江漢広重東海道五十三次画集(その4) 目次へ 画集1へ 画集2へ 画集3へ
48.関

両図の違い
門の幕の色(江漢図は白麻、広重図は紫縮緬)、定紋入り提灯
本陣作法の時代考証のために重要。
両図は、門の幕の色、提灯の紋、宿札(〜宿、〜泊)、本陣主人の帯刀有無など多くの点で喰い違っているにもかかわらず、考証上
どちらも正解
。−−−江漢、広重とも本陣作法に精通していたことになる。 
  ★江漢は本陣関係の友人や知り合いの大名が多く、本陣には詳しかった。  広重は何時どこで、本陣作法のことを勉強したのであろう?
  
★仙女香江漢の時代に売上げを伸ばした女性用化粧品
江漢の時代には仙女香はなかったという情報が美術界に
流れ、ニセモノ説の裏付けになっているが
大誤報である。
  
ニセ江漢うっかりして広重の広告を描き写した」という説があるが、発売元や住所が明記してあるのに、広告であることを見落とすことなどあり得ない。

本陣当主(町人)は裃、帯刀姿・・・大名から下賜されたもの。
  
広重は、読者の誤解を恐れて、帯刀の有無をわざと隠している。
 
49.阪之下
  
東海道名所図会「筆捨山」部分
東海道名所図会「筆捨山」部分拡大 茶屋部分がコピーされている。
50.土山
      鈴木重三氏は、伊勢参宮名所図会「土山」がモデルというが、雨以外は少しも似ておらず疑問である。
51.水口
52.石部
広重図の茶屋と人物が東海道名所図会「目川の田楽茶屋」のコピーであることで有名。(昭和35年近藤市太郎氏の発見)
江漢図も広重図と同様に東海道名所図会「目川」の忠実なコピーである。  

現地の地名は「梅の木」、和中散本舗の茶屋があった場所
江漢図の見事な梅林は、地名からの連想であろう。


広重図の山は江漢と同じ日向山(にっこうやま)の別アングル。
 (これまで、この山は比叡山の遠望などと言われていた。)
江漢図の山が現地に実在することがカシミールで分かった。
意外にも、江漢図は実景と借り物とのモンタージュであった。

       日向山(にっこうやま)
江漢/広重とも現地の実在の山(日向山)の精密なスケッチだが、山のアングルが少し違っている。

★京都に行っていないことが確実の広重が、京都からわずか半日の石部に行っていることは考えられない。
 その広重図に現地の山が正確に描かれているのは何故か。−−江漢図を無視すれば絶対に説明できないであろう。
53.草津
 
       東海道名所図会「草津」 茶屋のにぎわい                早駕籠だけは両図とも続膝栗毛口絵がモデル    
両図とも東海道名所図会がモデル。
広重図の茶屋の賑やかな人物は東海道名所図会「草津」を直接コピーしている。
      この事実から「広重図が江漢図のコピーではないことが証明された」というインターネット記事があったが、この論理は間違えている。
      「広重が江漢図と東海道名所図会の両方を参照した」ことを示しているだけである。
54.大津
東海道名所図会の「走水茶屋」を借用して、大津から京都に物資を運ぶ牛車の列を配した。
山のない初刷り
東海道名所図会 走井茶屋の前の坂道は右上がり?右下がり?
山を入れた後刷り(逢坂山)−−最終的には山を省く。
「山のある方が初刷り」という定説は誤り。  後刷りで山を無理して入れたことは絵を見れば一目で分かる
◆江漢図で牛車の先頭を行く「牛飼い少年」 (放ち髪、短い派手な着物。石山寺絵巻など室町時代の風俗?日本のカウボーイ)。
  大人の肩までの背丈なので少年。  江漢は牛車運搬業の歴史に関心を持ち、聞き取り調査をした記録がある。
                    ◆江戸時代にはない風習なので、広重図ではお河童頭赤い着物を生かして無難な幼女に修正。
55.京都
江漢図は京都御所、広重図は三条大橋を描いており、別な場所の風景。
★江漢図は京都御所の精密なスケッチ。小塀通用門まで正確に写されている。(江漢は1812年に6ヶ月以上京都に滞在。)
  (なお京都御所は江戸中期に細かく検証して初期の姿で再建され、以後は火災や老朽があってもこのときの設計図通りに復元修理されることになっている。)

★江漢図の山は、京都御所の西北地点から見た大文字山(大文字山の後ろから466mのピークが覗いている)。
                
★広重図の三条大橋の風景と人物は東海道名所図会伊勢参宮名所図会がモデル。
広重図背景の洛西の山の一部は、江漢の山の借用らしい。

三条大橋は石の橋桁だが、広重は木製の橋で描いている。
広重が少なくとも京都には行っていない証拠として、以前から美術界でこっそり議論されていた。

三条大橋背景の東山は平坦な山だが、広重図の山は険しい。
橋を180度回転させて、西側の嵐山、愛宕山、鞍馬山を描こうとしたらしい。
 広重図風景のモデルは東海道名所図会 背景は平坦な東山

橋の人物も、伊勢参宮名所図会から借用。独自の取材はない。
広重は、京都の橋も、人物も。山も何一つ現地取材していない。
広重ほどの画家がわざわざ京都まで行って取材を一切やらないことなど考えられない。→広重は京都には行っていない。

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