庚 申 塔 の 主 尊                          石 川 博 司
                
                目 次 ・・
                
                庚申塔の話 ・・・・・・・・・・・・・・・・
                大日主尊の庚申塔 ・・・・・・・・・・
                薬師主尊の庚申塔 ・・・・・・・・・・
                相模原庚申餘話 ・・・・・・・・・・・・
                東京都の弥陀刻像庚申塔 ・・・・
                東京の観音庚申塔 ・・・・・・・・・・
                勢至を主尊にした庚申塔 ・・・・・
                『異型の深夜』からの発想 ・・・・
                二手青面の系譜 ・・・・・・・・・・・
                三多摩の猿田彦塔 ・・・・・・・・・
                庚申塔と名数 ・・・・・・・・・・・・・
                あ と が き ・・・・・・・・・・・・・
庚申塔の話

 石仏石塔には、いろいろな種類がある。阿弥陀さんや大日さんなどの如来の像を刻んだもの、観音さんやお地蔵さんなどの菩薩、お不動さんなどの明王、あるいは弁天さんや毘沙門さん・大黒さんなどの天部の刻像、それらを種子や文字で現したものもある。そうした仏教系統のものばかりでなく、道祖神のように民間信仰からうまれたものまで石仏に含めている。石塔には、五輪塔や宝篋印塔・宝塔などがある。これからお話する庚申塔は、そうした石仏や石塔の1種であり、路傍や寺社の境内などで見掛ける。

 見知らぬ土地を訪ねた時には、私は時間の許す限り寺や神社を廻る。市街化の進んだ所では、そうした場所に石仏が集められている確率が高いからだ。石仏の中に庚申塔を発見した時は、他人にとってそれがどんなにつまらない塔でああっても、私にとっては嬉しいのである。それほどに私は、庚申塔に魅せられているのだろう。

 道祖神、とりわけ双体道祖神は、肢体が変化に富むし、地域性が現れていて面白い。細かに調べると謎の部分が多い。しかし、分布している地域が限られているし、庚申塔に比べたら、いろいろな面で変化に乏しいように思われる。

 私が庚申塔に惹かれるのは、第1に北は北海道から南は鹿児島に至るまで、全国的に分布している点だ。その上、各地でその地域性を現している。このことは、身近に庚申塔を見られることを意味しているし、旅先などでも見る機会が多いことになる。

 第2に主尊1つとってみても、後で述べるように多くのものが登場し、実に変化に富んでいる。塔の型式にしろ、猿の姿態などにもみりべきものがある。そのために、庚申塔を充分に理解するには石仏や石塔に対する知識が欠かせない。

 第3には全国的に、しかも多量に分布し、変化に富んでいるので、思いがけない発見がある。今まで知られなかった主尊の庚申塔が見つかるなどという未知の部分があって、発見の楽しみがある。

さて、これまでに「庚申塔」という語を使っていたが、庚申塔とは一体何でありうか。庚申塔は、庚申信仰の産物であることには違いない。庚申信仰については別項で述べられるので、ここでは庚申塔に関する最小限にとどめるが、旧暦の場合、庚申の日・・60日毎に廻ってくる・・が年に5回の年も、7回あることもあるけれども、通常は年に6回ある。従って、3年間に18回の庚申日(アタリ日)がある。
 庚申日に庚申待を続けて行うと、「一切ノ願望、此内ニ成就セヌト云事ナシ……」(大分県宇佐八幡宮『庚申因縁記』)といわれ、三年一座(18回の庚申待を連続して行うこと)を済ませ、庚申供養のために石塔を造立した。この時の石塔が庚申塔なのである。東京都豊島区高田・金乗院(目白不動)境内にある寛文8年塔に刻まれた「奉待庚申講一座二世安楽所」の銘文は、このことを示している。

 庚申塔が建てられるようになったのは室町時代以降のことで、現存中最古のものとしては、埼玉県川口市領家・実相寺の文明3年(1471)銘板碑があげられる。江戸時代に入って、庚申塔は各地で造立されるが、寛文年間から多くなり、元禄年間には広く建立されている。庚申さまとして知られている青面金剛(しょうめんこんごう)は、文字塔では天正19年(1591)に初出しているし(宮崎県西諸県郡高原町広原)、刻像では神奈川県茅ヶ崎市甘沼・八幡社(神奈川県立博物館で保管)の承応3年(1654)が最も古いとされている。私の見た範囲で最も新しいものは、東京都調布市佐須町・虎柏神社境内にある昭和51年10月造立の青面金剛刻像塔である。

     庚申塔の範囲
 これまでしばしば「庚申塔」といってきた。これからも用いる「庚申塔」は、三年一座(18度)の庚申待を済ませて庚申供養のために造立された石塔だ、と定義づけることはたやすい。「庚申塔」とか「庚申供養塔」と刻まれた石塔ならば、問題は生じないだろう。しかし、実際に各地にある多くの庚申塔に接してみると、これが「庚申塔だ」と明確に断定できない場合があるし、迷うことがしばしばだ。
 例えば、地元の人達が「庚申塔」と呼んでいるけれども、何の銘文も刻んでいない自然石は、はたして庚申塔といえるだろうか。庚申に関係した銘文は一切なく、主尊に馬頭観音だけを刻んだものはどうなのだろうか。また「ウ−ン」の1字だけ彫ったものはどうか、他にもそうした例がある。

 山王廿一仏種子を刻んだ塔も、そうした1例である。埼玉県草加市稲荷町・慈尊院境内には、上部に山王廿一仏種子のある板碑型の文字塔が3基並んでいる。向かって右端のものは、寛永13年(1636)の建立で「奉果庚申待二世成就攸」と刻まれている。中央の正保4年(1647)塔と左端の承応元年(1652)塔には、右端の塔にみられるような庚申に関した銘文はない。
 右端の寛永の塔は、誰も問題なく庚申塔として認めている。しかし、中央と左端の両塔は、はたして庚申塔とみなしてよいのかどうか、問題が残る。庚申信仰イコ−ル山王信仰であれば、そうした議論の余地のないところだ。ところが両者は、密接な関連は持つものの、それぞれ相互に独立した信仰である。そこで、庚申に関係する銘文がなく、山王廿一仏種子を刻んだ塔は、単独の山王信仰によるものか、それとも、そうした銘文はなくても庚申信仰と結びついて建立されたものか、見方のわかれる点である。その判断によって、一方では庚申塔ではないというし、他方では庚申塔だと主張する。

 山王の場合だけでなく、猿田彦を主尊にしたものは道祖神かの問題が起こるし、他にもいろいろな事例にぶつかる。そうすると、一体、庚申塔とは何なのか、について考えざるをえない。そこで、庚申塔の範囲をどの辺におくかが問題になり、その線引きの基準が求められる。
 現在のところ、残念ながら庚申塔の範囲を明確にする基準はない。研究者個々の判断にまかされているのが現状である。ここでは、清水長輝氏が『庚申塔の研究』の中で示された範囲基準を土台に私案を述べよう。

 私の範囲基準というのは、1 資格基準と2 除外基準とに大別される。資格基準は
   A 庚申信仰によって建てたことを銘文にしるしてあること(銘文基準)
   B 青面金剛の像か文字を刻んだもの(青面金剛基準)
   C 塞目・塞耳・塞口の3猿か、その1部があって他の造塔目的をしるしているもの(3猿基
     準)
   D 3猿形態以外の猿でも、塔の全体が他の庚申塔と類型的なものや、日月や鶏などを伴って
   おおむね庚申信仰のために建てられたことが推測されるもの(類似基準)
   E 猿田彦の像か文字を刻んだもの(猿田彦基準)
   F 帝釈天の像か文字を刻んだもの(帝釈天基準)の6項目があり、除外基準には
   G 施主が庚申講中であっても他の目的で造立したものを除く(造立目的基準)
   H 庚申塔や庚申祠への奉納物を除く(奉納物基準)
   I 自然石など伝承的なものを除く(伝承基準)の3項目があげられる。
 庚申塔かどうかの判定は、資格基準6項目中のいずれか1項目以上に該当し、除外基準の3項目にふれないものを庚申塔とする。

     庚申塔の変遷
 室町時代に始まった庚申塔の造立は、現在まで約五百年の歴史を有するが、その間に内容的にも外観上からも塔の変遷がみられる。清水長輝氏は、東京付近を中心とした場合の塔の変遷を4期に大別している。

 第1期は板碑時代(室町〜安土桃山時代)、第2期は混乱時代(元和〜延宝年間)、第3期は青面金剛時代(天和〜天明年間)、第4期は文字塔時代(寛政以降)である。関東地方は、ほぼこのような傾向が認められる。地域により、その区分年代のズレがあり、第1期が欠ける所がみられる。
 山梨県北都留地方における変遷をみると、第1期に当たる板碑時代がなく、第2期が寛文から享保までの石祠併立時代、第3期が天明までの青面金剛時代、第4期が寛政以降の文字塔時代と区分できる。
 このように、地域差があり、変遷にもズレがみられる。信仰の内容や外観上にも差異があるから、各地における傾向を相互に比較すると、地域特性が明らかになり、年銘を欠く塔の造立年代の推測には欠かせない。

     庚申塔の施主
 庚申塔を建立した母体は、多くは庚申講である。稀には個人で造立する場合もみられるが、塔に刻まれた個人銘だけをもって、個人の造塔と速断はできない。項の指導者の名で建てられたり、多くの喜捨を仰いで造立された場合もあるからだ。
 庚申塔に刻まれた施主銘を見ると、法名と一般の人達の名がある。法名には、僧侶の名前だけでなく、仏門に帰依した在家の人達も含まれる。
 一般の人達の施主銘には、男子銘と女子銘がある。男子銘の場合には、単に名前だけのものや姓をふしたもの、あるいは職業や屋号を記したものもみられる。女子銘では、単に名前を記したものの他に「五兵衛母」とか「権十良内儀」のようにきざまたものもあり、夫婦連名の場合も認められる。
 施主銘には、個人銘のほかに、「講中」とか、「善信女二十二人」のように、一括して記す場合もあり、代表者の名前を刻む例もある。

     庚申塔の形態
 これについては、すでに本誌130輯で述べたので、個々では簡単にふれておこう。
 庚申塔を外観上から分類すると、庚申板碑・庚申石祠・一般庚申塔・特殊庚申塔に4大別できる。私達が普通見ているものは、一般庚申塔である。これは、さらに板碑型・光背型・板駒型・笠付型・駒型・柱状型・自然石・丸彫り・雑型の9種に細分される。

 庚申板碑は、庚申供養のために建立された板碑をいい、庚申石祠は、石祠型式の庚申塔である。特殊庚申塔は、磨崖・五輪塔・宝篋印塔・層塔・石燈籠・石幢などで、庚申供養のために造られたものを呼ぶ。

 一般庚申塔は、各地で見る機会があるから省略して、その他のもので東京都にある例を1件1例で紹介しておく。
   庚申板碑   長享2年  練馬区石神井台1丁目 石神井図書館
   庚申石祠   元禄8年  足立区綾瀬2丁目 北野神社
   五輪塔    正保3年  杉並区永福1丁目 永福寺
   宝篋印塔   寛永3年  目黒区中目黒3丁目 十七ガ坂墓地
   層  塔   明暦4年  調布市深大寺町 城跡
   石燈籠    寛文9年  北区田畑町 与楽寺
   石  幢   承応2年  杉並区1丁目 西方寺

     変化に富む主尊
 庚申塔の本尊として青面金剛が定着して普及するまでは、塔面にさまざまな主尊が登場する。庚申とを調べる楽しみの1つは、主尊の多様性にあるといえよう。実に変化があって、通常目にする石仏の多くが主尊として迎えられている。東京都で見られるものを1件1例で示すと
   釈迦如来   延宝6年  文京区大塚4丁目 大塚公園
   阿弥陀如来  元和9年  足立区花畑町 正覚院      来迎3尊
   阿弥陀如来  貞享1年  文京区関口2丁目 大泉寺    来迎1尊
   定印弥陀   寛文2年  大田区大森北3丁目 密蔵寺
   合掌弥陀   元禄9年  町田市木曽町 観音堂
   薬師如来   正保4年  板橋区志村1丁目 延命寺
   大日如来   承応3年  台東区浅草2丁目 銭塚地蔵   胎蔵界
   聖 観 音  寛文3年  大田区田園調布1丁目 密蔵院
   馬頭観音   宝永7年  板橋区大原町 長徳寺
   如意輪観音  延宝6年  荒川区南千住6丁目 素盞雄神社
   卅四観音   享保5年  江戸川区東瑞江2丁目 下鎌田地蔵堂
   地蔵菩薩   万治2年  墨田区向島5丁目 長命寺
   六 地 蔵  元禄15年  町田市野津田町丸山
   勢至菩薩   元禄11年  青梅市吹上 本橋家
   不動明王   貞享1年  八王子市館町 梅元庵
   倶利迦羅   寛文6年  豊島区高田 金乗院(目白不動)
   帝 釈 天  明治14年  目黒区平町2丁目 帝釈堂
   仁   王  元禄10年  足立区本木町 三島神社
   閻 魔 王  貞享2年  北区中十条2丁目 地福寺
   猿 田 彦  文化11年  檜原村白倉
   狛   犬  享保6年  新宿区柏木4丁目 鎧神社
   御 幣 猿  延宝8年  世田谷区給田 観音堂
などがあげられる。神奈川県では、富士の御師が発行した升形牛宝の掛軸の図柄を塔に刻んだものがみられるし、聖徳太子や双体道祖神を主尊とした塔がある。
 全国各地に分布する庚申塔の中には、以上にあげた主尊以外の刻像が見られるかもしれない。まだまだ未知の主尊が現れる可能性を残している。

     青面金剛のいろいろ
 文字塔には、早くから現れていた青面金剛ではあるが、刻像として登場するのは承応年間以降である。寛文年間には各地で造立されるようになり、元禄年間には広い地域にわたり、しかも量的にも1段と多くなる。以後、青面金剛は、庚申の主尊としての王座を占め、他の主尊を引き離し、刻像塔を独占して青面金剛時代を現出する。

 伝尸を駆除する青面金剛は、伝尸と三尸の関連から庚申信仰に取り入れられ、礼拝本尊に加えられる。江戸時代には広く各地に普及して、庚申の主尊として定着する。青面金剛は、『陀羅尼集経』にその像容が説かれているけれども、現在各地でみられる青面金剛は、経軌に示された2童子・4薬叉を伴う2鬼上に立つ3眼4手像とは異なっている。一般には、中央の2手が合掌あるいは剣と人身を持つ6手像が造立された。

 青面金剛は、経軌に説かれた形ではなく、6手像が主流となるけれども、各地の刻像を調べてみるといろいろと変化が認められる。そうした例を東京都の塔から1件1例で示してみると、
   2   手  寛文6年  三鷹市中原4丁目 菊地宅角
   4   手  明和1年  小平市御幸町 海岸寺 (現亡)
   8   手  文化12年  府中市天神町3丁目 路傍
   3   面  宝永6年  田無市本町3丁目 総持寺
   座   像  元禄3年  杉並区成田西3丁目 宝昌寺
   陰   刻  宝永5年  小金井市前原町5丁目 共同墓地
   丸   彫  正徳4年  保谷市泉町2丁目 路傍などがあげられる。なお儀軌に記されてた4手像ではないが、2童子と4薬叉を伴って鬼上に立つ6手像の例として、板橋区板橋4丁目・東光寺の寛文2年塔を加えておく。

