寺尾郷絵図について     連続講座資料 2007/12/15 大畠洋一                 まとめ目次へ
(要旨)
寺尾郷図に描かれた曲線は、鶴見川とされるが、実は当時の海岸線であることが分かった。
当時の海岸線は現在の海抜2.5mの等高線と一致している。
南北朝時代に大きな海退があったことを示す資料とされているが、図の読み違い。逆に海進が進んでいたことを示す資料である。
 
横浜歴史博物館ニュース(2007/10月号)「企画展「太平記に見る横浜」によせて」記事に掲載された鶴見区の「寺尾郷絵図」(1334 建武元年)には、これまでの郷土研究や古道研究(鎌倉古道研究)の流れを根底から覆しかねない重要な情報が含まれている。

大畠の2007連続講座「東海道以前の保土ヶ谷」のストーリーにも重大な関係があるので、徹底的に検討して批判修正しておきたい。

平成17年3月18日 文化審議会より新指定(無指定→重要文化財
 『武蔵国鶴見寺尾郷絵図』は建長寺塔頭正統庵領であった鶴見・寺尾両郷に関する堺争論に際して南北朝初期に作成された絵図である。本図の特徴は、中央に大きく描かれた寺を中心にして、境界を示す朱線と墨線、その他に台地地形と谷地形を明瞭に示すとともに、堂舎などの建物と集落、鶴見川と溜池、東海道と鶴見宿、田畠の耕地などの描写や子安郷などの地名、人名などの記載が極めて豊富なことである。本図は中世の関東地方における農業と集落、水利と耕地を具体的に描く唯一の絵図として貴重である。 (南北朝時代)
この図は、鎌倉幕府が倒れた直後の寺尾郷の境界線を詳しく書いた絵図であるが、「鶴見川(らしい)」線が描かれ、後の東海道と同じルートの道が川を橋で渡って描かれている。
この図によれば、太平記の時代(建武元年1334)、すでに海抜1mの場所がになり、江戸時代の東海道と同じルートに交通路が開けて、橋まで架かっていたことになる!!
  
これまでの学問とのかねあいもあってのことだろうが、取りあえず、「1330年代に一時的な海退があった?」という仮説までも唱えられているらしい。
しかし、1220頃(海中)→1334(陸地/橋まで架かった街道)→1480頃(再び海中)という急速な変化の繰り返しを仮定するのは、時間的にも忙しすぎて、地球規模の変動としては無理がある。
 
これまでの古道研究/郷土研究の流れ
鎌倉時代(1220頃)の交通路は山の上を通過していたが、江戸時代(1600頃)には海岸川沿いなど低地に移動した。戦国初期の太田道潅の時代(1480頃)はまだ鎌倉時代の状態に近く、道興の「回国雑記」や僧万里の「梅花無尽蔵」の経路を研究することが鎌倉時代の古道を知る重要な参考になる。
金沢八景(横浜歴史博物館の展示模型)や、多摩川上流の交通路変遷(「神霊矢口渡」や道興の「回国雑記」経路)から推定して、鎌倉時代の海面は、海抜2mは海中で舟が通過、3mが海岸線。海岸近くなら、4mが街道が通り/人が生活できる限界だが、内陸では大雨による増水分を考慮して5mが生活や街道の安全限界。
交通路の変化は戦国中期の海退によって、低地が通過できるようになったためで、武田信玄が小田原に乱入ときの戦記(1551)では、新旧両方の経路が使われている。
縄文時代に関東平野の奥まで海が侵入しており、人々の住居は丘の上にあった。その後、海はゆっくり後退して鎌倉時代には3m、戦国初期には1mとなって、江戸時代に入る。
その後も海退がゆっくり進み、幕末には広重の描いた神奈川の袖ヶ浦は、横浜西口に変わり、最後まで残った平沼も、明治末にはほとんど陸に変わって町になっている。
★鎌倉時代(1220頃)海抜2mの場所は完全な海で、舟が通行していた。
−横浜市歴史博物館「鎌倉時代の金沢八景」展示模型+1万分地形図

