資料 江漢自著原文 1813年江漢人生の激変         D論に戻る
(文化八年)(1811) 八月二十七日海保青陵あて  
・・・小人如素(もとの如く)罷在候、その後は能処へ御引移被成候よし、尚々来春には上京可仕候(来春は京都に行きます)・・・
小子も近年は西洋天経学にはなはだ通じ申し候て、毎月八日二十日会として講し申し候、(定期講演会)京極備前之守侯世子また阿部福山の世子、皆門人にて彼方へ参候論談いたし候。(御進講)さて人は文字を知り足る人は多く有候えども、理を知る者は少なし。・・西洋画、小子創草之事なるに世俗偽作して利之為に市中に売るもの多く候故、毎月画会之催して世人に施く事をいたし申候、(絵画頒布会)・・・ 1811江漢の日常

文化九年(1812) 六月十三日 江馬春齢あて −−−京都の暮らし
二月二十日江戸を出立仕、三月八日に吉野山に参り、それより大和廻り、・・京都に家を借り、住居申し候。色々の雅人と出会い仕り候。江戸と違い京地は人物好く、おもしろき人のみ多し。・・この間究理談とて話をいたし候えば、聞く者多く参候。江戸の風韻と違い申し候。
(文化十年6月山嶺主馬あて 京は風流雅人多くおもしろきところにて以文会とて雅人集会して一存を話す・・その会にも加わり、・・今思うに十年も二十年も早く来らざることを悔やむ・・)

文化十年(1813)六月十二日 山領主馬あて
去年春よりして京都に出で、生涯京の土になり可申と存、住居仕候処に、江戸表親族共の中変事起り候て、急に去暮に罷返り候処、今以てさはりと済不申(今もってさっぱりとは済み申さず)、然し十が九まで相済候(120両中100両回収)て、先々安心は仕候。・・・

小人京よりa和と申す画師を弟子にいたし江戸へ呼びよせ候処、・・真の狂人(京人→狂人)になり申し候・・それ故吾志をつぐ者なし(弟子が一人も居ない)、この度は医業をいたす者を呼び世を譲り、小子はとんと世外の人なり、目黒の方へ隠居所を作り名を改め無言道人と申候。私跡相続人は上田多膳と申候て、旧の芝神仙に居申候。

一.京にては富士山を見たる者少なし、故に小子富士を多く描き残し候。(京都人にせがまれて富士をたくさん描き残した。)
去冬帰りに富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候。
一.この度和蘭奇巧の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、その中へ日本勝景色富士蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。
  −−−江漢画帖に直接関連する記事

然し今は画も悟りもオランダも細工も究理話も天文も皆あきはて申候ても困入り申し候、先は万々申残し後便可申上。 (引退の暗示と思われる) 後便で知らせると言っているが、後便は残っていない。

無言道人筆記(貸し金取り立ての事情)
・・親類どもに金子預け置きしにその金を私用に使い失いしこと京都へ申し来たりし故、俄に・・江戸へ帰り来るに・・・小子老衰して業を務ること不成、故に工夫し、兼ねて左内というもの、信濃の生まれにて・・(女房子供を抱えて困窮していたのを)・・ある時吾が帰りたるを聞知り、神仙坐へ来たりしなり。

予左内へ云曰く、吾金預け置しに取ず、汝この金を取りなば汝に預け、また汝を世継ぎにすべし、この金百余あり。彼考え思う、百金を高利に貸すときはたちまち千金になるべしと思い、早速承知し、・・それよりだんだんと貸したる金を責め取り、ついに百金を取り得て今残り二十両となる。しかるにその百金を諸々に貸し付け、吾は隠居所を建て置き、養い毎月金2カン(意味不明)と贈る也、然し是は善知には非ず

今思うに信州辺りの人は一体生まれつき剛直にして愚なり。事を起こすこともするなり。小金を借りるものは身迫り如何ともすべきことなく借りる故に返す了見なし。それを快く貸す故に借りる者は誠に甘露をなめたる如し、故に一向に返す気なし。然しそれを取らずば大損をする故取り立てる。甚だ骨折りあり・・・

無言道人筆記 七九 (左内の人物評価)
左内という男,信濃の生まれにて貌大きく、志も甚だ粗にして、万端いっこうに取り柄なし。・・ただ妙なるは、貸したる金を催促する事、何度も行くなり。これもまた、人の出来ぬことなり。

大畠の読み方 上の記事を素直に読めば次のようになる。 
(「親類ども」とは娘夫婦のこととして読んでおく。江漢の一人娘については成瀬本に詳しい。「ただの親類」どもより「娘夫婦」とした方が筋が通る。)

京都移住を決心して自宅を売り払い、代金120両を娘夫婦に預けて京都へ出たところ、娘夫婦が無断で利殖に回し、全部回収不能になってしまった。娘は父親に助けを求め、江漢は江戸へ戻る。江漢は「万事不器用だが借金取り立てだけはうまい」左内を次のような条件で取り立て人に起用する。
−−回収不能金が120両ある。回収できた分だけ左内に預けて好きなよう運用させる。江漢は金利の一部をピンハネして老後の生活に当てる、江漢が死んだら、その金はそっくり左内のものになり、以後の金利は払わなくてよい。−−大変有利な条件なので左内は発憤し120両中100両の回収に成功するが、左内が債権者と事を起こし、それが江漢の身に及んだのであろう。


