津久井地方の庚申塔                             石 川 博 司
          
          目 次 ・・
          
          続桂川行 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          大戸寛文十年塔の系譜 ・・・・・・・・・
          佐野川・沢井行 ・・・・・・・・・・・・・・・・
          寸沢嵐行 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          山王様と庚申の混習 ・・・・・・・・・・・
          鳥屋調査行 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          津久井の猿田彦 ・・・・・・・・・・・・・・・
          津久井見学会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
          
          あとがき ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
続桂川行
 二月二日の桂川辺の調査は、梁川から上野原にかけてであった。今日は、前回に引続いて上野原から相模湖の間の調査である。
 中央線上野原駅下車、桂川橋の手前の十字路を東に進むと、やがてトンネルとなる。ここを抜けて、坂を少し登ると左手に神社がある。石段を登っていくと、右手に次の塔がある。
   庚1 元禄3 笠付型 聖観音・一猿「奉庚申供養」       72×25×18
最初の塔から主尊が聖観音とはさいさきがよい。塔正面に聖観音、その下の一猿は合掌状のものである。右側面には「奉庚申供養 施主□□人 □□六兵衛」、左側面には「庚午 元禄三年 十二月吉日 敬白」の銘がある。本塔は二つにわれている。

 日陰にはまだ雪が残り、道は所々雪融けのためにぬかって歩き難い。畑の畦道を通って諏訪集落に出て、先ず古都神社に向かう。先日、大村稲三郎氏から送られてきた写真には、このじんじゃ境内の自然石の庚申塔と廾三夜塔が移っていた。写真の如く
   庚2 年不明 自然石 「庚申塔」               80×56
   廾1 文化6 自然石 「廾三夜」「諏方講中」の二基が並んでいる。この近くにある慈眼寺境内には
   庚3 文化10 笠付型 青面金剛・三猿「當村女念佛講中」「世話人 平兵衛母 弥兵衛母
              現十六世州見代」            91×36×35が
ある。この塔の青面金剛が変わっている。合掌二手のもので、背に弓と矢を背負った形である。右側面下部に「旧塔延宝九年」の銘がみられるから、旧塔には合掌弥陀の像でも刻まれ、青面金剛の掛軸などの影響を受けて、再建の時にはこのような青面金剛がつくられたのかもしれない。

 桂川にかかる境川橋を渡ると、今まで山梨県北都留郡上野原町であったのが、神奈川県津久井郡藤野町になる。昔流にいえば甲州から相州に入ったことになる。藤野町の最初の採塔は名倉のT字路近くにある
   庚4 寛政11 角柱型 「庚申塔」               95×36×35
で、台石に道標銘が刻まれている。
この付近にある消防小屋の前には数基の石塔が並んでいる。その中に
   庚5 貞享3 角柱型 山王・三猿「奉庚申山□□□□□□ 施主三十四人敬白」75×21×20
   廾2 年不明 自然石 「廾三夜」
がみられる。庚申塔は笠付型らしいが、笠部が現在みられない。主尊の二手は胸前にあって印を結ぶようにもみえるが、全体的な感じは神像的で、ここでは一応山王としておく。塔の前は雪が深くて調べにくいし、その上逆光なので写真の方も当てにならないから、後日もう一度調査する必要がある。

 太刀集落の西の入口には、雪の中に廾三夜塔と思われる自然石文字塔が、塔の上部の「廾」の刻字だけを雪の上にのぞかせている。そこには庚申塔はないようである。秋山川にかかる秋川橋の手前の路傍に
   庚6 年不明 板駒型 「申庚塔」「右たち なくら 上のはらみち 左とつらはら 阿き山
              みち」                 61×37がある。
「申庚塔」とは庚申塔のことだろう。
 秋川橋を渡り、杉の通りを進むと右手路傍に昭和二十四年建立の牛頭観音の文字塔がある。更に東に進むとT字路の右手に入った所に
   廾3 文政10 自然石「廾三夜」
があり、その隣には、大正九年の「牛馬観世音」と刻んだ自然石文字塔がある。これらの塔の近くの石垣の上に
   庚7 正徳2 笠付型 「バン ウーン タラーク ア キリーク」三猿
              「森久保又左衛門(等8名)       53×22×20
   庚8 宝暦12 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    81×36
   庚9(延宝3)板碑型 合掌弥陀・三猿             78×32
の三基が並んでいる。8番塔は剣人六手の青面金剛で、この人身が大きいのと、右側面の「延宝三巳庚申供養塔」の銘文が目をひく。9番塔の主尊脇の銘文は、はっきりしないが、「延宝」らしい銘があるから、8番塔でいう延宝三年は9番塔を指すのだろう。

 日連の金鳳山青蓮寺の門前の石塔群の内に
   庚10 年不明 光背型 聖観音・三猿              69×35
   廾4 文政2 自然石 「廾三夜月天子」「秀雅代」
   庚11 年不明 角柱型 (主尊不明)三猿(上半欠失)      41×27×22
がみられる。10番塔には、主尊の頭上に「奉」、その左右に銘文があるけども、判読できない。11番塔は上半部は欠失して、主尊が何であるかわからないが、青面金剛ではなく、恐らく聖観音か阿弥陀であろう。

