横浜の庚申塔を歩く                             石 川 博 司
            
            目 次 ・・
            
            鶴見行  十月見学会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一
            緑区の石仏 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 五
            緑区を歩く ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一 二
            鎌倉を歩く・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一 七
            横浜港南を歩く ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 二 〇
            生麦を歩く ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三 一
            生麦見学会下見 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三 八
            横浜・生麦見学会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四 二
               あとがき ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四 八
鶴見行  庚申懇話会十月見学会

 昭和六十一年十月二十七日(日曜日)は、庚申懇話会十月例会である。京浜急行・京浜鶴見駅東口に午前九時五〇分集合、案内は藤井慶治さんだ。私が懇話会に顔を出すのは、五月二十五日の西船橋の見学会以来で、久し振りの見学会参加である。今回の参加者は四〇名ほどで、通常の見学会に比べて少ないようだが、定連の顔は揃っている。

 最初の見学場所は、菅沢町一五番二四号にある宝泉寺(天台宗)である。駅から東に向い、鶴見橋を渡って右に折れ、少し行った所だ。境内には、
   1 寛永10 宝篋印塔「石□庚申本地薬師垂迹……」       44×30×29が見られる。今日の見学会の目玉は、不動庚申一基と庚申宝篋印塔二基の庚申塔三基であるが、その第一番目の塔である。正面と左右の両側面に刻まれた銘文は読みにくい。藤井さん持参の新兵器(ウドン粉にモチトリ粉を混ぜたもの)を塔面に塗りつけて、刷毛で余分な粉を落すと、銘文が白くはっきりとして読み易くなる。時間が短いので充分に読み取れないが、右側面は「元□□之衆□□□□□京□楽乃至□□□ □□有□□□□□□ 而巳」、正面は「石□庚申本地薬師垂 迹衆宿念除之□□□ □消滅之霊神也深信之生□□□栄領□」、左側面は「仙歳山宗之殿内安隠 □□満庚年之牛馬
 六畜加数奴婢借使」と読んだ。時間の関係で充分に腰を落着けたわけではないから、藤井さんがすでに判読した銘文とは、少々異るようである。
次ぎは、予定には無かったが鶴見川の土手にある木祠(菅沢町一〇番)に安置された
   2 元禄10 光背型 日月・青面金剛・三猿           106×43を見る。祠には「庚申に参りて四方を眺むれば 道は四筋に別かれども願ひの道はひと筋さ 昭和五十一年弐月吉日」の額が掛かり、ワラジが奉納されている。

 来た道を戻って京浜鶴見駅方向に向い、国鉄鶴見駅ビルを経て総持寺を目指す。途中で内藤石材店(豊岡町)に立寄り、観音や地蔵などの石仏や石灯篭に混じって置かれている十二支の動物像、あるいは東郷元帥や乃木大将の人物像などを見る。中に三猿や山王猿があった。総持寺では、境内を回っただけで特別の見学はしなかった。墓地を抜けて寺谷に出る所にある大正十一年に山神塔を見る。裏面には長い銘文が刻まれている。

 天王寺(寺谷一丁目二番)に寄って、境内にある慶安元年の地蔵や多種多様な石灯篭を見る。茶室の庭には多数の石仏が見られ、奥まった所に双体道祖神(37×43センチ 像高20センチ)がある。いずれも近年作の素人彫りと思われる。寺谷会館を借りて昼食をとる。

 午後は、町会の副会長で桝屋ベーカリーのご主人・増淵さんの案内で筆塚(寺谷一丁目二一番)に向う。吉田家墓地の下には、正徳元年の百番塔などと並んで
   3 元禄13 光背型 日月・青面金剛・三猿           118×53がある。主尊は剣と索を持つ六臂の坐像で、一見すると不動明王を思わせる。近くの熊野神社には、鶴見石工が造った寛政五年の鳥居がある。

 増淵さんと別れて、不動堂(東寺尾中台七)に向う。第二京浜国道に面した境内には、『庚申塔の研究』などでおなじみの
   4 寛文12 光背型 不動明王・三猿              101×46が見られる。不動明王主尊の庚申塔で、今日の見学会の目玉の一つだ。先刻の青面金剛が不動明王風なのも、この塔の影響があるのだろう。

 真言宗智山派の宝蔵院(馬場四丁目七番)の入口には、廻国供養塔と並んで
   5 貞享5 駒 型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        100×41×25がある。背後に立つ木札には「庚申供養塔 二本木と二反田の交差点、馬橋境にあった庚申塔は、江戸時代中期のもので(一六八八年)に建てられ、寺尾地区に現存する最古の庚申供養塔である。寺尾の水田は浮田で土質が悪く稲作不良から豊作祈願として青面金剛の庚申像が水田に沿った辻に祭られていた」と記されている。境内には、
   6 享保16 光背型 地蔵菩薩・三猿              94×38がある。本堂では、住職のご好意で鎌倉期と伝える十王の木像と掛軸、室町期という涅槃の掛軸を拝見する。その、上住職のユーモラスな寺の由来や十王掛軸の解説が聞けた。

 時間の関係で、予定していた神明社(馬場六丁目一七番)の寛文八年の地蔵菩薩を省略して、最後の渋沢稲荷(北寺尾五丁目二番)に向う。この稲荷には、
   7 寛文12 光背型 地蔵菩薩・三猿              116×50
   8 寛文1 宝篋印塔 「奉新造庚辛構供養之菩提也」      38×29×30が並んでいる。7の右隣に角柱型塔があるが、正面が剥落していて判読できない。藤井さんの資料によると、寛政十二年の「庚申供養」塔である。
ここで見学会は、解散する。

皆と別れて鶴見駅に向う途中、響橋の手前(東寺尾六丁目三六番)で、
   9 享保1 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     101×44×27を見る。青面金剛は、第一手にショケラと索を持つ六手立像である。
ここからは一気に駅に向い、帰途につく。               
〔初出〕『庚申』92号(庚申懇話会 昭和62年刊)所収
緑区の石仏 多摩石仏の会七月例会 
 
 平成元年七月九日(日曜日)は、多摩石仏の会七月見学会である。午前九時三〇分、JR横浜線中山改札口前に集合。林国蔵さんのご案内で横浜市緑区内の石仏を廻る。集まったのは、鈴木俊夫・山村弥五郎・明石延男・中山正義・犬飼康祐・多田治昭の各氏に高橋ソヨさんの総勢九名である。林さんから今日の案内コースの地図をいただく。

 青梅を出る時には雨が降っていなかったが、八王子に入るころから降り出し、中山駅を出発する時にも降り続いている。最初に訪ねたのは、中山町の大蔵寺(曹洞宗)、参道に
   1 元禄15 丸 彫 地蔵・三猿                91×44があり、少し離れた所に
   2 寛文4 板碑型 「南無阿弥陀佛」三猿           82×40が建っている。六地蔵の後に、小さな丸彫の聖観音立像がある。境内の大きな観音立像と共にお顔が美しい。いずれも新しい石仏だ。