     文字塔あれこれ
 一般に多く造られた文字の庚申塔では「庚申」とか「庚申塔」「庚申供養塔」と彫られている。比較的早い時期に建てられたものでは、そのような簡単なものではなく「奉待庚申十六仏成就供養所」あるいは「為庚申待意趣者二世安楽也」「奉造立石塔一基庚申現当二世攸」「奉造立庚申待一座供養各一結現当安楽所」(以上東京都の例)などのように長いものが多い。

 文字塔においても「青面金剛」や「青面金剛明王」「青面王」などのように、主尊の尊名を刻むものがみられる。「帝釈天王」「猿田彦大神」「山王大権現」「道祖神」などはそうした例である。また、「南無阿弥陀仏」の六字名号や「南無妙法蓮華経」の題目をほったものもある。

 「庚申」系統の文字塔を集めても、バライティがあり、前記以外にも「庚申塚」「庚申墳」「庚申碑」「庚申燈」「庚申尊」「庚申講中」「庚申仏」「庚申神」「甲申当」「甲申塔」「庚甲塚」「五庚申」「七庚申」「百庚申」「千庚申」などがある。
 百庚申の一石文字塔の中には、単に「百庚申」と彫ったものもみられるが、群馬県下では「庚申」を百様の字体で刻んだ塔がある。書家が腕をふるって書き上げている。縁起物の風呂敷に「寿」を様々な形に書くと同じ筆法である。楷書体あり、篆書体もみられて、なかなか雅味のある塔だ。

     さまざまな猿
 山中共古翁は、庚申塔を「三猿塔」と称して、その著『共古随筆』の中に1章を設けている。3猿塔とは、庚申塔の異称としてふさわしい位に、庚申塔と3猿との結びつきは密接である。

 庚申塔の魅力の1つに、猿の姿態の変化があげられる。庚申塔を知らなくても、みざる・きかざる・いわざるの3匹の猿が彫られている石塔だいえばわかるほど、3猿は庚申塔のシンボルである。
 東京にある古い庚申塔に刻まれた3猿は、お行儀のよい菱形である。神奈川の三浦半島で見られる3猿は、早い時期から横向きになったり、脚を延ばしたりして自由な姿勢をしている。いわば、東京のが楷書的であるとすれば,三浦のは草書的であるといえよう。
 東京でも、時代が下ってくると、菱形のお行儀のよいものがくずれ、烏帽子をかぶったり、狩衣やチャンチャンコを着たり、手に御幣や鈴、あるいは扇子などを持って、自由なポ−ズをするものが現れてくる。桃の木にぶらさがる3猿や駒曳きの3猿なども刻まれている。千葉県野田市内にある庚申塔の猿は、変化に富んでいて面白い。

 庚申塔に彫られている猿は、圧倒的に3猿が多いけれども、1猿・2猿・5猿・群猿もみられる。
 1猿の場合には、主尊として登場するし、1鶏を伴って下部に刻まれることも多い。2猿は、通常横向きで拝む姿が多く、この型式のものを「日光型」とか「下野型」とか呼んでいる。5猿のものは町田市広袴・天王山にある延宝5年塔に刻まれているもので、横向きの合掌2猿と3猿が同居している。群猿のものは、神奈川県藤沢市江ノ島にある無年記の塔に浮彫りされたもので、各書に紹介されて有名である。
 一般に、庚申塔の猿の性別は、はっきりしない。しかし、よく観察すると牡牝の別が明らかなものもある。目黒区下目黒1丁目・大円寺の寛文7年塔の3猿は、向かって右から牡・牝・牡の順に並んでいる。文京区、新宿区や江東区の塔の中にも牡牝の区別できるものがあり、中には無性のものがまじっていたりする。

 以上、東京都にある庚申塔を例にして述べてきたが、前にも書いたように庚申塔は各地に分布しているから、それぞれの土地の塔と比較していただくと、その地域の郷土性が明らかになり、特色もわかっていただけると思う。猿の姿態の変化をカメラで追うのも面白い。ともあれ、庚申塔に興味を持って接していただければ、その魅力もわかっていただけるであろうし、この小文が少しでもそのきっかけになれば幸いである。

 紙幅の制約もあって、まだふれたい点も割愛しなければならなかった。詳しくは清水長輝氏の『庚申塔の研究』を参照されるとよいが、現在では入手が難しい。入手可能のものでは故平野実氏の『庚申信仰』(角川選書)が手頃だろう。庚申塔には、まだ未知の部分が残されている。山梨の矢島斉氏は、茅野市内で「伊勢講供養」と刻んだ3猿塔を発見されている(同氏著『路傍の石仏』)庚申信仰と伊勢講との習合を示す資料として貴重である。こうした例は、各地で調査が進めばあきらかになろう。                『あしなか』160輯(山村民俗の会 昭和53年刊)所収
大日主尊の庚申塔

 庚申塔には、じつにさまざまな主尊が登場する。東京都の場合を見ても、釈迦如来・薬師如来・阿弥陀如来・大日如来・聖観音・馬頭観音・如意輪観音・卅四所観音・勢至菩薩・地蔵菩薩・不動明王・倶利迦羅不動・閻魔・仁王・帝釈天・狛犬・猿田彦・青面金剛・猿とさまざまである。神奈川県では、聖徳太子や双体道祖神が主尊となるものがあり、鹿児島県では、水天や田の神がみられる。こうした多種の主尊の中では、青面金剛の6手立像が圧倒的に多いのは、いうまでもない。ここでは、大日如来を主尊とした庚申塔を紹介しよう。

 大日如来は梵名をマハ−ヴァイロチャナといい、摩訶毘盧遮那と音写される。摩訶は大・多・勝、毘は普遍・広博・高顕、盧遮那は光明・美麗・与楽の意味を持つところから最高顕広明眼蔵如来、無量無辺竟如来、広博身如来、あるいは一切法自在牟尼などの異名を持つ。太陽の威力をさらに上回る大光明を備えるところから大日如来と称する。密教では、最高至上の仏であり、すべての諸仏諸菩薩はこの如来より生じ、すべての働きもこの如来の徳とされる。その形像は、如来としては例外の菩薩形に作る。胎蔵界大日如来は法界定印、金剛界大日如来は智拳印を結ぶ。

 大日如来を主尊とした庚申塔で、最も知られているのは、東京都台東区浅草・銭塚地蔵境内にある承応3年塔である。髪髻冠をいただいき、法界定印を結ぶ胎蔵界大日座像を光背型塔の中央に浮彫りし、その下に横向きの合掌1猿と1鶏を陽刻する。頂部に「ア−ンク」の種子を彫り、冠の左右に浮彫りの日月をおく。像の左右には「奉造立大日如来尊形一宇所 大日一念三千金剛三密百界一如 皆是大日矣爰以酬庚申供養」「悉立此尊者也因茲信心施主 等現者待無病自在徳當者 三五智明朗之覺位而 承応三甲午暦四月□□」の銘文があり、基部には「鬼澤弥左衛門」など16名の施主銘と「石仏師 斉藤七左衛門」を記す。

 胎蔵界大日を主尊とする塔は、神奈川県横浜市保土ヶ谷区今井町・金剛寺境内にもみられる。光背型塔の頂部に「ア」字、その下方左右に陰刻の日月、中央に大日浮彫り座像、その下に3猿を陽刻する。座像の左右に「元禄十丁丑年」「十月十三日」、3猿の右に「左江かまくら道」、下部に施主銘9名の氏名を記している。

 まだ調べていないけれども、武田久吉博士の『路傍の石仏』(第一法規 昭和46年刊)によると、山梨県富士吉田市の吉田口登山道2合目に笠付型塔があり、正面に胎蔵界大日座像、両側面に聖観音と青面金剛を浮彫りする。台石に3猿がある。大日の首の左右に「諸願成就」、下に7人の氏名、その外側に「宝永四丁亥年六月十七日 武州御茶水 暮沢善兵衛講中」と記すという。
 胎蔵界大日の種子は、「ア」あるいは「ア−ンク」で、「ア」字を主尊の座に置く庚申塔が、東京都東大和市奈良橋・雲性寺にある。隅丸型塔の上部に、蓮華座に乗る月輪に「ア」を刻み、下に塞目・塞耳・塞口の3猿を陽刻する。裏面に「正徳六丙申三月 法印傳栄」の銘がみられる。

 法界定印の胎蔵界大日ばかりでなく、智拳印を結ぶ金剛界大日も庚申塔の主尊として登場する。千葉県流山市流山8丁目の江戸川堤下には、寛文6年の丸彫り金剛界大日立像がある。「奉造立庚申供養衆二世成就処」の銘を刻む。
 神奈川県津久井郡藤野町上河原・東照権現跡に笠付型正面中央に智拳印を結ぶ座像を半肉彫りし、下部に3猿を陽刻する延宝8年塔が見られる。両側面と裏面に「相州津久井郡佐野川之内道常村」「奉造立南無山王権現当村善男子善女人念佛之供養為現世安穏後生善所也」「干時延宝八庚申十月吉祥日」の銘文を記す。

 東京都町田市図師町日向の路傍には、正面中央に金剛界大日を浮彫りした笠付型塔が建っている。正面と両側の3面下部に猿を配置する。両側面に「奉造立青面金剛尊」「元禄貮己巳天十月吉祥日」の銘文が刻まれているところから、元禄の頃にこの一帯に普及してきた青面金剛の影響を受けて、青面金剛として大日を造像したものと思われる。
 同じ町田市内には、三輪町下三輪に寛文9年の庚申石祠があり、中尊が智拳印の大日座像である。石祠室部前面には「ア」字と2鶏2猿、「奉造立庚申供養二世安楽」「寛文九己年十二月□日」、右側面に「供養同行七人敬白」と「斉藤平兵衛」など8人の氏名、左側面に1猿と「武州多摩郡 田之庄下三輪邑」の地銘を刻む。下部には「下三輪村」の銘が見られる。

 千葉県教育委員会発行の『千葉県石造文化財調査報告』(昭和55年刊)によると、同県葛飾郡沼南町手賀柏作に大日如来と3猿の刻像がある寛文8年塔の報告が載っている。印相が明らかでないので金・胎いずれか不明である。
 加藤和徳氏の『入間郡東部 路傍の庚申塔集録』(私家版 昭和45年刊)には、埼玉県富士見市水子山崎の年不明塔が報告されている。板駒型塔の上部に瑞雲を伴う日月を浮彫りし、中央に「大日如来」の主銘、下部前面に3猿を厚肉彫りする。
 以上に見てきたように大日如来の刻像塔や種子塔、あるいは文字塔の中に庚申供養の造塔がある。庚申塔の中では、きわめて稀な数ではあるけれども、まだ発見される可能性がある。庚申懇話会の芦田正次郎さんから聞いたところでは、千葉県流山市内にもう1基あるらしい。

 庚申縁起の中に「庚申の日は青面金剛を上首とし、大日如来阿しゆくほうしやう弥陀釈迦云々」とか、「文殊菩薩・薬師如来・大日如来を本尊として、過去七仏をねんじ給ふべし」、あるいは「庚申ノ表ヲ拝シ奉レバ三方荒神、御信躰ハ十一面観世音、内証ヲ尋奉ルニ金胎両部ノ大日ノ尊影也」(窪徳忠博士『庚申信仰の研究』 学術振興会 昭和36年刊)のように、大日如来にふれた部分がある。こうした庚申縁起がどの程度、大日如来主尊の庚申塔建立に係わりがあっのか明らかではないけれども、造塔の背後には、密教系の僧侶などの指導があったと思われる。しかし、町田市図師町の元禄2年塔の場合には、大日如来を青面金剛と誤解している節がみられるから、かならずしも指導者だけの問題でもなさそうである。(昭56・ 3・22記)
薬師主尊の庚申塔  『野仏』第13集(多摩石仏の会 昭和56年刊)所収

薬師如来は、梵名バイサジャグルヴィツ−ルヤタタ−ガタ、「薬師瑠璃光如来」と訳される。略して「薬師」、「医王尊」の別称がある。来世の世界である西方浄土の教主・阿弥陀如来に対して、東方浄土の浄瑠璃世界の教主として衆生の現世利益を司る。十二の大願をたて、衆生の物心両面の苦悩を除く仏として信仰されてきた。その形像は、右手を施無畏印、左手に薬壺を執るのが一般的であるが、石仏では両手で薬壺を捧持するものが多く見られる。

 庚申縁起の中には、いろいろな仏・菩薩が礼拝本尊として登場する。薬師如来もその一つで、大分・宇佐八幡宮の「庚申因縁記」や天理図書館蔵の「庚申之本地」などに、「戌亥ノ時ニハ文殊薬師各々過去ノ七仏ヲ可念」とか、「戌亥の時には文殊菩薩・薬師如来・過去七仏お念じ奉るべし」と記されている。あるいは、青森・柳沢氏蔵の「庚申縁起」などには、「辰巳の時には薬師如来」とあり、奈良・金輪院の「庚申待祭祀縁起」には、「戌亥ノ時ニ至テ、本尊ノ呪、不動・薬師・文殊ノ呪い、七仏ノ宝号ヲ唱フベシ」とある。縁起の中には、例えば叡山文庫蔵の「庚申雑々」のように、「戌亥ノ時ハ文殊ヲ念ジ」と、薬師が省かれる場合がある。しかし、同様な記述であっても、清水長明氏蔵の「庚申待之縁起」には、虎卯の時に「薬師真言 チンコロコロセンダリマトウギソワカ」を百回唱えるように「庚申之夜勤之目次」に示されている(窪徳忠博士『庚申信仰の研究』)。

 以上見たように、庚申縁起の礼拝本尊として登場する薬師如来が庚申塔の本尊となるのは、けして無縁ではない。薬師を主尊とした庚申塔で最も広く知られているのは、東京都板橋区志村1丁目の延命寺境内にある正保4年塔である。頭上に輪後光を持ち、両手で薬壺を捧げる座像を光背型の中央に浮彫りする。像の右には、「正保四丁亥暦 庚申待」左には「二月大吉日 結衆敬白」と銘文が刻まれている。清水長輝氏は「この石塔には全面的に彫りなおした形跡がみられ、銘文も新しくきんだもので、資料的価値がほとんどなくなってしまったのは、いかにも残念に思う」(『庚申塔の研究』)と指摘している。

 板橋区にはもう1基、同書にふれられている塔がある。赤塚5丁目の上赤塚観音堂境内に見られる光背型塔だ。志村のと異なり、立像で右手を下げて薬壺状のものを持ち、左手に棒状のものを執る。像の右に「奉造立薬師如来像供養庚申為二世安楽也」とあるから、この像は、薬師として造られたものであろう。『佛像図彙』に示された「七仏薬師」の中には、右手に蓮華、左手に薬壺を持つ「金色宝光妙行成就王」と、右手に宝剣、左手に薬壺を執る「法海雷音如来」が描かれ、持物を執る手が逆であるが、この立像に近い尊容である。棒状のものが明らかならば判断できるが、定かではないのでいずれかであろう。なお、像の左には「干時(異体字を使用)延宝四丙辰天二月七日」とあり、像の下部左右に12名の施主銘を記す。
 東京都には、薬師主尊の塔がさらに1基見られる。東大和市清水の清水神社境内にある木祠には、薬壺を膝上に捧持する丸彫りの座像が安置されている。像と1石造りの台石正面には、「庚申供養宅部江 同行十七人」とあり、側面に「宝永七庚寅年」、「二月吉日」と刻まれている。