 勝瀬橋を渡り、国道二〇号線(甲州街道)を相模湖町に入り、与瀬の旧本陣裏にある塔を調べる。
   庚12 延宝7 笠付型 合掌弥陀・三猿             71×26×25
この塔はこれで三度目だが、写真に撮るのは初めてである。清水長明氏の『相模道神図誌』(波多野書店 昭和40年刊)に載っている年表には、この塔の記載がみられない。この塔の近くに
   廾5 元治1 自然石 「廾三夜」「雪城澤俊郷拝書」
がある。年銘に「元治紀元甲子年再建」とあるから、この塔以前に廾三夜塔があったのであろう。

 先日の大雪がまだ残っており、そのために道も悪く、そう奥までもは入れなかったし、雪に埋もれた塔もあったかもしれない。しかし、その割りには変化のあった採塔行であった。(昭43・2・27記)               
                  〔初出〕『ともしび』第14号(ともしび会 昭和43年刊)所収
大戸寛文十年塔の系譜

 町田市相原町の大戸観音の境内には、円光と矛を持つ二手青面金剛像を刻んだ寛文十年造立の角柱型塔がある。この二手の青面金剛がどうして成立したのか、或いは、どのような石工の手になったものかはわからないけども、この主の二手の青面金剛を刻んだ塔が神奈川県下にみられる。

 清水長明氏著『相模道神図誌』の四七頁と四九頁に写真が載っている塔が、大戸の系統と同じものである。特に、四九頁の津久井郡津久井町根古屋・並木の寛文十一年塔は塔形こそ違うが、銘文の「奉念誦庚申供養」までそっくりである。同書によると、ほぼ同じ塔が同町長竹・稲生にあるそうだから、大戸の塔と津久井町の二基とは同一の石工の手になろものかもしれない。或いは大戸の塔をモデルにしたとも考えられる。

 四七頁の塔は、愛甲郡愛川町上ノ原にある寛文八年塔で、この方は矛と円光を持つところは大戸の塔と同じ形像であるけれども、頭部が大戸のものに比して変わっている。大戸や根古屋のものは、頭部が像高に比して大きく、地蔵の感じであるのに対して、上ノ原のは青面金剛らしい。

 これらの二手青面金剛の系統の塔にみられる三猿について、清水氏は注目すべき意見を持っておられる。すなわち、二猿と一猿とが向かい会った三不型を示す三猿は、二猿から三不型三猿に移行する過程に生じた、いわば過渡的な三猿としている点である。三多摩の場合では、寛文期の三猿で二猿と一猿とが向かい合って三不型のポーズをとっているのは、大戸の塔以外には見当たらない。

 大戸の塔と同じ系譜のものとして現在わかっているのは、津久井の二基と愛川の一基であるが、町田市と津久井町の間にある城山町辺にもみられそうな気がするし、或いは、町田市に接する相模原市辺にもあるかもしれない。こうしたローカル的な青面金剛の系譜を追求するのは面白い課題である。(昭43・3・3記)          〔初出〕『庚申』第51号(庚申懇話会 昭和43年刊)所収
佐野川・沢井行

 先月二回の桂川沿岸の調査に続いて、藤野町佐野川と沢井の調査に出掛けた。青梅駅で先発の立川行に乗らず、誤って次に発車する東京行に乗ったために、中央線を一列車乗り逃がしてしまった。中央線の次の高尾発松本行の電車まで約一時間の待ち時間があったの西八王子駅で下車して、高尾駅までの間にある庚申塔を調べることにした。

 先ず、八王子市並木町の長安寺境内にある宝永七年の笠付型青面金剛刻像塔を再調査する。次に、同市東浅川町新地遊園地の一隅の小祠内にある
   庚1 元禄6 笠付型 「バン」青面金剛・三猿「庚申供養為二世安楽也」70×25×18を調べる。これは縣敏夫氏から報告を受けたもので、先月の大平見学会の時には時間がなくて調べられなかったものである。青面金剛は、第一手に矛と蛇(或いは矢と弓のつもりか)を持ち、第二手は腰に手を当てた四手像で、下部の三猿は、左一猿(塞目)と右二猿(塞耳と塞口)の向かい合ったものである。

 通り道にあるので、原宿会館前にある宝暦十一年笠付型青面金剛刻像塔の写真を撮る。この塔の隣にある文化八年造立の山角型塔の主尊は、合掌二手の馬頭観音刻像である。『八王子市史 下巻』(八王子市 昭和42年刊)の地区別庚申塔一覧表(一三六三頁)には、これが誤って青面金剛石塔として記載されている。次いで、みどり幼児園内にある明和三年笠付型青面金剛刻像塔を写してから、高尾駅に急いだ。ホームにはすでに電車が入っており、電車に乗った時には一〇分もなかった。

 中央線は上野原で下車、駅前からバスで上岩(藤野町佐野川)に着く。終点のバス停から井戸(上野原町棡原)の方に向かい、石楯尾神社周辺まで進んでから引き返し、庚申塔を捜しながら下った。やっと御霊(藤野町佐野川)の御霊神社でこうしとうを発見した。それは、拝殿右手の朽ちた小祠の中にあった流造りの石祠である。
   庚2 年不明 石 祠 三猿                  29×28×25これは、室部が中空になっていて、正面に四角の窓がある。室部には中尊がみられない。もどの右には塞目の猿、右側面には塞口猿、左側面は塞耳猿がそれぞれ陽刻されている。

