の石仏』第九六号(日本石仏協会 平成十二年刊)所収
                              
あとがき
      これまで、新宿区内の庚申塔については、各種の単行本や雑誌などに書いてきた。本書
     では、その一部分を収録した。それぞれの発表の初出誌は、文末に表示してある通りであ
     る。なお、本書には掲載しなかったものとして

      『石仏の旅 東日本編』          雄山閣出版    昭和59年刊
      『東京区部庚申塔資料』          ともしび会    平成6年刊
      『庚申塔文献所在地索引』         庚申資料刊行   平成7年刊
      『東京区部庚申塔DB』          ともしび会    平成7年刊
      「廾三区の庚申塔」『ともしび』4号    ともしび会    昭和41年刊
      「東京都の庚申塔数」『庚申』48号     庚申懇話会    昭和42年刊
      「東京の観音庚申塔」『野仏』11集     多摩石仏の会   昭和54年刊
      「都内庚申塔調査文献考」『多摩郷研だより』37号 多摩郷土研究の会 昭和55年刊
      「東京都の庚申年造塔」『日本の石仏』17号 日本石仏協会   昭和56年刊
     などがある。この中で『石仏の旅 東日本編』に収録された一部は、引用の形で「新宿を
     歩く」に掲載していることを付け加えておく。
      また「廾三区の庚申塔」が『東京区部庚申塔資料』に、さらに『東京区部庚申塔DB』
     と発展している。これらが、『庚申塔文献所在地索引』を含めて「新宿区の庚申塔」の中
     に反映している。
      昨年一月に多摩野佛研究会から発行された『都内の改刻塔を歩く』には、改刻塔関係の
     文章を載せているので、本書で省略した部分を知りたい場合には、参照していただけば全
     容が明らかになる。
      各種の単行本や雑誌などにばらばらな形で発表されたものでも、本書のように一冊にま
     とめると、多少でも利用価値が出てくると思う。ご活用いただければ幸いである。

                         ・・・・・・・・・・・・・・・・
 新宿区の庚申塔を歩く
                           発行日 平成十四年一月十五日
                           著 者 石 川 博 司
                           発行者 庚申資料刊行会
                           〒1980083青梅市本町一二〇             
                 

総目次へ

inserted by FC2 system