 埼玉県蕨市錦町6丁目の堂山墓地には、上部にバイ種子入りの天蓋を薄肉彫りし、中央に薬壺を捧持する立像を半肉彫りした光背型塔がある。像の右に「奉起立庚申為逆修菩提 信心」、左に「寛文十戌年十月廿日 施主」、下部中央に「敬白」、その左右に施主銘を2段4行ずつ、「東光寺」と「惣右衛門」など15人の名前を刻む。
 志木市から昨56年に刊行された『志木市史 石造遺物』によると、上宗岡4丁目の浅間神社境内には、薬壺を両手で捧持する立像を浮彫りした光背型塔がある。銘文は、像の右上方に「圓成諸願三彭伏」と「即減七難七福生」の2行、その下に「寛文十一年」、左上方に「現世當來本安穏」と「六塵不悪古今清」の2行、その下に「辛亥十一月十五日 施主十人」とある。なお、銘文中の「即減」は 「即滅」のように思うが、未見で同書の写真では確認できない。
 埼玉県にはいま1基、岩槻市馬込の満蔵寺に薬師を主尊とした庚申塔がある、と中山正義さんから聞いている。後日同氏から詳細な報告がなされると思う。

 一昨年に千葉県教育委員会から発行された『千葉県石造文化財調査報告書』には、薬師主尊の庚申塔として、船橋市西船5丁目の辻にある笠付型途を記載している。寛文10年9月吉日の造立で、「奉造立薬師如来庚申待結衆念願成就二世安楽攸」の銘文が刻まれているという。立像であるのか、座像なのか、また持物や印相についてふれられておらず、不明である。

 以上見た薬師如来主尊の庚申塔の造立年代は、不明の1基を除いて、正保1基、寛文3基、延宝1基、宝永1基である。清水長輝氏のいわれる第2期の混乱時代(前掲書)に、その大半が造像されている。赤塚の立像を除いて、像容の明らかな4基は、いずれも両手で薬壺を捧持している。立像3基、座像2基であり、浮彫り像4基に対して丸彫り像1基という内容である。これまで3猿伴う塔が発見されていないのも、注目すべきことだろう(註1)。それだけに、薬師主尊の庚申塔は見落とされる可能性が強いが、石仏の場合には、薬師の造像自体が少ないから、今後、発見されたとしても、そう多い基数にはならないだろう。(昭57・2・17記)

(註1)その後、船橋の寛文10年塔を調査した結果、この塔には3猿が陽刻されいる。従って、3猿なしが4基、3猿付が1基となる。
                   『野仏』第14集(多摩石仏の会 昭和57年刊)所収
相模原庚申餘話

神奈川県相模原市は、私がホ−ムグランドとする多摩地方に境を接しているから、関心のある所である。僅か5回の調査で、その1部を廻ったに過ぎないから、全市的な範囲で云々できないために、最後の調査から7年経た今も、調査資料はそのままの状態である。最近、同市教育委員会発行の『石仏調査報告書』(昭和53年刊)を入手した。それによると、庚申塔の調査は昭和昭和53年度の予定だという。今のところ私は、市内の調査を続ける予定はないから、これまで見たり聞いたり、調べたりしたことを書いておく必要があろう。それが調査資料の活用にもつながり、この方面を調査される方々に何かのお役に立つことだと思う。

     弥陀主尊の塔
 前項に書いたように、まだ(相模原)市内の調査が全地域をカバ−していないから、調査洩れの塔があって、その中に弥陀主尊の庚申塔が発見される可能性がある。しかし、それはそれとして、今まで調べたものを造立年代順にあげると
   1 延宝3 定印弥陀・3猿      笠付型 相原町 正宗寺墓地
   2 元禄11 定印弥陀・3猿      笠付型 下溝 古山十二天社
   3 元禄13 定印弥陀・3猿      笠付型 当麻 無量光寺
   4 享保5 定印弥陀・3猿      笠付型 当麻 無量光寺のように、定印弥陀主尊の塔が4基である。この他にもう1基、風化して主尊の判定に苦しむのが
   参 寛保1 合掌像・3猿       笠付型 当麻 浅間神社である。合掌弥陀か合掌地蔵であろう。頭部の現状といっても調査当時の状態を見ると、地蔵のように思われるが、はっきりとそうと断定はできない。

 伊東重信氏は、『日本の石仏』第3号(昭和52年刊)に「神奈川県にみられる山王系の庚申塔」を発表されている。それには、神奈川県下の弥陀主尊の庚申塔の分布図が載っている。資料が不充分なせいか、相模原市及びその周辺が空白になっている。しかし市内の阿弥陀主尊の庚申塔を知る上で有益である。高座、津久井地方で洩れた次のような塔を補えば、相互の関連も掴めるであろうし、神奈川県下における状態もわかるであろう。私の調査した範囲では、分布図に前記の市内4基の他に、相模原市外にある
   5 延宝  日月・来迎弥陀・3猿   笠付型 大和市上和田 薬師堂
   6 延宝  合掌弥陀・3猿・蓮華   板碑型 藤野町日連・杉
   7 延宝7 合掌弥陀・3猿      笠付型 相模湖町与瀬
   8 元禄12 合掌弥陀・3猿      笠付型 相模湖町関口
   9 享保3 日月・合掌弥陀      笠付型 津久井町長竹 春日神社が洩れている。さらに八代恒治氏の報告(本誌第27号23頁)によると
   10 享保3 日月・定印弥陀      笠付型 城山町久保沢がある。こうした市周辺に散在する阿弥陀主尊の庚申塔との関係を考慮する必要があろうし、県外のために分布図に示されていない隣接する町田市内のものも加えて考えるべきだろう。
                     『庚申』第77号(庚申懇話会 昭和53年刊)所収
東京都の弥陀刻像庚申塔

 庚申塔を主題としたある論考を読んでいたら「弥陀刻像塔は江戸、武蔵に少なく、神奈川地方に多くみられ」云々、という箇所に出会った。現在の神奈川県は、相模国だけの印象を与えるが、武蔵国の1部も加わっているのである。従って「神奈川地方」といっても武蔵が含まれているのだから、おそらくその論考の筆者がいう「江戸、武蔵」は、東京都を指したものと思えるし、さらに埼玉県を加えた範囲を想定していったのかもしれない。いずれにしても江戸期と現在を混同しており、不適切な地域区分であり、誤解を招きやすい。

 伊東重信氏が『日本の石仏』第3号に発表された「神奈川県にみられる山王系の庚申塔」によると手持ち資料による神奈川県内の弥陀刻像庚申塔(以下弥陀庚申塔と略称する)は69基である。分布図(26頁)によって武蔵分の基数を調べると20基ある。つまり相模分は、その差49基になる。東京と埼玉に30基以上の弥陀庚申塔があるとすれば、神奈川の20基(武蔵分)を加えて「江戸・武蔵には少なく」とはいえないことになる。伊東氏の分布図からみると、相模分には少なくとも10基の記載洩れがみられるから、40基以上なくてはならないが。

 たまたま私は、東京との観音刻像庚申塔を調べていたところでもあったので、弥陀主尊のものも併行して調べてみた。本来ならば、埼玉県まで範囲を拡げなくては武蔵国にならないが、東京都だけを調査しても、おおよその見当はつくと思われる。
 試みに手元にある埼玉の調査資料の何冊か当たったところ、寛文期の弥陀主尊のものがみられた。『八潮の金石資料』(昭和51年刊)には寛文元年塔、『志木市の文化財 第二集』(昭和47年刊)には寛文12年塔、『三郷市内庚申塔調査報告』(刊年不明)には寛文13年塔が報告されている。こうした少ない例からも、埼玉県内に弥陀庚申塔が分布することは間違いない。

 さて、文献資料も含めて手元にある東京都の調査資料から弥陀刻像の庚申塔を抜き出してみると
   1  元和9  来迎三尊  板碑型  足立区花畑町 正覚院
   2  正保4  来迎三尊  板碑型  荒川区町屋2−8 原稲荷
   3  万治3  来迎一尊  光背型  江戸川区桑川町 称専寺
   4  寛文2  定印座像  光背型  大田区大森北3−5 密蔵院
   5  寛文3  来迎一尊  光背型  中野区上高田5−21 東光寺
   6  寛文3  来迎一尊  光背型  中野区新井5−3 梅照院
   7  寛文4  定印座像  笠付型  足立区千住仲町 源長寺
   8  寛文4  来迎一尊  光背型  墨田区墨田5−31 多聞寺
   9  寛文6  来迎一尊  光背型  文京区関口2−3 大泉寺
   10  寛文6  来迎一尊  光背型  葛飾区東新小岩4−8 正福寺
   11  寛文9  来迎一尊  光背型  葛飾区四ツ木3−4 善福寺
   12  寛文10  来迎一尊  光背型  板橋区赤塚4−36 青蓮寺
   13  寛文12  来迎一尊  光背型  大田区新蒲田2−3 金剛院
   14  寛文12  来迎一尊  光背型  大田区田園調布7−30 照善寺
   15  寛文12  来迎一尊  光背型  新宿区西大久保2 全龍寺
   16  寛文12  来迎一尊  光背型  墨田区墨田5−42 円徳寺
   17  寛文13  来迎一尊  光背型  葛飾区四ツ木1−25 西光寺
   18  寛文13  来迎一尊  笠付型  品川区大井4−22 西光寺
   19  延宝4  来迎一尊  光背型  調布市深大寺町野ケ谷 諏訪神社
   20  延宝5  定印一尊  笠付型  町田市小山町三ツ目 日枝神社
   21  延宝8  来迎一尊  光背型  北区滝野川2 正受院
   22  延宝8  来迎一尊  光背型  板橋区赤塚5−26 観音堂
   23  延宝8  定印座像  笠付型  墨田区東向島3−8 法泉寺
   24  延宝8  来迎一尊  光背型  大田区多摩川1−5 遍照院
   25  天和2  来迎一尊  光背型  江戸川区東小岩2−24 善養寺
   26  天和2  来迎一尊  光背型  大田区新蒲田2−3 金剛院
   27  天和3  来迎一尊  笠付型  葛飾区水元猿町 円蔵寺
   28  貞享1  定印一尊  笠付型  八王子市山田町 山田会館
   29  元禄2  来迎一尊  光背型  足立区本木西町17 吉祥院
   30  元禄2  合掌一尊  光背型  町田市成瀬 吹上路傍
   31  元禄4  来迎一尊  光背型  板橋区大山西町
   32  元禄7  定印一尊  笠付型  八王子市万町 観音寺
   33  元禄9  合掌一尊  笠付型  町田市木曽町 観音堂
   34  宝永2  定印一尊  笠付型  八王子市寺田 榛名山神社裏山
   35  宝永2  合掌一尊  笠付型  八王子市長房町中郷
   36  享保4  定印一尊  笠付型  町田市上小山田町平台
   37  元文5  合掌一尊  柱状型  町田市小山町中村
   38  年不明  来迎一尊  光背型  足立区千住2−62 金蔵寺
   39  年不明  合掌一尊  柱状型  八王子市宇津貫町 福昌寺
   40  年不明  合掌一尊  笠付型  八王子市中山
   41  年不明  合掌一尊  笠付型  八王子市上川町 三光院
   42  年不明  定印一尊  光背型  町田市金森 西田
   43  年不明  定印一尊  笠付型  日野市日野 普門寺
   参  宝永X  来迎三尊  光背型  足立区西新井1−15 総持寺
相模の59基と比較して少ないとはいえない。また地域的に1部が重複するけれども、神奈川と武蔵の比較も、埼玉の塔数が加わると必ずしも「武蔵が少ない」とはいい切れないだろう。

 単純に弥陀庚申塔の塔数算出が動機で、資料の中から選び出したが、前記のように造立年代順に一覧してみると、2つの大きな流れに気付いた。1つは区部の来迎弥陀を主尊とする流れ、他は多摩地方・・というよりは南多摩というほうが適切であるが・・合掌・定印弥陀を主尊とする流れである。前者が寛文期を主体とするのに対して、後者は延宝以降に造立されている。後者については、隣接する相州の津久井・高座の両郡との交流が考えられるし、同じような傾向が両郡にみられる。区部と南多摩における弥陀庚申塔の造立年代の差は、庚申塔造立の風習や青面金剛の普及年代の違いとも関係があるだろうし、石造文化圈や指導者の系統が異なることも関連するだろう。

 多摩地方の弥陀庚申塔の中で注目されるのは、八王子市山田町の貞享元年塔正面上部に「山王大権現」と刻み、その下に定印弥陀像を半肉彫りした点である。同市南浅川町には定印座像を主尊とした寛永5年の懸仏があり、山王社の御正体である。山王と庚申とが弥陀を共通項として結びついていることが、この2例からうかがえる。

 神奈川県になるが、相模湖町寸沢嵐に宮崎家墓地にある延宝5年笠付型塔は、正面に日月・合掌弥陀・3猿の刻像、側面に「奉造立山王為庚申供養二世安稔之也」の銘文がある。ここでも庚申と山王は、合掌弥陀を仲介として結びついている。地理的なつらなりからいっても、どうも南多摩にみられる定印や合掌弥陀は、山王と結びつくように思われてならない。

 話が山王の問題に入っていくと、長くもなるし、本題からも外れるので、これ以上のことは別の機会に譲りたい。さて表を見ていただこう。
   弥陀庚申塔の造立年代
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・       ・ 東        京 ・ 神   奈    川 ・
   ・造 立 年 代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・       ・来迎・定印・合掌・合 計・来迎・定印・合掌・合 計・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・元和1〜寛永7・ 1・  ・  ・  1・  ・  ・  ・  0・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・寛永8〜寛永17・  ・  ・  ・  0・  ・  ・  ・  0・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・寛永18〜慶安3・ 1・  ・  ・  1・  ・  ・  ・  0・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・慶安4〜万治3・ 1・  ・  ・  1・  ・  ・  ・  0・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・寛文1〜寛文10・ 7・ 2・  ・  9・ 7・  ・ 1・  8・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・寛文11〜延宝8・10・ 2・  ・ 12・15・ 4・12・ 31・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・天和1〜元禄3・ 5・  ・ 1・  6・ 3・ 8・ 2・ 12・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・元禄4〜元禄13・ 1・ 1・ 1・  3・ 4・ 6・ 4・ 14・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・元禄14〜宝永7・  ・ 1・ 1・  2・  ・ 3・  ・  3・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・正徳1〜享保5・  ・ 1・  ・  1・ 2・ 5・ 1・  8・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・享保6〜享保15・  ・  ・  ・  0・  ・ 1・  ・  1・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・享保16〜元文5・  ・  ・ 1・  1・  ・  ・  ・  0・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・年  不  明・ 1・ 2・ 3・  6・*1・ 1・  ・  2・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・合     計・27・ 9・ 7・ 43・31・28・20・ 79・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     (註) *印は天保の再建塔を示す。
 この表は、弥陀庚申塔の造立年代別の塔数を示した。神奈川県分については、伊東氏が『日本の石仏』第3号25頁に発表されたものに、記載洩れの10基を加えて補正した。