 下岩からバス通りをはずれ、左手に折れて和田に向かった。途中の橋詰の路傍、一段と高い山地に
   庚3 元禄15 石 祠 青面金剛・三猿「奉造立山王権現」    37×31×27
   参考 享保1 燈 籠 二猿「奉造立庚申供養燈籠」       47×21
   参考 享保1 燈 籠 一猿「享保元年丙申年十月日」      40×21がみられた。石祠室部の正面には四角の窓があり、右側面には「奉造立山王権現」、左側面には「干時元禄十五年壬午 六月吉祥日」の銘文が刻まれている。室部内の中尊は、高さ二八センチ、幅一六センチの舟型塔に合掌六手の青面金剛と三猿(左から口耳目)を陽刻したものである。またしても、藤野町で山王と庚申の習合を示す実例が発見されたわけである。 参考にあげた燈籠は、直径二一センチの竿石だけが残っている。笠部や火袋などは見当たらない。二猿のものは、塞目と塞耳の猿を陽刻しており、「和田 清水文左衛門 清水傳左衛門 小沢次郎左衛門」の施主銘がみられるが年銘はない。一猿の方は塞口で、年銘の「享保元年丙申年十月日」のみが刻まれている。恐らく、両方で一対となっていたものである。
 橋詰の東はずれの路傍では、自然石に「勢至塔 施主嘉兵衛」と刻んだ文字塔(91×48) が、下和田では岩の上に置かれた自然石に「廾三夜 文政三戊申年十月 和田村中」と刻まれた廾三夜塔( 101×53)があた。和田は奥羽橋まで行ったが、その途中にあった「厄王神」と刻んだ昭和十一年の自然石塔、その近くにある正徳四年の地蔵陰刻のローカル的刻像塔が目をとらえた。また、その地蔵のうしろにある墓石類野中に、キリーク種子の板碑(青石塔婆)がみられたのも印象的であった。

 和田からは、直接、上川原に出るのがよいのだけれども、橋詰で御霊神社に記録紙を忘れたことに気付いていたので、御霊に一旦戻り、下岩先の三叉路を左に折れて上川原に向かった。上川原には、清水長明氏の『相模道神図誌』六七頁に写真の出ている
   庚4 延宝8 笠付型 大日如来・三猿             65×26×24がある。塔正面には「相州津久井愛甲郡佐野川之内道常村 施主安塔市右門 同久右門 同喜□□」、左側面に「奉□□南無山王権現當村 善男子善女人念佛供養 為現世安穏後生善所也 干時延寶八庚申十月吉祥日 安利善兵衛 同万右門 神田弥兵衛 秋間加右門」の銘文が刻まれている。
 上川原から下った上沢井では、上沢井小橋を渡った三叉路の所に三基の石塔が並んでいる。その左端が
   庚5 享保2 日月・青面金剛・二鶏・二猿           56×28×19である。正面の青面金剛は、第一手が合掌、第二手に日と月、第三手に矢と弓を持つ六手像、下部には二鶏と二猿の陽刻、右側面には「庚申供養 施主□田太兵衛(等4名)」、左側面には「享保二年ひのととり十一月吉日」の銘がある。二猿の左は塞耳、右が塞口である。落合の春日神社では、文化十四年の「廾三夜 落合講中」の自然石文字塔、稲荷神社境内には年不明の「道祖神」の山角型文字塔、中里の御嶽神社には文化九年の「願主 日待講中」の銘がある燈籠と文政四年の「廾三夜」自然石文字塔があった。鈴木重光翁の『山王と庚申との混習』(『ファール・クルス』13・14号所収 大正15年刊)によると、落合には青面金剛刻像塔、中里には石祠の中に釈迦如来のような座像と三猿を刻んだもの、日野には冠を被った猿に乗った山王があるが、それらは発見できなかった。

 今日の藤野町での調査は、採塔数こそ少なかったけれども、三猿石祠、青面金剛中尊の山王銘石祠、大日如来主尊三猿塔、青面金剛二猿塔と変化あるものだった。鈴木翁の指摘されたように、藤野町には山王と庚申の習合がみられるから、牧野の調査を加えて資料を集めてみたい。(昭43・3・5記)                   
                    〔初出〕『庚申』53号(庚申懇話会 昭和43年刊)所収
寸沢嵐行

 山梨県大月市梁川町から始まった調査行は、同県北都留郡上野原町、神奈川県津久井郡藤野町と桂川沿いに延びて同郡相模湖町に入った。町内の延宝五年笠付型合掌弥陀刻像塔(寸嵐)や延宝七年笠付型定印弥陀刻像塔(沼本)はよく知られ、各書に紹介されている。今日はそれらの塔が調査の目的である。

 五時にかけておいた寝覚まし時計のベルに気付かず、目が覚めて起きてみると六時を廻っていた。早々に朝食を済ませて青梅駅に駆けつけると、三〇分発の東京行が出た後である。次の四二分発の電車に乗る。立川に着くと、中央線下り甲府行まで二〇分少々時間がある。ここで待つよりは、その時間で瀬沼和重氏から教えていただいた塔が調べられそうだから、高尾まで電車で先行する。
 高尾駅下車、時計を気にしながら川原宿の線路沿いにある墓地に急ぐ。前に車窓から見ているので場所はわかっているが、電車で一分位の所でも歩くとなると時間がかかるものである。墓地の塔は
   庚1 宝永10 笠付型 合掌弥陀・三猿「奉庚申供養」      62×25×21
で、三猿は三面に陽刻されている。弥陀の像高は二五センチ。

