戸塚の庚申塔を歩く    目 次                         石 川 博 司
            
                    
            横浜市戸塚区 ・・・・・・・・・昭和58
            戸塚を歩く ・・・・・・・・・・・・平成11
            戸塚区内を廻る ・・・・・・・平成15
            あとがき ・・・・・・・・・・

            戸塚区庚申塔一覧表 

                                             総目次へ
富塚八幡庚申塔群
  宮谷庚申塔群
横浜市戸塚区
(昭和五十八年)六月十二日(日)、国鉄(現・JR)戸塚駅に午前九時三〇分集合。案内は藤井正三さんだ。地図入りのコース予定が配られたが、藤井さんの了解を得て、汲沢町・五霊社を省き、本郷台まで延ばすコースに変更していただく。電車の時刻表の関係から一〇分遅れて出発したために福井善通さんが間に合った。

 最初は、矢部町の稲荷社に向かう。境内には
   1 寛政2 光背型 双体道祖神がある。この辺りは、矢部町・吉田町・戸塚町の境にあたるらしい。続いて戸塚五一三二番地であるが、稲荷社の近くである。
   2 承応4 石 祠 (中尊なし)を見る。右側面には

   願祈主 玉屋九衛門(等9名)背面には
   七守庚申三彭滅失伏  善男子善女人等歳月 之積善餘慶及家 豈
   将疑矣哉□命工彫刻  庚申彫像加之憑千現 前清衆伸供養之儀次
   製一偈以述上来之功  勲云        齋潔精誠并民睡魔降
   去守庚申不□善悪説天 帝這□従来安楽人  干時承応四戴々舎乙未孟
   夏如意珠日      恵照山海蔵禪院住持比丘 精士月勤謹誌左側面には
   竊以日域東関路相模  州小坂郡富塚郷三宝 弟子善男子善女子聚
   会潔齋而守庚申者向  干十有三稔致穰□招 福之梱祈焉西陽雑
   俎云□有彭候尸彭常  尸命児尸之三尸庚申 夜□於諸人蔵肚報善
   悪於天帝夫所謂諸悪  莫作諸善奉行有平古 語云三守庚申三尸伏

の銘文が刻まれている。それら三面の銘を全て記録する時間の余裕はない。ここで藤井さんからコースの説明がある。以上の二ヵ所は、藤井さんの予定では解散後に時間があれば廻るコースだった。駅にも近いし、コースを変更したので、先に行ったわけである。
 戸塚駅前に戻り、当初予定した戸塚町の羽黒神社に向かう。戸塚消防署の手前に神社がある。境内には
   3 元禄5 笠付型 日月・六手青面・二鶏・三猿
   4 延宝6 光背型 合掌弥陀・三猿の二基が並ぶ。
   

続く富塚八幡境内には
   5 正徳4 板駒型 日月・六手青面
   6 元文3(笠付型)青面金剛・一鬼
   7 正徳2 板駒型 日月・六手青面・三猿
   8 宝永4 板駒型 日月・六手青面
   9 享保1 駒 型 日月・六手青面・一鬼・三猿
   10 寛文12 笠付型 定印弥陀・三猿・蓮華
   11 元禄1 笠付型 来迎弥陀・三猿
   12 寛文11 光背型 日月・四手青面・二鶏・三猿の八基が見られる、
10塔が倒れていたので、四人掛りで建て直す。笠部は安定が悪いのでのせなかった。10塔の主尊の印相が欠けてはっきりしないが、定印弥陀と見て間違いなかろう。
12塔の四手青面の足下に刻まれているのは鬼と思われるけれども、太い尾のついた河馬といったユーモラスな姿だ。

 戸塚町の宮谷へ入って、三四四九番地の田代清さん宅前に並ぶ
   13 延宝4 笠付型 来迎弥陀・三猿・蓮華
   14 年不明 笠付型 合掌弥陀・三猿
   15 元禄12 光背型 日月・六手青面・三猿
   16 元文5 柱状型 「庚申供養」
   17 安永6 笠付型 日月・六手青面・一鬼・二鶏・三猿
を調べる。14塔は、石がトロけた状態で、形像や銘文がはっきりしない。17塔の隣には廻国供養塔が見られる。
大通りまで戻る途中にあり、行きに気付かなかった
   18 天保5 駒 型 「道祖神」を見つける。宮前町内会館前である。塔の横に宝篋印塔の頭部など三個が置かれている。

 坂下(戸塚町三〇二三)には、道路に面して次の八基が並んでいる。
   19 正徳4 板駒型 日月「庚申講中」三猿
   20 享保3 光背型 日月・六手青面・三猿
   21 元禄8 光背型 日月・六手青面・二鶏・三猿
   22 元禄6 板碑型 日月・六手青面・二鶏・三猿
   23 延宝6 笠付型 日月「奉彫建庚申講石塔」三猿
   24 延宝5 光背型 「奉彫建庚申講石塔」
   25 元禄4 光背型 日月・六手青面・一鬼・二鶏・三猿
   26 寛保3 柱状型 「□□□庚申講」である。
23塔と24塔とは、一年違いで造立され、主銘を同じくしているけれども、主銘の上に刻まれた種子が、前者が「キリーク」なのに、後者は「バク」であるのは、どういう事情があるのだろう。同じ場所に並んでいるだけに気にかかる。

   

高島橋手前の日立戸塚工場前に
   27 柱状型 「これよ里かまくら道」の道標が建っている。
右側面には「南無阿弥陀佛」の六字名号、左側面には年銘と「庚申講中」が刻まれている。

 跨線橋を渡って上倉田町に入る。駅寄りの地下道の方が楽である。子八幡に向かう。境内の児童公園で昼食をとる。この頃から小雨になる。食後、境内にある
   28 安永3 笠付型 日月・六手青面・一鬼・二鶏・三猿
   29 嘉永6 柱状型 「道祖神」
   30 貞享5 板駒型 日月・六手青面を調べてから、さらに坂下の参道にある
   31 天明6 光背型 双体道祖神
   32 文久3 柱状型 日月「堅牢地神」
   33 元禄15 光背型 日月・合掌地蔵・二鶏・三猿
   34 明治8 柱状型 日月「堅牢地神」
   35 嘉永7 柱状型 「青面金剛塔」
   36 寛文10 光背型 合掌地蔵・三猿
   37 寛文7 笠付型 来迎弥陀・三猿・蓮華
   38 明治32 柱状型 「道祖神」
   39 宝暦9 駒 型 日月・六手青面・一鬼・三猿
   40 明治33 自然石 「庚申塔」
   41 昭和14 自然石 「庚申塔」を見る。41塔の裏面には「三本松ニ鎮座セラレシ当庚申塔ハ大正十二年 鉄道線拡張ノ為メ土地ヲ買収セラレシヲ以テ旧八幡社跡ヘ移転ス 依テ昭和十四年九月二十日 碑ヲ建設シ之ヲ記ス」の銘文を刻む。

 

蔵田寺境内には、覆屋の下に
   42 明暦2 光背型 合掌地蔵・二猿が建つ。後方には
   43 元禄13 柱状型 「南無阿弥陀佛」があり、左側面に「か乃え講中」と彫られている。42塔の上部には「キリークササク」の弥陀三尊種子が刻まれている。先刻の子八幡にある37塔には、主尊の来迎弥陀像の脇に「サ」と「サク」の種子があって三尊を形成している。両者の塔からいえることは、主尊像を種子で現していない点である。とすると、子八幡の36塔の合掌地蔵の頭上に刻まれた「イ」は、一体何なのか。さらに、各地で見られる青面金剛像の頭上にある「ウーン」は、はたして青面金剛を示す種子なのかと問題が拡がってくる。

