今井川工事 原資料 嘆願書の書き下し文と要旨        まとめ目次へ    今井川工事へ戻る
資料A  要旨
恐れながら書き付けをもって願い上げ奉り候  保土ヶ谷宿役人一同申し上げ奉り候。
当宿地内今井川の儀、屈曲多く別て東海道往還中の橋にて往還を東より西へ相流れ、川下に至り帷子川より落ち合い、尚また東海道往還字帷子橋にて往還を西より東に流出候につき、水行よろしからず、いささかの出水にも中の橋上曲目より宿内岩間町耕地へ一面押し開き、帷子川の儀も今井川落合の場所水勢相逆らい水吐けよろしからず、両縁村々へ押し開き、年々田畑水損御座候につき、今井川通り中の橋上より岩間町地内長さ四百間余を掘り立て候はば、両川とも水行よろしく水災の愁御座なく候につき、新規掘り立ての儀を願い上げたく存じ候えども、多分の人足相掛りその上新川敷き潰れ地御年貢諸役仕埋め方手常備金旁多分の入用相掛かり候事につき、自力では叶え難く、年来打過ぎまかりあり候ところ、

去る弘化四未年より宿内身元の者へ申し談、年々少々づつ為致出金利倍致し候ところ去亥年までに金百両甚足仕り候につき、右金子を元立に仕、宿内百姓申し合わせ掘り立て仕りたく、
もっとも右様の水行掘替えば、右中の橋板橋御普請壱ヶ所皆滅に相成り、古川敷の儀は埋め立ての上御検知御高入れには相成り候儀につき、右板橋掛け替え御入用壱ヶ度分を御下げ金被成下、右の外、金弐百両ヲ弐拾年賦返納の積をもって御拝借下され置たく段、同年十一月先御支配青山禄平様御役所へ願い上げ奉り候ところ、

場所ご見聞御出役被成下、その後召し出されて、申立ての趣もっともには思し召され候えども、御普請所皆滅、古川敷開発などの儀は見込みまでの儀につき、弥皆出来の上相願い候はば格別この節御伺いは難被 仰立旨厚く御理解の趣奉承伏なお小前一同え申談出金方など為相勧皆自普請の積相目論見、その段申し上げ候につき、右の趣をもって御伺い成した御下知相済、

掘立て方取りかかり候ところ、新川深幅とも目論見通りにては水行相滞候場所もこれ有り、新川堀立て場所ところより川上の方も敷き下げ、州浚切り広げなど不仕候えば水行不宜候につき、それぞれ掘り立て浚方など仕り、ようやく皆出来仕り、見込み通り水行よろしくまかり成り、この上は水難の愁これ有るまじくと有り難き仕合せと奉存。
中の橋の儀も取り崩し跡埋め立て往還平地にまかり成り、右前後の古川敷き埋め立て町並み屋敷御高入り奉願上。その余古川敷きの儀も追々埋め立て御高入り奉願候つもり御請奉申上候。
        <以上はこれまでの経過


i今井川で困っていたが、自力では手が着けられないで居たところ



積立金100両を基に

幕府の補助金

幕府からの借入金




役所に相談したところ、工事が完成してから申請すること。工事着工の指示あり。



工事を実施。
計画通りの工事効果あり。

しかるところ、埋め立て人足の儀、前書奉申し上げ候仕合故、目論見高の倍増余も相かかり、掘り立て土も相増し候故、両縁敷きも相広げ候につき、川敷き堤御年貢仕埋め地反別も相増しよりて、右手常備金も余分にこれ無く候ては行き届かずほとんど当惑仕候につき、最初御願いの時節御理解の趣、奉承伏願上候儀をなおまた奉願上候儀重々恐れ入り奉り候えども、余儀なく御嘆願奉申上候。
かねがね見込み通り御普請所も皆滅に相成り、古川敷きの儀も追々御高入り奉願上候次第にまかり成る候儀につき、
何とぞ格別の御慈悲をもって中の橋御普請御入用金壱ヶ度分御下げ被成下別段金百五拾両、来丑より戌年まで、十ヶ年賦返納の積をもって御拝借 被仰付け下し置き候様願い上げ奉り候。しかる上、亥以来水難相逢う川敷き潰れ地御年貢諸役仕埋方差滞の莫大之御仁慈有り難く仕合せと存じ奉り候。依之此段連印をもって願い上げ奉り候。 以上

 嘉永五年子 十一月二十二日
保土ヶ谷宿 百姓代・・ 年寄・・ 名主 連名
斉藤嘉兵衛様 お役所
ただし予想工事費の2倍以上かかり、財政が苦しい。





約束通りに、橋普請1回分と150両の借入金(10年返済)を下げ渡して欲しい。
★この嘆願書は、工事をやって欲しいという嘆願書ではなく、工事が無事に終わったので、約束通り、宿で立て替えた工事費用(約250両)を返して欲しいという嘆願書である。

