福井の特殊性                                    ショケラに戻る
福井は江戸から見ると、裏日本の片田舎のように思ってしまうが、関西に非常に近い地域である。
庚申信仰が江戸より何十年も前に関西で始まり普及していたことを考えると、福井が江戸より進んでいても不思議はない。

                   
戦国の始め、浄土真宗中興の祖と言われる蓮如は延暦寺との抗争を避けて大津から福井の吉崎御坊に移り、北陸を中心に浄土真宗の布教活動を行った。その結果、信者が急増し、一大政治勢力となって戦国の動乱に巻き込まれそうになったため、これを避けて山科本願寺に移る。その後様々な経過を経て、3〜4代あとの後継者の時代に京都本願寺に落ち着く。

福井には、本願寺は自分たちが盛り立てて中央へ進出させたという自負があり、地元後援会的な気分もあって、毎年、団体で京都本願寺参りをする習慣が江戸時代から今でも連綿として続いている。
福井と京都の間は江戸と箱根くらいの距離である。琵琶湖には京都に物資を運ぶための船が往来しており、病気など万一のときは舟で送り返してもらえる安心感もある。年中行事だから道案内人や途中の宿の受け入れ態勢も完備していたであろう。福井の人は気軽に生涯に何度も京都参りが出来たのである。

本願寺に参ったあとは自由行動で京都や奈良の観光が出来たであろう。たまたま庚申寺で青面金剛の有り難いお話を聞いた人が、持ちかえって自分の家の伝統行事として取り入れ子孫に伝えた。

福井の家単位の庚申講はこうした初期の庚申信仰の姿が伝わったたものと思われる。
地域の庚申講は不定期でありメンバーも集散するため、勝手な想像や作り話が付け加わって伝承が不正確になるのに対し、家単位の庚申講での親から子へは正確に伝わる。
福井では「ショケラ」の名前だけでなく、「ショケラが悪いことをするので庚申の神様が髪を掴んで封じ込めている」という表現で金輪院庚申縁起の内容やショケラの意味が正確に伝わっている。

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