 下倉田町に入り、木に吊り下げられた大ワラジ下に
   44 年不明 柱状型 「道祖神」
   45 貞享3 笠付型 日月・定印弥陀・二鶏・三猿
   46 明治45 自然石 「堅牢地神」が見られる。隣の一画には、木曽御岳信仰の一連の石碑が建っている。

 長沼町では八幡神社に寄り、境内にある
   47 年不明 柱状型 「道祖神」
   48 享保12 板駒型 胎蔵大日・三猿
   49 明治3 柱状型 「道祖神」
   50 寛文12 光背型 合掌弥陀・三猿
   51 慶応2 自然石 「庚申供養塔」を調べる。48塔の主尊は、頭部が宝冠状で定印を結ぶ。

 貝殻坂を越えて飯島町に入り、般若院に寄ってから隣の三島神社に行く。境内には
   52 安政3 柱状型 日月「廾三夜供養塔」
   53 明治33 柱状型 「廾三夜供養塔」
   54 明治6 柱状型 「堅牢地神」
   55 明治10 柱状型 「廾三夜供養塔」
   56 寛文13 笠付型 来迎弥陀・三猿が石段をはさんで並ぶ。

 本郷台住宅地を横切って、最終の目的地の小菅ケ谷町の春日神社に向かう。地図上ではわかりにくいが、案外と楽に神社前に出た。境内には
   57 年不明 駒 型 日月・六手青面・三猿
   58 年不明 駒 型 双体道祖神
   59 享保4 光背型 不動
   60 文化3 光背型 不動がある。
57塔と58塔は、共に石がトロけて像がはっきりしない。58塔の双体は、共に十頭身以上のスマートな体型である。59塔は、三面をコンクリートで囲った祠の中にあり、前面は鉄柵でである。錠前はさびついていて、鍵があっても開かないそうだ。像の左肩上に「奉納庚申供養」とあり、右肩上に年銘が彫られている。その祠の隣にも露座の不動があって台石に「庚申供養」と横書きの銘が刻まれているのを鈴木俊夫さんが見つけた。思いがけない発見である。塔の横から見ると同じ石質のようなので、不動主尊の庚申塔と見てよいだろう。

 午後からは小雨の中を廻ったけれども、庚申塔の主尊像の変化の見られた楽しいコースであったし、主尊像の頭上に刻まれた種子との関係を考える問題を見つけた一日であった。文中では触れなかったが、子八幡にある41塔の裏面の銘文をどう解釈するかによって、庚申塔の範囲に及ぶ問題にも気付いた。先の主尊像頭上の種子の課題と共に考えたい。
 根岸線本郷台駅で解散、帰路についた。

                〔初出〕『あしあと』七八号(多摩石仏の会 昭和58年刊)所収
   〔付 記〕
    この「横浜市戸塚区」の全文は、日本石仏協会から昭和五十八年十二月に発行された『日本
   の石仏』第二八号に発表した「見学会の報告を書こう」の中に一部を省略して「〔実例二〕
   多摩石仏の会六月例会」として九〇〜九四頁に掲載された。

多摩石仏の会六月例会  戸塚を歩く

 平成十一年六月十三日(日曜日)は、多摩石仏の会六月例会である。
JR東海道線戸塚駅橋上改札口前に午前九時三〇分集合、関口渉さんの案内で横浜市戸塚区内をまわる。集まったのは、明石延男さん・縣敏夫さん・犬飼康裕さん・喜井哲夫さん・鈴木俊夫さん・多田治昭さん・萩原清高さんの総勢九人である。
 駅で出発を待つ間に、犬飼さんから多摩石仏の会四月例会の記録「大和市中央東部の石仏探訪」を、多田さんからは写真三葉とその説明をいただく。犬飼さんは、例会当日不参加で後日、多田さんの地図と萩原さんの資料を基に歩かれたから、例会のコースとは多少の違いがみられる。

 多田さんの写真は、千葉県八日市場市八日市場イの延宝八年青面金剛塔(三面に三猿を配する九猿塔)・茨城県つくば市玉取同県三和町駒込の昭和庚申年塔の三種である。それに加えて多摩石仏の会の四月例会でみた深見の「石佛神御動座の辞」を解読文である。

 東口のバスターミナルから神奈川中央交通バスに乗り、ポーラ前で下車、第一見学場所の柏尾町の大山道標(柏尾町四八六)に向かう。不動明王丸彫り坐像を上におく正徳三年の大山街道の道標(横浜市指定文化財)が祠の中に安置されている。これでは、道標の役割を果たさないが、文化財の保護の意味では有効である。その祠の横には
  1 延宝8 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿       112×48×43
   2 明治23 柱状型 「庚申塔」                37×21×16の二基がある。
ここの延宝の庚申塔については、横浜市教育委員会が平成二年三月にたてた「柏尾の大山道道標」の解説板に
    大山道への道標は次の四基で、ほかに燈篭一基と庚申塔一基があります。
      (中  略)
    庚申塔は、延宝八年(一六八〇)、柏尾町施主拾五人により、燈籠は、元治二年(一八六五
   )、松戸宿の商人によって建立されたもので、大山信仰のひろがりが知られます。
    道標をふくめた六基は、近代になって現在地に集めれたと考えられます。
と記されている。

 1は、上部に「ア」の種子と日月、中央に合掌六手像(像高46センチ)、下部に不聞猿(像高30センチ)と二鶏が見られる。像の右に「奉造立庚申供養 延宝八庚申歳□月□日」、左に「相集〓柏尾町 施主拾五人」とあり、右側面上部に「アク」、右側面上部に「アー」、背面上部に「アン」の種子が刻まれている。
 2は1に比べると小さな文字塔で、正面に主銘の「庚申塔」、左側面に「昭和二十三年十一月二十四日 台町一同」とある。塔の前が工事中で、囲いに板に隠れている。
 平成二年に横浜市教育委員会がたてた大山道標の説明板に「庚申塔は、延宝八年(一六八〇)柏尾町施主拾五人により、現在地に」と記されている。

 次いで柏尾町一〇一八にある斉藤家墓地にある
   3 寛文3 板碑型 日月「アーンク 奉□養庚待」三猿     94×33を訪ねる。
上部中央に「アーンク」の種子、その両側に日月、中央に主銘の奉□養庚待」(□は「供」と思われる)、右に「□□鎌倉郡下柏」(□□は「相州」と考えられる)、左に「□文二年壬寅十月」(□は干支から「寛」)、下部に三猿(像高16センチ)が浮き彫りされている。横には、元禄の地蔵と延宝八年の念佛供養塔がある。

 宝蔵院(吉田町九三五)は寄ろうかどうか迷ったが、境内に入ると昭和十八年造立の左手で子供を抱き、右手に数珠を持つ弘法大師の丸彫り像が眼をひく。台石に「子安弘法」とある。五鈷杵と数珠をとる弘法大師はみなれているが、子安弘法は初めてである。他にも、寛文二年の丸彫りの金剛界大日如来坐像などがみられる。
 吉田町一〇一二の路傍にある、脇にゴミ袋が積まれた
  道1 明治30 石 祠 「道祖神」  計測無し
をみてから、東峰八幡神社(吉田町一二六四)に向かう。神社の参道の左右には
   4 安政7 柱状型 「庚申塔」                64×31×31
   5 元禄13 笠付型 日月・青面金剛・一鬼           90×33×26
   6 貞享3 光背型 日月・青面金剛・三猿           83×43
   7 文政14 板石型 「庚申供養塔」              88×65
   8 元禄5 笠付型 日月・青面金剛・三猿(台石)       80×36×26
   9 貞享3 笠付型 日月・青面金剛・三猿           89×32×25がみられる。
 4は正面に「庚申塔」、右側面に「安政七年庚申二月吉日」、台石正面には「元吉田町」と一一人の施主銘が刻まれている。
 5は合掌六手(像高38センチ)で、下部に三人の施主銘、右側面に「元禄十三庚辰歳」と五人の施主銘左側面に「十一月吉日」と四人の施主銘がみられる。
 6も合掌六手像(像高38センチ)で下部に三猿(像高16センチ)の浮き彫り。像の右に「貞享三丙寅天」、左に「十月九日」の年銘を記す。
 7は、板石の中央に「庚申供養塔」の主銘、台石正面に一〇人の施主銘、右側面に「維時文政十四歳 一月建」とある。
 8は合掌六手の半肉彫り立像(像高57センチ)で、右側面に「奉造立庚申供養」、左側面に「元禄五年壬申十一月吉日」の銘がある。三猿(像高16センチ)は台石正面に浮き彫りされている。
 9も合掌六手像(像高36センチ)で、下部に三猿(像高18センチ)がみられる。像の右に「貞享三丙寅天」左に「十一月吉祥日」、下部に「施主 石渡□□□」など九人の施主銘。