 次いで尋ねたのは同町の長泉寺、高野山真言宗の寺である。境内にある
   3 元禄6 板駒型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        61×41をみる。頂部に「バク」の種子を刻む。雨は小降りになる。
 寺山町の慈眼寺(高野山真言宗)に近くなるころから雨がはげしくなる。墓地前の
   4 元禄5 光背型 大日                   68×31を調べる。主尊は、智拳印を結ぶ金剛界の大日如来の立像である。「ウーン 奉新造為庚申供養二世安楽」の銘を刻む。町田市図師町にも金剛界の大日立像がみられ、両者の関連がきにかかる。図師のは元禄二年の造立で、「奉造立青面金剛尊」の銘文のある笠付型塔である。
次いで坂を登って
   5 寛文9 光背型 地蔵                   82×38をみる。頂部に「カ」の種子、像の右に「奉新造立地蔵菩薩為庚申供養」の銘文がある。雨があまりひどいので、上のお堂で雨宿りをする。少々早いけれども昼食にする。この間に地震を感じる。伊豆の群発地震と関連があるのだろう。堂の横には二〓を越す丸彫りの十一面観音石像が建っている。昭和六十二年十一月の造立である。
雨が小降りになったの機に午後の見学を始め、慈眼寺境内の文化四年の倶梨迦羅不動をみる。
 台村町四五二番地前の路傍にある安永十年の双体道祖神を撮ってから、近くにある同町の弘誓寺に向う。寺の参道には
   6 貞享4 光背型 聖観音・三猿               127×52
   7 享保4 柱状型 「庚申供養」               35×20×16の二基の庚申塔がある。6には「奉修造庚申惣供養為菩提也」の銘を刻む。

 台村町の路傍にある双体道祖神を撮ってから、台村交差点角にある木祠の安置された
   8 享保18 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        78×34
   9 宝永X 板駒型 日月・青面金剛・三猿           62×36を調べる。二基の塔に奉納の前掛けが数多く結ばれていて、外して銘文を読むまでが一仕事である。8には、上部に「キャ」の種子が刻まれている。共に合掌六手像である。

 三保町の旧城寺に向う途中、雨がはげしく降ってきたので、藁屋根の杉山神社で雨宿りする。旧城寺の門前には
   10 正徳6 丸 彫 地蔵                   83×22
   11 寛文10 光背型 地蔵・三猿                140×59の二基の地蔵庚申が門をはさんで左右に建っている。10の蓮華には、年銘と「奉庚申供養」が記されている。11の頂部には「カ」種子、像の右に「奉造立地蔵庚申供養也」とあり、像の頭部左右に地蔵真言が刻まれている。境内には
   12 文化5 駒 型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        62×29×17
   13 元文5 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     97×42の青面金剛二基を始め、慶応二年の「二十三夜塔」、明治三十五年の文字道祖神、文久元年の「秋葉大権現 愛宕大権現 稲荷大明神」碑、同年の「金毘羅大権現」碑がある。

 再び杉山神社の前に戻り、小山町の保寿院を訪ねる。境内に
   14 貞享4 光背型 地蔵・三猿                113×48が木祠の中に安置されている。「造立供養地蔵菩薩為此功徳当村共得二世安楽者也」の銘文がみられる。隣に同年の弥陀三尊立像があり、下部に「為念仏供養云々」とある。

 西八朔町の極楽寺に向う途中から雨がはげしくなる。道路にたまった雨水を自動車がしぶきをあげて走り、それをもろに受けてしまう。山門で雨宿りし、降りのおさまるのを待って
   15 享保1 板駒型 日月・青面金剛・二鶏・三猿
   16 元禄13 光背型 地蔵・三猿                68×31
   17 延宝3 光背型 地蔵・三猿                107×47
   18 天和3 板駒型 地蔵                   92×33を調べる。今日のコースは地蔵庚申が多いが、中でも16は天蓋を頭上にかざす地蔵立像で、今まで類例を見たことがない。像の右に「バク 庚申供養」の銘文がある。予期していなかった掘り出し物だ。この像が、これまで広く知られていなかったのが不思議なくらいである。18は、像の左右に「如等取行是菩薩道 漸々修学悉成仏」の偈があり、下部に「庚申供養成就也」と刻む。

隣の杉山神社には
   19 元文4 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     94×43があり、横に天保十五年の「地神塔」が建っている。
 新治町に入り、木祠の中に祀られている
   20 享保20 光背型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        61×32をみる。頂部に「バン」の種子がある剣人六手像。隣には元禄四年の廻国塔がある。

 十日市場の宝袋寺には、道路に面して年不明の「地神塔」があり、横に
   21 文化4 柱状型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     69×29×15が建っている、脇には「由来」として
   右庚申塔外の塔は十日市場町北門泣き坂下石塚のところにありしもにて古来より北門講中を中
   心に近所の人々深き信仰の対象となりしものなり 昭和五十四年七月横浜区画整理事業のため
   に当地に移転せられたものなりを記した自然石碑が建っている。境内には青銅製の十六羅漢がみられる。
寺の近くの家の角に
   22 天保9 柱状型 「庚申塔」                73×31×28が建っている。
稲荷神社(十日市場町八八五番地)にある文化八年の「堅牢地神塔」をみてから、路傍の木祠(同町八八六番地)に祀られている
   23 享保12 丸 彫 地蔵・三猿                77×26をみる。台石に浮彫りされた三猿の姿態が面白い。
高速道路近くにある享保十四年の弁才天と弘化四年の水神?(弁天)を撮る。

 見学会は十日市場駅前で解散する。
雨もあがって日差しがあるので、林さんのご案内で解散後も犬飼さんと多田さんと共に泣坂下の墓地入口にある木祠の中に安置された
   24 延宝8 光背型 地蔵                   150×59
  25 享保7 丸 彫 地蔵                   60×24の二基の地蔵庚申を調べる。24には像の右に「奉造立庚申供養諸願成就所」、25五の台石に「奉造立庚申供養」の銘文が記されている。
 最後には、十日市場町八一一番地にある
   26 元禄13 光背型 聖観音                  70×35をみる。像の右に「奉建立庚申供養為二世安楽」と刻まれている。

 これまで横浜市内では、戸塚や保土ケ谷・鶴見などは回っていたが、緑区は長津田駅から町田までのごく短い区間しか歩いていない。横浜線の中山駅から十日市場駅の一駅の間に大日・観音・地蔵の庚申塔が、これほど分布していようとは気が付かなかった。町田との関連を知る上にも、これからも緑区の庚申塔を追い掛ける必要があろう。
              〔初出〕『私の石仏巡り 平成編』(ともしび会 平成7年刊)所収
〔付 記〕
この記録の全文は、日本石仏協会の『日本の石仏』61号(平成4年刊)に載った「庚申塔曼陀羅・・横浜市緑区を歩く・・」に収録されている。
緑区を歩く 単独で庚申塔を求めて
  
 平成八年七月三日(木曜日)は、神奈川県横浜市緑区内を庚申塔を求めて歩く。緑区は、多摩地方に接しているので、庚申信仰の伝播や庚申塔の共通性を知る上でも重要な場所である。特に町田市内の塔との関連の点・・例えば、町田分の東光寺村の庚申塔が長津田にある・・で見逃せない。それに『日本の石仏』第六一号(平成4年刊)にも書いたように、地蔵の庚申塔が多いなど緑区は主尊が変化に富んでいて興味ある庚申塔がある。

 JR川越線の高麗川〜高萩間の事故の影響を受け、八高線の遅れで横浜線を二電車遅らせて午前九時五〇分に中山駅についた。先日、電話で郷土史関係の資料を頼んでおいたので、緑区役所二階の生涯学習の係を訪ねて『都筑の丘そゞろ歩き2』と「みどり歴史ウォーキングマップ」をいただく。