 高尾駅で飛び乗った甲府行電車を相模湖駅で下車。大橋を渡り、嵐山を経て鼠坂に向かう。途中、麻布中学生遭難の碑など見ながら進むと、上り坂の中間、森久保兼弘氏宅の庭に
   庚2 年不明 丸 彫 地蔵菩薩・三猿が見られた。これは15×32×30センチの台石に一二センチの像高の猿を三面に配して陽刻したもので、上に載った丸彫りの地蔵とは関係がなさそうである。

 鼠坂の八幡神社は、牧野(藤野町)への道がわかれる三叉路にある。本殿の裏には石塔が並び、その中に
   庚3 安永3 角柱型 日月「庚申供養塔」「當村講中」     70×28×12
   廾1 文政2 自然石 「廾三夜」がある。また、大日如来刻像の笠付型塔には、右側面に直径一〇センチに月天を刻み、その下に「元禄四年 奉待月天子 未霜月十五日」、左側面に同じ大きさの月天、その下に「造立施主」とあって、下部に藤左衛門など五名の施主銘を刻んでいる。頭部の寸法は、高さ六二、幅二五、奥行二二センチ、大日の像高は三四センチである。

 阿津の正覚寺の境内、本堂の前にはあせきとうが何基かある。その中の一基が
   庚4 宝暦7 山角型 「庚申塔」「施主村中」         62×26×19である。この塔の東にある池の端には
   道1 年不明 板駒型 双神                  42×31がみられる。傍らには石棒も置かれている。
 阿津から関口に入り、路傍に
  道2 正徳6 板駒型 双神「造立道祖神□勧□ 施主 三良兵衛」 58×34が蓮台の上にある。右の男神は左手に法子、右手に弓を持っている。左の女神の顔が欠けているのが残念。

 石老山の顕鏡寺参道には、所々に石仏がみられる。四丁石の手前には
   庚5 寛政11 角柱型 日月「庚申塔」三猿           75×31×24がある。台石の左側面に、中央の「講中」をはさんで右に「佐藤文平 大神田利左エ門 神保条八」、左に「岡本林八 佐藤源次郎 奥津久右エ門」の施主銘が刻まれている。この参道では、寛文六年造立の弥陀三尊像を刻んだ念佛供養塔が目をひいた。

 増原を経て道志に入ると、清光寺の石段途中左側に
   庚6 享保7 笠付型 日月・青面金剛・三猿「奉造立尊像庚申供養 願主敬白」「當村同行
              八人」                 69×29×21
   廾2 年不明     「廾三夜 勳八等色桐幸章 納人大熊太一郎」 143×60
がみられる。その近くに、丸石に上に杉の葉の屋根をつけたものがある。

 増原に戻って一本松の脇にある
   庚7 延享3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿・二童子「奉造立庚申供養」「施
              主増原中」               58×25×19
   道3 年不明 板駒型 双神                  37×34
の二基を調べる。この道祖神の写真は、大護八郎氏の『道祖神 路傍の石仏・』(真珠書院 昭和41年刊)にみられるし、鈴木重光翁喜寿記念文集『道祖のこころ』(加藤哲雄 昭和39年刊)の表紙を飾っている。

 沼本の庚申塔は、清水長明氏の『相模道神図誌』にもその写真がみられるが、寸沢嵐ドライブインの手前にある坂道を下って行くと、やがて「地蔵大菩薩」と刻んだ角柱型文字塔があり、更に下った右手に自然石を使った石段を登った所にある。
   庚8 延宝7 笠付型 定印弥陀・三猿「沼本村 人数二十八人」「庚申供養」65×26×26
がそれである。笠部は二つに割れている。そこを更に下って湖面の所まで行くと
   廾3 文化14 自然石 「廾三夜」               173×95
   道4 文化14 自然石 「道祖神」が並んでいる。ここには馬頭観音や地蔵などが集められている。