 境内には、いろいろな石佛がみられる。順に示すと
   10 享保12 燈 籠 「庚申供養之塔」             62×17×10
   11 享保12 燈 籠 「庚申供養之塔」             62×17×10
   12 宝暦4 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     68×32×20
  地1 文化13 五角柱 「天照大神」など五柱          58×30
  13 嘉永5 八角柱 「守夜庚申供養塔」            71×38×32である。
この他にも天保十一年の石塔がある。
 10と11は、共に火袋が欠失している。竿石の銘文は中央に「庚申供養之塔」、右に「享保拾二年」左に「乙未十一月十日」、10が六人、11が五人と施主銘が異なる以外は同じだから、一対になるものだろう。
 12は上部に合掌六手立像(像高41センチ)、足下に一鬼、脇に二鶏、下に三猿(像高8センチ)を刻む。右側面に「是より左加まくら道」、左側面に「宝暦四戌年二月日」と五人の施主銘が記されている。
 地1は一辺が一八センチの五角柱に「天照大神」「倉稲魂命」「大己貴命」「少名彦命」「埴安媛命」の五神名を刻む地神塔である。台石正面に「春秋社稷講」と横書き、右側面に「天下泰平國土安寧 五穀成就百穀豊饒 農業繁昌萬民安楽 稽首再拜専祈祷所 維時文化十三子年秋社日」、左側面に「相模國鎌倉郡 □元吉田町 社祭講」とある。
 13は八角柱で、正面に主銘の「守夜庚申供養塔」、他の七面には慈恵大師山王七猿の和歌を配している。山王七猿の和歌は、三輪善之助翁の『庚申待と庚申塔』(不二書房 昭和10年刊)の四三頁に載っている。庚申塔については、藤崎幹之助氏が書かれた「鎌倉郡の庚申塔」(『日本の石第五号所収 昭和53年刊)で触れられている。台石には「有三尸神在人身中 毎到庚申日…」や「三守庚申三尸伏 七守庚申三尸滅」の三尸銘が刻まれている。縣さんは塔身と台石の拓本をとる。

 吉田大橋付近(矢部町六四一)の川沿いの路傍には
  道2 天保12 柱状型 「道祖神」               62×29×27が宝暦十二年の淡島大明神道標と並んでいる。
同町九七の稲荷社にある
   道3 寛政2 光背型 双体道祖神               計測無し
をみて、続いて稲荷社の近くである戸塚町五一三二の路傍に面している
  14 承応4 石 祠                      63×77×64をながめる。
この石祠の左右側面と背面には銘文が刻まれている。昭和五十八年六月十二日に行われた多摩石仏の会例会で、この石祠を含めて以後のコースを歩いている。この時の記録が、「横浜市戸塚区」の題名で『あしあと』七八号(多摩石仏の会 昭和58年刊)に発表している。今回は銘文を読んでいる時間がないので、『あしあと』から引用しておく。
 右側面には「願祈主 玉屋九衛門(等九名)」とあり、背面には

   七守庚申三彭滅失伏  善男子善女人等歳月 之積善餘慶及家 豈
   将疑矣哉□命工彫刻  庚申彫像加之憑千現 前清衆伸供養之儀次
   製一偈以述上来之功  勲云        齋潔精誠并民睡魔降
   去守庚申不□善悪説天 帝這□従来安楽人  干時承応四戴々舎乙未孟
   夏如意珠日      恵照山海蔵禪院住持比丘 精士月勤謹誌左側面には
   竊以日域東関路相模  州小坂郡富塚郷三宝 弟子善男子善女子聚
   会潔齋而守庚申者向  干十有三稔致穰□招 福之梱祈焉西陽雑
   俎云□有彭候尸彭常  尸命児尸之三尸庚申 夜□於諸人蔵肚報善
   悪於天帝夫所謂諸悪  莫作諸善奉行有平古 語云三守庚申三尸伏
の銘文が刻まれている。これは、後に『日本の石仏』第二八号(昭和58年刊)の「石仏見学会の報告を書こう」に一部(石祠の銘文)を省略して転載している。
 縣さんは石祠の銘文の拓本を取ってから後を追うことで、縣さんを残して次の清源院(戸塚町四九〇七)にむかう。途中のコンビニで弁当を買って、寺の鐘楼で昼食にする。

