原文資料2   引退事情と引退後の江漢             資料目次へ戻る     
江漢は1813年6月に「何もかもイヤになった」として突如隠退する。さらに8月にはニセの死亡通知を出して行方を眩ましてしまい,1818年に死去するまで2度と世に出ることがなかった。
江漢五十三次画集は引退直後の作品であり、江漢画集の成立事情は引退と深く関わり合っている。(正確には、隠退直前に現地取材し、隠退直後に作品として仕上げた。)江漢の引退事情を探ることが画集の謎を解く重要な鍵である。
これまでの江漢研究では、隠退事件や隠退後の江漢人生を掘り下げて検討しておらず、隠退理由を江漢の書簡通りに「何もかもイヤになった」ためと受け止め、「長年の悪口がたたって友人が少なくなり、嫌気が差して隠退した」などとしている。また8月のニセ死亡通知事件も「世間を騒がせて喜ぶ愉快犯的な変人の行為」としている。
いずれも資料の読みが浅い。
江漢は「不祥事」を起こして世間から糾弾され隠退に追い込まれた。6月にすべての公の仕事から隠退して仏門に入ることで追求から逃れようとしたが、それでも世間が納得せず、8月になって失踪するしかなかった。
不祥事の原因は「貸し金の過酷な取り立てと思われる。
隠退前後〜隠退後についての江漢自筆の資料は意外に充実している。原文資料を尊重すれば、江漢の身に何が起きたのか明白である。
★これまでの江漢研究には、江漢自筆の原文資料を(江漢の法螺として)軽視〜無視するという伝統があった。つじつまが合わない資料は、「また江漢のほら話」として、深く検討せずに気軽に切り捨ててきた。この姿勢では新たな事実が出てきたときに対応が出来なくなるのである。
大畠との違いは、江漢自筆の資料の扱い−−軽視するか/重視するかという基本的な研究姿勢の違いである。
原文資料
引退前
文化八年
京都の前年
(文化八年)(1811) 八月二十七日海保青陵あて  
・・・小人如素(もとの如く)罷在候、その後は能処へ御引移被成候よし、尚々来春には上京可仕候・・・

小子も近年は西洋天経学にはなはだ通じ申し候て、毎月八日二十日会として講し申し候、京極備前之守侯世子また阿部福山の世子、皆門人にて彼方へ参候論談いたし候。さて人は文字を知り足る人は多く有候えども、理を知る者は少なし。・・西洋画、小子創草之事なるに世俗偽作して利之為に市中に売るもの多く候故、毎月画会之催して世人に施く事をいたし申候、・・・
引退直前の江漢の日常。強気であり、引退しそうな気配はない。
●中野本は「その後」から「京都で面談した翌年-1813年」と考察し、江漢全集にも「文化十年(1813)か?」とあるが、どう考えても「十年」では無理がある(十年八月にはニセの死亡通知を出して失踪しており、意気軒昂な書簡の内容とまるで合わない。)「・・来春には上京・・」と明記してあるからには、誰が考えても京都に行く前年の文化八年であろう。
●「その後」は「この前いただいた手紙のあと」というだけの意味である。「小子も相変わらず暮らしています・・」も同じ意味。
●「世俗偽作して」を「江漢の生前から江漢の偽作が出回っていた」と解する記述をよく見かけるが間違いである。文脈から「西洋画のまがいもの」の意味。
引退前
文化九年
京都滞在中
文化九年(1812) 六月十三日 江馬春齢あて
二月二十日江戸を出立仕、三月八日に吉野山に参り、それより大和廻り、・・京都に家を借り、住居申し候。色々の雅人と出会い仕り候。江戸と違い京地は人物好く、おもしろき人のみ多し。・・この間究理談とて話をいたし候えば、聞く者多く参候。江戸の風韻と違い申し候。
(文化十年6月山嶺主馬あて 京は風流雅人多くおもしろきところにて以文会とて雅人集会して一存を話す・・その会にも加わり、・・今思うに十年も二十年も早く来らざることを悔やむ・・)
吉野紀行から京都へ。京都が大変気に入って人生を楽しんでいる。とても隠退しそうには見えない。
ところがここで江漢の人生が一変する。
文化十年
六月
文化十年(1813)六月十二日 山領主馬あて
去年春よりして京都に出で、生涯京の土になり可申と存、住居仕候処に、江戸表親族共の中変事起り候て、急に去暮に罷返り候処、今以てさはりと済不申(
今もってさっぱりとは済み申さず)、然し十が九まで相済候て、先々安心は仕候。・・・