 沼本から寸沢嵐に戻ってくる道の左手の墓地下に、道に面して元禄四年造立の笠付型刻像塔がある。主尊は阿弥陀らしい。左側面に「法供養為□念佛又也同行十人」と刻まれている。その先、行きには気がつかなかったが、日々神社の裏手に石塔が見える。調べてみると、その中に
   庚9 宝永6 笠付型 「庚申塔」日月・青面金剛・三猿「寸沢嵐村施主小川□兵衛(等8
              名)」                 94×31×21がみられる。塔正面の日月の上に「庚申塔」の横書きの銘文が珍しく、青面金剛も合掌二手の珍しいもの。この近くにある宮崎家墓地にも
   庚10 延宝5 笠付型 日月・合掌弥陀・三猿・蓮華「寸沢嵐村 小川四左門(等7名)」
              「ウーン奉造立山王為庚申供養二世安穏之也」 69×24×23
   庚11 元禄17 笠付型 「庚申塔」青面金剛・三猿「相州津久井寸沢嵐村
              宮崎角右衛門(等X名)」        69×25×21の二基が並んでいる。10番塔からみても、この辺では庚申塔のことを山王様と呼んでいたことが延宝まで遡れるのではなかろうか。11番塔も9番塔と同じく、正面上部に横書きで「庚申塔」と刻まれている。青面金剛は第一手が合掌、第二手に奉建立庚申と輪、第三手に索と蛇持つ六手像である。
 若柳に入ると、左手の路傍に次の二基が並んでいた。
   道5 年不明 自然石 「道祖神」               80×45
   廾4 明治7 自然石 「廾三夜」               135×80更に進んで若柳青年倶楽部の前に出ると、そこにも何基かの石塔があり、
   庚12 延享4 笠付型 青面金剛・二童子・一鬼・二鶏・三猿
              「□□供養若柳村中」          44×28×15
   廾5 文政4 自然石 「廾三夜」               98×36がみられる。庚申塔は上半部が欠失して、日月に有無はわからない。また、年銘も「丁卯暮秋日」としか読めないが、増原の二童子付庚申塔(延享三年)からみても、この塔が延享四年造立と思われる。なお、増原の塔を比較すると、若柳の塔では本塔に二鶏が刻まれているのに対して、増原のは台石に二鶏が刻まれている。猿は共に台石にある。
若柳を奥畑の方へ向かうと、途中の諏訪神社に
   廾6 文化8 燈 籠 「廾三夜」「諏訪大明神」「當村江藤金蔵」があった。ここから対岸の千木良に出る。
 千木良では赤馬の月読神社に行くと、石段の登り口の所に、上部に日月、その下に大日如来らしい像を刻んだ笠付型塔があった。右側面に「奉月待供養□□本尊」、左側面に「時元禄十五庚午年霜月初七日」とある。
赤馬から向きを変え、相模湖駅に向かうと、その途中の路傍に
   道6 年不明 自然石 「道祖神」があり、その先の牛鞍神社の裏手に
   庚13 年不明 笠付型 青面金剛・三猿があった。第一手が合掌、第二手に珠と矛、第三手に蛇と索を持った六手青面である。下部に三猿が刻まれているが、両側面にも銘文はない。
今日の調査はこれまで、帰路につく。(昭43・4・16記)
                    〔初出〕『庚申』53号(庚申懇話会 昭和43年刊)所収
山王様と庚申の混習

 『庚申』第四七号(庚申懇話会 昭和42年刊)は、平野・秋山・鈴木・井村の各氏の追悼号で、その号の二四頁から二六頁にかけて鈴木重光翁が発表された「山王と庚申の混習」が『ファール・クルス』13・14号(大正15年刊)から抜載されてある。その一部は清水長輝氏著『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)にも引用されている。
 その発表当時、鈴木翁が津久井地方で調査された庚申塔は五三基あり、その内容は一部を除いてわからないが、延宝までのものには
   1 寛文11 光背型 青面金剛・三猿 津久井町根古屋
   2 延宝5 笠付型 日月・合掌弥陀・三猿    相模湖町寸沢嵐
   3 延宝7 笠付型 日月・合掌弥陀・三猿    相模湖町与瀬
   4 延宝7 不 明               相模湖町道志
   5 延宝8 笠付型 大日如来・三猿       藤野町上川原
の五基があげられている。4番塔は「内郷村道志部落の北」とあるだけで、内容がはっきりしないけれども、沼本にある同年の笠付型定印弥陀刻像庚申塔のことかもしれない。もしそうだとするならば、1番塔を除いて、今年の調査でいずれもげんそんすることを確認しているわけである。

 前記五基のうちでも、2番塔と5番塔は、その銘文に山王と庚申との習合がみられるので、『庚申塔の研究』にも鈴木翁のスケッチが載っている。清水氏や小花波平六氏などは『ファール・クルス』(13・14号 大正15年刊)の記事にひかれて、その二塔を捜されたらしいが、見付けられず、写真に撮ることが出来なかったのでスケッチを使用したのである。

 鈴木翁が調査された五三基の庚申塔の大部分は内容が不明なので、その調査範囲などもよくわからないけれども、所在地の記載されている塔から割り出して、津久井・相模湖・藤野の三町が調査されている。
しかし、文中に「尚佐野川村(藤野町)や牧野村(同)を詳しく調べて見れば判明することと楽しんで居ります」とあるから、藤野町においては未調査の地域があったのだろう。従って、佐野川・橋詰にある元禄十五年石祠(中尊は青面金剛)に「奉造立山王権現」と刻まれている例が洩れているのもこのためである。また、名倉にある「奉庚申山王□□□也」銘の貞享三年塔が報告洩れとなっていることも、こうした事情によるものであろう。

 以上あげた塔の他に、清水長明氏の調査によれば、津久井町馬石にある、二手青面金剛と三猿を陽刻した寛文二年塔に「奉造立山王廾一社為後生善生」の名画刻まれているから、鈴木翁のいわれる延宝より、もう少し早い時代から習合があったことが窺われる。まだ、私自身が津久井郡内をくまなく調査したわけでもなく、手許に集まっている文献や資料も充分ではなから断定はできないけども、現況から推測されることは、津久井地方の山王と庚申との混習が津久井町から相模湖町や藤野町に拡まり、佐野川に後まで残っていたのではなかろうか。亡き鈴木翁の供養の為にも、津久井地方の調査、及び山王と庚申との混習の追求を続けていきたい。(昭43・4・23記)
                    〔初出〕『庚申』53号(庚申懇話会 昭和43年刊)所収
鳥屋調査行