 区役所の所在地が寺山町だから、ここを出発点として先ず高野山真言宗の慈眼寺(寺山町二二九)に向かう。この寺で
  1 元禄15 光背型 金剛界大日如来立像            68×36を見たとたん、平成元年七月九日に行われた多摩石仏の会七月見学会でこの寺に来たことを思い出した。当時の記録をみると
    寺山町の慈眼寺(高野山真言宗)に近くなるころから雨が激しくなる。雨の中を墓地の前に
   ある
      4 元禄5 光背型 大日如来           68×31
   を調べる。主尊は、智拳印を結ぶ金剛界の大日如来の立像である。「ウン 奉新造為庚申供養
   二世安楽」の銘を刻む。町田市図師町にも金剛界の大日如来の立像がみられ、両者の関連が気
   にかかる。図師町のは元禄二年の造立で、「奉造立青面金剛尊」の銘文のある笠付型塔である
   。次いで坂を登って
      5 寛文9 光背型 地蔵                82×38
   をみる。頂部に「カ」の種子、像の右に「奉新造立地蔵菩薩為庚申供養」の銘文がある。雨が
   あまりひどいので、上のお堂で雨宿りをする。少々早いけれども昼食にする。この間に地震を
   感じる。伊豆の群発地震と関連があるのだろう。堂の横には二メートルを越す丸彫りの十一面
   観音石像が建っている。昭和六十二年十一月の造立である。雨が小降りになったのを機に午後
   の見学を始め、慈眼寺境内の文化四年の倶利迦羅不動をみる。

とある。たしか地蔵の庚申塔があるはずと境内と墓地を探したが、どうしても見つからない。あきらめて杉山神社(寺山町一七七)を訪ねる。境内には
   2 寛延3 板駒型 青面金剛・日月・三猿           60×30がみられる。四季の森公園を抜けて道路に出て戻ると、路傍にある木祠の中に
   3 享保6 光背型 金剛界大日如来座像            58×30が安置されている。頂部に「アーンク」の種子、大日の右に「為庚申供養」、左に「享保六辛丑 九月吉 武州寺山村」の銘文が刻まれている。先刻の慈眼寺の元禄五年塔が立像(像高54センチ)に対して、ここのは座像(像高34センチ)である。

 寺山町から中山町にはいる。緑郵便局入口の交差点(中山町七三五)角にある木祠(昭和五十八年十月新築)をのぞくと、三面六手(中央部がセメント補修されているから八手の可能性もある)の立像が安置されている。高野山真言宗の長泉寺の入口には
   4 元禄6 板駒型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        62×40が建っている。頂部に「バク」の種子、主尊像の右に「奉造立□申養 同行六人」、左に年銘の「元禄六癸酉十一月廾一日」を刻む。傍らには、平成三年十月の不動三尊・六地蔵がみられる。中山町九五にあった明治十九年の厄除不動の再建である。

 上山町にはいって万蔵寺に寄ってから八幡神社(上山町五八〇)に行くと、鳥居脇に
   5 元禄5 板碑型 日月「奉造立庚申供養諸願成就」三猿    計測無しがある。頂部に「キリーク サ サク」の弥陀三尊種子、主銘の左右に年銘の「元禄五年」「壬申三月十一日」、下部に「上猿山村」「同行拾人」とある。
そこから南に進むと、路傍の木祠に
   6 年不明 光背型 日月・青面金剛・一鬼           68×39が天保七年の柱状型「廾三夜塔」(58×20×17センチ)と並んでいる。像の右にある「奉供養庚申塔
 猿山村」と下部の施主銘八人の氏名は読めるが、左にあったと思われる年銘は破損していわからない。 
白山の白山宮(白山二ー三五)で弁当を食べてから、入口のブロック祠にある
   7 享保X 板駒型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        71×35を調べる。銘文は「享保□丁」しか読めない。享保二年が「丁酉」、享保十二年が「丁未」でからいずれかの造立であろう。祠から離れて文化十四年の柱状型「地神塔」がある。
次に宝塔寺(白山二ー三五)を訪ね、境内の
   8 元禄5 光背型 地蔵・三猿                69×34
   9 寛文12 光背型 地蔵・三猿(台石)            131×54の二基をみる。共に頂部に「カ」の種子を刻む。8(像高52センチ)に「奉造立庚申供養為二世□□」、9(像高88センチ)には「奉新造立庚申講供養二世安楽攸」の銘文が像の右にある。
 鴨居に入り、六丁目二一番にある地神塔をさがす。坂を登った稲荷社の下にある木祠の中に安置されている。駒型塔(58×29センチの正面上部に横に「地神」、その下に花を挿した花瓶を持つ女神の立像(像高48センチ)、左側面に「享和三年亥八月吉日」、右側面に「大下石工」とある。地神塔の刻像塔は珍しい。隣には
   10 宝暦8 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     79×33があり、年不明の自然石「道祖神」と並んでいる。林光寺(鴨居二丁目)の墓地入口には水子供養の地蔵や六十六部の地蔵など地蔵が並んでいる。その一体が
   11 寛文8 光背型 地蔵・三猿                132×59で頂部に「カ」、立像(像高90センチ)の右に「奉新造立庚供養二世成就之所」、左に「寛文八戊申年十一月廾五日」、下部に三猿の浮彫りがある。『緑区石造物調査報告書・』(平成2年刊)には、ここに寛保元年の「奉造立庚申供養」塔が載っているが、境内や墓地を探したが見当たらなかった。

 東本郷町では、東観寺や本郷神社を廻った後で、「御嶽前」のバス停裏(東本郷町六ー六ー二〇鈴木宅角)にある木祠に安置された
   12 寛延3 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     73×34をみる。これまで見てきた青面金剛は合掌六手像で、今日初めての剣人六手の立像(像高36センチ)である。輪後光があり、像の右に「奉建立申庚供養講中」、左に年銘がある。「庚申供養」ではなく「申庚供養」と逆になっている。左手の奥に文化十年の柱状型「堅牢地神塔」(78×35×24センチ)がある。主銘の左右に「天下泰平」「國土安全」、台石正面は「村三組講中」の横書きである。

 刻像地神塔と大日座像の庚申塔は、本日の大きな収穫である。午後四時を廻った頃、一日中、炎天下を歩いたせいか疲れたので鴨居駅に向かい、帰途につく。万歩計をみたら三万歩を越していた。
               〔初出〕『平成八年の石仏巡り』(ともしび会 平成9年刊)所収
鎌倉を歩く・ 庚申懇話会七月例会 (横浜市金沢区)
 
 平成八年七月二十八日(日曜日)は、庚申懇話会七月例会である。午前十時、京浜急行金沢八景駅改札口に集合、鎌倉コース第三回目で藤井慶治さんが案内に当たる。
 集合時間よりも一時間半前に金沢八景駅に着いたので、駅前の地図をみて州崎町にむかう。途中で寄った瀬戸・瀬戸神社の境内で神像(座像)をみる。何の像か不明である。次いで訪ねたのが州崎町・州崎神社、ここにはめざすものがない。隣の竜華寺には
   1 享保15 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    103×37×38
   2 弘化2 笠付型 日月「青面金剛童子」三猿         68×30×30
   3 天明6 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿        81×33×25
   4 寛保2 光背型 青面金剛・三猿              94×42
   5 天保15 柱状型 日月「庚申塔」三猿            56×24×24
   6 天保13 駒 型 日月「青面金剛」三猿           58×26×16の六基の庚申塔がみられる。1と3は剣人六手像、4は合掌六手像の青面金剛である。
 町屋町の安立寺は日蓮宗の寺で、境内には浄行菩薩を祀っている。集合時間まで三〇分ほどなったので金沢八景駅に戻る。