ところが、太平記時代の始め(1334年)には、海抜2mの場所に街道が通り、
橋まで架かっていたという。

さらに太田道潅の時代(1480頃)、川崎駅付近(
海抜2m)は低湿帯で、通行
出来なかったとされ、古道研究の基本的な考えになっている。

簡単には、信じられない話であり、何かとんでもない誤解があると思われる。
海退が、時間をかけてゆっくりと一方方向に進行しているというのは、研究者の平均的なイメージである。
また「鎌倉時代と太田道潅時代は続きであり、その間に大きな変化はなかった」というのが古道研究の基本である。
この中間に(鎌倉−室町の時代に)大変動があったということになると、これまでの鎌倉古道の研究は根拠を失ってしまう。

寺尾図の東海道と橋は、簡単には信じられない。どこかに専門家さえも気がつかないトリックがあるに違いない。
以下、大畠の謎解き・・・
(1)寺尾絵図は「江戸時代に作られたニセモノ」ではない。

例えば、太田道潅の作とされる「平安紀行」という資料があるが、現在の川崎駅付近(海抜2m)で休息をとったという記述があり、「太田道潅時代にそんな場所に交通路はなかった」と言う理由で「江戸時代に作られた真っ赤なニセモノ(偽書)」と断定されている。
これと同様に「太平記時代にあるはずがない橋や街道が描かれている。」という理由で、「後世(江戸時代)に作られたニセ文書」と判断してはいけないだろうか。

もちろん、そんなことは十分検討した上での評価に違いない。
多分、寺尾領の境界線など部分が詳細にきめ細かく描かれ、歴史的に見ても正確なので、「後世に作られたニセモノ」と言うことにはならないのであろう。
(2)道と橋の部分だけは、後世の加筆ではないか?

例え話として、筆者が以前に説明用スライドに使った准后道興「回国雑記」の地図(右図)を見てみよう。
この地図を見て「太田道潅の時代(1480頃)に、鉄道が引かれていた」と思う人がいたらバカである。

いうまでもなく、鉄道が描いてあるのは、現在のどこに当たるのか場所が分かるように、説明のために描き加えただけのものである。
これと同様に、寺尾絵図の「鶴見川と東海道」の部分は、江戸時代の人が場所の説明のために描き加えただけのものではないだろうか。
パソコンで描いた鉄道を間違うバカはいないだろうが、手描きで描いた東海道や橋だと間違われる可能性がある。

しかしそうとは言えないことが分かり、謎解きが難航する。

この地図は「寺尾郷」の領地の境界線を明確にするために作られたもので、川や山や人工の堀が境界線として描かれているが、「鶴見川」の線の一部がその境界線になっている。(右図)

すなわち「鶴見川」を消してしまうと、この絵図が成り立たないから、「鶴見川」は後から描き加えたものではない

☆ただし「道=東海道」の部分は、境界線とは無関係なので、あとで描き加えられたとしても矛盾はない。(後述)
(3)トリックの解明−正解は・・
最初の2日間、どうしてもトリックが見破られず、「太平記時代の海退」という珍説を信じるしかない所まで追いつめられていたが、3日目になってようやくトリックが分かった。

ナゾを見破るヒントは、「鶴見川」の線が右上に向かって伸びているのがおかしいということである。
鶴見川は、左上に伸びて山奥に向かっており、寺尾絵図にも別にちゃんと描かれている。
(東西に伸びる直線部分)


右上の方向に延長すると、多摩川の下流六郷大橋付近で海へ出てしまう。すなわち「海から始まって海に入る」線である。
海から出て海へ戻る川」は存在しない。この曲線は鶴見川ではない
カシミール3D地図を使って、2m3mの等高線を描いてみる。この中間を通る2.5mの等高線の形が、「鶴見川」の形と見事に一致することが分かる。 「右上に伸びる線」の謎もちゃんと説明出来ている。
鶴見川と思っていた線は、2.5mの等高線であり、言いかえると実は「当時の海岸線」を描いたものであった。