小人京よりa和と申す画師を弟子にいたし江戸へ呼びよせ候処、・・真の狂人になり申し候・・それ故吾志をつぐ者なし、この度は医業をいたす者を呼び世を譲り、小子はとんと世外の人なり、目黒の方へ隠居所を作り名を改め無言道人と申候。私跡相続人は上田多膳と申候て、旧の芝神仙に居申候。

然し今は画も悟りもオランダも細工も究理話も天文も皆あきはて申候ても困入り申し候、
先は万々申残し後便可申上
「十が九まで相済候て」 の解釈に食い違いがある。江漢研究者は「金銭トラブルはほぼ片づいた」とし、次の失踪とは直接の関係はないとする。
大畠は無言道人筆記(後述)の「100両を取り得て残り20両となる」の意味に取っている。・・・120両中100両を無理に回収したことが新たなトラブルを招いた。
a和を財産の後継者の一人と思って娘婿?などと混乱している研究書があるが、a和は画業の後継者であり、財産の後継者ではない。
「吾志継ぐ者なし」は「a和を失って画業を伝えるものがなくなった」の意味。晩年の江漢には弟子がいなかった。

●この時期、すでに上田多膳に家督を譲って隠居している。   実の娘が居るのに何故多膳を後継者にしたのかが謎とされるが→後述「江漢の娘」
文化十年
六月
 書簡つづき
一.京にては富士山を見たる者少なし、故に小子富士を多く描き残し候。(京都人にせがまれて富士をたくさん描き残した。)
去冬帰りに富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候。
一.この度和蘭奇巧の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、その中へ日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。
@京都からの帰路、快晴に恵まれて富士山を描いた。A写真鏡を使って「和蘭奇巧」出版用の挿し絵を描いた。文が二つに分かれているが、旅をしないと写真鏡を使った日本勝景/富士は描けないから、同じ旅の話である。これだけ明記してあるのに、これまでの研究では誰一人触れていないのは不思議である。  
別項(富士論、写真鏡を参照)で議論
文化十年
六月
文化十年六月 江馬春齢あて
今は画も天文も究理も細工もオランダも残らずあきはて困入り申し候、
先は幸便、匆々申上候
山嶺あてと同文で「何もかも嫌になった」。 どちらにも「詳しいことは後便」とあるのが気になる。結局、後便での詳しい説明がないまま、ニセ死亡通知が来ることになる。  江漢の身に何かが突然起きた。・・・高利貸行為に対する世間のきびしい糾弾である。
貸金取立ての事情 無言道人筆記(貸し金取り立ての事情)
・・・親類どもに金子預け置きしにその金を私用に使い失いしこと京都へ申し来たりし故、俄に・・江戸へ帰り来るに・・・小子老衰して業を務ること不成、故に工夫し、兼ねて左内というもの、
信濃の生まれにて・・(女房子供三人を抱えて困窮していたのを青山の与力春日藤左衛門が古証文の催促人に頼み)居催促して命を惜しまず取り立てけるに、藤左衛門その報いをせず、立腹して去り・・喜兵衛と言う者の金を境町の貸付日々通ひ、是にて口を糊し居て
ある時吾が帰りたるを聞知り、神仙坐へ来たりしなり。

左内へ云曰く、吾金預け置しに取ず、汝この金を取りなば汝に預け、また汝を世継ぎにすべし、この金百余あり。彼考え思う、百金を高利に貸すときはたちまち千金になるべしと思い、早速承知し、・・それよりだんだんと貸したる金を責め取り、ついに百金を取り得て今残り二十両となる。しかるにその百金を諸々に貸し付け、吾は隠居所を建て置き、養い毎月金2カンと贈る也、然し是は善知には非ず。
今思うに信州辺りの人は一体生まれつき剛直にして愚なり。事を起こすこともするなり。
小金を借りるものは身迫り如何ともすべきことなく借りる故に返す了見なし。それを快く貸す故に借りる者は誠に甘露をなめたる如し、故に一向に返す気なし。然しそれを取らずば大損をする故取り立てる。甚だ骨折りあり・・・(罪人を拷問し気絶したら気付け薬を与えてまた拷問するようなものだ。)この商売は牢屋の罪人を責めるよりは少し勝りたるか