 食後は、文政元年の徳本名号塔をみてから
   15 元禄9 笠付型 日月・青面金剛・三猿(台石)       74×36×26を写す。正面に合掌六手像(像高36センチ)で、下部に九人の施主銘、右側面に「元禄九丙子年」、左側面の「九月吉日」を刻む。台石正面に三猿(像高11センチ)の浮き彫りがある。
 続いて羽黒神社(戸塚町四一四二)の境内で
   16 元禄5 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿(台石)    88×33×28
   17 延宝6 光背型 合掌弥陀・三猿              104×48の二基をみる。16は、正面に日月と合掌六手像(像高40センチ)の浮き彫り、右側面に「奉造立庚申供養塔」、左側面に「元禄五壬申歳三月吉辰」の銘がある。三猿は台石正面にあるが、埋まっているので計測できない。
 17は、合掌弥陀立像(像高54センチ)の下に三猿(像高13センチ)、像の右に「奉造立庚申供養塔
 所願 延宝六戊午年」、左に「皆令滿足 霜月廾六日」の銘文がみられる。
 続く八坂神社境内(戸塚町四一八九)には、石段を登った右手に次の一基が
 18 安政2 柱状型 「庚申塔」                 67×27×25ある。正面に「庚申塔」、右側面に「安政二乙卯四月」、台石正面に七人の名を刻む。
 ここの境内には、横浜市無形文化財に指定されている「お札まき」の解説板がたっている。七月十四日の八坂神社の夏祭りに行われる踊りである。何のTV番組だったかは記憶していないが、女装した方が画面に写ったのを覚えている。
 戸塚町三八二七の富塚八幡神社の境内には、社殿の左手に
   19 正徳4 板駒型 日月・青面金剛              62×30
   20 元文3(笠付型)青面金剛・一鬼              63×27×19
   21 正徳2 板駒型 日月・青面金剛・三猿           72×32
   22 宝永4 板駒型 日月・青面金剛              72×35
  23 享保1 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        88×24×23
   24 寛文12 笠付型 定印弥陀・三猿・蓮華           90×42×18
   25 元禄1 笠付型 来迎弥陀・三猿              91×33×34
   26 寛文11 光背型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        121×53の八基がL字形に並んでいる。19は上部に日月、中央に合掌六手像(像高43センチ)、下部に三猿(像高10センチ)が浮き彫りされる。右側面に「正徳四甲午年十月吉日」の年銘がある。 20(像高33センチ)は笠部が失われた塔で、風化が激しく合掌手しかわからない。右側面に「元文三戊午十月吉日」と六人の施主銘、左側面は「妙□信女」の法名と六人の施主銘がみられる。
 21は合掌六手像(像高33センチ)、下部に三猿(像高10センチ)があり、像の右に「正徳二壬辰年」、左に「十二月日」、三猿の下に九人の施主銘を記す。
 22は合掌六手像(像高48センチ)、頭の左右に「宝永四丁亥年」「七月二日」、足の左右に三人図津の施主銘がある。
 23は、前面からみると板碑型のように額部がある。正面中央には鬼の上にたつ剣人六手像(像高43センチ)、下部に三猿(像高7センチ)、三猿の上部左右に「奉造立」「庚申講中」とある。右側面には年銘の「享保元歳丙申十二月吉日」を刻む。
 24は、正面に定印弥陀の坐像(像高28センチ)をおき、下部に右から牡・牝・牡の順に並ぶ三猿(像高15センチ)がみられ、「寛文十二壬子天」「十一月五日」の年銘や一二人の施主銘がある。両側面には蓮華が陽刻されている。
 25は、正面に来迎弥陀(像高33センチ)と三猿(像高15センチ)を陽刻し、像の右に「奉造立庚申供養之塔銘曰」、左に「元禄元戊辰年小春如意日」とある。
 26は胸前に剣と索、上方手に宝輪と矛をとる四手青面(像高48センチ)で、足下の鬼は太い尾のついた河馬を連想させるユーモラスな姿、下部に三猿(像高21センチ)、その横に「寛文十一辛亥年」「十二月一日」の年銘、三猿下に一段一三人の名前を二段に刻む。三不型の三猿は、右から牝・中性(性別不明)・牡の順に並んでいる。
 戸塚町の宮谷へ入って、三四四九番地の田代清さん宅前に並ぶ
  27 延宝4 笠付型 来迎弥陀・三猿・蓮華            98×35×30
  28 年不明 笠付型 合掌弥陀・三猿               71×31×30
  29 元禄12 光背型 日月・青面金剛・三猿            108×42
 30 元文5 柱状型 「庚申供養」                61×24×16
  31 安永6 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      72×32×27を調べる。
 27は、来迎印の阿弥陀如来立像(像高33センチ)を主尊とし、下部に三猿(像高16センチ)の刻像がある。主尊の右に「奉庚申供養尓云」、左に「延宝四丙辰天霜月吉日」がみられ、両側面に蓮華が陽刻されている。
 28は石がトロけた状態ではっきりしないが、主尊が合掌弥陀(像高32センチ)と思われ、三猿(像高9センチ)の下に七人の施主銘がみられる。
 29は合掌六手像(像高42センチ)で、三猿(像高14センチ)の下に八人の施主銘が認められる。主尊の右に「奉彫庚申塔 元禄十二己卯 相州鎌倉郡 願主」、左に「正月廾六日 戸塚之内□□谷敬白」の銘がある。
 30は正面に主銘の「庚申供養」、右側面に年銘の「元文五庚申十月大吉日」とある。
 31は、合掌六手像(像高44センチ)に日月・一鬼・二鶏・三猿(像高9センチ)を配す。右側面に「庚申講中」と四人の施主銘、左側面に「安永六丁酉天霜月上旬 相州鎌倉郡戸塚宮谷」と四人の施主銘を刻む。隣には、天明三年の廻国供養塔がみられる。
 坂下(戸塚町三〇二三)には、道路に面して次の八基が並んでいる。
   32 正徳4 板駒型 日月「ウーン 庚申講中」三猿         69×31
   33 享保3 光背型 日月・青面金剛・三猿           68×29
   34 元禄8 光背型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        108×47
   35 元禄6 板碑型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        103×40
   36 延宝6 笠付型 日月「キリーク 奉彫建庚申講石塔」三猿  98×37×35
  37 延宝5 光背型 「バク 奉彫建庚申講石塔」        133×46×40
   38 元禄4 光背型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     112×40
  39 寛保3 柱状型 「庚申」                 56×26×11
 32は、「ウーン 庚申講中」も主銘に日月と三猿(像高10センチ)を配する。三猿の下に六人の施主銘が刻まれている。
 33は上部に日月、中央に剣索六手像(像高55センチ)、下部に三猿(像高6センチ)を陽刻する。像の右に「奉供養 享保三戊戌天」、左に「□月十一日 庚申講」、三猿の下に一〇人の施主銘を記す。
 34は、剣索六手像(像高55センチ)で下部に三猿(像高12センチ)と二鶏を配す。右端に「奉新造立為庚申供養二世安楽」、左端に「〓元禄八乙亥天十一月二日」の銘がある。
 35は上部に日月、「ア」字の下に合掌六手像(像高38センチ)、下部に二鶏と三猿(像高13センチ)がある。右端に「奉建立庚申供養宝塔敬白」、左端に「元禄六己酉天十一月吉祥日」、三猿の下に一〇人の施主銘を刻む。
 36は、主銘の「奉彫建庚申講石塔」の上下に日月と三猿(像高14センチ)を配する。右側面に「維延宝六天 為二世安楽也」と四人の施主銘、左側面に「戊午十月吉日 □□□信士」と四人の施主銘がみられる。背面に梵字四字が刻まれている。
 37は、「バク 奉彫建庚申講石塔」の主銘に続けて、その右に「為二世安楽也」、左に「一結十二人衆」、右側面に「維延宝五天」と六人の施主銘、左側面に「丁巳九月良辰」と七人に施主銘が彫られている。背面には梵字三字がみられる。
 36と37塔とは、一年違いで造立され、主銘を同じくしているけれども、主銘の上に刻まれた種子が、前者が「キリーク」なのに後者は「バク」であるのは、どういう事情があるのだろう。元来は両塔が違う場所にあったのかも知れないが、現在、同じ場所に並んでいるだけに気にかかる。
 38は、剣索六手像(像高48センチ)が鬼の上にたち、二鶏と三猿(像高11センチ)がみられる。像の左右に「元禄四辛未年」「八月七日」の年銘を刻む。
 39は前面が風化して「庚申」の二字しか読めない。昭和五十八年の記録では、現状よりまだ状態がよかったのか「□□□庚申講」と読んでいる。右側面に「寛保三癸亥天」、左側面に「□月吉辰」とある。「寛保」の「保」がツクリの上に人をおく異体字である。
 高島橋手前の日立戸塚工場前(戸塚町二一六)には
   参 宝永7 柱状型 「これよ里かまくら道」が建っている。正面は「これよ里かまくら道」の道標銘、右側面に「南無阿弥陀佛」の六字名号と七人の施主銘、左側面には「宝永七庚寅歳九月二日」の年銘と「庚申講中」が刻まれている。
 東海道線のガードをくぐり、蔵田寺(上倉田町三一八)を訪ねる。境内の覆屋の下に
   40 明暦2 光背型 二猿・合掌地蔵がある。上部に二猿、その下には合掌した地蔵菩薩を陽刻する。像の右に「庚申為供養之地蔵建立干時明暦二天丙申十一月吉日 檀主」、左に「現世無比楽後生清浄土 導師當山香譽上人大和尚 敬白」の銘文を刻む。現在は覆屋に安置されているが、清水長明さんがこの庚申塔を撮られた頃は野ざらしであった。当時の写真が『相模道神図誌』(波多野書店 昭和40年刊)七一頁に載っている。後方には
   参 元禄13 柱状型 「南無阿弥陀佛」があり、右側面に「元禄十三庚辰正月廾六日」と二人の施主銘、左側面に「か乃え講中」と二人の施主銘、裏面に「是よりとつか本宿道」の道標銘が彫られている。