 金沢八景駅には、案内の藤井慶治さんや芦田正次郎さんの顔もみえ、参加者も集まっている。今回は、暑さのせいか参加者が二十数人といつもより少ない。
 当初予定していたバスを止めて、金沢八景駅から朝比奈切通しに向けて歩く。
猿田彦塔のある瀬戸・泥牛庵は省略して、上行寺東遺跡の説明を受けた後、上行寺を訪ねて鎌倉期と推定される宝篋印塔を見学する。
次いで、六浦三丁目の光伝寺に寄る。無縁墓地の最後列の隅に
   7 享保5 光背型 日月・弥陀来迎・二鶏・三猿        計測不能がみられる。弥陀来迎主尊の庚申塔としては、後期の作である。
 県道原宿六浦線沿いにある鼻欠け地蔵の磨崖佛をみる。風化が激しく、標識が立っていなければ気付かない。
朝比奈で県道から朝比奈切通しの道に入る。人家の前の切通し入口(横浜市金沢区朝比奈五四五)には
   8 延宝6 笠付型 日月・青面金剛・三猿          125×27×37
   9 安政4 板石型 「猿田彦大神」(横書)         102×59
   10 寛政6 駒 型 「庚申供養塔」三猿            61×26×18
   11 年不明 光背型 地蔵・三猿                99×36の4基の庚申塔が、天保5年の駒型「ウーン 道禄神」や文政5年の柱状型「坂普請供養塔」などと並んでいる。この石塔群前の路傍で、時間が少し早かったが昼食にする。
 午後は、朝比奈切通しを進むと、横浜市金沢区から鎌倉市となる。
    〔付 記〕  これ以降のの文章は、初出の『平成八年の石仏巡り』や『鎌倉を歩く』
             に掲げてあるので省略する。
              〔初出〕『平成八年の石仏巡り』(ともしび会 平成9年刊)所収
横浜港南を歩く  多摩石仏の会七月例会 
 
 平成十三年七月八日(日曜日)は、多摩石仏の会七月例会である。JR根岸線港南台駅に午前九時三〇分集合、多田治昭さんの案内で横浜市港南区内をまわる。集まったのは、縣敏夫さん・犬飼康祐さん・加地勝さん・喜井哲夫さん・鈴木俊夫さん・関口渉さん・萩原清高さんの総勢九人である。
 港南台駅に着いたのが午前八時四二分、少し早過ぎたかと思って改札口に向かうと、同じ電車だった犬飼さんに会う。改札口前で出来上がった『野仏』をみて、話している内に段々と集まってくる。多田さんからは案内地図付きのレジメをいただく。見学順に所在地と石佛名、括弧内に造立年代を記してある。

 最初の見学地は港南台2−18の共同墓地、安養寺(高野山真言宗)が管理している。17番との間にある道路に面して
   1 万延1 駒 型 「庚申塔」(道標銘)           57×24×16
   2 元禄5 笠付型 日月・弥陀定印・三猿           68×45×34
   3 寛政7 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿(道標銘)69×31×20
   4 万延1 柱状型 「庚申塔」                63×28×24
   5 延宝8 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     96×45×36の五基の庚申塔があり、地蔵菩薩の立像を浮彫りする寛永一四年銘の供養塔(99×38センチ 像高〓センチ)や合掌二手の嘉永六年の馬頭観音坐像(65×31×26センチ 像高51センチ)がある。
 1は、正面の主銘の両横に年銘を二行に記し、右側面に「上り かまくら」、左側面に「下り ぐみょうじ」の道標銘が刻まれている。
 2は弥陀定印坐像(像高27センチ)を主尊とし、正面と両側面の各三面に三猿(像高16センチ)を配している。正面の猿が正面を向き、側面の猿が横向きになっている。こうした三猿にも元禄期以降の三猿が感じられる。像の右と左に「奉造立庚申供養為二世禾楽」の祈願銘と「元禄五壬申天四月廾日」の年銘、左側面に「施主日野之中村/講中/十三人」の施主銘を刻む。
 3は合掌六手の青面金剛(像高40センチ)、下部に三猿(像高10センチ)を浮彫りする。右側面に「寛政七卯七月吉日/これより右り賀田みち」、左側面に「宮ヶ谷村庚申講中/左ぐめうじ道」とあり、道標銘がみられる。
 4は正面に主銘、右側面に「萬延元年庚申十一月吉日」の年銘がある。
 5は合掌六手像(像高38センチ)、三面に猿(像高15センチ)を配する。2と異なり、三面の猿は、いずれも正面を向いている。像の上に三種子、下部に「施主/敬白」の二行がある。右側面に「ア
 庚申同行廾三人」、左側面に「アク 延宝八庚申年三月吉日」の銘文を刻む。

 管理している安養寺に寄ってみたが収穫がなく、日野町内会館(日野8−6)角の
   6 元禄13 板碑型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     88×45
   7 年不明 板駒型 青面金剛・一鬼・二鶏・三猿        66×28
   8 万延1 柱状型 「庚申塔」                68×30×30
   9 万延1 柱状型 「庚申塔」                69×30×29四基をみる。道路に面して5、その後に6、一番後ろに7と8が並んでいる。
 6は合掌六手青面金剛(像高35センチ)には少ない板碑型、下部にある三猿(像高14センチ)が鎌倉にみられる特徴のある猿と同系である。右端に「奉供養青面金剛」、左端に「元禄十三庚辰天十二月二日」の年銘がある。
 7は風化が進んでいだ青面金剛(像高34センチ)で、鬼と猿(像高8センチ)が残っている。右側面に年銘があるらしいが、「元」か「天」らしい一字だけわかる。
 8と9は、兄弟塔といってよいだろう。主銘の他にも大きさが同じで、右側面に年銘が同じ「萬延元庚申年/霜月吉祥日」を、台石左側面に同じ「石工/材木座/宮右エ門」の石工銘である。異なるのは台石正面に刻まれた金井村の施主銘だけである。