無言道人筆記 七九
左内という男,
信濃の生まれにて貌大きく、志も甚だ祖にして、万端いっこうに取り柄なし。・・ただ妙なるは、貸したる金を催促する事、何度も行くなり。これもまた、人の出来ぬことなり。

貸し金取り立ての事情が江漢自身の筆で詳しく描いてあり、江漢の身に何が起きたのか一目瞭然と思うのだが、江漢研究ではこの資料を誰も正面から取り上げていない。成瀬本では何故か自分の考えを入れず、中野好夫本をそっくり引用。「中野本に付け加えるものがない」ということであろう。
しかしこの部分の中野本はひどい間違いだらけ※である。
大畠の読み方 上の記事を素直に読めば次のようになる。 
(「
親類ども」とは娘夫婦のこととして読んでおく。娘については成瀬本に詳しい。「ただの親類」どもより「娘夫婦」とした方が筋が通る。)

●京都移住を決心して自宅を売り払い、代金120両を娘夫婦に預けて京都へ出たところ、娘夫婦が無断で利殖に回し、全部回収不能になってしまった。娘は父親に助けを求め、江漢は江戸へ戻る。江漢は「万事不器用だが借金取り立てだけはうまい」左内を次のような条件で取り立て人に起用する。
−−回収不能金が120両ある。回収できた分だけ左内に預けて好きなよう運用させる。江漢は金利の一部をピンハネして老後の生活に当てる、江漢が死んだら、その金はそっくり左内のものになり、以後の金利は払わなくてよい。−−大変有利な条件なので左内は発憤し120両中100両の回収に成功する。

●左内を「
世継ぎ」にした意味も、江漢研究者を悩ませる難問であった。江漢の左内評は「志はなはだ粗にして、万端取り柄なし。」「剛直にして愚。」で、とても江漢が気に入って養子にするような人物ではない。
大畠の解釈 左内は全財産ではなく、左内が回収に成功した分(約100両)だけについての世継ぎである。
 @江漢存命中は金利の一部をピンハネするが、江漢が死んだら元金はそっくり左内のものになる。 A金を渡して高利貸しを代行させ、金利をピンハネするのは多分建前上は違法であるが、左内を養子の形とし、養父に扶養料を送るのなら構わないという脱法行為を考えたのであろう。しかしそれは名案ではなかった。(然し是は善智にあらず)

●「信州人は剛直にして愚。事を起こしやすい」ことを悔やんでいる。左内は熱心のあまり債権者と事を起こし、それが江漢の身に及んだのであろう。
文化十年
八月ニセの死亡通知
司馬無言辞世の語(偽の死亡通知)
「江漢先生老衰して@画をもとめる者有りといえども描かず。A諸侯召せども往かず、B蘭学天文或いは奇器を巧むことも倦み、Cただ老荘の如きを楽しみ、・・・D鎌倉円覚寺誠拙禅師の弟子となり、ついに大悟して後、病て死にけり。・・・文化癸酉八月 七十六翁」
江漢の奇行/変人振りを示す資料として、研究者が昔から注目し研究している資料であるが、誤読されていることが多い。
例えば「
諸侯召せども往かず」は「江漢は年を取ったので、これまでの大名子弟へのご進講などを取り止めて隠居生活に入った。」というだけの意味であるが、「江漢はこれまで大名から招かれても応じたことがない」と誤読し、「江漢が大名屋敷に出入りしていたことは公知の事実なのに、行ったことがないなど白々しい嘘をつくのは何故・・」などといった議論がされている。
死亡通知なので、弔辞に似た格調の高い表現が使われており、それに騙された誤読である。
前出の青陵先生あての書簡と対応すると、@絵画頒布会の中止 A大名子弟へのご進講の中止 B定期蘭学講演会の中止 C家督を譲って隠居 D仏門に入る−−という意味であることがよく分かる。@〜Dはすべて「引退」に相当する行為であり、「老衰して」が全部にかかっている。
ニセ死亡通知のあと 文化十年十一月十一日 山領主馬あて
小人義当時は隠居にて・・その上鎌倉へ参、誠拙禅師と問答して禅師の弟子になり、常に居士衣を着し僧の形の如く、・・今までの蘭学天文話を止め申し候、それ故鎌倉にて死たると世に告知らせ申候。この摺り物を江戸中京大阪へも遺し申候、実に死にたると思う者は香典などをよこす者あり、また死にはせぬという者もあり。
吾が虚名を知る者多き故、世上いろいろの虚説をいう者在る故
の事なり、・・
和蘭奇巧、ようやくこの節写本出来、上方へ 近日為登り申すつもりにて来年中には開板になり可申候。
・・慰みに相認め申し候、ご覧に入れ申し候。
マスコミ? 石亭画談(伝聞) 
江漢かって事故ありて偽り、すでに死せりとして、芝某所に蔭居す。
或人途上にて江漢の後背を見て、追て其名を呼ぶ。江漢足を逸して去る。追うもの益々呼て接近甚だ迫る。
江漢首を回して目を張って叫して曰,死人あに言を吐かんやと。再び顧みずして復去ると云 −−−
鎌倉から江戸へ戻る 無言道人筆記 八
文化酉年(10年)ふと思い出して書す。
八月鎌倉円覚寺において死にたること板行にして知己へ皆知らせけるに、誠に訪者旦てなし。しかし市中のかまびすしく 、また熱海に隠れんことを思い、鎌倉逃れんとも想い、去年は京に居て、生涯ここに閑居のことを決しけれど、予を知るもの多くして、冬に至りて東都に帰りぬ
  