 蔵田寺から子八幡神社(上倉田町九七八)にむかう。先ず境内にある
   道4 明治42 柱状型 「道祖神」               46×24×18
   41 安永3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     69×29×19
   42 宝暦9 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        68×40×21
   43 貞享5 板駒型 日月・青面金剛・一鬼           96×41
   地2 文久3 柱状型 日月「堅牢地神」            65×30×27
   道5 嘉永6 柱状型 「道祖神」               73×31×25
   44 元禄15 光背型 日月・合掌地蔵・二鶏・三猿        94×44
   45 明治33 自然石 「庚申塔」                96×51
   46 昭和14 自然石 「庚申塔」                96×55をみる。

 道4は、正面に「道祖神」の主銘、左側面に「明治四十二年一月」の年銘がある。
 41は、合掌六手像(像高38センチ)に日月・一鬼・二鶏・三猿(像高8センチ)を配する塔で、右側面には「安永三甲午歳 五月吉祥日 上倉田村」、左側面に「庚申講中」と二名ずつ三段に施主銘を記す。 42は合掌六手像(像高41センチ)に日月・一鬼・三猿(像高9センチ)がつく。右側面に「奉納庚申供養」左側面に「宝暦九己卯年 十一月 施主」と施主銘五人の氏名を刻す。
 43は剣索六手像(像高53センチ)で、上下に日月と一鬼がみられる。右下端に「貞享五辰天」、左下端に「二月吉祥日」、下部に「久左門」など七人の施主の名前が刻まれている。 地2は正面上部に陰刻の日月・瑞雲があり、中央に主銘の「堅牢地神」、左側面に造立年銘の「文久三癸亥九月吉日」がある。
 道5は、皿角型の正面に「道祖神」、右側面に「嘉永六癸丑年正月日」とある。
 44は、主尊の合掌地蔵(像高38センチ)を中央におき、上部に日月、下部に二鶏と三猿(像高15センチ)を配置する。像の左右に「元禄十五壬午天」「九月十二日」、三猿の下に九人の施主銘を刻む。
 45は板石の表面中央に「庚申塔」、右に「明治三十三年十月建之」、左に「」の書家銘がみえる。
 46も板石の表面中央に「庚申塔」とあり、裏面には四行の銘文がある。前回の調査では「三本松ニ鎮座セラレシ当庚申塔ハ大正十二年 鉄道線拡張ノ為メ土地ヲ買収セラレシヲ以テ旧八幡社跡ヘ移転ス 依テ昭和十四年九月二十日 碑ヲ建設シ之ヲ記ス」と読んだが、今回は場所が移動されて読むのが骨なので省略した。

 これらの塔を調べてから、さらに坂下の参道にある
   47 寛文7 笠付型 来迎弥陀・三猿・蓮華           103×37×32
   48 寛文10 光背型 合掌地蔵・三猿              111×45
   49 嘉永7 柱状型 「青面金剛塔」              73×31×28
   地3 明治8 柱状型 日月「堅牢地神」            73×32×32
   道6 天明6 光背型 双体道祖神               43×28×をみる。
 47は正面中央に来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像(像高40センチ)をおき、像の左右にある「サク」と「サ」の種子で弥陀三尊を形成する。その下に三猿(像高14センチ)、像の左と右に年銘の「寛文七丁未天」と「霜月廾日」、三猿の下に「優誉上人」と八人の施主銘がみられる。両側面には、蓮華が陽刻されている。
 48は、頂部に「イーン」の地蔵種子をおき、中央に蓮座にたつ合掌地蔵(像高34センチ)、その下に三猿(像高12センチ)と施主銘四人を刻む。像の右に「再拜曰 彭侯子彭常子命児子 悉入竊冥之中故離我身」、左に「寛文十庚戌暦二月十九日」と三尸銘(傍線部分)がみられる。先の蔵田寺でふれた『相模道神図誌』の七三頁にこの塔の写真が掲載されている。バックにブロック塀が写っているから、その後に現在地に移されたのだろう。
 49は角柱の正面に「青面金剛塔」、右側面に「嘉永七甲寅歳九月」、左側面に「上倉田村村中」の銘がある。
 地3は隅丸型の正面上部に日月と瑞雲を陰刻し、中央に主銘の「堅牢地神」を刻し、右側面に「明治八乙亥(異体字)歳三月吉日」の年銘がある。
 道6は双体道祖神(像高31センチ)で、像の右に地銘の「相州鎌倉郡上倉田村」、左に「天明六午十月吉日」の年銘がみられる。

梅雨入りしているのに晴天で、しかも風がふき、快適な一日であった。時には風で帽子が飛ばされる時もあった。ここを最後に戸塚駅にむかい、帰途につく。
        〔初出〕『平成十一年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成11年刊)所収日本石仏協会見学会  
戸塚区内を廻る

平成十五年五月二十五日(日曜日)は、日本石仏協会主催の戸塚見学会に参加する。午前一〇時、JR東海道線戸塚駅に集合、コースの案内役は会田秀介さんが担当されて横浜市戸塚区内の石佛を廻る。
 今までは、戸塚に行くのに八王子から横浜線を利用して横浜で東海道線に乗り換えていた。今回はパソコンでヤフーの画面を呼び出して「路線」を選択し、戸塚駅午前九時四五分の到着指定で検索する。画面に幾つかのコースが現れ、最後にあったのが青梅〜立川〜東京〜戸塚のコースである。これだと二回の乗換であるし、青梅と東京は始発駅だから座れる可能性が高く、立川からの中央特快も運がよければ立川で、最悪でも新宿過ぎれば座れると考えた。幸運にも今回は、青梅から戸塚まで座って行ける。
 戸塚駅についたのがパソコンの画面通り九時四一分、改札を出るとすでに十数人の方が集まっている。受付を済ませて「第58回石仏見学会 戸塚の石仏」の資料をいただく。今回のコースは、平成十一年六月十三日(日曜日)の多摩石仏の会で関口渉さんの案内によって歩いた矢部町・稲荷社以降の後半部を一部省略したコースに当たる。この時は庚申塔中心で今回ほど他の石佛、例えば吉田町の妙見菩薩石祠や清源院墓地の子抱き地蔵などに注意を払っていなかったし、それらを見逃していた。

 第一見学場所は、矢部町九七にある稲荷社である。ここの境内には、祠の左横に
   道1 寛政2 光背型 双体道祖神               39×28がみられる。正面に拱手の双体像(像高28センチ)を浮彫りし、年銘の「寛政二戌正月吉日」がある。塔の前面には、丸石が敷かれている。
 稲荷社の近くには、戸塚町五一三二の路傍に面した承応四年の庚申石祠(63×77×64)があり、昭和五十八年六月十二日(日曜日)に行われた多摩石仏の会で藤井正三さんの案内で初めてこの石祠に出会った。前回の時もみているが、今回は省略である。その代わりというのも変であるが、吉田町二六の妙見菩薩石祠を訪ねる。亀と蛇を浮彫りする角柱や台石が面白い。