 神奈川と東京を対比してみると、いろいろな傾向がつかめる。表からもすぐわかるように、弥陀庚申塔の出現は東京が早い。年表に示したように、東京の初期2基は、弥陀三尊来迎像である。万治以降、来迎・定印・合掌像のいずれも一尊像となる。
 定印像は、来迎像と同様に東京が先行する。区部にある3基が座像であるのに対して、南多摩のものが立像であるという特長がみられる。南多摩の傾向は、隣接する津久井・高座地方とも造立年代や立像である点など共通している。
 合掌像は、前2者とは異なり、神奈川が優先する。しかも神奈川のピークを過ぎてから南多摩に造立されている点は、見逃せない点である。定印立像と共に相模との関連が見出される。

 塔数の問題が、東京都全域を見渡すマクロ的な視野に拡がったために、今まで見えなかった部分が弥陀主尊の庚申塔を抜き出して年表にまとめる作業を通して見えてきた。まったく、思わぬ収穫である。今回のこの成果は、偶然から得られたもので、初めから意図したものではなかった。もし「武蔵は少ない」という箇所に疑問を持たなかったら、東京の弥陀庚申塔の傾向をつかめなかったろう。
 この度の資料整理を深く反省してみると、手元にある文献資料を含めた調査資料を充分に活用していなかった点に到着する。それは、なにも私だけの問題ではない。調査しただけで、そのままになっている資料、すでに発表したことのある資料といえども、角度や視野を替え、範囲を拡げて組み合わせれば、いろいろな収穫があるはずだ。調査者各自が宝の山を持ちながら、発掘されない状態ではないだろうか。しかも宝の山のあることに気付いてはいない。

 弥陀庚申塔を例にとっても、埼玉は無論のことだが、東京や神奈川にも、まだ調査洩れはあるだろう。そうしたものを見付け、3都県あるいは相武を対照比較することもできる。さらに範囲を関東地方に拡げるとどうなるだろうか。先にふれた伊東氏の論考のように、山王と関連させる角度もある。六字名号や弥陀主尊の種子を刻む塔の場合はどうなのか、青面金剛の普及と弥陀庚申塔との相関関係はどうか、などいくらでも問題は発展させられる。

 ともあれ、現在、宝の山ともいうべき手元の資料を発掘、活用することを心掛ければ、なんらかの思いがけない成果が得られるはずである。一定の範囲を調査して発表すれば終わりというのではなく何度でも調査資料を利用することである。再三の活用によってさらに新しい方向が見出されるであろう。自分1人の資料で解決がつかないならば、呼びかけて各自の調査資料を持ち寄ってもよいではないか。庚申塔については、まだまだ問題点が多い。各自が手持ち資料をもう1度見直していただきたい。(昭53・11・10記)
    ( 参 考 文 献 )
   ○清水 長輝 『庚申塔の研究』          昭和34年刊 大 日 洞
   ○平野 榮次 『大田区の民間信仰 庚申信仰編』  昭和44年刊 大田区教育委員会
   ○南博・平野榮次品川の民俗と文化』        昭和45年刊 品 川 区
   ○滝  善成 「本区庚申関係石造物の調査」『足立区文化財調査報告書』第六・七集所収
                            昭和47・48年刊 足立区教育委員会
   ○須藤 亮作 『東京都中野区の石仏』       昭和50年刊 中野区教育委員会
   ○入本英太郎他『葛飾区文化財総合調査報告書』   昭和50年刊 葛飾区教育委員会
   ○板橋区教育委員会事務局社会教育課 『庚申塔』    昭和52年刊 板橋区教育委員会
                    『庚申』第78号(庚申懇話会 昭和54年刊)所収
東京の観音庚申塔

 庚申塔に刻まれた主尊を調べてみると、「庚申さま」として一般に知られている青面金剛以外にもいろいろな仏・菩薩・明王・天などが登場する。これが、庚申塔を追いかける魅力の1つとなっている。おそらく、庚申塔の主尊が青面金剛だけに限られていたならば、庚申塔に対する興味も半減するであろう。

 清水長輝氏は江戸周辺の庚申塔を分析し、造立年代を4期に区分している(『庚申塔の研究』)。特に「初期時代」、あるいは「混乱時代」ともいえる第2期の元和から延宝年間には、さまざまな主尊が塔面に現れている。いわば「諸尊乱立時代」といえる。そうした中で、これから話を進める観世音菩薩が見出される。

 観音世菩薩は、現世では卅三のお姿に変身して衆生を救ってくれるというので、地蔵菩薩と並んで庶民の間で広く信仰されてきた。卅三現身の考えは、いろいろな変化観音に発展し、さらに卅三所観音や卅三観音を生んだ。中でも西国・番頭・秩父の卅三所の観音霊場は有名で、秩父霊場に1所加えて百番観音とした。このような観音信仰の現れが、諸尊乱立する時期に庚申塔に見出されても不思議ではないだろう。

 さて、都内にはどのような観音庚申塔が見られるだろうか。手元にある資料によってみることにしよう。まず、造立年代順にあげると
   1  承応2年  聖観音  石 幢  杉並区梅里1−4 西方寺
   2  寛文3年  聖観音  光背型  大田区田園調布1−37 密蔵院
   3  寛文4年  聖観音  丸 彫  杉並区成田東4−17 天桂寺
   4  寛文4年  聖観音  光背型  足立区綾瀬4−9 観音寺
   5  寛文5年  聖観音  光背型  文京区小石川3−2 福寿院
   6  寛文7年  聖観音  光背型  新宿区西早稲田1−7 観音寺
   7  寛文8年  聖観音  光背型  台東区根岸3−9 根岸小学校
   8  寛文8年  如意輪  光背型  練馬区旭町1−20 仲台寺
   9  寛文8年  聖観音  光背型  江戸川区長島町199 自性院
   10  寛文8年  聖観音  光背型  文京区小日向2−17 大日堂
   11  寛文9年  聖観音  光背型  杉並区高円寺南2−39 鳳林寺
   12  寛文12年  聖観音  光背型  板橋区赤塚5−26 観音堂
   13  寛文12年  聖観音  光背型  台東区浅草7−4 待乳山聖天院
   14  寛文13年  聖観音  光背型  荒川区南千住6−60 素戔雄神社
   15  延宝6年  聖観音  光背型  文京区大塚4−49 大塚公園
   16  延宝6年  如意輪  板碑型  荒川区南千住6−60 素戔雄神社
   17  延宝8年  如意輪  光背型  北区神谷3−45 自性院
   18  貞享3年  聖観音  光背型  墨田区東向島3−2 子育地蔵
   19  元禄1年  聖観音  光背型  北区堀船町3 福性寺
   20  元禄3年  如意輪  光背型  北区神谷3−45 自性院
   21  元禄4年  聖観音  光背型  板橋区成増4−3
   22  元禄4年  如意輪  光背型  北区神谷3−45 自性院
   23  元禄5年  聖観音  光背型  板橋区成増4−22 墓地
   24  元禄12年  聖観音  丸 彫  大田区山王1−6 円能寺
   25  元禄13年  聖観音  光背型  足立区綾瀬1−14 薬師寺
   26  宝永6年  如意輪  光背型  北区豊島町4 下道地蔵堂
   27  宝永7年  馬 頭  光背型  板橋区大原町40 長徳寺
   28  享保5年  卅四所  板駒型  江戸川区東瑞江2−27 下鎌田地蔵堂
   29  安永8年  馬 頭  駒 型  東村山市久米川・野行
   30  年不明   聖観音  光背型  文京区根津1−28 根津神社
の30基である。これを観音別に造立年代に従って作表したのが表1である。全体をみても、観音庚申塔が造立されたのは、寛文から元禄までの時期が主体であることがわかろう。特に寛文期と元禄期にピークがみられるが、延宝以降、青面金剛が普及し、造立されると、再び寛文期のような造塔はなくなる。
   表1  造立年代別塔数
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・元 号・聖観音・如意輪・馬 頭・卅四所・ 計 ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・承 応・  1・   ・   ・   ・  1・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・寛 文・ 12・  1・   ・   ・ 13・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・延 宝・  1・  2・   ・   ・  3・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・貞 享・  1・   ・   ・   ・  1・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・元 禄・  5・  2・   ・   ・  7・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・宝 永・   ・  1・  1・   ・  2・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・享 保・   ・   ・   ・  1・  1・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・安 永・   ・   ・  1・   ・  1・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・年不明・  1・   ・   ・   ・  1・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・合 計・ 21・  6・  2・  1・ 30・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 聖観音主尊のものは、主として寛文期にみられるから、根津神社の年不明塔もその頃に造立されたと考えられる。現在、私の知る限りでは、聖観音を主尊とした最古の庚申塔は、千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)堀江・大蓮寺の正保3年塔である。東京では、それより7年遅れて承応2年に造立されたわけである。なお、この承応2年の石幢は、6面に六観音を配するものであるが、聖観音の面に「此一躰者庚申為供養」とあるので、六観音のうち聖観音だけを主尊とみた。

 如意輪観音主尊のものは、聖観音のものより造立年代が遅く、塔数も少ない。この傾向は、東京ばかりではないであろうし、他県ではあまりこの種の主尊はみられない。神奈川県川崎市北加瀬・寿福寺の寛文9年塔が知られている。

 馬頭観音は2例、秩父卅四所観音は1例と、きわめて少なく、造立年代も宝永以降と聖観音や如意輪観音に比較して新しい。特に下鎌田地蔵堂の卅四所観音を主尊としたものは珍しく、この種の庚申塔の報告は見当たらない。

 次に都内30基の観音庚申塔を所在地別に作表したのが表2である。現在、板橋区にある仲台寺の塔は、北区より移転したもので、表2では北区に加えてある。
   表 2  所在地別塔数
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・区 市・聖観音・如意輪・馬 頭・卅四所・ 計 ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・北  ・  1・  5・   ・   ・  6・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・板 橋・  3・   ・  1・   ・  4・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・杉 並・  3・   ・   ・   ・  3・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・文 京・  3・   ・   ・   ・  3・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・台 東・  3・   ・   ・   ・  3・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・大 田・  2・   ・   ・   ・  2・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・足 立・  2・   ・   ・   ・  2・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・荒 川・  1・  1・   ・   ・  2・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・江戸川・  1・   ・   ・  1・  2・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・新 宿・  1・   ・   ・   ・  1・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・墨 田・  1・   ・   ・   ・  1・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・東村山・   ・   ・  1・   ・  1・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・合 計・ 21・  6・  2・  1・ 30・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 表2を見て気のつく点は、如意輪観音を主尊としたものは、北区に集中し、隣接する荒川区に1基みられるように、極めて狭い範囲の造立である。これに対して聖観音の場合は、板橋・杉並・文京・台東を中心に、隣接した区にも分布がみられる。

 もう1点、観音庚申塔の分布が東村山市の1市を除いて多摩地方にみられない点は注意する必要があろう。原因は、いくつか考えられるが、区部に比べて庚申塔の造立年代が遅く、青面金剛の普及後の造塔が多いことがあげられよう。

 沖本博氏の「房総の初期庚申塔について」(『千葉県の歴史』第16号)によると、千葉県の寛文期の庚申塔に十一面観音を主尊としたものが報告されている。また、吉田富雄氏は、十一面観音の木像に「(キャ)庚申」と刻まれた例を報告(『庚申』第53号)しているから、都内でも十一面観音主尊の庚申塔が発見される可能性がないとはいえない。しかしながら、現在まで明らかなものは、聖観音・如意輪観音・馬頭観音・秩父卅四所観音の4種30基である。
   〔参考文献〕
   清水 長輝 『庚申塔の研究』                昭和34年刊
   平野 栄次 『大田区の民間信仰 庚申信仰編』        昭和44年刊
   杉並区教育委員会編 『杉並の石造物・・民間信仰』      昭和48年刊
   板橋区教育委員会事務局社会教育課編 『庚申塔・・いたばしの石造文化財』昭和52年刊
                  『野仏』第11集(多摩石仏の会 昭和54年刊)所収
勢至を主尊にした庚申塔

     勢至庚申塔を知る
 青面金剛以外にも、庚申塔の主尊としていろいろな刻像がみられることは、よく知られている。東京都の場合、釈迦・薬師・阿弥陀・大日・聖観音・馬頭観音・如意輪観音・卅四所観音・地蔵・不動・倶利迦羅不動・閻魔・帝釈天、あるいは猿などさまざまなものがある。ところが、勢至菩薩が主尊というのは、最近まで一般には知られていなかった。庚申塔の研究を進める上で欠くことのできない清水長輝氏の『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)にも載っていないし、庚申懇話会発行の『庚申』創刊号〜第75号(昭和34年〜52年刊)にも全くふれられていないのである。

 勢至主尊の庚申塔の存在を私が知ったのは、埼玉県三郷市文化財調査委員会編の『三郷市内庚申塔調査報告』(昭和50年刊か)の216頁に記載された同市高須・宝蓮寺墓地にある元禄10年(1697)塔の報告によってである。この報告書を入手した昭和51年1月のことだった。その後、同県八潮市教育委員会編・発行の『八潮の金石資料』(昭和51年刊)にも、同市八条高木の清勝院境内にある寛文2年(1662)塔が76頁に紹介されており、勢至主尊の庚申塔が埼玉県下に2基あることを知った。

     勢至に対する先入観
 勢至庚申塔の存在を知ったきっかけは、前項で述べた通りであるが、それ以前に私は勢至を主尊とした庚申塔を見ていた。それは、昭和42年7月27日に調査した東京都町田市小山町三ツ目の日枝神社境内にある天和3年(1683)塔である。そこには、延宝5年(1677)造立の定印弥陀を主尊とする庚申塔がみられる。小山町は、南にある境川をへだてて隣が神奈川県という所に位置している。本誌(『日本の石仏』)第3号に載った伊東重信氏の「神奈川県にみられる山王系の庚申塔」からもうかがえるように、山王庚申塔の分布する相州の影響を受けやすい場所である。勢至庚申塔が建っている所が日枝神社であったためかもしれないが、私は、相州との関連を考えて、山王の像として合掌した立像を刻んだのでないか、などと推測した。無論、当時は勢至であろうなどとは考えたこともなく、刻像の尊名不明のままでおいた。