「冬になって江戸に戻った」というのは、「1812暮れ京都から江戸に戻った」ことではなく、「1813暮れ鎌倉から江戸に戻った」ことである。
鎌倉はマスコミなどがうるさいので、去年永住を決意した京都へ逃げることも考えたが、京都は知人が多く(隠れ住むにはまづいので)、結局江戸に戻った。
文脈の乱れがあり誤読が多い資料。
江戸の生活
文化十年冬
文化十年 閏十一月二十六日付 江馬春齢あて
・・(京都から)東都に帰り、この事の疾相済み申し候えども、とかくに世塵の役々たるを厭ひ、画天文オランダにも飽き果て、世には死したると告げ、この秋鎌倉山に閑居を結び居り候ところ、冬になり田舎も寂寞として寒く、またまたこの間神仙坐に帰り候て隠宅を造り居申し候。・・小人も名を変え、桃言と申し候、江漢はあまり人に聞こえ候故に止め申し候。・・先だっては目黒辺に隠宅を造り候えども、是も止め、とかく浮き世に飽き申し候・・しきりに隠れたく思ひ、・・
      
(参考)江漢が鎌倉に在住したのは、1813年6月から1813年秋までで、冬になって江戸に戻っている。江漢画集「日本橋」に「相州於鎌倉七里浜」とあり、この時期の作品である。−−(鎌倉山は七里ヶ浜のすぐ裏山である。)
江戸の生活
文化十二年

手紙の発送を人に頼む

文化十二年(1815) 三月二十日 山領主馬あて
・・・参候てお話し承りたく、・・只今は出家の心地に相成り、行き先にて死にても宜しく候えども、皆親族の者留め申し候故、思い切って出かね申し候。せめては九十里の路ほどならば論なく参る可く候。・・小人は今は老衰、腰痛み歩すること一里を限り申し候。・・・@

・・・今は(麻布)コウガイの辺地へ庵を結び、一人の老婆を使い安居仕り候・・・
去年八月死たると申事を世上に告げければ、訪人一人もなし、この間になりて不死事をようやく知り、今にてはだんだんと人尋申候、それ故またまた蘇生して詩文書画の才子と交わり ・・・A
今は画も時にふれ相認め申し候、とかく後世へ残す事のみを楽しみいたし候、ほかに慰み楽しむことなし。

・・西遊旅談は板行にして世にあり、その時の日記あり、これをとくと改め、相したため候処、紙数三四百枚になり、間には画を入れ、西遊日記題し、ようやく三分の二出来申し候」「もっとも板行には出来申さず、まことに詳しく、茶を飲み、酒を飲み候事まで相しるし申し候。ご覧に入れたく候・・・B