 近くの墓地に寄ってから、日野町の春日神社に出る。正面に「キャ カ ラ バ ア」を刻む天保十二年の石塔(106×34×24センチ)とカルラ焔がはっきりと刻まれた年不明の不動明王坐像(86×36×27センチ 像高39センチ)と並んで
   10 延宝8 笠付型 日月・青面金剛・三猿           86×34×32がみられる。合掌六手の青面金剛(像高38センチ)で、下部に正面向きの三猿(像高17センチ)が浮彫りされている。頭上に「カンマン」の種子、右側面に「マン 延宝八年庚申十一月五日」、左側面に「シリー 日野五十八人」の銘がある。三面のいずれの種子も、庚申塔には珍しい種子である。
 石段の右手、道路に面して庚申塔が次の二基がみられる。
   11 平成12 板駒型 大日如来・三猿              87×39
   12 享保10 板駒型 青面金剛・一鬼・三猿           82×45
 11は上部に智拳印を結ぶ金剛界大日如来の坐像(像高20センチ)、下部に三猿(像高18センチ)を浮彫りする。その間に「享保元年/庚申供養/丙申十一月四日/吉原村」の銘がある。享保の年銘の割には白御影で造立年代が合わない。裏面をみると「平成十二年七月吉日再建」とあって納得する。
 多田さんが聞いたところによると、この旧塔があった場所が売られ、マンションを建築中に旧塔が処分されてしまい、昔の庚申講中が拠出して新塔を再建した、という。港南の歴史発刊実行委員会編『港南の歴史』(同会 昭和54年刊)には
   享保1 金剛大日坐像「庚申供養」三猿   板駒型 日野町166の前
   文化12 青□□□(庚申塔)            日野町166の前の二基が同じ場所に記載されているから、文化十二年塔も失われたものと思われる。
 12は合掌六手の青面金剛(像高46センチ)で、上方手の持物が通常の像とは逆である。下部の三猿(像高12センチ)は中央の猿が正面を向き、左右の二猿が内側向きである。像の右に「庚申供養 宮下邑」、左に「享保十乙巳年九月日/同行七人」とある。

 続いて廻ったのが光明寺(日野7−19)の境内には、次の二基がみられる。
   13 安永9 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     79×31×24
   14 貞享4 笠付型 日月・地蔵菩薩・三猿           83×33×35
 13は合掌六手の青面金剛(像高37センチ)で、下部に三猿(像高8センチ)がある。右側面に「庚申講中」左側面に「安永九子天九月吉日」、台石正面に施主銘八人の氏名を刻んでいる。
 14は地蔵立像(像高44センチ)の浮彫り、台石正面に三猿(像高17センチ)がある。像の右に「貞享四年 施主」、左に「丁卯十一月廾二日 敬白」、下部に「織茂氏兵右衛門」など七人の氏名を刻む。

 次に日野町の唱導寺下にある地蔵の庚申塔を訪ねる。
   15 延宝8 光背型 (頂部欠失)地蔵菩薩・三猿       128×55
 頂部の右側が欠けているが、主尊像(像高94センチ)は残っている。三猿(像高17センチ)は、台石の正面に浮彫りされている。像の右に「延宝八年 (施主銘三人) 敬」、頭の左に大きく「庚申」とあって像の左に「仲冬上旬 白」の銘がある。

 次の福聚院(港南1−3)で昼食にする。食後に境内にある次の二基をみる。
   16 元禄9 光背型 聖観音・三猿              103×43
   17 元禄17 光背型 地蔵菩薩・三猿              79×33
 16は聖観音主尊(像高82センチ)で、下部には陰刻の三猿(像高8センチ)がある。像の右には「元禄九丙子年 敬白」、左には「十月吉日 同行七人」の銘である。
 17は地蔵立像(像高48センチ)が主尊で、16と同じく下部に陰刻の三猿(像高8センチ)がみられる。像の右に「庚申供養 同行/五人」、左に「元禄十七甲申年正月廾日」とある。

 予定の順路としては唱導寺下〜テニスコート裏〜正覚寺〜坂路傍〜福聚院となっていたが、食事の関係で先に福聚院を訪ねたので、港南1−16の坂路傍にある
   18 寛文12 板駒型 青面金剛・三猿              98×41から見学を始める。この塔は、青面金剛の合掌四手像(像高44センチ)で、上方の右手に戟、左手に宝輪を持つ。像の右に「奉供養庚申為二世安楽也」、左に「寛文十二天正月日」の銘文が読み取れる。三猿(像高18センチ)は下部にみられ、その下に「武〓松本/武藤□右衛門(など三人の氏名)/妙法/(この後に五人の氏名)がある。

 横浜の四手像といえば、早くから『庚申塔の研究』などに紹介された白山神社境内(南区別所2−30−14)が思い浮かぶ。この像も合掌しているが、18とは上方手の持物が逆である。その上に別所のは「奉納南無三王廾一社」の銘を刻む。

 横浜市内には、別所以外の四手青面金剛に次の塔がある。この一覧表は、いろいろな資料から寄せ集めたものだから、資料による精粗がみられる。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・元 号・ 特            徴 ・塔 形・区・  所在地     ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・寛文11・青面四手・日月・一鬼・三猿   ・舟 型・戸・戸塚町 富塚八幡  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・延宝8・青面四手            ・舟 型・南・野庭町上野庭    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・延宝8・青面四手・日月・一鬼・二鶏・三猿・笠付型・戸・東俣野町 東俣野辻 ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・延宝8・青面四手・日月・一鬼・二鶏・三猿・舟 型・保・          ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・天和2・青面四手・日月・一鬼・二鶏・三猿・板駒型・保・天王町 神田不動  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・元禄7・青面四手・三猿         ・板駒型・港・池辺町 浄念寺   ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・享保10・青面合四座像・日月・三猿    ・舟 型・戸・田谷町 田谷分校横 ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・元文2・青面四手・日月・一鬼・三猿   ・板駒型・港・東本郷町747   ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・元文3・青面合四・日月・一鬼・三猿   ・駒 型・中・本牧・三ノ谷 多聞院・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 正覚寺(港南2−11)の門前には、次の一基がある。
   19 文政13 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        68×38×22
 この塔は剣人六手の青面金剛立像(像高47センチ)を主尊とし、下部に三猿(像高8センチ)がある。頭の左右に「奉」と「念」、右側面に「文政十三庚寅八月吉祥日」の銘。台石正面には法名を刻むが、どううもこの台石は別物と思われる。

 先に行くはずのテニスコート裏(港南3−11)が後回しになる。
  20 年不明 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     60×26×18主尊が剣人六手の青面金剛(像高38センチ)だから、下部の三猿(像高8センチ)の向きを考え合わせると、19よりは古そうであるが享保以降の像と思われる。右側面に「講中」の下に三人の施主銘、左側面も同様に「講中」の下に三人の氏名を刻む。

 最後は、港南6−1の路傍にある庚申塔を訪ねる。
   21 元禄10 板駒型 弥陀定印「…庚申供養…」         82×37
 この塔は、上部に定印の弥陀(像高26センチ)を主尊とする。像の右に「奉新造立為庚申供養二世安楽也」、左に「元禄十丁卯念十一月吉日」、下部に七人の施主銘を並べて記す。

 市営地下鉄港南中央駅の入口で解散、皆と別れる。解散時間が早いので、犬飼・多田・萩原の三氏と私の有志四人が二次見学を続ける。
 最初に訪ねたのが港南四丁目の横浜刑務所、この構内にある昭和六十三年十一月造立の聖観音立像(像高91センチ)の彫りがよい。思わぬ場所で石佛に出会う。
 次いで笹下1−7−26の吉田宅前にある木祠の内に安置された、次の塔ををみる。
   22 貞享4 光背型 「キャ」地蔵菩薩・三猿          98×41
 この塔の主尊は地蔵の立像(像高71センチ)、頭上に「キャ」の種子、像の右に「貞享四丁卯天」、左に「十一月日」、下部に「武内与右衛門」など八人の施主銘がある。三猿(像高13センチ)は、台石の正面に浮彫りされている。