 次に勢至庚申塔と出会ったのは、昭和49年2月22日のこと、東京都青梅市吹上の馬頭山であった。吹上で窯跡の発掘があり、その伝承の聞き取り調査を前日に行った。たまたま訪れた所が本橋さんの家で、肝心な吹上窯についての伝承調査は失敗したが、話題が発展して以前の家業であった馬喰の話から馬頭観音に及び、持ち山に元禄の馬頭観音石像があるのを聞き込んだ。すでに青梅市内の石仏調査も終わり、報告書も提出した後であったが、元禄の馬頭となると、市内最古の可能性がある。その日は遅かったので、翌日、教えられた通りに馬頭山に行ってみた。そこには前日の話とは違い、自然石に「馬頭観世音」と刻まれた昭和の文字塔がみられたものの、隣にあった刻像塔は、馬頭ではなくて庚申塔であった。正面中央には合掌の菩薩立像を刻み、下部には3猿の陽刻がある。
 当時、報告書は市教育委員会へ提出してあり、印刷にかかるところで用紙不足から印刷費の高騰にあい、当初予算措置した額では足りず、補正予算の決定するまで印刷がストップしていた。本文の訂正はできないけれども、多少の追録は可能だというので、もう1基の調査洩れの塔と共に「市内の庚申塔」(『青梅市の石仏』所収 昭和49年刊)の文末に追録した。この時、主尊の判定に悩んだが、備考に「合掌形」と記して観音ということで記載した。
 その頃、まだ三郷や八潮の勢至庚申塔の存在を知らなかったし、勢至といえば月待塔、特に廾三夜塔の主尊としての理解しかなかった。市の報告書に書いた「西多摩地方の月待塔」(前掲書所収)の中でも勢至にふれたし、それまでにも勢至の刻像を見てきたわけだから、吹上の合掌像を勢至と判断してもよかったわけである。恐らく、3猿がなくて「月待供養」なり「廾三夜待供養」のような月待に関する銘文が刻まれていたならば、観音とまちがえるようなことはなかったはずである。勢至は月待と関連があるだけ、という先入観が強かったためである。

 一方、観音については、聖観音・如意輪観音・馬頭観音が庚申塔の主尊として登場するのを知っていた。それらの塔をすでに都内や近県で見ていたし、「市内の庚申塔」にも文京区根津・根津神社にある聖観音主尊の塔の写真を載せておいた。さらに卅三観音の中に合掌姿の合掌観音があるのを承知していた。無意識のうちに、勢至は月待、観音は庚申待という先入観が強く働いたために、吹上の像を観音としたわけである。

     勢至と合掌観音
 三郷や八潮の実例を知れば、コロンブスの卵ではないが、変な先入観など吹き飛んでしまう。勢至は、中世にも単独ではないが、観音と共に弥陀三尊形式で庚申板碑に登場している。たしかに卅三観音の中には、合掌の姿をした「合掌観音」がみられる。けれども、現在わかっている範囲でみると、卅三観音が石像として現れる時期は、江戸時代後期以降のことで、卅三観音の中でも単独に造られる魚籃観音も江戸中期以前のものは見当たらない。こうした傾向から考えても、中期以前に合掌観音が単独で造像されたとは思えない。

 例えば東京都葛飾区東金町の光増寺境内には、2手合掌菩薩形立像の上部に「サク」の種子が刻まれた寛文13年(1673)塔がある。この像は、種子からみて来迎相の勢至とみるべきであろう。これは「念佛講之結衆」の銘のある光背型塔である。
 特異な事例に属するが、市川市本行徳の徳願寺墓地には、一見、如意輪観音風な輪王座の石像の墓石がある。合掌手を突き出した像で、これも像の上に「サク」の種子が刻まれている。これも勢至であることを示している。これと同系統のものが同市湊の善照寺墓地にもみられ、背面に寛文の年号を刻んでいる。こうした事例を見ても、勢至が念佛供養なり墓石として寛文の頃に造像されていたとするならば、合掌観音の石像の出現の時期と併せて、菩薩形の2手合掌像を合掌観音とみるよりも、来迎相の勢至菩薩とみるのがより適切であろう。

     勢至庚申塔の実例
 現在までわかった勢至主尊の庚申塔は、次の5基である。いずれも合掌した来迎相の立像を刻む。以下、造立年代に従って紹介していこう。

 最も古いのは、先にふれた八潮市八条・高木の清勝院境内にある寛文2年(1662)塔である。上部に勢至を示す「サク」の種子。立像の左(向かって右側、以下同じ)には「乃至法界平等利益」「2世安楽処願成就攸」の2行、右には「奉造立勢至像一躯庚申待施主十一人」「寛文二壬刀天十月吉日」の2行、像の下部左右には「敬」と「白」の銘文がある。塔高132センチ、幅58センチの光背型塔である。

 次は、三郷市彦倉の虚空蔵堂門前にある延宝8年(1680)塔である。これも光背型塔で、高さ113センチ、幅50センチだ。像の左に「庚申供養結衆」、右に「延宝八庚申天九月吉日」の年銘下部に「奥内匠」など7名の施主銘が刻まれている。
 なお、この塔については、一言ふれておきたい。『三郷市内庚申塔調査報告』や柴田寿彦氏(本誌第5号49頁参照)は、後述の宝連寺墓地の元禄10年像を勢至としながら、同じ2手合掌のこの像を観音としている。合掌の菩薩形の像の一方を観音とし、他方を勢至に区別するからには、そこに明確な区分の基準があるからと思われる。しかし、私にはいろいろな点を勘案しても、勢至を示す種子と銘文が一方になく、他方にはあるという以外に、両者を判別することはできず、両者共に勢至と考える。

 3番目のは、町田市小山町三ツ目の日枝神社境内にある天和3年(1683)塔である。笠付型塔で、塔身の高さは69センチ、幅は29センチ、奥行が23センチある。左側面には「天和三癸亥年三月吉日」「願主敬白 清左門 次郎兵衛」の銘に不聞猿、正面に勢至立像、下部に不見猿があったと思われるが現在は欠けてない。左下に「六左右門 四郎左門」の2名、右下にも2名位の名前が刻まれていたかもしれないが、破損のため不明。右側には「奉納庚申供養請願成就所」と「文右門 五郎兵衛」の銘、下部には不言猿の陽刻がみられる。

 4番目は三郷市高須の宝蓮寺墓地にある元禄10年(1697)の板駒型塔、高さ113センチ、幅50センチである。上部に「バク」の種子、像の左に「奉庚申供養勢至菩薩像二世安楽」、右に「元禄十丁丑十一月吉日 施主十八人」、像の下部の左右に「結衆 伝兵衛」など18名の施主が刻まれている。下部には中央の不聞猿が正面を向き、右の不見猿と左の不言猿が内側を向いた横姿の陽刻である。

 5番目は、青梅市吹上の本橋家地内にある元禄11年(1698)塔で、高さ61センチ、幅31センチ。光背型塔に近い自然石というべきであろうか。像の左に「元禄十一□□九月 施主」、右に「吹上村 本橋三兵衛」の銘。下部に正面向きの3猿が刻まれている。馬頭山から最近、現在地に移された。

     勢至庚申塔の発見の可能性
 現在までのところ、庚申塔に現れる勢至像は、立像で合掌した来迎相のものばかりである。勢至には、市川の墓石のように、来迎相でも座像がある。廾三夜塔においては、例えば、東京都八王子市宇津貫町にある宝暦7年(1757)の丸彫り像のように、浄土変相図の蓮華をとる2手座像もある。これには立像もみられるから、各地の調査が進むにつれて、来迎相立像以外のものも発見される可能性があるだろう。すでに調査された庚申塔の中に、私が誤りを犯したように、観音とされたものや、尊名不明のままで処理されたものが、実は勢至主尊であったというものも出てくるだろう。

 狭い地域の調査では、判断のつかないことでも、他の地域の調査資料の中に案外、問題解決のヒントが埋もれているものである。おそらく、私の場合でも、多摩地方の資料だけでは、とうてい勢至と判断できなかったろう。たまたま入手した埼玉の調査資料から明確な勢至主尊の庚申塔を知り、誤りに気がついたわけである。

 三郷の報告書を契機として、勢至に石仏を特に注意してみると、今まで気付かなかったことも見えてきた。市川の輪王座勢至や葛飾の勢至念佛塔の発見も、そうした成果の1例である。石仏写真集などをみていると、勢至とすべき合掌二手像が観音とされる例がみられる。勢至は、独尊として観音ほどに進行が一般化されなかったためであろう。その割りには、墓石に勢至が刻まれている例があるのに驚く。今回の勢至庚申塔の場合、つくづく誤った先入観を持つと物事が正しく見えなくなることを痛感した。なお、勢至を主尊とした庚申塔をご存知の方は、ご報告いただければ幸いである。
                 『日本の石仏』第6号(日本石仏協会 昭和53年刊)所収
『異型の深夜』からの発想   ・・地蔵庚申をめぐって・・

 昭和58年4月下旬、森村誠一氏の長編小説『異型の深夜』がカドカワ・ノベルズの1冊に加わった。早くから単行本化されないか、と私が待っていた本だった。というのは昨年(昭和57年)頃であったろうか、春日部の中山正義さんから『週刊サンケイ』に連載されている小説に庚申塔が出てくる、と教えていただいた。その連載小説というのが、前記の『異型の深夜』だ。気にかかるものだから、しばらくして書店に頼んで、中山さんから報せを受けた3月11日号を取り寄せてもらった。
 森村氏は流行作家だから、近いうちに単行本にまとまるだろうと考えて、おそらく庚申塔にふれた箇所があるだろう前後の号を手に入れようとは思わなかったのである。予想した通り、単行本を見ると、前後の号にも庚申塔にふれた所があった。その後も連載が続いていたので、書店で気がつくと『週刊サンケイ』には注意を払っていたのである。

 今回、角川書店から発刊された『異型の深夜』は、週刊誌連載のすべてではなく、第5章までを収録している。『週刊サンケイ』には、第6章以降も掲載されており、後の章では秩父の庚申塔にふれた箇所がみられる。すなわち、9月9日号の「八本様」と呼ばれる8手青面金剛の登場である。この8手像が延宝6年に造立された点が、少々気になるところであるが、ここでは、角川本の第4章に書かれている地蔵庚申に的を絞ることにする。

 小説の進展については直接、本で読んでいただくとして、まず地蔵庚申の範囲の点から述べてみよう。第4章の「棄神犯」の最初に、「舟型の石板に素朴な地蔵菩薩を刻んだものである。銘文らしきものは彫られていない」(165頁上段)とある。銘文のない点は、162頁の「舟型の石板に彫られた素朴な石像、どちらにも銘文はない」や174頁の「名前や碑文が彫られているわけでもない」と、重ねて記されている。
 この銘文のまったくない地蔵庚申が「舟型の石に地蔵菩薩像を彫っている形態から判断すると、初期の庚申供養塔の様式を示している」(165頁下段)と、突然に庚申塔とされてしまう。この点については、中山さんも指摘されており、庚申塔の範囲を考えるポイントの1つでもある。もっとも、161頁の上段には
   「昔この地域は沼部村と呼ばれて、農民は庚申を信仰したそうです。すぐ近くの密蔵院という
   庚申堂が『沼部の庚申様』と称ばれて、有名なんだそうです。このように舟型の石に地蔵菩薩
   を浮き彫りにしたのは、初期の庚申供養塔の様式を示していると聞きました。そんな土地柄か
   ら、前の持ち主が庭に自前の庚申様を祀ったのではありませんか」(傍線筆者)

と、すでに伏線を張ってはいるが。
 地蔵を主尊とする庚申塔というからには、庚申供養を示す銘文か、3猿が刻まれていなければならない。銘文もなく、単に地蔵を浮彫りした石仏では、庚申塔としての条件を欠くことになる。小説の進展の上で、沼部(東京都大田区田園調布南)がからむので、単なる地蔵石仏と扱わず、庚申塔として話をふくらませている。

 他方で銘文や3猿像などの目立つ特徴があっては困るので、没個性の無銘の地蔵庚申としたのは、理解できないわけではない。しかし、条件に欠けた銘文のない地蔵石仏を庚申塔に仕上げるのは、どだい無理がある。作者の石仏に対するというより、庚申塔に関する知識のなさを物語るもので、身勝手なご都合主義だといえる。
 作中では、庚申塔とされた地蔵石仏が捨てられ、それを見付けるのが竹下和彦である。彼については
    竹下和彦は、東京のある私大で国文学の講義をしている。日本文学の古典と信仰の関係を調
   べているうちに地域の素朴な信仰の対象となっている辻の地蔵尊や庚申塔などに関心を抱くよ
   うになった。
    こうして講義のない日を利用して主に関東一円の野仏を訪ね歩き、その調査研究を集録する
   ようになったのである。

と166頁に記されている。竹下は、すでに第3章にも登場し、杉並の閑静な所に豪邸をかまえた、土地代々の素封家で33歳である(90頁下段から次頁上段)と紹介されている。専門外とはいえ、関東一円の石仏調査を進めている割りには、庚申塔に不案内なお粗末な大学講師を作中の人物としている。もっとも、一般の読者が地蔵庚申にそれほど興味を示すとは思えないし、庚申塔についても深く追求しないだろう。

 作中の地蔵石仏の所在地の関係から、小説では、大田区の庚申塔にふれた箇所がある。169頁上段に載っている「大田区は江戸時代庚申信仰が盛んで区内に庚申待の人々が建てた九〇基の庚申塔がある」だ。90基の数は、平野栄次さんが書かれた『大田区の民間信仰(庚申信仰編)』(昭和48年刊)に記載された基数と一致する。すなわち、同書に集録された庚申塔は98基で、その中で明治以降の塔2基と造立年代の不明な塔6基を差引くと90基となる。なお、平野さんは、前書に記載洩れの塔を含めた101基(明治以降の塔3基、年不明塔6基)を「大田区の石塔と石仏(4)」(『史記』12号 昭和54年刊)に発表されている。基数や密蔵院の青面金剛木像の高さの記述から考えてみると、森村氏は『大田区の民間信仰』を参考にしたと思われる。

 169頁下段では、沼部の庚申堂木像にふれた後で、「ここの庚申供養塔は大田区内最古のもので当時の沼部村民有志八名の建立によるものである。これらの形態が捨てられた石仏と同様の舟型石に地蔵菩薩を浮き彫りにしたものである」と述べ、密蔵院の地蔵庚申を引き合いにして、無銘の地蔵石仏を庚申塔であることを正当化している。しかし、密蔵院にある寛文元年の地蔵庚申には、「新奉造立供養意趣者庚申待壹塔八人現當二世安楽攸」と刻まれ、けっして無銘ではない。この点を忘れてはならない。蛇足になるが、寺には前記の地蔵庚申の他にも、寛文3年聖観音・延宝2年1猿文字塔・昭和庚申年青面金剛像の庚申塔が見られるけれども、それらについては小説ではふれていない。

 『異型の深夜』で特に発想のヒントになるのは、地蔵庚申の分布である。157頁下段の
庚申の象徴は、青面金剛像であるが、このように地蔵菩薩を彫るのは初期の形態である。これまでの野仏の調査によってこのような庚申の初期形像がよく残っているのは、多摩川縁の大田区、世田谷区、調布市、また川崎市の高津区、多摩区の一隅である

の箇所である。調布市内の地蔵庚申で思い浮かぶのは、深大寺町・池上院(現・深大寺元町2丁目12番)の光背型塔である。それと同町野ヶ谷・諏訪神社(現・深大寺東町8丁目1番)にある地蔵か阿弥陀か判断に苦しむ塔だ。三鷹の福井前通さんは、野ケ谷の塔を阿弥陀主尊と断定している。その塔の隣には、来迎弥陀を主尊とした庚申塔がある。調布市役所発行の『調布百年史』(昭和43年刊)では、前記の諏訪神社の寛文6年塔と池上院の延宝8年塔、加えて入間(現・東つつじが丘3丁目16番)の元禄13年塔の3基を地蔵庚申としている。おそらくこの本を参考にしていると思われるが元禄の地蔵は庚申塔ではない。