なお仰せ下され候通り、この度の御返書は詫間氏へ頼み申し・・、私娘の宅へ参る候路に候間、参て詫間氏直々頼み申し候て御噂のみ申し上げ候。・・・C  

@引退後の江漢の健康状態 遠距離の旅は無理だが、寝たきりというほどではない。
A成瀬氏はここだけを取り上げ、ニセ死亡通知で人を騒がせておいていい気なものだとしているが、大畠はここだけが江漢の見栄でウソだと思う。他の資料−−例えばすぐあとの「後世に残すことのみを楽しみに(・・絵を描いても見せる相手もいない・・)」との整合性がない。
B西遊日記の出版を最初からあきらめていたのは何故か。江漢が世間から完全に見捨てられていたため
「プライベートな部分や人に迷惑をかけそうな部分があるから出版できない」という説もあるが、それだけの理由なら、まづい部分だけ削除して出版すれば済む話である。
C住所を隠すため、手紙の発送を詫間氏に頼んでいる。発送にまで名前を隠す必要はない気がするが、当時の郵便制度では、確かに先方に届けたことの証拠として受取人の「受取証」が差出人に戻ってきたのかも知れない。
江戸の生活
文化十二年
文化十二年六月以降 山領主馬あて
・・五月頃よりだんだんとかの不喰いの病起こり・・人交じりも面倒、長談いたし候事不能、一向に生きたる甲斐なし・・
尚々神仙坐旧宅も跡に居申候者(上田多膳のこと)ほかへ引き越す様申□□□□、それ故詫間氏より佐左衛門町松や重兵衛方へくだされ候えば、私のコウガイへ直に届け申し候。
ここでは、手紙の受取りを詫間氏に頼んでいる。詫間氏は江漢本人の知人ではなく、山領主馬の知人なので、直接届けて貰うことを遠慮している。
   
 
江漢後悔記

高名の報い
江漢後悔記(春波楼筆記1811に挿入されたもので、内容から見て1813引退以降)
われ名利という大欲に奔走し、名を広め利を求め、此の二に迷うこと数十年、今考うるに、名ある者は、身に少しの過ちある時は、その過ちを世人たちまちに知る者多し、名のなき者誤るといえども知る者なし。この名を得たるの後悔、今にして始めて知れり、愚なることにあらずや。
「江漢後悔記」は江漢自身による人生の総決算であり、江漢人生の研究にとって重要資料。後年「春波楼筆記」の一部として刊行されているが、「江漢後悔記−−後悔記 終」と言う形に成っており、独立した著作があとで「春波楼・・」に挿入されたものと思われる。
「春波楼・・」の原本は失われているため、本来の形は辿ることは現在出来ない。
●江漢研究者は、「若いときから名利を求めて努力してきたが、年を取ってからようやくその馬鹿らしさに気がついた」と単純に解釈していることが多いが、読みが足りない。
この文章の最重要部分は「有名人でなければ見逃される程度の小さな過ちを、有名人であるがために世間から糾弾された。」という事件であり、「人生の目標としてきた高名が直接原因になって人生をしくじった」その馬鹿馬鹿しさを嘆いているのである。
●大畠の意訳
有名になろうとして数十年努力してきた結果、有名人であるがために、普通の人なら見逃される程度のわずかの過ちを世間に騒がれ、
(いわゆる有名税を払うことになって人生を棒に振った。何と馬鹿げた事ではないか。
●細野正信氏も大畠とまったく同じ読み方をしている。ただし世間に騒がれたという事件を、「西遊旅譚の発禁事件」とし、このために危険人物視されて友人がいなくなり、引退に追い込まれたとしているが、発禁事件と引退の間が20年も離れており、因果関係を求めるのは無理である。

●江漢が(有名人であるが故に)世間から糾弾された事件は左内の引き起こした「高利貸し」と「苛酷な貸金取り立て」
江漢は左内に金を渡して高利貸をさせた監督責任を追及されて引退に追い込まれたのであるが、江漢研究者はこの重大事件に気が付いていない。
江漢が「西遊旅譚」に、久能山東照宮の家康墓所の図を入れたところ、「徳川家については一切出版してはならない」と言う幕府の規則に触れて、発禁になった。江漢は観光的に名所図を入れただけでそれが規則に触れるとは思ってもいなかっただろう。「危険人物視された」などという問題ではない。
この規則は、その後松平定信のとき一律適用は不合理として改められ、悪意を持った内容でなければ徳川家を扱っても構わないことになった。
無言道人筆記