 青梅を六時二七分発の立川行きに乗ると、立川で七時三分の下り電車が高尾で七時二八分の河口湖行きに接続する。藤野で下車して牧野を調査してもよいと考えたけれども、初めの予定通り鳥屋行きに決めて、八王子で横浜線に乗り換える。橋本で下車すると、鳥屋行きのバスは九時一五分初、一時間半ほど待たなければならない。駅前で待っているのも芸がないから、橋本辺を歩き廻る。一時間ほど捜しても庚申塔が見付からないから駅前に引き返してバスを待つ。
 橋本で一時間半も無駄にしなくても、少し遠廻りして三ケ木経由で行けば早く着いたらしい。三ケ木に行くのなら相模湖駅からもバスが出ている。初めての土地では、こうした無駄な時間が出易い。

 バスは例によって一番前に座って、車窓からの採塔である。青山の関を過ぎても庚申塔は見当たらなかった。やっと、南沢の手前で角柱型の文字塔をチラッと見てから、馬石橋手前の青面金剛、渡戸手前に青面金剛と続いた。
 バスは終点の鳥屋で下車、ここから奥の平戸に向かう。平戸では見付からずに引き返し、荒井橋から南に入った荒井の路傍に
   廾1 文政11 自然石 日月「廾三夜 講中」          75×35
   庚1 文政11 自然石 「庚申塔」「荒井村講中」        70×32が並んでいた。
鳥屋のバス停を過ぎて、バスで来た道を歩いて行くと、道場の路傍に石塔が林立している。その中には
   廾2 文政11 自然石 「廾三夜 上鳥屋村中」
   庚2 元禄7 丸 彫 主尊不明・三猿「奉修造庚申供養 願主荒井吉兵衛 同行九人」
                                  48×27が
あった。三猿とその上に刻まれた首の欠けたりゅうぞうとが一石になっていて、背面に銘文が刻まれている。像は不明であるけれども、地蔵か阿弥陀らしく、青面金剛ではあるまい。首がないのが惜しい。

 道場から県道を進むと、やがて鳥屋中学になる。そこを過ぎて県道より少し入ると諏訪神社がある。そこの境内には石棒がみられ、社殿下の保育園の下段に、道路に面して
   道1 天保2 自然石 「道祖神」               50×26
   庚3 年不明 板駒型 日月・青面金剛「ウーン 奉刻立庚申供養」  47×32
   日1 年不明 不 明 像不明「奉造立日待供……」(断碑)   28×37
   廾3 文政6 自然石 「廾三夜」               93×65
などが他の石塔に混じって建っている。庚申塔の下部はセメントの下になっていて、三猿の有無はわからない。青面金剛は第一手に剣と人身(かなり風化している)、第二手に矛と輪、第三手に蛇と索を持つ六手像である。

 中開戸のバス停を過ぎて、渡戸の県道路傍に
   庚4 宝永3 笠付型 日月・青面金剛・三猿「バク 奉造立庚申供養為二世安念所同行□□□村中」 64×27×21
がある。青面金剛は、第一手が合掌し、第二手に矛と輪、第三手に索と蛇を持つ六手像である。ここには自然石に「太子塔」刻んだ弘化四年塔がある。

 馬石で県道からそれた小路の路傍に
   道2 天保13     「道祖神」「馬石中」          66×32がある。

この小路を進むと、やがて再び県道にぶつかる。その交差した辺りの県道路傍に
   廾4 文政7 自然石 「廾三夜」「馬石村講中」        104×56
   庚5 宝永3 笠付型 日月・青面金剛・三猿「施主馬石村中」「ウーン 奉造立庚申供養二
              世安楽也」               63×27×21がみられる。青面金剛は、第一てが合掌し、第二手に矛と珠、第三手に索と蛇を持つ六手像である。青面金剛や三猿の感じは、前の渡戸も、ここの塔もバスから見えたものである。
これらの塔より一段高い所に
   庚6 寛文2 光背型 青面金剛・三猿「奉造立山王廾一社為後生善生」
              「馬石村為供養施主敬白」        99×41
がある。青面金剛は、右手に剣、左手に棒を持つ二手の異形像である。下部の三猿は、左の二猿と右の一猿とが向かい合ったもので、この塔の写真は、清水長明氏の『相模道神図誌』にみられる。

 バスから見えた南沢の角柱型文字塔をうっかり見逃したまま、青山に入る。関の青山神社境内には石祠型庚申塔がある。これは高円寺の大村稲三郎氏から写真を見せていただいたもので、馬石の山王銘の異形青面金剛と共に今日調べる主目的である。
   庚7 貞享2 石 祠 中尊不明・三猿「ウーン 奉造立庚申供養成就」34×34×30
がそれで、中尊は左手に宝杖らしいもの(上部欠)を持つ座像である。その座像とその下にある三猿が一石造りになっている。この石祠で不思議なのは、前面に「貞享二乙丑年施主 十二月如意日廾六人」とあり、右側面に「バク 奉供養庚人数」、左側面に「貞享二天霜月十五日」と刻まれて、同年ながら月に違いがみられることである。「ウーン 奉造立庚申供養成就」の銘文が屋根に刻まれている。
この青山神社近くの三叉路には、次の道祖神がある。
   道3 明治40 山角型 「道祖神」「大塚万右エ門」       47×16×15

 長竹に入って、八幡宮の裏の路傍に
   庚8 天明6 山角型 「庚申塔」               59×26×22
があり、その隣に、昭和十五年六月十五日造立の刻像塔がある。第一手が合掌し、第二手に矛と蓮華を持ち、第三手が徒手の六手像を主尊としたものであるが、その像が青面金剛かどうかわからない。日月や三猿はないし、庚申に関する銘文もない。