 ともかく多摩地方の地蔵庚申がどのような分布を示しているのか、私の『三多摩庚申塔資料』(昭和40年刊)をベースにして、福井さんの「小金井市の石仏」(『いしぶみ』5号 昭和53年刊)、島田実さん他の『八王子市石造遺物総合調査報告書』 (昭和44年刊)、犬飼康祐さんの『日野市庚申塔一覧表』(稿本 昭和57年刊)で補って年表を作ってみると
   寛文2  光背型  狛江市岩戸北 慶岸寺     多摩初出
     4  光背型  稲城市東長沼 常楽寺
     6  光背型  小金井市貫井南4 滄浪泉園
     6  光背型  小金井市中町 金蔵院
   延宝1  光背型  町田市木曽町上宿
     8  光背型  調布市深大寺元町 池上院   庚申年
     8  光背型  稲城市東長沼 常楽寺
     8  光背型  府中市若松町 常久共同墓地
   元禄2  光背型  町田市真光寺 路傍
     10  光背型  町田市相原町丸山 墓地
     10  光背型  八王子市川町
     11  光背型  日野市本町
     15  光背型  町田市高ヵ坂 地蔵堂
   宝永3  光背型  町田市成瀬 三又
   正徳2  丸 彫  稲城市百村 赤坂
     6  丸 彫  日野市日野 地蔵堂
   享保8  丸 彫  町田市成瀬 東光寺      1 猿
   延享2  丸 彫  日野市程久保 路傍
   宝暦6  光背型  三鷹市中原 路傍
   年不明  丸 彫  日野市石田 石田寺の20基があり、この他に区部(目黒区か)から移されてきた
   寛文2  光背型  昭島市拝島町普明寺      移入と、六地蔵を主尊とした
   元禄15 石 幢  町田市野津田 丸山路傍    六地蔵がある。

 年表を基にして、移入と六地蔵石幢を除いて市町村別に塔数を見ると、町田市が6基で最も多く、次いで日野市の4基、以下、稲城市の3基、小金井市の2基、狛江市・調布市・府中市・八王子市・三鷹市の各1基の順である。
 こうして見ると、舟型(光背型)で多摩川沿いの条件を満たすのは、調布市にも分布があるから間違いではないけども、稲城市にある舟型の2基がより適切といえる。調布市並みを考えれば、狛江市や府中市、さらに日野市にも資格がある。

 次に神奈川県川崎市の場合を分析しよう。八代恒治さんの『川崎市の庚申塔』(昭和40年頃刊)で地蔵庚申の年表を作ると
   寛文3  光背型  高津区久地 養周院
     3  丸 彫  中原区新城 又玄寺
     4  丸 彫  幸区北加瀬 寿福寺
     9  光背型  中原区井田 善教寺   合 掌
     11  板駒型  高津区野川 西蔵寺   合 掌(現・宮前区)
   延宝5  丸 彫  中原区木月 大楽寺
     7  丸 彫  幸区都町 延命寺
     8  光背型  幸区小倉 無量院    庚申年
     8  光背型  川崎区大島町 真観寺
     9  光背型  高津区久末 蓮華寺
   天和1  光背型  中原区下小田中 金竜寺
   元禄7  光背型  多摩区生田 観音寺
     7  丸 彫  多摩区生田 不動堂
   正徳2  板駒型  多摩区上麻生 浄慶寺  合 掌(現・麻生区)
     6  光背型  多摩区生田 明王不動
   享保1  丸 彫  高津区末長 浄慶寺   合 掌(現・麻生区)
     7  光背型  多摩区宿河原 橋本
     7  光背型  中原区市ノ坪 東福寺
     X  丸 彫  高津区久地 街道筋
   年不明  光背型  中原区今井南町 大乗院
        光背型  高津区千年 弁天社の21基で、他に六地蔵を主尊とした塔が
   寛文1  灯 篭  幸区小倉 無量院    六地蔵にある。
 区別の塔数は高津区6基、中原区と多摩区が各5基、幸区3基(他に六地蔵灯篭が1基ある)、川崎区1基の順になる。仮に初期を天和までとし、板駒型を含めて舟型とすれば、高津区が3基、中原区が2基、川崎区と幸区が各1基となる。川崎の塔については、川崎郷土研究会発行の『川崎市石造物調査報告書』(昭和56年刊)を森村氏が参照したのではあるまいか。これには、17基が収録されている。

 さらに東京区部と各種の資料を基にまとめて作表したのが、表1の「東京区部の地蔵庚申塔」である。記載洩れもあるけれども、区部の大体の傾向はつかめる。北区の21基を筆頭に、2位が足立区の14基、3位が葛飾区の7基、次いで大田区と渋谷区の5基、以下、墨田区・世田谷区・板橋区の各4基、荒川区・練馬区・江戸川区の各3基、文京区・台東区の各2基、新宿区・品川区・目黒区・杉並区の各1基という具合である。
   表1 区部の地蔵庚申塔
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・区・新・文・台・墨・品・目・大・世・渋・杉・北・荒・板・練・足・葛・江・
   ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・田・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・戸・
   ・名・宿・京・東・田・川・黒・田・谷・谷・並・ ・川・橋・馬・立・飾・川・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・塔・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・2・ ・ ・ ・1・ ・ ・
   ・数・1・2・2・4・1・1・5・4・5・1・1・3・4・3・4・7・3・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 『異型の深夜』で示された多摩川縁りと初期の光背型地蔵庚申という条件から見れば、前記の年表や表1の傾向から推して、調べて書かれていることがうかがわれる。先に小説から引用した地蔵庚申の分布には、大きな誤りはないにしても、調布市より稲城市のほうがふさわしいなど、かなずしも適切だとはいえないだろう。
 多摩川縁りという限定を除けば、足立・北の両区を中心とする地域が塔数も多く、初期の地蔵庚申の状態を保っているといえる。こうした作表を通じて、都内の地蔵庚申の分布状態が明らかになってきた。さらに横浜市や埼玉県を加えた武蔵国の範囲でとらえたら、面白い結果がえられるのではないだろうか。

 小説はあくまでも小説であって『異型の深夜』は、石仏の研究や調査を主体としたものではない。作者が自分なりに調べて書いているのも、これまでの分析と比較すればわかる。専門的にみれば、おかしな点や誤っている箇所があるにしても、小説として成功であればよいだろう。ただ私たちは、小説の石仏に関して書かれた事柄に疑問のある所から発想を得ればよい。それをバネに調べて、疑問や誤りを明らかにするわけだ。

 かねてから地蔵庚申について興味を持っていながら、特に手をつけなかった。『野仏』の地蔵特集でも、日待地蔵でお茶を濁しただけだった。『異型の深夜』に触発され、資料を集めて分析してみると、地蔵庚申の方向性が見えてきた。まだまだ、調査洩れもあろうし、誤って地蔵庚申にされた塔もあろう。それらをチェックし、広範囲に地蔵庚申を追っていけば、庚申塔の中での位置づけも明らかになるし、特徴もはっきりする。小説の読み方としては、まことに異型だろうが、発想の素材を見付ける一法としての読書も、また楽しい。   『野仏』第15集(多摩石仏の会 昭和58年刊)所収
二手青面の系譜

    東葛飾の二手青面
 庚申塔の刻まれた主尊像では、青面金剛が圧倒的に多い。儀軌に説かれた青面金剛は4手像であるけれども、一般に庚申塔面に彫られている像といえば、1面の剣人型(標準型)か合掌型の6手立像である。詳細にみると多数の青面金剛の中には3面像も見受けられるし、少ないながら2手や4手、8手の刻像も存在する。

 千葉県東葛飾地方には、特徴のある2手青面金剛を主尊とする庚申塔が14基みられ、柏、松戸、鎌ヶ谷、沼南(東葛飾郡)の3市1町と印旛郡白井町にまたがる東西12キロ、南北8キロにわたる地域に散在する。清水長輝氏は『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)の中で、合掌2手像として松戸市古ヶ先・鵜ノ森神社の元禄16年塔を、剣人2手像の例に同市上矢切の正徳4年塔と沼南町塚崎・寿量院の同年塔の計3基をあげている。その後、庚申懇話会の横田甲一氏が東葛飾地方の調査で発見された塔を加えると、現在のところ14基が確認されている。

 清水氏は松戸の元禄塔について「神をすべらかしふうにした女神像的なところが見受けられる」とし、松戸の正徳塔を「剣と人身をもちながら、二手にしたもので、たいして深い意味もなくあとの四手を省略したかとも思われるが、神像的な干時がしないわけではない」と説明している(前掲書)。松戸市上矢切の塔と共に市川市須和町・須和田神社の文化9年塔をあげ、「像の右に『国底立大神』と大書してあるので、やはり神像と見立てたものか」と解説している。この塔は、系統的には剣人2手であっても、東葛飾の14基とは姿態が異なる。

 横田氏は先に『庚申』66号(昭和48年刊)に「二手青面金剛塔」を発表され、新資料を加えて『日本の石仏』16号(昭和55年刊)で「再び二手青面金剛について」を論じている。表1は、『日本の石仏』に載った横田氏の「二手青面金剛像年表」を筆者が型式別に再編したものである。
   表1 東葛飾地方の二手青面金剛型式別年表
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・型 式・年 号・西  暦・所    在     地  ・備  考・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・合掌型・元禄10・1697・沼南町高柳・藤庚申     ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・元禄13・1700・白井町折立・香取神社    ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・元禄15・1702・鎌ヶ谷市佐津間・大宮大神  ・図59  ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・元禄16・1703・松戸市横須賀・正福寺    ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・元禄16・1703・松戸市古ヶ崎・鵜ノ森稲荷  ・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・合掌型・宝永2・1705・松戸市中金杉・医王寺    ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・宝永3・1706・松戸市松戸新田       ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・宝永4・1707・柏市元町・天王社      ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・宝永5・1708・松戸市新作・安房須神社   ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・正徳2・1712・沼南町箕輪・香取神社    ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・正徳5・1715・松戸市下通・宝蔵寺     ・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・把手型・元禄10・1697・沼南町高柳・三叉路     ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・正徳4・1714・沼南町塚崎・寿量院     ・図60  ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・正徳4・1714・松戸市上矢切・日枝神社   ・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この表からわかるように、東葛飾地方に分布する14基の青面金剛像は、沼南町高柳・藤庚申の元禄10年塔を初発とし、松戸市下通・宝蔵寺の正徳5年塔までの18年間に造られている。これらの2手像の特徴として横田氏は
    先ず頭部から見てみると、6手の場合は焔髪・蛇頭・大日如来の宝冠に似たもの等様々であ
   るがこの二手青面金剛像は、回国僧・遊行僧・修験僧などが冠っていたと想像される頭巾状の
   ものを冠っている。上衣はチョッキ状のものを着ていて、でている二本の腕は細く頼りない。
   庚申信仰から下には山袴又はスカートのようなものを穿き、帯はゴムホース状のものをまとっ
   ているのが目立った特徴である。足にはくびれがあるので、旅を穿いているのかもしれない。

と2手象の概略にふれた上で、こうした特徴に加えて
   日月、瑞雲の型、犬ころのように窒居している邪鬼、背が低く横長の二鶏、前向きの聞か猿を
   挟んだ、言わ猿及び見猿の型など皆大差ない構図である。とし、18年間の建立期間を考え
   私は本槁でとりあげた二手青面金剛は、総て同一作家の手になったものと推定している。即ち
   その作者は、講を指導していた思われる僧か修験が、自らのみを振るって刻んだか、またはそ
   の意向を受けた同一の石工の手になったものと私は推定している。

と結論づけている。さらに沼南町高柳にある正徳4年の六十六部像と結びつけて、願主の浄念がこれら2手青面金剛の建立に関与した想像されると、横田氏は論考を結んでいる。

     杉並の二手青面
 2手像は、東葛飾地方ばかりでなく、関東地方の各地でみられる。先にあげた『庚申塔の研究』には、寛文期の2手青面として
   寛文3 笠付型 埼玉県大宮市西遊馬・高城寺
   寛文6 光背型 神奈川県愛甲郡愛川町田代・上ノ原
   寛文5 光背型 東京都三鷹市中原4−16
   寛文8 笠付型 東京都杉並区方南・東運寺(釜寺)
   寛文11 光背型 神奈川県津久井郡津久井町根小屋の5基をあげ、「二手青面金剛」の項では、前項にあげた東葛飾の塔に加えて
   延宝2 笠付型 東京都杉並区高井戸東・松林寺(図61)
   延宝4 光背型 埼玉県北葛飾郡杉戸町
   宝永6 笠付型 神奈川県津久井郡相模湖町寸嵐沢・日日神社の3基が取り上げられている。
 東京都杉並区は、井口金男氏の調査(『杉並区の石造物』杉並教育委員会 昭和48年刊)によって
  寛文2 笠付型 方南2−5・東運寺
   延宝2 笠付型 高井戸東3−34・松林寺
   延宝6 笠付型 永福1−7・永昌寺
   延宝6 光背型 宮前1− 17 ・小祠(藤庚申)の4基が明らかになっている。これらの2手像に共通するのは、右手に剣、左手に羂索を持つ点である。
 こうした剣索2手の青面金剛石像は、隣接する世田谷区内にも
   延宝8 光背型 船橋1−20・観音堂
   天和1 笠付型 羽根木2・子育地蔵
の2基がみられる。羽根木の塔は、3面に猿を配しているところが杉並区永福の塔と類似する。少し離れているけれども、『庚申塔の研究』でふれた三鷹市中原4−16の寛文6年塔もある。杉並、世田谷、三鷹の塔をみると、2、3の塔の間で類似しており、同一の石工ないし集団で作られたと思われるけれども、東葛飾地方にみられるような下の共通性はない。東京の場合は、造立年代が寛文6年から天和元年にかけての15年の間であるから、剣索型の塔を建てた刻像塔の指導者が同系の僧侶か修験であったもしれない。しかし、2基ほどは同一の作者である可能性はあっても、少なくとも異なった数人の石工が2手像を刻んだものと思われる。
   表2 東京都の二手青面金剛型式別年表
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・型 式・年 号・西  暦・所    在     地  ・備  考・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・剣索型・寛文6・1666・三鷹市中原4−16      ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・寛文8・1668・杉並区方南2−5・東運寺  ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・延宝2・1674・杉並区高井戸東3−34・松林寺・図61  ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・延宝6・1678・杉並区永福1−7・永昌寺  ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・延宝6・1678・杉並区宮前1− 17 ・小祠  ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・延宝8・1680・世田谷区船橋1−20・観音堂 ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・天和1・1681・世田谷区羽根木2・子育地蔵 ・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・輪矛型・寛文10・1670・町田市相原町・大戸観音   ・図63  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 東葛飾地方では、把手型も加わる合掌の2手青面であるに対して、表2にみられるように、杉並とその周辺に分布する2手像では、右手に剣、左手に羂索を持つ青面金剛であった、領地では違いをみせている。清水長輝氏は、2手青面金剛に2系統あるとし、1つの系統は、初期に多い剣索で、不動の影響を指摘している。もう1つは、6手の中央2手だけを残して、他の4手を省略した形式とみている。後者は、さらに合掌型と剣人型とに分けられる。合掌2手像の中には、神像として受け取られた形跡が感じられることも指摘している。(『庚申塔の研究』)。その意味では造立年代のズレと杉並およびその周辺の塔が不動系統であり、東葛飾の塔が省略系統という地域差をみることができる。

