お馬行列(1) 論考目次へ | |
広重が幕府のお馬進献上行列に特別参加して京都まで旅し、その時の見聞をもとに東海道五十三次を描いたという定説(というより伝説?)は、飯島虚心「歌川列伝」から始まっている。 虚心は最初この論文を新聞「小日本」に掲載したとき、「広重がお馬進献行列に参加したとされているが、きわめて疑わしい」としていた。平安時代に「牽き馬」の行事があったことは確かだが、江戸時代の八朔のお馬行列はなかったのではないかと考えていたらしい。 ところが、その後、「江戸時代に幕府から朝廷に御馬を献上する八朔の行事はあった」ことが分かったため、単行本では、一転して「広重のお馬行列参加もあったかも知れない」ということに改訂した。 |
|
広重研究のバイブル内田実「広重」(昭和5)では、「歌川列伝記事のすべてを受け入れることは出来ないが・・・広重が御馬行列に参加してこの絵を描いたことだけは間違いない」といとも簡単に即断している。 ★もちろん、「お馬行列があったかどうか」と「広重が参加したかどうか」とは別な問題であり、広重が参加して京都に行ったという根拠は「歌川列伝」にも「広重」にもどこにもない。 |
原文資料 飯島虚心「浮世絵師歌川列伝」 内田実「広重」 | |
歌川列伝:飯島虚心 御馬行列関連の全文 |
|
内田実「広重」 より 抜粋 出世作考 歌川列伝に「天保の初年広重幕府の内命を奉じ、京都に至り、八朔御馬進献の四季を拝観し、つぶさにその図を描きて上る。その往来行々山水の勝を探り深く観世留所あり云々」とある。この記事は全部をそのまま呑み込むことはできないが、天保の初年に八朔の御馬献上の一行に加わって京都に上り東海道を旅したことだけはこれによって分かる。保永堂版の東海道五十三次がこの旅行から帰って描いたものであることはいうまでもあるまい。 八朔の御馬献上とは、毎年八月朔日に禁裏において駒牽という儀式があって、江戸の将軍家より御馬を献上することが慣例になっていた。保永堂版の「藤川」には背中に御幣を立てた二頭の馬を曳いて、その前後を先箱と槍の行列が固めて行くところがある。幾年かの後に発行した中版の五十三次(佐野喜版)の池鯉鮒にも同じところが描きだしてあり、一行の道中の有様を見せたものであることは無論である。・・ |
内田は「天保初年に広重がお馬行列に参加して京都に行ったことだけは、歌川列伝の記事から分かる」と断定しているが、歌川列伝には江戸時代にお馬行列の行事が実在したことが書いてあるだけで、広重がこれに参加した証拠はどこにも書いてない。 内田は広重五十三次シリーズのいくつかにお馬行列の場面が描いてあることが広重参加の裏付けと考えたらしいが、大畠は逆に、この広重の三枚の絵こそが広重がお馬行列に参加していない何よりの証拠だと考えている。 |
|
保永堂版 広重東海道五十三次「藤川」 |
広重 竪絵東海道「吉田」 |
広重 狂歌入り東海道「池鯉鮒」 |
広重五十三次の「お馬行列」図3枚にはいずれも神社の御幣が描かれている。しかし・・・ 天皇は神様ではなく、御所は神社ではない。 朝廷への贈り物に、御幣を立てるはずがない。 朝廷への贈り物に御幣を立てないことの裏付け 1)飯島虚心の記事: 江戸時代の八朔行事の内容が「紫の手綱」「馬に絹はから着せ」・・・など具体的に詳細に書いてあるが、「御幣を立てる」とは書いてない。 2)平安時代の馬迎え(馬牽)行事を描いた江戸時代の絵(下参考図)がある。馬に金襴布を着せているが御幣は立てていない。 3)洛中洛外図に、朝廷に贈り物を献上する使者の列を描いた部分があるが、誰も御幣を立てていない。 |
広重は、お馬行列参加どころか、一度もお馬行列を見たことがなかったことがこれで分かる。 これまでの研究では、「広重五十三次は広重の道中スケッチ」という定説を信じていたため、広重図の御幣についても誰一人疑いを持たなかった。 御幣に限らず、すべて「広重図に描いてあるのが何よりの証拠」という「広重の撮ったスナップ写真」であるかのように長い間扱われていた。 |
|
参考:平安時代の駒牽を描いた図。金襴の布はあるが御幣は立っていない。(江戸時代の京都画家が描いた平安時代の行事図) |
|
御幣はどこから来たのか 広重図はもちろん江漢図「藤川」がもとであり、御幣もそこから来ている。 江漢図のモデルは、東海道名所図会「吉田天王祭」と思われる。 神社の行事だから@馬に御幣を立てても当然である。 ほかにA馬に着せた金襴布、B長い石垣と土手、C地面に座った見物人・・・などの共通点がある。 |
|
江漢画帖「藤川」 |
|
東海道名所図会「吉田天王祭」部分拡大図 金襴布と御幣 |
|
追記 大畠も「八朔のお馬行列が本当にあったのか」に疑問を持ち、自力で調査しようとした。東海道のどこかの宿場にお馬行列の記録が何かの形で残っていないかと考えて、調査を始めたところ、驚いたことにわずか20分ほどで答えが出てしまった。 神奈川宿の本陣当主が細かい日記を付けている(石井本陣日記)。公式な記録ではなく、「戸塚宿で喧嘩騒ぎがあったようだ。」とか「保土ヶ谷本陣の主人が立ち寄って世間話をしていった。」とか、その日見聞きしたことを全部日記に書き残したものである。 その中に「お馬行列の一行が神奈川台の茶屋で休憩した。」という記事が毎年7月7〜9日頃出てくることが分かった。これが江戸出発日であり、京都まで約15日の旅であるから、8月1日の八朔の行事に、余裕を持って間に合う日程である。 面白いことに、薩摩藩から幕府に八朔の馬を献上するお馬行列が、同じ時期に東海道を逆方向に歩いていることがこの日記から分かった。八朔はお世話になった先に贈り物をする行事で今の「お中元」と同じようなもの。お中元では、九州の親戚に東京のデパートから品物を送ったり、九州のデパートから送り返したり、運送上は随分無駄なことをやっているが、江戸時代の八朔でも同じことをやっていたようである。 |