以下のお台場用の土の買い上げは、幕府と宿場とが共同で行った工事費用を捻出するための工夫である。
     工事期間  嘉永四亥年十一月〜嘉永五年子年十一月の1年間
     土の納入  嘉永六年に1000坪
             嘉永七年七月に2000坪
☆保土ヶ谷区郷土史
「右のように嘆願に及んだところ、ようやく許可になって、早速着工、・・同年中に完成したのであった。」とあり、この資料が「工事を始めて欲しい」という嘆願書とされている。
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資料B 要旨
恐れながら書をもって願上候 橘樹郡保土ヶ谷宿役一同申し上げ奉り候。
当宿内の今井川の儀、屈曲多く水行よろしからず、川縁田畑水腐仕るにつき、水行直進、川堀立の儀は年来まかりあり、ようやく去々子の年中、申し合い相届奉願上候ところ御聞済に相成、同冬中掘立て方仕り候ところ、見込み通り水行宜しくまかりなり、その後ハ曾て出水の愁御座なく有り難き仕合せと存じ奉り候。

然ルところ、右掘上げ土の儀ハ、新川両縁へ堤形築立て余土之分ハ最寄地窪之場所へ運ひ捨て候様人足差出方に割り当て、且つ新川敷堤敷潰地之分御年貢等ハ宿方一同にて仕埋之積り申し合わせ取り決め掘立所懸リ候ところ、存外人足相懸り掘立而己二而申含人足違ひ、切余土取り捨て迄行届きかね、是非なく、両縁堤巾掘上ケ土有丈ケ相廣ル持出し置候に付、右堤敷に田面多分相潰れ仕る埋地存外相増し、その上川縁へ廣大之堤築立置候事に付、雨天等の節ハ追々川中へ崩落し、大雨の節ハ川上より押出し候土砂に而川敷押し埋め候に付、時々凌方仕候。而も高堤之上え上ケ土致し候事に付、手敷而己相懸間もなく崩れ落ち、とても有土残らず取捨申さず候。而ハ凌方仕多分之人之同力難計當惑まかりあり候ところ、

去年中より内海御台場御普請に付、殆ど御築立土所々より御取出しに相成候趣、承知奉り候に付き、右堀土ケ土御用土二相納め右取跡之(不明)土取土ケ候えば、堤敷多分之潰地地起返し往々水難之恐無く御座候につき、その段願い上げ奉る。
尤御入用之儀堤切崩し船積並びに川下ケ舶賃海上運賃など積もり高のうち凡そ二割半は村役にて相勤候様相除け、村方橋筋奉爲冥加村役にて相勤め永六百五十九文奉頂載、上納仕度段奉願上候、再応御吟味之上、尚また永四文滅方被仰付壱坪に付永六百五十五文ト代永を以て坪数千坪之番御場所上ハ土に御買上被仰付納方仕代永奉頂戴、有難き仕合わせと存じ奉り候。
      
然ルところ、そのみぎり、土千坪と奉申上、追々切り崩し船積み仕まつり候ところ、川下の方より凡そ弐百間((注)工事長さは400間)ばかり立間船積み仕まつり候得バ上納の坪数相濟み、川上の方多分相残り侯間、右之分引続き相納め申したく段奉願上候えども、最早上ノ土御入用も御座なく候間、なお跡御場所御普請御取懸りに相成別段奉願上候者格別引次之願ハ御聞濟不相成旨被仰奉畏候。
                    <以上は前年の土納入の経過
 工事は無事に完了した。



雨で土が流れ出し、その処置に困っていたところ、去年、お台場で買い上げて頂き有り難うございました。







運賃25%負担。650分/坪でした。



その際、川の下流半分だけで1000坪の土が出たので、上流分の土の納入もお願いしたのですが、もう土は要らないので、次の機会にいうことで・・・

然ルところ此節五番六番御場所御普請御取り懸かりに相成上は土御入用に可被為在と恐れながら存じ奉り候に付き、前書之分相納申たく奉存候間、此段奉願上候。

また御買上値段之儀、三番御場所相納候節ハ前文奉申上候通り、壱坪に付き永六百五拾五文づつ頂戴奉り候えども、村爲之儀再応奉願上候儀につき、冥加のため、永も相減じ壱坪永六百文づつにて相納め申すべく候間、何卒お聞き済被成下置候様、御慈悲之程ひとえに願い上げ奉り候。しかる上は、以来水難之愁無之、多分之潰地作場之起返し、永世々村為に相成、村内一同相助かり莫大之御仁慮有難き仕合せと存じ奉り候