悟りきれない悩み
文化10年(1813)10月記
今より44−45年前、神奈川に遊び、海を渡り、州間弁天に行く。聖天を祭る出家ありけるが、庵室の中、ただ独り居て白無垢を着て机にあり、経文を模写して、庭には海を望み神奈川の方冨士真正面に見え、まことに閑寂たるところなり。其の所の者朝来たりて飯汁などこしらえ、庭なと払い去るのみ。
余今、世俗をいといしに、この僧の志こそ尊けれ、名利のきづなを切ることはさても出来ぬことなり。
江漢死去 1818死去
本当の辞世 自画像(横顔)付

江漢辞世の句
 
「江漢は年が寄ったで死ぬるなり 
              浮世に残す浮画一枚」
(本人の注釈)
和蘭陀画法を以て山水遠近の風景を写せば
真に浮出でたるが如し  俗名を浮絵という。

写本のいきさつを記した高橋由一の署名入り
   「岐阜大垣江馬家・・明治二十年・・天絵楼主人」

天理図書館蔵の江漢肖像
        (大判半紙)
昭和初め頃、左の写本の原図を
トレースして淡彩を施したものらしい。
岐阜大垣の江馬家に伝わったものを、明治20年に高橋由一が借りて筆写、これをもとに油絵の江漢像を描いた。
実物/写本とも失われ(戦災?)、写本の写真版のみ現存。
        (右写本は江漢百科事展カタログより)

この辞世(・・浮世に残す浮絵一枚)には、絵が添えられていたはずで、江漢五十三次画集がそれだった可能性が大きい。
江漢五十三次の出所は公表されていないが、岐阜の旧家で医家の家系と報じられており、江馬家しか考えられない。

成瀬氏は以前から実物を見ていないと言う理由で辞世の存在を認めたがらず、そのためか江漢全集にも収載されていない。江漢百科事展カタログ(塚本)に高橋由一関連資料として掲載。
写真がある以上、存在を否定する理由はないと思う。
以上から江漢引退の事情
これまでの江漢研究ではこの部分がそっくり抜け落ちている。
1)直前まで人生を楽しんでいた江漢が、突然引退し、禅門に入る。
自主的な引退なら、引退興行(頒布会)のようなことで老後の小遣いを貯めてから引退といった手順を取ったはずである。

2)さらに引退の2ヶ月後、ニセの死亡通知を出して行方をくらませる。世間の追求に追いつめられての失踪である。
そしてそのまま二度と世に出ることがなかった。

3)何もかも飽き果てて」引退したはずの江漢だが、引退後も絵や著述を続けていた。飽きて隠退したのではない。
マスコミに住所が知られることを極端に警戒していた。本人は時間を持て余しており、隠遁生活が乱されるなどと言う理由ではあるまい。不祥事を起こして、友人がいなくなる一方、マスコミに追い回されていた。

絵や出版物を生きている間は世に出す機会がないと江漢は復帰を早くからあきらめていた。
後の世に残すことのみを楽しみに時折絵を描いている・・。西遊日記の「板行には出来申さず」・・・など)
自主的な引退なら、どういう口実でも作品発表や復帰が出来たはず。
江漢が引退に追い込まれた理由は、高利貸と冷酷な貸金取立の悪評が世間に知られたためである。
無言道人筆記にくわしく書かれた「貸し金取り立て事情」は、「貸金をうまく取り戻した自慢話」ではなく、「高利貸業に手を出したことへの江漢の反省と弁解」と思われる。
引退について江漢自身がどう考えていたのか。上記資料の最後の二項、「江漢後悔記」の高名になった報いと「無言道人筆記」の悟りきれない悩みにはっきりと表現されていると思う。
★江漢の隠退により、準備が進んでいた「和蘭奇巧」の出版の話が消えてなくなった。江漢の人気が急落し、出版しても売れないと版元が判断したのであろう。和蘭奇巧の挿し絵用として用意していた「和蘭写真の法」(写真鏡)による日本勝景の原画が転用され、洋画に描き直されてこの53次画集になったのである。
江漢五十三次画集が、これまで世に出なかったのは、引退後の江漢が、世間から葬り去られ、発表に機会がなかったためである。
(補足) 江漢の娘  成瀬本に江漢の娘「きの」の情報がかなり載っている。それらを参考にストーリーを組み立てると次のようになる。
江漢後悔記 妻について
母親が亡くなったあと、人に勧められて妻帯したが、人生最大の失敗だった