 次いで訪ねたのが浄土宗の清源院(戸塚町四九〇七)で、家康の愛妾・お万の方が創建した寺である。石段の右手の高見に
   1 元禄9 笠付型 日月・青面金剛・三猿(台石)       74×36×27がある。正面の上部に日月、中央に合掌六手像(像高36センチ)、下部に八人の施主銘を刻んでいる。右側面に「元禄九丙□年」、左側面の「九月吉日」の年銘がみられる。右側面が破損しているのが惜しまれる。台石正面に三猿(像高11センチ)を浮彫りする。
 境内から墓地へ入り、文政元年の徳本六字名号塔をみてから個人墓地を廻る。名号塔の近くにある「六地蔵塚」とある板石型塔が気にかかる。背面の下部に由来らしい長い銘文がみられるが、時間の関係で読めない。犬飼康祐さんの当時の報告をみると、「正徳三年の六地蔵が明治十三年の火災で破壊されたのでこの碑を建てた、とわかる」と記録されている。個人墓地にある文政十年の地蔵は、抱かれた子供が風車を持っているのが興味をひく。味岡家墓地にある笠付型六角柱の正面に六字名号が刻まれているが、下部に「徳本」とあるものの字体が全く異なる。会田さんの資料によると、この名号は「利剣名号」といわれるそうである。
続いて戸塚消防署の隣にある澤辺本陣跡を訪ねてから、明治天皇の行在所跡の石碑の奥にある澤辺家の元屋敷神だったという羽黒神社(戸塚町四一四二)の境内で
   2 元禄5 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿(台石)    69×35×29
   3 延宝6 光背型 合掌弥陀・三猿              106×47の二基をみる。
 2は、正面に日月と上方手と下方手がH型にみえる合掌六手像(像高40センチ)を浮彫りする。日野市周辺にみられるH型像は、X型像の後に出現する傾向であるが、この像の造立年が日野より早く、X型像の時代に当たる。下部に「石井□兵衛」など九人の施主銘、右側面に「奉造立庚申供養塔」、左側面に「元禄五壬申歳三月吉辰」の年銘がある。三猿は台石正面にあるが、頭がみえるだけで埋まっているので計測できない。
 3は、合掌する阿弥陀如来の立像(像高52センチ)を主尊とする庚申塔で、下に三猿(像高12センチ)がある。像の右に「奉造立庚申供養塔 所願成就」、左に「皆令滿足」の銘文がみられる。前回は読めた右の「延宝六戊午年」と左の霜月廾六日」の年銘は、今回は読めなかった。近頃、眼が悪くなったせいか銘文の読みには苦労する。

 続く八坂神社の境内(戸塚町四一六八)には、石段を登った右手に
  4 安政2 柱状型 「庚申塔」                67×27×25がある。正面には「庚申塔」の主銘、右側面に「安政二乙卯四月」の造立年銘、台石正面に七人の施主銘を刻んでいる。
 多少時間が早かったが、この境内で昼食となる。食後の昼休みを利用して先刻訪ねて羽黒神社に戻り、計測と銘文を解読する。前回読めた年銘が、今回読めなかったのはショックである。ここで遅れてきた中村博さんに出会い、一緒に集合場所の八坂神社に戻る。

 午後は、富塚八幡神社(戸塚町三八二七)の見学から始まる。ここでは、社殿左手にL字形に並ぶ庚申塔の八基の中で特に10・11・12の三基に注目する。
   5 正徳4 板駒型 日月・青面金剛              63×33
   6 元文3(笠付型)青面金剛・一鬼              62×28×20
   7 正徳2 板駒型 日月・青面金剛・三猿           72×32
   8 宝永4 板駒型 日月・青面金剛              72×35
  9 享保1 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿       ※88×24×23
   10 寛文12 笠付型 定印弥陀・三猿・蓮華           87×39×27
   11 元禄1 笠付型 来迎弥陀・三猿             ※91×33×34
   12 寛文11 光背型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        122×53
 5は正面上部に日月、中央に合掌六手像(像高43センチ)、下部に三猿(像高10センチ)を浮彫する。右側面には、年銘の「正徳四甲午年十月吉日」が記されている。
 6は笠部が欠失した塔であるが、笠部は見当たらない。塔自体も、主尊の合掌手(像高33センチ)のみしかわからない程に風化が激しい。右側面に「元文三戊午十月吉日」と六人の施主銘、左側面は「妙□信女」の法名と六人の施主銘を刻む。
 7は合掌六手像(像高32センチ)、下部に三猿(像高11センチ)があり、その下に九人の施主銘を刻す。像の右に「正徳二壬辰年」、左に「十二月日」の年銘がある。
 8も7と同じで合掌六手像(像高48センチ)、頭の左右に「宝永四丁亥年」と「七月二日」の年銘、足の左右には三人ずつの施主銘がみられる。
 9は前面からみると板碑型のような額部がある。正面の中央に鬼上に立つ剣人六手像(像高43センチ)があり、下部に三猿(像高7センチ)、その上部左右に「奉造立」「庚申講中」とある。右側面には、年銘の「享保元歳丙申十二月吉日」がみられる。
 この塔の主尊と三猿は計測したが、塔全体の採寸ができなかったので前回の測定を利用する。以下も含めて前回の測定は、数字の前に「※」印をつけておく。
 10は、正面に定印を結ぶ阿弥陀如来の坐像(像高32センチ)を浮彫りし、下部の三猿(像高11センチ)は右から牡・牝・牡の順に並んでいる。また、「寛文十二壬子天」「十一月五日」の年銘や一二人の施主銘がある。両側面には、蓮華が陽刻がみられる。
 11は10と異なり、正面の主尊が来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像(像高33センチ)である。像の右には「奉造立庚申供養之塔銘曰」とあり、左に「元禄元戊辰年小春如意日」の年銘が読める。下部には、三猿(像高15センチ)を陽刻する。
 12は胸前に剣と索、上方の手に宝輪と矛を執る四手の青面金剛立像(像高48センチ)を主尊とする。脚下の鬼は、太い尾の河馬を連想させるユーモラスな姿である。下部に三猿(像高21センチ)があり、その横に「寛文十一辛亥天」「十二月一日」の年銘、三猿下に一段一三人の名前を二段に刻む。三不型の三猿は、右から牝・中性(性別不明)・牡の順に並んでいる。10と12の写真は、昭和五十八年発行の『日本の石仏』二八号の九〇頁に載せたが、逆光で写真が撮りにくい場所に並んでいる。

前回の平成十一年には戸塚町の宮谷へ入って、田代清さん宅(戸塚町三四四九)前に並ぶ延宝四年来迎弥陀刻像塔・年不明合掌弥陀刻像塔・元禄十二年青面金剛刻像塔・元文五年「庚申供養」文字塔・安永六年青面金剛刻像塔の庚申塔六基をみている。
 第六天社(戸塚三三五六)で冨士講先達の藤行(長谷川藤吉郎)の石碑をみてから、坂下台バス停付近(戸塚町三〇二九)の道路に面して次の庚申塔八基が並ぶ。
   12 正徳4 板駒型 日月「ウーン 庚申講中」三猿      ※69×31
   13 享保3 光背型 日月・青面金剛・三猿          ※68×29
   14 元禄8 光背型 日月・青面金剛・二鶏・三猿      ※ 108×47
   15 元禄6 板碑型 日月・青面金剛・二鶏・三猿      ※ 103×40
   16 延宝6 笠付型 日月「キリーク 奉彫建庚申講石塔」三猿 ※98×37×35
  17 延宝5 光背型 「バク 奉彫建庚申講石塔」       ※ 133×46×40
   18 元禄4 光背型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿   ※ 112×40
  19 寛保3 柱状型 「申」                  56×26×11
 12は、主銘の「ウーン 庚申講中」の上下に日月と三猿(※像高10センチ)を彫る。三猿の下には、六人の施主銘がみられる。
 13は上部に日月、中央に剣索の六手像(※像高55センチ)、下部に三猿(※像高6センチ)を浮彫りする。主尊像の右に「奉供養 享保三戊戌天」、左に「十月十一日 庚申講」、三猿の下には一〇人の施主銘を彫る。
 14も13と同じ剣索六手像(※像高55センチ)で、下部に三猿(※像高12センチ)と二鶏がみられる。右端に「奉新造立為庚申供養二世安楽」の祈願銘、左端に「干時元禄八乙亥天十一月二日」の造立年銘がある。この年の十一月二日日は、庚申の当たり日である。
 15は上部に日月、種子「ア」の下に合掌六手像(※像高38センチ)、下部に二鶏と三猿(※像高13センチ)の刻像。右端に「奉建立庚申供養宝塔 敬白」、左端に「元禄六己酉天十一月吉祥日」、三猿の下に一〇人の施主銘を刻む。
 16は主銘の「奉彫建庚申講石塔」の上に日月、下に三猿(※像高14センチ)を配置する。右側面に「維延宝六天 為二世安楽也」と四人の施主銘、左側面に「戊午十月吉日 □□□信士」と四人の施主銘を記す。今回みなかったが、背面に梵字四字が刻まれている。
 17は主銘の「バク 奉彫建庚申講石塔」に続き、右に「為二世安楽也」、左に「一結十二人衆」とあり、右側面に「維延宝五天」と施主銘六人、左側面に「丁巳九月良辰」と施主銘六人がみられる。16と同様に今回みなかったが、背面に梵字三字が彫られている。
 現在同じ場所に並んでいる16と17塔の二基は、元来は別々の場所にあったのかも知れないが、主銘が同じなのに、その上に刻まれた種子が何故か「キリーク」と「バク」と異なるのが気にかかる。一年違いの造立だけに背後にどういう事情があるのだろうか。
 18は、13や14と同じ剣索六手像(像高48センチ)が鬼の上に立ち、下部に二鶏と三猿(※像高11センチ)がみられる。像の右に「元禄四辛未年」、左に「八月七日」と年銘を刻む。
 19は、前面が剥落して僅かに「申」の一字しか読めない。昭和五十八年の記録では、現状よりまだ状態がよかったのか「□□□庚申講」と読めたし、前回は「庚申」と判読している。右側面に「寛保三癸亥天」、左側面に「□月吉辰」とある。「寛保」の「保」が人偏を「人」で表し、その下に縦一列に「口」と「木」をおく異体字である。
 大坂台から諏訪神社(戸塚四五四)に向かう。通りより奥まった境内にある文化十四年の笏を執る天神坐像をみる。次の高島橋手前の日立戸塚工場前(戸塚町二一六)には
   参 宝永7 柱状型 「これよ里かまくら道」           計測なしが建っている。正面は道標銘の「これよ里かまくら道」、右側面に六字名号の「南無阿弥陀佛」と七人の施主銘、左側面に年銘の「宝永七庚寅歳九月二日」とこの塔の施主「庚申講中」銘が刻まれている。