 今回の見学の最終は上大岡西三丁目の鹿島神社、境内にある木祠に安置された地天(58×30×18センチ 像高41センチ)が目当てである。右側面に「文政二卯二月吉日」の銘がみられるから、社日の因む造立だろう。これまで横浜市内では、緑区の女神像と保土ヶ谷区の男神に次ぐ三体目の地天像である。

 この神社には、西国三十三箇所・板東三十三箇所・秩父三十四箇所を記した寛政八年の百番塔と文政七年の出羽三山碑がみられる。三山碑の上部には、「キャ」を中心にして六字名号を時計廻りとは逆に刻んでいるのが珍しい。

この神社を最終に京急の上大岡駅に向かい、帰途につく。京急〜横浜乗換でJR京浜東北線〜東神奈川乗換で横浜線〜八王子乗換で八高線〜拝島乗換で青梅線と、それぞれの線を経由して帰宅する。
生麦を歩く  「蛇も蚊も」につられて 
 
 平成十四年六月二日(日曜日)は、横浜市鶴見区生麦の「蛇も蚊も」を訪ねる。
最初に行ったのが原神明社で、境内の蛇作りを見学する。その後で、もう一か所の本宮の行事をみようと考え、鳥居を抜けて左折すると左手に
   1 延宝5 光背型 「キリーク」来迎弥陀・三猿       150×64
   2 年不明 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     69×35の二基の庚申塔が並んでいる。
 1は来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像(像高100センチ)を主尊とし、上部に頂部欠けた「キリーク」の種子、下部に正面向きの三猿(像高12センチ)を陽刻する。主尊の右に「奉造立庚申供養同行十四人」、左に「干時延寳五丁巳暦十一月廾五日」の銘を刻む。
 2は1の先に気がついて横をみたらの三猿があったので、途中で1を調べた。それで2の銘文を調べるのを忘れてしまう。主尊は、合掌六手像(像高34センチ)で下部に三猿(像高11センチ)を浮彫りする。 本宮の「蛇も蚊も」の行列をみた後に、道念稲荷神社を訪ねると、参道の入口に寛文と天明の地蔵がみられる。寛文地蔵は、丸の中に「カ」の種子が上部にあり、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵(像高91センチ)である。塔形は光背型(131×55センチ)。像の右に「奉造立念佛供養同行二十人」、左に「寛文八戊申念八月十四日 武州橘築郡生麦村」の銘が刻まれている。

 近くの石造物に別当の「龍泉寺」の銘をみたので、近所に寺があるだろうと探す。道路に面して祠があり、その中に寛文五年の地蔵が安置されている。先の地蔵と同じく、丸の中に「カ」の種子が上部にあり、持物も同じ立像(像高85センチ)で塔形(148×57センチ)も同じである。像の右に「奉造立念佛供養 願主四人 同行四十七人」、左に「寛文五乙巳五月十三日」とある。

 この地蔵の奥に寺があり、参道の祠の中には
   3 延宝8 光背型 「キリーク」来迎弥陀・三猿       119×47がある。頂部に種子「キリーク」、中央に来迎印の弥陀立像(像高84センチ)、下部に三猿(像高13センチ)がある。像の右に「奉造立庚申供養現当二世悉地成就所」、左に「□延宝八庚申年十一月吉祥日 当村同行七人 敬白」とある。
 全く期待していなかったのに「蛇も蚊も」の余祿で三基の庚申塔、しかもその中の二基が弥陀庚申とは驚く。ラッキーである。十二月多摩石仏の会の案内は、思わず鶴見を予定してもよいかな、と考えてしまう。

 家へ戻ってから、参考のためにフロッピーに入力してある横浜市の資料をみる。横浜市を含む神奈川県の庚申塔を扱った文献としては
   清水 長輝『庚申塔の研究』 大日洞 昭和34年刊
   清水 長明『相模道神図誌』 波多野書店 昭和40年刊
   中山 正義『寛文の庚申塔 神奈川県』 同人 平成1年刊などが挙げられるが、横浜市全域に限定すると、
   伊東 重信『横浜市庚申塔年表』 同人 昭和42年刊以外に伊東重信さんの「形態的にみた横浜市の庚申塔」(『民俗』89号 相模民俗学会 昭和50年刊)があるものの、まとまったものは見当たらないようである。
 勿論、鶴見区の一区内に限れば
   鶴見区史編集委員会『鶴見区史』 鶴見区史刊行委員会 昭和57年刊
   野本 吉徳「鶴見石仏散歩・・東寺尾」『郷土つるみ』10号 鶴見歴史の会 昭和59年刊
   野本 吉徳「鶴見石仏散歩・・馬場」『郷土つるみ』11号 鶴見歴史の会 昭和59年刊
   大熊  司「鶴見金石誌 末吉・梶山」『郷土つるみ』19号 鶴見歴史の会 昭和63年刊
   大熊  司「鶴見金石誌 旧東海道他」『郷土つるみ』20号 鶴見歴史の会 昭和63年刊
   穴沢 忠義「土手の上の庚申塚」(菅沢町)『郷土つるみ』21号 鶴見歴史の会 平成1年刊
   大熊  司「鶴見金石誌 旧東海道・鶴見・生麦(2)」『郷土つるみ』21号 鶴見歴史の会
        平成1年刊
   大熊  司「鶴見金石誌 寺谷」『郷土つるみ』22号 鶴見歴史の会 昭和63年刊
   大熊  司「鶴見金石誌 馬場町」『郷土つるみ』23号 鶴見歴史の会 平成1年刊
   大熊  司「鶴見金石誌 東寺尾」『郷土つるみ』24号 鶴見歴史の会 平成2年刊
   大熊  司「鶴見金石誌 矢向・江ケ崎」『郷土つるみ』25号 鶴見歴史の会 平成2年刊
   大熊  司「鶴見金石誌 獅子ケ谷」『郷土つるみ』26号 鶴見歴史の会 平成2年刊
   大熊  司「鶴見金石誌 岸谷」『郷土つるみ』27号 鶴見歴史の会 平成3年刊
   大熊  司「鶴見金石誌 駒岡」『郷土つるみ』29号 鶴見歴史の会 平成3年刊
   大熊  司「鶴見金石誌 北寺尾・上の宮」『郷土つるみ』30号 鶴見歴史の会 平成4年刊
   大熊  司「鶴見金石誌 潮田・菅沢他」『郷土つるみ』31号 鶴見歴史の会 平成4年刊などがみられる。
生麦では、鶴見歴史の会から平成1年に発行の『郷土つるみ』二一号に掲載された大熊司さんの「鶴見金石誌 旧東海道・鶴見・生麦(2)」が参考になる。

 鶴見区内では、古くから東寺尾中台七−一六の二本木不動堂にある不動明王を主尊とした寛文十二年塔が有名で各種の文献に紹介されている。また、区内最古の庚申塔としては、菅沢町一五の宝泉寺にある寛永十年宝篋印塔があり、北寺尾五−二の渋沢稲荷にある寛文元年宝篋印塔が知られている。

 前記の資料から、生麦に地域を限定してと庚申塔を抽出すると
   生麦3−13 神明社  延宝5 阿弥陀「奉造立庚申供養」三猿   光背型
   生麦3−13 神明社  享保17 青面金剛             板駒型
   生麦4−31 正泉寺  延宝8 阿弥陀「奉造立庚申供養……」三猿 光背型
   生麦5−13 慶岸寺  寛文13 阿弥陀「奉造立庚申講同行九人」
   生麦6−3 庚申堂  延享3 文字の五基が分布していることがわかる。この資料からみると、2の塔の銘文を読んでいないので「年不明」としたが、享保十七年である。今回は、生麦にある庚申塔の中の三基をみたことになる。