     津久井の二手青面
 神奈川県津久井郡津久井町には、清水長明氏が『相模道神図誌』(波多野書店 昭和40年刊)で紹介されあ3基の2手青面金剛像が分布する。すなわち
   寛文2 光背型 馬石・県道路傍(図62)
   寛文11 光背型 根小屋・谷戸
   寛文11 光背型 長竹・稲生
である。このうち、馬石の像は、上部に「奉造立山王廾一社」銘が刻まれているから、山王の本尊と考えられていたのであろう。しかし基部に3猿が浮彫りされており、清水氏は、同書で「銘文や形式からみて、写真19(筆者註 愛川町の寛文8年塔)・20(筆者註 根小屋塔)とっけいとうを同じくする異形の青面金剛とみられる」という見解を述べている。この像(図62)は、右手に剣、左手で先端に円鏡状のものがついた棒を持っている。 根小屋と長竹の2手像は、清水氏が「頭部が異常に大きく、全体の感じは地蔵に近い」(前掲書)というほど、一見すると地蔵と思われる。この塔の主尊を地蔵でなくて、2手青面金剛とされたのは、実はこの系統の祖形が同県愛甲郡愛川町田代・上ノ原にあるからである。それは寛文8年の造立で、武田久吉博士が戦前に神奈川県の道祖神調査の際に発見された。この塔にふれて、博士は『路傍の石仏』(第一法規 昭和46年刊)で
   一見地蔵かと思われるような立像を浮彫りにしてあった。しかし熟視すれば、それが地蔵仏で
   はなく、たしかに青面金剛薬叉であることが分かる。服装は、普通の青面金剛のものとはやや
   異なって、左の肩から、袈裟のようなものを斜めにかけているが、向脛を露呈するところは他
   のものと共通である。しかし帽は三角形に尖った物でなくて、平たい物の頂点に小さな鬼面の
   ようなものが付いている。そして三個の火焔のある円光を握っている。右手には長い戟を握り
   、左手を曲げて件の円光をつかんでいる。と記している。清水長輝氏は
   地蔵ともみえる二手像が、右手に長い矛を突き、左手はうしろにまげて光輪をもつような形に
   つくられてある。やはり青面金剛と気がつくには、やや時間を要する奇抜さである。江戸の造
   塔も儀軌をみないで、単に青面金剛とはこんなものだろう程度の風説をもとにして、つくった
   ものと思われる。(『庚申塔の研究』)

と、この塔の造立の背景を推測されている。
 愛川町には、上ノ原當に続いて翌寛文9年に川北・沢平に津久井の両塔に類似した2手青面金剛が造られている。さらに寛文10年には、東京都町田市相原町・大戸観音にある同形2手像(図63)が造建された。これら4基の地蔵風の輪矛型2手青面は、上ノ原塔を祖形として同一石工、ないしは系統を同じくする石工の作によるものである。なお、上ノ原塔などの輪矛型5基については、多摩石仏の会の多田治昭氏が同会誌『野仏』14集(昭和57年刊)に、「愛川周辺の二手青面金剛塔」を発表されている。

 津久井郡には、もう1基の2手青面金剛像がある。先にもふれた相模湖町寸嵐沢・日日神社の宝永6年塔である。近くにある「奉造立山王為庚申供養二世安穏之也」銘の合掌弥陀を主尊とした延宝5年塔の影響を受けたものであろうか。清水長輝氏は、この2手青面金剛像を「山王の系統をひくと思われる神像系」とし、さらに「密教的な六手型の異様な荒々しさをことさら避けて、もっとおだやかに表現しようとし、2手合掌という形におちついたものであろう」という(前掲書)。
   表3 津久井地方の二手青面金剛型式別年表
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・型 式・年 号・西  暦・所    在     地  ・備  考・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・剣棒型・寛文2・1662・津久井町馬石        ・図62  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・輪矛型・寛文11・1671・津久井町根小屋・谷戸    ・    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・寛文11・1671・津久井町長竹・稲生     ・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・合掌型・宝永6・1709・相模湖町寸嵐沢・日日神社  ・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ついでに隣接する山梨県北都留郡上野原町上野原・慈眼寺にある文化10年塔(図64)にふれておく。右側面に「旧塔 ニ延宝九年 ト有」の銘があるから、再建塔である。おそらく旧塔には合掌弥陀像が刻まれていて、青面金剛が普及した時代に再建されたために、このような合掌2手像が造られたのでないだろうか。ただこの塔の場合は、青面金剛が弓と矢を背負っており、4手像とも受け取れる。
 以上に述べたように1都3県の事例を取り上げても、東葛飾地方の合掌型と把手型、杉並区の剣索型、津久井町の剣棒型と輪矛型、上野原町の弓矢を背負う合掌型と、それぞれに2手青面の地域特性が現れていて非常に興味深い。さらに、広く全国各地の2手青面に範囲を及ぼして分析すれば、前記の型式は違う像が現れたり、分布の疎密や造像年代のばらつきもみられ、面白い結果が出るだろう。それはまた、それぞれの地域の特性を知る上でも必要である。単に1地域・・たとえば東葛飾地方だけではうかがえないことでも、杉並や津久井などの比較によって、明らかになる部分も出てくる。

     茅ヶ崎辺の四手青面
 神奈川県茅ヶ崎市を中心に、隣接する藤沢、平塚の両市と中郡寒川町の3市1町にわたって、日本石仏協会の松村雄介氏が「大曲型」と呼んでいる4手青面金剛が分布する。清水長明氏が『庚申』24号(昭和36年刊)に発表された「承応・明暦の青面金剛」で3基明らかになり、さらに1基を加えて『相模道神図誌』で広く知られるようにようになった。

 茅ヶ崎市甘沼・八幡神社にあって、現在は神奈川県立博物館に写された承応3年塔にふれて、清水氏は「石造の青面金剛としては、相模だけでなく、全国的にみても、もっとも古いものの1つと思われる」(前掲書)と述べている。『庚申』では、同塔と同市行谷の承応4年塔、藤沢市遠藤の明暦3年塔の「三基はそれぞれ一、二の小さなちがいを除けば、非常によく似ている。おそらく同じ石工の手になったものであろう」とし、「蝶ネクタイ」状のものをつけている、顔が大きく4頭身、4手の持物、二猿の姿態、などの共通点を上げている。

 相模川沿いの前記3市1町の狭い限られた地域に分布する大曲型の4手青面は、現在のところ、地元の天ケ瀬恭三氏によって7基が明らかになっている。松村氏の『相模の石仏』(木耳社 昭和56年刊)によると
   承応2 笠付型 寒川町大曲・八幡神社(図65)
   承応3 光背型 茅ヶ崎市甘沼・八幡神社(言・県博〕
   承応4 光背型 茅ヶ崎市行谷・金山神社
   明暦2 光背型 藤沢市遠藤・御岳神社
   明暦2 光背型 平塚市大島・正福寺
   明暦4 光背型 茅ヶ崎市十間坂・神明神社
   年不明 光背型 平塚市札場町・長楽寺である。この中で、寒川の承応2年塔のみが下部に2鶏を伴っており、塔形も異なった笠付型である点が他の6基との相違である。しかし清水氏が指摘した共通点を持っているから、同一か同系の石工の手になったものと推測される。

     む  す  び
 千葉・東京・神奈川の2手青面の系譜をたどり、神奈川の大曲型4手青面をここで取り上げた意図は、青面金剛と一括できても、詳細にみると像容を異にし、地域特性が生じている点を指摘したかったからである。これは単に青面金剛に限られた問題ではなく、他の石佛についてもいえるのである。それぞれの石佛の分布密度も地域によって疎密がみられるのは、双体道祖神の分布傾向からもわかるであろう。2手青面の場合は、持物の組み合わせが単純であるから、4都県の事例をあげれば理解しやすいと考えたからである。そして大曲型4手像では、持物について詳しくふれなかったけれども、4手像にも2手像のような地域特性がある1例として示した。

 石佛に地域特性がみられるのは、石佛がそれぞれの地域の風土と深くかかわっているからである。石佛の素材をどこから得たのか、たとえば埼玉を中心に分布している青石の板碑型は、原石の産地と当時の物流とも関連している。さらに僧侶や修験などの指導者、造立する立場の施主の経済状態、信仰傾向や態度、あるいは石工の技術なども併せて考えなければならない。つまり、地域をとりまく環境が、そして歴史が石佛を生み出したといっても過言ではない。そのことは、逆に石佛から地域に歴史、特に民間信仰史が読み取れることを意味しているのである。

 とかく、狭い地域だけを研究の対象としていると、その地域の特性すら充分に掴めない。その地域ではきわめて当たり前であると思われるような事柄が、実は他の地域と比べてみると、大きな特徴となっている場合さえある。研究対象の地域を重視するのはいうまでもないが、少なくともその周辺地域にまで注意を払い、できるならば遠隔地域と比較研究が必要なのである。また、そうすることによって、逆に自分の研究対象としている地域の特性を充分に把握できるのである。
              『石仏研究ハンドブック』(雄山閣出版 昭和60年刊)所収より抜粋
 
三多摩の猿田彦塔

 7月の例会で「三多摩の庚申塔」について発表したが、時間的な制約もあって細かな個々の事例にはふれずに、ごく大要を述べたに過ぎなかった。この猿田彦塔についても、西多摩の山間部に多くの分布が見られ、檜原村白倉に刻像塔が1基あることを示した程度の簡単な説明であった。そこで発表後に発見した青梅市御岳の2基の猿田彦塔と、引用2基を加えて、ここに三多摩の猿田彦塔について述べてみたい。

 現在三多摩には、20基の猿田彦塔が発見されている。その分布は檜原村6基、青梅市3基、五日市町(現・あきる野市)2基、奥多摩町2基、秋多町(現・あきる野市)1基、日ノ出村1基(以上西多摩)、八王子市1基(南多摩)、府中市2基、狛江町1基、清瀬町1基(以上北多摩)である。西多摩の15基に対して北多摩4基、南多摩1基で、前に述べてたように西多摩の山間部に多い。また檜原村白倉の1基を除いて、他の19基は文字塔である。三多摩には、猿田彦塔を含めて約千基の庚申塔が現存するから、猿田彦塔の庚申塔に占める割合は、2%で微々たるものである。その理由の1つとして、猿田彦の勢力が強くなった頃には、庚申塔の造塔のペースが落ちた衰退期に当たっていた事が考えられる。

 しかしながら、造塔面では微々たる猿田彦塔ではあるが、今日、三多摩各地を調査してみると、青面金剛を猿田彦と考えている所が多くみられるから、猿田彦の影響は広範囲にわたっていたと思われる。それがまた、青面金剛刻像塔をそのまま残して、新たに猿田彦塔を造塔しなかったために、猿田彦が少ない原因ともなったのであろう。

 ついでながら青面金剛を猿田彦と考えている事例を西多摩・南多摩・北多摩の順に各地1例づつあげておく。
 (西)五日市町(現・あきる野市)伊奈上宿の庚申堂には、高さ1メートル68センチ、最大幅75センチの舟型合掌6手の青面金剛(年不明)があるが、これは猿田彦と考えられて、9月1日に青年会が主宰して猿田彦の祭をおこなう。祭には「猿田彦」と書いたノボリを立てる。昔は、この青面金剛像に願をかけるのに、赤い旗に「奉納 庚申」とか「猿田彦大神」とか書いて納めた。

 (南)日野市平山の徳善院境内にある合掌6手の青面金剛像(享保7年)の後に、「庚申爰祭祀供養者爲猿田彦大神祭礼塔也 三密加持速疾顯重々帝綱即身名敬白弘裕」の塔婆が立っていた。
 (北)小金井市梶野町・市杵島神社入口の合掌6手の青面金剛の笠付塔(宝暦2年)のある小祠には「奉納 猿田彦尊 昭和三十九年二月」と書かれた赤い布が納めてあった。

 さて三多摩では、猿田彦塔がいつ頃から建てられるようになったのだろうか。現在調査がなされたもので最古の塔は、青梅市御岳・滝本にある宝永6年造立の笠付塔で、最新の塔は、檜原村小沢の昭和3年塔である。以下、年代順に一表にしてみると次の様になる。
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     ・番号・年 号・種別・碑 型・所   在  地・備  考・現     況・
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     ・ 1・宝永6・文字・笠付型・青梅市御岳・滝本・3  猿・       ・
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     ・ 2・安永3・文字・笠付型・五日市町乙津  ・3  猿・現・あきる野市・
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     ・ 3・文化11・刻像・山角型・檜原村白倉   ・日月3猿・       ・
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     ・ 4・天保2・文字・自然石・青梅市御岳・滝本・    ・       ・
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     ・ 5・天保8・文字・角柱型・檜原村下元郷  ・上部欠失・       ・
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     ・ 6・天保13・文字・角柱型・清瀬町中清戸  ・    ・現・清瀬市  ・
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     ・ 7・安政4・文字・角柱型・檜原村神戸   ・    ・       ・
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     ・ 8・万延1・文字・自然石・檜原村上元郷  ・庚申年 ・       ・
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     ・ 9・万延1・文字・自然石・日ノ出村平井  ・庚申年 ・現・日の出町 ・
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     ・ 10・慶応3・文字・山角型・八王子市大横町 ・3  猿・       ・
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     ・ 11・明治初・文字・自然石・秋多町瀬戸岡  ・天保4銘・現・あきる野市・
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     ・ 12・明治7・文字・自然石・五日市町乙津  ・    ・現・あきる野市・
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     ・ 13・明治23・文字・自然石・府中市本宿   ・小祠内 ・       ・
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     ・ 14・明治33・文字・角柱型・檜原村神戸   ・    ・       ・
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     ・ 15・明治45・文字・自然石・府中市四ツ谷  ・    ・       ・
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     ・ 16・大正14・文字・自然石・奥多摩町川野  ・小祠内 ・       ・
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     ・ 17・昭和3・文字・自然石・檜原村小沢   ・    ・       ・
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     ・ 18・年不明・文字・自然石・青梅市青梅   ・    ・現・住江町  ・
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     ・ 19・年不明・文字・不 明・奥多摩町川野  ・引  用・       ・
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     ・ 20・年不明・文字・角柱型・狛江町和泉・駄倉・引  用・現・狛江市  ・
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 次いで、各塔についての簡単な説明をしておこう。1は、正面に年銘と「猴田彦大神」の銘があり左側面に3人、右側面に4人の氏名が刻まれている。1以外の塔では「猿田彦」を用いているのに対してこの塔では「猴田彦」としているのが珍しい。また、この塔の年銘「宝永六己丑年十月廾三日」は、庚申のアタリ日である。

 2は、正面に主銘と道標、右側面に年銘と地銘があり、左側面に「庚申待供養 講中 當所中 現住明 叟」の銘がみえる。
 3は、三多摩唯一の刻像塔で、塔の正面上部に日月、下部に3猿を刻み、中央に杖を持った猿田彦の刻像が彫られている。右側面に「庚申塚 文化十一戌□十二月吉日」、左側面に「猿田彦大神」の銘がある。塔の裏面には、合掌6手の青面金剛像とその下に3猿が彫ってあるから、青面金剛刻像塔の改造であろう。この塔の隣に「富士嶽神社」と彫った自然石があるので、富士講との関連があるのかも知れない。