その先にある東海道線のガードをくぐり、子八幡神社(上倉田町九七八)に向かう。石段を登って神社の境内に入り、右手に並ぶ道祖神・庚申塔・地神塔の九基をみる。
   道2 明治32 柱状型 「道祖神」              ※46×24×18
   20 安永3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    ※69×29×19
   21 宝暦9 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿       ※68×40×21
   22 貞享5 板駒型 日月・青面金剛・一鬼          ※96×41
   地1 文久3 柱状型 日月「堅牢地神」           ※65×30×27
   道3 嘉永6 柱状型 「道祖神」              ※73×31×25
   23 元禄15 光背型 日月・合掌地蔵・二鶏・三猿       ※94×44
   24 明治33 自然石 「庚申塔」               ※96×51
   25 昭和14 自然石 「庚申塔」               ※96×55
 道2は正面に主銘の「道祖神」、左側面に年銘の「明治三十二年一月建之」がある。
 20は合掌六手像(※像高38センチ)を主尊とし、下部に三猿(※像高8センチ)がある。他に日月・一鬼・二鶏の刻像がみられる。右側面に「安永三甲午歳 五月吉祥日 上倉田村」、左側面に「庚申講中」と三段にわたって二名ずつ計六人の施主銘を刻む。
 21は隣の20と同じ合掌六手像(※像高41センチ)で、日月・一鬼・三猿(※像高9センチ)を配す。右側面に「奉納庚申供養」、左側面に「宝暦九己卯年 十一月 施主」と施主五人の氏名を刻んでいる。
 22の主尊は、20と21の合掌六手像と異なる剣索六手像(※像高53センチ)で、上下に日月と一鬼を配している。右下の端に「貞享五辰天」、左下の端に「二月吉祥日」、下部に「久左門」など七人の施主の名前が刻まれている。
 地1は正面上部に日月・瑞雲を陰刻し、中央に主銘の「堅牢地神」、左側面に造立年銘の「文久三癸亥九月吉日」がある。
 道3は皿角型塔の正面に「道祖神」、右側面に「嘉永六癸丑年正月日」とある。
 23は正面中央に主尊の合掌地蔵(※像高38センチ)をおき、上に日月、下に二鶏と三猿(※像高15センチ)を浮彫りする。像の左右に「元禄十五壬午天」と「九月十二日」の年銘、三猿の下に九人の施主銘を刻む。
 24は板石型塔の表面中央に主銘の「庚申塔」、その右に「明治三十三年十月建之」、左に書家銘を刻んでいる。        
25も板石型塔の表面中央に「庚申塔」とあり、裏面には四行の銘文がみられる。先回の調査では「三本松ニ鎮座セラレシ当庚申塔ハ大正十二年 鉄道線拡張ノ為メ土地ヲ買収セラレシヲ以テ旧八幡社跡ヘ移転ス 依テ昭和十四年九月二十日 碑ヲ建設シ之ヲ記ス」と読んだが、今回は時間がなくて読んでいない。

 九基の塔の写真を撮ってから、さらに坂を下って参道に並ぶ
   26 寛文7 笠付型 来迎弥陀・三猿・蓮華           104×43×32
   27 寛文10 光背型 合掌地蔵・三猿              113×45
   28 嘉永7 柱状型 「青面金剛塔」              74×31×28
   地2 明治8 柱状型 日月「堅牢地神」            74×32×33
   道3 天明6 光背型 双体道祖神               45×28の五基を先回りして撮り、計測をする。
 26は、正面中央に主尊の来迎印を結ぶ阿弥陀如来の立像(像高39センチ)をおく庚申塔で、像の左右にある逆配置の「サク」と「サ」の種子で弥陀三尊を形成する。主尊下に三猿(像高12センチ)、左右に年銘の「寛文七丁未天」と「霜月廾日」、三猿下に「優誉上人」と八人の施主銘がみられる。蓮華が両側面に浮彫りされている。
 27の頂部に地蔵種子の「イーン」を刻み、中央に蓮座にたつ主尊の合掌地蔵(像高34センチ)、その下に三猿(像高22センチ)と四人の施主銘が並ぶ。像の右に「再拜曰 彭侯子彭常子命児子 悉入竊冥之中故離我身」の三尸銘(傍線部分)、左に「寛文十庚戌暦二月十九日」を記している。この塔の写真は清水長明さんの『相模道神図誌』(波多野書店 昭和40年刊)七三頁に掲載されている。それにはバックにブロック塀が写っているから、多分、撮影以降に旧在地から現在地に移されたと思われる。
 28は角柱の正面に主銘の「青面金剛塔」、右側面に造立年銘の「嘉永七甲寅歳九月」、左側面に施主銘の「上倉田村村中」がみられる。
 地3は、隅丸型の正面上部に日月と瑞雲を陰刻し、中央に主銘の「堅牢地神」、右側面に「明治八乙亥(異体字)歳三月吉日」の年銘を刻す。
 道6は双体道祖神(像高31センチ)で、像の右に地銘の「相州鎌倉郡上倉田村」、左に「天明六午十月吉日」の年銘がみられる。右神は、肩に御幣状のものを持っている。
子八幡神社