娘について
親にとって子供は何時までも子供で可愛いが、子供の方は親をそうは思ってくれない。
娘は小さいときは可愛いかったが、少し大きくなると親の言うことを聞かなくなり、勝手なことをする。
今から思えば娘はない方が良かった。
「娘が言うことを聞かず勝手なことをする」とは親の反対を押し切って結婚してしまったことだろうか。娘亭主はもともと金銭的にだらしない男だったのであろう。
「娘がない方が良かった」は娘夫婦の無断流用がきっかけで人生を狂わされたことだろうか。
親類ども=娘夫婦 代金120両を親類どもに預けて京都へ出たところ、無断で利殖に回し、回収不能になってしまった。親類が江漢に助けを求めてきたため、江漢は折角楽しんでいた京都生活を捨てて江戸へ戻り、後始末に奔走する。
この二人の行動は「親類ども=娘夫婦」でなければあり得ない。実の娘なら亭主が頼りにならない場合、すぐに父親に助けを求めるだろう。
一人娘なので娘夫婦といえば名指し同然になってしまう。娘を庇って「親類ども」と言ったのであろう。
上田多膳 実の娘がいるのに上田多膳を後継者にした理由
娘夫婦は無断流用事件で江漢の信用を完全に失い、財産の後継者からはずされた。代わりに風流を解さず、正直だけが取り柄の上田多膳夫婦が後継人に選ばれた。娘はその後義絶されたわけではなく、同居はしていないが出入りはしていたらしい。
後継者の話の中に、a和と左内が入ってきて、研究者はさらに混乱しているようだが、前記のようにこの二人は別問題。
a和は画業の方の後継候補。左内は回収に成功した100両分だけの世継ぎであろう。
娘の亭主 俳人鼠渓の随筆「寝ものがたり」に、晩年の江漢や娘夫婦の記事が残っている。鼠渓は少年時代に江漢宅の近くに住んでおり、少年時代に耳にした話を後年書き残したもの。話の大部分は江漢宅の住み込み家政婦(老婆)が振りまいた噂話らしい。江漢も娘夫婦の不祥事など家庭事情は家政婦に話したがらなかったらしく、亭主に死に別れたとか、同名の男と再婚したとか そんな名前の男はどこにもいない(塚本)とか矛盾が多い。
  江漢書簡 今は(麻布)コウガイの辺地へ庵を結び、一人の老婆を使い安居仕り候・・・
この老婆が「寝ものがたり」に書かれた晩年の江漢のエピソード(成瀬本17章)に主役として登場する。
成瀬氏は、「親類との金銭トラブル」という言い方をしており、親類との間に金銭トラブルがあったように聞こえる。肉親との金銭トラブルで、さすがの江漢も精神的に疲れ果てたことが、隠退したくなった原因の一つという考え方である。

塚本氏は「親類の起こした金銭トラブルにまきこまれた形で・・」と表現している。大畠説は「親類の起こした金銭問題の後始末に絡んだトラブル」なので、塚本氏の方が大畠説のイメージに近い。