左内を「世継ぎ」にした意味も、江漢研究者を悩ませる難問。江漢の左内についての人物評は上記の通りで、こんな人物を江漢が後継者に指定するはずがないのである。
大畠の解釈 左内は全財産ではなく、左内が回収に成功した分(約100両)だけについての世継ぎである。
@江漢存命中は金利の一部をピンハネするが、江漢が死んだら元金はそっくり左内のものになる。左内にとって大変有利な契約である。
A金を渡して高利貸しを代行させ、金利をピンハネするのは多分違法であるが、左内を養子の形とし、養父に扶養料を送るのなら構わないと考えたのであろう。しかしそれは名案ではなかった。(然し是は善智にあらず)「狡猾/悪質な脱法行為」として世間の非難を浴びるだけである。

1813年8月
司馬無言辞世の語(偽の死亡通知)
死亡だけはウソだが、@ABCDは本当であろう。
すなわち、すべての活動から引退し、さらに仏門に入ったが、それでも世間は納得しなかったのである。


「江漢先生老衰して@画をもとめる者有りといえども描かず。A諸侯召せども往かず、B蘭学天文或いは奇器を巧むことも倦み、Cただ老荘の如きを楽しみ、・・D鎌倉円覚寺誠拙禅師の弟子となり、ついに大悟して後、病て死にけり。・・文化癸酉八月 七十六翁」
石亭画談(伝聞) 江漢かって事故ありて偽り、すでに死せりとして、芝某所に蔭居す。
或人途上にて江漢の後背を見て、追て其名を呼ぶ。江漢足を逸して去る。追うもの益々呼て接近甚だ迫る。江漢首を回して目を張って叫して曰,死人あに言を吐かんやと。再び顧みずして復去ると云 −−マスコミに追い回された

文化十年(1813) 閏十一月二十六日付 江馬春齢あて
・・(京都から)東都に帰り、この事の疾相済み申し候えども、とかくに世塵の役々たるを厭ひ、画天文オランダにも飽き果て、世には死したると告げ、この秋鎌倉山に閑居を結び居り候ところ、冬になり田舎も寂寞として寒く、またまたこの間神仙坐に帰り候て隠宅を造り居申し候。・・小人も名を変え、桃言と申し候、江漢はあまり人に聞こえ候故に止め申し候。・・先だっては目黒辺に隠宅を造り候えども、是も止め、とかく浮き世に飽き申し候・・しきりに隠れたく思ひ、・

無言道人筆記 八
文化酉年(文化10年)ふと思い出して書す。
八月鎌倉円覚寺において死にたること板行にして知己へ皆知らせけるに、誠に訪者旦てなし。しかし市中のかまびすしく 、また熱海に隠れんことを思い、鎌倉逃れんとも想い、去年は京に居て、生涯ここに閑居のことを決しけれど、予を知るもの多くして、冬に至りて東都に帰りぬ。

文化十二年(1815) 三月二十日 山領主馬あて
・小人は今は老衰、腰痛み歩すること一里を限り申し候。・・・@
・・・今は(麻布)コウガイの辺地へ庵を結び、一人の老婆を使い安居仕り候・・・
去年八月死たると申事を世上に告げければ、訪人一人もなし、この間になりて不死事をようやく知り、今にてはだんだんと人尋申候、それ故またまた蘇生して詩文書画の才子と交わり・・A ここだけは江漢のウソ−−見栄と願望

江漢人生の統括
江漢後悔記(春波楼筆記1811に挿入された形の資料として公開されているが、内容から見て1813引退以降の記事である。
われ名利という大欲に奔走し、名を広め利を求め、此の二に迷うこと数十年、今考うるに、名ある者は、身に少しの過ちある時は、その過ちを世人たちまちに知る者多し名のなき者誤るといえども知る者なし
この名を得たるの後悔、今にして始めて知れり、愚なることにあらずや  
(有名人になろうとして数十年努力してきた。その結果、有名人であるがために、わずかな過ちを世間から非難され、人生を棒に振った。何と馬鹿馬鹿しいことではないか。)

1818年江漢死去

辞世
江漢は年が寄ったで死ぬるなり 浮世に残す浮絵一枚
阿蘭陀画法をもって山水遠近の風景を写せば真に浮き出でたるが如し 俗名を浮き絵という。

横顔の自画像あり  コピー→→@高橋由一の油彩江漢像(東京芸術大所蔵) Aトレースして着色した江漢像(天理図書館所蔵)
写真資料には「岐阜大垣の江馬家所蔵」という明治20年高橋由一の自筆添え書きがある。

この辞世は、「手書きコピーの写真版」のみ現存。 何故か江漢全集には収載されていない。
写真だけでは信じられないという成瀬三千雄氏の意見らしいが、写真以外に上記の@Aが現存し、存在を抹殺するのは強引過ぎる。
江漢百科事展カタログに、「高橋由一関連資料」の名目で辛うじて掲載されたので、我々の目に触れる機会を得た。

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