当時の鶴見川は、はっきりと別に描かれている。北側に東西に走る直線状の川が鶴見川で、最後にS字に曲がって海に入っている。
河口
は現在よりはるかに北の下末吉(新鶴見橋、下末吉小学校付近)で、明治13年地形図にS字の痕跡が見られる。
5m以下の平坦地の等高線(4m、3m、2m・・)を正確に描くことは現在の測量技術でも大変難しい。太平記時代に正確に描けるはずがない。
ところがいつの時代でも、等高線1本だけは正確に描くことが出来ることに注目。・・・0m等高線すなわち海岸線である。
南北時代の原図は海岸線を薄墨で表現してあった。(A)
江戸時代の郷土研究家が、この海岸線を鶴見川だと思い込み、川であれば2本線の方がよいので、線を1本描き加えた結果、誰が見ても海岸線ではなく、川になってしまった。(B)
さらに場所を説明するために、現在(江戸時代)の東海道と橋を加筆し、それが後世の研究者を混乱させることになった。(C)

 (A)太平記時代の原図
   −海岸線を示す薄墨。鶴見川の河口

(B)江戸時代、海岸線は大きく変化しており、
海岸線を鶴見川と誤認
して2本線に直す。

(C)さらに、場所を分かりやすく示すために、
東海道と橋を描き加える。
海岸線(A)であれば、街道は海中に描かれていることになる。
すなわち街道が原図(A)にはなく、後から(江戸時代以降)追加されたことが明らかである。
★下図のように、昔の海岸線が想像出来ないほど大きく変わっている。江戸時代の研究者が間違えたのも無理がない。
★ 「鶴見川の形と海岸線の形がよく似ていた」のが間違いの原因の一つであるが、これは必ずしも偶然の一致ではない。
   等高線に沿って/あるいは等高線と平行に川が流れるのはよくあることである。
(4)古道資料としての重要性
寺尾絵図は、国指定重要文化財である。
以上の「トリックの発見」で、寺尾絵図資料の古道研究上の重要性が失われたわけではない。

それどころか、この図は「当時の海岸線は海抜2.5mであった。」という重要且つ確実な情報を提供しており、鎌倉−室町時代の海面レベルを示す貴重な資料である。

これまで大畠は、金沢八景の立体模型などを根拠にして、「鎌倉時代、海抜2mは海中で舟が通れる場所、3mが水陸の境界線」と推定し、すべての交通路や宿場の発展の歴史を再構築してきた。(2007連続講座第1話、東海道以前の保土ヶ谷)
この寺尾絵図は大畠の基本的な仮定をズバリ絵図証明する貴重な「同時代資料」である。
明治以来の古道研究(鎌倉道研究)の流れは、正しかったのである。      
海退漸進説を覆す「反証」と思われているものが、逆に、海退漸進説が正しかった事を示す「確証」に変わったことになる。
検事の提出した被告有罪の証拠が、有能な弁護士により、被告の無罪を証明する証拠に変わる法廷ドラマがよくあるが、それとよく似たドンデン返しであった。 
 
この問題の解明には5m以下−4m、3m、2m・・・の等高線を描いた地形図が必要である。
5m以下の等高線を描いた地図は市販されていないので、郷土史研究者の目に触れることはほとんどない。

5万分や2万5千分地形図には、5m以下の等高線は描いてない。1万分地形図には、5m以下の等高線があるが、鶴見川下流についてはほとんど描かれていない。(鶴見川下流では、埋め立てなどの造成地が多くて、等高線が描けないのであろう。――帷子川では等高線がちゃんとたどれる。)

国土地理院には、メッシュの座標を数値で埋めたデジタル地図(数値地図)が用意されており、各地点の5m以下の標高を知ることが出来るが、読むためのソフトが必要で、数値地図を利用する人はまだほとんどいない。

国土地理院の数値地図を利用して「山の風景」を描く「カシミール3D」という趣味ソフトが10年前から市販されており、筆者は「広重/江漢東海道五十三次」問題(2007連続講座 第2話参照)の研究に最大限に活用している。
その付属地図(5万分)は、数値地図をもとに計算で描かせたもので、パソコン画面で地図上を「右クリック」すると、その地点の標高が数字で示されるし、地図上にうっすらと等高線が浮かび上がって見える。(上図)
○カシミール3D(風景を描くソフト)は書店で購入出来ます。入門編 1800円
  付属5万分の1地図画面で「地図表現」を「レリーフ2」とする。
    右クリックでその地点の標高の数値が出る。
★ これまで5m以下の等高線を引いた地形図の入手が困難だったことも、間違いの原因である。研究者でも見たことのある人は少ないはず。  カシミール3Dのソフトは市販されていたが、全く別な目的のソフトであり、等高線の検討に使えるという説明はなかった。

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