現地調査の大切さ                           論考目次へ
TVドラマのベテラン刑事は、「行き詰まったときは現場に戻る」というせりふを連発する。技術者仲間では、「本社勤務になっても、決して現場を忘れるな」と言い聞かされる。
五十三次研究でも、現場の重要さをしばしば体験した。写真やカシミール3Dで行かなくてもよく分かっているはずの場所でも、実際に現地訪問してみると何らかのプラス情報の収穫が得られたのである。
 
小田原 酒匂川大橋から見ると、目の前に箱根連山の大パノラマが広がっている。前方180度がすべて箱根山であり、他の山を箱根山と間違える事など起きようがない。
現地を少しでも見ていれば、広重初版の山は箱根山でないことが誰でも分ったはずである。(実はモデルの江漢の山が大山だった。)

「初版と再刻版は、いくら見比べても山の表現の違いだけである。」と言われ、「広重が山の描き方について開眼して描き直した」などと言われていたが、広重初版と再刻版の一番大きな違いは「山の描き方」ではなく、「両子山の有無」である。
今でも昔でも、山並みの中から箱根山を見分ける鍵が両子山なのである。
  
    広重初版の山は箱根山ではない。         再刻版で箱根山らしく描き直した。           モデルの江漢図は実は大山
 
吉田の「石巻山」では、現場が東海道からどのくらい離れているか体験した。江漢の京都からの帰りの旅は 江漢学者が言うような「最短日程の旅」ではなく、ゆっくり時間をかけた取材旅であることを体感出来た。
 
由井のサッタ峠は、一見雄大な風景のように見えるが、実際に写真を撮って見て、カメラの視野にすっぽり収まるような意外にコンパクトな風景であることが分かった。コンパクトな風景だからこそ、江漢の写真鏡が上手く使えたのである。
 雪渓積雪状況、積雪の光と影はカシミールでは分からない現地風景。「江漢図=現地写生=江漢書簡記事」の何よりの証明である。
 
 
石部の江漢図の背景の山の写真を撮る目的で現地訪問したが、副産物として広重の山もアングルを変えた同じ日向山であることを発見した。(江漢図のことを知らなくても)広重図だけ見れば一目でそれと分かる山容である。

石部の和中散を訪問する東海道愛好家は多いし、地元の観光協会も和中散本舗庭園の借景として日向山をPRしている。これまで広重図の山が日向山であることに誰一人気が付かなかったというのは不思議である。 (これまでは比叡山と解説されていた。)

(和中散を通り過ぎた後、振り返って見たときの山容である。旅人は振り返ることが少ないので誰も気が付かなかったのかも知れない。
 私は京都側から歩いてアプローチしたので、遠くからこの山容が目についていた。)
 
 
蒲原の発見はカシミールの功績であり、東海道からは丘の影になって見えない風景なので、現地訪問では絶対に見つからない場所である。訪問当時空き地だった場所に最近家が建ったらしく、さらに発見が困難になっている。

江漢図では手前の斜面を上ると、カーブして丘の上に出る道があるような地形に見える。現地訪問で現地にもカーブしながら丘の上に出る道(秋葉神社道)があることが分かった。
 
 
沼津の黄瀬川だけは、比較的行きやすい場所にもかかわらず、十年以上現地訪問したことがなかった。
近藤市太郎や徳力富吉郎の時代(昭和30年代)ならともかく、平成の現在まで200年前の川の風景が残っているとはとても思えなかったからである。(横浜付近の川では200年どころか20-30年前の風景さえ残っていない。)

最近、沼津宿泊の機会があり時間つぶしに黄瀬川橋に行ってみたところ、度重なる護岸工事にもかかわらず、三角州や左手の木立、川沿いの草むら、川の淀み具合、川岸のカーブまでが、江漢図そっくりそのままの形で残っており感激した。

近藤氏や徳力氏の本に掲載されている写真やスケッチは黄瀬川橋付近の風景というだけで、正確な写生場所ではないことが分かった。
                                              (両方とも黄瀬川橋から下流を眺めたアングルらしい。)
下の写真はが江漢図の正しい写生場所で、黄瀬川橋の橋詰め(江戸側)から上流方向を見たアングル(西北西)である。
                                   西空に満月があるのは、夕方(黄昏図)ではなく、早朝早立ち風景である事を示す。
 
 
岡部両側から山が迫る隘路を街道と水流が通過する特殊な地形である。カシミールで場所を特定して現地へ行ったところ、江漢図そのままの風景がピタリとそこにあって、当然のことはあるが大変感激した。
江漢図/広重図の雑木林までがそのまま残っており、これだけはカシミールでは分からない現地訪問の成果である。最近の工事で江漢図左側の山が10m削られて新水路とバス道が作られていることも現地確認した。
 
 
二川の山(長尾根)は、すでに大正時代の写真集に載せられており、実在の山であることは言い逃れ出来ない。
東海道を旅していない広重が二川の山容を正確に描けたのは何故か、江漢画帖を認めない立場の人にとって、最大のジレンマになっている。
現地訪問で分かったことは、この付近が平地であり、山を見上げる地形であること。広重図で空の部分まで小松が描かれているのは地形上おかしい。・・・広重は正確な山の形を知っていたが、現地の地形を知らなかったことになる。
 
 
いうまでもないことだが、以上のように現地風景と江漢図がこれほど一致するのは、江漢が写真鏡を使っているからである。通常の写生であれば、山の形などはこれほど正確に描かないのが普通である。
inserted by FC2 system