国貞の美人東海道について                                  論考目次へ
  歌川国貞の美人東海道(1834)の背景には広重五十三次がそっくり写されている。
  広重五十三次の単純コピー(すなわち盗作)というのが美術界の定説である。
応需 
  五野井正氏(歌川派門人会会長)だけが、広重東海道五十三次の原画、あるいは共通モデルの存在を主張している。
  「兄弟子格である国貞が弟弟子に当たる広重の作品をコピーするはずがない」というのが主な根拠だが、無理な主張であり、美術界の定説の方が正しい。
以下のどの例を見ても、@C→Bでもなく、A(共通モデル)(A→B,A→C)でもなく、BB→Cであることが明白である。
江漢図 広重図 国貞東海道
平塚:  Bの地点からもう少し進むと、Cのように反対側から富士が出てきそうな気がするが、実際は高麗山の形がAのように馬の背状に変わり、湘南平までつながるため、次の大磯宿を過ぎるまで富士は現れない。
蒲原: 江漢の家並の土台はしっかり地についているが、広重の家並みは足下が幽霊のよう。それがそのまま国貞にコピーされている。
沼津: 天狗男の白装束、母娘の衣装や柄杓、前方の黄瀬川に着目。広重図の行った改変がすべて国貞図にコピーされている。
江戸時代の著作権
以上のように国貞五十三次は江漢画帖問題とは無関係であるが、江戸時代の著作権の考え方の事例として、大変興味がある。

江戸時代に「著作権保護」という思想はなかったが、「同じ本を出さない」という出版業界の協定で保護されていた。
同じ本」がダメなら「そっくりな本」はどうかということになる。「どこまでを同じ本と見なすか」の具体的な判定は業界内の委員会で審査決定された。(仲間行司という。) (大阪の版元など業界コントロールが及ばない場合は奉行所に裁定してもらう。)(江戸学事典より)
美人東海道シリーズを通してみると、次のような事情が浮かび上がる。
国貞は、広重のシリーズをそっくりコピーした美人東海道シリーズを作り始めた。当然ながら版元の保永堂から強い抗議があがり、業界の調停委員会に持ち込まれた。「」「四日市」の辺りまで出版が進んだ時点で委員会の決定が下り、「すでに版木が出来ているものは容認、これから作る分は広重モデル禁止」という調停が出されたため、「宮」以後は東海道名所図会モデルに切り替えた。

以降は広重モデル禁止。四日市は、版木が出来ていたので容認されたのであろう。
注) 国貞の京都には2種類がある。(上左 三条大橋、上右 京都御所)
国貞の美人東海道は、鳴海までは広重図をモデルに使ったが、著作権問題を避けるために宮、桑名以降は主として東海道名所図会をモデルにした。その流れの中で、京都では東海道名所図会と伊勢参宮名所図会をモデルに三条大橋を背景にした。
ところが広重五十三次も京都では江漢図ではなく、東海道名所図会と伊勢参宮名所図会をモデルにしており、結果的によく似た図柄になってしまった。
再び著作権問題が生じる恐れが出てきたため、国貞側は御所を背景とした別の京都を用意したらしい。
絵師本人の自覚  他人の絵の盗用について、絵師本人はどの程度罪悪感を感じていたか。
国貞五十三次には、数枚おきに「応需(求めに応じて)」という言葉が入っている。 →最初の平塚図参照
「版元の指示によるものであり、自分から進んでやったものではない」という盗作の言訳である。                   
          
(国貞は盗作であることを最初から認めていることになり、これだけでも五野井説は成り立たない)

著作権/盗作という概念はなかったものの、「他人の真似ばかりやる二流の絵師」という評判/評価は避けたかったのであろう。

しかしそれは同じジャンル(浮世絵同志)の盗作に限られる。江漢の油絵を浮世絵に描き直すようなケースは、例えば写真をもとに世界遺産の画を描くのと同じレベルの話であり、広重には罪の意識はほとんどなかったであろう。

ただし広重東海道五十三次の売り出しに当たって、「実際の現地風景を写生した真景」という宣伝になっている。真景にからんで「広重東海道の旅」のことを問いつめられると、広重は返答に苦しんだであろう。「お馬行列」の話も虚報ではなく、広重自身の口から出た苦し紛れの作り話だったのかも知れない。
国貞五十三次は、広重五十三次単純コピーの好例
以上のように、国貞五十三次は、江漢問題とは一応無関係であるが、「江漢図は広重東海道五十三次の単純コピーではない」という議論の裏付けの一つとして使える。
すなわち、次のような論法が有効である。
広重東海道五十三次を単純コピーすれば国貞図のようになるはずであり、決して江漢図のようにはならない
初期の頃、ある外国の美術関係者(カナダの美術館員?)に江漢図を見せたところ、「この図が広重五十三次のコピーでないことは一目瞭然である。画家を数人集めて事情を明かさずに広重図をコピーさせ、江漢図と比較するという実験をやれば、それが証明できるのではないか。」というアイディアを提案をされたことがある。「事情を明かさずに・・・」などには実行上無理があり、そんな実験は不可能なのでそれきりになっていた。

あとになって国貞五十三次は期せずして「広重東海道五十三次の単純コピー実験」になっていることに気が付いた。
★広重「神奈川」の小舟は1833年の岡野新田工事の測量舟。 国貞図にはコピーされているが、1813江漢図にはない。
  
★広重「戸塚」の馬は1825頃の北斎漫画がヒント。国貞図には馬/馬方/客がコピーされるが、1813江漢図にはない。
  
すなわち「江漢図が広重図のコピーではない」ことの強い補強材料(Support)である。
国貞「美人東海道」の入手方法
   国貞の代表作ではないらしく、「国貞の浮世絵」などの単行本にも収載されておらず、入手がむつかしい。
   平木浮世絵美術館カタログ「広重東海道五十三次」に全数掲載されて居たので、それを研究に使用。
       (平木美術館は、当時横浜そごう内にあり。その後転出)
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