江漢広重東海道五十三次画集(その2) 目次へ 画集3へ 画集4へ   画集1へ
14.原
                 
原の冨士 頂上が平ら
吉原の冨士 頂上が丸い。
広重図のギザギザ頭の冨士なら誰でも描ける。
江漢図の冨士は吉原の冨士の特徴をしっかり描き分けており、現地を訪問し、さらに快晴の冨士に巡り会わない限り描けない。
1812年京都からの帰りに、府中を出てから終始快晴が続き、雲一つない富士山を写生したことが江漢書簡に記されている。
江漢の「冨士論」も参照のこと。
15.吉原
吉原の左冨士の見える場所はきわめて限られており、写生場所が特定できる。
江漢図には右上がりの地形が正確に写されており、前記のように頂上の丸い冨士が正確に写されている。
近景については、大正の写真と較べると、広重図の水田の中の縄手道の方が正確で、江漢図では原−吉原間の海岸を通る松林道が描いてある。江漢図/広重図それぞれの成立過程を推定するための重要な手がかりである。
16.蒲原
★蒲原宿には広重写生場所の立派な記念碑が建てられているが、地形や風景が広重図と少しも似ていないことが従来から問題として指摘されていた。

江漢図そっくりな風景がカシミールで発見された。
カシミール最大の収穫である。

蒲原宿ではなく、宿から2kmも離れた蒲原と由比の中間地点で、さらに東海道から線路を越え、海側へ100mはずれた場所。

これまで蒲原宿を隅から隅までも探しても見つからず、東海道を歩いても見つからなかったのが当然の場所であった。


カシミールと現地写真の一致。カシミールの威力を示す1枚である。
江漢図の右手に上る坂道@も実在する。(秋葉神社上り口)
迂回しながらAの岡の上に出る。

17.由井
江漢は1812年暮れ京都からの帰路、この辺りで快晴に恵まれて初冬の富士を写生したことが、江漢の自筆書簡に書かれている。
また同じ書簡に、日本で始めて「写真鏡」を使った風景画を描いたことが記されている。積雪状況も季節と江漢の初冬の旅と一致。
画面右下の俯瞰は、ふつうの遠近法では描けない画法であり、写真鏡によるものである。
広重図の誤り
広重図は現地そっくりとされているが、実はそうでもない。
冨士の右側には愛鷹山が続き、さらに箱根伊豆の山々が連なる。
広重図のような水平線はないことが以前から言われていた。
18.興津
人物は東海道名所図会からの借り物(相撲取りの大井川越え)。

人物は借り物だが、風景は現地通りで、岩山を回り込んで海に注ぐ興津川河口付近。
現地スケッチと借り物人物のモンタージュであることが分かった。
背景の岩は、人物との対比では7〜8mにしか見えないが、実際は70mくらいの岩山である。

狭い場所に橋や鉄橋が密集し足場も悪く写真がとりにくいが、川の中州の向こうに海が見えるなど意外に江漢図通りであった。
19.江尻

カシミールと比較すると、江漢図は苦労して海上からサッタ山
を狙った図柄であることが分かる。 山のこぶが非常に正確。
広重図は江漢図とは無関係。東海道名所図会「久能山からの展望図」のコピーだが、箱根や伊豆の山が省略されている。
江漢図は興津駅の沖合2km、三保の松原の先端と興津を結ぶ線上の海上からの展望図。
サッタ山が稜線上に突き出す唯一の地点であり、江漢のサッタ山へのこだわりが窺われる。
(手前の風景は東海道名所図会「志留波磯」の松などとのモンタージュである。)
   江漢真筆の直接証拠

江漢隠退後の西遊日記挿し絵「久能山からの展望図」(1815頃)には、この図と同じ形の「サッタ山と西倉沢山」が、わざわざ描き込まれている。
(久能山からのサッタ山は実際にはこの形には見えない。あくまでも海上から見上げたときの形である。)

●「江漢図の作者しか知らないはずの正確な情報」を「江漢本人が知っていた」ことになり、江漢図の作者が江漢と同一人物であることを示す絶対的な物的証拠である。
20.府中
広重図は、川面に朝霧のかかる珍しい風景。
朝霧を駿河湾の海と間違えた解説があった。
★江漢図 大窪山徳願寺のある山(徳願寺山)で、安部川の鉄橋を渡るとき車窓正面によく見える山。L字型のテーブル状窪地が特徴で、江漢図にも窪地が描かれている。 ★広重図 広重の山はカシミール図と全然違うように見えるが、
後ろの尾根を一部朝霧で隠すと、正確に広重図通りになる。
明らかに朝霧のある状態での現地写生である。
★江漢書簡 「府中を出てから終始晴天が続き、雲一つない富士山を写生した・・・」 (府中を出るまでは朝霧が残っていたのであろう。)
21.鞠子
  
22.岡部
広重図 の副タイトルは「宇津之山」
しかし水流は峠を越えられないから、宇津峠山中ではない。

写生場所と方角についていくつかの説があった。
水の流れは「向こうから手前」だろうか「手前から向こう」だろうか?
   山と山の狭いすき間を街道と水流が貫通する地形が岡部に1ヶ所だけある。岡部橋から見た宇津之谷峠の山々である。
   山の輪郭線だけでなく、山ひだやコブの陰影も含めて、江漢図は現地風景とよく似ているが、広重の山は完全に崩れている。
岡部橋
23.藤枝
24.島田
  
25.金谷
    広重図は東海道名所図会も参考にしているらしいが、
尖った山のシルエットは江漢図からの転用であろう。
カシミールや現地で探しても、尖った山は実在しないが、江漢の真筆には尖った山が出てくる。
 尖った山 江漢真筆「金谷」1812→江漢画集1813→広重図1833 
26.日坂
東海道名所図会「佐夜の中山」夜泣き石

両図とも、坂道の一部を部分借用しているらしい。
どの部分を借用したかで、坂の傾斜が違ってくる。
27.掛川
広重の副タイトル「秋葉山遠望」。坊さんがのんびり扇子を使っているのに、老夫婦が強風で難行しているのは不思議。
偉い坊さんに出会って最敬礼をしているという説もあるが・・腰が90度に曲がった老婆のモデル(続膝栗毛 口絵)が分かっているので最敬礼ではない。
坊さん連れは江漢図にはなく、広重が描き込んだもので、十返舎一九の「金草鞋」の主人公「ちくら坊と鼻毛延高」であろう。(1831十返舎一九没・・・追悼)
                      
 
28.袋井
              
 左図 東海道名所図会「秋葉付近」がモデルとされていたが・・・・右図「続膝栗毛口絵」の図柄の方が近い。
29.見付
30.浜松
続膝栗毛口絵
31.舞阪
舞阪ではなく館山寺の風景と言われるが未確認。島ではなく岩のようなので、カシミールでは分からない。
32.荒井
江漢図の奥に見える島影は舘山寺のある岬らしい。
★広重図右の荒井関所付近は、東海道名所図会を参考に描いたもの。

★江漢図は大名船を2艘連結して宴会をやっている情景だが、船の構造から
大名船の連結は無理であろう。
多分、画集のあちこちに見られる江漢のフィクション。

東海道名所図会「津島祭図」に小舟を2艘連結して山車や神輿を運ぶ場面が
あり、それからの連想ではないか?

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