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無言道人筆記の読み方−−−中野本の間違い
江漢晩年の事件をたどるための江漢自筆の最重要資料だが、これまでの江漢研究では正面から取り上げていない。
成瀬本には中野本がそっくり引用されているが、以下のように中野本の引用部分には読み違いがひどすぎる。
   中野本: 中野好夫「司馬江漢考」1986     成瀬本: 成瀬不二夫「江漢−その画業と生涯」1995
(1)貸し金回収に成功したのか
原文 (左内は)それより段々と貸したる金を責め取り、ついに百金を取り得て今残り二十両となる。
中野本 夫ヨリ段々と貸したる金をセメ取」云々とあり、結果が成功だったかどうかまでの記載はないが、とにかくそのあとにすぐつづけて、「然シ之ハ善智ニハ非ズ」と反省の一言を述べた上、またしても「信州辺の人ハ…剛直ニシテ愚ナリ」と左内をこきおろしているのである。それからみると、結果はおそらく失敗だったというのであろう。
★同じ一行の後半に、「120両中100両をの回収に成功した」と明記してある。
別な資料の見落としならともかく、同じ一行の後半を見落しているのはひど過ぎる。きわめて粗雑な拾い読みしかしていないことが分かる。
剛直ニシテ愚ナリ」は「左内は暗愚」と言っているのではなく、「京都人に較べて信州人は短気で喧嘩早い」という意味で使われている。
京都人は喧嘩しないというのが当時の伝説的な常識だったようで、江漢の京都での体験談が「無言道人筆記」に出ている。(足を踏まれた方が先に謝る。これでは喧嘩にならない。・・)また膝栗毛には弥次喜多が京都で京都人同士ののどかな喧嘩風景を目撃する場面がある。
(2)「親戚ども=左内」説?
原文 親類どもに金子預け置きしに(1812春)その金を私用に使い失いしこと京都へ申し来たりし故(1812秋)、俄に・・江戸へ帰り来るに(1812暮)・・・小子老衰して(貸し金回収の)業を務ること不成、故に工夫し、兼ねて左内というもの、・・・ある時吾が(京都から)帰りたるを聞き知り(1813初め)、神仙坐に来たりしなり。ここにおいて、吾れ左内に云て曰く。「吾が金(親類どもに)預けおきしに取れず。汝この金を取りなば、汝にあずけ、また汝を世継ぎとすべし、この金百余あり・・・」(1813初に提案
中野本 書簡の「親類どもの中、変事起こり」云々がこのことへの言及であることはほぼ明らかだが、果たして左内もこの親戚の一人なのか、その辺のところがよく分からぬ。無言道人筆記を見る限り、資金は出発前に手渡し、黙認の上金貸しをさせていたようにもとれる。
★中野氏は「京都出発前に左内を養子とし、金を預けて金貸しをさせていたが、その金が焦げ付いたので更に左内を督促して回収に当たらせた」というストーリーを考えているようである。
しかし原文では金を預けたのが京都出発前の1812春、京都で使い込みを知ったのが1812秋頃、左内が京都から帰った江漢を訪ねてきて世継ぎの提案を受けたのは1813初めであるから、中野氏の言うようなストーリーは時間的にまったく成り立たない。時系列的な考え方が抜け落ちていることが分かる。
もし中野氏の言うように「出発前に高利貸し用として左内に預けてあった」ものが焦げ付いたのなら、それは本来の使い方だから「私用に使い」とは言わない。
中野氏は江漢の専門家ではないから、以上のような粗雑なミスがあってもやむを得ないが、それが成瀬本にそっくり引用されているのは問題である。中野本以上のものが何もなかったということであり、これまでの江漢研究が江漢晩年の事件の真相にまったく迫っていなかったという証拠である。

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日本美術絵画全集 25巻 「司馬江漢」 1977 集英堂  作品解説 成瀬不二夫 p98 より
・・江漢研究の面倒な問題に文献史料がある。一般に画人の生涯と業績は作品によって研究されるべきであるが、それについて文献も重要な第二次資料となる。もちろん、文献は画家の生存時に年代が近いほど価値が高く、もし画家自身の書き遺した文書でもあれば、ふつうそれが信憑性のある根本史料となる
幸いにも、江漢は江戸時代諸画人の中では健筆家であって、生涯に膨大な著書、日記、書簡を書き遺しており、自分自身についても多くのことを物語っている。
しかし、不幸にもこの文献史料の多さが一方では江漢の真姿を捉え難くしているのである。率直に言えば、江漢の自記には誇張や虚偽がかなり多い。一例をひくと・・・
★これまでの江漢研究の基本姿勢を示す一文
江漢自筆の原文資料を(江漢の法螺として)軽視〜無視するという伝統があった。つじつまが合わない資料は、「江漢のほら話」として、深く検討せずに気軽に切り捨ててきた。
「日本勝景色/富士皆
蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。」という一文も「また江漢のほら話」としてあっさりと切り捨て、記憶から除いてしまったため、あとで写真鏡を使って描いた絵の実物が出現しても、一向に反応しないのである。
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