北斎と広重                                   論考目次へ
北斎と広重は永遠の研究テーマ。  これまで研究、著作本、展覧会・・・様々な形で発表されている。
北斎は、広重より30才年上の先輩だが、広重が比較的若死にだったのに対して、北斎は90才まで長生きして最後まで仕事をしたため、同時代の画家である。
浮世絵風景画について、広重五十三次の大ヒットによって、北斎は若い広重に追いつかれ追い越されて歴史画に転じたとされ、「北斎と広重」は、このストーリーにしたがって書かれることが多い。
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広重にとって北斎は風景画のライバルであり、「広重がライバルの北斎を真似するはずがない」というのが美術界の定説のようであるが、基本的な間違いである。
北斎/広重の絵をよく見比べると、広重にとって北斎はライバルであると同時に、学ぶことの多い大先輩であり、各所で北斎の絵を参考にし、模写していることが多い。
北斎 広重
(1) 東海道五十三次以前   東都名所(1831) 両国橋
 
(2) 広重東海道五十三次(1833)   赤坂、御油、川崎 ほか
    
 
    川崎:北斎の専売である弓なりの船頭を転用
 追記: 広重「日本橋」の魚屋も北斎「日本橋」から持ってきた可能性が大きい。江漢「日本橋」には魚屋が居ない。
  
 
(3) 東海道五十三次以後  北斎富士三十六景の模写 
                               ボストン美術館の倉庫から発見された広重の団扇絵 葛飾翁(北斎)の模写であることを明記
ボストン美術館の発見について、NHKの美術番組で、「ライバルである北斎の画を写すわけがない」という定説への配慮からか、広重がこの絵を写したのは同じ絵を描いても自分の方が上手いという広重の自負によるものであろうという奇妙な注釈が入っていたが、根拠のない勘ぐりである。そこまで既存の定説に義理立てする必要があるのか、部外者には滑稽にしか見えない。

(1)(2)(3)と見てゆけば、広重は一貫して北斎を尊敬し、素直に北斎から学ぼうとしていたことが明らかである。
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