 石ケ沢では何も見つからいまま過ぎて、稲生に入り、県道をはずして小路を行くと、石垣の上に山印を刻み、その下に「猿田彦命 木花開那姫命」と二行に誌した板駒型文字塔(年不明)があった。高さ四一三センチ、幅は二四センチである。
春日神社の境内には
   庚9 享保3 笠付型 日月・合掌弥陀「ウーン 庚申供養 敬白」61×24×19がある。主尊は剥落してよくわからないけれども、どうも合掌弥陀らしい。与瀬の延宝七年塔の主尊によく似た感じである。
この塔の近く、道路に面して
   六1 文政12 自然石 「廾六夜塔」              57×32
   庚10 寛政12 山角型 「庚申塔」「稲生村 講中拾六人」    75×30×27
   廾5 文久3 自然石 「廾三夜」「當村中」         106×60
   道4 天保13 自然石 「道祖神」               87×45
がある。名号塔や馬頭観音などと並んで建っている。稲生では、正月十四日の朝に道祖神の前でダンゴ焼きをする。

春日神社と反対に、県道の小路を下った所に藁屋根の薬師堂がある。そこの境内の一段高い所に
   参考 大正5 自然石 「山神社 奈良安蔵」
   参考 昭和28 自然石 「猿田彦大神 奈良正治再建」      47×38
が並んでいる。先の木花開那姫命と併記された例もみられるので、ここの猿田彦を庚申塔とみることには少々疑問な点もあるから、参考としてあげるにとどめる。

 稲生には、町田市相原町大戸の寛文十年塔の主尊・異形二手青面金剛と同系統の寛文十一年塔があるそうであるが、それを見付けられないままに根古屋の中野に入った。
西中野のバス停の手前の小路を県道から北に入るとまもなく
   庚11 大正11 自然石 「庚申塔」               77×37がある。
再び県道に戻って東に進むと、路傍に
   道5 年不明 山角型 双神「道祖神」「導師金原山別當賢太良坊成弁」56×25×19
   道6 嘉永2 山角型 双神・御幣「導師金原山敬山」「氏子中」 54×28×17
   参考 年不明 自然石 「猿田彦大神宮 願主石井九左衛門」   60×25が並んでいる。
調査はこれまでで、無料庵のバス停から八王子行きのバスで帰途につく。(昭43・5・21記)               
             〔初出〕『庚申』53号(庚申懇話会 昭和43年刊)所収
津久井の猿田彦

 昨日歩いた津久井町(神奈川県津久井郡)で採塔した塔の中で、「猿田彦」の銘を刻むものは三基あった。長竹・稲生の「猿田彦命 木花開那姫命」(年不明)と「猿田彦大神」(昭和二十八年)、根古屋・中野の「猿田彦大神宮」(年不明)がそれで、いずれも文字塔である。

 猿田彦は、岐神、幸神、武神、道祖神としての職能を持ち、申と猿の点からも庚申の主尊として祀られている。猿田彦が庚申の主尊としてのみ石塔面に刻まれているのであれば問題はないかもしれないが、民間信仰ではそのような一方的なもにならず、道祖神としても現れてくるから、いろいろ問題が生じてくる。そこで、津久井町の猿田彦塔は一帯どちらでだろう。

 道祖神に造詣深い鈴木重光翁は、「道祖神(道祖のこゝろ)」(加藤哲雄 昭和39年刊)の中で、津久井町の猿田彦塔について
    津久井郡津久井町中野の鎮守諏訪神社の境内にある道祖神碑には、上に「道祖」とあり、そ
   の下に「猿田彦命 天宇受売命」と並べて刻まれてあり、同町根小屋中野のものは、双神像で
   、上部に御幣があり、側に「猿田彦大神宮」と刻まれている。

と記されている。
中野・諏訪神社の場合は、明らかに道祖神としての猿田彦であるが、根古屋・中野の場合は、二基の双体道祖神と並んでいる点から道祖神とされている。ところが、稲生の木花開那姫命と併刻され、上部に山印のある塔になると、山岳信仰の影響を受けたものと思われる。津久井町に「猿田彦」の銘を刻む塔が何基あるかは、今後の調査にまたなければならないとしも、現在のだんかいからみると、道祖神の系統と山岳信仰の系統とがあって、庚申とは余り関係がないのではなかろうか。ただ、稲生の「猿田彦大神」の塔は昭和二十八年の再建塔であるから、再建の由来や目的も調査できるかもしれないし、それによって何かの手掛かりが得られるかもしれない。(昭43・5・22記)
                〔初出〕『庚申』53号(庚申懇話会 昭和43年刊)所収
津久井見学会  昭和五十九年五月例会

 五月十三日(日)横浜線橋本駅午前九時三十分集合、案内は明石延男さんだ。昨年二回も雨で流れたコースで、今回も小雨の中を九時三十五分発の半原行きのバスに乗車する。参加者は、明石さんを含めて七名である。

 神奈川中央バスを下稲生で降り、薬師堂に向かう。境内には昭和二十八年の「猿田彦大神」と大正五年の「山神社」碑が並ぶ。自治会館前の地蔵など横目に過ぎて、近くにある第一の目玉の二手青面を調べる。寛文十一年の造立、右手に矛、左手で火焔光背を持つ立像である。町田市相原の寛文十年塔と同系統。春日神社境内にある享保三年の主尊不明庚申塔を見てから、東側の道路に面して並ぶ文政十一年「廾六夜塔」、寛政十二年「庚申塔」、文久三年「廾三夜塔」などを調べる。その中にある天保三年「霊符塔」が珍しい。