 資料としては古いが、他に適当な文献がないので伊東重信さんの「形態的にみた横浜市の庚申塔」(『民俗』89号所収 昭和50年刊)を利用して横浜市内の阿弥陀如来主尊の庚申塔の中から寛文〜延宝年間の塔を抽出し、種別に分類すると次の一覧表の通りである。この表からも、生麦にある来迎弥陀の庚申塔が横浜市内でどのような位置付けであるかがわかるだろう。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・種  別 ・年 銘・所在地         ・備  考・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・来迎弥陀 ・寛文2・戸塚区舞岡町 桜堂   ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・寛文6・戸塚区舞岡町 八幡社  ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・寛文8・泉区岡津町 県道傍   ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・寛文8・栄区鍛冶ケ谷町 八幡社 ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・寛文11・泉区岡津町 西田谷戸  ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・寛文11・鶴見区江ケ崎町 寿徳寺 ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・寛文13・戸塚区飯島町 三島社  ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・寛文13・栄区金井町 火の見下  ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・寛文13・鶴見区生麦 慶岸寺墓地 ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・延宝3・戸塚区東俣野町 辻   ・ 山王銘・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・延宝4・戸塚区戸塚町 宮谷   ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・延宝5・鶴見区生麦 原神明社  ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・延宝8・旭区本村町 神明社   ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・延宝8・栄区笠間町 笠間社下  ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・延宝8・鶴見区生麦町 正泉寺入口・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・合掌弥陀 ・寛文10・泉区岡津町 領家谷   ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・寛文11・鶴見区江ケ崎町 寿徳寺 ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・寛文12・栄区長沼町 八幡社   ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・延宝4・緑区長津田町台     ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・延宝6・戸塚区汲沢町 御霊社  ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・延宝6・戸塚区戸塚町 羽黒社  ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・延宝8・神奈川区神明町 神明宮 ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・延宝X・戸塚区上飯田町 下組  ・    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・定印弥陀 ・延宝2・磯子区岡村  山上   ・    ・
   ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・     ・延宝8・旭区市沢町 熊野社   ・座  像・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 なお区名は、資料の旧区名から現状に合わせた新区名に直してある。
            〔初出〕『平成十四年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成14年刊)所収
生麦見学会下見 懇話会六月例会に備えて
 
 平成十五年三月二十三日(日曜日)は、庚申懇話会六月例会で横浜市鶴見区生麦の「蛇も蚊も」を中心に案内する見学会を行う予定なので、その下見に出掛ける。先ずコース順に原神明社を訪ねる。道路に面した東南の角に石佛群があり、その前面に
  1 延宝5 光背型 「キリーク」来迎弥陀・三猿          148×60
   2 年不明 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     66×35の二基の庚申塔が並んでいる。
 1は来迎印の阿弥陀如来(像高99センチ)で、頂部に「キリーク」の種子を刻み、下部に正面向きの三猿(像高16センチ)を浮彫りする。主尊の右に「奉造立庚申供養同行十四人」、左に「干時延寳五丁巳暦十一月廾五日」の銘文がある。
 2は合掌六手像(像高43センチ)で、下部に三猿(像高11センチ)を陽刻する。資料によると享保十七年の造立とあるが、前回と同様に横や背面の銘文に気付かなかった。
次いで生麦小学校と生麦事件現場の説明板を確認し、道念稲荷神社を訪ねる。参道入口の左右にに天明と寛文の地蔵がみられる。
 明和地蔵は右手に錫杖、左手に宝珠を執る地蔵立像(像高71センチ)を浮彫りする光背型塔(100×46)である。像の右に「地蔵講供養佛」、左に「明和三丙戌三月二十四日」の銘文を刻んでいる。
 寛文地蔵は頂部の丸の中に「カ」の種子があり、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵立像(像高91センチ)の光背型塔(131×55センチ)である。像の右に「奉造立念佛講供養同行二十人」、左に「寛文八戊申年八月十五日 武州都築郡生麦村」の銘が刻まれている。
その先にある龍泉寺には、入口に寛文五年の地蔵が安置されている。道念稲荷の地蔵と同じく、上部の丸の中に「カ」の種子があり、持物も同じ立像(像高87センチ)で光背型(149×57センチ)と塔形が同じである。像の右に「奉建立念佛供養 願主五人 同行四十七人」、左に「干時寛文五乙辰年五月十五日」とある。
 この地蔵の奥に寺があり、参道右手の祠の右端には
   3 延宝8 光背型 「キリーク」来迎弥陀・三猿          118×47が安置されている。頂部に種子「キリーク」を彫り、中央に来迎弥陀立像(像高84センチ)、下部に正面向きの三猿(像高13センチ)がある。像の右に「奉造立庚申供養現當二世悉地成就所」、左に「延宝八庚申年十一月吉祥日 當村同行七人 敬白」とある。参考までにこの年の十一月は、五日が庚申日に当たる。 本堂前の左手には、板石型塔の上部に稚児大師坐像を刻み、その下に「稚児大師普濟供養碑」の主銘がみられる。稚児大師は、平成九年の庚申懇話会六月例会で鎌倉市手広の「鎖大師」で知られる青蓮寺にある光背型塔に浮彫りする一基みた記憶がある。
 龍泉寺の東へ進み、左手にある子育地蔵堂先を左折すると慶岸寺である。参道左手にある六地蔵は昭和五十四年九月造立で、白御影の丸彫り立像である。右端の像の台石は、右横書きで上段に「地獄」、下段に「大定智悲蔵蔵」の二行が刻まれている。以下左へ「餓鬼/大徳清浄地蔵」「畜生/大光明地蔵」「修羅/清浄無垢地蔵」「人道/大清浄地蔵」「天道/大堅固地蔵」の順である。
 墓地入口左手にある無縁墓の最後列中央に高いのが
   4 寛文12 光背型 来迎弥陀「奉建立庚申講同行九人」    125×51である。これも前記の弥陀庚申と同様に、光背型塔に来迎印を結ぶ立像(像高94センチ)である。頂部に「キリーク」の種子、像の右に「奉建立庚申講同行九人」、左に「干時寛文十二壬子十一月十五日」の銘文がみられる。
 今回は生麦にある庚申塔四基をみたが、その中で寛文十二年塔を最古に阿弥陀如来主尊が三基を占める。他に適当な文献がないので資料としては古いが、伊東重信さんの「形態的にみた横浜市の庚申塔」(『民俗』89号所収 昭和50年刊)を参考にして横浜市内の阿弥陀如来主尊の庚申塔の中から寛文〜延宝年間に造立された塔を抽出した。これを阿弥陀如来の形態から、来迎弥陀・定印弥陀・合掌弥陀に三分類すると、生麦では来迎弥陀だけが三基分布し、定印弥陀と合掌弥陀の庚申塔が見当たらない。
 横浜市内の最古の弥陀庚申をみると、阿弥陀主尊全体でも来迎弥陀でも戸塚区舞岡町桜堂の寛文二年塔である。合掌弥陀では泉区岡津町領家谷の寛文十年塔、定印弥陀では磯子区岡村・山上の延宝二年塔が最古の塔である。鶴見区内の弥陀庚申では、江ケ崎町寿徳寺の来迎弥陀寛文十一年塔が最も古く、次いで慶岸寺の寛文十二年塔、原神明社の延宝五年塔、龍泉寺の延宝八年塔と続く。
 この後は、折り返して見学会の下見を続ける。(未発表)