 
      蔵田寺

今回の見学会は、子八幡神社でコースを終わる予定であった。昼休みに青木安勝さんと折角ここまで来て蔵田寺を見学しないのは片手落ちだと、会田さんに申し入れてオマケとしてコースに蔵田寺を繰入れることを提案した。
幸い時間的にも余裕があったので、提案通りに蔵田寺(上倉田町三一八)を訪ねる。境内のコンクリート製の覆屋の下に
   29 明暦2 光背型 二猿・合掌地蔵              125×40が安置されている。地蔵には真新しい赤の帽子と前掛けがつけられ、前に生花が供えられている。塔の上部に合掌する二猿(像高13センチ)をおき、その下に合掌の地蔵菩薩(像高62センチ)を陽刻する。二猿が地蔵菩薩の頭上にあるのが何とも珍しい。庚申塔の主尊混迷期に造立されたためであろう。地蔵の像の右に「庚申為供養之地蔵建立 干時明暦二天丙申十一月吉日 檀主」、左に「現世無比楽後生清浄土 導師當山香譽上人大和尚 敬白」の銘文を刻む。現在は覆屋に安置されているが、『相模道神図誌』七一頁に載った清水さんの写真をみると、撮影当時は野ざらしであったのがわかる。

 この地蔵の後方にある石塔の中に
   参 元禄13 柱状型 「南無阿弥陀佛」 計測なしがある。この塔は正面に六字名号を刻み、右側面に「元禄十三庚辰正月廾六日」と二人の施主銘、左側面に「か乃え講中」と二人の施主銘、裏面に「是よりとつか本宿道」の道標銘がみられる。

この寺を最後に見学を終わって二時二〇分に解散し、出発点の戸塚駅へ戻って帰途につく。時間的には新宿行の方が速いが、東京駅回りならば始発で座れるので、新宿行の大津和弘さんと別れる。東京駅で特快の高尾行に乗れて座れたのはよかったが、東小金井駅手前の踏切で人身事故にあい、電車が三〇分遅延する。大津さんと一緒に新宿行に乗れば、もっと早く家についたはずである。

あとがき

戸塚区の石佛を初めて見たのは、昭和五十五年六月二十二日の現在は栄区となった田谷町・定泉寺の洞窟にある十八羅漢である。現在の戸塚区では、昭和五十六年一月四日が最初で、多分、この時は単独で出掛けたものと思われる。特に記録はしていないが、手元にある写真から判断して上倉田町の蔵田寺を訪ねている。

二番目に戸塚を訪ねたのは、昭和五十八年六月二十二日の多摩石仏の会の例会である。
本書の最初に載せたように藤井正三さんの案内で、当時の国鉄・戸塚駅を起点にして矢部町・稲荷社で双体道祖神を見てから、戸塚町に入って庚申石祠〜羽黒神社〜富塚八幡〜宮谷〜宮前町内会館〜坂下〜日立戸塚工場前〜上蔵田町・子八幡〜蔵田寺〜下倉田町〜長沼町・八幡神社〜飯島町・般若院〜三島神社〜小菅ケ谷町・春日神社を廻り、根岸線本郷台駅まで歩いている。

三番目は、前回と同様に多摩石仏の会の例会の昭和五十八年十一月十三日である。写真は手元にあるもの、この時のコースでみた庚申塔を記録していないが、幸いにも藤井正三さんが多摩石仏の会の『あしあと』80号(昭和59年刊)に「11月例会 横浜市戸塚区(その2) 矢部・吉田・舞岡・秋葉町方面」の題名で発表されているから、コースの内容が明らかである。田中久子さんの案内で戸塚駅を起点にして、矢部町・街山八幡から吉田町・八幡神社〜舞岡町・円福寺〜第六天〜八幡神社〜桜堂〜長泉寺〜柏尾町・墓地〜大山前不動堂〜名瀬町〜秋葉町・八幡神社〜名瀬町歌舞伎〜大神宮を経てバスで起点の戸塚駅へ戻っている。

四番目も昭和五十九年二月十二日の多摩石仏の会の例会で廻っている。この時も記録をとらなかったが、田中久子さんが『あしあと』83号(昭和59年刊)に「11月例会 横浜市戸塚区(その3) 中田町・汲沢町方面の石仏を訪ねて」と題して載せている。
前回の報告者の藤井正三さんの案内で戸塚駅を起点にして、中田町〜農協前〜御霊神社〜白百合公園〜矢部町・小学校前〜踊場バス停〜汲沢町・ゴルフ練習場前〜御霊神社〜戸塚町・秋葉神社〜親縁寺〜佐伯宅隣のコースで、起点の戸塚駅へ帰った。

五番目は、前の三回と同じで平成十一年六月十三日に行われた多摩石仏の会の例会である。関口渉さんの案内でJR戸塚駅を出発し、本書に掲載したようにバスで「ポーラ前」下車、第一見学場所の柏尾町の大山道標から斉藤家墓地〜吉田町・宝蔵院〜東峰八幡神社〜矢部町・吉田大橋付近路傍〜稲荷社〜戸塚町路傍〜清源院〜羽黒神社〜八坂神社〜富塚八幡〜宮谷〜坂下〜日立戸塚工場前〜上倉田町・蔵田寺〜子八幡神社、ここを最後に戸塚駅に向かって帰途につく。

最新の六番目は、平成十五年五月二十五日に催された日本石仏協会の見学会で、これまでと同様に戸塚駅から会田秀介さんが案内を担当して戸塚区内を廻っている。矢部町・稲荷社〜吉田町・妙見菩薩石祠〜清源院〜澤辺本陣跡〜羽黒神社〜八坂神社〜富塚八幡〜第六天社〜坂下〜諏訪神社〜日立戸塚工場前〜上倉田町・子八幡神社〜蔵田寺を廻って戸塚駅に戻る。

これまで廻ったコースの主なものは、戸塚町の羽黒神社〜富塚八幡〜坂下と上倉田町の子八幡神社と蔵田寺を経由するものである。本書では、一般的な資料を中心とした経過で筆を進めている。これと別に『日本の石仏』第28号(日本石仏協会 昭和58年刊)の「石仏見学会の報告を書こう」でも書いたように、中でも論考的に松村雄介さんが『相模の石仏』(木耳社 昭和56年刊)の一六四〜一六九頁で子八幡神社の石佛を紹介されている。

この子八幡神社、あるいは富塚八幡の一社だけでも、充分に論考の素材となる。
ともかくも、記憶よりも記録が大切であるのを実感する。戸塚区内の各地で撮った写真でも主尊の像容や塔形などの外形的な事柄はわかるが、銘文やその場で感じた事柄は、時間の経過で記憶が薄れて行く。簡単でもメモすべきであるし、見学会や例会で手渡される資料を保存しておくのもよいだろう。いずれにしても「記憶よりも記録」であることは、違いないところである。
写真・スケッチ・メモなどの調査資料をキチンと揃えておくと、後日、役立つことはいうまでもない。本書もそうした意味で役に立つだろう。ご活用いだければ幸いである。

最後になったが、見学会や例会でご案内いただいた各氏にお礼申し上げたい。また、地元の方々から有益なお話をお聞きできたことを感謝する。
                             ・・・・・・・・・・・・・・・
                         戸塚の庚申塔を歩く
                         発行日 平成十五年六月十五日
                         著 者 石  川  博  司
                         発行者 庚申資料刊行会
                         〒1980083 青梅市本町一二〇
戸塚区庚申塔一覧表

参考文献〕 清水長明『相模道神図誌』 波多野書店 昭和40年刊
            伊東 重信『横浜市庚申塔年表』 同人 昭和42年刊
            平野實『庚申信仰』 角川書店 昭和44年刊
            伊東重信「形態的にみた横浜市の庚申塔」『民俗』89号 昭和50年刊
            伊東重信「神奈川県にみられる山王系の庚申塔」『日本の石仏』3号
                昭和52年刊
            藤橋幹之助「鎌倉郡の庚申塔」『日本の石仏』5号 昭和53年刊
            港南の歴史発刊実行委員会『港南の歴史』 同会 昭和54年刊
            松村雄介『相模の石仏』 木耳社 昭和56年刊
            石川博司「石仏見学会の報告を書こう」『日本の石仏』28号 昭和58年刊

 
inserted by FC2 system