 根古屋の富士塚を見てから、谷戸の塔を調べる。寛延三年の青面金剛は、塔本体が幾つかに割れている。パズルを解くように組み立てるが、上部が失われている。年号不明の青面金剛は、四手立像である。胸前の二手が合掌し、上方の二手に弓と矢を持つ。ここの目玉は、稲生と同系統の二手青面金剛で、寛文十一年三月八日の造立。他に牛頭大士や馬頭などがある。

 その先には、大正四年の線刻不動があるが省略する。土沢の山王社脇には、享保三年の日待塔がある。主尊は大日らしい。右側面に「奉供養日待□□」、左側面には「奉供養念佛講塔」の銘が刻まれている。他に地蔵や文字馬頭が見られる。
 石垣の高みに寛文十一年の来迎弥陀を主尊とする庚申塔を見る。下部に浮彫りされた三猿の形は、稲生や根古屋で見たのと同じである。二手青面との主尊の違いがどうして生じたのか、興味あるところである。

 道路より一段高い所に合掌仏を主尊とした庚申塔がある。文字道祖と並ぶが、かって車でこの前を通った時には見逃していた。
 長竹の交差点付近にあり墓地の入口には、大きな丸彫りの観音があり、その脇には天保四年の自然石「廾三夜」塔がみられる。その近くの白山神社の背後に昭和十五年の青面金剛?と天明六年の「庚申塔」が並んでいる。

 青山神社で昼食をとる。拝殿横の石祠には、上半分が欠失し、下部に三猿が刻まれた中尊が安置されている。右手の持物が錫杖らしいのから地蔵ではないだろうか。屋根の前面に「ウーン 奉造立庚申供養成就」の銘がある。うっかりすると見逃しやすい。貞享二年の造立。神社脇の道路に面した所には、聖徳太子二基や寛文の地蔵などが並んでいる。

 六間で四方仏や二石六地蔵などを見てから、最後の目玉である馬石の二手青面と対面する。もっとも二手青面というよりは、銘文に「奉建立山王廾一社為後生善生」とあるから、山王の本尊とした方が適切なのかもしれない。道路工事で場所が変わり、以前この塔を見た時には無かった台石の上に安置されている。ここには、文政七年の「廾三夜」塔、宝永三年の青面金剛などがあり、道路の拡幅工事後に整然と並べられた。

 渡戸で、宝永三年の青面金剛を見てから、諏訪神社の文政六年「廾三夜」、年号不明の青面金剛、天保二年の「道祖神」を調べる。バス停で皆と別れ、鳥屋のバス停まで歩く。その手前百メートル位の所にある上部の欠けた丸彫り庚申塔を確認するためである。バスの発車時間が迫っていたので、その塔の写真だけで我慢する。ほどなくバスがきて、途中で皆と合流して三カ木経由で帰途につく。
                        『あしあと』第八十五号(昭和六十年刊)所収
 
〔参考文献〕相模湖町文化財保護委員会『郷土さがみこ 相模湖文化財調査報告第一集』 相模湖
          町教育委員会 昭和43年刊
       相模湖町文化財保護委員会『郷土さがみこ 相模湖文化財調査報告第二集』 相模湖
          町教育委員会 昭和44年刊
       津久井郡文化財調査研究会『津久井郡文化財 石像編』 新津久井地域広域市町村圏
          計画推進協議会 昭和58年刊

     
あ と が き
これまで私は、神奈川県津久井地方に散在する庚申塔を尋ね廻った。その時々の報告は、ともしび会の会誌『ともしび』や庚申懇話会の会誌『庚申』、あるいは多摩石仏の会の情報誌『あしあと』に発表してきた。ここに収録したのは、表題に示すように、そうした神奈川県津久井地方の庚申塔に関係したものである。
それぞれの文末にも示したが、参考までに初出誌と刊行年を記しておくと
         続桂川行           『ともしび』第14号  昭和43年刊
         大戸寛文十年塔の系譜     『庚申』第51号    昭和43年刊
         佐野川・沢井行        『庚申』第53号    昭和43年刊
         寸沢嵐行           『庚申』第53号    昭和43年刊
         山王様と庚申の混習      『庚申』第53号    昭和43年刊
         鳥屋調査行          『庚申』第53号    昭和43年刊
         津久井の猿田彦        『庚申』第53号    昭和43年刊
         津久井見学会         『あしあと』第85号  昭和60年刊
の通りである。最後の庚申塔資料「津久井地方の庚申塔」は、本書のために新たにまとめたもので、各町資料の文末に示した参考文献と私の調査資料とで作成した。そのために私の未調査の部分は、文献の制約があって資料全体の統一がとれていない。
その後、私の津久井地方の調査は進展していないが、今回、『津久井地方の庚申塔』として刊行することにした。これまで明らかなものをまとめたので、津久井地方の調査を進める上で何かの参考になれば幸いである。
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                               津久井地方の庚申塔
                               発行日 平成八年七月三十日
                               編 者 石  川  博  司
                               発行者 庚申資料刊行会
                                〒一九八 青梅市青梅一二〇
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