横浜・生麦見学会 庚申懇話会六月例会 
 
 平成十五年六月一日(日曜日)は庚申懇話会六月例会。午前一〇時、京浜急行線生麦駅に集合、コースの案内役は私が勤める。今回は、横浜市鶴見区生麦の「蛇も蚊も」を中心に案内する。参加者は一三人、中に年賀状に「84歳を迎えて」と書かれいた横須賀の遠藤陽之助さんのお顔がみえ、元気なので安心する。
 先ず、原の神明社で萱蛇を作っていのを見学してから、生麦小学校へ向かい、本宮の三匹の萱蛇を待つ。本宮の三地区を廻ってきた萱蛇が小学校付近の横町に合流して、小学校の校庭で絡み合いが行われる。その後、本宮と原の境界で神事があり、旧東海道を道念稲荷まで道行の後を追う。境内で蛇の首をお焚き上げするのみて、龍泉寺を訪ねる。

 龍泉寺の入口にある地蔵をみてから、境内に入って参道右手の祠をみる。右端には
   1 延宝8 光背型 「キリーク」来迎弥陀・三猿          118×47が安置されている。頂部に「キリーク」の弥陀種子を彫り、中央に来迎印を結ぶ阿弥陀如来の立像(像高84センチ)、下部に正面を向く三猿(像高13センチ)が浮彫りされている。弥陀像の右に「奉造立庚申供養現當二世悉地成就所」、左に「延宝八庚申年十一月吉祥日 當村同行七人 敬白」の銘文を刻んでいる。 次いで道念稲荷に寄って二基の地蔵をみてから、生麦事件の現場で芦田正次郎さんから説明を受ける。

神明社へ戻って南側、道路に面して並ぶ、次の庚申塔二基をみる。
   2 延宝5 光背型 「キリーク」来迎弥陀・三猿          148×60
   3 享保17 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿     66×35
 2は、1と同じく来迎印の阿弥陀如来立像(像高99センチ)、頂部に弥陀種子をの「キリーク」を刻み、下部に正面向きの三猿(像高16センチ)を陽刻する。主尊の右に「奉造立庚申供養同行十四人」左に「干時延寳五丁巳暦十一月廾五日」の銘文がある。
 2は合掌六手像(像高43センチ)で、下部に三猿(像高11センチ)を浮彫りする。右側面に「奉造立庚申供養二世成就」の祈願銘、左側面に「享保十七壬子二月吉日」の年銘を刻む。昨年六月も今年三月の下見の時にも、両側面にある銘文を見逃していた。今回、正面だけでなく改めて両側面の銘文を読む。 これで午前の見学を終え、神明社の境内で昼食をとる。午後一時三〇分に集合して、原地区の「蛇も蚊も」を見学する。社殿の前に二匹の萱蛇が並び、社殿で代表者による神事が行われる。萱蛇のお祓いが終わって二匹の萱蛇が神社を出発する。

 我々は原西・住宅地の萱蛇の後を追い、途中で別れて生麦事件の石碑のある所で芦田さんに解説していただいて見学会を終える。生麦には前記の三基以外に慶岸寺に寛文十二年の庚申塔があるが、今回の見学会では割愛した。これも来迎弥陀を主尊とする。つまり、生麦の旧東海道沿いに三基の弥陀庚申がみられる訳である。
 生麦駅に向かい、各々が帰途につく。(未発表)
あ と が き
      横浜の庚申塔を初めてみたのは、多分、昭和五十二年八月二十八日のことであろう。J
     R横浜線長津田駅で下車し、町田市成瀬に点在する道祖神を調べた時で、手元の写真をみ
     ると庚申塔と地神塔が各一基が写っている。町田の調査が主体であったから、どのような
     石佛をみたのか、現在では記憶も調査記録も残っていない。

      次いで同五十三年十月十五日、手元の写真の説明には「横浜市金沢区」とあり、庚申塔
     四基のベタ焼きがネガシートに添えられている。明細は不明である。庚申懇話会の例会で
     金沢区内を廻った時なのかもしれない。これも明細が不詳である。
      同五十五年六月二十二日は、鎌倉から栄区の田谷洞窟の十八羅漢をみて町田と八王子を
     廻った。この時は、田谷洞窟の石佛だけで横浜市内の庚申塔をみていない。
      昭和五十六年一月四日から平成十五年五月二十五日までの間、昭和五十八年六月二十二
     日・同年十一月十三日・翌年二月十二日、さらに平成十一年六月十三日の四回にわたって
     多摩石仏の会例会で戸塚を廻っている。

      今年五月二十五日には、日本石仏協会の見学会で戸塚を歩いた。これらについては先に
     まとめ、今月十五日に庚申資料刊行会から『戸塚の庚申塔を歩く』発行されたから、それ
     を参照していただければ、詳細は明らかである。
      昭和五十六年二月二十二日は、神奈川県立博物館で館内にある閻魔庚申や四手青面金剛
     などの庚申塔を見た後、市内各地の庚申塔を廻った。四手青面金剛は茅ヶ崎のものであっ
     た、閻魔庚申は大谷忠雄さんが『庚申』24号(昭和36年刊)に発表された「横浜市庚申石
     碑覚書」で紹介された市内の庚申塔である。残念ながら当時の写真が残っているだけで、
     記録資料がみられない。

      昭和六十一年以降は、戸塚分を除き本書に収録した。昭和六十一年十月二十七日(日曜
     日)の「十月見学会・・鶴見行」は、庚申懇話会の『庚申』92号(昭和62年刊)に例会報
     告として発表した。今は亡き藤井慶治さんの案内で、当時のことが思い出される。
      次の「緑区の石仏」は、平成元年七月九日に行われた多摩石仏の会七月見学会の報告で
     ある。文末でも示したように『日本の石仏』61号に発表した「庚申塔曼陀羅・横浜市緑区
     を歩く・」に全文が収録されている。

      三番目の「鎌倉を歩く・」は、平成八年七月二十八日の庚申懇話会七月例会報告で、最
     初の横浜に関係する部分だけを抄出して載せた。これも藤井慶治さんの案内である。以降
     の文章は、初出の『平成八年の石仏巡り』や再録の『鎌倉を歩く』にみられる。

      続く「横浜港南を歩く」は、平成十三年七月八日に行われた多摩石仏の会七月例会の顛
     末である。多田治昭さんの案内でJR根岸線港南台駅を起点に港南区内を歩いた。コース
     の終点は、京急の京急上大岡駅である。

      最後の三編は、昨年と今年催された市指定無形文化財「蛇も蚊も」関連のものである。
     いずれも、生麦という狭い地域にある庚申塔を主体としている。
      本書をご活用いただければ幸いである。末筆ながら、多くの関係者に謝意を表する。
                              ・・・・・・・・・・・・・・・
                              横浜の庚申塔を歩く
                              発行日 平成十五年六月三十日
                              著 者 石  川  博  司
                              発行者 庚申資料刊行会
                              〒1980083 青梅市本町一二〇
 
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