 4の塔の裏面には、年銘と「齋藤石見栄俊」の銘がある。この塔が御師の家の入口にあることや、「石見」の銘から造塔者は、御岳山の御師と思われる。富士講の指導者が庚申信仰と結びついていることは衆知であるが、御岳山の御師と庚申信仰との関係は明らかにされていないので、今後の研究課題である。

 5の塔の「□保八戊歳□□神日」の年銘に「吉日」ではなく「神日」としたのが珍しい。万人講の造立である。

 6は、日枝神社境内にある塔で、下清戸村の小寺文次郎が施主である。「御宮廻舗石」の銘は、舗石の奉納を示すものだろうか。
 7は、神戸中の造立で、塔の上部が欠けている。
 8は、庚申年の建立で、願主岡部忠兵ヱなど9名と「寄加 山田有堅」の人銘が彫られている。山王社の境内にある。5と同様に、年銘に「安政七庚申五月神日」と「神日」の銘がみえる。

 9も同様庚申年の造立で、和田氏の発起で80餘人の講中が塔の建立に関係している。
 10は、宝樹寺境内にある塔で、「慶応三年丁卯正月庚申日」の年銘だから、同年1月5日の造立である。この塔の造立者は、「上州屋弥兵衛 織屋善兵衛 大竹宗吉 上州屋今五郎 八木屋兵次郎」とあるから商人であろう。

 11の塔は、瀬戸岡の庚申塚にあり、「天保四年癸巳十一月」の年銘があるが、八代恒治氏の調査によると、この塔は明治初年に再建されたものである(『三多まの庚申塔』)。現在、塚の後方の藪に倒れている自然石の庚申文字塔(天保4年)を廃仏棄釈の影響を受けて壊して猿田彦塔を建てたのではないだろうか。明治元年には、五日市町(あきる野市)の養沢や盆堀に廃仏棄釈の風潮が起こったことは衆知の事実である。

 12は、青木平の熊野神社境内にあり、浦野源兵衛など8名の造立である。神社の隣にある陽谷院境内の山角型の青面金剛刻像塔(文政6年)が破壊されているのも、あるいは廃仏棄釈の影響かも知れない。
 ・は、本宿の甲州街道より北に入った三叉路の小祠内にある。「明治廾三年」の年銘と並んで「延享二年乙□□」とあるのは、この場所にある破損の甚だしい青面金剛像の造立を示す年銘ではないだろうか。

 14の台石に「鳥居甚□□」とあるのは、この塔の造立者であろう。
 15は、三屋の路傍の小祠内にある塔で、土方寿喜の建立である。
 16は、小河内ダム工事の爲に、現在の将門庵東の山上に移されたもので、川野の南組中の造立、世話人の川村輝蔵など6名氏名が塔の裏面に刻まれている。

 17は、年銘のある塔のうちで最新のもので、濱中元吉がこの塔を建ている。
 18は、住江町の住吉神社の末社・八坂神社の前にある塔で、「猿田彦大神」の陰刻以外何も彫られていない(現在は、住吉神社石段脇に移転されている)。

 19は、東京市役所編の『小河内貯水池小誌』に載った塔で、銘文・碑型など細部は分からない。
 20は、八代恒治氏の『三多まの庚申塔』よりの引用で、この長細い山角型の塔の裏面には「庚申待講中」とあり、下部に道標銘がある。

 次に猿田彦塔と3猿の関係を調べてみよう。文化以前の塔がついていて、天保以後の塔には、・を除いて3猿がないのは、何か理由があるのだろうか。その理由を明らかにする鍵として、文字塔と3猿との関係があげられる。三多摩の文字塔の集計は出来ていないので、西多摩の猿田彦塔を除いた110基の文字塔を分類してみると、宝暦以前の文字塔では3猿付が5基、無しが1基、明和から文政の塔では3猿付11基、無しが58基となり、天保以後の35基の文字塔には3猿が付いていない。宝暦以前の塔で3猿の無いのは、檜原村大沢の灯籠型の塔で、宝暦までは文字塔と3猿の相関度は高い。続く明和から寛政には、3猿付の文字塔は順次すくなくなり、文化文政にはほとんど3猿付の文字塔はみられなくなって、ついに天保以降、3猿が文字塔から消されている。これは主として南多摩にみられるもので、3猿の刻像の代わりに文字で3猿を表した「三疋申」8基、「申申申」1基、「三疋猿」1基が安永から嘉永に作られているのは注目すべきであろう。これは、3猿が文字塔から消え去る過渡期に現れた現象であろう。

 西多摩においては、猿田彦塔の分布のある市町村には道祖神の文字塔の分布があり、福生町・羽村町・瑞穂町の平野部の町には猿田彦塔も道祖神も共にみられない。猿田彦塔では、檜原村に多く分布しているのに対して、道祖神では奥多摩町に多く(7基)分布している。また年代的にみても、道祖神は、日ノ出村の天明7年を初出として五日市町(現・あきる野市)の大正9年まで猿田彦塔と並行して建てられている。その塔数も17基で猿田彦塔の15基と大差がないのである。

 以上述べた様に、三多摩の猿田彦塔は、江戸末期より道祖神の文字塔と並行して、西多摩の山間部を中心として造塔された。また造塔面では、微々たる猿田彦塔ではあるが、三多摩各地で青面金剛を猿田彦と考えており、猿田彦の影響は大きい。1基を除いて、天保以降の猿田彦塔に3猿がみられないのは、文字塔に3猿が結びつかなくなった時代の傾向であろう。これらは、三多摩の猿田彦塔について云えることで、今後、さらに他地域の猿田彦塔との比較がなされるならば、三多摩の猿田彦塔の特色も明確となるであろう。ここではふれなかった猿田彦塔造塔の推進者や協力者、あるいは伝播の経路など研究すべき事項は多い。これからは、猿田彦塔だけなく、他の金石銘や古文書・日記・掛軸などにも手を拡げる必要があると考える。(昭和39・ 7・10記)

                     『庚申』第38号(庚申懇話会 昭和39年刊)所収
   
 庚申塔と名数

名数と石仏については、すでに本誌15号(『日本の石仏』 昭和55年刊)に「石仏の名数」を発表し、二天から始まって五百羅漢までを「石仏名数一覧表」にまとめて掲げた。ここでは、切り口を変えて庚申塔にみられる名数を取り上げたい。

 現存最古の庚申塔は、埼玉県川口市領家・実相寺にある文明3年(1471)の庚申板碑である。以来、中世には多くの庚申板碑が造建されたが、まずその中の名数から見ていこう。一尊の例としては種子と画像のものとがある。一尊種子の板碑には
   文殊一尊種子   長享2年    東京都練馬区石神井台 郷土資料室
   弥陀一尊種子   明応3年    埼玉県戸田市下笹目 平等寺
   釈迦一尊種子   天文24年   埼玉県比企郡玉川村五明 円通寺があり、一尊画像の板碑には
   弥陀一尊画像   長享3年    埼玉県三郷市上口 閻魔堂がみられる。三尊以上の庚申板碑には
   弥陀三尊種子   延徳4年    千葉県香取郡下総町小野 八幡神社
   弥陀三尊画像   大永8年    東京都豊島区巣鴨 高岩寺
   釈迦三尊種子   天文7年    埼玉県比企郡川島町小見野 法鈴寺
   十三仏種子    大永5年    埼玉県比企郡嵐山町将軍沢 明光寺
   二十一仏種子   永正15年    埼玉県川口市西新井 宝蔵寺があげられる。

 江戸時代以降の庚申塔についてみると、主尊の場合は、青面金剛を始めとして猿田彦大神や帝釈天以外にも多くの像が造られている。また青面金剛の場合をみても、1面と2面とがあり、2手・4手・6手・8手のように種類がある。まず一尊の刻像からあげると
   青面金剛     寛文1年    東京都板橋区板橋 観明寺
   帝釈天      宝永1年    神奈川県大和市上和田 薬王院
   猿田彦大神    嘉永6年    埼玉県川口市舟戸町 善光寺
   猿        貞享1年    東京都狛江市和泉 泉龍寺
   釈迦如来     明暦2年    千葉県市川市曽谷 安国寺
   薬師如来     正保4年    東京都板橋区志村 延命寺
   阿弥陀如来    承応2年    千葉県富津市竹岡 十夜寺
   大日如来     承応2年    東京都台東区浅草 銭塚地蔵
   聖 観 音    正保3年    千葉県浦安市堀江 大蓮寺
   馬頭観音     宝永7年    東京都板橋区大原町 長徳寺
   如意輪観音    寛文1年    神奈川県川崎市幸区北加瀬 寿福寺
   勢至菩薩     延宝8年    埼玉県三郷市彦倉 虚空蔵堂
   地蔵菩薩     承応3年    埼玉県越谷市越谷 天岳寺
   不動明王     寛文11年    神奈川県横浜市鶴見区東寺尾 不動堂
   倶利迦羅不動   寛文6年    東京都豊島区高田 金乗院
   閻魔大王     貞享2年    東京都北区中十条 地福寺
   仁   王    元禄10年    東京都足立区扇 三島神社
   弁 才 天    元禄2年    東京都足立区千住仲町 氷川神社
   聖徳太子     元禄5年    神奈川県横浜市港北区綱島西 来迎寺などである。二尊以上のものとしては
   双体道祖神    天明6年    神奈川県茅ヶ崎市東寺尾 路傍
   弥陀三尊来迎   元和9年    東京都足立区花畑 正覚院
   六 地 蔵    寛文5年    埼玉県羽生市常木 長光寺址
   卅四所観音    享保5年    東京都東瑞江 下鎌田地蔵堂
がみられる。東京都杉並区梅里・西方寺には、六観音の立像を浮彫りする承応2年の石幢がある。六観音の1体、聖観音の面には「此一躰者庚申為供養」と刻まれ、庚申供養のための造立とわかるが、あくまでも聖観音だけで六観音の庚申塔ではない。こうした例は、他にも六地蔵などにあるから注意しなければならない。

 先にも触れたように青面金剛の名数としては
   1面青面金剛   寛文1年    埼玉県大里郡妻沼町西城 長慶寺
   2面青面金剛   寛文2年    東京都板橋区板橋 東光寺
   2手青面金剛   寛文2年    神奈川県津久井郡津久井町馬石
   4手青面金剛   承応2年    神奈川県高座郡寒川町大曲 八幡神社
   6手青面金剛   寛文3年    埼玉県北足立郡吹上町明用 観音寺
   8手青面金剛   元文1年    千葉県浦安市堀江 宝城院
があげられ、如意輪観音主尊の庚申塔にも
   2手如意輪観音  寛文8年    東京都練馬区旭町 仲台寺
   6手如意輪観音  元禄4年    東京都北区神谷町 自性院
のように、手の数が異なるものがある。

 刻像塔にしろ文字塔にしろ「一結」とか「一座」「二世安楽」「現当二世」「三世」「三守庚申三尸伏 七守庚申三尸滅」「三年一座」などの銘文が彫られている。文字庚申塔の主銘の名数としては
   一   座    承応3年    東京都北区中里 円勝寺
   三   尸    寛政6年    東京都小金井市貫井南町
   五 庚 申    天明8年    秋田県仙北郡神岡北楢岡 地蔵堂
   六 庚 申    明治32年 宮城県南郷町福ケ袋 見渡神社
   六字名号     寛文5年    東京都武蔵野市吉祥寺東町 安養寺
   七 庚 申    寛延4年    宮城県古川市下中ノ目 羽黒神社
   二十一仏種子   承応4年    東京都葛飾区青戸 延命寺
   百 庚 申    万延3年    東京都武蔵村山市中藤
   千 庚 申    寛政3年    群馬県桐生市三吉町 水神宮
   三千願主庚申   寛政3年    群馬県桐生市梅田町 薬師堂があげられる。

 庚申塔には主尊の像の他にも、いろいろな刻像がみられる。日月・鬼・鶏・猿・童子・薬叉などである。それらの名数の例をを示すと
   1   鬼    寛文8年    東京都杉並区方南 東運寺
   2   鬼    寛文2年    東京都板橋区板橋 東光寺
   1   鶏    承応3年    東京都台東区浅草 銭塚地蔵
   2   鶏    明暦2年    東京都調布市深大寺元町 城跡
   3   鶏    無年号     東京都文京区春日町 牛天神
   1   猿    寛文1年    東京都板橋区板橋 観明寺
   2   猿    承応2年    栃木県日光市山内 四本龍寺
   3   猿    明暦4年    東京都世田谷区上馬 宗円寺
   4   猿    弘化4年    東京都西多摩郡五日市町(あきる野市)伊奈 山王宮下
   5   猿    延宝7年    東京都町田市広袴 天王社
   9   猿    延宝5年    千葉県千葉市検見川町 善勝寺
   2 童 子    寛文3年    埼玉県大宮市西遊馬 高城寺
   2 薬 叉    宝永5年    千葉県柏市花野井 長泉寺
   4 薬 叉    寛文3年    埼玉県所沢市旭町 庚申堂のようになる。

 東京都多摩市関戸には、寛文13年の笠付型の庚申塔があって「申三疋鶏二羽」と刻まれている。刻像ではなく、このように文字で3猿と2鶏を表示する例がみられる。3猿の文字化の例としては、東京都の多摩地方をみると、日野市を中心として隣接する八王子市・多摩市・町田市・府中市に「三匹猿」「三疋猿」「参疋猿」「申申申」などと彫られた庚申塔がある。なお北区滝野川・寿徳寺には「帝釈天三猴」の主銘の塔がみられる。

  〔参考文献〕
  清水長輝 『庚申塔の研究』        昭和34年刊 大日洞
  中山正義 『埼玉県結衆板碑 庚申板碑』  昭和56年刊 私家版
  石川博司 「庚申塔入門」 『日本の石仏』第38号所収  日本石仏協会
  嶋 二郎 「花巻市の庚申塔 第六報 七庚申塔の源流をたずねて」
         『花巻市文化財報告書』第14集所収 昭和63年刊 花巻市教育委員会
  多田治昭 『東京都の庚申塔』       平成1年  私家版
  中山正義 「関東地方の寛文年間の青面金剛像」『野仏』第21集所収 平成2年 多摩石仏の会
                『日本の石仏』第63号(日本石仏協会 平成4年刊)所収
あ と が き
本書は、これまで書いたものの中から、庚申塔の主尊に関係したものを集めて1冊に編集した。それぞれの文末に記したように、初出誌はいろいろである。

最初の「庚申塔の話」は、庚申塔についてごく初歩的な事柄を知っていただきたいので加え 「相模原庚申餘話」は弥陀庚申の部分を抜き出して掲載した。「『異形の深夜』からの発想」 は、少し変わった題名であるが、地蔵庚申を取り扱っている。最後の「庚申塔と名数」は、まとめの意味で主尊も含めて関係する名数を集めた。ともかくご活用いただければ幸いである。
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                              庚 申 塔 の 主 尊
                              発行日 平成11年8月15日
                              著 者 石 川  博 司
                              発行者 庚申資料刊行会
                              〒1980083 青梅市本町120
 
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