    武州橘樹郡保土谷宿 嘉永七年寅壬七月  百姓代、年寄り、名主連名
斉藤嘉兵衛様 お役所
今度、5番6番お台場工事ということなので是非納入させてください。

前回は650文でしたが、今回は2回目でもあり、お礼の意味もあって600文とします。
(下げ札)
本文上は土上納願坪敷之儀、有土取調候ところ、別紙絵図面に有之凡そ八百坪余に御座候えども、切崩し船積致し候ハば、坪数相増し申すべきやにつき、弐千坪ハ奉願上候。
船積みのうえ、相増し候えども有土之分ハ残らず上納仕りたく存じ奉り候。もしまた不足に候ハば、川縁地形取下ケ候て、成共、弐千坪ハ御上納可仕候。依之、此段下ケ札をもって申上げ奉り候(本陣文書三十五)
図面上は800坪だが、実際に積んでみれば増えるかも知れず、2000坪でお願いします。不足の時は、川を広げてでも納入します。
☆保土ヶ谷区郷土史
掘り上げの土を両岸に積み上げておいたところ、降雨のとき流れ出して始末に困った。
・・品川台場普請への土上納を願い出た。・・捨て場に困った土が国家のお役に立てばとて、船賃のみ貰ってこれを(無料で)献納したのである。(p1268)
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資料C 要旨
恐れながら書をもって願い上げ奉り候

1.土弐千坪
 内 百坪 無代献納 刈部清兵衛献納 御場所まで運賃とも
   千九百坪 土取り出しより船積まで人足賃は宿内小前冥加のため無賃にて相勤め、
        海上運賃の儀はお下げ奉願候

右は保土ヶ谷宿苅部清兵衛奉申上候
先般内海お台場御取り立に相成り、莫大の御用途と恐れながら存じ上げ候。しかるところ、私儀先祖より引き続き名主役相勤め数代相続きまかりあり候儀、御国恩冥加有り難き仕合せと存じ奉り候につき、身分に叶い候だけの御用向きを相勤めたく存じ奉りまかりあり候。

内宿内字今井川水行直新規田畑堀立て土三番御場所上は土に御買い上げ願い通り仰せつけられ上納仕り候ところ、この節、五番六番御場所上は土御取り出し御用中の趣、承知奉り候につき、右掘り上げ土、前書の通り献納仕り候はば、冥加にも相叶い可申奉存候えども、海上運賃の儀までは多分の儀にて行き届きかね候間、うち百坪を御場所まで持ち込み、私より奉納奉り、千九百坪を土取り出し船積み人足宿内小前の者は冥加のため、無賃にて相勤め積み込み候て、献納仕りたく存じ奉り候につき、右手本土持参この段奉願上候。もっとも海上積送の儀は最寄り船稼ぎ村々へ仰せ付けられ候はば、河岸場にて積み込み申すべく候。もっとも宿方請けに仰せ付け候はば、引き請け運送方仕るべく候。何とぞ、格別の御慈悲をもって願いの通り御聞き済被成下置候様ひとえに願い上げ奉り候 以上
   保土ヶ谷宿 名主 苅部清兵衛  嘉永七年寅九月

 (下げ札)
 本文海上運賃の儀、壱坪永六百文下され置き候はば、宿方にて引き請け運送方仕るべく。
 この段下げ札をもって奉申上候 以上  <←これが最終決定>

★大正末から昭和初め、横浜市稿のための古文書調査
 楷書で清書したとき、「下げ札」の内容を冒頭に書いたため、以後の読者が混乱した。
 上記のように、時間順に、最後に書くべきだった。













海上運賃までは手が回らないので、100坪は運賃負担で私個人から、1900坪は船積みまではこちらでやりますが、海上運賃はそちらでご手配ください

(下げ札で訂正)
600文頂ければ、海上運賃も宿で負担します。

☆保土ヶ谷区郷土史 (p1270)
なお2000坪のうち、100坪は国恩冥加として刈部清兵衛が無代献納している。
☆保土ヶ谷区郷土史    人物編 刈部清兵衛翁(p1918)
今井川の開削については前に・・掘り上げた土は両岸に積み上げて置いたので、雨の度毎にそれが川中に・・お台場に買い上げて貰えば・・と早速御買い上げ方を上願し・・許されて二千坪(ママ)を上納した。然しまだ残土がある。そこで翁は、更に二千坪(ママ)を宿内名義、百坪を自分名義で国恩報謝として、運賃だけで土は無代献納を申し出、五番六番の上土とした。双方に好都合である上、上への聞こえも益々宜しかったということで、これらは翁の知能の非凡あることを示したものである。
×
<土の値段−−幕府との交渉経過のまとめ>
1000坪分    運賃25%負担 659文 幕府の見直し 650文

2000坪分 (宿)運賃25%負担 600文(2回目なので値引き)

     (幕府)2000坪のうち、100坪を無償供与

      (宿) 100坪 運賃全額負担   無償
         1900坪 海上運賃幕府持ち 600文

   (最終決定)100坪 運賃全額負担   無償
          1900坪  運賃全額負担 600文
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<宿の収入>  650文 × 1000坪 = 650,000文 =約100両
           600文 × 1900坪 = 1140,000文 =約190両
                    計 運賃経費を引いて 250両
                                                    以上



幕府の値引き交渉
幕府の購買担当者は、言い値で買う訳には行かなかったのであろう。

現物の無償添付は、値引き交渉の常道である。




保土ヶ谷宿は実工事費を取り戻せたか?

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